>>43 法然も信者からの疑問に答えており、親鸞も和讃で分かり易く(文盲も対象
として)説いていますが、弥陀念仏を唱えれば諸菩薩諸神の加護が得られる
のであり、神祇を拝さなくても心配はないという「現世」も視野に入れた教
えが説かれていました。
また、本山の教義とは別に信者が独自の解釈を行っていたことは、五来重先
生がかつて可能性を指摘しておいででしたが、近年神田千里先生が具体的に
まとめられていますね。
>>45 牛頭天王のことはさておき(津島の祭礼に出ている時点で可能性はおおあり
ですが)、起請文にも書いている八幡や、織田剣神社への信仰は、間違いな
くあったでしょうね。
上司から大袈裟な表現が好きで信用なら無いと評価されていたフロイスだけ
でしょう。無神論者だと書いていたのは。
>>48 全体として見れば信仰も動機に含まれていただろうと思われますが、個々の
事件については、原因を想定する研究者もいますね。
確か、三年前の日本古文書学会で政治的動機から宗麟を見た研究が発表され
ていました。全部が全部かというと、疑問も浮かびますが。
>>24 >昔の人達は宗派に対する拘りが比較的無かったのかもしれないね。
「八宗兼学」という言葉があり、鎌倉時代にこれらを解説した『八宗綱要』
という書が編まれたように、元々真言、天台、律、華厳、法相、倶舎、成実、
三論の南都六宗+二宗の八宗は、対立する存在ではありませんでした。
応和の宗論における悉皆成仏説(天台)と五性格別説(南都)のような対立
もありましたが、学部のようなもので、才能があって各宗で学んだ僧侶や、
無住の様に才能があったがいずれからも距離を置いた僧は多かった。
また、いわゆる「鎌倉新仏教」は、この時代には「宗」ではなく「衆」と呼
ばれることが多く、独立した宗派とは見做されないことが普通。
禅宗と浄土宗(天台宗の一分野)を取り上げて十宗とした例が『日本一鑑』
などに見られますが、いずれも中国から伝来したものであって、法然などの
所謂「祖師」たちが開いたものとは見做されていませんでした。
寺院でも二宗以上を兼学していた所は多く、各宗派が教団として独立するの
は江戸時代になってから。「浄土真宗」という名称も、定着したのは近代に
なってからの筈です(信者の使用例は近世には見られる)。
「鎌倉新仏教」と呼ばず、「江戸新仏教」と呼べという説もある。
江戸時代初期の公家の日記を読んでも、天台「宗」と共に法華「衆」などが
記されています。独立したものと見做されていない。
また、現実に本願寺が天台宗の名刹である(足利義教も属していた)青蓮院
の「候人」(まあ、従者ですね)の関係を結んでいました。
天台宗からは「一向衆」と呼ばれ、自らは「無碍光宗」(本願寺派のみの呼
称で、対立していた仏光寺などは含まない)もしくは「一向宗」と呼ぶよう
な関係ではありましたが。
なお、現在共に「浄土真宗」とされている仏光寺派や高田派は本願寺派とは
対立関係にあり、織田信長に協力して越前や加賀の戦で手柄を立て、安堵状
を受けています。信長も、宗教勢力全てと戦っていた訳ではない。
お目汚しの長レス失礼致しました。
余談の余談。青蓮院は天台宗の三門跡の一つですが、本願寺派がその候人と
なって庇護下に収まっていたのに対して、仏光寺派は同じ三門跡の一角であ
る天台宗妙法院の庇護下に収まっています。(高田派は不明)
法然らも、自分たちは「天台沙門」だと考えて遷化しています。
度々すみません。