■■「 川中島 の合戦」

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1人間七七四年
「戦術的には謙信の勝利だが、戦略的には信玄の勝利である」、
後世の歴史家はこう評したらしいが、実際どうよ?
2人間七七四年:2007/03/17(土) 15:08:04 ID:HLBGFppm
前スレ?
歴史の選択 川中島の戦い
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153909769/
3人間七七四年:2007/03/17(土) 16:54:22 ID:/iFqkDHz
かぜのなかのす〜ばる〜
4人間七七四年:2007/03/17(土) 17:07:15 ID:p59gUQLB
>川中島第四回合戦の史実といわれているのは、こんな感じらしい。(改訂版)

新たに関東管領となってブイブイ言わせたい上杉政虎、ここらで信濃の所領を
武田から分捕って旧領主たちにばらまき、大いに名を上げたい。かつて第2回
川中島合戦、通称「二百日の対陣」のにらめっこで粘り勝ちし、和平合意の際に
武田から土地を奪うことに成功した経験に味をしめていたので夢よもう一度と
武田の領地の奥深く深〜く入り込んで、妻女山にたてこもる。これで信玄が
真ん中あたりの境界線で手を打ちましょうと申し出てくれれば万々歳。
軽い気持ちで和議の使者を待っていた。

しかし管領になった政虎を警戒し、義元亡きいま南に矛先を向けるためにも
川中島の小競り合いに決着をつけておきたい信玄はいつもの慎重居士とは
違っていた!「土地なんか一カケラもやらんずぉおおお」と気合いをほとばしらせ、
逆に越後国境戦近くの茶臼山に入り込んで越後勢の退路を断つ意地の張り合い。
和議を申し込んでくる気配なんててんで無いことに気づいた政虎はさあ大慌て。
功成り名を遂げたいま、生きるか死ぬかの大決戦なんてする気はこの新人
管領にはサラサラない。とはいえいまや事実上包囲された銀行強盗状態で
逃げるに逃げられない。
5人間七七四年:2007/03/17(土) 17:07:45 ID:p59gUQLB
信玄は「寝起きに不便で困る」と海津城に移動してくれたものの、まだ上杉軍は
糞尿処理もままならない山の上で立ち往生。下から丸見えなのでうかつに下山
しようとすると袋叩きに遭う。困っていたところへありがたいことにこの季節特有の
猛烈な濃霧が発生!帰国命令にやれうれしやと上杉軍はいっせいに帰り支度。
まっすぐ北の越後を目指し、山を降りたら一気に川越えを狙ってやる気満々。

ところが妻女山と海津城は目と鼻の先。大きな声なら会話も出来たという至近距離。
鎧兜や鍋釜をガチャガチャやっていればすぐばれる。武田軍はたちまち臨戦態勢。
まっすぐ北を目指すであろう上杉軍の前に立ちふさがるべく、横一列の鶴翼の陣を
敷けとの命令に海津城から兵が繰り出される。しかし30センチ先も見えない霧で
上杉軍はウロウロ下山の道を誤り、武田軍もどこを守っていいものかわからず、
お互い川の水音だけを頼りに手探りの暗闇布陣劇になった。
6人間七七四年:2007/03/17(土) 17:09:31 ID:p59gUQLB
かくして夜が明けてみると、両軍は犀川沿いにおいて、陣構えもろくに出来ていない
状態でまともに顔を合わせてしまった。かくして上杉勢は川を越えて越後を目指す
ために渡し場に殺到し、うっかりその近くに移動してしまっていた諸角虎定、山本勘助、
典厩信繁といった、本来なら下っ端兵など寄せ付けないはずの重臣の陣地がいきなり
バーゲンコーナーのように人が殺到する場になってしまい、気の毒に彼らはその気も
なかった越後の「復員軍団」にひき逃げ同然に押し潰され殺されてしまう。

ハッキリ言ってそのまま放って置けばよかったのに、ここで政虎に恥をかかせて
新管領にミソをつけておきたい信玄は無駄にやる気満々。様子を見てきた斥候が
「越後勢は戦う気がありません。わが軍の陣地をよけるように走り抜けていきます」
と報告しても、ここで兵達が傍観しちゃたまらんと「バカモノ、それは相手が大きな
車輪のようにグルングルン回りながらわれらを皆殺しにしようとする車懸かりの陣と
いう必殺技だっ。殺られる前にやらないとおめーら死ぬぞ。行けぇーッ」と、その場
しのぎの口からデマカセで兵を鼓舞して無理やり迎撃させる。
7人間七七四年:2007/03/17(土) 17:10:12 ID:p59gUQLB
しかし天罰テキメン、そう言っていた信玄もバーゲンセール軍団の通過コースに
乗ってしまい、通り過ぎたいだけの乱入軍団に行きがけの駄賃と切りつけられる
ブザマな醜態。一方の政虎も敵中突破、いつの間にやら護衛とも離れてしまい
管領ともあろう者が自分で武器を振り回さなければならない惨めな逃避行。
かくしてこの全然関係ない二つの場面が合体して「三太刀七太刀」の名場面が
デッチ上げられる事になった。ついでに言うと霧の中で救援に駆けつけられずに
いた遠方待機の小山田郡内勢が昼過ぎにもなってようやく現場に駆けつけ、
半日近くもカバディのように通すの通さないのとせめぎあい疲れきっていた
上杉勢に襲いかかり、オヤジ狩りのように大活躍。これが何をどうしたのか
「啄木鳥戦法」と語り継がれることになる。
8人間七七四年:2007/03/17(土) 17:11:15 ID:p59gUQLB
かくして越後勢は指揮官クラスはまんまと渡河に成功して全員脱出。しかし
兵はかなり無駄死に。ほとんどインパール作戦のごときアホらしい顛末。
いっぽうの武田軍は当時の戦争の常識では考えられないほど指揮官クラスが
バタバタ無駄死に。だもので「はぁーとてつもない激戦だったんだねえ」と
誤解が誤解を呼んで伝説の闘いになってしまった。

政虎は結局タダ働き。だもので頑張った部下にも「よくやった。あげられる
土地は全くないが、俺の気持ちを受け取れ」と感状だけ押し付け、信玄は
「まったく高い買い物になったわいトホホ」と言いつつちゃんと土地を分配。
以後上杉勢は川中島に近寄らなくなったので実質的に武田の完勝。

文献やらを照合するとこういうことになるらしい。「甲陽軍鑑」の信玄の言葉が
あまりに状況とぴたりと一致したので調べていた時は驚いたものだw
ま、現実なんてこんなものでしょ。
9人間七七四年:2007/03/17(土) 17:15:29 ID:0fRI0J2u
乙。
10人間七七四年:2007/03/17(土) 17:17:39 ID:as4BbqY5
現実なんてこんなものでしょ。

だけ読んで全てを理解した
11人間七七四年:2007/03/18(日) 17:18:40 ID:+8wokdAU
謙信てのも物好きだよな。
あれだけただ働きさせりゃ、そりゃ反乱起こす奴多いのもわかるよ。
12人間七七四年:2007/03/18(日) 22:11:02 ID:iUtS93h3
NHKのパフォーマンス説はどうかと思った
13人間七七四年:2007/03/19(月) 01:42:40 ID:3ctxq/Uq
>>8
信玄は越後進出を考えていたのに、寸土も取れなかったわけだが
14人間七七四年:2007/03/19(月) 02:32:43 ID:8ikLvgZy
あらあらw
15人間七七四年:2007/03/19(月) 03:16:06 ID:FqHXJkSr
俺は上杉贔屓だけど、まぁそんなもんといやぁそんなもんだったのかなぁ…て感じだ
16人間七七四年:2007/03/20(火) 01:55:02 ID:DN6BfthG
>>4-8うそはいかんぞ
17人間七七四年:2007/03/20(火) 08:34:57 ID:b5dKK0hh
講談丸出しのお話をどうもありがとうございました。今のところ第四次川中島合戦の詳細なんてほとんど分かっていないからね。
18人間七七四年:2007/03/20(火) 09:07:14 ID:o+F6xu1B
義は大切
若いもんにはそれがわからんのですよ。毘や龍の旗がはためいた時に兵士達の士気はいやがおうにも高まり勇猛果敢になるんですよ。
19人間七七四年:2007/03/20(火) 09:25:44 ID:pm1Vo08l
>>17

合戦の詳細が分かってないのは事実だろうが、>>4-8のいったいどこが
講談丸出しなんだ?わけ分からんぞ。
20人間七七四年:2007/03/20(火) 09:30:00 ID:N2lGxBKY
>>1
の答えは、信玄勝利だよ。謙信は城を奪取できず信玄の版図は変わらない
から。ちなみに俺は謙信大好きだけどさ。終了w
21人間七七四年:2007/03/20(火) 10:14:31 ID:8Ek1UhKd
そろそろ必死な信長厨がやってくる頃だと思いますので一言先に言っ
ておきましょうか。
川中島の戦いという最強同士の今尚語り継がれる戦いにおいては信
長の関与する余地は無いもんだから、僻みから武田スレ上杉スレを
荒らしまくるんですね。

八幡原だけが川中島の戦いじゃありませんよ、名将同士の戦いじゃな
いのであれば、その他の4度に渡る膠着した対陣はどう説明するので
しょうか?互いに数多くの敵を打ち負かしてきた者同士、あの戦だけ
あのような戦いだったのはどう説明するのですか?


