【毘】上杉家を語る 九【義】

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201人間七七四年
単に大河の作劇上謙信に性格悪そうな発言させたかっただけだろ。
202人間七七四年:2007/11/21(水) 09:19:09 ID:IGPHpCEe
旧主上杉憲政も同陣してんだから北条に圧迫されてる長野氏だって謙信の助力は受けたいだろ。
ただすでに長野氏は自立してる部分があるから人質は出さないし謙信は西上野に対しては干渉しないっていう約束が取り決められたんじゃないかな?
成田は白井長尾から嫁をもらってるから少なくとも長男は謙信支持なんじゃないかな。つか人質ってこの長男だったっけ?
203人間七七四年:2007/11/21(水) 09:22:20 ID:nJhui/N7
>>199
謙信と関東諸将の微妙な不一致を担わされただけでしょう。
今更佐竹とか里見をキャスティングしてくるとは思えないし。
204人間七七四年:2007/11/21(水) 09:44:59 ID:569WfBuA
>>189
たしかに、成田長泰は長尾忠景の男系子孫だ
205人間七七四年:2007/11/22(木) 22:39:36 ID:Jz9LXvOC
長尾忠景の一族は、長野氏とも婚姻関係にあったらしい
206人間七七四年:2007/11/23(金) 12:30:35 ID:EyOnjnLh
つーかそこら中政略結婚で親戚だらけだろw
207関連スレ:2007/11/23(金) 15:10:22 ID:HVCUt0LE
208人間七七四年:2007/11/23(金) 15:13:33 ID:HVCUt0LE
あと、成田の下馬云々の話題は↓が詳しい。

【太田資正】さいたま〜の武将【成田長泰】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149995235/
209人間七七四年:2007/11/23(金) 20:44:50 ID:aNrwFwcb
越後守護上杉と越後長尾上杉以外は向こうでやれと?
210人間七七四年:2007/11/24(土) 14:54:34 ID:Q8kVsTU5
>>195
日本でも土地の所有権に関する民法には
鎌倉時代由来の条文があるよ。

http://www.itojuku.co.jp/62h_school/knowledge/7066.html
>御成敗式目の8条には土地を20年間ほったらかしにしておくと、
 その所有権は無効となり没収されるという規定があります。
 まさしく「権利の上に眠る者は、これを保護せず」の原則です。
 現行民法162条の「20年間、所有の意思をもって、平穏に、
 かつ、公然と他人の物を占有した者は、その所有権を取得する」
 という所有権の取得時効の元祖はここにあったのですね。

211人間七七四年:2007/11/24(土) 21:22:44 ID:nvMPKO4O
>>210
俺も最初知った時は、頼朝の裁決が現代まであることに驚いたw
212人間七七四年:2007/11/24(土) 23:15:26 ID:cv6GAwdo
桓武天皇
葛原親王
平高望(高望王)
平良文




鎌倉章名
鎌倉景村
鎌倉明(鎌倉景明)
鎌倉景弘(長尾次郎)
長尾高景
長尾邦景
長尾景房
長尾頼景
長尾重景
長尾能景
長尾為景
上杉謙信
213人間七七四年:2007/11/26(月) 21:16:56 ID:6lqPZkN6
越後の騒乱で、八条上杉氏が消息不明に・・・・
214北条景広ってどお?:2007/11/27(火) 16:14:39 ID:WFyGQYzX
>>191-193>>197さんへ
成田氏の件少し待っててください!!
どうレスを編集すれば良いのか? 思案中なので…
215人間七七四年:2007/11/27(火) 16:42:49 ID:8XH8JBzp
>>214
もし上杉三郎ってどお?の人と同一人物だとしたら
たいした博識だ。
216人間七七四年:2007/11/27(火) 22:01:34 ID:5SQdf/wV
wikiとかで家系図辿るの好きだけど、なかなか祖先まで行き詰まらずに辿り着く事ってできないね
217奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6 :2007/11/27(火) 23:43:33 ID:p7zUj0ss
小棚で辿ってみたらどうよ。
218人間七七四年:2007/11/28(水) 09:54:22 ID:a5jOre4G
上杉頼成
  ||−−−−長尾藤明−−−長尾景雄−−−長尾景広
長尾家娘
219人間七七四年:2007/11/28(水) 11:15:51 ID:CrhupzBA
テレビ朝日開局50周年記念ドラマ『天と地と』(放送日未定)
上杉謙信役に松岡昌宏
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071128-00000049-spn-ent

毘沙門天役に北大路欣也???
220人間七七四年:2007/11/28(水) 11:19:52 ID:5HUF21jw
毘沙門天が動くような話だったか?
221人間七七四年:2007/11/28(水) 11:20:34 ID:1vX6yFyv
まじで罰あたるだろう
222人間七七四年:2007/11/28(水) 11:26:55 ID:mdcdqHwL
ちょっと笑えそうw
223人間七七四年:2007/11/29(木) 01:58:49 ID:nDlSo6Xk
欣也はドラクエの うごくせきぞう だろ?
224人間七七四年:2007/11/29(木) 02:02:55 ID:5GlAiFZ6
毘沙門の役があるってなんだろう・・・
しかし、テレ朝の時代劇というと、「風林火山」の出来の
悪さが思い出されるな。加藤あい演技下手過ぎで吹いたw

