1 :
人間七七四年:
織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍との間で行われた姉川の戦いについて議論するスレです
姉川の合戦と呼ぶのは徳川家
織田家・浅井家は野村合戦、朝倉家は三田村合戦と呼称していた
☆江戸期以降に書かれた史料をソースとして認めるか認めないかの激しい議論が起こると思うが
無意味な罵倒・中傷等は禁止です。
次スレ以降の為のスレのルール・テンプレ等の議論もスレの議論と併せてお願いします
次スレ立ては
>>950くらいからお願いします
2 :
人間七七四年:2007/08/31(金) 20:42:12 ID:qkjl/OvK
また結論の出ないゴミスレですか
3 :
人間七七四年:2007/08/31(金) 20:46:18 ID:9yDoNW2o
4 :
人間七七四年:2007/08/31(金) 21:41:26 ID:eWVnQFVZ
>姉川の合戦と呼ぶのは徳川家
家康が年増好きだからだな
5 :
人間七七四年:2007/08/31(金) 22:01:12 ID:+rC6pzJP
6 :
人間七七四年:2007/09/01(土) 09:11:43 ID:N3EqCofE
( ´゚ω゚` )
7 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 14:02:16 ID:dxNodC7+
>>3 もともと、今時織田軍は浅井に攻められて負けそうだったが、徳川の大活躍で勝てた。
なんてアホなことを言い出したのが信玄上洛スレにいたので、
そいつを隔離するために作られたスレ。
残念ながらネタなんてない。
8 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 14:05:24 ID:+pEimxRx
それはそいつの考えじゃなく文献に載ってるだけだろ
9 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 14:09:50 ID:+pEimxRx
そういえば姉川で徳川が活躍しない詳しい文献を見たこと無いんだが
ID:dxNodC7+は応えられるんだろうな?
合戦に至るまでの経緯から終わるまで戦死者含めて挙げてみろよ。
10 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 14:12:54 ID:dxNodC7+
信長公記では不満かい?
11 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 14:14:20 ID:+pEimxRx
でた信長公記w 馬鹿の一つ覚えとはこれの事
12 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 14:18:03 ID:YBRiJ8u0
馬鹿の一つ覚えも何も史料としては相当信頼できるモノなんだが、これを越える姉川に関する史料を出せる
>>11に期待
13 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 14:25:05 ID:+pEimxRx
こっちが聞いてんだよ。結局信長公記だけなのか?
14 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 16:27:23 ID:8UEANBTD
信長公記並みの信憑性を持つ、姉川関連の経緯を伝える内容が書かれた史料はないよ
それ以前に、合戦の経緯の詳細を伝える資料なぞ、ほぼ無いと言っていい
信長公記でさえ、合戦の経緯は怪しいと言っても過言ではない
だから研究者は、合戦前後の発給文書や寺社関連の史料を照らし合わせ、
