小牧・長久手の戦い

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1名無し議論スレにて投票方法審議中
秀吉軍は家康信雄連合軍の10倍の兵力だったと言われます
信雄の懐柔にも成功しましたし、
この時点で家康を滅ぼす事が出来たと思うんですが
長久手の敗北はあくまで局地戦ですし、
あのままずっと粘っていれば、家康軍は内部から崩壊したと思う
2名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 04:10:22 ID:P+aFwbp3
鬼武蔵あっけなさすぎるよ・・・
秀次のアホのせいで・・・・。
3名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 06:09:50 ID:TxxnGm1J
信玄の攻撃を(運よく)しのぎきった実績のある徳川家が内部から
崩壊することはまずないと思うが、ジリ貧になるのは確実。
戦争の勝敗を決めるのはやはり国力だよ。

ていうか、信雄が勝手に講和したことで、徳川・織田連合軍は
事実上内部崩壊しとります。
4名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 08:08:16 ID:vTtjKLus
秀吉が家康を滅ぼさなかったのは
滅ぼせなかったのではなく、
例の人材収集癖かもしれない。
優れた徳川の兵力を組み込みたかったのかも。
5名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 12:00:01 ID:SFACBWZX
減んな顔の火↓と
6名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 12:38:20 ID:O9vvauZ0
(´゚ω゚`)
7名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 13:16:35 ID:c+OocvEk
>>6
( ´゚ω゚` )9m
8名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 13:19:18 ID:IaDDfcQq
背後で長宗我部や島津が暴れてるのにいつまでも家康一人に構っていられない
信雄を懐柔して兵力と名分を削ぎ向こうから動かなくなれば取り敢えずそれでよかったのだろう
9名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/22(金) 20:29:37 ID:UDtUwXq4
池田恒興の中入りがぐずぐずしていたせいで失敗したと言われるが、
あれは賤ヶ岳の再現を狙った秀吉の策だろう。
家康を釣りだし、本隊と挟み撃ちにするという。
しかし家康が一方上をいった。
10名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/30(土) 19:50:17 ID:DAwvhNSU
>>9
秀吉は反対してただろ?
しかし周りは未だ織田に仕えてた同僚が多く、強くは言えなかったんじゃなかったけ。
11名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/30(土) 21:09:46 ID:QV0vow2X
>>1
あの時点で統制の取れてない秀吉軍を統括するだけで秀吉は手一杯だったんだよ。
長期戦になったら織田家の同僚にサル呼ばわりされている秀吉軍が崩壊していたのは確実。
だって基本的に欲で釣ってただけだからね。
譜代がいない秀吉はよくやってたんじゃね?
12名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/30(土) 21:18:10 ID:QV0vow2X
>>10
池田勝入に離反されたらお仕舞いだったもんね。
なんせ信長の乳兄弟が信雄を見限って秀吉についたって言う金看板だったから。
濃尾2ヶ国の恩賞で釣った挙句自分の方針を池田勝入の脅しで曲げざるを得なかったって言うところに秀吉の辛さがあった。

譜代に恵まれ北条と同盟を組んで後顧の憂いを絶っていた家康に比べたら長期戦になったら内部崩壊の可能性の高い秀吉は圧倒的に不利。

あと小牧・長久手って表向きには織田信雄VS羽柴秀吉で家康は単に同盟の誼ってだけじゃなかった?

連投スマソ
13名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/30(土) 21:42:24 ID:+rDDUa19
徳川も無理な動員体勢のために領内において一揆も発生しかねないほどに
追い詰められてたというのが史料からわかるらしいねえ
14名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/30(土) 21:52:58 ID:v3UKFYQi
>>13
なんて史料?
15名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/30(土) 22:22:05 ID:+rDDUa19
>>14
小和田哲男著の戦争の日本史15巻の小牧長久手の章に書いてあったよ。
さらっと読んだだけなんで史料名は覚えてないけど三河の寺の住職の日記だったかな。
1614:2006/12/30(土) 22:24:09 ID:v3UKFYQi
>>15
d 今度探してみる。
17名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/31(日) 20:26:24 ID:LTDeuGZA
三河の寺の住職か。家康に含むところありそうだな。
18名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 08:31:10 ID:lcWA/6Iz
後方や内部に不安を抱えていたのは、秀吉だったろう。
特に紀州の地侍の活動が活発で、秀吉政権のお膝元である和泉にまで進出したりしている。
逆に家康側のデメリットは、決戦方面兵力の圧倒的な劣勢。
その決戦方面である小牧での長期戦という展開は、家康の望み通りの展開だったろう。
ただ、秀吉の大局観は家康の一歩先を行っており、決戦方面で睨み合いをしつつ、自身の最強の兵団を秀長に指揮させ伊勢方面に投入、織田領の美濃、伊勢の殆どを奪って継戦不可の状況に追い込んでいる。
流石に名将同士の戦争と評価していいが、旧信忠支配下の美濃諸将、池田等の去就を定めた政治力、毛利、前田、上杉等(この時秀吉の味方になった大名はいずれも後に)全国の大名にたいする外交手腕、等において秀吉が家康を上回った戦だった。
池田、森を、散々に破るという大勝利にも関わらず最終的に敗北(豊臣徳川中立地の尾張伊勢が実質的に豊臣支配下に)したのは、戦略的に圧倒的な敗北を既にきっしていたからである。
そして和解以降、徳川に連携した大名達(四国、越中、紀州)はことごとく各個撃破された。
ボケる前の秀吉は、日本史上最強クラスの軍事指揮官、政略家だったと思う。
ただし家康の敗北を敗北に見せなかった手腕も流石。
後に天下を取る。
19名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/04(木) 01:04:33 ID:YBwd8Fgn
小牧城ってショボイよね。
20名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/04(木) 01:17:22 ID:D7g3rT+V
家康有り得ないぐらい運がいいよなぁ
21名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/04(木) 12:10:12 ID:7urTERrl
>>20
運も実力のウチだよ
運が無ければ天下は取れない
22名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/04(木) 19:52:53 ID:XMCLavDv
>>19
あのショボい城で忠勝は秀吉本隊と戦ったんだぜ
23名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/30(火) 12:47:26 ID:yttdRJH/
中入り策が池田の発案なら、あれだけの惨敗を喫したのだから戦後取り潰されれてもおかしくないのでは?
逆に秀吉の発案で、家康を誘きだし挟み撃ちにするため、わざとのろのろ侵攻させたのだろう。
しかし家康が一枚上手で中入り軍を撃破し、秀吉に付け入る隙を与えなかった。
24名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/30(火) 17:03:32 ID:x3ge1EQy
大将が許可しておいて負けたから責任取れなんて馬鹿な話しあるわけないだろ
25名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/02(金) 23:45:22 ID:KyXNWPNV
安藤直次について語るスレ
26人間七七四年:2007/03/11(日) 12:53:41 ID:8gfIiuQO
秀吉の野戦の戦術的能力はよくしらない(つーか第4次川中島みたいに
戦術機動が合戦のキモになる例はまれ)けど、戦略機動の重要性は
認識してたしその実行力(補給体制の確立)もあった。光秀と勝家という
歴戦の武将相手に野戦で勝ってるのだからその能力は非凡だと思う。

小牧長久手戦ではなぜにその得意なはずの機動戦で家康に遅れをとった
のだろうか。天下をほぼ手中に収めてた秀吉が一番恐れてたのは、
総力戦で運悪く家康に敗北したあと、織田政権継承を主張する信雄の
もとに諸将がなびくというシナリオ。だから、家康とは無理に決戦を
しなくて信雄をだまらせればよかった。例の岡崎方面別働隊は献策が
あったから、まあやらせてみるかといったところでしょうか。

小牧に限らず総大将の意に反して別働隊が城攻めにこだわって時間を
失うということは結構ありますな(関が原、耳川など)。これらは
別働隊の大将がイマイチ君だったという側面のほうがつよいと思う。
27人間七七四年:2007/03/11(日) 14:00:54 ID:JZyxuoC/
池田恒興は、亡主君信長の乳母兄弟で
形の上では秀吉に従ってはいるが、立場的には秀吉と同格。
それに、信長家臣団の中でも最古参であり、その恒興が信雄や信考ではなく
秀吉についているっていうのは大きな意味を持つわけだ。

その恒興が主張した横入れ作戦を秀吉が断りきれるわけでもなく、
また、立案自体はそれほど問題のあるものでは無かったんだけど、

奇襲を前提とした進軍とは思えない経路、思いつき始めた攻城戦!
など稚拙な行動ばかりで、これは指揮する将の問題だろ。
三次秀次はお飾りで実質後軍で恒興隊が壊滅して初めて家康の奇襲を受けたと
知るほどの散々な状態。
28人間七七四年:2007/03/13(火) 21:39:28 ID:YrQqxh16
今日、長久手戦場跡に行ってきた
29人間七七四年:2007/03/13(火) 21:40:35 ID:H6IFKeay
感想は?
30人間七七四年:2007/03/14(水) 01:11:22 ID:ynyxVeQl
今の日本に秀吉のような外交上手がいれば・・・
31人間七七四年:2007/03/14(水) 03:36:07 ID:DhiHjLxX
>>29
史料館には色々あったけど、特に記憶に残ってるのは稲富流砲術書と大筒と短筒。

地下には弓道場があったけど、弓じゃなくて、火縄銃撃ってみたいよね。

あの地方には棒の手なる百姓に伝わる武術(?)があったらしく、鉄砲、槍、薙刀もあった。

あと、池田親子の塚が2つ。
ちなみに武蔵塚はちょっと公園から離れたとこにある

行ってないけど、墓は別でお寺にあるらしい。
32人間七七四年:2007/03/16(金) 21:19:12 ID:apikutab
長久手といえばモリコロ
33人間七七四年:2007/03/17(土) 14:05:43 ID:HLBGFppm
>>31


私も資料館巡りしてみたい
34人間七七四年:2007/04/17(火) 04:10:55 ID:lWZxod3u
秀吉のスケールが、家康を圧倒した戦いではあったと思う。
しかし家康の生涯で最高の頑張りを見せた戦でもある。
家康を野戦の名手と評価する向きがあるが、今川相手には調略で侵略をしているし、武田には野戦で負け続けている。
関ヶ原は快勝を収めたが、野戦能力というよりは調略が凄かった印象。
真田ー上杉にちょっとした負けをきっしたが、信濃領有を巡る我慢比べの勝利も含め、この時期の徳川家は本当に強かった。
関東移封以降、徳川家臣から強さは無くなってしまう。
徳川家康生涯最高の戦は、豊臣秀吉の天下統一を一気に加速させた戦でもあった。
35人間七七四年:2007/04/17(火) 04:13:53 ID:lWZxod3u
秀吉のスケールが、家康を圧倒した戦いではあったと思う。
しかし家康の生涯で最高の頑張りを見せた戦でもある。
家康を野戦の名手と評価する向きがあるが、今川相手には調略で侵略をしているし、武田には野戦で負け続けている。
関ヶ原は快勝を収めたが、野戦能力というよりは調略が凄かった印象。
野戦が特別強かった訳ではなかったように思う。
但し真田ー上杉にちょっとした負けをきっしたが、信濃領有を巡る我慢比べの勝利も含め、この時期の徳川家は本当に強かった。
この後の関東移封以降、徳川家臣から強さは無くなってしまう。
徳川家康生涯最高の戦は、豊臣秀吉の天下統一を一気に加速させた戦でもあった。
36人間七七四年:2007/04/17(火) 09:01:13 ID:+JJYNUYv
ミス連投にしては間隔長いな
37人間七七四年:2007/04/17(火) 11:20:18 ID:fYb5vp97
信雄の和睦も、家康の計算通りだと思うが、
家康は戦争の終わらせ方も考えての参戦だろうし、多少闘って劣勢になったら
信雄見捨てて、秀吉に頭下げれば責任を信雄に押しつけつつ和睦もできると思う

優勢になれば史実道理信雄に和睦させれば、それはそれで良いって感じで。
肝心なのは秀吉も家康も、直接対決は徹底して避けた事。
器量比べのような戦いな感じ。
38人間七七四年:2007/04/18(水) 15:26:34 ID:EASvLRBp
勝利した秀吉が人質さしだしたわけだ
39人間七七四年:2007/04/18(水) 16:13:55 ID:Z6+8z7k9
しかもそのために離婚させた妹と実母
40人間七七四年:2007/04/18(水) 22:50:57 ID:DmoRioKD
そこまでされては臣従するしかなかった家康を見抜いてのことだろうが
お互いが輝いてたねこの頃は
41人間七七四年:2007/04/18(水) 23:21:37 ID:rzzW8NAM
先に人質出したのは家康ですが?
レベル低いなココ・・・
42人間七七四年:2007/04/19(木) 00:53:31 ID:B5/Q9yOs
魔女っ子ギギが先だったのか
43人間七七四年:2007/04/19(木) 00:58:03 ID:KXHIrZ9w
おぎい
かわいそ
44人間七七四年:2007/04/19(木) 08:00:13 ID:TVyI26dt
でも動かなかったしな。
45人間七七四年:2007/04/19(木) 14:49:59 ID:6gb0mCH9
人質の扱いが、養子だったり、嫁さんだったりするところが、二大天下人の力関係の複雑な処じゃないか!
小牧長久手以後の、両者の駆け引きが良い、マニア受けする外交合戦
46人間七七四年:2007/04/23(月) 15:52:56 ID:hrwl7FDp
森や池田をあぼんさせたのだから秀吉にも得るものが多かった戦い
47人間七七四年:2007/04/23(月) 18:40:52 ID:NjrAkmnS
つーか、池田が消えたのが一番嬉しかったんじゃねーの?w
48人間七七四年:2007/04/23(月) 20:21:50 ID:C08elF+B
美濃やらなくて良くなったしね
49人間七七四年:2007/04/23(月) 20:58:02 ID:+gSV7LHE
その代わり巨大野党、徳川家が誕生
50人間七七四年:2007/04/23(月) 22:10:54 ID:fA2LPYzy
家康厨は朝日を人質にとってるのを喜んでるようだが、大名家での重要性からして秀康(世子)>>>>>朝日(父違いの妹)だからな。
おまけに実質庶民でしかない朝日との縁組なんて家康にとってものすごい屈辱だろ。
小牧長久手で家康は秀吉を野人の子などと中傷してるが、同じ野人の子の朝日を正室に迎えているのは
どう説明すればいいのだ?w
51人間七七四年:2007/04/23(月) 22:25:01 ID:B3ONB5gB
だなw
52人間七七四年:2007/04/24(火) 01:34:37 ID:f6LCwubM
農民の側室持つような家康が気にするはずがない
53人間七七四年:2007/04/24(火) 11:03:32 ID:UZMsH45x
>>50
時代は秀吉様なのだよ
周囲から見たら破格の待遇だろ
54人間七七四年:2007/04/24(火) 20:42:51 ID:l+Qe+nKt
秀吉が家康と本気でやらなかったのは

1小牧長久手当事の話しであるなら秀吉は自分が詐術で天下を取ったのを自覚しており
譜代の精強な軍団を持つ家康と利権で尻尾を振る自陣営を顧みて決戦に踏み切った場合
家康側に付くものも居ろうと思い決戦は避けた

2また天下人として認識されている手前、大友からの救援要請に向かわなければならず徳川と本格的に交戦するわけに
はいかなかった(勝ったとしても時間がかかる)

3建て前とはいえ秀吉の主筋の同盟者である家康は秀吉よりあきらかに格が上であり、家康に泣きついた
信長遺児への同情からの家康の行動では道理は家康にあった事

4豊臣政権加入後はなおさら徳川家は肥大化し
おいそれと手を出せる存在ではなくなったようだし
豊臣は徳川に負けるべくして負けた
55人間七七四年:2007/04/24(火) 21:15:43 ID:1FeIZ/vY
>>54
無知
典型的な家康厨
56人間七七四年:2007/04/25(水) 10:28:05 ID:4S5vfRH6
>>54
俺も家康厨だけどずれてるな。

秀吉に勝っても意味がないと考えたと思う。
あの情勢で仮に秀吉殺したり、勝ちまくって美濃あたりまで進出しても、別に他の地方大名が家康に従う訳も無く。
戦国が永遠続いていくだけだ。
それよりも適当に引き分けなり和睦して、自分を高く秀吉に売りつける事で、より大きな影響力を手に入れた訳だ
勝って負けるという事も有るし、負けて勝つという事も有る。
このあたりの処が家康の上手いところだ。秀吉や信長には欠けていた処だと思う。
57人間七七四年:2007/04/25(水) 12:54:40 ID:okuHaHpL
厨の妄想は果てがないなw
58人間七七四年:2007/04/25(水) 18:36:54 ID:9kDCTguo
釣りじゃないか。でないとこんな恥ずかしいこと書けるとも思えん。
59人間七七四年:2007/04/25(水) 22:34:59 ID:QSxBdLou
恐ろしく都合のよい解釈
60人間七七四年:2007/04/26(木) 04:35:44 ID:gIKVdScx
馬鹿だ馬鹿
61人間七七四年:2007/04/26(木) 08:16:48 ID:jqWRszNw
>>31
地下なんてあったっけ?
塚なんてあったっけ?
62人間七七四年:2007/04/29(日) 15:06:05 ID:obrrtOuW
あれ以上、抵抗すれば徳川なんてアボンだろ
だから降伏したにすぎない
で、秀吉死んで幼児がその跡を継いだのを機に天下を奪っただけ
天下人となった事実を根底に考えるから小牧の戦すら家康の深謀遠慮とかアホなこと言い出す
あの場合は秀吉の臣下となるか滅亡かの二者択一だよ
まぁ、あそこまでいい条件で降伏したのがさすが家康といったところか
63人間七七四年:2007/04/29(日) 17:05:51 ID:AdgcZr4R
秀吉も家康も気がついたら目の前に天下があったんだろ。
信長みたいに明確な意志を持っていたわけじゃなく。
64人間七七四年:2007/04/29(日) 21:26:33 ID:MbGIxgqM
>>62>>63
その通り
65人間七七四年:2007/04/29(日) 21:52:44 ID:UMZ7lQF6
>>47
あぼんさせるために、わざとこういう作戦を建てたのかも知れないな。
そのあと、両方とも取り潰さず、遺児の輝政を家康の娘と結びつけたりしてるのが謎だな。
66人間七七四年:2007/04/30(月) 20:10:01 ID:hEUhbL3p
元方面軍の軍団長クラスというと滝川と池田しか残ってないのが
この戦いで両方消えてるからな。
寄せ集めの感があった秀吉軍が一気に独裁政権になってる。
67人間七七四年:2007/04/30(月) 20:44:58 ID:JDIduFy4
絶対に勝たなければいけない天下人狙いの秀吉
負けなければそれで可のまだ一地方領主にすぎない家康
68人間七七四年:2007/05/01(火) 16:04:56 ID:f1drGRrl
家康は秀吉に負けたとは思ってない逸話有るね
秀吉が自分こそ天下一の武将と自分を持ち上げてたら、家康が他はともかく武将としては自分が一番と言い張って
秀吉もバツ悪くなって席を外したとか。
69人間七七四年:2007/05/01(火) 17:20:24 ID:iWxMQWI1
逸話の類を全部信じたら秀吉はまさに英雄で家康はうんこ垂れなのだがw
70人間七七四年:2007/05/17(木) 22:54:23 ID:QiRCe4R/
リアルに戦争やってるな

【報道規制中】 拳銃男が民家で発砲、警官含む3人けが  小牧長久手の戦い ★3
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/liveplus/1179396729/
71人間七七四年:2007/05/18(金) 16:21:33 ID:x5eDERXV
秀吉も家康も草場の陰からなげいているであろう。
戦国時代は世界一の軍事大国だったのが今は1人の立てこもりすら丸1日かかっても落とせないようでは。
72人間七七四年:2007/05/18(金) 17:01:16 ID:cqwKVd+y
篭城ヤクザ=徳川軍

警察=豊臣軍
油断してくたばったSATのお方=森長可
73上州人:2007/05/18(金) 20:21:43 ID:1EmhkIsO
70さんどうせ犯人は最期には死ぬか捕まるかですよ。
立てこもりはいつまでも続きません。だいいち、成功例は日本では皆無に近いです。
72さん徳川軍と豊臣軍に例えるの上手いが徳川軍は野戦をよく行い立てこもりは
あまり行ってない。徳川軍と豊臣軍逆じゃないですか(大阪の陣みたいに)。
74上州人:2007/05/18(金) 20:27:47 ID:1EmhkIsO
たしかに細木レベルの馬鹿にここまで苦戦するとは本当に
秀吉も家康も草場の陰からなげいているであろうで砂。
犯人もだいたい、味方も来ないのに篭城しても意味ない。大勢の警官に
包囲されてるのだから。犯人の馬鹿さがよくわかる。
75人間七七四年:2007/05/18(金) 20:30:53 ID:jUgFhTAg
>>74味方が来ても籠城しねぇだろ 普通
76人間七七四年:2007/05/18(金) 20:49:54 ID:DRZSmO0J
犯人を射殺するとシージャック事件の時みたいに犯人を射殺したスナイパーが自称人権派弁護士
に訴えられる可能性があるから日本警察が現場で犯人射殺するということはほとんど無い
77人間七七四年:2007/05/18(金) 21:13:48 ID:cjMVyzGG
>>71
力ずくで済ませていいならとっくに解決してる。
要塞でもなく民家なんだからすぐ突入はできるしね。
ただ、現代は戦国時代ではないだろ。
78人間七七四年:2007/05/18(金) 22:15:13 ID:N4LwCyl/
結果的に秀吉の勝利なわけだが
この戦いは家康の奮戦だな
雑賀衆、長宗我部元親、佐々成政を動かして機を待ったわけだが
長引けば長引くほど何かが起こる可能性があったわけだし
兵糧や兵の疲労の問題もあるわけだ
家康はそれに賭けてたんだろうな
もし負けても信雄のせいにして秀吉に臣従すればいいわけだし
逆に言えば秀吉は伊勢や美濃を制圧する余裕があったわけだ
和解の条件も秀吉有利なわけだし
どっちにとっても、いい戦争であったのは確か
79人間七七四年:2007/05/29(火) 17:34:35 ID:VdKMIJPH
三河武士の最大にして最後の見せ場だったな
これ以降の徳川の戦争で有名なのは関ヶ原だけどアレは完全な調略での勝利
酒井榊原本多の大活躍 これから先見られることは・・
80人間七七四年:2007/07/20(金) 22:56:26 ID:eSbVokWD
秀吉は「うろ」が来たとしか思えない鈍重な指揮が目立ったと思う。
それはともかく、出陣当初家康が入城を目指したのは大垣城だったのではと思う。
そして、家康は中仙道濃尾平野側出口で秀吉軍と対陣しようとしたのではと思う。
目的はあくまで短期決戦での秀吉殺害。ところが池田が犬山で決起したため引き返す羽目に。
このあたりで家康はプランを変更して長対陣でのポイント稼ぎで有利な条件での講話を模索せざるを得なくなった。
秀吉は秀吉で、上方や北陸が気になって大兵力の動員が不可能な上に長対陣は避けたいところ。
そこで森の策に乗ったのが運の尽き。機動戦で主導権を握られ秀次別動隊は壊滅。秀次は無事だったものの木下一族は消滅。
肝心の家康はさっさと戦場から撤退していて千日手の様相。
秀吉にとって失うものばかり多くて得るもののない戦い。
これ以上の長対陣を避けるため、信雄にかなり有利な条件での交渉を持ち掛けて家康に陣を引かせるしか無かった。

とか地図を見ながら想像してみた。
81人間七七四年:2007/08/06(月) 13:00:41 ID:uf5wUPsz
>目的はあくまで短期決戦での秀吉殺害。
はいはい
妄想もいい加減にしろ

82人間七七四年:2007/08/30(木) 21:19:51 ID:ptHtcLhw
この戦いで徳川を北条みたいに廃絶しておけば・・・
83人間七七四年:2007/08/31(金) 01:26:33 ID:D28wDVnw
てゆうか、秀吉が中入れ許さなかったら
睨み合い→信雄単独和睦→家康立枯
多分家康とも和睦になったと思うが
下手すりゃ滅ぼされてたな。
84人間七七四年:2007/08/31(金) 15:03:33 ID:r9Amq4Jt
>>83
睨み合い→信雄単独和睦→家康立枯→家康講和→西日本の本格的な平定作業続行
→濃尾二ヶ国に旧織田家臣団でも有力な池田恒興が配置される


結果的に、秀吉側の損失がほぼ無い上に、濃尾二ヶ国の約束を無効に出来たのは
出来過ぎのような気がするが。
85人間七七四年:2007/09/30(日) 10:13:57 ID:oPcLp758
この戦いの二年後の1586年に、上杉景勝が上洛して秀吉に臣下の礼をとった後
関東方面から景勝を大将とする、徳川・北条討伐軍が具体化されたのだが
あのまま、秀吉が母と妹を人質に差し出してまで、家康を懐柔など馬鹿げた事をせず
武力で家康を潰しておれば良かったのに
86人間七七四年:2007/09/30(日) 11:30:21 ID:zgVnU2LB
あまり重視されていないが、家康側についたのは信雄だけじゃない
長宗我部、雑賀一揆衆、佐々なんかと連合したいわば秀吉包囲網だった
特に雑賀勢は積極的で、数万の大軍で北上してきた
これは中村一氏が迎撃し、撃破5千という大勝を博して無力化したが
お陰で肝心の本戦に黒田・蜂須賀といった秀吉子飼いの精鋭が間にあわなかった
引き分けになったのもその影響だ
家康単体ならともかく、反秀吉勢力を一つ一つ外交で臣従させたり力で屈服させたりしながらだから効率がとても悪くなる
87人間七七四年:2007/09/30(日) 14:58:41 ID:OFVAAbSG
戦略的にも秀吉の勝ちかどうかは怪しいぞ
小牧・長久手の戦術的勝利により家康の名は一気に広まり、秀吉も下手に手出しはできなくなった
それが後に影響を及ぼし、豊臣政権で大きな力を持ちひいては関ヶ原や大阪の陣にも影響した
88人間七七四年:2007/09/30(日) 18:30:42 ID:Z+bfh3tB
仮に、この戦いが長期化した場合、そうやすやすと秀吉が勝つとは思えない。
家康だって秀吉程ではないにしろ外交上手。

長期化すれば、反秀吉勢を形成し家康が逆転って事もあり得る。
89人間七七四年:2007/09/30(日) 18:36:32 ID:OFVAAbSG
>>84
見えない損失ってもんがあるだろ…

・秀吉の名が下がり、家康の名が上がった(噂というのは恐ろしいもんで、日本の端っこまで伝わる頃にはどうなってるかわからん)
・家康を厚遇しなければならなくなった(関東転封は苦肉の策、実際のところ失策だしな 最終的に豊臣家滅亡の一因になった)
・征夷大将軍になれなくなった(?)
90人間七七四年:2007/09/30(日) 18:59:00 ID:itO31nQh
天正14年には83が書いてる通りに対北条対徳川の2方面侵攻を行う余裕もあるのは事実だしなあ
91人間七七四年:2007/09/30(日) 18:59:31 ID:itO31nQh
83じゃなくて85ね
92人間七七四年:2007/09/30(日) 21:09:29 ID:2WKwHr11
野戦の達人スレで論破された糞家康厨が急に沸いてワロス
93人間七七四年:2007/10/01(月) 00:08:57 ID:ZgLwXa6y
秀吉側は、寸土も失ってないけど
信雄、家康側はすげー失ってますが。
たかが奇襲名目で城攻めしてるカス武将が指揮してる部隊を
局地戦で破ったからってなんなん?

さらに言えば、家康は単独で唯一それくらいしか勝ち戦が無い位の戦下手だしな。
94人間七七四年:2007/10/01(月) 11:08:36 ID:/PeXwYUZ
奇襲部隊の城攻めって後世の講談とかじゃ馬鹿扱いされているけど
万単位の部隊の隠密長期移動なんて不可能である以上
連絡線を扼す城があったら落とさないとまずいだろ
後背を遮断される
95人間七七四年:2007/10/01(月) 17:23:03 ID:ZgLwXa6y
何言ってるの?
わざわざ敵方の城の目の前を通過するルートを選択した時点で馬鹿だろ。
岡崎まですべての城を落とすのか?
96人間七七四年:2007/10/01(月) 20:46:54 ID:RrqiTfYc
いや、普通全ての城を迂回して岡崎あたりまで進軍するなんて不可能だよ。
元々城はそういうのを阻止する為に要衝に築かれるものなんだから。
つまり普通に考えるなら一気に岡崎を衝くつもりだったという方が疑わしい。

おそらく徳川・織田軍の後方に進出して、挟み撃ちの形にし相手を動揺させるとか、
あるいは関ヶ原の際に家康が行ったといわれるような、敵の本拠地に進軍すると見せて、
敵軍を城からおびき寄せる為の作戦だったのかもしれない。
97人間七七四年:2007/10/01(月) 23:49:57 ID:xz3SnMen
おびき出す作戦てのはうがち過ぎ。
そういう作戦なら始動した後相手の動向を委細漏らさず注意するはずで、少しの遺漏ならまだしも家康本隊が陣を出たのに気付かないってありえない。
98人間七七四年:2007/10/02(火) 17:06:35 ID:CLpf1xeg
これも姉川と同じく徳川が必死で有名にした戦ですね
相手の信じられないようなエラーに便乗して勝っただけなのに
99人間七七四年:2007/10/02(火) 17:42:59 ID:dMPQx74D
要は隠密行動のつもりの行軍中の部隊に奇襲を掛けて潰走させたって話で、この状況じゃむしろ負ける方が無理だなw
100人間七七四年:2007/10/03(水) 03:29:16 ID:Tp3c431U
秀吉に潰されるどころか人質までもらって、家康としては最高の形にもっていけてニンマリだわな
秀吉の性格と彼の唐入りしたいという野望に感謝
101人間七七四年:2007/10/03(水) 05:36:32 ID:KQdSgw9w

世継ぎたる息子を差し出して講和が成立したのは家康のほうだけど。

2年後に秀吉が母親を人質に出すのはまた別の話。
102人間七七四年:2007/10/03(水) 12:45:29 ID:hVgI3F7Z
>>97
いや、それは家康側の作戦勝ち
このとき別働隊迎撃に出たのは家康と信雄の旗本を中心とした部隊
数的主力である酒井や石川の諸勢は秀吉軍前の陣地に張り付いたまま
秀吉方が偵察攻撃をかけても家康の不在を探知できなかった
慌てて秀吉本隊が別働隊を救援に向った時には家康らは撃破後撤収済み
戦術的には完全に家康方が圧倒している
103人間七七四年:2007/10/03(水) 13:22:57 ID:Dr425gj2
家康の勝ちじゃなくて単に秀吉が間抜けてて勝手に負けただけだろあれは。
そもそも数で優勢なのに膠着してたのは徳川方が陣に篭ってたからで、兵力割いて陣を出たなら
各個撃破の大チャンス、のこのこ陣を出て来た家康を挟み撃ちで滅ぼせたし、秀吉軍が動いたのを
追って陣に残ったやつらが出てくれば数の優位生かす大チャンス、一気に勝負に持ち込めたのに、
ぼーっと気づかずやり過ごして勝機逃しただけの話。
104人間七七四年:2007/10/03(水) 15:58:23 ID:Ag3xeHU0
名人Q太郎は大須賀康高、榊原康政をやぶってるんだけどね
他が情けない
逆に言うと先鋒がミソつけられたのに本体だけで池田、森に決戦した家康がすごいのかもしれんが
105人間七七四年:2007/10/03(水) 16:11:42 ID:g362zadQ
池田なんかただのボンクラだろ
信長時代にどういった功績を立てた?
何もないだろ?
そんな奴、破った所で何の自慢にもならんわ

ただ、鬼森は運が悪いとしかいいようがないわ
106人間七七四年:2007/10/04(木) 13:53:23 ID:5knhAOVO
じゃあそんなのに美濃任せて別働隊の将にした秀吉が間抜けってことだなw
実際は信長から勝家、秀吉らと並んで戦功を称されるほどの猛将
摂津攻略で「小身であるにもかかわらず天下に面目を施した」と賞された
山崎合戦でも右翼を率いて明智勢を撃破
むしろ堀秀政が阿呆だよ
味方を見捨ててとっとと遁走
お陰で池田・森らは孤立したために殲滅された
撃破は無理でも牽制ぐらいはすべきだったのに
107人間七七四年:2007/10/04(木) 14:55:25 ID:TB6MO0Ma
家康厨必死だな
108人間七七四年:2007/10/04(木) 15:33:26 ID:yQAf76Sd
家康厨とかいう問題じゃないだろ
別にあれを持ち上げてるわけじゃないし
109人間七七四年:2007/10/04(木) 15:38:26 ID:2jt/ISRW
むしろアンチ家康のレスが酷いことになっているような気がするんだがw
110人間七七四年:2007/10/04(木) 15:47:36 ID:frzdyDgy
この時点じゃ秀吉と池田は同格とは言わないにしても秀吉に絶対的な命令権があったわけじゃないからなー
111人間七七四年:2007/10/04(木) 15:52:46 ID:yQAf76Sd
冷静に見たら家康厨の持ち上げ方は確かにキモかったw
112人間七七四年:2007/10/04(木) 15:54:21 ID:2jt/ISRW
>>111
どこが?w
「池田が何の戦歴が無い」とかの捏造は冷静に見たらスルーするたぐいなんか?
113人間七七四年:2007/10/04(木) 16:23:13 ID:yQAf76Sd
だってこれの本質は>>103辺りだろ
少数側が兵力分けてるのに放っておくって戦術的にありえないから
それで行軍中の相手に奇襲掛けて破ったと言っても、>>99の言う通りこれは勝って当たり前
家康が勝ったわけじゃなくて秀吉が勝手に負けただけの凡戦だなこれは
それを家康だから勝ったとか、ちょっと家康厨は痛すぎる
114人間七七四年:2007/10/04(木) 16:31:31 ID:eHIXPVOQ
まあ、秀吉にすれば、うるさい池田が死んでほっとしたのではないか?
秀吉ほどの男なら、家康相手にそんな作戦が通用するはずがないのが分からんはずがないからな
元はと言えば、無能の池田がどうしてもやらせろと言って来た事だし
115人間七七四年:2007/10/04(木) 16:46:45 ID:m0cnq5k+
>>114
>元はと言えば、無能の池田がどうしてもやらせろと言って来た事だし

ずっと思ってたけどこれにソースってあるの?
秀吉が自分の失敗を死んだ奴に押し付けただけじゃないの?
116人間七七四年:2007/10/04(木) 21:10:40 ID:XWukPUnu
池田勝入は美濃、尾張、三河が猿から貰えるとマジで思ったのだろうか?猿にとって中部圏に百万石の大名が生じるのは甚だまずい
117人間七七四年:2007/10/04(木) 21:47:06 ID:G4thJ5SR
この戦、偵察の面では家康がかなり優位に
立っている。襲撃する以前に行進隊形から
戦闘序列まで、概ね解明してたっぽいからな。

堀に撃破されたけど、榊原ら先遣隊の果敢な
攻撃も情報面では全ての敵戦力を補足し、
本隊の進出を援護したと言えると思う。

武田の使番衆を吸収したのが大きかったかな。
118人間七七四年:2007/10/04(木) 22:34:48 ID:pbIQ3y13
>>117
秀吉側が敵地での行動
織田徳川は自領だったってのが一番大きいと思う、
武田の使番衆はまず関係ないと思う。

池田も森も土地感は十分あったろうけどね。
119人間七七四年:2007/10/05(金) 01:09:46 ID:aLexDsCk
おそらく秀吉は池田から中入りの作戦を聞かされた時点で
池田隊の負けはうすうす感じてたはず。
それでも織田家最古参の池田の申し入れを断るわけにもいかず、
甥の秀次を総大将として進軍させた。
しかし甥の秀次が総大将ではいかにも心もとないので、
戦名人堀久太郎を同行させた。
中入りの奇襲部隊としてはかなりの大部隊、
徳川方に気づかれることは承知の上で作戦を決行。
信長に仕官する前には秀吉に仕えていた久太郎は当時最も信頼できる家臣あったろう。
あわよくば家康本隊を久太郎が叩いてくれるのではという淡い期待があったのかも。
秀吉が久太郎を同行させたのは、甥の秀次のため、家康隊撃破のためで、
池田や森ははじめから見殺しにすることを
秀吉が久太郎に耳打ちしたのが想像できる。
120人間七七四年:2007/10/05(金) 01:33:07 ID:eSR/pqW6
秀吉にとっては最高の負け戦に調整できたな。
121人間七七四年:2007/10/05(金) 09:03:24 ID:2ucYkDyB
何この秀吉贔屓の引き倒しスレ
負けると思ってたのに相手に遠慮して実行して大敗したとしたら、秀吉が愚将って以外ありえんだろ
奇襲の探知から襲撃まで家康軍のパーフェクトゲーム
秀吉軍は少なくとも徳川軍の二倍の兵力を持っていたのに一方的に翻弄されただけじゃん
122人間七七四年:2007/10/05(金) 10:55:27 ID:w0f0pxb7
だから、家康の前に池田を始末したかったのだろ
奇襲作戦が万が一成功するような事あったら、池田がますます増長するからな
123人間七七四年:2007/10/05(金) 11:06:41 ID:EXjtofKC
そこまで陰謀めいたモノがあったかどうかはしらんが、結果論としては秀吉にとって実に都合の良いときに
死んでくれたよね