225人間七七四年:2007/11/29(木) 10:33:49 ID:uEG2SbxS
上杉定正                   上杉定実
  ||−−−−吉良氏正室           ||−−−−蘆名氏正室?
長尾家娘                   謙信叔母
226人間七七四年:2007/11/29(木) 12:25:29 ID:zkZPA8O3
>>219
声だけの出演ならいいのだが
まさか欣也が毘沙門天のコスプレで登場するのだろうか?
テレ朝ならあるえるからこわい(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル  
227奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6 :2007/11/29(木) 22:33:11 ID:sF8bBijP
いっそ前身青塗りで・・・
228人間七七四年:2007/11/30(金) 09:43:47 ID:LpsWu4fk
上杉定実の継室って、謙信の叔母である説と、
(一番上の)姉である説があるらしいんだけど
229人間七七四年:2007/11/30(金) 23:17:12 ID:WydIHevY
>>228
叔母説が一般的だね。
それより加地春綱は本当に景虎の姉を正室に迎え入れたのかどうかが知りたい。
230人間七七四年:2007/12/02(日) 16:56:11 ID:CL4sRjLT
>>213
最近では「琵琶島殿」が八条上杉氏だといわれてるんじゃなかった?
231人間七七四年:2007/12/02(日) 18:10:43 ID:6n776CmD
琵琶島弥七郎は長尾景通
232人間七七四年:2007/12/02(日) 21:22:09 ID:YNZXz/8Y
上杉憲政って人の子孫なら上杉家の家系のどっかの派生なのか?
233人間七七四年:2007/12/02(日) 21:34:11 ID:6E6iOnGm
234人間七七四年:2007/12/03(月) 09:41:30 ID:rA6NeemB
上杉憲政だったらこっちで語っても良いだろう
235人間七七四年:2007/12/03(月) 09:45:17 ID:k+Bt2wDi
そうなのか・・・
でももうあっちにも書いちゃったしな
あんまりマルチやってるのも良くないし
236人間七七四年:2007/12/06(木) 16:01:37 ID:WFdBESRR
ぽまいらも謙信公検定試験やってみ
http://www.city.joetsu.niigata.jp/kankou/oshirase/kentei/index.html

満点で当たり前と思ってたら25点だった
修行が足りんね・・・・orz
237人間七七四年:2007/12/06(木) 16:29:36 ID:gZ9EmvYo
23点・・・
238人間七七四年:2007/12/06(木) 17:48:41 ID:qB0QwHiS
28点だった
239人間七七四年:2007/12/06(木) 18:54:18 ID:NrRi9f4S
26/30だった
俺も修行不足だ・・・
240人間七七四年:2007/12/07(金) 14:33:34 ID:inAIKXrU
おまいらイ`!
俺?
30点満点中27点 (ノ∀`) アチャー
241奇矯屋onぷらっと ◆/6/o/w/o/6 :2007/12/08(土) 01:23:21 ID:FgyVa+HD
26点。出題者の意向を察しながら問題を説くと逆にハマるね。
242人間七七四年:2007/12/08(土) 02:37:37 ID:9+rrWAa5
でも謙信は応仁の乱以降の細川家も戦の参考にしてんだけどな
243人間七七四年:2007/12/08(土) 09:57:48 ID:/U/83neU
上杉謙信公企画展in表参道
上越市埋蔵文化財センターで開催していた「上杉謙信公企画展」で掲示したパネルのほか
Gacktさんが参加した第82回謙信公祭の様子を写真で紹介する「Gackt謙信公写真パネル」の展示、
謙信公祭の様子を映像で紹介する「Gackt in 謙信公祭」の放映を行います。
このほか、上越市のおいしいお米やお酒などの販売も行います。
■ 日時
12月10日(月)13:00〜18:30
   11日(火)10:30〜18:30
   12日(水)10:30〜17:00
■ 場所
表参道・新潟館ネスパス 1階イベントスペース
東京都渋谷区神宮前4-11-7(表参道ヒルズ隣)
ttp://www.city.joetsu.niigata.jp/kankou/event/nespace/index.html
244人間七七四年:2007/12/08(土) 22:28:39 ID:VPvsmjAC
『キンプクリンのプクプク』

上杉家臣の鬼小島弥太郎が武田信玄に使いに行った時の事。
武辺は立っても礼儀作法に詳しくない鬼小島は無作法により失敗してしまう。
「このような者を使いによこすとは…。謙信殿は無鳥里の蝙蝠じゃな」
(むちょうりのへんぷく=鳥なき里のコウモリ・井の中の蛙と同意)
とイヤミを言われてしまった。
そこで鬼小島は「ムチョウリのヘンプク…。ならば武田殿はキンプクリンの
プクプクでございますな」と返した。
信玄は(キンプクリンのプクプクとは何じゃ!?)と思ったが、おくびにも
出さず「キンプクリンのプクプク…。たしかにそうかも知れんな、ウハハ」
とごまかしてその場は収まった。
245人間七七四年:2007/12/08(土) 22:34:15 ID:VPvsmjAC
上杉家に帰る途中、家来が鬼小島に
「いや、殿は存外物識りでございますな。して、キンプクリンの
プクプクとはどういう意味で?」と問うたところ、
「キンプクリンのプクプクか。あれはデタラメじゃ。」
「ハ?」
「信玄めがムチョーリのヘンプクなどと訳のわからんことを
ぬかすので、デタラメを言ってやったのじゃ。
それを『そうかも知れんな』などと返事をしよって。
信玄めはあまりたいした事の無い男じゃな、ガハハ」

〜〜
登場人物のキャラが立ってて好きな話なのですが、
誰か出典知りませんか?
246人間七七四年:2007/12/09(日) 01:45:47 ID:NtQsHgc1
お前の脳内。
247人間七七四年:2007/12/11(火) 04:42:39 ID:EnAuRFGD
謙信の小説をひとつだけ読むとしたらどれでしょうか。
戦国時代の小説は数読んできましたが謙信モノは咲村 観のものだけ読みましたが
正直、文章の稚拙さに内容に集中できませんでした。
お勧めをファンの皆さんからお聞きしたいです。
248人間七七四年:2007/12/11(火) 05:42:36 ID:DMF9BnS+
>>247
とりあえず「天と地と」は基本だから読んでおけ。
249人間七七四年:2007/12/11(火) 07:58:20 ID:WkY82eok
>>247
津本陽の武神の階(きざはし)もいいよ
6歳〜亡くなるまでの一生を描いている、文章表現は淡々としている
現存する書状の引用など随所にデータが載っていて、ちょっと面白い
250人間七七四年:2007/12/11(火) 10:10:56 ID:EnAuRFGD
>>248-249
わかりました。買ってみます。ありがとうございます。
251人間七七四年:2007/12/11(火) 12:42:06 ID:FsTj8dHk
昨日、米沢の上杉御廟所に行ってきたよ。
謙信公や景勝公にナムナムしてきた。
謙信公…笑ってたよ…
252人間七七四年:2007/12/11(火) 12:59:22 ID:L6ZXqILP
しょぼい建物見るのに金取るなよ
253人間七七四年:2007/12/11(火) 13:04:23 ID:LTEjTWGY
なくなっちゃったら金払ってももう見れないんだぜ?
254人間七七四年:2007/12/11(火) 14:20:52 ID:L6ZXqILP
長年貧しい暮らしを強いて来たのだから畑にでもして市民に還元すればよかろう
255人間七七四年:2007/12/11(火) 14:36:21 ID:yk/W10mI
歴史小説って、確かに文学的表現とか耽美的表現とはちょっと違うよな。
それを稚拙ととるかは(本当に稚拙なのもあるだろうけど)さておき……

