911 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 21:10:53 ID:4qN6sAyu
火のないところにゃなんとやらだしな
912 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 21:47:02 ID:dvmaRKzV
要は武田のやりくちを例えた話じゃね?
913 :
人間七七四年:2007/06/26(火) 23:45:13 ID:E6F58xV/
今川は同盟国だからなー
当主自ら出向いてみせる可能性だって無い訳じゃない。
軍艦は基本的に武田マンセー、今川=悪な構図だから(武田旧臣の多い徳川、今川を悪にしないと不忠者になる徳川
わざわざこんな逸話を書く理由がないんだよな。
今川が武田の家宝を盗んだ、とかの方が後の駿河侵攻を少しは正当化できるし。
だが「じゃあ信玄はいつ駿河に出向いたの?」という疑問は尤もだ。
疑わしくはあるが確定とまでは言い難い>信玄の万引き疑惑
914 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 00:00:08 ID:71mzbYlo
当時の価値観だと逆に信玄は他国の家宝を盗み出した=凄い
今川は家宝盗まれたやんの=ヘタレ
かもしれない
というかこっちの可能性の方が高いか?
春日が信玄に不利なことを捏造するとは思えないし
今川をヘタレとする図なら徳川にも受けはいい
915 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 07:55:24 ID:WITrKDJ8
当時の価値観だろうと盗みはまずいだろ
だからこそ馬場は命令違反してまで財宝接収を拒否したわけだし、それが美談になってるわけ
普通に信玄がマンセーする立場の人間から見てすらアレだったってことだろう
916 :
晋3:2007/06/27(水) 10:50:27 ID:71OfohUM
今月の歴史読本の特集「戦国時代合戦の謎」において厳島合戦が従来いわれていた
陶晴賢率いる大内軍と毛利軍の戦いではなく、実は陶軍単独で毛利軍と戦った
という新説が紹介されている。
そこには兵数についても大内軍2万人ではなく、陶軍6千人程(毛利軍の2倍程)
と記載されているよ!
917 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 11:00:54 ID:xV1Kdf5c
名将である小早川隆景や吉川元春を育てた元就。
わがまま馬鹿の武田勝頼しか育てられなかった信玄。
こうしてみると信玄の方が優れているとしか考えられない。
918 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 11:22:36 ID:FU6hk02e
武田武将は上田原の戦い、川中島の戦いと死を恐れぬ戦いぶりをする
武田は滅びても、その残党は徳川本家や井伊家に組み込まれ、徳川はより強大になった
毛利系統の兵卒なぞ比べ物にならん
919 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 11:24:19 ID:xV1Kdf5c
>>918 その徳川を葬った明治維新の原動力の一つ。
920 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 11:28:20 ID:FU6hk02e
薩摩が武器を横流ししなければ、第二次長州征伐で壊滅ですがなにか
921 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 11:33:01 ID:xV1Kdf5c
922 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 11:40:48 ID:FU6hk02e
923 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 11:43:00 ID:FU6hk02e
言っとくが幕末の長州を駆け抜けたのは松蔭の弟子達で毛利ではないからな (w
924 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 11:43:48 ID:s5uBMBG0
つまらん流れに戻すな池沼ども
925 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 11:44:00 ID:xV1Kdf5c
926 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 12:17:05 ID:WITrKDJ8
でも武田流軍法を採用した後は、少数の真田や毛利(元就の家じゃなくて勝永のほうね)・大野らにボコられまくり>徳川
寡兵の敵にしばしば酷い目に遭う伝統まで継承しなくてもw
927 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 12:20:02 ID:xV1Kdf5c
928 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 12:22:16 ID:WITrKDJ8
あと、徳川に登用された武田家臣団は一部除いて陪臣クラス
重用されてたとは言い難い
逆に信濃の旧名族大名が復権して大名クラスに取り立てられている(諏訪や保科)
もっとも徳川家は譜代優先をはっきりさせていて、今川家臣も北条家臣もその程度の扱いだけども
929 :
晋3:2007/06/27(水) 13:06:08 ID:71OfohUM
>>916 事実それを裏付けるものとして、厳島合戦の陶方の犠牲者は
戦死者(含む行方不明者か?)4700人・捕虜3000人
と語られていてそれを合わせても7700人にしかならない
厳島合戦の状況(島をめぐる争いで総大将が討ち死に)を考
えると他に逃げ帰った兵がいるとも思えないし、大内家は
それから2年以上も持ちこたえている。
930 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 13:22:42 ID:FU6hk02e
厳島合戦の後に大内が持ちこたえた訳?
