1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
戦国時代を生きた武将の中から名将を選りすぐって、関ヶ原合戦
における自分の好きな軍を妄想してみる。
主に関ヶ原以西の武将は西軍、以東を東軍に編成し近畿東海は
あやふやで良い。
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 20:46:48 ID:WGG68WrS
2
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 20:57:25 ID:BrD9fWgz
北から前田25000
東から秀忠35000
関ヶ原でも家康30000は戦っていないし
もうどうやっても西に勝ち目なし
毛利が動けばそれだけで西軍勝利だと思うが
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 15:15:56 ID:sBSHaRmm
>>4 1がいいたいのは理想の武将で布陣させて関が原合戦を
させたいということであろふ。
上杉景勝の代わりに上杉謙信
福島正則の変わりに武田信玄
毛利輝元の代わりに毛利元就
小早川秀秋の代わりに小早川隆景が
はいっていたらとか・・そういう話にしたいんだろ?
>>1
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 18:59:19 ID:+pIocMHc
イェス、マスター
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 13:59:40 ID:h+z50UUM
島津義弘・立花道雪・上杉謙信で三国志
【異名は】対決!関ヶ原【動物】
西軍
鍋島(化け猫)直茂
長曾我部(蝙蝠)元親
小早川(風見鶏)秀秋
竜造寺(クマー)隆信
豊臣(禿鼠)秀吉
東軍
徳川(古狸)家康
前田(忠犬)利家
伊達(独眼竜)政宗
最上(狐)義久
武田(ハッテン虎)信玄
最上義久って誰よ?義光だろ?
【お舞いらの】対決!関ヶ原【好物は】
西軍
豊臣(蒲鉾)秀頼
大友(鮑の腸)宗麟
立花(干飯)宗茂
石田(毒河豚)三成
加藤(稗粥)清正
東軍
上杉(梅干)謙信
真田(芋焼酎)信繁
北条(干栗)早雲
伊達(軍鶏鍋)政宗
徳川(焼味噌)家康
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 00:28:39 ID:fKjB9P8m
品川さんはスゲースゲー。関ヶ原は京都あたりで戦えば勝つんだよ。賢いな品川さん。
1582年
京都本能寺にて、明智光秀の軍勢に包囲された織田信長は、最後の奮闘を繰り広げていた。
信長は自害する為、本堂に火を放つが、そこへ信長の首を獲ろうと明智勢の兵が殺到し、
森蘭丸成利以下小姓達が信長を守ろうと必死の防戦ぶりを見せる。
その時、凄まじい閃光が信長と蘭丸達を包み、彼等の姿は消えてなくなった。
明智光秀は本能寺の焼け跡が信長を遺体を見つけ出す事ができなかった・・・。
1599年
炎の中で腹を切ろうとしていたはずの信長は、辺りが静まり返っている事を知り、
自分が見も知らぬ城下町にいる事に気づく。
先ほどまで死闘を繰り広げていた小姓達と明智勢の兵士の姿はなく、
代わりに自分を怪しげに見守る城下の民の姿があった。
そして、目の前ににはかつて信長が築いた安土よりも巨大な城がそびえ立っていた。
だが、その城下町の周囲の山々は信長にとって確かに見覚えのある光景であった。
自らが十年もかけて攻め落とした場所であるだけに見間違えるわけがない。
民衆達の通告よって衛兵達が現れ、信長は不審人物として捕らえられる。
事態を把握できない信長は衛兵達の成すがまま、牢に放り込まれる。
数日後、信長の元に1人の老人が面会に来る。
その人物は、信長の顔を一目見るや、衝撃をあらわにし、その場にひれ伏し、
これまでとは打って変わり、信長を丁重に扱い、自分の屋敷へと案内する。
その老人は、かつては信長の家臣であり、今や豊臣家五大老の1人である前田利家であった。
最初はその老人が利家だと分からない信長だが、信長と利家しか知らないはずの様々な事を話す内、
並外れた理解能力を持つ信長は即座に状況を把握する。
確かに自分は17年も先の世界に飛ばされたのであった。
利家は信長が天下から消えたのち、世の中がどのように変わっていったのかを話す。
そして利家は自らの寿命があとわずかである事を悟っており、
豊臣秀吉亡き後、徳川家康が天下を狙っている事を信長に伝え、 家康の天下取りを阻止せねばならないと信長に告げる。
だが、秀吉によって織田家をないがしろにされた信長は不満をあらわにし、 豊臣家の為に力を貸す事を拒む。
