島津義弘は、島津家の17代目当主ではない!!

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1人間七七四年:2007/04/25(水) 18:36:13 ID:PL7uzsvZ
三木靖氏や西本誠司氏の研究によって、島津義弘は
島津家の家督を継承していないことが明かになっています。
それなのに、いまだに義弘を島津家17代目の当主として
扱っている人がいるのはなんでだろう?

三木靖「島津義弘と家督継承」上・下

西本誠司「島津義弘の本宗家家督相続について」
2人間七七四年:2007/04/25(水) 18:58:45 ID:4mr7w0vk
(;´д`)
3人間七七四年:2007/04/25(水) 19:08:04 ID:y/pIB6P5
歴史読本でもこの説やってたな。
4会津藩の末裔:2007/04/25(水) 19:14:49 ID:7HXVhTYQ
島ズなんとか、とかもうどうでもいい件について・・・・・
5人間七十七年:2007/04/25(水) 20:24:35 ID:yVozCxvg
 1
旧態を覆すには相当の時間を要します。
6奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/04/25(水) 21:43:56 ID:svH9mQx4
当主ではないけど大名ではある、と。
この説は詭弁の類なんじゃないのかな。
7人間七七四年:2007/04/26(木) 00:55:14 ID:noU5mMcF
両殿体制をどうみるかの差異だと思うけどな
個人的には、あくまで対外的な大名権力の行使者であって、
当主ではないと見ているけど
8人間七七四年:2007/04/26(木) 06:02:30 ID:tCj1zkhF
薩摩:義弘
大隅:義久
で良いんじゃない
9人間七七四年:2007/04/26(木) 21:04:48 ID:uJ2/ZEZ0
『歴史読本』2007年6月号を読んでみたが、
松尾千歳氏は、いまだに島津義弘を17代目当主として認識しているみたいだ・・・・
10人間七七四年:2007/04/26(木) 21:24:47 ID:jpSis8rm
>>8
秀吉は有力大名の分断策に一族や重臣を大名格に取り立てるのを良くやるからな。
義弘の大隅安堵もその一つかね。
家康の時代になると幕府とやり取りするのは義久と家久で義弘は島津の代表とは見なされていないようだが。
11人間七七四年:2007/04/27(金) 09:44:50 ID:vu+x4x27
>>8
逆だろ
12人間七七四年:2007/04/27(金) 17:12:48 ID:TKorvGyE
逆だった!
13人間七七四年:2007/05/05(土) 22:27:06 ID:fht+8qIF
age
14人間七七四年:2007/05/05(土) 22:38:45 ID:sCsyt1N7
もともと後継ぎがいなく、秀吉に降伏後ほとんどヒッキー状態だった義久に代わり
義弘が家督継承、関ヶ原絡みで実権を失い、戦後処理は義久主導。で、義弘の子
忠恒が家康から一字拝領して家久に名を改め、家督相続が認められて
戦後処理が終了って説は違うの?
15人間七七四年:2007/05/06(日) 01:51:18 ID:pOr9iTZ/
16人間七七四年:2007/05/10(木) 08:06:09 ID:dvz5xDCR
三木靖氏の主張→義弘は家督継承予定者であったが、遂に家督は継がなかった。元気な兄を差し置いて家督についたなどと言われてはありがた迷惑だった。
17人間七七四年:2007/05/10(木) 08:11:01 ID:dvz5xDCR
西本誠司氏の主張→加治木の経塚には一七代藤原義弘とあるが、兄義久が慶長16年に没し、家中に異議を唱えるむきがなかったので自称したのだろう。
18人間七七四年:2007/05/19(土) 13:15:14 ID:+iMNEAVl
age
19人間七七四年:2007/05/23(水) 11:13:46 ID:wW1gxJCa
文禄の検地の後、秀吉が出した島津氏の領地支配を指示した朱印状の宛名は義久ではなく義弘。
また、義久に鹿児島を出て冨隈に移るように命じて、義久もそれに従っている。
これらは、豊臣政権が義弘を当主にすえたこと。義久も渋々だが、これを認めたことを示しているのでは。
関ヶ原の合戦で義弘が出ず、義久が出てくるのも、義弘の後ろ盾、豊臣政権がなくなったから。
義弘は、こうしたことがあるから、加治木の経塚に十七代と書いた。
家中に意義を唱えるものがいたいないは別問題。
20人間七七四年:2007/05/23(水) 14:39:32 ID:0JFfv2NH
「関ヶ原の合戦で義弘が出ず」は、
「関ヶ原の合戦処理で義弘が出ず」でした。訂正します。
21人間七七四年:2007/06/13(水) 21:05:02 ID:VN2Mm+Oz
age
22人間七七四年
義久→義弘→義久→家久