▲▲  応仁・文明の乱  ▲▲

このエントリーをはてなブックマークに追加
179人間七七四年:2011/11/20(日) 15:18:59.63 ID:HM0XAixz
★結論★
将軍権力強化を狙った義教の後始末が上手くできず、大名や側近の追放と宥免を繰り返した足利義政の無定見が混乱に拍車をかけた。
180人間七七四年:2011/11/20(日) 16:27:27.44 ID:8gElYX7q
守護の対立というか政治指導者層の対立はきっかけに過ぎず、すべての元凶はこの時代の天候不順による社会不安。
飢饉で難民が流入しまくり、扇動も多いが徳政一揆おきまくり、御霊林の衝突以前から放火や乱暴狼藉も起きているから、
この乱は歴史の必然といえる。

両軍の足軽たちにしてみたら山名や細川が戦争をやめたがろうが関係ないわな。
181人間七七四年:2011/11/20(日) 17:06:19.47 ID:MjIrz/rh
義尚や富子は乱に関与してなかったから結果的に将軍になれたとも考えられるな。
もし西軍に関与してたら東軍側は将軍就任なんか認めないだろうし。
義視は東軍に関与しすぎて乱の原因を作ったから後嗣から外されたと考えるのが自然か。
182人間七七四年:2011/11/20(日) 17:20:17.12 ID:sP0MthLU
>>179
いや、義教時代のような将軍専制の政治手法自体は、
義政時代初期にも続けられてはいたよ。
義政が幼少だった最初期は別として。

ただ、義教時代と違って、側近(特に伊勢貞親など)の政治関与が大きかったが。

義教時代と比べて諸大名の力を押さえきれなかったから、
諸大名の要求を受け入れざるを得なくなることが多かったせいで、
無定見な赦免が乱発されたように見えるわけ。

義政自身がひいきする大名はコロコロと入れ替わったわけではないよ。

あくまでも、大名官の派閥抗争を制御しきれなかったこと、政治力(根回し?)の不足が原因だと思う。
183人間七七四年:2011/11/23(水) 10:05:57.44 ID:A+6KPWAM
>政治力(根回し?)の不足が原因だと思う

根回ししても大名の方が言う事聞かなかったんだろうな、
特に山名宗全。

細川勝元は、義政の言う事を良く聞いていた方だと思うよ。

ただ日野富子の兄の日野勝光と勝元は、対立していたらしいな。
勝光の急死も勝元の暗殺って事は無いの?
184人間七七四年:2011/11/24(木) 10:55:47.27 ID:sZFpeQtt
草刈正雄の勝光は自邸で暴れて死亡しました。
185人間七七四年:2011/11/24(木) 13:01:47.78 ID:1Uj9VVGH
>>180
センゴクの作者並にブッ飛んだ結論への持って行き方だな
186人間七七四年:2011/11/24(木) 19:40:39.22 ID:0CLIrCYe
伊勢貞親と伊勢長氏 似たような名字だな
187人間七七四年:2011/11/25(金) 02:26:10.36 ID:PmwlmwGs
age
188人間七七四年:2011/11/25(金) 02:28:05.90 ID:poBvUCxZ
>>186
親戚だろ
189人間七七四年:2012/01/07(土) 02:38:31.56 ID:RJ1D2wPy
いわゆる
魔王クーデターにおいて、すでに関西方面情勢は政治的に不安定であった。
というより歴史上古く2世紀程度からずっと不安定状態であり。

カルト、テロ集団。武装集団。独立組織など、
以上な分裂、テロ、破壊集団を含み、きわめて危険な状況であった。

他の地域はここまで勢力が分断もしなければ、条約機構的な枠組み、取り組みの中にあったし
そもそもファミリー的集団であったのでたいし、関西は支離滅裂な危険な状態だった。

そして足利他政権関係が、箱根で新田たおしたまではよかったが、その後、南朝討伐しないから、
関西情勢が不安定だった。そして勢力支離滅裂で不安定すぎて、常に戦争がおこる状態で危険だった。
そして危険な状態からいっきに戦争がおこり、いきなり幕府がこわれた。しかも足利は政治基盤をもってない地方政権とか言う立場
だったので、いきなり壊れた。