数少ない身内も何人も死んでるから良いことばっかりでもないけど
124人間七七四年:2007/10/05(金) 11:35:44 ID:Chyx0Elf
フロイスの記録によると、秀吉が別働隊を派遣したのは現地の豪族の調略に成功したから
ところがこれは家康の謀略だった
秀吉らは完全にこれに引っかかった
事前工作から実戦まで完全に家康にしてやられている
池田は秀吉支持派の重鎮で、未だ旧織田領内を纏めきれてない秀吉には欠くと苦しい協力者
大損害を出してまで抹殺する相手でもない
125人間七七四年:2007/10/05(金) 13:14:09 ID:w0f0pxb7
お前、フロイスの書いてる事、信じてるわけか(ゲラゲラ
あのアホは、安土城は信雄が焼いたとか書いてたな
所詮1宣教師の情報収集力などこんなもんさ
126人間七七四年:2007/10/05(金) 13:20:47 ID:zA5XsFYd
フロイスはその武将の結末とか知ったうえで妄想設定を作るからたちが悪い
127人間七七四年:2007/10/05(金) 13:22:24 ID:l+veGH0m
フロイスは武功夜話ほど嘘ばかり書いてるわけじゃないけどね。
128人間七七四年:2007/10/05(金) 13:24:10 ID:VRpAD5ga
秀吉マンセー厨うぜー
129人間七七四年:2007/10/05(金) 13:25:50 ID:M52/vzLG
ゲームの影響(笑)
130人間七七四年:2007/10/05(金) 13:44:31 ID:9CnLakHQ
兵力で言えば、秀吉は家康の二倍ほども優勢だったわけですよ
でも実際は五分。執拗な野戦築城が繰り返された
このあたりは城塞群による封鎖や野戦陣地構築を重んじた信長の流れを汲む二人だね
しかしいざ野戦となると家康方圧勝
秀吉は弱腰な信雄を篭絡して徳川の名分を失わせるという搦め手を使ってようやく講和した
普通これだけ勢力差があれば、反秀吉方の諸勢力が撃破ないし無力化した時点で勝てるはずなのにね
131人間七七四年:2007/10/05(金) 14:55:31 ID:x+WDZe12
家康方圧勝とかほざいてるカスは
信雄、家康連合がどれだけ領土を失ったかとか
和睦の条件とか知らないんだろ
132人間七七四年:2007/10/05(金) 15:11:32 ID:x+WDZe12
家康方圧勝とかほざいてるカスは
信雄、家康連合がどれだけ領土を失ったかとか
和睦の条件とか知らないんだろ
133人間七七四年:2007/10/05(金) 21:08:10 ID:VcD1vkFk
>>130
>普通これだけ勢力差があれば、反秀吉方の諸勢力が撃破ないし無力化した時点で勝てるはずなのにね
西が平定されてればな。
134人間七七四年:2007/10/05(金) 23:45:18 ID:fDvVQ57s
信雄家康らは伊賀伊勢美濃を失い
秀吉に人質を出すことにってとこか
135人間七七四年:2007/10/06(土) 00:40:14 ID:OC2H2jHI
>>134
成政も見捨てたしね
136人間七七四年:2007/10/06(土) 03:01:42 ID:NcXSYXiF
大局的に勝った秀吉と
局地戦で勝った家康。
137人間七七四年:2007/10/06(土) 03:59:59 ID:ILQkywDi
勢力に圧倒的な差があるんだから大局で勝つのは当たり前。
局地戦で負けたことで武将としての格の違いを見せ付けられたな
138人間七七四年:2007/10/06(土) 08:21:46 ID:tGSBu3RK
局地戦で武将の格の違いか。なら真田>>>>>徳川ということか。
139人間七七四年:2007/10/06(土) 09:00:07 ID:CdBmk+ee
結果的に双方が大きな利益を得た、という珍しい戦いだな
秀吉は旧織田領争奪戦を好条件で終わらせることで天下統一の元手を手に入れた
家康はその秀吉と唯一対等の勝負をした武将、ということで臣従後の厚遇を確定し後の天下取りの財産になった
一番損したのは信雄……
140人間七七四年:2007/10/06(土) 09:25:15 ID:k82a6DUj
真田とか史実ではどーでもいい存在だぞww
小牧・長久手で家康は一気に名を上げ 最終的には豊臣政権を打ち倒す要因の1つになったんだから秀吉は戦略的にも大敗だろ
141人間七七四年:2007/10/06(土) 09:27:44 ID:CdBmk+ee
まぁ、真田は局地戦での大活躍のお陰で後世それこそ下手な大大名超えるほどのファンが生まれたからなぁw
142人間七七四年:2007/10/06(土) 10:03:41 ID:gba/tf61
局地戦で家康が勝ったというが
いくつもあった小牧の役の局地戦のうち
勝ったのは秀吉のほうが多いんじゃ
143人間七七四年:2007/10/06(土) 10:54:31 ID:amSg5Dyl
森勢が前哨戦の羽黒合戦で敗北しているし。
尾張で野戦となれば家康方圧勝。
しかし伊勢は逆だな。織田方の城が幾つも落とされている。
144人間七七四年:2007/10/06(土) 11:18:21 ID:VH4XaEv+
家康には織田軍の指揮権がないからねえ
145人間七七四年:2007/10/06(土) 13:33:39 ID:emcymL2t
家康との講和の条件に、三河を差し出すのを条件にすれば良かったのに
そしたら家康は拒否するから、そのまま家康とだけ戦を続行できたのに
146人間七七四年:2007/10/08(月) 12:23:06 ID:7d0J6WNQ
家康に勝てる自信が秀吉にはなかったから
秀吉は案外、打たれ弱い点がある。家康はその点、打たれ強い。
147人間七七四年:2007/10/08(月) 13:17:59 ID:3DGFOYTj
家康は次男を人質に送ってきたからな
これで戦闘再開したら秀吉側に名分が無くなる
もっとも家康は秀康をかなり邪魔者扱いしてたから、殺されようが痛くもなんとも思わなかったかもしれんが
148人間七七四年:2007/10/09(火) 17:25:09 ID:wkwnDLAj
信康を信長への忠誠の証に殺しちゃったから嫡子だったんだけどね。
149人間七七四年:2007/10/10(水) 12:27:43 ID:ykXptlKY
溺愛してたのは秀忠だけどな。
150人間七七四年:2007/10/10(水) 15:57:38 ID:nbHEmoL9
秀忠は溺愛されてたっけ?
義直、頼宣、頼房は溺愛されたと聞くが…
151人間七七四年:2007/10/10(水) 17:20:08 ID:gVTjfw9b
溺愛かどうかは知らんが秀康が母の身分が低いから信康死後は実質嫡男だよね
152人間七七四年:2007/10/11(木) 08:50:31 ID:W3fMdQYI
秀忠が特別どうこうなんてソースも論拠も無しに
良くも妄想だけで語れるもんだな。

あぁ、家康厨は妄想癖強い香具師多かったなそういえば。
153人間七七四年:2007/10/24(水) 02:12:00 ID:oKk/FIlI
>>148
信康が殺されたのは御家騒動が原因。
信長が指示したとか、俗説も良いところだよ。


信忠と信康ってどっちが優れてるの?
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1162022656/
154人間七七四年:2007/10/24(水) 04:22:05 ID:rqNdHxoV
これ、小牧山城の中にある解説施設の出来が凄いいいんだよなw
155人間七七四年:2007/10/24(水) 04:27:30 ID:oC4yn/49
この時の秀吉方のブレーンは誰?官兵衛?右近?
数を頼んでろくな策を講じてないように思えるんだけど
中入れにしても総論は間違ってなかったと思うんだよな
家康をがっちり包囲して、三河の端から攻略させていけば良かった
156人間七七四年:2007/10/24(水) 10:16:20 ID:h2SyePE9
戦略的には十分有効だよなあ。
というか十二分ぐらい。
秀吉軍が圧倒的に数的に優位だったのに膠着してたのは、家康が陣に篭ってたからで、
ああされて国を取られちゃ立ち枯れで戦わず負けだから家康は出撃せざるをえない。
実際出陣したし。
問題はその絶好の戦機を看過した秀吉の無策ぶり。
あの戦略の無さというか別働隊と本隊の整合性の無さはちょっと異常だな。
あれは池田が秀次かついで抜け駆けしたんじゃねえの?
だから秀吉が秀次に激怒したと。
でもまさかあの時期の秀吉の立場で、他に抑えが利かないなんてばれるとやばいから
そこは表に出せなかったってのが事実じゃないかと。

だと納得できるけど、あれほどの部隊が抜け駆けは不可能だよなw
本当わけわかんね。
157人間七七四年:2007/10/24(水) 22:07:25 ID:MnkY/c+Q
個人的には池田謀殺説を挙げたいw

あのころの秀吉の切れ味とどうも合致しない。
いくら池田との関係が立場的に微妙だとしても。
158人間七七四年:2007/10/24(水) 23:21:35 ID:VmFEAl7b
>>156
作戦構想は悪くないが、計画が杜撰
秀吉は油断していたとしか思えんし、家康の実力も見誤っていた
柴田滅ぼして、調子に乗っていたのだろう
159人間七七四年:2007/10/25(木) 02:03:35 ID:C9v/JD2F
秀吉に油断などありえない
160人間七七四年:2007/10/25(木) 06:59:50 ID:AGx1Y1Ms
>>159
人間である限り油断はある
朝鮮の役をみても秀吉は事が上手くいってる時は
かなり油断というか相手をなめる傾向がある
161人間七七四年:2007/10/25(木) 09:27:29 ID:nLJJX9wj
>>159
池田謀殺説の人?
違うなら、油断でなきゃなんなの?
元々無能って解釈?
162157:2007/10/25(木) 12:56:52 ID:zK6KKw2p
俺は>>159ではないが、池田謀殺説はあくまでも個人的に思う事で、
確固たる論理があるわけじゃない。

まあ真相は、歴戦の池田に鬼武蔵、戦上手な堀秀政という陣営で、
安心してしまった油断もあったとは思う。

けど、当時の秀吉の状況を考慮すると、ここで秀吉本隊を失う
もしくは壊滅に近い状態になり、反秀吉勢力に勢いを与え、
今は一応盟主的立場という不安定な状態から離反者を出して、
羽柴勢力の瓦解に陥るのが一番不味いわけで。

故に家康と睨み合いを続けてたわけだし。

最悪池田隊が壊滅しても秀吉にはそれほど痛手ではないし、
三好秀次は流石に討ち取られると不味いから名人堀を補佐に付けたと。


ただ、油断と言っても朝鮮攻めの頃と脂ののりきった頃とではくらべられないんじゃね?
163人間七七四年:2007/10/25(木) 19:09:07 ID:/G6iM//G
池田謀殺説はいくらなんでも秀吉寄りすぎる意見だ
池田が死んでくれることと、家康が調子に乗ることと どっちのほうが重大かは考えなくてもわかる
徳川は150万石の大大名 そりゃ池田は凄い力を持っていただろうが…
164160:2007/10/25(木) 19:46:40 ID:Kyyirh0v
>>162
レベルの差は置いといて、情報収集が異様に疎かになっているのは共通している
小牧・長久手は家康がそれと隠密機動を得意にしていた事もあろうが
(尤も家康もこの戦勝に油断して上田合戦で痛い目に遭ってるけど)
165人間七七四年:2007/10/25(木) 20:38:07 ID:uNiC7ecp
隠密機動って・・・w
一昔前の合戦規模で何十何百人なんて部隊が移動するならともかく、あの規模の部隊に目の前で動かれて
分からない奴が間抜けなだけだ
その上、無風状態の時に油断して相手に奇襲かけられるだけでも間抜けなのに、あれは自ら自軍割っての
作戦行動起こしてるのだから、敵の動向は注意してしすぎる事はないはずなのにあのザマ
あれはとにかく秀吉の間抜け振りだけが際立つな
166160:2007/10/25(木) 23:07:13 ID:ipzbUCyN
>>165
秀吉が大ボケなのは当然として、家康もそれなりに凄かったとは思うのだが・・・
関ヶ原でも岡山まで西軍に知られずに来てるし
167人間七七四年:2007/10/26(金) 08:13:35 ID:elxhlFIv
>>163
だから池田謀殺説は個人的な希望的観測みたいなもんだと言ってるだろが。
ただ実際、あのまま膠着状態になって終戦して、池田父子に美濃尾張二ヶ国
は与えられたのかどうかと考えるとね。。

>>164
情報収集が疎かだったのはわかるけど

>>165
>、あの規模の部隊に目の前で動かれて分からない奴が間抜けなだけだ

たしかに奇襲部隊にしては規模がでかいけど、いくらなんでもあの進軍経路はおかしすぎるだろ。
岩崎城下通過とか完全に頭沸いてる。

奇襲前提の部隊がおかしな行軍路を通った
 ・行軍路について秀吉との事前打ち合わせも無かったのか?
   →それだけ池田の立場が強かった?
     土地勘のある池田独断?
 
 ・攻城戦を敢行
   →奇襲部隊にあるまじき行為

 ・池田隊、三好隊の部隊間の連絡行動の無さ
   三好隊が家康に急襲されて壊滅した頃、池田隊は岩崎城攻略成功の
   宴会を行っていた
    →本来行うべき、進軍経路の連絡や作戦行動の変更(岩崎攻略)の
      連絡を秀吉にも通達していない?

三好隊壊滅の報告を受けてから、小牧の本陣攻撃という後手に回ってるし、
池田の突飛な行動に流石の秀吉も予測できなかったのでは。

ただ、秀吉は三好隊壊滅の報告を受けて即座に数万の軍を動かしたことから、
池田の報告を待ってすぐに軍を動かせる状態で待機していたとは思われるけど。

秀吉にも落ち度はあったと思うが、池田の動きがおかしすぎる。
そもそも秀吉は家康をそこで釘付けにして長期戦に持ち込めば
家康は引かざるを得ない有利な状況なわけだし。
168人間七七四年:2007/10/26(金) 10:26:14 ID:7O++K9/Y
>>163-166は秀吉のミスばかり強調してるけど。
そもそも恒興の奇襲部隊運用方法自体に問題が有るとは思わんのか。
169人間七七四年:2007/10/26(金) 10:31:43 ID:7O++K9/Y
他スレで過去に書いた俺のレス

池田恒興は当初信雄側に付くと思われてた人物であり
少し前までの織田家家中では秀吉より古参の信長の乳母兄弟でもある。
羽黒での汚名返上への執念もあり、なかなか断りきれなかっただろう。

実際問題として
・別働隊を組織するならば信雄領の伊賀、伊勢への侵攻の方が効果的である。
 (池田恒興敗死後蒲生氏郷が伊賀侵攻→信雄講和で決着)
・奇襲経路として、敵勢力下の尾張を通過するのは至難である。

奇襲部隊の問題(時系列順)
・岡崎への奇襲部隊にしては規模が大きい(秀吉の責?)
・奇襲路を秀吉と相談せず独断で決定
 *村瀬作右ヱ門・森川権右ヱ門らと【近道】を相談し、「長久手を経て、祐福寺、明知街道」【武功夜話】
・家康の奇襲をまったく警戒した形跡がない(秀次、掘、池田・森)
・奇襲部隊としての性質を持つ軍勢が何故か【敵方の岩崎城付近を通過】し、岩崎城城兵に攻撃される
・秀次隊が白山林において家康本隊の急襲を受け早々に壊滅
・本来の目的である岡崎急襲を忘れ岩崎城を攻撃
・秀次隊壊滅の報を受け掘秀政が桧ケ根にて奮戦するも、家康本隊の参戦を警戒し早々に撤退
・岡崎城攻略成功の酒宴中に秀次隊壊滅の報が入る
・長久手で家康本隊と池田父子、森長可の部隊が交戦するも池田父子、森長可は戦死
・白山林の敗戦の報を聞いた秀吉は自ら2万の兵を持って手薄になった家康本陣を攻めかかるも
 僅か500の本多忠勝率いる守備兵に攻めあぐね失敗。
・家康が清洲城に帰還した旨の報告を受け楽田に撤退、後に大坂城に帰還。
・蒲生氏郷隊が伊賀伊勢へ侵攻→信雄講和→家康は世子の於義丸を秀吉の養子に差し出す事で講和。
170人間七七四年:2007/10/26(金) 15:55:28 ID:wOqwDUft
>>169
>池田恒興は当初信雄側に付くと思われてた人物であり

清洲会議の時とは風向きが違うようだね。
この辺り、少し解説してくれる?
ここが不適当なら、清洲会議スレでも良いので。

【三法師】清洲会議を語る【天正十年】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1192629955/
171人間七七四年:2007/10/26(金) 17:03:20 ID:E8xARFhi
>>170
池田が美濃に移ったのは賤ヶ岳の戦い後で
立場としては信雄の与力か家臣に近い
そして池田は輝政を人質として信雄に提出している

小牧の役直前には信雄は人質を返還して池田を信頼しているとアピールし、
更に家康信雄共に伊勢に出兵する予定で北尾張の防備は固めていなかったことから
池田が秀吉につくとは考えていなかったみたい

その結果池田の尾張への侵入を許し犬山を奪われ尾張に橋頭堡を築かれる
172人間七七四年:2007/10/26(金) 17:20:35 ID:ncu0ayR9
>>168
そもそもは秀吉の問題じゃね?
池田が他の残存兵力にやられたなら池田が主体だけど、池田倒したのって、
秀吉が睨み合ってたはずの家康そのものだからさ
どう考えても眼前の相手の動向もつかめない秀吉が問題だな
池田は次点
173人間七七四年:2007/10/26(金) 17:29:27 ID:E8xARFhi
岩崎かどっかの豪族が偽の内応して羽柴軍を誘き出したという説はフロイスだっけ?
174160:2007/10/26(金) 19:57:05 ID:offrAoXm
>>167
>>169
長久手通過と岩崎城攻めは理にかなっている。
長久手は低い丘陵に挟まれた細長い盆地で、三河への隠密迂回路として最適。
岩崎城はその長久手回廊の出口を扼する要衝でこれを落とさずに通過すれば、
後方を遮断される恐れがある。

そもそも、秀吉としては家康が小牧山から出ればそれで良し。
直ぐに本隊を率いて、迂回勢が足止めしているであろう家康を、挟み撃ちにすれば
良いと考えていたのだろう。

詰まる話、小牧山出陣に気が付かなかった、秀吉や白山林で碌な斥候も出さずに
飯食って、一撃で壊滅した秀次が悪いのであって。池田や森はそんなに悪くない。
175人間七七四年:2007/10/26(金) 22:03:35 ID:ncu0ayR9
おお。なんか詳しそうな人だけど句読点がちょっと意味取りづらいほど怪しい
「小牧山出陣に気が付かなかった秀吉や、〜悪いのであって」 これは全くその通りと思う
でも池田の目的は敵軍の頭越しに敵の支配地を蹂躙するって事で、移動こそ隠密を要するとしても
最終目的は強圧的な軍事行動だから、敵に知られずに作戦終えて帰るって不可能でしょ
そうなるとそんな隠密迂回路なんて所の帰路確保のために時間使って敵の注目引いてというのは
どうなのよ、とは思うな
帰り道で邪魔になる物はその時始末すればいいんだし
なんたって秀吉本軍が後詰で待ってるようなものだからね
176160:2007/10/26(金) 22:48:02 ID:akxFV8v3
>>175
復路として帰還路の確保は常識的には必須だと思います
岩崎城もその時点は兎も角、後で増員が来て長久手が封鎖されたら、
孤立してしまいますから
コソ泥も強盗も逃げ道は確保するものですし

秀吉本隊が来てもあまり連携は取れそうも無いですから、総てを自分達で
何とかしなければならなかったのが、一連の行動になったかと
177人間七七四年:2007/10/26(金) 23:08:57 ID:WRvVOAGV
>>174
そもそも池田には岩崎城攻略の意思はなかったはずでしょ。
城兵に背後から襲われて手傷を受けて頭にきて攻撃したわけだし。

最初から岩崎城攻略は理にかなってるなんて説どこの学者が言ってるの?
岩崎城攻略前提の動きを秀吉本隊どころか、三次勢、堀勢もしてないじゃん。
完全に池田の独断でしょうが。
178人間七七四年:2007/10/26(金) 23:10:26 ID:E8xARFhi
秀吉側が気づかなかったのはお互いに陣地築いていたため
相手の動きが判りにくかったってのもあるだろうな
179人間七七四年:2007/10/26(金) 23:16:53 ID:WRvVOAGV
さらにいえば

三次本隊からかなり先行してた先導役の池田勢の動きもおかしい。
秀吉本陣への経路等の伝令も出さずに行ってたわけだし。

というか別働隊を出したときってわざわざ本陣から別働隊の
進む進軍路を偵察する斥候なんか出さないだろ。
池田が自分で経路を選択して、本隊の三次勢と距離をとりすぎて行軍してるわけで。
180人間七七四年:2007/10/26(金) 23:26:54 ID:WRvVOAGV
それに>>176は完全に自分の妄想だよね。

奇襲なのに退路を確保するために敵方の城を攻撃?
岩崎城から伝令なり逃亡者が出て家康本陣に走ったら終わりだし
派手に戦なんかしたら近隣の住民に即ばれるじゃん。
というか住民のいるような経路を奇襲路として選択した時点で
それはすでに奇襲ではないんだけど。

あとで増員がくる?
岡崎急襲が成功した場合にいったいどこから援軍が?
伊勢?伊賀?富山?北条?

家康の国許では、かなり無茶した徴兵を行ってるから
国許にすらほとんど兵力が残ってないし、信雄の所領なんか
すでに秀吉の別働隊がまさに包囲する寸前なんだけどね。
一体どこから兵が沸くんだろうね。

秀吉本隊と連携が取れそうもない?
最初から秀吉になんの伝令も送ってない時点で、池田のほうから
独力で作戦を成功させてやろうっていう功名心にはやったただの暴走でしょ。
羽黒の件もあるし、作戦立案自体無理がある。
181人間七七四年:2007/10/26(金) 23:42:00 ID:4heTfK6z
岡崎を衝こうと逸るんじゃなく普通に端から平らげていけば良かった
と思う
182人間七七四年:2007/10/27(土) 00:53:21 ID:CGLn9PUi
うん。
まあ野戦は数が基本だから、数に勝る豊臣方が家康が出て来ざるをえなくするあれはあり。
でも家康がのこのこ出てきたのに何もしないのは無し。
183人間七七四年:2007/10/27(土) 01:46:56 ID:x4ZjD80C
?
この時点での秀吉は、別に家康を倒す必要はなかったんだが。
家康を壊滅に追い込んでも、秀吉の主力を失ったら西国への
影響が出るから、温存して政治的に屈服させるのがベター。

後の歴史を知ってる俺らからすれば、家康を危険視するのは当然だが
当時は九州統一間近の島津やら家康よりも敵対心剥き出しの勢力が
多々あったわけだし。
だからこそ、秀吉は無駄に兵を動かさなかったし、家康も手が出せなかった。

長期戦になれば蒲生の別働隊が信雄の領地を伺えるし
無茶な徴兵を敢行した家康は国許の不安もあるし、兵糧の問題もあった。

ただ池田が局地戦で敗れたのは秀吉の差配ではなく、ただの池田の暴走じゃん。
184人間七七四年:2007/10/27(土) 08:10:01 ID:ROtzNT5v
>>183
だよねぇ
185160:2007/10/27(土) 08:38:56 ID:h8pPH8D7
>>177
>>180
軍事的常識を妄想といわれても・・・

第一、岩崎城を攻撃した経緯が怪しすぎる。大将の乗馬が銃撃されて落馬って、何?
攻略前提の動きって長久手通る以上、直ぐ側(進軍路から約1km)を通るのに放置して、千か二千
位の増援が小牧から来たら長久手は完全に閉塞されるぞ。
資料見るのもいいが、少しは地図も見なさい。

本隊に求めているのは行軍路の偵察でなく、重要なのは小牧山の偵察なのだが。
後、池田が急いだのはそれこそ長久手の確保を急いだためで、問題なのはそれに遅れた秀次勢。
堀は白山林奇襲時、秀次よりも池田・森に近い位置にいた。

奇襲といっても敵陣地帯を迂回した時点で、第一の目的は達成しているから次は退路の確保は基本。
というより、事態がどのように転ぶ解らない以上は退路の確保は基本中の基本。

後、池田の暴走って何?
秀吉の断りも無く、出陣して好き勝手やって、勝手に死んだから総ての責は池田にあるとでも言う気?

>>183
そりゃ、長久手でやられた後の思考であって、その前は一蹴するといった感じなのだが
186人間七七四年:2007/10/27(土) 08:51:26 ID:808KmIjE
軍事的常識とやらでも裏付けがなきゃ妄想ですよ
187160:2007/10/27(土) 09:12:15 ID:h8pPH8D7
>>186
俺は家譜や軍記よりも、地図と常識を重視する。
188人間七七四年:2007/10/27(土) 09:56:02 ID:javRT25g
お前問鉄砲があったっていう妄想厨だろ
189人間七七四年:2007/10/27(土) 14:47:20 ID:L+tRV1dA
>>183
倒す必要があるとか無いとかって、何を根拠に言ってるの?
戦力失いたくないから政治的に屈服させられるならそれがいいなんて言い出したらほぼ全部の相手がそうだよ。
矛交えてる相手が目の前にいて戦機到来したのに黙ってるのが良策って話?
実際それで戦力温存したといいたいのか知らんが、史実は九州征伐でいわゆる外様に普通に先鋒やらせてるし、
権力が強いってそういう事だ。
相手は家康だけじゃなくて前主の子供相手もいる、むしろ家康はこれに助太刀する形。
秀吉に多数ついてきたのは流れであって、ここで勝てば一気に主導権取れるところだけど、逆に下手踏めば
一気に勢い失う、そんな状況なのに。
全く意味不。
190人間七七四年:2007/10/27(土) 14:56:20 ID:javRT25g
優先順位があっただけ
寄り合い所帯で、暫定的にリーダーに収まってるだけの状態から
自身の兵を失う訳には行かない
191人間七七四年:2007/10/27(土) 16:07:20 ID:808KmIjE
>>187
君は作家になんなさい
192160:2007/10/27(土) 16:32:08 ID:kL+w713C
>>191
なる程、作家の書いた作品(家譜、軍記)なら信じるということですな。
193人間七七四年:2007/10/27(土) 17:58:28 ID:javRT25g
痛い子がいますね
194人間七七四年:2007/10/27(土) 20:42:18 ID:l3+GkNV5
まあ地図見ればわかるけど岩崎城を迂回して三河へ進むルートはいくつかあるからなー
岩崎城が北条の山中城みたいに数少ない街道を扼しているといなら落とす必要はあるんだろうけどさ
195人間七七四年:2007/10/27(土) 20:52:44 ID:IRQHmvkr
隠密行動といいながら攻城戦やるっていう根本的な矛盾に気付かず、常識がなんたら言える楽しい人だから僕は好きだ
196人間七七四年:2007/10/28(日) 00:36:51 ID:Yvv5TLuy
なぁ、家康好きな香具師ってしっかりした人ももちろん多いけど
痛々しい人も多いよね?
197人間七七四年:2007/10/28(日) 01:20:10 ID:RTBzykKh
>>196
どちらかと言うと後者が多いようなw
198人間七七四年:2007/10/28(日) 01:30:34 ID:f0OmwUzD
山岡荘八読んだんで家康けっこう好きなんだけど
叩かれる事多い
2chはマニア多いからまだいいけど
よく知らないボンクラと雑談してると家康ボロカス言う
199人間七七四年:2007/10/28(日) 01:43:45 ID:WcIn+xZt
だって尻尾振って従ってた主人が死んだら生前の誓いを反故にしてその遺児殺して政権奪った奴だぜ?
普通嫌だよw
200人間七七四年:2007/10/28(日) 01:52:54 ID:f0OmwUzD
>199
大抵の奴がそれを言うのよ
201160:2007/10/28(日) 08:28:56 ID:Ffl7cmGA
>>194
例えば?南だと徳川の勢力圏内、北だと瀬戸から挙母という大迂回コース

>>195
長久手の隘路を抜ければ隠密行動を取る意味は無い
長久手を抜けた時点で敵の後方に廻ると言う目的は達成できる
202人間七七四年:2007/10/28(日) 10:03:56 ID:A1HByBmY
>>200
まあ歴史を知らない馬鹿なんだなと思うだけだな
203人間七七四年:2007/10/28(日) 19:14:45 ID:SJGpDDKK
と、馬鹿がいっぱしの気になって言っています
204人間七七四年:2007/10/29(月) 01:34:00 ID:7soTKDqo
>>201
だから隠密前提な空っぽ同然の岡崎への奇襲作戦なのに
なんで家康の後方に廻り込むのが作戦だと前提を変えてるわけ?


家康厨ってさ、すぐ前提を変えるよな

秀吉厨:家康は世継ぎたる嫡子の秀康を人質に出した
家康厨:家康は秀忠を溺愛してたから事実上秀忠が後継者だったんだよwwww

とか上のほうでもやってるし、そもそも林羅山の「秀吉は将軍義昭に養子になるのを断られた」
っていう妄想を真実だと思い込んでる馬鹿も多いし。

とりあえず160は今後コテつけてくれ。
君と議論する気にはならないから。
205160:2007/10/29(月) 07:20:33 ID:6SlzRrk7
>>204
岡崎奇襲を示唆した史料が家譜や軍記にしか見られないから。
フロイスの日本史にも尾張と三河の分断とあります。
また秀吉から長秀への書状(四月八日)にも小幡・守山を放火すつもりと書くなど
この地域を戦闘の焦点と考えている節があります。

実際、岡崎奇襲は軍事的に無理が多く、なにより兵站が持ちません。

ちなみに、秀吉を作戦計画者からはずしたのは甫庵太閤記からと考えられています。
秀吉が数的優位の自軍を分割して、相手を追いこむのは秀吉の基本戦術です。
206人間七七四年:2007/10/29(月) 14:38:54 ID:lLCqCszk
岡崎獲れば食べ物なんて周りからいくらでも収奪できるだろ。
その状況で兵站の心配しなきゃいけないのはむしろ家康の方じゃねえの。
207人間七七四年:2007/10/29(月) 15:38:13 ID:xt9frxXO
岩崎城攻略が秀吉と池田の目的だった。
なんて珍説を唱えてる学者なんて皆無なんですけど。
208160:2007/10/29(月) 16:12:13 ID:GeDSR/ZP
>>206
失礼ですが、あなたは牟田口閣下ですか?
>>207
作戦目的は徳川軍陣地帯の迂回です。
失礼ながら、学者の中でこの戦いについて戦術的観点から研究したという話は聞きません。
伊勢の戦いや戦後の外交折衝は良く研究されていますが。
209人間七七四年:2007/10/29(月) 16:59:08 ID:mrfsp0FE
160=基地外
210人間七七四年:2007/10/29(月) 17:23:01 ID:xt9frxXO
>>208
戦術的に研究してる学者がいない?
ホラ吹きもいい加減にしろよ。
岩崎城攻略および進軍路を池田の独断による失策で、
またその局地戦が今後の戦略に影響したと主張する学者がいるのに。

お前問鉄砲の時もそうだけど、
いかにも学会で否定されていない
というようにミスリードを誘うような言い回しはやめろよ。
211160:2007/10/29(月) 17:57:34 ID:GeDSR/ZP
>>210
それは知らなかったとはいえ、失礼しました。
宜しければ、その学者のお名前、論説、論拠を教えていただけませんか?
212人間七七四年:2007/10/29(月) 22:56:02 ID:gLSWpvq1
>>160
の説を唱えてる学者は誰なんだよ
213人間七七四年:2007/10/29(月) 23:07:11 ID:xt9frxXO
>>211
お前の好きな浅尾、今谷。征夷大将軍就任関連での学説だな。
無論東夷説を唱えていない学者なども、池田の敗北を秀吉の責任なんて言ってる学者は皆無。

160のいう、背後迂回が目的で岩崎城攻略は予定通りだという学者は誰?
214160:2007/10/29(月) 23:13:46 ID:B+L0LwbC
>>212
>>213
俺の考え、これは一貫として根拠も述べてる(受け取り方は人それぞれ)。
秀吉が迂回作戦に積極的なのは織豊研究会の見解でもあるようだけど。

後、別に好きではないので
で、あなたは信じてない説のそこだけ信じてるので?
215人間七七四年:2007/10/29(月) 23:28:42 ID:xt9frxXO
嫌いな学者の説のある一部分だけ信じてるんじゃなくて

小牧長久手の局地戦の結果将軍就任に影響した
と言い張る今谷ら学者も、将軍就任とは関係が無いと言っている学者も、
岩崎城攻略前提の作戦だという説を掲げて要るのは皆無だと言うこと。
216人間七七四年:2007/10/29(月) 23:33:57 ID:gLSWpvq1
>>160=214
おまえ
家康は本当に野戦の達人?2 スレで、家康が小早川に鉄砲を射掛けて
寝返りを促した問鉄砲について肯定して過去にこんなレスしてたろ

http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1176337389/429

-------------------------------
429 名前:人間七七四年 投稿日:2007/09/24(月) 04:22:55 ID:k3AHw7Hl
>>427
つまり一回もミスを犯さないのが野戦の達人の必要条件ということですな

武田征伐の様に戦わずして崩壊ではないでしょ

東軍後方を回り込んで松尾山に近づきとあるので、山を挟んで大谷隊の
反対側から打ち込んだ様に見ているのですが・・・
-------------------------------


個人の妄想で、さも学会では定説であるかのような脳内ソースを張って
理論展開しまくって言い負かされて破綻していく様は同じだな。
217人間七七四年:2007/10/30(火) 00:23:51 ID:q8QUauUd
Q:ソースは?
A:俺の考え

はい終了
218人間七七四年:2007/10/30(火) 00:32:19 ID:tmVgmS7l
馬鹿だなあこいつ
219160:2007/10/30(火) 06:52:47 ID:2yZo6ZaP
>>215
宜しければ、その様に判断した彼らの論拠を教えていただけませんでしょうか?
あなたの話を見る限る相当な考察と資料をもって、通説どおりの結論に皆さん
達しているようなので
220人間七七四年:2007/10/30(火) 08:51:29 ID:XDYix+GH
>>219
215の
>岩崎城攻略および進軍路を池田の独断による失策で、
>またその局地戦が今後の戦略に影響したと主張する学者がいるのに。
これに関しては215が挙げるべきだろうが
それ以外に関しては160が挙げるべきじゃないの?
他は悪魔の証明になると思う

それとも聞いているのは
>小牧長久手の局地戦の結果将軍就任に影響した
>と言い張る今谷ら学者も、将軍就任とは関係が無いと言っている学者
この部分?
221人間七七四年:2007/10/30(火) 08:56:25 ID:XDYix+GH
あと池田らによる軍事行動は三河侵攻ではなく、小牧の累壁を突破するための
小幡守山付近での陽動と言っているのは
学者じゃないが、河合氏だと思う。
222人間七七四年:2007/10/30(火) 19:35:59 ID:gfFo9Ho+
本人が脳内ソースって白状した以上、これ以上の議論は無駄
223160:2007/10/30(火) 22:14:48 ID:lJeQj6S9
はい、私の脳内論とソース

・岩崎城攻めは必要なもの
 地図を見ると長久手の隘路の出口から直ぐ側にある
 ここを放置するのは戦術常識上ありえない

・目的地は岡崎で無く、小牧陣地帯の迂回
 岡崎城までは遠すぎるので無理があり、むしろそれに対応して出陣した
 家康隊の補足撃滅が主眼と思われる
 四月八日付け秀吉発、丹羽長秀宛書状にも小幡・守山を放火させる
 予定とか、三河表へ向けて発向させるつもりとある
 ここでは九鬼水軍も連動させるつもりとある
 ちなみに三河とあるが岡崎とは一行も書いていない(三河は長久手の直ぐ側)

・池田恒興のごり押しによって決定された作戦
 上記の書状から見て、秀吉が主体的に行動したと思われる
 また、同日・翌日に柏井(竜泉寺北西)の一柳・矢部・山内・生駒に書状を送り、
 在番や集結、砦の強化を指示している

後、各書(通史本など)を見ると恒興の献策という説がかなり減っている。あっても
「〜思われる」とはっきりしない。省略でないのは確か(秀吉の恒興の母へ子の死を
痛む書状を載せて献策を書かない本もある)
恐らく、あまり考察しないで「日本戦史」の記事をそのまま載せたと思われる
 
224人間七七四年:2007/10/31(水) 02:00:05 ID:0As4bWtU
タイムマシンが発明されるまで黙っててください
225160:2007/10/31(水) 07:43:34 ID:vWlK5wo7
>>223
修正

補足撃滅するのは秀吉本隊が主で、迂回隊は従
後、秀吉は数的優位を背景にした主隊・支隊連携戦法を基本とした
226人間七七四年:2007/10/31(水) 12:35:22 ID:ZNF1KHz1
秀吉は迂回戦術を得意とするから小牧でもそうに違いない

って馬鹿ですか?