でも時代小説なのにカタカナが出てくると途端に萎えてくるな。「殿、ラッキーですぞ」と発言させたらしい某大河も然り
おまいら、地の文にカタカナ出てくるのはどう思う?
天と地とでも「〜をバックに〜」とか出てくるけど
256人間七七四年:2007/12/11(火) 14:57:35 ID:e2kuTMoj
>>255
それはそれほど気にならない。
257人間七七四年:2007/12/11(火) 15:41:33 ID:LTEjTWGY
視点の書き方による。

「その時代の目線」で書かれてると違和感があるが、時代を下った史料や
事例を引用するような「後世の目線」なら気にならない。
258人間七七四年:2007/12/11(火) 20:53:24 ID:rtJ0ig6O
空気の読める作家のなら気にならない。
んで謙信小説だが、小説としての出来は
・天と地と ・武神の階
この二つがずば抜けている。特に前者。
259人間七七四年:2007/12/11(火) 21:02:55 ID:pA4EKOuP
吉川英治のは?
川中島だけで終わってしまうけど
260人間七七四年:2007/12/11(火) 21:22:31 ID:2POn6HFc
上杉氏も関東管領に相応しい勢力を築いている。
最盛期には越後、佐渡、上野、北信濃、越中、能登、加賀、東越前、北飛騨、南出羽。総石高300万石、動員可能兵数十一万五千といわれている
261人間七七四年:2007/12/11(火) 21:24:34 ID:3j5I/Z9k
>>260
あっさりとデマとばすな
262人間七七四年:2007/12/11(火) 22:08:06 ID:rtJ0ig6O
>>259
あ、あれもよかったなあ。
でも謙信の生涯とかを知りたいっていう人に一つだけっていうなら、
第四次川中島前後しか描いていないので除外かな。
263人間七七四年:2007/12/11(火) 22:11:03 ID:B5iCBNz0
武神の階って必要以上に謙信マンセーっぽくないかい?
264人間七七四年:2007/12/12(水) 01:26:05 ID:rQBVzLed
まあノリとしては「謙信が成敗にいく話」って感じだな
各作品の謙信像については大河版から拾ってきた

512 名前: 日曜8時の名無しさん [sage] 投稿日: 2007/07/21(土) 11:08:29.90 ID:c59ystsi
>>505
だな〜個人的には

『武神の階』→超人というか神な人
『上杉謙信』吉川英二 →人格者
『上杉謙信』松永義弘 →短気で悩みやすくて病気の多いけど熱血派
『上杉謙信』咲村観 →よくつかめない人orz
『天と地と』海音寺潮五郎 →正統派ヒーローもののような謙信。赤とか似合いそうです
『風林火山』井上靖 →性格をうかがわせるほど描写が無い
『戦国自衛隊』半村了 →義に厚いところや酒に強いところは同じだが、政敵をワナに嵌める程度には腹黒い
『上杉謙信は女だった』八切止夫 →とりあえず村上に惚れてた
『竜虎抱擁』小松左京 →ツンデレ

謙信はイメージが固定してる感じだけど結構幅はあるんだよな。
読んでて思ったのは、謙信は敵に回ったほうがいかにも軍神で強そうでかっこいい、味方だとわりとお茶目で弱みがあって可愛い、いとおしい。



これに最後の二つはおいといて大体同意。で一番好きなのは天と地とかな。現実的なのは以外に戦国自衛隊のちょっち黒い謙信か…?
265人間七七四年:2007/12/12(水) 05:21:00 ID:ZQ9EWVdx
咲村版って存在意義ないよな。
後書きでホモじゃない!って叫んでる理由が狂ってたのが唯一面白かったところ。
266人間七七四年:2007/12/12(水) 06:54:22 ID:JqtldwIu
>>264
吉川英治の謙信が一番実像に近いような気がする
風流を愛し、武辺者達に気さくで
それでいて山芋に喜ぶなど曹洞宗ならではの質素さも持ち合わせている
で、馴れ合うかと思えばそうでもなくスッパリ割り切る
267人間七七四年:2007/12/12(水) 20:53:27 ID:8CmWnPor
吉川英治のは、老成されすぎている。
晩年はああいう人物だったんじゃないかなと思うけれどね。
268人間七七四年:2007/12/12(水) 22:22:36 ID:u2l+A7Dy
世の乱れを正したまえ
不義なる者を打ちのめしたまえ
ロン毛じゃないですか、暑いんですよね
この心の虚しさを正義の憤怒で満たしたまえ
我に力を与えたまえ!

