101 :
人間七七四年:
何年か前にうちの親戚(先祖が三村氏の家臣だったらしい)が、「三村氏本家のかたがいらした」とかって集まりがあって出かけていったんだけど、
本家のかたがたは神奈川から来たそうだ。
どういう流れで神奈川にうつりすんだんだろう。
102 :
人間七七四年:2007/07/26(木) 21:09:10 ID:jDCaS6UK
>>101 常陸とか信濃なら分かるが、神奈川とは不思議だな。
本家とは信濃三村氏の事なのだろうか。
>>102 たかが上げ方ぐらいで、何怒ってるんだ…
104 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 00:55:13 ID:uLc3aYYl
>>97 地元が浮田なので贔屓めもあるが・・・
備前軍記の美少年戦略のほうがおもしろいので
こっちの説の方が好きだ
三村氏が須々木氏とか金光氏を超えて東岡山まで
来たとは考え難いし・・・
105 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 06:25:55 ID:2/6wbZow
>>104 三村氏がこの時期に須々木氏と金光氏を降参させているのは備前軍記にも書かれている。
両者の降参が元常の死の前か後かまでは分からないけど
中国兵乱記では永禄四年の段階で船山城の須々木氏は備中勢とされている。
>>95 三村家親の書状についてあれこれ調べてたら、こんな記述を見つけた。
「ここに登場する人物のうち、家親は三村家親、薬師寺殿は弥五郎、与七郎は禰屋七郎兵衛久秀の嫡子
である。
また、土屋四郎左衛門の名も見える。また、本来浦上方だった岡權右衞門(将監)らが備中方についた
という内容もあり、『中国兵乱記』に「沢田城守岡将監・中村次郎太夫・寺尾久五も龍口で相随し、近
城へ相働候節者、先陣を承る」と記されていることと符合している。これらのことから、この資料は『
中国兵乱記』のいう龍ノ口城合戦の直前の永禄七年五月上旬に起こった小競り合いを伝えているのでは
ないかと推定される。」
「備前児島と常山城」参照。
107 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 00:59:25 ID:uL2vghJ9
age
108 :
人間七七四年:2007/07/31(火) 00:51:57 ID:trRtBIGF
何だか話が細かくなってきたな…
確かに話題がマイナーすぎるのがつらいところだ…
なので、話題作りも兼ね三村氏に関する質問・疑問あれば歓迎します。
分かる限り答える。
110 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 11:39:28 ID:rhvKROQu
三村氏についてほとんど知りません。
その興亡についての略歴みたいなのを教えてください。
111 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 13:43:57 ID:ITTxSEz4
三村氏は備中の戦国大名である。
鎌倉幕府の御家人から発し、1575年に滅亡してしまった。
〜完〜
112 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 18:37:26 ID:7Xh4WPbj
113 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 18:45:22 ID:I+j36rH9
>>110 備中の成羽城主三村紀伊守家親
・毛利元就の麾下で対尼子要員として働く
【毛利・三村vs尼子・松田vs浦上・宇喜多】
・尼子が衰え松田が宇喜多と和睦
【毛利・三村vs松田・浦上・宇喜多】
?年 備前侵入 金光・須々木らを降参させる
1565年 三村美作侵入
1566年 三村美作再侵入
1566年2月 宇喜多刺客を送り鉄砲で家親を暗殺
1566年4月 弔い合戦 70人vs3000人 宇喜多勝利だが被害も大きい
・宇喜多氏増長
→浦上宗景は、宇喜多誅罰の為、毛利輝元へ援兵の使者
→三村家、「宇喜多は敵」から毛利家へ御加勢の使者
→宇喜多、上記の動きより浦上・三村を捨てて宇喜多につく様に
小早川に使者
・毛利家は、評議の結果宇喜多氏と組むことを判断
114 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 19:16:50 ID:I+j36rH9
家親の次男修理亮元親、三男孫二郎実親、
家親の弟三村宮内少輔
金光・須々木・中島と三村勢は、磐石の態勢
1566年秋 宇喜多氏 三村勢に対抗する為、沢田村明禅寺山に城を築く
1567年春 三村勢 宇喜多を破り 明禅寺城を奪取
宇喜多 金光・須々木・中島へ賄賂を贈り内通させる
宇喜多 明禅寺城の根矢・薬師寺へ降伏勧告
根矢・薬師寺 三村へ援軍依頼
三村修理亮元親ら1万余騎の大軍で出撃
宇喜多も5千余の軍で出撃
宇喜多 備前の地の利を生かし三村をフルボッコ
→明禅寺崩れ
金光・須々木・中島らは、宇喜多方へ降参
115 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 19:26:51 ID:r+pDfkaF
岡山の名刹西大寺周辺は誰が治めてたの?
