秋月種実

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177人間七七四年
毛利や龍造寺や島津を利用して滅亡から、筑前筑後豊前の国人を煽りまくり混乱の台風の目として、対大友の巨頭となり40万石大名まで成り上がった秋月種実は九州一の男。
大友にとって毛利も島津も敵ではなかったが、彼、種実がどうしても首を取れなかった為に各戦線で足を引っ張りまくった。
特に龍造寺隆信死後の混乱の中で、島津と大友の同盟を阻止し、対大友戦再構築の島津に龍造寺が臣従しての北九州国人大同盟を成立させた秋月の外交力は卓絶している。
これがために島津の侵攻に対して大友配下の国人の大挙内通と道案内になり、敵味方の区別もつかず状況把握が難しく混乱した初期の大友の劣勢となった。
道雪も種実だけは滅亡させて盤石な体制で死にたかっただろう。
高橋紹雲が筑紫氏と婚姻をまとめて秋月からうまく離反させるのに成功したのは島津北上に備えた妙策だった。
また朝鮮出兵から関ヶ原時の大津城攻めまで筑紫氏は宗茂の寄騎として忠誠を示し続けたのは亡き紹雲の素晴らしい置き土産だったろう。