>>927 歳久と政久は筑後を奪回した立花宗茂を恐れて内通してたと思われる。
島津当主義弘と暴走して豊後国主を称した偽主家久(母が別人で親近感は無い)の露骨な野心を制するために
秀吉と義久の間を取り持って降伏交渉してたんだろう。
日向で大敗した義弘は豊臣秀長に取り入ることで逆転を狙い事実、
先に降伏して安堵を得た抜け駆け家久の暗殺となった。
その義弘に異議を唱えたのが歳久で賛意を示したのが政久。
結局、薩摩は義久、大隅や義弘、日向の一部は家久の子の豊久に安堵され
結局、歳久以外で島津領は兄弟分割になり憤って秀吉に反乱したのだと思われる。
そしてこの分割対立が関ヶ原でのグドクドにつながった。