1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
130年あまり続いた戦国時代の幕開けを飾る戦い「応仁の乱」。
東西両軍合わせて26万人とも言われる動員を繰り出した、想像を超える大規模なものだったこの戦いは、
当初畿内を中心にやがて全国に伝播し、その後10年に渡って日本全土を巻き込み未曾有の騒擾となった。
全国津々浦々の隷属階級がそれまでの権威や因習を打破し、自らの力で自立と利権の獲得を目指した
まさに下剋上を象徴する大乱。
日本の有史以来空前の戦「応仁の乱」をあらゆる角度から検証するスレです。
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 16:38:02 ID:gcjiumeL
◆東軍
細川勝元
足利義政
畠山政長
斯波義敏
京極持清
赤松政則
富樫政親
◆西軍
山名持豊(宗全)
足利義視
畠山義就
斯波義廉
六角高頼
大内政弘
土岐成頼
一色義直
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 16:41:18 ID:kpFmIpjB
併如戦国之時何日成思堵思哉
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 16:43:33 ID:kpFmIpjB
花の乱はなかった事になってるの?
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/25(水) 16:54:52 ID:vwSNu6z5
以前は、応仁の乱以後を「戦国時代」と称していたが、今日では明応の政変(1493年)以後を戦国時代として、それ以前には曲がりなりにも室町幕府の影響力が維持されていたと考えられている。
しかし、応仁の乱が室町幕府及び守護領国制の衰退と戦国時代へと向かう過渡期に至る大きな転換点であった事には間違いない。
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 03:34:27 ID:9FMVymK0
教科書では必ず扱われる有名な乱なのに
語ることがない
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 06:56:33 ID:Xo9SyprD
天皇及び公家衆はその時何をしていたの? 傍観?
細川陣営にあった「火槍」って仏蘭機かね〜?
>>6 じゃ話題
応仁の乱て一般に
・義視と義尚(冨子かな?)の継嗣争い
・斯波家の争い
・畠山家の争いって言われるけど
何がどう結びついたのか、そもそも最初の原因は何なんだろか?
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/17(金) 05:53:43 ID:gQmBANYz
応仁の乱って
10年かけてゲリラ戦をダラダラやってるだけで
なんかつまらない
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 13:24:49 ID:8QxarDRW
>>5 大体こんな感じか?
・明応の政変以前
基本的に室町幕府および足利将軍家の権力基盤(奉公衆など)は無傷で残っている。
・細川政元政権期
将軍家が2つに分裂。
しかしこの段階の幕府は伊勢宗瑞に足利茶々丸討伐を指令するなど、まだまだ全国への指揮命令系統は残っている。
・細川高国&大内義興政権期
西日本の武士を大量動員して上洛戦を展開した上で成立。
政権成立時に備中や遠江の守護を交代させるなど、まだまだ地方に指示を出す意志と能力を残している。
・細川高国単独政権期
だいぶ畿内政権的な傾向が強くなるも、10年以上京都周辺を平穏に維持した功績はある。
・細川晴元政権期
京都周辺で戦乱が頻発し、政権はかなり不安定。
・三好長慶&松永久秀政権期
もうダメポ。
背景を語るか、経過を語るかにもよるが
経過で一番不思議な点は、義視が東軍→西軍に移ったこと
伊勢貞親と不和だったといわれるが、
やはり義政が冨子に言い含められたのか?それとも?
この異動で細川京兆と義視親子の不和も始まるし
13 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/13(土) 01:20:46 ID:L+/lALkp
しかし、11年もよく続いたなあ。細川・山名という当事者が死亡しても
戦争継続する意味ってあったのか。
14 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 00:01:28 ID:6cEKF0f9
細川勝元、政元の親子はまさにこの応仁の乱を象徴している気がする
15 :
人間七七四年:2007/02/20(火) 00:53:46 ID:MQRD4nFC
>>13 宗全は乱の最中に後南朝の残存勢力と結託して東軍と戦い、
対する勝元は後南朝殲滅作戦を血眼になって進めた人物。
あの厄介な南北朝騒乱の要素が絡んでしまったことも
戦闘が長引いてしまった大きな要因では?
16 :
人間七七四年:2007/02/26(月) 14:19:02 ID:y+jTHkFb
西陣南帝は信雅王というの?それとも?
17 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 10:29:45 ID:hw8stCjF
18 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 10:27:42 ID:cbg5soKx
勝元と宗全は担がれた側、娘婿(養女)だし関係は比較的良かった
畠山と斯波でしょ主犯は
19 :
人間七七四年:2007/04/05(木) 12:38:05 ID:QPJKQHUJ
今の教科書では戦国時代の始期は何になっているんですか?
応仁、それとも明応?
20 :
人間七七四年:2007/04/05(木) 13:48:09 ID:sxMyBkD8
ーーーーーー永享の乱ーーーーーー
なんちゃて〜
21 :
人間七七四年:2007/04/24(火) 01:34:01 ID:pKKQb1Qb
>>18 畠山義就が応仁の乱の首謀者。
11歳から56歳で病死するまでほとんど賊軍としてあらゆる戦いに関与している。50年近く戦い続けた武将なんて日本史史上稀有な存在。
将軍後継者争いも、山名・細川の争いも、畠山義就の反乱に便乗したと言えないだろうか。
22 :
人間七七四年:2007/04/24(火) 13:30:39 ID:duz8UNvD
>>21 もとはと言えば持国の意思と、神保らの考えの対立なんだよね
義就自体は河内を押さえて一勢力を築いたけど、
後に政長流ともども、子の基家も細川政元に翻弄されちゃうんだよね
驍将義就と政長は終生相容れぬ宿敵
23 :
人間七七四年:2007/05/10(木) 14:37:58 ID:hy1tH0FZ
畠山両人に比べて
斯波義廉、義敏は地味だよね
乱後に朝倉などの台頭を許してしまうし
24 :
人間七七四年:2007/05/10(木) 21:41:01 ID:Dd3N+6RV
斯波氏は、都から領国まで遠いから守護代が台頭しやすかったんだろ。
それにしても、越前や尾張から兵や兵糧を送るのに、途中の土岐や六角、京極はどういう対応したんだろう。
25 :
人間七七四年:2007/05/11(金) 14:55:13 ID:Gh3OROO7
京極は東軍、六角は西軍、土岐も西軍だったね確か
東軍の義敏は越前ー北近江ルートでないと難しいな、事実越前に進行してるし
西軍の義廉は在京で当初は朝倉もついていたから、尾張と越前(北近江を避けるのかな)から可能かな
26 :
人間七七四年:2007/05/14(月) 19:47:38 ID:Lh1eTiMW
>>22 足利義教が、畠山持国を廃して持永を擁立した事が、畠山家を分裂させた根本的な原因なのでは?
27 :
人間七七四年:2007/05/16(水) 13:57:41 ID:/Won5qyq
ただ持永の勢力は嘉吉の乱後に除かれてしまったけどね
28 :
人間七七四年:2007/05/19(土) 11:41:14 ID:x2xixGfh
age
29 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 02:54:33 ID:B1Bc5E4t
>>26 義教が暗殺されたからこそ、持国が持永から惣領の座を奪い返せたのでしょ?
30 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 10:10:49 ID:onyYu41l
まあわかりました
義教に一因があるのは同意しておきます
31 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 22:54:17 ID:OsdhNoiN
しかし廃嫡を命じられて、大人しく隠居して義教の睨みをかわした持国だっただけに、
持永追討、細川持之から管領職を獲得して政界のドンに上り詰めたのに・・・
それに比べて、細川京兆家は凄いな、斯波、畠山よりも中央で権勢を誇り続けていたのが。
32 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 00:01:51 ID:AygOf1xT
畠山家の辛いところは、地盤が河内ってとこだろ。鎌倉末期から河内が平穏だったことは、ほとんどない。つまり国人どうしつねにいがみ合っているということでしょ。
33 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 02:00:36 ID:mcE0Z0Qe
この乱の旗頭・山名持豊(宗全)も義教の家督介入で惣領を継げたのでしょ?
後に兄・持煕は乱を起こしたけどあっさり消えたけど・・・
持煕があまり世に出てきていないのは、父・時煕が最初から持豊を後継指名してたとか?
宗全が不都合(時の権力者の威光で相続できた事の汚点)と感じて、持煕の存在を薄めようとしたとか・・・?
名門・山名家の嫡男?だった人物にしては存在が薄いので・・・
34 :
人間七七四年:2007/08/02(木) 16:02:35 ID:zcrr60Hu
>>32 逆に聞くと細川の領国で安定してたのはどこだろ?
35 :
人間七七四年:2007/08/22(水) 22:26:40 ID:zcaFjjKk
>>34 細川家の全盛期は、和泉国と堺の支配によるものでは?