それだけ、結局一揆、延暦征伐で周辺勢力つぶさない限り、一向に安定しなかっただろ。
一部勢力除いて周辺が反映しなかったのが、急に金持ちになったのは、
信長、秀吉が周辺安定して、金売ったからなんだよね。それだけ。

つまり情勢不安定状態で具体対策しない足利が悪い。足利が平定しないせいでおきた戦争。
それだけ。
190人間七七四年:2012/01/07(土) 02:43:28.11 ID:RJ1D2wPy
つまり個人的な集団、行為要素よりも

特別、全国一不安定な関西情勢と足利当地失敗がおこした。

そもそも足利地方とももめてて
東北→独自勢力
関東→独立勢力←あれだけ戦争やったのに、独自じゃないとかぬかすなよ。
中部→微妙。足利お膝元でマシ。
関西←最悪、支離滅裂なテロ状態で一番悪い。
四国←微妙。すぐる。関西情勢悪化が原因。
九州←何気に安定、チョン、シナ海賊で情勢悪化ながら独自外交で見事に安定。

とあって支離滅裂状態。そこで中部にしか足場がない中部政権で足利幕府だめ。だった。
そもそも足利勢力、政権が意味不明。

元々クーデターやったやつが、
天皇は魔王だ、だから殺せはないだろう。
191人間七七四年:2012/04/23(月) 00:54:01.94 ID:SoWk58MM
軍事板の関連スレ
[武士・騎士] 古代・中世 軍事総合02[弓・刀・馬・船・城]
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1334948359/
192人間七七四年:2012/06/19(火) 20:31:39.68 ID:P4fxk/EB
これわかったわ。


1 なぜ戦国の始まりがわからないの?

っていうのが大きいけど、それはストレートに
ほげん ヘイゲン へいけ 合議制 承久 御成敗式目成立 
までの動きを知ってるか。
13世紀とはどういう時代か 南北紛争を紛争対処自体として知ってるか。
どうやって南北紛争は終結したか
15世紀はどういう時代か、事実上の分国政府としってるか。
幕府という行政機構がなかったのを知ってるか。
足利はただの1武家だったのをしってるか。 

最大諸侯は誰か知ってるか。千葉である。領土、石高最大
193人間七七四年:2012/06/19(火) 20:35:00.39 ID:P4fxk/EB
千葉一族 500年の武士本家の崩壊

畠山、大内、足利、北条

の氾濫分裂

これが戦国の引き金になった。これしってるかにある、。
ようは
1300年 幕府
1400年 騒乱 無幕府時代
1500年 無幕府時代  畑山、大内、足利、今川騒乱  千葉の崩壊

ようは無幕府分裂国状態で最大諸侯の崩壊と、あとは氾濫の発生で戦争がおきた。
それが理由。

なんせほぼ間違いなく、当時最大諸侯は千葉だぞ。
大内なんかは畑なかった。

畑山は本家つぶれて、小さかった。
足利なんかそもそも領土がなかった。 千葉が最大の戦力だよ。石高普通に50万はこえてた。
上位の行政、幕府
そして上の組織がない並列状態
194人間七七四年:2012/06/19(火) 20:37:08.88 ID:P4fxk/EB
つまり応仁そのものじゃなく、

それ以前の周辺状況。
勢力の乱立。
4アホの氾濫

これが理由。まぁむしろ
幕府をつぶして、幕府をつくらないアホ。
天皇をつぶすため、こんじょう天皇という無茶

幕府をつぶして、無税、無行政なのに、なぜか介入という意味フ
何気にしかも足利ちいさいとかいう意味フ
という最悪状態だった。そりゃ戦争なるわ。

どうして?の前に、時事をしってるかである。ありゃせんそうになるわ。
ある意味1400年からの200年騒乱。
ないしもう1300年からの300年騒乱というな。それが正しい認識。
195人間七七四年:2012/06/19(火) 20:39:57.71 ID:P4fxk/EB
ようは政治と勢力をしってるか。
それまでの積み立てはしってるか。


そもそも足利は
幕府に氾濫する。
天皇を真っ先につぶしにいく→それは武士政権ファンダメンタル上正常

このときかなりいい加減な指揮。
北条の馬鹿がうらぎる。
めちゃくちゃ状態で ついに制裁で足利が一時天皇になるというGDGD

ほかにもくそあるんだけどな。そして弱いくせに、ある意味本流幕府
ないし唯一幕府 の後鎌倉に介入
しかも弱い、行政内、権限内。無税なのに介入

もうあれは実質足利も単独氾濫してるのも同じ。
でしかも大内、はたやまが暴れる。

でそうこうするうちについに後幕府が倒れ実質戦争だ。
最大の理由は千葉の崩壊

196人間七七四年:2012/06/19(火) 20:43:40.05 ID:P4fxk/EB
いわゆる完全に

足利って府じゃないよ。

うやむやで意味フ。

天皇 明 半島 北条が最低やったよ。


実質足利収集できないよ。

唯一幕府に介入
戦争。と。そもそもな逃げに実質武士の本棟梁は千葉だったろ。実質
後幕府の建て直し。西方で、事実上守護となり、対馬支援
などやって、実質もうあれこそ将軍だったんだが。

で足利なんかほんと最低だからな。実質どれだけ石高あったんだよ。

197人間七七四年:2012/06/19(火) 20:53:00.62 ID:P4fxk/EB
いわゆる完全に

足利って府じゃないよ。

うやむやで意味フ。

天皇 明 半島 北条が最低やったよ。


実質足利収集できないよ。

唯一幕府に介入
戦争。と。そもそもな逃げに実質武士の本棟梁は千葉だったろ。実質
後幕府の建て直し。西方で、事実上守護となり、対馬支援
などやって、実質もうあれこそ将軍だったんだが。

で足利なんかほんと最低だからな。実質どれだけこくだかがあったか知らん。

198人間七七四年:2012/06/19(火) 20:58:17.21 ID:P4fxk/EB
こういえばいいかな。
鎌倉幕府後も鎌倉幕府は 後鎌倉幕府として準存在していた。

なんせ事実鎌倉幕府の立役者にして、最大御家人、最大諸侯。武士本家の
千葉氏が支えていたため、幕府は後幕府として成立した。

一方足利は幕府を壊した張本人で、天皇 処罰
対明圧力はやったが、それ以外は、仕事と職能、権限すらなく、何もせず。

領土、行政役所、その他あらゆるものをもってなく1家であった。そして自分でぶーたれるが、実質あれが行政権限がなかった。
この状態でわ、幕府は軍 足利はただの官公庁の立場である。

そして幕府は千葉、英雄にして武士宗などが自主的切り盛りしていた。
なんせ宋は王を名乗ったくらいである。

それなのに、足利がマジ何もせず、やくたたづ、氾濫おこし、幕府を崩壊させ
最大諸侯の千葉が倒れ、戦国の前線状態となり。
馬鹿の畑山。大内、延暦寺、足利、あと北条が氾濫おこして、戦国がはじまった。

そして徳川が最終的に、坂東に戻り、見事農民にやつした、千葉 や武士を厚遇し、
幕府を再建し、とりまとめた。

これが歴史であろう。

199人間七七四年:2012/06/23(土) 08:24:07.85 ID:6HtTLQ3l
お大事にな
200人間七七四年:2012/07/03(火) 15:51:19.20 ID:pp4SIRkv
いや、応仁がすごいんじゃない。

そして応仁がきっかけでもない。

そして16世紀が戦国じゃない。

むしろ中千代 武蔵野合戦が終わって。それ以降畠山が分裂したり、足利独裁が始まったのが
戦国のはじまり、そして15世紀こそ戦国だ。
201人間七七四年:2012/07/03(火) 15:52:58.53 ID:pp4SIRkv
いわゆるあきらかに
室町はもはや幕府として機能してない。
行政機構がない(関東府に劣る)
徴税制度がまともにない(関東以下)
そもそも各種武家の中で最高権力は足利じゃない。たぶん千葉が間違いなく最強。

そして中千代おわってからは、あきらかに、
足利の新政事大であって、政治上は退化した独裁制度である。ぶっちゃけ大変
清盛新政ににてる独裁制度
202人間七七四年:2012/07/03(火) 16:04:26.11 ID:pp4SIRkv
そして独裁新政で法律が機能しないから、私利的叛乱がおこり、