あの時の大内家当主は義長、大友義鎮(宗麟)の弟
つまり毛利は大友にビビって、なかなか大内を攻めきれなかった
家臣団が離反するのを延々の待ち、300%勝てる状態になってやっと大内討伐に赴く
しかし義長を戦闘で討ち取るのではなく、自害させるというショぼい結末で幕引きだった
931 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 13:29:51 ID:CJbMZf1Y
まてまて。つまり厳島では殆ど一兵余さない殲滅戦が行われたってことか?
それでも7700って戦果自体が異常なレベルなんだが……
信玄の大敗とされる例を見てもわかるとおり、千余の討死が出るのもまず少ない
932 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 13:31:56 ID:CJbMZf1Y
あ、コピペか……
933 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 15:33:45 ID:UdDoprUS
>>930 >>義長を戦闘で討ち取るのではなく、自害させるというショぼい結末で幕引きだった
戦闘で討ち取らなきゃしょぼいってお前…
自害させるまで追い込めば万々歳だろうが
当主が戦闘で戦闘で討ち死になんて早々ないケースなんだがな
934 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 19:32:36 ID:vRW1RgmA
元就からしても大内は形の上ではかつての同盟相手だったんだから
直接戦場で討ち取るよりは自害に追い込んだ方が、少しでも聞こえが良かったんだろうね。
無論、当時最盛期の勢力だった大友の介入を恐れたというのも大きいと思う。
ここら辺については、亡き陶晴賢の工作の遺産とも言える。
そもそも晴賢自らが大軍を率いて厳島に乗り込めたのも
大友に対する親善策として義長を当主に据えたからこそだし。
つーか戦死者と捕虜が七千人以上って有り得へん。
通説通り、陶が二万強の軍勢であったとしても、半数近くが殺されるか捕らえられるかだなんて。
陶の軍勢は二万以上、というだけで正確な数は不明なんだが、やはり三万近くは動員してたんじゃないか?
あるいは、敵軍の四割近くを殺すか捕縛するかといった程に、毛利軍の包囲殲滅は完璧だったのか?
味方側が四千程度の軍勢で、敵側の戦死者、捕虜が八千近いってんだから、やはり厳島合戦は異常。
厳島の場合は第三者の資料が最も戦果が大きいとされてるくらいだしな。
本当に陶軍が毛利軍の二倍程度、八千程度でしかなく、その九割以上を戦死or捕縛したというんなら
それはそれで元就が神過ぎる。
935 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 22:54:44 ID:8OzHr621
打ち取ったのは多くてどんなに多くても1000くらいだろ
あとは島の各地に逃げた陶残党を吸収したってのが実情だと思うが?
幹部クラスならまだしも一般兵が最後まで命かけて闘う義理もないし
現場の総大将も死んでるし命の保証さえすれば大量の投稿者がでるだろ
そもそも島から出るのも難しい訳だからね
936 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 23:03:46 ID:BohSW+XC
島から船に乗って逃げようとして
村上水軍に沈められたり、焦って定員オーバーして
船が沈んで溺死したとかどうよw
937 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 23:16:45 ID:8OzHr621
大内については自害に追い込む云々より毛利にとっては義長は逆賊・仇討ちという理由で
討伐してるわけだからどういう形であれ相手が死ねばOKだろ
しかも義長は逃げる機会があったにも関わらず最期まで大内当主であった事はなかなかやると思う。
大将を討ち取らないのがしょぼいってどんだけボーダー高いんすか( ;∀;)
その理論で行くと三野戦の内一番しょぼいのは川越夜戦って事になるな。
もっとも優れてるのが有名所で
沖田畷・桶挟間・有田中井手
辺りになっちまうな(´・ω・`)
確かに沖田は名戦ではあるがね…
他にも死にまくりの小弐氏とかww
938 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 23:16:54 ID:UmGl0P0Z
その場合は討ち取ったり捕虜にしたりするのは難しいのでは?
939 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 23:18:14 ID:UmGl0P0Z
940 :
人間七七四年:2007/06/27(水) 23:41:24 ID:IQi/BSEa
毛利元就この島に城をかまえて君の敵陶晴賢を誅せしはのこす武臣の鑑なり
って歌が残ってるしこういう宣伝して仇討ちという大義名分手に入れてたんだろ。
941 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 00:43:42 ID:3f5hAVed
逆臣陶を討つ大義名分は当然あっただろうが、義長は陶に担がれただけだしなー
元就がその気なら陶の死後に大内と和睦の可能性だってあったんじゃない?
