【伊達三傑】鬼庭綱元【能吏】

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131人間七七四年
そして予想通りに人災による餓死地獄を繰り返したのは歴史の知るところだ。米作に向かない土地で飢饉の心配をして
畑作で食料確保を図らず米作りに依存し石高を倍にするなどアホの失政以外の何ものでもない。なぜこんな愚行を行うかと言えば
藩創設当時からすでに財政崩壊していた仙台は飢饉になると米価が10倍に跳ね上がることから仙台は飢饉を待ち望むバカだったからだ。
さらに平時は安値の米を増産することで財政崩壊を何とかしようと図る事で余計に安値誘導している事実に気づかないアホで
他藩が物価が比較的安定している物や特産品作りなど飢饉時でも金と交換できる物に努力している間に田んぼ作りを奨励したバカである。
飢饉が進み過ぎて異常高値になった米が買えない仙台の致命的バカは救えない。
西国諸国は飢饉にはなっておらず米が収穫され米価格が異常高値でも米自体は足りない状態では無かったが
仙台には自藩発行の大量の仙台銀札以外には金が無かった。
もちろん紙屑同然なのでそんな信用ゼロの貨幣で仙台藩に米を売るバカはいなかったし
強制使用を命令された仙台藩民も米を買えなかった。いつの時代でも大飢饉ってのは人災で、全体を見渡せば餓死者を十分賄える食料が必ずあるらしい、
まあ何処かで食料を止めてる奴がいて、普通は商人とかが高値を見込んで蓄えるとかなんだろうけど、
飢饉なのに止めるどころか逆に他国に全部出しちゃうってすごいよな、しかも藩みずから。
なるほど地獄の大飢餓の元凶たる貞山堀の大賦役こそ 政宗最大の愚行大土木建築だったんだな。そして餓えの恐怖を想像しながら
仙台の民草は貞山堀から大量に米糧が船で搬出されていく姿を眺めながらいくたびも仙台藩主を呪い続けていたと言うことか。
祖宗歴世の法(祖法)を変ずべけんや
藩祖政宗が立藩した時の政策のせいで 仙台の民草がずっと塗炭の苦しみを味わい
もっともヒドイ年の天保7年には米の生産高は10万石だけだったというし、
幕末では日本一の臆病者の仙台兵と馬鹿にされドンと大砲が鳴ると五里も逃げる兵とされた仙台藩兵を生んだわけか。
仙台藩の統治体制は非常に後進的な封権制度に政宗が戻したことが挙げられる。
そして幕府に城として認められた白石城の他に、藩内20カ所に城館が存在しこの城館を「要害」と呼び
城・要害・所・在所といった拠点を総称して「48館」と号していた。
その実態は封権の昔の地方市町村への領袖の割拠による分権であり 藩士への地方知行によって小さな殿様が領内に散在することを意味し
藩士の仙台城下集住がまったく進まなかった。これは他藩では見られない愚かな統治手法であり政宗の領主としての権力が確立しておらず
逆に家臣団によって制圧されていたことに起因する。
家光の頃になると石高制の崩壊と商人の台頭による貨幣経済の浸透の萌芽が見える。
仙台は買米専売制を施行し百姓に資金を貸付けてやる代わりに藩への年貢米の他の余剰米を
農民から強制的に全て押収し江戸へ廻漕して売却する暴挙に出る。
しかし安く買い叩かれてのこの負け確率が非常に高いあほギャンブルが成功したのは
わずかに享保17年における西国の蝗害・飢饉で江戸の米価が暴騰した時だけであった。
しかし覚せい剤のようにこの成功例は伊達を狂乱化させてしまったのである。