116 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 19:45:44 ID:I+j36rH9
>>115 宇喜多氏と思う。
宇喜多の前と云うことであれば、
浦上、松田の勢力と思う。
117 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 20:00:03 ID:I+j36rH9
三村元親 阿波の三好氏と同盟
宇喜多 毛利との友好UP
毛利 三村を追討
【三村・(三好)vs毛利・宇喜多】
1567年5月〜8月 宇喜多 備中国の諸城を奪取
(撫川城、庭瀬城、猿掛城・斉田城など)
1566年 宇喜多・尼子密約
1568年 浦上 宇喜多・尼子の密約を手土産に毛利と和睦を図る
1569年 毛利勢 宇喜多方の諸城(備中斉田城)を攻める
三村、宇喜多打倒の為、毛利の先手に加わる
【毛利・三村・浦上vs宇喜多・(尼子)】
宇喜多 備中斉田城の救援に成功
三村修理亮元親討ち死に
118 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 20:21:49 ID:I+j36rH9
>>117 訂正
×三村修理亮元親討ち死に
○三村実親 討ち死に
119 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 21:03:56 ID:I+j36rH9
1574年 将軍足利義昭 織田に破れ西国に落ち再起を図る
→毛利・宇喜多 和睦
→宇喜多 織田・尼子と絶縁
・宇喜多 小早川隆景へ「三村は三好と結んでいるので注意」
1574年11月 三村の家老 三村親成が備中を退去
小早川隆景へ「主君は、三好に加勢を乞い、毛利を討つ計画です」
1574年12月 小早川隆景 三村討伐へ 出陣。宇喜多も呼応
【小早川・宇喜多vs三村】
1575年1月 持ち城を次々陥落させる。三村氏備中松山城のみとなる
1575年4月 間者を使い松山城も落城させる
三村修理亮元親 松連寺で切腹
勝法師(元親の子)と石川久式は、四国へ落ちようとするが、
捕まり、勝法師は、宝福寺で首をはねられ、三村氏は終る
うまくまとめてくれてる。
>>113 弔い合戦はあの有名な三村五郎兵衛か。
121 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 23:31:53 ID:I+j36rH9
122 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 02:48:49 ID:lEobeUjg
123 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 18:49:41 ID:gtednyRw
>>110 ググれカス
・・・も覚悟してました
激しく亀ですが110です
>>113-122 とても分かり易いです、ありがとうございます
郷土ゆかりと最近興味を持ちまして
調べもしないくせに、絶交の機とばかりに書き込みました
紹介いただいたサイトもおもしろかったです
この辺りの当時の有力者は関東から来たの御家人が多いんですね
なんか意外でした
124 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 19:23:36 ID:lEobeUjg
>>123 備前軍記を元に書いているので多少宇喜多よりです。
wikiなどで備中兵乱や三村家を調べると三好でなく
織田の誘いにより、毛利を裏切る状態なったみたいです。
>>124 そのあたりの三村氏については、備中兵乱記とか中国兵乱記に詳しく書かれている。
それによると三村親成は、毛利氏を裏切るという事ではなく、信長の残虐性を指摘し
主君元親を諌めた…とある。
126 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 20:28:12 ID:gtednyRw
>>124,
>>125 三村氏ってマイナーだけどいいですね。
滅びっぷりも、雪辱への一途な感じも泣けます。
謀略家宇喜多直家の見事な仇っぷり、
毛利はじめ群雄との複雑な外交状況、
結局周りも見ずに滅亡へと突っ走る子供っぽさ、
いい物語になりますね