269人間七七四年:2007/12/13(木) 00:56:15 ID:mAfl5VKu
おまいら天地人検定と性格診断テストも受けて味噌
http://www.tentijin.jp/
270人間七七四年:2007/12/13(木) 01:30:07 ID:Xjdp2I80
上杉って没落した貴族の使ってた名前なんだろ。
やっぱ田舎大名ってそういう格とかに弱いんだろうか。
271人間七七四年:2007/12/13(木) 01:44:23 ID:mHrRydej
>>270
謙信本人の性格もあるだろうが、脆弱な豪族連合である越後を束ねるためには最適な名字だった
もともと謙信の父は実力で守護と関東管領を殺しており、越後君臨の正当性に欠けていた
そのため反為景派が各地で挙兵し鎮圧できなかった
272人間七七四年:2007/12/13(木) 01:48:48 ID:DdXyh2l5
長尾の家格じゃ守護が無嗣断絶するまで守護も貰えなかったし、周囲の国人と比べても家柄が悪いってのもあるな。
273人間七七四年:2007/12/13(木) 07:30:50 ID:blvcY7sx
実力うんぬんじゃなく横の繋がりが弱いもんな
274人間七七四年:2007/12/13(木) 09:41:16 ID:+aCZ7m+W
>>272
周囲の国人と比べて、悪いということはない。ただ、
守護が断絶しても守護にはなれない(守護格にはなれる)

まぁ、長尾の上杉姓拝領に関しては、上杉家との婚姻関係も
少なからず影響したんだろうとは思う
275人間七七四年:2007/12/13(木) 15:22:14 ID:r2TLq40q
>>272
家柄(笑)
戦国時代は下克上の時代だから家柄なんて関係ありませんが?www
276人間七七四年:2007/12/13(木) 15:52:41 ID:ExKtzy/Z
>>275
戦国理解が浅いなお前。そこら辺の人と歴史にあまり興味がないヤツと同レベルだなw
277人間七七四年:2007/12/13(木) 16:31:42 ID:EDVcxlwt
長尾為景や初期の景虎の書状をみると、
「後日守護から正式に書状を出す」というニュアンスの事が
が書いてあるんだよね。
278人間七七四年:2007/12/14(金) 00:39:16 ID:itg85Q/e
家柄関係あるに決まってるじゃん。
でなきゃ蝮あたりが名前をころころ変える理由もない。
279人間七七四年:2007/12/14(金) 09:49:55 ID:EWBXKvla
>>277
守護=定実 
280人間七七四年:2007/12/14(金) 12:28:54 ID:cx7J9skA
>>269
天地人検定:44点
性格診断:前田慶次郎
(´・ω・`)
281人間七七四年:2007/12/14(金) 21:58:08 ID:itg85Q/e
だれだっけ?民放のアナウンサー?
282北条景広ってどお?:2007/12/15(土) 11:13:33 ID:WId43QpK
>>175>>183>>186>>191-195>>197>>199>>208さんへ
皆様、大変長らく待たせしました。成田氏リポート完成したよ!!
1.成田系図・家譜の成立年月日

(1).龍淵寺所蔵の『成田系図』
貞享元年(1684)、成田長泰の弟、泰季の子孫にあたる尾張藩士成田新五左衛門が編纂し、
成田家の菩提寺である龍淵寺に納めたもの。
内容は、藤原北家の摂政伊尹の子孫である忠基が武蔵守となり、
その子孫の助隆(助高)が武蔵国幡羅郡成田郷(現、熊谷市上之)に住み、成田氏を名乗るという。
戦国時代の第15代目当主親泰から記述が詳細になっている。

※1…龍淵寺 現、熊谷市上之にある曹洞宗の寺。
成田氏12代目当主の家時が応永十八年(1411)に創建し、
以降は成田氏の菩提寺となる。

ここにはかつて、著者不明の『龍淵寺年代記』なるものが納められていた。
この年代記は、大森金五郎編の『史籍解説』(昭和12年(1937)発刊)によると、
「神武天皇から書かれ始め、以下明徳・応永からの記事から次第に詳しくなっており、
大永・享禄・弘治・永禄に至っては、北条・上杉の争いや、
上野・下野・武蔵・相模の状況など、すこぶる考拠に益するものがある。
…(中略)…関東の戦乱を扱った『相州兵乱記』『北条五代記』『北条記』『関八州古戦録』などがあるが、
これらは、おおむね信をおくに足らない…以下略」と述べている。

※2…成田泰季 秀吉の小田原戦役で忍城に立てこもった人で、そのさなかに病死!?した。
その子の長親は戦後、浪人するも家康に召し抱えられて四男忠吉に仕え、
そのまま九男の尾張初代藩主義直に仕える。

(2).「士林沂回」(…「シリンギンカイ」と読むのか?)に納められている『成田家譜』。
「士林沂回」とは延享年間(1744〜47)に尾張三代藩主徳川綱誠が藩士各々に命じて家譜を書かせたのち、
藩がそれをもとに編纂したものである。
内容は(1).の『成田系図』とほぼ同じ内容だが、ただし初代忍城主となった親泰から書き起こしている。

結論1 『龍淵寺年代記』をもとに『成田系図』が書かれたのではないか?
『成田家譜』は『成田系図』をもとに書かれたのだと思う。
283北条景広ってどお?:2007/12/15(土) 11:15:25 ID:WId43QpK
2.軍記物の成立年月日
(1).『関八州古戦録』…著者は槙島昭武(『北越軍談』の著者でもある)。
元禄十一年(1698)〜享保年間(1716〜1736)くらいに書かれた。
ただし「殴打事件」の記述はなし。

(2).『北条五代記』(または『小田原北条記』) 寛文12年(1672)九月らしい。

(3).『甲陽軍鑑』
高坂弾正(1578年没)。
その甥の春日惣次郎が書き足し、その後小幡景憲が一部執筆か?
元和七年(1621)には板下が出回っていたらしいから… その頃には広く読まれていたのではないか?

