>>336 >奥には男子は基本的には当主のみしか入れず、あとは正室を長とする
>女性のみの空間。幽閉などしなくても当主以外の男子は近づけませんでした。
これは江戸時代に、そのあたりの制限が厳しくなってからの話で、安土桃山時代頃までは違うと思っていたのですが。
長浜でねねに加藤清正らが可愛がられたとかいうのは後世の創作?
それとも元服前だから、接触が制限されることはなかったってことですか?
それとも戦国時代だと、城主の奥方が留守の城を武装して守ったりなんてエピソードもありますから(淀君も大坂の陣でやっていますね)
奥から女性が出て男性と接触するのはOKだけど、ガラシャはそれが出来ないので忠興の嫉妬説が出たってことですか?
>>337 奥の出入りが許された男子は当主と元服前の当主の子供のみ。
もっとも子供は乳幼児を過ぎれば親元から離されて養育されたので
元服前といっても本当の乳幼児の頃の限られていたと思います。
戦時下では当主の留守の間は正室が女城主として権限が一番強かったので
緊急時とあれば単独で家臣の前に姿をだすこともあったでしょうが、
「面を上げ」の一言がなければ顔をみることができませんでした。
加藤清正などの子飼いの武将を子供の頃からねねが可愛がったという話は事実
でしょうが、可愛がるというのが寝食をともにするという意味ではありません。
目をかけてあげて、何かと取り立ててあげた、という意味だと思います。
当主の胤を宿す、ということが最大の仕事であった奥の女性たちを
当主以外の男子と隔絶するということは家にとっても大切なことで、
大河ドラマにあるように当主の同席もない部屋で家臣と正室や側室が
親しげに話をする(侍女が同席していても)、ということはまずありません。
忠興をガラシャを軟禁状態にした、ということを示す信憑性のある史料は実はありません。
キリスト教徒になったガラシャは教義に従って自らむやみに夫以外の男性との接触を避け、
夫に忠節を尽くす従順な妻になったと考える方が自然です。
だから忠興はキリスト教を容認し(秀吉もキリスト教弾圧を緩和させていたという
背景もありますが)、夫婦仲もよく子供が立て続けに生まれた、となったのでしょう。
恐らくガラシャは本能寺の変後離縁しろ、自害するのなんのと騒ぎ、
忠興を困らせていたでしょうが、キリスト教は離縁も自害も禁じられているので
ガラシャがおとなしく自分の言う事を聞くようになったことにむしろ喜んだと思います。
ガラシャのキリスト教式葬儀にも忠興は参列していますし、忠興の弟や子供も
キリシタンになっているので、実は忠興はキリスト教にかなり寛容でいたと思います。
忠興嫉妬説はガラシャが絶世の美人、忠興の気性が激しい、たくさんの子宝に恵まれた
逆賊の娘を離縁せずにいた、というあたりの噂や臆測などが入り混じり、
後年創作されたエピソードだと思います。本当は政治的な背景がメインで成り立っていた
戦国特有の夫婦であったと思いますよ。