1 :
人間七七四年:
2 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 11:41:39 ID:7PC9qsok
信長の飛躍もこの人の土台なくしては語れないだろう。
3 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 11:49:10 ID:iM6po4cQ
この人主役にした小説とかないよね
史料が少ないのかな
4 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 11:55:03 ID:7PC9qsok
>>3 ヤンマガのセンゴク外伝では大きな扱いになりそう。
桶狭間の戦いがテーマの作品なので
(今出てきて、津島城主の頃ね)
顔はまったく信長なんだが。
5 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 12:06:48 ID:7PC9qsok
今までは、守護代の家臣ながら戦国大名にのし上がったが
うつけ者の吉法師に頭を悩ましてしんだ。
ってな感じで扱われてたが
事実は、尾張一の実力者にのし上がり(建前は守護代の家臣
清洲三奉行の立場を守りながら、事実上統一したのは信長)
今川義元を打ち破り三河に勢力圏を伸ばして
信長がうつけ者になったのはこの父がいたからこそ
と思わせるほど、近年再評価が進んでおります。
6 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 12:10:21 ID:LvCeIiX2
>>5 ただ支配力はまだ弱く、死んだとたんその勢力圏の殆どは霧散したけどな。
まあ支配圏よりも信長に有能な家臣団を残した事の方が重大かと。
7 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 12:31:54 ID:7PC9qsok
>>6 でも他の織田家などが弱体化してたから、
信長はスムーズに尾張統一できたかと。
信秀の功績はやっぱり商業を重点においてた
ことかな。家臣団もそうだけど、いつ何時
すぐにでも戦いに挑める体制が整えるのも
経済のおかげだし、(いわゆる兵農分離)
その体制が尾張統一、桶狭間、元亀の争乱(信長包囲網)にまで
影響を及ぼすから、凄いよな。信玄とかでも
屯田制度とかだから即は対応できなかったわけだし。
8 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 12:39:17 ID:7PC9qsok
あと俺は津島や熱田から近いので言わせてもらうが
ここを押さえると海運業においてはかなり有力で
(熱田は港もそうだし今でも川を利用して木材関係もやってるし
津島は木曽川・長良川をつたって美濃とかへの運搬にも役立つから)
9 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 16:54:04 ID:/ZqftsuD
>>8 信長の琵琶湖水運と若狭の水運は
信秀の津島・熱田の巨大バージョン。
信長がいかに信秀の遺産を参考にしたかがよくわかる。
10 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 17:02:08 ID:LvCeIiX2
信秀は今川にも負けなかったのに、美濃の道三にはまるで歯が立たなかった。
道三も深追いして尾張に乱入するような事はしなかった。
この二人の関係もちょっと面白いな。
11 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 17:09:40 ID:/ZqftsuD
>>10 長良川・木曽川に挟まれた稲葉山城は天然の要害
ここを名将が根城にすれば繁栄し
凡将なら落城の憂き目にあう。言わば名将・愚将の査定の城みたいなもんだ。
(斎藤龍興・・・こいつは二度か、織田秀信とか)
で、道三・信長は発展させたし。
まあ信秀とは婚姻関係で同盟を結んだしな。今川が尾張を落せば
次は美濃なのは明らかで。
かなりの銭を朝廷に献上した人か。
13 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 17:54:50 ID:09uHE+GB
信秀の正室で信長の生母が、小嶋信房の息女と言う説があるらしいが、
実際どうなんだろう?
