1 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:
桶狭間合戦や厳島合戦のような
劣勢を跳ね返し、大軍を破った戦いを語りましょう。
河越夜戦なんてすごくね?
( ´゚ω゚` )
4 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/23(土) 02:21:11 ID:ZEXwJ1qL
有田中井手の戦い ○毛利軍1500 対 ●武田軍7000
元就の初陣。 当時の毛利家の領土は3000貫といわれ、15000石〜25000石ぐらいといわれているほど少ないものだった。
初陣、そして圧倒的劣勢にもかかわらず圧倒的な戦力差を華麗な戦術ではねのけ、総大将武田元繁を討ち取り軍団を総崩れにさせる。
元就の天才ぶりはこの時から発揮されていた。
後世西国の桶狭間と呼ばれる。(状況を考えれば桶狭間以上の大勝利)
佐東銀山城死守戦 ○毛利尼子連合軍 対 大内軍
有田合戦で敗れた武田氏が尼子の力を借りようとし、友田興藤は武田氏の援助を受けて、桜尾城を奪った。
一方の大内義興は自ら出陣し桜尾城を包囲した。そして息子の大内義隆と副将・陶興房に銀山城を攻撃させた。
元就はまだ尼子方の武将だったので、銀山城死守するようにと尼子経久に言われていた。
劣勢に陥った尼子武将。
見かねた元就は軍義で夜襲を提案、意表をつかれた大内軍は大混乱に陥り城の包囲を解かざるをえなかった。
吉田郡山城の戦い ○毛利軍3000 対 ●尼子軍30000
圧倒的な数の軍勢を率いる尼子軍を巧みな篭城戦でこれを撃退する。
その後尼子は衰退する。
折敷畑の戦い ○毛利軍3000 対 ●陶軍7000
山に布陣した倍以上の敵軍を下から攻撃し、大将宮川長房を戦死させ完勝を収める。
地理的にそして兵数的にも不利な状況ながら、総大将を討ち取るという完勝っぷりは元就、そして息子達の戦上手ぶりが垣間見れる。
宮尾城攻防戦 ○毛利軍500 対 ●陶軍16000
圧倒的な敵の大軍の大攻勢に耐え抜き、厳島合戦への足掛かりを作る。
厳島の戦い ○毛利軍5000 対 ●陶軍25000
自身の頭脳を駆使して厳島へ上陸した陶軍を壊滅させ、西国無双と呼ばれた陶晴賢を自刃へ追い込む。
運だけの桶狭間とは違い、自身の頭脳を駆使した完璧な戦だった。
この戦だけでも元就の凄さが分かると思う。
この合戦後、元就は戦国随一の勢力になる。
5 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/23(土) 02:22:48 ID:qOVIGH+b
島津とか、真田もそうだな
てかさ、こんな戦について回るのが
誇張してるって話だよね
実際どうなの?えろい人
沖田畷
>>5 島津は伊東を数百でぼっこぼこにしたりしてるし信憑性あるよ。
九州ではわりと敵兵より少ない数で勝ってる。
龍造寺とか悲惨だし大友も大敗北。
朝鮮での話は誇張かも?
真田昌之
見事な籠城戦術
真田幸村
夏の陣は士気の違い、と大軍とはいえ兵を分散させて指揮系統の乱れをしょうじさせた徳川のミス。
9 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/23(土) 10:43:15 ID:neVx9ikr
2500で15000の佐々を倒した前田利家
>>8 島津はどこからこんな兵が沸いてきたんだよwww ってのが多すぎる
どっちにしろ豊臣相手にはロクな目に遭ってないし島津の評価は低いぞ もし畿内にいたら浅井ぐらいのレベルだったかもしれん
日本三大夜戦の3人は凄いぞ
毛利は
>>4 北条は小田原城で10万の上杉軍を追い返したし
織田は稲生で700VS1700 天王寺で3000VS15000 となかなか凄い戦いをしている
防戦じゃなくて野戦でやらかすから凄いよ>日本三大奇襲
12 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/24(日) 00:34:06 ID:u9Qy6pMg
●直江vs最上○ 長谷堂合戦
直江 20000
最上 1000
あ、あのー、ですから河越夜戦は………
どこから川越夜戦なんて嘘が
生まれたかを語るスレにしよう。
人取橋の戦い ○伊達軍8千 対 ●佐竹・蘆名・畠山連合軍3万
反伊達の連合軍は数に任せて攻め込んだ。政宗はこの報に接し、最
上に対する押さえに2千、大崎に対する押さえに3千人を配し、総勢8千人を率いて布陣した。
政宗、成実らの奮闘によって連合軍は本陣を抜く事が出来ず、伊達軍は圧倒的劣勢の中から持ちこたえた。
この戦いは政宗生涯の戦いのうちでも激闘をもって聞こえ、彼の武名が高まり、伊達氏の運命を大きく開いた戦いであった。
政宗はこの時、若干19歳だった。
窪田の戦い ○伊達軍6百 対 ●佐竹・蘆名連合軍4千
佐竹義重と蘆名義広に加え、これに白河氏や二階堂氏が加わり、4千人が安積郡に侵入した。
政宗は大崎や最上などへの備えのため、六百人の軍勢であたらなければならない劣勢であった。
政宗は伊達領最南端の郡山城と窪田砦で連合軍の侵入を阻止しようとし、
両軍が激突、連合軍が2百人程度の犠牲が出たのに対し、伊達軍は6十人程度だった。
伊達軍は劣勢の中持ちこたえ、40日間の持久戦のすえ和議が成立した。
>>16 話し変えすぎだろw
窪田の伊達軍は600人じゃなくて600騎
対峙するまでには留守政景や粟野国顕などの増員があって1000余騎になっている
6月11日連合軍北上
16日政宗、福原に着陣
6月23日芦名四天と伊達成実らの戦いで連合軍と伊達軍の双方に50余騎の死者がでる
7月4日には総勢で戦闘に及ぶ
6時間に及ぶ戦いで伊達軍80余騎、連合軍50余騎の死者がでて双方陣に引く
その後は積極的に動く事なく対峙し
18日に岩城の仲介により和議を結び双方兵を引いた
人取橋合戦の最大の功労者は政宗でも成実でもなく左月斎だろう。名前も出さないとは何事か。
そうだ〜
鬼庭さんは凄いんだぞ〜
20 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/24(日) 09:12:42 ID:gHe+qcoy
いかりや長介だもん
つぎいってみよー
↓↓↓↓↓↓
ひどいや
黒田官兵衛
青山合戦 ○黒田300 VS ●赤松政秀1000
土器山合戦 ○黒田300 VS ●赤松政秀3000
英賀村の戦い ○黒田500 VS ●浦宗勝5000
阿閉城篭城戦 ○黒田500 VS ●宇喜多軍8000
三木城攻め ○黒田隊500 VS ●別所勢700
○黒田隊500 VS ●別所勢1000
24 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/05(金) 15:51:14 ID:g/m/cFNi
島津の木崎原 耳川 沖田畷 四川
竜造寺の今山
毛利の有田 郡山攻囲戦 厳島
宗滴の加賀一向一揆戦
秀吉の鎌刃城救援
信長の稲生 天王寺
村上の上田原 砥石
武田信虎の 対福島戦
伊勢長島の第一次第二次防衛戦
北条の河越
里見の三船山
天正12年(1584)伊勢亀山城の戦い
○関 盛信 13騎 VS ●神戸正武 500人
何そのスケールの小さな戦いwwww
その13人って五虎将軍みたいな奴らだったのかな
その13騎って侍が13人てことで、足軽とかは数に入ってなかったんじゃね?
でなきゃリアル戦国無双もいいとこだなwww
28 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/27(土) 11:52:11 ID:RyascpqY
森辺合戦
織田信長軍1600対斎藤軍6000
結果は織田軍の勝利。斎藤軍は大将長井甲斐守以下多数を討ち取られる
島津義弘の木崎原合戦。
島津家久の方が義弘よりも合戦が上手いなんていう奴がいるが
この木崎原合戦を調べてみなよ。
九州の桶狭間と言われるこの合戦に奇跡的勝利をしなければ島津家は伊東家と相良家の連合軍に滅ぼされていただろう。
島津義弘は300未満の兵しかいないのに伊東軍3000と相良軍の挟撃を受けて大勝利を挙げている。
それも家久の勝利のような一撃での勝利というわけではなく、機動力を生かした数度の戦闘で伊東軍を壊走させているんだからすごい。
一撃ならば「まぐれ」もあり得るけれど、数度に渡る戦闘で勝利しているのだから本物の強さだよ。
島津は支那人並に話し誇張するから全く信用できない
5分の1ぐらいに差し引いて見て丁度いい
逆に双方の戦力差がない互角の戦って
応仁の乱
川中島
朝鮮出兵
関ヶ原
有名どころだとこれくらいかな、関ヶ原以外は泥沼化ばかりだが
寡兵で大軍を破る逸話よりも互角の状態から勝利した逸話の方が少ない気がする
基本的に決戦が生起するのは「双方が」自軍の優勢を確信した時。
後が無い場合を除き自軍不利と見たら普通は余計な損害を嫌って撤収し、
後日のより良い条件での再戦を期すか外交的打開を試みる。
主力が消耗してたら、外交もままならないからな。
そういうわけで決戦が生起した場合はまず片方、または双方が情勢誤認を
起こしてる可能性が高い。
互角の状態ならまずどちらかが追いつめられてるということは無いし、不毛な
消耗戦に陥る確率が高いから双方が敵を互角以上と認識したらまず決戦自体が生起しない。
つまり「互角の状態から勝利した逸話が少ない」というより互角の状態で合戦になること
自体が珍しい。双方が敵を過小評価した場合のみ発生する戦闘だから。
34 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/30(火) 18:30:25 ID:4W8q/dkn
>>30 それじゃ伊東はわずか600の兵で敵地に侵入して城を落そうとしていたのかよ?w
伊東は猛者だなw
36 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/30(火) 19:56:45 ID:ywyNmfOs
>>35 島津の兵は実際もう少し多かったと言いたいのだと思うよ。
官渡の戦いなんかでも曹操軍の兵力には疑問があるしね。
それと同じだよ。
伊東が少ないわけではない。
まぁ実際桶狭間の戦いも信長公記では2000対40000という馬鹿みたいな兵力差になってるからな
島津2.5倍、敵0.75倍程度の兵力と考えるのが妥当かも
38 :
にゃんこ:2007/01/30(火) 20:26:11 ID:ydTERo1s
1,戸籍もないし、整列もできないから、人数を正確に数えようが無いから、
宣伝効果第一で適当な数字を挙げておこう。
2,戸籍をちゃんと作り、また訓練によって整列もできる。これで、人数を正確に
計算して、数学的に合理的な作戦を実行できる。
戦国時代は、ほとんど1だが、より先進的な統治を行っている大名は、2に近づける。
つまり、「後進的な統治で多めに人数を挙げている大名が、比較的先進的な統治を
行なっている比較的正確な人数を把握している大名に敗れた。」という側面が大きいと思うぞ。
39 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/30(火) 20:42:41 ID:h1uz+t7U
>>36 自軍の兵数を少なく記述することが島津家に利益になるわけではないのでそれはない。
まさか2ちゃんねるの価値観で少ない兵で勝ったぞ、すごいだろ!って自慢するわけがない。
むしろ動員力があるんだぞと誇示した方が大名家としては得だし、敵国に対する脅しにもなる。
泗川合戦で敵兵20万としていたのも、明軍が20万と号して島津軍をビビらそうとしたのが原因。
島津のほうでは20万いるかどうか数えられないので、明軍の言葉通りに20万の敵と合戦と記述したに過ぎないので
島津が大げさに伝えたわけではない。
ここを勘違いしている奴が多すぎ。
40 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/30(火) 21:03:35 ID:Z4N4ctV7
俳優・宇梶タケシの武勇伝(実話らしい)
○宇梶1人vs●どっかの暴走族800
敵軍先鋒に殴り込み4〜5人瞬殺。あまりの強さに周りが逃げだし先鋒隊が崩壊→集団心理で全軍壊走
殴り込む宇梶はバケモンですな。
>>39 悪いけど損得とか関係なくこういうの記す作者の多くは自分の殿は凄かったみたいなこと書くから
忍城防衛戦
石田三成他20000vs成田泰季300+女子供爺婆(城主氏長は主力を率い小田原出張中)
三成一世一代の自爆ギャグとして名高いが、実は相手が凄かった。
水攻め失敗も偶然ではなく、近隣人夫を抱き込み要所が手抜きな強度偽装堤防。
凄いのはその後。援軍として浅野長政、真田親子セットが派遣され、たちまち大激戦
さすが真田で城門が破られそうになるが、ここに現れたのが城主氏長の娘、甲斐姫。
鎧兜に身を包み兵を率いて真田の精兵相手に世紀の大乱暴、三宅高繁以下多数の首を挙げ
なんとこれを撃退。
以後も度重なる攻撃を凌ぎ、氏長から小田原開城の知らせを受けるまでとうとう守り切った。
ちなみに祖母は由良成繁の妻で輝子姫という有名人、継母は太田三楽の娘という
ただの女子供ではない恐るべき女系。
甲斐姫はその後も更に武勇伝を重ねてるからwikiでも見てくれ。嘘臭いくらいの凄い女だ。
43 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/30(火) 21:06:56 ID:1jN41SlI
とりあえず兵数の出典はなんなんだ。
44 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/30(火) 21:25:11 ID:4W8q/dkn
>>38 なんで戸籍が出てくんだかわかんないんだけど
満州国には戸籍がなかったから満州国軍は自軍の兵数を数えられなかったとでも?
45 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/30(火) 21:46:55 ID:p2M4axRR
>>41 自分の殿を持ち上げる記述が多いのは史学的に当然だけど
自軍の兵数を、実数より少なく記録して残すケースは聞いた事ないな
46 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/30(火) 21:52:14 ID:ywyNmfOs
>>39 その「まさか」がそこら中であるということを知らんとは。
それに少ない兵で勝ったぞというのが2ちゃんねるの価値観だと言っている時点でお馬鹿さんだろ。
2ちゃんねる依存症だな。
47 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/30(火) 21:54:56 ID:ywyNmfOs
つうか木崎原のソースは何なの?
原文で見ないと分からん
元々誇張して書くのは常識だけど
更にいい加減に訳して書く連中が多いから余計と胡散臭い話しになるんだよ
50 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/30(火) 22:13:43 ID:ywyNmfOs
51 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/30(火) 22:15:52 ID:U+M8M7wE
52 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/31(水) 15:20:08 ID:YK5sLHbl
木崎原は島津の戦法の典型。
劣勢に見せかけて敵を油断させ、総攻撃で陣が乱れたところを
援軍と伏兵で逆転する。
実際には伊東を助けにきた相良を追っ払った部隊もいたし、
伊集院もかけつけてきた。
これは周到に準備された作戦で、義弘の手勢だけ見るのは意味が無い。
ま、当時のみなら現代まで寡兵を信じ込ませるんだから大したもんだといえる。
マイナーだから誰もツッコミ入れなかっただけだろw
最強神話でっち上げた武田や上杉は優秀だ
>>32 もう一つ、不利とわかっていても政治的戦略的要求から決戦を強いられるということはある。
戦国ではないが、日露戦争なんて海も陸もそんな感じ。
55 :
にゃんこ:2007/01/31(水) 23:01:51 ID:wtDAMvKM
44>
騎馬民族は、5や10単位で「隊」を作るから、戸籍無しでも人数は数えられる
だろう。だが、日本の戦国時代では、5や10の単位で「隊」を組む習慣は無かった
から、正確な兵数は把握しようが無い。戸籍(この場合は正確な検地帳)
戦国時代の戦争は、兵士という駒の数による兵棋演習のような数学的な戦闘は無く、
「親分」の顔で戦う、極めて政治的な(多数派工作とか)戦争がほとんどだろう。
56 :
にゃんこ:2007/01/31(水) 23:05:36 ID:wtDAMvKM
1,まじめな中学校での騎馬戦
陣形等の数学合理的な戦術がものを言う。
2,荒れた中学校での騎馬戦
やる気の無い馬やら、みんながビビッて避けて通る無敵馬が発生する。
近代戦やシミュレーションゲームは1と近いが、封建時代の戦争は2に近いと
思う。親分の顔で戦う。
57 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/31(水) 23:23:53 ID:B3g8c+Yd
>>55 なんで戸籍が出てくんだか更にわかんないんだけど
なんで満州国の話で騎馬民族が出てくんだかわかんないんだけど
58 :
にゃんこ:2007/02/01(木) 20:19:20 ID:hyhvAfNr
あのさ、戸籍無しで、どのように徴兵するのさ?
実際に、戦国時代は、差し出し検地の記録から、農民兵を惣などから徴兵したんだよ。
現代の日本には、徴兵制は無いけれど、7歳で徴学校制?はあるよね。あれが
戸籍無しでできるかい?生徒数を正確に数えられるかい?
これで、解らないという人には、説明しようが無いな。
ああ、満州国軍って、あれか。近代なら、整列させられるから、人数を数えられる
よね。ただ、その人数が戦時の実質人数だったがどうかは知らないが。
ちなみに、整列が、近代の指標の一つなんてのは、社会学の基礎だと思う。
59 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/01(木) 20:21:22 ID:8ux+xfGy
>>52 相良軍を追い払ったのは義弘の300の兵から分散させた数十人の兵がが立てた無数の旗幟、
相良は島津軍が情報とは違って大軍だと思い込み逃げ帰った。
60 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/01(木) 23:21:09 ID:iFhlwmM8
>>59 その話は知ってた。でも信用するわけにはいかない。
斥候もださず、小競り合いもせず撤退などする間抜けがいる?
