日本史二千年最大の謎、本能寺の変の真相。

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221人間七七四年
本能寺の変で明智光秀は実行犯に過ぎず、黒幕がいることは明らかである。
その黒幕は誰か?を日本人は何百年も探しているが、やっと真犯人が見つかった。
まず、今まで有力だった説の紹介と論破をしてみよう。
説1 信長に権力を奪われた朝廷説
説2 信長に宗教はカルトと認定され延暦寺を焼き払われた僧侶説
説3 天下取るために信長が邪魔だった徳川説

説1ならば信長死後に朝廷が復権しようとするだろう。
だが、実際は朝廷の力は衰えるばかりで、信長に対抗する闘争心すら無かったので却下。
説2は光秀が個人的に信長を不信になる原因になっただろうが
光秀の立場や状況からして、それだけで謀反を起こすのは考えられないので却下。
説3は信長の死直後から山崎の戦いに至るまでに光秀は細川家や筒井家などへ
味方探しに奔走したが、光秀の味方をする諸大名がいなかったことから
織田家以外の大名の指示は考えられない。
他大名との共謀ならば、信長を殺ったあとに徳川家なり毛利家なり長宗我部家なり
その大名のところに逃げれば良いのである。

前置きが長くなったが、ここから本編に入ることとしよう。
本能寺の変が起こる前から秀吉は当時織田家最大の敵であった毛利攻めの過酷な任務を任され
中国地方へ遠征に行っていた。そこで出会ったのが稀代の軍師黒田官兵衛である。
この黒田官兵衛は奇抜で大胆な妄想家であり、それを実行しようとする変人である。
関ヶ原の戦いが起こってる間に、九州・四国・中国をまとめ上げて
関ヶ原で勝った方が弱ってるときに出陣し、天下を取ろうとしたほどである。(息子に邪魔される)
秀吉は官兵衛に毛利攻めの相談をし、官兵衛の知略を高く評価して
自分の右腕として働いてもらうべく、側近中の側近である軍師にする。
そう、本能寺の変の黒幕は黒田官兵衛である。
実行犯である光秀と秀吉は家柄は正反対だが大きな共通点があった。
外様でありながら早い出世をしたため、織田家臣の重鎮達から妬まれていたのである。
秀吉の天下人への野望、光秀の信長への不信感、その二人を繋ぐ織田家内での微妙な力関係
そしてそこに官兵衛の知略が加わり本能寺の変が起きたのである。

本能寺の変の直前に官兵衛が動いた。
秀吉は毛利攻めを着実に進め、官兵衛の水攻めで城が落ちそうになっているにも関わらず
信長に嘘を吐いて「このままでは危ないから援軍が欲しい」と伝令を出した。
このとき織田家臣のうち勝家は北陸、秀吉は中国、滝川は上野、河尻は甲斐にいた。
安土城にいたのは信長と家康と光秀である。
家康は三河(東海)に戻って兵を連れてくるには時間が掛かり過ぎるため
秀吉と光秀が内通してれば、今すぐ援軍が欲しいと言えば
信長が光秀をよこすのは簡単に見抜いていただろう。
現に信長は光秀にすぐに挙兵し、中国へ向かうように指示した。
そのおかげで光秀が信長の足元で大軍を率いても不思議じゃない状況ができたわけである。
信長も中国遠征に出ることになり、安土城のある滋賀から移動する途中
その日は京都の本能寺で寝泊りすることになった。
そこで大軍を率いて中国地方へ向かうはずの明智光秀が「敵は本能寺にあり」になったのである。
222人間七七四年:2007/03/05(月) 06:01:09 ID:vTB0XOxM
本能寺の変の直後に秀吉が通常では考えられない速度で京へ戻る中国大返しは
あらかじめ計画されてたからこそできたのである。
それに信長だけでなく、二条城で信長の嫡男信忠も殺してることから
信長の死後に天下を取る野心による犯行だったことが証明される。
信長の死後に天下を取るために動いたのは秀吉であり、秀吉の右腕となったのは官兵衛である。
(官兵衛は重度の皮膚病で正常な歩行も困難だったため裏方に回った)
信忠は官兵衛の主君の小寺政職を殺してることから、官兵衛自身の恨みもあったと思われる。
本能寺の変のときも光秀は本能寺に誰がいるかは、最後まで自分の兵に伝えなかったと言われてるが
山崎の戦いも秀吉と光秀にとっては茶番であるが、兵隊にとっては生死を賭けた戦いだった。
それなのに光秀が戦場から逃げたのは秀吉と手打ちをしていたからだろう。
歴史上ではその後に町で農民に殺されたとされるが、テレビもネットも無い時代に
戦場から逃げてきた数人の兵隊を農民が「明智光秀だ!」と分かるわけがない。
よって光秀は生き延びたのである。そして出家し天海と名乗った。
信長を殺した光秀を真っ先に仇討ちしたようにみせ、秀吉は後継者最右翼になったのである。
柴田勝家はお市とともに織田家から後継者を立てようとしたが
家を継ぐとされていた嫡男の信忠が死んだので、リーダーの資質を持つ者がおらず失敗に終わった。
こうして黒田官兵衛の策略により、豊臣秀吉が天下人となった。

あとがき
・光秀の娘で細川忠興の妻のガラシャは、本能寺の変で父の光秀が信長を裏切ったことにより
細川家から追放されるが、後に忠興とガラシャを復縁させたのは秀吉であることからも
秀吉と光秀は特別な関係だったことは明らかである。
・本能寺の変で信長が死んだと一報が入ってきたときに
官兵衛が秀吉に「(天下を取る)御運が回って参りましたな」と言ったのは有名で
事前に信長が死ぬと予測してないと、驚いてこんなことは言えないだろう。
・秀吉が晩年に家臣を集めて「次に天下を取るのは官兵衛だ」と言った。
・徳川第二代将軍秀忠は「官兵衛は今世の張良なるべし」と言った。
※張良とは秦の始皇帝を暗殺しようとして(失敗)、後に劉邦を天下人にした中国の軍師で
官兵衛が黒幕なら張良とそっくりである。