1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
西軍の大将は宇喜多秀家にするべきだったんじゃないのか?
石田三成よりは武将として有力だっただろうし、何より秀吉の養子だったから諸将に対して説得力もあったろうに
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 16:53:49 ID:Q9xrV9jT
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,l';:::::/ ::. ::.,,\_ゞ;'> 〈;,!ミミマ7コ断断断断
彡:::::iヾ-'、::.. '';~ ,;:'彡州ミミジ/断断断断
,彡彡´l_、,.` .: ,;:'彡彡州ジ’/ 断断断
彡彡 ('ー、ヽ ..: ,;'彡彡シジ’ / 断断
彡彡 `ヾ:、゙、 ,..:'.:'"彡彡シジ’ /,!、
"彡彡;, ¨` , ; ;彡彡シジ’ / `゙`ーー─-、、_
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将軍 ダガ・コ・トワル [ Daga co Towal ] ( 西暦一世紀前半 〜 没年不明 )
皇帝カンリニヌスへの忠誠心が高く、ウプレカス反乱軍の捕虜になった際、
「帝国軍の暗号解読法を教えれば命は助ける」との申し出を拒否し殉死した。
西軍の大将はだれがふさわしかったか
の方が良かった。
秀家結構好きだから、
いいんじゃ
残念ながら秀家にそこまでの力は無い
小早川でも良かったんじゃね 兵的にはかなりいただろ
秀家なら決戦地を琵琶湖にしただろう
八丈島から大坂まで泳ぐ秀家とその家臣団が縦横無尽に琵琶湖を泳ぎ回り
東軍は壊滅しただろう
小早川の権力みたいなのはどれくらいだったんだ。
名声とか。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 17:50:38 ID:Y3pTs6gv
>>3 前田の死後なら宇喜多以外には考えられないけどなあ
>>5 小早川は1万5千で宇喜多が1万7千だったはず
しかし小早川は兵数だけ多くても何も取り柄がなかった印象
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 17:51:20 ID:iXP9lv48
>6
www
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 17:55:53 ID:aL0nB6cv
能力と、実質の存在感から考えて黒田如水しかいないだろ
豊臣政権の中枢から干されていたとは言え
武等派を手なずけれるのは、利家亡き後、コイツしかいない
豊臣政権最後の大物と言ったところか
残念ながら、それでは毛利一族の協力がえられるかどうか。
ただでさえ、優柔不断度と中立思考の強い保守的な
毛利がわざわざ格下の宇喜多の指揮下に入ると思えない。
となると相当数の西国武将は毛利ともども中立となり
へたをすれば吉川とかに引きずられて東軍に協力的態度
とったりしたらもう西軍はおしまいになると思う。
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 18:05:42 ID:Y3pTs6gv
>>10 しかし結局、息子の長政さえも家康に降らせてしまったのが現実
まあ、毛利輝元が妥当だわな。
彼が前線に赴き戦闘に参加すれば、
吉川辺りも戦わない訳には行かなくなる。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 18:26:57 ID:aL0nB6cv
>>12 ま、西軍の総大将が実質、三成だったからね
それは仕方ないよ
しかし、もし・・如水が西軍の総大将っだたなら!?
ま、親子ケンカしそうだけど、さすがに長政も家康につくことはないだろう
それと、清正も如水の犬として働きそう
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 18:33:42 ID:mJPeB0pZ
如水が総大将だったとしても・・・豊臣は滅亡だな
淀姫はどうか。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 18:40:06 ID:Y3pTs6gv
>>11 宇喜多は毛利より格下にしても、三成ならもっと格下ってことにならないか?
それに当主の輝元は一応総大将として関ヶ原には行かずに大阪にいたわけだしなあ
秀家スレ最近大杉wwww
一応小早川なら毛利とも対等 人間的にもなかなかだったようだしやっぱ小早川が一番じゃね
問題は関ヶ原の後だな、徳川は本体38000を温存している それにどうやって勝つか
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 20:38:14 ID:Y3pTs6gv
いずれにしても小早川では駄目かと
武力も知力もない時点で話にならない
これは毛利輝元にも同じことが言える
>>20 武力も知力もないって・・
実際にはなかなかの人物だったそうじゃないか
その人物の評価が高いからと言って戦に勝てるかよ。
八郎なんてたったの五十万石、金吾はせいぜい二十万石だぜ
仮にこいつらが御輿になったところで毛利が味方するとは思えん
評価が高いってのは重要だな。
家康は小牧長久手の戦で評価をつくったんじゃなかった。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 21:17:31 ID:Y3pTs6gv
やはり宇喜多は秀吉の養子で、勇敢な性格だったようだし、三成よりは信頼もあっただろう
50万石と言っても、他にそれ以上の大名なんてそう多くないしな
毛利で負けたのに八郎で勝てるかよ
家中の仕置きも満足にできないのに、
総大将として諸侯を動かすことができるとは思えない。
50万石程の身上も総大将の格とはとてもいえない。
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 00:34:46 ID:AfBp5hPv
島津忘れてないかい
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 00:57:24 ID:lz+ZwXEc
豊臣秀頼でFA
ここは石田壱成で。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 07:41:19 ID:xf6l105O
島津は確かに強力だが、豊臣に対する忠誠心がそんなに高かったとは思えないからなあ
しかし島津ほどの大名が関ヶ原では1500程度の兵数しかいなかったのは、どーいうことなんだ?
>>30 家中が分裂していた。
追記するならば
毛利、長宗我部、宇喜多も家中が分裂して騒動があり
上杉は領国を移ったばかりで、まともな仕置きもできていなかった。
前田は当主交代でこれまた家中が混乱していた。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 11:08:01 ID:4sm9zCel
島津は当初家康に味方しようとしたが鳥居元忠に伏見入城を拒否られてやむなく西軍についたんよ(o^ー’)b んで兵数が少ないのはあわよくば上方の混乱に乗じて九州を平定しようとしたんじゃなかったっけ?
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 11:32:11 ID:g5Sz/2MX
前田はなにやってたん?
シロートですまん(中卒なもんやから)
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 11:49:51 ID:ylp2KsbG
俺が西軍の将だったら石田、毛利以外が総大将なら必ず割れると直感するね
序列無視はすでに内部分裂しているようなもの
宇喜多や小早川なら秀頼の従軍と高台院の支持が絶対条件
如水は未知数だな
あまりにも重い存在だから戦後の事を思って豊臣一族衆が嫌がりそうだ
前田家は利家正妻の芳春院(まつ)を
徳川に人質に取られて東軍についてたけど関ヶ原には間に合わなかった
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 12:48:21 ID:4sm9zCel
間に合わなかったってより兄弟で東西に分かれて戦ってたんじゃない!
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 12:58:53 ID:IrAkjruL
ていうか、如水に賭けるしかないじゃない
あいつの智謀を持って、清正を説得
そして三成さえ大人しく服従すれば
豊臣武等派と文治派のトップを従えて、済し崩しに豊臣恩顧を味方に引き入れる
家康に対抗できるのは如水唯一人
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 13:52:13 ID:xf6l105O
息子の長政は三成と敵対していたけど、如水は三成に対して特別な嫌悪は抱いてなかったのか?
今の大河見る限りでは、割と良好な関係だったようだが
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 13:56:53 ID:tH+Erfeq
石田ゆりこが大臣訪問したのに
石田ゆかりさんとか言われて苦笑いしてたね。
>>38 朝鮮出兵のとき三成が如水を訪ねたら碁を打っていてなかなか面会せず
三成がだいぶ待たされた。腹のたった三成が秀吉に密告、それを知った如水ブチ切れ
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 14:05:51 ID:tH+Erfeq
司馬史観で言うと、如水も島津も三成の小憎面に反感を抱いた云々とあるね。
また、人物に対する好悪も激しく器量も小さいとあるが
どこまで信じて良いのか所詮は司馬本だから分らない。
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 14:50:25 ID:3L5tJt1V
如水は関ヶ原が長引くと見て、北部九州を制圧してた。
如水は小六、利休と同じく秀長死後の豊臣政権において
吏僚派との政権争いに敗れ地方に飛ばされた組だろ。
そんな経緯を持つのに今更豊臣恩顧とか言っても無理だろう。
とても西軍大将を引き受けるとは思えない。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 14:58:51 ID:tH+Erfeq
実際、関が原が三ヶ月以上長引いたら伊達政宗や前田利長の寝返りや独立はあるぞ。
人質の命よりは家が大事というのは当時の価値観では当たり前だから
家康が不利になれば喜んで利長などは関東進軍に参加するだろうし
正宗が景勝と密約して、どちらかが関東へ兵をなだれこませるのも
状況次第ではありえる。
そもそも九鬼と真田の活躍で東軍は東海道も中山道も補給線が
不安定なので長期戦には耐えられない。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 15:33:57 ID:tH+Erfeq
>>45 となると、自然に群雄割拠化ですね。
東北は元々割拠しやすいし。
とにかく東軍が早いからね、家康が清洲に入ってから五日で関ケ原を突破
そこまでの道を簡単に明けちゃったのはやっぱ勢いの差かな
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 15:49:19 ID:tH+Erfeq
戦略的には岐阜城を捨てたのが相当痛かった
織田秀信をきちんと援護し、岐阜城、大垣城などのラインで
きっちり守っていけば泥沼の長期戦に持ち込めるチャンスは
無くは無かっただろうと思える。
もちろん全国群雄割拠になって豊臣家にも徳川家にも好ましく無い状況が
生ずる可能性が高いが、徳川方に一気に負けるよりは、かなり良い選択だったと思われ。
>>48 岐阜城防備は困難だと思う。岐阜城はそもそも守りに弱い城
あの城は視界が広く、その分逆に敵軍の数や勢いが歴然で、味方の兵が少なく
後方の兵力も当てにならないあの状況ではねー
味方の動揺が増すばかり。
若干の時間稼ぎは可能だろうが、西軍の迅速な行動が無ければ
早々に東軍に開城した可能性もあらう。
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 16:15:13 ID:tVrpuKVw
>>47 西軍の意思統一と指揮系統の脆弱さがそれに拍車をかけてるな。
合戦である以上これらは大将の器量に依存しちゃうのが苦しいところ。
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 16:18:13 ID:xUzgr4H8
統率136の謙信が生きてればなぁ・・。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 16:47:23 ID:gCPc6V/u
毛利が戦場に出ないで大坂城に居座ったことが最大の過ち。
淀殿を説得して秀頼を連れて出陣すべきだった。
秀頼が出陣すれば加藤や福島は東軍に参加こそすれ戦えないだろうから。
小早川を信頼してあんな要地に置いたのも大失策。
三成は大将ではないので命令できないとしても輝元なら直接命令できるはず。
後は島津の入場を拒んだり些細なことで西軍諸将の機嫌を損ねたのも失策だよね。
三成は官僚としては優れているけど、人の扱いがヘタクソ。秀吉との大きな違いだね。
東軍は秀忠が遅れるという不測の事態だったし
小早川の裏切りと西軍の低い士気さえ何とかできれば…
長期戦になれば東軍の豊臣恩顧の大名も戦意を失うだろうし
家康もいつまでも江戸をからにしておくわけには行かないから退却する。
ここまでいけば半分ぐらいは勝機があるだろう。
小早川を信頼してないから大谷があそこに陣を構えたわけで…
松尾山には彼が勝手に入ったわけだけどね。
家康が磯まみれになるほどの、勝てる戦だったと思う。
豊臣恩顧大名が徳川についたのが最大の敗因。
小山評定、真田とあと一人しか西軍に付かなかったのが痛い。
総大将出馬しれさえいれば・・・・。
三成の人気なさか、北政所の指示なのか。ま家康が上だったってことだね。
豊臣滅亡への関が原。
>>44 実際も何も関ヶ原では長期戦になってないから希望的観測に過ぎないわな。
長引けば西軍側の足並みも乱れる事も十分考えられる事で。
>>52 関ヶ原開始直前の時点では西軍(というより石田)はほぼ最善を尽くしたと言える。
布陣だけではドイツ将校が評したように十分だよ。大谷〜宇喜多〜石田までが
盾役を担い、野戦陣地の構築も問題なく、実際にも最後まで崩れなかった。
そこから、小早川の第一横撃隊に加えて、毛利の第二横撃隊も用意してる。
松尾山は最初西軍武将が入っていたにも拘らず、小早川が大軍の圧力を加え
追い出して乗っ取った形だから仕方ない。
毛利は吉川が伊勢方面でかなりの奮戦を見せた為、信用してしまった。
結局は意思統一が出来ず、調略に掛かったというのが最大の敗因なんだから
ここを改善しない限りは、家康に必ず付け込まれる。
訂正、糞まみれ。
秀頼の出陣ができなかったのがつらいと言えども、東軍はそもそも
豊臣正規軍。金、兵糧を下賜されてる。それに対して、石田は蜂起軍
なんだから、そう易々とは秀頼側近は出せないだろ。
(大河の葵でも石田が「豊臣の為に全財産をはたいたと言うのに、豊臣は
少しの金も出さない」とわざわさ言わせてるぐらい。)
史実通り七手組を出すのが限界じゃないか。
後世から見れば、秀頼が出なかったのが豊臣崩壊へ繋がるのがわかるが
関ヶ原の時点じゃ、家臣同士の覇権争いなんだから。
公儀が中立政策をとったのは一概に不当とは言えない。
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 17:12:31 ID:tH+Erfeq
>>55 >関ヶ原開始直前の時点では西軍(というより石田)はほぼ最善を尽くしたと言える。
そうなのですかね?TVでかつて検証してたが
関が原の布陣の大半を実際に敷いたのは決戦前夜で
ほぼ夜通し兵士たちを走らせて、徹夜明けで関が原当日を迎えたという話だよ。
序盤こそ体が最初から温まってた西軍が士気も高く優勢に戦いを進めるが
数時間たったあたりから前夜の疲れが出てきて兵士の脚もパタリと止まったという話だ。
夕方になる前には戦う体力は当然残って無いが、大阪へ逃げ落ちる体力すら
兵士は持っておらず追手に軽々と一方的な殺戮をされていったと話してたよ。
総大将は毛利輝元でしょ。総大将が出馬しないなんて。
統率とれないよね。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 17:21:40 ID:tH+Erfeq
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 17:22:30 ID:u1Q1k/Q6
そもそも裏切りや、傍観が無ければ西軍が圧勝していた。
秀家が総帥だったら、裏切りや傍観が防げたか疑問だね。
毛利が動かないとそもそも関が原の戦いのような
天下分け目の戦になっていない。
西軍の多くは毛利の権威に動かされて参戦した傾向が強い。
宇喜田が大将だと毛利に失礼になるし、西軍の統率自体不安定に
なりかねない。
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 17:37:53 ID:tH+Erfeq
慎重な諸葛亮公明や張良だったら「絶対に勝つ」などとは過信せずに
負けた場合の退路に伏兵を置き、白帝城や固陵城のような撤退時の拠点に
最初から兵糧を山と積んで置き、負けた時に大阪城へスムーズに撤退できる準備を
しておいてから、関ヶ原の合戦に赴いただろうね。
赤壁の戦いでは曹操軍は壊滅的なダメージを受けたと言われるが
直属の将軍はほとんど死んでおらず、荊州(けいしゅう)などで
糾合された兵士を殺戮されただけだった最大の理由は
曹丕(そうひ)が遅参して曹操に激怒されたが撤退時の退路を整備して
補修しながらゆっくり進んできたので、曹操を初めとした旗本は
風のような速さで許都(きょと) 撤退できて、取り残された大軍は狭い道をいっせいに
撤退する事が出来ず、討たれ放題だったらしい。
秀家が大将だったら三成が猛反対して取りやめになった
秀家と島津の夜襲案を無理にでも敢行出来てたんじゃないか
成功するかどうかは知らんが
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 17:49:06 ID:tH+Erfeq
西軍の退路を塞ぐ形で松尾山に小早川秀秋が布陣した時点で
西軍の全員(三成を除く)が本能的に退路に不安を持っただろうし
本来は軍配を握るものが位置すべき場所だよね。
秀秋に先に松尾山を奪われた時点で三成には将器がないし
西軍の武将達が不安に駆られるのは当たり前だと思う。
他の武将には黙っておいても大津までの退路は三成が責任を持って確保しておき
たとえ負けても、西軍の将軍は誰一人殺さないくらいの準備は本来しておくべきだった。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 18:06:05 ID:tH+Erfeq
もしもは無いけど、三成がもう少し真田昌幸を信用し
挙兵前に下相談をしとけば謀師・軍師として
いくらでも知恵も貸してもらえたろうし山岳戦に引きずり込んでも
良い勝負が出来た気がして仕方が無い。
三成は自惚れてるのか謀師を部下に持ってなかったのも納得しがたい。
また機密漏洩阻止のためとはいえ事前に昌幸や大谷吉継にも相談してなかったとするなら
それも惜しい。せっかく偉大な頭脳があっても、それらを全く生かさず
三成の中途半端な頭脳が命を下すんじゃ腹が立つ。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 18:40:59 ID:c502kfhr
>>32 その説は俗説らしいよ。実際は島津義弘は伏見城入りを事前にしぶってたし、
伏見城入場拒否の件は情趣の鳥居以下全員死亡で死人に口なしというわけで
江戸時代の薩摩藩の文書でそんな話が捏造されたらしい。
しかも伏見城入り命令自体があくまで名目は秀頼の命令による上杉討伐軍総大将たる
家康の命令に従っての話しだしね。
そもそも、もし本当に数人の供回りしか連れてない島津義弘が伏見城に入ったところで
義弘は西軍に攻め殺されてただけだが。
あと実際は義弘は親西軍、
義久は中立派で「経済難なのにかかわるべきではない」と
関が原への派兵の妨害を行ったわけ。
朝鮮出兵も義弘の独断だったみたいね
家康が南宮山に毛利が居るのを解ってて
あっさり袋の鼠まで出て来ると思ってなのかな?三成
なんか違うような気がするな
>>67 そうそう、島津も決して一枚岩ではなかったみたいだね。
西軍についた大大名は家中が揉めてる例が多いような。
これじゃあ、西軍全体の意思統一には程遠いよ。
小早川隆景さえ生きていれば。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 21:27:01 ID:4sm9zCel
隆景が生きていたら毛利が一枚岩になって東軍について家康の勝利だねん(o^ー’)b
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 21:46:18 ID:c502kfhr
>>72 なんでそんな理屈になるの?
毛利の中でも親秀吉筆頭の隆景が・・・
つーか、秀吉よりずっと早く死んだ
隆景が生きていたらとか仮定としても変だ。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:03:35 ID:P+cqoIDm
やはり、統率できる人物となると如水しか残ってないようだね・・
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:08:44 ID:4sm9zCel
小早川隆景ほどの人物なら秀頼(三成)と家康とをくらべてどちらについたら毛利宗家の為になるかと考えたら家康につくのが当然でしょ? それに親秀吉って言うけどそれは秀吉と光秀をくらべて以下同文。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:10:14 ID:F8i+6Zd1
如水は経緯的に無理だっての。
後、12万石の大名が総大将で誰が指揮に従うんだよ。
信長の野望じゃないんだから。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:20:12 ID:P+cqoIDm
ま、政権樹立後は干されて地方に飛ばされたけど
その真意は、秀吉がビビッての事だろ?
蒲生氏郷と同じ
それと実質石高も50万石近くあったし
豊臣譜代をまとめられるという意味でも、如水が適任だろう
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:25:44 ID:P+cqoIDm
考えてみたんだけど
仮に、秀吉の配下達が全員生きてたとする(秀吉死後に)
で、家康が史実通り叛旗を翻して関ヶ原が起こったとする
ならば、実力、能力的に考えて、誰が総大将に適任だろうか?
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:29:22 ID:Ur7zBt8I
長政が家康側だから如水はトップにはどうしてもなれないんじゃないかね?
いくら、如水が親子関係は別の物と言ったとしても、周囲は
そう取らない。豊臣家臣の中でも神クラスの参謀だし。
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:29:30 ID:2e2NdQWQ
>>78 如水以外考えられないよ。
これは自信を持って言える。
実高50万石?
関ケ原後の黒田領と勘違いしてないか?
確かに検地で自己申告権をとって実高よりは低いだろうが
それでも18万石だろう。
長政が5000しか引率してないことからも20万石以上はありえない。
蒲生は別に秀吉の与力じゃなく本能寺後に味方になったいわば外様。
対して黒田は中国入りからの半譜代だぞ。政権中枢にいてもおかしくないのに
飛ばされてるんだから意味が違う。
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:31:41 ID:Ur7zBt8I
勝ち負けは別にして、如水が総大将なら面白いことしてくれそう。
でも梅毒説が本当なら厳しいね。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:35:31 ID:tH+Erfeq
>>78 前田利家以外にはありえない。
そうなれば両加藤、福島、黒田等が前田に付くので
これで五分五分になる。
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:35:45 ID:P+cqoIDm
豊臣秀長 (秀吉の実弟。最強の補佐役!?)
豊臣秀次 (関白。秀吉の甥)
前田利家 (五大老。豊臣政権の大物)
小早川隆景(五大老。毛利家中の親秀吉派。名将)
蒲生氏郷 (織田家のエリート。有能)
毛利輝元 (・・・)
宇喜多秀家(五大老。親秀吉)
石田三成 (五奉行筆頭)
黒田如水 (秀吉の覇業に貢献した名軍師。実質NO2だった!?)
加藤清正 (秀吉一番の忠臣。武等派のトップ)
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:37:07 ID:GTKZIFaJ
やはり関白秀次公が処刑されたのが悔やまれる。
>>78 別に家康は反旗を翻したわけではない
三成に反旗を翻されたから関ヶ原に行き想像以上の圧勝だったので独立しただけ
三成が反旗を翻さなければ執権北條氏のように形式的に豊臣政権が存続していた
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:38:32 ID:tH+Erfeq
豊臣秀長、豊臣秀次が生きてたら家康はクーデターをそもそも起こさない。
猫のようにおとなしくして関八州の太守としての地位を子孫代々に
受け継がせる事だけに汲々としていた。
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:41:49 ID:P+cqoIDm
>>85のように考えると、実際に生きているのは下の5人だけ
で、実際に毛利輝元、石田三成は総大将として失敗してる
残るは宇喜多秀家、黒田如水、加藤清正
消去法だけど、理論を煮詰めるには順序立てて考えないとね
だから基本事項として東軍が豊臣正規軍だというのに。
石田等は反家康で蜂起した軍。
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:43:07 ID:5uvouzU+
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:46:27 ID:GTKZIFaJ
そんな仮定出すなら、最初から秀吉が家康より長命で全て解決だろ。
これが最も確実だと思うがどうよ。
死んだ人間だすなよ
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:48:17 ID:tH+Erfeq
>>90 そうとは言えない。
五大老のうち四大老が共同で家康を詰問してたし(その時は利家が)
関ヶ原の戦いでも豊臣家を合議で動かす予定だった三大老と
四奉行(三だっけ?)が共同で家康討伐をし、また毛利が大阪城に入って
秀頼を奉戴して戦っている。
どちらが正規軍かは判断できない。
どちらかと言えば西軍の方が正規軍に近い。
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:50:17 ID:P+cqoIDm
>>91 半兵衛生きてたら心強いけどな
本当の義勇軍みたいな感じで家康と対峙してくれそうだ
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:53:06 ID:tH+Erfeq
もし、家康討伐の連署を三成が集めて
大老・奉行連中全員に無視されてたら
三成は純粋にクーデター事件犯人として終わってたが
淀がお墨付きを与え(口頭で)それを最大限利用して
豊臣閣僚・官僚トップをことごとく説得し切ったんだから
どう見ても、賊は徳川家康としかいい様が無い。
>>94 勅許を受け豊臣から兵糧を受けてる東軍が豊臣正規軍じゃないのかよw
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:57:26 ID:tH+Erfeq
大阪城を出た瞬間は東軍は正規軍だろう。
しかし、その後も‘豊臣’正規軍かと言われれば
それは、解釈が分かれる。秀頼と保護者の淀が正規軍と言った方が
正規軍に決まっている。
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:58:21 ID:P+cqoIDm
分ったから。
家康率いる東軍が正規軍でいいから
話を元に戻そうぜ
西軍の総大将は誰が適任か?
>>94 そもそも東伐軍は豊臣公儀で派遣されてる。
東伐軍には秀頼から金、糧が下賜されてる。
三大老や奉行自体は公儀じゃない。
家康と同じ大老でも内府とそれ未満で格が違う。
忠義や内実じゃなくあくまで秀頼の為にを東西とも名目にしてた。
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:00:53 ID:tH+Erfeq
西軍の総大将は秀頼が適任。
どうしても秀頼が大阪城から出ないという前提なら毛利輝元が適任。
というか毛利輝元が適任だから三成も総大将に推薦したし
淀も認めた。
>>99 在坂しててとてつもなく広大な封土を持ってて諸大名に対する発言権が大きく
かつ豊家の信任厚い人物
103 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:05:02 ID:2e2NdQWQ
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:05:44 ID:tH+Erfeq
輝元が毛利家内での発言権がもっと強く、統率力に優れてたら
最初から三成に奉戴されず、三成をクーデター首謀者として捕らえてしまっていたか
もしくは関ヶ原の西軍総大将として自ら赴いて指揮を執っていた。
賊でもなんでもいいが西軍は七手組を派遣してもらったが
公儀の下賜や勅命があったのか?
正規、反乱とはそういうことだろ。
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:08:37 ID:tH+Erfeq
輝元は、やりようによっては豊臣政権の執権だろうが内府だろうがなれたはずだし
領土保持どころか、さらに領土を広げる事も可能だった。
彼に家康や如水程度の器量やら才能があればなあと残念に思う。
>>106 輝元に器量や才能があったら秀吉に中国から僻地へと飛ばされている
よってその過程は無意味
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:12:56 ID:2e2NdQWQ
輝元が動くだけでも歴史は変わったかもしれんのにな。
西軍の中で随一の兵を持ってたんだから、守備なんかせず、動けばよかった。
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:18:02 ID:P+cqoIDm
>>107 別に飛ばされると決まった訳ではないだろうし
実際、秀吉にはいろいろ介入されてたしな
>>109 それより、黒田実高50万石につき解説キボンヌ。
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:27:39 ID:P+cqoIDm
>>110 君、友達とかいないだろう?
何か、そんな気がする
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:29:52 ID:tH+Erfeq
淀も三成なんかを信用して頼ったのは馬鹿だったかもね。
もう少し目先が利いてれば関ヶ原への総司令官に三成は不十分として
輝元に行くよう命じてたんじゃないかな。
芳春院や北政所が淀の立場だったら、そうした気もする。
もしくは三成自体に頼りすらしなかったろうね。
輝元がもっと優れていた・・というかやる気満々だった場合
そもそも本能寺の時点で秀吉を追撃して討っているだろうな
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:37:17 ID:tH+Erfeq
>>113 それ言ったら身も蓋もw
でも、そうなれば天下は毛利の物にならずに
光秀の物になった可能性すら出てくる。
秀吉が死んだら洛中を押さえてる光秀に
細川、中川、高山、筒井が付く可能性も無くはないからね。
>>111 普通にいるが何か。君は信頼や、信用とかされないだろう。
何かそんな気がする。
>>113 和睦自体は前から決まってて清水の取り扱いで揉めてたんだよな。
吉川は猛反対、安国寺は推進。そこから関ケ原への伏線がある
と思うと感慨深い。
和睦を反古にして追撃とは毛利の性格上しそうにないが。
秀長が殿だからまあおもしろい。
輝元は、大阪城内に不穏な気配を感じていたから
動くに動けなかった説もある。
だからこそ、自分の代わりに秀元を派遣したわけで。
その秀元は必ずしも戦意が低いわけじゃない。
輝元だってあの大軍が一日で雲散霧消するとは考えていないはずだ。
まず、上杉征伐を開始した時点では家康を総大将とする軍が豊臣正規軍だったのは確実だろう。
んで、その間に三成らが輝元を擁立して伏見城を攻撃したから目的変更をしたわけだが、
その決定は、一応従軍した大名らに意見を聞いて、小山評定で正式に決めた形になってる。
このことを普通に考えれば、東軍は豊臣正規軍、西軍は反乱軍と考えるのが自然な希ガス。
五大老や五奉行にも西軍の賛同者は居たが、その時点では完全に家康が政務指揮してたし
五奉行も五大老も失脚したり国に引きこもってたりしたしなぁ。
しかし三成も大阪に居た大名の妻子を人質として挙兵したあたり、結構えげつないよね。
まぁ仕方ないっちゃ仕方ないが。
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 23:52:00 ID:tH+Erfeq
西軍が勝ってたら西軍が正規軍で東軍は賊軍になってた希ガス
たまたま東軍が勝って西軍が負けたから西軍は賊軍にされた希ガス
だから、賊軍とかそういうんじゃないって事なんだけどなあ。
負けたからなんて誰も言ってないって。秀頼の命や勅命、下賜などあれば
秀頼署名の家康東伐書があれば西軍が正規軍だよ。
なによりまず福島、加藤は西軍について東軍が崩壊してる。
>>119 下手に勅命、下賜をだして家康が勝ったら豊臣も責任取れないでしょ
ドラマと違い現実には豊臣にとって三成などただの失脚した元奉行に過ぎないわけで
一蓮托生で協力する義理も義務も無い
西軍が勝利したら後追いで出すだろうけど挙兵した段階では出すはずがない
>>120 そうだよ。公儀は中立なんだから、淀殿や秀頼を手元に置いたから正規とは言えない。
正規軍かどうかは「その時点で公儀のお墨付きを得て構成されたか」どうかでしょ。
あくまで家臣同士の覇権争いが実態なんだから賊かどうかなんて
どうでもいい。
淀殿や秀頼らは西軍を承認したのか?黙認したって話は聞いたが。
口約束や二枚舌はよくあることだからなぁ。
表立って後押ししてなければ、どこまで本気だったかは怪しい気がする。
淀殿は関ヶ原以後も家康が成人した秀頼に政権を譲ると考えてた節もあるし。
危険を冒して西軍に肩入れしたかどうか。
相当な政治音痴なのは確かだが。
亀レスだが
>>84 1598年に利家が家康を糾弾して揉めた時は、両加藤、福島、黒田父子らは
みんな家康に味方して徳川邸に参集してたと思ったが
そもそも豊臣の中立戦略の妥当性と
東西軍の正規、非正規とは別個の事項だろう。
いや妥当かどうかという話ではなく、上のほうで淀殿が西軍にお墨付きを与えてたって
レスがあったから。ホントかよ?と思ったのだが
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 04:18:47 ID:O9FYAT1u
おまえら、本音と建前って知ってるか?
例えば戦前の豊臣政権の対応が家康による傀儡だと苦々しくもわかっていて単純に正規軍だ反乱軍だと割り切れるのか?
不毛
おまえら、キンカ頭とハゲ鼠って知ってるか?
例えば上様のあだ名の意味が抜け毛による薄毛だと苦々しくもわかっていて単純に月代だ武士の嗜みだと割り切れるのか?
不毛
ここで秀頼による第三勢力としての出馬を進言。
西軍?東軍?ぶっつぶす。
俺がナンバー1だ。
形式的には東軍が正規
実質的には西軍
ただ、完全に西軍にお墨付き与えて負けたら
事は重大なのでそういう形をとったにすぎない
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 14:23:59 ID:Lnv7bix+
戊辰戦争でも新政府軍が負けてたら岩倉具視が処刑され
あれは岩倉具視が勝手に出した偽の勅命、勅書だとして
徳川軍が正規軍、薩長が賊軍になってた事は間違いが無い。
正規不正規はあくまで形式においてしか関係ない。
実質も何も、関ヶ原の実質は豊臣政権内覇権争いで
実質には正規も不正規も無い。
どっちも、自勢力の覇権争いの為にやっただけ。
それまでの
秀長死後の譜代(蜂須賀、黒田)グループVS新興吏僚グループ
その後に、唐入り中からの武断派VS文治派があって
そこに家康VS反家康が絡んで戦争になった。
豊家は実質では関係ない。だからお墨付きも与えてない。
淀殿がそんな肩入れしたとか言う証拠は有るのかよ。
お墨付き与えたとか言ってる奴もいるし。
戦国大名は江戸時代の武士道なんて持ってないし
パワーポリティクスが当たり前の時代なんだから、
実質の正規、非正規に拘る程ナイーブなわけないだろ。
お墨付きっていうのは要するに、文章を作って判を押せばいいんだから
豊臣秀頼の印を誰が管理してたかって言う事だよね
戦国時代は花押じゃないか?
武家法は正式な文章か判断するのに、花押の照合が基本だったはず。
印鑑の普及は江戸時代だったと思うぞ。
まぁ印章化した花押も有るが・・・
お前らスレタイも八郎様も無視ですかそうですか
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 20:03:34 ID:iamMBXO6
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 20:19:52 ID:yjd3pHkO
ま、秀家は置いといて如水なら勝てそうだな
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 21:06:01 ID:ro6Elr9b
黒田勘兵衛を東軍の大将にすべきだったと思う
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 21:21:07 ID:ro6Elr9b
如水は三成に囲碁をしていることをちくられて失脚し
出家しないと処刑されそうになるほど追い詰められたのだから
土下座されたって西軍の大将なんか引き受けないだろう
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 08:56:01 ID:A/knhzVh
黒田勘兵衛が、大将やったら・・・皆言う事聞かんだろうなw
如水は参謀やらせれば超一流だけど、大将の器かどうかは怪しいかも・・・(。。;)
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 13:36:03 ID:pck6DE47
>>140 そんなことは分ってるけど、あくまでifだから
それを引き受けて戦ったら・という想像力を広げてね
>>142 関ヶ原が長引く間に如水は九州や中国を平定しようとしたんだよ
確かに名参謀で、大将の器ではないかも知れないが
他に適材もいないし、期待は出来るんじゃ?
>>143 そもそもこのスレは「西軍の総大将は誰がよかったか」という
スレじゃないから、それを検討したかったら
「西軍大勝利」や「関ヶ原総合」なりの適切なスレに移ってね。
そもそも、ifと言っても経緯的や大名の格として無理と言うのに
ifだからOKなら、秀頼が総大将でいいんじゃないかな。
福島、加藤の西軍離反は確実www。
想像力を広げてねwwwwwwwwwww。
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 14:19:11 ID:fBT6jfZF
宇喜田は五大老でかつ故秀吉とも近いし、朝鮮出兵の経験もあり
なかなかの人物だが彼が大将では、さすがに毛利に失礼だ。
三成が毛利を持ち出したのは、毛利を大将にすることで覚悟を
決めさせる意図があったんだと思う。
にも関わらず宇喜田を大将にするのなら
史実以上に毛利の動きは緩慢になると思われ。
特に毛利の威光に従った西国の諸将の一部かな。
史実より少ない実働部隊で何がなし得たのかを考えるべき。
つまり、当初からあてになる部隊は宇喜田、石田、大谷、小西、織田その他
に限定されることが予想される。
よって伊勢方面を攻略する余裕はない。
兵力を集中し、大阪城で迎え撃つ作戦も現実化するのではないだろうか。
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 14:20:29 ID:pck6DE47
>>144>>経緯的や大名の格として無理と言うのに
ふ〜ん♪
三成は大名の格がすごいんだ?w
知らなかったw 経緯的にもどうかね〜?w
でも史実ではそんな三成でも大将格なのに
如水の場合は、それが理由でダメなんだ?
おもしろい理由言うね ( ´,_ゝ`)プッ
別に総大将は毛利でもいいと思うけど
如水と三成のポジション交換でどうよ
小早川の行動とか変わらんかね
秀秋と三成ってなかなか確執あったみたいだし
最低でも松尾山布陣を阻止できんものか
あとは伏見攻めや伊勢平定が史実より早く終わるとか
東軍の反転西上の前に東進するとか人質作戦が成功するとか
ま、妄想だがw
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 15:28:10 ID:pck6DE47
小早川裏切るんじゃ・・無理でしょ
如水が三成のポジションいくんなら
その前に手を打ってもらいたい
如水が豊臣家を乗っ取るだけじゃないか?
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 15:50:15 ID:A/knhzVh
>>146 誰も三成の話やしてないよ?
大将の格とか、言ってるけど・・・三成は五奉行筆頭ですよ
息子が、東軍の如水とは全然ちがう
>>関ヶ原が長引く間に如水は九州や中国を平定しようとしたんだよ
小説?
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 16:05:39 ID:RxdEDJKj
したんだよ!実際に浪人集めて動いてるし(o^ー’)b でも如水はあくまで参謀か一軍の将止まりで総大将にはなれないと思う( ̄ε ̄〃)b
乗っ取られるだけなら別にいいんじゃない?
潰されるよりはいいし、家格を維持したまま生き残れば後に望みを繋げる
そのうちまた情勢が変わればチャンスはあるかもしれないし
如水もいい歳だし
ま、実権取り戻すチャンスが無くてもそれはそれで
少なくとも戦国時代の足利将軍家よりはマシかと
大体豊臣は秀頼がある程度しっかりする歳にならんと話にならんから
どっちみち後見人的な人間に実権握られるのは仕方ないんじゃないかな
>>152 なら、関ヶ原後でも秀頼が大阪城を出ていればそれで済んだ話だと思う。
家康は別に豊臣家を是が非でも潰すという考えはなかったようだから。
ただ、他の大名と同じように統制に服し、徳川の脅威にならない存在であればよかったんだから。
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 16:11:36 ID:pck6DE47
>>150 その五奉行筆頭が七人の侍に殺されかけてる訳だが・・
ていうか・・その前に奉行職も罷免されてる訳だが・・
で、何より
親父が仮に西軍の総大将になるってのに
さすが反抗期の長政でも東軍につくというのはおかしいでしょw
息子は味方か、悪くて中立
で、清正や正則などの武等派も、憎っき三成じゃないんだし
どう出るか?
だから、その辺を期待して如水な訳だが・・
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 16:14:12 ID:pck6DE47
関が原時の九州での如水の動きはたいしたもんじゃないよ。
司馬の小説とかで過大に書かれてるから誤解してる人間が多いだよなあ。
>>155 うむ、個人的に主張したかったのは
>>149だな。
やはりあれだけの軍勢を指揮できるような傑物はどう転んでも諸刃の剣だよ。
まあ、政権をガタガタにして死んだ秀吉がいかんのだがね。
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 16:17:15 ID:312o9W1w
>>156 俺もそう思った。
半月で九州の半分獲ったとか誇張しすぎ。
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 16:20:34 ID:pck6DE47
ま、如水と家康
どっちが勝っても乗っ取られるのは確かだな
>>153 いや、家康は自分がトップになろうとしてたでしょ?
家康が勝てば、政治的にも石高的にも完全に独走して誰も手が出せなくなる
豊臣もそれこそ統制に服して臣従するしか生き残る目は無い
でも、如水にはそれは無理だろ
何万石だか忘れたけど大した石高でもないし
結局、豊臣の名を残して名目上のトップに据えて
その権力を振るうしかないんじゃないかな?
分からんけど
石田が曲がりなりにも大将格であったのは作戦立案者だからだろうに。
石田が作戦立案者でなくとも大将格の扱いを受けたとでも言うのか?
経緯を無視して石田の代わりに如水も大将格とか言いだすなんて
歴史を信長の野望と同じと思いすぎ。人間はユニットじゃないんだよ。
>>145 打倒家康を言い立てて挙兵している以上篭城は選択できないよ。
西軍がまともに戦おうとするなら毛利の総大将(と見返り)は
前提条件みたいなものだと思うよ。
スレタイ通り八郎を総大将にして関ヶ原を迎えたいのなら、
八郎が秀頼の名代として自軍と豊家の旗本衆を率いることかな。
関ヶ原当時に豊家直属の軍事力が如何ほどで稼動率はどれくらい
見込めるのか、直接旗本衆を率いる侍大将に人材はいたのか、
そもそも八郎が豊家を引っ張り込めるのか、と問題が多すぎるかな?
>>160 鎌倉の北条氏のようにトップの豊臣は2代くらいで暗殺して、
公家でも頭に据えるという手がある。
どのみち秀吉没後の政体は不安定だったので再編成は必要だっただろうからね。
ここで逆転の発想で、尼将軍じゃないが北政所に総大将になってもらうか。
尾張系の諸将は従うだろうし、官位も豊臣家での地位も申し分ない。
淀殿は嫌がるだろうがね。
>>161 それをこのスレで主張するか。
スレタイを見直そうや。
まあこのスレを全否定するならともかく。
>>163 まぁ平行して議論されてたように、如水が大将格の扱いを受けられるとしたらっていう
仮定の話だけどさ
結局、秀吉が死んでしまって徳川のように大御所時代にスムーズに政権交代を出来なかった
その上、大大名が多くて扱いにくい豊臣はかなり妥協するか無理なことしないと
生き残るのは無理だったんだろうな
徳川の所領の大部分を没収できれば、豊臣の石高が圧倒的になるから
周りもそうそう簡単に手を出せなくなるんだが
>>165 徳川の処分を納得できるような形で行わないとそれ自体が政権を揺るがしかねないけどねえ。
むしろ朝鮮出兵(明攻略)が成功していれば秀吉の拡大路線はそれなりに完結して秀次も死なずに済んだんだろうがね。
徳川も相対的に弱者になるしw
随分話をそらしてしまった気がするからもとに戻すと
まずもって如水なら東軍に勝てるのか?w
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 17:22:37 ID:wpVV5wic
>>167可能性は光成よりもかなり高くなると思う
>>163というか淀君がいなければ豊臣はつぶれていないと思う
>162
篭城はありうるよ。
東軍だってしょせんは寄り合い所帯の遠征軍に過ぎない。
大阪城で全国に呼びかけ長期戦になれば、秀家率いる西軍に
勝ちがないわけじゃない。
上杉は予定通り東北を蹂躙するだろうし、あの野心家の伊達も
すき放題しはじめるだろう。如水も徳川のために動いていたのか
怪しいものだ。
徳川率いる東軍は長期戦に悩まされるであろうことは確実。
宇喜田、小西、奉行衆とかで6−7万の軍勢なら大阪篭城は十分可能。
無理して野戦の得意な家康に仕掛ける必要性はどこにもないと思う。
下手に大軍になったから篭城案が考えられなかったのだから
逆に数万の兵力でも戦意のある連中が大阪城に集結したほうが
よかったのかも。
>>169 籠城したら家康は禁裏に圧力かけて開城の勅使を引き出すと思うね。
正攻法じゃ落とせないだろうから。
あるいは北政所を引っ張り出すか。
そうなったらどこまで頑張れるかね。
>170
それはあり得ない。
細川幽才みたいに負けが確定している状況ならいざ知らず。
西軍不利な決着で妥協する必要が宇喜田方には無いから。
それに北の政所ってww西軍には彼女になびく武将は少ないし。w
>>169 三奉行の内、前田、増田は大軍に囲まれたら寝返りかねない。
史実でも微妙な行動しかとってない。
毛利が動かないとなれば、兵糧確保において瀬戸内海からの海運を期待できない。
石田は増田への書状で兵糧不足を訴えている。
用意した上に兵糧を豊臣から下賜されてから上杉征伐に向かった東軍とは違い、
西軍にはそこまでの用意は無い。
大坂の陣は前もって弾薬兵糧を確保している(故に幕府が開戦を決意したが)
後詰は何処からかも不明。
何より、そんな状況で公儀が篭城を許すかどうか。
そんなことをしたら、中立政策を採用した豊臣公儀の戦略が全くの無駄になる。
>>171 おいおい、豊臣政権の正当性を保証してるのは禁裏だよ。
その勅使を無視するってのは秀吉が積み上げてきた政権の正当性を無視するって事だ。
北政所に関しても同じ。
無官の淀殿と違い、歴とした官位持ちで対外的には当時の豊臣家の代表なんだが。
軍事以外の要素にも少しは目を向けた方が良いんじゃないか?
もう当時はそういう時代に入ってるんだよ。
まずもって淀と取り巻きが許すかなぁ>大阪城篭城
>>169 大坂城に篭ってる間に京をはじめ畿内の重要拠点は押さえられちゃうし、
美濃あたりの西軍よりの小大名は、各個撃破される前に寝返るでしょう。
上杉家に領外進出とその維持ができるか怪しいものだし、長引いて地方が
荒れるのは戦後の統治機構に対して痛手であっても、西軍自体の得かな?
全国に加勢を求めるにしても、大坂まで軍兵を引き入れて包囲軍を
蹴散らせるだけの能力がある大名は見当たらないし、そもそも執行機関
たる奉行衆や公儀にそれだけの求心力があれば、戦は起こり得ない。
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 20:51:36 ID:oifAJYM9
>>175 地方が混乱し戦国時代になると東西両軍が共倒れになりそうな・・
応仁の乱みたくさ。
結局天下統一はまた100年くらい遅れそうだし、できても徳川幕府ほど
強固なのができたかどうか・・
家康を討つ!
でいきなり篭城なんてありえないだろう。
そんな消極的じゃ、味方どころか
豊臣家からさえ見放され、大阪から追い出されかねない。
仮に篭城ができたとする。
そしたら、東軍は宇喜多の岡山、毛利の広島を奪いに行くだろうな。
それで毛利が裏切ったりして結局終わり。
後詰めのない籠城は無駄。
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 20:54:27 ID:Hdv6OBMe
>結局天下統一はまた100年くらい遅れそうだし
キリスト教国家になってたりしてw
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 21:00:41 ID:oifAJYM9
九州あたりがキリスト教圏として日本と別個の道を歩んでいるか
さもなきゃ
逆に日本がさらに活発に躍動的になって
樺太や台湾、ルソンとか江南沿岸とかくんだりまで境界線の曖昧な
日本文化民族圏みたいなの構成して、その分
強固な一国家としての近代化は遅れたか・・ではないかな?
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 21:18:12 ID:M3+I8dIv
ところで福島は、なんで関ヶ原で宇喜多をためらいなく攻撃できたんだ?
石高からして宇喜多の方が格上だし秀吉の養子だから
福島にとっては主君みたいなもんじゃないのか?
>>176 共倒れというよりも、後詰めのない籠城をしている西軍が
豊家を抱えて立ち枯れだと思うよ。
ジリ貧な篭城をするような方に味方が集まらないのは当然だし、
城内に内応者が出そうな分大坂の陣より状況が悪い。
大坂城を落としてこの段階で豊家を滅ぼすなり棚上げするなりできれば
徳川家の一人勝ちの度合いが大きくなるだけだから、
戦後、地方を荒らしたものにより高圧的に振舞える。
戦国の昔に戻る要素はとてもないよ。
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 21:43:33 ID:RxdEDJKj
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 22:19:39 ID:7UO4Gl7F
>>180 豊臣家の養子といっても、それと同格な人間はあちこちにごろごろしている。
結城秀康もそうだし、真田信繁もそう。
要は人質を養子と言い換えただけだし、宇喜多秀家の場合、養子として最古参でもあり、秀吉からかわいがられてはいたが、明確に秀吉の一族という待遇を受けていたわけでもない。
それに、福島正則としては「先鋒」である以上「自分より格上」の相手を打ち負かして栄誉を上げたかったんだと思う。
そうだとしたら攻撃をためらっている余裕なんて無いんじゃない?
184 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 22:26:03 ID:RxdEDJKj
ちなみに福島くんは秀吉の従兄弟よん(o^ー’)b
ほんと豊臣の一門衆にはまともな奴はいないな。
>>180 市松がそんな細かい事気に出来る奴だったら
徳川の先鋒勤めたりせんだろ。
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 02:36:46 ID:9CF60yil
で、結局
如水を総大将に祭り上げるしかないんだろ?
三成が作戦の立案者w
笑わせるわ。そんな訳分らん理論言い出したら
スレタイの宇喜多も立案者じゃねーつうのw
>>187 スレタイも読めない馬鹿はいなくていいよ。
ここは「宇喜多秀家が西軍総大将だったら」だから。
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 03:21:56 ID:9CF60yil
>>188 文章を読み解く力が著しく欠如したバカはいなくていいよ。
>>188 すいませんね、この子病院から逃げ出したばっかで
最近複数スレであげまくって毒舌はいて喜んでる子なんで
申し訳ないけどスルーでお願い。俺も消えます。
>>189 日本語を理解できない馬鹿はいなくていいよ。
他スレでも複数人から低学歴の荒らし呼ばわりされてるのに
恥ずかしくない?
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 03:33:36 ID:9CF60yil
文章を読み解く力が著しく欠如したバカはいなくていいよ。
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 03:36:17 ID:XvTk6yxN
>>183 は? 無知な奴だな。
秀家が秀康や真田信繁と同じ?
単なる人質?
秀家は秀吉の養女(前田利家から赤ん坊の時に貰った)で
秀吉が「男なら関白にしてやったのに」とまで言って
溺愛した豪姫を与えられて
名実共に豊臣家の一族としての待遇だったんだが、
無知な癖に偉そうにレスつけると恥かくよ。
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 03:38:47 ID:XvTk6yxN
ようするに秀家は秀吉の娘婿だと思って間違いない。
秀吉の貴重な息女を嫁にしたんだし。
系図の上では豊臣家の一族としてちゃんと繋がってる。
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 03:40:13 ID:9CF60yil
>>193 そうしな。
まともな読解力も主張も持ち合わせてない君には
遠めに遠吠えを漏らす負け犬の方が似合うよ
197 :
183:2006/11/04(土) 06:24:45 ID:EjJgtkWF
>>194 ちょとちがう。
秀吉の個人的な溺愛はよく知られていたし、確かに豪姫の旦那でもある。
しかし、豊臣家の一族という受け取られ方は世間的にされていなかった。
奥平家や池田家、蒲生家は家康の娘は貰っているが、徳川家の一族か?
宇喜多秀家という人物は幼き頃から太閤の手元で育てられ、太閤に溺愛され、その養女も貰い、御奉行衆(俗に言う五大老)にも加えられていたが、あくまで宇喜多家の主宰者であって、豊臣の一族ではない。
>系図の上では豊臣家の一族としてちゃんと繋がってる。
つながっていない。あくまで養子であり、養女を貰ったとあるだけ。
豊臣家を継ぐ後継者となりえ、諸大名にそれなりに奉じられたのは、姉の子である三好秀次や弟である秀長の子供たち、それに死んだ捨丸、秀頼だけ。
あくまで彼は世間的、政治的には結城秀康や真田信繁、小早川秀秋と同じ「大名の養子」。
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 06:48:45 ID:XvTk6yxN
>>197 いや少なくとも秀康とか信繁とは違いすぎる。
家康の数多い娘と秀吉の大切な養女とは大きく違う。
あと宇喜多秀家自身は自分を豊臣家の一族と微塵も疑わずに
「宇喜多秀家」などという名前は使わずに
常に「豊臣秀家」もしくは「羽柴秀家」を名乗ったという。
あと、そんな事、言ってたら実子が他家に養子に行く事も多いのだが。
北畠信雄とか仁科信盛とか。
まあ、あんたの言ってる事も理解できるのだが、
宇喜多秀家は養子ではあるが
秀吉に幼少から育てられ養女も貰った
かなり特殊な位置にいたのも事実だ。
199 :
183:2006/11/04(土) 06:50:39 ID:EjJgtkWF
あと、ついでにいうなら宇喜多秀家を豊臣家の一族と主張するより、
>>184氏が指摘されているように、福島正則は秀吉の従兄弟に当たるので血のつながりがあり、そっちを押すほうがよっぽどいい。
あと加藤清正も母方の縁者になる。
ちなみに、秀吉の養子たちの「格付け」だが
養子→羽柴秀勝(信長四男)、三好秀次、木下秀勝(北政所縁者)、羽柴秀秋(北政所縁者、後の小早川秀秋)
ゆう子(字が出てこない、準養子だと思ってくれ)→八条宮、宇喜多秀家、小早川秀秋(元羽柴秀秋、小早川家を継ぎ事実上跡継ぎの座から転落)、結城秀康、>>>(他諸大名の子息)>>>真田信繁
「猶子」はこれで良いと思ったので辞書で確認してみた。
これでよかったらしい。
大辞林 第二版 (三省堂)
ゆうし いう― 【猶子】<
〔古くは「ゆうじ」とも〕
(1)〔「礼記(檀弓上)」による。自分の子供のようなものの意〕甥(おい)、または姪(めい)。
(2)親族または他人の子を自分の子としたもの。養子。義子。
大辞林 第二版 (三省堂)
ゆうし いう― 【猶子】<
〔古くは「ゆうじ」とも〕
(1)〔「礼記(檀弓上)」による。自分の子供のようなものの意〕甥(おい)、または姪(めい)。
(2)親族または他人の子を自分の子としたもの。養子。義子。
201 :
183:2006/11/04(土) 07:17:31 ID:EjJgtkWF
>>198 >いや少なくとも秀康とか信繁とは違いすぎる。
それは同意します。まあ、諸侯筆頭の家康の子秀康はともかく、信繁は本当にただの人質が後々「幸村」の名で有名になっただけなんで。
>家康の数多い娘と秀吉の大切な養女とは大きく違う。
秀吉個人の感情と、家康個人の感情とは大きく隔たりがあるでしょう。ただ、世間的な受け取り方は違います。あくまであの時代「嫁に行ったら、行った先の人間」
>あと宇喜多秀家自身は自分を豊臣家の一族と微塵も疑わずに
>「宇喜多秀家」などという名前は使わずに
>常に「豊臣秀家」もしくは「羽柴秀家」を名乗ったという。
羽柴左衛門太夫正則とか羽柴侍従広家とかいう人も居ましたな。「羽柴」は秀吉の許可を貰えば名乗ることが出来ました。ちなみに「豊臣」は秀家に許可されてなかったんじゃなかったか?
まあ、勝手に「豊臣清正」と署名されて怒られた人もいましたが。
>あと、そんな事、言ってたら実子が他家に養子に行く事も多いのだが。
>北畠信雄とか仁科信盛とか。
まあ、織田信勝や諏訪四郎勝頼なんかは実家に戻っちゃいましたが、仁科信盛は行った先の家の人間として振舞っています。
>まあ、あんたの言ってる事も理解できるのだが、
ようは、世間的な取り扱いです。
社会的には宇喜多秀家はどこまで行っても「宇喜多家」の人間です。
でも、長い間実子がなく、そのために色々寂しい思いをしていた秀吉を慰めたのは秀家の存在だったでしょうし、秀家も実父の直家より秀吉を愛し尊んでいたことは確かなように思えます。
>宇喜多秀家は養子ではあるが
>秀吉に幼少から育てられ養女も貰った
>かなり特殊な位置にいたのも事実だ。
その通りです。
ですが社会的には、あくまで最古参の猶子、前田家の四女の婿、御奉行、そして「宇喜多家」の当主。
>>200 ありがd
202 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 07:35:40 ID:XvTk6yxN
>>201 >ちなみに「豊臣」は秀家に許可されてなかったんじゃなかったか?
これは俺の読んだ一般向けの歴史本に書いてあった。
>世間的な受け取り方は違います。あくまであの時代「嫁に行ったら、行った先の人間」
それは必ずしも言えないような・・・
妻の実家をあてにして自立する人間もいるしね。
中国痴話ウの吉見氏は大内義隆の妻を娶ってたのが動機だし、
今川義元と家督争いをした兄は母の実家の斉藤氏を後ろ盾にしたし。
>秀家も実父の直家より秀吉を愛し尊んでいたことは確かなように思えます。
まあ直家が死んだのは秀家の幼少の頃なのでほとんど記憶に残ってないでしょ。
>ですが社会的には、あくまで最古参の猶子、前田家の四女の婿、御奉行、そして「宇喜多家」の当主。
まず「前だけの四女の婿」はないでしょ。「秀吉の養女の婿」でしょ。
そうじゃないとあんたの前の発言とすら矛盾してしまう。
それと世間的にも「秀吉が特別に可愛がり信頼した養子」という
情報は知れ渡ってるでしょ。
203 :
202:2006/11/04(土) 07:38:05 ID:XvTk6yxN
追加だが「豊臣秀家」で検索してみたら、
あっさりとそういうなで記した書状があるという情報が得られた。
いちいち、リンクはしないから、自分で検索してね。
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 07:45:34 ID:jtgshgoS
ども、とうりがかりの者です。
くわしすぎる、、、、
ここの人たち、、、
しかも、宇喜田って
205 :
202:2006/11/04(土) 07:47:05 ID:XvTk6yxN
あと、俺もこのスレとか「大阪の陣で宇喜多秀家が入城してたなら」
とかいう命題はちと無理があると思う。
彼の立場をあまりに過大評価している。
でも、
>>183の認識は逆に過小評価だと思うぞ。
もう少し彼の立場を利用できなかったかなとは思う。
206 :
183:2006/11/04(土) 07:57:50 ID:EjJgtkWF
>>202 多分、貴方と私の見解の差というのは、「世間的」「社会的」な取り扱いをどう捉えるか?という部分だと思われます。
便宜上「関係者及び世間の人の感情」という側面から捉えた見方を「世間的」、「社会的資格や制度」を「社会的」と分ければわかりやすくなるのでは?
>>世間的な受け取り方は違います。あくまであの時代「嫁に行ったら、行った先の人間」
>
>それは必ずしも言えないような・・・
まあ、自分の出した例の中にも「奥平家」に嫁いだはずの人が、弟に散々口出してうざがられているというのはあります。
で、このコメントから始めた分け方からすれば「社会的な受け取り方は『嫁は行った先の人間』」
>まず「前田家の四女の婿」はないでしょ。「秀吉の養女の婿」でしょ。
>そうじゃないとあんたの前の発言とすら矛盾してしまう。
豪姫は「社会的」には「秀吉の養女」
「世間的」には「秀吉の溺愛した養女」で「前田家の四女」
ちなみに、関が原で敗れ、薩摩で捉えられた彼を擁護し、死罪から救ったのは前田家です。
>それと世間的にも「秀吉が特別に可愛がり信頼した養子」という情報は知れ渡ってるでしょ。
「世間的」にはそうです。
ですが「社会的」には、彼は宇喜多家の当主であり、豊臣の一族ではありませんでした。
もっとも、先に「前田家との縁」で例に出されたように「世間的」な出来事が全く社会に反映されないなんて事はなかった。
彼が「中納言」という特別高い位につき、若年でありながらも御奉行衆に加えられているのはその現われでしょう。
でもおのずと限度はあります。
彼は「豊臣家」の人ではなく「宇喜多家」の人なんですよ。彼自身の意識や渇望と関係なく。
話を戻すけど、武士である以上、親子兄弟でも場合によっては容赦なく戦うのに、
主筋の元養子というだけではねえ。
増して東軍の建前は秀頼の代官である家康vsそれを気に入らない三成の連合軍という形なんだから。
加えて福島は自分が気に入らないことでは同僚の池田ばかりでなく家康にすら噛みつく男だから、
戦場で猛り立てば戦うのは容赦しないでしょ。
ただ、秀家が福島の捕虜になって生き残ったら織田秀信を庇ったように庇う可能性は十分あったと思うけどね。
208 :
183:2006/11/04(土) 08:11:25 ID:EjJgtkWF
>>205 むしろ自分の捉え方は
「石田三成や宇喜多秀家は『世間的な自分像』と『社会的な自分像』を混同していたから負けた」
です。もちろんそれだけじゃありませんが。
それゆえに「自分の立場を自覚すればもっと上手いやりようがあった」とは思いますが、性格的に難しかったでしょう。
209 :
183:2006/11/04(土) 08:35:00 ID:EjJgtkWF
>>203 あ、こっちも確認できた。
訂正します「豊臣秀家」は正しい(かといって、「豊臣家」の一族ではない)。
徳川でいえば越前松平ぐらいの立ち居地と考えればいいかなあ?
今川家にとっての家康かなあ。
社会的に家康が今川血族と同格には扱って貰うのは無理じゃないかな。
秀家と違い自分から一門衆と振る舞ってはいないが
秀康公はれっきとした将軍家御連枝だし、
松平姓にしても下賜ではなく復姓に近い。
あくまで豊臣家の外様である宇喜多家と御家門筆頭の越前松平家じゃ
政権・世間でしめる立場の重要性は比較にならないよ。
関白が当時「朝鮮は秀次に、日本は秀秋か秀家にまかせる」と言ってる
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 13:57:16 ID:XvTk6yxN
>>212 外様って事はあるまい。
そもそも子沢山で譜代の家臣も多い家康と
子供も譜代もほとんどいない秀吉を同列に比較するのは無理ありすぎ。
秀吉は秀家をかなり「身内の味方」と考えてただろうし、
秀家自身もその辺は自覚していただろう。
>>213 だろうね。少なくとも小早川秀秋と互角くらいの位置ではあったろう。
しかも秀秋は中央から遠ざけられてたし、秀家の方が立場は上だろう。
結局、秀家は秀吉のお気に入りで特別に可愛がられてたという事だ。
つーか一応大将は毛利だったんだろ?
秀吉にとっちゃ秀家はかなり特別な存在だったのは確かだろうが
秀吉子飼いにとっては特別な存在ではない あくまで太閤の養子の一人 もしくは五大老の一人でしかなかった
なので福島が秀家に遠慮するみたいな事はなかったんではあるまいか
>>214 あくまで議論の元は
何故「豊臣家への忠義に厚い福島は秀家に躊躇無く突撃をかけれらのか」
だから、
確かに秀吉に実子みたいに可愛がられ、秀家自体が豊臣一門を自覚して
振舞っていたとしても
他の血族(福島含む)、大名から見れば「秀家=豊臣一門」ではなかったっ
て結論でOK?
でも、東西の去就が怪しいとはいえ
石田、大谷は秀秋に秀頼成人までの後見人及び関白就任を約束している
ぐらいだから、周囲から見れば豊臣一門として扱われている。
当時の観点からでも血族>養女の女婿(且猶子)だったのでは?
秀家は関東入府を自分で希望してるけど。秀家自体は豊臣の屋台骨を
担う気が溢れていたのは間違いないが、あくまで「自ら主張してる」のであって
183氏の指摘するように周囲からの認識とはずれてる気がする。
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 14:45:06 ID:/IbV89TI
ところで秀家って
戦闘タイプなのか三成みたいな優等生タイプなのか、どっちなんだ?
これがどうもわからんトコだ
>>218 宇喜多騒動を見ると三成みたいというのは三成に失礼だ。
三成は家中の統率を完璧に行ってたぞ。
まあ父や兄も人格者だったというのがあるが。
宇喜多騒動は宗教がらみもあるからな
それこそ一門・譜代に正面から背かれてしまったからね。
強硬派だった故、大老のうちで唯一関ヶ原後に取り潰されてるし、
政治感覚には乏しい人だったのかもしれないね。
じゃあ一応、戦闘タイプってことになるのか?
福島たちとはなかなかいい戦いをしたみたいだし
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 15:38:39 ID:XvTk6yxN
内政タイプ戦闘タイプかどうかは別にして基本的に八郎様は良くも悪くもお坊ちゃまだな。
豊臣家との関係は上に挙げられている通りだが、豊臣一門として行動しようとして
秀吉、大名同士の交遊、戦役の為に家政が傾く(豪姫、本人の奢侈についての真偽
は別にして)。
土豪連合的戦国大名から中央集権的な近世大名への脱皮を目指すのはいいが、
現実には大坂屋敷に居た為、国許の心身掌握が疎かとなり、譜代の殆どが追放となる。
お坊ちゃん的な人の良さがあるから、秀吉にも可愛がられ、戦後島津に匿ってもらえ
諸大名の除名嘆願も有ったのだろうが、統治者の力量としてみた場合、岡山開発の
先鞭をつけたのはいいが、家勢の傾く一因ともなっており微妙といわざるをえない。
直家が生きて教育してれば・・・・。
・・・・それはそれで豊臣家の重臣が謎の死を遂げて行きそうだ・・・・
227 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 22:23:08 ID:PyZORWF8
秀家は朝鮮との戦いにおいて総大将になった
57万石、26歳にして五大老の一人に
秀吉が如何に期待していたか伺いしれる
228 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 22:31:32 ID:9CF60yil
何に期待してたの?
229 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 22:31:43 ID:0N7txVi2
秀吉の同じ坊ちゃん金吾との扱われ方があまりにも違いすぎます><
232 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 09:31:19 ID:uHvszEd4
>>216 加藤や福島は、自分らも秀吉の親戚筋に当たるのに、
なぜ赤の他人の秀家が自分らを差し置いて豊臣一族の
扱いを受けるんだと不満があったんじゃね?
>>232 他の秀吉の猶子や養子が敵視された様子もないし、
秀家本人も憎まれてた様子はないのでそれは考えにくいと思うが。
むしろ共に朝鮮で苦労したというような連帯感があったと個人的には思うね。
234 :
名無しさん:2006/11/05(日) 11:02:07 ID:g33171i2
真田昌幸ならもっと良かったんだろうがまだ評価されて
いなかったから残念だ
235 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 11:17:36 ID:UiSMY19L
とりあえず泳ぎそうな気がする。
大阪から江戸城へ 泳 い で 参 っ た!×10万
宇喜多くんは石田くんと仲良くしてるから福島くんや加藤くんは宇喜多くんのコトが嫌いだったんだよ!だから宇喜多くんが西軍の総大将でも結果は同じコトになってるんじゃね?
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 17:54:33 ID:UiSMY19L
>>236 大阪って…。
秀家は泳いでいるうちに、西軍とともに現代にタイムスリップしたのかよ。
239 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 21:17:54 ID:5agU0H0S
秀家と小西行長は、漫画やゲームのイラストでそっくりに描かれることが多い件
今回の大河の役でもなぜか顔が似ている
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 22:12:17 ID:MpHbGf8X
お金貸しましょか?(*´艸`)ププッ
上のほう、政略結婚ってもんを小さく見すぎてないか?
普通の婚姻なら「嫁いだ後は嫁ぎ先の女」「もとの家とは関係ない」でいいんだろうが
政略結婚でそれを適用したら政略結婚の意味が無いぞ
特に主従関係間での政略結婚は相手の家を一門の外戚に加えるって意味があると思う
というか、それ以外の意味があるのか分からんが
宇喜多のは政略結婚じゃないというならそれまでだが
夜襲提案のくだりを見るに八郎は積極派。むしろ首謀者の一人と見てもおかしくない
総大将職を決定する権利のあるその八郎らが輝元を指名したんだから
八郎自身、総大将になる気がなかったか、或いは八郎大将では勝算が低かったんだろう
当時の結婚は嫁にとって実家は重要だぞ。
嫁ぎ先まで実家から録が出るのを忘れていないか?
市なんかはその良い例。
浅井が敗れた時は帰る実家があったが、賎ヶ岳では帰る実家が無かった為にあのような結果になった。
秀吉や長政の説得だけで市は信長の元に帰ったわけではない。
当時は実家というものがかなり重要だった。
おまえら!宇喜多中納言さまの得意技を忘れてないか?
大阪城で挙兵→宇喜多軍、大阪城より関東に奇襲上陸
徳川軍兵士「な、なんだあれ!」
秀家「大阪城より お よ い で 参 っ た ! !」
で江戸陥落
>>244 単純にお市は秀吉が死ぬほど嫌いだっただけなのでは。
あの時点で投降しても実家なしとはいえ、信長の実の妹だから
食い扶持に困ることは無いとおもう。
むしろ秀吉にとって彼女は雲の上の存在だったから
なんとか手に入れたかったのだと思う。
さすがに草履取りあがりに二度も嫁ぎ先を滅ぼされては
普通食い扶持を世話になる気は起きないと思うが
宇喜多直家がもうちょっと長生きして自分の暗殺スキルを秀家に受け継がせればよかったんだ
そうすれば秀吉も家康も邪魔者はみんな死んで宇喜多幕府が・・
何百人殺す気だw
秀吉「な・・何奴・・・・。」
覆面と海水パンツの男「 殺 し に 参 っ た!」
こえええ
だがいったい何年の出来事なんだよ
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 09:00:00 ID:qm+9ksVZ
大河の秀家って、すげえ信長っぽくないか?
水も滴る良い男
宇喜多六平太秀家
もし秀家が直家の暗殺スキルを受け継いでいたら
1590年、宇喜多秀家は僅か17歳で豊臣5大老になる その1年後秀長死亡
1597年、5大老最強の小早川隆景が死亡
1598年、秀吉死亡
1599年、利家死亡
――ここまで史実通り――
1599年 石田三成武断派に襲撃されて死亡(しかし、襲った武将たちは誰も自分は殺してないと主張)
1600年 ――なのに景勝挙兵、勿論景勝死亡
1600年 しかも毛利小早川ら若い連中が挙兵、圧倒的有利だったにも関わらず本隊到着せず家康死亡
1601年 小早川秀秋、自分が関白となって天下統一すると言い出しその結果殺される
1601年 ついでに島津も領土召し上げ
1601年 伊達政宗、海外と国交を図ったとして領土召し上げ、その後死亡
1601年 前田利長死亡
1602年 黒田如水死亡
1603年 佐竹義宣死亡
1604年 加藤清正死亡
1605年 福島正則死亡
1607年 加藤嘉明死亡
1613年 浅野幸長死亡
1614年 宇喜多秀家の娘(?)秀頼に嫁ぐ
1615年 淀君死亡
1617年 秀頼と秀家の娘の間に男子生まれる この時点で秀家の領土300万石に及ぶ
1621年 秀頼死亡、自動的に宇喜多幕府誕生
妻の実家を滅ぼすとはさすが宇喜多
258 :
縦一列マニア :2006/11/11(土) 22:11:47 ID:l3jRNx7P
総大将 毛利輝元
副将 上杉景勝
同 宇喜多秀家
同 前田利長
総参謀 石田三成
少将 真田昌幸
同 小早川秀秋
にしていたら西軍勝利でそのあとは、
輝元 関白 豊臣家の代理主君
景勝 右府 総大老
秀家 内府 大老
利長 内府 大老
三成 大納言 大老
秀秋 左府 大老
織田信秀 左府 大老
織田信雄 左府 大老
259 :
縦一列マニア :2006/11/11(土) 22:12:24 ID:l3jRNx7P
総大将 毛利輝元
副将 上杉景勝
同 宇喜多秀家
同 前田利長
総参謀 石田三成
少将 真田昌幸
同 小早川秀秋
にしていたら西軍勝利でそのあとは、
輝元 関白 豊臣家の代理主君
景勝 右府 総大老
秀家 内府 大老
利長 内府 大老
三成 大納言 大老
秀秋 左府 大老
織田信秀 左府 大老
織田信雄 左府 大老
260 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 23:07:52 ID:a02PfLAD
加賀征伐のときに宇喜多と前田の連携ができていればなあ
宇喜多17000と前田33000で合計50000
これだけでも十分家康と戦える数字なのになあ
261 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/12(日) 00:32:11 ID:/+jLWno+
>>258 何で左大臣と内大臣が複数いるんだ?
ちなみに左大臣>右大臣なのに何で逆なんだ?
自分で種まいた宇喜多騒動で、人様に口出しできる状態じゃございません。
しかも大谷では収拾できず結局家康にお願いして収拾して貰ったような有様で。
八郎様がもちっと大名の実力が有れば変わったかも知れませんが
そんな八郎様なら真っ先に豊臣から徳川に鞍替えしかねない訳で。
>>262 家康にお願いして収集してもらったんじゃなくて、
勝手に家康が介入して困ってた秀家も容認しただけ。
>>243 夜襲の話しは嘘くさいんだが。
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/12(日) 10:06:01 ID:qYxzSRas
>>85 五奉行筆頭は浅野長政
ついでにいうと三成は増田よりも格下
265 :
名無しさん:2006/11/18(土) 05:47:45 ID:0aMqTPLx
宇喜田は石高の割には兵力が多いような
根こそぎ連れて行ったのかね
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 06:04:17 ID:Mr6i6l3I
そう。隣が毛利だから戦地に赴いている間にりょうこくを犯される心配がなかったので、
関が原に兵を割けた。
島津は加藤家がいたため兵を割けなかった。
毛利は大国だからある程度は。
三成は全兵力投入。
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 06:09:29 ID:Mr6i6l3I
あれ?ここのレス。。。関が原の西軍大将は宇喜多秀家だよ。??
石田三成ではないけど?勘違いしている?
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/20(月) 02:27:26 ID:xtjw8kJg
正確には佐和山に残す為に、代わりに秀頼から兵を借りていった。
秀家と福島・加藤の関係ってどうだったんだろ
場合によっては両軍顔触れがかなり違ってくるが
>>270 多分加藤や福島に嫌われてるだろう
「若輩の癖に殿下に気に入れられやがって憎いやつ」と思ってたに違いない
272 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 22:29:46 ID:CVxDWKvK
あげ
273 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 04:05:27 ID:Rg+FvY7x
竹中半兵衛が生きてて西軍についていれば西軍が勝った。
274 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 04:18:28 ID:LlcZWJqB
だれが総大将になっても
結局家康が勝つんじゃないかな
275 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 04:48:21 ID:uT3G/cQC
秀頼が総大将なら戦自体起こってないから秀頼を担ぎ出してればよかったんじゃない。
276 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 18:40:17 ID:Usghkx83
よくよく考えれば秀忠の軍も
温存(上田城)してたんだから
毛利本隊も温存でよかったんじゃないか
277 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 20:05:01 ID:okEQHKiM
関白豊臣秀次様が生きていて西軍の総大将ならば勝てそうだ、いくら小早川秀秋でも豊臣秀次様には弓はひけまい、秀吉様のたわけ秀次様を殺すからこうなるんだ。
278 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 20:21:50 ID:2aFbhkeP
改行しないやつの99%は携帯厨
279 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 23:52:02 ID:X11ggyzN
豊臣秀長
蒲生氏郷
前田利家
豊臣秀次
小早川隆景
このうち誰か一人でも生きて西軍に入っていれば家康の独断場は無い。
利家が安寧を願う余り、家康との対決を回避したのが結局豊家の仇になった
280 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 00:44:02 ID:pMI2n7tc
というか、実際の関ヶ原も総大将は宇喜多秀家だったという説が最近はけっこう強く唱えられてるんじゃなかったけ?
281 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 03:27:50 ID:U8QIianl
家康はデスノート持ってたんだろ。
バレないように少しずつ使ってたみたいだが。
282 :
人間七七四年:2007/02/22(木) 18:01:05 ID:SW8PZxBN
宇喜多直家は使いすぎが祟って早死にしたのか。
283 :
名無し:2007/03/04(日) 05:33:22 ID:x6QvPeO9
西軍は関が原で負けて壊滅したけど東軍はもし負けていても
秀忠軍が残っていた
家康に落ち延びられたら敗残兵にも合流されてもう1回は
大いくさをしないとかてなかったからな
284 :
人間七七四年:2007/03/04(日) 08:40:57 ID:LVU3eyTN
西軍は大坂城に兵力温存してんじゃないの
285 :
人間七七四年:2007/03/04(日) 10:29:38 ID:ST8nyBhP
温存というか、勝ち馬には乗ってくるだろう兵力、だな。
286 :
人間七七四年:2007/03/04(日) 10:41:42 ID:LVU3eyTN
つまり西軍勝利、輝元慌てて出兵、秀頼も慌てる
家康の求心力が少し落ちる、上杉が最上と伊達を
潰して南下、佐竹始動秀康謀叛、第二次関ヶ原
再び西軍勝利→宇喜多幕府成立、首都は岡山てことでつね
287 :
人間七七四年:2007/03/04(日) 12:09:58 ID:A0ndiNtv
>>281 服部半蔵との交換日記を 今ではデスノートと呼ぶのか
初めて知った
宇喜多が総大将だったら 豪姫の両親が積極的に参加しただろうな
288 :
人間七七四年:2007/03/04(日) 13:07:04 ID:4PSstL7y
関ヶ原で東軍が崩壊したら徳川は八方塞がりだろ
東軍も西国大名が多いし家康や秀忠が関東に逃げ帰ったところで
もはや徳川家中の兵力しか期待できない
第二の小田原征伐状態になるのがオチ
289 :
人間七七四年:2007/03/04(日) 16:15:08 ID:S8ZRceUA
関ヶ原方面の大将は秀家ということにされていたはず。
290 :
人間七七四年:2007/03/04(日) 21:13:32 ID:JFzk5DdF
あの布陣を見れば大将が秀家ってのは分かるだろう?
家康は北端に陣取る三成が本隊とばかり思って、徳川本軍繰り出したものの
戦況に目立った変化は無し
291 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 18:06:42 ID:gQ5OBWCw
>>283 西軍にも大津攻め・田辺攻めの軍も大阪城の毛利勢がいた。
秀忠は江戸に帰れるだろうけど、家康がもう一戦できるかは負け方による。
あの布陣での負けは、まさしく袋のねずみ状態。
292 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 14:39:26 ID:1Qs1EojY
そうなんだよ。
やるき満々実力は天下有数だったらしい立花をわけ分からないところに行かせてないで何故この決戦に用いないんだよ。
音に聞こえた島津軍にもそっぽ向かれてるし。
三成、お前って奴は青すぎるぜ。
293 :
人間七七四五年:2007/03/26(月) 08:30:50 ID:8T6UFioS
西軍の総大将はやはり、宇喜多か毛利秀元
西軍/東軍
総大将…毛利輝元/徳川家康
現地指揮官…宇喜多秀家/徳川家康
立案者…石田三成/徳川家康
再優秀指揮…真田昌幸/徳川家康
295 :
人間七七四年:2007/03/30(金) 02:21:34 ID:S9zLzTLp
家康の指揮って何?w
わずか1500だかの逃げる島津を直参に追わせて伊井を死なせた奴?w
296 :
人間七七四年:2007/04/10(火) 20:25:02 ID:6WoSwi1t
伊井
297 :
人間七七四年:2007/04/10(火) 20:33:30 ID:GzaoqmJI
伊井っていいよね
298 :
人間七七四年:2007/04/12(木) 11:35:07 ID:nDEXoab1
(・∀・)伊井!
299 :
人間七七四年:2007/04/12(木) 14:43:44 ID:fMONBU/F
伊井の赤備えサイキョ
300 :
人間七七四年:2007/04/12(木) 17:03:35 ID:jAGMXw+r
自分でなおすけん
301 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 17:01:47 ID:C9FVZ7i2
302 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 07:46:41 ID:OeoSTuNR
いくら総大将が宇喜多秀家であっても家康とは互角に渡れない。
秀家も五大老の一人だが若過ぎた。百戦錬磨の家康の足元にも及ばない。
関ヶ原では宇喜多勢(西軍では小早川と並ぶ主力戦力1万7千を擁した)が
最初に東軍の福島(正則)軍と激突。散々に破って黒田(長政)軍も撃破
するも小早川の裏切りにより、側面から攻撃をうけた宇喜多軍は総崩れと
なる。小早川・脇坂・朽木などの裏切りがなければ間違いなく西軍が勝って
いたであろう。この戦闘で特筆すべきは宇喜多家家老の明石全登の見事な
までの采配ぶりだ。
303 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 08:16:24 ID:zTSe4V6k
浮田の備前宰相ごときが総大将なんかになったら、小早川中納言がだまっちゃいないぜ!
お互い中が悪く、両家の家臣の諍いから(毛利家時代からの怨恨)真っ先に殺し合いだよ。
304 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 11:23:51 ID:8OfdjpXp
小早川秀秋は愚将ではなく、家康からの誘いではなく、ましてや
鉄砲を撃たれたからではなく(実際には山上の布陣であの時点で
家康隊からの銃撃はほとんど意味がなかったと思われる。)
宇喜田の突出が万が一勝利に繋がった際の豊家における立場の向上を
嫌って自ら積極的に宇喜田を叩く為に出陣したという話もあるね。
305 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 20:09:21 ID:X/R3Bv/c
大谷が予備500使って、小早川を当初撃退したように
(大谷にとって痛かったのは小早川でなく、想定外な脇坂らの裏切り)
宇喜多3000程を予備に割いて旗色不明組への備えにしていれば何とかなったかもな
306 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 00:04:09 ID:z7C3F+vW
家康が、鉄砲撃ってきたら東軍が攻めてきたと思うんじゃない。普通。
307 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 01:59:31 ID:HliOsM/o
鉄砲の時に、怒った金吾が徳川に突撃していたら
家康と小早川の評価は逆転しないまでも
小早川を侮った家康として
今みたいに天と地の差にはならなかったろうに・・・
308 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 01:59:59 ID:4JM9FQ2k
309 :
人間七七四年:2007/06/24(日) 02:21:26 ID:IMLwBDFc
「秀家が八丈島から泳いで大阪の陣に至った」というネタを某所で見てこの板に来たんだが、
これって実際にそういう民間伝承や講談があったりするの?
それとも2ch発祥なのかな。
310 :
人間七七四年:2007/06/24(日) 02:45:31 ID:+N3f+96p
311 :
人間七七四年:2007/06/24(日) 03:13:02 ID:IMLwBDFc
312 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 09:46:27 ID:4vlEhDOJ
>>310 言うなよ。
>>309が将来歴史小説家になったら、出所不明の民間伝承として「泳いで参った」を書いてくれるかもしれなかったのに。
313 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 10:34:26 ID:5gadLzXb
314 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 10:54:42 ID:NL5jtcF1
もうネット中に噂が広がってるのか
315 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 13:28:54 ID:rxxcuX9P
足利義昭が生きてたら西軍の総大将にならないかな。
316 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 13:43:42 ID:vUbz3N0N
317 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 13:56:34 ID:vUbz3N0N
>>78 毛利秀元だ。
輝元は馬鹿すぎるから隠居させるべきだった。
318 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 14:01:14 ID:vUbz3N0N
>>107 それ以前にそれほど輝元が切れたなら隆景・元春と豊臣軍に降伏せず逆に
豊臣をうちとるはず。
319 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 23:40:38 ID:NL5jtcF1
同盟破って織田領を侵略した徳川の図々しさが毛利に必要だったな。
織田閥が羽柴滝川柴田明智に空中分解したあの時こそ好機だったのが…
320 :
人間七七四年:2007/07/25(水) 18:52:25 ID:LU2QZmTu
>>319 小早川隆景があえて攻めない決断し、その決断を隆景自身が
毛利存続の最高の判断をしたと常に誇りに思ってたんだから大名家として
そのくらいの器なんだよ。
321 :
隆景:2007/07/26(木) 08:57:06 ID:iRpPgjwD
>>320 大名家としての潜在能力は覇王クラスだが。
逆に輝元が庶民以下では私の苦労だけでは支えきれん。
せめて隠居して秀元と交代してくれれば大大名で維持できるのだが。
322 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 02:47:32 ID:s8jFKwlY
秀元を過大評価しすぎ
当時は総合的に
輝元>秀元
たとえ輝元が隠居して秀元が継いでもそれは利家のいない前田家みたいなものだよ
323 :
人間七七四年:2007/08/01(水) 08:58:37 ID:LWcvSHcy
戦と毛利内での人望なら秀元
政治手腕も含めれば輝元
324 :
人間七七四年:2007/08/05(日) 18:00:40 ID:hpd/rFH1
やる気が全然違うと思うけどな。
325 :
人間七七四年:2007/08/06(月) 09:26:46 ID:yRlWmeEC
自ら天下を得られるポジションにいる訳でもなく、
当主や重臣が日和見気味で覇気やメンタリティが全く無い毛利家に過剰な期待を掛けすぎだ。
326 :
人間七七四年:2007/08/06(月) 09:40:53 ID:qGyk3xDf
つーか、「関ヶ原合戦」に限れば、総大将は秀家だっただろ。
327 :
人間七七四年:2007/08/06(月) 11:19:37 ID:kifAEQb3
秀元じゃ若すぎる。嫡子のままならともかく
328 :
人間七七四年:
大坂に生還した三成が
輝元より戦意高い秀元に大将任せて、再起する小説があったな