信秀の正室は、これまで土田御前と言う、土田氏の女性だと言われて来たが。
熱田との関係を強化する為に、信秀はくらの方を大橋家に嫁がせる時
小嶋信房の養女にした上で、嫁がせていることから見ても、
何らかの繋がりはあるように思うのだが。
14 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 18:04:16 ID:LvCeIiX2
>>12 毛利とか島津とか、そう言うところも当事朝廷に献金しているな。
今川氏豊を騙し那古野城を乗っ取り。
16 :
人間七七四年:2007/07/29(日) 00:25:16 ID:WuqU1It6
17 :
人間七七四年:2007/07/29(日) 00:31:47 ID:cCwQ4NUl
信秀が守護代になれるにも関わらずならず、
花をとらずに実(家臣や経済流通など)をとって
信長につないだ。
で早い段階から信長の才能を見抜いてたフシもある。
(創説かもしれないけど、”信行なんぞ尾張一国の器だ、
信長は天下をとれる”といったとかいわないとか)
まあ周囲からうつけうつけ言われてたのを嫡子に指名したわけだから、
才能は見抜いてたんだろうな
>>16 それは正論だな。
ちょっとずれるが、那古野城乗っ取りは天文元年(1532)落城説が有力であったが、
那古野城近くの天王社・若宮が兵火により消亡し、天文8年に再建されたという
社伝などから見て、その前年天文7年那古野城落城説が有力になっているそうだ。
この新説は、新井喜久夫先生が唱えられている。
20 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 01:01:39 ID:waE3gowG
信秀って信長をうつけだと思ってたの?
俺はてっきり信長を見込んでいたのかと勘違いしてた(どこで読んだか
忘れたけど少なくとも信長公記ではネガティブな印象は無かった記憶
有り)
信長公記は信長に対してネガティブな記述をしていないと思いますが・・・
>>20 どのレス見ても信秀は信長の才を見込んでたて話してるのに
なぜ「信秀って信長をうつけだと思ってたの? 」とか言い出したんだ?
23 :
20 :2007/07/29(日) 01:19:57 ID:waE3gowG
25 :
20 :2007/07/29(日) 01:25:11 ID:waE3gowG
ああスンマソ
興味あるからどんどん語ってチョ
信秀吉
信長の祖父にあたる信定も信秀同様、商業地帯の重要性を理解しているね
信長が本当の意味でうつけ扱いされるようになったのって
信秀の葬儀で、位牌に香を投げつけてからじゃないの?
それまでは、そこまでうつけとはされていなかったように思うけど。
>>28 > 位牌に香を投げつけ
これも信憑性は怪しい逸話だけどな。
ここもバカの巣窟か 消えろよ厨共
なにが信秀が信長がどうしたこうしただ
港を開いたからどうだとか、才能を見抜いたからどうだとか
偉そうにぶつぶつ言うだけがお前たちのストレス解消か?
お前ら自身はどうなんだよ 暇ならインベーダーゲームでもしてろヴォケが
ほんと惨めなやつらの巣窟にほかならないな チンカス野郎共
悔しかったらチンカスの精一杯の自己主張してみろ
↓ ↓ ↓
えー他にもいろいろストレス解消はありますが
結構これはいいストレス解消です
インベーダーゲームはあまり面白いと思いません
33 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 17:07:18 ID:I5i0QvLA
スレ終了届けは受理されました
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36 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 18:05:37 ID:Xv/eOMSh
>>19 そうなんだ。そうすると、天文3年信長那古野城で誕生。
天文4年古渡城を居城としたはずだから、
氏豊の「勝幡城は遠いから、那古野に逗留しては」というのが替わってくるね。
>>36 もともと、天文4年の古渡城移動説が否定されているよ。
信長公記首巻の記事の並びから、信長が生まれてすぐのように思われていたけど、
実際に信長に那古野城を渡して古渡に移ったのはもっと後のことだと推定されて
いる。根拠の一つを挙げると、連歌師谷宗牧が天文13年に東国遊覧したときに尾張
にも立ち寄っているのだが、谷宗牧を歓迎した信秀は那古野城を居城としていた
という記述になっており、平手政秀も那古野に屋敷を構えて信秀に仕えていたとある。
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山科言継の『言継卿記』では、天文2年7月の記載に何回か今川竹王丸の名が出てくる。
7月23日の記載には、蹴鞠会に参加した今川竹王丸は12歳とまで記されている。
「在住那古屋」とまで記されているので、この人物こそ今川氏豊と推定される。
これらの記述により那古屋城落城天文元年説は疑わしくなる。
「戦国今川氏の研究」一部参照
40 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 00:54:19 ID:B8CeoGEW
※「(正答)」→「(誤答)」
「シャーマンキング」→「グンマシャキーン」
「ともだちんこ」→「ちんこだとも」
「るくしおん」→「しるおくん」
「ブンデスリーガ」→「デスブリンガー」
「レイジングハート」→「グレートハイジン」
「おつかいありさん」→「あいさつかおりん」「かおりさんあつい」「あいつさんりおか」等
「ほしからきたもの」→「きたのほもかしら」「きものほしたから」「ほものかしらきた」等
「パックマン」→「マッパクン」
「インクリボン」→「ボクインリン」
「シャビ・アロンソ」→「シャロン・アソビ」
「スプリットタイム」→「ストリップタイム」
「エアシャカール」→「シャアカエール」
「ジャンプボール」→「ジャンボプール」
「フランチェスコリ」→「チンコフェラスリ」等
「クラウンライター」→「ウインタークララ」
「ポー・パオイン」→「オパイ・ポーン」
「シルバースラッガー」→「スッバラシーガール」
「チャカ・カーン」→「カ・カーチャン」
「フラッシュダンス」→「フランスダッシュ」
「パンチDEデート」→「デパートDEチン」「デンパDEチート」等
「ナオリタガール」→「オナリタガール」
「トラブルメイカー」→「ブルーライトメカ」「イカトラブメール」等
「プレイガール」→「レイプガール」
「あしたまにあ〜な」→「なまあしあに〜た」
「タイムボンバー」→「バーボンタイム」
「いじわるばあさん」→「あじわいばるさん」
「君がいるだけで」→「だが君でいける」「いけだ君がでる」「けがでだるい君」
「おまっとさんでした」→「おっとでましたさん」「まさとしんでおった」「とんでしまったさお」等
「リプレイス・メント」→「イメトレ・プリンス」
「リトルマン・テイト」→「マイ・リトルテント」
41 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 00:56:24 ID:B8CeoGEW
誤爆じゃ
42 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 01:43:17 ID:Yhyny49Y
是非もなし
43 :
偽朝:2007/07/30(月) 06:30:16 ID:k9vdrBfa
>>6 >>7 そうそう。
家臣に慕われるような器だったに違いないよ。
だけど信長は本当にアルコール飲めない体質だったのかな?
父親の二の舞にはなるまいと決心したような気もするんだけど。
44 :
偽朝:2007/07/30(月) 06:39:33 ID:k9vdrBfa
父親が有力者でなかったら、若い信長は
おそらく武田かどっかの小姓になってたかも。
もっともその後、寵愛されて養子になり
なんと嫡子を差し置いて後継者になるか
さもなければ下克上しただろうけど。
45 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 09:55:22 ID:gNzv3He3
その前提条件が意味無いと思うのです。
46 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 22:47:31 ID:pVzAhadr
>>39 スレ終了したのに書き込んでんじゃねえよこの宇喜多厨が!
お前そろそろ退出しないと己の低級さを自分の書き込みで証明することになんぞ。
47 :
人間七七四年:2007/07/30(月) 23:54:11 ID:mr3ufQja
>>45 お前の書きこみほうが意味がないだろヴォケ
48 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 03:40:12 ID:1XSgA2wu
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49 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 03:18:31 ID:xduqzZad
信秀はあくまでも織田氏の下級警備隊の出身
こんな組織が力持つなんてよっぽど治安が悪かったんだと思うがねぇ
50 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 07:35:38 ID:ZK6Yw38+
戦国時代は治安が悪かったなんて気付いたのお前が始めてじゃね?
51 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 01:58:40 ID:kLxWKpRB
朝廷への献金の四千貫って、2億円位になるんだっけ?