備中兵乱記読んでみます
128 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 20:54:04 ID:AOKQSgnG
突っ込み禁止↓
129 :
人間七七四年:2007/08/03(金) 12:31:34 ID:ZybUuuNn
もうちょっと簡単に直してみた
備中成羽城主 三村紀伊守家親
・備中国をほぼ治め、美作・備前侵攻をはじめる
・1566年 宇喜多の刺客により鉄砲で暗殺される【三村家親 死亡】
備中松山城主 三村修理亮元親
・1567年 三村vs宇喜多 明善寺合戦 【三村 大敗】
・1574年 仇敵の宇喜多が毛利と和睦、三村は、毛利から織田へ
→三村の家老 三村親成が備中を退去
→毛利(小早川隆景)が三村討伐をはじめ、備中の諸城を攻め落とす(備中兵乱)
・1575年 備中松山城落城【三村元親 死亡】
130 :
人間七七四年:2007/08/03(金) 13:34:44 ID:hKTUfZ8y
じゃ俺がもう少し手直しするとだな、
1566年 三村家親射殺される
1575年 滅亡
三村氏の謎はいくつかあるが、家親長男の庄元祐死去年についても異説がいろいろある。
・明善寺合戦の際、能勢修理に徳与寺近辺で打たれる。[備前軍記]
・明善寺合戦で破れ、敗走するも備中にて討ち死に。[陰徳太平記][備中兵乱記]
・元亀元年(1570)宇喜多勢との戦いで佐井田城にて討ち死に。[大江系譜]
・天正三年(1575)備中兵乱の際、佐井田城に篭もるも宇喜多直家に討たれる。[三村家系図]
従来は上の2つ(明善寺合戦の際討ち死に)が通説とされているが、近年否定説も出ている。
元亀二年一月二十八日付の毛利元就・小早川隆景書簡には、備前児島に元祐を
渡海させるよう命令が書かれているから、やはり備中兵乱の際討ち死にとするのが
正しいと思われる。
しかしそうなると、「備中兵乱記」などに見える、この時松山城に篭っていたと
される三村兵部之丞は一体どうなるのだろうか。
元祐について書きたいことはまだあるが、長文になったのでここらでやめるが…
毛利元就・小早川隆景書簡は、『県史編年』に収められている。
>>131 ×松山城に篭っていたとされる三村兵部之丞
○佐井田城から落ちのび松山城に篭ったとされる三村兵部之丞
間違いがあった、すみません…
133 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 04:49:28 ID:nggFyefk
いやはや勉強になるスレだ。
ざっと見てみたけど三村氏には謎が多いんだな。
住人の皆さん頑張れ。
134 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 11:10:44 ID:u56z8jpf
>>131 ちなみに庄「元資」が正しいそうな
三村家から養子に入った際に元祐→元資と
「資」は庄氏の通し字
庄実近の養子になっているからな。軍記物とかだと元祐のままなんだが。
庄元資でもいいんだが、少し前に庄氏に同姓同名がいるから紛らわしい。
136 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 15:18:24 ID:u56z8jpf
137 :
人間七七四年:2007/08/04(土) 20:08:09 ID:u56z8jpf
138 :
人間七七四年:2007/08/05(日) 00:56:28 ID:kHNV+VyP
>>137 ホントだ・・・備前軍記の中に同名があって紛らわしいww
斉田城救援のこと・・・上田実親討ち死に
備中兵乱の鬼身城攻略・・・上田入道が、養子の孫二郎実親を切腹させる
139 :
人間七七四年:2007/08/05(日) 01:49:32 ID:6lKdKGIu
141 :
人間七七四年:2007/08/05(日) 16:59:57 ID:HN1KdPc6
三村とか言うから、「〜かよっ」とかのレスが飛び交ってるかと
思って覗いてみたが
意外とまじめなスレでがっがりした
142 :
(?_?):2007/08/05(日) 20:12:26 ID:lnh5ss2B
「宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c」さんはなんでそこまで三村氏に詳しいの?