主戦場でもないところに何時来るかわからない相良を
待ってる大軍なんてあるはずがない。
仮にあったとしても、対陣して引き付けておくくらいできる。
相良は内訌と外征でいつもきたえられてきた戦国大名で
しかも島津相手にずっと渡り合ってきた。そんな軟弱じゃないよ。
軍記ものにはよく無数の旗とか松明のこけおどしがでてくるけど、
嘘っぽ。
61 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/01(木) 23:38:25 ID:IoyqouFZ
62 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/01(木) 23:51:14 ID:DARg57BC
>>58 >あのさ、戸籍無しで、どのように徴兵するのさ?
史実で満州国に戸籍法がねーから糞みてーな極論に対する反論しただけだろ
逆ギレするくらいならとんでも論展開すんなカス
点呼なんて徴兵した後での話だろ
論点ずらすな池沼
>>60 相良にしたら、伊東に援軍を送るだけのつもりで戦意が元々低かったんだろ。
島津は寡兵だし、戦闘に参加しなくても楽勝だし
軍勢さえ出しておけば伊東との同盟への義理も果たせる。
その程度の認識で出兵してみたら、情報とは大違いで大軍が陣を張っている。
これで一気にやる気が失せたとも考えられるだろ?
このスレ、低レベルな煽り合いしかなくてつまんないから
大軍で寡兵を破った話でもしようぜ
野良田表合戦
2万の六角勢を、若き浅井長政が1万の兵で破る
これにより六角氏に服属状態だった浅井氏が戦国大名として自立することになる
奇しくも長政の運命を翻弄する信長が桶狭間で奇跡的勝利を掴み取ったのと同年(発生年には異説あり)
66 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/02(金) 20:32:18 ID:3DGwFPu9
>>63 戦意は低かったかもしれない。俺もそう思った。
でも敵陣も確認しないとう理由にはならない。
戦うなとうい指示があった可能性もあるけど
前後の相良の動きみても、義に篤い義陽の性格から考えても無いわ。
68 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/02(金) 23:26:52 ID:H5t9s+mk
>>66 斥候は出したと思うよ。
斥候の役割は敵の位置と兵力の確認
そもそもオレとアンタのイメージがまるっきり違うな
オレのイメージ
まず相良軍は島津軍の旗など視認できない距離において島津軍は思いもよらぬ多勢という斥候からの情報を得る。
これ以上前進して島津軍と対峙するとなると戦闘は覚悟しなければいけない。
同盟の義理立ての軍勢だとするとなるべく犠牲は出すなという命令は当然受けている。
まして斥候の情報では敵勢は相良軍の軍勢よりも優勢らしい。
犠牲を出さすに退却するならば早い方がいい。
↓
互いの軍勢が視認する以前に退却
アンタのイメージ
斥候を出す前に互いの軍勢が視認できるほどの距離で遭遇
相良軍は敵勢が事前の情報よりも多勢
戦う前には敵の戦力を正確に把握するために敵陣深く斥候を出すはず。
そうなれば敵はわずかの兵力で旗だけ多いのに気づくはず。
でも斥候の役目から言えば、敵の詳細な戦力把握なんて元々しない
兵数と位置を知るだけで十分。
それが確認できるくらいの距離までしか近づかない。
斥候に生還率が極端に低くなるほどの距離まで敵陣へ近づけてまで、敵情報を求めるからには、何が何でも勝ちを求めているような時だろう。
伊東軍の作戦に付き合うことが優勢と思われる敵と戦うほどに重要とは思えない。
>>67 というか、世の勝ち戦はほとんどそれ
寡兵で勝つほうが異常だよ
物見の遠くから旗がいっぱい見えた報告だけでいきなり全軍撤退なんてあるはずないかと。
それじゃ侵攻してきてるのか、堅固な陣地を構えているのか、何もわからない。
軍議もできないし、帰ってなんて報告する?
距離をとって陣地構築、斥候で敵陣と人数の把握、威力偵察、
このくらいはしないとその後の対応まったくできないよ?
そもそも突破されて当たり前の状態で相良の失策を信じて
伊東の迎撃作戦をやっちゃっていいのか義弘は。無謀すぎる。
そこまで追い込まれていないというか
国力でまさる島津が準備をしていない時点でもう不自然なのに。
71 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/04(日) 13:41:39 ID:5FEfpvyk
>>70 戦意が低かったら十分あり得るだろう?
リスク回避のために退却。
相良にとっては、もともと出兵したという事実だけが重要だったのだから
虚旗だけで騙したという話が伝わっているのだから、絶対にあり得ないというなら別の説を立てるのも仕方が無いだろうが
なんとなく違うのではないかという見解だけで別の説を立ててもそれは、伝わっている話よりも根拠がない説に過ぎないわけだから
自分の言っている説が絶対みたいな言い方は少しおかしいと思うよ。
72 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/04(日) 14:00:58 ID:p44Q1t28
明軍を破った戦いだろ。特に立花宗茂や小早川隆景、島津・加藤はすごいね。
相良の周辺には
菊池と名和がいるから
あんまり兵を損失させたくなかったんじゃねーの?
>>71 トリックで無血で撃退。島津マンセー。相良ワロス。ホントにいいのこれで?
軍記ものはよく考えたら整合性がとれない、矛盾が多い、
というのはよくある。それはおもしろおかしくフィクションを織り交ぜてるから。
科学としてと史学など存在しない時代では少ない事実のみの記述では
誰も読んでくれない。当然島津マンセーだから俺らには別の視点が必要。
矛盾を説明しようと理由を色々考えたりするのは意味ないことだよ。
飾りを取り除けば、相良は援軍をだしたが島津に牽制された。これで十分。
>>73 菊池はすでにないが、名和とは接していた。その名和は島津と組んでいた。
相良は伊東、肝属らと連携して島津に対抗した。背後に大友の存在がある。
度々島津領に出兵し、各地に「クマ陣」と呼ばれる遺跡が残る。
76 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 18:17:07 ID:6WPSxryU
78 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 01:39:54 ID:S0jXtqB6
>>70 いや実際そんなもんだと思うよ。
双眼鏡がある時代なら、もう少し詳細がわかるだろうが戦国時代の物見なんて
おおよその兵力を遠くから眺めてその地域に軍勢を展開するか回避するかを決定するくらいだったと思うな。
もしも戦国時代の斥候が敵の兵力の詳細を調べているならば、長篠の合戦で武田軍は野戦築城していた織田軍に突撃なんかしていないだろうよ。
79 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 02:32:13 ID:rGAJUzJS
赤坂城の戦い
楠木正成×幕府軍 500人 対 20万人 wiki (太平記では300人対30万となっている)
篭城で一ヶ月間防いだが、最後は城から逃げ落ち千早城に篭城した。
千早城の戦い
楠木正成×幕府軍 1000人 対 100万人
篭城及びゲリラ戦を展開、日本中で反幕府軍が決起し楠木軍の粘り勝ち。鎌倉幕府は滅びた。
湊川の戦い
楠木正成×足利尊氏 700人 対 50万人
6時間で楠木軍は全滅。
80 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 02:56:11 ID:rGAJUzJS
昆陽城の戦い
劉秀(後の光武帝)×王莽軍(新の皇帝)
3000人 対 100万人(戦闘兵42万、輜重兵58万人)
まさに中国の桶狭間である。劉秀は精鋭3000騎を選りすぐり
敵軍の本拠地に突っ込み総大将が戦死、司令部が消滅した所で
逃げ惑う100人の兵を主力軍数万で殲滅した。
王莽は戦力のほとんどを失い、新は実質上滅亡した。
81 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 04:47:50 ID:UV7l+KYH
第一次月山富田攻めはどう?
籠城から後詰め無しからの逆転、だから珍しくないか?
>>78 なんでそう思うわけ?>遠くから眺めるだけの戦国斥候
そんなの聞いたことないんだけど。
大名たちが乱波とか草とか呼ばれる情報収集の組織をわざわざ
飼ってたのは遠くから眺めさせるためなのか?
それから長篠の引用はもうちょっと調べてからにして。ひどすぎ
兵力差はわかっていたことだし、今どき突撃信じてるひといないよ?
いわゆる物見ってのは
>>77さんに近いイメージがあるけどな。
情報伝達手段がそれほど発達していない時代だからね。
場合によっては情報収集時間や伝達時間がかかり過ぎるような手段
は用いてられないだろ。
こちらからとある領土を攻めるような場合は入念な情報収集も可能だろうが
攻め込まれたような場合は敵の進軍速度によってはロクに情報もあるまい。
それこそ戦闘フェイズに入る前の歴ゲー状態(何もしなくても相手の情報丸見え
のようなヌルい作品除く)で、攻めてきたってこととおよその兵力ぐらいしか分からん。
実際は戦闘に入ってからの情報収集は厳しいだろうし。
(ゲームではだいたい戦闘になれば分かるが。。)
84 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 06:56:13 ID:EZU9O3++
島津は結構、捏造記述が多いよ。
伏見城の件とか・・・
こんな連中だから、兵数に関しても随分、意図的捏造をしてるフシがある。
85 :
にゃんこ:2007/02/11(日) 08:44:46 ID:TOkD5wwW
「2000人ならこれくらい」「1万人ならこれくらい」
という基準を前もって見せてもらって、それを覚え込まねば、目視による
概数の判断はできないよね。
仮に、現代、○○市の青年全員が、広場に集まったとするね。それを目視で
概数を計ることができないよね。
結局、戸籍(検地帳の類)が無いと、兵数の正確な把握は無理だな。
騎馬民族や、近代の傭兵なら、無理矢理、整列させてから、人数を数える
ことは可能だが。
86 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 09:40:53 ID:OWc/bQwB
自分の低脳を基準にするなよ
お前が馬鹿だからってみんなが馬鹿とは限らない
87 :
にゃんこ:2007/02/11(日) 10:34:29 ID:TOkD5wwW
84>
むしろ、近代以前は、捏造が普通じゃないかな。(近代も少なくないが)
正確な人数を把握した人が、そもそもいないのが、封建時代というもん
なんだろ。数える方法や機会に乏しいよな。
88 :
にゃんこ:2007/02/11(日) 10:54:38 ID:TOkD5wwW
戦国時代は、農民兵中心であって、小説の信長のような傭兵中心は史実としてはあり得ない。
この農民兵は、小隊や中隊に編成されることは無く、各小ボスごとに率いられて
おり、整列することも無いし、また、各小ボスも人数をなかなか正確に申告しない。
(領地の経済力や兵数を秘密にできるのが前近代の私有地のミソ。=不輸・不入の権に類似)
だから、小ボス(地侍クラス)も中ボス(国人クラス)も、それを集計する
大名も、それぞれが、それぞれの政治的目的を持って、数字を発表する。
多く見せて、多数派工作に成功している印象を与えたり、
勝った後は、逆に少数精鋭を宣伝することもある。
この時代の数字は、思惑だらけ数字だらけなので、
我々も、そのつもりで受け止めなければなるまい。
89 :
にゃんこ:2007/02/11(日) 11:02:34 ID:TOkD5wwW
ただ、戦国時代も、後になるほど、大名権力も増して、差出検地も、より厳しく
なってきて、数字の信憑性が上がるだろう。
「寡兵で大軍を敗った」伝説が、後になるほど少ないのは、そのせいではないかな。
90 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 11:27:19 ID:OWc/bQwB
現代のイベントのが水増しは酷いんだがな
91 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 12:56:08 ID:rGAJUzJS
>>77 宇梶ってタケシ軍団に入って
態度が生意気だという事で、そのまんま東にヤキをいれられ
散々殴られたんだよな。
彼は弟子生活が長すぎてTVの前ではいつもオドオドしてるよね。
92 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 13:44:14 ID:S0jXtqB6
>>82 ん?なんかずいぶんと感情的に感じるレスだけど何か気に障ったのか?
忍者なんて、それほど活躍できたのかねえ?
陰の存在だから、それこそ誇張されているイメージで現代人は語っているのではないだろうか?
戦場の情報収集は物見の兵の仕事で忍者は平時の戦略的な情報収集が仕事だったのじゃないかな?
長篠合戦が野戦築城している織田軍への突撃戦ではないなら、何だというの?
酷すぎと言うならば、きちんと説明して欲しいですね。
上杉定正の200騎が上杉顕定1000騎を破った実蒔原の戦いは?
94 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 16:14:22 ID:mmPLOlaS
>>92 あんまりイメージだけでくるから、ついイラッとした。すまん。
図書館の郷土資料コーナーで市町村史や教委の報告書読んでみれば
君のイメージも変わるよ。
忍者というと胡散臭いだろうが、従軍しているのがときおり資料から垣間見られる。
戦場ではいかに相手より正確な情報を早く多く集めるかが勝負の分かれ目になる。
危険かつ重要な任務でそれは今も昔も変わりはない。
長篠の戦いは、というか連吾川の戦闘は、織田別働隊が城を救援して
長篠城を落すのが不可能となった時点で武田は撤退するしか選択肢がなく、
織田はそれができないように柵から出て戦った。
何度も柵へ押し返したが離脱できず、やがて兵力差から疲労して壊走した。
何日も近くで対陣してるからどっちが多いか調べなくてもわかっている。
多勢が陣地へ篭るところへ突撃するなどは基地外沙汰というほかない。
バンザイ突撃は帝国陸軍オリジナル。いや極小規模なら戦国でもあるんだけど。
そういう場合は全滅同様の損害をだす。武田の損害はそこまで酷くはない。
軍記ものはすべからく、筆者のスケベ心からうまれた軽薄なお為ごかしが
ちりばめられている。君もスケベ心をすてれば、奇跡を追ったりはしなくなり、
そんな記事に惑わされなくなるよ。そしたらいまより歴史がおもしろくなる。
95 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 18:32:28 ID:S0jXtqB6
>>94 >忍者というと胡散臭いだろうが、従軍しているのがときおり資料から垣間見られる。
戦場ではいかに相手より正確な情報を早く多く集めるかが勝負の分かれ目になる。
危険かつ重要な任務でそれは今も昔も変わりはない。
それは分かるんだけどさあ、実際に戦場でそんなに使われていなかったと思うんだよ。
例えば、第4次川中島合戦。
これも講談、軍記物に由来しているんだけど、武田信玄が夜中にこっそり抜け出した上杉軍の動きを把握していなかったじゃない。
忍者なる者が戦場で情報収集に役目を担っていたなら、敵軍の情報を逐一収集して報告しているだろうからこんな事はあり得ないでしょ?
軍記物だから真実ではないと言っても、そのような軍記物があるということは実際の戦争もそれほど遠くないわけでしょう?
もしも忍者が戦場においてそれほど詳細に敵軍偵察しているとなると
川中島に限らずに数ある戦で敵の裏をかくような奇襲戦法はほとんど不可能になってしまうと思うんですよね
でも実際には敵の裏をかいた夜襲は数知れずにあるわけでしょう?
忍者や当時の情報収集力を過大評価しているんじゃないですかねえ?
