戦国大名の宗教観について語りましょう。
信長は「神をも畏れぬ人物」と思われがちだが
比叡山攻撃の際に山内をその対象としなかったように
宗教には一定の理解を示し
宗教の政治介入や武装化を嫌っただけだった。
その証拠に
平手政秀を弔うために政秀寺を建立したり、吉乃の死を悼んで菩提寺、久昌寺を建立したりしている。
また禅僧沢彦宗恩や京阿弥陀寺の清玉上人らとも親交があり、
清玉上人が推し奨めていた東大寺大仏と大仏殿再興推進にも協力している。
本願寺と各地で激闘を繰り広げていたのにもかかわらず
石山本願寺開城のおりも以後の一向宗の存続は認めている。
また津島神社や、熱田・伊勢神宮も造営しており、信長の宗教への理解が伺える。
( ´゚ω゚` )
4 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/03(水) 14:57:47 ID:N5e+d9Ds
豚食わなかった武将はイスラム教徒
5 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/03(水) 15:16:01 ID:qBoPeelB
ヽ(・ω・ヽ)スットコドッコイ( ノ・ω・)ノ スットコドッコイ
趣味カテでやる話題じゃないな
7 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/04(木) 02:39:43 ID:4hS7bA0X
領民に宗教を信仰する事を強要した人物は三好長治ぐらいでしょうか
8 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/04(木) 03:01:33 ID:TCjbORDe
しんぶつきしゃく
>>7 高山右近がいる。あと大友宗麟も寺社ぶっ潰して教会立てるとかやってる
10 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 14:40:52 ID:UuOVrWw/
信仰と学問の2本立て
信仰心がないからといっても学問も時代の最先端を行っていた
軍学や政治学を寺や僧に学んで実績を残した武将は数多
その多くは禅宗
11 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 14:54:51 ID:Yi7Pcvzr
>>7 領民だったか家臣だったかは忘れたが宇喜多秀家も改宗を迫ったんじゃなかったっけ
12 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 00:34:11 ID:Ns+JJk0c
信長がキリシタンを迫害した事実とかないんですかね?
だって、自分を神格化したかったんでしょ。
そうしたら、キリストの教えが邪魔になっちゃうんじゃないかな。
13 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 00:25:33 ID:8gfIiuQO
信長公記より抜粋
然して、高槻の城主高山右近、だいうす門徒に候。信長公御案を廻らされ、伴天連
を召し寄せらる。此の時、高山御忠節仕り候様に、才覚いたすべし。さ候はば、伴天
連門家何方に建立候へども、苦しからず。若し御請け申さず候はば、宗門を御断絶な
さるべきの趣、仰せ出だされ、則ち、伴天連御請け申す。佐久間右衛門、羽柴筑前、
宮内卿法印、大津伝十郎、同道申し、高槻へ罷り越し、色々教訓仕り候。勿論、高山
人質出だし置くと雖も、小鳥を殺、大鳥助、仏法繁昌すべきの旨、相存知、此の上は、
高槻の城進上申し、高山は伴天連沙弥の由、御請け申し候。御祝着斜ならず。
14 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 02:59:15 ID:WcFq1+Je
信長は真言立川流に傾倒していたと聞いたことがある
15 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 03:33:36 ID:gHWLHlgn
信長てフランシスコ・ザビエルと親交があった。
16 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 03:37:24 ID:gHWLHlgn
それで家康が天下取った後島原の乱が起こる。天草四郎がその時の先導者。
17 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 05:07:33 ID:WcFq1+Je
戦国武将は日々戦に明け暮れていつ死んでもおかしくないという環境におかれていた為か、神仏に対する畏敬の念は強かったらしいよね。
18 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 15:36:34 ID:owlOCx7S
三好家なんて親父と弟は日蓮宗で、長慶は禅宗。
わけが分からん。
19 :
人間七七四年:2007/03/18(日) 03:16:00 ID:7gwtYiyP
信長は法華経を信じていた。
20 :
人間七七四年:2007/03/18(日) 03:21:43 ID:7gwtYiyP
武田信玄は法華経を誹謗た。
21 :
人間七七四年:2007/03/18(日) 03:41:06 ID:9vgwYYaT
信玄は浄土宗だっけか。
22 :
音楽奴隷 ◆5c/UstWSY. :2007/03/18(日) 22:13:17 ID:aeUHCC55
>>4 マジレスすると、イスラム教徒は家畜を屠殺する手順が決まってる。
詳しくは忘れたが、神の名を唱えながら頚動脈をブッタ斬るってな感じ。
23 :
人間七七四年:2007/03/25(日) 19:21:05 ID:9AOtjVuy
松永久秀は熱心な法華宗徒。だが織田信長に刃向かった時に本願寺と同盟したりしてる。
久秀「伴天連の奴等はいずれ大殿に牙をむくでしょう。今のうちに討つのが上策かと」
信長「おまえは小心者だな。」
そう考えると、信長は宗教をなめ過ぎてたんじゃないか?現に本願寺に対してあんなに苦戦していたのに。
24 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 07:28:48 ID:JpmKjwOW
>>18 上杉謙信は幼少時に越後林泉寺の天室光育に曹洞禅を学び、24歳で上洛した時に臨済宗大徳寺の徹岫宗九に参禅して『宗心』の法号を授かり、晩年は真言宗に傾倒して無量寿院の阿闍梨清胤に弟子入りして真言密教の奥義を伝えられ阿闍梨権大僧都にまで進んでいる。
昔の人達は宗派に対する拘りが比較的無かったのかもしれないね。
ちなみにそんな上杉家(米沢藩)では、藩主は真言宗で葬儀を行ったのち御廟所に廟を建て、その妻子は曹洞宗の林泉寺で葬儀を行い林泉寺墓地に埋葬…という変則的な葬法を執行していたらしい。
>>21 武田信玄も快川紹喜らの臨済禅で心身を鍛えながら各種の神仏に信仰をよせ、比叡山延暦寺から天台宗の極官である大僧正に任じられている。
25 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 08:03:58 ID:kKDjhNmL
謙信は毘の旗を掲げ毘沙門天の化身を名乗った。
信玄は孫子の兵法である風林火山の旗と同時に八幡の旗を掲げた。
26 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 08:09:35 ID:kKDjhNmL
信長は比叡山を焼いた。
信玄は大石寺を荒らした。
27 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 08:37:13 ID:kKDjhNmL
信長は一向一揆とも戦った。一向宗とは浄土真宗の別名。
信長は念仏を嫌っていた。
28 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 17:56:14 ID:5wFLu9Kl
髭のばしてた武将はユダヤ
29 :
人間七七四年:2007/05/06(日) 00:25:14 ID:ASY6ZRTh
30 :
人間七七四年:2007/06/20(水) 03:03:50 ID:YJNTFzys
31 :
人間七七四年:2007/08/07(火) 23:57:07 ID:3N8eEt5H
本当に当時の人って順応性があると思う。
流行りみたいな感覚でキリスト教に入信したのかね。
32 :
人間七七四年:2007/08/08(水) 00:02:07 ID:SAVs2TK8
松田氏の法華経熱はもはや異常。
34 :
人間七七四年:2007/08/08(水) 11:43:22 ID:AXq6B1IE
そういや戦国ゲーム板に「戦国大名が宗教を本気で信じることなどありえない」
と頑として発言してるバカな奴がいたね。
35 :
人間七七四年:2007/08/08(水) 11:47:41 ID:TcwQXWR4
36 :
人間七七四年:2007/08/08(水) 11:52:41 ID:gXcyaJdq
37 :
人間七七四年:2007/08/09(木) 03:21:32 ID:VInWnuU5
キリシタン大名なんか棄教して弾圧側に回るくらいだから統治・貿易に役に立てばOKってトコだろ。
38 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 01:08:24 ID:PFtrw8HM
三好長治は法華教を国人に無理矢理強要して我が身を滅ぼした
39 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 01:35:09 ID:lBU3dI23
あの現実主義な家康が他力本願な浄土教というのにはなにか違和感を感じる。しかも結構な信者だ。
40 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 03:16:16 ID:Enedx69b
信長が死んだ本能寺も葬式した寺も法華教だったが、
信長が信心していたとは思えないな・・・
一向宗と法華教は天敵だから敵の敵は友程度の感覚だと思うwww
他の戦国大名も領地に門徒が多いとか有力な寺院があるので、
その宗派じゃないとねwww程度の認識だったと思うよ・・・
41 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 08:13:29 ID:5YMUDYBO
>>40 信長が法華宗に属しているような態度であったことはフロイスが書き残してるね。
ただ思想的には、同じくフロイスが若干の点、禅宗の見解に従っていたと書き残してる。
平手政秀の菩提を弔うために政秀寺を建立しているが、この寺は禅宗である臨済宗だし、
有名な「天下布武」という言葉は禅僧の沢彦宗恩に選んでもらっている。
42 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 08:16:30 ID:5YMUDYBO
43 :
人間七七四年:2007/08/15(水) 08:08:57 ID:qtswVlhE
>>39 あんた「他力本願」の意味を勘違いしてるよ。
まあ、世間一般で誤解されがちな言葉ではあるが。
浄土宗、浄土真宗の「他力本願」というのは
あれはあくまで「死後の世界」限定なの。
「人間は死んだらどうなるか」という人間の力ではどうにもならない部分を
全て阿弥陀様におまかせして、現実世界では精一杯生きるって事だ。
あと家康が「現実主義」ってのもな・・・・
家康は現実主義というか「常識主義」とでも言った方がいいかもしれない。
つまり当時として当たり前の常識的な考え方の持ち主という事だ。
現代でこそ死後の世界だの仏罰だのはナンセンスに近い発想だが
当時としては現実的・常識的な問題だったわけ。
家康が浄土宗を奉じたのは、一向宗(浄土真宗)と激しく戦い寺を潰したりした
引け目から浄土宗に傾倒するようになったという事ね。
そうやって死後の安泰や仏罰から逃れようとしたわけだ。
44 :
人間七七四年:2007/08/15(水) 08:16:57 ID:qtswVlhE
>>37 >>40 まあ熱心に信心した大名、武将も多かったよ。
それで信長はともかく他の武将は宗旨こそ変えることはあるが
信者→無宗教者という人物はほとんどいなかったね。
ある宗教や宗派を捨てる時は必ず他の宗教・宗派に鞍替えして
そっちに熱心になりがちだ。
それは仏罰のような宗教的制裁を避けるためと考えられる。
キリシタン大名が棄教したあとに法華宗の信者になったりするのは
やはりわが身を守りたいというのがあるわけだ。
45 :
人間七七四年:2007/08/15(水) 09:58:44 ID:z62XaTL1
未だに信長無神論者説なんて信じてるのがいたのか。
牛頭天王やらを崇拝してたというのに。
46 :
人間七七四年:2007/09/03(月) 13:07:31 ID:tv+Ikwxu
神社を陣の後方に置いて戦うとか、縁起を担ぐこともある。
47 :
人間七七四年:2007/09/11(火) 23:23:10 ID:2D+ViEu3
この前立ち読みした本に
関ケ原で西軍の本気で戦ってた組はキリシタンの小西以外
そう布陣してたとか書いてあったな
48 :
人間七七四年:2007/10/09(火) 00:19:28 ID:0frBxFbw
>>9 ところがそれも、実際にはかなり疑問がつく。
実際に大友宗麟が、キリスト教に熱心だったのは、晩年の時期で
寺社の取り潰しも家臣にやる土地の捻出が、目的だったりする。
他には、政治的な目的か家臣の暴走で、ジュン宗教的なものか
どうかは疑問だ。
・宇佐八幡の神領横領 奈多夫人の実家奈多氏が横領。
・彦山神社領への出兵 宗麟の次男を座主に据えるため。
49 :
人間七七四年:2007/10/10(水) 16:35:46 ID:oGz26LwK
あげ
50 :
人間七七四年:2007/10/23(火) 23:13:18 ID:1YbVtqBM
最近、【武士の家訓】という文庫本を読んでいたんだけど、
武士たちは、かなり信心深い印象を受けた。
神仏儒を生活の規範として、武の鍛錬も怠らないように精進して日々向上を目指す。
文武両道が大事なのだろう。
>>43 法然も信者からの疑問に答えており、親鸞も和讃で分かり易く(文盲も対象
として)説いていますが、弥陀念仏を唱えれば諸菩薩諸神の加護が得られる
のであり、神祇を拝さなくても心配はないという「現世」も視野に入れた教
えが説かれていました。
また、本山の教義とは別に信者が独自の解釈を行っていたことは、五来重先
生がかつて可能性を指摘しておいででしたが、近年神田千里先生が具体的に
まとめられていますね。
>>45 牛頭天王のことはさておき(津島の祭礼に出ている時点で可能性はおおあり
ですが)、起請文にも書いている八幡や、織田剣神社への信仰は、間違いな
くあったでしょうね。
上司から大袈裟な表現が好きで信用なら無いと評価されていたフロイスだけ
でしょう。無神論者だと書いていたのは。
>>48 全体として見れば信仰も動機に含まれていただろうと思われますが、個々の
事件については、原因を想定する研究者もいますね。
確か、三年前の日本古文書学会で政治的動機から宗麟を見た研究が発表され
ていました。全部が全部かというと、疑問も浮かびますが。
>>24 >昔の人達は宗派に対する拘りが比較的無かったのかもしれないね。
「八宗兼学」という言葉があり、鎌倉時代にこれらを解説した『八宗綱要』
という書が編まれたように、元々真言、天台、律、華厳、法相、倶舎、成実、
三論の南都六宗+二宗の八宗は、対立する存在ではありませんでした。
応和の宗論における悉皆成仏説(天台)と五性格別説(南都)のような対立
もありましたが、学部のようなもので、才能があって各宗で学んだ僧侶や、
無住の様に才能があったがいずれからも距離を置いた僧は多かった。
また、いわゆる「鎌倉新仏教」は、この時代には「宗」ではなく「衆」と呼
ばれることが多く、独立した宗派とは見做されないことが普通。
禅宗と浄土宗(天台宗の一分野)を取り上げて十宗とした例が『日本一鑑』
などに見られますが、いずれも中国から伝来したものであって、法然などの
所謂「祖師」たちが開いたものとは見做されていませんでした。
寺院でも二宗以上を兼学していた所は多く、各宗派が教団として独立するの
は江戸時代になってから。「浄土真宗」という名称も、定着したのは近代に
なってからの筈です(信者の使用例は近世には見られる)。
「鎌倉新仏教」と呼ばず、「江戸新仏教」と呼べという説もある。
江戸時代初期の公家の日記を読んでも、天台「宗」と共に法華「衆」などが
記されています。独立したものと見做されていない。
また、現実に本願寺が天台宗の名刹である(足利義教も属していた)青蓮院
の「候人」(まあ、従者ですね)の関係を結んでいました。
天台宗からは「一向衆」と呼ばれ、自らは「無碍光宗」(本願寺派のみの呼
称で、対立していた仏光寺などは含まない)もしくは「一向宗」と呼ぶよう
な関係ではありましたが。
なお、現在共に「浄土真宗」とされている仏光寺派や高田派は本願寺派とは
対立関係にあり、織田信長に協力して越前や加賀の戦で手柄を立て、安堵状
を受けています。信長も、宗教勢力全てと戦っていた訳ではない。
お目汚しの長レス失礼致しました。
余談の余談。青蓮院は天台宗の三門跡の一つですが、本願寺派がその候人と
なって庇護下に収まっていたのに対して、仏光寺派は同じ三門跡の一角であ
る天台宗妙法院の庇護下に収まっています。(高田派は不明)
法然らも、自分たちは「天台沙門」だと考えて遷化しています。
度々すみません。
>>32 池田恒興のお母さんだったか、熱心な一向宗信者で本願寺との和睦に一役買ってなかったっけ?
56 :
人間七七四年:2007/10/24(水) 00:54:43 ID:AJTjMvEt
知らね
57 :
人間七七四年:2007/10/24(水) 04:49:05 ID:K+E7dHny
>>51 山野さんに質問なんだけど、禅宗の自力本願と真宗の他力本願。
禅は妄念を去って本来の性を発揮する。真宗は妄念のことは仏にまかせてしまう。
これは突き詰めれば一緒のことなの?
>>57 >これは突き詰めれば一緒のことなの?
