1 :
人間七七四年:
2 :
人間七七四年:2007/05/21(月) 20:44:18 ID:YHbgRsXF
脳卒中ってどれくらい生きられますか?
3 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 09:35:05 ID:xpBxXA7s
甲陽軍艦は近年再評価され始めたよねえ、やはり本来の日本の軍学書
だからね
4 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 11:20:52 ID:C1DfJr/G
どっちも爆笑物だろうが。
5 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 18:22:29 ID:OnFhMBcp
最下等資料から下等資料になって
再評価されたと喜ぶ馬鹿
6 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 18:59:16 ID:dJi3K5iQ
新田次郎先生も酷評してたが結局使ってる。高揚軍艦以外に資料がないんだろうね。
7 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 19:09:29 ID:GhbxDgf8
甲陽軍艦で武田家のパブリックイメージが決定されている以上、普通に使わざるを得まい。
資料がないというのも当然あるんだけどね。
8 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 19:11:28 ID:WU8NWkjF
最近メガトンじみた釣り増えすぎw
9 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 22:13:53 ID:cN6pG+vd
甲陽軍鑑みたいな史料でも戦国時代ではまだまだまともな方じゃないの
10 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 22:26:46 ID:EQprl6jS
ここも信玄厨2007/05/29(火)ID:wwcCRDEPが立てたスレだなw
11 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 16:13:23 ID:t45/wBH7
氏康は信玄に暗殺された。
怪しい点を纏める。
・北条氏康が倒れたのは脳卒中、当時の技術で3年もしにかけてから生きられるか?
・北条氏康は三増峠で戦っているが、脳卒中で倒れて病状進行中の人間がどうやって戦うのか?
・氏康はその後表舞台には出てきていない。
・もし上が事実なら戦えるはずなのに氏政が武田と戦っている。氏康ではない。
・なぜか氏政は武田と講和城も明け渡しているし上洛時は援軍も出している。氏政は武田贔屓だった。
・氏康が暗殺されたなら、薩多峠後の消極性もぴったり来る。
・武田勝頼との争いでも武田贔屓を氏政が行っている。
・氏政は氏康に離婚させられており怒っていた。
・氏政の嫁は武田出身である。なぜ離婚なのか?人質として取ってあるなら利用できるはずである。
・武田信玄との争いは駿河を切り取られたといえど、まだまだ有利な状況である。何故だか圧力すらかけない。
・氏政は武田信玄が死んだをうそだと思っていた
・越相同盟では氏康時代は上杉はいろいろやっているのに氏政時代はボイコット
・氏康と信玄の戦いには俗説が多い。死んだのではないか。
・いつ死んだのかが明らかになっておらず遺言すら氏康は残していない(信玄と和睦せよとの遺言は捏造)
・氏康は信玄との敵対姿勢を信玄が同盟破りをした後は和睦しようとすらしてない
・信玄は1571年には北条をほうっておいて徳川領に出兵している
・いきなり権力が氏政に移っている。
・武田の都合のよいときに死んでいる
・氏康は当時57歳。不殺生でも病弱でもなくまだまだ死ぬような年齢ではない。
>>11 氏康は当時57歳。不殺生でも病弱でもなくまだまだ死ぬような年齢ではない。
それ言ったら蒲生氏郷とか小早川秀秋とか豊臣秀保とか上杉謙信・・・・などなどの立場ないぞw
釣り?
13 :
人間七七四年:2007/09/08(土) 14:51:59 ID:0S2a16SN
釣りでしょう
釣りとはなんですか。
15 :
人間七七四年:2007/11/10(土) 20:26:49 ID:AaEXgCtL
草加なるほど
16 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 13:49:49 ID:KCJill95
今日の読売の朝刊に北条氏は関東土着の出自じゃなくて
京都の下級武士出身説ってのが出てたぞ
17 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 14:03:00 ID:OsZr2WZL
>>16 関東土着説を唱えていた人がいるのかww
北条早雲が、政所別当の伊勢家の人間で室町幕府とパイプがあったのは有名だが
18 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 14:18:47 ID:wOrBq1iU
関東土着なんて初めて聞いたけどw
それとも執権北条氏か?
