1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
これまで我国の歴史マニアの間では、
戦国の英雄・織田信長を偶像視するあまり、
『彼は天皇家を取り潰し、日本国王になるつもりだった』などという
破天荒な説が実(まこと)しやかに流布されてきた。
しかし実際には信長は、朝廷に対して
自分を関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかに
叙任するよう運動していた。
このことは、当時の武家伝奏・観修寺晴豊の日記
『天正十\\\年夏記』に出典する史実である。
(つい最近まで、この三職の記述に対しては、
(朝廷が信長に対して就任を打診したもの、とされてきた。
(つまり朝廷が信長に対して就任を要請したもの、されてきた。
(しかし現在、この日記の記述法と当時の叙述習慣が研究された結果、
(この三職への記述は、実は信長から朝廷に対しての
(要請であったことがほぼ判明した。
(つまり、三職への就任を希望したのは信長の方だった、という説である。
(現在は、後説が学会の主流になりつつある。
ちなみに、天正十\\\年当時の信長が、
中国地方で毛利氏と戦いながら、その一方で、
二面作戦という戦略的な不利を犯してまで
突如、甲斐攻略を強行したのは、
征夷大将軍就任に際して、その前提条件となる
関東制圧の既成事実を確立するためだったという。
(但し、甲斐攻略に関しては、
(徳川家康の関東単独制覇への警戒心から踏み切った、との説もあり
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 06:23:36 ID:FIdkdyB8
2
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 06:46:52 ID:i9jJCB5z
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 09:44:14 ID:1+g3IJei
まあ、長篠の合戦でも鉄砲三段撃ちは実現不可能だったと言われてるわけで…。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 10:28:34 ID:QSzjtMhS
信長は平氏だからなれないよーん
天正3年 従三位、権大納言兼右近衛大将に就任
天正4年 正三位、内大臣に就任
天正5年 従二位、右大臣に就任
天正6年 正二位になるが、右大臣と右近衛大将は辞職
天正9年 左大臣に昇進する動きがあったが辞退している
天正10年 三職推任の勅旨を2度も無返答のまま返してる
>>7 天正6年右大臣辞任の際に信長は
「四海安寧(天下統一)が成った時、大役をお受けする」というようなことを言い
天正9年の左大臣辞退の際に信長は
「誠仁親王の即位の暁には謹んで拝命する」意味の返答を行なっている
誠仁親王は三職推任に当たり
「天下がいよいよ静謐になり朝廷も満足している。(信長に)どんな官でも与え失礼のないようにすべき」
といってるのは天正6年の信長の言葉に対応しているし
また親王みずから言葉を発するのは天正9年の信長の言葉にも対応している
つまり三職推任に至るまでの運動はすべて朝廷側からの働き掛けだったのだ
ではなぜ信長は固辞し続けたのか?
それは天正6年の信長の言葉にあるように、自力で天下統一事業を完成させることが何よりも重要
なのであり恐らくそれは信長の力をもってすれば可能だったろう。
信長は、朝廷にあまり借りを作らずに政権基盤を築くことでその体制を磐石にしたかったと思う
その上で将軍か左大臣あたりを受け名実共に天下の覇者たらんことを目指したのではないか
信長の朝廷利用を見ても、浅井朝倉や本願寺の時くらいしか使ってないし
朝廷の必勝祈祷や出迎えなどことごとく辞退していることからも
その一貫した姿勢が伺えるというものだ
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 14:44:44 ID:elJRor01
信長は太政大臣を望んでたというのが今の学会の主流でしょ。
ぜひおすすめの文献を教えてください。
煽りとかでなくて、興味あるんです。
>「誠仁親王の即位の暁には謹んで拝命する」意味の返答を行なっている
そんな事言ってねえwww
>つまり三職推任に至るまでの運動はすべて朝廷側からの働き掛けだったのだ
これも違うねえw
この説は戦前までは通用したけど、現代では否定されてる
>朝廷にあまり借りを作らずに
いや、信長も朝廷の力は最大限に利用してるよ
立花京子ちゃんの御説のことですか?
13 :
10:2006/10/09(月) 18:13:06 ID:HL5kEQph
前の私のレスを読み返すと
何をお願いしているのかさっぱりわかりませんね。
>>9 今の学会の主流に俯瞰するあるいは
主流に触れるのに最もおすすめな文献が
あれば教えてくださいませんか。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 18:54:34 ID:x2ql4CbW
贈太政大臣織田信長の葬儀と勅じょう 橋本政宣著 書状研究 2000年4月
織田信長と武家官位 堀新著 共立女子大文系学部紀要 1999年1月
等堀氏は他にも関連する論文あり。
立花氏は、、、、それぞれ読んで頂いて判断してくださいませ。
また私は、なるほどと思うところもあり、それはどうかと思うこともありますので
自分の意見ではないことを付け加えておきます。
15 :
10:2006/10/09(月) 18:59:34 ID:HL5kEQph
627 :名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] :2006/09/12(火) 00:55:37 ID:4Wu99ffB
とりあえず、三職推任の件の資料「晴豊日記」の原文はこうなのね
村井所へ参り候。安土へ女房衆御下し候て、太政大臣か関白か将軍か、
御推任候て然るべく候よし、申され候、その由、申し入れ候。
これを、
「私(晴豊)は村井の所へ行った。そこで「朝廷は安土に女房衆を派遣して
信長様を太政大臣か関白か将軍に推任するべきだ」と言われた。
この事を朝廷に知らせた。」
初めてこのように読んだのが立花京子で、
現在はこの説のほうが有力視されてる。
ていうかそれ以外に読み方がないわなw
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 21:08:10 ID:A3KDrfHa
立花説のそのよみくだしは今谷明氏以外支持されていず、現在ではその説は否定
されているのでは?
戦中の日本は歴史上の人物を「勤皇派かそうでないか」で選別していた
そして信長は「勤皇派」という事で決められていた
だから「信長は勤皇派である」という前提で歴史上の文献などが考察されていた
「勤皇派であるはずの信長は天皇や朝廷との関係がギクシャクしているはずがない
信長は天皇陛下のために粉骨砕身働いたはずだ
だから晴豊日記は、晴豊から村井に三職推任の話を出して勧めたに違いない」
というのが戦前までの考え方
これに対して京子ちゃんは晴豊が書いた文献を全て調べ
全ての文章で「申され候」が誰に対して書かれているのかを調査した
その結果、自分に対して「申され候」と書かない事が判明し
村井のほうから晴豊に対して推任の話題を出した事が判明した
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 11:26:17 ID:R6vu/Xof
>>16 村井(貞勝 信長の家臣)の所へ参り候。安土へ女房衆御下し候て、太政大臣か関白か将軍か、
御推任候て然るべく候よし、申され候、その由、申し入れ候。
東大史料編纂所の岩沢としひこ氏の解釈
私(晴豊)が村井貞勝のもとへ行き、正親町天皇が安土へ女官をつかわし、
信長を三職に推任したいと望んでいる、と申し入れした。
立花京子の解釈
私(晴豊)は、村井貞勝から「朝廷は安土へ女官を派遣され、信長様を三職に推任するべきである」という
申し入れを受けた。このことを私はすぐに(朝廷に)報告した。
今現在立花説は否定されとるぞ。
岩沢説の方が現時点では学会で支持されとる。
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 12:55:09 ID:Ur1/Y1si
19さんに同意。
あんまり早く高位を任官しちゃったら、半ば朝廷軍、官軍としての位置付けになる
将来いざ幕府となった時に朝廷の影響力が強くなっちゃうだろ
>>19 えっ?天皇が女官を使わすの?
あたま大丈夫?
>>19 違いは、遣わせるか、遣わせてくれかだろ?
日本語不自由なのか?
立花京子説ってのがまさに「遣わせるか、遣わせてくれ」の解釈なわけで。
自身に「申され候」と使わない事から「遣わせてくれ」という根拠から
立花氏はそう解釈したわけだが。
現在立花氏の史料検証能力云々で学会では
立花氏の信長暗殺にイエズス会が関与してるという説も含めて
否定されてる意見が大半を占めてます。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 21:27:43 ID:UTGpNRw/
立花京子が史料読解に必要な知識は
すべて街のカルチャーセンターで学んだというのはマジ?
| | | | | | | | | | || | |
| | | レ | | | | | J || | |
| | | J | | | し || | |
| レ | | レ| || J |
J し | | || J
| し J|
J レ
ァ ∧_∧ ァ,、
,、'` 。゚( ゚^∀^゚)゚。,、'`
'` ( ⊃ ⊂) '`
立花京子は元々数学の研究者。
カルチャー講座で古文書を学び始めて博士号まで取ってしまったという異色の経歴の持ち主。
信長と十字架って著作だが、
仮説をたてて資料をつき合わせながら検証していく論法。
つまりイエズス会ありきで語ってる。
内容はこんな感じ。
イエズス会の宣教師たちは、右手に銃(テクノロジー)を、左手に聖書を持ち、
ポルトガルの世界征服・植民地拡大の出先機関として現れた。
信長は右手だけを上手く利用していたつもりだったが、徐々に自分の力を過信するようになり、
自分を神だとみなし始めた。
これをデウスへの冒涜だと判断したイエズス会は、信長のすげ替えを謀る。
後継者として白羽の矢が立ったのは豊臣秀吉。
ただし、秀吉に信長を討たせたのでは正統性が問われることになる。
そこで狂言回しとして利用されたのが明智光秀。
これこそが本能寺の変の真相である。
な、笑っちゃうだろ?
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/13(金) 18:05:20 ID:w0Tf1HtG
>>29 立花京子氏はとてもユニークな方なんですね!
徒弟制大学のエピゴーネンより、こういう人のほうが斬新な視点の持つこともありますね
まあ電波と紙一重ともいえますがw
>>29 え、これマジ?
イエズス会が黒幕とかマジで言ってるの?
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/27(金) 23:21:20 ID:7y3XGE1t
今谷も立花説シンパ
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 20:04:14 ID:hUfPiOIx
今谷明って経済学部卒の大蔵省キャリアだったって
マジ?
35 :
おす:2006/11/23(木) 23:18:56 ID:wvMQJ/4u
のぶなが:キング・オブ・ジパング
あのさ、学会ってどこにあるの?
創価じゃないんだろ。どうすりゃ、その学会の仲間入りが出来るんだ?
細川藤孝が黒幕って説もどっかで聞いた事もあるが。
38 :
人間七七四年:2007/03/06(火) 01:54:49 ID:dRhZxdrs
征夷すなわち朝鮮討伐のためには将軍職が最適
39 :
人間七七四年:2007/03/06(火) 11:51:05 ID:dgvgeIzU
律令時代の征夷将軍の帷幕秋田城介を信忠にやらせてるから
自身は将軍を、信忠には鎌倉府でもやらせる気だったのかもな
室町初期みたいに。
で、ねんごろに信忠を呼び付けて信忠に代えて北畠信雄を鎮守府将軍にして関東北辺を守護させる
41 :
人間七七四年:2007/04/26(木) 20:04:41 ID:wPAhxYpM
征夷大将軍になった後、朝廷を廃止
するつもりだったんじゃないの
将軍、関白は第一歩に過ぎないに一票。
42 :
人間七七四年:2007/04/26(木) 20:36:33 ID:h2EnpAyl
>>41 正直、わざわざ朝廷を滅ぼす意味無くね?
実権なんぞ、鎌倉〜室町幕府間にほぼ無くなってるし。
一応家系とかの権威付けは天皇やら貴族やらに繋がってるのが基本だから、わざわざ潰さない気がするが。
天皇滅ぼしたら将軍や関白の意味も自己の正当性もすべてなくなるじゃねーかw
信長は相馬百官でもやる気だったのかよwwwww
44 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 14:36:38 ID:5hg6OneC
織保守
45 :
林田将軍吉光:2007/07/25(水) 09:17:07 ID:estLWwGf
46 :
人問七七四年:2007/08/21(火) 22:36:36 ID:jGsE1UGc
史学って、毎年学会やるネタが大変そうですね
47 :
人間七七四年:
>>4 >長篠の合戦でも鉄砲三段撃ちは実現不可能だったと言われてるわけで…
それはお前の妄想www