【蝙蝠】 長宗我部家総合 【四国】

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217人間七七四年
これは受け売りなので深く突っ込まないように


長宗我部元親は一条兼定を追放して幡多郡などを接収したとあるが、朝倉慶景氏の論文「天正時代初期の土佐一条家」によると、
この追放劇も京一条家の一条内基と交渉し、土佐一条家重臣の承認を得て行っている
この中で、元親は中村城代と認められた(城主ではなく、あくまで城代)が、権限がかなり限られており、
有岡真静寺の寺領没収を行おうとした際、同寺の本山である妙顕寺が元親正室実家の石谷氏・その縁戚の稲葉氏らに働きかけ、
撤回の圧力をかけてるのが所蔵文書にあるらしい
元親はその勧告を受け入れ、同じく中村城代の桑名蔵人に命じて寺領を返還してるらしい

これは幡多郡などの一条家所領はあくまで一条家のものであり、長宗我部氏に仕置きの権限がないという認識が、
中央にあったのを示してるものということ

兼追放後に内政が跡を継いで御所体制を成立させる、国内統制はこれで良かったのだが、
国外、とくに朝廷や織田氏などの中央へは逆に悪影響を及ぼす

信長公記にもあるが「土佐国補佐せしめ候長宗我部土佐守 惟任日向守執奏にて・・・」と、一条家陪臣という認識が広まったのである
しかしこの体制も波川玄蕃の謀反により、内政を伊予へ放逐(逃亡?)してしまう事により崩壊
これでは国内統制にも支障をきたし、中央を牛耳る政権へ口実を与えてしまう懸念がある為(信長の四国征伐も、
これが要因の一つだと考えられてる)、子の政親(この名前は定かではない)を久礼田土居に入れ御所体制を復活させる

『多聞院日記』
「土佐大将ハ長曾我部ト云人也 チヤウスカメト云ト思ヒシ面白キ名字也 土佐ノ一条殿ノ内一段武者也ト云々」 (天正13年6月21日条)

『四国御発向並北国御動座事』
「抑四国守護長曽我部宮内少輔元親 根本一條家大納言家侍 而無知其名者 近年元親長成 才知強勇・・・」

そして『お湯殿の上日記』にある
「とさの一てう殿しょ大夫しゆ四い せっつのかみ申 なかの御かと なかはしゝて申さるゝ ちよつきよあり・・・」(天正14年12月22日条)
と諸大夫成の勅許を得ている

これは戸次川合戦直後である事から、一条家陪臣という扱いから敗戦の責任は問わず、御所体制の継続を秀吉が認めた
(秀吉が継続させた?)と考えられてるらしい
これは朝廷権威を利用したい秀吉の意向と、朝廷との、京一条家との妥協の結果という考え
いくら仙石秀久の失態とはいえ、同じ立場の十河氏に比べ処罰がなさ過ぎるのがおかしいとの事

これと付随すると自分が思ってるのが、九州征伐中に秀吉から出された大隈一国を与えるという書状
元親は辞退しているが、これは元親を一条家から独立させる為ではなかったのだろうか?
そう考えると面白いかな