36 :
人間七七四年:2007/08/27(月) 14:32:10 ID:EiISYtua
義教の頃まで和泉って細川別家が半国守護職を任命されてるけど
京兆家に近い立場なの?のこり半国が京兆家の支配圏なの?
義教の時代、
細川京兆家に阿波細川持常
山名家惣領・持豊に叔父熈貴
赤松満祐に貞村
一色義貫(兄)に一色持信・教職(弟・甥)
など同族を取り立てて、有力守護の権勢を抑制していたのに
鎌倉府を滅亡させて独裁強圧的な統制策(一色の暗殺)さえなければ・・・
それでも義教は殺されたのだろうか・・・?
37 :
人間七七四年:2007/08/30(木) 20:45:28 ID:Z4yZCkoF
>>36 重要なのは、堺を支配することで日明貿易の利益を独占すること。大内との対立もその辺にあるのでは?
又義教は、有力守護の継承権を決めることで権力を固めたのであり、暗殺を防ぐには諜報を強化するべきだった。うまくやれば徳川吉宗みたくなれる能力があったとおもう。
38 :
人間七七四年:2007/08/31(金) 02:16:39 ID:6lUYN/Mt
もう古いが義教チルドレン。。。
堺の権益争いは、細川京兆持之はイエスマン、
一方大内持世は義教チルドレン?(嘉吉の乱で義教と共に赤松邸に列席)
将軍をほっぽりだして逃亡した持之に対して抵抗して討死した持世・・・
(持之がしたたかだったのかしれないし、持世が状況を読めなかったのかしれないが)
戦国以降と比べて嘉吉年間での日本の産業開発ってどのくらい進んでいたのでしょうか?
義教の力でして将軍家直轄で銀山や堺など支配する事は可能だったのでしょうか?
素人質問ですまんかった。。。
39 :
人間七七四年:2007/08/31(金) 02:20:35 ID:6lUYN/Mt
堺は細川家から大内義弘以来に持世の手に戻ったのかな?
義教もしたたかだろうから、とてつもない権益を我が物にしようとするだろうな・・・
40 :
人間七七四年:2007/09/01(土) 15:16:41 ID:/tx0bfHv
>>38 足利幕府は、直轄領が少ない分土倉・酒屋からの税や関銭に頼っていた。
義教は、大内家が私貿易としてやっていた日明貿易を幕府の収入源にしたが、本来執事として代行していた細川家が横取りした形。
赤松討伐の手際の悪さからして持之より義教の方が上手だろうから、義賢あたりだな。
41 :
人間七七四年:2007/09/05(水) 07:56:05 ID:rswKo7Sa
age
42 :
人間七七四年:2007/09/28(金) 15:17:08 ID:u6OD5dkn
義維がいたりするぐらいだから、京兆家が押さえてたのでは・・・堺
43 :
人間七七四年:2007/10/16(火) 13:56:18 ID:Ataf/MRd
細川と大内は堺と博多を拠点に
大陸貿易で競り合ったんだよね 確か。
44 :
人間七七四年:2007/11/01(木) 14:50:11 ID:Wgbx7Rba
そうです。
そんでもって寧波で殺し合いまでやって
しばらくどっちも出入り禁止くらってます。
45 :
人間七七四年:2007/11/20(火) 13:49:31 ID:j1UEqjx9
寧波の乱か。
意外と知られてませんね。
46 :
人間七七四年:2007/12/10(月) 14:41:34 ID:GwoOzmVF
勝元と宗全の話題が出ないね。
どちらかが今少し大人だったら 応仁の乱は起こらなかった っていうのはどう?
47 :
人間七七四年:2007/12/11(火) 01:00:12 ID:DMF9BnS+
>>46 ありゃ既に個人でどうなるようなものでもなかったでしょ。
48 :
人間七七四年:2007/12/11(火) 16:27:56 ID:Zk/STsXN
複雑な要素が絡みあってたからね
さて最も重要なのは斯波なのか畠山なのか?それとも御所様?
49 :
人間七七四年:2007/12/12(水) 11:46:56 ID:cr9C7Id4
勝元も宗全も最後には味方すら統率できなくなってノイローゼになって死んでるな。
50 :
人間七七四年:2007/12/29(土) 14:38:54 ID:iTVAc39b
二人の死のあいだはわずか二ヶ月 何かあると言われても不思議ではなし。
51 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 13:39:42 ID:1CZQl+/G
1週間くらいならわずかと言ってもいいかもしれないが、2ヶ月じゃあねえ…。
52 :
人間七七四年:2008/01/19(土) 15:59:31 ID:Vfa8xoXW
大分疲れているところで相手がいなくなり、気が抜けたというところだろか
53 :
人間七七四年:2008/01/20(日) 23:54:48 ID:1Qg8SXtK
>>52 そんなところだろうな。本人達もまさかこんな大事になるとは思ってなかったらしい戦争だったし。
精も根も尽き果てたんだろ。
54 :
人間七七四年:2008/01/28(月) 04:26:19 ID:xRU/SKhI
骨皮道賢を尊敬しています
55 :
人間七七四年:2008/01/30(水) 04:19:28 ID:1zmGGhMd
大河ドラマ「花の乱」の畠山義就がかっこよかった
56 :
人間七七四年:2008/02/15(金) 14:28:39 ID:A6tWYHa9
政元は無気味だったが。
57 :
人間七七四年:2008/02/23(土) 14:04:14 ID:qs+nJ19k
58 :
人間七七四年:2008/03/08(土) 15:25:37 ID:7oWNHRrf
59 :
人間七七四年:2008/03/25(火) 16:15:29 ID:yh6TjcNT
系譜は不明だけどいたにはいたようだよ
60 :
人間七七四年:2008/04/14(月) 16:36:21 ID:OkGsaxo/
乱が起こった最大の原因は勝元のやり方。
他家の家督争いに介入したり 宗全に対抗する施策ばかり行ったから。
61 :
人間七七四年:2008/04/27(日) 07:14:32 ID:gjIp1pxR
後醍醐天皇−後村上天皇−長慶天皇
|
−後亀山天皇−恒敦(小倉宮)−聖承(小倉宮)−教尊(勧修寺門跡)
|
|(推定)
−岡崎前門主(小倉宮流)−「小倉宮御息」
|
−弟宮
62 :
人間七七四年:2008/05/01(木) 03:53:09 ID:/eYfDBkF
鎌倉幕府崩壊以後のグダグダっぷりの象徴>応仁文明
63 :
人間七七四年:2008/05/01(木) 14:17:56 ID:QDFeKx0R
64 :
人間七七四年:2008/05/01(木) 20:34:45 ID:de9E4aII
何故、宗全と勝元は互いに大軍を擁しながら、「決戦」しなかったのか?
後年の関ヶ原ではわずか1日で勝敗が決したのに。
大規模な戦闘・戦術(集団戦)がまだ未熟な時代だったから?
主戦場がせまい京都だったから?
65 :
人間七七四年:2008/05/01(木) 20:41:36 ID:QDFeKx0R
>>64 もともと「決戦」をする気が無かったから。
お互い、大軍繰り出せば相手がびびって矛を収めると思っていた。
66 :
人間七七四年:2008/05/20(火) 13:46:36 ID:ypQSMtTO
宗全は赤松討伐で実戦経験はあるけどね
67 :
人間七七四年:2008/06/10(火) 16:00:08 ID:ab9f+xP2
赤松討伐の主将は細川持之だったけど 活躍したのは宗全だね。
68 :
人間七七四年:2008/06/28(土) 14:21:46 ID:dCiWEugv
西軍で目立つのは義就だけどね
69 :
人間七七四年:2008/07/07(月) 14:28:34 ID:HdN23lAf
応仁・文明の乱で京都市中は焼き払われたりして荒れ果てた、と文献には残っているけど、
考古学的な調査からは、この時期に大きな火災のあった痕跡はないそうな。(信長のやった焼き討ちの痕跡は
ちゃんと出ている)
応仁の乱の不思議。
70 :
人間七七四年:2008/07/09(水) 00:05:34 ID:6/btfSiw
だってな。
応仁・文明の乱では、大規模建造物っていうのか、
広大な敷地を持つ施設だけが焼けたんだろ。
敷地が広い→いずれかの大名が本陣を置く→敵の攻撃で焼ける
寺社と貴族の邸宅は全滅したんじゃなかったか。
それ以外の町並みは、大きく焼かれたわけじゃないはずだ。
焼けた施設だって、全部が一斉に焼かれたんじゃなく、日を変えて個別に焼かれたわけで、
いわゆる「大火」のような焼け方じゃないだろ。
信長が上京を焼いたときは広範囲に焼かれたはずで、大火に迫るレベルだと思うが。
よって、不思議と感じる感性の方が不思議なだけ。
71 :
人間七七四年:2008/07/09(水) 10:47:57 ID:7CyMyOiZ
>>70 自分を無理無理に納得させようとしているような文章だな。
72 :
人間七七四年:2008/07/14(月) 19:52:51 ID:6awfvRt+
吉川弘文堂から出た「戦争の日本史 応仁・文明の乱」を読んでいるわけだが。
内容は面白いのだが、文章がなんか凄く読みにくい…。基本的なてにをは間違ってるところがいくつも。
つーか、このシリーズは全部そう言う部分で読みにくい。校正ちゃんと仕事しろ。
73 :
人間七七四年:2008/07/16(水) 00:08:42 ID:AmCtTtie
同じく読んでいるんだが、基本的なことを知りたくて読み始めたから、基本的なことを間違われても分からない。
例えばどのあたり?