とにかく経済力は有るよな。
金じゃなくて銀だったかもしれないが。
52 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 18:56:35 ID:c9hCW23j
斎藤道三に敗れたといってるけど、大垣城は押さえてたしな
53 :
人間七七四年:2007/08/05(日) 06:00:50 ID:PO1npDgs
どうしてもスレを終わらせたい奴がいるようだな・・・
三戦板も荒らしてたし
54 :
人間七七四年:2007/08/05(日) 10:45:20 ID:i8Rk4vkd
この人の事績調べたいんだけどいい文献とかありませんか?
55 :
人間七七四年:2007/08/05(日) 10:59:16 ID:9imw34z2
>>54 ウィキかな?
難しい本なら信長公記でもいいかも?
あと手元に学研から出てる歴史群像シリーズ50の
戦国合戦大全上巻が結構詳しく書いてある。
56 :
人間七七四年:2007/08/05(日) 11:03:36 ID:n1n+ejex
詳しい文献でwiki薦めるな。
「戦国合戦大事典」の第3巻はどうだろうか。
58 :
人間七七四年:2007/08/05(日) 13:05:42 ID:i8Rk4vkd
>>55>>57 ありがとうございます
信長公記は読んでますが、wikiはさすがにちょっと・・・
色々応用できそうなので戦国合戦大全と戦国合戦大辞典探してみます
59 :
人間七七四年:2007/08/06(月) 22:07:32 ID:0XKpXuHX
wikiワロタ
一番まともで詳しいのは愛知県内の市町村史をあたることだろうな
60 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 04:51:00 ID:TPVm16Gi
信長が花(官位など)よりも実(内政や支配力)を重視したのは
明らかに父の影響でもある。(故に完全な形で尾張は統一できなかったけど、
引き継いだ信長には尾張一国以上の財産が目に見えない形であった。)
あと信秀は木曽川、長良川などの流域を利用した商業をやりたかった
から美濃が欲しがったのは間違いない。で三河はさほど
欲しいわけではなかったが、最初は松平清康がしかけ、
今川義元が(松平家の保護を理由に)尾張侵略を仕掛けたからかと。
(竹千代(徳川家康)を拉致したのも先駆けとなる三河衆の出鼻をくじくため。)
61 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 21:48:54 ID:5LWCVy0V
ヤンマガの別冊版のセンゴク外伝に信秀のことをくわしく書いている
織田信秀のことが漫画になったのは始めてじゃないかな?
(朝廷に4千貫を支払った経緯など詳しく書いてあった。
信秀は14万石の領地ながら2万石の金に相当する額を
支払ったとある)
62 :
人間七七四年:2007/08/12(日) 03:06:20 ID:vvOM0ZZx
桶狭間の真相をここで書くのもなんだが。おいらは
あの周辺の人間だからちょっと書く。
小豆坂はどこかはわからないが、東海道の安城周辺は
比較的ひらけていて大軍の進軍は容易。
で、大高城も、桶狭間の前にいた沓掛城も大軍が通るのは容易な場所。
ただ桶狭間だけは(東海道の部分だけが)谷であとは小高い丘がつらなってる。
向かい側は今中京競馬場があるところでこれも丘。
少なくともあの丘に1万以上の兵を置いとくのは不可能。
(大高城や沓掛城は可だが)
で小豆坂の戦いにおいて、第一次はおそらく1万前後、2次は
(北条との和睦が相成ったなので)1万3・4千程度。
対する信秀は5千から多くても8千(両方ともね。これに
関する資料はないが、両者の石高等を考えると)第一次は
織田の勝利。2次は2回も織田軍に押されたそうな。
(でも大軍ゆえに結果1回押し返されて今川が勝ったそうな。)
で、ここで言えるのは今川軍は実は弱かったのではないかという
憶測。事実、義元は信秀は恐れたけど、信長は間違いなく侮ってた。
ただ、信秀との戦いを見てる信長は、本陣に突入できれば
勝てると思ってたんだろうな。で桶狭間における人数は2千から3千
で周辺に1万程度の軍がいたけど、雨が降ってたせいもあり、
また今川兵も略奪を働いてたせいで正面からの奇襲に対応できずに
総崩れで、一気に今川本陣にまで達して討ち取ったと見た。
数の上で互角なら勝てると、小豆坂の戦いでのヒントを
生かしたからだと思う。
63 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 08:53:40 ID:Z79Qcgdl
信秀の正室は、一体誰なの?
