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人間七七四年:
島津の外城制や伊達の要害制は後進的で緩やかな治外法権国人連合で
合議制で判断する国人達にとって都合が良い
弱い指導力しか持たない旗頭を対外交渉役として担ぎ上げたに過ぎず、
ゆえに旗頭は戦に弱く国人達の脅威にならない人物が選ばれ、
いざ指令されても反発し国人達が徒党を組み分裂が生じるため即応性も低い。
長浜城から寡兵で播磨入りした秀吉如きに押されまくったり関ヶ原で戦わず崩壊した毛利や
北条のように秀吉との交渉において危機的な現状認識よりも派閥抗争を優先した結果、
小田原評定で方針が決まらずグズグズして自滅した北条なども
同様の豚のような肥大した非行率的中世組織である。
辺境ゆえ生き残れたのが島津や伊達だっただけ。