96 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 19:26:13 ID:PBaLo8cS
啄木鳥戦法はフィクションの可能性が指摘されてるよ。
別働隊の機動を現地で再現をこころみたところ、無理らしい。
あれは霧の影響で遭遇戦になったと見ていいだろう。
奇襲となると、敵領内で大きく機動しないといけない。
戦時なら当然支城は警戒してるし道は封鎖されている。
突然の裏切りでもしないとまず不可能。光秀のようにね。
奇襲といわれてるのはほとんどが強襲だね。
夜襲も奇襲じゃなくて強襲。不寝番がいるから奇襲にならない。
とくに油断でもしてない限り、やれることは全部やってるよ。
自分の命と、一族の運命がかかってる。
西の桶狭間、明禅寺合戦はどうでしょー
98 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/11(日) 20:55:42 ID:S0jXtqB6
>>96 川中島合戦が濃霧の中の遭遇戦だとしても、
それはそれで戦場での忍者の情報収集能力に疑問符がつきますね。
信玄の川中島合戦の時の書状があるよ
遭遇戦説も決戦説も誤り
北に少しずつ移動しながら何日もかけて戦ったのが第四次川中島の真相
両軍ともに城主クラスの有力者の戦死が続出してるから激戦であったことは確かだが、通説みたいなとんでもない死傷率だったかは疑問
本当にそのレベルなら武田も上杉も領国が崩壊している
100 :
毒癌竜正宗:2007/02/11(日) 22:53:38 ID:WeRVERAy
政宗は7000の兵でソウマ、サタケ、アシナの連合30000を追い返しておりまする。
>>99 どういう書状か具体的な文言が見たいんだが。
史料名と転載されてる書籍名を教えてくれ。
102 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/12(月) 00:33:56 ID:c0RGsE4m
>>97 見事な各個撃破だが
三村軍が混乱ばっかりしてるのがきにかかる
>>100 別に戦って追い返したわけじゃないだろ連合軍が勝手にいなくなっただけ
とあえて釣られてみる
負けずに踏みとどまった事は評価出来るけどね。
崩れていれば終わりだった。
105 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/12(月) 02:45:37 ID:BL9QF+5K
何か凄い複雑に考えてるんだねえ、島津っていうのは、鉄砲を特別
揃えてるって聞いたことあるが、300の寡兵でも全員持って戦っ
てたんならそりゃ脅威だろ、ただでさえ天下無双の島津兵が鉄砲だ
ろ?同じく天下無双の武田兵に馬みたいなもんだ
長篠の戦闘も、数千挺の鉄砲の数を侮った勝頼が騎馬軍団で粉砕で
きると考えたから突撃しただけだろ?重臣達はやめるように留まら
せたというし
106 :
人間七七四年:2007/02/12(月) 10:09:19 ID:kHU0hoJh
>同じく天下無双の
>同じく天下無双の
>同じく天下無双の
>同じく天下無双の
>同じく天下無双の
随分安売りだな
107 :
人間七七四年:2007/02/12(月) 10:13:47 ID:ECm8U1rM
>>40 ワロタけどさ
小規模な戦がほとんどだった頃の合戦て案外こんなもんだったのかもな
108 :
人間七七四年:2007/02/12(月) 13:03:02 ID:Rm0Ok2yw
>>105 >武田兵に馬
>騎馬軍団
素人さんいらっしゃい
109 :
人間七七四年:2007/02/12(月) 14:54:41 ID:LFEyH/3z
>>101 『戦国大名と信濃の合戦』笹本正治著
第三節・自筆書状が伝える信玄と川中島合戦
これを読めば知りたいこと全部わかるはず
110 :
人間七七四年:2007/02/12(月) 14:55:42 ID:zOG0Ll3+
111 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/13(火) 21:23:27 ID:AtdpU7T+
まあ騎馬の機動力を軽視するアホ共には、陣形のなんたるかも理解
出来ないんだろうねえ
112 :
人間七七四年:2007/02/13(火) 21:36:27 ID:GxT4lH/X
|
プラプラ|
∩___∩ |
|ノ _, ,_ヽ ((|
`/ ● ●| (=)
| (_●_) ミ J ))
彡、 |∪| ノ
/⌒ ヽノ ヽ/⌒つ
ヽ/ ヽ/
ノ |、ノ
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ぷちっ|
∩___∩ 从|
|ノ ヽ |
`/ ● ●| (=)し
| (_●_) ミ/`ノ
彡、 |∪| ノ /
/ ヽノ / ノノ
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ムシャ |
ムシャ プラプラ|
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|ノ ヽ ((|
`/ ● ●| J ))
| (_●_) ミ ・
彡、 |∪}=)ノ ∴
`/ ヽ/^ヽ ヽ 。
| ヽ \ |
| ヽ__ノ
113 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 18:20:32 ID:JsyDvPR7
激痛w
114 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 19:04:44 ID:1JM66MhP
>>94 どうも当時の忍者の能力を過大評価しているっぽい。
当時の戦では直前まで敵の動きに気づかなかった例なんていっぱいあるだろ?
桶狭間合戦なんてどうなの?
どう考えても今川軍は織田軍の動きを察知してなかったよね?
115 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 19:16:44 ID:3nFbPPHJ
まあ現代人の忍者のイメージなんて人間離れしたジャンプ力や忍術だしな
116 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 01:29:02 ID:kQKwa2O3
最前線の砦から出撃して突っ込むまで織田勢は丸見え。
だから奇襲じゃなくて強襲。
砦までは織田支配域だから今川の偵察は困難。
しかも織田が一気に行軍してきたのならなおさらだ。
今川は織田の砦から近くの前線に本陣をおいて留まっていたのが命とりになった。
偵察とその情報にもとずく機動の重要性がわかるだろ。
行き当たりばったりの出たとこ勝負な合戦がいっぱいあるって?
聞こうか。
117 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 07:27:43 ID:7C6399la
>>116 >砦までは織田支配域だから今川の偵察は困難。
だから、ここを問題にしているわけですよ。
他家の支配域だから偵察困難という理由で偵察不可能という認識でOKなら
木崎原での相良が島津軍の軍容詳細の偵察しなかったという事も十分考えられるでしょう?
118 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 14:23:06 ID:kQKwa2O3
>偵察困難という理由で偵察不可能という認識
まず意味がわからん。
陣はったとこは国境地帯の峠。なんか不可能にする要素あるか?
そもそも峠なんていくつもあるんだよ。
義弘は占でもして絶対ここから来る、しかも偵察はしない。
という御託宣でもあったんだろうね。
119 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 19:48:07 ID:7C6399la
>>118 信長が軍勢整えて出撃した砦だって、もろ国境地帯じゃん。
今川は国境地帯の砦に入った信長本隊の動きを察知してなかったんだろ?
それとも砦に入った時点で察知していたの?
もしも察知していたなら迎撃態勢を取る時間は充分あるよね?
それなのに今川本隊よりも兵数で劣っている信長にやられるわけ?
しかも山の頂上に布陣していた今川軍は地形的にも有利だったんだよ?
迎撃態勢を取る時間があって、兵数で勝っていて、地形的にも有利だったのに今川は負ける理由は何?
お得意の「強襲」が理由ですかね?
いったい全体「強襲」とはどんな必殺技だよw?
ゲームじゃないんだからさ、強襲なんて必殺技で誤魔化さないでよねw?
120 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 22:39:28 ID:kQKwa2O3
ゲームの必殺技でも使わないかぎり
ありえないと思うなんて、お前らしい愚かな発想だなw
だが、桶狭間も島津の的中突破も真田の突撃で
家康本陣が崩れたのも全部事実だ。
で、なぜ成功するのか、考えることすらできないんだろ?
できるわけないわな。阿呆なレスばっかりだ。
ルールの単純なゲームでもやってなさいってこった。
答えを教えてやってもいいが、お前の態度も気にいらんw
121 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 23:09:32 ID:kQKwa2O3
ちょっと煽りすぎたか
ま、120でヒントだしてんだから
あとは考えてみろよ
122 :
にゃんこ:2007/02/15(木) 23:18:49 ID:r5ysS7VK
桶狭間の強襲は次の2種の可能性があると思う。
1,兵数の差が、織田方の政治的理由により、誇張されている。
尾張半国でも今川方の半分くらいの経済力はある。また織田方は、西や南と
東側の国境間が短く、兵力の分散の必要性も低い。
だから、実際の桶狭間での兵数の差はそんなに大きく無い。
2,損害を無視した突撃は、自動小銃でも阻止し難い。まして、愛国心も訓練も
無い当時の軍は、損害を無視した無茶な突撃には弱い。
ただし、これはかなり君臣の絆が強く無いとできない。関ヶ原の島津は、
「島津正規軍」ではなく、義弘党とでも言うべき集団だった。
私は1が桶狭間の実像だと思うが。
123 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 23:22:10 ID:fufWNE4K
江頭vsその場にいる大勢の人と空気
124 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 23:27:13 ID:7C6399la
>>121 なんだ?
こじつけでも回答できないようだなw
無様だねwww
125 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 23:30:34 ID:C+/qgVPa
>>122 今川は尾張の一部を持っていた
尾張抜きの今川で75万石程度、尾張の一部を加えると80〜90万石になる
そして今川が凄かったのは金山と港の両方を持っていたこと 今川の経済力は凄まじく100万石に近い兵力を動員できたと考えられる
三国同盟により国は空っぽにできるし、22000〜25000の軍勢は動かせたと考えることができる
そして織田だが尾張57万石全てを持っていたわけじゃない、地盤は微妙で一部は今川の物になっていた
桶狭間までは今川の怒涛の進撃があったから大分領土も取られた となれば限界の12500〜14000からだいぶ落ちて10000程度になったと考えられる
そして信長は無茶苦茶な早さで移動したから急遽集まった連中ばかり、旗本とか戦闘部隊が中心でその他もろもろ合わせても2000〜5000程度
5000VS25000というのはかなり正しいと思う
126 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 23:30:47 ID:7C6399la
>>120 ゲームの必殺技=お前お得意の強襲じゃん。
オレのは今川が織田の動きに気づかなかったというもの。
織田軍攻撃の直前まで今川が気づかずに攻撃を受けた。
これなら迎撃態勢が取れずに織田軍にやすやすと崩される理由になる。
お前の説だと気づかないなんて事はあり得ないのだろ?
やっぱりゲームの必殺技の強襲で一挙に壊滅ですかあ?w
127 :
にゃんこ:2007/02/15(木) 23:47:27 ID:r5ysS7VK
検定に合格した教科書に載った定説だが、一般にはしられていないこと。
「日本人は丘陵地や山麓から、戦国時代になって、平野部に降りてきた。」
関東平野の開発は江戸以降だから、尾張こそ、当時の最先端産業地域
だった。つまり、学者の言う「剰余」が非常に多い地域だったと考えられる。
さらに、「寺内」なんてのも多い所。今川方に取られた所は、平野部中央
ではないから、経済的打撃は多くないと思う。
さらに、戦国時代は、遠征の場合、一揆等に備えて全軍を派遣することなど
できないし、まして、補給の問題もある。
一方、防衛側が、農民兵を動員しやすいのは、後の対豊臣の北条や徳川
でもあったよね。
今川の遠征兵力は20000を割り、その何割かが、桶狭間山にいた。
そこへ、10000から5000程度の兵が襲ったとしたのが、
現実的にあり得る戦いだと思うよ。
128 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 00:14:19 ID:I1LRVAFe
賢く装ってる真性の馬鹿って感じだよな
129 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 01:20:40 ID:8Yrhpebk
ちょっと確認したいんだが
義元がいたのは桶狭間じゃなく田楽狭間じゃなかった?
俺の記憶ちがい?
130 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/16(金) 01:32:55 ID:Yr8Cyibc
>>122ほんとに今川厨ってのは、何もかも都合良く解釈するんだねえ、それ
共真性の単細胞なの?必死なのは分かるけど基本的なことが抜けてるよ。
織田軍の兵力は 美 濃 にも裂かないといけないんだよ!!そもそも尾張
半国でどうやって20000も集められるんだよ。
俺の考えでは(多くの作家なんかも言ってるが)、清洲出た時には2000
人程度で、桶狭間に到着した時には5000人まで膨れ上がったと見ている
そして今川軍も、全軍若干感覚をあけて布陣しておいて、義元本陣の兵力は
10000人以下だったみたいだから、奇襲するのに悪くない兵力差ではあ
るね。
書籍によっては
今川本陣にいたのは僅か
200人程度だったと説明されている本もあります。
まだ研究者の間でもバラツキがあるのでしょうね〜
ところで桶狭間と田楽狭間って、義元の本陣があったのは
どちらなのでしょうか?
博学な方はお教えくださいm(__)m
132 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 06:27:48 ID:A78W09EN
>>126 はい、0点
>オレのは今川が織田の動きに気づかなかったというもの。
恥ずかしげもなく、何言い放っちゃってるの?
そこまで無知ならおとなしくROMってろや、タコスケが
133 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 07:55:58 ID:y/RcknXx
信長の場合斎藤氏にも備えないといけないからね
134 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 11:33:12 ID:MV4B29FQ
135 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 11:48:44 ID:EidaDHtH
信長公記だと、最後まで義元を守ったのは三百騎ほど
だからそれ以下ということは無いだろう
義元以外にも重臣がかなり討死しているが、当然彼らの手勢も居たはず
一般には五千、ただし織田軍の予想外の出現や天候のせいでバラバラになっていたと言われてるね
小説の世界だと信長の差し金で送られた酒肴に酔ってたとかなるがw
136 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 14:17:30 ID:8Yrhpebk
>>135 その可能性は十分ある。
特に織田の梁田広正は田楽狭間あたりに影響力をもっていた
梁田が田楽狭間の民と共謀して義元を油断させたということなら
信長が梁田を使って義元を油断させたともいえなくもない。
あくまで推測だけど
137 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 14:23:18 ID:8Yrhpebk
間違って息子の名前を書いてしまった
広正→×
政綱→〇
138 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 15:17:23 ID:I1LRVAFe
>>134 安価がない時はすぐ上のレスに決まってんだろ
139 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 17:39:23 ID:A78W09EN
>>136 梁田が計らなくも大高陥落の阻止が確定した時点で
今川は目的を達したことになり、祝勝ムードだったみる。
140 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 19:03:40 ID:QiuzAu1t
>>132 今川が織田軍の動きを察知していて、何で負けるんだ?
賢い人の考えはわからないよねえ?
というか、お前は自分の考えを書いてないじゃん。
もしかして強襲ボタン連打したから勝ったのかな?w
お前はこれから強襲厨と名乗れ。
お前にお似合いの名前だろ?w
141 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 20:37:51 ID:nFGKRYFZ
河越夜戦はなかったと言い切る根拠も無いんだが・・・
関東の勢力図が一変したのは事実だし、小競り合いではない何らかの決戦はあっただろう。
もっともこのスレに相応しい寡兵VS大軍とは限らないが。
142 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/16(金) 22:24:39 ID:Yr8Cyibc
桶狭間っていう地名の中に田楽狭間っていう場所があるんじゃないの?
桶狭間病院の近くにそんなとこないか?
あぼーん
144 :
にゃんこ:2007/02/16(金) 22:28:52 ID:F0wNvsWz
>130
ちゃんと読めよ。どこに織田方20000人なんて書いてある?
「大差ない」を20000と解釈したのなら、読み間違いだよ。
私は、そもそも今川の25000説など支持してないよ。
それに、私のどこが今川厨なのか?ちゃんと
127も読んでね。戦線間の距離が短い場合、兵力を分散する必要の無い
理由も書いてあるから。
145 :
にゃんこ:2007/02/16(金) 22:32:43 ID:F0wNvsWz
訂正。
122に書いたように、戦線間の距離が短い場合、主力を分散させなくても良い。
何故なら、内線側の移動時間が短いから。ただし、指揮官の高い力量が必要
だがね。
146 :
にゃんこ:2007/02/16(金) 22:37:58 ID:F0wNvsWz
旧・旧説・・・・桶狭間
旧説・・・・・田楽狭間
新説・・・・桶狭間山・・・信長公記による。
桶狭間山が正しいんだろうね。一級資料によるし。しかし、初期の信長公記の
兵数は怪しい。信長の若い頃は、厳しい検地を行って、正確な動員を行える
時代ではなかったから。
147 :
にゃんこ:2007/02/16(金) 22:57:05 ID:F0wNvsWz
酒で酔わせたとかの小説ッポイのではなくて、現実的なあり得る例として、
今川・織田国境方面への動員総兵力
今川・・・石高(?)から推定できる兵力から、遠征による補給負担や対一揆防衛軍を
さし引いて15000くらいか?
織田・・・尾張の半分と、防衛戦による農民兵の動員のしやすさや、内線ゆえの集中の
しやすさから、8000人くらいか?
桶狭間山での決戦時の兵力
今川・・・・分散したため、本陣は5000人ほどか?
織田・・・・比較的集中しやすいため、6000人ほどか?
これなら、織田が勝っておかしくないな。
148 :
にゃんこ:2007/02/16(金) 23:04:58 ID:F0wNvsWz
1万石250人説は、太閤検地の頃の数字からきている。しかし、防衛戦だと、
もっと動員できる。補給の負担が軽く、惣の協力も得やすいからだ。
しかし、厳しい検地のできなかった頃は、もっと動員兵力は少なかったと
見るべきだ。なぜなら、太閤検地の目的が「剰余」を残さないためのものだから。
今川の検地は差し出し検地であって、限界まで収奪・徴兵するためのものでは
ない。まして、遠征であるから、25000人という人数はあまりにも過大
だ。これは、何らかの政治的数字と見るべきだろう。
149 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 23:05:56 ID:5yOwkRmr
まぁそういう想像しだしたらきりが無いな
150 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/16(金) 23:08:37 ID:Yr8Cyibc
>>147そう、義元本陣までいけた信長の行動の早さが生んだ結果
の大勝利だね、結局義元の前線は信長軍に気づかなかったのは
事実だし
151 :
にゃんこ:2007/02/16(金) 23:12:04 ID:F0wNvsWz
今川本陣数百人説は、数学合理的に、織田方の勝因を説明できるね。
ただ、この説の弱点は、「今川義元油断し過ぎ」
前線に近い所で、「本能寺状態」なわけだ。
そんなに油断するかな?
152 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 23:13:39 ID:7w4RZdg/
153 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 23:38:31 ID:GWaK9O+P
>>122 今川が到着すると大高包囲の将2人は玉砕、
撤退した残り2人も、着陣した信長の目の前で突撃して散った。
こういうことは、戦国では異例中の異例。
なぜそうなったのか、詳しくはwebサイト藤井戦国史を参照。目から鱗だよ。
勝利か、しからずんば死か、という状況を演出し
その結果織田軍は韓信の背水の陣と同じ、狂戦士集団と化してしまった。
一方の今川は、その直前まで完勝ペースであり、
大高救援の戦略目的を達成してしまっていた。
常識なら織田方は和議か退却かという、終わってる状況だった。
油断はなかっただろうけど、慢心はあっただろう。
こうなると大軍でも案外もろい。
今山、関ヶ原、大坂にも共通している。探せばもっとでてくるだろう。
154 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 23:47:19 ID:BxO60sSh
>>147 突撃時の信長の手勢はもっと少ないと思うけどね。
まず桶狭間の前に、信長は鳴海城を築城包囲しているがその軍勢の中身は尾張の
大身である佐久間一族、それに織田一族と信長馬廻衆から編成されている。
さらに信長公記によれば、信長と別れて行動していたやはり尾張の有力豪族である
佐々氏・千秋氏の部隊がある。
さらにこれは推測になるが、大きな動員兵力を持っていただろう柴田・林が参加して
いない(清洲に残されたか、別方面に当てられたか?)。
こういった点を考えると、桶狭間時点での織田家の動員兵力はそれなりに高かった
だろうが、信長が手元で動かせた兵力は通説並の二、三千くらいには落ちるのでは
なかろうか?