19 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 14:20:36 ID:dzU7s3eI
三増峠が武田にとっても苦しい戦いだというのは
甲陽軍艦みてもわかるんだけどね
20 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 14:34:07 ID:KCJill95
スマン執権北条氏の記事だった
頼朝死後の幕府で権力を握る際京都出自だと都合が悪かったから
関東土着と主張したらしいという説
21 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 14:50:37 ID:wOrBq1iU
>>20 どういう事?
一般的に北条氏は伊勢平氏の末裔で伊豆に土着し
北条時政が頼朝の旗揚げに協力して栄達したと言う話だったと思うけど
実は時政は京都から派遣されて頼朝を監視してたと言う事?
22 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 15:09:03 ID:KCJill95
23 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 15:29:00 ID:jfq1hIvC
これは県立金沢文庫とやらに行くしかねーな!
京浜急行か…ついでに逗子駅からJR横須賀線に乗換えて大船駅から玉縄城跡を見てきまつハアハア…
24 :
1111111111111:2007/11/14(水) 15:46:03 ID:RaaymOib
早雲って下級武士なのか?
伊勢氏って相当実力者じゃね? 幕府の中枢にいたんだろ?
政所? 評定衆? どっちだっけ
25 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 16:05:33 ID:wOrBq1iU
>>24 宗瑞は伊勢氏でも末端の方
官位も持ってなかったようだし上級の幕臣とは言い難いかと
26 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 17:25:23 ID:lhAmTwwF
足利義視か義尚の申次衆に名を連ねたんじゃなかった?
27 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 18:02:08 ID:jfq1hIvC
たしか応仁の大乱の最中に義視と一緒に伊勢に難を逃れたりしてたね。
28 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 21:42:59 ID:0dJK9px1
備後守護伊勢氏の流れで足利義視に仕えていたと聞いたが。
>>22 OK、明日いってくる。
29 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 10:34:32 ID:LRhFWQ/A
人が良い小田原城の大森さんは悪党オヤジにダマされて城を奪われカワイソウです。
30 :
人間七七四年:2008/01/14(月) 23:09:04 ID:ncE2iBnY
時政流は北条宗家じゃないんじゃないかとは昔から言われてたけどその話?
31 :
人間七七四年:2008/02/15(金) 20:14:13 ID:xk7PH7JT
由良兄弟と成田兄弟が許せません!
32 :
人間七七四年:2008/03/10(月) 10:42:06 ID:HBtzVQkc
謙信公に泣き付いて領地を回復してもらっても
上杉軍が越後に引き上げるとあっと言う間に武田・北条に敗北して自分の力では守り切れない
挙句に恩を受けながら上杉をを裏切ったりもする
関東人は性根の定まらないカスばっか
33 :
人間七七四年:2008/03/10(月) 12:22:27 ID:udYeIDap
松山城が全員討ち死に覚悟で籠城し続けてたら謙信が北条に勝ってたな…三楽齊のバカ…。
34 :