ずっと土田御前だと思っていたんだけど、
そうではないと書かれているのを見て、
疑問に思っている。
64 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 16:14:42 ID:iDsL3TKQ
>>63 まあ信長の母が正室であるとしか思えない。
信広が凡人、信長が天才というだけで信秀が嫡子を選んだわけじゃなさそうだし。
信秀が古渡城を築く際に、那古野を信長に譲ったのは家督は
信長のモノとアピールするためだし、その時の年齢は2歳。
とても信長の才能があったか見抜けるとは思えないので
正室の長男とみてよさそう。あと信行(信勝なのか近年では)
を家臣団が御輿を担いだのも同父母ということだし、信広には
まったくお声がかからない。あと信行が素晴らしい才を持ってたと
言われてるけど、とてもそうは思えない。信秀は、見向きすら
しなかったし、二度目の謀反で殺されてるのもそうだけど、
二度目のときは誰も御輿を担いでくれなかったことを考えれば。
彼らが御輿を担いだ理由は、信秀の遺産や尾張の基盤が
取れる言わば下克上を見越しての風にも見えなくもない。
(つまりは信行なら簒奪できなくもないと見越して)
二度目の時に誰も味方についてないことを考えると
(信長の性格を考えたら、多少なりとも信行に才があるなら
誰かがついてもおかしくはない。)頭がいい弟とは思えない。
65 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 21:09:27 ID:45kJXx3K
>>64 信長の那古野委譲が幼少期説はほぼ否定されてますよ。
ではいつごろかというと確証はないのだが、おそらく元服を期に譲られた
と推測されています。
66 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 23:21:37 ID:YBZQDjIn
>>64 質問の意味を取り違えられてしまったかな?
信秀正室で信長生母といわれてきた土田御前は
土田家の女性じゃなく、他の家の女性とされる史料が
複数あるというのを読んだので、実際のところどうなのかと思って。
土田家の女性だと確定したと言われだしたのも、
調べてみたら、あの武功夜話以降だとわかったし。
67 :
人間七七四年:2007/08/15(水) 02:00:02 ID:6+vE24Kl
津島大橋記とかだと小嶋氏の娘が信秀正室になってるみたいだな。
68 :
人間七七四年:2007/08/21(火) 08:20:16 ID:6YofpmJl
69 :
人間七七四年:2007/08/21(火) 11:59:37 ID:rUe1Aj1M
>>67 その小嶋氏の娘が嫁ぐ前に織田伊勢守の娘が信秀に嫁いでいる。
天文1年に織田伊勢守の娘とは離縁して(名古屋史)、その後継室になったのが
小嶋信房の娘と書かれている。(津嶋大橋記や高須旧記)
言継卿記にもそれを裏付ける記述がある。
信秀の正室は織田系図に織田伊勢守の娘とあるそうですが、
この方は多くの書物から抹消されてますよね。
データが殆んどないからなのでしょうが、先人達・諸先生方が触れないのは、
何か理由があるのでしょうかね。
70 :
人間七七四年:2007/08/27(月) 13:14:50 ID:R+AA5PRc
この人とかの話を読むといかに大名と家臣の区別が微妙なものだったかってのがよく判る。
信長の初期でもこの曖昧さってのはずいぶん残ってたんだろうな。
71 :
人間七七四年:2007/08/27(月) 16:59:12 ID:ttvFUUN8
信秀の正室が土田氏といわれ始めたのは、武功夜話以降なのか。
武功のせいで史実がゆがめられてしまったわけだな。
大体当時の文献で、信秀正室が土田氏と書かれた資料はないしね。
信長生母が小嶋信房の娘と書かれているのは、津島大橋記や高須旧記、干城録
あたり。しかも美濃国諸旧記には、信長生母は佐々木六角高頼息女となっている。
いずれにしても、土田氏とは別人の名前がこれだけ挙がっていると、土田氏が
信秀正室で信長生母というのは、見直されることになるな。
もしかしたら、土田氏は正室でなく信秀の側室としてあがっていた可能性もあるのでは。
生駒は、実際は側室なのに信長正室と捏造している位なのだから、信秀正室の件も捏造していた
可能性はあると思う。
72 :
人間七七四年:2007/08/28(火) 11:42:55 ID:LVfM7GQs
素朴な疑問なんだがこの時代って正室と側室の区別って厳密なの?