どちらが優勢に終わったのか、合戦結果による勢力図の塗り替え等を調べ、合戦経緯はわからずとも、
結果を調べ、真実に近づこうとするんだよ
まぁ色んな家に残る文書からは徳川が活躍したなどと(徳川家に残る文書も同様)書かれてはない
あるのは家康が他の織田勢と同じく、朝倉勢にあたった一部隊であったと言う事だけ
15 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 16:28:20 ID:+pEimxRx
ソース
16 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 19:04:32 ID:aWIv7uup
取りあえず、このスレが分かれた元スレからコピペ(入力したのは自分)。
※以下、「衆[→者]」とあるのは「衆」をミセケチで「者」に訂正している
ことを表す。また〔 〕内は割注。
織田信長書状案
(細川藤孝宛、羽前津田文書、『増訂織田信長文書の研究』241号)
今日巳時越前衆[→者]并浅井備前守、横山為後詰、野村与申所迄
執出、両所備人数、越前衆[→者]壱万五千計・浅井衆[→者]五六千
も可有之候歟、同刻従此方切懸、両口一統ニ遂合戦、得大利候、
首之事更不知校量候間、不及注候、野も田畠も死骸計候、誠為天下
大慶不過之候、小谷之城雖可攻崩、山景之由候間、先相抱候、畢竟
落居不可有程候、両国共ニ武篇之一儀、非物之数候、江北之事者
属平均候、横山楯籠候(者ヵ)共種々詫言申候へ共、可討果覚悟候、
可為今明日之間候、即佐和山之儀申付、直ニ可致上洛候、此等之趣
可有御披露候、恐々謹言、
織田弾正忠
六月廿八日 信長
細川兵部大輔殿
今度岡崎家康出陣、我等手廻之者共、一番合戦之儀論之間、
家康被申付候、池田勝三郎・丹羽五郎左衛門相加、越前衆ニ懸
候而、切崩候、浅井衆ニハ手廻之者共ニ、其外相加相果候、何も
以抽粉骨候、過御察候、以上、
【要点】信長の手廻りは浅井に、徳川軍は池田恒興・丹羽長秀を加えて
朝倉軍に当たる。
17 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 19:05:18 ID:aWIv7uup
『当代記』巻一(『史籍雑纂』二)
「(元亀元年六月)十九日、信長北近江へ進発、小谷町中悉放火、敵
防戦及度々、浅井人数八千有之、此時退口を被掛大事、左右に土手を
築、佐々内蔵助簗田出羽守中条将監に仰付、各大身の者可為殿之由
雖言上無承引、此小身之衆殿也、諸手より鉄炮五百挺、信長之弓之衆
五十人被相添、敵聚相慕之間、度々及合戦、無異儀被引取、簗田少
手負、信長横山城被取巻、越前より浅井為加勢、朝倉孫三郎〔義景甥、
又聟也〕為大将一万の人数指立る、浅井父子同六月廿六日、大寄山に
陣取、信長龍鼻に陣取給、其間五十町也、家康依信長仰出馬し給、
廿四日に、彼所に着給、信長快悦不斜、廿七日、北敵野村三田村江移、
終夜相催、未明に打出、於姉川及合戦、初合戦信長家康之方被押立、
左は家康自旗本押直之間、越前衆敗北、右は信長幡本へ相合へきところ
に、稲葉伊予守よこ鑓に懸、浅井敗北、敵数多被討捕、茲に越前の侍に
真柄十郎左衛門と云者、大太刀を以無類に働、家康家中匂坂式部、并
息六郎五郎得之、横山城退散之間、被移木下藤吉、磯丹波自合戦場
直に佐和山へ移相籠之間、丹羽五郎左衛門、百々か屋敷に被指置、
彦根山に川尻与兵衛、北の山に市橋、南山に水野下野守被置、信長
家康有上洛、義昭賀し被申、さて美濃へ被相下、此姉川合戦之悦として、
信長より家康へ長光の刀被進、是を後三川長篠の城開運し時、家康より
奥平九八郎信昌へ被下、此刀は元三好下野守刀、其後光源院殿の御物
なりしを、信長御手に入、」
【要点】はじめ信長・家康とも押されたが、左方は家康の旗本が押し返して