以上、私が「殴打事件」を確認のはこの3つだけど…
他にも載っていると思うので…
(『相州兵乱記』には載っているらしいが、未確認。
知っている人、どうかレス下さい。お願いします!!
284北条景広ってどお?:2007/12/15(土) 11:19:59 ID:WId43QpK
3.「殴打事件」について 長くなるけど…論点なので勘弁して欲しい。

(1).『成田系図』『成田家譜』の長泰の事績文&『北条五代記』は、ほぼ同じ記載なので、一つにします。

…(略)…そこで謙信は鎌倉鶴岡八幡宮を参詣し、関東管領職拝賀の儀を執り行った。
先例に従って関東諸将は忠勤に励み、各々は鎌倉の隅々を警護し、長泰は大町辺りを警護していた。

(長泰勢が大町辺りにいた証拠があります。
それは永禄三年十一月付 長泰が、鎌倉比谷妙本寺(現、鎌倉市大町一丁目)に出した制札です。「妙本寺文書」
内容は「軍隊の乱暴狼藉を禁止する」もの)

閑話休題
成田氏の先祖、太夫助高は源義家の妻の父であった。義家の奥州征伐の頃、助高は武州幡羅郡(熊谷市)に住んでいた。
この機に義家は助高に会いたいと思い、助高もまた義家に会いたいと思っていた。
偶然にも両者は道端で出くわし、助高・義家双方が共に下馬し、互いにお辞儀をしてから、相まみえたのである。←ここに注目!!
(『北条五代記』では、義家を頼義としている)

これより代々この礼が家例となり、頼朝の時代もそうであった。
それゆえ長泰は、謙信はこのことを知っているのではないか? と考えて、家例通り馬上にいた。
謙信は八幡宮からの帰りの途中で長泰に会いまみえたのだが、
長泰が馬上にいるのを怒って「尊卑の礼を知らぬ不届き者めが!!!!」と、ものすごく罵り、扇で長泰の烏帽子を打ち落とした。
(『北条五代記』では、「謙信は「確かに頼義・義家の時代は、そういうこともあったかもしれないが、
今の時代にはそんな主従関係はない」と言って、長泰を馬から引きずり落とした。長泰は予想だにしない結果にあきれ果てつつ、烏帽子を落としながらも跪いた」としている)

長泰は一人だけ大恥をかいたが、多勢に無勢だから敵しがたいと考え、とりあえずその場の憤りを抑え、後で内々に家臣たちに言った。
「私は武蔵国内で約1000騎を従えている。その名は武州衆の中で抜きんでており、かつ一方面を任せられても良いくらいだ。
謙信が厩橋城に入った時には真っ先に従ったではないか?(これはウソ!!) 
忠節を尽くし慇懃に仕えたのに、なぜ衆人の前で私に恥をかかせたのか?
この際、当初の目的と異なるが、北条に属して援軍を乞い、上杉軍を蹴散らしてやるぞ!!」

檄文をすぐさま小田原に飛ばし、その夜、家臣の別府、玉井、酒巻などを率いて、忍に帰城し守りを固めた。
これにより関東諸将の間に謙信に対する懐疑心が芽生え、大石源左衛門定重は北条に降ってしまった。
その後も諸将はことごとく居城に帰ってしまい、謙信の下に残ったのは、太田・里見などわずか二万騎となる。

謙信は武蔵に退いた。長泰が出撃する噂を聞き、中条出羽守と毛呂太郎が長泰と協同して、上杉軍の補給を襲い、後方を脅かしたので、謙信は越後に帰ってしまった。…以下略


謙信の騎西城攻めと長泰降伏。
羽生勢(上杉方)との戦い。
長泰と氏長の内輪もめ。
その後の長泰追放・出家・隠居まで
成田氏に関する他の記事も…ほぼ同じ内容なので…

結論2 『成田系図』と『北条五代記』は 参考資料が同一か?(『龍淵寺年代記』か?)
もしくは『北条五代記』をもとに『成田系図』が書かれた?と思う。
285北条景広ってどお?:2007/12/15(土) 11:22:59 ID:WId43QpK
(2).『甲陽軍鑑』品第三十三より。
藤原哲朗氏の訳を参考に私の意訳。

謙信は三月中旬に小田原へ進出し、蓮池門まで攻め入った。
まだ心から打ち解けてない関東諸将の間にいても遠慮なく、兜を脱いで白い布一枚だけで頭を包み(よくTVで見かけますね)、
朱色の采配を持ちつつ、諸軍勢の中に入って指揮をした。そういう人を人と思わない謙信を見て、
関東の諸将は「この大将を頼めば、後々大変なことになりそうだ」とそれぞれ我が身を案じる人が多かった。

その後、謙信は鎌倉鶴岡八幡宮に社参した時、近衛前久を都より下らせて、公方にした(←これは嘘!!)。
謙信は山内家中より大石・小幡・長尾・白倉の4人の侍大将を側近として引き連れ、
その中から上野国鷹ノ巣城(群馬県甘楽郡下仁田)主小幡三河守(貞政)に太刀を持たせ、
謙信は管領として、その威勢東国二十三カ国に並ぶ者はなかった。
ゆくゆくは都までもその武威を及ぼすであろう謙信に、誰が逆らう者がいるのか? と思わせた。

その理由としてまず、31歳の若さである事。越後という大国の他に東上野を所有し、
しかも武門に名だたる家柄ゆえ戦上手の家老達を始め、謙信をも上回る百騎二百騎の侍大将三十人余りいるからである。

「謙信は関東中を従え、管領になり10万余の軍勢を指揮すれば、三年のうちにも日本の主となること間違いない。強運の大将だなぁ」
と、人々が噂していたところへ…

社参の帰り忍の成田長泰という五百騎の大将が礼儀正しく控えていたのに、
普通より頭か高いといって、謙信が多いに怒って持っていた扇子を振り回して成田の顔を二度打った。

成田は宿に帰ってから「私も五百騎を持つ大将で、地元では千騎の侍を指揮できるのに、謙信にこのようにあしらわれて口惜しい」と言って、謙信に別れを告げて忍へ帰ってしまった。

その様子を見ていた上杉家中もことごとく引き払い、残りの17000も乱れがちになり、小荷駄を百姓に襲われたり、中級・下級武士を殺されたりして、ようやく上州平井まで退却した。
謙信だから無事に引き上げたのだった。謙信は同地に滞在し、五月初めに越後へ帰国した…以下略」


(3).永禄四年六月十日付 近衛前嗣→謙信あて書状「上杉家文書」。
(>>192さん、どうも有難う。簡単に裏が取れました。)

「…(略)…その他の諸将や成田・箕輪長野からの人質は厩橋城の実城に置いて、見張りを付けている。…以下略」
殴打事件の3ヶ月後に人質がいるのはおかしい。

結論3 「殴打事件」の記事は怪しいが…
ここから2つ読み取れることがあります。
(1).成田氏は鎌倉時代頃からの名門であること。
(2).長泰は謙信と何らかのいざこざがあって戦線を離脱した。
次は以上の2つを証明しましょう。
286北条景広ってどお?:2007/12/15(土) 11:26:55 ID:WId43QpK
3.成田氏は鎌倉時代頃からの名門か?
>>188のレスに加筆・訂正という形で勘弁を…

(1).『保元物語』巻一「主上行幸三条殿官軍沙汰之条」『同』巻二「白河殿攻め落す事」の中に、
源義朝に従って戦った武将の中に成田太郎(広能か?)が出てくる。
彼は『成田系図』を見ると「保元合戦上洛」とある。

(2).『平家物語』巻九「二度のかけの事に」の中に、 成田五郎(助忠)が出てくる。
彼は『成田系図』によると「義経に従って一ノ谷の戦いに参加した」とある。

(3).『吾妻鏡』文治五年(1189)七月十九日の記事。
成田七郎助綱が源頼朝の奥州征伐に従う。

(4).『吾妻鏡』建久元年(1190)十一月七日の記事。
頼朝上洛に従う諸将の行列の38番目に成田七郎(助綱)が登場する。

(5).『吾妻鏡』承久三年(1221)六月十四日の記事。
(承久の乱の)宇治川の戦いで、 (幕府軍にいた)成田助綱の子、資泰と助綱の弟、道忠が討死にする。
一方、宮側に加わり、戦後は幕府に縛殺された成田成綱の名も見える。

結論4 頼義・義家の時代は定かではないが…
義朝・頼朝・義経・北条泰時の時代には登場しているから、 名門であることは、ほぼ間違いないだろう。
287北条景広ってどお?:2007/12/15(土) 11:35:03 ID:WId43QpK
4.謙信とのいざこざって何?

(1).その前に成田氏の待遇を謙信・北条双方から見てみましょう。
@謙信側
謙信が永禄三年冬〜永禄四年(1560〜1561)三月に書いたとされる「関東幕注文」(上杉軍に参加した関東諸将のリスト)では、
武蔵国のトップに書かれており、「忍衆」ではなく「武州之衆」と書かれ、 長泰が連れてきた家臣17名が載っている。
これは「関東幕注文」に書かれている参加武将の中でトップクラス。

ちなみに…
1位 30人 新田衆(由良成繁)
2位 25人 足利衆(足利長尾景長)
3位 19人 箕輪衆(箕輪長野氏業(業盛)か?)
4位 17人 総社衆(総社長尾顕景)
同じく17人 武州衆(成田長泰) となっている。

A北条側
天正十年(1582)二月、氏長の時代に作成された『成田家分限帳』(一部、石高で書かれている箇所があるなど100%信用できないが、
氏長が家臣に与えた貫高とほぼ一致する。)を見てみると、

成田氏の領地は
忍(熊谷市・行田市域とその周辺自治体)…本領
騎西(騎西町域)…1539年ごろ支配下に。
本庄(本庄市域)…1560年には領地として謙信に認められている。
羽生(羽生市域)…1575年支配下に。
で、合計六万貫(約24万石)であった。

これら領地の支配は北条の方式が取られていたが、家臣に対する軍役負担は北条よりも軽い基準であった。
成田氏は進んで北条の軍事的指揮下に入ったが、北条に軍事的征服・進駐された岩付や栗橋・小山とは違い、
本領に北条氏の検地が入った形跡がなく、かつ北条の家臣が一人もおらず、成田氏の独自の支配権が尊重されていた。

北条の北条の軍事的指揮下に入ってからも成田氏は外交権も持っていた。 (これは北条一門と同じ待遇)
1.(天正十年(1582)四月)滝川一益が上野厩橋城に入ると、氏長は出仕して人質を差し出した。 「滝川一益事書」より
2.伊達政宗と手紙を交わしている。
「…(略)…あなたの依頼(佐竹の背後を突く事)は、とても良い事です。さっそく氏照と協議して氏直に取り次ぎましょう…以下略」
天正十四年(1586)四月二十日付 氏長→伊達政宗あて書状。「伊達家文書」
(同書では北条氏長としているが、立花京子さんの説によると成田氏長としている。『戦国史研究』第20号。1990年。より)
この頃政宗は、二本松城攻略中(1586年4月〜7月)で、
この依頼を受けて氏直は宇都宮へ出陣す。 (1586年5月〜6月、第二次大谷口の戦い。氏直vs佐竹・宇都宮)

結論5 謙信は、武蔵国で成田氏を一番と考えていた事、
一方、北条は(天正になっても)成田氏の内政・外交などの自治権を認めており、
これは北条の家臣あるいは支城主と考えるぺきではなく、北条の軍事的指揮下にある与力大名と考えるべきか? 
例えば信長と家康のような関係。
以上から推測すると、謙信・北条どちらも重んじていたのではないか? ×※軍役は北条氏よりも軽い基準 北条は田一反=500文。畑一反=165文。 成田は田一反=300文。畑一反=150文。
288北条景広ってどお?:2007/12/15(土) 11:41:17 ID:WId43QpK
(2).では、成田氏の状況や年表を見てみよう。

@まず成田氏の周囲を見てみると…
北に利根川を挟んで、上野金山城主由良氏・同小泉城主富岡氏・同館林城主赤井氏(のちに足利長尾氏)が、
西に深谷上杉氏がおり、 (深谷と成田は通婚している)
南に鉢形城主藤田氏・松山城主上田氏・岩付城主太田氏・菖蒲城主金田氏が、 (太田と成田は通婚している)
東に羽生城主広田氏・木戸氏がいた。 (特にココと争っていた)
289北条景広ってどお?:2007/12/15(土) 11:44:20 ID:WId43QpK
A年表 史料が乏しいので、軍記物や『成田系図』『成田家譜』からも注釈す。