宇喜多家信者なら宇喜多万歳・備前万歳・岡山市万歳(≒アンチ三村・アンチ備中・アンチ倉敷市)で、
三村家についてはとってもイイ加減な知識しかないってのが相場だが…
143 :
人間七七四年:2007/08/06(月) 00:59:11 ID:KDTbHnRy
Y Y
(・∀・) <こらえてつかぁさい
>>142 別にそこまで詳しくはないんだがな…
まずは「備中兵乱記」読んでそれからかな。
三村一族の生き様に感動して、資料を少しずつ調べてみるようになった。
きっかけは、小学生のとき授業で三村氏について調べさせられたことだろうか。
今は
>>131にも書いたように庄元祐についてあれこれ考えてる。
しかし、資料が少ないのがなあ…。スレ違いすまん。
145 :
人間七七四年:2007/08/06(月) 07:23:35 ID:u/V/lnVD
>>145 スレ違いなので答えるのもあれなんだが、9歳ぐらいまでは笠岡。
その後は県内のあちこち、決まったところにずっといたことがあまりない。
高梁には2ヶ月いた事もあるが、今は旧備前国内在住。
三村氏とは直接関係ないかも知れんが、「北房町史」見たら庄氏について、
まあまあ詳しく説明されてた。
岡山県内在住なら、図書館に行けばあるだろう。
148 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 08:16:46 ID:h951aluF
>>147 備後・備中のほぼ境目在住。真備(現倉敷市)、矢掛図書館はよく行きます。
今度探してみます。
149 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 03:27:33 ID:KIhNmnfH
最近三村スレおとなしいな
150 :
一応評価職人?:2007/08/11(土) 03:49:36 ID:6nDnm3aR
上がってたので質問です。
ウィキ見ると三村家親は三好氏の娘を妻としていたらしいんですが、
この娘は三好氏の中の誰の娘になるんでしょうか?
三好氏系図を作成しようとして思い当たりました
151 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 09:39:30 ID:sO/co11K
>>150 倉敷市史にある系図では三好長輝と家親が結ばれており、
これから家親の妻は三好系図の三好之長(長輝)の娘二人のうち一方と推測している本もある。
152 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 15:37:57 ID:YrFUfUWz
長慶と家親がほぼ同世代なのに、曾祖父之長の娘と家親で年齢的に釣り合いがとれたのか?
男がずっと年上の例は珍しくないけど女が年上ってあんま聞かないな。
153 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 17:55:09 ID:sO/co11K
之長五十代晩年のときの娘とすれば一応は同年代になる。三好元長より10年以上遅い生まれで不自然になってしまうけど。
ちなみに1575年の元親自刃時に老母は存命らしい。
家親が生まれた永正から天文初めにかけては、三村を含む備中国人の一部が大内氏の上洛に従ったり、
将軍側近の上野氏二階堂氏伊勢氏が下向してきたり、備中守護が阿波細川氏と備中伊予細川氏(細川高国の実家)
の間をいったりきたりと、備中は中央の抗争に完全に巻き込まれている模様。
家親の娘鶴姫が1536年頃生まれ(備前軍記等では1543年頃生)で婚姻はこの数年前か。
もし1530年頃だとすると備中の高国派(と高国を援助した尼子)に対抗する意味合いもあったかも。
鶴姫について『常山軍記』とか『備中兵乱記』には、33歳で自害とあるんだが、
般若院文書では天文23年(1554)に19歳と書かれている事から逆算して、生年は
>>153さんも書かれているように、天文5年(1536)生まれと推定される。
これを考えると、天正3年(1575)常山落城の際鶴姫は40歳。
元親の母は三好氏であり、鶴姫は同母の子とされている。
先に書いた天正3年(1575)鶴姫40歳で自害から、この時母は60歳代であったと思われる。
鶴姫を、三好氏系図に嫁ぎ先が記されていない三好之長の2女のうちの1人とすると、
三好之長(長輝)死去は永正17年(1520)だから、1575−60=1515+1=1516年前後の生まれと
推定される。
60歳仮定で考えるとこうなるが、実際はもっと歳だった可能性もあるし、まあ
許容範囲内かと思います。
このあたりは、「備前児島と常山城」に詳しく書かれている。
155 :
人間七七四年:2007/08/12(日) 19:48:45 ID:Dvq2mEKT
>>150で質問したものです。
長輝の娘に推定されるのですか。
皆さん詳しい説明ありがとうございます。
勉強になりました
156 :
人間七七四年:2007/08/13(月) 22:17:47 ID:vz7S0VDV
石川氏について書くと清和源氏で備中守護代、
備中の在国守護代と言えば、石川氏と庄氏か。
158 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 14:06:41 ID:h1TA7evI
このThreads勉強にナル!!!!!!!!!!