朝倉軍が敗北、右方は稲葉一鉄の横槍で浅井軍が敗北。
18 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 19:07:23 ID:aWIv7uup
『三河物語』(日本思想大系『三河物語・葉隠』)
「然ば、信長、北之郡え御〓(ハタラキ)被成候ハント思召処に、越前衆ハ出、
方々に取出を取、都え之行通ヲ止メントテ、三万余にて出けれバ、
(中略、軍議で家康が一番合戦を担当することが決まる)
家康之仰ニハ、「明日廿八日之合戦に、今日廿七日に是え付て、一番陣を
請取事、天道之与なり」と被仰、御喜説カギリ無。
元亀元年庚午六月廿八日の曙に押出給えバ、越前衆も三万余にて押出ス。
信長之一万余、家康之人数三千余にて、互に押出て、北風南風、責〓(タタカ
ウ)処に、家康之御手より切崩シテ、追打に打取給えバ、信長之御手ハ旗本
近ク迄切被立、各々爰ハの衆ガ打レケレ共、家康之御前ガ勝て奥ヱ切入給
えバ、敵モ即敗軍シテ、不被残打取給ひて、「今日之合戦ハ、家康之御手柄
故、天下之誉ヲ取」ト、信長モ御感なり。
信長、其より此方彼方押詰サせ給ふナラバ、近江之儀ハ申に不及、越前迄
モ切取せ給ハンに、惣別、信長ハ「勝て〓(カブト)之緒ヲ締メヨ」トテ、其儘、
岐阜ヱ引入給ふ。」
【要点】家康の手勢が敵を切り崩した。信長は旗本近くまで敵に切り立てられて
いたが、徳川軍が敵軍の奥まで切り入ったため敵は敗北。
この3つを比べると、
●戦った相手……信長が浅井勢に、家康が朝倉勢に当たったとする点で信長書状と
当代記は一致。
●信長軍のピンチ……信長書状は触れず。当代記は信長・家康とも最初押されたと
する。三河物語は信長が押され、家康が勝ったため敵が崩れて信長が救われたように
記す。
なお織田の13段の備えの11段まで浅井が突き破ったという話は『浅井三代記』が
最初らしい。
19 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 19:12:01 ID:+pEimxRx
散々江戸期の文献を馬鹿にしてたくせに当代記と三河物語かw
20 :
人間七七四年:2007/09/27(木) 03:50:44 ID:ppzTSM4W
家康「稲葉殿を是非に」
は創作だろうな。
21 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 05:04:44 ID:T3rlLfiC
織田家康勢の動員兵力2万8千から3万4千
浅井朝倉は1万8千から2万
もっと朝倉勢は兵力を動員できたはず
22 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 13:08:50 ID:fhRhN0T1
少しずつ義景の統制力はほころび始めていたからな。
のち刀根坂の合戦で派手に瓦解してしまう兆しが少し垣間見える。
義景本人が出馬しなかった、もしくは出来なかった。この辺興味深い
23 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 19:07:32 ID:YZhtOCTc
早いところ研究が進んで戦の実像がはっきりして欲しいね。
史料が疑わしいから、徳川勢の活躍は全部捏造ですって風潮がちょっとな〜
24 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 19:53:45 ID:oaz3GiVz
>>22 加賀の一向門徒とは和議がなってるんだっけ?
和議無しだと、空の越前を衝かれるよ。
25 :
人間七七四年:2007/10/17(水) 06:31:59 ID:jgR5+MSl
朝倉家では、当主の出陣自体が異例だったんじゃないかな?
