関が原で、もし小早川秀秋が東軍に攻めかかったら

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994人間七七四年
>>989
秀秋は伏見攻めの後に、病気と称して近江に滞在していたのはご指摘の通り。
秀秋については、8月28日付黒田長政・浅野幸長書状で家康に味方するように
言われてた他、『慶長記』によると9月3日、8日に家康に使者を送っているなど
「謝罪に奔走」かどうかはともかくとしても、積極的に接触を図っている。
松尾山布陣については、松尾山はこの時かなり整備されており、伊藤盛正(大垣城
主・西軍)が詰めていたんだけど、それを追い払って占拠する形で行われている。
これについては『稲葉家譜』などで言及されているな。
そして、小早川隊には>>955の指摘の通り、黒田長政の家臣と奥平藤兵衛がお目付役として
送り込まれている。で、三成ら西軍首脳もこの頃には秀秋のことを疑っており、『慶長記』
では「筑前中納言むほんと風聞候。仕置いたすへきとて出候由」と大垣を出て関ヶ原へ展開
した理由を指摘している。勿論これが関ヶ原へ展開した要因の全てとは言わんけど、少なく
とも秀秋が三成ら西軍の意を受けて行動していたとは言い難いと思う。秀秋については東軍
からも信用されていなかったようだし、まさに「旗幟不鮮明」という感じじゃないかな。
感じじゃないかな。