>>157 いちおう備中上野氏(備前常山城主上野高徳もこの系統とされる)も備中守護代
159 :
遠藤兄弟:2007/08/15(水) 04:54:31 ID:V9LQuNSq
家親を消しにきますた
スチャ ●
∧、 ● ∧))∧
/⌒ヽ\ ∧))∧ (´<_` ) 何か揉めそうだが俺達は依頼通り動くだけ
|( ● )| i\( ´_ゝ`) / ⌒i
\_ノ ^i |ハ \ | |
|_|,-''iつl/ / ̄ ̄ ̄ ̄/ |
[__|_|/〉 ._/ 地図 / .| .|____
[ニニ〉\/____/ (u ⊃
└―'
ネタ投下兼ねて、応永14年以降空白の70年後、再び活動を始めた戦国時代の
三村氏についての資料を出してみる。
「将軍義晴御時代上野一助満元書状写」(三村文書)
今度御覚悟対御国御忠節無比類候、然間井原井森より下可有御知行候、兎
角儀申方々共為我等可致其調候并那須跡式事、御知行候而人躰可有御仕立
候是又上意相調可申候間可御心安候 恐々謹言
上野一助
天文元十月十六日 満 元 判
三村左衛門大輔殿
『陰徳太平記』巻2の「義稙卿防州御帰洛に付き将軍再任の事」に、
永正4年(1507)当時の備中国人として庄氏、石川氏と共に三村備中守宗親の名が
見えるが、それ以降また25年程の空白のあと、天文元年(1532)に再び三村の名が表れる資料。
上の資料には、三村左衛門大輔が上野一助満元と同盟を結び、井原の井森?辺りまでを
領地にしたことが見える(那須氏の領地も受け継いだのか)。
しかし、三村左衛門大輔って三村一族の誰に当たるのかなあ…
当時の当主なら宗親なんだろうが。
161 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 21:00:27 ID:QBomZGna
那須氏とかマイナーすぎるだろ・・・
しかし宗親?についての書状は貴重だな
162 :
人間七七四年:2007/08/18(土) 00:03:31 ID:QksxxKE0
那須氏って中新井(中新)に改名したんじゃなかったの?あれは庶流だっけ?
>>162 一応、政高が足利尊氏により改姓はしているが、
>>160の文書などにも見られる通り、
それ以後も備中荏原庄を領し、那須姓をそのまま名乗っていたようです。
中新井(中新)姓を名乗ったのは庶流じゃないかなあ…
良く分からないので、今度調べてみます。
ちなみに、那須朝資が荏原三郎を名乗ってることから、政高はこの系統と思われる。
164 :
人間七七四年:2007/08/22(水) 18:36:19 ID:qeiSBUSY
ほんと勉強になるスレだこと
165 :
人間七七四年:2007/08/24(金) 00:31:15 ID:rWGnUPZ0
>>163 那須氏についてだが、与一の墓が備中にあるんだっけ?
下向したってこと?
下向はいいけど地縁に疑問がなくはないかと。
>>165 >>166 岡山県井原市には那須与一のものと伝わる墓があります。
那須氏系図などによると、文治3年(1187)源頼朝から恩賞として全国五ヶ庄を賜り、
備中荏原庄(井原)に下向したとされている。
ただ、与一が備中に下向したという他の記録は無く、伝わる墓は怪しいかもしれない…
しかし、このすぐ後に、与一に変わって弟の那須小太郎(宗晴)が下向しており、
代々那須氏の居城となる小菅城を築いたことは文献に見える。
また、1387年に那須資道、資英父子が荏原荘才児に曹洞宗能登総持寺の実峰良秀を招いて
永祥寺(与一が扇の的を射た際に破り捨てたといわれる片袖がある)を開山したとされており、
この資道、資英が、戦国期の備中那須氏の祖先にあたるとされています。
戦国時代の動向については、天文元年(1532)あたりまで那須氏が荏原荘を
支配しており、近隣の三村氏とは何度か争った事が『三村穣家』などに見え、
『陰徳太平記』にも、那須氏の名が見えたと記憶しています。
現在分かってる範囲で簡単に表すとこうなる。長文すまん。
与一宗隆=小太郎宗晴…朝資…宗次…資道―資英……(戦国備中那須氏)
与一弟 荏原三郎
168 :
人間七七四年:2007/08/24(金) 05:59:36 ID:s1Pnc3oF
>>167 与一が備中に下向したとの説は確かに疑問ですね。
ちなみに井原には今でも那須姓の方が結構いらっしゃいます。
169 :
人間七七四年:2007/08/24(金) 19:47:59 ID:ppjL1sB6
井原から高梁にかけて多いね。
170 :
人間七七四年:2007/08/25(土) 10:07:49 ID:D9+qWK+Y
三村家に話を戻す
子孫は結局どうなったのだろうか?