74 :
人間七七四年:2008/07/16(水) 01:19:08 ID:jrnwjRYY
>>73 いやいや、内容じゃなくて、文章が読みにくいってお話。
75 :
人間七七四年:2008/07/16(水) 18:35:57 ID:wC0sNAYL
今夜のその歴は応仁の乱だよ
76 :
人間七七四年:2008/07/16(水) 18:54:54 ID:1l/AIE+6
そうだった。見なきゃ
77 :
人間七七四年:2008/07/28(月) 17:45:22 ID:eMyUUJ81
応仁・文明の乱って、結局、将軍の後継争いとかは後付の理由で、根本的には畠山の分裂が、
原因と言えば原因なのね。
それであれだけの大乱になるってのも、本当にさっぱりわからんな。
78 :
人間七七四年:2008/07/28(月) 18:57:06 ID:F42N/kcm
多分当事者たちが一番教えてほしいと思っているな
79 :
人間七七四年:2008/07/28(月) 19:59:19 ID:KLVEwhx4
>77
畠山が分裂するきっかけを作ったのは義教、
義政はそれを鎮圧できず、逆に深刻化させた人物。
畠山家の継承問題の対処こそ、義政の失政の最高峰と言えるだろう。
80 :
人間七七四年:2008/07/28(月) 20:03:58 ID:eMyUUJ81
>>79 まあそうだけど、だからと言って、一守護家の分裂が日本を東西に割る大乱に至るってのが、わからん。
81 :
人間七七四年:2008/07/29(火) 22:35:33 ID:33Nfjn1P
今まで爆発せず、積もりに積もった矛盾がとうとう爆発しちまったんだろ
82 :
人間七七四年:2008/08/04(月) 19:20:57 ID:eeqUwACI
>>80 畠山は管領家だから。
現在で言えば、首相みたいなものだから普通のお家騒動とは別格。
83 :
人間七七四年:2008/08/08(金) 03:02:19 ID:J1ARqUEb
同じ管領家なのに、なぜ斯波のお家騒動は早期に鎮静化されたのかな。
84 :
人間七七四年:2008/08/08(金) 11:39:51 ID:wZkuI7Qn
>>83 つーか逆に、畠山の対立が異常すぎるだろ。
85 :
人間七七四年:2008/08/09(土) 16:58:59 ID:0XcDAjun
斯波は義敏も義廉も大した人物じゃなかったからだろう
畠山は政長も義就も一角の人物だったのが対立の激化に拍車をかけたような
86 :
人間七七四年:2008/08/09(土) 20:16:47 ID:QkKVaSnZ
どっちも血の気多いもんねw
87 :
人間七七四年:2008/08/11(月) 19:11:46 ID:f4yf1MJQ
都との距離の関係じゃないの?
紀伊とか河内って結構中央の利権と関連性有りそうだし
88 :
人間七七四年:2008/08/30(土) 15:45:42 ID:xyHxPVS5
確かに紀伊や河内は近いな
89 :
人間七七四年:2008/09/16(火) 14:57:17 ID:5pJhLkT1
>>86同じ時代に生まれたのがまずかった政長・義就。
90 :
人間七七四年:2008/09/16(火) 16:01:51 ID:j8tJ8pXb
応仁の乱の事調べてると、人間関係が交錯しすぎてて未だによく理解できない部分がある。
ただ、根本的には義政が悪い、ってことはわかるようになった。
91 :
人間七七四年:2008/10/03(金) 14:39:36 ID:p8VSDVvp
同意見だな。
92 :
人間七七四年:2008/10/03(金) 15:27:29 ID:pFcz+0GQ
簡単な流れを追うと
畠山持国の後継が弟の持富だったのが、義政が介入して妾の子の義就に後継を変更して家督争いが起きて
夭折した斯波義健の後継を、一族の義敏に決まったのを、義政が介入して渋川家から義廉を入れて家督争いが起きて、
同じ境遇の畠山持富→政長と斯波義敏が手を組んで
それに対抗して畠山義就と斯波義廉が手を組んで
で、それまで山名と細川は盟友関係にあったんだけど、山名宗全は斯波義廉が娘の実子だったので
義就−義廉ラインに接近して、さらに山名は大内教弘・政弘をこっちの陣営に抱きこんで
すると大内と貿易利権で対立していた細川勝元が反発して、長政−義敏ラインに接近して
さらに文正の政変で、将軍家の跡目争いまで表面化して奉行衆、奉公衆も分裂して、
最終的に義政が「お前らの争いなんぞ俺は知らん」って責任放棄して
応仁の乱。
こんな感じかな?
93 :
人間七七四年:2008/10/04(土) 01:40:11 ID:sl0iffAo
しかし乱の真っ最中でも敵見方が入れ替わるから困るw
94 :
人間七七四年:2008/10/20(月) 15:08:53 ID:JXsw+hj+
義視からしてそうだしな。
95 :
人間七七四年:2008/10/21(火) 02:40:59 ID:Ec9LxOGq
義視は仕方ないよ…同情する
相続の約束の1年後に中田氏成功する義政
中田氏を夫にせがむ富子
後見人なのに裏切る勝元
彼の居場所は東軍にないもん
96 :
人間七七四年:2008/10/21(火) 03:01:57 ID:x84+cdZJ
だが、義尚を後継者にしようと画策したのは、
本当は山名宗全でも細川勝元でもなく、伊勢貞親じゃないかという指摘があるぞ。
貞親には動機(利害関係)だってあるし。
だが、その貞親が排斥された直後の時点では、義視は山名(ら)鎮圧の総大将として起用され、
熱心に戦ってたらしいぞ。
それがなかったら、もっと早期に義視と山名の間で同盟が成立し得ただろう。
だいたい。
義政は、将軍職は譲りたがったけど、実権は全く譲ろうとしなかっただろ。
傀儡としての、自分の庇護下の将軍さえいれば、それが誰でも気にしなかったんじゃないか、義政って人間は。
97 :
人間七七四年:2008/10/21(火) 09:27:44 ID:VRa4pw0W
>>96 結局義尚が将軍後継者に立てられたのは、義視が例の三奸追放を義政に求めて、
義政を怒らせて対立してからだしね。
98 :
人間七七四年:2008/10/21(火) 10:36:20 ID:VRa4pw0W
寛正6年8月 潜伏中の畠山義就、活動を再開。大内政弘、伊予に侵攻し細川氏と対立
この頃、大和豪族・古市胤栄の仲介で斯波義廉と義就が提携
同年11月6日 山名宗全、義就と提携(『蜷川親元日記』)
同年11月8日 畠山義就、天川弁財天社で挙兵
同年11月20日 義廉の臣・朝倉孝景、義就出陣を祝い馬・太刀を贈る(『経覚私要抄』)
同年11月23日 日野富子、義尚を出産
義尚の生まれる前に、既に対立の構図は完成してる。
99 :
人間七七四年:2008/11/08(土) 15:25:07 ID:HnEAyiHu
大内も一枚噛んでるんだ
100 :
人間七七四年:2008/11/08(土) 15:32:32 ID:w+XFgYBi
つーか、細川を反山名陣営に追いやった最大の理由が大内の存在だし。
101 :
人間七七四年:2008/11/10(月) 07:04:44 ID:nrnPqJZ8
色んなとこに首つっこむ割には全部中途半端な義政
102 :
人間七七四年:2008/11/28(金) 14:19:49 ID:R+r0yjKZ
義政ダメダメだな。義勝死ななければよかったのかな。
103 :
人間七七四年:2008/11/29(土) 03:07:07 ID:ud5UprBS
あんなにダメなのに、非常に頭はいいんだよな、義政。
東軍が勝てたのは、義政を散りこんだおかげなのは間違いない。
104 :
人間七七四年:2008/11/30(日) 02:05:27 ID:JhZGIOWw
頭いいか?