歴史上、一休と蓮如に交友関係があり、一脈通じた関係も築いていたという
(もっとも、宗派間の交流は両者に限らない)話がありますね。
また、仏教には「八万四千の法門」という言葉があり、いくつも入り口はあ
っても、いずれも仏の教えであり、結果(菩提)は同じだという考え方があ
って、当時の人間で禅宗・一向衆の両者と関係を持っていた人間は、
「突き詰めれば一緒のこと」
だと考えていた筈です。この手の主張は、無住道暁がよくしていますよ。
ただ、こうした結論は、天台宗の五時教判など、山ほどある経全てが釈迦の
在世中に語られた教えだと想定した上で成立するものです。
実際には、阿含経が釈迦の直説に最も近く、後世の各宗派が拠りどころとし
ていた種々の経典は、別々の時代と場所で成立したものですからね。
皆「釈迦の直説はこうであった」と考えて書いたものという点では共通して
いますが、真理のレベルで一致するかというと、私にはお答えできません。
ただ、かつての日本仏教史上の理屈では、どの経典・宗派の教えも、
「突き詰めれば一緒」
になった筈だとお答えするだけです。
いわゆる「鎌倉新仏教」を「衆」と呼んでいた人々は、「解釈が間違ってい
る」として、八万四千の法門外と見做していたようですが。
一休が蓮如との親交を詠んだとされる歌。
分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ
「八万四千の法門」という思想を、和歌にして表したものでしょう。
逆に言えば、この頃になると、わざわざ「同じ高い嶺」を口にする必要があ
るほど、宗・衆の間の交流があまり行われていなかったのでしょうが。
60 :
57:2007/10/28(日) 04:20:48 ID:Ls5murIt
61 :
現代に顕われた織田信長の霊:2008/02/02(土) 13:19:55 ID:0YhcvHSC
http://www14.atwiki.jp/415mattari/ 篩いの目は日毎、確実に大きくなっている。私から民衆に知らせられるのも、この形が精一杯。
今の世界に蔓延する仕掛けをあらゆる論争の中に仕込んだ。皆々御苦労であった。全て保存しなさい。
小さな一言にも意味がこもっている。各自で読み解いてもらうしかない。
私はミノオワリの魂。ミノオワリは美濃尾張ではない。
言霊を読み解きなさい。一人でも多く。この者はイチリンの仕組。
皆よく聞きなさい。この星は自浄作用に動き出し始めている。
風邪もひき始めならば軽い養生で治せるが、病状が進むとどうなるか考えてみなさい。
発熱や悪寒はなぜ出るのか考えてみなさい。
無駄に恐れおののいている場合ではない。もう目を覚ましなさい。次元上昇などと寝ぼけたことを言っている場合ではない。
人が思っているような神など存在しない。よく現実に目を向けて、人間としてできる事をいますぐ実行しなさい。
祝詞だ祈りだ瞑想だと非現実的な事ばかりに目を向けるのはもう止めなさい。
現実に今を生きて動いて、とにかく有効手段として自然環境を蘇らせるしか道が無い事に気付きなさい。
人間が自然にしたことが人間に返ってくるだけなのだから、天変地異などと呼んで自分ばかり生き残りたがっている場合ではないぞ。
人間が人間の為だけにした事によって、人間以外の獣、草木、虫達、みんな道連れになるのだぞ。
不思議ぶったまやかしの霊的世界から離れなさい。
神はお前達が思っているような霊的存在ではない。神と呼ぶものは生命の摂理、自然や宇宙の法則そのものを指す。
人が思っているような神は霊、それも大半はまともではない霊だ。今降りている神示も殆どまやかし。マコトは一部だぞ。
火水、艮はマコト。だが艮の器はおかげをおとしたぞ。ハナサクモノは偽物だぞ。日月地は鏡だぞ。片方は虚、うつし間違えるなよ。
私は神霊の一人。クニトコタチ、スサナルの直下、アマカケルタケイサオ。人であった最後の名は織田信長。
人が幻想を抱いてきた、無い神も無い霊も本当に無くなる時がやってきた。
62 :
人間七七四年:2008/04/18(金) 09:32:07 ID:skm+0ET/
戦国時代にはキリシタン大名がいたのだが、
宗教が新たな土地で布教する場合、下層の人たち、孤立した人たちの不満を煽ったりして宗勢を拡大していくのが常道だと思うんだけど、
宣教師は当時土地の有力者であった大名はどのように改宗させたのだろうか?
63 :
人間七七四年:
基本的には
南蛮貿易の利権をちらつかせてつる
かな。
ただし、肝心の南蛮船が来ないと逆ギレされる諸刃の剣