本では分からない子孫もいると思うが…
171 :
人間七七四年:2007/08/25(土) 10:53:19 ID:dGVdTboM
阿西入道とかが、讃岐の由佐左京に落ち延びたとされてるね。
親類だし三好氏を頼った一族もいたかも。
172 :
人間七七四年:2007/08/26(日) 12:09:13 ID:meXz0NGj
>>167 戦国備中那須氏とあるけど、少しは活躍してたのかい?
全くの無名な気がするんだが…
173 :
土民@備後:2007/08/26(日) 12:30:10 ID:FFo6TzzE
さっき国吉城址行ってきたんだが例によって誰もいなかったw
174 :
人間七七四年:2007/08/26(日) 12:47:04 ID:meXz0NGj
175 :
土民@備後:2007/08/26(日) 13:25:04 ID:FFo6TzzE
>>174 そうです。
ちなみに備中松山、鶴首、国吉界隈によく出没しております。
176 :
人間七七四年:2007/08/27(月) 13:46:37 ID:ooQ6Pbnm
高梁市に存命していそうな三村サンって子孫じゃないの?
歴史疎いんでただの思いつきだけど。
177 :
人間七七四年:2007/08/28(火) 02:34:45 ID:gpl65bPs
同級生に三村・須々木・金光がいて
何か因果を感じたが、ただの偶然かも・・・
村山忠重先生が『写録宝夢巣』により調査されたところによると、
岡山県内に三村さんは約3900人か。
須々木姓は、『太平記』に備前の北朝方の武将として、松田氏の家臣第一に
須々木高行の名が記されている。
戦国期『備前軍記』『中国兵乱記』などに名が見える舟山城主須々木豊前は
末裔になるのだろう。
現在でも岡山市には100軒近い須々木姓の方がおられるから、
子孫という方もいるでしょうね。スレ違いですまん。
179 :
人間七七四年:2007/08/28(火) 20:02:53 ID:7v/+5/fo
>>178 三村氏配下の須々木氏は中国兵乱記によると、
たしか龍口城攻めで動員されてますね。
須々木豊前は明禅寺で宇喜多に内応した張本人か。
180 :
人間七七四年:2007/08/28(火) 21:44:21 ID:a0ynAs2R
>舟山城主須々木豊前
あの辺り須々木さんいるけど子孫じゃないのかなぁ
181 :
人間七七四年:2007/08/29(水) 22:00:00 ID:Tmbw4TLG
>>178 三村さんって岡山県に3900人もいるの?
漏れもその一人なんだが…。
倉敷じゃ見村さんの方がメジャーなんで寂しい。。
182 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 16:45:08 ID:vexBxmtA
三村家臣時代の清水宗治について知っている人教えて下さい。
どのくらいの立場だったのでしょうか。
183 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 17:54:13 ID:zhEl1OzY
>>182 清水宗治(長左衛門)が記録上確認できるのは天正の備中兵乱の頃に小早川隆景が高松城主の宗治に
送った書状が最初で、それ以前石川家臣時代の清水家は
父宗則(備後守)と兄宗知(六郎兵衛・備後守?・月清入道)が中心に活動しているらしい。
備後守は明禅寺合戦、経山合戦、虎倉合戦などに参加。
経山城では備後守は千百余人を率いて城を攻める雲州勢の背後を総社からついたりしている。
この戦いは石川を含む備中勢の多くが毛利の遠征に従っていた時で、
清水家は留守を任されていたのかあるいは誰か一族が遠征に加わっていたのかは知らない。
備中兵乱が起こると宗治は石川家を裏切り兵乱後も毛利家から高松城主として認められ、兄宗知は出家した。
以上主に『清水宗治の戦略』から。
宗知(月清入道)がなぜ出家したのかについては詳細は不明だが、
183さんも挙げられてる同書を参考にすると、
「性格が弦のように強情」(陰徳太平記)であったためとされている。
さすがにこれは信じにくいので多田士喜夫先生は、
備中兵乱の際、三村方の主君石川氏を裏切り毛利家に翻った幸山城主友野石見が抜けた後の
城の守備兵に、当時は石川家臣であったはずの月清入道の名が見えないことなどから、
月清入道もこの時主家を裏切り毛利方へ翻ったのではないか、
そのため、戦後月清入道は滅亡した主家への弔意のため出家し、
家督を弟宗治に譲ったのではないかと推定されている。
多田士喜夫先生の言われているように、毛利家への忠義に篤かった清水家が、
実は毛利家に背いていたとは書けなかった、ということなのだろうか。
185 :
人間七七四年:2007/09/04(火) 20:33:31 ID:iIX26ELq
宗治は始め、総社宮の宮司であった可能性もあるとのことです。
186 :
182:2007/09/05(水) 18:59:56 ID:o4x7Trb8
清水宗治について質問した者です。
皆さん大変詳しい解説ありがとうございます。
途中で裏切ったとまでは知りませんでした。
「清水宗治の戦略」ですか、図書館にあったと思うので、今度読んでみます。
個人的に地元なのもありますが、このスレは大変勉強になります。
直接三村氏とは関係ない質問にも答えて頂き感謝しています。ありがとうございました。
187 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 02:34:17 ID:TskUAA2L
>>186 このスレは住人がマトモやし、本当勉強になる!!