軍奉行にまかせるのが普通で、父孝景は確か出陣したことが
ない筈。後の義景の出陣は朝倉家内部では軽率だという声も
あったと思う。
26 :
人間七七四年:2007/10/17(水) 07:54:00 ID:wAF8EG8G
弱い織田を徳川が助けて姉川を勝利に導いたというのは
徳川の威信を高めるための俗説。
浅井が最初は織田を攻撃してたわけだが、
別に織田は崩れたわけではない。
浅井の攻撃はいくら続けても織田は崩れなかっただろう。
遅かれ早かれ寡兵の浅井は疲弊して負けていた。
そして美濃勢が頃合を見て浅井に横槍を入れて織田が勝利したわけだが、
序盤で相手の攻撃に耐え相手を疲弊させ、反撃と予備兵投入で一気に勝つというのは
むしろ理想的な勝ち方と言える。
実を言うと長篠もそうだった。武田が攻めまくって疲弊して
攻撃能力がなくなったところを一揆に反撃して勝利した。
序盤、攻撃している側が有利と見るのは軽率。
27 :
人間七七四年:2007/10/17(水) 10:49:58 ID:SJfTkH6/
個人的な想像だが、おそらく第一陣の坂井隊は結構崩れたのではないかと思う。
息子久蔵の戦死とか。もちろん十一段突破はないだろうが。
28 :
人間七七四年:2007/10/18(木) 18:10:11 ID:KW2NhLNv
そもそも姉川の戦いが大規模なものだったら志賀の陣なんて起きないわけだから大規模な戦いだったということ自体が徳川の創作である可能性が高い
29 :
人間七七四年:2007/10/19(金) 22:19:09 ID:LCXggdGY
>>28 横山城の重要性考えるとそれはそれでムリがあると思うが
30 :
人間七七四年:2007/10/20(土) 06:44:50 ID:zLyU9cRk
中規模くらいだろ
31 :
人間七七四年:2007/10/20(土) 07:00:28 ID:HnHiX4n+
浅井、朝倉って姉川の戦いで負けた後もけっこう活発な軍事行動してるよね。
姉川の敗北ってたいして打撃受けなかったんじゃないか?
32 :
人間七七四年:2007/10/20(土) 11:48:39 ID:Qa7IMHLe
軍事的にはあまり。
ただ、姉川合戦というのは小谷城よりも横山城の後詰として惹起した合戦で、
この戦の結果横山城は降服。信長は岐阜から京への江南回廊の掌握に成功。
一方浅井は湖東を押えられ、江北に押し込められる端緒となってしまった。
ちなみに、湖西が押えられるのは志賀の陣以降。講和して朝倉軍が越前に退き
挙げられた結果、放棄された堅田に織田軍が進駐。さらに高島郡南部まで進出。
浅井、そして朝倉は完全に封じ込められることになる。以後滅亡まで、朝倉浅井
の軍が江南に進出することはなくなる。
33 :
人間七七四年:2007/10/23(火) 22:47:15 ID:/rEjbwmP
志賀の陣で講和せずに京まで攻めたら朝倉天下というのもあったんだろうか。
34 :
人間七七四年:2007/10/24(水) 18:36:26 ID:HZpvaq/x
あそこで攻めたら朝敵になって朝倉家滅亡だぞ
35 :
人間七七四年:2007/10/27(土) 23:09:50 ID:R8Xl6Ina
朝倉方は親類衆筆頭の景鏡じゃなくて景健が大将だったんだっけ。
36 :
人間七七四年:2007/10/28(日) 00:14:48 ID:bwfTKws3
そうです。
景鏡は直前まで近江・美濃境まで進出して焼き討ちなど
してたけど、織田方の反応がなく、兵も疲れたので帰国。
待ってましたと信長出陣で第2陣の景健が出陣しますた。
37 :
人間七七四年:2007/10/28(日) 12:23:16 ID:/aN4+EIB
湖賊は琵琶湖南岸を押さえる織田の与力と考えていいのかな?
38 :
人間七七四年:2007/11/18(日) 15:16:00 ID:nbrDYf1d
BSジャパンで姉川特集
39 :
人間七七四年:2007/11/18(日) 19:44:13 ID:Ay82bIkx
>>12 今川義元4万5千とか平気で2万は誇張する書物ですが?
40 :
人間七七四年:2007/11/18(日) 20:12:18 ID:0c/AKn/3
>>39 だから太田牛一がリアルタイムで信長のことを見ていた以前は周りの奴に話を聞いただけだから適当なんだよ
姉川あたりはしっかりしてるだろ 信憑性が非常に高い
41 :
人間七七四年:2007/11/18(日) 22:27:48 ID:cpPocPsT
>>39 首巻は結構変な記述多いが本編はそうでもない
数の誇張とかは軍記物だし多少はされてるだろうが、実話に関しては抜け漏れはほとんどない
あっても規模の小さい戦闘や特に関係ない事柄ばかりだ
42 :
人間七七四年:2007/11/18(日) 23:26:15 ID:YGiKgumj
>実話に関しては抜け漏れはほとんどない
>あっても規模の小さい戦闘や特に関係ない事柄ばかりだ
何を根拠に正しいと言える?
