細川政元〜戦国時代を始めた男

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1人間七七四年
父は言わずと知れた応仁の乱東軍総大将の細川勝元。
勝元死後、わずか8歳で家督を相続すると、翌年山名氏と和睦停戦を成立させる。
文明18年、管領職に就任。

明応2年、政元は足利義尚生母の日野富子や赤松政則(妻は政元の姉妹)と結託して「明応の政変」で将軍義材を追放し、義澄を11代将軍に就任させる。
更に畠山政長を攻め滅ぼして幕政を手中に収めた。
この後、有力家臣による将軍の傀儡化して幕政を牛耳っていった。このため、世に半将軍といわれた。

政元は生涯独身を通し山伏信仰に凝って諸国を放浪するなどの奇行(ただし、その際に各国の守護らとの会見を持っており、自派勢力拡大のための政治目的もあったとされている)があり、幕政を混乱させることもあった。
こうした気分屋的な傾向は管領細川氏の家督相続問題にも反映した。1501年(文亀元)には政務を引退し、九条家から家督相続を条件に養子に入っていた細川澄之を廃嫡して、
後から分家阿波細川家から養子に迎えた細川澄元に家督相続を約束したため、澄之・澄元両派の対立が先鋭化した。

永正4年、澄之派に懐柔された警護役竹田孫七・香西元長・薬師寺長忠によって、湯殿で行水をしていたところを襲われて殺された。これ以降、細川京兆家は内紛を重ねて没落していく。




戦国時代の始まりと言われる『明応の政変』の中心人物であり、細川京兆家の最盛期を築いた。
信長の70年も前に比叡山を焼討したり、諸国を放浪するなどの多くの奇行、権威に無頓着
自らを国王と自称する、暗殺され非業の最期を遂げるなど、妙に信長と重なる。
また同じくマキャベリストとして有名なチェーザレ・ボルジアと同年に死んでいる事にも注目。

この破天荒な人物を語ろう。
2人間七七四年:2007/02/17(土) 18:38:18 ID:NyrlDv7T
3人間七七四年
細川氏スレあるっての