本当は平和だった戦国時代

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1名無しさん@お腹いっぱい。
戦国時代と聞けば、思い浮かぶのは
下克上の世の中、戦火に包まれた日本列島、
秩序は麻のように乱れ、街道には屍が累々としている。

ところがそうしたイメージにもかかわらず、
農業生産高は増え、商工業が勃興し、貿易が盛んになり
100年足らずの内に人口は2倍に増加したこの時代。
同じ戦乱の時代でも、ドイツの30年戦争では人口は半減、
中国の動乱期には人口が10分の1になったといわれる(諸説あり)
えらい違いである。

当時の宣教師達の記録には、勤勉で誇り高く礼儀正しい日本人像、
犯罪も少なく極めて秩序だった社会の様相が描かれているが
戦乱の激しさや、日本の軍隊の強さを訴えたものはほとんどない。
(悪意を持った宣教師が残忍な国民だと書き送った例はある)

世界的な視野からすれば、戦国期程度の動乱はむしろ常態であり、
特筆すべきものではないのかもしれない。
では、「戦国時代」とは何だったのか?
「戦国時代」という呼称は適切なのだろうか?
2名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 21:51:45 ID:jB+oj+st
まず、最初に人口が二倍になったっていうソースをキボンヌ
3名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 21:54:03 ID:qTl69S9a
異民族同士の戦争が絶えないヨーロッパ
同一民族の中での主権争いで100年近く争った戦国時代

比べる条件が違う
4名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 22:05:13 ID:jB+oj+st
>>3
それもちょっと違う。欧州の場合、宗教戦争の方が激しい。
5名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 22:33:09 ID:DTZKiLGD
中国の三国時代

156年 5006万人
242年 762万人

減りすぎですね
6名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 22:43:26 ID:Gb9MHXIv
三国時代は難民の大量発生が原因で、額面上激減しているように見えるだけだったような。
7名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 22:55:33 ID:3W8NgCvd
中国の人口増減は、人が死んでいる訳ではなく、中央の統治能力を表しているに過ぎない
動乱期は、中央政府が人民の数を把握し切れなくなっていて、数字上人口が減少しているようにみえる
余談だが、人口の把握が税収にも直結している
8日本史板のスレの関連レス:2006/09/10(日) 23:46:07 ID:9i+FE4+c
4 名前:山野野衾 ◆NDQJtGoM [] 投稿日:02/09/27(金) 21:52
>1
諸外国の侵入が無かった事も有利に働いたのは勿論でしょうが、確かに
大きく発展したのは凄い。道徳面でも翌日忘れたお釣りを返しに来ると
いった事があったと宣教師が記しています。
9日本史板のスレの関連レス:2006/09/10(日) 23:47:01 ID:9i+FE4+c
15 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:02/09/28(土) 01:23
宣教師は当時の日本人の忠誠心や節操の無さにも驚いている。
戦に勝利した軍勢の人数が始める前より増えているなんて話は、珍しい事ではなかったらしい。

16 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:02/09/28(土) 15:07
太閤検地時点での総人口は
1000万人から2300万人までと随分幅がある。
10日本史板のスレの関連レス:2006/09/10(日) 23:48:02 ID:9i+FE4+c
43 名前:金魚[] 投稿日:02/10/31(木) 18:05
 武士の戦いってのは、元々はヤクザの出入りみたいなのが、段々、戦争らしいものに
なってきたんだな。
 近代戦と宗教戦争では、なぜ、個人的勇士が活躍しないのか。特に狂信的宗教戦争では
「槍の又左」だの「清瀧刀の関羽」なんてのが発生しない。
 それは、ほぼ全員が本気で戦うからである。命より大義。ほぼ全員が勇士なので、個人
的に活躍なんてできない。
 しかし、イデオロギーも宗教もからまない、土地目当ての封建戦争では、本気者は少数。
土地より命。だから、関羽や呂布や「七本槍」は活躍が目立つ。
 さらに、各武将は勇戦ぶりを宣伝するために配下の死傷数を大水増しして報告する。
 実際は、私有財産である配下の死傷を避けていたのだが。

44 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:02/10/31(木) 18:12
>43
非論理的。
>近代戦と宗教戦争では
「近代戦=宗教戦争」と同一視している。
>個人的勇士が活躍しない
勲章とか与えるよ

それ以下の文章も一言づつ、突っ込みが必要なものに名っている。
ネタならごめんね。
11日本史板のスレの関連レス:2006/09/10(日) 23:48:39 ID:9i+FE4+c
47 名前:金魚[] 投稿日:02/10/31(木) 18:21
44>