実家が栄えれば正室っぽくなってとかじゃなくて決まってるもんなの?
馬鹿な疑問で申し訳無いんだけど。
73 :
人間七七四年:2007/08/28(火) 12:21:57 ID:uqhwZbS1
家格の問題とかでそこそこ厳密なんでないかい?
同時代では少なくとも天皇は厳密に決められてるはず
74 :
人間七七四年:2007/08/28(火) 14:34:17 ID:S/KfTO40
厳密だと思う。
最初から正室として、側室としてというそれぞれの前提で嫁いでくる。
最初に嫁いだから正室ではない。
側室として嫁いできた女性が先にいて、あとから正室を娶ることもある。
他に公式に嫁いでいない愛妾もいれば伽係もいる。
もっとも、家格や経済状況によって人数も変わってくるよ。
養っていくだけの経済力がなけりゃ、正室一人だけってことも多々ある。
また、側室は正室の仮腹という前提があるから、正室を娶る前に側室が生んだ子供は、
正室の仮腹からの生まれではないから一段低く見られたりもする。
75 :
人間七七四年:2007/08/28(火) 16:28:29 ID:zZVYosFz
確かに厳密だよね。
家康にしても、正室の築山殿が他界して以降でも秀吉の妹の旭姫が正室と
して嫁ぐまでは正室不在だったし。
旭姫が他界してからも特に正室を迎えてはいない。
徳川幕府を継いだ秀忠の生母でさえ
正室に格上げなどされていないし、嫡男生母の側室のまま。
大名家も家の格とか当時の経済状況に等によって正室として嫁いで来る
相手は決まると思うね。
76 :
人間七七四年:2007/08/28(火) 21:18:15 ID:57wN8pPH
側室は側に召し出される経緯は人それぞれだけど、
当主ではなく、正室に属するもの、という認識だな。
正室の側に仕え正室のために子宮の代役をする、というのが本来の仕事。
武家では側室腹の子供は実母を呼び捨てに育ち、実母も実子の前でかしづいていた
というのが普通だ。実母は自分の家臣でしかないし、側室の母は子供よりも
家での身分は低いから。
子供がそれなりの出世をして、城からでるなりしたあとに実母を身近に呼び寄せ、
孝行して敬うようになることはあっても、正室のいる居城では側室の母を敬い
母親扱いすることは許されなかったらしい。腹は違えど母は正室だけだからだそうだ。
もっともある程度の年になるまで自分の生母が誰かということすら
教えてもらえないことも珍しくなかったようだが。
正室と側室の境界線が厳格であったというよりも、主従関係が男女関係なく
かなり厳格であったという認識の方が正しいかも。
77 :
人間七七四年:2007/08/28(火) 23:47:44 ID:SJ39fWz/
なんか、今で言う代理母出産に似てるね。
78 :
人間七七四年:2007/09/23(日) 07:32:57 ID:d2dIsaQ+
信長のおかんと信長が不仲なのもなんか関係あるのかな?
79 :
人間七七四年:2007/09/24(月) 01:07:15 ID:MuBC+wgE
>>78 母親が次男ばかり可愛がれば、長男だって反発するだろう。
80 :
人間七七四年:2007/09/24(月) 06:08:31 ID:ia4cXrTk
逆じゃね?