105 :
人間七七四年:2008/11/30(日) 02:31:15 ID:C97ztUDj
頭は非常にいいだろ。自分の権力を確保するための戦略は、ほぼ全て的悪。
106 :
人間七七四年:2008/11/30(日) 02:31:55 ID:C97ztUDj
なんか入力ミスしてる
敵悪→的確
107 :
人間七七四年:2008/12/16(火) 14:32:47 ID:bY+RxMGd
保身に長けてるって事ね
108 :
人間七七四年:2008/12/16(火) 15:22:25 ID:uHUJbZb6
義政は、保身でもない気がするんだよなあ。つーか、保身をするような地位でもないし。
あえて言えば、「執着」って感じ。
109 :
人間七七四年:2008/12/29(月) 15:29:54 ID:rUJdqvyX
一般には無関心の世捨て人的に言われるんだけどね 義政。
110 :
人間七七四年:2009/01/13(火) 07:15:11 ID:FWU5J3vE
あげ
111 :
人間七七四年:2009/01/29(木) 15:13:48 ID:ScfSHz8M
>>109 関心や執着を持ったものの種類が違うんだ。
112 :
人間七七四年:2009/01/29(木) 19:26:40 ID:6KkbQzdL
義政は結局最後まで、政治における主導権は保持しきった。
113 :
人間七七四年:2009/02/13(金) 15:49:35 ID:KryLOcCD
そうなのかな
114 :
人間七七四年:2009/02/17(火) 13:52:22 ID:FcT1Oj3A
政治より、銀閣とか庭とか造るほうに打ち込みたくなってたんじゃないw?
で、その趣味のために権力を確保しておくみたいな感じで。
俗界のことは基本うっちゃりたかったのでは。
115 :
人間七七四年:2009/03/03(火) 15:26:04 ID:yZe0Jf8a
だよね。政事は嫌いでしょ。
116 :
人間七七四年:2009/03/03(火) 17:15:34 ID:RBcCZQ7L
政治というより、自分の権限に挑戦してくるものは許さない(足利成氏とか)けれど、
そうでないものには興味がないって感じだな>義政
117 :
人間七七四年:2009/03/18(水) 16:25:05 ID:BbY/u8My
そういう意味の権勢欲があるわけだ。
118 :
人間七七四年:2009/04/03(金) 14:36:54 ID:zGFueYUq
将軍についた当初はやる気があったみたいだね うまくは行かなかったが。
119 :
人間七七四年:2009/04/17(金) 14:45:04 ID:NU1ABtmB
義政は自分の事しか考えてない印象が。
120 :
人間七七四年:2009/04/18(土) 05:16:40 ID:rL+U23HR
天皇と対立した将軍は何人かいるが、天皇から「しっかりしろ」とあれだけ叱られた将軍は
義政くらいだな。
121 :
人間七七四年:2009/04/19(日) 20:26:15 ID:VSMnb3vr
弟2人を鎌倉公方と室町将軍に据えて、
自分はその上にたつ上位権力になろうと指向したように見えるが、
そのために打った手がすべて裏目に出て、自分の足下を崩すだけの結果に終わった感じ。
(応仁の乱が終わって実子義尚に将軍職を譲った後も実権を手放さずに、
義尚に苦労させたあげく、幕府の弱体化を進めてしまったことも含む)
鎌倉公方に据えるはずだった弟 政知は伊豆に留まったまま、
のちに「堀越公方」と呼ばれる地位にしかなれなかったしなあ。
122 :
人間七七四年:2009/04/30(木) 15:04:29 ID:5jqalLmy
>弟2人を鎌倉公方と室町将軍に据えて
何かは考えてた訳だ
123 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 19:37:31 ID:Vs0bewV2
応仁の乱の前哨戦となった畠山氏の家督争いの時、宗全は何故義就側に寝返ったんだろうな
124 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 20:01:56 ID:i+8UkPpU
>>123 山名摂津守の娘が母である斯波義廉が、義敏排除のための自陣営の拡大のため
山名宗全と畠山義就を結びつけた。
あと、細川の赤松復興方針に、かつて嘉吉の変で赤松を滅ぼした主体であり、しかも
領土的に隣接し脅威を受ける事になる宗全が反発した。
他にもいろいろあるけど、大きな所ではこんな感じ。
125 :
人間七七四年:2009/05/11(月) 20:37:10 ID:Vs0bewV2
>>124 なるほど、赤松氏復興の件も絡んでいたか
結局、この後応仁の乱中に赤松氏は復興しちゃうんだがな
126 :
人間七七四年:2009/05/26(火) 15:28:53 ID:xA2XVwDe
播磨はもとより備前の守護の変遷みても 山名と赤松が天敵なのがよく分かる。
127 :
人間七七四年:2009/06/07(日) 00:56:36 ID:kD6UuUqR
大内は基本的には山名寄りなんだな。
128 :
人間七七四年:2009/06/07(日) 01:30:54 ID:zVpVj5wa
129 :
人間七七四年:2009/06/22(月) 16:54:25 ID:S+ACvaEc
交易をめぐる天敵だね。
130 :
人間七七四年:2009/06/27(土) 15:16:26 ID:qaqwMPfu
131 :
人間七七四年:2009/07/10(金) 14:40:20 ID:XIs3PSWR
宗全は細川潰しを考えるタイプじゃないと思うがな。
132 :
人間七七四年:2009/07/10(金) 20:01:14 ID:h09RmkXv
宗全が考えなくても大内は考える
133 :
人間七七四年:2009/07/25(土) 14:58:30 ID:RN1Wy7Hw
当初は大内主導じゃないけどね。
134 :
人間七七四年:2009/08/11(火) 16:08:55 ID:v2+CIklx
山名が招いたんだろ。
135 :
人間七七四年:2009/08/25(火) 14:21:16 ID:2EsYivse
大内入京は 御霊合戦の七ヶ月後なのね。
136 :
人間七七四年:2009/08/25(火) 15:32:13 ID:HxtKg3T3
大内がこなかったらさっさと和睦してた可能性が高いな。
まあ西軍も東軍も、大内待ちで色々動いていたんだけど。
137 :
人間七七四年:2009/08/27(木) 19:44:04 ID:18y5Gpto
戦国大名が使う「幟旗」って、畠山政長が応仁の乱で始めて使って、
それを見た応仁の乱の参戦諸将に流行して、そこから全国に広まったんだってね。
138 :
人間七七四年:2009/09/10(木) 15:29:09 ID:QpPSqde5
なるほど同族同士で 区別つけなくちゃいけなかったわけだ。
139 :
人間七七四年:2009/09/25(金) 14:59:20 ID:IwN22gRZ
持国がやはり悪い。
140 :
人間七七四年:2009/10/10(土) 15:30:49 ID:wv2SAS/y
全体では決して激しくはないんだが 政長と義就は必死な殺し合いしてる。
141 :
人間七七四年:2009/10/11(日) 02:44:06 ID:Tf2guOt4
長政も義就もヘタに名将だったのが事態を深刻化させた。
142 :
人間七七四年:2009/10/11(日) 02:48:00 ID:Tf2guOt4
長政じゃねえ政長だw
長政だと畠山義堯の守護代になってしまうw
143 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 15:31:58 ID:QJRFfRVw
片方しかいなければ畠山が発展しそう。
144 :
人間七七四年:2009/10/24(土) 19:39:54 ID:g2PqHbIZ
畠山のお家騒動がなければ、
細川が潰されていたかもな。
145 :
人間七七四年:2009/11/05(木) 15:28:18 ID:pOWbWbCY
細川は交易おさえてるから豊かだけどね
146 :
人間七七四年:2009/11/14(土) 12:09:51 ID:/4yi6OCM
再び大河ドラマ化を望む
147 :
人間七七四年:2009/12/19(土) 14:08:14 ID:s/ZeerrU
いいねえ
148 :
人間七七四年:2010/01/27(水) 11:20:34 ID:fBcFTzcr
義政主役で
149 :
人間七七四年:2010/03/07(日) 07:41:18 ID:xIDFfRlt
山名宗全に華がある
150 :
人間七七四年:2010/03/25(木) 21:05:56 ID:GUUyZXEy
伊勢貞親から見た応仁の乱を希望
151 :
人間七七四年:2010/07/13(火) 11:44:06 ID:SsaLigwW
だな
152 :
人間七七四年:2010/11/21(日) 00:30:27 ID:VQuR8UOh
吉川弘文館の「戦争の日本史」(小学館の「戦乱の日本史」とは似ても似つかないので混同しないように)
シリーズの「応仁・文明の乱」はおもしろかった。
主犯は義廉、という見解が新鮮だな。
153 :
人間七七四年:2010/11/26(金) 17:56:54 ID:bW11JE9Z
というよりは、
争乱の発端が関東情勢だったという見地こそ新鮮
関東で持氏の遺児をかついでの叛乱が連発
↓
成氏を派遣して鎮圧させる
↓
ミイラ取りがミイラ、成氏自身が叛乱を起こす
↓
新たに政知を派遣して鎌倉公方にしようとしたが抵抗が激しく頓挫
↓
より大がかりな援軍を派遣しようとして斯波義敏を派遣しようとしたが抗命(領国内争乱を優先した)
↓
政知の副官だった渋川の子息を斯波氏の家督に据えて無理矢理に出兵させる
↓
斯波氏の支流の支持がなく、援軍の規模が不足。戦況の改善がない。
↓
やっぱり義敏に戻すしかないと決定
↓
クーデタで阻止
↓
大乱
って流れだとか
154 :
人間七七四年:2010/12/05(日) 14:19:35 ID:Ym0y9Bl3
まあ、言われてみれば、関東に大規模出兵するに当たって総大将となるのにふさわしい家柄の人間は
将軍自身の親征か、斯波家惣領ぐらいしかないな。
・在京の大名のうちで東国にもっとも多くの領地を持ってる点。
・三管領のうちで唯一の、東国に根拠地を持つ大名である点
も小さくないが、なんといっても、
・奥州や出羽の探題が斯波の分家であって、それらとの連絡窓口を担当している
というのは大きいかもしれない。
斯波家の協力なしには東北地方の軍勢を動員できないんだもんな。
で、わざわざ当主を交代させてまで関東出兵させようとしたら、
肝心な両探題との連絡が付かなくなって、東北地方の軍勢動員ができないままというオチが付くとはな。
155 :
人間七七四年:2011/02/04(金) 23:25:40 ID:wX85mr1P
保守
156 :
人間七七四年:2011/05/14(土) 18:11:08.07 ID:nWZWBCVu
すまない、応仁の乱の説明しりたいんだが、
ゆるやかな、鎌倉幕府よりも小さい政権の足利政府
税金も領土も弱くて実質分権、権力空欄政治
応仁の乱→地方の分国同士のもめごとに介入したら、あれよあれよと東西20万以上にふくれあがる。
で、わけのわからない、地方分国戦争っていうか、地方分国氾濫が(実質IKKIレベルだろ)戦争にまで発展
でGDGD
で2回目の文明w戦争で足利までも分裂レベル
権力分裂
でOK?
戦国時代は実質せんごくっていうか、分国体制でOK?
実質戦国なんていえんのは、信長以降だろ
157 :
人間七七四年:2011/05/14(土) 18:16:49.66 ID:nWZWBCVu
WIKIぐぐっても
gdgd氾濫が戦争にまで発展
しかわからなかった。
でてくる、家とか名前が、それまでと比べてあたらしいものばかりなんでピンとこなかった。
それまではいろいろわかりやすいんだけど
158 :
人間七七四年:2011/05/14(土) 18:59:03.07 ID:q9DzSoqm
>156
地方政権に過ぎない鎌倉幕府よりも権限が大幅に拡大していたからこそ、
利害対立が深刻化して、分裂騒ぎが起きたときの対立が深刻化したんだよ。
幕府内で揉めて武力行使という叛乱そのものは、
鎌倉幕府も室町幕府も同等の頻度(とはいえないかな?どちらも5回は超えてるはず)で起きてる。
単なる大名間の紛争(武力衝突)そのものは、応仁以前から頻繁に起きてたんだよな。
それを調停できなくなって、ついに将軍まで戦争に加わったのが応仁の時、というかんじか?
戦国時代と呼べるほどに地方の紛争が深刻化したのは、1500年頃から後だろう。応仁より30年以上も後の話。
戦国と呼べるほどの分裂時代は信長晩年ごろまでではないかな。
信長の政権の後半には、分裂の時代ではなく再統一に向かう時代だよ。
あと、関東周辺の戦国時代は応仁の乱とは直接的には関係ない。
応仁以前から既に戦国だったと言ってもいい。
159 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 09:30:45.50 ID:B9BSK99t
応仁の乱はむしろ関東の混乱への対処に路線対立があって、それに畠山、斯波の
家督問題がリンクしてしまって起きた、と言っていいだろうな。
160 :
人間七七四年:2011/05/15(日) 10:22:01.40 ID:8GDXie7a
畠山家の家督問題って、
足利義教による畠山持国隠居強要の後遺症だよな。
持国隠居の際に実働した畠山家の家老達が、
持国復帰後に、(一部はヌッコロされたが)抵抗を続けたのが始まりだろ
一時は妥協案として、そいつらが推してた持富を後継者指名したが、
義政時代に入ると将軍の後押しを受けて持富の追放を画策して内紛再燃した。
まもなく持富は死去したが、持富の長子である弥三郎を擁して抵抗。
弥三郎も死去したが、弥三郎の弟が擁立されたわけだ。
反持国派家臣達の抵抗が根強かったことが分かる。(彼らは細川氏の支援を受けてもいたが。)
そうそう。畠山家の内紛に関しては、奈良県・興福寺の派閥抗争の煽りを受けた側面もあるらしい。
161 :
人間七七四年:2011/08/20(土) 02:22:49.64 ID:nGSUGsM4
あ〜大和の国人衆は、全員興福寺の門徒だもんな。
それプラス勝元と政元が後で糸引いている。
162 :
人間七七四年:2011/11/12(土) 21:23:28.23 ID:MqtbNFZl
勝者は細川京兆?
主要関係者だと畠山尾州家しか江戸時代生き残らなかったけど
163 :
人間七七四年:2011/11/12(土) 21:31:34.11 ID:6m4o+4yY
はっきり言って誰も勝っていない。京兆家も政元が成人するまで停滞しているし。
ある程度利益を得たのは大内くらい。
164 :
人間七七四年:2011/11/12(土) 21:49:58.70 ID:VIgjFEkl
それにしても細川赤松京極はだいたいいつも一緒だなw
165 :
人間七七四年:2011/11/12(土) 23:23:28.34 ID:EvFYu9aC
赤松に関しては、細川の支援がないと生きていけない状態だったからだろう。
京極と細川については分からん。
守護大名としての初代から、ずっと仲良しに見えるけど。
あと、武田(安芸)とか、今川あたりも細川と仲良しだよな。
166 :
人間七七四年:2011/11/13(日) 09:13:52.11 ID:1S2s1492
赤松は領地の件で山名と常に争ってたから、身近にいて頼れる細川と繋がっているのは
必須条件だな。
というか京極も安芸武田も細川に近いのは対山名の面が大きいな。
今川は対関東での幕府の尖兵だった面が大きいのだろう。
関東管領と共に鎌倉公方を監視する立場で、細川は関東管領支持派。(畠山が親鎌倉公方派)
167 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 09:45:07.24 ID:Ckq+DgEj
応仁の乱ゲーム化しないかなーと思ってちょっと考えてみた
・・・そもそもこの戦いの勝利条件ってなんだろう
168 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 09:52:11.45 ID:9+scNtHn
自派から幕府管領を出す、もしくは幕府権威から離れて実力で領域大名化、つまり戦国大名化する、の
どちらかだろうな。
169 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 12:50:32.11 ID:V/bDLSqV
政元が勝者だな
魔法使いさえ目指さなければ
170 :
人間七七四年:2011/11/16(水) 21:15:00.21 ID:vcki6lry
>>167 パラドックスのSengokuが応仁の乱からスタートやね
171 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 02:06:14.59 ID:ZijKCBQC
はじめは足利義尚に山名宗全、畠山義就、斯波義廉がつき、足利義視に細川勝元、畠山政長、斯波義敏が就く構図だったが、やがて足利義尚と足利義視だけが逆転した
172 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 09:37:21.59 ID:+HAiG0aj
>>171 将軍の後継問題は応仁の乱と関係ないぞ。
応仁の乱は徹頭徹尾守護大名間の権力闘争だ。
はじめは細川勝元−山名宗全の同盟が、赤松政則の播磨復帰問題で決裂したところから始まる。
この情勢に家督問題で分裂した斯波・畠山の斯波義廉、畠山義就が反勝元で集まり、さらに細川と
貿易上のライバルだった大内政弘もこの陣営に参加した。ここに「西軍」が形成される。
文正の政変なんてあったから混乱するのかもしれないが、将軍の後継問題は乱が始まった後、
将軍義政と後継者義視の、この乱への対処方針の対立により、結果的にそうなったにすぎない。
応仁の乱の本質と将軍後継問題は分けて考えるべき。
173 :
人間七七四年:2011/11/17(木) 13:52:00.52 ID:2Nm+qYyC
>>172 最近じゃ、「実は斯波義廉こそ主犯」説もあった気がする
こいつが色々と策謀したから西軍という集団が確立できたのだ、と。
宗全と義廉の間は早くから連合があったが、
義就や大内政弘らは山名氏との間に利害関係がなく、共闘の可能性が低かったのを、
両氏だけでは存続できないからと味方を集めるために動いたのが義廉旗下の武将だ、という見解。
174 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 02:42:32.39 ID:HM0XAixz
黒幕は斯波家用人・甲斐なにがしですか?
175 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 03:45:05.98 ID:HM0XAixz
てことは、義政も義視も富子も、九代将軍は義視で、ということは最初は一致していたわけか
176 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 09:11:30.32 ID:+n/HE+5X
>>175 義政はむしろ義視後継を支持していた感じだし、富子も義尚を擁立するような動きはしてないからなあ。
結局文正の政変で失脚した側近の伊勢貞親を再び手足として使いたい義政が復帰させて、
それに義視が強く反発したのが、後継から排除された理由だね。
後継問題と言うよりも伊勢貞親問題だった。
177 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 14:17:21.41 ID:sP0MthLU
>>176 将軍家後継問題に関しては、義尚擁立を最も強く推してたのは伊勢貞親しか考えられないよね。
貞親は義視排斥を画策して、それが貞親排斥の火種になったわけだし、
貞親の影響は大きいだろう。
>>174 甲斐常治は積極的な関与はしてなさそうな気がする。
178 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 14:39:48.58 ID:ZG8kC+Jq
義政としては伊勢貞親が失脚して諸侯のコントロールを失い応仁の乱を起こしてしまった、という気持ちが
強かったよだ。
それに当初西軍を支持していたフシがある義政としては、義視の東軍一辺倒の姿勢に不安も感じていたのだろう。
とにかく乱の早期解決のため義視を排除してでも伊勢貞親を復帰させ、その強い政治力に期待するしか
無かったのだろうな。
実際伊勢貞親が復帰してからは京都市街の戦闘は下火になっていくので、一定の効果はあったのだろう。
179 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 15:18:59.63 ID:HM0XAixz
★結論★
将軍権力強化を狙った義教の後始末が上手くできず、大名や側近の追放と宥免を繰り返した足利義政の無定見が混乱に拍車をかけた。
180 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 16:27:27.44 ID:8gElYX7q
守護の対立というか政治指導者層の対立はきっかけに過ぎず、すべての元凶はこの時代の天候不順による社会不安。
飢饉で難民が流入しまくり、扇動も多いが徳政一揆おきまくり、御霊林の衝突以前から放火や乱暴狼藉も起きているから、
この乱は歴史の必然といえる。
両軍の足軽たちにしてみたら山名や細川が戦争をやめたがろうが関係ないわな。
181 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 17:06:19.47 ID:MjIrz/rh
義尚や富子は乱に関与してなかったから結果的に将軍になれたとも考えられるな。
もし西軍に関与してたら東軍側は将軍就任なんか認めないだろうし。
義視は東軍に関与しすぎて乱の原因を作ったから後嗣から外されたと考えるのが自然か。
182 :
人間七七四年:2011/11/20(日) 17:20:17.12 ID:sP0MthLU
>>179 いや、義教時代のような将軍専制の政治手法自体は、
義政時代初期にも続けられてはいたよ。
義政が幼少だった最初期は別として。
ただ、義教時代と違って、側近(特に伊勢貞親など)の政治関与が大きかったが。
義教時代と比べて諸大名の力を押さえきれなかったから、
諸大名の要求を受け入れざるを得なくなることが多かったせいで、
無定見な赦免が乱発されたように見えるわけ。
義政自身がひいきする大名はコロコロと入れ替わったわけではないよ。
あくまでも、大名官の派閥抗争を制御しきれなかったこと、政治力(根回し?)の不足が原因だと思う。
183 :
人間七七四年:2011/11/23(水) 10:05:57.44 ID:A+6KPWAM
>政治力(根回し?)の不足が原因だと思う
根回ししても大名の方が言う事聞かなかったんだろうな、
特に山名宗全。
細川勝元は、義政の言う事を良く聞いていた方だと思うよ。
ただ日野富子の兄の日野勝光と勝元は、対立していたらしいな。
勝光の急死も勝元の暗殺って事は無いの?
184 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 10:55:47.27 ID:sZFpeQtt
草刈正雄の勝光は自邸で暴れて死亡しました。
185 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 13:01:47.78 ID:1Uj9VVGH
>>180 センゴクの作者並にブッ飛んだ結論への持って行き方だな
186 :
人間七七四年:2011/11/24(木) 19:40:39.22 ID:0CLIrCYe
伊勢貞親と伊勢長氏 似たような名字だな
187 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 02:26:10.36 ID:PmwlmwGs
age
188 :
人間七七四年:2011/11/25(金) 02:28:05.90 ID:poBvUCxZ
189 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 02:38:31.56 ID:RJ1D2wPy
いわゆる
魔王クーデターにおいて、すでに関西方面情勢は政治的に不安定であった。
というより歴史上古く2世紀程度からずっと不安定状態であり。
カルト、テロ集団。武装集団。独立組織など、
以上な分裂、テロ、破壊集団を含み、きわめて危険な状況であった。
他の地域はここまで勢力が分断もしなければ、条約機構的な枠組み、取り組みの中にあったし
そもそもファミリー的集団であったのでたいし、関西は支離滅裂な危険な状態だった。
そして足利他政権関係が、箱根で新田たおしたまではよかったが、その後、南朝討伐しないから、
関西情勢が不安定だった。そして勢力支離滅裂で不安定すぎて、常に戦争がおこる状態で危険だった。
そして危険な状態からいっきに戦争がおこり、いきなり幕府がこわれた。しかも足利は政治基盤をもってない地方政権とか言う立場
だったので、いきなり壊れた。
それだけ、結局一揆、延暦征伐で周辺勢力つぶさない限り、一向に安定しなかっただろ。
一部勢力除いて周辺が反映しなかったのが、急に金持ちになったのは、
信長、秀吉が周辺安定して、金売ったからなんだよね。それだけ。
つまり情勢不安定状態で具体対策しない足利が悪い。足利が平定しないせいでおきた戦争。
それだけ。
190 :
人間七七四年:2012/01/07(土) 02:43:28.11 ID:RJ1D2wPy
つまり個人的な集団、行為要素よりも
特別、全国一不安定な関西情勢と足利当地失敗がおこした。
そもそも足利地方とももめてて
東北→独自勢力
関東→独立勢力←あれだけ戦争やったのに、独自じゃないとかぬかすなよ。
中部→微妙。足利お膝元でマシ。
関西←最悪、支離滅裂なテロ状態で一番悪い。
四国←微妙。すぐる。関西情勢悪化が原因。
九州←何気に安定、チョン、シナ海賊で情勢悪化ながら独自外交で見事に安定。
とあって支離滅裂状態。そこで中部にしか足場がない中部政権で足利幕府だめ。だった。
そもそも足利勢力、政権が意味不明。
元々クーデターやったやつが、
天皇は魔王だ、だから殺せはないだろう。
191 :
人間七七四年:2012/04/23(月) 00:54:01.94 ID:SoWk58MM
192 :
人間七七四年:2012/06/19(火) 20:31:39.68 ID:P4fxk/EB
これわかったわ。
1 なぜ戦国の始まりがわからないの?
っていうのが大きいけど、それはストレートに
ほげん ヘイゲン へいけ 合議制 承久 御成敗式目成立
までの動きを知ってるか。
13世紀とはどういう時代か 南北紛争を紛争対処自体として知ってるか。
どうやって南北紛争は終結したか
15世紀はどういう時代か、事実上の分国政府としってるか。
幕府という行政機構がなかったのを知ってるか。
足利はただの1武家だったのをしってるか。
最大諸侯は誰か知ってるか。千葉である。領土、石高最大
193 :
人間七七四年:2012/06/19(火) 20:35:00.39 ID:P4fxk/EB
千葉一族 500年の武士本家の崩壊
畠山、大内、足利、北条
の氾濫分裂
これが戦国の引き金になった。これしってるかにある、。
ようは
1300年 幕府
1400年 騒乱 無幕府時代
1500年 無幕府時代 畑山、大内、足利、今川騒乱 千葉の崩壊
ようは無幕府分裂国状態で最大諸侯の崩壊と、あとは氾濫の発生で戦争がおきた。
それが理由。
なんせほぼ間違いなく、当時最大諸侯は千葉だぞ。
大内なんかは畑なかった。
畑山は本家つぶれて、小さかった。
足利なんかそもそも領土がなかった。 千葉が最大の戦力だよ。石高普通に50万はこえてた。
上位の行政、幕府
そして上の組織がない並列状態
194 :
人間七七四年:2012/06/19(火) 20:37:08.88 ID:P4fxk/EB
つまり応仁そのものじゃなく、
それ以前の周辺状況。
勢力の乱立。
4アホの氾濫
これが理由。まぁむしろ
幕府をつぶして、幕府をつくらないアホ。
天皇をつぶすため、こんじょう天皇という無茶
幕府をつぶして、無税、無行政なのに、なぜか介入という意味フ
何気にしかも足利ちいさいとかいう意味フ
という最悪状態だった。そりゃ戦争なるわ。
どうして?の前に、時事をしってるかである。ありゃせんそうになるわ。
ある意味1400年からの200年騒乱。
ないしもう1300年からの300年騒乱というな。それが正しい認識。
195 :
人間七七四年:2012/06/19(火) 20:39:57.71 ID:P4fxk/EB
ようは政治と勢力をしってるか。
それまでの積み立てはしってるか。
そもそも足利は
幕府に氾濫する。
天皇を真っ先につぶしにいく→それは武士政権ファンダメンタル上正常
このときかなりいい加減な指揮。
北条の馬鹿がうらぎる。
めちゃくちゃ状態で ついに制裁で足利が一時天皇になるというGDGD
ほかにもくそあるんだけどな。そして弱いくせに、ある意味本流幕府
ないし唯一幕府 の後鎌倉に介入
しかも弱い、行政内、権限内。無税なのに介入
もうあれは実質足利も単独氾濫してるのも同じ。
でしかも大内、はたやまが暴れる。
でそうこうするうちについに後幕府が倒れ実質戦争だ。
最大の理由は千葉の崩壊
196 :
人間七七四年:2012/06/19(火) 20:43:40.05 ID:P4fxk/EB
いわゆる完全に
足利って府じゃないよ。
うやむやで意味フ。
天皇 明 半島 北条が最低やったよ。
実質足利収集できないよ。
唯一幕府に介入
戦争。と。そもそもな逃げに実質武士の本棟梁は千葉だったろ。実質
後幕府の建て直し。西方で、事実上守護となり、対馬支援
などやって、実質もうあれこそ将軍だったんだが。
で足利なんかほんと最低だからな。実質どれだけ石高あったんだよ。
197 :
人間七七四年:2012/06/19(火) 20:53:00.62 ID:P4fxk/EB
いわゆる完全に
足利って府じゃないよ。
うやむやで意味フ。
天皇 明 半島 北条が最低やったよ。
実質足利収集できないよ。
唯一幕府に介入
戦争。と。そもそもな逃げに実質武士の本棟梁は千葉だったろ。実質
後幕府の建て直し。西方で、事実上守護となり、対馬支援
などやって、実質もうあれこそ将軍だったんだが。
で足利なんかほんと最低だからな。実質どれだけこくだかがあったか知らん。
198 :
人間七七四年:2012/06/19(火) 20:58:17.21 ID:P4fxk/EB
こういえばいいかな。
鎌倉幕府後も鎌倉幕府は 後鎌倉幕府として準存在していた。
なんせ事実鎌倉幕府の立役者にして、最大御家人、最大諸侯。武士本家の
千葉氏が支えていたため、幕府は後幕府として成立した。
一方足利は幕府を壊した張本人で、天皇 処罰
対明圧力はやったが、それ以外は、仕事と職能、権限すらなく、何もせず。
領土、行政役所、その他あらゆるものをもってなく1家であった。そして自分でぶーたれるが、実質あれが行政権限がなかった。
この状態でわ、幕府は軍 足利はただの官公庁の立場である。
そして幕府は千葉、英雄にして武士宗などが自主的切り盛りしていた。
なんせ宋は王を名乗ったくらいである。
それなのに、足利がマジ何もせず、やくたたづ、氾濫おこし、幕府を崩壊させ
最大諸侯の千葉が倒れ、戦国の前線状態となり。
馬鹿の畑山。大内、延暦寺、足利、あと北条が氾濫おこして、戦国がはじまった。
そして徳川が最終的に、坂東に戻り、見事農民にやつした、千葉 や武士を厚遇し、
幕府を再建し、とりまとめた。
これが歴史であろう。
199 :
人間七七四年:2012/06/23(土) 08:24:07.85 ID:6HtTLQ3l
お大事にな
200 :
人間七七四年:2012/07/03(火) 15:51:19.20 ID:pp4SIRkv
いや、応仁がすごいんじゃない。
そして応仁がきっかけでもない。
そして16世紀が戦国じゃない。
むしろ中千代 武蔵野合戦が終わって。それ以降畠山が分裂したり、足利独裁が始まったのが
戦国のはじまり、そして15世紀こそ戦国だ。
201 :
人間七七四年:2012/07/03(火) 15:52:58.53 ID:pp4SIRkv
いわゆるあきらかに
室町はもはや幕府として機能してない。
行政機構がない(関東府に劣る)
徴税制度がまともにない(関東以下)
そもそも各種武家の中で最高権力は足利じゃない。たぶん千葉が間違いなく最強。
そして中千代おわってからは、あきらかに、
足利の新政事大であって、政治上は退化した独裁制度である。ぶっちゃけ大変
清盛新政ににてる独裁制度
202 :
人間七七四年:2012/07/03(火) 16:04:26.11 ID:pp4SIRkv
そして独裁新政で法律が機能しないから、私利的叛乱がおこり、
鎌倉では、
承久戦争
元寇
と戦争は3〜4回しかおこらず、それ以外は派兵数千の乱しかおきない。
しかも大半は対外戦争である。
しかし、室町は15年ごとに大規模叛乱 30年ごとに戦争
がおこるまともじゃない体制だった。
203 :
人間七七四年:2012/07/03(火) 16:10:45.90 ID:pp4SIRkv
室町って1399年以降も氾濫オンパレードでマジでやばかったよな。
あれは最大的に派兵規模、戦争規模
その他
両軍10万の戦争 15〜30年ごと
数万の氾濫15年以内
で発生して、複合で合計100万は軽く派兵
派兵150〜200万 従軍100万
常時全人口の5パーセント以上は常に従軍経験者
死者合計30〜50万以上
という桁外れの状態。なお戦国は実際そこまで戦争も死者もいない。
204 :
人間七七四年:2012/07/03(火) 17:10:01.30 ID:cENsvTv3
鎌倉幕府の紛争戦争の多さを知らない馬鹿が来てるのか。
室町幕府は鎌倉幕府よりも安定した体制だった。これは間違いない。
205 :
人間七七四年:2012/07/04(水) 01:22:28.69 ID:4KKxQa/s
>>204 ID:pp4SIRkv
この子は関西より関東の方が上だと言いたいんだろう。
206 :
人間七七四年:2012/07/04(水) 21:58:21.89 ID:drwGegEr
>>204 超絶馬鹿。鎌倉幕府は承久除けば、
反乱はあっても、派兵規模は少なく、小規模の事実上の個人反乱しか起きてないんだよ。
あくまで両軍1万くらいの小規模小競り合いしかなく、
しかも原因もいわゆる意見対立の1家の反乱的な小規模のもので理由もわかり即鎮圧した。
また反乱側もとりつぶされることがなかった。
でも足利最悪
あれはもう理由もよくわからず、結果評価も難しいが、両軍10万の大規模戦力が終結するような事実上の戦争ないし紛争自体(乱でわない)
が5〜10回きてるんだ
207 :
人間七七四年:2012/07/04(水) 22:15:27.07 ID:drwGegEr
たとえば有名で、たぶん承久を除けば、鎌倉時代最大級の反乱の
宝持合戦でも両軍あわせて数千以下の兵力しかない。
そして最後自刃した陣営の損害がたった500しかないんだぞ。
あの最大規模の反乱でもとても合戦、紛争とは呼べず、乱程度の規模しかない。
そして理由も収集もついてる。つまり乱の解決率は高い。
ところが足利で普通規模でこれより多い紛争は合計10個はあった
上杉禅秀の乱 なんかは最悪。そもそもあれは乱なんかじゃない。
仮に前後の各種反乱を含めれば戦乱
上杉禅秀 単体でも完全に紛争レベルだろ。
・参加所兵力が宝持の10倍規模以上 しょしょうも多く確実
・紛争期間もいように 長い 宝持合戦が実質戦いは1週間レベルで終わったのに対して上杉だけで軽く3ヶ月。
そして関連で合計で1年前後はかかってる。
・収集解決もうやむやで非常に長く、最悪 総兵力数万規模以上。
そしてこれが比較小さな、紛争、戦争だからね。あれ以上のが合計5〜10個多すぎてわからないんだよ。
208 :
人間七七四年:2012/07/04(水) 22:23:58.41 ID:drwGegEr
そして
鎌倉時代は、実質成立あとは乱が10〜20回 そう規模合計5万以下 死者も数千
内戦が1回 派兵合計10万以下 死者は非常にすくなく短期終了
外戦争が合計2〜3回 総派兵は味方40万 敵20万 死者味方の虐殺死者含め1〜2万(敵10万以上)
足利最悪あの武蔵野合戦を最後、別に含めても、以後、ほぼ恒常的に紛争、内乱がおきる。ないし対外戦争
そして鎌倉はほぼ全部が乱であり、合戦などとぬかしても所詮全部が乱の規模。あきらかかな一部反乱だ。(承久は内戦)
しかし足利は あきらかに乱なんてなくてほぼどれも紛争だろ。そして紛争の総合は兵規模、戦力は鎌倉の対外戦争服務全戦争のほぼ
5倍の派兵規模、損害は10倍。 日本で最大に内戦がおきまくった時代で、しかも死者多く、収集もなし。
そしてつまり風物、時代、文化、社会の発展、出来事が鎌倉、ないし戦国ならでてくるのに、
足利親政14〜15世紀はろくな時事がない。そして毎回、毎回調べれば、紛争しかなく、当時の社会時事も一般、通説として多くは暗におもいださない。
そしてはっきりいって、日本最大の紛争、内乱の時代で、しかも紛争、戦争といえば、大東亜戦争以後も一部の地域では、この15世紀戦乱をさしてしまう。
それくらい
209 :
人間七七四年:2012/07/04(水) 23:03:35.12 ID:drwGegEr
たとえば
戦国時代は1年に2回紛争がおきる。でもあれほとんどは実質合戦でケース倍ケースだが
総数に対して大半は数千同士の合戦
ところが足利は実質 10年ごとに10万あつめてるだけで、すでに破壊規模その他各種は
実はもう15世紀から同じなんだよ。
単に戦国前期は分裂戦争してるだけ。それだけの違い
210 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 05:49:17.66 ID:xX2le2Vu
物凄く日本語が不自由なのは分かった
211 :
人間七七四年:2012/07/06(金) 23:03:51.23 ID:55l3+Ulf
翻訳ソフトでも使ってるのか?