利家は信長に、再び天下を取る野心があるのかと尋ねるが、信長は何も答えなかった。
“前世”では、あれほど天下取りに燃えていた信長だったが、不思議と、この世界では天下を取ろうという野心が湧かなかった。
自分が消えてからいともたやすく織田家が衰退し、そしてまた秀吉が死んだ後、豊臣家が衰退しつつある現状に空しさを感じていた。
しかし、信長は豊臣家を思う利家の真剣な願いに心を揺り動かされつつあった。
そんな折、信長の元へ信長の次男・織田信雄が訪れる。
最初は相手が自分の父であると全く信じない信雄は信長をただの狂人とみなして罵倒するが、
信長に大喝を食らうと、その雷鳴のような怒声を浴びるや、たちまちその場にひれ伏し、相手が父である事を理解する。
その後、まもなく利家が病で倒れる。
利家の屋敷に見舞いに訪れた石田三成は、屋敷に居座る信長を見て、 若き日の記憶と寸分違わない信長の姿に衝撃を受ける。
一方、信長も、かつて秀吉が拾った小僧・佐吉の成長ぶりを見て、 そのただならぬ才覚を読み取り、
秀吉への絶対的な忠義には感服し、かつて猿と呼んだ草履取り時代の秀吉の姿を重ねていた。
そして最後まで自分に従った小姓・蘭丸を思い出す。
その頃、蘭丸も、坊丸、力丸の兄弟と共にこの時代へと現れていた。
彼等が訪れたのは、信濃川中島。
川中島城の現城主は、森千丸忠政。
蘭丸達の末弟であった。
(つづく)
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/15(日) 21:44:43 ID:kX7AGA/k
おまえら軍勢もってたらどっちに付くのよ?西方?
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 06:54:45 ID:SPD6Fgfi
信長は大阪を訪ねて秀頼と面会した。そして淀殿と関係を持った。その後、信長は
秀頼の後見人としての存在と化し秀頼直属の軍2万を掌握した。
その頃、家康は天下取りの布石を打つべく密使を各地の大名に送っていたが、なしのつぶてであった。やはり信長の存在が大きかったのである。
家康は焦った。死者が甦るわけがないと再三説得したが信長に恐れをなした諸大名は逆に家康を逆賊として糾弾した。
石田三成はニヤリとわらった。
島左近はフフフとわらった。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 07:04:29 ID:SPD6Fgfi
家康はたった。謀臣本多正信の制止を振り払った。秀吉の後は自分が天下を取るつもりだった。だからこそ、ここまで耐えて来た。もはや若くもない。ここで退けば、もはや一大名で終わるしかないのだ。
しかし、むやみに兵を興せばただの反乱になってしまう。家康は考えた。大阪にいる信長を名乗る者を討つという名目ならなんとかなりそうだ。
たしかに疑惑を持つ大名も多くいたわけで佐竹、真田、福島はすぐ呼応した。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 07:22:40 ID:SPD6Fgfi
しかし、それは信長と名乗る者の真偽を確かめたいという理由である。真偽を確かめずに兵を動かすわけにはいかない。
家康は信長が真の信長であることをすでにいち早く密偵により察していた。
逆に諸候はまだ動揺している。この機会を失えば天下は豊臣と信長のもと確固としたものになる。
家康は8万の兵を率いて西進した。
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 07:43:05 ID:SPD6Fgfi
信長は家康討伐を諸候に命じた。自らも旗本8千騎を率いて城をでた。上杉景勝佐竹義宣伊達政宗らは総勢5万を率いて南進し家康を追尾する。
なかなか面白いな
続き期待
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 12:41:16 ID:EG/wzyVE
やっぱ秀吉 vs 家康で
いやいや史実に無かった信長 vs 家康の方が
敵を作り易く、癇癪を起こしやすい信長の弱点を
持久派の家康がジリジリ削って行く感じがする
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 13:44:35 ID:dlhySo8f
秀頼が西軍につけばよいよな
普通に
てか信長生存説知りたいなら
仲路さとるさんの異戦国志読むといいよ
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 11:23:54 ID:z1tl86DA
職人まだー?
家康と毛利輝元が一騎打ちしたらどっちが勝つと思う?
家康
世辞や追従こみでも、馬乗や鉄砲は上手かったらしいし
夜の大阪の空に漂う雲は一段と低かった。
急に現れて一軍を率いていった信長に対する恐れを城中の誰もが抱いていた。秀頼の側近たちは信長を苦々しく思い、ある者は毛利に、またある者は前田に家康打倒後には信長を密かに討てと
秀頼の了解なしに命じた。
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 22:06:49 ID:iEM8/9Kt
全将兵六尺一枚のみが支給された状態で合戦開始。
>>25 そして新当流奥義皆伝。
槍でなく刀なら本多忠勝でも勝てない
信長の方は、愚連隊時代にケンカ三昧だろうから素手なら結構強そう
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 12:07:38 ID:AO56MqPo
8千騎もあれば信長軍単独行動も可能か?>18
@予備軍となって松尾山の小早川を監視
A桃配山の家康本隊を奇襲
B背後から池田/山内/浅野を攻撃して、長宗我部・秀元本隊・安国寺の強行北進を煽る
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/12(日) 23:09:27 ID:tIWvBz8h
岐阜城で信長は秀信と面会する。
父の西軍参戦を甚く喜ぶ秀信は、祝いの夜
信長に島津・長宗我部との気脈を薦める。
信長は、三成の反対を威圧し、島津の夜襲を実行に移させた。
島津1000・織田2200・宇喜多3000の軍が東軍野営を急襲。
二刻の混戦の中、井伊直政が討ち取られるという衝撃を東軍に及ぼす。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/14(火) 00:44:07 ID:GGZLGeKL
小説かいてくれ。{逆説関が原」のように
本は売れるぜ。俺も買う。信長が指揮したら、
関が原の西軍は文句なく、勝ったね。
家康より先に小早川を恫喝催促してたよね。
三成は、{物事には順番がある」といって
戦機を逸したが、その点、よみがえった信長
なら、{今、奇襲、夜襲で家康の首をあげられる」
として、必ず、やったであろう。
翌朝、東軍本陣は屍で溢れていた。
矢傷を追った傷兵達の中で、加藤嘉明が臥せっている。
家康は、本多に政宗の動向を確認した。
東国方面から東軍を追尾してきた伊達は、既に家康に調略され
中山道途上で進軍を止めていた。
兵力を温存しつつ、関が原での「信長」の去就を見極めようと腹を据え、
秀忠を引き付ける真田の如く、上杉を数十里から牽制している。
そして未の刻、松平が動く。
松平の発砲に着火され
宇喜多−福島を導火線に燃え広がり出す戦端。
北面の主力、黒田・細川は石田・島に強襲を掛ける。
小西は田中・筒井を迎え撃つ…
二刻が過ぎた。
藤堂と大谷が衝突する眼前を、稲葉正成と平岡頼勝は
うっすらと眺めている。
秀秋をいつ寝返らせればいいか。いや、寝返れるのか。二人は脂汗を流す。
二人の風下に居たのは・・・・。
関が原に覇王が射止めた陣地は、小早川の脇腹、牧田川北山麓であった。
34 :
名無しさん:2006/11/19(日) 03:08:46 ID:E6nsN5qK
スレヌシは戦国オタを超えて戦国症候群に入っちまった
症状がひどくなると戦国ボケになり平成の町を鎧兜で歩き出します。
石田も健闘する。徳川本軍までが西軍左翼に軍を投入する局面もあったが、よく渡り合っている。
石田の飴と織田の鞭に挟まれた小早川が、ついに軍配を振るった。
必死で押しとどめようとする平坂らを、松野重元らが厳重に牽制。
赤座、脇坂、朽木ら西軍右翼は我が目を疑った。
関が原に放たれた小早川が、
藤堂を、福島を、京極を飲み込んでいく。寺沢が戦線を支えに入っている。
如何する…藤堂を助けるべきか?
脇坂の出した結論は、東軍好転するまで総予備と称して事態を静観するという事だった
開始から六刻目。
織田軍7800が桃配山に進発。本多、平野が迎撃に入るが、拡散した小早川に側面を突かれている。
織田が書状で戦後論功で調略していた東端・長宗我部が、伝令を受けて動いた。
石田に比べ、人心掌握に長けた信長の後押しは大きかった。
これに呼応する秀元の1万8000
焦る吉川が、先発を乱す勿れと前面に妨害の兵を展開させるが、同時に動いた安国寺がこれを封殺。
秀元は迂回突破に成功し、浅野突破を図る。長宗我部と長束は池田と交戦。
西軍の「第二の鶴翼」が閉じていく。
徳川軍左翼に回り込んだ信長が、本隊を削り始める。毛利に対応している山内・蜂須賀・中村を割くことも能わず、中村が抑えに入る。
家康は亡霊との戦闘に激しく昂ぶる。姉川から付き従ったこの男を今の大軍で葬る事が、
天下の大業の使命に思えた。光秀もあの世でさぞ眼を見開いているだろう。
その時、家康の合図に答え、丸山から伊達がなだれ込んだ。
上杉を中山道に足止めしつつ、本隊がこちらに潜行していたのである。
家康を利用して、信長をこの眼で見定めたいと願う政宗。
織田7800・毛利1万8000と、家康3万・伊達1万2000という東西の顔触れが一堂に会し、戦局は乱れに乱れる。
開始から九刻目。
家康の鉄壁も、毛利と織田によって崩される。
石田の総掛かりと小早川の側面攻撃によって、最後尾の金森までが崩壊。
家康は捕縛され、伊達は落ちた。
半月後。
京を引き回された家康は、藤堂高虎・黒田長政と共に、天下を乱した犯罪人として、四条川原で斬刑に処された。
その死体には蝋燭が刺され、かの暴君董卓の如く、三日三晩燃え続けた。
吉川広家は厳重に幽閉され、病の内に生涯を閉じる。終盤まで参戦の遅れた脇坂らも、東軍との関係を指摘され減封、召上処分となった。
結城秀康は大阪に赴き、改めて豊臣への忠誠を誓った。
関が原で軍一つかけた伊達は、信長へ恭順を示した。
かつて太閤の仕えた男。三成も、織田をかつての輝元の様に重用する事になった。
信長を支持する毛利、前田から秀頼側近達の暗殺計画が露呈し、綱紀粛正と組織立て直しが図られた。
秀吉死後の瓦解した組織力の弱さを見た信長は、形式上の引退を宣言し、後継者と官僚組織の育成に奔走した。
海外の兵器・政治情報を密にし、国の防衛水準を上げていく。植民地ではなく、対等な国家として西欧と立ち、外洋に勇躍する事が豊臣の矜持と成った。
それには、民草の学問の向上も必要となるだろう。三成は、太閤のため信長と力を合わせる。
大坂・堺の港は、今日も南洋行きの船で溢れる。この数十年後には、遠く西欧への帆船も軒を並べることになるのである。
喜びに溢れる民。商工の世が、今鮮やかに色付く。
<終>
ちょwww
終わりかよwww
乙w
後日談
夜襲に続いて、西軍総掛かりの際に大軍功を挙げた島津も
その後雄藩として繁栄、数十年後には
宇喜多の貿易と並びリスボン、ロンドン、マルセイユにまで
貿易船を走らせる事となった。
ちょwww
野戦は一日で終るとは限らないじゃん!
もっと読みたいからもっと長引かせてくださいな(´・ω・`)
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
AHE