【武田】2万5千で上洛【信玄】その50

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243人間七七四年
コピペ燃料投下

甲州法度
これに関しては今川仮名目録に強い影響を受けている、それまでの慣習、
信虎の出した法をまとめたものとされている

狼煙台
ソースが存在せず、当時としては一般的な事柄だったと推定されている

税制
1522年に信虎が甲斐一円に棟別銭を課した『塩山向嶽禅庵小年代記』のを初めとして
基礎的な税制は信虎時代に整えられた
信玄に肯定的な学者は信玄時代に様々な新税が課されていることから信玄が税制を
発展させたと
否定的な意見だと北条などの税の簡素化と比較すると逆行しているとか

鉱山発掘
考古学側の調査によって多くが信虎時代(山によってはそれ以前から)に
開発がはじまったことが判明
松木氏?に伝わるといわれている伝承だと信虎の代により伊勢から来たとか
めむしろ被官化していない証拠

検地
検地に関しては関連史料合わせて70ほどあるらしいが
すべて差出 寺社家臣の権利を認めるためのものが多いとか

隠し湯
『川浦湯屋造営下知状』がソース
以前からあった寺社の造営を許可しただけであって、
それを通説の隠し湯と結びつけるのはおかしい

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/05/29(火) 23:41:51 ID:PmzBFDzk
ちょっと一部修正

鉱山発掘
考古学側の調査によって多くが信虎時代(山によってはそれ以前から)に
開発がはじまったことが判明
松木氏?に伝わるといわれている伝承だと信虎の代により伊勢から来たとか

金山衆の被官化
肯定 1570年ぐらいに出された感状をソースとしている
否定 その感状の形式が家臣に対するものではなく外部の者に対する形式と一緒であるため
むしろ被官化していない証拠
244人間七七四年:2007/06/01(金) 10:30:24 ID:RPsl4VU2
762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/05/29(火) 23:44:24 ID:PmzBFDzk
棒道
上にもあったが『高見沢文書』が唯一のソース
肯定 原文だと思うから、内容形式が現在から見ておかしくてもそれは些細な問題で
正しいに決まっているこの史料が棒道に当て嵌まらないなら何を指している?
現在棒道とされている道のほとんどが荒野と化している以上昔からあったなどではなく
純軍事目的に造られた道、つまり棒道に違いない

否定 文章の内容がおかしい、駿河攻め上野攻めの時に出された道に関する文書は
ちゃんと夫役を申し付けているのに、これは命令書になっていないため信玄がやらした
わけではない
軍事目的だとしても何故複数のルートが必要なのか?
何故目的地が諏訪までなのか、出発地は甲府なのに目的地が上原とかの具体的
目的地ではなく諏訪という曖昧な地域を指しているのか

信玄堤
1 竜王に新村を作るよう指示した文書
2 川の氾濫に対しいくつかの村に復旧するよう指示
3 破損した用水路の修復の指示
4 堤防の維持に勤める代わりに棟別銭免除
などがソース

否定
1はそもそも諏訪への街道整備の一環として出された宿場町建設のための文書
それを通説の信玄堤の証拠に転用するのはおかしい
2は国主として当たり前の事で信玄堤のソースになっていない
3も当たり前のことまたそれ以前や他地域にも普通にあることなので特別扱いすることではない
4も当たり前のことでその時代にそこに堤防があったことは分かるが信玄が堤防
を造ったという証拠にはならない

そもそも棒道も信玄堤もそれほどの事業なら『妙法寺記』や『王代記』に
何も記述が無いのはおかしくはないか?

と言った感じに揉めているのが最近?
ただ棒道や信玄堤などを肯定している学者の本でも最近は
殊更強調するのでなければ信玄の功績として構わないとか、
通説のような功績は無いからといって信玄の功績のすべてを全否定すべきではない
などとトーンダウンしていて、実質否定派の意見に近づいている
あと何年かすれば信長の楽市楽座や兵農分離などと同じような扱いされるかもしれない
245人間七七四年:2007/06/02(土) 02:38:54 ID:2xs0BedB
アンチ武田が涙目で必死ですw
246人間七七四年:2007/06/02(土) 03:17:30 ID:qcjQ6Lt1
( #^ω^)ピキピキ
247人間七七四年:2007/06/02(土) 10:46:45 ID:k1rHU62N
信玄の治水事業


領民を水害から救う為に信玄堤を築いたといわれ。単に水害防止の為なら
概存の河川の両側に頑固な堤防を築けばよいのであろうが、信玄が進めた
のは川筋を変えることだった。
信玄堤築造は治水面ばかりが強調されてきたが、土地利用や水利体系の
再構築が大きな目的であったと推測されている。
築堤開始の時期ははっきりしないが、堤防の裏側に棟別役免除の条件で
集住者を募る(1560年)八月の古文書が残る為、この頃には一応の
完成をみたと考えられる。


248人間七七四年:2007/06/02(土) 10:48:16 ID:k1rHU62N
信玄の治水事業は防災上のメリットだけではなく、用水の整備や新田開発、村
の新設などにも繋がる多目的事業だった。
事実信玄は工事が完成した永禄三年、堤防の近くに竜王河原宿を新たに設け、
農民に恩典を与えて移住させている、その時の古文書がある。
新居住者に棟別役(税金)の免除を約束し、堤防の保護管理にあたらせると共に
新田の開発にも従事させたのである。
しかもその新村設置の規模は壮大に広がり、釜無川と御勅使川の流域に、開田事業
に伴って上条新居村、清水新居村など多数の村が誕生している。
信玄堤は竜王町のものが有名だが、山神郷万力郷など数箇所に残っており、農業政策
にかけた信玄の遠大な理想が垣間見える。


249人間七七四年:2007/06/02(土) 10:49:46 ID:k1rHU62N
「狼煙台ネットワーク」

当時の史料に狼煙が出てくることはまれだが、山国の甲斐においては、正確
で迅速な情報の収集が合戦の勝利への重要な決め手であった。
まあ山国である甲斐の不利な状況を理解出来ないアホなアンチには、いかに
狼煙が特に武田にとって重要だったかが理解出来ないんだろうねえ単細胞だから。

「甲斐国志」が各地(甲斐国内)に残る狼煙台伝承を網羅しているよ、信濃
との境を接する地域からの情報伝達にはいくつかのルートがあったと伺える。
250人間七七四年:2007/06/02(土) 10:54:46 ID:k1rHU62N
鉱山産業を専業にしていた技能集団の金堀は金山衆として武田に掌握されている。
武田から鉱山開発の許可を受けていたんだよ、信玄が領国を拡大していくにつれて金山衆は他国へと
手を伸ばし、他国の金山にも手を伸ばしていくことぐらい知ってるよ。
信虎時代には貧弱だった技術も信玄の代になれば次第に発達していった。
ちなみに信玄は甲斐国内に大小22ヶ所もの金山をみつけ発掘させていた。
251人間七七四年:2007/06/02(土) 10:57:04 ID:k1rHU62N
信玄の治水新田開発事業と同様に、検地も見逃せない。
1563年から恵林寺領と佐久地方などで実施しているが、領国全体に
及ぶものではなくとも、戦国大名の検地実施例としてはかなり早期の物
でありその先進性は改めて注目に値する。
江戸時代の農政学者佐藤信淵は「農政本論」の中で、信玄の農業政策を
絶賛している、その農政は一等地を抜きん出ていたのである。
信玄の政治家としての偉大さは、他の戦国大名が農業を民政の中心に
すえていたのに対し、山国という甲斐の国情を知悉して総合開発的な
殖産興業策を展開した点にも求められる。

甲斐の林野面積は、八割近くを占なめ信玄はその山岳資源に着目し、治山
を促進するとともに地場産業の振興をはかって富国の実をあげたのである。
他国の追随を許さない鉱山開発はその一例だし、一般木材の他和紙の原材料
に漆などを広範囲に植栽させたのも、特殊品奨励策の一環だった。
和紙や漆が信玄時代の甲斐の代表的特産品であったことは周知の通りで、
信玄の施策が見事に結実していることが分かる。
ちなみに今なお山梨の特産品として有名な甲州印田や雨畑硯、水晶加工品など
は、信玄時代からの伝統を受け継いだものなのである。



252人間七七四年:2007/06/02(土) 11:00:43 ID:k1rHU62N
「甲州法度之次第」


数ある戦国法典の中でも傑出した内容を備えてるんだよねえ、その評価の高さは、信玄
自らが遵法の姿勢を明らかにし法を犯した場合は責任を負うことも辞さないとま
で公言しているという事を見ても容易に理解出来る。
現代の弁護士制度に通じるような制度を設けているのもその一つだし、十三歳以下
の犯罪者の刑事責任は免除するといったユニークな箇条もある。