155 :
にゃんこ:2007/02/17(土) 00:06:46 ID:YIcdocaU
153>
二人を見殺しにした理由?
そんなもん、単に信長本陣への戦力の集中だろ。
背水の陣なんて真に受けてはいかんと思う。そんなのが本当に成功するなら、
相手の退路を断つ包囲作戦なんか誰もしないよ。
そして、みんな、自軍の退路を断つ。
渡った橋を落とすのは、気合い入れの儀式に過ぎないと思うね。勝因は別にある
と思う。
ちなみに、三河物語に「鉄砲をたくさん撃つ」と書かれた武田軍が、長篠で敗れた
のは、織田・徳川に包囲されたからだ。
156 :
にゃんこ:2007/02/17(土) 00:11:13 ID:YIcdocaU
154>
にゃるほど。痛い所をつかれた。
しかし、そうなると、織田方の勝因を、説明しにくくなるよね。
157 :
にゃんこ:2007/02/17(土) 00:14:35 ID:YIcdocaU
154>
反論を思いついた。当時の国人の領地は、江戸時代の旗本レベルだろう。と、すると
この時期の柴田や林の私兵は数百人に過ぎない。柴田や林以外の無名の国人や地侍が信長主力
に入れられていたら、もっと多い人数を想像できる。
158 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 00:42:45 ID:daKIuifF
なんて資料からの考察?
159 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 03:58:28 ID:rM4mdBwf
>>155 背水の陣と包囲殲滅戦を同一視するとはw
160 :
にゃんこ:2007/02/17(土) 07:47:05 ID:YIcdocaU
159>
みんな「自軍の退路を断つ」
とも書いたよ。あいまいだが、区別はしてある。
159>
国人とか地侍の件は、教科書的基礎だよね。どの高校受験参考書にも書いてある。
そこから、考えられるね。あくまで、可能性に過ぎないが。
161 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 12:57:28 ID:ohA7sNuI
>>157 千秋氏は、知多半島で推定五万石の領地をもっていたとされています。
また林氏は稲生合戦で記録では千五百〜七百の兵を動かしてます。
無名の国人や地侍という存在は、普通は信長とか佐久間とか林などの
大身の豪族の寄子となってその軍勢の構成要員となります。
上で挙げた林氏の動員兵力千五百には、無名の国人衆が含まれている
数字なのです。
162 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 13:01:36 ID:lS9zlgCm
織田軍二千、というのは熱田神宮まで少数の供回りと駆けて来た信長にわざわざ追いついてきた兵力
戦意・機動性とも高い虎の子の精鋭部隊ってことでは?
参集方法の性質上、非戦闘員として軍隊につきものの人夫や軍役夫も少なかったと思われる
つまり、真水の二千対本陣機能のための戦闘に向かない連中も混じった今川本陣五千
意表をついて敵中を突破し、天候にも助けられた織田軍が一方的主導権を握ってもさほど不思議ではないと思うが
163 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 14:57:10 ID:cBxfM6np
お前らウザイから、もう自分で見てこいよ
164 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 19:23:02 ID:TopOkgvX
>>163 実は見てきたんだけど多分言っても誰も信じてくれないから黙ってる
165 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 19:38:08 ID:dhFdnVC8
>>155 戦力を集中したかったら、合流させるんじゃないですか?普通。
突撃して壊滅し疲弊した敗残兵が加わったところで何の足しになるでしょう。
千秋と佐々はそうせざるをえない立場だったことを無視しています。
これは計算とか作戦とかの範疇には入りません。だからこそ、効果的なのです。
>そして、みんな、自軍の退路を断つ。
そういう反論があるだろうと予想していました。
カメ割り柴田、毎回割っていて説得力があると思いますか?
それではただの狂人で、だれも相手にしません。
ヒトラーの死守命令、最初は効果がありました。あとは知ってのとおり。
類例がいくらでもあるのに、背水の陣が事実か問うて意味がありますか?
166 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 23:28:43 ID:5GWFRunc
要するに、通説の桶狭間の戦いを否定してる連中は、単に「寡兵で大群を打ち
破った信長」の評価を落としたいのと、「寡兵に敗れた義元」という凡将のレ
ッテルを覆したいだけのような気がする、そう思う最大の理由教えてやろうか?
今川軍と同等の兵力を備えた織田軍がどうして、背 水 の 陣 なのですか?
正面から戦って勝つ戦は普通大将の指揮の旨さによるものじゃないの?
はっきりいうが、今川義元なんて自身は軍略に長けた武将じゃないのご存知?
3州併合も雪斎が主に指揮しての領土拡大だったってのご存知?
167 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 23:34:37 ID:5GWFRunc
なら逆に、織田軍が寡兵で正面から今川軍に打ち勝ったとすれば、更に
義元の凡将ぶりが伺えるよ、そりゃそうだ武将じゃないもんね義元は。
みずから陣頭指揮なんて出来るわけないんだから。
そういったことも知らずに、ひたすら「織田軍は背水の陣で狂気して正
面から突破していった戦略性のない戦」と解釈してるんだか。
結局公家大名と武将との違いってことですよ、雪斎の存在が全ての今川
家なんですよ。
168 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 23:51:44 ID:tAFgh9Ch
なんで極論から極論に走るんだ?
二万五千〜四万という数字が誇張であるかもしれない、とは俺も思う。
だからといって、信長が桶狭間で非凡な業績をあげた事は否定できない。
するつもりもない。
もちろん、「”天才”」信長がすべての状況を見通し操っていたとも思ってないが。
偶然の要素もかなり絡んでいるし。
神話ではない実際の姿を知りたいと思ってるだけだが。
169 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 00:21:03 ID:z55wqnIj
極論から極論に走る奴はバ(ry
170 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 00:26:59 ID:bVr8grlL
極論に逃げるのは論理破綻した証拠。
だいたい同等の兵力なぞ論拠も資料もないものを持ち出だされてもね。
そのうえ背水の陣が比喩と理解できずに拘泥。
あげくに義元の無能を力説しだす始末。
はじめから武将の能力なんて論点にすらなってないんだよ。
そんな曖昧な主観だけで何かがわかると本気で思ってるのか?
171 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 00:34:17 ID:LqQHX422
二万五千〜四万が誇張かもしれないって言うけどそれを裏付ける資料はあるの?
172 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 00:34:59 ID:IWJ93Wdy
>>171 石高
とにかく、4万だけは絶対にありえない 25000は結構妥当な数字だったりする 石高だけで考えたら20000〜22000
173 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 00:35:27 ID:Ns+JJk0c
174 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 00:37:33 ID:LqQHX422
まぁ4万は確かにあり得ないだろうが2万5千ならあり得るんじゃないか?
175 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 00:49:06 ID:vaIFt3UK
石高≒人口だそうだ。
そうすると駿河、遠江、三河で70万人の人口。
そのうち兵役についている人口が5パーセントとすると
3万5000の兵がいる計算になる。
充分ありえるんじゃないの?>2万5000
176 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 00:52:50 ID:HADoshBs
>>170ばーーーーーか、なら織田軍が狂気しただの背水の陣で真正面
から義元本陣へ突破だの、今川軍と同等の兵力だっただの屁理屈ばか
り言ってるお前らはどうなんだ?織田軍は美濃にも兵力を分散しなけ
ればならないから、今川軍全軍と同等の兵力なんて考えられないんだ
よ。それに北伊勢も義元は抑えてたというしね、信長は完全に尾張の
奥に押し込まれた感じだな、これでどうやって10000以上兵力を
揃えることが出来るんだ?ちなみに3国同盟で今川軍は背後に心配な
く遠慮なく兵力を揃えれたわけだしね。
それから俺の言ってることが極論とか言ってるが間違ったことなんか
一つも言ってないよ、お前らが痛いところつかれて反論出来ないの見
え見えなんだよターーーコ
まさか、義元自身が陣頭指揮に関して未熟なこと知らなかったとか言
うわけじゃあるまい?
朝倉宗滴1万2000 vs 加越能一向衆30万
178 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 00:56:43 ID:Ns+JJk0c
太閤検地と慶長検地で石高が大きく変動した所もあるし、
実高と表高に大きく差がある場合もあるので
桶狭間時にはもっと動員できたかもしれないね。
武田徳川の今川領侵攻、徳川対武田、小牧・長久手などで
で元今川領は太閤検地時には荒れ果てていた可能性もあるし。
2.5人役はあくまで目安で、実際はもっと動員できたようだし。
179 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 01:00:56 ID:JPSi4gAG
180 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 01:01:21 ID:Cg8OydVg
>>178 徳川の動員力から今川のそれを類推する事は出来るだろうね
181 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 01:02:00 ID:HADoshBs
「同等の兵力だなんて根拠になる資料の無いものをどうのこうの」
お前らの方から、織田軍の勝因の一つにそう挙げてたんじゃなかったの?
「背水の陣が比喩と理解できずどうのこうの」
史実にある背後からの奇襲による勝利という説を覆したいが為に、お前ら
の方が勝手に真正面から背水の陣で突破という妄想でそう答えてただろば
ーーか
「義元の無能を持ち出す始末」
おいおい戦闘において大将の作戦采配は一番重要だろうが 笑)
義元が周囲の警戒を楽観視していれば、配下の武将もそう動く。
仮にびっしり警戒していても、その先どうすれば良いか、公家
大名の武将じゃない義元にはそれが出来ない、砦間の連絡の取り
方や、膠着した状態での冷静な指揮などね。
182 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 01:06:45 ID:HADoshBs
ついでに言わせて貰うと、今川軍の動員兵力が40000とか言ってる
人、現在では誰もいないよ、大概の作家や大学教授なんかは25000
ぐらいだと言ってるね、まあ現代人の解釈なんか当てになるかどうかわ
からないが。
それか、もしかしたら3州の兵数と尾張の占領した一部地域からの兵と
北伊勢の兵もまとめて一緒くたにしての40000だったりしない?
北伊勢の兵が動いたのかどうかは知らないが。
>>179 これをウソと言ったら、合戦の動員数として史料に表れる数字はすべてウソといえるかも。
参謀本部が2.5人役といってるのも地域や状況によっては6人役になってる場合があるし、
軍役がそもそも守られてたのか着到状が真実かは、類推する以外に確かめようがありませんぜ。
184 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 01:15:39 ID:Cg8OydVg
兵数については、
状況から推測するしかないからね。
185 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 01:33:40 ID:2Q28WCWj
状況から推測するなら今川方が大量動員したこと自体が織田方に充分な兵力を揃えられたことを
実証していると言えるな。
織田に2000や5000程度の決戦兵力しか準備できないなら三河遠江からの部分動員で充分。
1年以上費やして総動員をかける必要はない。
186 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 01:34:38 ID:LqQHX422
>>183 一向宗が仮に30万いたとしても女子供や老人みたいなのも大勢いたんじゃないか?
30万はともかく宗教勢力は石高じゃ測れない動員できそうだし
187 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 01:54:28 ID:HADoshBs
>>185 もう支離滅裂で笑えるよ君www
3州と尾張半分を押さえてる今川より、何で尾張半分の織田が同等の
兵力を揃えられるの?それから今川の動員数は上洛する為のものなん
でしょう?
それから今川厨は早く
>>166>>167>>176や
>>181に答えてみろよ、都合
の悪いことにはだんまり決め込むんだなあ
188 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 02:05:16 ID:2Q28WCWj
通説桶狭間厨こそ信長を貶めてる気がするが。
こいつらはつまり信長は必要もないのに不確定情報に基づいて
寡兵で突っ込むんだ馬鹿だったと主張してるわけだが。
189 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 02:07:54 ID:Cg8OydVg
>>188 どんな優秀な指揮官でも、ときには誤謬を犯すと思うが。
信長ファンだが、「なんでもお見通し」みたいな半神扱いには呆れる。
190 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 02:17:49 ID:HADoshBs
>>188お前相当アホなんだね、一回自分で頭かち割って脳みそ
どうなってるか確認してみたら?
寡兵であれば機動力がそもそも違うだろ、おまけに織田軍は兵
農分離してる最中の兵なわけだし(時期的に始めたばかりだが)
のうのうと休息してれば奇襲受けて当たり前
>>189そういう風に認識してる信長ファンはいません、しかし
信長も情報によって、義元というのが武将では無いことぐらい
認識していたのは確かだろ、実際三河や遠江平定も雪斎が指揮
してたのは知ってただろうし。
191 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 02:26:46 ID:2Q28WCWj
>>190お前相当アホなんだね、一回自分で頭かち割って脳みそ
どうなってるか確認してみたら?
まともな戦国史料読んだこと無いだろ。
寡兵だと見つかったら終わりだろうが。織田が兵力分離の最中だぁ?
どこにそんな史料がある。そもそも兵農分離ってのは領土拡大して兵力に余裕ができた後に可能なんだよ。
兵が足りないから鎌倉型の百%兵農分離型から農兵動員型に変わったんだろうが。
周辺国に拮抗した動員力しかない段階で兵農分離なんぞやってたら本物の馬鹿だなw
お前の中の信長はお前並の馬鹿なようだw
192 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 02:30:33 ID:LqQHX422
でも織田が寡兵じゃなかったとする史料が無い以上
多対多の戦いってのは妄想の域を出ないんじゃね?ってか想像だけじゃどうしようもない
193 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 02:33:34 ID:Cg8OydVg
>>192 ま、そんなとこでしょう。
信長公記の記述より兵力差は小さかったと思う
ひょっとすると5000対25000より小さかったかもしれない。
だとしても、同等ということはなさそう。
というより、同等とする史料がない。
194 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 07:57:33 ID:whqL/6fT
大高・鳴海包囲にどれだけの兵を配置していたのだろう。
1つの砦に4百と仮定すると、5つの砦で2千。8つの砦という説も有るし。
信長が2千率いて清須出陣たとして、美濃・伊勢・清須等の守備もいただろうし。
完勝した!!って油断しまくってたところに突撃してきたから総崩れになった、補給路が間延びしすぎた、それだけ
196 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 11:58:13 ID:KXivOE7A
読んでない人のために、何度も繰り返すが
美濃・伊勢方面に対しては、警戒兵力だけで良い。なぜなら、三河方面から近いから。
小国の内線作戦は兵力が集中させやすい。(せめて、内線の意味を知ってから反論してくれ。)
理論的には、分散させるよりは集中して、各個撃破を狙った方が良い。
しかし、大国だと、各方面間の距離が遠いから、各個撃破が難しい。主力の移動時間中に
かなりの被害が出てしまう。東方面の敵を倒してから、西方面の敵と会戦する
ことすら難しい。
だから、同盟を組まねば、各方面ごとに戦力を配備する必要ができる。
197 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 12:01:54 ID:1Z2Kc5SP
もう飽きたよ。桶狭間の話
198 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 12:07:58 ID:KXivOE7A
165>
その手のパフォーマンスを勝因の主にする考え自体がおかしいと思う。
勝因の主は、政治的なものや数学的なものだ。
例えば、スポーツの試合で、「監督による「気合い入れ」で勝てた」と言って
いるようなものだ。真の勝因は、普段の練習や選手の素質なんだが。
199 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 12:29:54 ID:KXivOE7A
兵農分離については、
1,農民兵を徴兵しないから、遠征の兵数が少なくなる説と
2,限界まで搾取するためだから、遠征の兵数が多くなるという説がある。
私は2だと思うな。1が真実だとすると、
豊臣秀吉がイイ人過ぎる。
なお、「遠征の」という但し書きをつけたのは、防衛戦と遠征では惣村の協力
に大きな違いがあるから。
200 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 15:06:11 ID:HADoshBs
とりあえず、尾張半分の領土で今川全軍と同等に近い兵力がどう揃うのか
説明出来ないと話にならないね。
>>198 まあ戦上手では無い武将同士が指揮した戦闘であれば、大概は兵数
や兵の強力さなどが勝敗を決したりするんだろうな
201 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 15:16:10 ID:TfyXBZ2h
尾張の半分?尾張はほとんど制覇してますが?
それと、同等に近い軍は集まらないけれども、
本気で集めたら1万は超えるのは当然と言ったら当然で、すべての戦いで全軍を出す人間なんてほとんどいないからな。
202 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 15:23:18 ID:Cg8OydVg
総兵力が一万人ほど
(知多半島や岩倉を支配してない事を思えば、
もう少し少ないかもしれない)
戦場にもっていく兵力が五千人
べつに奇異ではないね
203 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 15:54:06 ID:HADoshBs
>>201つまり桶狭間に動員した人数とは関係ないってことだね、周囲へ
の備えもあったし。
それから尾張統一してたんならどうして清洲みたいな奥にまで押し込ま
れる状態におちいったの?そんな基本的なこと知らないで今まで散々喚
いてたわけ?
織田軍の兵力は結局、その半分の領土から動員したものなんだよ、尾張
を統一したのは戦後だ。
204 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 16:05:08 ID:vl7DLho6
猪木対木村、浜口、寺西ももちろん入るだろうな…あ、勝てなかったんだっけ
205 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 16:10:40 ID:CHP0wYcr
206 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 16:44:09 ID:KXivOE7A
この戦争に動因された総兵力と、決戦場の桶狭間山周辺の兵力を区別してない人は
にゃんこの文を誤読しているよ。
総兵力は、今川の方が大きいのは事実だろうが、桶狭間山周辺では大差がなかった
とすれば、織田方の勝因を、小説的なネタに頼らず、合理的に説明できる。
207 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 16:47:03 ID:w7eguL7F
大差がなかった、というのは所詮予測だろう
信長公記の記述の最後の義元守った三百騎だって攻撃を受けた後の話
本来の本陣兵力がどれくらいいたか、という記述は無い
208 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 16:57:36 ID:KXivOE7A
25000だとか、2000だとかという数字の根拠も今一つなんだよ。
1560年ごろなら、検地はまだまだユルユルで、千単位や万単位の動員数など
数えようが無い。小隊や中隊といった単位に編成してなくて、各地の親分たちが
私兵を率いて従軍するんだが、その人数の申告も、どの程度アテになるか?
そういう申告がアテにならないから、大名権力の伸長とともに検地がキツくなり、
やがて、実測による丈量検地が為されるんだから。1560年にに正確な兵数が
出せるくらいなら、太閤検地なんかいらないって。
209 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 17:05:12 ID:KXivOE7A
そもそも、兵農分離ちゅうのは、兵士人口の正確な把握、といった意味が大きい。
前の防衛戦には参加したが、今回の遠征には参加しない半兵士や、
たまに戦う1/4兵士なんかを、兵士か農民かはっきりさせたわけだ。
207>予測というより、割り出しと言った方が正確だな。結果から割り出して
いるんだから。
210 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 17:05:38 ID:w7eguL7F
>>208 だからといって、史料に残ってる数字まで一概に検地前と否定したら何にもならない
その上で主観的予測一辺倒ではお話にならないよ
少なくとも説得力が無い
211 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 17:08:38 ID:ftYuDewr
限りなく不毛な議論だな
みんなで分からない分からない主張して一体なにがしたいんだよw
212 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 17:13:22 ID:KXivOE7A
説得力を感じるかどうかは、検地の意義の理解度によると思うね。
主観的予測?誰がそんなことした?16世紀末の石高からの割り出しから、
補給や農民への抑えの人数を割り引いたものが、主観的予測かい?
213 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 17:15:29 ID:KXivOE7A
史料に、人数の数え方が書いてあったかい?
214 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 17:20:26 ID:FEFO8Nj/
誰も私に賛同してくれないのは、検地の意義を理解できない馬鹿ばかりだからですってか?
普通にウザス。
ってかそこまで拘るなら専用スレ行けよage厨。
215 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 17:28:22 ID:KXivOE7A
君のコーエー史観の方が、三戦版向きだな。
公家や指揮についての理解が、三戦版向きだよ。
216 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 18:10:38 ID:KXivOE7A
「寡兵で大軍を敗った戦い」一般なんだが、
総兵力では「寡兵」側が下回っていたとしても、戦力の集中によって、決勝点では、
戦力(兵数×・・・)が上回っているものだ。それをやってのけるから名将なん
だよな。
コーエー史観のように、信長能力95、義元能力48なんてものじゃない。
217 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 18:14:14 ID:AXktzvJz
沖田畷の龍造寺
謙信の関東出兵
厳島の陶
耳川の大友
これらは実際はどのくらいの兵力だったと思いますか
218 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 18:21:00 ID:IWJ93Wdy
>>217 陶の25000は妥当なとこだと思うけど・・
謙信の関東出兵は関東中の大名が集まり北条家からも離反が続出したらしいから10万でも別におかしくはない とまでは言わないが5万〜8万は確実
219 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 18:22:11 ID:HADoshBs
結局今川が戦に負けたのは事実、鈍足な動きばかり見せたのは事実
機動力に勝る織田軍=寡兵であったのは事実、1万数千もの兵で気
づかれずに今川本陣まで行けるわけがないんだからね。
元の総兵力が同等であろうが迅速な動きで本陣奇襲出来た織田軍が
凄かったということ。
え??実際は両軍共同等の兵力(桶狭間の時点)で真正面からぶつ
かって今川軍は負けたって?そんなのが言い訳なるかよ、それでも
信長の戦上手なことが伺えるからね。
220 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 18:31:52 ID:hPmbGfXP
桶狭間に住んでいます
旧家には桶狭間に関する伝承が結構残っている
221 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 18:38:49 ID:KXivOE7A
機動力?
ちなみに、秀吉軍は大返しで瓦解した。だから、山崎では摂津など地元勢力を主力
として戦った。大返しの本質は機動ではなく、政治宣伝だったんだな。
機動力を上げようとしたら、ローマのように規律と訓練を普段から叩き込まねば
ならない。
222 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 18:58:57 ID:KXivOE7A
関ヶ原では毛利達、賤ヶ岳では前田がサボタージュしたけども、配下への統制力
が弱くて、サボられたり、裏切られたりするのが戦国の習い。
また、両陣営に誼をを通じ、どちらが勝っても一族全滅は避けられるように
工夫するものだ。イデオロギーではなく、土地利権の奪い合いなんだから。
陶自身と配下の総兵力の25000は過大だな。そんな大領主だったっけ?
陶側に相当なサボタージュがあったとしか考えられんと思う。
まだ、トップに立って日が浅いのも、大きいしな。
もし、通説通りなら、毛利側による武士階級虐殺だよな。革命戦争だ。
もちろん、そんなのではなく、サボタージュやあっさり降伏が多かったと思う。
223 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 19:03:36 ID:yDDcgjja
>にゃんこ氏
ID:HADoshBsは支離滅裂で有名な糞コテですので
あまり反応しないほうが・・・
224 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 19:06:50 ID:KXivOE7A
223>
サンクス。厨対厨 の口喧嘩してるね。彼は。「言い訳になるかよ。」だもんな。
225 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 19:10:17 ID:HADoshBs
>>221 ほらほらまた話をそらすアホぶりwww
高松〜姫路〜京の距離と、清洲〜桶狭間の距離を一緒にするなターーコ
お前って普段リアルで相当単細胞相手に議論みたいなことしてるわけ?
そんな相手ならお前の考えも納得させたりするよなあ。
226 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 19:13:04 ID:MRfeidxy
>にゃんこ
9時間も2chするなよw
227 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 19:13:35 ID:vaIFt3UK
228 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 19:19:12 ID:HADoshBs
周防 長門 安芸半分 石見半分 九州2ヶ国 これだけ領土があれば
25000ぐらい集まるだろ、それ以下だったとしても、毛利方も尼子
へのけん制などもあったから、結局寡兵しか集まらなかったと考えれる
わけで、寡兵毛利軍VS大軍陶は妥当だろ。
229 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 19:23:42 ID:HADoshBs
>>224 「言い訳になるかよ」っていう俺のレスだが、「寡兵で横あるいは
背後から大軍を奇襲しての織田軍の勝利説」を捻じ曲げたい今川厨に対して
教えてやったんだけどね。
奇襲を無様に受けても、真正面から戦って下手な采配で負けても負けは負け。
桶狭間で負けたのは事実なんだから文句を言う資格は無しってことだ。
230 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 19:25:33 ID:AXktzvJz
231 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 20:33:49 ID:KXivOE7A
226>
実は恥ずかしながら、ドラクエ8と、ハゲタカと、おりんと、天の覇王と、どろろ
と読んだり練金したりしながら、今日一日を過ごした。
さて本論
230氏の史料からは22000人。ただし、これから、他方面への備えや
体制の違いや掌握の度合い等々を割り引くと・・・・
20000人は確実に割るな。
225>
飛び出した大将を配下が追いかけるものは機動とは言わない。
232 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 20:37:55 ID:AXktzvJz
訂正
筑前 325,695
豊前 140,000
長門 130,660
周防 167,820
安芸 194,150
石見 111,770
数字は太閤検地
233 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 20:52:21 ID:AXktzvJz
2.5人役で計算
この数字は比較的低い数字らしく、もっと動員できると思う。
筑前 8140
豊前 3500
長門 3260
周防 4200
安芸 4850
石見 2800
234 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 21:05:41 ID:KXivOE7A
2.5人役を小さいとするのは、丈量検地をしていないで、過大な兵力を宣伝
していた頃の数字を基準にしたものだろ?
それに、2.5人は遠征兵力だ。惣の協力の得やすい防衛戦の兵力がもっと
大きかったのは当然だ。
235 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 21:21:00 ID:zWSDP1wf
なんかスレが伸びていると思ったら
「義元は武将じゃない」厨と「寡兵じゃ大軍を敗れません」厨の争いかw
それより、有名どころの戦国大名って1回くらい『寡兵で大軍を破る』戦いを
していると思うのだが、武田だけは思いつかん。なんで?
236 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 21:23:06 ID:Cg8OydVg
>>235 じつは寡聞にして上杉謙信についても知らない。
彼が寡兵で大敵を破った例を知りたい。
237 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 21:26:19 ID:XiYovMHA
川中島の戦い ○上杉軍1万3千 対 ●武田軍2万
無敵の武田騎馬軍団も毘沙門天の化身上杉謙信には勝てるわけがなかった。
啄木鳥戦法も軍事の天才謙信には見破られ、武田軍は山本勘助や弟ら重臣を失う。
車がかりの陣で武田軍は追い詰められ、死者四千六百三十人、負傷者七千五百人を出す大被害を追った。
謙信は単騎特攻して信玄と一騎打ちするなど大活躍を見せた。
唐沢山城救援戦 ○上杉軍13 対 ●北条軍3万
上杉側の関東の豪族、佐野昌綱を救援するため、北条の大軍の中を数騎で特攻。
謙信の威勢に恐れをなした北条軍は怯えて近づく事が出来なかった。
手取川の戦い ○上杉軍2万 対 ●織田軍4万8千
最大勢力の織田も軍神上杉謙信の前では赤子同然だった。
能登畠山を軽々と滅ぼし、謙信に怯え逃げる織田軍を追撃。
織田軍は二千人近くの死傷者を出して、大敗する。
信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。
もし謙信が寿命で死んでいなかったら信長は滅んでいただろう。
238 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 21:31:42 ID:vaIFt3UK
>>237 沢山城救援戦って北条軍の兵士は意味がわからなかったんだろうね?
でもマジで勇敢だよな。
239 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 21:38:32 ID:Cg8OydVg
>>237 すまんが、講談ベースの話を聞きたいわけじゃない。
240 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 22:27:19 ID:AXktzvJz
大内(陶)は筑前をどの程度まで掌握してたのだろう。
立花山城から西は大友領だったみたいだが。
241 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 23:17:42 ID:HADoshBs
>>231 「飛び出した大将を配下が追いかけるのは機動とは言えない」
はい、精一杯の屁理屈ね、お前の屁理屈が、敵に悟られずに敵陣まで
たどり着くこととどう関係があるのかな?
242 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 23:21:27 ID:HADoshBs
>>235元々寡兵で戦うような状況じゃなかったからだろ武田は
信玄初陣の時から甲斐一国領有してたし。
それに情報によって敵より多量に兵集めるのも軍略の一つ
243 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 23:36:47 ID:zWSDP1wf
>>242 それもそうか
ん?そうすると島津はどう捉えればいいのだ?
244 :
にゃんこ:2007/02/18(日) 23:38:46 ID:KXivOE7A
241>敵に悟られずに敵陣までたどり着くこととどう関係があるのかな?
何じゃそりゃ?
そんな事できるはずが無いよ。昼間なんだから。まして、桶狭間山から丸見え
だよ。
経済力と各個撃破を狙う内線側の定石からいって、隠密作戦(笑)でなくても
勝てるんだよ。要は、決勝点への戦力の集中だ。
原書でなくて通読解説書でいいから、クラウゼヴィッツかジョミニでも読め。
偉そうに、戦史を語りたいなら、せめて内線や決勝点の意味ぐらい調べろよ。
245 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 23:43:58 ID:AXktzvJz
>>243 薩摩はまずしい痩せた土地で、火山灰などの問題もあり、作物はほとんど育たなかった。
(それを解消するために後世薩摩芋というものができたわけだし)
そのため兵糧等の問題で、寡兵で出撃する必要があったらしい。
現在での鹿児島でも酪農のほうが盛ん。
246 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 23:51:50 ID:zWSDP1wf
>寡兵で出撃する必要があったらしい
芋侍はつらいなー
247 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 23:57:38 ID:LqQHX422
桶狭間で戦力差が無かったってする説が正しいとするなら信長公記の信憑性を全否定する事になるぞ
248 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 00:04:36 ID:sxlyh/y6
>>244 あらあら、やはり机上の理論というかごく一般に知られてるような
兵法でしか物を測ることしか出来ないんだろお前 笑)
400年前のことなんだから、「織田軍と今川軍の兵力が同等」ってお前が
言ってることも有り得ないってちゃんと理解してるの?当時の地形、突発の
出来事とか頭に入れないんだね
敵に悟られる=その敵は周囲に気を配る(間者などを放って)ってことだろ?
実戦指揮に乏しい義元がそこまで気を配ったのかってこととか考えないの?
昼間(夜間という説も強い)でも大雨であれば十分に敵に気づかれない要因
にもなるよねえ、それに清洲城出発時には1000以下っていうから狭道を
移動するのに分けもないと思うが。
249 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 00:10:33 ID:sxlyh/y6
にゃんこさんにもう一つ聞くが、じゃあそこまで今川軍と同等の兵力
が織田軍に動員出来たのなら、どうして桶狭間決戦まで尾張の奥にお
しとどめられるような状況になったわけ?桶狭間(田楽狭間)なんて
もろ尾張領内だろ?攻められて城砦なども落とされてる状況の織田軍
にそこから更に20000も再動員なんて出来るのかよ。
250 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 00:27:38 ID:qNRqMDCi
今川義元が実戦指揮に乏しいって何を根拠に言ってるの?
雪斎が凄いのは事実だが、全部の指揮を執ってた訳じゃないぞ。
251 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 01:16:20 ID:sxlyh/y6
根拠が知りたいのであればまず自分で調べましょう、事実義元は戦は
家臣にまかせっきりの大名なのですよ、外交や政治は違うだろうが。
252 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 01:18:39 ID:qNRqMDCi
自分で調べましょうじゃなくて、お前が言ってる事なんだから根拠を言えと言ってるんだよ。
253 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 02:20:10 ID:X5/ehyhZ
乗馬できない総大将は終わってるね。さぞかし、朝比奈、岡部らも大変だっ
たろうね。
254 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 02:57:10 ID:k4ww2M3y
【ふつうの人間が抱く疑問】
信長厨はなんでこうも「天才、天才」と得意げに語るんだろう?
別にあんたらが天才なわけでもなく、何をした訳でもないんだろうに。
【臨床医学的な解答】
心理学的に云う「ヴァーチャル・アイデンティティ」(仮想世界に自分を仮託する)
つまり、自分がゲームの中の主人公に置き換えられてしまい、その主人公が危機に晒される
(批判される)と、自分の存立そのものが侵されたという危機感に陥る。
したがって、仮託した主人公(信長)のライバルや仮想敵を攻撃することで、
危機を回避する心理構造。歴史解説書やPCゲームで信長厨になった人間は、大抵の場合
これに該当する。現実世界では惨めな自分が、信長となって天下を統一するという
仮想世界に生きるのが、彼らの唯一の癒し。病人だから大目にみるように。
【理論的補足】
なぜ信長厨に特有の症状かというと、単純な最強英雄願望がその底辺にある。
秀吉(信長の部下)や家康(同盟者)では、その英雄願望は充たされず、
ましてや他の戦国大名は、信長に仮託した自分の攻撃対象にすぎないから。
ついでに付記すれば、信長が天下統一の途上で斃れたことも影響している。
信長が生きていれば、この閉塞感のある世界も変わっていただろう・・・・、と
255 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 02:59:35 ID:xjtDUzj+
それって信長だけじゃなく全ての信者にいえるよな
256 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 04:12:01 ID:DfBoaWdj
>>198 >その手のパフォーマンスを勝因の主にする考え自体がおかしいと思う。
>勝因の主は、政治的なものや数学的なものだ。
たしかに多くの場合はそうだ。
しかし数理だけでは今川があそこまで惨敗することを説明できない。
計算だけで成り立つシミュレートではあのような結果には何度やってもならない。
人間とマシンでは根本的に違うから当然だ。
監督の気合うんぬんはまったくナンセンスだ。
状況とタイミングでいつも結果は違う。
普段の練習と素質を否定してるんじゃなくて、それだけじゃないということ。
257 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 13:29:41 ID:JnqxRDB5
例えば、任天堂の前社長は自分の成功は運がいいからと言ったらしいが、
これを額面通りに受け止めるのは違うだろ
全ての手を尽くす事は何をするにしても前提条件
その上での気合い入れだし、運であると
258 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 17:13:52 ID:3y+iDhMj
常勝軍師横井軍平のおかげです
259 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 18:37:46 ID:TENj7gbj
>>全ての手を尽くす事は何をするにしても前提条件
いいこというなあ
命をやりとりする戦場なら、なおさらそうだろう
260 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 19:08:49 ID:SunJtUzj
気合っつーか精神状態やモチベーションはそれはそれで大事だよ、
戦争ならなおさら重要要素でしょう。
261 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 21:27:50 ID:sxlyh/y6
義元が自ら陣頭指揮したと思われる戦ってほとんど無いんだね、史料も
何も残っちゃいないんだよwww
262 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 21:47:46 ID:qNRqMDCi
メガトン出てきてから謙信玄厨房が消えた・・・。
263 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 21:57:00 ID:IvKzS5Z6
と言うか義元はだ、織田領内に侵略して来てる訳だ。
織田軍の動きには細心の注意を払っていて当然だ。
偵察も多数放っているはずだよな。
いかに楽勝ムードで気が緩んでるにしてもそういう体制を取っていなかったはずがない。
目の前に現れるまで二千の兵が動いている織田の動きが全く分からなかったなど有り得ない話だろ。
264 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 21:57:42 ID:qTN8KbaQ
265 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 22:34:55 ID:IvKzS5Z6
まあ野球なら雨で試合中止だろうがw
しかも雨が降り出したのは戦い直前だろう。
そもそも善照寺砦に織田軍が集結した時点で斥候からの情報が
入ってて当然じゃないのか?
266 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 22:41:10 ID:IvKzS5Z6
ちなみに河越夜戦も幻ではなく史実だぞ。
「行伝寺過去帳」
「二十日
仏身院 上杉五郎(朝定)殿
善銀 難波田殿
蓮順 天文十五、四
上田小三郎
(欄外)
河越一戦討死弐千八百廿余人天文十五年丙午四月」
267 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 23:18:23 ID:gEf7UeT8
ただ、発生年が欄外のためにあてにならないって事じゃないの?
268 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 01:25:38 ID:eRV26dWw
つーか時期や過程が曖昧で未だ謎があるというだけで、
河越で北条氏康・綱成が関東連合軍を破ったって事自体に疑問の余地は無い、
じゃなかったら短期間に死んだ連中、追い出された連中の立場が無い。
269 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 18:58:03 ID:vfyL0ibJ
河越野戦と今山の戦いは似ているが他にもあるかな
270 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 20:09:33 ID:5ifExbdj
上田合戦を忘れてた
271 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 20:26:54 ID:51p0Bf7p
黒駒合戦 北条1万対徳川2千
272 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 22:40:28 ID:EZqxkUVz
中新田の戦い ●伊達政宗10000 対 ○大崎義隆1500
273 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 00:21:22 ID:xYYVdUTw
>>270 籠城戦は例外だな。
一定期間持ちこたえるうちに攻城側の政治的事情で解囲された例を挙げて行ったらキリがない。
274 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 01:09:24 ID:U1F3bDiQ
>>273 篭城なんてしとらんけど?
城を拠点とした機動防御の短期決戦じゃん。
275 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 02:38:01 ID:QKaFvJLe
吉田郡山とか今山とかキシュツだし、最終的に打って出て勝てばいいのでは?
まてよ、上田の場合1次2次共最終的に撤退したのは外部要因だな。
これをどう扱えばいいかな?
276 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 19:36:31 ID:eXrUhlNB
戦略的なことはヌキでいいんじゃないか
277 :
人間七七四年:2007/02/22(木) 01:11:54 ID:cTkkX8CQ
つーか外部的な要因が全く絡まない合戦なんて無いし、
ゲームじゃあるまいし、篭城だからとかは所詮条件の一つに過ぎん。
278 :
人間七七四年:2007/02/22(木) 12:22:03 ID:pjOh8o1l
兵力的に敵に劣るなら防御地形の利を生かして敵の攻勢を阻止し
政治的変動、あるいは敵の経済的疲弊を待ち、目的を達成する。
戦理にのっとったまともな武将のまともな勝ち方だ。
ただ、このスレはまともじゃない方法で勝った希有な戦例を探すスレじゃないのか?
279 :
人間七七四年:2007/02/22(木) 16:17:28 ID:s38pT0oT
280 :
人間七七四年:2007/02/24(土) 06:01:09 ID:YCbnjW66
墨攻
281 :
人間七七四年:2007/02/25(日) 16:36:58 ID:jyNxIQzX
>>235 小笠原を壊滅させた塩尻峠の戦いは寡兵だったと思う。
しかも率いたのは騎兵のみだったとか。だから兵数が
少なかったんだろうが。
282 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 10:14:05 ID:rDN0M3Ox
新日正規軍 vs. 平成維新軍
283 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 20:20:07 ID:H6IFKeay
動員兵力が同時代の史料(文書や日記)に残りはじめるのは、だいたい秀吉の時期からなんです。
それ以前の戦いについては、秀吉期の人数からの推定、後代に書かれた編纂物からの引用というのがほとんどだと思います。
また、1万石高あたり250人を動員できたとして算定した、参謀本部の「大日本戦史」の影響も強く残ってます。
しかし、石高というのも仮の数字にとどまり、実際の生産力は誰も把握できなかったわけで、また戦場に近いところでは万石あたり500人とかの人数が動員されることもあったわけです。
また、一定の領地に軍役が免除されることも多く、結局のところ兵力なんてよくわからないんですよ。
284 :
にゃんこ:2007/03/13(火) 22:06:59 ID:3U9LDAna
283>
そうなんだよな。秀吉の頃からやっと、まともに数字を取り扱うようになり始めた。
でも、脱税や軍役のごまかしのためのインチキ検地が地方では横行したらしい。
まあ、個人の私有地に国家の手がズカズカ入って来るのは、近代社会だからね。
285 :
人間七七四年:2007/04/16(月) 22:06:17 ID:79kKjJbs
っていうか、儒教圏では大よそが分かれば十分でまともな統計を取ることが貪欲だと非難されていた。
286 :
人間七七四年:2007/05/14(月) 09:14:31 ID:t4NQd8je
儒教w
287 :
人間七七四年:2007/05/14(月) 09:16:15 ID:ng939ZbB
288 :
人間七七四年:2007/05/15(火) 22:23:27 ID:W1siQ80a
289 :
人間七七四年:2007/05/17(木) 00:27:34 ID:HsGKrMNX
290 :
人間七七四年:2007/05/17(木) 08:30:33 ID:C+leBE7Z
スパルタの300対100万
291 :
人間七七四年:2007/05/17(木) 09:00:40 ID:GbKEgptM
立花宗茂について語るスレはここですか?
碧蹄館の戦いの前哨戦、 般丹の戦い、 蔚山城救援戦 まさき天下無双の軍才
292 :
人間七七四年:2007/05/17(木) 12:36:24 ID:HDgVJZQ+
293 :
人間七七四年:2007/05/18(金) 00:47:16 ID:QfDBDSFC
万歳アタックにしても、
1週間(だっけ?)も食い止めたのは立派。
ペルシャの別働隊に後方に回り込まれなければ更に持っただろうし。
しかし
破って無いじゃん。
294 :
人間七七四年:2007/05/20(日) 18:17:48 ID:LK2m+5zu
鳥居 元忠vs北条
柴田 勝家vs長島一向宗
織田vs石王山砦
etsこんなもんか
295 :
人間七七四年:2007/05/20(日) 18:22:09 ID:LK2m+5zu
滝川一益vs北条
296 :
人間七七四年:2007/05/20(日) 20:51:39 ID:kRRXD3Pd
et cetera
297 :
人間七七四年:2007/05/21(月) 00:24:15 ID:nnti2fdy
298 :
人間七七四年:2007/05/21(月) 03:43:47 ID:69CMuf8+
>>290 100万人も動員できるのか、ペルシャ人凄いな。
299 :
人間七七四年:2007/05/22(火) 03:06:30 ID:brWHXuox
100万とかそういう数を聞くと、
近くの白髪三千丈の国を思い浮かべてしまう漏れはw
300 :
人間七七四年:2007/05/22(火) 17:32:15 ID:habLOl8W
>>295 初日は氏邦勢を崩しただけだからな。
初日はおそらく北条本隊とは交戦してないと思われるので、
氏邦勢だけと考えるのならば、滝川勢>氏邦勢だろうな
301 :
人間七七四年:2007/05/22(火) 22:29:45 ID:He3EwAwu
>>300 氏邦配下の斎藤氏の手勢およそ200名と氏邦が遣わせた援軍少数vs滝川軍約16000、ぐらい。
302 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 03:13:18 ID:eukiLhOG
じゃ、負けて当然だなw
神流川の戦い
初日 滝川>北条:滝川の勝利
二日目 北条>滝川:北条の勝利
どう見ても順当勝ちです
303 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 04:02:25 ID:PW4uneav
その後、信州に攻め込んだ北条勢が変わらず5万以上いた所を見ると、
この合戦、大規模な割に北条方の損害が恐ろしく少ない。
逆に滝川方の損害は川を渡らなければ帰れないという状況もあったため、
2千人以上の犠牲者を出したらしい。
背水の陣で敵領土で地形的有利もなしで後ろ盾もなくて更に兵力でも負けてると
このぐらいさっぱり負けられるという珍しいぐらいの大敗北。
このいくさほどスレタイの正確に真逆をついてるいくさもないのでそういう意味では貴重。
304 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 05:04:41 ID:cqvcyNiP
これが滝川一益とは信じられないくらいのお粗末っぷり。
北条は内戦防御に特化している家だから、
籠城・攻城・野戦ととにかく損害が出にくい手堅い戦い方をするけど、決して戦巧者とは言えない。
なのにこの大敗北。
これが織田軍団の軍団長か・・・
305 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 18:12:55 ID:P1wWe03y
歴史を変えた織田信長の桶狭間。
僅か数百の手勢で今川の旗本5千を奇襲、見事総大将の今川の首を挙げ日本の歴史を変貌させた。
306 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 20:02:21 ID:6rmhqpK7
やはり武田信玄が 初 陣 で 飾った海ノ口城戦でしょうね。
寡兵300程度で城内の1000を鮮やかに打ち破った戦い。
相手が大軍ではないにしろ、一番複雑な城攻めでしかも初陣で
これだけのことをやってのける信玄は神である。
307 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 20:13:00 ID:s/rM6FXO
ルーデルvs赤軍
308 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 04:32:22 ID:MH62z75g
>>306 奇襲での城攻めなら、竹中半兵衛の稲葉山城、尼子経久の月山富田城の方が上と思われ
309 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 14:03:55 ID:S4RtfgzK
>>306 海野口の話は軍鑑にしか見られず高白斎記・勝山記などの他の一級資料にはないんだけど。
310 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 16:14:34 ID:2SkI/S2k
>>305 侵入した敵を地元の利を生かして少数で奇襲・撃退とか別にめずらしくないよね。
でも敵大名を討ち取れるまでいった幸運が大きかった。
信長も想像していなかったろうな。
311 :
人間七七四年:2007/05/28(月) 02:25:18 ID:sXybe7Sx
>>310 厳島とか沖田畷とか、桶狭間以外にも寡兵で敵の大名を討ち取った戦いは有る。
桶狭間が珍しいのは、敵の主力に損害らしい損害を与えずに終結している点だ。
戦国時代の合戦は首取り合戦て事を象徴するような戦いだな。
312 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 05:48:53 ID:JWdGKbRu
寡兵で倒すのはかなり骨の折れる作業だから
皆まぐれで勝ってるのがあると思う
毛利は除くけど
桶狭間まぐれって言った人へ
313 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 15:23:16 ID:pgrIq5Ry
基本的に寡兵で大軍に勝っている合戦である以上
なんらかの運も絡んでるよ、大なり小なり。
314 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 21:45:19 ID:OB3AboMk
所詮は人間同士が自然の環境の中で争うもんなんだから
運がまったく絡まない戦なんて有り得ないし
大事なのは、状況の変化を自分の有利となるように活かす事が出来る能力なんだと思う。
315 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 22:54:48 ID:Hx/cYEli
テルモピュライの戦いを描いた映画「300」かなり良さそう。
スパルタの兵士最強
316 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 23:03:07 ID:/bUac4JE
不思議発見でもみたか?
317 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 23:09:44 ID:Hx/cYEli
318 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 23:10:09 ID:cyxyxIp9
>>315 影響を受け易い性質だな、武田に騎馬軍団がいたと未だに信じてそう
319 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 23:18:46 ID:Hx/cYEli
>>318 なんか「300」に嘘があるような言い方だな。
嘘があるの?
320 :
人間七七四年:2007/06/02(土) 23:40:44 ID:dZ6eCIdL
実際にはギリシア連合軍にはその他の諸国の軍も含めて5000人ぐらいらしいたし
ペルシア軍の231万7610人ってのもでかすぎるし細かすぎる。眉唾物では。
ソースはwikiだけどね。自分も影響を受けてwikiでチェックしてみたw
321 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 00:16:31 ID:lpOhJ8Zb
>>312 陶程度に勝って天狗になってやんの (w ヴぁ〜か毛利厨 プゲラ
322 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 00:23:08 ID:KPHQ5F2/
>>319 そもそもそんな昔に200万の大軍を養える兵站が確保できるものか。
せいぜい数万ってのが実数じゃね?
323 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 00:37:21 ID:YhDMUbk0
まあまあ、そんな目くじら立てんでいいでしょ
原作は漫画だし
エジプトvsヒッタイトだって兵員数誇張され記録されているし
所詮、スパルタがペルシャと戦ってたときは日本には読み書きさえ出来る人間い
なかったんだから
324 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 01:48:51 ID:0FuQhd5d
だからって200万はねーよw
成人男子を根こそぎ動員レベルだぜ
325 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 07:40:48 ID:9p36JWCC
まあ、レオニダスとその配下が壮絶な戦いの上で全滅したのは史実でしょう。
もっとも勝った戦いとはいえないだろうが。
ぶっちゃけあの時代の数には突っ込むだけ無粋。
確認するまでもなくありえないものがいくらでもあるし。
326 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 11:41:23 ID:QD7vfG8o
絶対観にいこう
予告映像がカッコ良すぎ
327 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 13:08:45 ID:LCEXDKBH
島津義久の弟が凄い兵力差でかった戦してたような
328 :
仙台藩百姓:2007/06/03(日) 13:21:50 ID:6o69H3jB
>>323 この数字みるとあちらの方も当時は
数かぞえるの出来なかったんじゃないかお思うお(≧ω≦)プッ
329 :
仙台藩百姓:2007/06/03(日) 13:35:56 ID:6o69H3jB
>>327 薩摩の人は数かぞえるの出来ないから(≧ω≦)プピッ
日本語も話せないし(≧ω≦。)ブプーッ
330 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 13:46:44 ID:SF052bfE
薩摩では5以上の数は全て「いっぱい」と表現します
331 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 15:24:45 ID:Rcs5OZnA
332 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 19:02:20 ID:6g3+Cd6F
大友家の高橋jouunnが羽柴が来るまで島津を寡兵で耐えてたような
333 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 19:24:30 ID:lBmrKNN4
テルモピレーの戦いは、ペルシャ軍が20万弱
ギリシャ側が5200程。
レオニダスのスパルタ軍が300人組み込まれていたので『300』!
334 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 20:35:22 ID:p9CNglSs
破ってないじゃん
むしろ全殺しされてますやん
335 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 23:50:51 ID:Pg+xKdUL
いい加減映画の宣伝うざい
336 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 01:29:53 ID:HpOs8BRA
テルモピレーの戦いは高橋紹雲の岩屋城の戦いと
シチュエーションはほぼ同じ
簡単に言うと時間稼ぎのための玉砕戦術
それが功を奏したという点でも共通している
337 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 02:18:24 ID:ZTlWMZcP
北条家の夜襲
338 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 05:57:30 ID:UEdfGOAG
何度も言うけど
破 っ て な い じ ゃ ん
日本語読めないのか・空気読めないのか・人工無能の類なのか
はっきりさせたまえ
339 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 06:03:28 ID:jiIjBe6e
340 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 16:51:55 ID:k2GLjjZm
官渡の戦い
厳島合戦
341 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 17:07:24 ID:prEC0SdG
小牧、長久手の…
342 :
人間七七四年:2007/06/09(土) 01:35:06 ID:EwoXKrwH
信者の皆さん
謙信の武勇伝まだですか?
343 :
人間七七四年:2007/06/09(土) 08:25:20 ID:hPv2VUwM
九頭竜川の戦いの一向一揆勢30万って
「太平記」で足利尊氏の軍勢50万とか書いてるのと同じレベルだよな…。
加賀に逃げられたのは10万未満とか20万も死んだり捕まったりしたんかいw
人口や兵站を考えてもアリエナス。
344 :
人間七七四年:2007/06/09(土) 10:45:24 ID:JQWiJ72L
実際のところ、ねらーや一般の予想臆測なんて及びもしないのが現実。
職探せ
345 :
人間七七四年:2007/06/09(土) 19:03:52 ID:x3jcEFRB
日本語でよろ
346 :
人間七七四年:2007/06/10(日) 14:04:51 ID:ev93O7qK
俺、関東管領になるわ。
347 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 00:48:00 ID:5tqFG8yr
>>346 夜になると川越でぼこぼこにされる訳でつね?
348 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 05:44:37 ID:RWOPICxE
しかし、両脇に女抱えて寝てたんだな。
・・・3P?
349 :
人間七七四年:2007/08/05(日) 21:30:36 ID:aTVRh6O9
今山の戦い
宇喜多×三村の明善寺合戦。
351 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 20:46:18 ID:3sRDj2r6
宇喜多が唯一合戦らしい合戦をした戦いか。
あれ何で勝てたの?
謀略も奇策も使わず何故か勝ってしまったという印象がある。
>>351 金光須々木中島の内応。
三村勢2万は寄せ集めの国人衆であり、利有らざれば引く烏合の衆。
353 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 22:04:50 ID:11PLwd/5
真田信繁8000人VS徳川連合軍200000人
大阪の冬の陣。大阪城の弱点を見抜き、真田丸を自らの手で築城。
かつての大老であり右大臣秀頼公の後見人でもあった加賀100万石前田家が攻めてくるも、真田丸からの容赦ない鉄砲攻撃で正義の鉄槌を下す。
天下の諸侯を集結させても真田には勝てないと悟った家康は大坂城攻めを止めてしまった。
354 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 22:11:53 ID:11PLwd/5
真田信繁VS家康精鋭旗本
豊臣家が大逆転するには徳川家康の首を掻き取り、諸大名を寝返らせるしかなかった。
真田信繁は家康本陣目掛けて、強烈な騎馬突進を三度もぶつけた。家康本陣を守る選び抜かれた精鋭旗本達をも叩き潰し潰走させるものであった。
三方が原以来、旗印が踏み潰され逃げ場を失った家康が切腹をも覚悟したほどであった。真田信繁が日本一兵になったときである。
355 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 23:03:23 ID:oItOAJ8T
武田信虎は少ない兵で、今川や北条とよく戦っているよな
信玄以上の戦の名人かも
356 :
人間七七四年:2007/08/10(金) 23:45:30 ID:Ozq3pSK5
山中湖で北条氏綱に大敗しなかった?
まあ扇谷上杉が攻勢に出て救われたが。
>>354 毛利勝永の際立った采配あればこそですw
358 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 09:13:59 ID:Pj+chapZ
>>357 実際毛利すごいよな
つぅか毛利真田のコンビ強すぎww
もしあの突撃の時に後藤木村がのこってたら家康の首に届いただろうに
359 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 10:57:52 ID:xEOUPDXe
1576年天王寺の戦い
織田信長が馬廻を中心にわずか3000で数万の本願寺・雑賀衆の重囲下の明智光秀
らが篭る天王寺砦へ突破救出、信長は雑賀衆の鉄砲で負傷しながらも本願寺勢を
撃退
360 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 12:12:13 ID:icu4edUQ
援軍到着を待つ時間を惜しんで寡兵で突撃した戦いか
遅巧よりも拙速を選んだわけだが、この時期の信長にしては軽率と言えなくもないような
361 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 12:48:10 ID:uhppdWYA
速さは織田系武将の特技だからな
362 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 14:39:26 ID:6PLqvp9Q
信長はきちんと数を揃えてから戦い始めるタイプだが、
天王寺の戦いとか刀根坂の戦いとか、
少数でもやるときにはやる決断力も十分もってるんだよなあ。
363 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 15:39:23 ID:7VyzCA/x
伊勢長島一向一揆
一揆勢3万(武器を持たぬ民衆を含む)
vs
織田方:羽柴・明智・池田以外の全兵力。
信長率いる有力武将(丹羽・柴田・佐久間)の総動員7万
九鬼・滝川の水軍6百艘の大船団(大船も動員)。織田信忠は別働隊
信長の戦法は兵糧攻め。この大兵力で四方を3ヶ月取り囲んだ。
助命を条件に開城させるが、信長はそれを反故にして鉄砲で一斉掃射をする。
激怒した一揆勢は、「槍も持たぬ7百の集団」が白兵戦。
織田軍を撃退した。
判明している最低兵力、織田勢7万+6百艘の大船団を
抜き身の刀しか持たない700人の農民が撃退し
多くの織田一門衆を討ち取ったほど。
補足
この戦いは信長の大敗だが、最終的には島全体を柵で包囲して
残された2万の農民を焼き殺すことで鎮圧している。
そのことから、一揆勢で兵として機能していたのは1万にも満たなかったようだ
一揆勢にしろ信長にしろ、追い詰められた人間は恐ろしいですわ・・・
364 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 16:49:46 ID:xEOUPDXe
信長の対長島戦の兵力は誇張さがちだ
元亀二年の出陣では信長方の兵力はせいぜい2万
参陣した有力武将は柴田勝家(所領:近江国蒲生郡)佐久間信盛(近江国栗太・
野洲郡)、美濃三人衆(柴田指揮下)
天正元年の出陣での有力武将は富田長繁(越前国南条郡)、林新次郎(家老秀貞
の養子)で兵力は先年より少なかっただろう
元亀二年の出陣では信忠も参陣するが、まだ家督を譲られておらず、せいぜい自
らの馬廻・小姓衆のみ、九鬼嘉隆、滝川一益、信雄、信孝も動員されるが、7万
もの兵力は所領から考えてもまず無理
600隻の船舶も誇張されているだろう
さほど広い河川ではないところでは大量の船舶を投入すると身動きすら出来なく
なり、味方の誤射の危険も多くなる
365 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 17:28:39 ID:akiW4sBF
>>355 信虎はどう考えても武田以上の兵力を動員できたとは思えない諏訪に攻め込んで敗北し、
逆に諏訪衆に甲斐に攻めこまれて一部を占領されたこともあるよ。
366 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 17:40:28 ID:jKoMztlT
葦名家檜原衆20人+(援軍60〜70人) VS 伊達軍800人
永禄8年7月、檜原衆20人が篭る防塁に伊達軍800人が急襲
檜原衆が善戦し食い止める中
穴沢新右衛門が6、70人を連れ伊達の側面を突き
崩れた伊達軍を追撃し70余人討って撃退
葦名檜原衆140人+(援軍100人) VS 伊達軍1000人
永禄9年1月24日、押し寄せた伊達軍を檜原衆40人が弓で応戦
更に檜原衆100人、黒川城の援軍佐瀬玄蕃100人余りが打って出て
猛攻に崩れる伊達軍を追撃し530人を討って大勝
367 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 18:23:01 ID:6nDnm3aR
368 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 18:57:08 ID:fWF7xZ4n
これで「数に誇張がある」とか言われたら笑っちまうよな。
369 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 20:00:17 ID:qADA7rRL
370 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 21:27:28 ID:+B4yKcok
>>365 だから何?
信虎が寡兵で大軍を破ったことがあるのは事実だろ。
あと第一次川中島の合戦は、謙信が見事だな。
越後軍は5千、武田軍は2万弱なのに優勢勝ちだった。
371 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 21:39:57 ID:akiW4sBF
>>370 だから戦の名人ってほどではないのでは?ってこと。
372 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 21:41:55 ID:w+5IpmHZ
真田昌幸・真田信繁(2000人)VS徳川秀忠・榊原康政・本多正信(38000人)
小山軍議にて、豊臣恩顧の武将達が家康へと寝返っていく中、真田親子は颯爽と上田へ帰っていった。
その後、中仙道を突き進んでくる徳川本隊をのらくらりと引き付け、様々な罠で持って壊滅寸前へと追い詰めた。
猛将榊原康政は真田ゲリラ攻撃に屈し、謀略なら日の本一と自負する本多正信も真田昌幸の前では赤子の手をひねられる有様であった。
手も足も出ない徳川軍は、真田家を倒せず捨て置くことになる。
373 :
人間七七四年:2007/08/11(土) 22:07:13 ID:cW4bktHP
それ、敵を破ってないよ。足止めしただけ。
第一次上田城も篭城戦に近いものがあるし微妙。
374 :
人間七七四年:2007/08/12(日) 09:37:51 ID:i4N19V4h
実際に戦ったのは2日間だけだしね。
まあ小さな城なら鎧袖一触落されてしまうこともあるから、
2日でもよく守ったと言えるのかもしれないが、
正直そこまで賞賛するほどのものとは思えない。
秀忠軍は全然壊滅寸前なんてことにはなっていないし。
375 :
人間七七四年:2007/08/12(日) 09:49:47 ID:RPAC0W0j
>>354 >強烈な騎馬突進を三度もぶつけた
騎馬隊は講談の世界だけだ。
376 :
人間七七四年:2007/08/12(日) 11:33:42 ID:fi+M1d+J
377 :
人間七七四年:2007/08/12(日) 11:40:09 ID:i4N19V4h
徳川厨って言われても単純に事実だからなあ・・・
378 :
人間七七四年:2007/08/12(日) 12:41:33 ID:LBSXY+GK
だから真田の半分は講談でできていると何度言えば(ry
幸村に至っては戦争実績の8割近く講談w
真田厨必死w
380 :
人間七七四年:2007/08/12(日) 13:52:05 ID:Dvq2mEKT
真田なんて大友以下だろ
381 :
人間七七四年:2007/08/12(日) 14:36:30 ID:/tR4rGkq
まず攻めてないからな。
北条の小田原籠城と同じか、それ以下。
382 :
人間七七四年:2007/08/12(日) 17:23:40 ID:i4N19V4h
いやさすがにそれは、
そもそもかなりの弱小勢力なんだから大友だの北条だのと比べたら、
あまりにも可哀想だろうよ。
弱小なりにはよく頑張ったと思うよ。
383 :
人間七七四年:2007/08/12(日) 18:21:45 ID:Dvq2mEKT
佐竹>真田〓姉小路
384 :
人間七七四年:2007/08/12(日) 22:17:41 ID:FUoq6+O4
>>381 小田原篭城は武田に関しては大した事でもないが、
謙信の方のはまだ小田原城も小さい頃だし普通に氏康の勝ちだと思われ。
攻めてないとかゲームじゃあるまいし、負けた方の言い訳に過ぎない。
今山の戦いとか。
386 :
人間七七四年:2007/08/13(月) 13:21:54 ID:gQRSKcwr
今山も上田みたいに少し打って出て損害を与えた程度だったらしい。
最後は形だけとはいえ竜造寺が大友に降伏するという形で和睦しているし。
そういえばこの前の歴史読本にもそんなこと書いてあったな。
388 :
人間七七四年:2007/08/13(月) 21:05:08 ID:qg7eYKGt
本能寺の変
徳川家康・前田玄以・三法師VS明智光秀軍13000
天魔織田信長を討った明智光秀は京都や堺に在った徳川家康や織田家臣をも討ち滅ぼそうと同時にたくらむ。
しかし、大軍でももって取り逃してしまったことは敗戦をも意味する。
三法師は岐阜城にいましたけどねw
390 :
人間七七四年:2007/08/13(月) 22:38:38 ID:qg7eYKGt
関ヶ原の戦い
○島津義弘1000 対 ●東軍80000+立花宗茂4000
島津義弘と徳川家康率いる8万の大軍が戦闘した関ヶ原の戦い。
鬼島津として勇名ならした義弘達は福島隊を突破、追撃してきた井伊直政と松平忠吉に重傷を負わせる。 この傷が元で2人は数年後死亡。
大坂城に残された妻を取り戻し、航路でもって薩摩へ向かう。航海途中、立花軍に襲われそうになるが、
「太閤殿下の惣無事令でもって過去のことは水に流したのじゃ。今は互いに毛利殿に味方し傷ついた身ではないか。争ってる場合ではない」と義弘の説得でもって宗茂を戦意喪失させた。
薩摩に無事帰還。家康は島津を恐れ、立花は島津に加担すると言い出し関ヶ原後も減封する事が出来なかった。
391 :
仙台藩百姓:2007/08/14(火) 01:17:29 ID:Ca4l2zi9
薩摩芋はスレタイすら読めないのかお( ^ω^)
392 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 02:00:14 ID:g1FTBFJh
自演乙W
393 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 02:15:36 ID:JwjxCgQG
家康の息子の失態を真田を持ち上げる事によってーってあるけど、家康も昌幸にはびびってたんでしょ?
394 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 11:38:48 ID:MegvQA4K
そりゃあ家康はしょせん糞愛好家ですから?
信玄に殺されそうになってびびって脱糞したが、
糞を体になすりつけて冷静さを取り戻したのは有名な話。
395 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 16:52:54 ID:9eyOmt9d
>>376 騎馬隊が存在しないことと、徳川厨は別の話だろ。
騎馬武者がいても騎馬隊は存在しないんだよ。
基本的に馬は戦地までの移動に使って、
降りて戦ったんだよな。
所詮歴史なんて憶測にすぎない・・・なんて事を言ったら身も蓋もなくなってしまうのだが
大河ドラマのように全体の流れはともかく、詳細の部分に至ってはどこまでが事実かなんて
誰もわかりはしない。
もちろん残された資料や発掘調査などから精度は高くはなっているものの、それでもやはり
想像の域を出ないことには間違いないだろう。
例えばテレビ・ラジオ・ネットなど、情報収集の手段は今までにないほど充実した現代でさえ
我々は自身が生きている現在の世の中で起きている出来事をどれだけ正確に把握できてるだろうか?
それを考えると、信憑性の高い資料が皆無に近い歴史は想像の産物と言っても過言ではないだろう。
それゆえ、誰がどのような見解をしてもまた許されるともいえる。
397 :
人間七七四年:2007/08/14(火) 22:30:08 ID:wEK24Xq3
>>396 典型的な詭弁だが。
特に最後の3行の間それぞれの論理の飛躍が幾らなんでもいただけない。
釣りだとしても長文使っているのだからもう少しどうにかして欲しい。
100点満点中2点。
398 :
人間七七四年:2007/08/15(水) 07:54:51 ID:zilaALlx
>>397 >特に最後の3行の間それぞれの論理の飛躍が幾らなんでもいただけない
だって・・・プッ・・・。
399 :
人間七七四年:2007/08/15(水) 20:44:39 ID:yNOUztv0
徳川光圀と配下数名VS極悪代官と手付など数十名
卓越した武術と剣術でもって大軍を破る光圀公。
切り札印籠の威力は、ん千人を従える大大名をも倒す。
400 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 02:21:13 ID:3P4c30E2
「人取橋の合戦」 四千の伊達軍が三万の芦名、佐竹の連合軍に勝利!勝利と引き換えに伊達家重臣の鬼庭左月が戦死…。
自分は政宗結構好きだが、あれで勝ちはないだろ。アンチ政宗が負けたと貶めているが、
実際連合とはいえ八千VS三万じゃ勝つ方が無理だろ、こんなん信長元就あたりの一流武将でも勝てるかどうか・・・
まあ信長は5倍勝ちの天王寺があるからわからんが。
402 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 03:44:06 ID:kf2UdYJo
でも佐竹連合は5千〜6千で北条2万を二度破ってるよ?
2万じゃなくて1万5千じゃね?
それと攻城戦だからなぁ・・・攻城戦ならさらに上に志村とかがいるし。
野戦で4倍近くの敵に勝つのとは違うだろ。
年代からして他方面に兵進める為の戦略的撤退だったと思う。
じゃあ朝倉一玄が最強か。
405 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 11:48:30 ID:kf2UdYJo
406 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 12:24:16 ID:SqkGzOip
>>401 つ島津家久vs龍造寺隆信
龍造寺さん四天王と本人討ち取ってるし。
407 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 12:53:29 ID:ump60LZ/
「人取橋の合戦」が伊達の勝利とするのは、連合軍が
詰めを誤って集団逃走したことだな。翌年に戦略目標だった
二本松城を開城させたことも大きい。
408 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 13:10:42 ID:s7A9ozJm
逃走?
整然とした撤収だろ
ビビって追撃出来ない伊達のヘタレぶりが目立つな
409 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 13:32:10 ID:Tb/o7cKk
8千で3万を追撃する方が難しい
ましてや壊滅寸前の8千と優勢な3万だ
410 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 14:20:23 ID:kf2UdYJo
どの戦でも追撃で戦果を上げるものなのだが
だいたい3万と言っても一ヶ所に固まっているのではなく
広範囲に布陣していたのだから一度に相手するわけじゃあるまいし
まして人取橋の場合、会津側は統一された一つの軍ではなく
各々の判断で動いているから
他の決戦に比べれば遥かにやりやすいはずなのだが
411 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 14:57:05 ID:kf2UdYJo
つうか畠山の新城盛継も大したものだと思う
義継死後は元服前の国王丸が残され
やむなく新城が城代として伊達に当たったが
千程度で二本松に篭り政宗の1万3千を防ぎ
人取橋の後、再び押し寄せた片倉を打って出て蹴散らし
その後、政宗自ら総攻撃を仕掛けたがまたも落ちず
結局人取橋から8ヶ月経っても孤立無援ながら落ちなかった
政宗も諦めて包囲のみを続けていたが
相馬義胤が説得してようやく退去させる事に成功した
412 :
人間七七四年:2007/08/16(木) 15:20:46 ID:MwiRns1X
>>409 一乗谷の戦いで信長は追激戦を仕掛けたが
あまりに行動が早かったため部下が誰もついてこれなかった
>>405 多功ヶ原や古沢については知らない、知識不足でスマン
>>406 その戦いは大体島津・有馬軍500〜8000、龍造寺軍18000〜60000と言われてるけど、
実質5000VS60000は当時の島津、龍造寺の国力差からしてありえないだろ。
大体8000VS32000くらいだろうが、確かに島津家久の手腕が光る戦いではあるね。
スマン、6000VS18000くらいだ。
>>410 死傷者は連合軍の方が多かったらしいが、兵力差は如何ともし難かったって感じじゃないだろうか。
>>408 追撃したところで包囲殲滅されるだろうし、そもそも政宗は撤退したこと知らなかったわな。
明け方になっても攻めてこないからようやく気がついてた。
416 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 10:07:58 ID:0bwkC7js
そうか?
