秋月種実

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180人間七七四年
秋月は島津に筑紫攻略をさせて、島津に大出血をさせたり
岩屋城攻めでは国人連中たちと岩屋攻めを拒否って
島津単独で攻めさせてさらに弱体化させ
自分は島津から筑紫領や岩屋や宝満をもらい受けて
さらに立花攻めさせようとしたが
疲弊しきった島津は立花の堅牢ぶりを見て、士気喪失。
ついには疲弊から薩摩まで大敗走。
秋月はあわよくば、立花を攻略して手にいれようと謀り
島津に「島津のかわりに必ず立花落としてやんよ」と言って
弱気になった島津の大敗走のきっかけを作り
北九州を竜造寺に代わり制する野心を露にした。
しかし、宗茂は予想をはるかに超えて強靭で
島津追撃に余勢を駆って宝満も岩屋も奪回しちまった。
それでも秋月は野心を捨てず
さらに島津を唆して豊後攻略をさせて島津をさらに疲弊敗走させ
秋月の力の温存と領地拡大に利用した。
さすがに島津も利用され唆されてるだけだったのを悟り
秀吉の南下では秋月防衛に兵を割かなかった。
そして秋月はついには秀吉軍とガチで勝負して北九州の覇者になろうとして
かつて利用した毛利小早川の意見をはねつけて秀吉の怒りを買う。
そして土下座・・・
なんというか北九州の騒乱って結局、秋月が元凶なんだよな。
どうして秋月ってあんなに粘れたんだろ。
だいたい古処山城の近辺まで来た秀吉は、
「これは噂どおりの天嶮だわ。ここに篭城されてたら、さすがにヤバかった」
なんて言ったわけで、島津が秋月への積もり積もった不信感さえ目を瞑り
共闘して秋月に派兵して篭城してれば、秋月の士気の高さは異常だから健闘して、
秀吉軍の兵糧問題が発生することも可能性としてありえた。
そういう意味では島津が筑紫の脱走を許してしまい
筑紫領の奪回に成功させ立花と共闘させたり、
宗茂の弟夫妻を鍋島が島津から取り戻したりの一連の流れは
島津が秋月の北九州制覇の邪魔をしたんじゃないかと思ってしまう。