43 :
人間七七四年:2007/11/19(月) 09:27:17 ID:KFrKPusi
>>42 書簡等一次史料および二次史料
これを超えることを証明させようとすると悪魔の証明と同じになるのでやめとけよ
44 :
人間七七四年:2007/11/19(月) 13:41:33 ID:WAbqxZvt
※ 牛一直筆本とされる信長記は
建勲神社所蔵の15冊、池田家文庫所蔵の15冊、尊経閣文庫所蔵の1冊、織田家所蔵の1巻 ・・・計4点
写本多数 トータルで40点くらい。
牛一は信長(公)記の注文が入ると、依頼主に都合よく文章を添える。
同じ牛一直筆の信長記でありながら内容が違うらしい。
牛一直筆の池田本には他の信長記にないところに池田恒興の名が5箇所あり、
恒興が参加しないと思われる幾つもの戦に他人の名前を削ってまで名を連ねている。
信長(公)記以外の本でも「息子さん達4人のことを書き入れました」などの牛一書簡が存在する。
信長記より前に書かれた「安土日記」(後に信長記に組み込まれる)は村井貞勝の著と思われる
『天主御飾記』を元に自分の拝見記らしくみせようと加筆したらしい。
内容を誤解して柱の数を二重に入れてしまい、三重、四重(ありえない数)にも柱数を書き加えている。
石垣の高さも実状に反する。他にもありえない記載を書き加えていて、最近では使うべき史料ではないとしている。
信長記の一巻〜七巻までは大事件まで日付の誤記が生じている。
日付の照合で書簡等一次史料および二次史料と一致するとしても戦況までは確認できない。
誤記はあるものの「当代記」は客観的で比較的信用できるとされている。
信長公記は正しくて、「三河物語(傍証史料として価値はある)」「当代記」が
信用できないとする考えには如何なものか。
45 :
人間七七四年:2007/11/19(月) 13:50:44 ID:KFrKPusi
>>44 信長記は書いてる人物別
あれは二次史料
一次史料は「信長公記」
46 :
人間七七四年:2007/11/19(月) 14:04:35 ID:GuZPXePJ
>>45 牛一ものも本来は「信長記」
明治以降、甫庵の信長記と区別するために 学者が「信長公記」としたまで。
現在は甫庵ものを「甫庵信長記」牛一ものを「信長(公)記」などで区別している。
47 :
人間七七四年:2007/11/25(日) 00:46:27 ID:9rZsmhOy
48 :
人間七七四年:2007/12/05(水) 19:08:57 ID:/rL3kCZ2
牛一ノ人気ニシット
49 :
人間七七四年:2008/01/13(日) 22:51:21 ID:rGmtDiRX
50 :
人間七七四年:2008/02/16(土) 19:36:26 ID:mO1nOHjN
漫画板のセンゴクスレでこんなの見つけた
949: 2008/02/14 02:58:13 W8JRP5jdO [sage]
>>890 亀だけど、実際それやったら今でも福井は賊軍とか叩かれまくっているだろうな(苦笑)
幕末→維新での会津とかはまだ同情されてるけど
単に織田が脅威だというだけで朝廷に逆らうとかだと擁護しようがねえよなw
952: 2008/02/14 16:42:19 u9tAXT4w0 [sage]
>>949 天皇のお膝元の山城・大和の大名や国衆がさんざん朝廷に刃向かったり朝廷の荘園を
押領してたりした時代なのに何を言ってるんだw
↑センゴクスレ住人は志賀の陣で朝倉は朝廷や幕府の命令とかスルー出来ただろと意見してるようだが(苦笑)
51 :
人間七七四年: