【伊達三傑】鬼庭綱元【能吏】

このエントリーをはてなブックマークに追加
132人間七七四年
相馬 天明大飢饉の直後の天明8年に幕府巡回使古川古松軒は東遊雑記に
仙台の武風に感ぜず相馬の武風に感ぜしなり。制度正しき故と思われ侍る。
元禄時代に土佐の谷秦山は相馬は国を立て武職を守ること700年 薩摩は500年と言うが真の武職は相馬だけだと賞嘆。
忠胤と幕府から伊達との和解を勧められたが「婿の身で先祖代々の宿敵とたやすく和睦してはかえって先祖に申し訳ない」と拒否
昔は化学肥料が無いから穀物が売れ残って棄てるほどの生産量は無いどころか常に不足気味。
むしろ他藩は米の不作に備えての代替え収入を考えて畑を広げて特産品作りをしていたから大量餓死を避けれた。
南部や津軽は津軽富士と言われた岩木山の噴火被害を受けて天明の大飢饉になると秋田佐竹が大した被害にならなかったのに
仙台が大量餓死で壊滅したりとアホっぷり。政宗やその後の仙台藩だけが次々に田んぼを拡大させていくのも
政宗が知行地方制と言う中世支配構造のまま放置したために一致した協調歩調ができず
米価が商人によって操作されて下落しまくるから収入激減に対応してさらに田んぼ面積を増やし、さらに米価が下がってた悪循環を繰り返した。
財政崩壊してる仙台は飢饉でも悪魔の賦役で作られた貞山堤から米が江戸に出荷されていくのを民衆は恨みながら眺めていた。
ついには仙台領から食べる物すら無くなり果てた時にあまりに高騰した米価格に買うことすらできず、
経済が理解できない仙台は内外で信用ゼロの破綻財政仙台独自紙幣の使用を強制するから食べ物を誰も売ってくれないアホぶりまで晒す。
10万石しか取れなかったって津軽並みじゃんwww そりゃあ明らかに仙台は米作に向いてねーな。
墓を暴いて死者を鞭打つような文化は日本にはありません。そういうことしてきたのは中国ですね
無知から来る傲慢さ 日本人はそんなことしないという根拠のない自惚れ
あるよ。幕末の仙台藩。 世羅を斬首して糞壺に投げ込んだ。しかも家老公認。今でも佐幕派の連中はあの行為を武士の美徳として崇拝しているし。
あそこの文化は日本じゃないだろ仙台は仙台だけで独立国家なのだろう。
通りすがりの巡礼女を拉致して人柱にした伝説もあり、 政宗が治めただけのことはある。

結論 
たしかに百万石取れる広さの田園はあった。しかしそもそも仙台は稲を育てる環境ではなかった。
よって百万石などという大きな収穫など最初から期待できなかった。
天保7年には米の生産高は10万石のようにミジメなものであり
ただ単に伊達の大名としての格付けというメンツのために田を広げたに過ぎなかった。
そしてその三見栄がバレないように農民の過大な困窮の労役で作った貞山堀より江戸へ米が輸送され続けた。