んじゃ島津は釣り野伏ばかりなのかよ。

大体あの場面で危険を犯して家康を釣りだす必要なんてないだろ。
227人間七七四年:2007/10/31(水) 13:34:25 ID:W826WzwH
小牧陣地帯の迂回ってのはそれなりに説得力あると思うぞ
ただ問題は別働隊のバラバラな動きであって
迂回が主目的なら各城を攻め落とす必要はなかったわけで
別働隊の動きからは何がしたかったのかいまいち分かりにくい
228160:2007/10/31(水) 22:33:04 ID:S0hmU9R1
>>226
迂回じゃなくて、二手に分ける戦法です

>>227
岩崎城の他に何処か陥しましたっけ?
河合氏とは細部はちょっと、私異なるので

まぁ、尾三国境付近の後方攪乱に徹した可能性もありますが
229人間七七四年:2007/11/12(月) 01:57:10 ID:p/glYEjN
信雄は伊賀と伊勢半国を没収され、娘を人質として秀吉に差し出してるあたり
講和ではなく事実上の降伏・臣従でしょうな

秀吉と織田家の主従関係が逆転したターニングポイントといっても良い
230人間七七四年:2007/11/12(月) 04:46:30 ID:noHULgcH
信雄に対してそれくらいするのなら
家康との講和も三河没収ぐらいすれば良かったのにね
231人間七七四年:2007/11/12(月) 06:19:37 ID:TSyhO2mb
>>230
伊賀、伊勢は占領され、伊勢湾封鎖までされたが
徳川領は占領されてない

信雄は蒲生隊に連戦連敗したが
家康は長久手の戦いで池田恒興、森長可を討ち取り、蟹江の戦いでは滝川一益を破り
戦えば快勝してるわけで
232人間七七四年:2007/11/12(月) 12:03:00 ID:TfmFH1bg
蒲生と滝川について詳しく
233人間七七四年:2007/11/12(月) 14:02:13 ID:q+QNlAB7
>>232
蒲生は伊勢方面で織田側の城を多数攻め落とした
滝川は蟹江城を攻撃したが逆に惨敗してその責任として出家させられた
234人間七七四年:2007/11/12(月) 14:16:35 ID:ecoWii+6
>>231
それでも一緒になって戦った以上は、家康の領土安泰というのがおかしい
それに口実などいくらでもつけられる
秀吉にもう少し悪知恵があればなあ
235人間七七四年:2007/11/12(月) 17:11:00 ID:49kWXjyr
>>234
悪知恵云々というよりは単に家康にびびっていたのでは
236人間七七四年:2007/11/12(月) 19:13:58 ID:bS1iaMmG
なんで家康なんかにびびらなきゃいけないんだよw
あの頃の家康ってのは頼み甲斐ある奴って感じだったから味方につけて豊臣の柱石にしたかったんだろうな
自前の配下が乏しかったから当然というか仕方ないというか、まあ理解はできる
実際、生え抜きで親族でもあった福島でさえ裏切り者になる訳で、三成と浮田ぐらいしか人物がいなかったのが現実だからな
237人間七七四年:2007/11/12(月) 19:49:01 ID:OFxv62+s
>>236
いや、書状類見ると「討ち果たす」とか何度も書いてるし、長久手以後も三河へ攻めようと
計画を練っている(結局、止めたけど)
山崎以後、やる事なす事みんな上手くいったところに、一撃喰らってトラウマになったんでしょ
238人間七七四年:2007/11/12(月) 20:18:17 ID:5HtMC8F0
秀吉にしてみたら
「池田処分できたし、戦略的には勝ったし上出来」
と思っていたのだが世間の評価は
「秀吉ってエラソーにしてるけど家康にフルボッコされたらしいぜwwww」
だったわけだからな そりゃトラウマにもなるわ

噂は怖い
239人間七七四年:2007/11/13(火) 12:10:49 ID:sNzbFCiv
池田謀殺説はネタですよね?
240人間七七四年:2007/11/13(火) 12:45:41 ID:DH2V8Ozw
まともにぶつかって、秀吉の寄せ集め軍勢が滅私奉公三河武士軍団に
かなうとは思えない。
241人間七七四年:2007/11/13(火) 13:28:49 ID:H6T3xP7U
武田軍に相手にされず鎧袖一触に潰走させられた三河豚団がどうかしたのか?
242人間七七四年:2007/11/13(火) 15:29:51 ID:dW+1Za90
まああの時は兵力の差が2倍以上に開いていた上に
両軍平原での激突だからね
これでは兵力の差がモロに出るから、勇猛果敢な三河軍団ともいえども
如何ともし難いよ
243人間七七四年:2007/11/13(火) 18:46:48 ID:im+mOMm6
秀吉は徳川だけ相手する暇なかったし、この時点では完全な主従関係とは言えない
勝ち馬乗りの寄せ集め軍だったし、お互い空気読んでの講和だな。
脅しと同義の大政所人質供出によって、徳川へプレッシャーを掛け、
家康も最大限自分を高く売る事に成功したのだから、お互い損はない。
豊臣政権が崩壊したのはやはり統一後の様々な問題を処理できなかった事だと思う。
結局、北条ドンマイって事よ
244人間七七四年:2007/11/13(火) 18:58:48 ID:9yz/P3b7
武田信玄とやった時は家康若造だったからな、あの時、信玄本気なら
確実に家康の首はなかったろうな
あの戦で家康はかなり勉強したらしい。家康の戦は武田風だもんな

ところで、本田忠勝が秀吉を追走してわずかな兵で川をはさんでタンカきった話は
本当なの?
245人間七七四年:2007/11/13(火) 19:18:30 ID:wUVxDTaz
本田忠勝って誰だ?
本多忠勝なら知ってるが…
246人間七七四年:2007/11/13(火) 19:22:52 ID:L9ckS6kB
家康が武田にフルボッコにされた原因を、若さとか兵力とか
地形だとか抜かしてるキチガイは上田合戦で、当時の家康よりも
悪条件の重なった真田にフルボッコにされた事を知らないのかと。
247人間七七四年:2007/11/13(火) 20:04:00 ID:TaayhuHd
>>246
上杉の援兵含めると戦力的にはトントン
そういう事を考えずに出兵したのは、徳川も長久手の戦捷でうかれてたんだろうな
その場その場の心理状態で強さは変わる良い実例
248人間七七四年:2007/11/13(火) 20:25:32 ID:HthzZ4dB
>上杉の援兵含めると戦力的にはトントン
>上杉の援兵含めると戦力的にはトントン
249人間七七四年:2007/11/13(火) 22:00:25 ID:Q2hsd3x6
上杉の援兵含めると戦力的にはトントン
250人間七七四年:2007/11/13(火) 22:06:54 ID:Q2hsd3x6
>>242
>勇猛果敢な三河軍団

>>244
>武田信玄とやった時は家康若造だったからな
>あの戦で家康はかなり勉強したらしい。家康の戦は武田風だもんな

>ところで、本田忠勝が秀吉を追走してわずかな兵で川をはさんでタンカきった話は
>本当なの?



なるほど、家康厨の学の無さを露呈してますな。
251人間七七四年:2007/11/13(火) 22:15:06 ID:cZHYYYnC
その訳の解らんスレの方がそう感じる
252人間七七四年:2007/11/13(火) 22:41:54 ID:Q2hsd3x6
つまり>>251
>>242>>244のレスは正しい事を言っていて間違ってないとおっしゃるのですね。
253人間七七四年:2007/11/13(火) 22:48:05 ID:cZHYYYnC
何も理由も言わずに、ただ罵倒するだけの>>250より百万倍マシ
254人間七七四年:2007/11/13(火) 22:50:07 ID:Q2hsd3x6
理由挙げてるじゃんw
255人間七七四年:2007/11/13(火) 22:50:50 ID:Q2hsd3x6
理由も挙げずにただの罵倒レスしてるID:cZHYYYnCの方が頭悪いと思うが
256人間七七四年:2007/11/13(火) 23:02:34 ID:cZHYYYnC
>>254
えっ!どこどこ
ひょっとして、馬鹿にしか見えないレス!?
257人間七七四年:2007/11/13(火) 23:02:39 ID:L9ckS6kB
屈強な三河兵とか、三方ヶ原の敗戦で勉強して戦い方が武田風とか、
本多のタンカが史実かどうかもわからんなんて、相変わらず家康厨のレベルは低いな。

妄想ソース垂れ流ししてるキチガイも多いしな。
258人間七七四年:2007/11/13(火) 23:03:02 ID:Q2hsd3x6
>>256
>>242
>勇猛果敢な三河軍団

>>244
>武田信玄とやった時は家康若造だったからな
>あの戦で家康はかなり勉強したらしい。家康の戦は武田風だもんな

>ところで、本田忠勝が秀吉を追走してわずかな兵で川をはさんでタンカきった話は
>本当なの?
259人間七七四年:2007/11/13(火) 23:03:55 ID:cZHYYYnC
>>257
大日本史料読んでから言え
260人間七七四年:2007/11/13(火) 23:05:32 ID:L9ckS6kB
>>256は屈強な三河兵とか、家康は若いから武田にフルボッコにされたって説に
全く疑問が無いからツッコミとは思えないんだろ。
261人間七七四年:2007/11/13(火) 23:07:52 ID:Q2hsd3x6
じゃあ屈強な三河兵を証明する有名な戦いと
本多忠勝がタンカ切ったってソースを挙げてくれ


勉強したらしいとか低レベルなレスは勘弁してやるよ
262人間七七四年:2007/11/13(火) 23:09:38 ID:cZHYYYnC
>>258
ああなるほど、「勇猛果敢な三河軍団」とか「家康の戦は武田風」とか「本田忠勝が〜」が
気に食わんのね

それ位は自分で書いてくださいよ、仮にも文句言うのなら
まぁ、その点はハキとした史料がないから個人の主観に左右されますな
最後の本多忠勝の追走はあったぽいけど
263人間七七四年:2007/11/13(火) 23:11:30 ID:Q2hsd3x6
×家康の戦は武田風
○あの戦で家康はかなり勉強したらしい。家康の戦は武田風だもんな
264人間七七四年:2007/11/13(火) 23:15:37 ID:Q2hsd3x6
ID:cZHYYYnCは一言坂の戦いで、忠勝の奮闘振りに感激した武田方の将が
わざわざ逃がしたとか、ソースが無いからハッキリしないから正しいかも

とか思ってるの?

逸話の類(特に徳川史観)を全部ソースが無いから史実かも
なんて言い出したら徳川最強伝説始まるじゃん。

秀吉が足利義昭に養子縁組を断られたのも史実だとか思ってるんだろうか。
265人間七七四年:2007/11/13(火) 23:24:15 ID:i5ceplMD
史実って言うのは史料から確認できる事実
たとえ事実だったかもしれなくても信頼できる史料に現れなければ史実とは言わん

266人間七七四年:2007/11/13(火) 23:44:43 ID:Q2hsd3x6
し‐じつ【史実】


歴史上の事実。「―に忠実な小説」
267人間七七四年:2007/11/14(水) 03:25:31 ID:aYXLp5GS
すっげぇ!徳川厨って初めて見たわwww
屈強な三河兵とかゲームのやりすぎだろw
268人間七七四年:2007/11/14(水) 04:43:36 ID:Hskxu79+
家康も秀吉も部下に恵まれてたのは確実じゃね?
秀吉が死んで内部分裂した時点で豊臣軍は降伏してれば、なにわの夢もある意味実現できたかもな
269人間七七四年:2007/11/14(水) 04:53:22 ID:TCG0av4C
この時の家康の領土は旧武田領と重なるわけだが、
構図はまさに武田勝頼が陥っていた閉塞状況とそっくり。
西はもちろん、北にも東にもこれ以上の進出余地は無く、
かといって何もしないでは秀吉が(勝頼の場合は信長が)勢力を拡大して相対的にジリ貧、
家康はジリ貧になる前に何かアクションを起こさないといけない局面。
あちこちに手を回したとは言え、
結局は勝頼が負けたように家康もいずれ負けるべくして負けただろう。
270人間七七四年:2007/11/14(水) 07:03:20 ID:ETWxZvD6
本多忠勝の追走は「三河物語」「安藤直次覚書」に書いてあるぞ
後、関係ない一言坂にまで話を広げるんじゃない

更に言うと三河兵最強とか思っていないから
俺が言ってるのは反論するなら、その理由を書けと言う事

「〜だ」→「違うよ馬鹿」これでは話にもならん
「〜だ」→「〜だから、違うよ馬鹿」これなら何を言いたいかが良く解る

あなたの脳内では説明できてるんだろうが、俺は海豚やエスパーでは
ないから解らん
271人間七七四年:2007/11/14(水) 09:16:44 ID:QrDKufvH
追走があった事と啖呵切った事が事実かどうかなんてのはまた別の話だろjk

最強に突っ込んでるんじゃなく屈強な三河兵に突っ込まれてるのに
なんで勝手に

啖呵切った→追走はあったキリ(ry
屈強な三河兵→最強なんてどこにも書いてないキリ(ry

と勝手に改変するのか。
272人間七七四年:2007/11/14(水) 10:01:46 ID:/YH3+Yh1
>>271
あくまで比喩表現と判断したから
まさか字面通りに受けるには余りにも講談臭い
273人間七七四年:2007/11/14(水) 10:21:58 ID:jgVvk4uH
講談って単語が気になるな

まさかお前問鉄砲があったって脳内ソース垂れ流した電波君だろ。
274人間七七四年:2007/11/14(水) 10:23:19 ID:jgVvk4uH
まさか
じゃなくて
もしや
の間違い
275人間七七四年:2007/11/14(水) 11:53:49 ID:/YH3+Yh1
>>273
徳川家関連の出典は「天元実記」とのこと。
スレ違いだけど、一応。
276人間七七四年:2007/11/14(水) 17:10:08 ID:sLOPC/DB
三河武士最強説。
最後は天下を奪ったのだから間違いないだろう。
277人間七七四年:2007/11/14(水) 17:14:41 ID:Q4rwvD/+
今でも三河は日本の中心だしな
278人間七七四年:2007/11/14(水) 20:02:46 ID:p4ey4Wfj
確かにこのときの本多忠勝は水際立っている。
秀吉本隊に追従することの作戦的有効性がわかる武将はいくらもいるだろうが、
それを二桁少ない兵力で実行する手腕と度胸はたいしたものだ。
(「長久手合戦覚書」は家康の命令説を採っているが、いくらなでんでもそれはないだろう。)
279人間七七四年:2007/11/14(水) 21:57:32 ID:H6ZQprjU
三傑や酒井・石川なんかは自分で考えて行動できる連中だからな
それに少し劣るかなというか、家康の命令絶対が前提なのは
鳥居、大久保、平岩あたり

人材でピーピー言ってた秀吉がそら羨むわ
280人間七七四年:2007/11/15(木) 01:13:37 ID:SgQNr+bU
小牧残留組の方が微妙で困難な任務だからなあ。
主力が小牧にいるように見せかけるためには、
秀吉勢の挑発には乗らなきゃならないが、
下手に損害だせば後がないし、
本格的な戦いにして、秀吉勢が本気で小牧を攻めるようになってもまずい。
家康が、石川・酒井・本多を残す気持ちはよくわかる。
281人間七七四年:2007/11/16(金) 21:17:09 ID:kJWCBJrL
これって謙信の小田原攻めに似てるね
秀吉は外交で勝てたが
282人間七七四年:2007/11/17(土) 12:45:52 ID:HXFmHuia
この戦って学校で習う日本史に必ず出て来るわりにはあまり深く掘り下げて教えないよね?
だから名前は知ってても内容はわからない、知ってたとしても手打ちになったくらいしか言えない。
後の徳川政権樹立の大きな足掛かりのもとになったのに。。。
283人間七七四年:2007/11/17(土) 15:24:36 ID:NXPw2nMq
こんなもんいちいち掘り下げるって、学校の授業時間考えて物言ってるのか?
バカはゆとりとか関係ないってよく分かるよな
284人間七七四年:2007/11/17(土) 15:32:48 ID:AsBc2+RQ
いやそうでもないよ
俺の高校の時はたった一行程度で済む架空の従軍慰安婦について
一時間たっぷりと時間をかけて、日本軍がいかに残虐だったかを力説してたよ
285人間七七四年:2007/11/17(土) 19:16:12 ID:HZ+RdpCT
>>282
いや、引き分けで終わったことを知り、その上で秀吉が勝ち続けたことを知れば、家康がなぜあれ程までに豊臣政権下で、別格的な地位を有せたかは、少し頭を回せば解るかと。
286人間七七四年:2007/11/21(水) 16:18:43 ID:RxgB7Iia
引き分けなのか?
総大将の信雄は降伏してるんだがな
287人間七七四年:2007/11/21(水) 16:21:35 ID:wtsv1oNe
家康的には大勝利だろう
家康が天下取れた要員の1つだ
288人間七七四年:2007/11/25(日) 15:18:44 ID:eLD85HsV
秀吉的にも大勝利
長曽我部の大坂侵攻を防げたし、
島津が九州を統一するまえに降伏させられたし、
美濃尾張の約束も反故に出来た。
289人間七七四年:2007/11/25(日) 18:52:43 ID:BWHp1pEv
家康から見ての長久手の最大の問題は「優秀な人材」の扱いにくさかもしれない。

二番鑓は自分を一番鑓と認めない家康には人を見る眼がないと出奔。
(その後蒲生氏郷に高禄で抱えられる)
一番鑓はいつまで経っても録が増えない(領地は増えてないからなあ)ので拗ねてたところ、
羽柴秀次(!)から高禄で召し抱えたいとの申し出があり、
「武功者に厚録を与えないのは暗将、武功を賞するのが明将」といいきって立退き。
面子をつぶされた家康は討ち手を送るが、さすが一番鑓、討ち手を斬った上で自害。
290人間七七四年:2007/11/25(日) 21:50:30 ID:n5E8S02X
家康ってそもそもしみったれだし。
その一族もそう。
こいつらが幕府開いたおかげで日本が遅れる事遅れる事。
もうちょっと頑張って倒しておけば己の栄華だけじゃなくて日本のためにもなったのに
秀吉もヘタレな事だ。
291人間七七四年:2007/11/25(日) 22:44:10 ID:BWHp1pEv
成り上がり(立志伝中でも可)の経営者がバブル景気に浮かれ、
海外進出に失敗して店を傾けるのと、
どっちがマシかは微妙なところだ。
292人間七七四年:2007/11/25(日) 22:57:27 ID:BWHp1pEv
つまり、恩賞が与えられずに不満が高まるという点では、
朝鮮役の後の豊臣政権も同じ。

なお、家康がしっみたれであることには異議なし。
293人間七七四年:2007/11/29(木) 17:02:47 ID:I+ldZnmN
あれだけのケチに付き合った、三河武士は何を考えて彼に従い続けたのか?
こいつら見ると、江戸時代の武士観がそのままあてはまる(ただし、田舎臭さ満載)から混乱する。
294人間七七四年:2007/12/21(金) 10:46:28 ID:8+Hml7wz BE:1707322188-2BP(177)
三河武士の呼称は、間違い。

当時は、三河衆、または、三河ノ衆。

武士道とかの幕末になって教育で、三河武士とか言い始めた。
295人間七七四年:2007/12/25(火) 10:29:04 ID:9cchkVGZ
そうだね

でも足軽が平気で信長様とか秀吉様とか言ってる小説や漫画もあるしどうでもいいっちゃどうでもいい。
296人間七七四年:2007/12/25(火) 12:33:43 ID:bLIE5pSQ
北条氏政が援軍を出せばいいのにアホだな
小牧とは逆方向の下野国へ攻めてるw

家康は、佐々のさらさら超えを無視して越中に援軍を出さなかった
もう秀吉と戦うつもりはなかったんだろう。

297人間七七四年:2007/12/26(水) 08:07:07 ID:/MAS/QaP
出しているよ。援軍は。確か、浜松城に二千はがし。少ないのは、恐らく佐竹や上杉を警戒したんだろうな。
298人間七七四年:2008/02/02(土) 10:28:50 ID:cd2458nE
>>282
英雄同士のプライドのぶつかり合いだとか、わけの分からん描写が多いな。
戦国大名といえどもっと打算的。
柴田勝家を破った時点で、秀吉の信長の後継者としての地位はほぼ確立して
いる。家康も認めてる(実力は勝家>>>>家康。勝家が秀吉にあっさり
負けてしまったので低く見られているが・・・)。
小牧の戦は、単に、信長死後のドサクサで家康が手にした甲斐や信濃の
領有を、秀吉が認めなかったために起こったこと。
最終的に秀吉が譲歩して甲斐信濃領有を承認したために、家康が
上洛に応じただけ。
母親や妹を人質に送ったことばかりがクローズアップされて、
秀吉が得意の人たらし戦術で家康を丸め込んだとかいわれてるが
そうではない。




299人間七七四年:2008/02/03(日) 21:39:37 ID:2a0Rqu/7
>>298
いや、重要な戦いだぞ。
それまでむかう所、敵無し状態だった秀吉の自信を叩き落し、秀吉の
弱みという立場に家康がなった、その後の関係を形成した戦
後、勝家が家康よりも凄いという根拠は何?
300ケソサソ ◆IGEMrmvKLI :2008/02/03(日) 21:47:54 ID:upwx60yL

 / ̄ヽ___/ ̄ヽ
 レ⌒/    \/⌒i
 \/      ヽノ
  i ● r―、●|
  ヽ  (_Å_) / ゲトー
  /\____/
  i / ̄ ̄ノ 人
  ヒ_)300(_ノ ノ)
   ヽ_)ー(_厂
301人間七七四年:2008/02/05(火) 12:23:59 ID:AHCjsbru
三河武士軍団が本気の死に物狂いで向かってくる前に手が打てて良かったな、秀吉。
もしそうなってたら勝てたとしてもズタボロになって、
毛利あたりに攻められて終わりだったのに・・・w
302人間七七四年:2008/02/05(火) 12:26:23 ID:eb5FIaZK
三河武士軍団(笑)
毛利あたりに攻められて(笑)
303人間七七四年:2008/02/05(火) 17:57:38 ID:AHCjsbru
秀吉はハッタリを効かす戦術だからなw
304人間七七四年:2008/02/05(火) 20:06:18 ID:pjrBnggY
>>303
ハッタリバブルが弾けて滅んだけどね
305人間七七四年:2008/02/05(火) 22:38:25 ID:r4lEMN+q
>>279
康高もいれといてやれよ
306人間七七四年:2008/02/06(水) 19:45:29 ID:xh3YlhiE
>>305
文句はろくに記録を残さない、榊原家に言ってくれ
307人間七七四年:2008/02/06(水) 21:30:41 ID:b6TUfAPC
世に天下分け目は関ヶ原というが小牧長久手も案外天下分け目。
天下収まって秀吉と家康は小牧長久手の合戦の懐かしい話などしなかったのだろうか。
308人間七七四年:2008/02/06(水) 21:42:42 ID:KrUkifIk
秀吉は敵に対して甘かったからな。
負けた大将にすら情けをかけ、領土を残してやってる。
それが災いしたんだろ。
家康も、仮に負けても最悪三河一国は残してもらえると踏んで、
ばくちに出れた。
秀吉が信長のように暴虐非道で、負ければ一族郎党皆殺しするような
武将だったら、家康も三河駿河遠江安堵の申し入れの段階で
秀吉に下っただろう
309豊國大明神:2008/02/06(水) 22:30:08 ID:mlDD4wzr
太閤殿下こそ皇國日本の絶対神。糞もらしの家康は国賊
310人間七七四年:2008/02/06(水) 23:04:11 ID:Wddi/GnA
まあ結局大局的に見たら秀吉の快勝だろ。
外交戦に切り替えたダイナミックさも当時の秀吉のキレだなあ。
あの戦いの後の趨勢が秀吉の望んだ方に動いたのだから、秀吉の勝ちでしょう。
ただ秀吉、気前が良すぎる。
厚遇されたのは徳川に限らないしな。
311人間七七四年:2008/02/07(木) 15:09:46 ID:HURJsSxp
一族郎党のいない秀吉は、あれくらい気前良くないと
周りを手なずけることができなかったんだよ
まあ、秀吉自身そういうところは割り切ってた部分もあって
土地ではなく流通を抑えることで政権を維持してたんだけどね
312人間七七四年:2008/02/07(木) 21:44:47 ID:gjWr9Ot/
秀吉は限界超えて天下取っちまったからね
少々、力不足なのに無理しやがって
ここでいう力は才能だけじゃなくて、地縁・血縁・相続物も含めてね
313人間七七四年:2008/02/09(土) 00:58:23 ID:/2tXF8gc
>>308
なんで主君の遺児には温情をかけてやらなかったのかね
314人間七七四年:2008/02/10(日) 19:40:39 ID:46XxKiF2
>>313
まあ主君の幼少の遺児をモロに攻め殺した家康よりはマシじゃないかな?
315人間七七四年:2008/02/10(日) 23:12:53 ID:Mrp91J2z
うむ、確かに秀吉は強大同士の殺し合いって体裁を取っているし、
主君の妻と孫を殺したのだって、
和睦を反故にした信孝の自業自得ってことに出来るし、上手いことやっている。
316人間七七四年:2008/02/11(月) 03:47:43 ID:vr0kxkdY
信秀に結局岐阜城を与えてるから、十分寛容だと思うよ。

317人間七七四年:2008/02/13(水) 09:58:23 ID:szkxU9nO
秀頼の場合は徳川に臣従しなかったからな
ちゃんと将軍の前に跪いてれば、どこぞの僻地で安堵されたんじゃないか
318人間七七四年:2008/04/02(水) 14:28:02 ID:vMRYoUOQ
ここが秀吉のターニングポイントだったね。
悔やまれるよ一大突撃を敢行して欲しかったなあ。
代償に母親や関東250万石を出したのは疑問符だな。
319人間七七四年:2008/04/02(水) 21:11:42 ID:LpzludNv
>>318
秀吉も長篠を見ていたからね
二の足を踏むでしょう
320人間七七四年:2008/04/09(水) 04:26:03 ID:PrfClOR+
321人間七七四年:2008/04/30(水) 19:42:38 ID:Er5KaHDE
家康本隊が別働隊追って行ってるのにボーっとしてる秀吉(笑)
322人間七七四年:2008/04/30(水) 22:07:08 ID:1zxJ0Fyw
そこは家康の手腕をほめるべきところだと思うが。
323人間七七四年:2008/05/01(木) 01:36:48 ID:nkpBadO6
何十人程度ならまだしも、あれだけの軍隊が動いて気付かない秀吉が間抜けなだけでしょどう考えても
この間抜けさは弟子の三成が家康軍が赤坂に来るまで気付かなかった関ヶ原にしっかりと受け継がれている
でも東海道沿いは敵軍の領地だから、目の前から移動してるのに気付かない秀吉の方がさすが師匠だけあって間抜けさは1枚上だな
324人間七七四年:2008/05/01(木) 13:05:59 ID:7SAuKZ7b
結局極限まで戦うとするならどうなってたんでしょうか。
325人間七七四年:2008/05/01(木) 17:50:30 ID:MuykEyxV
>>324
半分以上政治が係わってくるから難しい
少なくとも双方とも国力の低下は避けられず、
決着が付かずに共倒れになる仮想性が高い
326人間七七四年:2008/05/02(金) 20:39:24 ID:NgNCCIZJ
>>323
他の戦いでも失態ばかりならそうかもしれないが、
秀吉がそのような失敗を起こしたのは、家康を相手にしたこの時だけ。
やはり相手が家康だったからこそ、
局地戦に限った話ではあっても一枚上手を取れたと見るべきでは?
327人間七七四年:2008/05/03(土) 15:02:07 ID:1v5eUFRA
秀吉は別所相手にもチョンボしてるよ
もう一つ言うなら姉川も
328人間七七四年:2008/05/07(水) 09:09:51 ID:8H5+Bx4Q
チョンボなら家康の方が多いしな
逆に言えば秀吉のチョンボの少なさは異常
329人間七七四年:2008/05/07(水) 11:01:05 ID:95/pAOaE
千成瓢箪から駒
330人間七七四年:2008/05/13(火) 22:23:49 ID:DlsueJsM
>>1
10倍って数はどっから出てきたんだ?3〜4倍程度だろう?
331人間七七四年:2008/06/09(月) 07:22:19 ID:KYDeYbcR
この戦いをまとめた良書とかある?
332人間七七四年:2008/06/09(月) 19:26:28 ID:cEy2mRhk
>>331
日本戦史が一番、次に歴史群像
333人間七七四年:2008/06/14(土) 12:58:56 ID:5T+D3AIW
>>314
くたばった時はガキまで作って遺児とかいう年齢じゃなかった気がするがね……
まぁ精神的にはガキのままだったのかもしれんが…
334人間七七四年:2008/06/15(日) 23:00:17 ID:Pg57t0XR
この戦いで秀吉が信長から受け継いだ天下布武路線(軍事制圧路線)が躓き、朝廷権威を背景にした
戦争停止令路線への転換が図られた、と言う解釈が今は一般的のようね。史学の世界では。
335人間七七四年:2008/06/15(日) 23:34:46 ID:fV0xjcQn
秀吉は結局三河だけ何んとも出来なかったわけか。
336人間七七四年:2008/06/17(火) 21:58:31 ID:fUS9HNpl
しなかっただけだけどな
家康が関東や九州四国にいたらあっさりやられてる
まあやっぱり天下取るだけあってツキがあるわな
337人間七七四年:2008/06/18(水) 02:17:39 ID:AvkkYxUg
無意味すぎる仮定だな
そのときの状況から最善の手をうつのが、優秀な指導者ってものだ
状況が変われば、家康も無理に戦うような事はせん
338人間七七四年:2008/06/18(水) 12:54:36 ID:NTYSBKys
家康厨ってどうしてこう揃いもそろって馬鹿揃いなんだろう。
見事だよな。
339人間七七四年:2008/06/23(月) 09:12:18 ID:EnnJ5elx
上田合戦や三方ヶ原の話なんかしないしな
340人間七七四年:2008/06/23(月) 15:02:52 ID:1BGQrYxZ
>>338=339

これが自作自演か
341人間七七四年:2008/09/27(土) 22:08:23 ID:kbHjCSHa
忠勝大活躍
342人間七七四年:2008/09/28(日) 00:19:18 ID:xO+U7wfw
忠勝の活躍、趙雲の活躍と似とる。
343人間七七四年:2008/09/28(日) 00:47:13 ID:8cr+SSL3
>>340
 ↑
まるで見当違いの事を平気で言える豚厨w
さすがとしか言いようがない。
344人間七七四年:2008/09/28(日) 01:27:27 ID:2PCb0JDX
>>343
顔真赤にして泣きながら書き込むなよw
345人間七七四年:2008/09/28(日) 01:52:22 ID:pNJR3kYC
領土拡張に成功した側がなぜか敗戦扱いされるという人類史上でも稀な戦
346人間七七四年:2008/09/28(日) 02:00:14 ID:8i9JIAgo
>>342
家康=劉備?
347人間七七四年:2008/09/28(日) 10:43:03 ID:4cEo1YcN
>>345
そりゃ、その後の秀吉の家康に対する低姿勢を見れば
348人間七七四年:2008/10/04(土) 01:10:39 ID:WH76WNMm
>>345
戦争としては秀吉の圧勝ですよね。
あくまで戦争としては、ですが。
349人間七七四年:2008/10/04(土) 07:42:55 ID:S/GD3rbi
6分勝ちだろ
圧勝ってのは家康の首も取ってこそ圧勝って言うんだよ
350人間七七四年:2008/10/04(土) 09:55:24 ID:KMMByJPC
つーか戦略目的は全く果たせてないので勝利ですらない>秀吉

戦略目標だけなら家康のほうが、まだ果たせてる。6:4で家康の勝ちだよ。
351人間七七四年:2008/10/04(土) 10:29:31 ID:8VFkNJ2T
>>350
実母を人質に、は大きいな。
秀吉個人が母親嫌いであっても、母を見捨てるなんて天下人として選択できない。
家康が殺したとしても、秀吉が殺したも同然、と扱われることは必定。
どっちに転んでも秀吉の負けなんだけど、転がしまくって利を引き出したのは流石ではある。
352人間七七四年:2008/10/04(土) 10:30:25 ID:yPeOuI4m
>>350
一応、秀吉も織田家々中の抗争にケリが付いているから、双方ともに最低限の戦略目的は得られている
353人間七七四年:2008/10/04(土) 10:33:33 ID:KMMByJPC
>>352
秀吉の場合は方針転換を強いられているので、一概に戦略目標を果たしたとはいえない。
むしろ秀吉は、「戦略目標を変えた」と捉えるべきかと。
354人間七七四年:2008/10/04(土) 10:45:19 ID:yPeOuI4m
>>353
そうかな、元々は信雄が秀吉に臣従することを拒んだのが発端だから
臣従したことで当初の目的は達成している

もっともそれなりの値段で売りつけられ、家康に至っては大きな禍根となった
355人間七七四年:2008/10/04(土) 11:01:14 ID:KMMByJPC
>>354
秀吉の最初の戦略目標は明らかに、信雄を臣従させることではなく殺す事だったよ。
それにより織田家勢力を完全に滅ぼし、秀吉の「実力」での政権確立をしようとした。

結局この戦で「勝てなかった」から、朝廷に接近し官位の権威を利用した政権構築に
方針転換せざるを得なかったわけで。これは秀吉の任官が、この戦いの敗北直後から
始まっている事から、明らかですよ。

政権の形が秀吉個人の思惑から離れ、朝廷を頂点としたより「公」な物に変質させる方針を採った以上、
秀吉は天下にその範を示すためにも、信雄と和解せざるを得なくなるわけで。
356人間七七四年:2008/10/04(土) 11:26:40 ID:yPeOuI4m
>>355
開戦時の目的はそうかもしれんが、発端は信雄が大坂に行き、
秀吉に臣従することを拒否したことに始まったのでは?
357人間七七四年:2008/10/04(土) 11:35:57 ID:KMMByJPC
>>356
でもむしろ秀吉は、信雄を戦に追い込む形で挑発してるよね。
358人間七七四年:2008/10/04(土) 11:38:58 ID:yPeOuI4m
>>357
そこら辺は大坂の陣時における徳川家と同じ
「臣従すれば良し、そうでなければ潰す」
359人間七七四年:2008/10/04(土) 11:54:01 ID:yieTrbBo
信雄から伊賀伊勢奪って、信雄の影響力の強かった美濃を完全に離反させたで十分過ぎる戦果だと思うけどやっぱ人によってどう思うかは異なると言うわけか
360人間七七四年:2008/10/04(土) 14:59:50 ID:0gCPf3D0
信雄が降伏したのだから、家康の場合は降伏を認めずそのまま攻撃すれば良かったんだよ
361人間七七四年:2008/10/04(土) 18:05:41 ID:GbybfAf9
>>350
信雄、家康連合は伊賀、伊勢を失ってるけど・・・。
秀吉は領地を減らさずに他方面で着実に勝利して天下統一を進めてるんだけど。

>>351
大政所を送ったのはずいぶん後だし、その前に家康が嫡男を人質に出してるんだが
歴史知ってるのか?
362人間七七四年:2008/10/04(土) 18:12:49 ID:KMMByJPC
>>361
> 秀吉は領地を減らさずに他方面で着実に勝利して天下統一を進めてるんだけど。

小牧長久手は明らかに秀吉の天下統一を遅らせてるよ。
363人間七七四年:2008/10/04(土) 18:24:26 ID:GbybfAf9
当時の状況から見ても、秀吉の主力の行軍を見ても
信雄、家康よりも西方の方を重要視してんだけど。


後の歴史を知ってる連中から見れば家康は脅威だけどな
364人間七七四年:2008/10/04(土) 19:40:58 ID:hTOGNEHk
>>360
降伏じゃなくて和睦
内大臣にもしてもらってる(家康や秀長の大納言より上)

>>363
そりゃ大坂から見れば、東は関ヶ原があるけど、西は瀬戸内海が
開けてますから
365人間七七四年:2008/10/04(土) 20:34:29 ID:GbybfAf9
>そりゃ大坂から見れば、東は関ヶ原があるけど、西は瀬戸内海が
>開けてますから


イミフ
366人間七七四年:2008/10/04(土) 20:35:33 ID:vb7QvVtr
>>344
このバカ自己紹介してるのか?
367人間七七四年:2008/10/04(土) 21:24:14 ID:zlo6UikF
>>365
東は関ヶ原で防衛線が引けるが、西は瀬戸内海を船で進まれたら大阪を直撃される
368人間七七四年:2008/10/04(土) 22:06:30 ID:GbybfAf9
なんでIDころころ変えてるの?