しかし話題が少ない。
189 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 20:10:04 ID:fviyJpsJ
三村家親は子沢山ですが、室は三好氏(之長)の娘だけなのでしょうか。
>>189 家親の子と一部系図だけで記されているものを全て考慮すると、
子の数は最大で9男5女となるから、側室がいたことも考えられる。
ここで、備中平川村の領主平川氏の系図を見ると、
平川親実の娘は家親の室であると記されている。
しかし、「この女性の父親実が嘉吉の乱(1441)に討ち死にとあるのに、
兄景親が元亀年間(1570−73)に在世していたりと疑問が多すぎる」とも、
『備前児島と常山城』では指摘されている。
ただ、備中の有力家であった平川氏なら、妻をもらっても不自然ではないと思います。
191 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 00:09:35 ID:lyCfY9tP
平川氏なら釣り合わない事もないね
192 :
人間七七四年:2007/09/18(火) 20:21:04 ID:m8Vs15TI
備中三村氏と信濃三村氏では前者がメジャーですが、
戦国時代や江戸時代の両者に同族意識は残っていたのでしょうか?
>>192 同族?で家紋通字が同じなのは普通か…
他には、「大彦族の研究」の著者安倍三郎氏は、
「三村備中守宗親は…もともと(備中)三村庄から出たもので、
一時信州に移り住んだのではないか」と言われている。
194 :
人間七七四年:2007/09/20(木) 00:19:56 ID:5kteTTLs
>>193 うちのばあちゃん(美星在住)が三村家は諏訪湖の近くから岡山に来たと話していた
三村家はマイナーなので岡山でも色んな説があるみたいだけど、
すくなくとも高梁とか倉敷とか備中地域において
「三村備中守宗親は…もともと(備中)三村庄から出たもので、
一時信州に移り住んだのではないか」とする説は聞いたことがない。
長野県朝日村の村長だった三村さんが同族を表敬訪問とか言って
美星に来たこともあったみたいだし同族なんじゃないの?
正確な出自は微妙ですが、同族の確率は高いでしょうね。
>「三村備中守宗親は…もともと(備中)三村庄から出たもので、
一時信州に移り住んだのではないか」
この発言には異論を唱える人もおられ、「鎌倉幕臣三村氏とその一族」の著者、
小野淑夫氏などが否定されています。
>「一時信州に移り住んだ」
これは、信濃、備中の両三村氏の関係を伺わせる発言なので記したのですが、
ソースが不明+聞いたことが無いので、自分はこの説を信じてはないです。
196 :
人間七七四年:2007/09/20(木) 02:27:45 ID:kSvfD/w2
カープの三村は関係あるんかね
197 :
人間七七四年:2007/09/20(木) 02:45:39 ID:m3f+Xqhz
地方大名の割には良く出来てるんじゃないだろうか。
199 :
人間七七四年:2007/09/23(日) 04:34:01 ID:kt7LPEn1
三村氏は備中兵乱の凄絶な滅亡でなかったら、ここまで有名ではないと思う
わたしだけ?
200 :
人間七七四年:2007/09/23(日) 13:59:34 ID:tj7TwBkX
家親が直家と手を組んでいれば違う形で有名になれただろうか。
でも直家は結局暗殺しそうだしなあ。
直家いなかったら毛利に飲み込まれるって事はないのかな?