253人間七七四年:2007/06/02(土) 11:06:03 ID:DaBK1bkM
じゃあ信玄自体が犯罪者として裁かれなきゃな。
254人間七七四年:2007/06/02(土) 11:30:52 ID:jMDgM7jN
他人のサイトから連続無断コピペする時点で終わってるな、メガトン
何度も注意受けただろうに……
255人間七七四年:2007/06/02(土) 11:39:54 ID:DaBK1bkM
メガ豚はいろんな板で役に立ったから許してやれ。
256人間七七四年:2007/06/02(土) 12:05:35 ID:rfPrCwqU
>>250
それは、大陸から灰吹き法の技術が伝わってきたから、
いままで、開発放棄されていた鉱山が開発可能になった
だけだよ。
257人間七七四年:2007/06/02(土) 12:55:56 ID:qj2f8feR
信玄って戦争だけでなく内政も虚構だったんだ
258人間七七四年:2007/06/02(土) 13:32:00 ID:tg99X233
察してやれよ
武田遺臣は再就職で大変だったんだよ
虚像を打ち立てて、それを祖にした軍学を作ったのもその一環
要は後世の人間が虚像に振り回されなければ良い
259人間七七四年:2007/06/02(土) 14:28:03 ID:qj2f8feR
確かにその通りだな
260人間七七四年:2007/06/02(土) 15:58:46 ID:zky8RmzJ
虚像の横行なら信長も負けてはいない。
信玄がやった内政がそれまでのものを発展させ効果を挙げたのは事実。
そこらを評価せずにすべてを無かった事にするのはいただけない。
261人間七七四年:2007/06/02(土) 16:01:35 ID:k1rHU62N
他人のサイトから無断でコピペ??
そうでなかったらどうするの?(笑)自分の言ってる事が間違ってるという
器量をもう少し持ち合わせなければいけませんね毛利厨はww

>>258
哀れだねえ、>>247>>252に対しての悔し紛れのレスですか?(笑)
ま、たまにはまともに信玄の虚像とやらの根拠を示さなければ話に
なりませんね、根が否定的であればどんな史料や学者の見解も全て
「信憑性がない!!!」と思い込みたがるのがアンチというものですからね。
そういう人種は今も昔も馬鹿にされて生き続けるしかないのです。
現に信玄の内政に対して論議が交わされている状況を、さも虚像だと
決めかかってる姿がまさしくアンチならではの姿ww
そしてトドメの一撃は!マンセーしている元就に関する知識がやたらと無知
であることですww
要するに信玄が悔しいあまり、どうでも良いマイナーの元就を強引に比較材料
にして信玄叩きしか出来ないというわけですね。
262人間七七四年:2007/06/02(土) 16:58:59 ID:u1yyzoJY
せっかく平和になったこの板にまた豚が舞い戻ってきたか。
妙法寺記10回は読んで出直してこい。
263人間七七四年:2007/06/02(土) 17:46:03 ID:OB3AboMk
つか何でメガ豚は>>261で毛利厨とか言っちゃってんの?
あちこちで嫌われまくった挙句に連投を続けるもんだから
スレの区別もつかなくなったのか?
低脳なのは充分承知の上だと分っていたはずだが、ここまで酷いと驚く。
264人間七七四年:2007/06/02(土) 18:23:27 ID:U0UOxu90
>>261
>>243>>244のコピペをうやむやにしようと連続コピペ投入してる時点でおめえの負けだよw

>>263
ナイスつっこみ乙w
豚のまんねり化したアホな煽りはスルーしてたから気づかんかったw
この様なアホな間違いはさすがに信玄でもしないだろうなw
265人間七七四年:2007/06/02(土) 19:22:25 ID:wIw9ZLEQ
>>244
ウィキの「信玄堤」とNHK「その時〜」の史料参考の項を見てきたけど
どちらも治水・金山開発は信玄の功績として紹介されてるよ。

ちなみに信玄堤は「その時〜」で考古学の年代調査と甲陽日記(高白斎日記)がソースとして紹介されてて
ウィキでは「信玄堤の再評価」といシンポジウムをソースに大名権力による計画性の指摘から
信玄の功績との主張がされてる。

あと鉱山開発も確かに文書の史料が少ないけれども信玄の時代に甲州金の鋳造が活発であった
ことと金山遺跡発掘品の年代特定、さらに笹本正治氏・湯之奥金山博物館館長の谷口一夫氏に
話しを伺った上で信玄の功績としたとあるけど。
266人間七七四年:2007/06/02(土) 20:15:19 ID:57AX8i/V
しかし現地の看板では「信虎」とワンセットに変遷しているのも事実
普通に何代もかけて少しずつやってたんじゃないの?
信玄の治水関連書状発給は南進開始前後からぷっつり途絶えている
一代かけたわけでもないのに、大規模な治水工事を複数箇所でできたと思うほうが非現実的
267人間七七四年:2007/06/02(土) 23:23:23 ID:IgIoMggT
>>243
どうせなら修正部分直して欲しかった

>>259
また論文書籍からの引用になるが

信玄関係で偽書が多いのは
徳川家宣が甲府藩から将軍となり
柳沢吉保が小身から甲府藩主となり甲府浪人を大量登用
そのため浪人たちは先祖の功績を偽って仕えようと
その後甲府は天領となるが
旗本で18世紀初めは10名ほどの甲府浪士が18世紀末には80名ほどに
更に『甲斐国誌』編纂時にも大量の偽書が作られたという

ただ『甲斐国誌』には甲州金の始まりは不明
甲州枡に関しても信玄が始まりかは書いておらず
甲州枡の製造者の先祖が武田に仕えた、信玄に特権を貰ったという記述があるのみ
棒道に関しても秀忠が棒道を使用した記録があるだけで武田の名さえ出て来ない

また江戸時代の土木治水技術には紀州流上方流などの名はあるが
『甲州流』は存在せず、『甲州流』の名が出てくるのは明治以後

信玄由来のものとして他にほうとう煮貝などもあるが
それが言われ出したのは戦後か?と
まあこれに関しては肯定している学者は存在しないだろうけど
268人間七七四年:2007/06/02(土) 23:33:36 ID:IgIoMggT
>>256
考古学調査からだと鉛成分はほとんど抽出されないことから
武田の採掘精錬法はもっと古いものであった可能性がある
ただ鉱石の金の純度が高いためそれで十分だったと
そのため他の鉱山よりも最盛期の時期が早く衰退も早い時期だったとも

>>260
自分が今まで見てきたところ
すべてを無に評価するようなことを主張する学者はいないと思うぞ

信長の虚像はもう2chじゃありふれていて今更感があると思う
269人間七七四年:2007/06/02(土) 23:51:11 ID:IgIoMggT
>>265
wikiとかNHKなんてソースにされてもね
それなら歴史群像の方がまだいいと思うが・・・

まず最初に言っておくが自分もそして自分が参考にしたいろんな学者も
信玄の功績を全否定している人間はいない

>考古学の年代調査
論文研究者の本ではいまだ見たこと無い
逆に考古学の年代調査から否定されている話しなら見たことあるが

>甲陽日記
それは単に堤防を修復した言うだけでその程度のことならいろんな大名がやっていること

>「信玄堤の再評価」といシンポジウム
それはソースになっているのか?
あのシンポジウムだって説はいくつかあるし

>笹本正治氏・湯之奥金山博物館館長の谷口一夫氏
本人は金山開発は信虎時代かそれ以前からと
自分の本で主張しているが?NHKが都合よく改変しただけだと思う
270人間七七四年:2007/06/03(日) 00:32:32 ID:T9uldv4E
>>256
灰吹き法なんてのは15世紀に伝わってた代物なのにねwww
そうか織田厨は猿人の住むド田舎に住んでいる自分の感覚で物事を語っているんだね!あ、ごめんね〜〜〜。
271人間七七四年:2007/06/03(日) 05:29:17 ID:x1BpfIsO
>>270
15世紀に伝わっているから別に信玄が金山を発達させたわけじゃないって言う事では?
272人間七七四年:2007/06/03(日) 09:02:04 ID:KPHQ5F2/
>>270
灰吹き法は16世紀に伝わったものだ。
「灰吹き法」. 1533年(天文2年)、博多商人・神谷寿貞[かみやじゅてい]が朝鮮からもた

晴信が当主になったのは 1541年(天文10年)、
甲斐の田舎に技術が伝わるには妥当な年月だ。
273人間七七四年:2007/06/03(日) 09:19:56 ID:T9uldv4E
>>270
それは西。東は越後寺泊の外山茂右衛門が中国から伝えている。
274人間七七四年:2007/06/03(日) 10:17:18 ID:KPHQ5F2/
>>273
ウソクセェ。
具体的なソースを示せ。

「鶴子銀山は1542(天文11)年に、外山茂右衛門によって開発」
ぐらいしかネットでヒットしない
275人間七七四年:2007/06/03(日) 10:52:13 ID:k01Oa65l
金山の開発方法まで、直轄地化もできなかった信玄が指示できるのか?
むしろ「たまたま優れた技術を取り入れた領民が信玄の領地の中にいた」程度だろう
江戸期初期のように、大名が直々に技術者を抜擢してやらせた、というのならともかく
276人間七七四年:2007/06/03(日) 23:53:24 ID:nZmvgUZN
>>265
考古学調査では黒川金山湯之奥金山共に1500年前後には始まっていたってことで
信虎を越えて武田信縄時代まで遡れるらしい
また調査結果から小規模経営の集団が携わっていたらしく
江戸時代のような公儀による大規模開発とは異なる結果が出たとの事

信玄堤に関しては平山氏などによると
川の流れを二つに分けた等は後世の捏造であり
年代調査からもともとそのような流れであって、武田家はその流れを固定化し、
灌漑施設新田開発を行ったのではないか
また石積出し将棋頭は武田家の築城技術に石が無いことから
作ったのは武田家ではなく後世の別の存在だろうと言うこと
277人間七七四年:2007/06/04(月) 00:34:38 ID:YW/bRbH7
武田領内において甲斐・信濃・駿河等に存在した金山については
磨り臼に共通性が見られることから武田氏の庇護下で金山開発に従事した
金山衆の存在が推定されるらしいな。
278人間七七四年:2007/06/04(月) 00:49:15 ID:2wLQhWOA
>>277
他の商人職人などと同じで特定大名からの特権を受けた御用商人なんかと
似たような位置にいたってことだろうと思う。

具体的に何処の金山と何処の金山の臼が共通とかも載っていたが
そこまで記録してくるのは面倒だった
279人間七七四年:2007/06/04(月) 08:51:02 ID:Pos8rlN2
積雪で冬季は活動不能な場所に生まれたのが信玄の不幸しかも山国。
古来よりそういった勢力は行動を制限される為に大勢力に成りがたい。
それでも信玄はあれだけの版図を築けたのすごい。
信長なら瞬殺されてる。
濃尾平野に生まれた信長は運がいいだけ。
柴田勝家だって版図の中心が越前でなければ秀吉ともっと互角な戦いができたろう。
280人間七七四年:2007/06/04(月) 10:16:30 ID:kYaXa/xj
>>274
池沼乙。ネットでしか探せられないんだな。
小葉田淳著作「上杉氏の財政と鉱山」に書いてある。
281人間七七四年:2007/06/04(月) 12:20:29 ID:PGR9kczN
"探せられない"はネットで1,840件しか探せられないんだな。
282人間七七四年:2007/06/04(月) 12:54:43 ID:rzMtkXYQ
ひょっとして15世紀を1500年代と勘違いしているとか?
283人間七七四年:2007/06/04(月) 13:28:35 ID:hbwzQ1VT
信玄神格化の系譜って見てると面白いね
存命当時は「信虎と変わらない暴君だよ」と嘆かれてるぐらいなのに、今じゃ知名度は日本屈指に
284人間七七四年:2007/06/04(月) 14:21:50 ID:YW/bRbH7
まあ、治世初期にはそう書いていた妙法寺記も
1553年以降は記述が穏やかになっていくんだけどな。
そして1554年には「一日に村上の要害を16攻略した。
たくさん略奪が出来た。これほどの略奪はこれ以後にもないだろう。」とか
書いているしな。
285人間七七四年:2007/06/04(月) 20:05:26 ID:i2CHIm7d
信玄は忍人(ニンジン)といわれていた。ピーマンよりはましという意味だ。
286人間七七四年:2007/06/04(月) 21:11:19 ID:kryo2HfE
>>283
>>284にもあるとおり、信濃侵略が順調に行き始めると、
怨嗟の声は少なくなり賞賛するようなものに変わっている。
略奪等では動員された半農の一般兵士にも恩恵が来るから、
比較的下層の者にとっても、戦に勝てる領主は良い領主ということになる。
287人間七七四年:2007/06/04(月) 21:27:47 ID:k/8UbE9a
略奪だろうとなんだろうとモノを回してくれれば暮らしがよくなるしな
反対に負けが込んでくるとその分負担が増えるし怨嗟の声がなんたら
その辺は信玄も信長も大して変わらないかも
288人間七七四年:2007/06/05(火) 00:39:01 ID:XUOlOPM9
>>283
そうのようなことに関して調べている書籍もある

甲斐国誌の段階では棒道甲州金などは信玄由来となっていなかったとか
江戸時代の記録で甲斐の民衆は信玄を崇めて、何でも信玄の功績にするとか

長らく天領であり他の地域のように藩主を称えることが無かった
各時代において歴史に大きく関わるような人間がいなかったため
信玄を顕彰するようになったとか
明治以降になってから信玄の功績とされたものも多々あるらしい

>>284
妙法寺記のその記録も
村上とぶつかって侵略が停滞していた時期であり、丁度大規模な飢饉の時でもあり
逃散が相次いで、棟別銭などの税制も崩壊し郷村が荒れまくっていた時期と重なる
というのもあると思う。
289人間七七四年:2007/06/05(火) 09:00:27 ID:OBXuf3TE
信濃侵攻時期だって「領民が重税で離散している」としっかり酷い政治は記録されているからなー
その時期に略奪誉めたからって凄い皮肉としか取れないw
290人間七七四年:2007/06/05(火) 18:39:42 ID:CltNz/Ox
「甲州法度之次第」確かに厳しいが、その代わり農業生産を高めたり、商工業
をおこし、商品を活発にするなどしてるからね。
信玄程甲斐の国主として領土をあれだけ広げていった人物はいなかったわけで、甲斐の
領民が信玄を崇拝し続けるのに異論を唱える必要は無いよ、時代が戦国である以上は
山国を豊かにする為にも、領土を広げ強い国にする必要があるわけで。
291人間七七四年:2007/06/05(火) 19:18:29 ID:/gUi/mYX
>>288
>>284の記事は1554年だよ。
もはやこの時期には砥石も既に攻略され、村上方の城は次々と攻略され、
義清自身も1553年には逃亡し、後は最後のあがきと残党狩りに推移してる。
54年には佐久も伊那も木曾も攻略されているし、信濃攻略はこのころには
順調に推移していると見ていいと思うが。

>>289
そりゃ信濃侵攻が停滞している時期に重なる。順調に行き始めた54年以降は
そういった記述も穏やかになっていく。
292人間七七四年:2007/06/05(火) 21:16:09 ID:TipW/7hE
>>291
いやその記録というのは
>まあ、治世初期にはそう書いていた妙法寺記も
ここにかかっているんだが
293人間七七四年:2007/06/05(火) 21:23:55 ID:9qpeQLT9
>>289
信濃侵攻時期と一言で言っても10年以上の期間があり、厳しかった時も順調な時もあった。
で、厳しかった時期には不満の声が高くても、順調に行き始めると不満は少なくなり、
むしろ賞賛するものが多くなる。
つまり、勝てば不満も解消されるし賞賛もされるようになると、それだけのこと。
294人間七七四年:2007/06/05(火) 22:03:10 ID:/gUi/mYX
>>292
そうだったのか、失礼した。
295人間七七四年:2007/06/05(火) 22:51:17 ID:TipW/7hE
>>293
そう考えると略奪先の無くなった勝頼から人心が離れるのも当然だな
296人間七七四年:2007/06/05(火) 23:05:23 ID:/gUi/mYX
勝頼も初期は徳川領土とかを荒らしているんだけどね。
でも長篠以降は・・・。
297人間七七四年:2007/06/06(水) 00:03:32 ID:/wC7j7YB
信玄が始めた自転車操業が破綻したってことだな。
298人間七七四年:2007/06/06(水) 01:13:56 ID:MhJA8FeI
というかどこの大名も大抵自転車操業
武田だけを非難するのはおかしい。
むしろあの手この手で国土の発展を図りある程度の成果を
あげていたことで優秀といえるだろうよ。
299人間七七四年:2007/06/06(水) 01:53:09 ID:PA06Ik5I
>>298
確かに自分の代で勢力を拡大し家を守りきった事は優秀だが、
自分の代で次代が使うべき力まで使い切った感があるからなあ
家名存続を第一とするなら自分の代だけでなく
次代へのバトンタッチもかなり重要だろ?

信玄は末期に次代の事を考えてたのかな?
300人間七七四年:2007/06/06(水) 04:30:05 ID:UhRc8e+Q
単純に信玄が自転車操業だったという事実が語られているだけなのに
何で武田だけ非難とかなるんだろう?
それとも武田について評価する時はいちいち他大名も非難しないといけないのだろうか?
いや他の大名も似たようなものと言うのは構わないが
武田だけ非難とか明らかに被害妄想だと思う、武田に関係無いスレで何の脈絡も無く
言われたとかならまだしも。

>>299
結果だけ見ればかなり悪い形で継がせているからねー
考えていないということは無いだろうけど努力が足りない行動が間違っていたと言った所か?
60年代後半から信玄勝頼の連署となり、跡部など武田の有力譜代をつけたりしているが
時間が足りなかったとしか

外交問題に関しては北条とは再同盟したものの織田徳川に喧嘩売る、上杉とも敵対
金山は枯渇寸前
信玄晩年の危機的状況に対処するため信玄死亡直前から棟別銭は増額、
ついでに軍役衆も増大と領国は疲弊状態、
負のスパイラルのはじまりってところか?
301人間七七四年:2007/06/06(水) 07:04:18 ID:PPcGsoMm
>>300
いや、>>297を読んだだけでは、
どの大名も自転車操業だとは思えないから>>298の突っ込みはもとっともだと思うが。
302人間七七四年:2007/06/06(水) 10:33:19 ID:FD1j75wT
>>299
本人はまだまだ生きるつもりで末期だとは思ってなかっただろうけどな。
303人間七七四年:2007/06/06(水) 10:58:29 ID:OVms3/VM
重税に対抗する手段が逃亡しかなかった武田領内の領民達
これは甲斐の庶民がヘタレなのか?
それとも信玄の圧政が上手だったのか?
304人間七七四年:2007/06/06(水) 16:46:12 ID:Lmz3SNAw
重税略奪放火虐殺の上杉よりはマシだろう。
305人間七七四年:2007/06/06(水) 17:10:39 ID:IWbK394Z
そしてどこ吹く風の北条
306人間七七四年:2007/06/06(水) 17:36:33 ID:xsqtZA/w
民衆の退転なんて何処でもみられる現象だけどな
北条ですら、民衆の退転への対策に四苦八苦している
307人間七七四年:2007/06/06(水) 18:09:01 ID:MhJA8FeI
1560年に北条がだした徳政令は生活苦から退転した領民への対策だと
いうしな。北条は1562年にも年貢や諸役の免除を行うことで
退転した民衆を必死になって呼び戻そうとしている。
北条はそれまで原則として質がよくて価値の高い精銭で税を納める事を
強制し、それによって百姓の困窮を招いたといわれている。
こうしてみるとよく言われる北条は税が安い=善政というのどうなんだろう?
表向き安いように見えてもそれが質の高い精銭で納税させられていたなら
相対的に見て重い負担ともいえたんじゃないか?
308人間七七四年:2007/06/06(水) 20:35:12 ID:xsqtZA/w
まあそれに懲りて、
一定の割合での鐚銭の混入を認めたり、一部物納を認めたりして居るんだから、
そこまであくどい訳でも無いかと。

それに選銭はどこでもやってるんだから
309人間七七四年:2007/06/06(水) 22:25:16 ID:LT91eXmY
>>303
この時代東国では農民の武力蜂起と言うのはあまり無いと思う
ヘタレというかそのような社会だったのでは?

>>307
選銭は何処でもやっている

百姓の困窮は多くの学者が言うように単純に弘治の大飢饉が直接的な原因かと

北条の税制を簡単に見ていくなら
1540年代後半の飢饉の影響を受けて
雑役を廃止して懸銭に統合
1552年には棟別銭35文に減額反銭を8%と
そして安定してきた1555年には増税
その後大飢饉となって氏康の隠居、徳政、物納、悪銭の混合率を25%〜30%
目安箱の設置
となっていたと思う。
またこの時期今川も1/4役免除、上杉も課役免除令を出している。
相対的に見たとしてもこの時期は何処の大名も大変
武田は逆に悪銭・新銭の通用を禁止しているけど。

>北条はそれまで原則として質がよくて価値の高い精銭で税を納める事を
>強制し、それによって百姓の困窮を招いたといわれている。
これだけど、日本全体の流れとして精銭の流通量が減ってまたは経済の発達により
貨幣が不足してか石高制へと移行し出す過渡期であるため、
精銭での納税は基本的に時代が進むに連れて徐々に負担になっていったとは思う、
そして北条氏もその時代の流れに合わせてか追われてかは分からないが徐々に物納へと
変化している。

北条氏も農民の訴えを聞き入れるとしているし、相対的に見ても北条は税が安い=善政
310人間七七四年:2007/06/06(水) 22:28:35 ID:LT91eXmY
途中なのに間違えて書きこみ押してしまったorz

北条氏も農民の訴えを聞き入れるとしているし、相対的に見ても北条は税が安い=善政
と一概に言えるとは思えないが、史料から判断するならとりあえず相対的に税は安かっ
たのではと思う。

311人間七七四年:2007/06/07(木) 04:35:55 ID:ZlwmYoAO
武田は基本姿勢が農民の話し合いには応じないだから、
他大名と比較するまでも無いような
312人間七七四年:2007/06/07(木) 09:16:46 ID:GB1pDS6+
>>309
上杉は5年の諸税免除令を出しているが
上杉は税が安い=善政
になるのか?芳情厨ウザス
313人間七七四年:2007/06/07(木) 09:18:33 ID:b/Fodg0R
上杉の善政は以上。
314人間七七四年:2007/06/07(木) 13:13:54 ID:DwdEPKHG
>>312
上杉の場合は、寺社のためとして諸役を逆に臨時に課したりしているから
トントンじゃないの?
北条の政治が評価されるのは、恣意的な税の上下を抑えにかかった点が理由の一つであるし
315人間七七四年:2007/06/07(木) 19:54:35 ID:GB1pDS6+
>>314
具体的に
316人間七七四年:2007/06/07(木) 21:15:58 ID:dZNGd5XA
>>311
そんなことは無いだろ、
甲州法度にも
村の人間の大半が死ぬか逃亡した場合に限り話し合いに応じる
となっていたはず。
317人間七七四年:2007/06/07(木) 21:56:58 ID:ox6L+wcr
>>316
それは既に村が壊滅してるんじゃないか?
それから「話し合いに応じる」なんていわれてもさ
318人間七七四年:2007/06/07(木) 23:29:51 ID:gEeLqoP4
要するに「村の大半が死ぬか、逃亡しちゃったら仕方ないから話し合いに応じてやるよ」だもんなぁ。
盗難の被害に合ってからじゃないと防犯対策をしてくれない警察みたいだ。
ま、武田治世の「民は生かさず殺さず絞れるだけ絞りきる」方策には家康も感心したみたいだし
為政者の側から見たら、結構理想的な統治法なのかも知んない。
319人間七七四年:2007/06/07(木) 23:46:29 ID:dZNGd5XA
まあ甲州法度で逃亡者が出たら、回りのものに肩代わりさせるとか
逃げ出せないように工夫したりしているのも
絞れるだけ搾り取るための条文で
民政家としてはあまり良いとは言えない気がしてきたな
320人間七七四年:2007/06/08(金) 00:13:04 ID:znGfLpoH
逃亡すると残った者に肩代わりさせられるんで、ますます逃亡者が増えるんでないだろうか?
それから話し合いにっていっても話す相手がいなくなったり。
321人間七七四年:2007/06/08(金) 00:15:09 ID:toeSQQdb
>>314
北条のは、目安箱と虎朱印。
虎朱印の無い命令には従う必要は一切無し、
それ以外で税を取ったり夫役をとった役人は直接小田原へ訴えろ、罰するから。

端折って書いたが、そんな感じ。
322人間七七四年:2007/06/08(金) 00:25:18 ID:j3o6Z2ux
>>320
逃亡者が出ると同じ村の人間に負担が来るから
逃亡者が出ないように村人が相互に監視しあい
法度で逃亡者は何処までも追いかけると規定し
よその土地から来た農民がいたら訴えるように通告して
逃げても掴まるようなシステム
逃げ出して掴まって村に戻された村人は村八分にされると
それが怖いから誰も逃げ出さない
若しくはみんなで相談して逃げるしかない
でもそのような相談していたら密告しろ黙っていたら同罪にすると

よくできたシステムだなと思う。
323人間七七四年:2007/06/08(金) 02:32:36 ID:hx6oirdX
いいバランスでうまくいってたんだろうな
あまりに過酷すぎても破綻するだろうし
324人間七七四年:2007/06/08(金) 09:51:30 ID:6RmDokjZ
>>314
>上杉の場合は、寺社のためとして諸役
このソースは?北条厨はどうしても北条家を民に優しい仁政家にしたいようだが・・・・・
325人間七七四年:2007/06/08(金) 11:30:15 ID:BMggeIXV
>>324
それのソースは書状として残っていたと思うけど、
>>314
武田だって寺社のためと称して税をかけていたと思うが
それとは違うの?

>>322
そのように効率的な収奪システムを構築したことは
善政では無いかもしれないけど統治者としては優秀であった証拠になると思う

>>323
そうだろうね、実際に厳しすぎて逃散が相次いだら限界が来て結局収入は減るだろうから、
徳川時代の貧農史観じゃないけど「民は生かさず殺さず絞れるだけ絞りきる」
みたいなバランスを保てていたけど、
永禄の終りみたいに飢饉などでバランスが崩れると逃散が相次いだり、
子どもを売りに出したりしていたんじゃないかと思う。
326人間七七四年:2007/06/08(金) 12:12:48 ID:QxA42um0
後北条は、他所から入ってきた支配者。初代早雲が減税に加えて薬の無料配布をしたことからわかるとおり、民政は重要な基盤整備手段だった
対して武田氏は伝統的支配階層。民心にさほど遠慮する必要性を覚えなかったんだろう
下克上組に、いわゆる「善政」が多いのは、そうしないといけないという背景があったからだろうね
327人間七七四年:2007/06/08(金) 12:25:15 ID:6RmDokjZ
>>324
その書状の名は?他人のフリして逃亡中の北条厨じゃないよな?
328人間七七四年:2007/06/08(金) 13:15:38 ID:tF+tPgK5
謙信の永禄12年5月の棟別銭徴収なら、本当に伊勢大神宮遷宮費に送ってるから、搾取とは又別なんじゃ?
まぁ、領民に迷惑なのは確かだが
329人間七七四年:2007/06/08(金) 13:24:06 ID:DIfeKy7F
謙信時代に破碇寸前の上杉の財政を回復させてるというのは確かに領民に負担を強いていたのかもしれないな
どう領民に負担を強いていたかなどは土豪領主連合体の上杉武田、官僚一元支配型の北条と収奪システムの違いがありそ
330人間七七四年:2007/06/08(金) 13:29:14 ID:tF+tPgK5
信玄の税制を見ると、特別税が異様に多いね
銭による徴収が盛んだった、ということは領国は貨幣経済の発展が著しかったのかな?
331人間七七四年:2007/06/08(金) 13:38:03 ID:tF+tPgK5
謙信の財源といえば、料所とした港湾からの収入だろうね
でも、税金かけすぎで府内や柏崎から領民が離散する事態になっている
この対策として老臣連署で諸役諸税免除が出されたけど、その条目は都合11ヶ条
つまりはそれだけ税金をかけていたということ
地子貢納、入港税、取引税、酒税に麹税、座役、売上税に茶税
北国らしく、雪対策のために夫役で壁を作らせてたっていうのもある