A、天文12〜13年(154.3〜1544)まで…山内上杉側。
延徳元年(1489) 成田親泰、扇谷側の忍城(行田市)を攻略し居城にする。 『成田系図』『成田家譜』

解説 ちょうど山内顕定と扇谷定正が争っていた時期。

それを裏付けする史料2つ。
a.室町中期の代表的な連歌師、猪苗代兼戴(生没1453-1510)の句集、 『閑塵集』(?)『園塵(そののちり)』の明応八年(1499)夏の記事より
「成田左衛門大夫家」と武蔵成田(熊谷市か?)の2ケ所で歌を詠む。
b.同じく連歌師宗長(生没1448-1532)の紀行文、『東路の津登(あずまじのつと)』永正六年(1509)の記事より
「武州成田下総守顕泰亭」で歌を詠んだ後で、
「…(略)…水郷みたいだ。館の周囲四方は沼水いくつもあって、葦が寒さで枯れている。…(中略)…水鳥もたくさんいるよ…以下略」
この記事は、難攻不落の水城である忍城をさしている。
顕泰も氏長も連歌好きだった。

『快元僧都記』天文2年(1533)2月22日の記事。
北条氏綱による鎌倉鶴岡八幡宮再建に応じた上野・武蔵両国の領主の一人として「成田」が登場する。

解説
当然、氏綱と戦っている両上杉家は、氏綱の呼びかけに応じなかったが、
武蔵の領主では、大石・三田・藤田・秩父・成田が、
それに西上野の大半の領主がこれに応じている事は、
まるっきり山内家の従属下という訳ではなく、 独自の勢力を保っていたのではないか?

天文8年(1539) 古河公方奉公衆の騎西城(騎西町)主小田顕家が死去し、長泰の弟、小田朝興(朝真)が名実ともに騎西城主となる。
『武蔵史料銘記集』 成田氏、騎西領に進出する。
290北条景広ってどお?:2007/12/15(土) 11:46:45 ID:WId43QpK
B、天文12〜13年(154.3〜1544)から永禄3年(1560)秋頃まで…北条側。

「…(略)…小田原参上の折りは色々お世話になりました。どうも有難う…以下略」
天文十二年〜十三年六月二十五日付 長泰→江の島神社下坊あて書状写「相州文書」より

「…(略)…憲政自ら長泰の在所(忍か?)を訪れて、長泰を出陣させたり、
古河公方足利晴氏が河越に出陣したので、高朝も晴氏に従って出陣するように…以下略」
天文十四年カ?五月二十七日付 上杉憲政→小山高朝あて書状「小山文書」

解説
天文10年(1541)に氏綱が死んで、氏康が家督を継いだが、
北条領の北限は、江戸・河越までであって、 隣接する松山・藤田などは支配していないから、成田は北条に脅かされていない。

以上を踏まえてこれらの史料をそのまま解釈すれば、
長泰は、河越合戦(天文十四〜十五年(1545〜1546))以前に積極的に氏康に誼を通じ、 合戦の時だけ一時的に上杉に付いたと見るべきか?

『甲陽軍艦』天文16年9月の記事。
信玄と戦った山内勢の一員に「忍衆」が登場する。

永禄2年(1559)2月にまとめられた『小田原衆所領役帳』。
(長泰は他国衆の27番目に登場。貫高は83貫800文。所領は相模中郡大島郷)
291北条景広ってどお?:2007/12/15(土) 11:49:22 ID:WId43QpK
C、永禄3年(1560)秋頃から永禄4年6〜7月…上杉側。
謙信の第2次関東遠征(永禄3年8月29日〜永禄4年6月28日) に長泰は加わる。
長泰の家臣の中に騎西小田氏・本圧氏の名が見える。「関東幕注文」より
(この時点で成田氏が、騎西領・本庄領を支配していた証拠)

それに対し氏康は
「…(略)…去年、謙信が来た途端に、太田三楽斎・成田長泰は、年来の重恩を忘れ、度々の誓詞・血判に背いて、私に逆った。なんて奴等だ…以下略」
と怒っている。
永禄四年(1561)二月か? 氏康?→箱根山金剛院?あて書状写「相州文書」より

永禄4年 閏3月16日「殴打事件」
6月10日 近衛前嗣書状。あの人質の件。これらは前述したのでカット。
(この書状から考えると、謙信は関東諸将の離反を防ぐために人質をとって、小田原攻めに参加させたと見るべきか?)
6月28日。謙信帰国。 この頃、長泰はじめ関東諸将、無断で帰国し、北条に付く。
(謙信帰国と同時に、人質を手放したのかも?)
292人間七七四年:2007/12/15(土) 12:09:41 ID:F1pMK7yx
単に上杉来たから上杉につき
北条が来たら北条についただけじゃないか?
武田・北条共同の松山城攻略とか怖いし。
つか岩槻城も成田が築城したものを太田が奪ったんじゃナカタ?
293北条景広ってどお?:2007/12/15(土) 12:20:31 ID:WId43QpK
D、永禄四年(1561)6〜7月から永禄6年4月まで…北条側。
永禄4年(1561)六月頃、
謙信は忍城の北西1kmに対の城として皿尾城(行田市)を築き、羽生衆の木戸忠朝を置いて、長泰に対する守りを固める。
ここから羽生衆vs成田氏の戦いが始まる。
『北条記』『北条五代記』『成田系図』『成田家譜』
(現地を調査した『埼玉の古城址』によると、元々、忍城の出城だった皿尾城を上杉勢が接収して改修したらしい。)

永禄6年(1563)2月4日
松山城陥落ののち謙信は、騎西城を攻略して同城主小田朝興を降し、その兄である成田長泰を降参させる。
「…(略)…騎西城を攻略し…(略)…三楽斎のとりなしで、長泰の詫びを受け入れた…以下略」
永禄六年四月十五日付 謙信→葦名盛氏あて書状写「伊藤本文書」

加えて、軍記物では 「その証として長泰の嫡男氏長と三楽斎の長女が結婚した」とある。 『北条五代記』『関八州古戦録』

E、永禄6年(1563)四月から永禄11年(1568)末まで…上杉側。
史料では長泰の代わりに、氏長が登場する。

「…(略)…三楽斎や氏長を羽生に出陣させたので、重朝もこれに参陣して働くように…以下略」
永禄六年閏十二月五日付 謙信→富岡重朝あて書状写「富岡家文書」

永禄7年7月23日 三楽斎が子の氏資に岩付城を追放されて、氏長のところに身を寄せる。
(のち謙信の仲介で佐竹の客将となる)

『北条五代記』『関八州古戦録』『成田系図』『成田家譜』では、
「永禄8または9年閏8月、長泰は謙信に背いて北条に通じたが、
この直後に、氏長が長泰を追放して家督を相続する」とある。
長泰の北条派、氏長の上杉派に家中が分かれていたと思われる。
三楽斎の事件と合わせて考えると、北条の調略があったのかも?

永禄9年1月〜2月。 謙信、常陸小田城を攻略。
その軍勢の中に「成田下総守(氏長か?)200騎」の記述あり。上杉輝虎陣立覚書写「上杉輝虎公記」所収。
(ちなみにこれは中規模であり…結城晴朝・佐野昌綱・宇都宮広綱・佐竹義重と同じ数)

永禄9年3月〜4月。 謙信、臼井城攻撃失敗。帰国後、氏長はじめ関東諸将は北条に付く。
294北条景広ってどお?:2007/12/15(土) 12:25:33 ID:WId43QpK
F、元亀年間からは、ずっと北条に属する。
(一時期、滝川についたけどね!!)

元亀三年(1572)、氏長は氏照と共に羽生城攻撃に参加し、戦果を上げる。
元亀三年八月二十八日付 北条氏照→氏長あて書状「吉羽文書」

天正二年(1574)、謙信は武蔵に侵入して、忍・騎西城を放火し、
羽生城を破却して、木戸忠朝以下羽生衆千人を上野膳城に移す。
翌年、成田氏長、羽生領を支配し、
叔父の善照寺(成田向用斎)・田中加賀・野沢信濃を同城代に置く。
『成田系図』『成田家譜』 (成田氏、やっと念願の羽生領を手に入れる。)

結論6
(1).私はこれまで、成田氏が弱小大名のゆえに「今日は上杉、明日は北条」に渋々従ってきたと思ってきたが、
結論5を踏まえて考えると、むしろ成田氏は自立していた。 そして自らの領土保持・拡張のために、
主体的に双方の間を行き来していたと考えるべきかもしれない。
(毛利のように大内と尼子を…)

(2).利根川を越えるのは難しいので、利根川と荒川に挟まれた地域を東(幡羅郡成田郷(熊谷市)→忍城(行田市)→騎西城(騎西町)→羽生城(羽生市))に進出していった。

(3).双方を行き来しながら領土拡大を目指したが、羽生領を獲得した時点で、周囲が北条となったため、領地拡張はできなくなった。

参考文献 『戦国期東国の都市と権力』市村高男著 『鷲宮町史』『行田市史』『新編埼玉県史』 『日本城郭大系』第五巻 埼玉・東京より編集。 『埼玉の古城址』中田正光著

6.最後に 長文&レスを多く使ってスミマセン。
>>215さんへ 褒めていただけるのは有り難いですが… 単なる物好きなだけです。あしからず。!
是非、御意見・御感想・加筆・訂正・質問etc.何でもいいのでレス宜敷お願いします。以上、恐々謹言。師走拾五日
295人間七七四年:2007/12/15(土) 12:29:17 ID:KxQ7osS0
がんばって調べたのは凄いんだけどさ、ここ2chだから。
そういう時はテキストにまとめて外部のアップローダに
上げるとかした方がいいと思うよ? 読み易いし。
296北条景広ってどお?:2007/12/15(土) 12:31:15 ID:WId43QpK
>>295
もし良かったら、それってどうやるのか教えてくれませんか?
今後の参考にしますので…
297人間七七四年:2007/12/15(土) 12:37:43 ID:KxQ7osS0
いややり方というか、そのまんま。
どこか適当なアップローダに.txtか圧縮したファイルを上げてURL貼り付けるだけ。
1レスで済むし、読むにも自分で見やすい設定したエディタが使えるから楽だし。
298人間七七四年:2007/12/15(土) 12:59:12 ID:09cqC1Hv
>>北条景広ってどお?
 血染めの感状ものじゃな

299人間七七四年:2007/12/15(土) 14:22:12 ID:Dx71UaHp
>>282-294
成田が義家にも馬上から挨拶できる習慣を持っていた
とは違う話を教えてくれて有り難うございました
二人とも下馬したんですね
どっちにしろ眉唾ですが

あと鎌倉時代の成田も
頼朝の前、執権北条氏の前、長崎親子の前でも馬上で居られたんでしょうか
三浦、安達、金沢、足利などの名門が下馬する状況で
成田一人、馬上で居る光景は奇異ですよね
それは何らかの記録が残ってないと逆に変だと思います

さらに室町時代
成田は始め、南朝に属していたとの事
それを赦してくれた足利、上杉の前でも馬上から挨拶をしてたのかな
これもちょっと信じ難い話だし
それを示す一級史料が有ってしかるべきだと思われます

義家の頃の話が室町後期になって突然出てきたというのが、不思議でなりません
300人間七七四年:2007/12/15(土) 14:29:03 ID:cPSjwNUb
鎌倉年中行事にも書いてないの?>成田のこと
道ですれ違った時に管領の前で下馬しなくていいのは足利一族だけらしいけど、
顕定の頃には管領上杉も御一家化されてるからどこまで有効なんだか