兄貴が傾いたことばっかしてたから聞き分けのいい弟に愛情が偏ったんだろ
つーか信長と母親が不仲だったって創作じゃないの?
81 :
人間七七四年:2007/09/24(月) 14:20:57 ID:RwbmfwWE
>>80 創作だろう。
次男は部屋住みだから、ずっと両親と一緒にいた。
長男は跡継ぎだから城をもらっていた。
親父が死んだので、結果的に次男と母親が一緒に住む状態になっていた。
そこを美作なんかに利用された感じがあるな。
信勝が粛正されたきっかけは柴田の内通だが、
母親も容認していたという説もある。
もし本当に生母が小嶋信房の娘なら、
信長は美濃支配後、生母の実家側に寝泊まりする屋敷を持っていた事になる。
小嶋信房は美濃薮田の出、信長は薮田に屋敷を構えていたとされる史料がある。
生母と昵懇だったかどうかは分からないが、疎遠ではなかったんだろう。
82 :
人間七七四年:2007/09/24(月) 16:37:48 ID:hPj3Hye5
>>81 美濃征服時には、信行はとっくに死んでるから、母親も信長との仲を修復せざるを得ない。
83 :
人間七七四年:2007/09/25(火) 06:05:33 ID:zvQNFLbr
信長があまりに有名だが
お市の方と有楽斎の父でもあるはずだよね?
でもお市に関しては最近信長の兄妹ではないという説が強いんだが。
84 :
人間七七四年:2007/09/25(火) 21:21:31 ID:eyytg0mq
>>81 >次男は部屋住みだから、ずっと両親と一緒にいた。
信秀の弟はみな城をもらってるんだから、信行だって元服の年になれば、城もらって独立するのが自然だったんじゃないの?
そうならなかったのは、特別母親との関係が濃かったからだと想像できる。
85 :
人間七七四年:2007/09/27(木) 03:04:46 ID:ppzTSM4W
息子・信長には負けますが、この方も子だくさんですな。
86 :
人間七七四年:2007/10/21(日) 23:52:27 ID:0HZb6x7j
源義朝といい勝負だな
知名度とか業績が
87 :
たられば君:2007/10/22(月) 00:52:05 ID:Z8yMTG6v
尾張は子沢山のお土地柄?
88 :
人間七七四年:2007/11/08(木) 21:13:30 ID:B9KPLf/N
加納口の戦いはいつ?
天文13年というのと、天文16年土岐頼芸を戻す為というのを見たんだけど。
89 :
人間七七四年:2007/11/10(土) 10:19:11 ID:nztJiJ7n
90 :
人間七七四年:2007/11/10(土) 13:09:27 ID:J8AzQN8o
信勝が末森城を与えられたのは、公記によれば信秀死後のこと。ちなみに信勝の
年齢は(信秀死亡時が諸説あるので断定はできないが、天文二十年説に従えば)15歳。
別段不思議に思ったりする年齢でもないわな。推測になるが、信勝が元服する頃
には信秀が病気になっていてそのままの状態が続き、死後の遺産整理の一環として
信勝に末森が与えられたのではなかろうか。いちいち母親との関係を特別視する
必要もない。
91 :
人間七七四年:2007/11/10(土) 21:33:14 ID:a5fhIKgP
大軍で稲葉山城を攻めたのに、返り討ちの大敗喫した時点でダメダメだろ。
その後も今川におされ気味だったし。
どうでもいいが信秀を表すなら備後か三河のほうがメジャーじゃねえのか?
93 :
人間七七四年:2008/01/31(木) 12:56:26 ID:wD3sjtSk
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94 :
人間七七四年:2008/02/03(日) 13:23:43 ID:E4YYH2oA
何であんなに勤皇家だったのかが分からない。
95 :
人間七七四年:2008/03/17(月) 15:03:28 ID:/7vkqP+V
96 :
人間七七四年:2008/03/18(火) 17:14:26 ID:6JYNA9/L
97 :
人間七七四年: