932 :
人間七七四年:2013/02/02(土) 04:03:36.17 ID:ryH4epy8
多聞院日記では
「(慶長四年9月10日に)家康と淀殿が祝言を挙げる事が決まっていたにも関わらず、その直前に大野修理が淀殿を連れて高野山に逃げた」、と。
当時の噂を書き留めたのだろうから尾ひれ羽ひれにより微妙に違いがあれども、内容的には看羊録の記述も同様のもの。
キーワードは「秀吉死後翌年、家康が大阪城に入城する頃の事」「家康・淀結婚予定だった?」「(なぜか)宇喜多に匿われる」「高野山」
>それでも茶々を側に置きたいというような秀吉の歪んだ愛情もあって
そうだとしたら相当歪んでるな〜秀吉。真正のMだろうね。大野もある意味ドMだろうけど。
侍女が勝手に結婚して子供作った時には一家皆殺しにしちゃったというのに…。
933 :
人間七七四年:2013/02/04(月) 19:46:18.85 ID:OjILTFg6
確かに「看羊録」には死期の迫った秀吉が家康を呼び、秀頼の母(淀殿)を
室として、政を後見せよといったという記述があるんだよな。
そして実際に「多聞記」には「十七日、(中略)大坂ニテ去十日秀頼之母家康ト祝言在之候、
太閤之書置在由候、大野修理秀頼之母ヲ連候、高野ヘ参候由珍重」
このとき、徳川家康57歳、淀殿31歳、大野治長31歳。
自分の愛妾に自身の死後は26歳年上のおっさんと再婚せよという秀吉も秀吉だが
(秀吉と淀殿の年齢差はさらにもっとあるが)事実だとしたら秀頼を守るためとはいえ歪んでるな.
淀殿が同年齢の大野治長と逃げたとしても仕方ないわ.
934 :
人間七七四年:2013/02/04(月) 21:20:47.37 ID:L5KvGNzM
頼りになる血縁がおらんからな、中古の妹を押し付けた過去もあるし
935 :
人間七七四年:2013/02/05(火) 22:38:01.35 ID:OFCMuNwb
秀吉は秀頼のことになるとなり振りかまわなかったようだから、秀頼の為に淀を家康の正室に送り込むのはありうるわな。
ただそうなると、家康×淀、秀忠×お江、秀頼×千姫、という三代にわたる濃密な血縁関係が。
もし家康と淀に子でもできたらどうなっちゃうんだろ。秀忠と秀頼の弟で…もう豊臣だか徳川だかわからなくなっちゃうよ。
936 :
人間七七四年:2013/02/06(水) 00:29:07.55 ID:/WtBwBKs
多くの妻妾の中で淀殿だけが妊娠したのは確かに不思議。でも同時に、他の女が
全員不義を働いていないというのもまた不思議である。
望まぬ形で秀吉のモノとなった者は数多いし、我こそが天下人の子を産むと
野心に燃えた女が他にいてもおかしくない。逸話では淀殿だけやたらガツガツ
行動してるけど、他はみんな霞でも食ってたというのだろうか。
また秀吉があれだけ怪しまれる要素満載の大野を殺さなかったのも不思議。
噂には気づいていただろうに。個人的には、秀頼は秀吉の子だと思っている。
937 :
人間七七四年:2013/02/06(水) 09:49:59.28 ID:ay0Cs0FS
>>936 しかしながら、秀吉の子を産んで立身出世、と思う気持ちが一番強かったと思われるのも淀だよ。
望まぬ形で秀吉の側室になった者はいたかもしれないが、
京極竜子(京極高次姉妹)、三の丸殿(織田信長の娘)、摩阿姫(前田利家の娘)
皆実家は健在で帰る家はある。恋愛結婚だったという秀吉の正室ねねも勿論実家は健在。
秀吉の側室たちの中で淀の実家・浅井家だけが断絶しており、淀には帰る実家がない。
豊臣家にしか居場所のない淀がそれを望んだとしても不思議ではないがな。
あと、大野の密通記録が流通するのはは秀吉の死後。
秀吉の生前、その噂が流れ、秀吉が承知していたかどうかは不明。
938 :
人間七七四年:2013/02/06(水) 12:13:47.82 ID:9sekY0Xz
>>936 >>937 秀吉生前は鶴松、秀頼共に「誰の子だよw」という落首がはられたりしてるくらいで父親名を記録したものは見当たらない。
庶民ですらそう噂してたのだから当時の城内、諸侯の間でも色々憶測はされてただろう。
茶々も大野もさすがに秀吉生前はそういう関係は匂わせていないだろうけど、乳兄妹だから傍からみて親密だったろうし疑われやすかっただろう。
秀吉の狂気に拍車がかかったのはその辺の猜疑心からというのもあったりして。
もし不義密通がばれたら一族郎党惨殺だろうし、側室は人質的な意味合いもあるので、主人への不義を自制する上でも実家の存在は大きいね。
秀吉の側室というだけでそこそこいい生活できただろうし無理して下手な博打は打たないだろう。松の丸殿は子を産んでなくても京極家にあれだけ恩恵をもたらしている。
ただ実家がなく秀吉死後の郷がないとはいえ、茶々自身旧浅井家臣を多く抱えてる身で2度も賭けに出れたものか?
男の方もそんな命がけの行為ができるのは余程の忠臣、かつ内々に事を運べる人物だろう。
そんな訳で、後世の憶測では、もし種違いだとすれば↑な事ができるのは大野くらい?しかも秀吉死後に密通の噂が立ってるし生前から関係があったのかも?!→大野が実父説になるんだろうね。
939 :
人間七七四年:2013/02/06(水) 21:28:15.84 ID:/WtBwBKs
>>937 そう、そういう顔ありキャラのお姫様達と名を連ねられたのは子を産んだからこそ。
北ノ庄城落城から鶴松懐妊まで淀殿の足跡はようとして知れない。つまり、子供が
できて初めて周りに認識される程度のモブキャラだったということ。
秀吉が本当に100人単位で女を囲ってたのなら、その殆どはこうしたモブだった。
現代まで名が残っていないだけで、本当はもっと登場人物がいたはず。淀殿以上に
因縁のある人がいたかも知れない。その中で彼女だけが行動を起こしたとするのは
やっぱり不思議。
>>938 親兄弟の敵に嫁ぎ、子を産む。正室vs側室。豊臣vs徳川。いかにも世間が好みそうな
題材が満載だからね。ボケる前の秀吉のアンテナは異常だったし、少しでもクサイと
思ってたら大野を名護屋に伴わせなんてしないと思う。
940 :
人間七七四年:2013/02/07(木) 10:22:01.46 ID:79s02161
>>939 淀殿は鶴松出産以前から「兼見卿記」「言経卿記」などに
「大坂二ちゃちゃ方」「茶々御方」などと記録され、
大坂城に住む秀吉の側室として認知されていた
秀吉周辺は子を産まなかった側室でも名が残っているよ
竜子も三の丸殿も摩阿姫も秀吉の子を産んでいないし
秀吉に100人単位で側室がいたなどというのも史実ではない
941 :
人間七七四年:2013/02/07(木) 13:56:54.20 ID:hXr43LMq
側室数百人とかいうのはフロイスが侍女達も側室だと勘違いして記録しちゃったとか。そのとき限りのお手付き侍女はいっぱいいそうだけどねw
100人側室待遇だと、その側室周辺の人間まで金銭的に面倒みないといけないからいくら秀吉でも破産しちゃう。
伊達家文書にある通りなら側室の人数は茶々も含めて14人みたい。あの秀吉の割には意外に少ない。
茶々は家柄的にもモブキャラ扱いできないだろうし、最初から正式な側室待遇じゃないかな。
個人的には、茶々の場合、政略のための側室と違って、秀吉好みの損得勘定抜きの愛人的側室な感じがする。
942 :
人間七七四年:2013/02/07(木) 16:57:15.44 ID:Qn5zwJZn
有楽斎とか織田の血縁引込めるから織田家臣系の抑えには使えたんじゃないかな
943 :
939:2013/02/07(木) 20:03:45.76 ID:caWDNy24
>>940 それって淀殿本人か断定はできないんじゃなかったっけ?例え本人だったとしても、
単に話の説明で登場しただけで秀吉の側室としての記述じゃなかったと思う。
自分も秀吉が大ハーレムを展開していたとは思わない。でも上の方の流れがそう
だったから(というよりスレ自体がそれ前提で立てられているから)、それが本当
だったらちょっと疑問があると思ったんだ。
14人の内1人だけが妊娠するのは、不妊症の男性には確率的に何らおかしくない。
秀吉以外にもなかなか子供ができなくて、晩年にようやく授かったという武将はいる。
何回も書き込んで申し訳なかった。ただ以前から確たる史料もないのに名将扱いの
人物がいたり、その逆な人物がいたりするのを見るにつけ、創作のイメージが真実
かのように語られるのは悲しいと思ってたんだ。
もちろん400年前の事なんて何が真実か分からないけど、淀殿周辺はそれが顕著
だなと。後世の「どうせこんなとこだろ」「こうだったら面白いよね」という思いが
作用しすぎてる気がする。
944 :
人間七七四年:2013/02/08(金) 11:00:50.12 ID:yIe7/a27
>>943 「兼見卿記」「言経卿記」の記載は淀殿本人だろ
前者は大坂城二の丸にいると書いているのだし後者は大政所に会いに行く記述
いずれも秀吉の身内でなければありえない行動
14人の側室の中で茶々だけが懐妊するのは(正室のねねも合わせれば15人中1人だけ)十分不思議だよ
しかも伊達家文書にあるのは秀吉が天下を取った後の晩年の側室の数なので
若い頃には別の側室もいたことだろう
945 :
人間七七四年:2013/02/09(土) 05:03:19.98 ID:91DkNGlF
>>942 織田の抑えといってもお伽衆の有楽や信雄。。。
織田系では信包の娘が先に側室にはいってるし、浅井旧臣はすでに秀吉配下として定着済みでどちらにしろ政略的に弱いような。
茶々像が講談などで勝手に悪く描かれてしまっているのは本人に関する記録が少ないのも原因の一つだろうね。
歴史重要事項にからみまくってる割に三度も落城、特に最後は大坂城と共に全て燃えちゃったからな。
あの肖像画ですら後年描かれた本人かわからないシロモノだし、記録の少なさはまさに敗者の極み。
茶々か侍女の日記でも残ってたら400年も秀頼出生でモヤモヤすることもなかったろうに。
946 :
人間七七四年:2013/02/15(金) 21:01:44.28 ID:GGUq6G99
>>945 いや、秀頼が秀吉以外の種だったとしても
淀殿やその侍女が密通してできた子だと日記に書き残すことは絶対ないからw
秀吉周辺は北政所が所有していた手紙などが「木下家文書」に残っていることから
豊臣家女性たちのことは比較的あの時代としてはまだ残っているほうなんだけどね。
織田信長周辺の女性たちなんて、正室の濃姫がいつ死んだかも分からないくらいお粗末。
947 :
人間七七四年:2013/02/16(土) 00:42:05.68 ID:QtS+T+Lj
>>946 ○○と密会しちゃったテヘッ///とか日記に書いているかとかじゃなくて、
時代が違うから比べられないけれど、こちらも種違いが疑われていた崇徳帝が生母・待賢門院の周辺の日記や公式文書から不義の子説が濃厚になっているから。
記録から種付け期の所在と月経周期を推理して白河法皇との密会時期と重なっているらしい。
後世で月経周期や不倫時期まで暴かれちゃうのも本人達にとっちゃいい迷惑だけど、こういう類のネタはついつい下世話な憶測をしたくなるのもわかる。w
秀頼は記録も遺体もないから憶測であーだこーだ言うしかないけど、流れ的にはなんとなく大野っぽい気がする。
秀頼存命時から400年間も大野大野言われるのは徳川史観以外にも当時からそれらしき雰囲気があったんだよ。秀吉の異常な種の薄さや秀吉死後の大野の台頭、その後の豊臣家内での出世ぶりや最後の忠誠まで含めて。
あと、現代では理解できないけど乳兄弟って他が入り込めない何かがありそう。義仲と巴御前のような公私共の運命共同体的な。
948 :
人間七七四年:2013/02/19(火) 14:40:48.53 ID:JsOPhDBS
>>947 だから、日記や公式文書にそんなこと残ってない。
待賢門院の場合は、一月のうち数日だけ、里帰りしている日があるので、
その日に崇徳天皇受胎日を合わせ、待賢門院の月経周期を無理矢理割り出している。
そもそも待賢門院の月経日の記録など残っていないのに。
崇徳天皇を白河法皇の子にしたい学者が無理矢理やってるんだって。
949 :
人間七七四年:2013/02/20(水) 23:42:49.82 ID:uUG65qtW
受胎想定期間内に里帰りしてる事実がある以上接触した可能性があるということだろう。そうあってほしい人がそうなるべく憶測するのも自由だよ。それがまったく素っ頓狂な憶測なら一蹴されて終わり。
藤原忠通との縁談が持ち上がったが璋子の素行に噂があったため忠通の父の忠実が固辞していることからも、それなりに噂が立つ下地がある。火の無いところに煙は立たぬ。
茶々の場合は茶々本人の素行以前に、まず秀吉は子種が無いのでは?という下地がある以上、当時の時点から噂が立つのはごく自然。出生直後から落書がはられているのだから徳川史観というわけでもなし。
可能性がある以上、まさか不義の子?というサイドから色々憶測するのも自由ではないかな。まあただの野次馬なんだけどね。
950 :
人間七七四年:2013/02/21(木) 10:23:50.66 ID:NtKvsAoK
>>949 崇徳院が白河院の種と言われたという伝聞が軍記物に記されるようになるのは
百年ぐらい後からだよ。すでに白河院も崇徳院も待賢門院もこの世にいない。
忠通は璋子と公家の密通の噂は記しているのだから、当時白河院とも噂があったなら記さないはずはない。
茶々の場合、秀吉の死後すぐ、茶々も秀頼も密通相手とされる大野も存命中から記録が残る。
待賢門院の例と茶々の例を一緒にできない。
茶々の場合、同時代史料にそういった噂が残るが、待賢門院は同時代史料には見当たらないってこと。
951 :
人間七七四年:2013/02/22(金) 23:16:31.72 ID:+hBTzK9w
>>950 崇徳帝は後世のこじつけの可能性もあるが、秀頼は秀吉の種無し疑惑に加え男女関係疑惑のある家臣の存在が当事者の存命中に記録されておりこじつけという訳ではない(それだけ当時から認識されていた。)ということね。
もう9割方大野じゃないの。これをまわりが面白おかしく不義の子にしたがってるだけとかいうのは無理な話。
952 :
人間七七四年:2013/03/07(木) 10:48:31.12 ID:DLxhOUw6
>>950 白河院政が全盛の時代に「崇徳天皇は白河院の子」なんて書いたりしたら
自分の身が危うくなるだろ。
だからそれまでは口伝だけにとどめておいて、白河院への憚りが完全に
無くなってから文書化したんだろ。
953 :
人間七七四年:2013/03/07(木) 12:36:40.93 ID:3cYQRGxT
954 :
人間七七四年:2013/03/10(日) 13:34:47.05 ID:0dtGSxLM
ねねが大坂城西の丸からあっさり出たのって
>>932に書かれてるように
家康と淀を結婚させ、秀頼の後見をさせ豊臣を守り立てるよう秀吉が遺言を残したからじゃないか?
秀吉が本当にそう言ったか定かではないが、家康が「殿下の遺言です」と話した可能性はある
秀吉晩年の秀頼の溺愛ぶりを知ってるだけに、ねねも疑いなく納得したはず。
夫の遺言に従い自ら身を引き、家康が淀を娶り大坂城に入ることが豊臣の為になると考えたのでは?
家康も、隠居場所として高台寺を与えることでねねの正室としての面子を立てた。
そう考えると、ねねが家康と入れ替わるように大坂城を出て
何の迷いも無く高台寺で暮らしてた理由が説明つくような・・・
955 :
人間七七四年:2013/03/10(日) 13:42:12.38 ID:0dtGSxLM
本当なら、秀吉は正室を体よく大坂城から追い出す大義名分を
家康に与えてしまったことになるが
我が子可愛さで暴走してた晩年の秀吉ならありえると思う
956 :
人間七七四年:2013/03/10(日) 17:35:12.80 ID:9d6Fdhl3
14人も入れば十分だろうw。
家康が忠輝を見て信康と似てるからうざいとか,お市は信長と似て
美男子とかお市の子が市とそっくりとかどーーー見ても秀吉には子種
に問題有。男色をしなかったのももう自分でも知っていたのかも。
957 :
人間七七四年:2013/03/10(日) 17:38:42.83 ID:9d6Fdhl3
例えばオマエラにラッキーにも14人のセフレが居たとする。
ナマで毎晩数年間やって誰も妊娠しなかったらオマエ自身
オカシイと今の医者は判断するだろう。
958 :
人間七七四年:2013/03/10(日) 17:43:52.96 ID:9d6Fdhl3
オレの姪や甥を見てもどーーー見てもその母親似(3人とも)。
もう諦めなさい。15年セックスしまくって子供出来ないんだから
そういう可哀想な秀吉さんでしたって事。仕様がない。
959 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 10:34:42.68 ID:FdHbyN0d
>>954 確かに、大老筆頭とはいえ家康だけが他大老を差し置いて゛西の丸゛入りしたのは、他に何らかの特別な事情があったとする方がしっくりくる。それが淀との婚姻なら納得。
そうであったなら豊臣首脳陣や反徳川の前田や宇喜多などは相当危機感をおぼえたろうね。
淀との婚姻は秀頼すなわち豊臣家を手に入れたも同然であり、パワーバランスが完全に崩れ他大老奉行は手も足も出せなくなる。
密通事件の際に宇喜多が大野を庇った記述があるが、反徳川派の婚姻反対の意図もあったとすればすっきりするな。
960 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 16:27:34.06 ID:X2uZVp9l
死ぬ前の秀吉が何より大事だったのは、淀やねねよりも秀頼だと思う
淀への歪んだ愛情というより、我が子への歪んだ愛情
再婚話が本当だとしたら、家康と再婚させられる淀の気持ちや
豊臣家から追い出される形になるねねの気持ちまで及ばなかったんだろうな
961 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 16:43:26.69 ID:X2uZVp9l
高台寺で自分と秀吉の木像を作って2人を並べて暮らすって
微笑ましさより、ちょい病んでるものを感じたんだけど
最終的に豊臣家から追い出される形になったねねが
豊臣は自分と秀吉が2人で築き上げたものと自分を慰める為に作ったんじゃないかね
まぁ、コレは家康淀の婚姻を前提にした想像でしかないけどw
962 :
人間七七四年:2013/03/11(月) 19:46:04.29 ID:PD20Y2kn
>>954 家康の西の丸入りと同時にねねが入った場所は、京都新城
これは内裏の斜め前に秀吉が建てた豊臣家の城で秀頼が内裏で元服した時にも入った場所
朝廷の中枢部に建つ豊臣の城にねねが入ったことはむしろ豊臣家の正室の象徴であって
ねねは豊臣家を追い出されたわけではない
天皇の住まいの目の前に建つ豊臣の城・京都新城は当然徳川家康の気に食わず
関ヶ原の戦いのとき家康が壊してしまった
家康が高台寺を建てたのはねねの住まいを壊してしまったからというのが大きい
963 :
人間七七四年:2013/03/14(木) 00:59:39.63 ID:NQQwNE2d
へうげの家康と淀の結婚話ってもとネタがあったんだな
964 :
人間七七四年:2013/03/28(木) 17:49:09.46 ID:5lDhkFqN
>>963 へうげだと婚姻話の時期が違うみたいだな。
噂通り関ヶ原前に結婚したとして、もし淀に子供が出来たらやはり徳川の子だよな?
兄が秀忠、秀頼かぁ。また濃いのが兄弟だな。
965 :
人間七七四年:2013/03/29(金) 18:32:58.36 ID:trN3Q83P
でも家康が西の丸に入ったのは前田利家の死後・石田三成の蟄居中だろ
秀吉の遺命なら、もっと前に入ろうとしたはずだし、色んな記録にも残っているはずだ
966 :
人間七七四年:2013/04/03(水) 06:26:42.64 ID:zTCzE++u
ポシャったからああいう記録しかなかっただけで実際に結婚してたらもっと記録に残っていたんじゃないの?
祝言の日程までかかれてるというのは噂にしてはちと内容も細かすぎているような。実際その頃大坂でゴタゴタがあったようだし。
そしてそれがどんな形の遺言だとて、家康と淀の祝言なぞ反徳川は快く思うはずがない。利家、三成が健在なうちは家康もそうそう動けまいよ。
967 :
人間七七四年:2013/04/30(火) 08:12:00.79 ID:k7Rjeg/u
服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社、2012年発行)
968 :
人間七七四年:2013/05/03(金) 22:48:53.50 ID:kGcfxbA9
>>962 縮小しただけで家康は壊したわけじゃない
しばらくは木下家の京都屋敷になってた
969 :
人間七七四年:2013/05/16(木) 15:23:02.93 ID:WLIP8Jm4
>>968 関ヶ原の年、家康の命で京都新城の破壊(石垣や櫓、南門の撤去)と
北政所の京都新城退去が行われたのだからどちらでも同じ
木下利房は備中足守藩主であり、子のなかったねねから高台寺円徳院も継承しているため、
ねねの所領や土地の管理はしていたが京都新城を私物として木下屋敷にした事実はない
970 :
人間七七四年:2013/09/15(日) 00:13:27.00 ID:IUNo1C5O
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
971 :
人間七七四年:2013/09/17(火) 10:42:23.66 ID:QF1uYFXQ
保全
972 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 14:11:52.26 ID:7yWBWFK/
973 :
人間七七四年:2013/09/18(水) 17:34:48.19 ID:7LKKlfwb
>>967 ここの住人はグダグダ書き込まずに
この本読めばほとんど解決すると思うが
974 :
人間七七四年:2013/09/19(木) 19:12:24.28 ID:Age0Sa1r
test
975 :
人間七七四年:2013/09/19(木) 19:14:57.05 ID:Age0Sa1r
test
976 :
人間七七四年:2013/09/19(木) 19:23:34.10 ID:Age0Sa1r
test
977 :
人間七七四年:2013/09/19(木) 19:56:06.83 ID:Age0Sa1r
test
978 :
人間七七四年:2013/09/19(木) 19:59:01.69 ID:Age0Sa1r
test
979 :
人間七七四年:2013/09/20(金) 10:33:12.78 ID:R/cXhO+B
980
980 :
人間七七四年:2013/09/20(金) 10:34:53.79 ID:R/cXhO+B
980
981 :
人間七七四年:
980超え