22人間七七四年:2007/03/20(火) 10:31:05 ID:aptWC7Qi
信州川中島五度合戦

第一次川中島 天文22年 信玄の北信濃侵攻・謙信の荒砥城奪取・信玄の反攻
第二次川中島 弘治元年 旭山城攻囲・犀川布施200日対陣(和睦)
第三次川中島 弘治3年 上野原の戦い
第四次川中島 永禄4年 八幡原の戦い
第五次川中島 永禄7年 犀川30日対陣
23人間七七四年:2007/03/21(水) 13:36:58 ID:wjTkuJLN
信玄の負けかな。
領地はとってもそれまでに費やした時間や戦費を取り戻せたとは到底思えない。

謙信は領地より戦って自分の威信や面目を保つことが目的の変人っぽいとこあるから
領有する目的の軍事展開してないように見える(その能力がなかったって見方もできるが)
24人間七七四年:2007/03/21(水) 14:53:50 ID:vBsnkG2D
論理を成してないw
25人間七七四年:2007/03/21(水) 15:05:16 ID:wjTkuJLN
北信濃の領有はそれほど大した意味がないってことだよ
信玄厨以外にはな
26人間七七四年:2007/03/22(木) 00:52:07 ID:Yxk39/vS
謙信は関東LOVEだからそれを邪魔する信玄にキツーイお仕置きをするための戦よ
信玄にとっても上洛の憂いを断つために一応の決着を着けておきたい戦。
上で言うような霧を幸いに逃げ出すようなまぬけではない。
27人間七七四年:2007/03/22(木) 05:05:58 ID:Ia43rv1W
>>25
お前の頭が厨だろどう見てもw
28人間七七四年:2007/03/22(木) 16:00:47 ID:RoGohZK3
川中島なんて一地方の小競り合いに過ぎない
講談の影響だな
29人間七七四年:2007/03/23(金) 01:50:55 ID:8mTDhYEk
川中島合戦の真相は、その昔も人気のスポットだった信州善光寺の奪い合い
だったらしい。第二次合戦はその焦眉で、信玄が信濃守護に任じられたと同時に
信州善光寺の本尊を奉じて甲斐善光寺を建立したとか。対する謙信は越後に浜善光寺を。
のちに織田信長が武田を滅ぼして、善光寺の本尊は嫡男信忠の城下(岐阜)に。
さらに、徳川治世に信州にもどる。いろいろ言われてるけど、善光寺の集客力というか無宗派寺院としての
人気(いまも)が川中島の真相なんじゃねぇの? その意味で、

>一地方の小競り合いに過ぎない

とか言う知ったかの香具師は、バカ丸出しだな(笑い
30人間七七四年:2007/03/23(金) 02:12:04 ID:zLkueVXl
川中島の勝利者なんて水掛け論の定番の話題で
どうせ決定打なんて出ないし面白かったから>>4-8でいいや。

それが正しいと思うとかじゃなくて不毛な言い争いみるより
楽しませてくれたから。
31人間七七四年:2007/03/23(金) 03:08:10 ID:iFiJQU10
>>20
信玄も、信濃の完全制圧には失敗したけどな。
信濃飯山城は最後まで、謙信の拠点だった。
32人間七七四年:2007/03/23(金) 03:31:42 ID:vLvwIirF
>>29
バカ丸出しwww
33人間七七四年:2007/03/23(金) 23:39:37 ID:T7fNxZmk
そんな時間に自己紹介か。
変わったクズだ。
ま、ご苦労。
34人間七七四年:2007/03/23(金) 23:49:07 ID:vLvwIirF
社会の多様性をしらないガキか?w
35人間七七四年:2007/03/24(土) 00:30:04 ID:wluRp9nP
NHKその時歴史が動いた 

謙信恐るべし
〜上杉謙信 信長が恐れた戦略家〜(仮)
平成19年4月4日 (水) 22:00〜22:43 総合

長篠の戦いで強敵武田勝頼に圧勝した織田信長を妨げる障壁は、皆無となりつつあった。
ところが織田信長を恐れもせず、立ちはだかる人物がいた。かつて武田信玄と死闘を演じた上杉謙信である。
信長は、信玄亡き武田には勝った。しかし謙信健在の上杉は一筋縄ではいかなかった。。。
36人間七七四年:2007/04/03(火) 21:05:07 ID:u4BSwd2q
・越後が米どころというのは江戸時代の話で、佐渡金山も当時は未発達。
・しかし上杉謙信は海運と商人の保護によって莫大な税収と貿易黒字を
 確保していた都市型大名だった。
・信玄も国中・郡内とも米作などに頼る必要のない貿易を中心とした
 近代国家で、飢饉に悩まされた信虎の時代でさえ、府内の文化水準は
 戦国末期を凌いでいた。
・善光寺は当時日本最大と言ってもいい大都会で、その争奪戦は第四回合戦
 以前に武田軍の圧勝に終わっている。
・川中島は第四回合戦の頃は文字通り川の氾濫地帯で、米なんか取れない
 ただの湿地帯だった。ここで取れる米など最初から両者の眼中になかった。

「当時は農産物を生む土地を争っていたはずだ」という古い固定観念を
ひっくり返されると、川中島の合戦一つとっても何もかも新鮮に見えるな。
37人間七七四年:2007/04/06(金) 15:02:38 ID:0z4ZnvyP
たしかに信玄と謙信は米どころである信濃の川中島をめぐって
戦っていた、っていう固定観念があったなあ、俺も

日本の歴史って、どうしてこうもいらぬ誤情報を教えこんで
分かりやすい話を歪んだファンタジーにするのかねえ

信長以外の戦国「武将」も、みんなレベルの高い経営者であり
文化の庇護者であるっていう当たり前の認識からスタートしないと
信長の功績にしても、まるっきり的外れなまま終わりそうな気が
38人間七七四年:2007/04/06(金) 19:56:39 ID:1T2TqHge
いそのーって台詞しかない眼鏡か
39人間七七四年:2007/04/06(金) 21:22:17 ID:2nZqVl4R
>>37
越後を攻め落としたい信玄と、北信を平定して越後への防波堤にしたい謙信との戦いだったと思う。
桶狭間以前、信玄は父親追放で今川義元に借りがあるから駿河を攻めていない。
(当時想定外の桶狭間がなかったとして)北信平定だけが信玄の目的なら、北信を平定した後はどうするのということになる。
40人間七七四年:2007/04/07(土) 10:34:16 ID:MHb6Q7tL
>>39 ヒントは最初から信玄が天下への野心があったか?ということ
もとはといえば甲斐を脅かす信濃の豪族連中を征伐する為に始めた信濃攻略だ。
しかし義元の死によって戦略転換をし始めたんだろうよ。
しかし信玄を貶めるような発言してる連中は、最初から信玄が天下への野心が旺盛であり、
謙信との戦いが長々と続いたせいで天下取りに遅れたとか解釈する始末
41人間七七四年:2007/04/07(土) 10:36:44 ID:T/GVmoTV
結局後年の主戦場は上野に移ってるわけだしな
42人間七七四年:2007/04/07(土) 11:40:42 ID:/aIEcKjv
ということは、川中島は地方の小競り合いであったという結論でよろしいな
43人間七七四年:2007/04/07(土) 13:20:50 ID:1zhxK9Wf
はい。
境界線を確認し合う作業ほどのことだったと思います。
44人間七七四年:2007/04/07(土) 13:52:36 ID:o8x1kjUF
というか、川中島を完全制圧、日本海というより海運貿易の拠点
直江津まであと五十キロの距離、というところまで迫ったときに
義元が死んで甲斐は「海」を駿河に求めることにして、国論を
南進政策に大転換したんだよな。そうでなければこの戦いの様相は
まるっきり変わっていた事だけは疑いようがない。

世に言う「第2」が善光寺権益を争う戦いで、第3回でそれに
決着がついたので、本当なら第4回合戦は日本海側の商業権益を
争う最大規模の経済戦争になるはずだったのに、その前に路線
転換がなされ、出し遅れの証文の奪い合いみたいになってしまった。
しかもその戦いの方が大きく喧伝されたおかげで戦いの実相が
構成の我々にはますます見えなくなった。

「天下」なんて言っても関東の人間には、九州の大名間の争いも
京都周辺の争いもおんなじ次元の遠いローカルな話に思えたん
だろうなあ。国際社会の今だって、アフリカの権益争いが自分に
どう関係するかなんてピンと来ない人が多いわけだし。
45人間七七四年:2007/05/06(日) 22:11:17 ID:ASY6ZRTh
46人間七七四年:2007/05/06(日) 23:21:46 ID:I8fuYc5o
小中学校の同級生にお寺の娘で長尾さんて人がいた。
上杉謙信の子孫って聞いて子供心にへぇーって。
4746:2007/05/06(日) 23:22:57 ID:I8fuYc5o
長野県千曲市在住です
48人間七七四年:2007/05/08(火) 14:31:56 ID:ze2s917Y
>>37 越後を攻め落としたい信玄www
信玄はそんなアフォではない
49人間七七四年:2007/05/08(火) 16:01:44 ID:OrkM01PV
ん、川中島か。信玄が善光寺の本尊と甲府に持ち帰り僧侶たちを移住させた時点で
川中島は単なる国境線になってしまったとさ。
50人間七七四年:2007/05/09(水) 16:26:27 ID:/ftA/lpB
>>36
「その時歴史が」でも紹介されていた青苧(あおそ)の交易なんて、
直江・柏崎の港で支払われた入港税(船道前)だけで、年間4万貫の
利益になったっていうから、謙信自身がトップセールスを行っていた
交易そのものの利益なんて文字通り天文学的だった。
そりゃ農地なんて何の魅力もないように見えたんだろうww
51人間七七四年:2007/05/11(金) 16:33:34 ID:8bLzqC0g
単に勢力圏の狭間が川中島辺りになっただけ。
お互いに警戒していたが故に
どちらかが境に現れると片方が仕方なく迎え討つという図式で
積極的な版図拡大意欲はここには無かった。
52人間七七四年:2007/05/11(金) 16:39:55 ID:IuS/wF0V
電柱にションベン掛け合ってたら偶然出会ってしまった

で、OKですよね。
53人間七七四年:2007/05/11(金) 17:10:49 ID:DJ2Eyghl
>>35
勝頼って強敵か?
信玄が強敵っていうならわかるけど。
NHK頭可笑しいのか。
54人間七七四年:2007/05/11(金) 18:18:39 ID:LR4CkdYj
>>53
勝頼は無能じゃないよ。
戦も弱くない。
長篠だけで判断してやるのは可哀相かも。

強敵と言うのは、武田軍じゃないかな?
信玄時代の百戦錬磨な老臣も残ってたしね。
で、その時の当主が勝頼だからあながち間違いでも無いと思う。
55人間七七四年:2007/05/11(金) 22:01:10 ID:l/PyMWYu
>勝頼って強敵か?

信長が「勝頼は強敵だ」と認める書状を残してるがな
56人間七七四年:2007/05/11(金) 22:27:17 ID:5Zd2bJ2H
川中島の戦いはしょぼい田畑の争いではなく、
信長をしのぐ謙信の巨大な経済力の源である
日本海貿易の拠点を争う経済力争奪戦。

根本のとこの認識が欠けたまま、奇妙なロマンを
煽っていたのが戦前までの時代なら、戦後は
うわべのロマンだけ否定して、史実のスケールの
でかさを理解できない半可通が「大したことのない
ただの国境争い」とマヌケなことを嘯いてた時代。
57人間七七四年:2007/05/11(金) 23:16:33 ID:CNe7h3vy
局地戦以外のなんだっつーの。
奪取しても戦果拡張できず、政治的にも意味がなく。
田舎大名同士の典型的な野良合戦。

そもそも、ろくな資料が無くて、合戦の経過
も分からない。その程度のどうでも良い戦
だったってこと。
58人間七七四年:2007/05/12(土) 01:19:18 ID:1z0z0PD5
>>57
局地戦だろうが、影響力は川中島だけじゃ済まないのよ。
川中島は孫子で言う「衢地」だから、緩衝帯が無ければ
嫌でもカチ合うわな。
取ってるのと取られてるのでは政治的に大違い。
だもんで度々大戦さが起きてるし。

木曽義仲vs城資茂
(木曽勝利後は越後すら勢力範囲に入り一気に兵力拡大→倶利伽羅峠)
謙信vs信玄
(信玄が握った後は謙信は信濃に手が出せず)
景勝vs氏直
(景勝勝利後は信濃から北条完全排除)
59人間七七四年:2007/05/12(土) 03:02:37 ID:4edcbJP7
信濃善光寺の帰趨だな、川中島合戦の本質は。
信長も秀吉も善光寺の本尊を渇望したわけだし、家康の代になって信濃に帰参。
信濃善光寺が天下の証明だってよ!
60人間七七四年:2007/05/12(土) 14:39:05 ID:GbBo/kdI
信長が勝頼を強敵って認めてもねぇ・・・。
信長あんま強くないし・・・w
61人間七七四年:2007/05/12(土) 20:07:15 ID:bKBSnvqt
>>59
面白い観点だな
神仏が大きな影響力を持っていた時代である以上
あながちウソととも言えまい。
62人間七七四年:2007/05/13(日) 00:54:00 ID:C3XQ9TRs
第二次川中島合戦(弘冶元年)のあと、謙信は越後府内に浜善光寺を建立。
信玄は信濃守護職を拝命のあと、甲斐善光寺を建立(本尊を安置)。
天正9年に武田勝頼が甲斐善光寺に制札。翌天正10年に、武田氏を滅ぼした織田信長が
善光寺本尊を嫡男信忠の居城(岐阜城下)に。同天正10年、本能寺の変で織田嫡流が滅亡すると、
善光寺本尊は織田信雄の居城(清洲城)へ。翌天正11年、徳川家康が善光寺本尊を三河、ついで浜松へ。
その後、本尊は信濃へもどる。慶長2年に、豊臣秀吉の命で善光寺本尊は京都に。
秀吉が病没する前日に、信濃にもどされた(「上杉氏年表」高志書院刊)という。

信濃善光寺は、平成のいまも人気のある無宗派寺院だが、戦国当時は数万人の檀家を抱えていたらしい。
一説によれば、同時代の京都や堺、博多などの人口を大きく超えていたとされる。
63人間七七四年:2007/05/14(月) 12:26:12 ID:O2rcAxpa
>>60
じゃあ誰が認めたら良いんだ?
勝頼が直で戦った相手ってどれだけあるんだよ・・・・
64人間七七四年:2007/06/26(火) 04:59:14 ID:yFMrQBud
  
65人間七七四年:2007/06/28(木) 13:46:26 ID:qJrYF/2W
諏訪四郎勝頼は大うつけじゃあ!
66人間七七四年:2007/06/28(木) 14:05:56 ID:qJrYF/2W
家臣〜領民に愛想を尽かされながらもやっと築城したばかりの駿府城に自ら火を付け逃走した信玄の馬鹿息子は武田を継ぐ器には程遠い大たわけ者じゃあ!
67人間七七四年:2007/06/28(木) 19:55:58 ID:zVdKM8qV
>>65
長篠の戦以後鉄砲の必要性を再認識し鉄砲を導入したよ。
68にゃんこ:2007/06/28(木) 20:09:52 ID:fp4MnsH+
67>