しかしそれでは、誤変換が説明できないな
改行と助詞の使い方も酷い
212 :
人間七七四年:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:Tph6QKa+
>>123-126>>165-166 播磨の赤松家返還問題は、細川京兆家が言っていた訳ではないぞ。
どちらかと言うと、細川庶流の阿波守護家が騒いでいた。細川持常と、
その養子の成之が騒いでいた件だ。勝元は、ノータッチと言うか、山名宗全
の味方をしてた。そもそも細川本宗家と山名本宗家は、そんなに仲が悪くない。
てか細川京兆家と山名本家は、畠山家に対抗する為に姻戚関係を結んでいた。
さらに養子ももらっていた。だから、ケンカしたくなかったので、赤松家に
播磨返還するよりも、山名宗全との同盟を選択し、同族である阿波守護家の
主張には同調しなかった。
1448年と54年に赤松家への播磨返還問題が、浮上したが、その時の勝元は、
宗全を守る為に足利義政に嘆願や仲介を繰り返して、なんとかやり過ごしている。
特に1454年の赤松家への返還問題は、宗全の反発で幕政上の大問題になり、この時
は、義政が怒って山名宗全討伐を諸大名に命じた。そして、宗全討伐軍の総大将に
阿波守護家の細川成之が任じられている。
しかし、細川本宗家の勝元のロビー活動で、宗全討伐は中止となり、その代わりに
宗全が隠居して分国に蟄居する事になった。この事では、細川家内部で完全に意見
が分かれ、本家と庶家の間で対立している。
細川家同族連合体制は、応仁の乱後や明応の政変後に崩壊した、と言われているが、
既に応仁の乱前から、この様に対立しており、細川家同族連合体制の芽は、この時点
から既に有ったと言える。
なぜ、この様に阿波守護家が、播磨の赤松家返還に躍起になったかと言うと、一つは
足利義政の意向が有ったらしい。阿波守護家は相伴衆であり、将軍と阿波守護家の間
には接点があった。
応仁の乱初期には、足利義政は、宗全との和解を望んだが、この時点での義政は宗全
を完全に危険視し、討伐の対象にしていた。また、それに乗じて阿波守護家も赤松家
の播磨復帰を後押ししていた。
細川勝元が、宗全と完全に袂を分かつのは、大内政弘と山名宗全の同盟が出来た1466年
からで、それ以前は、宗全と勝元は、同盟を組んで畠山家と対峙していた。文正の政変
で義政側近の伊勢貞親と季瓊真蘂を追放出来たのは、宗全と勝元の同盟関係が有った為
とされる。
213 :
人間七七四年:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:gXlePDoL
関東管領山内上杉家も鎌倉公方の再興を持ち出した越後上杉家に霹靂してたよな。
絶対に後悔することになるって。
214 :
人間七七四年:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:FljbulIO
>>8 アレは、大砲や鉄砲と言うよりもロケットランチャーに近いものでしょう。
細川家は、大陸と貿易していたから、その手の武器が入手しやすかった。
また、一部は日本の職人に造らせていた可能性があるけどね。あと手榴弾っぽいのも使っていたかも。
洛中での戦闘で、細川の軍勢が多用し、その為に洛中がアレだけ燃えてしまったらしい。
足軽が火をつけるだけでは、洛中を燃やすほどの火災には成らないらしい。
>>213 細川や上杉は、同族連合体制を作っていたけど、鎌倉時代に比べて、総領権が弱体化している感じ。
庶流が、各地の守護家になって在地性を強めているので、
従来の総領権が、効かなくなっている。その為に宗家と庶家の間でも対立や意見の相違が出て来る。
そこに目を付けて、将軍権力の強化を目指して、
守護大名家の分断工作や鎌倉公方の弾圧に乗り出したのが足利義教であり義政。
それが、義教暗殺や文正の政変で頓挫する。
室町幕府は、北条得宗家みたいな中央集権体制じゃないからね。
だから割れやすい。鎌倉公方なんて六波羅探題の様に数年の任期で交代制にしてしまえば良かった。
215 :
人間七七四年:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:hFacayum
てつはう ってヤツですか
216 :
人間七七四年:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:nPuh317M
応仁の乱ではカタパルトで発射される炸裂弾が使われていた記録もある
217 :
人間七七四年:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:FI8bOS+D
>>213 越後上杉家の房朝は、鎌倉公方が復活する事で
上杉宗家である山内上杉家や、その家宰の長尾氏を押さえ込んで欲しかったのだろう。
越後長尾家は、越後上杉家の言う事を全然聞かなかったらしいし。
218 :
人間七七四年:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:FI8bOS+D
>>213 越後上杉家の房朝は、鎌倉公方が復活する事で
上杉宗家である山内上杉家や、その家宰や守護代家の長尾氏を押さえ込んで欲しかったのだろう。
越後長尾家は、越後上杉家の言う事を聞かなかったらしいし。
219 :
人間七七四年:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:FI8bOS+D
220 :
人間七七四年:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:fTmgDIgI
元寇の時に、西国御家人達は、
モンゴルが高麗の軍勢の飛び道具や集団戦法を始めて見て、
それを積極的に取り入れた可能性が大きい。北条得宗家も元寇後に高麗征服計画を立案していたし。
それ以来、東国の武士と西国の武士の戦法に違いが出て来た可能性ある。
西国武士は、重火器の使用とゲリラ戦に躊躇が無くなったのかも知れない。
応仁の乱では、当初は、市街地(洛中やその郊外)の大名屋敷を取ったりとられたり
の戦いだったので、重火器を用いて、大名屋敷に打ち込んだり、その隣地の家々に放火
して火災を起こしたり、と言う戦い方になってしまった。
特にてつはうの様な、ロケット弾は、命中率が悪く、どこに飛んでいくか判らない為に
一度に束にして大量に打ち込んだりしてた可能性が有る。その為に洛中の火災も酷くなった。
221 :
人間七七四年:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN ID:2px1e+Ex
>>214 小川信の名著「足利一門守護発展史の研究」にもあるように
細川一門の分国支配の安定性はある意味室町体制の守護として理想的だった
家格がうえの斯波、畠山は細川に比べればその点遙かに脆弱で
応仁の乱以前に衰退したのも必然だった
222 :
人間七七四年:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN ID:HJnCpLR7
なんだかな〜
223 :
人間七七四年:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN ID:hUnyxIb3
信之の過大が酷過ぎるんだよな
そのせいで、幸隆、昌幸、幸村がものすごく被害を被ってる
224 :
人間七七四年:2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN ID:nlw2eaiU
ひどい誤爆だな
225 :
人間七七四年:2014/08/20(水) 17:16:31.74 ID:M74jVCaK
応仁の乱の終盤頃って何が目的で戦ってたんだろうな
誰が将軍になってもどうにもならない状況なのに
226 :
人間七七四年:2014/08/20(水) 21:11:12.65 ID:a3Tp0PIT
>>225 そんなことはない。東軍の勝利とされたため、実際に西軍の畿内における領地は全て没収され、残党の掃討も広く行われた。
227 :
人間七七四年:2015/02/15(日) 14:38:47.34 ID:lLqOiMf1
西軍の畿内における領地は全て没収?????
義就が制圧した河内や大和は畿内ではないとでも?
228 :
人間七七四年: