毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その3

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920人間七七四年:2007/05/31(木) 15:29:21 ID:XTLGuNu7
棚守房顕覚書によると、厳島合戦で元就が討ち取った敵は8千に達する
あと、感状が無いというのは間違いで「萩藩閥閲録」には元就直筆の感状が何枚も収録されている
研究者の間では、「水軍が主力」説とは全く逆で野島・因島村上家関連の感状が無いことから「水軍不参加説」のほうが活発に議論されている
それが何かの間違いで広がったんじゃ?
921人間七七四年:2007/05/31(木) 16:51:16 ID:1+Y0m4p/
とりあえず訂正
×野島→能島○

なので誤解しないように。(全くどうでもいいことだが)
922人間七七四年:2007/05/31(木) 16:59:13 ID:u61MtR1f
>>920
さすがに戦死者8千は水増しだろ
923仙台藩百姓:2007/05/31(木) 19:38:16 ID:Jq2zQy1N
吉宗検地…(;´ω`)
聞かなかった事にしておくお


自家記録の戦果でいったら
ほとんど侍は死に絶えてるお( ^ω^)
924人間七七四年:2007/05/31(木) 21:47:46 ID:Y9VbWyxL
武田信玄に比べると毛利元就の方が史料は残ってるんじゃないか?
毛利家は幕末まで存続したから、「毛利家文書」とかがあったはずだが…
そういえば、武田信玄関連のまとまった一級資料って何?
925人間七七四年:2007/05/31(木) 22:11:36 ID:5jyonKH8
>>857
>他の佐竹や簗田晴助、宇都宮は?こいつらは武田と北条が争っている時はそれに
>呼応し、再同盟の後も戦い続けていたはずだが?
その辺事情が複雑だから一概にどうとは言えないと思うが
里見佐竹梁田などとの和睦交渉は1569年から
里見氏とは和睦交渉するも成功せずだと思う、1570年には伊豆小田原を攻撃
佐竹氏は武田と同盟結んだと言っても、自分の敵である小田氏と争ったり、
上杉と争ったり、陸奥に手を出したり
簗田氏は北条氏と和睦して足利義氏を古河城に
宇都宮は知らない

>>884
利根川や木曽川は昭和に入っても・・・だからなあ
その点甲斐は当時の技術で何とかできる程度だったんだろうな
1583年に氾濫した気もするが

>>889
ぶっちゃっけ軍鑑に治水の話しあったかなーと思うが・・・
つか武田厨は軍鑑読んだことない人間多いんじゃないか?
「 sage」の人も読んだこと無いみたいだったし
926人間七七四年:2007/05/31(木) 22:21:24 ID:rFXlAktN
足利又太郎忠綱と較べたら、戦国の甲斐武士なんかは屁みたいなもんだ。
927人間七七四年:2007/05/31(木) 22:50:07 ID:A1S0L0bP
>>857
氏康が実権者の時に具体的に武田と再度結ぼうという動きがなく、甲相再同盟が氏政の判断で行われたものならば、氏康が実権者である間は再び武田と結ぶなど余程のことが無い限り考えられない
加えて里見との再和睦交渉の動き
あとお前は本当に文章の上っ面しか見ないのな
里見と結ぼうとした行為そのものを重視してるんであって、それこそが武田に専念したいという氏康の考えの表れだとしてるわけだが
梁田は相馬、宇都宮・佐竹は那須、由良、葦名、土岐、菅谷、岡見と相手するのがいるわけだが?
なんで意図的に書かなかったの?
そもそも当時の状況で北条と佐竹は直接領地接してないし
>>上杉もろくに動かない状況では
いままでの俺のレスは全く忘れたのか?
>>上杉とて氏康が望むほどに武田と戦ってくれたかははっきりいって疑問
上野の領有を認められたわけだが?
>>そのまま状況が推移すればいずれは氏康といえど武田と同盟し関東に専念する方策に 切り替えざるを得ないと思うが?
これの根拠であろう上記二つは前者はお前の誤認、後者は希望的観測に過ぎない
>>こういった反北条勢力を武田は自分の為とはいえ 煽って手を結んでいたしそれは信玄の外交として効果があったと見ていいだろう。
遠交近攻外交
初歩の初歩でどこの大名もやってることで別に特記されるようなことではあるまい
またまた論点そらしだろうからこれにはこれ以上反応しないが、今俺が言ってるのは武田の駿河侵攻による三国同盟の破棄、甲越和与、甲相同盟においてのそれぞれの武田の外交手腕についてだ
>>随分と北条の外交政策を持ち上げていたように思うが、
具体的に俺が北条の外交政策を持ち上げたところを抜き出して来い
>>結局上杉に振り回され駿河を取られるだけに終わった北条の外交は 評価してないという事でいいのかい?
駿河侵攻から小田原での焚き火についてはアレだけ噛み付いてたのにな
なんというか飽きれてものも言えん
とりあえず俺が「随分と北条の外交政策を持ち上げていた」レスを抜き出してからの話だ
928人間七七四年:2007/06/01(金) 07:57:14 ID:zi9O8VeP
機能してなかったのは事実。
謙信が懐柔され、越中に出兵。
929人間七七四年:2007/06/01(金) 08:02:15 ID:Pft+ViAM
厳島の戦果は、4000程度(参戦武将の覚書)ともいわれるが
兎に角、大戦果だったことには違いないようだね
総大将の陶が逃亡もできず自害に追い込まれているぐらいだから
狭い島に追い込んでの殲滅戦だからこそ、だろうな
930人間七七四年:2007/06/01(金) 09:34:20 ID:PQHnPA99
毛利元就なんて信玄どころか東国の大大名いずれと比較しても見劣りしますね
東国というのは、我が北条に武田に上杉に今川に徳川にと100万石クラスの
集積地帯、そんな各大名は互いに英知を火花ちらして戦ってきたからこそその実力
の度合いも分かるというもの、それにひきかえ元就は弱い相手とばかりしか戦った
ことない上、厳島なんて怪しげな合戦記録を持ち出しても凄みが見えないんだよね


931人間七七四年:2007/06/01(金) 09:39:03 ID:7jmCdVVg
中国地方は知らないけど、九州は戦果水増しが凄いんだよな。
コーエーの本にも書いてあったっけ。
932人間七七四年:2007/06/01(金) 09:55:23 ID:pe4CQqA6
よく、信玄はメジャーで、元就はマイナーって、武田サイドからカキコされるけど、その基準って何?
933人間七七四年:2007/06/01(金) 09:57:00 ID:zi9O8VeP
ニワカ乙w
武田は毛利より石高も拡大率も経済力も戦術も無い。
934人間七七四年:2007/06/01(金) 10:04:13 ID:PQHnPA99
だから信玄どころか東国のつわものは皆メジャーなのですよ、氏康に謙信
義元といった具合に、群雄割拠していた時代を勝ち上がって勢力を大きく
してきたもの同士の戦いこそが戦国のメジャーなわけ
所詮弱い相手とばかり相手にしてきた元就の能力なんて氏康の一家臣並みだよ
大名としての器かなあ元就は
935人間七七四年:2007/06/01(金) 10:12:44 ID:Pft+ViAM
これは「軍鑑の何品を根拠にしたんだ?」といわれると逃げまくるあの方降臨?w
936人間七七四年:2007/06/01(金) 10:37:02 ID:6vIDzziC
>>934
前半部分だけならお前の意見に賛同してくれる奴がいるかもしれんが
後半でかりにも中国地方の雄の元就を氏康の家臣程度だとした時点でww

元就に大名としての器があるかという疑問とか言ってたら
いったい誰に大名としての器があるっていうんだよw
お前の基準なら三傑も大名の器がないんだろうなw

937人間七七四年:2007/06/01(金) 10:49:40 ID:PQHnPA99
>>936
吉川小早川両家から領土の配分について迫られる程大名権力に乏しい元就さん
に器があるっての?三本の矢の教訓って何?
それにお得意の内部工作は、氏康や東国の列強には100パーセント通用しないね
家臣を信じきれない凡大名だけに引っ掛けやすい策略だったからね元就のは。

938人間七七四年:2007/06/01(金) 10:53:34 ID:pe4CQqA6
何だ、その程度でメジャーだ、マイナーって、喚いていたのか?
939人間七七四年:2007/06/01(金) 11:03:26 ID:Pft+ViAM
三本の矢は後世の創作だってば
信玄の虚像と同様にね
940人間七七四年:2007/06/01(金) 11:17:37 ID:PQHnPA99
信玄の虚像とか言ってる人は、昔から信玄が神格化されてるとでも思い込んでる
んじゃないのか?東国は皆雌雄を決してるから戦ったもの同士史料などを見比べれば
氏康の凄さや、信玄や謙信や義元の凄さが見えてくる分、少々通説と違う部分も見えてくる
のもやむをえないことだけど、元就は思いっきり虚像だらけだからね
そもそも厳島や有田合戦や郡山城の戦いなども信憑性の無いものばかり
厳島合戦から元就没後まで弱い勢力相手に20年もかかってやっと中国地方統一しただけの
田舎武将の元就の何が凄いの?
941人間七七四年:2007/06/01(金) 11:28:50 ID:1mDvra++
軍記物の甲陽軍鑑や、その影響受けまくりの御年譜
やっぱり軍記物の関八州古戦録を信じてる人間には、史料の信憑性の見分けもつかないんだね
で、軍鑑すら実は読んだことが無いというオチw
942人間七七四年:2007/06/01(金) 11:58:50 ID:qzhr/58f
このスレ読んで信虎の優秀さがわかった
信長よりも前の時代でこれだけ先進的な武将だったとは
やりかたが強引すぎて追放されたようだが
逆に信玄は戦が強いだけのボンボンという印象
特に戦略がいきあたりばったりすぎ
上杉相手にも正面からいきすぎ
信長のようにしたたかにいけないのはどうも
戦の強さと内政面での信虎の遺産で領土を広げただけなんじゃね?
実質3代目の勝頼で亡んだのもよくある話だな
元就はしらね
943人間七七四年:2007/06/01(金) 12:55:58 ID:goO/M9PF
氏康を誉めて北条信者を武田に協力させようとでも?
944人間七七四年:2007/06/01(金) 13:29:21 ID:CqLh2WH3
三本の矢のエピソードは創作だってことくらい、戦国板にいたら分かるだろうに
だが、元就は毎度毎度一族が仲違うことのないようにと諭していたようだから、あながち嘘ではないということくらいも戦国板居るくらいならわかるよな?
945人間七七四年:2007/06/01(金) 13:55:25 ID:VPwmW2+d
えーと、信玄のどの辺が戦に強いんだ?そりゃある程度は優秀だろうけど
神格化されるほどじゃないだろ、家康に兵力2.5倍なら勝てるくらいの強さ。
946人間七七四年:2007/06/01(金) 14:04:26 ID:XmJ7g3mZ
>>942
>信長のようにしたたかにいけないのはどうも
ここは笑うところか?w
947人間七七四年:2007/06/01(金) 14:27:27 ID:ocC/SD7F
メガトン黙らせるのには「で、その主張は軍鑑の何品を根拠に?」とか突っ込んでやればいいわけだな
ってか軍鑑が「品」で分けられているのもそもそも知らないっぽかったがw
948人間七七四年:2007/06/01(金) 14:28:06 ID:pe4CQqA6
大内、尼子が二流以下の凡将で、武田が滅ぼせなかった、もしくは苦戦した相手は、メジャー級って評価は、ものすんげェ恣意的なものを感じる。
客観的に見て、元就の立場は、武田や上杉に挟まれた真田や村上が、最終的に武田上杉を滅ぼして、百万石の大大名になるぐらい、凄いことだろ?
949人間七七四年:2007/06/01(金) 16:11:50 ID:XDiUVZNe
>>内政面での信虎の遺産で領土を広げただけなんじゃね?

ちゃんと信玄自身が信虎の政策を発展させているし
なんでも信虎の功績にするのはどうかと思うがな。
なんか見解が極端じゃないか?
950人間七七四年:2007/06/01(金) 16:26:43 ID:PQHnPA99
弱小勢力の毛利に滅ぼされるような大国しかいない程度のレベルが中国地方
地域のトップがこんな程度じゃあ、元就風情でも大勢力になれて当然だな
200戦もこなしていておいて、あの程度しか勢力広げられないの?っと言われても
仕方がないしな
951人間七七四年:2007/06/01(金) 16:35:56 ID:PQHnPA99
私は北条ファンですが東国の戦国オタから見た視点に限らず、常識的に
考えても中国地方なんて明らかにレベル格は下なのは必然なことですね


義隆と晴久の愉快なお二人=親から受け継いだ大勢力を維持できず衰退滅亡
             弱小の元就に敗れ去る

東国の強豪=皆一代で大勢力を築き上げた名将揃い
952人間七七四年:2007/06/01(金) 17:09:39 ID:CqLh2WH3
一般の感覚が正しいというのは歴史を知らなさすぎる。
歴史小説の読みすぎか、時代背景の混同ではないかと思う
953人間七七四年:2007/06/01(金) 17:16:52 ID:bOjUaKz8
>>951
お 前 の ど こ が 北 条 フ ァ ン な ん だ ?
954人間七七四年:2007/06/01(金) 17:27:42 ID:PQHnPA99
>>952
そりゃ毛利の存在した中国地方についてしか知らない側の人間からすれば
一般人や歴史家がどう考えてるかなんて想像もつかないでしょうね、井の中の蛙
というやつです
大国同士ひしめきあってる地域の戦略を楽しむものなのですよ人間はね
確かに歴史小説を読みすぎてる人間からすれば元就を過大に評価したがる事も頷けます


955人間七七四年:2007/06/01(金) 18:12:39 ID:1/3SP92B
>>951 北条ファン(中身メガ豚)
>義隆と晴久

何を根拠に尼子晴久公を愚将だと言い切った?
吉田郡山城戦以外はほとんどミスがないぞ?
956人間七七四年:2007/06/01(金) 18:12:41 ID:kznLzmvh
自称北条ファンは氏綱、宗瑞を知らんと見える。
957人間七七四年:2007/06/01(金) 18:13:37 ID:mdlV7VQm
言うに事欠いて北条も持ち出したか。
しかも新クソスレまでたててw
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180656784/http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180656784/
958人間七七四年:2007/06/01(金) 20:07:52 ID:vOKyFh4k
信玄が家督を継いだ直後、20万石程度のとき、
100万石の今川義元相手に勝ったのなら、
すごいと認めるんだがな。

でも信玄じゃムリポ
959人間七七四年:2007/06/01(金) 21:51:45 ID:XDiUVZNe
その理屈でいうとほとんどの戦国大名が認められなくなるな。
ぶっちゃけ信長を持ち上げているようにしか見えん。
960人間七七四年:2007/06/01(金) 22:22:51 ID:vOKyFh4k
>>959
いやいや、武田軍が戦国最強と言う輩がいるからだよ。

ぶっちゃけ最強というほどの戦績は残していない。
961人間七七四年:2007/06/01(金) 22:27:28 ID:rSFL2MMQ
治水と棒道って軍鑑のどこかね?一通り題名見たが見つけられず
甲斐国史の棒道、それは1600年に秀忠が棒道を利用して諏訪に入ったと言うだけで
棒道が信玄が作ったとは書いていないようだが・・・
甲斐国史の編纂時期には棒道を信玄が作ったという話しは無かったみたいだが

あと遅くなったが関八州古戦録には武田が長野2万を破るという話しになっていた

>>941
甲陽軍鑑には
当時最も優れた大名の一人として毛利元就の名が挙げられていて
その功績がいろいろと書かれているからねー
他に信長氏康謙信義清などの名も

信長については戦に関しても謀略に関しても凄いとかいろいろ書かれているけど
信玄の遺言の辺りでは信長なんて家康いなければ何も出来ないとなっているw

>>942
信玄が戦に強いかボンボンかはともかく
信玄初期の戦は信虎の蓄えた軍資金によって賄われていたと軍鑑にはある

信虎追放の原因はいろいろ言われているけど
その年甲斐では天災などにより100年に一度の凶作だったため
当時の価値観から異常気象を防ぐために当主の交代が必要だったと言う説も

ちなみに義信謀反幽閉自害の時期も大凶作の時期で甲斐か信濃で子どもを
売り払う時の証文が残っていたりする
962人間七七四年:2007/06/01(金) 22:48:54 ID:rSFL2MMQ
>>949
他に詳しく書くと
王代記には15世紀末に地震で金山が潰れとかあるから
信虎以前の可能性がある

税制も信玄は1542年に棟別台帳作っているが信虎時代に作られていたかは不明だし
信虎時代は棟別銭は領国全体とは言え一部の層に課せられていただけと考えられている
他に税額を信虎時代より引き上げたり

平山氏などによると信玄は地下人や寺社職人などにまでその対象を増やしている
そのため逃散があいついだとか
1550年前後の大飢饉の時には
逃散が相次いだため当初の『甲州法度』の規定では対応できなくなり
様々な規定を追加している
963人間七七四年:2007/06/01(金) 23:07:22 ID:iMd1C7DT
毛利元就と武田信玄を比較検証するスレ その4
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1180706357/
964人間七七四年:2007/06/01(金) 23:30:34 ID:Efd7XJ4V
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手動に疲れたら本スレでツールDLを!!
965人間七七四年:2007/06/02(土) 01:04:39 ID:k1rHU62N
妄想にばかり浸っている毛利厨は、とにかく信玄を貶めようと必死になって
屁理屈レスを続けておりますwww
信虎が有能な政治家とか言ってるようなレスしてれば世話ないね、そうであれば
侵略戦争はもっと楽に進めていたはずなのは誰が見ても分かること、そもそも
領民の生活や侵略戦争を行いやすいような実直な政策を出来てないと有能とは言えない
所詮こんな基本的なことも知らないのが毛利厨、だから元就自身も馬鹿にされる。

山岳地帯における内政手腕を発揮した信玄と元就のそれは比較にならないというのは
誰でも理解出来るが、毛利厨は必死になって無駄な悪あがきをしております。
また絶対的な太守がいなくなって弱体化しつつある大内と尼子を攻め滅ぼす元就より
最強といわれた謙信との戦いや、長年の3国同盟の北条今川を一度に攻め勝ったこと
の方が評価は高いのは当然のこと、信長包囲網でもその信玄の壮大さが理解出来ると
いうもの
966人間七七四年:2007/06/02(土) 01:19:15 ID:k1rHU62N
信玄の戦には、塩尻峠 川中島 三増峠 三方ヶ原など有名所が多い。
まず戦に強いかどうか分からないと言ってる連中はろくに調べもせず根が信玄否定信者
なもんだから、勝手に「どうせ兵法ではなく兵力にものを言わせた戦いだろ」とか妄想する
ことしか出来ない哀れな連中なんだね。
信玄とその軍団最強説もそう、武田軍に致命的な負けがどれだけあったのか説明してほしいね、当時の
逆に上杉や北条や今川は武田軍に勝ったこと一度もないよねえ、徳川もそう。


967人間七七四年:2007/06/02(土) 01:24:22 ID:zky8RmzJ
>>927
>>氏康が実権者の時に具体的に武田と再度結ぼうという動きがなく、甲相再同盟が氏政の判断で行われたものならば、氏康が実権者である間は再び武田と結ぶなど余程のことが無い限り考えられない
加えて里見との再和睦交渉の動き
あとお前は本当に文章の上っ面しか見ないのな
里見と結ぼうとした行為そのものを重視してるんであって、それこそが武田に専念したいという氏康の考えの表れだとしてるわけだが

意思だけでうまくいくならこの世は成功者しかいなくなるぞ。里見と和睦しようとして
武田に集中したいと思ったはいいが結局里見と和睦できず戦いは続く。
里見との和睦が武田との戦いに集中する意思の表明だというなら逆にいえば
里見に絡みつかれながら武田と戦うのは厳しいという事になる。
三船山で北条を打ち破り房総に力を拡大し1570年には逆に攻め込んで来ている里見は
決して北条にとって侮れる相手ではない。謙信は上野よりも越中に夢中だし
氏康といえどその状況でいつまでも信玄相手に我を張り続けたとは思えないがな。
>>いままでの俺のレスは全く忘れたのか?

ぶっちゃけた話謙信が動いたとかいっても信玄とろくに戦ってないだろう。
1569年8月から10月末までは越中侵攻、1569年11月からは関東の倉内にはいったけど
武田を攻めるどころか佐野を攻めている。
貴方が上杉が北条に対して真摯に向き合うようになったという養子縁組成立は1570年4月
それまでも、そしてその後も駿河では武田と北条の熾烈な攻防戦が展開されているのに
謙信はろくに攻めず、9月に信玄が来たら自領に援軍を送っているだけ。
12月には「来年の2、3月に越中を攻めて攻略できたら毎日看経します」と
いう願文を書いているはずだが?どうみても越中で領土拡大するのに夢中で
武田領土侵攻なんて片手間だろう。そもそもやる気があったのかどうか。
1571年一月には駿河で深沢城が攻められて北条から援軍を要請されているが
これまた部下を上野に送っただけでろくに戦わなかった。
しかも武田勢が来ないと見るやその部隊も呼び戻して越中攻めに動員している。
3月には越中を攻めて10数城攻略。このころには駿河をめぐる攻防戦はあらかた
決着がついている。1572年2月には西上野の武田領土の石倉を攻めているが
これは越相同盟崩壊後。しかも信玄が来たらろくに戦わず
対峙戦に終始してる。石倉は1571年12月にも攻めていたか?
ちなみに5月からはまた越中攻め。
正直こんな状況で氏康が生きていようと上杉がどれだけ戦ってくれるというんだ?
謙信にしてみても信玄と無理に戦うよりも越中を攻めたほうが効率的だし
うまみもあるだろう。
>>今俺が言ってるのは武田の駿河侵攻による三国同盟の破棄、甲越和与、
甲相同盟においてのそれぞれの武田の外交手腕についてだ

だから甲相再同盟において北条が武田と戦う事の不利を考慮する事態に
なるにあたってその遠交近攻政策は一定の効果を持ち、それは武田の
外交として評価していいんじゃないか、という事だよ。
968人間七七四年:2007/06/02(土) 01:31:38 ID:k1rHU62N
里見をそそのかして北条の背後を突くよう促したのは信玄
将軍義昭との仲介を頼み謙信と和睦したのは信玄
氏康は有能だけど外交戦略では信玄の方が一枚上といわざるを得ないね
969人間七七四年
>>967
横からだが
相手の人は
上杉は武田北条の意向に関わらず両者との争いから距離を置いている
里見は武田北条の意向に関わらず北条と争いつづける
だから史実で武田が上杉に邪魔されること無く北条と戦えたのも
北条が里見に邪魔されつつ上杉の協力を得られず武田と戦うことになったのも
武田北条の外交努力に因る部分は少なく外交能力を評価するほどでもない
と言うことなんじゃないか?

個人的には武田がそのような上杉里見の行動を見越した上で北条と戦ったというなら
その外交能力は素晴らしいと思うが史実は北条がいきなり介入してきたで違うし。
北条に関しては上杉が領土返還養子差出をしてもあそこまで消極的だったと
気づかなかったのは北条の外交能力諜報力の不足だと思う。

で氏康の戦う意思だけど越相同盟が機能し出した1570年ぐらいは
駿東郡において一応は一進一退
上野方面は多分北条が優勢でまるっきり不利というわけでも無かったけど