西方重視してるから家康相手に主力を出せなかったが
ちゃんと主力は予定通りに動いて天下統一へ着実に近づいてるじゃん。

小田原と同盟組んでる徳川相手にするには多方面への戦力分散は避けただけだろ
369人間七七四年:2008/10/04(土) 22:27:22 ID:zlo6UikF
>>367
単に飯風呂寝る時にシャットダウンしてるだけ

最初は尾張に主力を集中させ、短期決戦を行うも長久手で失敗
そこで主力が届かない伊勢・伊賀に攻撃を集中
勢力を大きく削ぐも、長期戦は避けたい秀吉はここで妥協・和睦した
何故そうしたかというと、東海とは違い、四国・九州は瀬戸内海で本拠地の
大坂に直結しており、東より西の方が危険で、絶対につぶす必要があるから
370人間七七四年:2008/10/04(土) 23:53:22 ID:bqiBPS/w
秀吉は天正13年6月に宇都宮国綱、佐竹義重(上杉景勝を通じて秀吉と連携)らに当てた書状で、
「富士山を一見し、その折に会いたい」と書き送っている。
これは北条と、それに連携する徳川討伐を指し。
天正14年1月18日には秀吉の東国出馬の直書が発せられている。
ところが、秀吉は合戦の準備と同時に和平交渉も同時に進めており、
2月8日に家康が和議・降伏を申し入れてきたので出陣は中止となった。
秀吉とは同盟関係だった上杉景勝が上洛して秀吉の家臣となったのはこの5月であり、
家康は降伏したのに、なかなか上洛しなかったので、この年の秋に秀吉自身が三河国境に出陣し、
北国衆を秀長に率いさせ攻撃するという秀吉再出陣が計画され景勝にも伝えられたが、
これにあわてた家康が10月に上洛して秀吉の家臣となったので出陣計画は中止になった。
371人間七七四年:2008/10/05(日) 06:36:46 ID:YkI56Mdp
>>369

こんな>>351みたいなアホレスしてるのもお前か
372人間七七四年:2008/10/05(日) 09:43:25 ID:nx0yAzL0
>>371
違う
373人間七七四年:2008/10/05(日) 12:20:35 ID:nx0yAzL0
>>370
豊臣側から見ればそれでよいかと
374人間七七四年:2008/10/06(月) 00:56:41 ID:Eop4C/mv
>>371
上洛していた家康の身に何か変事があったら、人質の大政所を焼き殺してしまえ!と
御座所の周囲に薪を積んでしまう三河武士・・・
そんな血の気の多い(かなり無茶な)本多作左衛門や井伊直政って何か好き。

ま、その一件で秀吉の心証を害したために蟄居させられてしまうわけだけど。

嫡子の成重が松平忠直改易後、付家老から丸岡藩主に転じて復権といったところ
なのかな。
375人間七七四年:2008/10/26(日) 13:54:47 ID:WnNbfjym
しかし岩崎城の模擬天守にはあきれるな
遺構の上に作っていないだけマシともいえるが
イメージを大いに損なっているのは間違いない
376人間七七四年:2008/10/30(木) 23:42:24 ID:wwOUfaDp
三河武士の呼称は、間違い。

当時は、三河衆、または、三河ノ衆。
377人間七七四年:2008/10/30(木) 23:42:46 ID:91RvCOW5
だからなんだ?
378人間七七四年:2008/10/31(金) 00:03:02 ID:iAXYpDo7
秀康人質にして、石川数正引き抜いた時点で徳川は半身不随。
379人間七七四年:2008/10/31(金) 08:31:17 ID:7Hbpq7R1
寄せ集め⇒秀吉

ほぼ生え抜き⇒家康


こんな認識でおk?
380人間七七四年:2008/10/31(金) 15:10:42 ID:qQxQYcRf
数が二十倍近く違うがな。


さらに秀吉子飼いの主力は秀長が率いて大戦果あげてるぞ
381人間七七四年:2008/10/31(金) 18:45:03 ID:LwpsVdKn
中近世の情報伝達能力だと、よせ集めじゃない大軍なんか存在しません
382人間七七四年:2008/10/31(金) 22:06:35 ID:nozx4cax
>>380
秀次も十分子飼いでんがな
383人間七七四年:2008/11/06(木) 20:54:14 ID:rCB2l6Xn
俺は堀秀政のファン。
384人間七七四年:2008/11/08(土) 05:16:40 ID:Dximv+Uo
俺は猪武者、鬼武蔵のファン
385人間七七四年:2008/11/08(土) 11:10:16 ID:+7SDeud4
俺は池田恒興のファン。
信長が若年の頃、池田一党は織田家の中でブイブイ言わせていたらしい。
386人間七七四年:2008/11/09(日) 08:22:23 ID:DiCPrm0+
小牧長久手で生き残ってれば美濃尾張の大名だったのにねぇ
387人間七七四年:2008/11/14(金) 19:06:40 ID:sGuAd2SN
相手が悪かったね。
388人間七七四年:2009/01/24(土) 23:45:39 ID:gxHI5CQ0
森長可が羽黒に陣取って小牧を狙っていたというが家康の部隊が既に小牧に入り込んでいた事を長可は把握してたんだろうか?
本気で狙うなら3000という兵数は少ないと思うんだが

@実は小牧入りした家康の兵が先発隊だけでまだ数が少なくて勝算があった。
A情報戦で完全に遅れを取ってて家康より早く誰も居ない小牧を占領出来ると踏んでた。
B本気で家康本体を3000人で小牧から叩き出すつもりだった。

どれなんだろう?
389人間七七四年:2009/02/13(金) 00:31:42 ID:kj6qhtks
戦略(政略)上での劣勢は、戦術では翻す事は出来ない。
これを見事に体現した戦いだったって認識は意外とマイナーなのかな?

徳川が局地戦で連勝しようと、結果として
徳川→臣従(人質)
織田→屈服
佐々→降伏
長曽我部→降伏
紀伊→滅亡

結局織田を旗印に天下分け目の大決戦っていう構想を実現させず、地方抵抗勢力の各個撃破戦にしてしまった秀吉が、天下統一を確定させている。

この時期の秀吉は、政略、戦略を指揮する将軍としての役割を完璧にこなしている。
(この時期の)家康以下とか、官兵衛なしじゃ何も出来ないっていう評価は、将校や外交官としての評価ならまだしも宰相や将軍としてなら見当違いじゃありませんか?

まぁ、秀吉最強って思ってる俺は少数派なんだね・・
390人間七七四年:2009/02/13(金) 00:39:14 ID:JRO/fPHv
秀吉は家康を本気で潰す気は無かっただけ
391人間七七四年:2009/02/13(金) 00:48:33 ID:kj6qhtks
>>388

三択総てに可能性がありますが、2が一番可能性が高そうだと思ってます。
森は、小牧に進出した場合徳川−織田は戦意を見せずに後退すると思ったんじゃないかな。
というのが、池田一派の動向から家康サイドの劣勢が明らかな中で、小牧山という古城に野戦築城するよりは、清洲という明確な軍事拠点付近まで後退したほうが、
戦力密度が高くなり後方を突かれること(後に現実として画策)を気にせず、また補給上有利な状況で戦闘できると考えても不思議じゃないから。

ただ現実には中入り策を覚悟した上での小牧布陣を家康は選択したので、痛撃を喰らった。
ただ、ガチで戦うつもりがなかったと思うのは、その後も森隊は十分な作戦行動を行っており、被害はそれを許容出来る範囲だったことから。
392391:2009/02/13(金) 00:51:55 ID:kj6qhtks
>>388さん、ごめんなさい・・・

2に近くではなかったです。
393人間七七四年:2009/02/13(金) 08:37:15 ID:cM22g2FP
>>390
3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく
決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』
とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河
へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨
を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被
仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。
その後も秀吉の決戦構想は
は秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる
394人間七七四年:2009/02/13(金) 09:11:39 ID:mj7SYu05
当時の戦略あたりの、同一経路を同時に移動する部隊は、飲料水の確保や糞尿の処理などで
動因限界(自然限界)は3万人前後だったそうな。

ところが鉄砲の普及により、敗北側の死傷率は格段に上がった。

小牧長久手の場合、中入り軍全体の死亡率が15%。
ちなみに近代軍隊で言えば、全体の12%が死亡するような状況は「全滅」「壊滅」と
表現される。

「自然限界」と言う枠がある以上、秀吉と言えどもこれだけの被害をこうむっては、
どうしても相対的な兵員の不足を起こし、軍事的には閉塞せざるを得ない。
少なくとも当面は、軍事的に攻勢をかけることの出来ない状況に追い込まれたのが
小牧長久手だといえる。
395人間七七四年:2009/02/13(金) 10:18:27 ID:uaOoNdZb
戦国時代にしろ近代にしろ、十分な数の火器が導入された戦争なら
死亡率が15%ほどにも達すれば負傷率は恐ろしいことになってるわなあ…
396人間七七四年:2009/02/13(金) 10:19:04 ID:qTxGyWJc
つーか秀吉VS家康じゃなくて
秀吉VS信雄の戦いなんだけどな
397人間七七四年:2009/02/13(金) 11:11:15 ID:cM22g2FP
伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、
細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、
小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、
加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、
一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい

21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)
これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、
小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われる
し、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ
398人間七七四年:2009/02/13(金) 11:12:51 ID:cM22g2FP
普請されている
399人間七七四年:2009/02/13(金) 12:12:47 ID:gMbsDuZp
家康が吉川元春に、接触したかも。
400400:2009/02/13(金) 12:13:41 ID:gMbsDuZp
400Get
401人間七七四年:2009/02/13(金) 12:34:52 ID:cM22g2FP
三月26日に
黒田長政宛書状で「備前の衆をこちらへ派遣する」と伝えているしその他
402人間七七四年:2009/02/13(金) 12:37:09 ID:cM22g2FP
中国方面の武将も隅々呼び出されてる。宇喜多の援軍は岸和田に入ってる。
岸和田にいた武将は中村一氏残し他全て北尾張に集結させられている
403人間七七四年:2009/02/13(金) 13:47:11 ID:JRO/fPHv
ならなんで攻め滅ぼさなかったのかな
出来なかったはずはないのに
404人間七七四年:2009/02/13(金) 13:57:54 ID:2V96oLKx
>>403
できないんじゃないの?
あの辺りの陣地帯は田圃が多いだろうから、進軍路は
限定されるから、一度に多数の兵が出せない
沖田畷の戦いみたいになりかねない

大平原ではないからね、あの辺は
405人間七七四年:2009/02/13(金) 14:12:54 ID:cM22g2FP
>>403
滅ばせないんでしょ。
5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
7月3日秀吉は
八月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して尾張、三河、遠江へ総攻撃かける
計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。八月中旬〜下旬にかけても再び北尾張に軍結集させ、
この時は家康は帰国させてた兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに
結局和議の話があがっている(これは決裂になったが)
秀吉が信雄と講和した11月13日にも
家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてたとえ年内であっても
「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明しているわけで。
>>404
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、
小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込めそう
406人間七七四年:2009/02/13(金) 14:26:15 ID:2V96oLKx
>>405
家康側も秀吉側より先に
小牧山城から東に蟹清水、北外山、宇田津、田楽と砦を構築
さらに北外山、宇田津、田楽の間を軍道で繋ぎ、小牧山と蟹清水に
長塁を構築している

また、東には小幡城、比良城がある。この辺は河川も多く、軍の移動は
困難、よってそれらの障害が少ない長久手を迂回する手が採られた
407人間七七四年:2009/02/13(金) 14:39:56 ID:cM22g2FP
>>406
地図見ればわかるけど岩清水は小牧山より南に大きく向いた東。
外山、宇多津、田楽も南東部に位置していて秀吉方の二重堀よりも
南部に位置していて秀吉方の拠点から小牧山を守る形には位置していない。

小幡城は竜泉寺の南西部にあたり比良はもっとずっと西で外山と宇多津の間
から南にしばらくいった位置にある。どちらも秀吉方拠点から
小牧を攻める上では障害にならない。むしろ家康の方が竜泉寺〜楽田までの
秀吉方拠点の網をかぶっている形。
家康軍はおの辺で最も大きな庄内川を渡って小幡方面に移動してるが?
408人間七七四年:2009/02/13(金) 14:59:53 ID:cM22g2FP
ついでに言うと楽田〜柏井、龍泉寺〜長久手ルートでも
五回は川越えしなきゃいけない。岩崎まで来るとまた川があるし
秀吉方陣地も少なくなるからハイリスク。
小牧は東はともかく北側は川に守られてない。東も田中、二重堀から
一つ川を挟むだけ。
409人間七七四年:2009/02/13(金) 17:38:57 ID:2V96oLKx
>>407
家康の支城ラインは秀吉が小牧山城周辺から、回り込まない様に
するためのものなんだが
後、小牧山城だけを攻撃するつもりだろうけどそれ可能かな?
小牧山はあの辺りではほとんど唯一の高地で秀吉側の前線は丸見え
敵に行動読まれる状況で兵力が多いとはいえ、防御する徳川に勝てるか
どうか
ttp://www.city.komaki.aichi.jp/contents/11104270.html
ここには周辺は沼地だった様だし、大軍の力攻めは難しいかと

後、長久手戦時の渡河は双方とも後方で行われている、敵前渡河はしていない
410人間七七四年:2009/02/13(金) 17:57:23 ID:isj2LUvC
>>409
南側は家康方拠点が並んでるが東側が秀吉が固めてるのは変わりない。
そもそも兵力差圧倒的なんだから西を迂回するやら南の拠点を落とすやら
色々戦略の幅がありそうなものだが。龍泉寺までの間も秀吉の拠点が
築かれてるわけだし小幡、宇多津あたりを攻撃して連絡を断ち切る方がよほど
リスクが低そう。いや、川については長久手方面への進軍した場合でも同じく
あると言っただけだが
411人間七七四年:2009/02/13(金) 19:37:06 ID:2V96oLKx
ttp://www.komaki-aic.ed.jp/bunka/mtkomaki/yama004.htm
南というよりは東南東に見えるんだけど…
後、西の迂回は双方とも砦を作っていないところを見ると、
行軍不可能な湿地帯なんでしょう

東南東に手を出した場合、軍道を通って直ぐに増援が来ますから
これも困難

小幡城は確かに目の付けどころは良いと思います
ただし、かなりの堅城の様ですので、実際の中入り勢程度は必要で
攻略に手古摺る内に、増援が来て長久手と同じ結果な気がします
ttp://www.geocities.jp/moriyamamyhometown/moris4.htm
412人間七七四年:2009/02/13(金) 20:08:48 ID:isj2LUvC
>>411
俺が見てるのは『角川地名大辞典』で『中世城郭分布図』によって作成
されたものだが微妙に書かれ方というか方向感覚違うようだね
でも学研の歴史群像の図説戦国地図帳にも蟹清水、北外山、宇田津は
秀吉方の拠点から小牧山へ『真っ直ぐ進むなら』守る位置からは外れている

それなら小牧山や岩崎山は手薄にして(周辺が沼地なら家康も攻めずらい)
主力で竜泉寺やら小幡方向に進軍して小幡城を攻め同時に家康が来たら
迎撃に出られる態勢を整えればいいんじゃないか
413人間七七四年:2009/02/13(金) 20:51:35 ID:JRO/fPHv
島津がいたからか
414人間七七四年:2009/02/13(金) 20:55:42 ID:isj2LUvC
秀吉の目が西に向かい出すのはもう少し後。
この時は尾張北部に軍結集させてる。秀吉の書状や陣立書でわかる。
415人間七七四年:2009/02/13(金) 20:58:03 ID:aAZ+A/c0
ちょうそかべもいるよ!


                 ハ_ハ  
               ('(゚∀゚∩ いるよ!
                ヽ  〈 
                 ヽヽ_)
416人間七七四年:2009/02/13(金) 20:58:51 ID:aAZ+A/c0
いせほうめんも
ふおんなうごきをしてるよ!

                 ハ_ハ  
               ('(゚∀゚∩ してるよ!
                ヽ  〈 
                 ヽヽ_)
417人間七七四年:2009/02/13(金) 21:01:50 ID:JRO/fPHv
いや、再侵攻が出来なかった理由
418人間七七四年:2009/02/13(金) 21:04:14 ID:aAZ+A/c0
さっさなりまさは
まえだとしいえにまけちゃったね
419人間七七四年:2009/02/13(金) 21:10:39 ID:isj2LUvC
長曾我部はまだ讃岐はおろか伊予、阿波も平定前。十河がいまだ頑張っている。
毛利が河野の要請を受けて伊予に上陸してて本州に出兵できる状態じゃなかった。

南伊勢半分は三月の攻防で崩壊状態で八重羽、富田、岡本、滝川等を残し
尾張に呼び寄せられてる。ついでに言うと紀州雑賀衆は三月に撃退されてて
岸和田には中村一氏、宇喜多勢を残し北尾張に呼ばれてる
420人間七七四年:2009/02/13(金) 21:16:36 ID:isj2LUvC
佐々が蜂起するのは夏になってから。前田、丹羽長秀は留守居だけど
長重は来てる。一方家康は信濃で木曾が家康に帰属、上杉が筑摩郡北部まで
遠征してきててその方面やらの抑えと北条の変心を恐れて領国に多数兵を
残していて吉村文書によると8000程度だった。
100000対16000〜18000というのはよく本に書かれている数だが資料や状況を検討
すればあながち間違いでもないだろう
421人間七七四年:2009/02/13(金) 21:19:59 ID:aAZ+A/c0
>>419
十河が完全に駆逐される二ヶ月前じゃね?
もう十河瀕死じゃねーの?
422人間七七四年:2009/02/13(金) 21:34:25 ID:aAZ+A/c0
紀州も小牧長久手直前に大規模なゲリラ戦仕掛けられて
一応撃退はしたけど、完全平定してない状況、かつ秀吉の本拠地大坂城城下を荒らされてるのに
紀州方面は問題無いってことは無いと思うんだけどどうなんでしょ?
423人間七七四年:2009/02/13(金) 21:39:15 ID:isj2LUvC
八月九日の本多正信書状で大智表に長曾我部が侵攻している記述が見られ、
十河城落城後でもそこで抗戦してた勢力が存在する事が確認できる。
阿波でも秀吉が土佐泊城に天正12年十月時点でも支援している旨の書状が
存在し、翌年の四国侵攻でも秀長がまず土佐泊に上陸し、緒戦が木津城包囲戦
であった事から、まだ落城していない事がわかる。最近では長曾我部の四国
平定に関して定説は以上のような理由で否定されてる。
424人間七七四年:2009/02/13(金) 21:46:38 ID:isj2LUvC
>>422
3月26日に岸和田にいた黒田長政宛書状でそこにいる諸将を北尾張に呼び寄せる
旨伝えてて、現にそこの援軍であった蜂須賀や前野は長久手合戦時の陣立書で
確認できる。岸和田には中村と宇喜多が残ってるだけ
425人間七七四年:2009/02/13(金) 21:50:33 ID:aAZ+A/c0
ごめ、>>416はいせじゃなくてきしゅうね

なるほど


でもさ、四国や紀州でごたごたしてる状況ってのは
秀吉にとって大坂城の超至近距離な関係上精神的にも政治的にも
あまりよろしい状況じゃないんじゃないの?

426人間七七四年:2009/02/13(金) 21:53:56 ID:isj2LUvC
>>425
だからこそ早期に東の脅威織田、徳川を倒すため出兵したんだが
中途半端にもたつく方がよほど悪くなりそう。
427人間七七四年:2009/02/13(金) 21:54:45 ID:qTxGyWJc
一番問題なのは秀吉側で参加している武将達が
自分の主君が誰なのか分らなくなっている事だと
思われ
428人間七七四年:2009/02/13(金) 21:58:48 ID:isj2LUvC
それ言ったらvs柴田の時やら光秀の時やらその後の四国、九州平定なども一緒
大体徳川方だって旧武田系も多く信雄との連合軍
戦でそれ言い出したらキリがない。一応総大将の命でそれぞれ動いてるし
429人間七七四年:2009/02/13(金) 22:00:22 ID:aAZ+A/c0
まぁ池田父子が秀吉側についたのはでかかったね
430人間七七四年:2009/02/13(金) 22:00:44 ID:2V96oLKx
>>412
小牧山へ真っ直ぐ進むなら、同時に小牧山城から延びる土塁も対処しなければならない
あれを放置すると、横から攻撃される

後、小幡城に主力を回すとなると、小幡攻めている間に後ろから家康に襲われる
動きが取りにくい地で前後から挟み撃ちほど恐ろしい事はない
431人間七七四年:2009/02/13(金) 22:08:51 ID:isj2LUvC
>>430
岩水寺を先に狙ってもいい。
小幡に行くには竜泉寺経由で行けばよい。そこまででは柏井、大草といった拠点
を史実でも築いてるし龍泉寺から南西方向へ小幡攻めるなら遮るものがなく
リスクが低い。
432人間七七四年:2009/02/13(金) 22:38:40 ID:2V96oLKx
>>431
蟹清水などの軍道ラインを攻めるのはさらに難しい
見通しの良い小牧山城から直ぐに軍道を通って増援が来る

小幡城を攻めるので問題は長久手から出撃した秀吉を家康が
察知して、増援する時間
長久手戦時に家康が小牧から小幡までは夜間行軍でも約二時間
秀吉が田楽から龍泉寺まで約八時間
この差を考えると、家康に手早く増援を送られ、攻城に時間を取られ
その間に家康が小牧方面で攻勢に転ずる恐れすらある
433人間七七四年:2009/02/13(金) 22:49:02 ID:isj2LUvC
>>432
小牧〜楽田までの間は通って攻めづらいのだからそれを
逆手に取り主力で蟹清水などを攻めて増援が来たらそこで決戦すればよい
秀吉等主力がそもそももっと早い段階で
龍泉寺方面に行けばいいと言ってるんだが?
434人間七七四年:2009/02/13(金) 23:04:25 ID:2V96oLKx
>>433
ごめん言葉が足りなかった、湿地水田等の地形の悪い所は
小牧〜楽田だけでなく、軍道ライン全部
むしろ軍道はその移動しにくい土地を移動しやすくするための施設

秀吉の主力が龍泉寺に入るのは中入りだけでなく主力も移動する
という考えならそれは無理
移動ルートは狭い山道で中入り勢の隠密では二日も、秀吉の急行軍
でも8時間かかる(兵力はどちらも二万)
これが主力となれば少なくても四万(長久手時の前線戦力は約七万)
これが隠密でない移動としても、相当の時間を必要とするのは間違いない
この間に家康に対応された場合、先鋒が山道を出る前に既に小幡に入ら
れる可能性すらある
435人間七七四年:2009/02/14(土) 23:53:20 ID:j61XIG6U
>>389
マイナーてか正しくないってだけじゃないの?
別に戦術優れて秀吉軍叩けてれば全国地図だって当然変わって行ったろう
徳川臣従させたっていう事聞かない奴らが一杯いたのに、まして徳川に負けてる程度の力しかなきゃ
秀吉なんてどうにもならない
信雄に勝たれてば織田家を簒奪したって立場を決定付けられちゃうし、四方から食いつかれて
終わりだろう
そうならなかったのは1にも2にも徳川が秀吉軍に勝てずに信雄が秀吉と関係修復しちゃったから
つまり勝てなかったから臣従しなきゃいけなくなったってだけの話だなあれは
436人間七七四年:2009/02/15(日) 07:00:57 ID:YY+peQ3A
秀吉自身木曾義昌宛書状で負け認めてるし小早川からもそれに触れられてるのに
妄想も大概にしろ
437人間七七四年:2009/02/15(日) 07:02:41 ID:YY+peQ3A
秀吉が信雄と講和した11月13日にも
家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてたとえ年内であっても
「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている
438人間七七四年:2009/02/15(日) 09:14:10 ID:8pzyvInc
「小牧・長久手の戦いの構造」読んでどうしてそういう史論になるのやらww
439人間七七四年:2009/02/15(日) 17:39:07 ID:/pcFjThv
ここ「古戦場です。静かに通行して下さい。」
の標識に笑う!

爆音立てて車走らせたら、
霊が騒ぐのか?
440人間七七四年:2009/02/15(日) 17:45:42 ID:Eu0Q92Dn
>>439
お前は先ず常識と言うものを学べ。
441人間七七四年:2009/02/16(月) 17:41:37 ID:DJlOU0Xl
小牧・長久手時の家康と秀吉の書状を比較すると、後者の方が細かく書いてある。
これ、後世の学者にとっては有難いのだが、現実には大問題な様な気がする。
普通、この手の書状というのは概略のみに留めて、後は口述で行うのが基本。
これができていないのだから、長久手時の行動と言い、秀吉は諜報や防諜に関しては
素人としか思えん。

その秀吉の子飼いの三成も、同じく細かい書状を書いて、使者が捕えられて西軍の
窮状等が家康にばれたのだから、なんというか…
442人間七七四年:2009/02/16(月) 19:26:46 ID:3UpqiDYE
秀吉が負け認めるわけないだろ
443人間七七四年:2009/02/16(月) 19:30:20 ID:cWNoa3EL
他は知らないが長久手時には柏井にいる一柳に合戦当日書状で
『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
444人間七七四年:2009/02/16(月) 19:33:52 ID:cWNoa3EL
>>442
戦後の木曾宛書状にちゃんと書いてる。
伊勢や紀伊等での戦果をとかく他大名へ過大に誇張しまくる秀吉が
先遣隊の敗北認めてる
自分に都合いい妄想ばかりしないでちゃんと史料にのっとって議論しろ馬鹿
445人間七七四年:2009/02/16(月) 19:37:28 ID:cWNoa3EL
秀吉厨は妄想が痛すぎる
446人間七七四年:2009/02/16(月) 19:46:49 ID:3UpqiDYE
文面を晒してみ
447人間七七四年:2009/02/16(月) 19:49:44 ID:S4xMyPnE
>>446
書状の名前でてるんだから自分で調べてみろよ。
そう言うのが勉強になるんだぜ?
448人間七七四年:2009/02/16(月) 19:57:52 ID:cWNoa3EL
>>446
自分でみろや
四月十一日。一々自分はソース何一つだせねえ癖に
人にばっか求めんな
449人間七七四年:2009/02/16(月) 20:45:00 ID:DJlOU0Xl
>>443
それは敗報が来た後の書状と認識した方が良いよ
敵が来るかもしれないから、堅固な砦に周りの連中と合流しろと言ってるし
450人間七七四年:2009/02/16(月) 20:49:17 ID:3UpqiDYE
ていうか、よく見たら>>444
>先遺隊の敗北
って書いてるじゃん
そんなの誰も異議唱えてないだろw
意図的に混同させてんのか?

秀吉が指揮してもいない局地戦の敗北をさも秀吉軍の敗北みたいに
言うなんて悪質だな
お前こそ家康厨なんじゃないのか
451人間七七四年:2009/02/16(月) 20:52:17 ID:S4xMyPnE
>>450
スレ荒らしたいだけなら他所に行け。

本気で言っているのなら文章の読み方についてもう一度勉強しなおせ。
452人間七七四年:2009/02/16(月) 20:57:42 ID:3UpqiDYE
>>436では単に「負け」としか書いてないのが
>>444では「先遺隊の」と後付けしている

俺は>>436を見たからこそ>>442を書いたのに、突然>>444で後付けして
更にこっちを妄想だの馬鹿だの荒らしだの、言いたい放題した挙句
文章の読み方だ?
そんなもん全部そのまま返すよ
453人間七七四年:2009/02/16(月) 20:59:53 ID:cWNoa3EL
>>449
意味不明。敗報きた後なら
『小牧を出た軍』=家康、はもうとうに小幡には到着してる
こんな事秀吉に知らせる必要ないし
秀吉が使者派遣して柏井に着いてそいつがその知らせを秀吉に知らせ返すよりも
家康が長久手から小牧に戻る方が早くなりそうだ
454人間七七四年:2009/02/16(月) 21:16:22 ID:DJlOU0Xl
>>453
違う、長久手で合戦した後の徳川勢が、小幡城に移動したなら知らせろと言っている
実際、家康は長久手戦後に小幡城に入り、その後に竜泉寺に入った秀吉に気付かれない様に
小牧山に帰陣している

因みにその書状が来る前に、不用意に外には出るなと言ってきている
敗報に接し、先ずは動かないように指示した後、再度、敵の偵察を指示している
しかしこれ位、口頭で伝える事はできなかったのかねぇ?
455人間七七四年:2009/02/16(月) 21:18:43 ID:90qSfogC
何か小牧長久手関係のスレって双方いつまでもループしてるだけのような。

で本質的にはさ、秀吉対信雄プラス同盟軍の徳川佐々長曾我部その他でしょ。
で、秀吉は敵本体の信雄の本領を戦闘継続不能なくらいに切り崩してるし、徳川以外の同盟軍は凌がれて潰されてるから
戦略的には秀吉の勝ちだった戦争。
ただ、援軍だったけど現代に至るまで徳川家を(織田の信雄さしおいて)主役の一方みたいに持ち上げたプロパガンダ(悪い意味じゃなくて)
を成功させた家康の政治的手腕の巧みさや
秀吉軍先遣隊を叩いた(特に森武蔵と池田を討ち取った)家康の戦術的評価を高めた戦争でもある。

で結果としては、織田家内の最後の抗争に打ち勝ってついでに名目上同格の池田まで始末できた秀吉と、
戦略的には秀吉を撃破まではいけなかったけど、
後々豊臣政権筆頭の座を確保する地盤を作り上げた家康(更にその後それが天下取りまでつながるんだし)
両方にとって結果的にウマーな珍しい戦争だったと思うんだけど。
456人間七七四年:2009/02/16(月) 21:20:18 ID:m5/uty9N
嫡子於次丸を人質に出してる時点で最終的にどっちが勝ったかは明白
局地戦で土をつけただけに過ぎない
457人間七七四年:2009/02/16(月) 21:23:42 ID:cWNoa3EL
>>455
>秀吉対信雄プラス同盟軍の徳川佐々長曾我部その他でしょ
それをいうなら上杉や毛利も含めるべき
双方全国レベルで外交戦展開してたから
458人間七七四年:2009/02/16(月) 21:26:00 ID:3UpqiDYE
>>456
なのに意地でも家康が勝ったことにしたい人がいるようでね……
459人間七七四年:2009/02/16(月) 21:26:31 ID:DJlOU0Xl
>>456
臣従後も家康に無茶苦茶、気を配ってるけどね、秀吉
460人間七七四年:2009/02/16(月) 21:27:53 ID:m5/uty9N
>>459
小牧長久手と、家康臣従の工作とは別だろと
歴史にIFはアレだけど、北条が降伏してたら徳川なんか降伏しなきゃ潰されてただろが
461人間七七四年:2009/02/16(月) 21:33:11 ID:cWNoa3EL
>>454
長久手が合戦した後家康が小幡に移動してそれを秀吉に知らせたって
時間的にとても間に会うわけない。小幡に家康が到着、使者移動⇒その後家康が帰還、
秀吉が知ってもメリットがない。
敗報に接してなくたってそっち方面に家康が言ってるんだから警戒命じるのは当然
462人間七七四年:2009/02/16(月) 21:37:58 ID:DJlOU0Xl
>>460
あるんじゃないの
家康に対して下手に出ているのは苦戦したからに他ならない
後、北条云々は家康が片付かないとどうしようもない問題かと
463人間七七四年:2009/02/16(月) 21:41:19 ID:cWNoa3EL
追記しとく>>454
どんな史料読んでんのか知らないけど秀吉が龍戦寺についたのは夜
家康は合戦後小幡に到着して其の晩にはもう小牧山に戻ったと当代記にあるが?
それに長久手の報得た後なら『小牧を出た軍』なんて書かれないと思うが。
小牧を出た軍って事はそれ以降のその軍の様子(情報)を秀吉が得てない証左だと思われる
464人間七七四年:2009/02/16(月) 21:41:43 ID:m5/uty9N
徳川のバックに北条がいるから下手に手を出せなかったんだし
家康も強気だったんだって
苦戦もなにも長久手で壊滅したのは一部だし、秀吉の主力ってわけでもない
秀吉の主力は秀長が別方面で率いてたわけで
465人間七七四年:2009/02/16(月) 21:44:49 ID:3UpqiDYE
秀吉が家康を潰さなかった理由は何か

軍事的には十分可能だったのに
466人間七七四年:2009/02/16(月) 21:49:16 ID:cWNoa3EL
>>464
秀長は楽田近辺にいたんだが。
長久手戦があった後伊勢から戻ってきて4月10日には楽田に来てる。
陣立書にもはっきり書かれてる。北尾張方面に着陣した人数は
伊勢方面軍含めずとも10万と当代記や渡邊清忠の書状に書かれてる
467人間七七四年:2009/02/16(月) 21:50:03 ID:m5/uty9N
北条降伏前に臣従した
改易するにも律儀者と称されるほど忠誠を示した
領内経営も難癖つけられないほど

秀吉没後の遺言を無視した行動に利家と対立したけど
利家側についた大名が多いのを見ると、秀吉生前とは
明らかに変わってるってのがわかるかと
468人間七七四年:2009/02/16(月) 21:51:52 ID:cWNoa3EL
>>465
苦戦するから。実際負けてるし
469人間七七四年:2009/02/16(月) 21:52:12 ID:m5/uty9N
>>466
秀吉の主力は後の動きを見れば西国攻略に投入されてるのがわかる
信雄さえ下せば勝利する戦いに消耗するわけにはいかなかったんだろ
結果蒲生らの伊賀侵攻で決着はついたわけだし
470人間七七四年:2009/02/16(月) 21:54:11 ID:97cx5eE6
小瀬甫庵の著作においては池田家池田恒興の描写に格別の配慮が加えられているらしいが
太閤記の三河奇襲が池田の献策というのが甫庵が創作だとするならばどういう意図があり
そういう話を加えたのか?


471人間七七四年:2009/02/16(月) 21:55:55 ID:m5/uty9N
汚名返上に燃える勝入たん
472人間七七四年:2009/02/16(月) 21:56:42 ID:DJlOU0Xl
>>461
何で?
現に午後二時に家康は小幡城に着いたほぼ同時刻に、秀吉は小幡城から約1.3キロしかない竜泉寺に着いている。
この時、秀吉勢は小幡城に未だ到着していない家康勢と小競り合いをしている
473人間七七四年:2009/02/16(月) 21:57:26 ID:cWNoa3EL
>>469
時系列が滅茶苦茶だな
300後半くらいからスレ読み直せ 人の話聞かんのなら書き込むな
北尾張に軍結集してるのは丹羽始め黒田宛書状や渡邊、桂書状、陣立書
で確認できる
474人間七七四年:2009/02/16(月) 21:59:22 ID:cWNoa3EL
>>472
ソースよろ
当代記の文と明らかに違う 竜泉寺についたのは夜
475人間七七四年:2009/02/16(月) 22:00:55 ID:97cx5eE6
江戸期においてはこの戦いに参戦したことが特別の武勲になってる大名家があったらしいから
献策を恒興がしたということが後世からみればマイナスにしかみえないが当時においてはそうではなかった
ということなのかな。
476人間七七四年:2009/02/16(月) 22:01:05 ID:m5/uty9N
>>473
すまんな、抜けてた
>秀吉の主力は(後に)秀長が別方面で率いてたわけで

立場上不安定な地位にいた秀吉にとって
主力を温存するのは当たり前だと思う
池田勢を失った時点で、これ以上の損失は
秀吉の立場を悪くするし、反秀吉包囲網に対してもまずいし
新たに臣従した旧織田家臣団の中からも造反する連中が増えるかも
ってこと




477人間七七四年:2009/02/16(月) 22:01:46 ID:cWNoa3EL
>>470
軍記をソースにしても仕方ない
一次資料や信憑性高い史料からは池田の献策なんて確認できない
むしろ丹羽宛書状では秀吉
自身が計画綿密に練ってる様子がありありと理解される
478人間七七四年:2009/02/16(月) 22:01:54 ID:m5/uty9N
ID:cWNoa3ELは俺にかまわずにほかの人と論戦しててくださいな
479人間七七四年:2009/02/16(月) 22:04:13 ID:cWNoa3EL
>>476
いつの話をしてるか知らんが八月にまた北尾張に出兵してきてるが?
480人間七七四年:2009/02/16(月) 22:07:16 ID:m5/uty9N
そこで主力を失うようなことしてないだろ

主力を率いても、損耗を避けてるある意味消極的になるのは
当時の立場から見れば仕方がないっていいたいだけだから
別にID:cWNoa3ELにレスしてるわけでもないから放置してくれよ
481人間七七四年:2009/02/16(月) 22:10:09 ID:97cx5eE6
>>477
よく読んでほしいんだけど甫庵が何故献策話を創作したのかということを
書いてるだけなんだけど。
どうしてそういうレスが返ってくるのかがよくわからないが?
482人間七七四年:2009/02/16(月) 22:10:38 ID:m5/uty9N
ID:cWNoa3ELはすぐ噛み付いてきてうざい
483人間七七四年:2009/02/16(月) 22:13:19 ID:DJlOU0Xl
>>474
小牧陣始末記

それに当代記の記述は「秀吉公其夜竜泉寺に陣取、翌日本陣ェ被帰」
と竜泉寺にその晩泊まり、翌日本陣に帰ったという意味なのだが
484人間七七四年:2009/02/16(月) 22:19:46 ID:cWNoa3EL
>>483
陣取が泊まり?あと竜泉寺と小幡での両軍の小競り合いなんて
書状にも当代記、三河物語など同時代の記録、日記等にも書いてないが?
485人間七七四年:2009/02/16(月) 22:28:14 ID:3UpqiDYE
すぐ噛みつくというのは、他人を馬鹿だの秀吉厨だのと罵ることをいう
486人間七七四年:2009/02/16(月) 22:29:44 ID:m5/uty9N
それはマジキチ
487人間七七四年:2009/02/16(月) 22:31:56 ID:DJlOU0Xl
>>484
文間からしてそうでしょう
その文章の前に「秀吉公聞給則出馬、竜泉寺山に打上り給」
と竜泉寺到着を別記しているし

そりゃそうだ、当時の記録にそんな細かい事はかかれない
合戦の細かい経過は合戦記や家譜、覚書等をも参考にしないとどうしようもない
488人間七七四年:2009/02/16(月) 22:44:36 ID:cWNoa3EL
>>467
一柳がいる柏井は楽田と竜泉寺の間の位置。秀吉が長久手の敗報知ってこれから竜泉寺方面に行く

のに『小牧を出た軍勢が小幡へ来たら注進せよ』なんて言う意味がない。
使者が楽田⇒柏井⇒秀吉のいる場所と距離を踏むし
直接これから秀吉が柏井よりもっと小幡に近い行って見た方がわかる
489人間七七四年:2009/02/16(月) 22:45:26 ID:cWNoa3EL
すまんアンカミス>>488>>487
490人間七七四年:2009/02/16(月) 23:02:14 ID:DJlOU0Xl
>>488
秀吉が移動する途中にその都度、最新の情報を知りたがるのは当然かと
何しろ、ついさっき戦場諜報の不備で中入り勢が壊滅したのだから
それに、楽田〜柏井〜竜泉寺は一本道
柏井の兵がそれを伝えるのなら必ず進軍途中の秀吉本隊とぶつかる
491人間七七四年:2009/02/16(月) 23:15:13 ID:cWNoa3EL
>>490
時間差を考えても使者は単独だから足が速いとしてもわざわざ柏井まで行って
引き返してたらメリットとなる情報の『最新さ』はあまりない。
秀吉だって敗報知ってるなら急行軍するだろうから使者が早馬飛ばしても
あまり差はでなさそう。谷口央氏もこの書状については敗報受け取る前に
書かれたと解釈してるけど
492人間七七四年:2009/02/17(火) 01:13:52 ID:/sLIkn0g
ID:cWNoa3ELの史料解釈はデタラメ。
493人間七七四年:2009/02/17(火) 01:27:20 ID:+FGF9alt
秀吉が負けたとか妄言吐いてるしな
494人間七七四年:2009/02/17(火) 04:39:58 ID:HZEj7cyK
>>493
どう考えたって秀吉の負けだっつーの。秀吉自身もこの敗戦を自覚していたから、
直後に任官運動を始めて朝廷権威での政権樹立に方針転換しておる。

小牧長久手以前と以後の秀吉の政権と言うものは、内実が完全に違うと言う事を
少しは把握しなさいな。
495人間七七四年:2009/02/17(火) 04:42:37 ID:kDHUBPAd
家康側が勝ったのに人質だしたんだすごい謙虚なんですね
496人間七七四年:2009/02/17(火) 04:46:45 ID:HZEj7cyK
>>495
秀吉の政権の質が転換して状況が変わったって言っておるだろうに。

そんな事も理解できない?
497人間七七四年:2009/02/17(火) 04:49:32 ID:kDHUBPAd
たとえ家康に勝っても猟官運動はするだろ・・・
498人間七七四年:2009/02/17(火) 04:50:40 ID:kDHUBPAd
小牧長久手以前と以後の秀吉の政権について解説してください
499人間七七四年:2009/02/17(火) 04:51:09 ID:HZEj7cyK
秀吉が小牧長久手直後から、任官履歴を捏造までして猛スピードで官位を上げていった理由を
少し考えてみな。
500人間七七四年:2009/02/17(火) 04:51:55 ID:kDHUBPAd
小牧長久手以前と以後の秀吉の政権について解説してください
501人間七七四年:2009/02/17(火) 04:53:54 ID:HZEj7cyK
そして本能寺から小牧長久手まで、秀吉は官位に付く事が全く無かった事。
朝廷とはむしろ距離をとっていたことの訳を考えてみるといい。
502人間七七四年:2009/02/17(火) 05:00:19 ID:kDHUBPAd
清洲会議後天正10年には従五位下近衛少将
賤ヶ岳後天正11年に従四位下参議
小牧長久手後天正12年に従三位権大納言

順調に猟官してますが。
無位無官とかさ、NHKその時歴史が動いた 第185回 「新説・関白秀吉VS源氏長者家康」
の解説丸呑みしてんの?
あの番組は足利義昭に養子にしてもらうように頼み込んだが断られたとかって公共の電波で流すから気をつけような
503人間七七四年:2009/02/17(火) 05:03:56 ID:kDHUBPAd
ちなみに無位無官とかさ、NHKその時歴史が動いた 第185回 「新説・関白秀吉VS源氏長者家康」では

秀吉の上洛要請に家康が応じなかったのは、秀吉が無位無官で家康が従二位だから
下位の秀吉に従う必要が無かったが、関白になったから逆らえずに上洛したとかいうトンデモ内容です
504人間七七四年:2009/02/17(火) 05:22:13 ID:kDHUBPAd
あー>>502の年月日は秀吉がでっちあげたやつね

実際問題として、大坂城がゲリラ攻撃されてるような状況から
小牧長久手後、順調に西国攻略が進んでる状況とじゃ
猟官の内容も変わるんじゃねってこと

小牧長久手が例え家康を滅亡させるような状況になっても
猟官運動の速度はかわらんだろと

征夷大将軍なんか狙ってるような史料もないし
505人間七七四年:2009/02/17(火) 07:47:14 ID:Aopnf5Gr
前哨戦の戦術レベルでは家康側が勝利。
戦略レベルでは秀吉の大勝。

これでいいんでは
506人間七七四年:2009/02/17(火) 09:46:56 ID:r6M+pmp3
>>491
柏井にいる一柳から秀吉へ使番を出せば良いだけ、楽田を往復させる必要はない
兎に角、一方的に情報を伝えればよいのだから

それに敗報が秀吉に伝わり、出撃した秀吉が竜泉寺に到着するまで8時間要している
因みに秀次勢の敗報を仮に奇襲直後に発したとした場合、4時間で楽田に到着している
以上より、敗報を受けた直後に情報を送るような指示をしたならば、その価値は
十分ある
507人間七七四年:2009/02/17(火) 10:23:24 ID:r6M+pmp3
>>491
後、谷口央氏の分析は疑問符が付く
例えば谷口氏は信雄が長久手に出陣していないと言っているが、
合戦翌日の信雄による戦勝を伝える書状に
「とてもくたびれたので、(花押でなく)印判です」とある
これは信雄が長久手に出たからであろう

柏井周辺の諸将への書状は先ず周辺への警戒と、防備の喚起
後の書状で、家康が小幡城に入ったら伝える様に指示しただけで、
これをもって、事前に家康が移動していたことに気付いていたとは思えない
508人間七七四年:2009/02/17(火) 13:01:00 ID:+FGF9alt
>>503
ワロタ

そんなん鵜呑みにしてるとかマジ恥ずかしいなw
509人間七七四年:2009/02/17(火) 13:12:13 ID:mE4FAQOW
>>506-507
秀吉が敗報知って書状持ち使者を一柳に出したなら
秀吉の出立と同時に使者が柏井へ移動。その後一柳が家康の小幡への移動を
確認、それを知らせる使者を秀吉に派遣。こういう流れになり時間的メリットは
ほとんどない。それから秀次が白山林で急襲を受けた。それから四時間経って
秀吉がその報得て八時間移動にかかったとしたら午後二時には絶対つかない。
八時間って江戸期の軍記にしかない。江戸期の軍記なんて
書かれてるものによって細かい合戦経緯はバラバラ。本多300が秀吉80000
を足止めしたとかキチガイ話も載ってるくらい。史料価値云々以前の話で
こういう細かい合戦経緯についてはソースにしてたら議論になんかならない。
谷口氏は歴史研究家で色んな考察を繰り返して論文書いてるのに軍記をソース
にしたり他の部分持ち出して彼の見解を難癖つけて否定にかかっても仕方ない。
論理として無理がありすぎる。信雄出陣の件だって根拠を述べて論を書いてるのに
それから『小牧を出た軍勢』←ここ重要。
敗報受けた後なら当然小牧出た軍は小幡一回経由してて
今更『小牧出た』軍勢なんて形容よりも『小幡を出た軍』とか家康が経由した
他の拠点、場所が形容として使われるだろう
510人間七七四年:2009/02/17(火) 13:18:59 ID:/sLIkn0g
小幡を経由したかどうかなんて秀吉が知るわけないだろ。
511人間七七四年:2009/02/17(火) 13:28:16 ID:mE4FAQOW
小牧山から白山林方面への移動する時その途上小幡がある。
他の地点から大回りするとか秀吉方拠点のそば通るとか普通にありえないから。
それに形容として使われる言葉は小幡に限らん。それこそ白山林とかでもいい
512人間七七四年:2009/02/17(火) 14:09:36 ID:r6M+pmp3
>>509
>秀吉が敗報知って書状持ち使者を一柳に出したなら
>秀吉の出立と同時に使者が柏井へ移動。その後一柳が家康の小幡への移動を
>確認、それを知らせる使者を秀吉に派遣。こういう流れになり時間的メリットは
>ほとんどない。
ある。事前に情報を得る事は例え、2時間位でも十分価値がある

>それから秀次が白山林で急襲を受けた。それから四時間経って
>秀吉がその報得て八時間移動にかかったとしたら午後二時には絶対つかない。
>八時間って江戸期の軍記にしかない。
時間については確かにその通り。後、4時間でなく2時間の間違いでした
すいません
>江戸期の軍記なんて
>書かれてるものによって細かい合戦経緯はバラバラ。本多300が秀吉80000
>を足止めしたとかキチガイ話も載ってるくらい。
それは史料的価値が高い(長久手町史)とされる「小牧御陣長湫御合戦記」にも
載っている。但し忠勝は500、目的はあくまで物見(偵察)としている。
また、これによって遅れたという記述もない

>史料価値云々以前の話で
>こういう細かい合戦経緯についてはソースにしてたら議論になんかならない。
>谷口氏は歴史研究家で色んな考察を繰り返して論文書いてるのに軍記をソース
>にしたり他の部分持ち出して彼の見解を難癖つけて否定にかかっても仕方ない。
一柳の書状については特に谷口氏は理由を説明していない。

>論理として無理がありすぎる。信雄出陣の件だって根拠を述べて論を書いてるのに
一次史料の書状では信雄は出陣している。谷口氏は一次史料での証明はしていない。
また、谷口氏は楽田に秀吉がいるのに双方の大将が留守にするのはおかしいと言うが、
この時の小牧山には徳川家の二大家老の酒井・石川と本多忠勝がおり、十分といえる

>それから『小牧を出た軍勢』←ここ重要。
>敗報受けた後なら当然小牧出た軍は小幡一回経由してて
>今更『小牧出た』軍勢なんて形容よりも『小幡を出た軍』とか家康が経由した
>他の拠点、場所が形容として使われるだろう
いいえ、最初の出撃点が小牧なので問題なく小牧です。小幡には数時間しかいなかったし
それに小幡だと元からつめている本多秀孝の事になります
513人間七七四年:2009/02/17(火) 14:24:36 ID:OHSJeOd9
>>512
何かよくわからないがただでさえ時間推移があいまいなのに
二時間というのも不明だし秀吉の移動時間もあいまい。
専門家が論文書くからにはそれなりの論拠に基づくのが当然で
谷口氏も信雄の出陣に関してはともかく他は一次資料に則って
時系列を書いてるが。ましてその部分の記述の曖昧さをもって
他に転用してもなあ。だから敗報後なら『小牧を出た』という情報以外
にもその軍について新情報がありそれ以外の形容がされそうだ
と言ってるのだが。今更最初の出撃点を形容として使うというのもな
514人間七七四年:2009/02/17(火) 15:25:25 ID:r6M+pmp3
>>513
柏井に出した4月8日の秀吉の書状は4通あるが、そのどれも明確に
長久手戦の前後いつ出したかという明確な記述はない

最後の3、4通目では分散していた諸将を一ヶ所に固まらせ、防備を
固めるように指示しているが、これも自分としては敗報に対する備えと
考えるが、違う受け取り方もあるだろう

少なくとも、一次史料からは谷口氏の「秀吉が家康の出撃を事前に
知っていた」という説は見ることができない

一方的に奇襲を許したという事実を見ても、秀吉は家康出撃を
知らなかったと見る方が自然
515人間七七四年:2009/02/17(火) 15:36:07 ID:OHSJeOd9
>>514
>最後の3、4通目では分散していた諸将を一ヶ所に固まらせ、防備を
>固めるように指示しているが、これも自分としては敗報に対する備えと
>考えるが、違う受け取り方もあるだろう
小幡方面に家康が移動してたら当然備えするだろう。敗報とは別に関係ないかと
だから一方的に奇襲許したのはすぐ動かず敗報聞いてから動いたから、
と谷口氏は述べてる。信雄の件と違って断言のような記述をしてる。
別に学者の意見が絶対とは言わないがごく最近論文出されたのにそんな疑って
かかる理由もないんじゃ
516人間七七四年:2009/02/17(火) 15:39:40 ID:ubQBBO8m
>>513
…匿名の掲示板で「専門家の一言だから信用しろ」は、ちょっとかっこわるい根拠……
517人間七七四年:2009/02/17(火) 15:57:40 ID:r6M+pmp3
>>515
つまり中入り勢が危ないのに何も伝えずそのまま放置。
壊滅してから動きだすと。
それはないでしょう。
それは天下人どころか、人の上に立つ者としても失格では。

中入り勢は家康が動いている事を知っていたというのはナシですよ。
秀次勢は奇襲だからこそ壊滅したのですから。
518人間七七四年:2009/02/17(火) 16:07:36 ID:OHSJeOd9
>>517
それ言うならあんな作戦立てた時点で失格。
秀次が白山林で急襲受けた時池田勢も岩崎城攻め落としていた。
この時もし秀吉が秀次に後続させて2、3万兵つけてたら家康を襲えた。
竜泉寺付近に家康用の押さえ置きつつ中入り遂行は可能だったはず。
中入り勢に知らせが届かなかったのかもしれないが秀吉は知ってたけど
動かなかったから負けた、の方の論旨を研究者がはっきり述べてる。
どんな戦でも負ける側にはまけ原因がある事は多い。この戦だけ
特別視する事はない
519人間七七四年:2009/02/17(火) 16:32:53 ID:r6M+pmp3
>>518
もし、秀吉が知っていたなら、後世の資料に何らかの形で載っているはず
しかしその様な記述は一切ない
「細川家記」では9日朝に秀吉は小牧山を偽装攻勢しているが、特に細川を
褒めているだけである
細川の士が敵の炊飯の煙が少ないといぶかる話はあるが、この様な話は
秀吉周辺には見られない

そうなると強引な解釈としか思えない
520人間七七四年:2009/02/17(火) 16:42:44 ID:OHSJeOd9
>>519
一次資料のみで後世の資料に載らない事なんてたくさんあります。
君は信雄出陣派だったけど信雄の活躍は記されてないし。
わざわざ『小牧を出た』と形容されてるのにそれ以外の新情報を得ていたと
解釈する方が強引。ちなみに豊臣秀吉譜では池田森の敗死を聞いてから
秀吉は出陣した事になっている
521人間七七四年:2009/02/17(火) 23:02:00 ID:r6M+pmp3
東武談叢には9日早朝に家康らが出陣した事を知り、後詰しようとし
十六番まで出した後、午ノ下刻に敗報が楽田の秀吉に伝わったと
ある
秀吉出陣はその直後という

戦局に影響しない段階で知ったようですね
522人間七七四年:2009/02/17(火) 23:11:55 ID:NLsEBUEw
十六番て何ですか?
523人間七七四年:2009/02/17(火) 23:35:55 ID:r6M+pmp3
>>522
部隊数
524人間七七四年:2009/02/19(木) 19:08:12 ID:exqqdROI
興味深く読ませて頂いております。

秀吉方には敵がどの程度の規模の部隊なのか
なかなかわからなかった点に留意すると
秀吉方各部隊の行動が理解しやすいのではないでしょうか。

秀次勢は敗北した時点でも、
敵が徳川勢主力なのか、
小牧から分派された有力な別働隊だけなのかわかっていない。

堀勢も、目前の徳川勢別働隊を叩いているときには、
敵が目前の別働隊だけなのかわかっていないのは同じ。
徳川勢主力が参陣していることがわかった時点で撤退。

私たちは家康本隊がいることを知ってますが、
堀秀政は当初は別働隊以外の部隊があることを知らなかったわけで、
そう考えると、堀勢の徳川本隊確認後の戦術的対応の見事さもより高く評価できます。
(まあ作戦レベルではいろんな意見があるとは思いますが)

楽田の秀吉からすれば、秀次勢敗北の知らせを受けた時点では、
家康勢主力の位置は不明であり、
徳川勢主力による小牧からの攻撃や、
長久手に向かう援軍への待ち伏せ攻撃あるいは側面攻撃、
あるいは別働隊を収容するための機動といったさまざまな可能性を考慮する必要があります。

池田・森勢壊滅の知らせ(あるいはその前にあって当然な堀勢からの報告)で、
ようやく徳川勢主力が長久手に進出していることを確認できたということでしょう。

たしかに、秀吉としては長久手に家康本隊がいようといまいと援軍は送らねばならず
(また、それだけの余力があり)、
一時に送れる援軍の数も、あんなものでしょうが、
そのあたりの情報収集の送れに、
賤ヶ岳のときとちがって、秀吉が後手に回った理由がありそうに思えます。
525人間七七四年:2009/02/19(木) 21:33:43 ID:LTRSl0dg
秀吉が小牧から部隊が出撃したのを知るのは9日早朝
記録には二将(家康・信雄)とあるが、これは後知恵でしょう

細川家記には炊飯の煙が少ないという、話がありますが
同様の理由で知ったのでしょう

ただ、夜に出撃した事に気付かなかったのかについては
色々、記録を見ると
1.出陣したのは家康・信雄の旗本で、小牧の陣地には
  酒井・石川らが元々いたので兵力の移動がなかった
2.部隊を先鋒、主隊の二つに分け出撃
3.少し前に二重堀砦に誰かが鉄砲を撃ち、騒ぎになった
4.当日夜は霧雨だった(あまり信頼性のある記録ではないが)

色々あるが、早朝に聞いた秀吉があまり危機感を感じていない様
(細川家記では中入り勢では心もとないから、後詰すると言ってる)
から、仮に知ったとしても二時間ほどで夜間隠密行動で小牧から
小幡まで着き、翌日早朝に中入り勢が攻撃されるとは考えていな
かったのかもしれない

526人間七七四年:2009/02/19(木) 22:08:05 ID:exqqdROI
524ですが、なんで気づかなかったのかという疑問
(私も感じております)も含めて同感です。
(土塁や塹壕は防御のほかに、後方の部隊を見えなくする効果があること、
小牧の留守番徳川勢が精一杯「いるふり」をしていたことは確かにしろ。

ついでにいえば、実は私、本多忠勝隊の秀吉援軍追走説をそれなりに説得力があると思っております。
このあたりでは秀吉方にも状況はわかってきている筈ですが、
「もしかしたら、本多隊の背後に家康本隊がいるかも知れない」という疑いがまだ秀吉方にはあり、
その疑心暗鬼を最大限に活用した遅滞戦術だったのではないかと空想しております。
(この時点では本多忠勝も家康がさっさと小幡城に撤収しているという確信は無かった筈ですから、
秀吉の援軍を一秒でも遅らせることには意味がある。)

基本的には皆様が「長久手に徳川勢出陣」と「長久手に家康本隊出陣」を分けて考察していただければ
それ以上いうことはございません。
527人間七七四年:2009/02/19(木) 22:10:22 ID:exqqdROI
>525
524です。
なんで気づかなかったのかという疑問(私も感じております)も含めて同感です。
(土塁や塹壕は防御のほかに、後方の部隊を見えなくする効果があること、
小牧の留守徳川勢が精一杯「いるふり」をしていたことは確かにしろ。)

ついでにいえば、実は私、本多忠勝隊の秀吉援軍追走説をそれなりに説得力があると思っております。
このあたりでは秀吉方にも状況はわかってきている筈ですが、
「もしかしたら、本多隊の背後に家康本隊がいるかも知れない」という疑いがまだ秀吉方にはあり、
その疑心暗鬼を最大限に活用した遅滞戦術だったのではないかと空想しております。
(この時点では本多忠勝も家康がさっさと小幡城に撤収しているという確信は無かった筈ですから、
秀吉の援軍を一秒でも遅らせることには意味がある。)

基本的には皆様が「長久手に徳川勢出陣」と「長久手に家康本隊出陣」を分けて考察していただければ
それ以上いうことはございません。
528526・527:2009/02/19(木) 22:12:06 ID:exqqdROI
ごめんさい。
酔っぱらって二重投稿しちゃいました。
529人間七七四年:2009/02/22(日) 23:01:04 ID:tXWFHr2H
柏井の一柳は何時からそこにいたのか?
中入り隊の後からなので長久手合戦の直前という事なのだろうが、
そうなると秀吉が小牧から軍勢が出撃した事を知った上での対応
としての行動か、それ以前の中入り行動の一環としての出撃か

書状の内容からすると前者だが、それならどうして柏井で停止
するのか?
530人間七七四年:2009/02/22(日) 23:07:32 ID:oBf0ssGs
>>529
中入りの途上で柏井、大草など中継地点に拠点が普請された。
中入りした時山内らと一緒に派遣されてる
敗戦前日の丹羽長秀宛書状でその事が書かれてる
531人間七七四年:2009/02/23(月) 02:23:01 ID:+901sj92
なるほどねぇ。
532人間七七四年:2009/03/10(火) 00:50:04 ID:5VFdBT9g
ちょっとスレ違いの話題だが、この時期の丹羽家が120万石とか言われるがどう考えてもないよね?

越前+若狭+加賀半分で、多めに見積もっても80万石。
機内、及び近国の国高が、過大に評価されてた影響かな?
533人間七七四年:2009/03/15(日) 08:21:40 ID:OOMkdVXk
長久手の戦い、秀吉方の敗北は、三好秀次の軍が早朝に徳川軍の奇襲を受けて壊滅したことに端を発する。もし三好軍がそれなりに持ちこたえていれば、近くにいた堀秀政が援軍にかけつけ、徳川に痛打を浴びせることも可能だったろう。
三好軍の敗北は、正面から戦っての負けではなく、実力をだす暇もない負けであっただけに惜しまれる。三好方にすぐれた前線指揮官がひとりおり、奇襲の可能性を計算に入れて備えていれば防ぐことが出来た、と考える。
軍の強さ、弱さはこうした現場指揮官を持てるか否かの違いだろう。そうした指揮官を養成したり、引きたてたりするのが総指揮官の役割なのだが、秀次は若すぎた。
534人間七七四年:2009/03/15(日) 09:37:14 ID:y742+fUw
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
535人間七七四年:2009/03/15(日) 09:51:28 ID:y742+fUw
◎豊臣秀吉

・熊見川で毛利軍にボロ負けする
・宇喜多と協力しての軍事行動で美作で駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、光秀軍よりも多い損害を被る (しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい)
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で襲ってしばらく持ち堪えられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの家康に領国中の兵100000程かき集めて
短期決戦挑んでボロ負けする
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される


雑魚すぎて可愛そうになってくるわ
536人間七七四年:2009/03/15(日) 10:31:06 ID:Xnj/UUTU
歴ゲー板で隔離されてろ
537人間七七四年:2009/03/18(水) 21:00:26 ID:l/b+ljG1
l
538人間七七四年:2009/03/19(木) 18:47:10 ID:GNKJ8gco
堀秀政はカッコイイ。
映画やテレビの時代劇って苗字ではなく名前で呼ぶよね。
会社でやったら変だよな。
539人間七七四年:2009/03/19(木) 20:37:54 ID:pD/OH6hp
普通は名前(諱)では呼ばないよ。
堀秀政に対して「秀政」と呼びかけるのは失礼に当たる。
通常は官職名や治めている地名で呼ぶ。「内府殿」「治部殿」「薩摩殿」など。
官職がなかったり親しい場合は通称で呼んだり。「(堀)久太郎」「(本多)平八郎」など
540人間七七四年:2009/04/11(土) 11:48:03 ID:Wzq+nM1y
そうそう
家臣が「信長様」とか言うのは絶対にないから

殿、陪臣なら大殿、お館様もしくは官職で右府様とか

>>535
家康の方が負け戦おおくね
541人間七七四年:2009/04/12(日) 03:43:52 ID:VBaXH66I
>>540
むしろ信長のほうが負け戦は多い。

まあ、真面目に答えるだけ無駄な物だとは思うけどねw
542人間七七四年:2009/04/13(月) 10:47:58 ID:Lus1Jl0e
畿内制圧後の信長へは直臣も陪臣も上様か御上としているね
543人間七七四年:2009/08/04(火) 17:00:21 ID:SLPtsLMb
保守
544人間七七四年:2009/08/05(水) 13:13:08 ID:acV/57km
秀吉にすれば対家康は早期天下統一事業への重要なポイントだからね。
時間費やして根絶やしにするより臣従させることが第一。
天下に秀吉に逆らっても無駄であり、信長と違い、臣従すれば現在の地位に
応じてそりなりの処遇で迎えられるということを喧伝する
一種のプロパガンダだからね。
だから、外交であろうが戦闘であろうが、どう早期に勝つかだけの問題なのに
別働隊の奇襲に成功しただけで勝ったとか言ってるヤツは
かなりのアホ。
日本が真珠湾攻撃でアメリカに勝ったと言ってるようなもの。
545人間七七四年:2009/08/05(水) 13:16:00 ID:sCAs2lIw
はいはいよかったね秀吉しゅごいねー
546人間七七四年:2009/08/05(水) 14:07:52 ID:cSHKw4AJ
最初は殺る気満々だったが、思っきり横面を張り飛ばされて
屁垂れるが、小牧・長久手の秀吉
547人間七七四年:2009/08/05(水) 14:14:18 ID:sCAs2lIw
だいたい小牧長久手の敗戦で、それまでの実力での武力討伐路線を捨てて
慌てて任官した上で朝廷権威に頼った惣無事令路線に切り替えるんだから、
勝った負けた以上に、秀吉にとってものすごいショックを与えた戦争だったっつーの。

後年の強大化した豊臣政権のイメージで感覚がおかしくなっているのだろうが、
豊臣政権が強大化したのは、正しく家康の臣従からだよ。
548人間七七四年:2009/08/05(水) 14:15:12 ID:PIsiqPCk
当時秀吉は大坂近辺がゲリラに暴れられたりしてる上に西国も怪しいしで
正直家康にかまってる時間はなかったわけで
549人間七七四年:2009/08/05(水) 15:01:00 ID:acV/57km
早速の反応、ご苦労!

はっきり言って同じ陣地戦でも賤ヶ岳のが余程真剣勝負で苦戦している訳で、
小牧長久手など拡大した戦線の一部、時間の問題レベルの戦。
必死になって屁理屈こねて家康もちあげようとすればするほど
アホ発狂に見えるだけですよ。
家康は弱いくせにプライドだけは高いボンボンだから
従来、織田家の同盟者である自分とその一司令官にすぎない秀吉に
素直に頭を下げることができないく、三方が原と同じように意地で出撃。
立ち枯れ寸前に秀吉の一部隊がやってくださいという信じられないノーガードでスキ見せて
それを奇襲で戦果を上げるが降参。
これってボンボン家康の気性を知った上での秀吉の公算とも言えるほど、
上の賤ヶ岳の緻密な戦に比べて明らかにずさんな作戦。
家康を端からなめていたとも言えるが
家康に土産をやって臣従しやすくしてやった秀吉の作戦じゃないの?
邪魔な池田や森も始末できたし。
550人間七七四年:2009/08/05(水) 15:02:45 ID:PIsiqPCk
まぁ嫡男人質に差し出してる時点で戦略的には完敗してるわけで
551人間七七四年:2009/08/05(水) 15:39:45 ID:BbMHe7Qa
あのまま池田が戦果を挙げておればそれこそ獅子身中の虫になるわけで
家康よりもそっちの方が大問題
従って上手く駆除できたのでほくそ笑んでたのではないか
552人間七七四年:2009/08/05(水) 15:42:33 ID:PIsiqPCk
美濃尾張を与える約束だった品
553人間七七四年:2009/08/05(水) 15:42:38 ID:sCAs2lIw
夏休みだねえ。
まともに書き込みして実に損をした。
554人間七七四年:2009/08/05(水) 15:43:45 ID:PIsiqPCk
>>553
小牧長久手の頃、秀吉がどれだけ家康以外の敵を抱えてたと思ってるんだ?
555人間七七四年:2009/08/05(水) 15:49:53 ID:sCAs2lIw
>>554
だから何?
それも含めての戦略だろ。「こういう条件だから負けじゃない」とか、
子供の言い訳にもならん。

じゃあ最初から家康を敵にして戦うなって話だ。
556人間七七四年:2009/08/05(水) 15:50:24 ID:PIsiqPCk
その戦略で完敗してるんじゃん
557人間七七四年:2009/08/05(水) 15:51:37 ID:PIsiqPCk
修正
その戦略で「家康が秀吉に」完敗してるんじゃん

いくら戦術的勝利を挙げても戦略的に敗北したのは事実な訳だし
558人間七七四年:2009/08/05(水) 15:52:55 ID:sCAs2lIw
「敗北」って何でしょうかね?w
妹や生母まで人質に出すのが「勝利」ですかw
559人間七七四年:2009/08/05(水) 15:53:46 ID:PIsiqPCk
えーと
小牧長久手と朝日姫と大政所を差し出したのを一緒くたにしてるの?

だめだコイツ
560人間七七四年:2009/08/05(水) 15:57:57 ID:PHUnbeIv
小牧長久手の講和として秀康を差し出したのと
上洛させるために妹と縁組みさせて大政所を差し出したのとは別だからな
561人間七七四年:2009/08/05(水) 15:58:53 ID:TYqByzBb
>>558
馬鹿発見。もっと歴史の知識をつけてからいらっしゃいな。
562人間七七四年:2009/08/05(水) 16:00:19 ID:PIsiqPCk
>>558
試しにさ、当時秀吉がどれだけの敵を抱えてたか挙げてみてよ
563人間七七四年:2009/08/05(水) 16:03:53 ID:sCAs2lIw
>>562
だからさあ、敵抱えていることが秀吉にとってどんな情状酌量になるの?
564人間七七四年:2009/08/05(水) 16:04:42 ID:PIsiqPCk
質問に質問で
565人間七七四年:2009/08/05(水) 16:07:59 ID:PIsiqPCk
>>563
あとさ、於義丸と朝日+大政所はトレードじゃないぞ?
何考えて朝日とか持ち出してるの?馬鹿なの?死ぬの?
566人間七七四年:2009/08/05(水) 16:10:03 ID:PHUnbeIv
ID:sCAs2lIwは今必死にwebで検索中っと
そもそも>>547のレス見ても明らかに頭悪いから
スルーした方が良い
567人間七七四年:2009/08/05(水) 16:12:03 ID:TYqByzBb
>>563
情状酌量もなにも戦術レベルで別働隊撃破しただけで戦略的には秀吉の勝利。
負けてもないのに情状酌量も無い。
負けたのは跡取り差し出した家康。
568人間七七四年:2009/08/05(水) 16:12:42 ID:sCAs2lIw
はいはい自分の常識から外れた意見はバカの言うことですよねー。
569人間七七四年:2009/08/05(水) 16:14:37 ID:sCAs2lIw
さっきから違和感を感じていたんだが、何で於義丸が嫡子って事にされてるの?
570人間七七四年:2009/08/05(水) 16:14:41 ID:PHUnbeIv
>>568
質問にも答えられずにその言葉はないわ
571人間七七四年:2009/08/05(水) 16:17:02 ID:PHUnbeIv
当時家康が嫡子を定めて無い上に妾腹でも
世間一般的には長子=嫡子というのが一般的だから

逆に長子じゃない跡継ぎを定めようとした場合たいてい家臣団からの反発等あるわな
長宗我部んとこみたいに
572人間七七四年:2009/08/05(水) 16:17:52 ID:KhmsBqIR
ID:sCAs2lIwはなんで聞かれたことには何も答えないで自分の質問だけするの?馬鹿なの?死ぬの?
573人間七七四年:2009/08/05(水) 16:19:16 ID:TYqByzBb
wiki見てるんだろ
ID:sCAs2lIwみたいな聞きかじりで知識として持ってない知ったかのよりどころだから
574人間七七四年:2009/08/05(水) 16:21:09 ID:PIsiqPCk
ほんと質問に答えてくれないよね
ただ当時敵対してた勢力挙げるだけなのに知らないのかよ
575人間七七四年:2009/08/05(水) 16:24:11 ID:PHUnbeIv
当時の敵対勢力も知らないで語ってたのか
相当だな
576人間七七四年:2009/08/05(水) 16:24:53 ID:TYqByzBb
今絶対wiki見てるだろ>>ID:sCAs2lIw
577人間七七四年:2009/08/05(水) 16:26:46 ID:PIsiqPCk
ID:sCAs2lIwはもうスルーするわ
ダメだこいつ
578人間七七四年:2009/08/05(水) 17:37:14 ID:cSHKw4AJ
>>549
家康よりも池田・森の強大化の方がマシなんですけど
579人間七七四年:2009/08/05(水) 17:41:16 ID:cSHKw4AJ
後、於義伊は徳川家としてはあくまで養子
580人間七七四年:2009/08/05(水) 17:46:28 ID:PHUnbeIv
>>578
池田は信長の乳母兄弟で秀吉より古参
小牧直前までは信雄側につくと言われてた人物
立場上秀吉の支配下ではなく協力者
池田が強大な力を持ってもいろいろめんどくさい事になるのは確実

後の情勢を知ってれば家康の方が危険ってのはわかるが、当時は家康よりも
強大な力を持つ大名はごろごろ居たし、島津は九州統一間近だわ
長宗我部もいるわ紀伊半島も怪しいし大坂城下町に火をつけられるわな状況だし
ある程度の取捨選択や妥協は必要な状況だった

歴史にIFは無いが、家康殲滅に注力してる間に西国の覇権を握れなかったなんて未来の方が
秀吉にとっては好ましくないんじゃね
581人間七七四年:2009/08/05(水) 17:49:19 ID:PHUnbeIv
>>579
徳川家でどう扱っていようが
対外的に見れば信康亡き後の最年長の家康の血を引く男児だという事実は変わらん

何人も居た娘じゃなく男児それも最年長とくればそれがどういう影響を及ぼすかは明白
582人間七七四年:2009/08/05(水) 17:53:48 ID:acV/57km
根拠が無い。
後に家康の天下となるという結果論でしかない。
池田・森等、旧織田家の同僚を巨大化することは
何時、三法師や信長の子を担ぎ上げられるとも知れず、
下手すると秀吉在世下にも政権崩壊する危険性が残る。
583人間七七四年:2009/08/05(水) 17:54:36 ID:cSHKw4AJ
>>580
強大な力と言ってもどれ程のものか
基本的に彼は秀吉に協力的だし、戦も強い
堀や丹羽の様にある程度は自儘にできる相手と言える

家康は信長の唯一と言っても良い、長期間の同盟者
いかに実体が与力大名としても、独立した大名である事は
間違いない
放置しておけば厄介なのは間違いなく、少なくとも内政干渉できる
優位は持ちたかったであろうが、果たせずに結果として旧来の
織田政権の立場以上の成果を得るに至った
584人間七七四年:2009/08/05(水) 17:55:13 ID:lMDnl15s
ID:cSHKw4AJも大概だな。
建前上養子だろうがなんだろうが徳川家の長子を人質に差し出したって事実は変わらんよ。

朝日だって建前上家康の後添えだが実質は人質なわけだし。

別に妾の子だからくやしくないもんねー
なんて通じるのは家の中だけ。
585人間七七四年:2009/08/05(水) 18:00:34 ID:cSHKw4AJ
>>581
対外的でなく豊臣家から見てという意味

それに当初は家康の異父弟(定勝)だす予定であったが、
於大の方が難色を示したので変更している
586人間七七四年:2009/08/05(水) 18:04:26 ID:+JpTUQtL
>>583
後の家康の実態を把握して驚異驚異だ抜かしてるけど
当時としては九州制覇目前の島津や関八州を押さえてる
北条の方が強大だろが
当然優先度も変わってくるわ

後の結果を知った状態であのときこうするのがベストだったとか語ったって意味ねーよ
587人間七七四年:2009/08/05(水) 18:06:38 ID:cSHKw4AJ
>>586
脅威だよ、何だかんだ言っても秀吉の作戦を崩壊させたんだから
本能寺以降、勝ち続けた彼にとってはかなりの精神的トラウマでしょうね
588人間七七四年:2009/08/05(水) 18:08:18 ID:acV/57km
現に中入れ策はとても直近の戦の作戦としては成功の例は無く、
秀吉が目の前の一戦に勝つために行ったとはとても考えにくい。
やはり、池田・森らに押し切られたというのが最もらしい。
このような政権がやりにくいのは当然。
589人間七七四年:2009/08/05(水) 18:08:39 ID:PHUnbeIv
>>585
だから実質人質だろうが
いくら養子だ養子だ言ったって講和の条件に差し出した人質だっていうのは変わらん
それは当事者の秀吉家康以外の人間から見ればわかりきってることだろうが
590人間七七四年:2009/08/05(水) 18:12:42 ID:x5j2193F
>>587
精神的トラウマとかお前秀吉の何を知ってるんだよ
憶測でモノ語るってレベルじゃねーぞ
591人間七七四年:2009/08/05(水) 18:13:55 ID:lMDnl15s
家康設アホ過ぎて頭痛くなってきた
592人間七七四年:2009/08/05(水) 18:15:46 ID:+JpTUQtL
>>587
島津や長宗我部、北条ら大名を家康よりも軽視できる根拠は何?
593人間七七四年:2009/08/05(水) 18:16:27 ID:cSHKw4AJ
>>589
多門院日記には猶子、兼見卿記には人質とあります
色々な視点がある様で
594人間七七四年:2009/08/05(水) 18:17:10 ID:+JpTUQtL
546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/05(水) 14:07:52 ID:cSHKw4AJ
最初は殺る気満々だったが、思っきり横面を張り飛ばされて
屁垂れるが、小牧・長久手の秀吉


こんなレスしてる時点でお里が知れるわ
595人間七七四年:2009/08/05(水) 18:18:01 ID:cSHKw4AJ
>>590
何って、秀吉の家康に対する厚遇振りとか
596人間七七四年:2009/08/05(水) 18:18:53 ID:PHUnbeIv
>屁垂れるが、小牧・長久手の秀吉
ヘタレたのは人質差し出した家康の方だろどう考えても

家康の戦略的勝利だったとでも言い張るつもりか?
597人間七七四年:2009/08/05(水) 18:20:53 ID:cSHKw4AJ
>>592
その時、もっとも国境に接して、睨み合っているから
598人間七七四年:2009/08/05(水) 18:21:43 ID:x5j2193F
当時家康は律儀者と評判な上に、養子秀康を貰い受け、実妹を家康に輿入れ
血縁の少ない秀吉にとって厚遇しない理由がない

秀吉死後の淀君だって、利家が秀頼を伏見から大坂に移させようとしたときに
家康と一緒になって反対してるほど信頼してた
599人間七七四年:2009/08/05(水) 18:24:08 ID:+JpTUQtL
>>597
えと
本拠地の大坂に最も近いのは紀伊、四国で
小牧に出陣する直前にも大坂の町に火の手が上がるほど情勢不安だったんだけど
そういう事知らなかったでしょ?
600人間七七四年:2009/08/05(水) 18:34:57 ID:PHUnbeIv
家康を支持する連中(敢えて儲という言葉を避けるが)って
明らかに足りないよないろいろと

質問に質問で返して
質問に答えられないと逃走するID:sCAs2lIwとか


もっとも国境に接してるのが家康とか完全に歴史を知らないで
どっかで見た単語だけ並べてるんだよ

小牧長久手での局地戦の勝利が秀吉の野望を砕き征夷大将軍任官をあきらめさせ
家康を無視できない立場に押し上げ後の徳川幕府につながったのだ!
みたいなさ

んで細かいこと聞くとたいてい答えられないでID:sCAs2lIwのように逃げるとか

家康が一番近い敵対勢力だったとかとんちんかんな事を抜かすID:cSHKw4AJとか
601人間七七四年:2009/08/05(水) 18:36:26 ID:lMDnl15s
ID:sCAs2lIwとID:cSHKw4AJがスルーかNGID推奨
どうせ窮すると逃げる
このスレでの家康儲の逃走率は異常
602人間七七四年:2009/08/05(水) 18:54:50 ID:PHUnbeIv

ID:cSHKw4AJ<於義丸は養子なので人質ではない!家康大勝利!

こんなんばっか
603人間七七四年:2009/08/05(水) 20:55:53 ID:cSHKw4AJ
>>598
ただ律儀だけでなく、有能で強いからこその優遇
>>599
紀伊は既に長久手前に大敗、四国は渡海前の段階
604人間七七四年:2009/08/05(水) 20:58:41 ID:cSHKw4AJ
>>602
於義丸は多門院日記で養子とあっても人質、絶対そうなんだ〜
それぞれ立場によって異なる意味としてとらえてる現実を無視するな
605人間七七四年:2009/08/05(水) 22:05:58 ID:C4VCMVo6
史家で人質ではないという解釈をとっている人いるのかな?浅学かもしれないけれど自分は知らない。
606人間七七四年:2009/08/05(水) 22:11:55 ID:cSHKw4AJ
平野明夫
607人間七七四年:2009/08/05(水) 22:27:30 ID:C4VCMVo6
平野氏は『徳川権力の形成と発展』においては豊臣政権における徳川家の独自性を否定してるけどな。
608人間七七四年:2009/08/05(水) 22:33:22 ID:cSHKw4AJ
その中の「豊臣政権下の徳川氏」にはそうあったけど
基本的にそこだけ上げたので

それ以外の五ヶ国総検地なんかは徳川氏の独自性が
あると考えてますし
609人間七七四年:2009/08/05(水) 22:37:34 ID:C4VCMVo6
平野氏はその五か国総検地・天正検地を取り上げて独自性を否定してるんだけどね。
まあ自分はその論には首肯はできないんだけど。
610人間七七四年:2009/08/05(水) 22:41:00 ID:cSHKw4AJ
はい、だからそこら辺は私は本多氏や和泉氏の考えを支持する訳で
下段はそういう意味で書いてます
611人間七七四年:2009/08/07(金) 18:26:07 ID:hrCGsG6O
まぁ、秀吉は最初は家康にも信雄と同じく、人質として秀康を求めていたようだけど、家康はこれは拒否したようで
一時は両軍が出撃して睨み合う事態になったけど、秀吉が先に後退した後に信雄が先に講和

その後、家康とは更に交渉を重ねた結果、人質ではなく養子と言う事で決着がついた様ですな
612人間七七四年:2009/08/08(土) 10:05:38 ID:6iDh+Z+d
普通に引き分けでしょ。って結論ではダメなんですか?

まあ、家康が人質出しているのだから、総合的には秀吉有利だったのは事実だろうが、
家康がその時点で臣従したわけではないのはその後の経緯で明らかだし、一方的に秀吉の勝利とも言いがたい。
そして、長久手で家康が勝ったのも事実。
その長久手だけ持ってきて戦全体を家康の勝利とするのは不当だが、
かといって、長久手の敗戦を秀吉の責任ではないとするのも不当でしょう。
当時の秀吉の政権内部にいろいろあったとしても、それがその時の秀吉の実力なのだから、
それも含めて秀吉軍の局地的敗戦だったと評価すべき。
613人間七七四年:2009/08/08(土) 20:13:44 ID:LvzaFgWC
家康が織田政権時の特別な立場以上の地位を得たという点で、家康は戦略目的を確保できたし
秀吉も天下統一の最大のハードルを通過したという意味で、両者とも目的を得たと言うべき
614人間七七四年:2009/08/09(日) 23:29:47 ID:tqISooK6
天下を取る吉兆
615人間七七四年:2009/08/26(水) 00:45:38 ID:fES3TtE8
実際素行の悪い鬼武蔵やら立場的に上な恒興がいなくなったのは秀吉的にはメリットしかないような
616人間七七四年:2009/08/26(水) 02:53:10 ID:rbTeIA4/
その分、家康の強大化では割に合わないでしょうが
617人間七七四年:2009/08/26(水) 08:05:19 ID:kHI6v6SS
>>615
いや、別に恒興は立場的に上じゃあないよ。織田政権内で与えられていた地位や権限は、
中国方面軍の総司令官であった秀吉の方が圧倒的に上。
信長の息子信雄や同盟者の家康なら、少なくとも織田政権内の立場は秀吉より上と言えるだろうが。
だから、どちらかといえば信雄家康の勢力をより削減できた方が秀吉にとっては都合が良かった。
618人間七七四年:2009/08/26(水) 08:17:33 ID:P7nc2Lip
鬼武蔵ってそんな素行が悪かったの?
619人間七七四年:2009/08/26(水) 11:39:32 ID:JwsH44NR
>>618
信長、信忠親子のあからさまな寵愛を受けていたから、敵は多かったようだ。
620人間七七四年:2009/08/26(水) 12:17:03 ID:fES3TtE8
>>617
地位や権限だけ見ればそりゃそうだけど
信長の乳母兄弟で最古参な武将があの情勢で信雄じゃなく秀吉に付くというのがでかい

羽黒では秀吉本隊が到着するまで待機っていう指示を無視してるしお咎めもない
当時は殆どの旧織田家の同輩武将は、秀吉の部下じゃなく、同盟的な立場だった
それに情勢的に、信雄側につくと家康でさえ思っていた所へ秀吉についたからこそ、
美濃で決戦しようとしていた家康のもくろみが狂ったわけで


>>618
信長が上洛をしたときに、各関所を厳重に守らせた
長可は謁見のために上洛しようとし、関所で名を名乗っただけで通過しようとしたら
番兵に阻まれたため怒ってこれを殺害、放火し混乱に乗じて突破
信長に事の次第を述べ切腹しようとしたところ信長もあきれてこれを許した

信長が命じた琵琶湖の瀬田橋が完成し、信長の渡り初めがないうちは使用禁止にしていた
その瀬田へ長可が乗り込み、事情を聞いても橋があるならその橋で渡るのが当然と橋奉行
山岡美作守の家臣を殺害、騒動を聞いてやってきた他の山岡美作守の家臣に、無礼を働いた
森家の中間を殺害したと大嘘をついて逃走
後に発覚して山岡美作守が信長に訴えると、あいつはイカれてるから相手にするなと言われた

熱田の橋が完成して、秀吉は「身分の上下を問わず、下馬させ、歩いて渡るように」と浅野長政に申し付けた
長可は騎乗したまま橋を渡ろうとしたので、長政の家来が押しとどめたので怒って殺害
無礼打ちだと偽って逃走

毛利河内守に喧嘩をふっかけてやろうと鞘当てをしたがスルーされた
河尻肥前守と毛利河内守を出し抜いて戦功を挙げたら信忠に怒られた

本能寺の変が発生して京へ脱出する際に
国人衆の妻子を生かしたまま磔にして盾にして逃走し、国境に到着したら足手まといだと殺したり
木曽福島城では、城門を破壊して勝手に乗り込んで食い散らかす、城内に火をつけようと暴れたり
木曽義昌の息子を養子にするという名目で強引に拉致して人質にしたりやりたいほうだい

長可が羽黒の陣で敗戦を喫した後
犬山に豊臣秀吉がいたので諸大名が登城した
そこには細川忠興、蒲生(忠三郎)氏郷らが列座していた
そこへ長可がやってきたところ、みんなはそれなりの挨拶をしたのに、
蒲生氏郷だけは大身の身なので上座で寄りかかって座って、長可には挨拶をしなかった
刀を2、3寸抜きかけ蒲生の前に行き、膝を押し立て、
「そこもとは鈍三郎(どんざぶろう)か?!忠三郎か?!」とつっかかった!
しかし、氏郷は挨拶をしない
長可はまたまた突っかかったが、氏郷何も言わない
長可は「どちらの名でもないようだな!」と言い捨て立ち退いた
後で氏郷は、「(長可は)羽黒で負けた腹いせに無理矢理ケンカを売ってきたのだ」と言ったという
そのときの出来事を物語した細川忠興は、「今思い出しても脇の下から汗が流れる」と言っていた

池田・森は我が癪(しゃく)の虫だったけど、今日戦死してくれたのはこの秀吉が天下を取るべき瑞祥
621人間七七四年:2009/08/26(水) 14:22:11 ID:P7nc2Lip
なるほど
こんなキチガイが運悪く鉄砲の弾にあたって死んだのは
秀吉にとって天下を獲りなさいという天恵だったわけだ
622人間七七四年:2009/08/27(木) 00:55:44 ID:FvcVeNx4
>>620
そりゃあ、小牧の陣の際に恒興が秀吉についた影響は大きかっただろうが、
とりあえず、秀吉にとって少なくとも信雄・家康以上の目の上って事もないだろうと。
623人間七七四年:2009/08/27(木) 22:29:12 ID:RHCJ/ZMU
>>622
秀吉方に付く条件の美濃尾張を領有されるとかなり面倒な存在じゃない?
秀吉に忠誠を尽くす人間でもないから、対徳川の防壁の前に
秀吉の西国の情勢次第で寝返りそうだわ
624人間七七四年:2009/09/06(日) 02:59:05 ID:AG1rMrTh
生き残っても信包丹羽蒲生掘程度の存在にしかならないんじゃねーの
徳川に負けて死んで豊臣政権にはプラスだったなんてこたーないだろ
625人間七七四年:2009/09/06(日) 02:59:55 ID:rOUEJUO/
>>624
んなこたーない
626人間七七四年:2009/09/18(金) 20:47:45 ID:BbaHL2Sh
保守
627人間七七四年:2009/10/08(木) 22:02:58 ID:GDvEug2R
家康は上洛して秀吉は京を追われるという
噂が当時流れたのは事実やで、秀吉も焦ってはおったわな。
628人間七七四年:2009/10/28(水) 16:30:40 ID:7IPG7t6b
【画像あり】「同級生の女の子に頼んでみた」中学生ハメ撮りAVが流出 ★14
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1256707678/



552703857421874
629人間七七四年:2009/10/28(水) 16:33:40 ID:IlX4Tek6
実際にこの乱の最中京で秀吉への謀反騒ぎもあった。
合戦が長引くと困るのは秀吉のほうだった。
630人間七七四年:2009/10/28(水) 16:42:20 ID:XUyKUPcM
京以前に雑賀衆も五月蠅いわ大坂の城下町に火の手が上がる騒ぎはあるわ
四国の長宗我部もいるし九州じゃ島津が統一間近だわ北陸の佐々も頭痛いしで正直
一番大変なときだった
631人間七七四年:2010/01/27(水) 22:54:41 ID:FWs5ONHf
いいかい、長久手の敗北には3つの意味があったんだよ

まず1つ目は、滞陣が長引くことによって真っ先に殿下の意に
服さなくなる者たちを焙り出すこと

2つ目は、その者たちを自らの手を汚さずに始末すること

そして3つ目は、家康に勝ちを与えることで面目を施させ、
有利な条件で和議を取り付けること

そうやって殿下は狙いを見事に果たしたのさ
632人間七七四年:2010/01/27(水) 23:55:26 ID:IXa0lZM7
はいはいデンカデンカ
633人間七七四年:2010/02/28(日) 16:26:12 ID:KnV+ang+
>>631
こいつは歴史を結果論でしか語れない
うんこちゃんだなwwww
634月孔雀:2010/02/28(日) 17:32:34 ID:C+O3qxX5
まあ。冷静な判断でよ。
635月孔雀:2010/02/28(日) 17:33:29 ID:C+O3qxX5
うんこって言ってる奴は、・・・・何者?
636人間七七四年:2010/02/28(日) 18:44:01 ID:SCFh+Ntv
とりあえず戦功第一は蒲生ってことで
637人間七七四年:2010/03/06(土) 18:21:12 ID:8rgOEokT
小牧山の山頂付近に石垣が見つかっていま話題になっているね。
638人間七七四年:2010/03/07(日) 13:49:51 ID:/o2kvj1P
昔から在りよったわwwww
>>635
まずは自分でよく考えてから書こうや、な?
639人間七七四年:2010/03/07(日) 23:21:24 ID:x40NX+co
上杉は反北条兼、北関東管領として秀吉派
640人間七七四年:2010/03/08(月) 14:43:35 ID:b7+hFQ7p
ところで関東以外に徳川飛ばすとしたらどこがよかったと思う?
641人間七七四年:2010/03/08(月) 14:45:07 ID:nTen4rRZ
蝦夷
蝦夷王国として独立されたかもしれんけど
642人間七七四年:2010/03/11(木) 07:48:49 ID:JuE/6goX
八丈島やろwww
643人間七七四年:2010/04/02(金) 17:11:22 ID:lqFjtAhl
小牧山の石垣は当然この頃に造営されたものだろうなあ
644人間七七四年:2010/04/02(金) 17:12:13 ID:lqFjtAhl
岩崎城の模擬天守がウザイ
645人間七七四年:2010/04/02(金) 18:19:32 ID:E9+28Dl4
>>643
対立開戦までの期間が短かったから新たに石垣組むほど余裕無かっただろうし
基本的な部分はそれ以前信長の美濃攻略時代じゃないかね
646人間七七四年::2010/05/04(火) 00:59:06 ID:iwwnPk8h
小牧・長久手の戦いの構造
戦場論 上
藤田 達生 編
2006年5月刊(岩田書院)
A5判・442頁・上製本・カバー装
ISBN4-87294-422-4
8900円 (税別)T 実態論
小牧・長久手の戦いに関する時系列データベース
  −城郭関係史料を中心として− 白峰  旬
小牧・長久手の戦いから見た大規模戦争の創出 谷口  央
尾張武士と伊勢―安井将監秀勝の事例を中心に 下村 信博
ブロック形屋敷地群の成立と展開
  −三重県上野遺跡中世集落解明のために− 伊藤 裕偉
小牧・長久手の戦いと在地社会の動向 山本 浩樹

 U 外交論
秀吉の人質策−家康臣従過程を再検討する− 跡部  信
乱世から静謐へ−秀吉権力の東国政策を中心として− 立花 京子
小牧・長久手の戦いと長宗我部氏 津野 倫明
羽柴・徳川「冷戦」期における西国の政治状況 中野  等

 V 史料論
織田信雄奉行人雑賀松庵について 加藤 益幹
秀吉文書と戦争−小牧・長久手の戦いを中心に− 播磨 良紀
戦場の目撃証言−島原・天草一揆と雨森清広の仕官− 西島 太郎
陣立書からみた秀吉家臣団の構成 三鬼清一郎

647人間七七四年:2010/05/04(火) 02:30:31 ID:vEOt+JnT
立花 京子
648人間七七四年:2010/05/04(火) 05:13:22 ID:jz7PMNlO
かなり詳細な本ですな
649人間七七四年:2010/05/04(火) 06:38:27 ID:Nym1jnVe
確かに戦術的には秀吉には勝てなかったこが、
政略的に家康を服従させ、
おまけに池田・森ら不穏分子を除いたから
結果的にはプラスになったろう。
650人間七七四年::2010/05/04(火) 09:09:51 ID:iwwnPk8h
近世成立期の大規模戦争
戦場論 下

藤田 達生 編
2006年5月刊(岩田書院)
A5判・442頁・上製本・カバー装
ISBN4-87294-423-2
7900円 (税別)T 朝廷・宗教勢力論
元亀期の戦争と近江の寺社 河内 将芳
妙心寺の経済力と秀吉の戦争 伊藤 真昭
小牧・長久手の戦いにおける本願寺門末−北伊勢の事例から− 太田 光俊
小牧・長久手の戦いと朝廷 水野 智之

 U 武具・武器論
室町末期〜織豊期における武具統一政策−主に後北条氏を例に− 長屋 隆幸
戦国期毛利氏の飛び道具 木村 忠夫
近世初頭の戦争と炮術師 藤田 達生

 V 城郭論
小牧・長久手の戦いにおける城郭の攻防−尾張竹ヶ鼻城を中心に− 田  徹
織豊政権と北伊勢の城館 竹田 憲治
織豊期における陣城の考察−櫓台について− 高橋 成計
戦争の終焉と城郭−福島正則の改易をめぐる三つの疑問− 福田 千鶴

 W 由緒論
尾張・紀伊両徳川家における「小牧・長久手合戦」の研究と顕彰 高橋  修
小牧・長久手の戦いの記憶と顕彰−池田恒興を事例に− 谷口 眞子
長久手の戦いにみる「記憶のかたち」−戦場長久手を中心に− 谷口 眞子
十八世紀、秀吉への謀反を演じるということ
  −並木正三「三千世界商往来」と近世社会− 杉本 史子

終 章 戦争史における小牧・長久手の戦い−研究の総括− 藤田 達生





651人間七七四年:2010/05/04(火) 09:45:28 ID:tji1ikTc
>>649
池田・森がのさばるより家康がのさばる方がよっぽど問題
652人間七七四年:2010/05/04(火) 14:15:51 ID:lqC7UEW0
>>651
あの当時の秀吉にとっては池田と森が目の上のコブだったからな
仕方ないのよ
653人間七七四年:2010/05/04(火) 21:21:11 ID:MGYHvVnU
>>651
お前は典型的な「結果論脳」だな。まあ結果論脳と書いて「あたまがわるい」と読むんだが。
654人間七七四年:2010/05/04(火) 21:34:06 ID:vgjILJRy
テスト
655人間七七四年:2010/05/05(水) 08:58:21 ID:UsGWO0Za
島津厨が関が原で義弘を討ち取れなかったのが、
「江戸幕府滅亡の原因」とか言っているのとそっくり。
656人間七七四年:2010/05/27(木) 04:22:06 ID:N+NwYRhs
北はタイガージェットシン、中国は上田、アメリカは猪木、韓国はやられっぱなしの坂口
何も知らずに騒いでる庶民は猪木応援やでwww



657人間七七四年:2010/05/28(金) 09:09:44 ID:iiaFswUn
秀次の運命もここで決まったんだよな
658人間七七四年:2010/05/28(金) 13:37:13 ID:nII3yuFI
そうか?
一応秀吉に責められたのは朝鮮での失態だと思うが
それに根本の原因は秀頼が生まれたことだしなぁ
659人間七七四年:2010/05/28(金) 15:56:00 ID:qo1vmuWs
>>658
多分君は秀次の事歴をちゃんと理解してない。
660人間七七四年:2010/05/28(金) 16:26:46 ID:l9eACDGf
文化人で大して指揮官として大きな過失は無く人望もあった人じゃね
661人間七七四年:2010/05/28(金) 16:31:27 ID:l9eACDGf
あぁ指揮官として大きな過失は無くってのは
小牧以降でってことね

まぁそれでもあの戦は色々複雑なものがごちゃごちゃしてたけども
662人間七七四年:2010/08/16(月) 22:14:13 ID:YstrPmPN
>>659
こいつは歴史を結果論でしか語れない
うんこちゃんだなwwww
663人間七七四年:2010/08/16(月) 23:34:42 ID:oMIFOb0n
>>662
3ヶ月もかかってようやく思いついた反論がそれか
664人間七七四年:2010/08/17(火) 13:48:36 ID:nAYNgVHa
>>663
俺も秀次の運命がここで決まったとは思えないんだけど
もうちょっと詳しく主張してくれ
665人間七七四年:2010/08/17(火) 16:07:27 ID:63TyNoN7
150万石だったら動員可能兵力5万
それを1万しか出さないなんて
よっぽどケチな男だね
それとも秀吉を見くびってたのか
666人間七七四年:2010/08/17(火) 16:26:07 ID:8Qy5ojbk
>>665
このアホにはどこから突っ込んでやればよいのやら…
667人間七七四年:2010/08/17(火) 17:17:16 ID:BRmqryLp
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
668榊原:2010/08/17(火) 17:34:48 ID:rQhq3WW9
「覇王の家」以外に小牧長久手の戦いを詳しく書いた小説とかありますかね?
669人間七七四年:2010/08/17(火) 20:02:06 ID:6mpPwqeU
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、
木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)、佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、
大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
670人間七七四年:2010/08/17(火) 20:11:06 ID:6mpPwqeU
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の乾杯だろ

わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな





秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる



敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ





あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな

田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
671人間七七四年:2010/08/17(火) 20:14:31 ID:6mpPwqeU
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる


中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
672人間七七四年:2010/08/17(火) 20:17:13 ID:6mpPwqeU
御用史書に書いてある中入りが池田の提案なんて信じてるのか?
ナポレオンは常に本隊中央部への集中砲火という戦術を生涯取り続けた。
得意戦術とはそういうものだ。
秀吉が過去に総大将として野戦を指揮した戦術を見れば一目瞭然。
中国大返しから山崎の合戦しかり、対柴田戦しかり。
要は別働隊の活用と機動力を生かした奇襲戦術。
大兵力である本隊を主戦場から離れた場所に配置し、敵側の予想をはるかに超える
機動力で、「ないはず」の大兵力を主戦場に投入する詐術的戦法が秀吉の得意技。
つまり長久手も同断。別働隊は敵本隊を長久手方面に誘い出し主戦場をそこに設定することにより
本隊機動力を発揮させるだけの距離を稼ぐための囮。
だから中途半端な行軍ではなく、陽動が主目的の作戦主旨に沿った行軍だ。

これだけ類似性のある作戦が、負け戦の時だけ秀吉ではなく他の者の立案などと
信じるほうがどうかしてる。
ナポレオン戦術は指揮系統を混乱させ軍団自体を無力化させる、という無敵の
戦術だったが、指揮系統を班単位に権限委譲し、アメーバ型組織を作ったプロシアの
クリューパーシステムの前に力を失った。
増して機動力のみが頼みのしかも2度も披露した秀吉戦術では、歴戦の将、家康をたぶらかすのは
無理というものだ。完全に秀吉の戦術の敗北だ。

だから秀吉もこの戦術は2度と使っていない。九州征伐、小田原陣では信長方式の
戦術不用の物量作戦戦略に切り替えている。

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、
ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。
天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、
光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
673人間七七四年:2010/08/17(火) 20:18:38 ID:6mpPwqeU
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している


615 :人間七七四年:2009/05/20(水) 20:50:59 ID:14NiltpL
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
674人間七七四年:2010/08/17(火) 20:38:19 ID:6mpPwqeU
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし


黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる

675人間七七四年:2010/08/17(火) 20:39:15 ID:6mpPwqeU
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
676人間七七四年:2010/08/17(火) 21:14:04 ID:UxmiKmbJ
秀吉は戦術的勝負じゃ全くいいとこなしだからな
ナポレオンは常に本隊中央部への集中砲火という戦術を生涯取り続けた。
得意戦術とはそういうものだ。 秀吉が過去に総大将として野戦を指揮した戦術を見れば一目瞭然。
中国大返しから山崎の合戦しかり、対柴田戦しかり。 要は別働隊の活用と機動力を生かした奇襲戦術。
大兵力である本隊を主戦場から離れた場所に配置し、敵側の予想をはるかに超える
機動力で、「ないはず」の大兵力を主戦場に投入する詐術的戦法が秀吉の得意技。
つまり長久手も同断。別働隊は敵本隊を長久手方面に誘い出し主戦場をそこに設定することにより
本隊機動力を発揮させるだけの距離を稼ぐための囮。
だから中途半端な行軍ではなく、陽動が主目的の作戦主旨に沿った行軍だ。
これだけ類似性のある作戦が、負け戦の時だけ秀吉ではなく他の者の責任などと
考えるほうがどうかしてる。
ナポレオン戦術は指揮系統を混乱させ軍団自体を無力化させる、という無敵の
戦術だったが、指揮系統を班単位に権限委譲し、アメーバ型組織を作ったプロシアの
クリューパーシステムの前に力を失った。
増して機動力のみが頼みの秀吉戦術では、歴戦の将、家康をたぶらかすのは
無理というものだ。完全に秀吉の戦術の敗北だ。

楽田〜竜泉寺にかけて篠木、柏井、大草などに拠点を堅固にきづいてるから
それをうまく利用して家康の後方との連絡を絶つように小牧山から背後の家康方城や砦
陥落させてけば普通に孤立するだろうしな
軍事的センスがなさすぎる
秀吉に従ったように見える諸大名も形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じなのは秀吉死後の惨状でわかる。
信濃では小笠原、木曽、真田が85年までに秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる。



903 :人間七七四年:2009/06/19(金) 21:34:20 ID:gGL6Ori6
圧倒的兵力差があったし敵対者の対立を利用してん寝返らせて勝ってるだけ。
別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
677人間七七四年:2010/08/17(火) 21:17:52 ID:UxmiKmbJ

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
678人間七七四年:2010/08/17(火) 21:19:19 ID:fie2/2oa
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である
京までも騒乱に陥れる一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
いつも嘘ばかりついて戦果を基地害のように誇張する
秀吉自身が不安定な緩衝地帯にいる寝返ったばかりの外様中の外様である木曽義昌宛て書状で負けを
述べ同じく外様である宇喜多家臣長船、富岡宛書状とあて先不明書状でも秀吉が自分で負けを認め
本多重次宛やその他家康書状には一万余り討ち取り池田親子や森、木下兄弟に加え堀や長谷川、三好秀次など
ことごとく討ち取り計10000程討ち取ったとある。ちなみに当代記や家忠日記では戦死者15000などと書かれてる
679人間七七四年:2010/08/17(火) 21:44:32 ID:nizIFuy8
徳川直参8000+信雄配下計16000〜17000相手に11万五千の圧倒的大軍であの様(笑)
ねねの甥の木下兄弟戦死w

結局84年一杯使って圧倒的寡兵の織田徳川の尾張口を突破できない醜態w
680人間七七四年:2010/08/17(火) 22:11:59 ID:DioAXqeY
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる


圧倒的兵力差があった上に秀吉の敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ。
681人間七七四年:2010/08/18(水) 00:09:09 ID:fV80YbK2
心を病んだ人たちの集会所かここは
682人間七七四年:2010/08/18(水) 07:24:55 ID:EqpXlQTE
ところで徳川北条織田ががっちり手を組んだら秀吉にどの程度対向できてたのよ?
683人間七七四年:2010/08/18(水) 08:39:46 ID:I9GP2MPM
>>682
電信が発明されるまで、遠距離の連携は大抵役立たず
684人間七七四年:2010/08/18(水) 22:32:02 ID:L/IMgbqL
皆もいってるけど単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
685人間七七四年:2010/09/09(木) 08:03:06 ID:5ugsCzz7
>>684
こいつは歴史を結果論でしか語れない
うんこちゃんだなwwww
686人間七七四年:2010/09/09(木) 12:18:33 ID:CqcL7CNm
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でも家康は領国に兵をいくらか帰還させてるからこれまで以上の兵力差がありながら
尾張口の城攻めでは敗戦を重ね、結局突破できず結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
一年一杯使って圧倒的兵力差でこれ。
織田信雄より無能な武将かもしれん。
687人間七七四年:2010/09/09(木) 12:25:18 ID:CqcL7CNm
※秀吉失態集※

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた家来トップ格を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で襲ってしばらく持ち堪えられる
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる

688人間七七四年:2010/09/09(木) 16:27:29 ID:5ugsCzz7
>>687
こいつは名古屋城でおもてなし武将隊と写真を撮ってもらい
はしゃいでる輩となんらおんなじうんこちゃんってわけだなwww

689人間七七四年:2010/09/09(木) 18:09:34 ID:7vQ0ITQJ
1580年時点での、家来トップ格って誰?
690人間七七四年:2010/09/09(木) 18:24:07 ID:7vQ0ITQJ
上のレスの訂正:三木城攻略時に戦死した半兵衛と双璧をなす武将って誰?
691人間七七四年:2010/09/09(木) 18:37:10 ID:KUB6Byza
三木城攻めじゃなかったっけ?
中国口での戦闘で誰か死んだろ。
692人間七七四年:2010/09/09(木) 18:51:08 ID:7vQ0ITQJ
>>691何人か戦死したのは確かだけど、その中に半兵衛と双璧をなすほどの奴なんていたっけ?
693人間七七四年:2010/09/09(木) 19:15:22 ID:MJs9f6fZ
谷衛好とか?
694人間七七四年:2010/09/09(木) 19:31:26 ID:ToRpDmh7
戦死は半兵衛にかかっているのであって、双璧をなす武将にかかっているのはないのでは。
だから、半兵衛が死んじゃった後、家来衆のトップは誰?(生きていた頃の半兵衛と双璧だった武将っている?)
という質問なのでは。
そもそも半兵衛が与力トップだったのかどうかよう分からんけど、普通に考えれば秀長。
大身という意味では同盟者的な宇喜多直家を除けば、小六か宮部継潤が2〜3万石もらってるみたいだ。
ほかに前野長康とか仙石、浅野長政なども1万石近くかそれ以上はもらってたっぽい。
さらに神子田、尾藤、堀尾、中村、生駒なども数千石〜千数百石クラスかな。
官兵衛は捕まってたり、姫路城返還を断ったり、ようわからんね。
695人間七七四年:2010/09/11(土) 21:05:30 ID:7J7S1mkV
>>694
名古屋城でおもてなし武将隊としゃいでる歴女だから
話になりませんわwww
696人間七七四年:2010/09/15(水) 18:35:28 ID:dmuGSgMa
秀吉が雑魚でも、天下取れたのは資金力のオカゲ。
田舎のヤクザがどんなに強くても
都会のヤクザには敵わない。
でも中央で勝ち抜き、維持することって大変なことだと思うよ。
三好や松永見てもわかりそうなもの。
秀吉って一門衆っていえば秀長、浅野ぐらい。
譜代て呼べるのいないし、この状態でよく天下取れたって思うんだが
雑魚なのか?
697人間七七四年:2010/09/15(水) 18:38:52 ID:ZaXl1Pf+
( ´,_ゝ`)プッ 当然雑魚でしょ
698人間七七四年:2010/09/15(水) 19:21:49 ID:T1MyA/RO
譜代も外様も糞もない。福島も加藤も蜂須賀も宮部もずっと同陣して戦ってくれりゃもう皆譜代と実質何も変わらん。
おまけに諸大名も多く味方についてくれたから天下とれただけ。
秀吉が雑魚なのはそんな圧倒的な数の味方を作っておきながら中国明智滝川柴田北条徳川信雄どこで戦っても
圧倒的大軍で寡兵の敵に大苦戦や大損害ばっかだから。
これはもうはっきり言って擁護しようがない。ここまで酷い軍事指揮官はなかなかいないだろう。
699人間七七四年:2010/09/15(水) 19:23:55 ID:T1MyA/RO
圧倒的兵力差があった上に秀吉が敵対勢力の敵を利用してん寝返らせたから屈服できただけ。
上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争いその後も川中島〜安曇・筑摩・小県方面に積極的に出陣し
徳川方勢力と交戦。85年の上田城攻めにも援軍を派遣した。毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。
宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河、三好や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った
木曽、小笠原、真田等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用したから勝てただけ
家康始め諸大名。あんなもん形式的にしたがってるだけでしょ
いわば実力のない公家や公方とかに形だけ頭下げてるのと同じ。
信濃では小笠原、木曽、真田が秀吉に帰属し家康の支配はわずか3郡
石川数正、水野忠重も秀吉に内応。譜代の離反&軍事機密が露見した状況で
母と妹人質に出さなきゃならん秀吉は終わってる

別に有利な状況も秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ。
700人間七七四年:2010/09/15(水) 19:29:07 ID:T1MyA/RO
つうか秀次、秀勝、木下利定兄弟。こいつらも秀吉一門だろ。
一門や譜代が少ないとか何の擁護にもならん。
無理やり理屈つけて秀吉を強くしようとするのがミエミエで痛すぎる
701人間七七四年:2010/09/15(水) 20:22:56 ID:dmuGSgMa
はい、秀吉は雑魚。
これでいいでんすね。
連投ご苦労様。
702人間七七四年:2010/09/15(水) 21:34:50 ID:p9kiLDmO
戦闘力が糞すぎる。機械に任せて指揮取らせた方がまだ強そうだ。
703人間七七四年:2010/09/15(水) 21:36:38 ID:WzNEaxjU
そんな雑魚でも天下人になれたんだから、秀吉に頭を下げていた連中は雑魚以下、
ミジンコ程度の頭しか持っていなかったんだろうなw
704人間七七四年:2010/09/15(水) 21:37:44 ID:p9kiLDmO
705人間七七四年:2010/09/15(水) 21:42:07 ID:p9kiLDmO
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
706人間七七四年:2010/09/15(水) 22:09:55 ID:WzNEaxjU
>>705
仮にそうだとして、その圧倒的兵力差、というのはどこから来たと思っているんだよ。
秀吉は文字通り裸一貫で成り上がっていったんだぞ。
707人間七七四年:2010/09/15(水) 22:22:20 ID:dmuGSgMa
圧倒的兵力がぽっとあらわれて、雑魚に文句一つ言わず
従って天下統一に貢献する。
いいじゃないですか、雑魚でも何でも。
708人間七七四年:2010/09/15(水) 22:23:14 ID:2oQ1me2R
>>706
>仮にそうだとして
仮にではなく事実です
>その圧倒的兵力差、というのはどこから来たと思っているんだよ
>>699にあるとおり
>秀吉は文字通り裸一貫で成り上がっていったんだぞ
秀吉に限らず浪人を抜擢する例はいくらでもある
武田⇒高坂、原、馬場(低い身分)
上杉⇒河田等

裸一貫から云々は戦闘力を語る上で全く関係ない。実践で醜態晒した奴は雑魚
709人間七七四年:2010/09/15(水) 22:30:24 ID:gb7BUbDk
秀吉が低い身分から成り上がったから有能とか言ってる馬鹿がいるけど

底辺高校から総理大臣になろうが進学校から総理大臣になろうが有能な奴は有能で無能な奴は無能
低い身分からどうこうとかもうね、ミジンコ程度の脳しかないのかと。
710人間七七四年:2010/09/15(水) 22:31:39 ID:WzNEaxjU
なんか、触っちゃいけない人みたいだった・・・
711人間七七四年:2010/09/15(水) 22:44:17 ID:dmuGSgMa
秀吉がどうとかじゃなく
敗れていった武将たち、いや侍大将でも
人を率いるというのはヒトカドの人物だと思うんですがね。
他のところでも見かけますが、人を貶めないと気が済まない人っていますね。
712人間七七四年:2010/09/15(水) 23:39:56 ID:Uz/8NFra
秀吉は明らかに家康を追い込めたのに敢えて引いてるよな
ゲリラ戦続けられると厄介だと思ったんだろうが
713人間七七四年:2010/09/15(水) 23:52:09 ID:XWmocDgt
84年一杯使ってあの様じゃ引くわな
なんせ7倍もの兵力差で尾張口を全く突破できなかったんだから。
特に夏の対陣が酷すぎる。どこの小城も圧倒的大軍で負けてばかりだったんだから。
714人間七七四年:2010/09/16(木) 17:01:14 ID:kapR31vW
強制入院が必要ですね
715人間七七四年:2010/09/16(木) 19:05:35 ID:OJXoRANp
時勢が読めずに秀吉軍に楯突いて滅ぼされた先祖の霊にでも
とり憑かれてるんだろ
哀れもいいとこ
716人間七七四年:2010/09/16(木) 21:23:14 ID:ZzsaDzVi
>>708
斎藤道三も前半生は親父だったというのが今では定説。
秀吉も単に百姓だと思ったら大誤いだぎゃぁ。
717人間七七四年:2010/09/18(土) 04:24:22 ID:ex/VBLHE
家康は人質というか秀康を養子として差し出したのはあくまで講和条件だから
別にこれで屈服したわけじゃない。
信雄が領内の田畑荒らされてびびって和議を受け入れたから大儀名分がなくなったというだけ。
その後85年の真田攻め、小笠原・水野・石川の離反と水面下での戦いは続いていたため
家康は秀吉に対抗するため北条氏直との同盟強化のため娘を嫁がせている
秀長、蒲生氏郷は遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる

84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあった
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
718人間七七四年:2010/09/18(土) 20:00:11 ID:XeD1Pxbq
>>717
総攻撃が人質差だしかwww
こいつは信長の野望でもやり過ぎたかwww
719人間七七四年:2010/09/18(土) 20:24:15 ID:Zs0cAh6J
>>717
どうでもいいけど佐久間正勝は誤伝。
正しいのは信栄。
だいたい父が信盛なのに子が正勝っておかしい。
720人間七七四年:2010/09/19(日) 14:29:10 ID:L0YpP4pn
秀吉が戦下手なのは別にこの戦いに限らんがな。一般的にはこれが一番有名だが
対別所、毛利、柴田、滝川、明智、北条、島津とどこいっても圧倒的大軍で寡兵の敵に大敗や大苦戦続けるだけ。
721人間七七四年:2010/09/19(日) 14:41:47 ID:zt78Q+mu
>>720
はあっ?
義元みたいに圧倒的大軍で攻め込んだにも関わらず、首を打たれたボンクラよりかはずっとマシ
乱世を抜け出し最終的に天下人になったのは天才秀吉のみ
722人間七七四年:2010/09/19(日) 14:49:38 ID:6u5APyoO
義元は信長と国力差ない上に信長は雨と風が偶然来て先陣と勘違いして本陣突っ込んだら大将がいたから勝てただけ。

秀吉は天下なぞ取ってない。いわば公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで中身はスカスカ。
秀吉死後の散々な有様見りゃそれが丸わかり

秀吉が乱世を抜け出せたのは織田家が当主の能力と状況や運などに恵まれたから

織田一門の秀吉は信長の贔屓によって出世できただけ。
723人間七七四年:2010/09/19(日) 14:51:44 ID:6u5APyoO
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。

実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない


724人間七七四年:2010/09/19(日) 14:55:20 ID:6u5APyoO
秀吉は対柴田戦時自領600万石に加え宇喜多、毛利、上杉、信雄も味方で稲葉、勝豊、前田も味方につけられた。
この状況で前田が兵を引くまで均衡を崩せず、しかも撤退中の佐久間盛政や柴田勝政を背後から大軍で襲撃して逆に撃退されるってどんだけ戦下手なんだよと。
725人間七七四年:2010/09/19(日) 15:43:40 ID:BxHtA9Fl
病人が暴れてますね
726人間七七四年:2010/09/20(月) 13:01:34 ID:fApNbFs2
秀吉が軍下手かどうかはまだしも戦上手じゃない
今川義元は戦国大名としては優れていたが、
戦国武将としては評価できない。
727人間七七四年:2010/09/20(月) 13:19:01 ID:rCYeJUAC
>>726
典型的な結果論。
桶狭間の戦いで義元が戦死したからそう思えるだけ。
山崎の戦いでの秀吉>光秀や、
関ヶ原の戦いでの家康>三成と同じ。
だいたいその論法なら、本能寺の変で光秀>信長も
成り立つよ。
728人間七七四年:2010/09/20(月) 15:29:45 ID:cBAiJKg9
今色金山にいるけど櫓が若干アスレチックっぽいけどいい感じだ

あとお茶が上手かった
729人間七七四年:2010/09/20(月) 20:25:35 ID:fApNbFs2
>>727
じゃあ聞くが義元が名将ぶりを発揮したことはあるか?
大体、太原 雪斎が戦を担当していたじゃん。
730人間七七四年:2010/09/22(水) 13:58:12 ID:4rf/OiCj
信玄がびびっていた。
731人間七七四年:2010/09/22(水) 18:55:12 ID:HH1rzqsK
「名目上諸大名を従わせてた」公家って例えば誰?
732人間七七四年:2010/09/22(水) 21:17:12 ID:cfChRj3x
両上杉、足利義輝、義昭、古河公方義氏
皆名目上は立場が諸大名より上
733人間七七四年:2010/09/22(水) 21:59:18 ID:EXYes2fg
戦死、逃亡
なぶり殺し
貧乏公方
傀儡

よりによって、いい人材をまた・・・
734人間七七四年:2010/09/22(水) 22:12:04 ID:HH1rzqsK
公家ちゃうやん
735人間七七四年:2010/09/22(水) 23:26:27 ID:EXYes2fg
近衛前久
勧修寺晴豊
菊亭晴季

こんなとこか?
他に誰?
736人間七七四年:2010/09/23(木) 17:59:01 ID:a/s1OS59
秀吉単体の魅力じゃなくて秀吉が周りを巻き沿いに
していく姿が面白いんだろ。
大阪城に入るまではまだノブナガの子分肌が
消えてなかったわ。
子分肌が政権獲るとあんなもんだわな。
737人間七七四年:2010/09/27(月) 08:48:47 ID:RqA76w+V
別働隊遊撃策が池田の献策という説は
今は否定されているんですか?
738人間七七四年:2010/09/27(月) 11:50:41 ID:Ypshy18v
御用史書に書いてある中入りが池田の提案なんて信じてるのか?
ナポレオンは常に本隊中央部への集中砲火という戦術を生涯取り続けた。
得意戦術とはそういうものだ。
秀吉が過去に総大将として野戦を指揮した戦術を見れば一目瞭然。
中国大返しから山崎の合戦しかり、対柴田戦しかり。
要は別働隊の活用と機動力を生かした奇襲戦術。
大兵力である本隊を主戦場から離れた場所に配置し、敵側の予想をはるかに超える
機動力で、「ないはず」の大兵力を主戦場に投入する詐術的戦法が秀吉の得意技。
つまり長久手も同断。別働隊は敵本隊を長久手方面に誘い出し主戦場をそこに設定することにより
本隊機動力を発揮させるだけの距離を稼ぐための囮。
だから中途半端な行軍ではなく、陽動が主目的の作戦主旨に沿った行軍だ。

これだけ類似性のある作戦が、負け戦の時だけ秀吉ではなく他の者の立案などと
信じるほうがどうかしてる。
ナポレオン戦術は指揮系統を混乱させ軍団自体を無力化させる、という無敵の
戦術だったが、指揮系統を班単位に権限委譲し、アメーバ型組織を作ったプロシアの
クリューパーシステムの前に力を失った。
増して機動力のみが頼みのしかも2度も披露した秀吉戦術では、歴戦の将、家康をたぶらかすのは
無理というものだ。完全に秀吉の戦術の敗北だ。

だから秀吉もこの戦術は2度と使っていない。九州征伐、小田原陣では信長方式の
戦術不用の物量作戦戦略に切り替えている。

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。
仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が
頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も
京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた
5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、
これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、
ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。
天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、
光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。
739人間七七四年:2010/09/27(月) 11:52:05 ID:Ypshy18v
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しない。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

740人間七七四年:2010/09/27(月) 11:53:57 ID:Ypshy18v
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の乾杯だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ





741人間七七四年:2010/09/27(月) 12:17:04 ID:RqA76w+V
長久手での敗北はあくまで局地戦での敗北であり
結果的に天下統一に繋げた秀吉の政治力の高さ、戦略的勝利と言う人もいますが
どうなんでしょう?
742人間七七四年:2010/09/27(月) 12:33:22 ID:n5fvpAf6
>>741
この戦いの結果、巨大野党徳川家を抱え込まなければならなくなったのは事実
743人間七七四年:2010/09/27(月) 14:33:54 ID:4liSA/Y2
信雄が講和して大義名分が無くなったいう理由で
家康も講和しちゃったけど
結果、雑賀、根来、長宗我部、佐々を見捨てたよね。
そんなに大義名分が必要だったのかね。
秀吉も信雄と講和にもっていったのも、それが狙いだろうけど。
雑賀は大坂を攻めたりと活躍してたのにね。
家康と組んで無くても、いずれ攻められてただろうけど
講和してしまえば、自分とこにいた大軍がそっちに向かうのはわかってただろうに。
744人間七七四年:2010/09/27(月) 15:04:12 ID:Fp+R2RHU
>>743
大義名分のない合戦は必ず負ける。あの信長ですら戦には必ず大義名分を
用意した上で行った。
745人間七七四年:2010/09/27(月) 16:29:55 ID:r3H3tEmL
まあ、家康を本気で踏み潰す気なら
それでも2年程度はかかるかもしれないし。
何よりも早期天下統一への時間との戦いだし。
秀吉は悔しかったろうな。
こういうタイミングひとつをとってみても
家康の運の強さが光り輝くね。
746月孔雀:2010/09/27(月) 17:14:41 ID:A5LlwrQd
6倍とか誇張しすぎ。徳川は当時3万くらい動員できた。
羽柴は20万になってしまう。そんなの無理。約7万くらいか。
で、信雄が1万5千くらいだから、羽柴は兵力差2倍いってないよ。

ただ、ここで秀吉が勝てなかったのが、家康の地位を高めたのは、
確かだね。
747人間七七四年:2010/09/27(月) 18:07:10 ID:t7HA5bfA
>>740
大義名分のない合戦は必ず敗れる。
結果論でしか語れない奴も敗れるw
748人間七七四年:2010/09/27(月) 22:04:34 ID:akRVEFY1
>>246
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、
木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)、佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、
大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる

上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている
当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで10万かそれ以上としている
749人間七七四年:2010/09/27(月) 22:12:49 ID:akRVEFY1
>>741
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉
結局講和を持ち出したのも秀吉。
いつも嘘ばかりついて戦果を基地害のように誇張する
秀吉自身が不安定な緩衝地帯にいる寝返ったばかりの外様中の外様である木曽義昌宛て書状で負けを
述べ同じく外様である宇喜多家臣長船、富岡宛書状とあて先不明書状でも秀吉が自分で負けを認め
本多重次宛やその他家康書状には一万余り討ち取り池田親子や森、木下兄弟に加え堀や長谷川、三好秀次など
ことごとく討ち取り計10000程討ち取ったとある。ちなみに当代記や家忠日記では戦死者15000などと書かれてる
しかも1年かけて7倍もの圧倒的兵力差でろくな戦果あげられず、権力基盤の不安定な信雄の領国荒らすのが精一杯
夏の対陣や蟹江合戦でも敗退し尾張半国すら切り取れない無能ぶり
>>743
大義名分なきゃ秀吉方に寝返る勢力がますます増えるだろうね
光秀は主殺しの汚名きせられたから、大義名分得た秀吉が織田家武将の篭絡に成功したのと同じ事
>>745
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

750人間七七四年:2010/09/27(月) 22:15:22 ID:d45HvZyc
講和無しでそのまま戦が続くと仮定して、
おまえらが兵だったら
どっちに付くんだ?
751人間七七四年:2010/09/27(月) 22:20:51 ID:akRVEFY1
>>750
普通の能力が均等な2者が戦えば圧倒的国力差で秀吉が勝つだろうね
ただでさえ木曽が離反して上杉が信濃侵攻でぐらついてる上に
小笠原真田石川水野と離反が続き徳川の軍事機密露見した状況
この状況で母と妹人質に出すカスっぷり披露したのが秀吉
752人間七七四年:2010/09/27(月) 22:57:31 ID:3pq3na7W
秀吉って織田信雄より戦下手だろ。
信雄家臣の小造親子に大敗したし。
753人間七七四年:2010/09/27(月) 23:17:57 ID:4liSA/Y2
応仁の乱以降
10万を越える軍を統率したのは
秀吉、家康ぐらいで、
家康も大坂城では全部うまくいったとはいえないと思う。
謙信や信玄なら上手く統率運用できたか興味ある。
秀吉も旧織田家臣を従属させたとはいえ、同僚だったんだから
気を使ってただろうし、体制崩壊するのを恐れてたんじゃないかな。
信長包囲網で苦労してきたのでウンザリしたんだろう。
754人間七七四年:2010/09/27(月) 23:28:30 ID:1nrwDvMm
>家康も大坂城では全部うまくいったとはいえないと思う。
家康は関が原では大軍同士の戦いで西軍主力10万を一日で壊滅させ
信長や秀吉が散々苦戦した畿内を瞬殺
大阪城ではあれだけ堅固かつ大人数が篭ったにも関わらず短期間で集結
主力武将で目立った戦死者って何人かいたっけ?少なかったような
>謙信や信玄なら上手く統率運用できたか興味ある。
信玄も家康も寡兵の頃も結構強かったとはいえ負けはあったが
数を増すごとに圧倒的に強さを増した。秀吉はその逆で寡兵の指揮はそこそこ強いが
大軍率いる才能がなかったんだろう
>秀吉も旧織田家臣を従属させたとはいえ、同僚だったんだから
>気を使ってただろうし、体制崩壊するのを恐れてたんじゃないかな。
>>738-739を参照のこと。明らかに上から物を言う態度で気を遣って戦いずらいという根拠はない
体制崩壊するのが怖けりゃ外の敵を征圧してさっさと天下統一すりゃいいだけで
実際そのために行動してきた。
>信長包囲網で苦労してきたのでウンザリしたんだろう。
そんなら信雄も信長の戦のやり方にうんざりし徳川も武田や北条との戦闘で
うんざりしていたん『だろう』
755人間七七四年:2010/09/27(月) 23:38:07 ID:iOg2iOi/
豊臣軍135000が、織田信雄22000に大敗!!!!!

敗走!!!!
 
って、まるで漫画だな。流石戦国最強の豊臣軍。
756人間七七四年:2010/09/28(火) 10:54:03 ID:i86wi4Z7
徳川厨の言い訳集編纂部というのはここですか
757人間七七四年:2010/09/28(火) 11:46:33 ID:m1Kv7IVZ
別段編纂されてないよ。すごい勢いの長文レスで垂れ流されてるよ。
758人間七七四年:2010/09/28(火) 11:48:25 ID:t4+eQeRb
だからなんだという感じの長文
759人間七七四年:2010/09/28(火) 14:30:03 ID:i86wi4Z7
要約すると家康が小競り合いでチンピラをしばいたら
豊臣の親分が出てきて
「事務所で話ししょうか。」というと
「事務所だけは勘弁してください」と家康が言ったので
「なら儂の妹やるから、それやったらええやろ」と言うと
「それでも怖い」と二の足踏んでやってこないので
「ならうちのお袋様を預けよう」と言ったので
「(これ以上待たすと本当にブチ殺されそうなんで)わかりました」
と恐々行く羽目になり、事務所で土下座しました。

これくらいにまとめろ。
760人間七七四年:2010/09/28(火) 14:56:36 ID:cW2d+/uh
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ




761人間七七四年:2010/09/28(火) 14:57:58 ID:cW2d+/uh
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけ
762人間七七四年:2010/09/28(火) 15:04:19 ID:cW2d+/uh
要約すると家康がガチンコでサルに大ハンデでしばいたら
豊臣の親分が出てきて
「助けてください」
「お命だけは勘弁してください」とサルが言ったので
「ゆるさん」と言うと
「家康怖い」と家康の二の足踏みを恐れ
「(これ以上待たすと本当にブチ殺されそうなんで)ならうちのお袋様を預けよう」とサルが言ったので
「しょあないな」
と渋々行く羽目になり、事務所でサルは『表面上だけでいいんでおいらに頭下げてください』と土下座し、
やさしい家康は仕方なく応じて上げた

これくらいにまとめろ。
763人間七七四年:2010/09/28(火) 15:35:38 ID:m1Kv7IVZ
>762 要約すればできるじゃん。
内容に対する賛否はともかく、 ID:cW2d+/uhのスレを
はじめて読む気になったよ。
764人間七七四年:2010/09/28(火) 15:36:52 ID:t4+eQeRb
文才が無いって悲しいな
765人間七七四年:2010/09/28(火) 15:43:30 ID:i86wi4Z7
意味がわかんないよ。
無理すんな。
母国語でいいぞ。
766月孔雀:2010/09/28(火) 19:57:49 ID:ZJTb/bXe
小牧・長久手で、家康派は、自分を大きく大きく見せよとする。
実質は戦術的に「引き分け」で、戦略的には、秀吉の勝ちでしょう。

8千の兵しか、連れてこなかったね〜。
10倍の秀吉軍に瞬殺されるって、普通に考えれば。
767人間七七四年:2010/09/28(火) 20:19:49 ID:BzY2Q1Cp
圧倒的大軍で7分の1の織田軍に手も足も出なかったし多数の池田親子森木下兄弟始め多数の死傷者を出し
84年一杯使って権力基盤の弱く不安定な信雄の領土を荒らすのが精一杯で蟹江で負け木造で大敗し
松ヶ島や加賀の井、奥城で大苦戦。夏の対陣ではこれまで以上の圧倒的兵力差があったのにも関わらず
尾張諸城攻防戦で敗退し尾張口を半分すら突破できない秀吉の完敗でしょ。

戦略的に見ても家康が天下奪ったんだから家康の圧勝。
768人間七七四年:2010/09/28(火) 20:26:19 ID:coXdeoAT
秀吉は軍事的才能が致命的に欠如していたんだろうな

この戦いに限らず常に圧倒的大軍で寡兵の敵に敗走、大苦戦、大損害。

織田兄弟で最も無能な信雄ごときに苦戦する雑魚はそうそういないだろう。

信雄がもう少し基盤の強い土地で防戦できたら秀吉は蟹江あたりで戦死してたんじゃないか。
769人間七七四年:2010/09/28(火) 20:30:29 ID:U53K9BhY
※秀吉失態集※

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる

770人間七七四年:2010/09/28(火) 20:41:41 ID:EQQ41zMI
秀吉より戦下手な武将ってなかなかいないだろうな
771人間七七四年:2010/09/28(火) 21:05:49 ID:btzwVmt9
うん
秀吉以外の武将は皆、戦うまいのにどうして天下をとれなかったんだろうね(笑)
772人間七七四年:2010/09/28(火) 21:35:58 ID:PaCcGtb+
単に大義名分とか機会がなかったか調略や政略に失敗して国力がなかっただけだろう
>>771みたいな原因と帰結による反証仮定による論法でいえば
なんで秀吉は天下取ったのに徳川幕府が開かれたんだろうね
こんな論法も可能
773人間七七四年:2010/09/28(火) 23:52:58 ID:5JeaTQX1
秀吉が戦下手なんてありえんだろうが。
馬鹿じゃないの?
戦下手で天下穫れるかよ。
戦下手は家康の方だろ。
奇跡的に小競り合いの局地戦で勝てたことのみを
ここぞとばかりに誇大喧伝。
実際、他では負けてばかり。
関ヶ原、大坂でも恫喝や欺瞞の類いで何とか勝利。
家康が強いとかアホすぎて笑える。
さすが2chのスレだわ。
774人間七七四年:2010/09/28(火) 23:53:58 ID:t4+eQeRb
基地外にアホがつられるの図
775人間七七四年:2010/09/29(水) 00:08:29 ID:fQ+yV0Ap
>秀吉が戦下手なんてありえんだろうが。
>>769
>戦下手で天下穫れるかよ。
政略や国力や調略で味方増やせたから取れただけ
>奇跡的に小競り合いの局地戦で勝てたことのみをここぞとばかりに誇大喧伝。
誇大喧伝で言うなら秀吉の方が遥かに酷い。まだ紀州勢が攻めてきたのを撃退しただけの時期に
既に紀州に攻め込んで陥落させそうだとか伊勢で滝川が奮戦してる時期に既に降ったとか妄言はきまくってるし
単に長久手は単なる局地戦ではない>>749>>760
しかも大局でみても圧倒的兵力差の割りに大苦戦>>761

>実際、他では負けてばかり。
秀吉がな。今川北条朝倉豊臣など常に圧倒的強さなのが徳川
>関ヶ原、大坂でも恫喝や欺瞞の類いで何とか勝利。
圧倒的軍事的才能で信長や秀吉が苦戦した畿内を瞬殺した。
776人間七七四年:2010/09/29(水) 00:12:41 ID:8nt5XEXJ
秀吉が天下取ったなんてありえんだろうが。
馬鹿じゃないの?
天下取って徳川幕府が開かれるかよ。

奇跡的に一時期の政略戦で勝てたことのみを
ここぞとばかりに誇大喧伝。
実際、内実では負けてばかり。
土下座と相手への賄賂でなんとか形式的な臣従に成功

秀吉が天下取ったとかアホすぎて笑える
さすが2chのスレだわ。


777人間七七四年:2010/09/29(水) 00:20:03 ID:ZxcehYgi
小牧長久手の戦いはそもそも信雄と秀吉の戦いで、家康は単なる援軍なんだから
これをもって家康と秀吉を比較するより信雄と秀吉を比較した方が論理的に正しい
信雄は領国として権力基盤の弱く前年の戦争により不安定になっている南尾張や伊勢での
苦しい戦いにもかかわらず秀吉は7倍もの圧倒的兵力差で大苦戦し諸所で損害を出して1年費やして
尾張口の突破に失敗
信雄の方が武将としての采配センスがマシに思えてくる醜態ぶりだな
778人間七七四年:2010/09/29(水) 00:28:23 ID:pFmM2lCr
外野がどう見ようと当事者同士の間では
「長久手の敗戦をお忘れか?」
とさんざん皮肉ったんだろ
当事者間では秀吉の負け
779人間七七四年:2010/09/29(水) 00:37:35 ID:SqrFT/Fk
>>775
秀吉が大敗を喫し大苦戦をしいらせられたのは家康ではなく織田信雄だろ。
織田家の中で最も無能であろう、信長に愛想つかされていた糞武将に後塵を拝した秀吉。

秀吉より戦下手な武将ってかなりレアだと思う。

序列でいえば 政宗>>>家康>>>>>>>>>>>信雄>>>>>>秀吉

こんなもん。
780人間七七四年:2010/09/29(水) 00:40:34 ID:4TnrKRgQ
豊臣軍135000が、織田信雄22000に大敗!!!!!

敗走!!!!
 
って、まるで漫画だな。 。 。

流石戦国最強の豊臣軍。
781人間七七四年:2010/09/29(水) 00:44:28 ID:UqMGd24h
秀吉がまともに戦って勝った戦なんて一つとしてねえよw

九州征伐では22万もの圧倒的動員で4万の島津軍に大敗したけど
途中で風向きが運良く変わって島津軍の兵士の目に砂ぼこりが入った上に
島津方の諸将が後ろから家久・豊久軍を急襲したから勝てただけだし。

秀吉が天下とったとか徳川時代の講談にしかないし後世の創作だろう。
782人間七七四年:2010/09/29(水) 00:48:34 ID:J00QNY/6
秀吉って史実では圧倒的少数の柴田や滝川に大敗して討ち取られた事になってるだろ。

10万の兵力で柴田2万や滝川3000に大敗して黒田、生駒、前野、蜂須賀らを討ち取られ

800万石は超える豊臣家を滅ぼした糞武将。

それを江戸期の講談で天下取ったという設定に作り変えた。
783人間七七四年:2010/09/29(水) 00:52:56 ID:oEckPDxO
秀吉って毛利輝元、織田信雄、北条氏政など一般的に馬鹿にされてる武将にことごとく大敗して重臣を大量に死なせ、

豊臣家を滅亡させた人でしょ。佐々攻略や紀州攻めでは60回も負けたし。

1000万石もの圧倒的勢いの織田家継承しながら大敗し続け、全て失った凡将w
784人間七七四年:2010/09/29(水) 01:05:47 ID:NxSQPNBH
何言ってるかさっぱりですね。
少しは相手に伝える努力したら?
785人間七七四年:2010/09/29(水) 09:30:18 ID:dSp1xWwr
住人どもは秀吉憎しで
くっ、狂ったのか!
786月孔雀:2010/09/29(水) 12:28:21 ID:+sNNtH83
なんか、秀吉叩きが、ここまで来ると、逆が正しいと思えてくるね。
787人間七七四年:2010/09/29(水) 12:35:12 ID:f2scKNRe
>779 無関係にまーくんの名を出すだけでレスの価値が0になる典型例だね。
788人間七七四年:2010/09/29(水) 12:42:58 ID:m5nUo2U3
現実問題として賤ヶ岳でも見られるように敵軍の動向を的確に把握することにより勝ってきた
秀吉が、この中入り軍への家康の秘密行軍をまったく把握できなかった。

この事は秀吉にとって衝撃的だっただろうし、家康に対する苦手意識を植え付けられたと考えられる。

ちなみに家康は関ヶ原でも敵軍に対して、自分の動向の完全な隠匿に成功している。
家康が凄いというべきか、豊臣系は家康に対して相性がわるいというべきか。
789月孔雀:2010/09/29(水) 13:08:18 ID:+sNNtH83
>>788 伊賀忍者を味方につけたからとか・・・
790人間七七四年:2010/09/29(水) 13:11:12 ID:dSp1xWwr
力関係に明かな差があったため
位攻めによって敵が心理的に瓦解すると思って
単になめてかかっただけでしょう。
秀吉の慢心と言ってもいいですね。
もはや死力を尽くしてという
これまでのような対等な立場の戦ではなく、
どっかり本営に腰を下ろし、
自分は天下人であるという一種のプロパガンダを
内外に発する戦のはじまりであった。
791人間七七四年:2010/09/29(水) 13:15:38 ID:NxSQPNBH
どう見ても自演だろ。
792人間七七四年:2010/09/29(水) 14:56:52 ID:Kqjmvzl0
>>790
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。

>>788
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
793人間七七四年:2010/09/29(水) 15:00:42 ID:/0TO+ZDS
※秀吉失態集※

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
>>790
秀吉は慢心なくてもいっつも醜態晒してるよ
雑魚信雄や輝元、氏政などにも武力では全く勝てないし

・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる

794人間七七四年:2010/09/29(水) 15:01:41 ID:dSp1xWwr
だれも読まねぇつうの。
ちったぁ学習しろよ。
795人間七七四年:2010/09/29(水) 15:07:42 ID:ql5AWYcc
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。

戦国最弱の豊臣軍。

柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
796人間七七四年:2010/09/29(水) 15:10:45 ID:SwgEd5BA
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
797人間七七四年:2010/09/29(水) 15:15:11 ID:dSp1xWwr
すまん。餌を与えてしまった。
しばらく活動が続く模様。
798人間七七四年:2010/09/29(水) 21:54:54 ID:q5j84PXL
>>793
兵力だけにものをいわす合戦は必ず敗れる。
結果論の羅列でしか語れないバカも敗れるw

799人間七七四年:2010/09/29(水) 22:13:32 ID:3WSfdvUn
信長や信玄、家康は数が増える毎に強さを圧倒的に増していったがその逆が秀吉。

どんどんカスっぷりを披露していく様は日本の愚将代表格に相応しい。
800人間七七四年:2010/09/30(木) 00:41:40 ID:A8SWNT4Y
愚将代表に土下座してる大将は誰よ。
801人間七七四年:2010/09/30(木) 00:44:29 ID:Prr20WCs
いい加減釣られるなよ自作自演だろうけど
802人間七七四年:2010/10/01(金) 23:48:49 ID:5XCWE+Zu
>>801
お前なにおびえてるの。
803人間七七四年:2010/10/02(土) 15:13:28 ID:whtsXKqu
などと意味不明なことを述べており、犯行に及んだ動機は未だ明かされておりません
804人間七七四年:2010/10/02(土) 20:11:20 ID:TP0aJDl9
と嘘吹いております。
805人間七七四年:2010/10/03(日) 07:37:23 ID:mxyefwHp
アスペルガーだな
806人間七七四年:2010/10/04(月) 00:37:00 ID:6NxAJXa4
ほっとけ
807人間七七四年:2010/10/04(月) 14:25:50 ID:0RoV5YAS
秀吉は金ケ崎の退き陣で殿軍を務め見事に成功している。
信長も戦下手なら殿には使わない。
足軽大将が漸く務まる家康なら死んでたよ。
808人間七七四年:2010/10/04(月) 14:40:17 ID:a4yrJLZY
自作自演にはうんざり
809人間七七四年:2010/10/04(月) 14:57:42 ID:mFbG3bF0
秀吉の奮戦で撤退できたというのは講談だろ。
池田勢中心で奮戦したから撤退できたというのが最近の説。
いかに講談や軍記類で秀吉が基地外のように持ち上げられてるかわかる事柄のひとつ。
信長が殿に使ったとしたらよっぽど雑魚だから死んでも構わんと思ってたんだろうね
810人間七七四年:2010/10/04(月) 15:01:10 ID:XLuF4pUC
秀吉は、織田四天王の中では一番雑魚。
直接交戦での戦績からそれがよくわかる。
滝川にまけ柴田に負け明智にまけ、それを勝った勝ったと揉み隠し
しまいには輝元、氏政、信雄の日本3大凡将に大敗し天下失ったゴミ武将
811人間七七四年:2010/10/04(月) 15:04:52 ID:tBovijA1
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
日本の恥
812人間七七四年:2010/10/04(月) 16:15:11 ID:6NxAJXa4
はいはい
813人間七七四年:2010/10/04(月) 16:21:44 ID:0RoV5YAS
指揮能力が糞レベルでどうして
最大国の毛利担当にされているの?
輝元、氏政、信雄にいつ負けたの?
なぜ家康は 日本の恥のゴミ武将に土下座しているの?
その 日本の恥のゴミ武将が天下人にどうしてなるの?
どうして家康はその 日本の恥が死ぬまで
見苦しいまでに律儀者のふりをしていたの?
君たちは支離滅裂な事ばかり言っているね。
歴史を学ぶ上で基礎中の基礎、流れを把握するということが
欠落しているね。
大方、テストの前日に一夜漬けで丸憶えしてた馬鹿達でしょ。
814人間七七四年:2010/10/04(月) 16:23:29 ID:8o1Rz01M
うんうん。解ったからお医者様に見てもらおうね。
815人間七七四年:2010/10/04(月) 16:27:38 ID:Gi6UyrIx
>指揮能力が糞レベルでどうして 最大国の毛利担当にされているの?
毛利が南条宇喜多大友十河らにまけまくる雑魚ででかいだけのハリボテ大国だから
調略が有効だっただけ
>輝元、氏政、信雄にいつ負けたの?
輝元…熊見川、三木、鳥取、高松、
氏政…駿河伊豆国境会戦、小田原攻防、山中、韮山、忍
信雄…木造、松ヶ島、白山林、仏が根、加賀の井、奥、小幡
まだ細かくあげればあがるが上記の戦いで圧倒的大軍で大敗や大苦戦や大損害を繰り返した

>なぜ家康は 日本の恥のゴミ武将に土下座しているの?
天下を無理して取る気なかっただけじゃね
>その 日本の恥のゴミ武将が天下人にどうしてなるの?
形式的に従えただけでしょ。いわば公家とかが大名を従えてるのと似たようなもん
>どうして家康はその 日本の恥が死ぬまで見苦しいまでに律儀者のふりをしていたの?
家康はリスクの低い選択で天下取っただけだろ
慎重で堅実な性格だしな
816人間七七四年:2010/10/04(月) 16:31:00 ID:n5gOJYnA
秀吉が天下取ったなら
なぜ徳川幕府が開かれたの?
なぜ圧倒的に国力に劣る家康や毛利ごときつぶせんの?
なぜ秀吉はガチガチに基盤を固められんで死後豊臣は滅茶苦茶な醜態を晒すの?
その秀吉が死んだだけでなぜ豊臣は崩壊するの?
どうして秀吉は英雄なら晩年見苦しいまでに愚行を繰りかえしていたの?
君たちは支離滅裂な事ばかり言っているね。
歴史を学ぶ上で基礎中の基礎、流れを把握するということが
欠落しているね。
大方、テストの前日に一夜漬けで丸憶えしてた馬鹿達でしょ。
817人間七七四年:2010/10/04(月) 16:32:48 ID:n5gOJYnA
※秀吉失態集※

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
818人間七七四年:2010/10/04(月) 16:35:10 ID:BHNADusj
秀吉が天下取ったというのは徳川時代に作られた講談。
史実では織田家を継承しながら敗戦を繰り返し家を滅亡させただけ。
819人間七七四年:2010/10/04(月) 16:36:03 ID:BHNADusj
秀吉がまともに戦って勝った戦なんて一つとしてねえよw

九州征伐では22万もの圧倒的動員で4万の島津軍に大敗したけど
途中で風向きが運良く変わって島津軍の兵士の目に砂ぼこりが入った上に
島津方の諸将が後ろから家久・豊久軍を急襲したから勝てただけだし。

秀吉が天下とったとか徳川時代の講談にしかないし後世の創作だろう。


820人間七七四年:2010/10/04(月) 16:37:18 ID:dzTDODhq
秀吉って史実では圧倒的少数の柴田や滝川に大敗して討ち取られた事になってるだろ。

10万の兵力で柴田2万や滝川3000に大敗して黒田、生駒、前野、蜂須賀らを討ち取られ

800万石は超える豊臣家を滅ぼした糞武将。

それを江戸期の講談で天下取ったという設定に作り変えた。
821人間七七四年:2010/10/04(月) 16:41:52 ID:3fPdmTSh
>>819
おいおい、秀吉は島津に大敗して土下座したんだろ。
『なんとかお命だけは助けてください〜』ってな。
島津は秀吉のなりふり構わぬ土下座に感銘を受け仕方なくしたがってやった。
822人間七七四年:2010/10/04(月) 16:43:03 ID:nsc2el2Q
豊臣軍135000が、織田信雄22000に大敗!!!!!

敗走!!!!
 
って、まるで漫画だな。 。 。

流石戦国最強の豊臣軍。


823人間七七四年:2010/10/04(月) 16:46:02 ID:0RoV5YAS
基地街スレに燃料投下したら
良く燃えマスタ
824人間七七四年:2010/10/04(月) 18:20:15 ID:b5vvpP+c
>>822
お前なに現実逃避してるのw
825人間七七四年:2010/10/04(月) 22:02:37 ID:aoj9zkjA
だからアスペルガーって言ってるだろ
826人間七七四年:2010/10/05(火) 01:57:03 ID:pwQe3UYk
とにかくそいつに触れるな。
827人間七七四年:2010/10/05(火) 19:23:22 ID:09NO06Pj
>>822
お前なに保守してんのw
828人間七七四年:2010/10/06(水) 20:51:05 ID:wv8RF1Hr
秀吉いなかったら家康は伊達に殺されてたよ。
829人間七七四年:2010/10/06(水) 21:56:16 ID:HgiijVOa
ヤス「マーくん怖い、怖いよ〜」
マー「おら、おら、かかってこんかい!このピザぶたがw けつの穴に、三本目の足つこんだろか」
シゲ「こんばんは、ラッシャー佐竹です」
ヤス「シゲくん!!!」
マー「ヒィィィィ〜」
シゲ「さあ、人取橋の続きといこうか」
ヤス「シゲくん、ガンバ」
ってなわけだ。
830人間七七四年:2010/10/09(土) 23:26:40 ID:0dcjOGBa
しかし秀吉がいなかったら維新は成功出来なかったよな。
831人間七七四年:2010/10/10(日) 00:22:27 ID:Frm8zOBH
それ信長でも家康でも島津でも毛利でも言える
何の意味があるIFなのかしらんが
832人間七七四年:2010/10/10(日) 00:42:37 ID:RLOm9DLV
>>831
キチガイだから触れない方がいいぞ
833氷上の名無しさん:2010/10/10(日) 01:52:43 ID:dtxgSyFT
朝鮮出兵に信長が関係あるか?www
だから>>831はキチガイ扱いされてるんだよwww
834人間七七四年:2010/10/10(日) 13:15:13 ID:Frm8zOBH
維新に朝鮮関係ないけどw
835人間七七四年:2010/10/11(月) 20:07:24 ID:1WWBYOpr
>>834
キチガイに構うなとry
836人間七七四年:2010/10/12(火) 21:02:41 ID:H1C/3CQY
維新に朝鮮が関係ない?
だから>>835はキチガイ扱いされてるんだよwww
その程度の奥行きでは、まったく話にならんウンコちゃんだなww

837人間七七四年:2010/10/12(火) 23:03:21 ID:H1C/3CQY
しかし秀吉は京都を空けとくのが一番怖かったんだよな。
838人間七七四年:2010/10/13(水) 00:56:36 ID:DAinDmj1
基地外ktkr
839名無し募集中。。。:2010/10/14(木) 11:02:47 ID:2Fx1Tebv
俺が秀吉なら
信濃に別働隊を派遣して真田と合流させるけどなー
信濃は木曽や小笠原も後に秀吉と通じてるし
地の利で不利にはならない
840人間七七四年:2010/10/14(木) 11:40:29 ID:bwxF3gue
はいはいオレ戦略最高君だったら直ぐに天下も取れるね
841人間七七四年:2010/10/14(木) 14:57:03 ID:fIOAIKnw
木曽は84年3月時点で既に離反している。
菅沼・柴田・保科ら徳川方はこの年夏木曽谷の攻防で敗戦し木曽攻略は失敗
ちなみに真田は徳川と関係が悪化し始めているがまだ明確には敵対していない。
842人間七七四年:2010/10/14(木) 18:49:38 ID:7Jva8ZbM
俺が秀吉なら
めんどくさいから全軍で小牧山にレッツゴーだ
843人間七七四年:2010/10/14(木) 19:18:46 ID:hPXXLpNT
秀吉程度の軍事指揮官が指揮取ったらどんな戦術でも大敗する
織田信雄ごときに苦戦するようじゃ話にならん。
844人間七七四年:2010/10/14(木) 19:23:17 ID:uNwAuJ0c
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
845人間七七四年:2010/10/14(木) 21:13:57 ID:UFtGlb7q
こういうキチガイもつと親は苦労する
846人間七七四年:2010/10/14(木) 21:32:54 ID:rMgK/ZL9
おまえら全員、今すぐ小牧山にこい。
おれは5分で行ける。
岩崎山側の小牧山麓だ。


847人間七七四年:2010/10/14(木) 22:27:18 ID:2bb8Tism
天地夢ノ助
848人間七七四年:2010/10/15(金) 09:27:44 ID:S1QqM7zL
愛知学院のあるところだよな
849人間七七四年:2010/10/15(金) 17:34:23 ID:DG2jDUcO
>>848
キチガイに構うなとry
それ長久手だろってツッコミが欲しいのか
850人間七七四年:2010/10/15(金) 17:43:43 ID:XD+B0VJ3
これは中入れというのをした奴らはむしろ功
滞陣続いて膠着状態だったわけで、大軍擁した秀吉がなんで攻められないかといえば
ひとえに陣に篭られてるから
あほうで能天気な中入れ部隊の行軍のおかげで家康本隊が陣から出たのだから、その
戦機を逃し付け込めなかった秀吉の無能さこそが責められるところ
851人間七七四年:2010/10/15(金) 18:55:56 ID:DG2jDUcO
その間に家康は大須に寺を集めた訳だから、
このあたりは家康に統治されてたんだよな。
852人間七七四年:2010/10/15(金) 21:18:13 ID:hUyF/zxD
皆もいってるけど単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる


853人間七七四年:2010/10/15(金) 21:22:02 ID:hUyF/zxD
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
854人間七七四年:2010/10/15(金) 21:31:40 ID:+o/EhLmh
ひでえ采配だなw
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、
権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
855人間七七四年:2010/10/15(金) 23:18:45 ID:yzEBM7wh
お前の親はこんなことをさせるためにおまえを育てたわけじゃないだろうにな
856人間七七四年:2010/10/15(金) 23:23:24 ID:mO8MemcW
基地外の親も基地外だから因果応報
857人間七七四年:2010/10/19(火) 18:53:53 ID:bIIswqRx
利休には勝ったぞ
858人間七七四年:2010/10/20(水) 20:14:06 ID:mTOxUx0j
家康様が本気になられてたら朝鮮は江戸初期から昭和20年まで
日本だから、将軍様も三代じゃなく20代ぐらいだったな。
テポドンも東照宮とか駿河なんてミサイルがいいな。
859人間七七四年:2010/10/20(水) 20:15:41 ID:hKvPIVVh
↑超賎人並みのアホハッケソ
860人間七七四年:2010/10/20(水) 20:46:58 ID:F3eEAe6a
解ってると思うが >>858-859 はいつもの馬鹿の自作自演だから触れないようにな
861人間七七四年:2010/10/20(水) 21:05:53 ID:mTOxUx0j
名古屋城でおもてなし武将隊の家康様に逢ったら
すでに号泣だったな。
清洲から名古屋城に6キロ歩いたで。
しかし帰りに駅裏のやまちゃんで手羽先食べとったら
あの辺りはヒデコウの臭いプンプンで胸糞悪なりよったわ。
862人間七七四年:2010/10/21(木) 10:07:45 ID:T+2AHCp2
そんな相手に結局土下座する家康は
戦国の面汚しのカスレベル確定。
863人間七七四年:2010/10/22(金) 01:25:22 ID:u3y8wQTL
そんなら浅井朝倉に土下座したゴミ雑魚長もカス
朝廷や旧勢力にどんだけ土下座してんだ
864人間七七四年:2010/10/22(金) 01:27:11 ID:X+vmC6nR
家康は秀吉に土下座なんてしとらん
秀吉が必死にワシに従ってくれ〜と泣きついたから仕方なく応じてやっただけ。
865人間七七四年:2010/10/22(金) 01:29:55 ID:Vo3Gyc8I
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ。
866人間七七四年:2010/10/22(金) 01:33:21 ID:w6WQGEfx
国力が自国のわずか14分の一程度の小勢力相手に母と妹差し出す醜態演じた馬鹿はそういまい。
867人間七七四年:2010/10/22(金) 01:39:00 ID:+q3aoBx5
秀吉が四国に生まれていたら三好残党あたりに瞬殺されてたのは間違いない。
868人間七七四年:2010/10/22(金) 15:15:00 ID:lf1Aix0w
京都って知ってる?
869人間七七四年:2010/10/22(金) 20:38:25 ID:v/WC7uBZ
>>864
さすがにそれはねーだろw
870人間七七四年:2010/10/22(金) 20:44:44 ID:W1Tq0dPS
>>865
光秀が馬鹿とか典型的な結果論。
秀吉と和睦した毛利がそれを破り、秀吉を追撃していたら
「中国大返し」は起こらなかった。
そうしたら光秀の天下取りが成功していた可能性が高い。
後世の人間は結果だけ見てなんとでも批判できることを
自覚しておいたほうがいい。
871月孔雀:2010/10/22(金) 21:14:34 ID:UM3IGcPo
大学受験も多くの人からは、
模試の結果なんかどうでも良くて、
合否だけが肝心だしな・・・

872人間七七四年:2010/10/22(金) 22:46:15 ID:pXeNEWUa
光秀は馬鹿。
秀吉がこようがこまいが逆賊の汚名着るからどうせ柴田や徳川や羽柴や畿内近辺の武将に囲まれて滅んでたのは間違いない。
毛利が追撃しようにも南条や宇喜多に阻まれて終わってただけ。史実でもそうだったし。
こんな馬鹿を畿内方面で起用する織田家終わってる。
873人間七七四年:2010/10/25(月) 22:18:01 ID:a6E3XAXH
テンカイ様の悪口だけは許さんぞ。
874人間七七四年:2010/10/25(月) 22:36:11 ID:ITPdZuXh
>>872
その織田家と対等でない同盟を結ぶ徳川家w
また通説ではその信長の圧力で嫡男を自害させた家康w
875人間七七四年:2010/10/26(火) 11:54:15 ID:kXt8VCeb
いかにも2ちゃんらしい罵倒合戦スレに成り下がってるな
876人間七七四年:2010/10/26(火) 13:15:08 ID:2sQmKRfz
>875
何をおっしゃる。ここは
最初の10ヶ月で100レスも付かないほど糞マイナーなスレでありながら、
池田謀略史観により突如レスに勢いが付き、
その後は惰性でののしりあうスレとして雌伏の2年間を過ごし、
ことし突如としてあらわれたアンチ秀吉長文DQNを華麗にスルーしきれず、
もしかしたら、来年の春頃は誰かが間違えてpart2を立ててしまうかもしれないという、
信雄もびっくり奇跡のスレなのですぞ。
877人間七七四年:2010/10/28(木) 21:34:34 ID:buDf4EWY
まぁ君たちは歴史の表だけをなぞってるだけに過ぎんwww
878人間七七四年:2010/10/28(木) 23:51:29 ID:jMdOby3K
>>877
頑張って君だけの歴史の裏側を永遠にひとりだけでなぞっててくれw
879人間七七四年:2010/10/29(金) 21:29:17 ID:9W0rJBWv
歴史の裏側(笑)
880人間七七四年:2010/10/29(金) 21:51:06 ID:Q3YqEoKq
表と言われて完全に頭が混乱していやがるぞwww

まぁお前らが思い浮かぶのは天海ぐらいだろうなwww
881人間七七四年:2010/10/30(土) 04:01:00 ID:Sg3HvosZ
戦国って、たかだか何年の歴史?
882月孔雀:2010/10/30(土) 06:32:23 ID:JhJNPm8p
応仁の乱からだから、100年以上
883人間七七四年:2010/10/30(土) 12:00:25 ID:kBKquj6J
そんなに争ってたのか、当時の人は長生きだなぁ
884人間七七四年:2010/10/30(土) 13:47:48 ID:Sg3HvosZ
たった何百年?
885人間七七四年:2010/10/30(土) 19:11:53 ID:T47WC+FS
天才家康が一人で納めてしまうのだからホント凄いよ。
886人間七七四年:2010/10/30(土) 20:28:55 ID:T47WC+FS
頼朝や尊氏とは全然違う将軍やからな家康様は
887人間七七四年:2010/10/30(土) 20:40:32 ID:vKRalfgo
信長の圧力で嫡男を自刃させるような家康が?
いや、自分は「信長命令」説ではないんだが。
888人間七七四年:2010/10/30(土) 21:11:55 ID:T47WC+FS
>>887
君はあまり歴史を知らないみたいだがその嫡男を殺さないように
仕向けてはいたんだよ。
あんまりレベル低いと相手にならないねwww
889人間七七四年:2010/10/30(土) 22:04:48 ID:kBKquj6J
まぁ信康秀康と気性の荒そうなのが消えたおかげで
陰険で温厚な秀忠に跡目が回ったからこその後の
江戸幕府安泰体制になったと
890仙台藩百姓:2010/10/30(土) 22:28:49 ID:Xh9D4Ck9
秀忠のどこが温厚なのだお( ^ω^)
891人間七七四年:2010/10/30(土) 23:02:18 ID:xxO6piHL
葵三代では温愚
892人間七七四年:2010/10/31(日) 02:43:54 ID:TkkLGKXj
大した事ない家康でも生き残ってさえいれば天下が転がり込む
この世は運というものがとても大切だ
893人間七七四年:2010/10/31(日) 05:03:11 ID:GHcAGROI
家康も元就も健康管理しっかりしてたしせっせとSEXしまくった。

運々で片づけるなよ
894人間七七四年:2010/11/01(月) 02:33:44 ID:Mh0BylSv
それを運という
895人間七七四年:2010/11/01(月) 16:30:52 ID:GWSBmuas
そうだね君の現実が悲惨なのも運だけの問題だよね
896人間七七四年:2010/11/01(月) 17:35:12 ID:MjxyQx6P
運さえあればなんでもできる、果報は寝て待とう
897人間七七四年:2010/11/01(月) 17:48:39 ID:Mh0BylSv
健康管理しっかりしてSEXしまくってる俺が天下取れないのは何故ですか?
898人間七七四年:2010/11/01(月) 19:21:45 ID:MjxyQx6P
SEXの相手が悪いんじゃないかな
899人間七七四年:2010/11/07(日) 20:08:00 ID:XcQW8TF8
>>897
君はあまり歴史を知らないみたいだが
押尾みたいに違う天下獲ったらいいがな。
あんまりレベル低いと相手にならないねwww
900人間七七四年:2010/11/08(月) 01:03:07 ID:TQYissf+
歴史の裏側(笑)
901人間七七四年:2010/11/09(火) 22:34:32 ID:SsKDLwfX
>>900
そうだね君は結果でしか歴史を語れないウンコちゃんだったねwww
902人間七七四年:2010/11/10(水) 12:57:33 ID:Gund/Jbb
妄想で語るのが真の歴史(キリッ
903人間七七四年:2010/11/10(水) 21:36:09 ID:4cPN7/2j
>>902
そうだね君はよそのスレ引用でしか歴史を語れないウンコちゃんだったねwww


904人間七七四年:2010/11/12(金) 20:42:31 ID:WupljHMW
また鸚鵡アスペルガー君か
905人間七七四年:2010/11/21(日) 19:18:46 ID:lh0tzUxL
しかし岡崎を秀吉が堕していたらどうなっただろうか?
906人間七七四年:2010/11/23(火) 01:26:48 ID:56Eh35X5
信康が殺された理由って

岡崎派(信康派)と浜松派(家康派)の対立があって
その解決のために家康が信康の嫁の親である信長に信康を殺していいかお伺い立てて
信長が他家の事に口出しはしないから家康の思い通りにせよ
って事になって家康が信康を自刃させたんじゃなかったっけ
907人間七七四年:2010/12/01(水) 21:14:59 ID:Jf4Lv2Ql
でも娘は育てた
908人間七七四年:2010/12/07(火) 00:44:46 ID:oAbrbSM+
長久手古戦場行ってきたよ。

@岩崎城は意外なほど岡崎城に近い。
20kmほどしかない。
岩崎から先で、2回渡河する必要があったようだが、家康が追いついたのも結構ギリギリ間に合ったようにも見える。

A檜ヶ根の堀秀政本陣と御旗山は物凄く近い。
近すぎて御旗山に家康が馬印を立てたとすると、両軍の前衛同士が接触するのは避けられない。
よく小説などで「秀政が遠望すると御旗山の山頂に金扇が翻り・・・」なんてあるけど
あれはおかしいw
現地に行くどころか、地図すら見てないんじゃないのか。
色金山に金扇を見て堀隊が撤退した、
その後で家康が本陣を御旗山に移したというのが真相に近いのではないか。
909人間七七四年:2011/01/11(火) 09:24:31 ID:XhB97ukZ
なんて史料?
910人間七七四年:2011/01/14(金) 06:20:58 ID:/5A2bc0n
司馬遼太郎とかだろ
911人間七七四年:2011/03/19(土) 21:16:45.78 ID:ucKX+p1T
疑うなら、おもてなし武将隊に聞いて来いよ。
912 忍法帖【Lv=27,xxxPT】 :2011/04/10(日) 19:12:16.64 ID:+gmBzoPe
てs
913 忍法帖【Lv=37,xxxPT】 :2011/04/26(火) 22:53:20.10 ID:I5YaErvX
test
914人間七七四年:2011/05/04(水) 22:07:10.51 ID:tLDBdym9
小牧・長久手で秀吉が劣勢になる要素が見つからない件
6倍の兵力だろ?
力押しで勝てるし、多方面から攻めても勝てるし、
中入れしてる間に忠勝打ち取れるはずだしそのまま家康を追撃できるはずだし

秀吉に勝つ気がなかったとしか思えない
915人間七七四年:2011/05/04(水) 22:09:38.00 ID:hTVj/cwP
小牧の周辺はあの辺しか、大軍が作戦展開できる余地がなかった
よってそこを砦や土塁で固められると、全く手が出せいない

その為に長久手の迂回がなされたが、これも家康の機動戦により
瓦解
916人間七七四年:2011/05/04(水) 22:14:25.31 ID:nnu4rXcF
>>914
六倍と言っても、当時一つの戦局に投入できる戦力には、兵量や居住、糞尿の処理などのため
自然限界というものがあり、最大で2万5千程度だったとされる。
917人間七七四年:2011/05/04(水) 22:32:32.61 ID:IcN5MiOL
関ヶ原や大阪は?
918人間七七四年:2011/05/04(水) 22:43:19.66 ID:nnu4rXcF
>>917
関ヶ原は東軍西軍共におおよそ1〜2万の単位で分散していたのが、野戦のため1日だけ一時的に
集合した形だな。

大阪の場合も大阪城は広大なので、それぞれの担当地域単位で見ると1〜2万位だったりする。
919人間七七四年:2011/05/06(金) 23:46:36.30 ID:lQgwox5e
>担当地域単位
不思議単位じゃなくて平方メートルにして
920人間七七四年:2011/08/14(日) 02:47:57.63 ID:8pRTNuFl
>>915
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、
小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める

あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。

921人間七七四年:2011/08/14(日) 02:54:53.19 ID:8pRTNuFl
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない
922人間七七四年:2011/08/14(日) 14:04:19.21 ID:8pRTNuFl
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。
923人間七七四年:2011/08/14(日) 14:11:22.48 ID:8pRTNuFl
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
924人間七七四年:2011/08/16(火) 23:05:30.04 ID:NoTqfGCi
結局、中入り作戦は秀吉の立案した作戦って事
925人間七七四年:2011/08/29(月) 12:35:34.05 ID:7tSWu3mA
愛知県長久手町が流行りに便乗して作った武将隊「長久手歴史トラベラーズ」
『戦国時代の1584(天正12)年4月9日の長久手古戦場から現代の長久手へ
タイムスリップしてきた観光PR隊です。羽柴秀吉軍の武将2名と
織田信雄・徳川家康連合軍の武将2名に歴女2名と黒子(くろこ)を加えた7人で、
長久手の歴史や観光などを皆さんにご紹介していきます。 』
「羽柴軍」 池田恒興 森長可    「徳川・織田軍」 徳川家康 井伊直政
「歴女」 ヨシコ ヤスコ
926:2011/10/12(水) 01:39:40.26 ID:F6eg4QiG
>>924
負けたから秀次のせいにしてる節あるけど
それは酷いと思うよな
秀吉の作戦でしょアレは
927人間七七四年:2011/10/12(水) 13:55:38.69 ID:6F7D8F5h
柴田錬三郎の短編でも
「中入り作戦を立案したのは秀吉で、その責任も秀吉が負うべきなのに
自分だけが一方的に責められるのはおかしい」
って秀次が憤ってたな
928人間七七四年:2011/10/12(水) 14:34:20.77 ID:kCn5JYLg
まあ秀吉もなめてかかったんじゃない。
どう見ても家康なんか勝家以下だし。
929人間七七四年:2011/10/13(木) 15:11:35.64 ID:ngNyDN9F
白山林の戦いについては秀次の責任と言っても良いけど
930人間七七四年:2011/10/14(金) 03:48:57.72 ID:ajXxHjpA
しかし外交で勝つ秀吉もすごいけど秀吉を一泡食わせた家康もすごい
信雄はいったい何だったんだ
931人間七七四年:2011/10/15(土) 03:30:52.19 ID:3SxJtclp
秀吉が負けたのは家康ではなく信雄。

織田家でもっとも無能な信雄軍団が84年の攻防の主力であり、家康はたかだか8000連れてきただけなのは当代記などに書かれてる。

松ヶ島、木造、加賀の井方面で大敗して結局尾張ライン超える事は挫折

夏の攻防の際にもやはり砦間の攻防で苦戦して退却

弱いにも程があると思う
932人間七七四年:2011/10/15(土) 12:18:16.93 ID:7nTT7abw
アンチというのはこれだからww
こんなの参考されても困るだけだよな、戦国史研究会のひとたちもww
933人間七七四年:2011/10/15(土) 16:17:00.16 ID:vHZ8oPdK
長久手がそろそろ市制施行するから、小牧市巻き込んで何かイベントすればいいのに。
934人間七七四年:2011/12/04(日) 05:27:53.98 ID:HUqTNO7k
戦後家康の甲信の領土って減ったの?
935人間七七四年:2011/12/04(日) 08:48:32.81 ID:JwhAlXKr
>>934
真田や木曽の離反で減ったが、その後に秀吉の命で家康に再帰順
936人間七七四年:2011/12/09(金) 21:00:11.05 ID:uYopKbFZ
堀秀政に秀次敗走を知らせに来たのが割りと踏みとどまってた長谷川秀一の配下で遅れて真っ先に敗走してた田中吉政が来たらしいがこいつはどこで何をやってたのか。
937人間七七四年:2011/12/09(金) 21:27:57.09 ID:tUzC+mU+
そりゃ、壊乱し伝令出す暇も無い田中と、踏みとどまりつつ伝令出した長谷川ということでしょう
938人間七七四年:2011/12/11(日) 03:44:31.22 ID:QftaN2Kp
長谷川は5月1日の尾張撤退戦でも普通に働いてるしあの状況下でしっかり堀に伝令出して
備える為の時間稼ぎもして壊滅せずに撤収したのはいい仕事だった。
939人間七七四年:2011/12/11(日) 17:37:55.00 ID:4nmkfzGl
個人的には時間稼ぎをしたのは木下兄弟と思う
940人間七七四年:2012/01/01(日) 17:53:38.98 ID:GJiXC6J6
で、秀吉と家康のどっちの勝ちなん?
941人間七七四年:2012/01/01(日) 19:53:53.26 ID:pcHMLk5j
>>940
どの時点による
戦争という観点なら、引き分け
短期的な主従なら秀吉
最終的な勝敗なら家康
942人間七七四年:2012/01/01(日) 21:36:26.38 ID:9DGEmAZX
徳川、織田連合軍は17000で、たいかう軍は100000ということで宜しいですな
943人間七七四年:2012/01/02(月) 01:47:46.54 ID:qIQLgNNc
ノブオって救いようが無い程の弱さだなw
天正伊賀攻めでも負けてオヤジに絶縁されそうになってるし
どうやったらあの偉大なオヤジからあんなバカ息子が生まれてくるんだろう
信忠>>>信孝>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>∞>>>>>>>>>>>>ノブオ
944人間七七四年:2012/01/02(月) 03:28:57.98 ID:PfOPlzox
織田信長
織田信雄

一文字違うだけでこんなに弱そうになる
945人間七七四年:2012/01/02(月) 18:20:10.55 ID:oaz5/U88
◇ ミ ◇ ◇◇ / ̄| ◇◇ ◇◇\ |__| ◇◇ 彡 O( ^ω^)/( P `O /彡#_|ミ\

【ラッキーAA】 このAAを見た人はコピペでもいいので 10分以内に3つのスレへ貼り付けるお そうすれば2日後から好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ 出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事だお
946人間七七四年:2012/01/03(火) 13:00:48.62 ID:+0d86NkV
長久手・小牧の集兵力も凄いものだが。いまで言えばトヨタの労働者数みたいなものかな?
947人間七七四年:2012/01/03(火) 19:56:09.90 ID:2jXKIUh0
ブラジル人はいなかったろうがね。
948人間七七四年:2012/01/03(火) 20:55:50.75 ID:FtSiNovc
本能寺を逃れた総見院様お気に入りの黒人は、足軽隊200を引き連れ岩崎城に立て籠りて、華々しく散った。
949人間七七四年:2012/01/06(金) 19:12:45.69 ID:j25ovoDj
秀吉が負けたのは家康ではなく信雄。

織田家でもっとも無能な信雄軍団が84年の攻防の主力であり、家康はたかだか8000連れてきただけなのは当代記などに書かれてる。

松ヶ島、木造、加賀の井方面で大敗して結局尾張ライン超える事は挫折

夏の攻防の際にもやはり砦間の攻防で苦戦して退却

弱いにも程があると思う
950人間七七四年:2012/01/06(金) 19:14:22.59 ID:j25ovoDj
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w


951人間七七四年:2012/01/06(金) 20:05:42.43 ID:Z19tA+/w
はいはい
952人間七七四年:2012/01/07(土) 01:04:49.20 ID:QL+eBna4
あの時代は小牧も長久手も大変な数の人が散っていったのだろう。今の時代で良かった。
953人間七七四年:2012/01/07(土) 01:14:58.45 ID:RFsONX4M
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ。
954人間七七四年:2012/01/07(土) 01:17:30.55 ID:RFsONX4M
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。

実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない
955人間七七四年:2012/01/07(土) 04:48:26.94 ID:b2bI7rLf
一時的にでも政権取った奴が少ないから天下人扱いされるんだろ。
天下を取れずに何人の人間が散って行ったことか
956人間七七四年:2012/01/07(土) 10:21:35.74 ID:dQvMZtaG
正月で一時退院したのか
はやく治ればいいね
957人間七七四年:2012/01/07(土) 10:28:33.31 ID:cnf8YT2f
死ぬまで入院して隔離でいいんだけどな
958人間七七四年:2012/01/07(土) 17:10:05.96 ID:E8OcvRu7
凄い猛毒電波だわな
959人間七七四年:2012/01/08(日) 14:14:53.17 ID:+BiPl5p0
きっとかまってくんなんだろうが、かまいようがないな・・
960人間七七四年:2012/03/04(日) 19:55:59.67 ID:3CxcUtO3
一時的とはいえ、この辺りもフィリピンパブから
熟女キャバに勢力おされてるからな。
この程度でいいか(笑)
961人間七七四年:2012/03/05(月) 01:01:44.28 ID:c4m8u4tc
織田系の武将たちが次々と討ち取られその雑魚さを証明した戦い
962人間七七四年:2012/03/05(月) 02:02:35.37 ID:NGBUVcMt
雑魚に滅亡させられた武田哀れ
963人間七七四年:2012/03/05(月) 02:06:32.17 ID:h86Q79vV
雑魚なことを認める織田雑魚哀れ
964人間七七四年:2012/03/05(月) 07:36:27.30 ID:nPHEgVOc
武田<織田<徳川<武田  不思議!
965人間七七四年:2012/03/05(月) 12:02:54.11 ID:oGZ2tyb8
織田系のカス武将たちに戦の才能があれば背後から攻めてきた家康を返り討ちにできただろうに
966人間七七四年:2012/03/05(月) 12:07:29.68 ID:h0yTL8sK
皆もいってるけど単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる

六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
967人間七七四年:2012/03/05(月) 12:11:28.79 ID:h0yTL8sK
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
968人間七七四年:2012/03/05(月) 12:11:46.56 ID:h0yTL8sK
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しない。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

7倍もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築きさらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいてあんな糞作戦立てた秀吉の完敗
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが7倍兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康だから戦闘能力でいえば家康は秀吉の35倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してる。目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
969人間七七四年:2012/03/05(月) 12:13:05.78 ID:h0yTL8sK
※秀吉失態集※

・播磨で別所や播磨国衆の裏切りで窮地に陥り信長の助けを求める
・三木城攻略に2年も費やし、当時竹中重治と双璧といわれた谷を戦死させる
・ 熊見川で宇喜多、大友、南条、河野等にボロクソに負ける雑魚毛利にボロクソに負ける
・ 美作で宇喜多軍と協力しての軍事行動で穂井田元清に駆逐される
・防己尾城攻防で吉岡定勝に馬印を奪われる
・毛利を一人で攻め切れず援軍を信長に必死で懇願する
・倍以上の兵力を持ってして丹波平定に苦戦しまくる光秀と戦い、 光秀軍よりも多い損害を被る
(しかも光秀は山崎を守るための不利な布陣を強いられていた。ランチェスターの
法則でいえば倍の兵力なら相手の25%か50%の損害でなければおかしい )
・撤退中の柴田勝政や佐久間盛政を大軍で後ろから襲って反撃され、逆に撃退される
・大きな兵力差がありながら前田が兵をひくまで少数の柴田軍と野戦で均衡状態
前田が兵を引いてなんとか助けられる
・伊勢方面で寡兵の滝川一益に大苦戦。兵糧攻めも通用せず散々苦しめられる
・わずか16000〜17000ほどの信雄・家康に領国中の兵100000程かき集めて柵もめぐらされていない
無防備な陣の小牧山も全く攻められず短期決戦挑んでボロ負けし家康軍の5倍の被害を出し
池田親子・森長可・木下兄弟を討ち取られる
・20000の大軍で本多忠勝500に行軍を妨害される
・ごくわずかな兵しかいない木造具政・具康父子の戸木城を大軍で攻撃して撃退される
・ごくわずかな兵しかいない松の木城や松ヶ島城に2〜3万で攻めて散々手こずる
・圧倒的兵力差がありながらわずかな兵しかいない竹ヶ鼻城、紀伊太田城、忍城を
正攻法で瞬殺できず水攻めという時間や金を異常に無駄に使いしかも
雨が降らなかったら失敗していたであろう不確実な愚策を使ってやっと落とす
・せっかく滝川一益が佐久間正勝の留守をつき前田与十郎を寝返らせて蟹江その他数城を奪い、
家康と信雄の領土を分断するという大チャンスをつくったのにもかかわらず、
なぜか木曽川筋でダラダラ陣を張り織田徳川方に滝川を駆逐されてしまう
・紀州口でも大苦戦。散々な死者を出す
・圧倒的兵力差がありながら九州征伐で仙石・長曾我部勢を先行させるという愚策を講じ見事大敗する
・圧倒的国力差がありながら家康を臣従させるため母と妹を人質に出すという失態をおかす
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条を瞬殺できず
緒戦の伊豆駿河国境の戦いでボロ負けする
・全国から24万動員してわずか3万4千の北条に対し まともに倒せず
手薄な支城を攻めるのが手一杯で兵站を維持できるぎりぎりの所まで
追い込まれる(降伏時も北条はかなり余力残した状態)
・わずか500しか兵がいない伊豆韮山城を3万で攻めて3か月近く手間取り、重臣一柳直末を戦死させる
・わずか300程度の伊豆山中城攻防戦で重臣始め大多数の被害を出し大苦戦する
・わずか1000ほどしか兵がいない忍城を3万で攻めて落とせない
・わずか1000程度の小田原城に手も足も出ない
・秀次、その侍女一族や千利休を殺し人望を失う
・占領できもしないのに二度にわたる朝鮮出兵という愚行をなし案の定ボロ負けし、
国内を大いに疲弊させる
970人間七七四年:2012/03/05(月) 12:18:04.25 ID:h0yTL8sK
秀吉が大敗を喫し大苦戦をしいらせられたのは家康ではなく織田信雄だろ。
織田家の中で最も無能であろう、信長に愛想つかされていた糞武将に後塵を拝した秀吉。

秀吉より戦下手な武将ってかなりレアだと思う。

序列でいえば 政宗>>>家康>>>>>>>>>>>信雄>>>>>>秀吉

こんなもん。
971人間七七四年:2012/03/05(月) 12:18:58.17 ID:h0yTL8sK
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ。

972人間七七四年:2012/03/05(月) 12:22:20.95 ID:h0yTL8sK
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。

実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない

973人間七七四年:2012/03/05(月) 12:24:58.23 ID:h0yTL8sK
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉

974人間七七四年:2012/03/05(月) 12:30:58.66 ID:h0yTL8sK
織田家中でいえば
柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>原田、川尻、日根野、金森、前田、池田
>>>>>>>>>>>秀吉
こんなもん
975人間七七四年:2012/03/05(月) 13:33:19.67 ID:1hfdUHya
早く良くなるといいですね
976人間七七四年:2012/03/07(水) 01:45:07.77 ID:50IMtxWP
家康‐徳川家は歴史をねつ造し、長年にわたって日本国民を騙してきた。
長久手の戦いなんて、大した勝利ではない。
豊臣大名として、別に秀吉が腫物にさわるように遇してなんかいない。
他の清華成大名と同等、最上位ランク大名の一家に過ぎない。
秀吉の高度な統治システム、武家官位制度、家格ランクによる秩序形成に完全に服していた。
977人間七七四年:2012/03/07(水) 08:36:59.38 ID:PyqN5n92
清華大名といいつつ、内大臣は、織田信雄と家康だけ、しかも、徳川は、世子が中納言と別格、秀吉死後は朝廷でも大臣は、家康一人。
明らかに突出してる。
978人間七七四年:2012/03/07(水) 10:52:18.46 ID:DbIqei55
突出した家康を何とかしようと色々した秀吉だが、結局全ては徒労だった
979人間七七四年:2012/03/07(水) 12:21:36.98 ID:iyQQ9df6
長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは
戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や丹波の赤井氏など国人が蜂起している事
それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ
長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然
池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟も戦死

結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して
結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか
弱いにもほどがある
しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国
980人間七七四年:2012/03/07(水) 12:30:36.18 ID:iyQQ9df6
ちなみに捏造でいえば信長や秀吉の方が遥に酷い。
83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり
84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり
紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり
尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶
秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。

徳川が捏造したなどとアホみたいな妄想を毎回語る馬鹿は消えろ
長篠の戦いも本当は武田圧勝だったけど徳川が捏造して織田徳川圧勝だったとかそういう話でもするか?
981人間七七四年:2012/03/07(水) 12:32:06.22 ID:iyQQ9df6
あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉
結局講和を持ち出したのも秀吉。
いつも嘘ばかりついて戦果を基地害のように誇張する
秀吉自身が不安定な緩衝地帯にいる寝返ったばかりの外様中の外様である木曽義昌宛て書状で負けを
述べ同じく外様である宇喜多家臣長船、富岡宛書状とあて先不明書状でも秀吉が自分で負けを認め
本多重次宛やその他家康書状には一万余り討ち取り池田親子や森、木下兄弟に加え堀や長谷川、三好秀次など
ことごとく討ち取り計10000程討ち取ったとある。ちなみに当代記や家忠日記では戦死者15000などと書かれてる
しかも1年かけて7倍もの圧倒的兵力差でろくな戦果あげられず、権力基盤の不安定な信雄の領国荒らすのが精一杯
夏の対陣や蟹江合戦でも敗退し尾張半国すら切り取れない無能ぶり
982人間七七四年:2012/03/07(水) 12:35:01.51 ID:iyQQ9df6
7倍もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築きさらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいてあんな糞作戦立てた秀吉の完敗
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが7倍兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康だから戦闘能力でいえば家康は秀吉の35倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してる。目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる。敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
983人間七七四年:2012/03/07(水) 14:55:50.06 ID:Jq9a6Rn1
秀吉が過大評価されるのは徳川時代の講談とプロバガンダの影響だろ。
一時的に政権持ってただけの奴を天下人だわなんだわと奉るからこうなった。

実際公家とかが名目上諸大名を従わせてるのと同じで天下なぞ取っていない
984人間七七四年:2012/03/07(水) 22:11:56.48 ID:K3pPyMet
突出している−独立性・自立性を際立たせたと思わせつつ、
清華成大名集団内に埋没させた。
全盛期の秀吉の政治術は、後の大久保利通と共に日本史上に燦然と輝く。
家康、グーの根も出ず。
985人間七七四年:2012/03/08(木) 00:17:02.04 ID:abitK7XY
秀吉が天下(形だけ)取れたのは光秀や信長が馬鹿だったおかげ。
信長が愚行を繰り返し謀反だらけで寡兵の光秀に瞬殺され、光秀もまんまと反逆者の汚名被ったから味方多く集まっただけ
986人間七七四年:2012/03/08(木) 09:31:25.62 ID:A/l4iITN
>>984
全然埋没していませんが
むしろ清華成という上流集団の更に上になっている
987人間七七四年:2012/03/08(木) 10:23:20.49 ID:Oozg5osR
家康の官位などは、秀長と同時昇進だったね。実弟と義弟ということで。
そして、疑似公家政権で内大臣補任というのは大きい。
988人間七七四年:2012/03/08(木) 22:00:41.54 ID:vIvyWTnD
徳川将軍家−特に家康・秀忠・家光といった創世記 の歴史ねつ造は酷いな。
諸大名の官位叙任の日やその内容について嘘の記録を作り上げ、
一部の研究者集団を除き、いまだに騙され続けているなんて。
989人間七七四年:2012/03/08(木) 22:11:26.69 ID:vK9//Qjm
せめて「捏造」って書けよ。「ねつ造」ってゆとり丸出しだぞ。
990人間七七四年:2012/03/08(木) 23:13:32.92 ID:A/l4iITN
>>988
単に自身も忘れているということは結構ある
991人間七七四年:2012/03/08(木) 23:38:43.76 ID:KgRJnrTD
馬鹿雑魚秀吉やクソ雑魚信長の歴史捏造のが遥にひどいだろ
一時的に大勢力だっただけの彼らがやたら贔屓されるようになったのは江戸期の講談が元だし
信長公記、太閤記なんて論ずる価値もない糞本だしな
992人間七七四年:2012/03/09(金) 00:41:31.27 ID:XGCkpNm5
だがに日本語は通じないから
993人間七七四年:2012/03/09(金) 00:51:16.13 ID:OEDmIwwh
馬鹿織田厨死ね
994人間七七四年:2012/03/09(金) 17:46:35.76 ID:z1tV09/F
織田系は本当雑魚揃いだな
995人間七七四年
ま、みんな仲良くやろうよ。
豊臣家康、羽柴秀忠・・・みんな御一家なのだからw