俺は尼子と対抗する為にも大内本領(含む山口)を毛利領として併呑しなければならない為
じりじりと圧力を加えて自滅させた説を推すな。
義長の血は元々大友の物であって、逆臣陶一党の一味である。というのが毛利の言い分だったんだろうが
それでも大内氏を滅ぼしたのは、後世から見れば道徳的には褒められた行いじゃないよ。
戦国大名としては、外聞的にも大義名分を得ているし、見事な手腕なんだけど。
義長が逃げずに、主家と運命を共にして自害して果てたのは立派だね。
(本筋の大友を頼れば何とかなったろうし、大友からしても大内家当主という肩書きを背負った義長は有用この上ない人物)
同じく、敗北を悟って自害した晴賢の生涯も、なかなかに興味深い。なんせ、かつては元就と共に肩を並べて戦った仲だ。
厳島も、勝者の毛利側から見れば実に痛快な勝ちっぷりで面白い事この上ないが
敗者の大内側から見ても、なかなかに悲壮感の漂う散りっぷりで面白い。
942 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 01:06:44 ID:ftE0+a/G
陶は長子の義尊まで殺して大友から義長を呼び寄せたんだから
元就が「大内義長」を滅ぼしたのは、道徳的にもさほど非難される事じゃないとオモ
義隆が殺され、後継者の義尊まで殺された以上は「大内」という名前に縛られても仕方ないだろ。
「真の忠義者なら庶筋の亀鶴丸を擁立してでも大内氏を再興してやるべきだった」
なんて意見に大しては
「いくら元同盟国でも、そこまでしてやる義理はねーよ」って話だしな。
943 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 01:19:59 ID:eX/rdGIk
最も毛利は陶の謀反に荷担した側だが
944 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 01:26:57 ID:3f5hAVed
そーだね。
道徳的に非難されるとしたら、当初は毛利も陶を支持していた、って事かな。
無論、元就に言わせれば「あの時点では従う他なかった。体制を整えてから大内本家の仇を取るしかなかった」なんだろうけど
晴賢に言わせれば「最初は頭下げてたくせに、ちゃっかり隠れて連合して歯向かってくんじゃねーよ!」だしな。
ただ、元就が大内義長に対して義理立てする必要なんて欠片もない、っていうのは納得した。
945 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 04:46:24 ID:wHCSfi4F
義長は義鎮(宗麟)同様、母が大内義興の娘で、紛れもなく大内の血が混じってる。
義尊が産まれるまでは、叔父にもあたる義隆の養子にもなり大内次期当主の可能性もあった。
陶の謀反の道具として使われ、大内家に呼び戻されたのは悲運だが
大内家の血を絶やさぬ為、領地に踏みとどまったその心意気やよしと見る。
たとえ傀儡ではあっても大内家第31代当主、それを領地欲しさに周防侵攻して滅ぼした毛利。
どちらに正義があるかは皆はよくおわかりと思う。
946 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 05:23:11 ID:wHCSfi4F
なお大内義隆を殺害した大寧寺の変は人道的に許されるものではない。
陶は巨悪の筆頭ではあるが、加担した毛利の罪も許しがたし。
義長は利用されたに過ぎず、陶・毛利に比べ罪は低い。
明国は大寧寺の変の蛮行に激怒して日明勘合貿易を断絶するに至った。
これがどれ程の日本国経済損失か陶も毛利も全く理解できずに大局観に欠けていた。
皇朝十二銭鋳造停止後、日本貨幣は渡来銭に依存してきた。
それが絶たれることになり、結果永楽通宝などは入らなくなり、戦国デフレを生じさせたのである。
日本貨幣史的には600年ぶりに和製銅銭鋳造への機運の転機にはなるのだが、
地方大名が日本経済根幹を揺るがした暴挙は永遠に戦国経済史に刻印される。
ちなみに大寧寺の変ではドサクサにまぎれて、周防にいた公家も多く殺され、その中に三条公頼がいた。
三条公頼は言わずと知れた武田晴信正室の三条の方の父君に当たる。
つまり大寧寺の変に加担した全ての悪は、甲斐武田家と必然的に仇敵になる運命にあった。
947 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 13:26:05 ID:k75pR6Jf
上がしっかりしてくれないと、下の国人達は不安でたまらない
だから、強い当主を推戴するのが当時の武士らにとっては当たり前の状況
忠義だの以前にそもそも「御恩と奉公」的な双務関係でしかない
一族郎党の命がかかっている場で、騒動ばかりの目上に従うほうがヴァカ
そういう意味では元就の大内潰しも、信玄の父追放も同じ価値観に立った行為
そして双方とも、少なくとも直接利害関係にある家臣国人の支持は得られた
それが戦国の現実さ
948 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 13:40:19 ID:uM9yLLGK
>>946 >地方大名が日本経済根幹を揺るがした暴挙
やっぱり当時の中国地方の影響力ってすごかったんだな。
949 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 14:33:35 ID:k75pR6Jf
つうか陶もかなり屈折してるな
謀反しても、自分が当主になったわけでもない
遊興のために徴発や労役を乱発させた義隆を強く諌めた「忠臣」でもあった
大河ドラマだと「仕方なく謀反したが、それは強い大内を再興させるためだった」という描き方をしているが、実は真実に近いのか?
950 :
仙台藩百姓:2007/06/28(木) 14:37:53 ID:bn9ohmDx
九州を含めての話しだけどね
それでも大内時代に隆盛を極めたなは間違いないお
毛利以降はすっかり落ちぶれたけど( ´ω`)
951 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 14:37:59 ID:UFsllVQa
石見銀山が逆転で世界遺産登録されたぞ
952 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 15:33:09 ID:rjU2qV2i
陶が忠臣と言うのは違うと思うな。
義隆も義元どうよう、遊興にうつつを抜かし治世を鑑みなかったように
思われているが、実際は可也の名君だし、文化に傾倒するのは当時の一流
武将なら誰でもやってる事。
第一強い大内家の再興とか抜かしてるが、陶が謀反してしてなかったら
当時大内家に対抗できる勢力なんて存在してないから…
953 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 15:51:10 ID:k75pR6Jf
>>950 誰でもやっているって……
配下国人のための援軍すら渋る、領国に負担かけるほど遊興するなんてことやった大名、他にそうそういたかぁ?
名君でありつづけたのならともかく、立派な暴君化でしょ
かえってそのギャップが陶やそれに味方した連中を踏み切らせたんじゃないの?
954 :
953:2007/06/28(木) 15:52:22 ID:k75pR6Jf
955 :
宇喜多直家信者:2007/06/28(木) 16:00:13 ID:BMI26Zi5
956 :
人間七七四年:2007/06/28(木) 19:47:55 ID:83EUL8lY
大内義隆も前半はやる気も覇気もあったんだけど
月山富田城攻めの敗北でやる気無くなったのが痛い。
その後は、政に興味をなくして趣味に生きてしまったのが。
陶としては、暗君となってしまった当主を廃して
大友から血の繋がった人を新たに当主として迎えて
大内を盛り立てていこうとしたのでしょう。
957 :
人間七七四年:2007/06/29(金) 07:44:39 ID:b7jIm5qQ
↓↓どっかのスレよりコピペ
よく知らない人はコレみて
【陶晴賢(陶隆房)】
・大永元年(1522年)周防守護代;陶興房の次男として若山城で生まれる。
・天文八年(1539年)に興房が死去した時には長男の興昌が戦死していたため、19歳で陶家を継いだ。
・天文九年、安芸(広島県西部)に出陣し、尼子勢を撃退。このことから、隆房は尼子攻めを唱える武断派の急先鋒となる。
・天文十一年、主君大内義隆が大軍を率いて出雲(島根県北東部)の尼子を攻めた。しかし、大内勢は敗北してしまう。
隆房はこの時、戦において最も危険な殿を務めた。
部下思いな彼は、兵達には米を食わせ、自らは雑魚のはらわたと水で空腹をしのぎ、撤退したと伝えられる。
・天文十九年(1550年)、暇をえて若山城に引きこもった。これは、武備をかためて謀反を実行するためである。
・天文ニ十年八月ニ十八日、山口に攻め入る。九月一日に、主君である大内義隆を自刃させた。
これは守護代による下剋上の典型例であるといえる。
・天文ニ十一年三月、豊後(大分県)の大友宗麟の弟晴英を大内家の当主にたてた
。晴英は大内義長と名乗り、隆房は陶晴賢となる。
新政権の安定化に多忙をきわめた晴賢は、毛利元就に佐東郡(広島市太田川流域)を預け、国人領主を率いて敵にあたる権限を与えた。(このことが後に裏目にでる。>厳島合戦の大敗)
一応経歴をのせてみた。
忠義に厚い武辺者であった陶晴賢が主殺しを実行した背景には、主大内義隆が京文化にのめりこみ文章にふけったことにある。
大内義隆は、文章にふけるだけでは飽きたらず文治派の相良武任を重用したため、武辺一筋の陶晴賢は反感をもったという。
義隆は、盛大な宴会を繰り返したた。その費用は結局、下層民が負わなければならない。
それと同時に、義隆の京文化とその文化人に対する厚遇に対する憤懣は下層民にも広がっていた。
陶晴賢は
『天道の計らい』
という考え方をしていたとされ、それは一時代前の験を担ぐ武士を彷彿とさせる。
958 :
人間七七四年:2007/06/29(金) 07:56:19 ID:pOImUOZe
一回大負けした程度で凹む義隆はちょっと問題あり
信玄なんか、生涯に大内・尼子の格差どころじゃない格下に何度負けたことか……
959 :
人間七七四年:2007/06/29(金) 09:43:55 ID:HrPRFtFR
隆元だなやっぱ
66年中国統一して67年ごろ信長とやってほしかった
960 :
人間七七四年:
実際、月山富山城を落とした頃に、水軍で尼崎か堺に、上陸していたら、信長より先に上洛してたんじゃない?