〓宮部継潤〓

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1人間七七四年
秀長や如水と共に秀吉の立身出世に大きく貢献した人物だと思う。
浅井攻めや毛利攻め、九州征伐で軍を率いて活躍。根白坂の戦いでは島津軍を壊滅させる。

元は比叡山の僧だが、信長の比叡山焼討をどう思っただろうか。
2人間七七四年:2007/02/17(土) 17:10:56 ID:tz9k1+kv
義弘、家久らは2万の軍勢でもって高城に向けて進撃した
豊臣軍へ和議を申し込み油断させ
宮部ら1万5千の守る陣へ夜襲をしかけた
しかし宮部は夜襲を見抜き柵を植え掘りを深くして待ち構え反撃を行った
義弘、家久らは一陣二陣と破り宮部の本陣に迫るも朝を向かえついに抜けず
豊臣方に続々集まる援軍の攻撃に耐え切れなくなり
700余りの遺体を残して敗走した
3人間七七四年:2007/02/17(土) 17:11:54 ID:tz9k1+kv
晩年は秀吉の相談役。
4人間七七四年:2007/02/17(土) 17:12:19 ID:n3s/lPCx
いかにも生臭って感じで好きよ宮部
5人間七七四年:2007/02/17(土) 17:17:03 ID:bgsFcNaI
根白坂の戦い
http://www.mmjp.or.jp/askanet/shimadzu_nejirozaka.htm

長篠の戦にそっくりだ。
この戦いで島津義弘の養子の島津忠燐が戦死している。
6人間七七四年:2007/02/17(土) 17:23:16 ID:apm1EAbd
知謀に長けたイメージがある。
7人間七七四年:2007/02/17(土) 18:08:37 ID:3ejkOqFu
坂上天陽の戦国の覇者ではけっこう良い役だったな。



死んだけど。
8人間七七四年:2007/02/17(土) 19:18:50 ID:f1YiYYwF
田中吉政を見出したりしてるな
9人間七七四年:2007/02/17(土) 20:22:17 ID:OT1gwRse
個人的に一門の秀長を除いて、黒田孝高・蜂須賀正勝・宮部継潤が初期豊臣政権の三傑だと思ってる
10人間七七四年:2007/02/18(日) 00:38:46 ID:Ns+JJk0c
子孫はどうなった?
南部に配流になった後は??
11人間七七四年:2007/02/18(日) 00:41:30 ID:Ime/JVme
信長の野望だと、こ憎たらしい顔だよな。
12人間七七四年:2007/02/18(日) 08:10:38 ID:egXvf89Y
この人のスレを作った>>1はセンス抜群
13人間七七四年:2007/02/18(日) 12:19:01 ID:TPj+3xc0
>>9
前野長康は?
14人間七七四年:2007/02/18(日) 22:44:00 ID:AXktzvJz
仙石秀久もそんなに馬鹿にしたもんじゃないよ。

司馬小説で無茶苦茶に書かれたから、現代では評判悪いけど、
戸次川の合戦までは、秀吉幕下では出世頭と言ってもいい。
中村一氏や堀尾義晴よりも、あきらかに信頼されている。

対毛利の中国戦線で、既に侍大将格なんだよな。
序列的には、宮部継順の次くらい。凄い出世スピードだよ。
子飼いの中では、一番早い。
15人間七七四年:2007/02/18(日) 23:36:32 ID:pfhoVPWe
加藤光泰を何故無視する?
宮部とも因縁浅からぬ間柄だ

>>14
堀尾や中村は常に第一線で戦い続けたが仙石は閑職を転々としている
どうみても堀尾らのほうが信頼されている
16人間七七四年:2007/02/19(月) 01:04:54 ID:NO8hR+zn
>>13
前野長康は川並衆で小六の弟分みたいな印象があるから・・・
17人間七七四年:2007/02/19(月) 23:47:03 ID:XwmrQxjH
仙石は四国でも散々だったな。
18人間七七四年:2007/02/20(火) 06:22:56 ID:temzAiAS
宮部の内政面での逸話ってある?
僧侶出身なのに戦場での活躍が多いイメージ
19人間七七四年:2007/02/20(火) 10:16:26 ID:nOou6GTX
一時期継潤たんにハマッてたことあるけど信長より年上と知ってなんとなく熱が冷めた。
なんだったんだろう。。。
20人間七七四年:2007/02/20(火) 14:13:21 ID:60hTYBHi
鳥取城の渇殺しの後、喰い散らかされた死体だらけの地獄絵図さながらの鳥取城を掃除したりしてる
その後もそこに居座ってるが、気持ち悪くなかったんだろうか
21人間七七四年:2007/02/20(火) 16:23:34 ID:flTdjE4g
坊主から武将だから大丈夫なんじゃね?
22人間七七四年:2007/03/05(月) 00:57:14 ID:v7wtAaD/
 亀井武蔵守物語に、