人間七七四年:2008/03/10(月) 16:48:18 ID:HBtzVQkc
あんな連中斬り捨てて配下武将入れておけば何の苦労もなかったのに
謙信公の人のよさがもどかしい・・・
35 :
人間七七四年:2008/03/10(月) 20:32:25 ID:udYeIDap
俺なら最低でも
佐野や小田や由良は欺いて切り殺すな。
36 :
人間七七四年:2008/03/11(火) 00:21:05 ID:g1b3UvKd
37 :
人間七七四年:2008/03/11(火) 15:19:24 ID:linsp1qm
そいつらは典型的な関東の二枚舌だな
38 :
人間七七四年:2008/03/11(火) 17:38:30 ID:rH7ihjcI
でも、由良成繁ってなにげに凄いよな。
北条からも謙信からも叛いて、
それでいてしっかりと実力も認めさせているしさ。
金山、桐生、足利、舘林、伊勢崎とかなり広範囲にわたって版図もひろげている。
息子の渡良瀬なんたら、とかしっかり秀吉の家臣になっているし。
成繁が生きていれば、北条の上野への進出は大幅に遅れていただろうし、
さらに、そのまま小田原征伐むかえたら、
また違った展開になっていたかもな。
息子の国繁はなにせ、母親にたすけてもらって、ようやく一人前のアホだし。
39 :
人間七七四年:2008/03/11(火) 18:33:09 ID:UdbWU2zr
ここまでetsに関するツッコミ無し
40 :
人間七七四年:2008/03/12(水) 13:53:29 ID:4iaw+1LP
今日のその時歴史が動いたはオマエラが嫌いな北条氏だぞ
41 :
人間七七四年:2008/03/12(水) 18:21:13 ID:SCClWX6C
>>34 厩橋と大胡を斬り殺して北条高広入れたら裏切られたじゃんw
42 :
人間七七四年:2008/03/12(水) 21:02:53 ID:Pt5rgRwa
>>41 厩橋と沼田は越後の安全上必要な拠点だから心を鬼にしたのだろうか?
43 :
人間七七四年:2008/03/12(水) 21:15:14 ID:bOylWANN
厩橋って殺したヤツって家系図に載ってない長尾謙忠?だかなんたらとか言う架空人物だろ…。
44 :
人間七七四年:2008/03/12(水) 21:50:42 ID:SCClWX6C
>>42 沼田はお家騒動につけこんで北条綱成の次男孫次郎康元が跡を継いでいたが
謙信に討ち取られたか追い払われた。結局沼田氏は謙信に味方したが、
沼田城主復帰できなかったのを不満に思ったのか由良氏のもとに奔っている。
>>43 それは甲陽軍鑑の話で実際には厩橋長野方業の子か孫だ。
45 :
人間七七四年:2008/03/13(木) 00:43:04 ID:IlaNwohN
46 :
人間七七四年:2008/03/13(木) 10:24:07 ID:HhZAUljE
子か孫とか言ってる時点でやはりはっきりわからず根拠の乏しい予想だろw
47 :
人間七七四年:2008/03/13(木) 21:02:52 ID:4HTkRaVK
事件を伝える史料は両方とも厩橋方業の子、彦九郎と大学。
他に一緒に斬られたのは片方の史料にはその叔父、
片方は大胡となっているのでおそらく同一人物。
元々大胡氏は藤原姓だが、厩橋、大胡は石上姓という史料があるので、
大胡氏に厩橋から養子が入っていたとわかり、大胡=彦九郎の叔父説を裏付けている。
子か孫と書いたのは彦九郎が父である方業の子道安の供養をしたという史料もあるからだ。
中小国衆で続柄が不明なのはよくあることだ。
48 :
人間七七四年:2008/03/23(日) 11:10:02 ID:IsEpNQO5
>>31 戦国時代生き残りで一番頼りになるのはやはり兄貴に忠実な弟だな。
北条や武田や豊臣など弟がそこそこ信用できるのは強み。
49 :
人間七七四年:2008/03/23(日) 11:15:52 ID:BK8jnZGu
北条・毛利辺りは明らかに弟の方が優秀だしな。
50 :
人間七七四年:2008/03/23(日) 12:27:17 ID:8g3KuxW1
沼田顕泰は正室長野業正の娘との間にできた沼田朝憲を殺害したため家臣達が怒って追放しただけ。同じ同族三浦氏の葦名へ逃亡した。
長野業正の伯父である長野(厩橋)賢忠は進軍中に軍紀を破る行為があり謀反に及ぼうとしたから斬られただけ。
いづれにしても関東管領山内上杉氏に属しながらも半ば自立している長野業正の野心からの策謀があったようにしか見えない。
これらの出来事から謙信は長野業正の悪心を警戒していたのではないか。謙信が箕輪城への積極的支援をしなかったことからもうかがわれる。
51 :
人間七七四年:2008/03/23(日) 12:32:32 ID:8g3KuxW1
訂正
長野(厩橋)賢忠の子彦九郎は
52 :
人間七七四年:2008/03/23(日) 13:29:58 ID:8g3KuxW1
大胡氏に厩橋から養子が入っていたとわかり←長野氏が大胡の乗っ取りを謀っていたって事。
横瀬氏に圧迫され大胡氏嫡流と一族の大半は領地を捨てて江戸へ逃げた。
大胡重行の子・勝行が牛込城(新宿区)に移住している。
残った残党は北条氏康の大胡城攻撃に会い開城し上泉へ逃げている(上泉信綱)
のちに長野氏へ逃げて仕え箕輪城で武田氏とたたかっている。
53 :
人間七七四年:2008/03/23(日) 13:56:55 ID:IsEpNQO5
上野国は新田の名門岩松家は横瀬/由良家に奪われ
守護代長尾家も景春の乱後の衰退に乗じて長野家は勢力拡大し当時は力関係が逆転していた。
関東管領が平井城の背後を固める長野家が健在にも関わらず総社長尾や白井長尾の協力で越後へ逃走したのは
長野氏が北条と内通し退路を断つ策動からではないか?
謙信が上野国にやってくると長野業正が忠臣づらしてるが
そもそも北条が短期間に沼田まで侵攻できたのも長野氏の協力なしでは無理だろう。
54 :
人間七七四年:2008/03/24(月) 02:02:27 ID:2MqzI52I
長野や成田、由良らは旧権力たる関東管領や守護代の復活には内心では反対していたと言える。
関東管領の秩序を無視し長野と由良は大胡地域を巡って勢力圏争いをしていた。
謙信の構想は言わば後醍醐天皇の王政復古の武家版に近い。
関東管領就任式では千葉と小山のどちらを主座に据えるか紛争したという。
両家は足利成氏の古河動座を支えた名家ではあるが彼らは今や無力だ。
下克上を狙い主家の領地を横領してきた者達には既得権益を侵す存在でしかない。
謙信は関東管領として軍役や補給を課す。
しかし成り上がり者の北条は自陣営に加わるならば彼らにある程度の自立独立性を認めるし軍役を課さない。
ゆえに北条の弱さは彼らにも大動員をかけての一大決戦ができないことである。だから籠城戦になってしまう。
ただ謙信の管領軍10万の小田原城攻撃では彼らの士気は低かっただろう。成功したら力なき主家が再興されるようなものだ。
55 :
人間七七四年:2008/03/25(火) 01:03:22 ID:GWNVAOJo
>>54 逆じゃね?関東管領の方がそれぞれに対して独立を認めてる存在だと思うよ。
北条家は、民衆には優しいがそれは逆に中堅豪族らの搾取を許さず
代官を置く事で中央集権を図ろうとした存在な訳だし。
だからこそ北条家は関東の中堅大名らから反発されていく訳で。
逆にそれがなければ関東管領というだけで反北条家がここまで集まる訳も無い。
関東管領下の旧名家が既得権益を侵す存在云々つったって、
所詮は関東管領のもとでの権力争い程度であれば大した事では無いが、
領地が北条の組下に置かれて役帳に名を連ねてしまったら最期、
厳正に検地をされ搾取できないように厳しく見張られてしまって喜ぶのは下層の農民だけ。
そうなったら終わりでしょ。
一大決戦に関しては当時まだそこまで動員力がなかったのと
野戦で一大決戦しても北条家には欠片も利益が無いからだろう。
56 :
人間七七四年:2008/03/25(火) 03:14:17 ID:/884mrGT
>>55 あなたの意見は下記の2つの立場の違いを同一視して論じてるのでは?
1、成田や由良や佐野や深谷上杉ら北関東勢は北条の下についても独自性が認められていたろう。彼らを決戦に動員することはできない。
2、その両者と分けて考えないといけないのが次第に親族化したりしてきている下記のメンバー。
江戸城や河越城や鉢形城、玉縄城、岩槻城などは北条に併呑された感がある。
北条と上杉の狭間で勢力拡大をしようとする1と
なんとか1どもを少しづつ養子や婚姻などを通じて2にしていこうとの遠謀を隠し近づく北条。
1にとって上杉謙信の死が2へ転落する決定的キッカケになってしまった。
57 :
人間七七四年:2008/03/25(火) 03:56:00 ID:Y7Y9DmC7
山内上杉や扇谷上杉や長尾景春や長尾為景や古河公方らのいつ果てるとも知らない長い争いは軍役ばかりでロクに恩賞もない。
特に主戦場になった挙げ句に山内上杉に降伏した扇谷上杉家臣団は瓦解し南関東では他に頼むに足る者を渇望してたろう。
北関東では長尾一族が上野守護代職を巡り争い山内上杉と古河公方らが養子や親子で相続を巡りさらなる戦乱と混乱…
南関東ではまたまた始まったこの争いに巻き込まれたくないだろうから関東の統治者に相応しくない彼らから庇護してくれる者として頼ったのが北条だろう。
最初は他国の凶徒伊勢だった者が領土を広げ力をつけ安全を保証し
戦乱と混乱により統治者能力ない当然のように軍役を課す暴君からの執権北条の名を語る庇護者になっていったのだろう。
河越の戦いは山内・扇谷・古河の三大権威者が手を握りあったから勝ち組だと思って集まったに過ぎない。
だがこの戦いの圧倒的勝利で南関東は新たな新秩序に組み込まれて臣従してしまう事になる。
北関東では邪魔な上位権力から開放され軽視する動きが強くなる。
58 :
人間七七四年:2008/03/25(火) 03:59:03 ID:Y7Y9DmC7
訂正
当然のように軍役を課す尊大な暴君からの開放者として執権北条
59 :
人間七七四年:2008/03/25(火) 16:04:50 ID:Y7Y9DmC7
南関東の武士達の支持を受けた理由の一つに鶴岡八幡宮の再建ってのもあるだろうね。
扇谷上杉や三浦など旧権力が滅亡された事で直接伊勢と結び
各地の一揆衆や国人者共も氏綱の再建呼び掛けで寄付したって言うしね。
北条の名を名乗ったり自然な流れで主従関係にしていってるね。
これが北関東の旧山内領域では上杉謙信との対抗から自派づくりの為にやり方を変えてるわけだ。
謙信は公方足利藤氏を擁して簗田や武蔵守護代家だった太田などの後ろ盾となり鎌倉府の昔に戻そうとした。
南関東では今さらアホ旧主や守護代とその取り巻きが戻ってきても困るわけだ。
60 :
人間七七四年:2008/03/25(火) 16:15:39 ID:Y7Y9DmC7
謙信が復興させるつもりの鎌倉府自体が元々は足利持氏の謀反滅亡や古河公方成氏など成功したとは言いがたいシステムなんだよな。
せめて上野守護代職を由良から養子を貰って白井長尾氏に継がせ
武蔵守護代を成田から養子を貰って太田氏に継がせて
現状追認し両者を旧権力たる関東管領権力の中に取り込む事ができればな。
だがそれでは誤魔化しであって義が通らないんだろう。
61 :
人間七七四年:2008/03/25(火) 17:59:07 ID:4/QXcswV
>>56 分けて考える必要性が無い。
実際自分のレスでも言ってる通り一つのきっかけで1の勢力も2へと転落してる訳だし
結局は侵略の過程の問題に過ぎない。
そんなこと言ったら南関東の連中だって最初から2の立場だった訳じゃないだろう。
62 :
人間七七四年:2008/03/26(水) 03:05:17 ID:nu26nziJ
謙信の南下によって自陣営に引き込む必要性に迫られた以上は
分けるべきだろうと思うな。
勢力図を左右する由良兄弟や成田兄弟をそのバランスをうまく活用し権益拡大をはかろうとした。
これは彼らが南関東とは足並みを合わせなかった点で精彩を放ってる。
また古河公方圏も抵抗しているから南関東武士らと同一視はできんだろう。
北条としても彼らがいる限りにおいては防波堤とする事が可能だった。
ただその北条のやり方もしだいに限界がきたのが越相同盟成立への道だったろう。
63 :
人間七七四年:2008/03/26(水) 04:05:09 ID:Qie6iLeD
状勢によって必要な時期は独立を保てるがどのみち
いずれはその独立性を奪おうとしているという意味ではなんも変わらん。
違うのは状勢的に彼らはまだ独立を主張できるだけの力があったというだけ。
だが北条家が関東管領に完全に勝利してしまったらもう関東で抵抗しうる勢力はいない。
その時に豪族の独立性自体否定してるのに、北条家が彼らの独立性など認めるはずも無い。
それに比べれば管領周りの権力争いなど大した事では無い。
64 :
人間七七四年:2008/03/26(水) 10:58:37 ID:VLkQHpJj
旧山内上杉領域の関東管領の謙信死後も旧古河公方勢力圏の佐竹・宇都宮・小山・佐野らと協力して彼らは自立勢力としてあからさまに抵抗したぞ。
いや謙信が死に北条の対応が融和同盟から変化し野心が露になった為に危機感を抱いたと言える。
北条の対応は明らかに南関東とは違かった。謙信に非協力的でありながら勢力拡大の外交政策が可能だったのは謙信の存在が彼らを間接的に生かしていたから。
謙信の早過ぎる死が否応無く彼らに真の自立を促した。
また滝川一益の登場が新たなチャンスになるはずだったのかも知れない。
65 :
人間七七四年:2008/04/23(水) 12:58:18 ID:1QdWtMRx
太田金玉城主 マラ成繁
66 :
人間七七四年:2008/06/29(日) 16:11:32 ID:O+D5TUOp
横瀬〜横瀬〜
次は西武秩父に停まります
67 :
人間七七四年:2008/06/29(日) 16:37:54 ID:v2luzxZf
そういや岩松氏も古河公方派だったんだっけ?
68 :
人間七七四年:2008/06/29(日) 18:41:59 ID:haqvMrZg
古河公方派も何も、通婚しとるし。
69 :
人間七七四年:2008/06/30(月) 00:42:20 ID:4tQcBil3
岩松も両派に分裂してたんでないか。
70 :
人間七七四年:2008/09/02(火) 02:13:36 ID:HrZJPtws
横瀬成繁「この白傘袋が目に入らぬか!」
71 :
人間七七四年:2008/09/03(水) 10:50:50 ID:ad/WXr7E
小弓(生実)城から原氏を追い出し、道哲(足利義明)を御所(小弓公方)に仕立てて
自らは「生実(小弓)御所執権」となった真里谷武田信保(三河入道恕鑑)の話題がないのですが、
地元千葉の人には馴染みが薄いんですか?追い出された原氏の一部が甲斐武田に仕官して原虎胤などを
輩出したと聞いたことがありますが。
72 :
人間七七四年:2008/10/29(水) 18:08:26 ID:/cH2HejK
たけだのぶなが
73 :
人間七七四年:2008/11/19(水) 21:34:36 ID:GYoSGK2G
>>59 寄付したのは北関東の武士の方が多かったと聞いたがどうなんだろう。
南関東勢は寄付すると北条に組み込まれたと思われるから消極的だったとか。
まだ多摩川を挟んだ攻防戦の時期だし、どちらかと言うと、北条に名前を変
えた方が効果があったのかも?
74 :
人間七七四年:2009/01/22(木) 22:10:13 ID:UMgR2qQv
深谷ねぎ
75 :
人間七七四年:
深谷ねぎ しみる