三河物語によれば、武田方の鉄砲で長篠城はボコボコにされたらしい。
鉄砲は、伝来から30年ほど経っているんだから、珍しい新兵器ではないよ。
69人間七七四年:2007/07/02(月) 21:38:32 ID:I9ItkIid
>>54
>信玄時代の百戦錬磨な老臣も残ってたしね。
馬場くらいじゃね?。数える程しか残ってねー気がする。
70人間七七四年:2007/08/06(月) 18:21:47 ID:6tIwT/eZ
大河
川中島は全部やるのかな
4回目しかやらない?
71人間七七四年:2007/08/14(火) 03:51:17 ID:6wCX+fEd
今度甲子園で山梨と新潟がぶつかるぞ
72ウイポジャンキー:2007/09/25(火) 00:16:33 ID:y8i36pSA
 今のミャンマーがまさに川中島状態。
73人間七七四年:2007/09/27(木) 12:56:12 ID:Itm0bNNC
いよいよ、今週か。
74人間七七四年:2007/09/29(土) 13:04:20 ID:C2g4aPwc
>>57
局地戦というが、川中島周辺は石高だけでも10万石くらいはあっただろうし、
それなりに経済的な要衝でもあり、またこの地域の領有は、
上野等関東での争いにも影響を与える。
川中島の戦い前の領土が武田側はせいぜい50万石、
上杉も40万石あるかどうかだった事を考えれば、少なくとも両家にとっては、
この地域の領有はかなり重要だったといえると思いますよ。

まあ、武田や上杉にとっての重大事でも、
全国的な規模から見ればただの局地戦だといわれれば、
それはその通りだと思うが。
75通りすがり。:2007/10/02(火) 12:59:19 ID:oEtb34lK
過日、長野の県民文化会館での信大の先生の講演を聴きました。
謙信が妻女山に陣を敷いたとするが、物理的に不可能とのこと。

 どうも甲陽軍艦いいかげんですね。
本当のことはなにもわからんらしい。
76人間七七四年:2007/10/13(土) 01:23:07 ID:u/RUZ6/6
77人間七七四年:2007/10/25(木) 21:57:20 ID:6kgnvuBy
アヒャヒャヒャヒャ!!
俺も旭日将軍見習って、北国から京に攻め上るぞぉぉぉ!!!
川中島を攻略したら次は越後じゃぁぁああああ!!!!
___  __________
.    ∨     ||    ||
   ∧ ∧  ||    ||   ∧ ∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  ( ゜∀゜) 目   目  (・∀・ ) <と、いう話だったら越後防衛に成功
  ( 信玄 つ      ⊂´謙信 ) | あ〜んど信州豪族を家臣団にゲット!
 ┃レ.__.^ | ̄ ̄ ̄ ̄|^ .__ ノ┃|   で俺様ウマー(゚Д゚)
 ┗━┳┳\| ̄ ̄ ̄ ̄|./━┳┳┛ 
     ┃┃  |____|   ┃┃  


あ〜ん?越後攻略??
んな遠いトコまでうちの兵站保つ訳無いっしょ。
信濃から敵対勢力追い出したら、
北条と上杉の紛争のドサクサにまぎれて上州の城を掠め取りながら
駿河を侵略する支度をしますよ。
三国同盟?なにそれ、おいしいの??
___  __________
.    ∨     ||    ||
   ∧ ∧  ||    ||   ∧ ∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  (−∀-) 目   目  (・∀・ ) < と、いうコトだったら無駄に労力使った挙句
  ( 信玄 つ      ⊂´謙信 ) | 第4次勃発のアオりで小田原城仕留め損ねた俺様涙目。
 ┃レ.__.^ | ̄ ̄ ̄ ̄|^ .__ ノ┃|  
 ┗━┳┳\| ̄ ̄ ̄ ̄|./━┳┳┛ 
     ┃┃  |____|   ┃┃  
78人間七七四年:2007/10/25(木) 22:09:36 ID:GqKcNiER
>>77
でも川中島で謙信を討ち取れば、越後へ攻め込むだろww
「越後は攻めない」という書状でも残ってんのか?
桶狭間がなかったとして、今川義元相手に信玄が戦いを挑むかな?
謙信からすれば、自身の叔父が守る信濃飯山城を守る必要もあった。それとも「信玄は飯山城も併呑しない」という書状もあるの?w
79人間七七四年:2007/10/25(木) 22:26:46 ID:6kgnvuBy
>>78はなんでこんなに喧嘩腰なんでしょう?上杉さん。
___  __________
.    ∨     ||    ||
   ∧ ∧  ||    ||   ∧ ∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  (−∀-) 目   目  (・∀・ ) < さぁ?
  ( 信玄 つ      ⊂´謙信 ) | とりあえず、武田さんに越後侵攻の意図があるかないかで
 ┃レ.__.^ | ̄ ̄ ̄ ̄|^ .__ ノ┃|   俺様の損得勘定も変わって来るって言いたいだけなんですがね。
 ┗━┳┳\| ̄ ̄ ̄ ̄|./━┳┳┛ 
     ┃┃  |____|   ┃┃  
80人間七七四年:2007/11/14(水) 13:14:31 ID:IZVSX47g
保守
81人間七七四年:2007/11/18(日) 19:11:18 ID:H7HzDD8u
>>79
損得勘定は多少変わってくるかもしれないが、
領有を争っていた川中島周辺は最終的に信玄のものになったし、
関東での北条との戦いも足を引っ張られることになったのは事実なのだから、
どちらだとしても上杉にとっては、戦略的に負け戦、
少なくとも不利な形勢の戦だったということになると思うよ。
82人間七七四年:2007/12/06(木) 23:48:43 ID:csbPmNtf
謙信は越後に援軍を用意してあって、武田を挟み撃ちしようと考えてたのでは?
それに気づいた信玄が全軍海津城に篭ったというのはどうでしょう?

そして援軍が来る前に啄木鳥で決着をつけようとしたのではないでしょうか?
83人間七七四年:2007/12/07(金) 02:09:59 ID:szdo6IOt
それは角川映画「天と地」でやってたな。
84人間七七四年:2007/12/07(金) 16:59:07 ID:jtgojDmi
それをいうなら「天と地と」

「天と地」じゃ全く別の映画になってしまう…
85人間七七四年:2007/12/11(火) 00:10:30 ID:Fx5UKti9
>>82
敵中深くに布陣して武田軍を誘い出し後方遮断に出たところを増援部隊で挟撃。
信玄が焦って無理な攻撃に出てきたところを痛破する作戦だったと仮定する訳か。
それならほぼ、謙信の思惑通りに事は進んだ訳だが、
それでも信玄を討ち漏らした上に海津城も落とせず撤退する羽目になった訳だから
事実上の負け戦ではないか?
勝負には勝ったが、試合には負けたみたいな。
86人間七七四年:2007/12/11(火) 01:44:33 ID:a2n7I8xM
>>82
越後の石高は40万石足らずだから、総兵力は一万に届かない
さらにこの頃は為景、晴景に逆らった下越支配も完了してない
東蒲原は芦名の領土だし
この一万足らずの軍勢から越中一向衆&神保へと割かなければならない
越後から川中島へ連れて行けたのは五千〜八千といった所だろう
謙信は自分で軍役帳を書き残しているが、それだと5500人しか居ない事にもなってる
春日山に援軍なんか殆ど用意できないよ
87人間七七四年:2007/12/11(火) 01:47:55 ID:a2n7I8xM
一方、武田は甲斐信濃合わせて80万石近い
それに後方は三国同盟でガッチリ守られてるから、他方面に割く必要が無い
謙信は冬の間、富倉峠の豪雪で出兵できないし
その隙を突いて信玄は調略、城攻めをし放題だった

両者の年の差、先代が築いた支配体制、周辺国の情勢、地理&気候
これら全てにおいて信玄は圧倒的に有利
88人間七七四年:2007/12/11(火) 07:49:16 ID:Fx5UKti9
ここまで無知な人は久々に見たな・・・
89人間七七四年:2007/12/11(火) 20:56:55 ID:rtJ0ig6O
第四次川中島では
上杉には蘆名氏の援軍が、
武田には北条と今川の援軍が来ているんだったよな。
90人間七七四年:2007/12/12(水) 21:46:48 ID:ANb9Z1xZ
甲陽軍鑑ですら、武田軍は駿河国境近くの兵まで根こそぎ動員していて、
川中島を突破されれば甲斐までさえぎるものは何もない状況だと記している。
甲斐と信濃は後年の太閤検地の数値でも全部あわせても60万石強、
その上、当然当時川中島以北は武田家の領土だったわけではない。
91人間七七四年:2007/12/13(木) 02:35:19 ID:dcv5vszM
>>82
フィクションとされる車懸かりの陣だが、ロマンを持って考えると
あの陣形そのものが武田軍を根こそぎ挟撃ためのものだったんじゃないかなーと。

適当に戦った前衛がわざとぐるっと退くことで深追いしてきた敵を自陣に巻き込み、
包囲して各個撃破していく戦法だったとすれば理に適ってなくもない。
つまり不意を突かれて混乱した武田方の猪武者たちを釣り出すための陣だったと考えるとおもしろい。

