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人間七七四年:
三成&増田宛て天正17年10月2日付け書状に天正17年正月に隠居したと書いてるが
7/17の摺上原の敗北より前に隠居したとアピってるだけだろうな。
なんせ藩翰譜には天正18年隠居とされてるから。
それに義重は盛隆死後の天正14年になっても佐竹の外交政策を執り行っており
天正14年11月亀王丸死去後になっても葦名への義広の養子入れに力を入れていて
石河彦三郎(昭光の後継者か?)に書状を出したり白河義親などと交渉し
天正15年3月に義広は黒川城へ入るのに成功してる。
これは義重の力によるところが大きい。