 近代戦とは、国家のイデオロギーを背後に戦うものであって、宗教戦と似ています。
 勲章と土地の差。これが、近代戦における個人的勇士の比重の軽さを示しています。
 戦国時代に土地をもらったら、子孫はその税収で、300年間食えました。
 勲章で何年、子孫が食えましょうか?
12日本史板のスレの関連レス:2006/09/10(日) 23:49:47 ID:9i+FE4+c
48 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:02/10/31(木) 18:26
戦国大名は他国の戦国大名を意識してたのはもちろんだが、
惣村の団結、一向一揆などに、特別な配慮をしていた。

家康も一揆を押さえに行ったら、家臣がいて
「殿とはこの世限り、阿弥陀如来とはあの世までも」
って言われ、説得して融和し、
その後、また家臣に戻しているし。

そこを徹底的に打破したのが信長。皆殺しにした。
13日本史板のスレの関連レス:2006/09/10(日) 23:50:34 ID:9i+FE4+c
64 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:02/11/13(水) 06:55
>>1
皆が言っている通り、あなたの立てた前提や命題は間違っている。それで終了。
もう少し詳しく言うと、他国で戦国時代、人口が激減しているように見えるのは主に戸籍の紛失や流民などによるもの。
あるいは飢饉や伝染病の流行なんてものもある。

さらに言うと日本の戦争は基本的に武士同士の争い(ヤクザの出入りのようなものと評されることあり)によるもので、
外国のような民衆虐殺が行われることは少なかったという特徴もある。
外国の城は町も含んだもので戦争になれば領主も軍人も民衆も一緒くたになるが、
日本の場合はそういう事は一部の例外を除いてあまりなかったというだけの話し。

人口増加や農業生産高や産業・商業、貿易の発達は必要に迫られた領主の奨励や戦争景気によるもの。
朝鮮戦争で日本に好景気がもたらされたのと似ている。

宣教師の記述に戦争や日本人の強さが無い?
んなことはない。 信長や大友宗鱗にそんな評はあった
14日本史板のスレの関連レス:2006/09/10(日) 23:51:19 ID:9i+FE4+c
70 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:02/11/21(木) 11:16
惣村が領主や他の惣村に対して自力救済をしてたのが戦国時代。
そう孫の自治に村をまかせ、中間武力層を排除し、惣村同士の争いを法で
決着つけようとしたのが秀吉以降の江戸時代。

土豪間の争いや、戦国大名間の争いや、民衆虐殺はあったが、
基本的には、戦国大名は、日本史上初めて領民育撫を心がけた。

71 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:02/12/08(日) 13:39
古代的な国司でもなく、鎌倉殿や室町殿から任命された守護でもない、
自主独立の大名を戦国大名と呼ぶわけでしょ。全国的な統一秩序がなくなったことを
戦国と言うわけでしょ。戦争はやるときゃやるけど、普段はやらない。
大和朝廷の全国統一以前の状態にもどったようなもんでないの。

72 名前:71[] 投稿日:02/12/08(日) 14:29
戦国時代は、封建制、武士道、地方自治の精神が生まれ育った時代だね。
産業も発展するでしょ、そりゃ。古代の終わりと近代の始まりの時代だーね。
15日本史板のスレの関連レス:2006/09/10(日) 23:52:45 ID:9i+FE4+c
160 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:04/01/18(日) 02:50
ドイツの30年戦争は他国の軍隊や傭兵が民間人から略奪を行った事によって
農業などの産業基盤までも破壊された事が人口激減の要因。
中国の場合も同様に産業基盤の破壊が人口の減少をもたらしている。
戦場での死者は人口動態においては重要な要因ではない。
戦国時代は戦闘は起きてもそこから略奪や虐殺に繋がる事がほとんど無かった。
産業さえ安定していれば戦争くらいで人口は減らない。
16日本史板のスレの関連レス:2006/09/10(日) 23:53:59 ID:9i+FE4+c
171 名前:日本@名無史さん [] 投稿日:04/04/28(水) 15:17
日本の戦国時代は、ただ脈絡なくエゴをむき出しにして戦っていた時代とは違う。
それが>>1に言うとおりの発展を見れば一目瞭然。
戦国時代は、「古い価値観から完全脱却して、新しい価値観による日本の再構築の時代」だった。
古い価値観が崩壊したのが応仁の乱(応仁の乱の時は日本は悲惨だった)。たとえていえば
応仁の乱が太平洋戦争で、戦国時代が戦後高度成長期みたいなもの。