鎌倉では、
承久戦争
元寇

と戦争は3〜4回しかおこらず、それ以外は派兵数千の乱しかおきない。
しかも大半は対外戦争である。

しかし、室町は15年ごとに大規模叛乱 30年ごとに戦争
がおこるまともじゃない体制だった。
203人間七七四年:2012/07/03(火) 16:10:45.90 ID:pp4SIRkv
室町って1399年以降も氾濫オンパレードでマジでやばかったよな。

あれは最大的に派兵規模、戦争規模
その他
両軍10万の戦争 15〜30年ごと 
数万の氾濫15年以内
で発生して、複合で合計100万は軽く派兵
派兵150〜200万 従軍100万 
常時全人口の5パーセント以上は常に従軍経験者
死者合計30〜50万以上

という桁外れの状態。なお戦国は実際そこまで戦争も死者もいない。

204人間七七四年:2012/07/03(火) 17:10:01.30 ID:cENsvTv3
鎌倉幕府の紛争戦争の多さを知らない馬鹿が来てるのか。

室町幕府は鎌倉幕府よりも安定した体制だった。これは間違いない。
205人間七七四年:2012/07/04(水) 01:22:28.69 ID:4KKxQa/s
>>204
ID:pp4SIRkv
この子は関西より関東の方が上だと言いたいんだろう。
206人間七七四年:2012/07/04(水) 21:58:21.89 ID:drwGegEr
>>204

超絶馬鹿。鎌倉幕府は承久除けば、

反乱はあっても、派兵規模は少なく、小規模の事実上の個人反乱しか起きてないんだよ。
あくまで両軍1万くらいの小規模小競り合いしかなく、

しかも原因もいわゆる意見対立の1家の反乱的な小規模のもので理由もわかり即鎮圧した。
また反乱側もとりつぶされることがなかった。

でも足利最悪
あれはもう理由もよくわからず、結果評価も難しいが、両軍10万の大規模戦力が終結するような事実上の戦争ないし紛争自体(乱でわない)
が5〜10回きてるんだ
207人間七七四年:2012/07/04(水) 22:15:27.07 ID:drwGegEr
たとえば有名で、たぶん承久を除けば、鎌倉時代最大級の反乱の

宝持合戦でも両軍あわせて数千以下の兵力しかない。
そして最後自刃した陣営の損害がたった500しかないんだぞ。

あの最大規模の反乱でもとても合戦、紛争とは呼べず、乱程度の規模しかない。

そして理由も収集もついてる。つまり乱の解決率は高い。

ところが足利で普通規模でこれより多い紛争は合計10個はあった
上杉禅秀の乱 なんかは最悪。そもそもあれは乱なんかじゃない。
仮に前後の各種反乱を含めれば戦乱

上杉禅秀 単体でも完全に紛争レベルだろ。
・参加所兵力が宝持の10倍規模以上 しょしょうも多く確実
・紛争期間もいように 長い 宝持合戦が実質戦いは1週間レベルで終わったのに対して上杉だけで軽く3ヶ月。
 そして関連で合計で1年前後はかかってる。
・収集解決もうやむやで非常に長く、最悪 総兵力数万規模以上。

そしてこれが比較小さな、紛争、戦争だからね。あれ以上のが合計5〜10個多すぎてわからないんだよ。
208人間七七四年:2012/07/04(水) 22:23:58.41 ID:drwGegEr
そして
鎌倉時代は、実質成立あとは乱が10〜20回 そう規模合計5万以下 死者も数千
内戦が1回 派兵合計10万以下 死者は非常にすくなく短期終了
外戦争が合計2〜3回 総派兵は味方40万 敵20万 死者味方の虐殺死者含め1〜2万(敵10万以上)

足利最悪あの武蔵野合戦を最後、別に含めても、以後、ほぼ恒常的に紛争、内乱がおきる。ないし対外戦争

そして鎌倉はほぼ全部が乱であり、合戦などとぬかしても所詮全部が乱の規模。あきらかかな一部反乱だ。(承久は内戦)
しかし足利は あきらかに乱なんてなくてほぼどれも紛争だろ。そして紛争の総合は兵規模、戦力は鎌倉の対外戦争服務全戦争のほぼ
5倍の派兵規模、損害は10倍。 日本で最大に内戦がおきまくった時代で、しかも死者多く、収集もなし。

そしてつまり風物、時代、文化、社会の発展、出来事が鎌倉、ないし戦国ならでてくるのに、
足利親政14〜15世紀はろくな時事がない。そして毎回、毎回調べれば、紛争しかなく、当時の社会時事も一般、通説として多くは暗におもいださない。
そしてはっきりいって、日本最大の紛争、内乱の時代で、しかも紛争、戦争といえば、大東亜戦争以後も一部の地域では、この15世紀戦乱をさしてしまう。
それくらい
209人間七七四年:2012/07/04(水) 23:03:35.12 ID:drwGegEr
たとえば
戦国時代は1年に2回紛争がおきる。でもあれほとんどは実質合戦でケース倍ケースだが
総数に対して大半は数千同士の合戦

ところが足利は実質 10年ごとに10万あつめてるだけで、すでに破壊規模その他各種は
実はもう15世紀から同じなんだよ。

単に戦国前期は分裂戦争してるだけ。それだけの違い
210人間七七四年:2012/07/06(金) 05:49:17.66 ID:xX2le2Vu
物凄く日本語が不自由なのは分かった
211人間七七四年:2012/07/06(金) 23:03:51.23 ID:55l3+Ulf
翻訳ソフトでも使ってるのか?
しかしそれでは、誤変換が説明できないな
改行と助詞の使い方も酷い
212人間七七四年:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:Tph6QKa+
>>123-126>>165-166

播磨の赤松家返還問題は、細川京兆家が言っていた訳ではないぞ。

どちらかと言うと、細川庶流の阿波守護家が騒いでいた。細川持常と、
その養子の成之が騒いでいた件だ。勝元は、ノータッチと言うか、山名宗全
の味方をしてた。そもそも細川本宗家と山名本宗家は、そんなに仲が悪くない。

てか細川京兆家と山名本家は、畠山家に対抗する為に姻戚関係を結んでいた。
さらに養子ももらっていた。だから、ケンカしたくなかったので、赤松家に
播磨返還するよりも、山名宗全との同盟を選択し、同族である阿波守護家の
主張には同調しなかった。

1448年と54年に赤松家への播磨返還問題が、浮上したが、その時の勝元は、
宗全を守る為に足利義政に嘆願や仲介を繰り返して、なんとかやり過ごしている。

特に1454年の赤松家への返還問題は、宗全の反発で幕政上の大問題になり、この時
は、義政が怒って山名宗全討伐を諸大名に命じた。そして、宗全討伐軍の総大将に
阿波守護家の細川成之が任じられている。

しかし、細川本宗家の勝元のロビー活動で、宗全討伐は中止となり、その代わりに
宗全が隠居して分国に蟄居する事になった。この事では、細川家内部で完全に意見
が分かれ、本家と庶家の間で対立している。

細川家同族連合体制は、応仁の乱後や明応の政変後に崩壊した、と言われているが、
既に応仁の乱前から、この様に対立しており、細川家同族連合体制の芽は、この時点
から既に有ったと言える。

なぜ、この様に阿波守護家が、播磨の赤松家返還に躍起になったかと言うと、一つは
足利義政の意向が有ったらしい。阿波守護家は相伴衆であり、将軍と阿波守護家の間
には接点があった。
応仁の乱初期には、足利義政は、宗全との和解を望んだが、この時点での義政は宗全
を完全に危険視し、討伐の対象にしていた。また、それに乗じて阿波守護家も赤松家
の播磨復帰を後押ししていた。

細川勝元が、宗全と完全に袂を分かつのは、大内政弘と山名宗全の同盟が出来た1466年
からで、それ以前は、宗全と勝元は、同盟を組んで畠山家と対峙していた。文正の政変
で義政側近の伊勢貞親と季瓊真蘂を追放出来たのは、宗全と勝元の同盟関係が有った為
とされる。
213人間七七四年:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:gXlePDoL
関東管領山内上杉家も鎌倉公方の再興を持ち出した越後上杉家に霹靂してたよな。
絶対に後悔することになるって。
214人間七七四年:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:FljbulIO
>>8
アレは、大砲や鉄砲と言うよりもロケットランチャーに近いものでしょう。

細川家は、大陸と貿易していたから、その手の武器が入手しやすかった。
また、一部は日本の職人に造らせていた可能性があるけどね。あと手榴弾っぽいのも使っていたかも。

洛中での戦闘で、細川の軍勢が多用し、その為に洛中がアレだけ燃えてしまったらしい。
足軽が火をつけるだけでは、洛中を燃やすほどの火災には成らないらしい。

>>213
細川や上杉は、同族連合体制を作っていたけど、鎌倉時代に比べて、総領権が弱体化している感じ。

庶流が、各地の守護家になって在地性を強めているので、
従来の総領権が、効かなくなっている。その為に宗家と庶家の間でも対立や意見の相違が出て来る。

そこに目を付けて、将軍権力の強化を目指して、
守護大名家の分断工作や鎌倉公方の弾圧に乗り出したのが足利義教であり義政。

それが、義教暗殺や文正の政変で頓挫する。

室町幕府は、北条得宗家みたいな中央集権体制じゃないからね。
だから割れやすい。鎌倉公方なんて六波羅探題の様に数年の任期で交代制にしてしまえば良かった。
215人間七七四年:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:hFacayum
てつはう ってヤツですか
216人間七七四年:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:nPuh317M
応仁の乱ではカタパルトで発射される炸裂弾が使われていた記録もある
217人間七七四年:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:FI8bOS+D
>>213
越後上杉家の房朝は、鎌倉公方が復活する事で
上杉宗家である山内上杉家や、その家宰の長尾氏を押さえ込んで欲しかったのだろう。

越後長尾家は、越後上杉家の言う事を全然聞かなかったらしいし。
218人間七七四年:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:FI8bOS+D
>>213
越後上杉家の房朝は、鎌倉公方が復活する事で
上杉宗家である山内上杉家や、その家宰や守護代家の長尾氏を押さえ込んで欲しかったのだろう。

越後長尾家は、越後上杉家の言う事を聞かなかったらしいし。
219人間七七四年:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:FI8bOS+D
>>218は、間違いです。失礼致しました。
220人間七七四年:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:fTmgDIgI
元寇の時に、西国御家人達は、
モンゴルが高麗の軍勢の飛び道具や集団戦法を始めて見て、
それを積極的に取り入れた可能性が大きい。北条得宗家も元寇後に高麗征服計画を立案していたし。

それ以来、東国の武士と西国の武士の戦法に違いが出て来た可能性ある。
西国武士は、重火器の使用とゲリラ戦に躊躇が無くなったのかも知れない。

応仁の乱では、当初は、市街地(洛中やその郊外)の大名屋敷を取ったりとられたり
の戦いだったので、重火器を用いて、大名屋敷に打ち込んだり、その隣地の家々に放火
して火災を起こしたり、と言う戦い方になってしまった。

特にてつはうの様な、ロケット弾は、命中率が悪く、どこに飛んでいくか判らない為に
一度に束にして大量に打ち込んだりしてた可能性が有る。その為に洛中の火災も酷くなった。
221人間七七四年:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN ID:2px1e+Ex
>>214
小川信の名著「足利一門守護発展史の研究」にもあるように
細川一門の分国支配の安定性はある意味室町体制の守護として理想的だった
家格がうえの斯波、畠山は細川に比べればその点遙かに脆弱で
応仁の乱以前に衰退したのも必然だった
222人間七七四年:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN ID:HJnCpLR7
なんだかな〜
223人間七七四年:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN ID:hUnyxIb3
信之の過大が酷過ぎるんだよな

そのせいで、幸隆、昌幸、幸村がものすごく被害を被ってる
224人間七七四年:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN ID:nlw2eaiU
ひどい誤爆だな
225人間七七四年:2014/08/20(水) 17:16:31.74 ID:M74jVCaK
応仁の乱の終盤頃って何が目的で戦ってたんだろうな
誰が将軍になってもどうにもならない状況なのに
226人間七七四年:2014/08/20(水) 21:11:12.65 ID:a3Tp0PIT
>>225
そんなことはない。東軍の勝利とされたため、実際に西軍の畿内における領地は全て没収され、残党の掃討も広く行われた。
227人間七七四年:2015/02/15(日) 14:38:47.34 ID:lLqOiMf1
西軍の畿内における領地は全て没収?????

義就が制圧した河内や大和は畿内ではないとでも?
228人間七七四年
>>227
義就討伐受け取るやん