天正十五年三月、秀吉公筑紫へ御動座、嶋津を御攻被成候。
搦手の大将大和大納言秀長・ 近江中納言秀次八万にて、嶋津義弘・同家久兄弟二万余にて豊後府内より日向の県へかゝ り薩摩へ引取候跡を追て乱入、
高城・財部両城を取巻攻給ふ。付城五拾一ケ所其内耳川 を越て根白と云所に取出を構、宮部善祥坊継潤・木下平大夫貞基・亀井新十郎広政・垣 谷隠岐守光成・福原右馬介直高、
壱万五千にて陣を取、嶋津出張の口を押へ申候。
四月 十七日の朝嶋津義弘より使来て曰「高城に籠候士卒御助被下候は、城を明渡可申」と也。
此段五十町隔たる秀長卿へ申遣し「従是御返事可申」とて使者を戻。宮部善祥坊は嶋津 使者の様子にて今夕夜討可有事を見知、
人足千人山々へ遣し竹木を伐、寄陣の前に深さ 弐間幅三間のから堀を掘り、其岸に彼竹木にて柵を振り自身も士卒も物具して待懸け候。
其外へは外聞の者段々出し置候。如案其夜の亥の刻に嶋津義弘壱万六千にて根白の陣へ 押寄候。兼て心得居候故、善祥坊士卒に先達て木戸口へ走り向一番鑓を合「宮部善祥坊 継潤一番鑓」と名乗。
其手の兵田中九助、其子彦六(後に勘兵衛又玄蕃と号。紀州大納 言殿に相勤る)国友半右衛門・三村太郎右衛門二番鑓を合防戦。垣谷隠岐守・南条勘兵 衛・木下・亀井・福原の諸大将、手自鑓を合身命を捨て防戦。嶋津は元来剛将也。
薙刀 を提、真先に進て攻懸。椛山・平田・伊集院・石口等の兵共、面もふらす柵に付て天地 を響し攻戦。宮部一組の人々柵を阻て鑓を取て防戦。両方手負死人将棋倒にことならす。 嶋津か兵共柵に付事蟻のことし。
から堀にも透間もなく込入責戦ふ。宮部「時分は能き そ」と扣の綱を切て柵を堀の上へ押倒す。柵に付たる兵も堀の中の兵も皆柵の下押付ら れ、死者八百余人也。宮部一組の兵共柵を倒して内の柵へ引籠。嶋津か兵共柵を渡り味 方の死人の上を走り渡り、
内の柵を攻破り、
十七夜寅の刻に三の丸二の丸もみ破しかは、 宮部を初本丸へ引籠、命を不惜防戦。夜已に明て十八日の朝なり。義弘弥攻詰て難儀に 及候。大和大納言秀長卿は五十町計阻て居給ひしか、三万計にて耳川の端迄推来給ひ、見 渡せは、
根白の砦は嶋津か軍兵雲霞のことく取囲、鉄砲矢叫ひの音鬨の声相交て天地も
23人間七七四年:2007/03/06(火) 02:24:47 ID:hq89oWdv
出身が大寺院の僧侶の武将は、一般的に知性があって行政的な作業も円滑にこなすので重宝された。
今で言えば有名大学や大学院出のエリートって所だ。
ヨーロッパでも、軍事機構が近代化する以前は、僧侶出身や僧侶身分のままでの将校は多かったな。
24人間七七四年:2007/03/06(火) 16:55:24 ID:jFK1B5C6
亀井の卑怯者
戦場抜け出して粥を炊いてだと
上月で死ねばよかった
25人間七七四年:2007/03/10(土) 19:20:26 ID:0vk+zOCM
晩年ヨセフの洗礼名を受けたらしいが、坊主とキリシタンって他には大友宗麟ぐらいか?
26人間七七四年
>>洗礼名を受けたらしいが
がせねたか
ソースは