1.古い権力構造である大寺社の権力が崩壊し、荘園が壊滅したため、新しいより強くよりよりよい
支配が可能になった。
2.1により古い流通体系が崩壊し、国や荘園を超えた競争経済が生まれ、飛躍的に経済流通が
発展した。(近江商人などがそのよい例)
3.職(多重既得権益)の体系が崩壊し、不当な中間搾取がなくなり、さまざまな形でダイナミック
な社会が生まれた。そのため、納税者を直接把握する戦国一円支配が可能になり、後に秀吉家康の
諸改革に結びついていった。(一地一作人制、検地、刀狩・・・)
4.土地や流通の自由度が向上したため、新田開発や大規模土木事業がやりやすくなった。(その技術
も格段に進歩した)そのため、旧来の戦争のイメージが一変し、戦争は経済と密接につながり、戦国大名は
経済発展に力を入れざるをえなかった。その経済集約地として、居城する山城が平山城になり、河川下流域
の城下町を生み、都市へ発展していった。
5.文化も一部上級階層の独占だったものが、その没落四散のため地方へ拡大し、また世界に類をみない、
庶民文化が花開いた。(権力者だけの生活様式が、今日の普通の生活様式になった。歌舞伎、連歌など庶民
の文化が主流になっていった)

まぁあげればキリないほどあるね。
17日本史板のスレの関連レス:2006/09/10(日) 23:54:50 ID:9i+FE4+c
266 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:05/03/07(月) 23:29:55
最近の環境考古学の成果によると、戦国時代は気温が低く、農業の生産性が
低下した時代。食糧確保のために、絶えず争いが起き、戦争が頻発したの
ではと言われている。戦国時代は、食糧事情が悪く、食糧を
得るための人の移動も多く、生産力が低いためにかえって
商業や人の移動が盛んな社会だったのではと考えられるようなって
きている。
 それから、生産力が伸び、人口が急増したのは、江戸時代のはじめ。
実はこの時期に、商品経済から一度自給自足的な経済に戻り、
その後もう一度商品経済化したのではとの指摘がなされている。
 

267 名前:日本@名無史さん[sage ] 投稿日:2005/03/25(金) 12:04:48
>>266
>>戦国時代は気温が低く、農業の生産性が低下した時代。
天文年間までの話だったと思うが。
永禄期からむしろ温暖期に変換したはず。

268 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2005/04/06(水) 23:54:43
そんなことどうやってわかるの?

269 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2005/04/09(土) 02:28:52
>>268
ごく一例として、長寿な木の年輪。
温暖な時期は成長幅が広く、寒冷な時期は成長幅が狭い。
18日本史板のスレの関連レス:2006/09/10(日) 23:55:35 ID:9i+FE4+c
330 名前:甲斐犬[] 投稿日:2005/11/20(日) 21:09:24
 農民兵は、農繁期に出兵できない、なんてのは間違い。年表を見よう。
おそらく、この間違いは、当時の農家を今日の小規模経営の自作農と勝手に
思いこんでる間違い。当時は、領主(国人・地侍)や地主(名主)による
大規模農家。今日の、住み込み従業員をかかえるパチンコ屋や旅館を想像
しる。
 当然、忙しい時期でも、経営者一族の男が従業員の一部を率いて出兵
する事は、何とか可能。要は生産効率。生産効率の高い地域ほど、余剰労働力
を出兵させやすかった。
 当時は、丘陵地から大河川下流域への人口移動期でもあったから、濃尾平野
など、もっとも余剰労働力の多い地域であったろう。

1>おそらく、宣教師は、宗教改革以降の、無茶苦茶な時代のヨーロッパと比しめて
日本を平和と思ったんだろうな。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/06(金) 01:43:20 ID:0U2HrpXa
軍人同士の戦いで民間人は戦場近くにいるもの意外殺される事は
少なかっただろうから外国とはだいぶ違う
でも兵農分離が進んでいない頃の農民たちは若い男は戦場に
借り出されるのでやっぱり苦しんでいたのは間違いない
20名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/06(金) 08:04:42 ID:eVX3QqZ3
>>1
程度問題だろうけど、そういう表現を自慢げにするなよな。
平和憲法と戦後教育の洗脳で頭がいかれたバカなんだろうけど。
戦国は殺伐としていて何ぼの世界よ。
そうでなきゃあ、かっこよくないからな。
乱世の英雄!!バンザーイ!!
21名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/06(金) 15:49:11 ID:k40E4Qvz
日本人はそこまで殺伐とできんのよ。
欧州人の殺伐ぶりは異常。
今でもアメリカ人は日本人の100倍殺人をおこす。
22名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 02:07:35 ID:q3DkbFLG
>>19
農民は大抵、動員されても非戦闘員だし、
普段は食えないご馳走たる白米を食べられるから、結構喜ばれたらしいけどな。

まあ、農民の定義にもよるけど。
23名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 12:00:06 ID:umGjgI5l
その通り
というか、当時軍隊に同行していた人数のうち、実際の戦闘員は2割程度だろ
後は飯炊きとか橋をかけるなどの工作隊として使われている
それは古今東西どの軍隊でも同じ
純粋に武士だけというのはまず少ない
24名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 20:46:46 ID:yFrzzIaX
そういえば、ファイナルファンタジータクティクス面白かったなあ。
25名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 06:13:46 ID:A1fCYi85
>>19
戦に借り出される=苦しみ以外の何者でもない、というのは非武装平和主義の発想。
戦闘能力を有するという事は、相応の影響力・発言力をもつということ。
徴兵制が国民国家や民主制を生んだ事はご存知かな?

それに当時の戦なんて死ぬ可能性は少ないから、食事が保障されて(←これ重要)恩賞・略奪のチャンスがある
戦に行きたい奴なんて沢山居ただろうよ。
26名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 11:05:56 ID:5GfCkWE+
中世まで、全滅と記された軍隊での実際の死傷率は半分程度
それ以上死傷すると軍隊の体が無くなり、雲散霧消するから全滅と言われた
近代になって、国民徴兵制のもと、士気の高い兵士が集まり、殺傷力の高い兵器が使用されるようになり、始めて全滅ということが現実に出てくるようになった
それにしても非常に稀なケースで、最期の一人まで文字通り死ぬという闘い方は二次大戦中の日本軍くらいしかしていない
27名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 11:07:01 ID:5GfCkWE+
基本的に兵士の1割が死傷すれば、勝敗は決する
それ以上死傷しても決着がつかないものは、死闘とかいって、歴史書に残っている
28名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/08(日) 22:56:27 ID:Yd4smqbb
>>26

つ高橋紹運

戦国時代に最後の一兵まで戦って全滅した例。
まぁ珍しい例外的な出来事ではあるが。
29名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 01:24:07 ID:QYSOeoLg
島原の乱では、原城に籠った一揆軍は、裏切った一人を除いて女子供に
いたるまですべて殺されたそうだが。
30名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 18:32:45 ID:42xcLJiE
あれは攻城戦なんだから当たり前だろ。
一揆勢を包囲した後、殲滅を選んだのは攻手だし
31名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/27(金) 03:45:10 ID:7VACQVfv
同じようなのに信長の長島攻めや伊賀侵攻、越前殲滅、延暦寺焼き討ち、荒木攻めもある。
32名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/04(日) 12:31:09 ID:vJSDrkNm
14〜16世紀は世界的にも一時的な低温期で、15世紀後半にピークになった後
急速に温暖化したらしいよ
当然、それまでより天候不順が頻発したでしょう
33名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/07(水) 12:19:54 ID:a70XTs1h
>>20
こういうのに限ってドラマなんか見たとき「史実では〜」とか言い出すからたちが悪い
34人間七七四年:2007/03/13(火) 19:43:23 ID:H6IFKeay
戦国期は人口が激増した時期なんだよね
35人間七七四年:2007/03/13(火) 19:45:08 ID:2bcvg4OV
日韓併合期は人口が激増した時期なんだよね
36人間七七四年:2007/03/13(火) 23:49:43 ID:VzvElYep
つまり平和だったということじゃないか。
37人間七七四年:2007/04/14(土) 09:29:53 ID:tFwSz1ea
検地に因って、隠し水田を耕作してた百姓も人口統計
に加わって、増えたとかは、ないのかな?
38人間七七四年:2007/05/24(木) 16:27:18 ID:WJCwCM6N
39人間七七四年:2007/05/26(土) 17:51:52 ID:WKtAlJyN
農作物の略奪や虐殺・奴隷狩りは戦国時代でも当然のようにあった。
一般民が巻き込まれなかったというのは間違いだろ。
40人間七七四年
百姓同士の喧嘩も多かったようだよ
水利や所有地を巡って村同士の大規模な喧嘩とかね
喧嘩と言っても刀槍や鉄砲まで使うようなもので
まあ、殺し合いだな
どこの藩でも百姓同士の喧嘩を禁止していたけど
度々衝突が起きていた