まあ常考そんなまわりくどいことはせずに、一気に強襲するなり
伏兵を置いて挟撃するなりした方がよっぽど効果的なんだけどね。
92人間七七四年:2007/12/13(木) 13:37:43 ID:7tmxH7Zg
>>90
ということは石高で換算すれば4人役くらいの動員をかけたってことになるんかな
93人間七七四年:2007/12/13(木) 22:07:17 ID:Cbnd6vHe
まぁ、記録に残ってる武田軍2万、上杉軍1万2千という兵数は眉唾モノだけどな。
実際よりかなり多めにサバ読んでる可能性が大。
現実には武田軍8千前後、上杉軍6千前後くらいじゃないの。
94人間七七四年:2007/12/15(土) 09:18:48 ID:LqBNz6lP
武田軍2万上杉1万2千という数字は別に不自然ではないでしょう。
太閤検地の石高を参考にすれば、そのくらいの数字にはなる。

およそ甲斐22万石、信濃40万石、越後39万石。川中島以北は両者が領有を争っているところで、
上杉につく豪族もいたわけだから、両者の石高は武田50万石強、上杉は40万石強って処でしょう。
そして武田が100石あたり4人役、上杉が3人役なら、それぞれの兵力はおよそ2万と1万2千になる。
武田側に比べて上杉側の方が動員の余裕があったとの記述とも一致するし、整合性は取れているかと。

まあ、もちろん完全に事実だと言い切れるものではないが、
それをいったら当時の兵力全てに対してそんな事は言い切れない。
当面は信じておいて支障はないくらいの数字ではあると思う。
95人間七七四年:2007/12/15(土) 13:20:37 ID:hGDWLGBn
動員が可能かどうかはともかく、
問題は威圧するだけのために可能最大兵力に近い数の大軍をわざわざ差し向けるか?
ってとこだと思うんだ
勝頼が全力をかけて長篠を落としに行ったのとは状況が違う訳だし
96人間七七四年:2007/12/15(土) 14:48:27 ID:Ht6VYdU5
妻女山に1万以上の軍勢が展開できるとは思えんし、海津城という小城に2万もの大軍が入れたとは思えん。
上杉方が善光寺にいくらかの兵力を残し、武田方があぶれた軍を海津城近辺に野営させたとしても
両軍合わせて3万以上の兵団が川中島にひしめいていたとはちょっと考えにくい。
長篠の戦いも同じ理由で実際の兵力はもっと少なかったのではないかという意見が出てるみたいだな。
当時の記録は数字に関していえば疑ってかかった方がいい。
97人間七七四年:2007/12/15(土) 16:50:15 ID:2MqzIpSl
資料どおり鶴翼の陣と車がかりの回転陣を使い双方が孫子や某戦争論の戦術を用いたとするならば
山を駆け下りた上杉を先に発見したのは武田本体、それを鶴翼陣形で包囲-逆に上杉は防御(回転)陣をひき対処したとするのが孫子的に正しい
攻撃は直線的に防御は横に移動しながら(回転も含む)敵の隙を見つける事が基本となってるいる
武田本体は待ち構えていた訳でなく先手を取り攻撃しかけたが上杉の陣形を崩せず逆に隙をつかれ突破された
上杉は回転防御陣形から弱い部分を発見し攻撃へと合戦の途中で切り替えたのだろう と個人的解釈したがどうだろ?
98人間七七四年:2007/12/15(土) 17:37:45 ID:mp1wzsCu
>>96
上杉軍は妻女山の麓、犀川沿いに軍を据えて、
犀川を人馬の飲料水などに使用していたという説
武田軍は海津城だけでなく、
その周囲に存在した四つ以上の砦に立て篭もった説
その砦の一つに諸角が入っていたが、謙信に急襲されて討死にした説

色々有るようだよ
99人間七七四年:2007/12/15(土) 20:00:44 ID:LqBNz6lP
>>95
いや、お互いに威圧だけとかいう合意が出来ていたわけでもないのだし、
こっちが威圧程度のつもりで中途半端な兵力しか用意しなかったのに、
相手は総力を挙げて来たりしたら、とんでもないことになってしまうじゃあないか。

それに当時、上杉が関東を攻めている際に、武田はとうとう越後まで手を出していたし、
武田にとっても、上洛等で権威を増した上杉に靡いて、謀反する家臣が出ていたから、
お互いに相手を無視できない状態になっていた。
最初から決戦を意図していたかどうかはともかく、
出来るだけの兵力をかき集める程度には本気になるのが当然の情勢。

>>96
海津城は小城ではありませんよ。
平時にすら千とも3千とも言われる兵が常駐する、当時の武田家最大の軍事基地にして、
地域統治の要となる重要拠点です。2万人を収容できないということはない。
妻女山については、確かにそもそも妻女山に布陣はしていないという説もあるそうですね。
100人間七七四年:2007/12/18(火) 16:35:53 ID:E0rwRRgI
あげとく
101人間七七四年:2007/12/18(火) 23:41:25 ID:25Upz/dR
>>36>>44の善光寺本尊争奪戦説が面白いんですが、
これは誰が主張されてるんでしょうか?
宗教的権威の争奪と言う視点から見てみたい。
102人間七七四年:2007/12/20(木) 08:00:06 ID:7MCH62VM
不利なんてもんじゃないよ。

彼以外の大名だったら、簡単に簡単に滅んでいたよ。

武田に北条に一向宗、さらに独立性の高い越後の面々。

素直に すげぇ〜よ 人間じゃね〜よ。
103人間七七四年:2007/12/25(火) 21:49:55 ID:blo46XeG
妻女山に布陣したのは、景勝が北条氏直と対陣したときの事だという説がありますね。
で、第4回目の川中島では上杉の本陣は旭山の辺りだと言うんですが。
確かに本陣だけなら妻女山よりは納得しやすいけど、じゃあ合戦は?といえばねえ。
こうなると合戦の内容そのものが説明不能ですしねえ。
武田側にかなりの損害が出たのは事実みたいですしね。
単純に正面から激突して一方的に大将格が何人も討ち取られますかね?
どうなんでしょうか。
104人間七七四年:2007/12/25(火) 22:27:08 ID:4On7i3PQ
甲陽軍鑑は小幡の子孫が書いたんでしょ?小幡景憲だっけ??

大阪の陣までの家康のスパイ
105人間七七四年:2008/01/04(金) 14:21:00 ID:mdI8D0+0
http://www.isawa-kankou.org/sightseeing/kawanakajima_sanka.html
石和で川中島合戦の再現をするって
106人間七七四年:2008/04/06(日) 01:07:07 ID:qStweqfu
よかったね
107人間七七四年:2008/04/06(日) 01:33:36 ID:kXYJB1zt
負けた
108人間七七四年:2008/04/22(火) 18:09:37 ID:I1iwPoAv
上杉謙信が布陣したのが西条山。
上杉景勝が布陣したのが妻女山。
江戸以前は別々だったが、明治になると混同される事に。

西条は海津から数km北にあり、謙信が布陣したとも言われる若槻山城を始め、
上杉流の特徴を持つ多数の城が築かれている。
というか、妻女山周辺には海津城の他に10個もの山城で一大城塞地帯が構築されているのに、
その中に上杉軍1万3千がこっそりと布陣できるなんてあり得ないから。
妻女山と同じ尾根にはその中の一つ、天城城があるし。
そもそも海津城の目と鼻の先にある二つの渡河点だって武田に抑えられていただろう。
109人間七七四年:2008/05/04(日) 15:29:59 ID:OCQ1ag6X
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:::::::::i|:| l:::|u ヽト、l /_,≧、ヽ. t::::,r-、}  ろ || ̄   l  杉
::::l!::|'l| l::| 、 ヽイ/〃'_ リ u ヽ`tフ   !!!! ヾ=  ゆ ヲ
:::ハ::「l_≧:いヽ^ヽ! ヾ=彳// 八 ∠、     ‖  う  タ
小 il{i´{{¨_/////////// ⌒ /i:|ヽ.     ‖   の は
l!|ハ ヽ ヾ=''///////,. -‐‐ 、 u l:レ }      ‖   見
/! ぃヾ/////////     ヽ /l:|/     っ   て
  tヘ////rー‐'         }/ ∠_     て
   ` ト、  ヽ         / /|!ハ    る
    l:| ` ー;'⌒ヽ _   ,∠.._ i: /: /:}   ん
     l!  ,⊥   Y二.「: : \ |/: :/: :|          /
     _,.」  ヽr‐}  ノ:ヽ: : : ヽ: :/: : :レ'⌒ヘ ,. 、   _z':
  r'フ入.  ヽ  ゙t '.∠ ---―――¬/;.イ∨l! ト、/ : : :
  }_,、_,ノヽ. 、 ヘ r‐{           |´l| ! li| | l: : : : :
 ̄     `ーヘ.フ.           | ll   | l |:/: : :::
  ,. '" _,,. -…;   ヽ             |タ    l l.|: : :::::::
  (i'"((´  __ 〈    }             |    |  j: :::/:
  |__ r=_ニニ`ヽfハ  } 腹ン中が   |     |  |: /: : :
  ヾ|!   ┴’  }|トi  } パンパンだぜ|   j | !: : :/
    |! ,,_      {'  }          |    l |:/ ::::
   「´r__ァ   ./ 彡ハ、         |    !| : : : : :
    ヽ ‐'  /   "'ヽ           |    |: : /::
     ヽ__,.. ' /     ヽ.        |    |/::::_;.
     /⌒`  ̄ `    ヽ\_      |   |:ー'´: :
    /           i ヽ \       |   |: : : : : :
110人間七七四年:2008/05/08(木) 01:57:15 ID:YAOiL2oq
>>4-8
「遠方待機の小山田郡内勢が昼過ぎにもなってようやく現場に駆けつけ、
半日近くもカバディのように通すの通さないのとせめぎあい疲れきっていた
上杉勢に襲いかかり、オヤジ狩りのように大活躍。」

この文章の次の場面が

「かくして越後勢は指揮官クラスはまんまと渡河に成功して全員脱出。」
かくして??
展開が強引過ぎるというか・・・全然繋がらないんだよね
まず上杉軍前方には信玄の本陣が通過コースに乗ってると
そして後方から小山田勢が追いつき、大活躍=つまり大殺戮
だから越後の指揮官達は全員無事??

当時の軍編成というのは、諸隊ごとに主が居る訳だから
その主君のみが隊を離れ、渡河しやすい場所になんて移動出来ないよね?
一つ一つの団子(豪族)が集まって大軍が形成されている筈

武田軍と上杉軍でごった返している川べりから、最も後方に位置していた集団
つまり上杉軍の殿を引き受けた部隊だが
その隊を率いた主=越後の武将は小山田勢の間近に居たと考えるのが自然
ここで小山田隊が大活躍したのなら、上杉軍後方の3,4隊壊滅させ、
隊のトップを幾人か討ち取っていないとおかしい
111人間七七四年:2008/05/08(木) 02:16:34 ID:YAOiL2oq
戦の概要も不明なのだから
死傷者の数は尚更不明なのではないか

上杉側は大将クラスが殆ど討ち取られていない事からも
小山田勢が活躍したというのは怪しい話だし

世間一般に流布されているイメージ
つまり合戦の後半において、上杉軍が妻女山別働隊の追撃を受けた〜
雑兵を多く殺された〜というのも疑わしい

しかし武田軍は副将信繁、諸角、望月、初鹿野、油川、三枝、安間と・・・
武田一門、かなり信玄にとって血縁が近い武将達、重臣達を数多く討ち取られている
討ち取られた彼等に従っていた雑兵も当然、山のように死んだのは間違いない

信玄が居た本陣も危機に陥ったのではないか
案外「荒川伊豆守」なる者が信玄に斬りかかった〜という噂は本当なのかもしれない

そして上杉軍を構成した大身の豪族達は、兵を率いて無事帰国した
・・・ある程度計算された作戦だったように思えてならない
唯一の誤算は、信玄を打ち漏らした事かもしれない
が、これは武田家の一門が次々に命を投げ出した結果なので仕方が無い
112人間七七四年:2008/05/08(木) 09:29:58 ID:QS6GTm/O
まあいいんじゃない 信濃は武田が征服したんだし
戦略なき上杉がどこへ逃げようと
113人間七七四年:2008/05/08(木) 21:21:17 ID:UbYt2Ga6
武田がたで名のある武将が何人も死んでいるのは事実だけど、
その2ヵ月後には武田軍は今度は上野に出兵し、城を落したりもしているので、
少なくとも、直ぐには軍事行動を取れないというほどの被害ではなかったのは確実。

そして、戦術的には有利だったのはほぼ確実だと思われるにもにもかかわらず、
上杉軍のほうが先に撤退したのも、以後川中島地域の多くが武田領になり、
さらに飯山や越後にまで侵略の手が頻繁にのびるようになったのも事実。
よく、戦術的には上杉の勝ち、戦略では武田の勝ちといわれるけど、全くその通りでしょう。
114人間七七四年:2008/05/09(金) 01:43:26 ID:MhyZjI0Q
川中島の合戦の転機とは

第一次川中島でもない
第二次川中島でもない
第三次川中島でもない
第四次川中島でもない
第五次川中島でもない

永禄十一〜同十二年四月まで降った記録的な豪雪
これで謙信は出兵できず
北信濃の上杉勢力が激減した
これが大きな転機

つまり謙信が背負っていたのは
雪が振る前に帰国しなければならないハンデと
雪が止むまで出兵できないというハンデ

だが、逆に防衛する側になれば、その雪は頼れる味方になった
115人間七七四年:2008/05/09(金) 10:41:06 ID:wsguE3IQ
自分の本拠地の目と鼻の先なのは上杉有利だろ 上杉にとっては義のため
というより防衛という意識もあったんだろう
116人間七七四年:2008/05/10(土) 10:53:59 ID:rnsERJcK
>>114
永禄11年ってその前に、北信濃は飯山等国境沿いのごく一部を除いて既に武田領じゃあないか、
現にその年の夏の出兵では武田軍は当初から飯山城を攻め、
結局成功しなかったものの、本庄氏や芦名・越中の勢力とも結んで越後侵攻を目指していた。
つまり、飯山より南には越後進行を妨げるような、上杉方の目だった拠点はなくなっていたということ。
そして、その年の冬に謙信が動けなかったのは、本庄繁長を攻めていたからでしょう。
実際本庄が降伏するのは翌年の春なのだから。

というかそもそも、冬だろうが夏だろうが、謙信は第五次川中島より後は一回も信濃に出兵していない、
これは豪雪とかは関係なくて、信濃においては国境の防衛に集中し、
それ以上の深入りはしないという上杉家の戦略の転換によるものでしょう。

私はそういう北信濃の多くにおける武田家の優勢と、上杉家の国境防御への戦略の転換については、
やはり一つの契機として、海津城という大規模な拠点の構築が大きかったと思う。
117人間七七四年:2008/05/10(土) 13:33:26 ID:m3Rrf4C6
>>116
ゴメン間違った
謙信が雪に阻まれて出陣出来なかったのは
弘治二年(1556)〜弘治三年(1557)の四月までの豪雪だった
信玄はこの間に葛山城へ篭っていた落合備中と小田切駿河を討ち果たした
雪が止み、謙信が信越国境を越える事が出来たのは四月十八日だった
118人間七七四年:2008/05/10(土) 17:32:42 ID:rnsERJcK
>>117
確かにその時に出兵が遅れたのは痛かったでしょうね。
しかし、その時武田家は1556年3月には調略によって国人衆を寝返らせたりしているし、
7月には尼巌城を攻め始めている。
その時期に上杉が動けなかったのは、例の隠居騒動とその後のゴタゴタのせいだから、
豪雪はその被害をより大きくしたとは言えるけれど、それが主たる原因とはいえないと思う。

それに武田軍はその冬に飯田まで兵を進めている、武田軍が飯山まで来れるのに、
上杉はまるで動けないってほど局所的な豪雪もないだろうし、
実際には豪雪を言い訳に豪族達がなかなか兵を集めなかったので、出兵が遅れたのではないだろうか。

それから、その1557年4月以降の謙信の出兵(第三次川中島の戦い)では、
謙信はかなり信濃の奥深くまで攻め込んでいるし、
この時点で武田の優勢が確定したとまではいかないと思う。
ただ、この時得た優勢がなければ、海津城築城もままならなかっただろうし、
大きな転機であったのは事実でしょうね。
119人間七七四年:2008/05/12(月) 06:57:48 ID:yhUmTdPD
>>118
葛山城が落城する前年は
長尾家臣団が大熊を追放し、家中対立の芽が一つ消え、
さらに景虎は出奔騒動によって、国人達から誓紙と人質を取り付けてもいる

つまり「その時期に上杉が動けなかった」の「その時期」=葛山城危機とは
景虎の越後支配・影響力が強化された次の年にあたる
葛山城への後詰めが遅れた原因と出奔騒動は関係無い
どころか、むしろ越後掌握が一歩前進した事で、軍を指揮し易い立場になっている

飯山城があったとされる町中の城山公園(316)と
謙信が信濃出兵時に越えたとされる富倉峠(700)は350〜400近くも標高差がある
しかも山道で、ここを越える苦労話は当時から現代に到るまで様々に語り継がれている
飯山城に来れたので富倉峠も越えられる、なんて保証はどこにもない

峠に阻まれた謙信にとって、葛山という拠点とそこを死守出来る人材を失ったのは大きい
第一、敵地深く進入すれば良いだけなら
川中島西南部〜塩尻にまで到達、そこで両軍が対陣した第五次はどうなのかと
120人間七七四年:2008/05/12(月) 19:32:49 ID:iSS71LEN
>>119
第五次で両軍が対峙したのは、川中島のはずれにある塩崎では?
121人間七七四年:2008/05/12(月) 20:03:18 ID:iSS71LEN
まあ、葛山城陥落については確かにその通りでしょうね。
こちらに自然条件を軽視してしまうところがあったかもしれない。
ただ、それ以前の尼巌城等への武田軍の攻勢も重大な事態で、
それに対応できなかったのは、正にその大熊追放に至る出奔騒動があったため。
普通に家中のいざこざがあった上に、豪雪が重なってこの事態に至ったというべきか。

それから、葛山城の付近は旭山城とあわせて何度か争奪戦が行われていたところ、
そこが再び武田家のものになったからといって、それは必ずしも決定的な事ではないと思う。
やはり海津城築城のほうが影響が大きかったのではないかと。

まあ、上でもちょっと書いたが、上杉が雪で動けない時期があったからこその海津築城だろうし、
今は海津城だけを特別に強調するべきではなかったとも、思っているわけですが。
122人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/08(日) 22:55:47 ID:gmVMyZ/B
BS11デジタル 6月8日(日)23時00分〜23時55分 歴史のもしも
6月11日(水) 15時00分〜15時55分再放送

 「もしも川中島の戦いでどちらかが完全勝利していたら」

      ゲスト 柴辻俊次(歴史学者)
           松村邦洋
ttp://www.bs11.jp/?action_public_pgm_detail=true&cid=1&pid=187
123人間七七四年:2008/06/11(水) 18:36:13 ID:nMSf9oQM
井沢が一騎打ちあったと言ってるが
124人間七七四年:2008/07/01(火) 11:50:37 ID:ltgU4E1v
第五次川中島は決戦には至らなかったけれど、何でその後もう信濃での合戦が発生しなくなったのだろう。
信玄が南下政策を取っているなら尚のこと信濃へ出兵しやすいんじゃなかったのだろうか。
謙信は川中島の奪取より信玄の首が目的だったのだろうか。
それで決戦を徹底回避する信玄と戦う気が失せたのだろうか。
125人間七七四年:2008/07/05(土) 19:26:13 ID:XWXklQAa
そりゃあ、信玄が謙信とのらちのあかない直接対決を避けるようになったのと同様に、
謙信も、まだしも味方がいた関東や、比較的侵攻が安易な北陸方面を優先するようになったからでしょう。

それに、謙信の川中島出陣の目的が何だったかははっきり分からないが、
越後本国の防衛という最低限の戦略目標については、
飯山城や野尻城といった拠点防御で可能と、何度かの武田軍の侵攻作戦を防いだことで証明されていた。
つまり、謙信が村上ら国人領主の本領帰還だとか、或いは信濃の領土化とかいった、
それ以上の目的に固執しないなら、もはや川中島方面に兵を進める必要性はなくなっていたわけだし。
126人間七七四年:2008/07/05(土) 20:36:22 ID:zr7TpSUr
謙信にとっては北陸は比較的侵攻が安易とかいうより
海上貿易で国を繁栄させていた都合上
北陸の港の安定は越後にとって最優先課題だからだろ。
能登や越中はずっと越後と友好的な関係だったけど
内乱になったり武田方に傾いたりしたから
北陸侵攻を優先せざるを得なくなった。
127人間七七四年:2008/07/06(日) 09:23:59 ID:nHGjY+wW
ずっと友好関係?越中の内乱なんて謙信の祖父の代からずっと続いているし、
それに長尾が介入するのも頻繁だったんだが。
現に謙信も、越中の親長尾勢力に助勢を請われたが、
川中島に出陣しなければならないという理由で援軍は断り、
物資の援助のみ行ったということもある。

そこから見ても、ある時期までは越中よりも川中島を優先していたのは間違いない。
越中の内乱に比べて、武田の勢力拡大のほうがより問題だと判断していたのでしょう。
少なくとも信越国境の防衛体制がしっかりと定まるまでは。
128人間七七四年:2008/08/23(土) 00:24:40 ID:eTdmRa9R
結局、川中島の戦いは実態不明なんだよね。
厳島、桶狭間、姉川、河越、手取川など重要な野戦はどれも後から作られた話が定説になっているね。
関ヶ原ぐらいかね。陣形と配列とある程度の戦況の流れまではっきりとわかるのは。
129人間七七四年:2008/08/26(火) 12:43:17 ID:/+JoSy2K
姉川は陣形含め結構わかっている
作戦だったのか成り行きだったのかが判明していないだけ
130人間七七四年:2008/08/26(火) 22:51:13 ID:/GFh3p7m
姉川は織田の敗戦だったなんてまじめに唱える電波史学者がいるんだぜ。
131人間七七四年:2008/09/03(水) 00:23:01 ID:0JLL84Ua
名取川
132人間七七四年:2008/09/04(木) 08:14:58 ID:WymfLwyq
なあ、川中島の合戦って言うが、ホントに合戦らしい合戦ってしたのかな?
大軍動かしての戦術的な駆け引きが大部分だった気がする。
133人間七七四年:2008/09/04(木) 09:09:44 ID:Ij3VYbYW
第四次川中島で結構な討ち死にが出てるのに
戦闘して無いってそれは無いと思うが。
134人間七七四年:2008/09/04(木) 17:25:01 ID:WymfLwyq
>>133
いや、小競り合いはあったでしょ、武田が善光寺まで勢力を延ばし、手紙で
「まだ上杉勢があきらめずにうろうろしている」って言う手紙が残っている
そうだし。
俺が言っているのは、江戸時代に作られた講談のように、第四次川中島のよ
うな激戦くらいの合戦があったかどうかなんだよね。
小競り合いは合戦って言うののかなぁ、と。
135人間七七四年:2008/09/04(木) 19:07:52 ID:eCmM0t6e
小競り合いで武田義信、信玄負傷。武田信繁、諸角豊後、討ち死に。
上杉側も志駄や平子討ち死に。
すごい小競り合いだな。
136人間七七四年:2008/09/04(木) 22:50:14 ID:TVkE4C7H
副将とその賦役が討ち死に、大将負傷の戦いが小競り合いだったら
戦国時代の合戦の95%が小競り合いな予感。
137人間七七四年:2008/09/05(金) 10:13:55 ID:BXsTtwHy
ああ、小競り合いって言う言い方が気にさわったのか。
誰それが討ち死にしてるなんて事はとうに承知済み。

説明が難しいが、要は、講談で言われてるような震源と謙信の大激戦があった
にしては記録はっきりしていないし、第四次以外ってホントに合戦って言うほ
どのものがあったのかって事なのだが・・。
第四次にしても、半年後に武田上杉がこぞって上野に大軍出してるし。
138人間七七四年:2008/09/05(金) 11:14:53 ID:HsVfmb/5
気に障るんじゃなくて、正確な日本語じゃないから反論が出たんだろ。
> 第四次以外ってホントに合戦って言うほ
> どのものがあったのかって事なのだが・・。
しかし、それだとまた「小競り合い」ってことになるんだが。
> 第四次にしても、半年後に武田上杉がこぞって上野に大軍出してるし。
合戦で大敗しても本拠地が機能さえしていれば次の軍事行動は充分取れる。
ただし犠牲者への補償に多大な国費が失われる上、
領内に以前通りの軍役を強いるわけだから、領民は新手の兵を供出するため、
国内の衰退は小さくない。相当な無理が来る。
武田勝頼なんて長篠で物凄い被害受けてるけれど、
すぐにまた徳川相手に大暴れしているでしょ。しかも長篠以前より活発に。
何も不思議はない。
139人間七七四年:2008/09/08(月) 19:13:26 ID:ePews/os
兵数万単位の戦が小競り合い?

兵数千単位の戦を小競り合いと言うもんだろ。
140人間七七四年:2008/11/15(土) 12:53:51 ID:ajSvS1cO
なつかしいスレだ。
141人間七七四年:2009/01/16(金) 22:18:57 ID:xmrOUIFB
いつものように数万単位の軍勢で「戦術的な駆け引き」をやろうとして
(濃霧が原因なのかどうかは分からないが)失敗しちゃって、全く無駄な
試写がバタバタ出ちゃった、というのが真相なのは確かだろうが、問題は
「どんな判断ミスでそんなことになってしまったのか」という経緯が、
今じゃどうにもならないくらい不明なことだな。
142人間七七四年:2009/01/16(金) 22:28:52 ID:YuTGuhi8
濃霧の偶発説はありえないんだよなあ。
大軍の音が近づけば馬鹿じゃない限り避けようとするw
やっぱり致命的なミスが何か武田にあったんだろうね。
信玄と義信が不仲になったのはこの合戦が原因。
そして武田は感状を発給していない。
経緯は完全に不明。
143人間七七四年:2009/01/17(土) 10:04:13 ID:7p+Fv4mb
当時の川中島は文字通りの泥沼。
(もちろん米麦の収穫なんかまるっきり期待できない不毛の地)
だから過去もそこ自体が戦場になるなんてことはなかった。
川中島の周囲を南北に走る街道を移動するだけの場。

ところが三池説によると、第四回戦ではこの街道からあふれて、泥沼の
小犀川・小島川近辺まで乱戦の場が広がってる。何をどうしたらそんな
アホなことになるのか。
まあ大岡昇平の「野火」じゃないけど、前に進んでも無理だと思っても
後ろから後続がワラワラ押してくると、押し出されるみたいに危険地帯に
入ってしまうこともあるんだろうけど、それにしてもねえ…
144人間七七四年:2009/01/17(土) 13:41:09 ID:gi+tsDYy
善光寺平って平安時代から荘園がいくつも開かれてる場所なのに
145人間七七四年:2009/01/28(水) 20:18:04 ID:ryp8SJpS
てんで素人なので教えてほしいんだけど、例えば長篠の戦みたいな
まるっきりの負け戦では、個人的な活躍をした人にも感状って出ない
ものなの?

かなり多くの死者が出たことは事実みたいで、しかし両陣営からは
たくさん発行されていいはずの感状が全然残っていない、っていう
事態がどういうことなのか、基本的な常識がないのでピンとこないのが
現実なのです。
146人間七七四年:2009/01/29(木) 14:22:47 ID:KSrqA5Xy
資料に残されていないだけじゃ?
上杉も首実験はしたようだし感状出してないとは考えにくいな
147人間七七四年:2009/01/29(木) 14:36:09 ID:hDkDG3Sx
武田は川中島の戦いにおいて感状(偽文書除く)が一通も現存していない。
勝利とは考えていなかったのかもね。
148人間七七四年:2009/01/29(木) 21:41:52 ID:3s/dojqE
死者はたくさん出たけど戦死じゃなくて流行病だったんだよ。
だから通常死なないような上級武将も死んでる。
あの辺は昔からコレラの発生地として有名だからね。
149人間七七四年:2009/01/29(木) 23:30:06 ID:eB1nxhwS
オレはコレラじゃなくて寄生虫だと聞いたな。
一定期間たつと突然病状が悪化して死ぬと。

だから甘粕近江は犀川で越後軍の船をみんな焼き払ったとか。
150人間七七四年:2009/01/30(金) 00:37:09 ID:AxfzhbbC
そうそう、しかし病死ではカッコ悪いと思って政虎と信玄が首脳会談したんだよな!

信玄「こん」
政虎「おひさ♪」
信玄「やばいねこの病死の人数」
政虎「どうせなら戦ったことにしよっか」
信玄「うん。俺、妙法寺の坊主にそう伝えるよ」
政虎「私も関白殿下に激闘を報告するね」
信玄「引き分けしたことにしようね♪」

しかし約束は守られず、双方が戦勝を吹聴したという。
151あや:2009/02/21(土) 21:15:29 ID:yjK5Ofru
私小幡さんの子孫だよ。
信じなくてもいいけどさ。
152人間七七四年:2009/02/21(土) 21:44:23 ID:yyKpVz9B
>>150
最後の1文に激しくわろたwww
>>151
小幡勘兵衛の子孫の方?
本当だったら軍鑑に対してはどう思ってるのか教えて。
153人間七七四年:2009/02/22(日) 00:40:59 ID:ZrYEShvE

まさかこんな所(妻女山)を奇襲してくるなんてね…
信濃の落ち武者達から必死に頼まれたから出陣してきたのに
これで信濃が滅んじゃったら信玄くんのせいだからね…

ハァ?信濃の落ち武者?
そんなの今時誰が頼られるかってーの!
バ〜カ! 
どうしても信濃が欲しかったら俺達戦国武将には簡単な方法があるじゃねーか 

川中島で勝った方が正義ってことだね?

そういうことさ!(ガキーン)
154人間七七四年:2009/03/05(木) 18:28:32 ID:gbYqiSS5
155人間七七四年:2009/03/05(木) 18:55:53 ID:GjQEsFYc
>>154
どういうw
156人間七七四年:2009/03/05(木) 19:02:01 ID:RLrtPFJt
むしろ井沢の陰謀じゃねww?
157人間七七四年:2009/03/05(木) 19:03:18 ID:GjQEsFYc
> 1560:織田信長、信玄に操られて今川義元を桶狭間で破る
>
> 1561:信長により上杉・武田、川中島で激突
>
> 1573:武田信玄、信長により暗殺
>
> 1578:上杉謙信、信長により暗殺


もうどうすればいいんだw
158人間七七四年:2009/03/05(木) 19:22:28 ID:CR21FYUf
毛利と宇喜多がしょぼく見えるな
159人間七七四年:2009/03/19(木) 03:30:01 ID:9xxnK9r0
sage
160人間七七四年:2009/04/25(土) 08:49:22 ID:of2W0CMm
霧中の遭遇戦でしょ。
それに合戦の資料がほとんど存在していないそうだね。
だから両軍ともまずい戦いをしてあまり詳しい資料はのこさなかったんじゃあ。
161人間七七四年:2009/08/14(金) 19:46:08 ID:EF4HxO44
川中島は武田の完勝だろ。現に信濃は武田の物になったしな。八幡原の戦いを持ち出して武田の被害が多かった言う馬鹿がいるが
そもそも武田は上杉よりも少数だったから仕方がない。上杉は18000もの大軍で武田は16000の少数だ。この事は上杉御年譜にしっかり記載されている。
162人間七七四年:2009/08/14(金) 20:24:11 ID:Spo88fUf
> そもそも武田は上杉よりも少数だったから仕方がない。

上杉年譜よりもずっと成立時期が古い甲陽軍鑑では上杉13000、武田20000ですがね。
163人間七七四年:2009/08/14(金) 22:18:47 ID:EF4HxO44
甲陽軍鑑信者か?上杉御年譜は正確に書かれている。
164人間七七四年:2009/08/14(金) 23:23:18 ID:Spo88fUf
あなたが武田信者だから上杉年譜が「正確」なんていえるんじゃないですか?
むろん甲陽軍鑑の記述も正確ではないですが。
165人間七七四年:2009/08/15(土) 07:41:34 ID:qxe3N608
天海さんに聞くしかないなw
166人間七七四年:2009/09/08(火) 11:53:09 ID:U5ArNvKZ
167人間七七四年:2009/09/08(火) 14:28:52 ID:ZxxhT7s6
当初は謙信による支城攻略戦だったとも言われてるな
海津城の支城付近で信繁も諸角も討ち取られてるそうだから

支城を攻撃し始めた上杉軍に信繁、諸角、望月など
信濃を任されていた武田一族が後詰めした
しかし謙信に逆襲された(謙信は七尾攻めでも後詰めしてきた一揆軍四千を撃破している)
信繁、諸角、望月が討死
そこに信玄本隊が到着して乱戦
どちらの本陣も大被害を出した
信玄は安間という奉行や油川、初鹿野など武田一族を、謙信は庄田という奉行を其々失っている
こうして信玄は何とか謙信を追い払った
168人間七七四年
どこで誰が唱えてるの?