信長は3000の兵で天王寺砦救出後、数〜十倍の敵に反撃し、信長は負傷しながら
も見事に撃退したが
>>416 アレは見事と言うしかない。謀略計略といった下準備なしで一気に攻撃かけて勝ってるからな。
他にも長篠や朝倉追撃など目を見張るものばかりだ。
418 :
人間七七四年:2007/08/19(日) 02:54:01 ID:CNkXuUdf
信長の武功を語る際に天王寺の戦いが挙げられることは案外少ないのは何故だ
419 :
人間七七四年:2007/08/19(日) 04:52:10 ID:purNZzkd
それを超える桶狭間の戦いがあるからだろ。
まあ一般的に知名度低い戦いだな<天王寺
421 :
人間七七四年:2007/08/19(日) 13:06:48 ID:y0A9MMVk
光秀は感涙ものだっただろうな
大殿御自ら僅かの兵で負傷しながらも討ち死に覚悟の自分を救出してくれたんだ
から
やはり光秀謀反は怨恨説ではないだろう
422 :
人間七七四年:2007/08/19(日) 13:56:17 ID:XvdojGTC
>>413 国力じゃなくて、状況見ろ
しかも4兄弟で家久一人しか行ってない
423 :
人間七七四年:2007/08/19(日) 20:41:24 ID:uJLKK7B2
三方原みたいに形だけの援軍を送ってみたら、
予想に反して大勝しちゃったってとこか
有馬もまさか援軍が数千なんて期待外れだったろう
武士は義をもって第一とするなんて逸話も怪しいところだ
424 :
人間七七四年:2007/08/19(日) 21:13:00 ID:wRSYUMkn
>>423 予想に反してってのは、違うかもな。
島津的には5,6000いれば合戦できるのはわかってるから、
いい合戦場とかあったりチャンスあれば勝てるぐらいには思ってただろうよ。
まぁ、追い返せればいいからな。
425 :
人間七七四年:2007/08/19(日) 21:39:38 ID:purNZzkd
関ヶ原後に徳川連合軍が島津と立花征伐に九州遠征したらどんな戦いになってた?
やっぱ一方的な虐殺かね。それとも領民一同でもって良い戦いを演じたのか
426 :
人間七七四年:2007/08/19(日) 22:34:19 ID:Ydg93Mn0
427 :
人間七七四年:2007/08/19(日) 22:37:57 ID:cYXVDa3Z
>>425 大大名の島津はともかく、立花は征伐する必要もないのでは。
東軍が勝った後なら改易すれば済む話。
428 :
仙台藩百姓:2007/08/19(日) 22:44:09 ID:NRHBzjBv
>>425 秀吉の九州征伐と言う前例があるじゃないかお( ^ω^)
しかも秀吉の時はまだ東国押さえてなかった
島津も九州の過半に支配力を持っていた
そして関ヶ原以後だと状況は以前より悪い
当然結果など知れているお
429 :
人間七七四年:2007/08/19(日) 23:55:51 ID:Pm0Cbr4f
>>428 非常に不本意ながら禿同。くそっアホ百姓に同意する日が来るとはorz
付け加えると、関が原後の島津は軍費は無く、家中は義弘派義久派家久派の3派分裂中、
九州東軍の黒田・加藤に攻め込まれる寸前で、
家康が中央の政局安定を優先していなかったら取り潰されていたんじゃないか?
430 :
人間七七四年:2007/08/20(月) 01:28:49 ID:MnAnUgRE
>>428-429 しかし、秀吉の時は、制圧していた大分あたりで四国勢は追い払ったが、
立花の抵抗で福岡を制圧できず士気さがって寄せ集め軍と忠誠低い家臣らで当ったからなぁ。
関ヶ原後は、追い詰められて士気がすごかったんじゃね?寄せ集めでない国許精兵だしなぁ。
義弘帰ってきたし、1000以上の兵の敵討ちにもなるし。
まぁ、あまりやりたくない相手だわ、島津に追い討ちかけて死んだ奴は数知れずだから。
431 :
人間七七四年:2007/08/20(月) 03:28:41 ID:+uKC11qm
島津討伐なんか清正以外誰もやりたがらなかっただろアホか。
まさか関ヶ原のあと島津討伐軍が編成され、戦わずに撤退したの知らねーの?
>>422 状況的にみてもそんなもんだ。
龍造寺が国を空にしてまで根こそぎ動員でもしない限り60000なんてありえないだろ。
433 :
人間七七四年:2007/08/20(月) 10:14:59 ID:KYNmG0Ax
九州の合戦での動員兵力は過大すぎる傾向がある
434 :
人間七七四年:2007/08/20(月) 10:55:37 ID:+uKC11qm
まぁ竜造寺6万なんてのは竜造寺方の記録なんだけどな。
これ知らない奴多いだろ。
435 :
人間七七四年:2007/08/20(月) 15:59:35 ID:MnAnUgRE
ちなみに、沖田畷での龍造寺の討ち死した人達:
334 :宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c [↑] :2007/08/19(日) 03:46:31 ID:Hl49qHLO
沖田畷にて討ち死にの面々、これは…
龍造寺隆信
龍造寺康房
成松信勝
百武賢兼
円城寺信胤
江里口信常
木下昌直?
勝屋勝一軒
小川信俊
安富純治
納富能登守(家輔、賢嘉)
徳島信忠
徳島信盛
安住家能
安住秀能
秀島家周
枝吉種次
宇礼志野通治
執行種兼
執行種直
執行種国
執行信直
蒲原信俊
少弐資宗
関新左衛門
中牟田七郎兵衛
中牟田新兵衛
436 :
人間七七四年:2007/08/20(月) 16:41:22 ID:CwGiR0pj
437 :
人間七七四年:2007/08/20(月) 20:58:50 ID:RMCCVnXX
んだな。大名本人に一族に、その下四人が四天王だったっけ?
家久暴れすぎw
>>434 確か「有馬晴信一代記」では、5万6000だったぞ。
439 :
人間七七四年:2007/08/20(月) 21:11:46 ID:CwGiR0pj
確かに龍造寺方が兵数を誇張しても、自軍が圧倒的に優勢で有りながら
敗北を喫した事を喧伝するだけに思える。
宇喜多さんも言ってるが、誇張したのはむしろ、島津や有馬方だったと思う。
440 :
439:2007/08/20(月) 21:50:51 ID:CwGiR0pj
しかし戦う前の龍造寺方の誇張はあったかもしれない
441 :
人間七七四年:2007/08/21(火) 23:18:42 ID:P3fKD07x
>>439 >>龍造寺方が兵数を誇張しても、自軍が圧倒的に優勢で有りながら
>>敗北を喫した事を喧伝するだけに思える。
一見無意味な敗北側自ら大将を愚か者とする宣伝。
だけど当主が死んだと言う事を考えて裏を返せば、その後竜造寺を治めた人間にとっては
そんな情勢下でありながらそれを治めることが出来た人物を称える宣伝にも成りえる。
竜造寺側も誇張する理由はあるように思える。
まぁ竜造寺というか・・・。
442 :
人間七七四年:2007/08/21(火) 23:53:34 ID:Vq+AaVY4
沖田畷っていっぱい資料に残ってるんだね。
歴史群像の島津戦記には竜造寺方の記録から島津の武将っぽい人たち、
宣教師とか9つの書物の名が載ってる。
なんで島津はこんなにいっぱい記録が残ってて手取り川は上杉側の
記録しか残ってないんだろ?
443 :
人間七七四年:2007/08/22(水) 00:20:27 ID:MasFiLkS
良くはわからんね、完全な捏造と切り捨てる気も無いけど、情報が少なすぎるのも事実、
個人的にはどっちにしろ状勢の変化に乏しい合戦は余り興味ない。
手取川なんぞあろうがなかろうがどっちが勝ってようが、その後の状勢の変化が無さ過ぎてどうでも良すぎ。
444 :
人間七七四年:2007/08/22(水) 08:03:57 ID:S/+hpPY8
スレ違いだろうけど、上杉ってあまり書物残さないほう?
島津はめっちゃ残す大名だよな
445 :
人間七七四年:2007/08/23(木) 00:16:44 ID:ZO+tdYPX
ただ戦国前期の合戦とかでも国人やらが有象無象集まって数が膨張する事はあった。
上杉の小田原攻めとか川越野戦とか。
畿内を中心とした法華経と一向宗の大乱でも30万は大げさにせよ、
大軍勢が動いたのは確か。
領地や大名の動員力だけから数が少なかったとは断定出来ないよ。
九州では勢力の変動が激しくて九州の多くの国人衆があっちに行ったり、
こっちに行ったり一斉に動いたからね。
446 :
人間七七四年:2007/08/23(木) 02:10:32 ID:e6mLrO85
上杉は帝国海軍に似てるな。
台湾沖航空戦の大誤認、343空の幻の戦果などなど。
手取り川も似たようなもんだろ。
>>435 イフものだが、中一のときに異・戦国志読んでたときにズラズラとこの武将が
出てたのに驚いた記憶がある。
兵数が詳しくわからんでも、討ち取られた武将格から見てかなり重要な戦いだったみたいだな。
ところで龍造寺康房って鍋島直茂の弟だっけ?
448 :
人間七七四年:2007/08/23(木) 07:53:08 ID:p06zTW0Y
信長って人気はあるけど敵も多そう
武田、本願寺、幕府、今川、毛利、浅井朝倉その他
449 :
人間七七四年:2007/08/23(木) 23:27:02 ID:60oW6rsC
ときどきで良いから波多野とか三好とかの事も、思い出して下さい
六角鈴木も
age
452 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 04:41:08 ID:T3rlLfiC
毛利元就は寡兵が強いと聞いたが
どれほどの物ですかね?
源義経ですら宇治川や壇ノ浦では相手より多くの兵を動員して勝ちましたが
453 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 06:31:43 ID:YjkEf0Ko
Yとかいう糞コテここにもいたのか
講談否定とか誰もが知ってる事をさも偉そうに書き込まないでください><
お前は歴ゲ板あたりでオナニーレスしてんのがお似合いだよw
454 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 07:43:59 ID:h+XyusST
謙信がやたら叩かれるのは肥が無茶な能力値付けたせいか
合戦については戦術ポカほとんど無いし川中島とか
寡兵で戦果残してるんだから評価されていいんじゃない?
肥の能力は過大だけど
455 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 12:25:55 ID:5+ae/c0D
>>452 「有田合戦」「厳島合戦」でググれ
つか「寡兵で大軍を破り、なおかつ敵総大将を殺した戦い」を二度もやらかしたのって
元就くらいじゃね?
信長と並んで戦国時代を代表する軍神。
456 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 17:03:47 ID:WnQ1vcab
有田合戦は武田に流れ矢がたまたま当たっちゃったんじゃなかった?
457 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 18:30:02 ID:NWMaklly
島津家久
458 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 18:56:17 ID:YiiwewrQ
>>455 「寡兵で大軍を破り、なおかつ敵総大将を殺した戦い」
信長は寡兵で大軍を破り、なおかつ敵総大将を自分の手でぶち殺した戦い があるぞ
700−1700 稲尾の戦い
459 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 18:57:49 ID:YZhtOCTc
奥平信昌はもっと評価されるべき
460 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 22:13:08 ID:BhcAtLTW
長篠で徳川一族と血縁になれたんだからおk
461 :
人間七七四年:2007/10/17(水) 10:42:07 ID:kD8x7sQ2
>>458 総大将は織田信勝で林某ではないな
>寡兵で大軍を破り、なおかつ敵総大将を殺した戦い
今山の戦い
桶狭間のような強襲ではなく完璧な奇襲での勝利で寡兵が大軍を破った模範的な例
>>455 寡兵では強くても大軍を率いると普通レベルなのが毛利家
大友との北九州争奪で叩き出されて逃げ帰ったのを忘れたのかい
有力な一族を離反させ混乱させる謀略の冴えは見事としかいいようがないけど
462 :
人間七七四年:2007/10/17(水) 11:52:38 ID:6pOnfTIh
普通レベルって…
北九州争奪は毛利の連戦連勝じゃん
本国で尼子残党の反乱が起こった為
獲得した領土の大半を大友に返還して帰還しなければならなかっただけ
戦略的にも毛利のが領土増やしてるし戦術的には圧勝だぞ
463 :
人間七七四年:2007/10/17(水) 16:57:10 ID:QdsGiQgf
464 :
人間七七四年:2007/10/17(水) 19:23:59 ID:UzFFZi0F
戦略的な勝利を求められるのが大名だろ
戦術的な勝利は家臣が求められるものじゃねーのか
465 :
人間七七四年:2007/10/17(水) 20:35:31 ID:w6ic4lgu
>>458 その程度で寡兵vs大軍とは言わないかなぁ。規模が小さすぎる。300vs3000とかならいいけど。
466 :
人間七七四年:2007/10/18(木) 02:30:20 ID:QE5vVBg3
有田中井手の戦い ○毛利軍1500 対 ●武田軍7000
元就の初陣。 当時の毛利家の領土は3000貫といわれ、15000石〜25000石ぐらいといわれているほど少ないものだった。
初陣、そして圧倒的劣勢にもかかわらず圧倒的な戦力差を華麗な戦術ではねのけ、総大将武田元繁を討ち取り軍団を総崩れにさせる。
元就の天才ぶりはこの時から発揮されていた。
後世西国の桶狭間と呼ばれる。(状況を考えれば桶狭間以上の大勝利)
佐東銀山城死守戦 ○毛利尼子連合軍 対 大内軍
有田合戦で敗れた武田氏が尼子の力を借りようとし、友田興藤は武田氏の援助を受けて、桜尾城を奪った。
一方の大内義興は自ら出陣し桜尾城を包囲した。そして息子の大内義隆と副将・陶興房に銀山城を攻撃させた。
元就はまだ尼子方の武将だったので、銀山城死守するようにと尼子経久に言われていた。
劣勢に陥った尼子武将。
見かねた元就は軍義で夜襲を提案、意表をつかれた大内軍は大混乱に陥り城の包囲を解かざるをえなかった。
吉田郡山城の戦い ○毛利軍3000 対 ●尼子軍30000
圧倒的な数の軍勢を率いる尼子軍を巧みな篭城戦でこれを撃退する。
その後尼子は衰退する。
折敷畑の戦い ○毛利軍3000 対 ●陶軍7000
山に布陣した倍以上の敵軍を下から攻撃し、大将宮川長房を戦死させ完勝を収める。
地理的にそして兵数的にも不利な状況ながら、総大将を討ち取るという完勝っぷりは元就、そして息子達の戦上手ぶりが垣間見れる。
宮尾城攻防戦 ○毛利軍500 対 ●陶軍16000
圧倒的な敵の大軍の大攻勢に耐え抜き、厳島合戦への足掛かりを作る。
厳島の戦い ○毛利軍5000 対 ●陶軍25000
自身の頭脳を駆使して厳島へ上陸した陶軍を壊滅させ、西国無双と呼ばれた陶晴賢を自刃へ追い込む。
運だけの桶狭間とは違い、自身の頭脳を駆使した完璧な戦だった。
この戦だけでも元就の凄さが分かると思う。
この合戦後、元就は戦国随一の勢力になる。
これ本当?胡散臭い
467 :
人間七七四年:2007/10/18(木) 02:33:36 ID:5tZXHYIG
理由を述べろよ
468 :
人間七七四年:2007/10/18(木) 05:49:41 ID:UG8VegCK
>>466の戦いの後、毛利が飛躍的に勢力を伸ばしてる事実を考えてみ。
あと「多々良浜の戦いにおける立花道雪の活躍」なんて立花の史料にしか記述がないぞ。
毛利軍が尼子残党の武装蜂起に対応する為に撤退したのを良い事に
「毛利軍が逃げたのは俺様が追っ払ったから!」と仰々しく宣伝しただけ。
事実、門司から兵を引いた後の吉川小早川両軍は瞬く間に内乱の鎮圧に成功している。
469 :
人間七七四年:2007/10/18(木) 07:17:31 ID:iFWOXMtM
元就の合戦は講談の匂いがするわけだが
470 :
人間七七四年:2007/10/18(木) 13:51:12 ID:KW2NhLNv
とりあえず宮尾城攻防戦と折敷畑の戦いは怪しいな
特に500-16000
471 :
人間七七四年:2007/10/18(木) 22:46:11 ID:ENxfF5RG
長谷堂の合戦は?
志村伊豆が上杉の大軍勢を凌ぎ切ったあれ。
472 :
人間七七四年:2007/10/19(金) 01:13:49 ID:/+GCVizR
だったら岩屋城攻防戦の方が遥かに熱い
473 :
人間七七四年:2007/10/19(金) 06:58:27 ID:blimXdUS
立花宗茂 500 対 秋月種実 8000てのもあったね、そういえば
>>472でも、あれは、負け戦だから
474 :
人間七七四年:2007/10/20(土) 12:06:29 ID:pz6n8+Wl
じゃあ長篠城攻防戦だな
>>461 徳川家康も小牧みたいな中小軍団の采配は凄いんだが、十万単位の大軍は統率に乱れがあるしな。
あと今山の戦いにも言えることだが、鍋は九州武将にしては実績あるよな?
476 :
人間七七四年:2007/10/21(日) 00:44:44 ID:+WyKZb4b
何万・何十万もの大軍勢の采配を任せられる武将などそうはいない
477 :
人間七七四年:2007/10/22(月) 02:46:42 ID:0XCo79I4
箕浦合戦
478 :
人間七七四年:2007/11/21(水) 05:14:26 ID:woGHuA5u
赤塚の戦い
479 :
人間七七四年:2007/11/22(木) 22:25:28 ID:GQIzlMf+
あげ
480 :
人間七七四年:2007/11/23(金) 00:54:21 ID:KbyoQs3G
九州の戦力差はガセだからアテにならない
481 :
人間七七四年:2007/11/23(金) 01:54:51 ID:flApdZBW
はいはい
482 :
人間七七四年:2007/11/23(金) 10:29:21 ID:ihBw2Y8k
ハムじゃない〜♪
483 :
人間七七四年:2008/03/01(土) 13:03:28 ID:L+mmKZOZ
保守
484 :
人間七七四年:2008/04/14(月) 21:30:39 ID:TRoq7yk+
ちょwww
半年近く経過して保守ってどんだけwww
485 :
人間七七四年: