▼火縄銃について語ろう▲

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1名無しさん@お腹いっぱい。
実際にはどのくらいの威力があったのか?
どのように運用されていたのか?
各大名家の武将ごとの火縄銃の所持率は?
はたして鉄砲隊として一纏めにして運用できたのか?
などなど。
2名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 23:30:08 ID:rhW9ASHj
雨天時射撃不可。下向けると玉落ちます
3名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 00:33:12 ID:eituSkpb
今の日本では考えられませんが戦国時代は火縄銃を量産しまくったので世界でトップクラスの保有国でした。
4名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 00:53:01 ID:l993IK9N
現存している火縄銃は慶長以後のもので、戦国時代のものは皆無。
よって、江戸時代のものがほとんどな現存火縄銃を考古学的根拠に
戦国時代の火縄銃を云々する歴史家のバカさ加減にあきれる件について。
5名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 14:05:57 ID:FQE7hT0K
騎馬隊すら否定されてる今
騎馬鉄砲は完全妄想ですか?
6名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 15:41:33 ID:Jfsi7gzN
いや騎馬鉄砲隊は伊達家文書以外にも他家でもでてくるから実在かと
7名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 19:17:23 ID:FQE7hT0K
騎馬隊が否定されて騎馬鉄砲隊が肯定されるのはミラクルすぎるよ〜
8名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 22:52:49 ID:Hy4W0Rxr
そもそも騎馬隊を否定していることがおかしい。
騎乗突撃は日本の騎馬隊では難しかったあるいはできなかった。というべき。

実戦での効果はともかく、世界に騎乗突撃の例がないわけでもない。
トーナメントの語源を調べれば明らか。

もちろん、騎乗突撃は不可能でも、機動力を生かした騎馬隊は日本にもあった。
ないというなら鎌倉武士の立つ瀬がない。
そして流鏑馬があるのだから騎馬鉄砲隊は不思議ではない。
西洋にもあり、これを竜騎兵という。
9名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 23:29:42 ID:S61rJ8Sz
後の手放し自転車走行である。
10名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 23:59:12 ID:2twwhMUk
さすがに騎馬鉄砲隊はどうかと思う
よく知らんが江戸時代の伊達家の軍制にはないよね?
少なくても幕末にはいなかった気がする
何より当時の銃の性能じゃ役に立たなそうだし
11名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 01:57:57 ID:I+a9M3QZ
ああ、竜騎兵ってdragoonのことね?
でもあれって、確か火縄銃じゃなくてマスケット銃の時代じゃなかったっけ?
それに、騎射ではなくて、下馬して撃ってたというのをどっかで読んだ気はする。

まあ、実際古代の遊牧民もそうだし
源平のころの武士も貴社には長けていたらしいけど。
その伝統を受け継いだやぶさめもなかなかの命中率だし。
だけど、弓矢はともかくとして、
火縄銃(というか、先込め式の銃)で騎射は難しいんじゃない?
ひょっとしたら、訓練次第では騎射が出来る奴が何人かいたとしても、
まあ、ありえないというほどでもない気もするけど、
部隊を組めるほど熟達した精鋭がそろうかどうかは・・・
12名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 03:07:57 ID:WrrrJHE7
騎馬隊否定と言うのは騎馬武者を否定してるんじゃなくて
騎馬のみで編成された部隊の存在がないと言う事だよ
騎馬鉄砲と言っても一発撃ったらその後どうするのかと言うのが疑問だな
司馬小説の覇王の家だかで
史実かどうかしらんが本多忠勝が騎馬に鉄砲足軽乗せて移動し
敵部隊に近寄ったら馬を繋いで徒歩で近づいて鉄砲攻撃する
と言う戦術が書かれていたがあれなら納得いくけど
13名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 12:51:05 ID:uhW4J2cL
馬ってものすごく臆病な生き物だけど、
そんな爆音を頭上でならして大丈夫だったの?
14名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 13:10:05 ID:k6tZ4usz
まあ、訓練しないで撃ったら落馬して自分が死にそうだが
訓練すれば大丈夫かと
近代戦では機関銃の段幕や砲撃の中で騎兵隊や伝令が走りまわってたし
15名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 13:52:08 ID:3lTMm8/O
一発撃ったら終わりだろー。
弾込めながら敵軍に突進はないと思うよ。
16名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 14:30:04 ID:K3f0wRuI
一発打つと馬に乗って後方に下がり、装弾して移動、発砲という動作を数隊に分けて繰り返す
17名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 00:00:33 ID:qL3iosKH
一発撃ったら、槍なり刀なりに持ち変える、とか何かで読んだことがある。
突撃直前に一斉射→戦列が崩れたところに突入、見たいな感じだったような。
18名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 00:26:14 ID:hrRV0m8Z
それ騎馬と組合せる意味あるの…?
普通に鉄砲隊が撃った後に突入すればいいと思うけど
武器持ち替えてる時間無駄になるし…
19名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 13:34:02 ID:kjuyS6JO
これと似た戦法は,同時代のヨーロッパにあるので興味深いな。
カラコール戦法という。
歩兵の火力増強によって意味の薄れた騎兵の,新たな戦法として採用された。
前に出てピストル発射,交替,別の隊が前に出て発砲…を繰り返す。
ただ,それほど効果はなかった。
17世紀中頃,三十年戦争の時にスウェーデンのグスタフ・アドルフが,騎兵に対する抜刀突撃を騎兵の主な役割としたことで廃れた。
20名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 08:08:42 ID:gfnJJj3u
21名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 08:11:34 ID:gfnJJj3u

>>20

第55回 「歴史のなかの鉄炮伝来−種子島から戊辰戦争まで−」

22名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 20:06:21 ID:bcvau+8h
火縄銃の有効射程距離が50メートルそこそこなら速射に優れる弓矢の方が実戦においては役にたったのではないでしょうか。
23名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 20:14:18 ID:kIICDcRx
それでも鉄砲が重要視されて普及していたというのは事実なんで弓より有効だったのでしょう。
24名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 02:23:45 ID:27/P35yw
以前、NHK教育でやってた番組で、
一番多い負傷が、矢傷。鉄砲はその次で、この二つで40%くらいだったと記憶している。
その次が、投石。槍、と続いて、その下に刀傷。

戦場で間合いの差、というのがどれだけ重要化という話なんだが、
よくよく考えてみると、
矢傷が一番多いのには納得するだけの理由はある。

確かに鉄砲よりは射程、威力、使いやすさ(素人でも使える、という意味)、ともに劣るが、
コスト、速射性、扱いやすさ(メンテ性や重量、天候に左右される、という観点)では火縄銃に勝る。
何より、忘れがちなのは、
鉄砲が普及したからといって、それがすなわち、弓矢が武器としてすたれたわけではない、
ということだ。
火縄銃より威力で劣る、というが、火縄銃の普及で矢の殺傷能力が落ちた、というようなことはもちろんないわけで。
もちろん火縄銃が普及したのは事実だが、
弓とどちらが有効とかそういう優劣の問題はシチュエーションに左右される問題で、
むしろ、
弓と、火縄銃とは、「飛び道具」として、刀槍と比較されるべきではないか?
鉄砲の普及によって、矢傷が少なくなるよりは、むしろ、刀による負傷が少なくなった
25名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 02:43:59 ID:RdLabwdb
鉄砲は人も馬も脅かすからね。
味方を鼓舞するし。
今と違って鉛むき出しだから威力の割に殺傷力も高いだろう。
26名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 03:12:49 ID:NetnAEvk
弓の方が射程は長いけど鉄砲の方が命中率は高いだろうと思う
鉄砲の普及で戦死者数もかなり増えたし
改良を重ねて威力も精度も増し大坂の陣の頃には鉄砲がメインになっていた
27名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 03:37:39 ID:RIT2GUkM
まぁ騎馬隊よりは使えただろうな。
28名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 03:56:01 ID:7kXmvERP
>>24
他の板でもその鈴木氏のネタは話題になってたけど、戦傷と戦死の違いも考慮に入れなければならない。
この時代、鉄砲が普及したことで武具に変化が見られたことも事実。
鉄砲の普及率の上昇と反比例して弓の数が軍役に於いて減っているのも事実。
これらの事実を踏まえて導き出される結論は「戦場で鉄砲が重きをなしていた」こと、
「戦場の様相が一変した」ということ。
決してシチュエーションで評価が分かれたという単純なものではないだろう。
29名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 04:48:40 ID:X0uZ/u0o
火縄銃の実戦における運用・威力などが何で最近になって
いきなり「新発見」されるのだろうかね

旧日本軍はこういうのは研究調査してこなかったのかな
多くの実戦経験からフィードバックできる当時の軍人たちも
信長の三段撃ち、武田騎馬軍団とか疑問なく史実として受け止めていたの??
30名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 01:37:49 ID:o0s3tWpm
今現在の技術があったとして、当時日本国内で手に入る材料でどの程度良質な銃ができるのかな?
31名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 03:30:41 ID:g/bb+YxW
アルケブス銃の一種であるはずの火縄銃が流行ったのは
マスケット銃がでかすぎて扱いづらかったのが影響しているんだろうかね
32名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 04:56:52 ID:G7nGAV3x
「鉄砲、持ち込んだのは中国人?」歴博で企画展
国立歴史民俗博物館(千葉・佐倉)は、「歴史のなかの鉄砲伝来」(10月3日〜11月26日)と題する
企画展を開き、16世紀の砲術秘伝書や明治時代の米国製短銃など約300点を紹介。
ポルトガル人が種子島に持ち込んだとされる鉄砲が、実は倭寇(わこう)のジャンク船が伝えたという
新説も披露。火縄銃の発射機構を示したCGや当時の鉄砲の威力を試した実射実験結果など
興味深い研究成果も報告される。11月4日には火縄銃の実射演武を行う。

http://www.jiji.com/jc/c?g=ent2_tpc&k=2006090300060
33名無しさん:2006/09/09(土) 15:41:07 ID:blSu6Vp7
火縄銃がなかったら、信長は天下をとれてなかったし、武田家は滅亡していなかった。
34名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/09/17(日) 11:37:26 ID:Engzz7XY

一匁玉 口径 約 8.5mm 堺
二匁玉 口径 約 11.5mm 堺、国友
五匁玉 口径 約 14.8mm 堺、国友
六匁玉 口径 約 16.1mm 種子島
十匁玉 口径 約 18.5mm 一般的な戦国の鉄砲
三十匁 口径 約 27.5mm 紀伊、雑賀(諸説あり)
百匁玉 口径 約 39.5mm 所謂大筒

有効射程距離 約100M 〜 200M
(銃身や火薬量により射程、威力等は千差万別)

「匁」は銃口の直径でなく、弾丸の重量。
35名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 13:01:54 ID:NNITEhsZ
最大射程500m位
有効射程200m位だが
弓矢と違い鉛玉は見えないのが強み
50m位なら厚さ3mmの鉄板を貫通する威力。
36名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 13:22:04 ID:LfarzBHX
保存会の爺さんの話じゃ、意外に命中精度が高いそうな
若い時に使ってた、38式歩兵銃より狙いやすいって
なんでも、バネの関係で引き金が軽いとか…
37名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 15:41:12 ID:6ZZVXFwj
長篠、というか設楽原の資料館が結構立派で良かったよ。
触れる実機が置いてあって、カルカで突いたり、火蓋切ったり
擬似タイムアタックが出来るのさ。
館内は意外と武田びいきなので騎馬マンセーの人にも安心。

つっても、駅から資料館までの間でも馬場信春の墓とか原昌胤の墓とか
武将の墓だらけなんだけどね
38名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 17:17:16 ID:SUGGbYSH
>>36
発火方式が撃鉄じゃないから撃つ時の衝撃も少ないしね
39名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 20:02:40 ID:Cohtvskn
保存会って、古いのでも幕末の火縄銃を使ってるんだろ。
現存火縄銃は慶長以降の模造品が大半らしい。
40名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 12:40:23 ID:T9yf9HEe
寛文年間のレストア物で、「おどし鉄砲」に使ってた奴だと
まぁ、戦国期の火縄銃を使ってる団体はないでしょ
資料価値が高すぎて、怖くて使えんと思う
41名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/23(土) 22:40:42 ID:VjK58VZN
実際に人を射殺したことのある銃を使いたい気はしないな。
42名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 23:06:10 ID:F6eFfFl3
ところで日本の火縄銃って散弾は撃てるんですかね
銃身にライフル切られてないから多分いけると思うんだけど
43名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/30(土) 00:25:29 ID:iEpiYOdf
さー、コロコロコロ、カシュッカシュッカシュッ
カチ、かしゃ、カチンじゅっ、バウン!
44名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/30(土) 12:46:54 ID:CBfsIFlQ
>>42
百匁筒などを使えば、発射は可能だと思います
ただ、玉詰まりなどで銃身が破裂する危険性も高そうですね
45名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/30(土) 15:15:24 ID:ESnNWoo0
にこだま(字は忘れてた)って言って、弾を二発と、火薬を二倍弱入れる打ち方があったらしい。
ただし、すごく射程が短くてなるし、暴発の危険性が高いため、ほとんど使わない技術だったらしいけど。
46名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 21:28:46 ID:fVhWUekQ
日本だとラッパ銃は流行らなかったな
47名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 01:05:47 ID:0aF7ciDX
戦国後期の日本では、
弾の径をだんだん小さくして行くことで発射速度が落ちる事を防いでいました。
48名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 14:55:30 ID:53bZeyOL
96 名前:名無しさん@七周年[sage] 投稿日:2006/11/28(火) 00:29:34 ID:bsTOpiiy0
その昔、宮本武蔵という剣豪は飛んでいる銃弾を
箸で捕らえたそうな。

102 名前:名無しさん@七周年[sage] 投稿日:2006/11/28(火) 00:46:01 ID:+fMbiddt0
>>96
江戸時代に銃があるかよw


【お前、俺を撃ったなー】夫婦喧嘩で妻が夫の背後にまわり頭部に銃弾を発射 しかし安楽椅子が銃弾から身を守る=カリフォルニア
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1164634886/
49名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/12(火) 03:42:53 ID:1DdznVIh
火縄銃の高速リロードやる人そろそろ出ないかな
50名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/12(火) 04:51:05 ID:OS3TdX7l
>>49
なぜか、マトリクスを思い出した。

武将が、足軽鉄砲隊の一斉射撃を、マトリクスよけ・・・

もう寝ます。
51名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/13(水) 00:24:39 ID:uprW5mYV
武田軍のある武将は背が小さすぎたので弾がなかなか当たらず、
敵鉄砲隊の前の柵にまでたどり着いたがそこでやられたとか。
52名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/14(日) 20:39:39 ID:PtZ9B0/g
近江で鉄砲生産が盛んだったのは足利義晴が国友の刀鍛冶に複製を命じたからだっけ?
で、その複製元になったのが種子島時堯が買った二丁の内の一丁と。
53名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/14(日) 20:57:34 ID:gHsgkpQr
>>51
猫口君のことか
54名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/14(日) 21:48:46 ID:GGP8InN/
射程距離はどの位なんですか!
55名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/14(日) 22:33:26 ID:88hKv9fA
>>54
我慢した日数・・年数の人もいるかも?
目標が美人かブスか
始めての人かズブズブの関係か・・

すれ違いスマヌ!
56名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 08:16:48 ID:yGbDfRte
七人の侍では「種子島」って呼ばれてるね。
57名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 11:02:04 ID:HMZZIiBn
火縄銃って戦国期に改良されたりしたんですか?
種子島に伝わった銃の同型を生産しまくっただけ?
58名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 11:42:18 ID:wgBnewve
基本的には全く同じ
銃身長くしたり小型化、大型化したりとした改良はあったが構造は同じ
後のゲーベル銃のような燧石式の銃も既に存在していたが普及しなかったようだ
その後もこれといった開発が行われる事もなく19世紀まで火繩銃は生産され
日本の火器は大幅に遅れをとることとなる
59戦国好き コメントレベル1:2007/02/10(土) 12:40:46 ID:kCdlFnG8
戦国時代、破竹の勢いで火縄銃の量産化が進んだ当初。
火縄銃は命中精度が非常に悪く
雨が降り火縄が湿るor火縄が消えると使えない。
一発ずつしか撃てない。撃つまでに時間がかかる。
晴れすぎると、いざというときに火縄が早く燃え切ってしまい、使えない。
射程が短い。下を向けると、弾が転がり落ちてしまう。
5〜6発も撃つと、筒内に火薬カスがこびりつき、小さい弾でなければ撃てない。
という欠点が多く。とても使えたものでなかった。
しかし、日本の先人達は独自の発想、技術でこれらのいくつかの欠点を
克服していったのである…。  つづく…
60戦国好き コメントレベル1:2007/02/10(土) 13:04:00 ID:kCdlFnG8
雨が降ると使えない→(火縄を薬品をといた水で煮て防水加工など人により様々…)
晴れすぎで…以下略→(火縄を逆に少々湿らす)
下を向けると…以下略→(弾の上からも火薬を入れて抑えておいた)
射程が短い→(日本の技術により当初よりは伸びた)
等、他にも様々…
戦国という時代が武器を向上させた。江戸になると平和なので
武器が戦国時代と違い急激に成長する事がなかった…


61名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 15:09:22 ID:wgBnewve
それ使い方の問題で銃自体の改良ではないじゃん
62名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/10(土) 15:13:02 ID:zrWjLINt
>>60
何か具体的な史料に基づいて語ってるのか?
現存する鉄砲、取り扱い方法は江戸時代に製作されたものばかりだぞ。
上杉文書にある「鉄砲並びに火薬調合法」(永禄二年)が唯一の戦国史料のはずだが?
63人間七七四年:2007/02/14(水) 15:21:39 ID:ClwUHgoe
>>62
その文書、大友から将軍家経由で長尾家に伝わった奴だっけ?
64人間七七四年:2007/02/14(水) 18:10:36 ID:qsRonfzM
西欧で銃が改良されたのは軍制や戦闘方式が変わったからじゃない?
しかもそれは速射性とか軽便化とかの方向の発展で、
ライフリングが一般化するまでは命中率に関しては
発射時の衝撃の少ない火縄銃は優秀だったと思うけど…
65人間七七四年:2007/02/15(木) 20:22:29 ID:XuIfB+PD
伝来時の価格 一丁200万円
大坂の役ごろの価格 一丁2万円
66人間七七四年:2007/03/10(土) 19:39:18 ID:HAV/uZdD
保守age
67人間七七四年:2007/03/11(日) 11:14:37 ID:o6OR0BkK
>>29
NHKで見たが旧日本軍はガダルカナルで弾薬を節約するために
出来る事なら銃剣で突けといっていたくらいだから頭が退化して
いたんだろうな
68人間七七四年:2007/03/11(日) 11:17:35 ID:iZFsFXkL
>>67
頭が退化していたというよりも、兵站を軽視していた軍上層部の責任。
補給が充分ではない戦場の軍人のやむをえない判断だったのだろう。
69人間七七四年:2007/03/27(火) 09:25:36 ID:bngQk6i6
火縄銃のカラクリ部分が好き。
でも資料しか見たことがないから実物見たい。
盗人金の支点はどこに固定されているのかとか。
70足軽:2007/04/19(木) 12:32:56 ID:NveWxOng
日本で幕末まで火縄銃が使われていたのには理由があります。
燧石式では火打石が使われますが、日本製の火打石の火花は小さく不発が起き易い。
火花を起こすためには強力なバネが必要。強力なバネを使用することで、銃身がぶれ命中率が落ちると理由があるそうです。ショックが少ない火縄銃が使われたのは理由になると思います。
火縄銃は雨の中でも撃てます。土砂降りでもなければ、口薬は火蓋の中にあるわけで、火縄の火は雨が当たらないように点火部を手で覆う等保護すればよいわけです。
発射直前に火蓋を切れば、ほとんど不発は在りません。
71人間七七四年:2007/04/19(木) 23:56:57 ID:AM6vQNay
5月5日に長篠城跡で火縄銃の実演があるので見に行こうと思います。
72人間七七四年:2007/04/20(金) 01:56:31 ID:KW/c30ad
>>71
マジでやるの?
見に行きたい・・・
ソースとかある?
73人間七七四年:2007/04/20(金) 23:52:16 ID:5Z3mQWz2
>>72
ttp://www.honokuni.or.jp/hourai/vna-2007.html
ttp://www.honokuni.or.jp/hourai/vna.html

火縄銃射撃の実演
・米沢藩稲富流砲術隊
・日本前装銃射撃連盟
・長篠・設楽原鉄砲隊

昨年に見学に行ったところ、日本前装銃射撃連盟が
大筒(抱え筒)の実演を行いました。
土嚢へ銃身を依託しての試射でしたが、通常の
火縄銃よりも大きな発射音が迫力ありました。
74人間七七四年:2007/04/21(土) 01:15:01 ID:t9WSN+IG
既出かもしれませんが、東京は新大久保駅改札から左手交番すぐの皆中神社
(かいちゅう=みな当たるの意)では、2年に一度、だいたい9月の最終日曜日に
鉄砲百人組の行列があり、最終、戸山公園までの間、町内各所で火縄をぶっ放す
(実弾はなし)。総武線大久保駅前のホテル海洋前が一回目。ホテル前から
道路に向かって撃つので、海洋入り口前でやや早めに待っているとよい。
もう一度見たければ、次のNTT前でもやるので、行列について行けば何度でも
楽しめます。多分今年はやる年だと思われますので、近くの方は調査のうえ、
お出かけ下さい。東京の人も意外とこの祭りは知りません。
75人間七七四年:2007/04/21(土) 01:35:47 ID:r+x3d6Fw
>>73
ありがとう!
5月5日楽しみだ
76人間七七四年:2007/04/21(土) 02:24:15 ID:YMSgnUbE
>>70
雨天時は漆塗りの木箱をカラクリの上につけて雨を防いでいた
77人間七七四年:2007/05/27(日) 12:05:49 ID:N7926Zja
78人間七七四年:2007/05/28(月) 21:42:13 ID:MsMOPXXH
雑賀の鉄砲集団と織田の鉄砲隊はどちらが優秀?
79人間七七四年:2007/05/28(月) 21:58:25 ID:oPwN7Ays
そんなグリーンジャケットとレッドコートを同列に並べるような事を聞かれても。
80人間七七四年:2007/05/28(月) 22:34:07 ID:NXGUSdYA
火縄銃のカラクリ部分って結構部品点数が多いんだよね。

以前はなんかの話で、砲身の底部を塞ぐ「ネジ」が日本の技術として
なかったので、国産化に苦労したなんて紹介されていて、
「うはー、当時の技術水準低すぎw」なんて思っていた。

今では火縄銃の分解写真をみるにつけ、こんなんを国産化して
大量生産した当時の工業力ってなかなかなんじゃないかと見直して
しまった。
81人間七七四年:2007/06/24(日) 00:22:34 ID:U7rk0FZH
当時のヨーロッパよりも多かったもんな保有数。
82焚きファイヤ ◆IpSLd1HMDY :2007/06/24(日) 00:35:38 ID:Uk6tNKeF
天候に関してだが初期の鉄砲は雨では撃てないが改良が進み
「火口に火皿覆いを付けて水の浸入を防ぐ」
「火縄に漆を塗り雨でも燃える(雨火縄)」
が開発されたことで嵐でもない限り
(そもそも嵐だと視界が悪くて乱戦になり鉄砲が使えない)
は雨でも使用が可能になっているから天候はそこまで関係がなくなる
83人間七七四年:2007/06/24(日) 01:18:13 ID:3TkzkX3j
>73
いいなぁ
俺なんぞ佐倉の時代祭りで
「火縄銃撃つよ」って宣伝してたんで見に行ったら
火縄銃の分際で動力源が単一電池で
物凄くガッカリした哀しい出来事が
84人間七七四年:2007/06/27(水) 09:55:32 ID:hSug+Wtf
火縄銃と三八式歩兵銃、どちらが性能が上かな?
85人間七七四年:2007/06/29(金) 22:27:50 ID:T4me70a6
>>84
その答えはあなたの心の中に。

東郷隆みたいな銃器に詳しい人でも、頭に血が上ってくると
「火縄銃と三八式歩兵銃なんて似たような物」
とか言っちゃう位だから、如何なる知識もあなたの持っている
信念には勝てません。

さぁ、思いっきり旧軍を腐しなさい。
86人間七七四年:2007/07/13(金) 23:55:46 ID:m2j1PpEP
age
87人間七七四年:2007/07/14(土) 14:50:55 ID:LWGkL/f+
>>85
正解は
幕末の火縄銃とスナイドル銃以降の洋銃=三八式歩兵銃とアメリカの歩兵銃(M1カービンとか)
ですかね。
対戦相手を知らない度では幕末と旧軍どっちもどっちだと思います。
88人間七七四年:2007/07/14(土) 22:37:20 ID:0GwVvOJR
だが、45口径に対応するように、改良した化け物のように威力のある三八式歩兵銃も存在するぞ。
89人間七七四年:2007/07/14(土) 23:05:35 ID:n2vzJ4o6
まあ、その後のアサルトライフルの進化みれば対人用の歩兵銃にそんな威力なんか必要なかった
(7.62mm弱装弾→5.56mm弾)わけだが。

逆に装甲目標相手だと馬鹿でかい対物ライフルですら装甲に負けてるわけだし。

残ったのはせいぜい狙撃用ぐらいだな。
90人間七七四年:2007/07/15(日) 03:49:28 ID:9Ewb5Zwh
貫通力・弾道の低伸性はともかく、人体に当ったときの破壊力では火縄銃のほうがひどいよ。
鉛玉のうえに標準的な6匁玉で弾径が16mmくらいあるから。

西洋では17世紀以降小口径・長銃身化が進んでだんだん口径が小さくなっていく。
現代の小銃弾は相手の戦闘力を奪うことが目的なわけで、
口径を小さくして携行弾数を増やした方が合理的。
91一銃士(a musketeer):2007/07/22(日) 00:08:51 ID:uV/pRXuz
西洋ではっきり小口径化と云えるるようになったのは、19世紀後半以降
無煙火薬が一般化して後と思うが?
幕末頃までの西洋の歩兵銃は15〜17ミリ位の口径が一般的で、当時日本の番筒(鉄砲組用の銃)
が13ミリ程度が普通であったのに比べると、(士筒を除けば)西洋>日本
92人間七七四年:2007/07/22(日) 07:03:10 ID:CKt/2r9c
わしのひなわじゅうは連発式!女子高校生
93人間七七四年:2007/07/22(日) 11:05:49 ID:qKx8zR8b
>>68
さらに、補給が届いても、徒歩で行軍しなければならない日本兵は
30kgの兵装に耐え切れず、行軍の最中に弾薬を捨てる連中も多かった
94人間七七四年:2007/07/24(火) 06:07:37 ID:2uS7k6BU
>>82
確かに雨でも使えるようにはなったが
あくまでも使えなくなるわけでは無い程度

雨だと不発率はあがるし、装填などの運用で手間が増えるし気を遣うから
晴れてる日と同じ効果は期待できない

もっとも撃てるようになっただけでも格段の進歩だけど
95テ ラ 高 ス:2007/07/26(木) 15:21:32 ID:MIlinmQs
96テ ラ 高 ス:2007/07/26(木) 15:25:36 ID:MIlinmQs
97人間七七四年:2007/08/26(日) 00:29:51 ID:uOC63f0G
age
98人間七七四年:2007/09/24(月) 18:49:45 ID:cbtzkeTl
名人クラスになると弓の方が命中率が高そうだな。
99人間七七四年:2007/09/24(月) 19:30:19 ID:qNVtfSS/
どうだろう。火縄銃で400m先の的を狙う競技もあったらしい
弓道経験者によれば、普通の人間を狙って射れる限界は50m以内、
騎馬武者みたいな大きい的は70m以内だそう
火縄銃競技やってる人だと、100m先の人間にかなりの確率で命中させられ、
胴体に当たった場合鉛弾がひしゃげたり割れたりして人体を破壊し、まず死ぬだろうとのこと。
弓も鉄砲も標的は動いてるからタイムラグがあるよね。
100人間七七四年:2007/09/25(火) 03:15:12 ID:IKxvn/yW
>弓道経験者によれば、普通の人間を狙って射れる限界は50m以内、

そんなわけない。
それじゃ弓道の遠的(60メートル)が成り立たないだろ。
101人間七七四年:2007/09/25(火) 03:39:27 ID:M0LEMR57
弓道の的は動いてるのか?
102人間七七四年:2007/09/25(火) 05:11:15 ID:p0kuZ7pG
弓も鉄砲みたいに弾幕を張ったりすれば、命中率が低くても良さ気。
103人間七七四年:2007/09/25(火) 16:43:03 ID:IKxvn/yW
鉄砲玉は鉛を鋳型に入れて作るだけの簡単なものだけど
矢は一本一本が手作りの精巧な工芸品で、持ち運びも嵩張るから携行数も少なくなる。
命中率が低くい使い方はできん。
104人間七七四年:2007/09/26(水) 01:49:35 ID:NenJ/iB8
銃が弓矢を駆逐して普及した主な理由として、威力や射程の優越と矢弾のダウンサイジングとかは良く聞くけど、
他板のスレでその他の理由の一つにユーザーの裾野を広げたってのがあったのを読んだ事がある。

1・銃やクロスボウは弓と比べて命中精度が高いので技量の低い者でも扱える。
2・銃はクロスボウと比べて装填に体力を必要としないので非力な者でも扱える。

この2大要因によって大量動員をかけ易くなったって主旨のレスがあった。
理由1は良く見るけど、理由2は正直盲点だった。クロスボウは撃つだけなら体力はいらないけど、
装填となると巻き上げ器を使ってなお腕力がいるからね。
ただ、これらはあくまでヨーロッパでの事情だから、戦国時代での銃と大量動員の関連性はどんなもんだったんだろう?
105人間七七四年:2007/09/26(水) 20:50:56 ID:CI5uvJ3H
弓も腕力いるぞ。
戦国日本では女でも使ってたらしい。
106人間七七四年:2007/09/27(木) 13:43:10 ID:SFg6xi8c
弓は腕力も含めての「技量」でしょう。
どちらにしても大量動員には向かない、と。
107人間七七四年:2007/09/27(木) 15:50:22 ID:5JAP7Jpc
まとめると、

弓・・・・・・・・・・技量も腕力も要る
クロスボウ・・・技量は要らないが腕力は要る
銃・・・・・・・・・・技量も腕力も要らない

って事になるのかな。確かに使用可能なユーザーは銃が一番多いね。
108人間七七四年:2007/09/27(木) 17:20:47 ID:8XJe8r+N
技量も腕力もいらない、と書くと誤解されそうだけどね。
しかし相対的にはそういう事だろう。
109人間七七四年:2007/09/28(金) 23:27:10 ID:VxN/4idA
たしかに素人が弓を実戦で使用するまでの訓練を考えれば、
鉄砲は比較的技量はいらないだろう。
弓は動力が人力でコツが要り、鉄砲は火薬の爆発が動力だから。
ただ装填手順なんかを考えればやっぱり訓練は必要だし、照準は技量で左右されるもんだな
110人間七七四年:2007/10/24(水) 22:55:19 ID:pYbZbL7b
age
111人間七七四年:2007/10/24(水) 23:20:58 ID:mV+EWSJn
射撃の技量なら鉄砲の方が簡単なのだろう。
オリンピックのエアライフルとアーチェーリーの的の大きさなんて、エアライフルの的は数センチくらいだぞw
112人間七七四年:2007/10/25(木) 02:08:40 ID:cljSXev3
最大の差は威力だろ
113人間七七四年:2007/10/25(木) 16:18:21 ID:h2Uik5Nb
104-109の言うように、大量動員に向いていたからだと思う。
114人間七七四年:2007/10/25(木) 17:12:58 ID:3KOYQgSt
>>111
エアライフル(10メートル)の10点の大きさは0.5o。
115人間七七四年:2007/11/10(土) 14:29:24 ID:FZUEYQmq
【社会 】 直接19〜71歳女性に精液をかけていた18歳変態少年、“早撃ちマック”と呼ばれていた…大阪
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1194670944/
116人間七七四年:2007/11/25(日) 00:15:37 ID:9rZsmhOy
 
117人間七七四年:2007/11/25(日) 04:19:58 ID:COWjrX+c
>100

遠的の標的の的はかなり大きい。
しかも弓もかなり上向きに放つので狙うというよりも、
日頃の練習と勘、放物線予測で“だいだいこんなもんだ”的なアバウトでしか放てない
118人間七七四年:2007/11/30(金) 19:02:01 ID:wv5AuBLV
ごちゃごちゃ言ったところで
人間の暴露面積と同じ程度の的に当たるんだから問題なし。
100mのスーパー遠的もあるくらい。
119人間七七四年:2007/11/30(金) 20:49:35 ID:V340MA4B
届くのと当たるのは似てるようで違う
120117:2007/12/01(土) 08:16:25 ID:fIeiD+ML
>>118
弓道やった事ない勉強机くんだな
100mも離れたら、さらに「狙う」とは程遠い。
弓道で、より的の真ん中に当てて競うのは同得点の場合くらいしか使わない。
基本的に、的のどこかに当たればいいって感じだから

121人間七七四年:2007/12/02(日) 00:28:09 ID:dhOmgXv+
別に真ん中を狙うんじゃなくて的を狙って当たるんだからそれでいいだろw
実戦だって人間の真ん中に当てようって物じゃない。
基本的に、人間のどこかに当たればいいって感じだから
122人間七七四年:2007/12/02(日) 01:08:45 ID:Hkc6mjPd
100m先の人間がずーと止まって居てくれるとは思わんが
そもそも、そんなに離れた場所では矢の威力も無いんじゃないか?
123人間七七四年:2007/12/02(日) 21:40:12 ID:dhOmgXv+
>>122が言うには距離100mだと当たらないし、威力も無いらしい。
ならば、誰か100mの距離から>>122を弓矢で射てやれ。
>>122は平気だそうだw
124人間七七四年:2007/12/03(月) 00:17:57 ID:T/GBoK8P
何か必死な奴がいるな、おちつけよ。
125人間七七四年:2007/12/03(月) 00:39:37 ID:pPU+U2a8
落ち着いてるよ
126人間七七四年:2007/12/03(月) 01:15:33 ID:sf+3OvMS
100m向こうから飛んでくる矢なら避ける事も出来るんじゃないか?
127人間七七四年:2007/12/03(月) 13:52:48 ID:pPU+U2a8
>>126
自ら実験台になって証明してほしい。
実際に雨霰のように飛んでくる矢を
かわしまくるところを撮影して
you yubeにでもupしたら君は神。
128人間七七四年:2007/12/03(月) 14:33:30 ID:944SKzfc
なんで必死なの?
129人間七七四年:2007/12/03(月) 14:52:47 ID:lm67nlQQ
100M先からの矢は野球場の外野席でホームランボール避ける様なものだろ
いっぱい飛んできたら避けるより払うほうが正解と思われる
ただ矢の精度によっては曲がってきたり渦状に飛んでくるだろうから結構怖いね
130人間七七四年:2007/12/03(月) 23:12:35 ID:pPU+U2a8
>>128
なんで必死なの?
131117:2007/12/06(木) 19:06:21 ID:9ynFDgpu
総じて、「人を狙える」範囲ってのは>>99のいうように50m以内というのは
私の弓道経験から言っても納得。その99の主張を踏まえて発言したんだが。
体験してみれば分るとおもうけどね

>>121:基本的に、人間のどこかに当たればいいって感じだから

これは集団戦の弾幕効果の役割の主張でしかない。
自ら、100mも離れると「人を狙って射る」ではない事を主張しているようなものw








132人間七七四年:2007/12/06(木) 22:12:28 ID:mKvBbuKl
>>131
弾幕の効果は有るだろうね。当たらなくても進軍を防げればそれで
目的は達するからな
133117:2007/12/06(木) 23:21:03 ID:9ynFDgpu
矢数によるけど、100mなら障害物がなく弾道を発射段階から察知していれば避けれる可能性は高いです。
装備なしの身軽で反応が良ければ、20mでもなんとかいけると思う。
正規の弓の引き方は頭の後ろまで引き絞るから両手が一直線上でないと真っ直ぐには飛ばないし、
さらに弓の反し(クルっと回す)とかもやらないといけないから
元々「狙う」という行為の前提にかなり難があります。
当て射といわれるアーチェリーみたいな放ち方もありますが、その場合は威力もかなり減ります。

123のような“じゃあ、やってみろ”の低レベルの議論は御免被るけどw
134人間七七四年:2007/12/07(金) 00:02:45 ID:4+kC3Rl6
先人は言う

「論より証拠」

135人間七七四年:2007/12/07(金) 00:05:40 ID:xJjq0LwR
鉄砲もそうだけど、弓なんかは大勢で一斉に撃たないと意味無いだろうな
136人間七七四年:2007/12/08(土) 07:02:20 ID:fy1Qw3AE
テレビで東南アジアの子どもが谷を挟んで矢で的を射かけ合って遊んでるのを見たことが有ります。
スタッフによると100メートル以上は軽く越えている的にポンポン当てていました。
さらに、年長の少年が的からはずた矢をダイレクトでキャッチして射返してました。それが出来るのは村ではその少年だけで、飛んで来る矢が自分に当たると気ずいても、避けれない。(たぶん、気ずいてから避けようとしても間に合わない。)と他の子どもが言ってました。
参考になるでしょうか?
137人間七七四年:2007/12/11(火) 20:22:17 ID:oINHpgXz
気になるんだが、左目で狙わざるを得ない伊達政宗って、
右側に火蓋とかある火縄鉄砲は使えたんかいな?
発射の爆発で火縄も吹っ飛ぶから顔右半分かなり危なそうだが…
そこんとこ、火縄鉄砲経験者がいたら注釈してたもれ

政宗は左側に火蓋など装置が付いた特別な鉄砲を使用してたんかな?

>>136
放物線の弾道(滞空時間)&飛翔時の目視できる程度矢の長さがあれば、一応認識はできますよ。
水平発射(距離把握ができない)&短い矢なら、ほぼ無理。
アーチェリーは弾速も早いし、マジで怖い!
138人間七七四年:2007/12/16(日) 12:48:18 ID:7yJWkORh
質問ですが、先込め銃って下向きに撃とうとしたとき、
弾は転げ落ちないんですか?
139人間七七四年:2007/12/16(日) 19:14:57 ID:hyiKnpZ/
転げ落ちないように、紙詰めたりする
140人間七七四年:2007/12/17(月) 00:14:42 ID:E2BTbM59
なるほど、コロンブスの卵ですね。
サンクスです。
141人間七七四年:2007/12/17(月) 21:09:47 ID:ohg4hKGw
>>139
何かの歴史雑誌で、つるべ打ちの体勢を
カルカ(棒)で詰めると下向きでも不思議と落ちないと記載してた
142人間七七四年:2007/12/17(月) 23:08:45 ID:xHEwC9Qq
騎乗したままの射撃は稲富流砲術書に残ってるよ。
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/glim/common/image/inatomi1.jpg
143人間七七四年:2007/12/17(月) 23:24:54 ID:OUmbqWsH
そういや火縄銃ってえらい銃身長いのがあるが
水平に構えるだけで大変だな。
144人間七七四年:2007/12/18(火) 08:01:25 ID:SN9qAW5B
狭間銃は全長150cm以上あるよ。
でも、これは城の狭間からつき出して使用するので、それほどつらくないと思う。
145人間七七四年:2007/12/18(火) 21:26:24 ID:dooQ3PDB
>>144
当時の平均身長ってそれ位だっけ?
146人間七七四年:2007/12/18(火) 22:20:26 ID:VGSF0DYV
159ぐらいじゃなかったっけ?
147人間七七四年:2007/12/19(水) 00:23:48 ID:l900FpTk
>>142
つうか実際の騎馬鉄砲ってのはこんな感じだと思うんだが
▲:鉄砲撃つ人
●:弾を込める人
○:槍で守ってる人
    ○
●●●○
●▲●○
●●●○
    ○

148人間七七四年:2008/01/02(水) 19:33:45 ID:CT2iJi3K
この真ん中の奴ではじいてやっぞ。
http://www.geocities.jp/shimizuke1955/2090hinawa1.jpg
149人間七七四年:2008/01/02(水) 23:16:48 ID:jlTG2Boo
>>148
抱えの大筒以外にもこんなブッ飛んだ火縄銃があるとは・・・
西部劇漫画『RED』でも、元薩摩藩士のスナイパーがこんな銃を使ってたけど、
まさか本当に実在してたとはなぁ・・・
150人間七七四年:2008/01/04(金) 18:30:28 ID:SKPSC3zj
         O)二)))(・ω・`)
   0二━━ )____)┐ノヽ
         A   ||ミ|\ くく


         __O)二)))(´・ω・`)
   0二━━ )____)┐ノヽ
         A   ||ミ|\ くく


              .○ω・`)
             (●)┐ノ)
              A  くく

狙撃手「火縄銃で狙撃は出来るのかい?」
151人間七七四年:2008/01/04(金) 21:56:37 ID:O7CM7Ld1
>149 あれは城の防衛用。最初から銃眼に依拠して撃つ前提で造ってる。腕だけで持つわけじゃないよ。
152人間七七四年:2008/01/04(金) 22:21:55 ID:DP+k3xZD
>>148
>144の狭間銃じゃないか・・・・・・
153人間七七四年:2008/01/05(土) 08:42:37 ID:ahojV5Oe
しかもストックがないな。
154人間七七四年:2008/01/05(土) 21:46:21 ID:TlPA3OKM
狭間銃ってはんぱないね。
上の普通の火縄銃だって小さいわけじゃなかろうに。
対戦車ライフルみたいだ。
155人間七七四年:2008/01/06(日) 05:08:30 ID:pTC1LPTd
狭間筒の中でも『大狭間筒』と呼ばれているもの
tp://www.japaneseweapons.com/hinawajyu/shurui/ohazama.jpg

上のが通常サイズの火縄銃
156人間七七四年:2008/02/24(日) 17:07:40 ID:OsR6qpvw
現代のショットガンのスラッグ弾と比べてエネルギーはどんなもんだったのかね?
最近のショットガンスラッグで強力な3インチマグナムなら3,000ft-lbs以上の
エネルギー数値があるんだが。
157人間七七四年:2008/02/24(日) 17:14:40 ID:OsR6qpvw
>>99
火縄銃競技と合戦などで動いてる人間に当てるのは全く違うからね。
現代の狩猟でも標的射撃よりはクレー射撃の感覚に近い訳だし、
動標的に的中させるにはリードを取ったりして先読みができないと当たらない。
現実的に考えて火縄銃の精度なら実戦で使える距離は30m以内だろうな。
相手が止まって待っててくれるならはなしは別だけどね。
158人間七七四年:2008/02/28(木) 21:32:07 ID:iVSHo27q
なんで火縄銃はストックが無いんだ?
159人間七七四年:2008/02/28(木) 23:11:49 ID:iDnH+6fR
元々、銃床を肩に当てる事が出来ない西洋の鎧を着た状態で撃てるように設計されているから。
160人間七七四年:2008/02/29(金) 04:06:51 ID:fWwlPmBE
その理由だと、ヨーロッパの火縄銃やマスケット銃は短床型が多数派のはずだが実際は逆。
短床型は東南アジアや日本で多数派を占める。
日本の火縄銃が短床型なのはベースとなった火縄銃が東南アジア産の鳥打用の短床型火縄銃だったから。
短床型のベースとなったのはどうやらクロスボウらしい

日本で肩当ストック型が流行らなかったのは、
鎧を着た状態での射撃に向かなかったこと等が上げられている
161人間七七四年:2008/03/01(土) 13:10:53 ID:pcm1VXZU
狭間銃って何を標的にするの?人の集団?
162人間七七四年:2008/03/01(土) 22:44:42 ID:u2wL7TKZ
狭間銃>対人用

>火縄銃の射程は30メートル
動き回っている人間を『狙撃』する場合の射程じゃな
日本における火縄銃の個人的な運用は、日本独特の風潮で狙撃を重点にしているけど
部隊としての運用は、隊列を組んだ部隊に対して射撃を行うもの。
標的は『人一人』はなく、『人で出来た幅十数メートルほどの壁』なんだな
よってもっと射程は延びる。
163人間七七四年:2008/03/13(木) 10:58:29 ID:r+LZEtb9
>>147
俺が▲だったら●に撃たせる
164人間七七四年:2008/03/19(水) 22:39:23 ID:DvdqLIXs
>>157
実戦では220m以遠から射撃開始していたらしい
密集した相手に精密射撃は不要じゃないの
165人間七七四年:2008/04/06(日) 22:42:44 ID:2BMu51xD
age
166人間七七四年:2008/04/13(日) 14:58:49 ID:cJyfwj5t
>>160
>日本の火縄銃が短床型なのはベースとなった火縄銃が東南アジア産の鳥打用の短床型火縄銃だったから。

それもちがう
実際はポルトガルの海上戦闘用アルケブスがモデル

東南アジア産という説を流した宇田川氏だが自分の説を立証する為には
火縄銃がポルトガル製では都合が悪いからとりあえず日本の物と似ている
東南アジアをベースと主張したわけ

宇田川氏は日本の鉄砲には詳しいけど世界の銃砲史に詳しいわけではない
167人間七七四年:2008/04/13(日) 15:04:47 ID:cJyfwj5t
宇田川氏の研究は日本内の鉄砲関連ものについてはすごいんだけど
鉄砲伝来の部分に関してはちよっとアレな部分がある・・
168人間七七四年:2008/04/30(水) 14:04:40 ID:7LBreP/J
あげ
169人間七七四年:2008/05/15(木) 12:49:15 ID:zxnoMTga
 
170人間七七四年:2008/05/15(木) 13:22:18 ID:s3ZQvq4r
25年前、株で大損させてしまった客に火縄銃で打たれそうになった事がある。こわかった。
171人間七七四年:2008/05/16(金) 02:11:09 ID:SORd/DcM
その特殊すぎる状況について詳しく
172人間七七四年:2008/05/17(土) 00:39:04 ID:C1XqMhlE
堂島での米先物取引で大損させたんですね、分かります。
173sage:2008/05/17(土) 14:42:18 ID:LP+HSCT6
すいませんちょっとお聞きします。
実家の屋根裏から火縄銃が出てきました。登録は済ませたんですが、その際係の方から
「このままだとサビがさらに進行するから、サビ落しと油引きしといて下さいね。」
とのこと。

当方古美術等に全く明るくないもんで、どなたかお詳しい方いらっしゃったらやり方を教えて
頂けないですか?どうも紙やすりやワイヤーブラシ厳禁、木部にも油が必要とかで難しそうです。

宜しくお願い致します。
174人間七七四年:2008/05/17(土) 14:43:52 ID:LP+HSCT6
失礼…
175人間七七四年:2008/05/18(日) 01:44:53 ID:5PGagpa4
軍板いって三八式歩兵銃の手入れの仕方聞いてこい
176人間七七四年:2008/05/18(日) 10:39:22 ID:eEcaN8Vj
戦国の鉄砲は一発撃つと響くから敵方に自分の潜伏している場所がばれやすい
奇襲攻撃や挟み撃ちなどの相手にばれないようにする攻撃に使いにくい
まだまだ戦国時代は弓のお世話にならざるを得ない
177人間七七四年:2008/05/18(日) 11:25:29 ID:5PGagpa4
サイレンサーの発明まで使うなと?
178人間七七四年:2008/05/18(日) 16:08:08 ID:WbutC3Qk
鉄砲を暗殺に用いた宇喜多は凄いと。
179人間七七四年:2008/05/18(日) 16:55:34 ID:5PGagpa4
後のゴルゴ13である
180人間七七四年:2008/05/20(火) 16:49:12 ID:xCYV+Cd/
170ですが171さんへ。そこは九州の離れ小島でありました。干潮の時しか本土には戻れないという実に恐ろしいロケーション!あの時は満潮!しかも至近距離。追伸、出刃包丁持参でご来店された元日本兵もいますた。
181人間七七四年:2008/05/20(火) 16:53:31 ID:xCYV+Cd/
連続で申し訳ありませんが、その包丁には正忠と印されしかも磨いでおり、濡れ手ぬぐいがグルグル巻き!刃は上をむいていますた。
182人間七七四年:2008/05/29(木) 21:32:49 ID:6TD2zuS6
雑賀孫一が自分の愛銃をヤタガラスて呼んでたって聞いてかっこよすぎと思った
183人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 23:02:44 ID:K8llUEoU
戦国時代の日本が火縄銃保有数世界一って説はどこまで真実なのだろう。
ってかこの説の出典は何なのだろう
184人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 00:52:07 ID:xCIjA2t5
実際大量に残ってるし
185人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 01:11:34 ID:l/xefRk6
50万丁とか言ってるけど、根拠がねぇ。
186人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 03:58:40 ID:xCIjA2t5
戦国大名の発注した注文書と納品書から
187人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 04:18:10 ID:hRMBXscJ
軍事板常見問題に一般向け書籍で実証的に指摘したのはノエル・ペリンとあるね。
事実誤認の多い代物らしいけど。
188人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/05(木) 13:46:30 ID:loI+sUoZ
1990年時点で国内に65000丁の火縄銃が現存してたとどっかで聞いた
ただ、慶長以降作られた物が殆んどと見られているそうだが
189人間七七四年:2008/07/01(火) 06:57:46 ID:3uh3ExiH
【中国】スズ鉱山 火縄銃を持った住民に襲撃される 金属高騰が背景に? 雲南省
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1214817866/
190人間七七四年:2008/07/02(水) 01:14:48 ID:trbuSitE
ネットで売ったらスズより遥かに高価だろうに…
191人間七七四年:2008/07/07(月) 20:48:19 ID:wAZHNVmT
PC買うくらいならAK買うよ
192人間七七四年:2008/07/16(水) 07:58:38 ID:pHrMEvGo
祖父の遺品で火縄銃貰いました。
錆や傷だらけなので銃身や真鍮部品をレストア感覚でピカピカに磨こうかと思うのだけど美術的価値がさがったりするのかな?
江戸時代のものらしいので元からそんなに価値はなさそうだけど火縄銃愛好家に怒られたりしないですかね?
193人間七七四年:2008/07/16(水) 08:35:18 ID:ziXhJJXN
>>192
やりかたによる。
家の祖父が元軍人だったらしく、家の押入から刀、サーベル、着剣が出て来た。
刀が錆だらけだったから磨いたら、
錆がとれたのはいいが
(切れ味もよくなった)
逆に傷だらけになってしまったw
194人間七七四年:2008/07/17(木) 00:50:36 ID:1tF/ukO4
刃物板の日本刀スレあたりで聞いてみたほうがいいかもね。
195人間七七四年:2008/07/19(土) 18:23:51 ID:RGIwAcDK
サーベル持ちなら将校だな
196人間七七四年:2008/07/19(土) 20:22:20 ID:D0NYOEMi
>>193だが

>>195
そうだったのか…
確かになんか“大日本帝国”とかなんとか
書いてあるでかい賞状があるけど。
197人間七七四年:2008/08/05(火) 20:56:23 ID:QvFaR0HR
上げ
198人間七七四年:2008/08/22(金) 06:13:58 ID:qIFJXcWB
国友久義銘の火縄銃はいつ頃の時代のもので、作者はどういった人か分かる方いますか?
199人間七七四年:2008/08/22(金) 06:45:49 ID:CPYfLl9b
ぐぐると国友丈エ門久義は二本松(仙台)の鉄砲鍛冶ですね
江戸時代の人らしい
200人間七七四年:2008/08/22(金) 07:50:20 ID:qIFJXcWB
早速のお答えありがとうございました
201人間七七四年:2008/09/08(月) 23:05:43 ID:y9fw7Idf
西洋ではパイクとマスケット銃の連携が色々と工夫されたみたいだけど
日本の場合、火縄銃と長柄はどんな感じで住み分けてたかわかってるのかな?
202人間七七四年:2008/09/13(土) 05:35:27 ID:Cfiqhloo
>>201
一つの部隊内で槍と鉄砲を合わせて運用していたようですよ。
203人間七七四年:2008/11/03(月) 23:58:12 ID:1f8Rx/+m
age
204人間七七四年:2008/11/07(金) 16:36:24 ID:GC9uUxWf
後のガンブレードである
205人間七七四年:2008/11/11(火) 01:51:00 ID:aJbRYMEg
>>201
基本組合わせて使っていたようです。
2〜3列の長槍が横長に展開して、その前面か側面に鉄砲と弓を置く。
射撃後弓は鉄砲の装填の合間を埋め、敵が接近すると長槍の後に下がる。
長槍は組頭の掛け声(大規模な場合陣太鼓)で列を崩さぬよう進退し、
「エイ、エイ」と声でリズムをとって穂先を揃え、「エーイ」「エーイ」と一斉に槍を振り下ろす、ってな感じかと。
206人間七七四年:2008/12/28(日) 11:07:50 ID:88qZLUSW
銃剣は無かったのかな
207人間七七四年:2008/12/28(日) 11:10:30 ID:qCjVwgRK
先込め式じゃあ使いづらいと思う
208人間七七四年:2009/02/16(月) 02:00:49 ID:9BJRZARa
age
209人間七七四年:2009/02/16(月) 09:39:42 ID:S4xMyPnE
鉄砲足軽も、鉄砲を撃つ人間だけじゃなく、それを中心として2,3人のユニットを組んでいるから、
個人が戦闘するために必要な銃剣とかは、あまり存在する意味がなかったと思う。
210人間七七四年:2009/02/17(火) 00:16:41 ID:B1xLg3E0
>>207 先込めかどうかと銃剣は関係ない。ナポレオン軍の歩兵は先込め銃だったが銃剣を装備している。ただし火縄ではなく燧石銃。銃剣は固定式で取り外せない。
戦国時代に日本で使われなかったのは、まだ銃剣が発明されていなかったから。
211人間七七四年:2009/02/17(火) 01:19:15 ID:mw4Tx7XF
信長もアホーよな
本能時にガトリングガン30丁と
アームストロング砲15門有れば明智軍を撃退出来たのに
212人間七七四年:2009/02/21(土) 23:27:43 ID:MqEII05L
>>210 続き こんにち知られている最も古い銃剣は、1647年のフランス製。これは銃身に直接銃剣の柄を差し込んで使う。
ナポレオン軍の銃剣、固定式と書いたが、これはあやまりで構造的には、ソケット式で取り外し可能。ただし、外しても持ち運びに不便なのでつけたままにしている。
騎兵に対抗できるように、銃の台座から先端までは2メートルを越す長さがある。
213人間七七四年:2009/02/21(土) 23:54:51 ID:7r1Q3Oi2
>>206
日本には騎兵も少ないし種子島(火縄銃)と打刀はセットにして足軽に配備してたから銃剣の必要性なんて感じなかったんじゃね
>>212のいう通りバヨネットが出来るのはもっと後の時代だし
214人間七七四年:2009/02/22(日) 11:14:55 ID:YmYrZyzr
16〜17世紀のヨーロッパでは銃兵を守る為に、パイクという4〜6mくらいの長槍兵が主力になっていた。
短槍ともいえる銃剣の登場で、鉄砲を持ったままで白兵戦に対応できるようになり槍兵は消えていったんだよな。
運用法は違うといえ日本も同時期に、長槍と火縄銃が同様に主力だったのは興味深い。
長さ10mの超長槍隊もあったらしいが、どこの大名だよw

ちなみに17世紀は朝鮮軍も長槍&火縄銃メインの編成で戦ってた
215人間七七四年:2009/02/25(水) 21:37:22 ID:m/VdWcnL
安土にある安土考古博物館には信長軍が用いた三間半の槍のレプリカがあり、立てかけてあるのを持ち上げることができるが、重い。
あんなものを担いで長距離を歩くのは大変。
216人間七七四年:2009/02/26(木) 02:17:37 ID:wSzNXHCi
火縄銃の装備率が10%しかないんだし手空きに槍持たせればよかっただけの話じゃね
217人間七七四年:2009/03/02(月) 02:55:10 ID:TMf4bwM7
218人間七七四年:2009/04/16(木) 04:08:08 ID:Pp/mG3Zk
age
219人間七七四年:2009/04/16(木) 06:28:16 ID:Pp/mG3Zk
>>215
ああいう長槍は行軍中は穂先のほうを持って石突のほうをずるずる地面に引きずって移動してたそうだ
220仙台藩百姓:2009/04/16(木) 06:59:30 ID:Ev7Lyuib
御槍は殿様からの借り物なんだから引きずってたら怒られそうだけど( ^ω^)
221人間七七四年:2009/04/16(木) 07:14:50 ID:Pp/mG3Zk
戦場に着く前にへばっちゃったんじゃ意味ないからな
222人間七七四年:2009/04/16(木) 09:56:43 ID:FOt7tlOD
つーか、槍なんて、よほど特別な物以外は、一人の兵が1回の合戦で2,3本消費するような
消耗品だぞ。
223人間七七四年:2009/04/17(金) 05:16:02 ID:PfujDB2T
バシバシぶったたいて使うもんだし折損も多いだろうしな
224人間七七四年:2009/04/18(土) 01:23:16 ID:bFXC06gf
そうやってみると、帝国陸軍よりも戦国時代の武将・足軽の方が合理的だったのか。
225人間七七四年:2009/04/18(土) 05:28:18 ID:T5UZeb6m
そうでもないだろ
長槍はそうしないとへばっちゃうからそうしただけで
火縄銃まで地面引きずってたわけじゃないし
226S字型金具:2009/04/19(日) 22:42:13 ID:tGyiP0iO
すみません。
あまり2chのことが解らないのでスレッドが立てられませんでした。そのため、スレッド違いかも知れませんが記入させて下さい。
1992年に不思議な古銃があることを知りました。某寺の所蔵品で、もし間違っていたらそのお寺に迷惑がかかりそうなので匿名のお寺としてお願いします。
形式は、サーペンタインロック式の古銃で、全長228センチメートル、口径23ミリメートル、重さ約30キログラムでした。
2chの写真添付の仕方が解らないので、Yahoo!フォトアルバムに写真の一部を乗せましたので見てください。

http://album.yahoo.co.jp/albums/my/68112/

前から気になって、いろいろ調べていましたが、同様な鉄砲が見当たらず、肝心な所が不明です(慶長期以前の物か?、国産品か?)。
この様な古銃について情報を求めておりますので、ご存知の方がおられましたら、すみませんけれどもこのスレッドでお願いできないでしょうか。
227S字型金具:2009/04/19(日) 22:58:30 ID:tGyiP0iO
すみません。肝心な事を書くのを忘れておりました。

火ばさみには、「火縄」をはさむことはできなく、したがって、「火縄銃かな?」と思います。
そのため、スレッド違いかも知れません。
火ばさみには、薄い割り木または薄い竹片を火種にしたように思えます。
228人間七七四年:2009/04/20(月) 23:49:12 ID:sL9D8C7t
最近新聞で、関ヶ原古戦場からそれくらいの大きさの火縄銃が出土したとかあった。
ハザマ(狭間、間)銃ってやつ。
229人間七七四年:2009/04/21(火) 00:10:06 ID:sRilSvsl
詳しい事は分かりませんがグリップの形状や
銃身が台座から大幅に突き出していたり
どことなく西洋風な感じの銃ですね
230S字型金具:2009/04/21(火) 00:12:16 ID:t1C9vbr0
すみません。返答の仕方が解らないので、番号で記入します。
228:の方、情報ありがとうございます。

その銃は、サーペンタインロック式だったでしょうか。
マッチロック式の狭間筒の話は聞いたことがあります。
宇田川説の根拠となる箇所なので、確認したいものです。
231S字型金具:2009/04/21(火) 20:49:52 ID:t1C9vbr0
229:の方にお答えします。
「グリップの形状や銃身が台座から大幅に突き出していたり」の様に見えますが、全長228センチメートル、重さ約30キログラム
と長くて重く、置き筒ではないかと思われます。そのため、銃身の下部木質が腐って無くなったように思われ(見え)ます。
「銃身下部」の写真を追加いたしましたので見てください。カルカ(サク杖)の穴はありませんでした。
ご意見有り難うございました。

232229:2009/04/21(火) 21:09:07 ID:sRilSvsl
わざわざ画像の追加ありがとうございます
確かに経年劣化で失われたように見えますね

それと関ヶ原で出土した狭間筒についてですが

http://www.interq.or.jp/pure/miyatate/wforum/wforum2001/2001.5.4.htm
>関ヶ原歴史民族資料館に地元民家から発見された鉄砲で、
>全長2.3m 重さ30s 安土・桃山時代の堺鉄砲鍛冶士 芝辻理右衛門の銘があり、
>弾丸は3q飛んだらしい。地面に置いて使ったとのことだか、
>関ヶ原の頃は大砲は無かったのだろうか。

という話がありました。画像の鉄砲とほぼ同じサイズですね
掲示板のログなので真偽のほどは分かりかねますが^^;
233人間七七四年:2009/04/21(火) 21:58:18 ID:hM6LtJy9
>>232
そのリンク先
「大筒が使われたのは大坂の陣以降」とか変なこと言ってる人がいるね。
文献読んでないのかな?
少なくとも天正期には大筒使用の記録が多数あるんだけど。
234S字型金具:2009/04/21(火) 23:12:41 ID:t1C9vbr0
232:情報、有り難うございます。
早速調べて見ましたら、「平成12年、岐阜県関ヶ原町の民家で、全長167cmの火縄銃の銃身が発見された。・・・・・・ 
そこで、平成13年、高木昭郎・竹中博男・澤田平の三者により慶長大鉄砲の完全復元を行った。」の事だと思います。
また、「そもそも現存する慶長期の銃は、全国でも極めて希少なものである。まして、これほどの大鉄砲は大変珍しいものなのである。」と澤田さんは記載しておられます。
しかし、この復元銃と私の調べている銃とは、残念ながらまったく異なっています。

ついでに掲示板のログにあった設楽原歴史資料館にある宗堅寺(新城市)に伝わる信玄砲について調べてみました。
http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/1,3110,118,662,html
銃身の部分のみですが、銃身の長さ105センチ、重さ11キロ、ロ径20ミリ (十三匁)。
所荘吉氏は、「日本に残る多くの火縄銃のうちでも、 最も古い火縄銃の一つであることに間違いありません。」と述べていますが、気になる記述と銃身です。
235人間七七四年:2009/04/22(水) 05:27:44 ID:G/9+m5rU
>>232
狭間筒は城壁や船の鉄砲狭間に設置する固定銃ですが、発射機構は火縄銃と同じカラクリですね。
石山合戦の第二次木津川海戦に際して、信長が造らせた巨船をフロイスが見学したときも、
2mほどの銃身の大鉄砲が多数設置されていると記録にありますね。
朝鮮の役でも安宅船に狭間筒を積んで恐れられたようです。

>関ヶ原の頃は大砲は無かったのだろうか。
関ヶ原では石田隊が使った他に、東軍も難破したオランダ船リーフデ号の艦載砲を使った説がありますね。
船には19門の青銅砲(カルバリン砲かデミカルバリン砲でしょう)、
500丁のマスケット銃、5000発の砲弾、300発のチェーンショットが積まれており
ヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスら船員が家康に従軍し砲撃を行なったとのことです。
236S字型金具:2009/04/22(水) 23:31:32 ID:34lTJEd/
国立歴史民俗博物館のデータベースで、同系の火縄銃が見つかりました。

館蔵資料画像データベース・館蔵武器武具データベース・実物資料の検索・検索条件:フリー=H-54-20 
【資料名称】 火縄銃(中国)
【資料名称カナ】 ヒナワジュウ(チュウゴク)
【コレクション名】 火縄銃
【資料番号】 H-54-20
【時代(和暦)】 咸豊5
【時代(西暦)】 1855
【製作地】 中国
【種別】 銃砲-鉄砲-火縄式
【流派】 _
【銘文】 「咸豊五年營□公會□造」
【法量】 口径3.0 全長222.0 銃身長174.4
【材質】 _
【備考】 _

探していた「サーペンタインロック式火縄銃」とよく似ています。
237人間七七四年:2009/04/23(木) 01:39:40 ID:Z+B7Mcne
>>236
たしかにこの銃は中国の鳥銃(火縄銃)で主流だったサーペンタインロック式だと思います。
一体化した引き金とアームが、支点のピンとバネで留められている単純な構造だけに、世界中で用いられてますね。

マッチロック式には何種類かあって、
日本の火縄銃の瞬発式機構(Snap matchlock)はポルトガルや東南アジアで多く用いられ、
引金を引いた瞬間ロックが外れ、火挟(アーム)が解放され発射します。

この方式は世界では決してメジャーではなく、
ヨーロッパでは、サーペンタイン式同様引き金を引いた距離だけアームも連動して動く
シアロック式やトリガーロック式に発展していきました。

いわゆる緩発式火縄銃ですね。
引き金を引くのと発射にタイムラグがあるので狙撃には向きません。
シアロック式は引き金とアームがバネとタンブラーを通じて連動しています。

タッチホール式(手で直接火種を持ち点火する)の中国製銅手銃は
火縄銃伝来以前にも国内に輸入されていましたが、サーペンタインロック式は非常に珍しいですね。
伝来後サーペンタイン式機構がすでに日本で知られていたのか、
それとも中国のサーペンタイン式鳥銃を輸入または鹵獲して、発射機構を模倣したものなのか・・・
ポルトガルやスペイン商人が古銃を持ってきた、または中国の銃を仕入れてきた・・・わけないかw
238人間七七四年:2009/04/23(木) 02:10:51 ID:Z/KNEkgD
> 【時代(西暦)】 1855
239人間七七四年:2009/04/23(木) 02:51:27 ID:Z+B7Mcne
>>238
紛らわしいですが、自分が>>237の後半で言っているのは>>226の銃の出処のことですね。
>>236の銃は清朝後期のものと時代がわかっていますが、
清ではアヘン戦争後洋式軍隊が創設されてもサーペンタインロック式が混在して使われていました。
240S字型金具:2009/04/23(木) 20:37:15 ID:Ke2RLDV/
私が知りたいのは、>>237>>239
「伝来後サーペンタイン式機構がすでに日本で知られていたのか、
それとも中国のサーペンタイン式鳥銃を輸入または鹵獲して、発射機構を模倣したものなのか・・・
ポルトガルやスペイン商人が古銃を持ってきた、または中国の銃を仕入れてきた・・・わけないかw 」
その疑問そのものです。

平成9年頃、出所を伏せて写真を見ていただいたところ、赤羽通重先生は「中国のごく古い火縄銃の型です」、名和弓雄先生は「製作されたのは、中国かあるいはモンゴル辺りかもしれない」と回答を頂きました。
当時、鉄砲伝来は1543年の種子島より始まるとされていて、倭寇勢力による宇田川説は少数意見でありました。そのような学説の中で、このような鉄砲は理解不能の存在でした。

今回情報を求めたのは、「倭寇とは、海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事」であることを思い出し、その反対の人たち「海賊に襲われる側の商人や、正規の商人がいても不自然ではない事」を思い付いたからです。
今ではインターネットで情報が簡単に得られるようになり、仕事も少し暇になってきたので、「少しでもこのような鉄砲のことをご存知の方がおられたら教えて頂きたい」と思い投稿しました。

しかし、>>226でもお願いしたように、しばらくは「某寺の所蔵品で、もし間違っていたらそのお寺に迷惑がかかりそうなので匿名のお寺」としてお願いいたします。
241S字型金具:2009/04/26(日) 08:24:04 ID:RAioGStN
昨日、10数年ぶりにそのお寺を訪問し、古銃を見てきました。

古銃の保存状態は非常に悪く、朱色はあせ、錆が出ていました。そこで、お寺の方に「もしかしたら鉄砲伝来にかかわる貴重な古銃かもしれないので、大切になさったらどうでしょうか」と保管・管理をお願いしました。
重量の訂正があります。>>226 で重さ約30キログラムとしましたが、地方新聞に掲載されていた重量で、実際に持った感じでは30キログラム以下だと思います。

古銃を所蔵しているお寺(浄土真宗)の歴史は古いのですが、有ることが分かったのは昭和40年代(発見した方に、発見のいきさつを電話でお聞きしました)で、その由来については、前回伺った時と同様、寺のどなたも分かりませんでした。
現在のところ、明治以後の所蔵ではなく、それ以前の所蔵だと判りました。

寺には古文書や所蔵品が大変多く(蔵に入れさせていただきました)、昭和20年代に古文書の調査を始め、最近、ほぼ完璧な所蔵品の目録ができました。

赤羽通重先生と名和弓雄先生の鑑定画像(手紙の一部)を掲載しました。
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/68112/
242人間七七四年:2009/04/26(日) 09:04:10 ID:4bpO2M2r
うちの菩提寺は戦国時代から残っている建物らしい・・・
建て替えるそうだがもったいない話だ
寺って歴史資料の宝庫だなあ
243S字型金具:2009/04/26(日) 10:40:09 ID:RAioGStN
追加です。
2ちゃんねるに僧兵の写真(無断で借用してすみません)があったので、ちょっと使わせてもらいます。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/Yamabushi2.jpg

発見したいきさつは、「寺の蔵の廊下の干し竿に洗濯物がかかっていて、その物干し竿に金具がついていた。よく見ると、その物

干し竿は、石突のある薙刀の柄と長柄傘の柄であった。その近くに色々な古い板や古い物が置いてあり、古銃は陰に立て掛けてあ

った」とのことでした。

蔵の中で、その、刀部の無い、黒漆塗螺鈿(少し剥がれあり)薙刀の柄(寺の目録では傘の柄・192cm)と同じ太さの黒漆塗

螺鈿(剥がれあり)長柄傘の柄(292cm)を見てきました。
同じく完全な黒漆塗螺鈿の長柄傘、家紋入りの蒔絵長柄傘、その他、江戸時代の鎧など、箱に入っている道具がたくさんありました。

244人間七七四年:2009/04/28(火) 22:55:29 ID:GIVk1SxP
兼続の時代米沢の鉄砲
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamagata/news/20090425-OYT8T00960.htm

画像http://www.yomiuri.co.jp/zoom/20090425-OYT9I00959.htm
「米沢筒」など11丁が並べられた鉄砲の展示会(米沢市関で)
245S字型金具:2009/05/01(金) 00:35:08 ID:FGHgqPjW
須川薫雄さんのホームページより
http://www.japaneseweapons.net/hinawajyu/shurui/english.htm

「Mino Tetsupo」・「Tsushiura's Seki School」・「Yonezawa Tetsupo」
上杉系統の鉄砲は、銃身が丸型で銃身をバンドで止めています。
246S字型金具:2009/05/03(日) 21:45:42 ID:tGCgILtA
途中経過を報告致します。

@須川薫雄先生からの応援メール
 須川先生には、いろいろと教えて頂きました。
 澤田平先生の電話での途中経過をご報告いたしましたら、メールを頂きました。

A国立歴史民俗博物館からの回答メール
 広報サービス室の○○さんには、たいへんお世話になりました。
 照会したようなサーペンタインロック式の銃は、所蔵していないと回答がありました。

B所荘吉先生に鑑定して頂いた時の手紙(1992年・平成4年)
 この手紙の存在を今年の3月に知り、再調査するきっかけとなった手紙。
 この手紙は、私宛ではなく、川越重昌先生を通じてお願いした銃砲史学会員の方から、所荘吉先生の写真鑑定結果の返書です。
 残念ながら、封筒が不明で、お願いした銃砲史学会員の方お名前がわかりません。
 
@ABのメール・手紙の一部を、Yahoo!フォトアルバムに掲載しました。

現在、ご相談している澤田平先生から、「制作年代など色々検討中で、もう少し待って下さい」と電話がありました。
結果に期待しています。
247人間七七四年:2009/05/04(月) 03:35:48 ID:j+ZmCmvs
ほうほう
248人間七七四年:2009/05/04(月) 13:57:03 ID:erbKPdbY
で、本当に種子島伝来説は嘘だったのか。
最近は朝鮮→九州ルートが主流らしいが・・・。
249S字型金具:2009/05/09(土) 00:15:26 ID:+i1DXu/v
>>242
「寺って歴史資料の宝庫だなあ」  私も同感です。
この寺の写真を整理していたら、軍配と箱が写っていました。
戦国時代の物だと思われる軍配について、寺の縁記では「教如上人より拝領」と書いてあり、箱の紋については触れていません。
箱の紋は会津松平家の家紋とよく似ており、次にうかがった時、寺紋について聞いてみようと思います。
お寺は信仰の場ですから、私達の興味や趣味の見地とかけ離れていて当然だと思います。この寺については、特に強く思いました。
250人間七七四年:2009/05/09(土) 18:02:08 ID:8KGfg2kI
戦国期の鉄砲は、用途別の弾丸の種類だけでも100種類くらいあったみたいね。
251人間七七四年:2009/05/13(水) 02:41:16 ID:g3cIUPbq
>>250
でも玉が銃を選ぶような
実用向けじゃないものもかなり混じってるよね
252人間七七四年:2009/05/16(土) 12:27:38 ID:5shZv7lQ
現代の銃は薬莢のサイズが異なれば使えないが、当時の銃の弾丸は鉛製で、自分で作る。銃の口径にあった道具を持っていればまったく問題ない。
規格の統一という発想自体、近代になってからのもの。
253人間七七四年:2009/05/16(土) 15:28:33 ID:w/J+E8H0
>>252
あきらかにトンデモな形や素材(鉛ではない)が混ざってるけど
そういうの量産できないし用途が限られると思うんだけどな
254人間七七四年:2009/05/16(土) 15:30:07 ID:w/J+E8H0
↑あきらかってのは製造法の記述に有るって意味ね
255人間七七四年:2009/05/16(土) 20:08:13 ID:LrzJ8vOo
まあ特定の戦術目的の為の鉄砲も普通に作られていただろうしね。
256S字型金具:2009/05/17(日) 00:32:41 ID:zQC0f41q
現在、ご相談している澤田平先生から手紙を頂きました。
澤田先生には、途中、私の父と旧知の仲だと判ったので、寺の名前・簡単な由来をお伝えして鑑定して頂いておりました。
電話でも「東南アジアの作品に似ている」と言っておられ、「是非、現物が見たい。そして判断を下したい」と言っておられました。私も、近い将来、先生と連絡を取って鑑定結果をお聞きしたいと思います。

反省点:
私は、銃が専門ではありませんが、今まで「思い込み」がありました。
澤田先生は、電話でも言っておられましたが、著書「日本の古銃」でも
「鉄砲伝来の天文十年代から慶長初年頃までに製作されたと確定できる遺品は皆無である。」
「戦国期に製作され使用された火縄銃は相当な数量のはずで、その全てが消失してしまっていることは信じがたいことであるが、悲しむべき現実である」と書いておられます。
手紙にも、「現在、日本国内に石山本願寺の時代の火縄銃は一挺も発見されていません」と書いてありました。

Yahoo!フォトアルバムの写真を整理、詳細が判るように自動補正しました。
(色がどぎつくなりましたが・・・・)
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/68112/

257人間七七四年:2009/05/17(日) 03:09:01 ID:KGhuUEiA
>>256
拝見しました。レバー状の引き金は中国の火縄銃に似ていますね。

↓中国の火縄銃手(ページ中央の写真)
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%B8%9F%E9%93%B3
↓明の火縄銃操練
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Ming_musketeers.jpg
258人間七七四年:2009/06/06(土) 16:23:39 ID:dda0eEMf
戦国時代、火縄銃は一丁いくら?
259人間七七四年:2009/06/07(日) 01:07:23 ID:KAMB198x
>>258
時期と型でかなり違う
260人間七七四年:2009/06/21(日) 20:17:20 ID:7OuGZGjN
火縄銃で撃たれた時のGSW(GunShot Wound、銃創)ってどんな感じの傷だったんだろ

盲管銃創か、貫通銃創か。

盲管銃創なら、当時の外科手術で摘出などの処置はできたのか?

kwsk!
261人間七七四年:2009/06/22(月) 05:52:13 ID:Iidof+Dr
>>260
俺のじいちゃん、太平洋戦争時に撃たれて体内に残ってたままになってた弾丸7発を
15年ぐらい前になってやっと摘出してたな
近所で同じく戦争に行って負傷した人が体内に残った弾丸のせいで鉛中毒で亡くなったので手術した
戦地にはレントゲンなんかないので、その時代でも深いとこに残った弾はそのままなのが普通だったとか
だから火縄銃の時代なんか摘出は不可能じゃないの?
262人間七七四年:2009/06/22(月) 07:50:25 ID:kzgjZ0eU
速度700m/s以上の近代以降のライフル弾で撃たれた場合は着弾時に弾丸のエネルギーによって組織に爆発的
な膨張がおき(組織の永久空洞・破裂)そのダメージ・ショックで死亡する。

火縄銃は燃焼速度の遅い黒色火薬を使ってしかも空気抵抗の大きい鉛球弾を打ち出すわけだから
着弾時の速度はせいぜい200〜300m/秒くらいのものだろう。
反面口径は大きく20ミリくらいもあるから、散弾銃で撃ち出すスラッグ弾(一粒玉)をくらったような感じだろうか?
263人間七七四年:2009/06/22(月) 14:53:48 ID:6IPFP75E
弾丸摘出用の手術器具があったように記憶している
ハサミの先が半円形に丸くなったようなもの
264人間七七四年:2009/07/03(金) 12:46:04 ID:PEb5cboN
>>263
まさか「釘抜き」のこと言ってるんじゃないよな?
矢が刺さった時には釘抜きで抜いてたが…
もしその形状の弾丸摘出道具が有るなら先の丸い部分が小さくないと摘出が難しいし
それで取れる位になら小刀で抉り取る気がする
265人間七七四年:2009/07/12(日) 02:59:27 ID:b8WHQE6o
今なら火縄式や管打式にピエゾ素子で着火という方法も使えそうですね。
266人間七七四年:2009/07/12(日) 03:59:45 ID:o4NZsPqZ
>>264
釘抜きなら釘抜きと書くよ
267人間七七四年:2009/07/12(日) 04:02:20 ID:o4NZsPqZ
268久々の書き込みなのでageます:2009/08/29(土) 12:28:53 ID:FPBJHX7L
火縄銃を撃ってた人の
銃撃戦以外の戦い方の技量って
何れ位劣っていたんですか?

>>250>>255
良かったら其れ等について
出来るだけ詳しく教えて頂けませんか?
269人間七七四年:2009/08/29(土) 12:37:15 ID:dRqFptAZ
>>268
> 銃撃戦以外の戦い方の技量って
> 何れ位劣っていたんですか?
人それぞれ

> 良かったら其れ等について
> 出来るだけ詳しく教えて頂けませんか?
「戦国の地域国家」収録の『戦いを支えた技術』と言う論文に詳しく出ているので
それを読んだほうが早い。
270人間七七四年:2009/08/29(土) 12:54:30 ID:mr+TY6c6
毛利元就の弘冶三年(1557)ごろの書状に
「焔硝を作る人間が来たので、古い厩の槌を調達するように」
ってのが残ってるのね。

この時期既に、各国を渡り焔硝を作る職能集団がいたっぽい。
271人間七七四年:2009/08/29(土) 13:06:07 ID:c+6h6gaS
>>268
弾の種類としては合金製とか鋳型から二つの弾がくっ付いているとか、中が中空とか
色々ある
詳しくは、吉川弘文館「鉄砲と戦国合戦」宇田川武久を参照

銃については城の狭間から撃つ事を前提にした、長銃身の狭間鉄砲とか
構造物破壊用の大口径の大鉄砲などがある
272人間七七四年:2009/08/29(土) 19:12:55 ID:OdpjtPbi
八王子城から、焼き物の弾丸、つまり粘土で作った弾が出土していたな。

八王子城は、秀吉の小田原攻めのときの激戦場。
273人間七七四年:2009/08/29(土) 19:21:33 ID:dRqFptAZ
>>272
八王子に限らず、鉄砲の練習用の弾は粘土や木で作られていたらしい。
274人間七七四年:2009/08/29(土) 19:30:58 ID:OdpjtPbi
>>273 確かに、鉛の弾丸は、当時は高価だったろう。

現代でも自衛隊では、小銃は年間(たったの)60発しか撃たないし、
艦載ミサイルは、年間1発、対戦車ミサイルなんぞは、大口径の筒に
小口径の筒を入れて、花火のロケットみたいなものをピューッと飛ばしている。←本物はものすごく高価だから。
275人間七七四年:2009/08/29(土) 19:40:22 ID:dRqFptAZ
城攻めの際には鉄砲で発射する、鉄砲火箭と言う焼夷弾のようなものもあったらしいね。
あと、城門を破壊するための「門破」という、特殊な鉄の弾もあったそうな。
276人間七七四年:2009/08/29(土) 19:47:56 ID:99hVMHvX
練習用か実戦か知らんが、粘土や木なんて撃った瞬間に木っ端みじんになっちまわないの?
277人間七七四年:2009/08/29(土) 22:30:47 ID:fbOb2wVg
木弾は帝国陸軍も演習用に使ってる。タマが飛びすぎないんで狭い射場でも撃てるのがいい。
278人間七七四年:2009/08/29(土) 23:56:32 ID:HCtuH8n1
>>270
かなり早いね
279人間七七四年:2009/08/30(日) 01:00:24 ID:HCCY9dUF
>>270
「槌」は「土」ですよね?
280人間七七四年:2009/08/30(日) 01:13:43 ID:EWG63z1k
>>279
そうです。変換ミスですー。
281名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 12:53:42 ID:YrsG7rU6
古い厠の土って臭そうだな。
282名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 13:13:34 ID:8g7oMup/
厠じゃなくて厩だろ
283人間七七四年:2009/09/04(金) 22:00:02 ID:w+z4oqpW
284u7dee9885fw5gz6:2009/09/06(日) 01:52:39 ID:qNcXVzls
>>256

初めまして、偶然に内容を拝見させて戴きました。自分は、子供の頃から火繩銃、古式銃のマニアです。(現在36歳)
さて、サーペンタイン式についてですが、佐倉の民俗博物館以外に会津若松の資料館にも展示されておりました。約24年位前です。
さて、私観ですが、国産だとすれば、緊急を要した幕末期の可能性が高いと思います。銃身のみ廃銃から転用等。
本土決戦時の簡易銃製造の主旨と一緒です。
伝来以降、火繩銃は高価な財産です。廃銃もしかり…カラクリ(発射機能)を改装、若しくは修理出来なかった状況を考えた場合、可能性は高いと思います。
当時は、資料価値云々の時代では、ありません。
幕末以前の戦利品の可能性についてですが…やはり大多数を必然的に日本式に改装したと思います。
285S字型金具:2009/09/07(月) 22:36:04 ID:Be0dFugC
>>284
会津若松の資料館とは、「若松城天守閣郷土博物館」のことでしょうか。説明書き・解説書きにはどのように書いてあったのでしょうか。また、現在も展示されているのでしょうか?
緊急を要した幕末期、私の所の藩では洋式銃が大量に製作され、圧倒的に銃よりも兵が足りないので農民を徴兵しており、火縄銃は使用しておりません。
銃身のみ廃銃から転用するには、銃身(内部)が錆びていないことが条件になると思います。
銃身のみ転用した(一度錆びさせた場合)銃の命中精度・威力が気になります。
黒色火薬の硫黄成分は酸化して強酸である亜硫酸になり、鉄成分に錆を生じさせます。このことがカラクリに真鍮を使っている理由や古い銃身が殆ど残存しない理由になるかと思います(私見です)。
幕末以前の戦利品の可能性については、何時ごろ・何処の・誰の物かなどを仮定しないと改装した箇所が判りません。あなたの仮定を教えてください。
あなた様の今後の活躍を期待します。
286人間七七四年:2009/09/08(火) 04:39:23 ID:EtMYE0zO
大戦の時、日本兵に大昔の銃身の銃つかってるやつがいてどっかの国の兵がおどろいたという話しがあったような
適当過ぎるレスでごめんねw
287u7dee9885fw5gz6:2009/09/08(火) 15:14:49 ID:FB6Rt2/Y
>>285

確か、西郷頼母の資料館です。但し書きには、会津軍使用とありました。
サーペンタイン式銃は、かなり現存します。
Yahoo!オークションでも、指火式で出品されておりましたが、金具の跡からサーペンタイン式銃と判断出来るものは、最近でも数点ありました。
廃銃からの銃身転用について…例えが変ですが、手榴弾の数が足りないから、火炎瓶を急遽作製するのと一緒です。
銃身の耐久性や命中率は、緊急時においては論外です。(現在の視点と価値観は、当時と違います。)時間が許されれば、雷管式にも後装式にも改装出来るでしょうが…
篭城戦を目前にして、何を造りますか?サーペンタインでも木砲でも造りますよ。西国と違い、東北諸藩は火繩銃を仕方なく標準で装備していましたよ。歴史認識の違いだと思います。急造のサーペンタイン銃でも10メートルで殺傷力有れば御の字でしょう。続く
288人間七七四年:2009/09/08(火) 21:32:14 ID:bNKQWw9C
>急造
そういや山川捨松さんのご子息が大東亜戦争末期にバネ式カタパルトで米戦車への抵抗計画されとりましたな…人間爆雷よかマシだって。
289u7dee9885fw5gz6:2009/09/09(水) 01:20:45 ID:i2V4QjXE
>>287

続き。
時代の古い古式銃が現存していないのは、鋳潰しているからだと思います。
290人間七七四年:2009/09/09(水) 01:44:39 ID:i2V4QjXE
>>289

>>287

> 続き。
。鉄自体が大変、貴重な時代です、改装銃の流れを見ても判りますが、洋式銃、和銃共に最低限の加工にて改装しております。又、改装が不可能なものについては、当然、潰して新しく作り直したとみて妥当でしょう。
それから、儀礼的な拝領についてですが、家宝として鎧や刀を拝領する事はあっても、鉄砲を誉れとして拝領する習慣は、皆無であったと考えます。したがって、江戸期以前の銃器が確率的に現存しない理由もやむを得ない事だと思います。
又、幕末以降から、終戦までは、余程美術的な価値が無い限り、相当数が処分されたと思います。金属の供出も含めてです。続く

291u7dee9885fw5gz6:2009/09/09(水) 12:08:27 ID:i2V4QjXE
>>290

>>289

> 総論として…
今迄の乱文と誤字、ご容赦ください。

僧兵がサーペンタイン式銃を片手に携える詳細な掛け軸を見た事が有ります。現物では有りませんが…
(曖昧な記憶で申し訳ありません。古文書を調べる過程にて、偶然閲覧したと思います。)
私自身、宇田川説を自然のものとして肯定しております。
江戸期以前の火繩銃に関しては、一部の精密な高級品を除いて、氏と同様、殆どがサーペンタイン式の発火装置ではなかったのではないかと思っております。種子島家に所蔵とされる国産火繩銃についても、江戸期の複製の更なるレプリカです。
しかし、現在の火繩銃に対する、我々、若しくは一般の人々のイメージの原型は、やはり伝来されたとされる、カラクリ作動の伝来銃だと思います。この払拭されない、イメージが視野を盲目にしたのかもしれません。
続く
292u7dee9885fw5gz6:2009/09/09(水) 13:52:33 ID:i2V4QjXE
>>291

>>290

続き。
結論として、鉄砲史の初期に存在したと思われる、サーペンタイン式銃は、現存する可能性が低いと思われます。
国外も含めて…存在を示す資料については、現存しておりますが…琉球王朝と足利将軍家の古文書等。
又、中国の北京軍事博物館にも書画、現物が展示されておりますが、現物に関しては、清王朝後期のものしかありません。
(15年程前に行きました)
当時の余談ですが、万里の長城の売店に銅製手銃三連銃が売っていました。日本円で 三万円位だったと思います。贋作と思い買いませんでしたが、贋作でもよかったと後悔しております。
以上、勝手に色々と書きましたが、現在、現存するサーペンタイン式銃は、幕末の一部のものしか現存していないと思います。
実は、中学生の頃にサーペンタイン式銃を自作した事が有ります。
思い入れがあり、色々と書いてしまいました。
現在、火繩銃、燧石式銃、雷管式銃をコレクションしております。
燧石式銃を入手するのに一番苦労をしました。
結局、国産の物は見つかりませんでした。
雷管式銃は、和銃の改装銃と洋式燧石式銃の改装雷管銃を所持しております。
最低限の加工にて改装されております。
昔、銃は高価な財産でした、リサイクルにて改装した経緯を考えると、現存数が少ないのも頷けます。
長くなりましたが、以上です。
293S字型金具:2009/09/10(木) 01:41:43 ID:Xi9oLoDd
u7dee9885fw5gz6 様、色々なお考え、情報、ありがとうございます。「僧兵がサーペンタイン式銃を片手に携える詳細な掛け軸」を見たとの事ですが、是非、思い出してお教えいただけないでしょうか。
現存するサーペンタイン式銃は、北京軍事博物館の他に大英博物館、佐倉の民俗博物館は中国製とチベット製を所蔵、タイ・インドネシア・台湾などの国にもあるみたいです。その他、リンクを介した物でしたらその他各国にも多数存在します。
自作の水道管(鉄管)サーペンタイン式銃は過去にTVで放映しており、火薬に***を使って小動物を撃っておりました。
しかし、国産の存在は不明なので、国産のサーペンタイン式銃をさがしております。

中国(明)への前装式火縄銃(鳥銃)の伝来は東南アジア経由ルートと西域ルート(トルコ経由)が知られています。
神器譜(趙士禎が著した中国の鉄砲解説書)に嚕密銃の記載があり、私は「この銃はサーペンタイン式銃ではないか」、「日本にも伝来したのではないか」と推定しています。
皆様のご意見、ご感想を教えてください。

神器譜(しんきふ)
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A5%9E%E5%99%A8%E8%AD%9C/
15.火縄銃の専門家・張士驍ニ『神器譜』
http://www.geocities.jp/fukura1234/heisyo/15.htm
京都大学附属図書館所蔵 谷村文庫 『神器譜(二)』
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/0081/image/40/0081s351.html
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/0081/image/40/0081s356.html
嚕密銃全形
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/0081/image/40/0081l356.html
294人間七七四年:2009/09/10(木) 13:35:25 ID:bZkS29Hy
スレに関係ある話題かどうかはわからないが
ときメモに「朝日奈夕子」とキャラの西友が鉄砲塚葉子というんだが
「鉄砲塚」という苗字の由来は鉄砲に関係あるの?
295人間七七四年:2009/09/10(木) 13:36:41 ID:bZkS29Hy
西友は声優
296人間七七四年:2009/09/10(木) 13:47:15 ID:mcTPnbxJ
>>294
「鉄砲塚」と言う地名は全国各地にあり、江戸期の鉄砲の教練場があった場所のようだ。
苗字の「鉄砲塚」はおそらく、その近辺に住んでいた住民だったのだろう。
「鉄砲塚の○○さん」→「鉄砲塚さん」と、苗字として定着したものだと考えられる。
297u7dee9885fw5gz6:2009/09/10(木) 16:53:12 ID:AsZdwcvm
>>293

大変申し訳ありませんが記憶が曖昧です。
近年、見たのは間違いないのですが…
正直、今回の投稿なければ、忘れておりました。
第一印象で、何でサーペンタイン何だろう?と潜在意識の中で引っ掛ったのですが。
僧侶ですが、僧兵の格好では、ありませんでした。天然色(色付き)の掛け軸です。かなり詳細に描かれており、銃床内部より大きな造りの火挟みが斜めに設置されているのも、確認出来ました。
作画の状態から、江戸期か若しくは、以外に近年の作品かもしれません。
歴史関連の書籍、雑誌に至るまで、読み漁っておりますので…
Yahoo!オークションにて火繩銃を検索した時に偶然閲覧したか…
自分も気になりますので、判りましたら連絡致します。
298S字型金具:2009/09/22(火) 07:15:21 ID:6V9QesJ5
>>226
>>293
飯塚浩二氏説に所荘吉氏が反論しています。

火縄銃 所荘吉著 雄山閣 P239

補<1> 種子島伝来銃についての考察
 鉄砲伝来の意義および年時について従来数多くの発表がなされているが、初伝の銃そのものについてはあまり問題にされていない。
これは資料がとぼし過ぎるのがその理由であったろうと思われる。
そのためほとんど無批判に初伝の銃をポルトガル製と考え、はなはだしきは直接ポルトガル本国との接触が行なわれたとの誤解が今なお払拭されていない。
それに対して、昭和三十九年朝日新聞紙上で飯塚浩二氏が初伝の銃は西洋系ではなく、トルコ系ではないかとの問題を提起された。
飯塚説の骨子は和銃の火挾が前方へ落ちる点に注目され、これと同様の形式は、趙士禎の著わした『神器譜』に所載された魯密(ルーム)銃に見られるので、
ヨーロッパの銃の火挾が手前に倒れる違いから、ポルトガル製と伝えられた初伝銃は、ヨーロッパ系ではなくポルトガルから日本へ来る途中で入手したトルコ系の銃ではなかろうかということである。
  続く

299S字型金具:2009/09/22(火) 07:29:30 ID:6V9QesJ5
>続きです。

 たしかに初伝統がポルトガル製ではないのでないかということに疑問を持ったことは面白い見方であるが、和銃とルーム銃との違いに大きな点がいくつかあることを見落とされているようだ。
たとえば和銃では火挾の位置が側面にあり、開放時には倒れていて引金とは別の部品になっている。
照門の位置は火血より前方にありほとんどがオープンサイトになっている。
また銃床は短く、頬付けで射撃をするようになっている。
特に重要な違いはその点火機構が急速点火式になっていることである。
 それに比ベトルコ系の銃では、火挾の位置が銃の中央にあり常時起き上がった状態にあり、引金とは同一部品であるS字形式である。
照門は銃身後端にあってピープサイトが多い。
また銃床は長く現代銃のように肩付けで射撃を行なうようになっている。
点火様式はスローダウン式で、最も初期の火縄保持具から多少進んだ程度である。
 『神器譜』の中でターバンを巻いた人物がルーム銃を発射するのに支銃具を用いているが、和銃では使用されることはない。
 以上の比較でも判るように、類似点は火挾がただ前方に向いていることだけで、多くの重要な点ではあまりにも違いが多い。
むしろ火挾の方向だけの問題ならばヨーロッパの火縄銃の中にも前方に倒れるものが少なくない。
これによっても飯塚氏のトルコ銃日本伝来説は根拠の薄いものとなろう。

  続く

300S字型金具:2009/09/22(火) 07:41:30 ID:6V9QesJ5
>続きです。

 それならば日本へ伝わった銃はどこから来たのかということになるが、まずヨーロッパから東方への伝来経路が二つあったと考えたい。
一つは陸路によるトルコ―イラン−インドを経て中国にはいった魯密銃の系統である。
その理由はこれらの経路にある国々の銃が多少のローカル色を除けば機構的に全く同一型式のものといえるからである。
 今一つは海路によったものである。
ポルトガルの東方進出基地である、ゴア、マラッカ、モルッカ諸島などを経たもので、この経路による火縄銃はあまり知られていないが、当時のマラッカ基地の勢力範囲であったマラヤおよびジャワ地方の銃の特徴は和銃に似ている点が多い。
特に点火機のアクションは和銃のそれと完全に同一でトルコ系やヨーロッパ系の銃には見ることのないものであって、後述する種子島初伝の銃との比較では一層はっきりしてくる。
  以下省略 (昭和四十四年十月十五日)


中国(明)が魯密銃について知ったのは1598年以降なので中国経由の陸路説には無理があるが、
平成4年(1992年)にある人を介して先入観があるといけないので「**県内のものです。」としか伝えず、カラー全形写真を銃砲史学会の会員の方にお見せしたところ、
所荘吉氏と生田氏は、「これは東南アジアのもので戦後そちらへ旅する人がよく買ってくるものと思う。向こうには、台湾にもあるものではないか。」ということでした。

そのため、東南アジアや中国などの売店でのこのような火縄銃の情報がありましたら、お教えください。
301S字型金具:2009/09/30(水) 15:00:42 ID:z13uQ8Hn
>>293
『神器譜』には色々なバージョンがあり、谷村文庫の『神器譜』には欠落部分があることがわかりましたので、『玄覧堂叢書』本の一部をYahoo!フォトアルバム に乗せました。
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/list/4143269/

「明嘉靖、万历朝噜嘧铳的传入、制造及使用」の題名で、《回族研究》2007年第04期に『神器譜の噜嘧铳』についての記載がありました。
http://www.eywedu.com/Huizuyanjiu/hzyj2007/hzyj20070416.html
http://www.eywedu.com/Huizuyanjiu/hzyj2007/hzyj20070416-1.html
http://www.eywedu.com/Huizuyanjiu/hzyj2007/hzyj20070416-2.html
http://www.eywedu.com/Huizuyanjiu/hzyj2007/hzyj20070416-3.html
摘要:明朝一经建立,即与地处小亚细亚的鲁迷(或称肉迷,即奥斯曼土耳其)建立了一定的政治联系。
自明洪武至万历间,鲁迷使臣频频入贡。
而这一时期两 国间交流的重要成果,即为噜嘧铳的传入。
明中书赵士祯于万历二十五年(1597年),由嘉靖时来华鲁迷国使臣朵思麻处,学得噜嘧铳的制造和使用方法,尔后 精心仿制,并于次年进献朝廷。
因当时国内所造鸟铳“远而且狠,无过噜嘧”,明朝政府遂令军工部门大量仿制,装备军队,“以收防倭制虏之效”。
  关键词:万历年间;朵思麻;噜嘧铳;赵士祯;制造与使用
  中圈分类号:e920.8 文献标志码:a 文章编号:1002−0586(2007)04−0070−07
302人間七七四年:2009/09/30(水) 18:41:25 ID:Z1mAEeXa
トルコの火縄銃は、銃床が六角形をしている。
303人間七七四年:2009/11/16(月) 17:52:18 ID:mrROhO8W
もうすこし詳しく書いてくれないと
文意がわからん
304人間七七四年:2009/12/07(月) 01:40:57 ID:BCIeYoHO
>>89
それが使えないから
6.8mm弾のアサルトライフルを
開発してんじゃないの
305人間七七四年:2009/12/10(木) 23:08:37 ID:vj95kYP0
ちょっと面白いものを見つけたので

https://egithq.bay.livefilestore.com/y1meOoW_b0yGnsBKTMufCPCcuHH1gViV4ZQSVHOWwpUN0x6RqT9jaQpUc-K1SKmpxg1oE9mugpPn4grCbNJsQcPi8xJ3j8R6kutFh-C_-xWFTwDaGN--RNJhXw8JFBEJkRh1_szKrubQtIZDmUbZ_MirQ/CIMG0205%5B3%5D.jpg
乾隆御用火槍(火縄銃)
乾隆帝の猟銃、背景の絵は清代の狩猟を描いたもの。

https://egithq.bay.livefilestore.com/y1mxQGV1naRgtSI_prvod26DJURwnL4_RB8ykA10PMUBv2obflPK26OvvakMYsEp1VafvGd_qH9tm7MHcstzWY9asx4IoZy96Xo7v9hwNQtomOkLawSmQL7jEYLSEWdXccDJIhvY8Xvs8HlXgAypXA-oQ/CIMG0206%5B2%5D.jpg
https://egithq.bay.livefilestore.com/y1m7EEzHCfmdND9dLh4TyLVMeurrNJf2BmNHGc40CZEL3fSMqSj7ECFZP2kzu5Cp5zRcQxVfFgslBrIPsiYyIHezZ0MX5X_Mx97eYVNfXnuQehXWCYi4FGLDce5pw8rE3m5N3L15S5ySAE5beOclFR40g/CIMG0207%5B2%5D.jpg
鳥槍の火薬入れと弾丸

https://egithq.bay.livefilestore.com/y1mj-Rytwd0WqUT7lmXrc_ye-PSPlVTSQXWWCuPZFbRx1Yc-7rkc-CM1Dpwj4JL4XVhfebwITylsPm_O6zK3-N_KDGHmYJsGpdqjnNMS-k6X44hXhYNDkOR16R_CL2Kw3TAeQ3FCNRAFpI72xUGor817g/CIMG0209%5B3%5D.jpg
神威将軍砲
康熙年間に宣教師フェルビースト(南懐仁)が造った軽量火砲。
背景の絵は、乾隆年間のジューンガル部・回部平定を描いた「準回両部平定得勝図」

https://egithq.bay.livefilestore.com/y1mHJO3GSB51jVQ1dNz1oMymU9-pr3f87u-6kLqJxrxsd3AJW1MzqmvcPg_WTJ6fYOk_n9yb5MSLyVXYpt0B_Zlvd5FO1XcV07a9lwQOELVnQMrTTI9gIoV30wWxdyeBzvCa6sepnVZ1cKGTfkxnG5cww/CIMG0212%5B3%5D.jpg
威遠将軍砲 
康熙二十九年(1690)製。
威遠将軍砲は散弾を発射する砲。曲射が可能で、攻城戦や山岳戦に威力を発揮。
306S字型金具:2009/12/20(日) 14:01:43 ID:XL9PEQ0M
戦国期の火縄銃についての疑問@

「火縄銃 所荘吉著 雄山閣 P49−50」に、「常に最高の状態を求めるのは不可能である」と黒色火薬について記載されています。
火縄銃の威力、命中精度の維持は難しく、名人芸ともいうべき修練や複雑に絡み合う未解決な変動因子が多くあるので、戦国時代の武器としての鉄砲については、再考する必要性があります。


『かように黒色火薬はその粒子の大きさ、形状等により、又集合密度によって燃焼速度が異なってくるので、混合原料たる硝石、硫黄、木炭の三味の純度や配合率に対し厳密な注意も当然ながら、混合方法にも困難な工夫を要求される。
このようにして作られた火薬も、鉄腔内に充填された状態、すなわち搠杖によって圧された度合等、名人芸ともいうべき修練や見逃す事のできぬ空気中の湿度等の諸条件が完全に満足されたとき、初めて発射薬としての力を十二分に発揮する事ができるのである。
しかし吸湿性の塩類を含有した黒色火薬に対し、常に最高の状態を求めるのは不可能である。
この事は初期の砲術家による経験によっても知られ、春夏秋冬の四季の変化による配合率の相違や朝夕、天候による装薬量の増減等によって補われるようになっている。
この装薬量は口径のみでなく、火薬の燃焼が終わっても弾丸が銃腔内にあれば、摩擦によって弾速が落ちるので、銃身長によって量が異なるのは当然である。』
307人間七七四年:2009/12/22(火) 01:39:09 ID:p2z4LsyH
だからこそ名人芸としの砲術が存在し
武士達が武芸の一つとして砲術を習得しうようとしたんだろうね。
308S字型金具:2009/12/24(木) 00:10:32 ID:FFN+M01h
戦国期の火縄銃についての疑問@の@

16世紀、西洋・倭寇の鳥銃(火縄銃)は、8分の鉛弾(直径8ミリ、3g)を1匁(3.8g)の黒色火薬で飛ばしたようです。
当時の比率では、1:1.3と黒色火薬の方が多く、現在の高性能な黒色火薬での比率では、小さくなっていると思います。
鉄砲の実用化は、鉛弾を飛ばすことのできる、燃焼速度の速い粒状火薬が開発されたことによると思います。
しかし、「黒色火薬はその粒子の大きさ、形状等により、又集合密度によって燃焼速度が異なることが解っている」ので、一定の大きさ・形状の粒状火薬を作成することは困難な作業であったと思います。
特に、集合密度を高めなければ鉄砲薬にならず、硝石、硫黄、木炭の三味を混ぜ、強い圧縮工程が必要です。
また、装藥は容量で計り(重量ではない)、装藥をし易くするために角を取るなどの工夫があったと思うが、粒状火薬の取り扱いには(その時の発射条件や黒色火薬の乾燥具合などに合った)、難しい面もあったと思われます。
309S字型金具:2009/12/25(金) 01:54:47 ID:ew5jkodk
戦国期の火縄銃についての疑問@のA

「原料たる硝石、硫黄、木炭の三味の純度」について
鉄砲火薬に使用する硝石(硝酸カリウム)は、混合比率調整のために高い純度が求められる。
硝石は非常に良く水に溶け、純度が高い硝石は、吸湿(潮解性)が少ないが、混ざり物がある(純度の低い)硝石は、乾燥状態の維持が難しい。
そのため、カリウム成分を添加し再結晶させて純度を上げるが、結晶の形から純度の判定は難しい。
硫黄の純度は色で判断でき、純度を上げるには過熱凝固する。
その際発生するガスは有毒である。
樹種によって木炭の特性に違いのあることが知られており、木炭は精製ができないので、木を選ぶことが大事である。
鉄砲火薬用の草木には、柳が良いとされ、杉、松、桐なども使われた。
炭化状態の見極めも大事である。

310S字型金具:2009/12/27(日) 02:19:25 ID:tLT1XaO7
戦国期の火縄銃についての疑問@のB

「混合原料たる三味の配合率や混合方法」について
三味の配合率は純度によっても変化するが、燃えかす量を少なくするか、総合的な威力を求めるかによっても異なる。
燃えかす量が少ない火薬は、燃焼度合いが測れ、銃身内の燃えかすの低減となり利点もあるが、燃焼速度や産生ガス量は判らない。
空気中の湿度が高いと、黒色火薬の硫黄配合率を高くする。また、少量の水分が在ったほうが燃焼速度は高く、乾燥しすぎた黒色火薬は良くない。
三味の混合の際は静電気に注意しなければならなく、現在でも爆発事故が起きているが、江戸期の合薬所でも大きな爆発事故を起こした例がある。
薬研や茶臼での混合方法では同一ロットの大量火薬製造はできなく、バラツキのある火薬となる。杵臼での混合は、それよりも多く混合・圧縮ができる。
戦国期の合薬(黒色火薬製造)は、戦地で製造したものかどうかは不明であるが、威力の無い・無くなった火薬は溶解され、硝石成分は回収された。
311S字型金具:2009/12/27(日) 22:25:30 ID:tLT1XaO7
戦国期の火縄銃についての疑問@のC

「このようにして作られた火薬も、鉄腔内に充填された状態、すなわち搠杖によって圧された度合等」について
装藥後に鉛弾を綿紙で包み、搠杖によって押し込み固める。
鉛弾の直径と口径の割合(玉割)が知られているが、銃身内に燃えかすがある場合には弾丸の直径または綿紙量を減ずる必要がある。
また、押し込み程度により粒状火薬の空間が変化し(見かけ比重の変化)燃焼速度が変化する。(過ぎたるは猶及ばざるが如し)

「名人芸ともいうべき修練や見逃す事のできぬ空気中の湿度等の諸条件が」について
「春夏秋冬の四季の変化による配合率の相違や朝夕、天候による装薬量の増減等によって補われるようになって」とは、具体的にどうすれば良いのか解らない。
「打った、当たった、さすが名人だ。」「名人でも当たらなかった、しかし自分は当たった、それはまぐれであった。」であったのか?
修練が必要となれば、当時はどのようにしていたのか。鉄砲の数だけでは本当の威力(兵力)は判らない。(威力が無くても、音や焔硝の臭いやまぐれ当たりすることにより当時は鉄砲の価値があったのか?)
312人間七七四年:2009/12/31(木) 19:35:42 ID:l3eP2GY/
勉強になります。
313人間七七四年:2010/01/01(金) 04:32:13 ID:ryaoXzIx
学研が歴史群像でやった実験ではこんなだったそうだ。

>50mの距離から口径9mm(1匁)火薬量3gのとても威力の弱い火縄銃で
>24mmの檜の板2枚を撃ったところ、1枚目を貫通し2枚目の半分くらいで止まったと本に書いてあった。
>普通の矢盾は厚さ30mmくらいなので、鉄砲は防げないんじゃないか?

>いっぽう16間(28.8m)の距離から、竹束を口径15.5mm(6匁、戦場で一般的に使われる口径)
>の火縄銃で撃つと、1発目は6本の竹全部を貫通した。2発目は4本目で止まっていた。
>口径18.4mm(10匁)では、やはり竹束を貫通。
>30m以内での至近距離から竹束で防ぐのは難しいが、
>50m以上離れるか、竹束を二重にすれば効果があるのではないかという結論だった。

>命中率は、口径8mm(8分ほど)の小口径の銃で、30mから5発撃つと直径10〜15cm以内に全弾が集束した。
>50mから5発だと、着弾範囲は直径30cmほどに広がる。
>実戦では2町(約250m)くらいから撃ち始め、1町(約120m)あたりから命中率が上がり始めたそうだ。
314人間七七四年:2010/01/01(金) 15:44:51 ID:sS7lyNb6
単純に考えれば、
24mm+12mm(半分位)=36mm
矢立ての厚さは30mmだから6mm分の貫通力が残ってる訳だ。
このくらいなら威力が殺されて甲冑でも防ぎきれるんじゃね?

竹束も同様で。
315S字型金具:2010/01/03(日) 11:24:01 ID:sw2lx5Z2
>>313
学研の歴史群像については未読ですが、

>50mの距離から口径9mm(1匁)火薬量3gのとても威力の弱い火縄銃
「とても威力の弱い火縄銃」と書いてありますが、現代の高性能黒色火薬を使っての実験なので、当時のよりも威力は強いのでは?。
>いっぽう16間(28.8m)の距離から、竹束を口径15.5mm(6匁、戦場で一般的に使われる口径)
「 6匁、戦場で一般的に使われる口径」について、6匁弾は江戸期に多く、戦後間もない寛永・寛文の一般的な口径(13mm)では、3〜4匁ではないでしょうか。
戦国期の一般は、それ以下かも。
>命中率は、口径8mm(8分ほど)の小口径の銃で、30mから5発撃つと直径10〜15cm以内に全弾が集束した。
「小口径の銃」とは、江戸期の射的用の銃での実験かな。
>実戦では2町(約250m)くらいから撃ち始め、1町(約120m)あたりから命中率が上がり始めたそうだ。
通常、1町の長さは109mですが、「命中率が上がり始めたそうだ」とはどの程度のことを言うのか判らなく、その時の実戦での有効射程距離は何メートル位になるのだろうか。
316S字型金具:2010/01/03(日) 11:25:39 ID:sw2lx5Z2
戦国期の火縄銃についての疑問A

「火縄銃の維持費」について
火縄銃本体の購入費(製造費)の他に、実戦の為の練習や、ためし打ち、対峙したときの火縄の経費などは、かなりの金額になったと思われます。
正確に弾丸を飛ばすばかりではなく、誤射、暴発、やけど、火の粉の飛散などの防止のために練習は不可欠である。
硝石の調達ルートについては分からない所が多いが、結晶の形だけでは純度が分からず、必要不可欠な原料なので足元を見られたり、バッタ品を掴まされることがあったに違いない。合薬した後のためし打ちで判り、不良ならば再々結晶しなければならない。
硫黄や炭、弾丸の鉛については、大きな経費はかからないと思う。
火縄についても、常に火を点けて対峙・対戦すればかなりの経費がかかると思う。特に防城の場合は長期戦になる。
しかし、上野(群馬県)の権現山城の備品に火縄が見えないのが疑問であり、記載漏れなのかも知れないが、火縄銃に火縄を使わないのかな?。出典(諸州古文書)については未確認です。f(^_^;
その他、山中城から出土した弾丸は、鉛の他に銅・鉛・錫の合金弾も出土しており、火縄銃の改良・開発・入れ替えもあって費用もかかったと思います。出典(山中城跡発掘調査・三島市教育委員会)については未確認です。
317人間七七四年:2010/01/04(月) 14:51:16 ID:RGqVE14B
>>313
>>315
朝鮮の役中の文禄2年、巨済島に駐屯する島津義弘軍2千の火器装備記録によると。

百丁の内
玉径(mm)
大筒(?)     1丁   
五十目(31.4) 5丁 
三十目(26.5) 5丁 
二十目(23.1) 5丁
十三文め(20.0) 2丁  
六文目(15.5) 10丁 
二文半目(11.6) 72丁 

となっています。
見ての通り、2.5匁筒が72%と圧倒的比率であり、これが標準的口径であったことが判ります。

学研が行った竹束への貫通実験に使われた6匁筒は10%の装備率で、
文禄期の一般的口径ではなく、威力の強い部類になりますね。

学研には当時最も標準的な2.5匁筒による板盾や竹束や鉄板に対する貫通実験を行ってほしかったですね。
また当時は火薬の質も現在のものとは違っていたでしょうし、
弾丸の材料も原材料に不純物が混じっていたり
製法も手製の鋳型に溶けた鉛を流し込むといった方法では完全な真球状にはならず、
空気抵抗を増して威力を減じたり、精度を悪化させたりしたと思われます。
こうした要素を再現した実験であったなら精度の高い実験になったでしょうね。
318S字型金具:2010/01/05(火) 18:35:26 ID:QGjIxArf
戦国期の火縄銃についての疑問Aの@

>>317
解りやすい文章が書かれており、同感です。
同じく、朝鮮の役中の文禄2年の小早川隆景軍5千の火器装備記録も、200丁のうち2.5匁筒は155丁で78%の装備率となっており、それ以前の一般的な銃の口径は小さい可能性があります。
鍋島直茂軍(鍋島家文書)の火器装備記録については、未確認なので不明です。
竹束については、竹の種類や太さ、油抜き処理の有無によって結果も異なると思います。

小早川隆景軍の火器装備記録に、塩硝、硫黄、薬、鉛、玉の記載が有り、戦場で玉薬製造をしていた様に思いますが、権現山城と同じく火縄が見えないのが疑問です。(小早川文書の原典未確認)
火縄銃には火縄は必要不可欠の品なので、澤田平さんは「火縄は竹や檜・麻・木綿などを素材にして作られるが、地方によってはその土地特有の植物繊維が用いられることがある。・・・・・軍用には木綿の火縄が用いられる。」と本に記載されています。
未記載の炭のように現地調達できる品物なので未記載なのか、それとも記載漏れなのか、はたまた、要らないのか。
その他、権現山城では鉄砲15丁に合薬1500放、玉3200なので1丁当りの玉薬も少なく、戦国時代の「三段撃ち」や「つるべ撃ち」、「早撃ち」については疑問があります。
「できる」と「使える」とで大きな違いがあり、貴重品なので練習も十分にできなかったと思います。
319人間七七四年:2010/01/07(木) 23:25:05 ID:uEIDH2KO
このHPでも射撃実験してるね。
小口径の鉄砲で撃たれても鎧では防げないとのこと。
ある程度距離があれば、当世具足で跳ね返すことはできないんだろうか?
ttp://www.日本の武器兵器.jp/hinawajyu/iryoku/index.htm
320S字型金具:2010/01/10(日) 23:51:26 ID:IfKE7cSp
戦国期の火縄銃についての疑問AのA

射撃練習や黒色火薬の出来を見るために試し撃ちをする。
裸眼視力で、計算上識別できる大きさ(o)と対象までの距離(m)は以下の様である。

視力   10  20  50  100  200
1.0   34  69 172  345  690
2.0   69 138 345  690 1379
3.0  103 207 517 1034 2069
4.0  138 276 690 1379 2759

明るい場所でコントラストの強い静止した物体は、裸眼で2.0の人は10oは69m、100oは690mまで見え、裸眼限界の4.0では、10oは138m、100oは1379mまで見えることになる。
10円玉(径23.5o)に例えると、計算上、視力2.0で162m、視力4.0で323mまで見えることになる。
通常、火縄銃の弾丸は音速で飛ぶために裸眼では見えなく、被弾痕で正確性を判断する。
その際、識別できる物を大きくするために、土煙が出る所を造って着弾させるか、水に浮かべた木片を的にして波紋を出させる。
当時は伝染病のトラコーマ、囲炉裏の煙や不潔な手による結膜炎などの眼病が想定され、眼の洗浄剤や目薬もなく、昔の人は視力が良かったとは一概に言えない。
また、動体視力と静止視力は全く別のものであるが、戦闘中の物の見え方は如何であったろうか。
>>313 の「1町(約120m)あたりから命中率が上がり始めたそうだ。」は、撃ったほうが相手の被弾負傷よる姿勢変化を見てのことであり、何処に弾が飛んで行ったか分からない場合が多い。
標的が動くことや風向・風力、空気中の湿度、照度・靄・霧・雨などの諸条件により命中率(負傷させる)は悪かった様に思われる。
撃たれる側から見ると、耳元での衝撃波音は相手の発射音よりも先に聞こえるが弾は見えなく、直進弾の他に兆弾(跳弾)もあり、当たれば傷害度の大きい恐怖の対象となる武器に遭遇したことになる。
より正確に弾を飛ばすためには、どのくらい練習できたのか(させてもらえたのか)、またその経費は如何様であったかものか。
321人間七七四年:2010/01/11(月) 00:24:17 ID:tHuoJza2
火縄銃の弾は多くの種類があるけど、練習は鉄弾を使うと聞いたことがあるな。
鉛弾は変形して再利用できなくなるから。
322人間七七四年:2010/01/14(木) 15:56:04 ID:L1fLSl8q
>>317
文禄・慶長の役では安価な二匁半筒を大量に調達したため、
それまでと比べ小口径な銃が多用されたんじゃなかったっけ。
板金鎧を着けない朝鮮兵には十分効果があったんだろうけど。
323S字型金具:2010/01/15(金) 01:10:17 ID:eaajzEnG
>>319
射撃実験の Video があります。
「火縄銃の威力検証」
ttp://isv.sakura.ne.jp/gun/hina-ken.htm

小口径の鉄砲(小重量の弾)でも、当たれば相当な負傷を与えるでしょうね。
324S字型金具:2010/01/24(日) 00:48:38 ID:ETgJfqaP
戦国期の火縄銃についての疑問B

火縄銃の口径と弾丸のサイズは、あまりにもバリエーションが多い。
そのため、口径に合わせて弾丸を作成していたようだ。
そこで、弾丸作成法に疑問がある。
戦国期の弾丸作成は、玉型を使用していたのだろうか。
鉄玉の出土があるから鋳型も使ったと思われるが、鉛の比熱は小さいので鋳型は使った(利用できた)だろうか。
表面張力を利用した溶融滴下法(dripping molten lead)で多量に鉛球を作成し、その中から口径に合った物を選別した
可能性がある。(この方法で真球度の高い物ができるかどうか、何時か再現実験をしてみたい)
325人間七七四年:2010/01/24(日) 01:49:24 ID:jVz6q19n
普通に鋳造だろ。
江戸時代や大陸と同じように、先がでかくて中に球状の空間があるペンチつかって
工具は知らんがバリの付いた制作途上の弾丸は発掘調査で出土してるし
鉛製、鉄製のほかに銅製のもあったらしいな。
篭城中に鉛が無くなって、しょうがないから銅銭溶かしてって推測されてたが
326S字型金具:2010/01/24(日) 22:37:47 ID:ETgJfqaP
戦国期の火縄銃についての疑問Bの@

>308 の8分弾(直径8ミリ)から2.5匁弾(直径12ミリ)の小球形金属物の作成を考えると、
当時、炭火では鉄を溶融できなく、鉄玉では鎚による作成よりも、鉄鋳型による温鍛造の可能性がある。
銅玉や >316 の合金弾については、銅銭製造のようにルツボ・トリベによる溶融土鋳型法も考えられるが、鎚による鍛造や、鉄鋳型による温鍛造の可能性もある。
鉛玉は、玉型(1発用)による溶融鋳型は現存しているが、多発用の土鋳型の現存は知らない。(私が知らないだけかも)
鋳型による弾製造は、鋳型によって玉径が決まるので、口径にあった鋳型が必要となる。
いずれにしても真球度を上げないと弾の回転が増して直進性が失われる。
鉛は整形が簡便で高比重であることから弾材料に適しているが、数百発の異径鉛弾の一括出土例はどの様に解釈したらよいのか判らない。
327S字型金具:2010/02/03(水) 23:47:26 ID:Pn1Hh8JL
戦国期の火縄銃についての疑問C

「真説 鉄砲伝来」に、気になることが書いてあった。
記事の中から、近世初頭における火縄銃と思われるものを拾い上げると、
「鉄炮・鉄放・大鉄炮・石火矢・手火矢・長大筒・小筒・六匁玉・種嶋・薩摩筒・南蛮筒・南蛮鉄炮・異風筒・異風物・意府物」と多くあり、なぜ色々な名前を付けていたか、呼ばれていたかが疑問である。
著者は「むすび」で、「伝来したものが南蛮筒」で「異風筒は南蛮筒を見本にしてつくられたもの」としているが、異風筒の呼び方にしては多すぎるような気がするし、南蛮筒の呼び方は後の呼び方である。
あえて「南蛮」と付けて、違いを示す必要性があったものか。
また、「西日本一帯の広い地域に南蛮筒が続々と渡来した」と記載している。
東南アジアの一地域から工夫・改良されながら続々と渡来したものか、インドを含む東南アジア一帯から渡来したものかが不明である。
その時代のキリシタンご一行様も鉄砲を持っており、その西洋鉄砲の影響についても不明である。
東南アジアに、中国(明)よりも火器の発達した国があったとは思えないが。
328仙台藩百姓:2010/02/05(金) 20:59:18 ID:Abgtcxud
そりゃ種類が違うのだから呼び名が違うのは当然だお( ^ω^)
今だって小銃一つとっても数十種類あるのと同じだお( ^ω^)
329S字型金具:2010/02/05(金) 21:49:29 ID:USeLibst
戦国期の火縄銃についての疑問Cの@

異風筒の呼び名が多い割りに、火縄銃の部品名についての異名が少ない。
「照門・照星・銃口・銃床・さく杖」については中国での部品名であり、江戸期になってから使われ始めたもので近世初期には用いられてはおらず、「鉄砲伝来」とは関係ない部品名である。
火縄銃が進歩・発達すれば当然部品点数も増え部品名も増えてくるが、「続々と渡来した」ならば外国語の部品名が付けられていてもおかしくない。
江戸期に入り、数多くの「流派・砲術師」があらわれてバリエーションのある銃が造られ「口伝・秘伝書」で部品名を伝えているが、部品名を漢字に当てはめ直したとしても、なぜ「秘事」にしてはあまりにも共通の部品名を使い、異名が少ないのだろうか。
「カルカ」についてはカタカナで書かれおり、その意味はポルトガル語の歯科道具「calcador」(和名のエキスプローラー・エキスカベーター)に相当するものと思ったが?
また、「火縄銃」の呼称は、何時ごろ、誰が、何と区別するために言い始めたのだろうか?
330人間七七四年:2010/02/05(金) 23:33:10 ID:iJ/MwIDV
もう駄目かなこのスレ
331人間七七四年:2010/02/06(土) 00:16:00 ID:EWP5qdYJ
某研みたいだ
332人間七七四年:2010/02/06(土) 00:23:48 ID:EgU7dvMD
東南アジア諸国の火器技術は南宋の亡命民から受け継いだものでレベルは高かったらしいが
333S字型金具:2010/02/06(土) 01:08:32 ID:X7wPP/N+
戦国期の火縄銃についての疑問CのA

「朝鮮王朝實録」の「成宗 75卷, 8年(1477年) 1月 28日(丁卯)」には、
「火藥庫有石硫黃二十三萬七千餘斤焰焇四萬斤然今倭人未有來獻者必有窮盡之時」とあり、「火薬庫に石硫黄23万 7千余斤と焔硝4万斤の在庫があるが、今まで献上(献土)してきた倭人(日本人)が来なくなったので,必ず無くなる時が来る」と記述されている。
「朝鮮王朝實録」に鉄砲に関係する倭人の献上品に、硫黄・鉛・銅などが記述されており、これまでに(1418年12月から1449年2月まで)これらを献上してきた主な日本人は以下の人々である。
九州前ハ管右武衛源道鎭、九州ハ管源義俊、筑州石城管事民部少輔平滿景、對馬島都萬戶左衛門大カ
筑前州太守藏親家、濃州太守平宗壽、一岐州太守源重、駿州太守源省、肥州太守源昌C、筑前州太守滕源滿貞、日向大隅薩摩州太守修理大夫、薩摩州太守源久貴
熊州刺史源昌C、作州前刺史平常嘉、九州府石城式部小輔源俊臣、薩摩州伊集院㝢鎭藤原ョ久、筑前州太宰宗貞澄

したがって、その当時、朝鮮に鉄砲原料(無い・不足している物)を送ったのは「倭寇」ではなく、日本の役人である。
また、日本は火薬のことは当然知っているが、朝鮮側が秘密にしていて正式に教えていない。
334人間七七四年:2010/02/06(土) 22:56:48 ID:EgU7dvMD
どこが疑問なのかも詳しく書いて欲しい。
日本の役人が正規に火器の原料を朝鮮に提供していたのは
倭寇による鉄砲伝来説とはまったく矛盾しない。
335S字型金具:2010/02/07(日) 02:25:12 ID:n4nccmJZ
戦国期の火縄銃についての疑問CのB

「真説 鉄砲伝来」の著者は、「国立歴史民俗博物館研究報告第17集」「壬辰・丁酉の倭乱と李朝の兵器」の中で、
明宗元年(1546年) 四月「濟州漂流人到琉球國刷還到上國時見福建道水車之制而傳習之今若制作激水甚便請令戶曹造作下送各道ヘ民何如且鐵丸火砲唐人之所作用之水戰甚便破敵尤妙請令軍器寺詳究制度造作藏諸沿邊各官以備不虞何如」
について、「鐵丸火砲」を「中国人が造った仏狼機」と推測し記述している。(P11、P46〜)
著者の推測根拠は、
@明宗元年(1546年)は、仏狼機が明国に伝わって二十七年後のことであるから、このとき、李朝に仏狼機があったとみても不自然ではあるまい。唐人の鉄丸火炮はおそらく仏狼機かもしれない。
A宣祖二十六年(1593年)九月、李朝は仏狼機の説明が書いてある「紀效新書」をえたので、研究されていたはずである。
B宣祖二十七年(1594年)六月、明国軍が平壌城を仏狼機で攻撃した。(ただし、李朝ではない)
C宣祖二十八年(1595年)十月、「海上通路遮断するために仏狼機などを装備すべきと啓した」とあるので、仏狼機が打造されたとみなしてもよいだろう。このなかに仏狼機がふくまれていたとおもいたい。
などであるが、その直後の文に「ヨーロッパから明国に伝わった仏狼機は、その後、ほどなくして李朝にもたらされた」「仏狼機が、宣祖二十八年ごろふたたび打造されたのである」と断言している。
しかし、「朝鮮王朝實録」では、「鐵丸火砲」の記載はここ1箇所のみ、「佛狼機(器)」についての記載は宣祖二十七年(1594年)三月からで、訓練は光海二年(1610 年) 十月から、製作は顯宗六年(1665年) 五月からのようである。
また、著者は、宣祖二十五年(1592年)十月四日「賊徒一百名出來則前鋒百人持鐵丸環刀其餘後行皆無兵器我軍誠冒死突入勝之必矣」について、「鉄丸が火縄銃、長剣と環刀が日本刀であることはいうまでもあるまい。」と断言している。(P7)
「朝鮮王朝實録」に「鐵丸」は多く出ているが、「鐵丸火砲」について「中国人が造った鉄砲」と解するほうが妥当な見方ではないだろうか。
そうであれば、「天文十五年(1546年)以前に中国で・・・」となる。

336S字型金具:2010/02/07(日) 10:41:48 ID:n4nccmJZ
>>334 様、記述の飛躍や説明不足については、「朝鮮王朝實録」の解明途中なのですみません。
しかし言えることは、「朝鮮は日本のことを恐れている割には、日本のことを知らないし、知ろうとしない」、「中国から火器・火薬について習ったが、その後の改良・進歩が遅い」である。
日本を恐れるあまり火薬製造法を極秘にし、自国の技術伝承さえ危うくなっていて、「朝鮮王朝實録」の記述から日本の鉄砲について知るべきことは少ないと思える。
1449年2月以降、朝鮮への献上(献土)はほとんど無くなり、日本人は私貿易でも硫黄なども扱っており、焔硝は禁制品ではなくその精製法も知っていた。(火薬についての製法は中国より知っていたが性能は不明)
定宗元年(1399年)6月1日「日本國使詣闕 賜酒食日旣夕令軍器監張火戲以視之倭驚曰此非人力所爲乃天神使之然也」で驚き、その原料の硫黄などを献上していれば、中国より情報を得ようとするのは当然だと思える。
今までの「朝鮮王朝實録」による「倭寇による鉄砲伝来説」は状況証拠であり、確証ではない。
「鉄砲伝来」について、中国(明)史料を解明しないと真実は出てこないのかも知れない。

その他、
@「鉛丸」の記述は、宣祖26年(1593年) 1月 11日「提督鼓諸軍薄城賊伏於陴中亂用鉛丸湯水大石滾下拒之」からであった。
A「鉄砲」の定義についてははっきりしていないが、これも「伝来」といえるのかな。
世宗卽位年(1418年)8月14日「對馬島敬差官李藝啓 火(桶)碗口唯以銅鐵鑄造而銅鐵我國所不産因此火(桶)碗口未易鑄造臣至對馬島於賊倭處得中國所鑄水鐵火(桶)碗口以來請以水鐵鑄火(桶)碗口分置諸州鎭命軍器監試之」
337人間七七四年:2010/02/07(日) 23:18:03 ID:XUiYsI1/
>>335
朝鮮王朝実録(1546年)記述の「鐵丸火砲唐人之所作」が仏狼機という根拠は滅茶苦茶。

ABCは(1593年)(1594年)(1595年)の仏狼機に関する記述で
そんなものが時代大きくを遡って(1546年)に適用できるものじゃない。

@にしても「不自然ではあるまい」とか「かもしれない」といった程度の
殆ど根拠にならないような根拠。
(1546年)頃の明では仏狼機以外の各種火砲が存在していたのだから
仏狼機に限定することはできない。
338S字型金具:2010/02/08(月) 23:44:03 ID:6wVSZddy
戦国期の火縄銃についての疑問CのC

倭寇による伝来説の根拠を「真説 鉄砲伝来 P44〜P49」から抜き出すと、
@この当時、明政府は朝貢関係にある外国の商船以外の受け入れを禁止し、自国の商船の海外渡航を禁じていた
A天文十五年(一五四六)に薩摩山川港に来泊したポルトガル船の船長が、年々九州地方に来航していた中国船の数はおびただしかったと記録に書き残している
B明の商船がわが国に頻繁に来航するようになると・・・日本の商人がこれに加わって明に出向くようにもなった
C倭寇は・・・国禁を犯して、日本や東南アジアの諸方面に奔走して威勢を誇示していた
D倭寇の構成員の主体は中国人であったが、・・・・倭寇は西日本地域と深い関係があったことになる
E中国人は・・・つまり鉄砲であろう。・・・火砲を日本に売りさばいたことは想像にかたくない
F明宗2年(1547)4月19日の記録によると、すでに福建人が倭奴と交通して、かれらに兵器をあたえ、かつ火砲の撃ち方を教えた
G倭寇の重要な交易品のなかには硝石や硫黄がふくまれているが、これらの商品は鉄砲の必需品である。この点からも倭寇が鉄砲を商ったことはまちがいあるまい
だから、「倭寇が東南アジアから鉄砲を伝えた」としている。

中宗39年(1544年)7月23日「但此唐人漂向倭地則其火砲器具倭人必ョ而傳習
當此憤怨之時其爲我國之害亦豈少哉前者欲以唐船有勿歸倭地之議其言甚爲有理
然興販唐船往來日本者必前後相望倭奴之傳習火砲恐或終不能防閑也」
P48のこの文を著者は、「唐人たちの所持する火砲が商売の末日本に伝わり、日本人が火砲の製作法や射法を学んで、朝鮮に害をなすことにあった」と解説しているが、
「中国人が日本へ行って、日本人に中国の火砲・器具を教える」とも取れるのだが。
ABの薩摩山川港を含む九州地方の人は「倭寇」か。
Fの中国・福建を東南アジアといえるのかな。

339S字型金具:2010/02/10(水) 01:08:16 ID:isGwpU7k
戦国期の火縄銃についての疑問CのC

由緒書などには信頼性の低いものもあるが、鉄砲について誰から教わったかを「真説 鉄砲伝来」の第4・5章から拾い上げてみると
@P70 天文二十三年に佐々木少輔府次郎が祖父の相模守に授けたもので・・・
AP87 機会があって入唐し、明師から小筒一流の秘術の伝授を受けて帰国し、さらに研鑽を積んだ
(P91 秘伝書の目的は秘事の伝授であって、鉄砲伝来の事実を語ることではない。唐・天竺も南蛮もともに外の国、すなわち海外からということを表現したもので、それほど深い意味はない)
BP95 長ずるにおよんで諸国を遍歴し、諸流の秘伝を学んで・・・
CP98 唐人式部大輔に秘伝を授けた岸和田肥前守重房の消息は不明であるが・・・
DP104 大唐より鉄砲が伝わり、豊後の国に・・・
EP105 その伝来は大友家から世上にひろまった
FP106 鉄砲は大永六年に村上新左衛門という西国の牢人が信虎公へ奉公して教えた
(P106 まだ鉄砲が伝来していないからおかしい)
GP109 唐国から永正七年に初めて渡来した鉄砲と教えられた。
(P109 それが永正七年というのはありえない。鉄砲自体が伝来していないからである)

東南アジア人・南蛮人から教わったような形跡は見えず、著者は「天文十二年伝来説」にこだわっている。
また、P57の「鉄砲薬方並調合次第」では、「両分朱」の単位系を使い、道具も東南アジアのものではない。
(この次第書はなぜか配合比率が2種あり、この処方では火薬は作れず、詳細は口伝となっている)

340S字型金具:2010/02/11(木) 00:59:27 ID:gxF3hfFX
戦国期の火縄銃についての疑問CのE

「真説 鉄砲伝来」で南蛮鉄砲について、『P64 江戸時代以前、わが国に伝えられた鉄砲は、南蛮筒とか、南蛮鉄砲とよばれていた』、『P82 外国製の鉄砲は「南蛮筒」とよばれ、それを見本につくられた鉄砲が「異風筒」である』と明言している。
「南蛮筒」についての古文書は、P64・65に「天文23年(1554)」、「天正12年(1584)」、「天正14年4月」、「慶長18年(1613)」などを紹介している。
そして、P65から現存する南蛮筒の実物資料7点を紹介し、伝初伝銃を「南蛮筒(銃身だけ)」、他の6点を「異風筒」として、『南蛮鉄砲・南蛮筒に関する文献史料と実物資料は数えるほどしかない・・・』と記述している。
その他国内には、喜蔵とりつき銃、信玄砲、上妻家伝来古銃、慶長大火縄銃、徳川家康所用火縄銃なども存在するが、著者はこれらも「異風筒である」と言うに違いないが、「信玄砲」はどんな「南蛮筒」を見本にして作られたものだろうか。
いずれにしても制作年のわかる(信頼できる)現存銃は、慶長期(1600年ころ)以降とされ、それ以前については確証が得られていない。
P82から「異風筒」についての記載があり、『実在を示す文献史料はつぎの三点を数えるにすぎない』として、紹介している。
@元和3年(1617年) 鉄砲1020挺、イフウ物不同也 285丁、『千二十挺に対して二百八十五挺は、けっして少ない数字ではあるまい』と記述。
A元和4年(1618年) 異風筒 300挺、6匁玉 1000挺、『三百挺におよぶ異風筒が島原城にあったことになる』と記述。
B寛永13年(1636年) 田布施流の秘伝書、『そこには「大薬、種嶋、異風物」とあり・・・・異風物がふくまれていた可能性がある』と記述。
『P85 通説のように種子島を起点に鉄砲が全国に伝播したとすれば、みな種子島の鉄砲とおなじ形式になるはずである。
しかし、そうでないのだから、種子島以外の地域にも南蛮鉄砲が伝わったことになる。
南蛮筒はもとより、多くの異風筒の存在は、鉄砲の伝来が分散波状的にあったことを証明している』と記述している。

しかし、私はこの記述について、全く納得できない。
著者は南蛮筒・異風筒以外の存在を認めていないのに、@ABの「異風筒以外の多量の鉄砲」をも認めている。
これは「おかしい」。「真説」というよりは・・・・・。
だから、私の「戦国期の火縄銃についての疑問C」が出てくる。
341人間七七四年:2010/02/11(木) 05:47:27 ID:WyoPyZni
まだオナってんのか
342u7dee9885fw5gz6:2010/02/12(金) 01:35:50 ID:dUAOT1PH
>>340

S字金具様、お久しぶりです。
掛け軸の件、気にはかけていたのですが、何処で閲覧したか記憶を辿れませんでした。
申し訳ありません。
某寺所蔵のサーペンタイン銃ですが…何か判明しましたか?
宜しければ教えて下さい。
343S字型金具:2010/02/12(金) 23:09:16 ID:4ox+Be+0
>>342
u7dee9885fw5gz6 様、掛け軸の件は残念です。
サーペンタイン銃については、昨年9月に記録保存のため計測を行いました。
その後、雑賀と関係ない「石山本願寺防城用の狙撃銃」ではないかと推論し、手紙で澤田さんにその批評をお願いしましたが、現在のところお返事はいただいておりません。
その計測値と推論要旨を「デジカメによる計測・コメント欄」で公開しておりますので、ご意見・ご指導をお願いします。
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/list/4143269/

訂正 >>256 の「東南アジア」は「東アジア」の入力間違いでした。
344u7dee9885fw5gz6:2010/02/13(土) 05:39:14 ID:iFImjHvb
>>343

詳細な調査、御苦労様です。
改めて拝見させて頂き大変、勉強になりました。
私見となりますが、S字型金具の設置方法(外装か内装)と火蓋の形状が、かなり判断の目安になるものかと感じました。
345u7dee9885fw5gz6:2010/02/13(土) 08:21:20 ID:iFImjHvb
> 続きです。
例外もあると思いますが、サーペンタイン式にてS字型金具を内装しているのは、中国を中心としたモデルの特徴だと感じます。
346u7dee9885fw5gz:2010/02/13(土) 08:24:50 ID:iFImjHvb
>>345

> > 続きです。
展示物以外(オークション等)にも数点、サーペンタイン式を見ておりますが、国産と思われる物で内装式を見ておりません。内カラクリの壊れた火繩銃をサーペンタイン式に改装した物も拝見しましたが、やはり外装でした。
又、あくまで個人的な私見ですが、火蓋の造りが鍛造的に感じます、現存する国産の古式銃、資料でも同形状の火蓋を拝見した事が有りません。
火蓋自体が破損等、紛失している物も多いのですが…
以前にも書きましたが、自分は、否定派ではなく
肯定派です。
新しい事が解りましたら、また教えて下さい。
宜しくお願い致します。
347S字型金具:2010/02/13(土) 22:47:46 ID:rjb9iLsu
>>346
火蓋の造りは軟らかい鍛造鉄でリベット止めとなっており、ほかの鉄部は硬い鍛造です。
最初、変形していたので、私がエイ!ヤー!と手力で、火門池と合うように整形しました。(20年前なので時効)
炭火では純鉄の融点1535℃まで上がらなく(たたらでも1300℃)、鉄の直接鋳造は不可能です。
金属は不純物(合金を含む)があると融点が低下する(純銅・1085℃、青銅・真鍮・900℃、鋼・1400℃、銑・1200℃)ことや物性が変化するので、銅合金鋳物はよく作成されましたが、鉄鋳物は石炭(コークス)の利用からだったと思います。
ヨーロッパでは、サーペンタイン式銃は早く消え、現物を探していても見つかりません。
クロスボウ(ボウガン)・弩の仕掛けは内装が多く、内装式は支点がしっかりするなどの利点があったと思われます。
348S字型金具:2010/02/15(月) 02:34:16 ID:yo6fb72B
戦国期の火縄銃についての疑問D

宇田川武久(元国立歴史民俗博物館教授)さんは、「真説 鉄砲伝来」で、「鉄炮記」を『そもそもこの書物は、伝来とされる年から約六十年後、・・・・・それほど史料的価値が高いとはいえないものである』として、「倭寇説」を組み立てている。

伊川健二(大阪大学・大学院文学研究科・文化動態論専攻)さんは、「鉄砲伝来の史料と論点(上・下)」で、「鉄炮記」を信頼に足る史料と結論づけ、ポルトガル伝来説を採用している。
その『おわりに』(下・P32)では、
『じつは筆者は、歴史研究者にとって、鉄砲伝来というテーマは、労多くして実り少ない論点であると考えている。・・・・・
しかも、この問題は、本来、文献のみで解釈されるべきものではない点は、前号以来しばしば触れているとおりであり、技術面での考察をあわせるのであれば、さらに複雑化することはいうまでもない。』
と書いている。
ttp://igawa200.hp.infoseek.co.jp/pdf/teppo-1.pdf
ttp://igawa200.hp.infoseek.co.jp/pdf/teppo-2.pdf

太田牛一の「信長公記」は、豊臣家滅亡後に軍記の執筆に専念し、慶長15年(1610年)に書き上げ、小瀬甫庵はその「信長公記」を元にして、翌年、「信長記」を書き上げている。
『甫庵の「信長記」は「偽り多し、3つのうち本当のことは1つ」(大久保彦左衛門の三河物語)と当時の人からも非難されている』とのこと。
ttp://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/ukon/ukon09.html

『これは裏を返せば、原本となった牛一の「信長公記」についてもそのまま信じては駄目だと言うことにもつながる』は、正しい。
ttp://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide04.htm

由緒・由来書、伝記について、どこまで信用してよいものか。古文書・手紙にしても、偽物や意図して書いた物もあるし、秘伝書については、「トンデモ本」の範疇に入る物もある。
349人間七七四年:2010/02/15(月) 11:25:35 ID:uONNRbgT
大内は種子島伝来前から鳥銃を輸入していたのに
まったく話題にならないよな
350人間七七四年:2010/02/16(火) 20:52:29 ID:LfMtO2Vi
ていうか鉄砲伝来って戚継光が倭寇と戦うよりだいぶ前だよね
その頃の明に鳥銃ってあったの?
鋳造の粗雑な銅銃しかなかったと思うんだが
351S字型金具:2010/02/17(水) 03:05:28 ID:XI+C2b4T
戦国期の火縄銃についての疑問Dの@

伊川さんの、「鉄炮記」について『技術面での考察をあわせるのであれば、さらに複雑化することはいうまでもない。』と記述していることは、今まで、技術面から鉄砲伝来を見ていない(調べていない)事を言っている。

私なりに「鉄炮記」を読解してみると、
@種子島の位置と地名の由来を紹介。
A天文12年、言葉の通じない外国人(西南蛮人の商人)が乗った船が来て(難破か座礁か不明)、五峯(明人の儒生)と筆談できたので、領主の恵時と時堯は港に運んだ。
B住乗院(島の法華の徒)と五峯は、筆談により意思が通じた。
C商人の長は二人いて、鉄炮を持っていた。
D時堯は鉄炮の原理・用途を理解した。
E今呼んでいる鉄炮の名称は、明の人か、あるいは種子島の人が知らずに名づけたものである。
F時堯は使い方を学び、頼んで二丁手に入れ、妙薬の調合法も学び、鉄炮の練習をして、百発百中になった。
G紀州根来寺の杉坊某公が鉄炮を求めてきたので、隠さずに、妙薬の調合法、使用法を教え、一丁贈った。
H時尭は鍛冶職人に複製品を作らせたが、鉄炮の底の塞ぎ方を知らなかった。
I翌年、蛮人の商人が来て、その中に一人の鍛冶職人がいたので塞ぎ方を学び、その後、数十の鉄炮を製造した。
J時堯は、鉄炮の台の形・飾りの模造が気に入らなかった。(理由は、鉄炮は軍需品である)
K近臣の者は時堯を見習い、多くの人が百発百中になった。
L和泉国堺の橘屋又三郎(商客の徒)が島で鉄炮を学び、畿内・関西・関東の人に伝習させた。
M聞いたところによると、鉄炮を持った松下五郎三郎(時尭の家来)が東海道伊豆州に漂着し、関東八州の人に伝習させた。
N鉄炮が種子島に伝わって六十年余りで、覚えている者がいる。領主の時堯は、蛮人から二丁の鉄炮を求め、学び、日本中を驚かせた。また、鉄炮の製造法を知り、日本中に教えた。
 種子島が鉄炮の始まりであることを明らかにするためにこれを書いた。種子島は、種子の意味にあった島の名前である。

読解力不足ですみません。
352人間七七四年:2010/02/17(水) 10:00:18 ID:Wwfg0wWj
>S字型金具氏のサーペンタイン
明が滅亡した時、日本に亡命してきた人らがかなりいたが(朱舜水など)
そういう人たちが護身用に携えていた銃のひとつでは無いかと推測
353S字型金具:2010/02/17(水) 15:24:07 ID:XI+C2b4T
戦国期の火縄銃についての疑問DのA

「鉄炮記」には、「佛郎機(フランキ)」、現在の葡萄牙(ポルトガル)が出てこない。
佛郎機は国名で、正徳12年(1517年)、佛郎機種は明国へ朝貢したが、その後、国交を断られた。
佛郎機砲は、佛郎機種が中国(明)へ伝え、明が改良した大砲である。
明は、嘉靖2年(1523年)に試作し、嘉靖7年(1528年)には4000門を配備したが、小型火器である銃(佛郎機槍?)については、不明である。

「鉄炮記」に、天文12年(1543年)に着いたのは、「西南蛮種之賈胡也」、すなわち、「東南アジアの商人である」とはっきり書いてある。
文中に、6箇所「蛮種」が出てくるが、「佛郎機種」よりは「西南蛮種」としたほうが妥当だと思え、また「その後どうなったか」については書かれていない。
「鉄炮記」での「蛮種」は、「其形不類,其語不通,見者以為奇怪矣」
明国「武備志」でのポルトガル人は、「顧應祥云、佛狼機國名也、非銃名也、正徳丁丑(1517年)、予任廣東僉事、署海道事、驀有大海船二隻、直至廣城懐遠驛、稱係佛狼機國進貢、其船主名加必丹、其人皆高鼻深目、以白布纏頭、如回回打扮」
その翌年、「蛮種の鉄匠」(たぶん鍛冶職人)より、「底塞ぎ」を学んだが、通訳や、筆談、風体については書かれていない。

五峯(大明儒生)が「倭寇の王直」説は、天文12年(1543年)現在、日本語が喋れないので、「アウト!」。
天文12年(1543年)の種子島の当主は「恵時」のはずだか(時尭は当時15歳?)、なぜか文中1箇所のみである。

Dについては多くの疑問があり、長くなりますが書かせてください。
354S字型金具:2010/02/17(水) 17:25:37 ID:XI+C2b4T
>>352
明朝が滅亡したのは崇禎17年・寛永21年(1644年)ですが、この銃については、慶長9年(1604年)から明治4年(1871年)の廃藩置県までに持ち込むことは、この寺の性格上、殆ど不可能です。
戦後、寺蔵の調査の際に忘れ去られていた物が出てきたが、寺とは合わないためガラクタと一緒に廃棄処分品として置いてあったものではなかろうか。 >>243
文禄・慶長の役(1592年から1598年)の際、日本中から色々な種類・形式の銃を集めて出征しており、また、明からの輸入(戦利品)の可能性もありますが、「本願寺の銃」としたいものです。
朱舜水とは時代が違うので、「この寺所蔵の銃」とは関係ないと思います。

ちょっと面白いものを見つけたので
中国(明)が日本の倭銃について研究していたのは事実ですが、私は「明代徐州衛遺址出土の鳥槍」については、倭銃の可能性が高いと思っています。
火鋏は欠落していますが、引金・元目当の位置?。弾金・締金は、真鍮・青銅?
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/128522/
355人間七七四年:2010/02/17(水) 23:09:42 ID:Wwfg0wWj
>>354
どこの寺かは存じませんが、明からの帰化人は寺をひとまずの住処とする事が多かったので、
彼らの武器が寺社に持ち込まれる可能性はなくはないでしょう。(当時、漢語に堪能な日本人は学識階級である僧侶くらい)
黙子如定、隠元隆gが身を寄せた興福寺など。
寺社領は権力の及ばない治外法権の領域でもありますし、
そう思えばu7dee9885fw5gz6さんが目撃されたと言う
「なぜかサーペンタイン銃を持った僧兵の掛け軸」の由来も説明がつくような気がしまして。
可能性の一つとしてお留め置きいただければ幸いです。
356S字型金具:2010/02/20(土) 02:11:06 ID:4EuxLzN2
戦国期の火縄銃についての疑問DのB

「鉄炮記」は種子島氏16代当主の久時(1568〜1612)が、慶長11年(1606年)『和尚である南浦文之』に編纂させたものである。
恵時は、久時の祖父(1503〜1567)で13代当主。「鉄炮記」登場は1箇所。
時堯は、久時の父(1528〜1579)で14代当主。「鉄炮記」登場は14箇所。

@天文12年(1543年)3月23日、禰寝氏が300人の兵を率いて種子島を攻撃し、種子島氏は戦いに負ける。
恵時(当時40歳)は屋久島に逃亡する。時堯(当時15歳)は屋久島を譲ることで和解。その後、恵時は本島へ帰還する。(日時は不明)
A8月25日に南蛮船(百余人乗船)が現れ、恵時と時堯に連絡入る(恵時の記載はここだけ)。すぐに船数十艘に南蛮船を引かせ、27日赤尾木港に入港させる。
Bある日、時堯は通訳を介して、南蛮人から鉄砲の奥義を教えてもらう。
C9月節句の日、時堯は試し撃ちを行い、とても手が届かないほど値段が高いにもかかわらず、2挺の鉄砲を買い求め、家宝とした。
Dこの頃、時堯は、杉坊某公に鉄砲1挺を贈り、妙薬の法と火放の道も教えた。
Eこの後の、南蛮人百余人の動向は不明。

F天文13年(1544年)、恵時は屋久島の禰寝勢を攻撃して戦いに勝ち、屋久島を奪還する。(戦いの日時は不明)
禰寝勢は与えられた船に載って大隅半島へと向かったが、その船には細工が施されていて、たちまち浸水、転覆して禰寝勢は全滅した。
以後、禰寝氏との対立が激化する。
G再び来た南蛮人(一人の鉄匠)に鉄砲製法を学ぶ。来航日時、南蛮人の動向は不明。

H何年か後に、新たに数十挺の鉄砲を製することができるようになり、習うものが増えた。
Iその後、商人の橘屋又三郎が種子島に一・二年居住して、鉄砲についてほとんど学んだ。

「鉄炮記」は種子島時堯(当時15・16歳〜)について書かれており、種子島氏は在地領主として種子島を支配していたが、天文12年以来、屋久島・口永良部島などを巡り禰寝氏(大隅国の領主)と争いを繰り返していた。
@Fの原典は未確認ですが、大きく違わないと思います。
このような状況を考慮に入れると、「鉄炮記」の記述内容は「のんびり」していて信憑性は低く、信頼できないところが多い。
「漂流してきた西南蛮船を略奪、葬り去った際に、略奪品の中に鉄砲があった」とするほうが妥当で、「最初の鉄砲伝来・日本発見」とは関連が無いかも知れない。
357月孔雀:2010/02/20(土) 02:13:12 ID:88kOxkdN
米兵海兵隊の銃を、一丁、盗んできなさい。
自衛隊の工作員は、そのくらい、やってるかな・・
358人間七七四年:2010/02/20(土) 09:19:50 ID:5600RxFQ
海兵隊が火縄銃使ってるとは知りませんでした
359S字型金具:2010/02/22(月) 02:41:11 ID:Q700ATRt
戦国期の火縄銃についての疑問DのC

@中国(明)は、1405年から1433年までの28年間に7次の大航海を行い(東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカまでの航海)、キリン・ライオン・シマウマ・サイなどの珍しい動物を連れて帰った。
Aその後、明はマラッカ王国(マレー半島南岸のイスラム港市国家、1402年〜1511年)のスマトラとマラッカに官廠(貿易中継施設)を開設していた。
B中国は、マレー半島の西側を「西洋」と呼び、東側を「南海」と呼んでいた。
Cポルトガルは、インドのゴアに基地を設営(1479 年)した後、そこから18隻、1400人の船隊でマラッカ王国を攻撃したので、マラッカ王国は滅亡(1511年)してしまった。
Dそこで、ポルトガルは日本を含む東アジアの情報を得て、正徳12年(1517年)明国へ朝貢したが、明はポルトガルについては知らなく、国名(後に佛郎機・フランキ)も無かった。
Eしかし、明は「佛郎機最凶狡,兵械較蕃獨精」として、1520年にポルトガルを追い払い、鎖国を行った。
F1522年、ポルトガルは5隻の軍艦で広東を攻撃してきたが、明軍は岸炮・艦炮で反攻したのでポルトガル軍艦2隻が分捕られ、3隻がマラッカに戻った。このとき、2隻の艦炮の大砲(佛狼機)を20門手に入れた。
G1523年、明は分捕った艦炮から佛狼機を試作し、1528年には4000門を配備した。(小型火器については、不明)
H当時、東アジアにおいて倭寇が活躍していたので、ポルトガル(佛狼機夷)は中国東南部の沿海貿易に倭寇を利用した。
I1548年、明は、鎖国の一部を解禁(10隻か?)した。
Jポルトガルが征服から貿易に転向したことが了解されたので、明は1557年にマカオでの居留権を与えた。
K1604年、明軍とオランダ(紅毛夷)の船と戦闘になり明軍が負けた。その後、佛郎機炮から紅毛炮に切り替えていった。

以上が当時の大まかな東アジア情勢である。
ポルトガルは日本については知っていたが、1522年以降1548年頃(?)までの間は、直接日本に行けない事情があった。
そのため、鉄砲伝来倭寇説も考えられるが、黒潮による漂流、中国からの伝来もありえる。
しかし、今までのところ中国でポルトガル(佛狼機夷)の小銃記録が見られなく、仮に神器譜(しんきふ)の西洋銃がそれだとしたら、倭銃とはまったく異なった銃である。
日本に伝来した銃すべてがポルトガル製とは考えられなく、マラッカ銃についても中国に記録が無いので(私だけか?)、日本の火縄銃について再考が求められる。
360人間七七四年:2010/02/22(月) 03:41:33 ID:dWBE/XKT
もう自分のブログつくってそこでやれよ。
このスレではなっから答えを求めない「ボクの見つけたすごい疑問!」をやられてもみんな困っちゃうだろ。
361u7dee9885fw5gz6:2010/02/23(火) 06:10:32 ID:c5chY3op
>>360

火繩銃のスレなんだから、問題ないでしょ?
むしろ、否定なら自分の持論で反論すれば?
362人間七七四年:2010/02/24(水) 08:47:30 ID:AXA6DHn8
S字型金具氏が作業仮説としてどのような形の伝来ルートを想定されているか、
いまいちよくわからんのですが。(何年にどこから、どのように)
既知の説では明が日本式の火縄銃の製法を得たのは1548年、
トルコ系の魯密銃を得たのは1598年という事になってますが
363人間七七四年:2010/02/24(水) 09:32:54 ID:XgOo50Dr
>>360
スルーしているからいいよ
読ませようとする努力もないみたいだから
ブログにもならない
364S字型金具:2010/02/25(木) 23:18:53 ID:4fLDrvuu
戦国期の火縄銃についての疑問DのD

天文18年?(1549年?)、摂津の細川晴元は山城の本能寺へ出した書状に
『種子島より鉄炮馳走候て、此方へ到来す、誠に悦喜せしむるの由、彼嶋へも書状を以て申し候・・・』と書いてあるので、種子島に鉄砲があったことは間違いない。

「鉄炮記」には当然のことながら、鉄炮について書いてある。
本文中に「鉄炮」の単語は10箇所出てくるが、「種子島筒」「南蛮筒」「異風筒」など「鉄炮」の異名については「ゼロ」である。
文中で、「始め、その名前も使い方もよく分からなかったが、鉄炮の名称は明の人、または種子島の誰かが名づけた」ものとしている。
『始不知其何名。亦不詳其為何用。既而人名為鉄炮者。不知。明人之所名乎。抑不知。我一島者之所名乎。』

しかし、中国(明)の書物に「鉄炮」の記載は無く(私が知らないのか?)、小さい物は「○○銃」、大きい物は「○○槍」などで、総称する名は無い。
なぜ、「鉄炮記」に、「種子島の人がよく分からない内に、鉄炮と名づけた」と記載する必要があったのだろうか?
時堯は、南蛮人から名称も聞かずに買ったり、教えてもらっていたのだろうか?
また、なぜ「自分が初めて名づけた」と書けなかったのだろうか?

その当時の古文書には「鉄炮」のほかに、天文23年の大館晴光より大友義鎭あての書状には「南蠻鐵炮」、永禄3年の大友宗麟より足利義輝あての書状には「種子島筒」、天正年間の土井覺兼日記は「手火矢」、「鐵放」など、用例・異名?はあった。
このことは、種子島以外に鉄炮があったことを示唆している。
365S字型金具:2010/02/26(金) 00:11:30 ID:F0TPVRUD
>>362 様
「鉄炮」とは何か、「伝来」とは何処までをいうのかを定義しないと答えがでません。
まだ確証は得られていませんが、私は鉄砲らしきものから(花火を含む)、火薬の材料などを含む技術の伝来について調べています。
人によっては、「火縄銃」に限定、「南蛮筒」に限定して論じていますが、「鉄砲については広く捕らえたほうがよいのでは」と思っております。
「伝来」についても、「手に入れた=伝来」の方もいますが、それを理解し改良できるようになったら伝来したものと解釈しています。
したがって、私は「1400年ごろから伝来が始まった」と思っております。 >>336
「トルコ系の魯密銃を得たのは1598年という事になってますが」は、中国(明)の「趙士禎が」であり、日本ではそれ以前の可能性があり、鉄砲の改良に役立ったと思っております。
366人間七七四年:2010/02/26(金) 15:55:43 ID:3iRSp7VP
元寇の時代には、鉄炮と言うと鉄片入り陶製手榴弾の事だったよな。
当時は、火薬の爆発圧で金属片を加速して殺傷する兵器全般を示す
一般名詞だったんじゃないの?
367u7dee9885fw5gz6:2010/02/26(金) 18:15:49 ID:7Vs2QGrx
>>365

日本に於いての火砲の起源は、蒙古襲来のてつはう(震天雷)からの認識で問題ないと思います。
記録が消失している事が残念ですが、当時でも不発、戦利品の震天雷の実態解明は、為されたと思います。
木炭、硫黄に関しては、当時でも即座に解ると思います。
火薬の起源伝来については、ヨーロッパよりも、以外に日本の方が早いかもしれません。

368人間七七四年:2010/02/26(金) 23:19:38 ID:kPG/P8+Q
ここでの鉄砲の定義は「鉄製の、鍛造による、マッチロックのマスケット銃」で良いかと。
明国が製造していた歩兵銃は、青銅製の鋳造砲を単に携行可能な大きさにスケールダウンさせただけのものにすぎず、
心棒に鉄板をかずら巻きにして作るマスケット銃とは威力も製法も根本的に異なります。
応仁の乱の時に早くも火砲が使われていたという話などもありますが、
たとえそれが事実だとしても直接的に火縄銃の参考になるものではなかったでしょう。
369S字型金具:2010/02/27(土) 00:33:46 ID:76ojZ+Hy
>>367
「蒙古襲来絵詞」の「てつはう」の実物が、長崎県鷹島町神崎港の海底から出土しています。
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/sans-culotte/topics011025.html
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/sans-culotte/topics020811.html
ttp://www5f.biglobe.ne.jp/sans-culotte/topics020811-2.html
これは、中に鉄片が入った手榴弾のような「火器」ですが、「てつはう」→「てつほう」→「鉄放」で鉄砲をイメージしますが、私は「火砲」には入らないと思います。
「てつはう」の単語は「蒙古襲来絵詞」以来、しばらく記録に出てきません。(たぶん?)
火薬の使用目的は「火器」以外にもありますので、起源伝来についてはよくわかりません。
370S字型金具:2010/02/27(土) 01:14:59 ID:76ojZ+Hy
>>368
『明国が製造していた歩兵銃は、青銅製の鋳造砲を単に携行可能な大きさにスケールダウンさせただけのものにすぎず、
心棒に鉄板をかずら巻きにして作るマスケット銃とは威力も製法も根本的に異なります。』

明国の「神鎗(神槍)」(1410年ごろからか?)などは、銃身が鉄、握りが木で作られた銃砲武器で、青銅製の鋳造砲だけではありません。
>>332 に関連がありそうです。
371人間七七四年:2010/02/27(土) 13:10:28 ID:rezmG18b
>>370
失礼しました。
ここで言いたかったのは材質が青銅か鉄かではなく、鋳造と鍛造の違いです。
神槍とはこのような火器でしょうが
ttp://arms.cybrary.jp/db/fire/gun/shenqiang.html
ttp://arms.cybrary.jp/db/fire/gun/huoqiang.html
これらは鍛造ではなく、鋳型に流し込んで作る鋳鉄製ですね。
鍛造ならば尾詮にネジが切られているはずですが、それだとこのような柄は付きません。
マスケットとの製造技術の関連は火薬の基礎技術以外の点では薄そうに思います。
372S字型金具:2010/02/27(土) 14:26:02 ID:76ojZ+Hy
>>371
武器図書館の管理人さんはよくがんばって情報収集され、頭の下がる思いです。
参考文献に「篠田耕一著 武器と防具 中国編」を上げておられますが、紙面(?)の都合上全文を採用されておられません。
篠田さんの本では、「銃身は鉄を鍛造したもので、後部の握る部分は木で作ります。(225ページ)」となっております。
「鋳鉄」のためには、石炭(またはコークス)の利用が必要と思いますが、当時の中国ではどうだったでしょうか?
また、鉄砲に「ネジを切った尾栓」は、絶対的な必要条件ではありません。
373人間七七四年:2010/02/27(土) 15:47:20 ID:rezmG18b
鍛造の銃も存在したのですか。
しかしそれだけの技術を持ちながら、なぜ明はマスケットに相当する火器を自力で発明できなかったのでしょうか?

ちなみに中国では鋳鉄は紀元前から使われてますよ。
石炭、コークス高炉も(驚くべき事に)宋代には出現しており、古来から鋳物大国と言って良い国です。
ただ明代には森林資源の減少からかつてほどは盛んでなくなっていたようです。
>尾詮
中国の鍛造がどのようなものだったかはわかりませんが、
少なくとも日本の種子島のように鉄板を巻いて作る方式には不可欠なのでは。できたらやってるはずなので。
374人間七七四年:2010/02/28(日) 11:00:47 ID:JgSQ5S+e
16世紀の明は銅手銃より、銃身が三つある三眼銃に力を入れている。
編成を見ると華北は三眼銃が多く、華南は戚継光以降急速に鳥銃(火縄銃)が普及してるな。
火器のみで編成された歩兵の運用、馬上での運用などは日本よりもはるかに進んでいたが、
いかんせん銃自体がローテクなのが惜しい。

戦術的には槍兵と鳥銃兵を組み合わせたり、戚継光のように諸兵科混成で小隊を組んだりさまざま。
ヨーロッパのように整然とした陣形を組み、小隊の隊形まで決め事があった。
演習に立ち会ったスペイン人は「中国以上に規律のある軍隊を持つ国はない、彼らは世界を征服できる」なんて記録してるね。
375人間七七四年:2010/02/28(日) 13:17:28 ID:XKvqPeBe
明は生産力と動員力はすさまじいものがあるんだけど、
国策で技術の進歩をある程度放棄しちゃってるのがな…
海禁さえしてなければ鳥銃も真っ先に伝来してただろうね
376S字型金具:2010/03/03(水) 23:33:39 ID:uiB0tezS
戦国期の火縄銃についての疑問DのE
「鉄炮記」の鉄炮の記述について@

@『手に一物を携う。長きこと二三尺』
「西南蛮種は、長さ60cmから90cmの物を手に持っていた」と書いてある。
種子島開発総合センター寄託の初伝銃の全長は100cm(口径17mm)、八坂金兵衛初作銃は100cm(口径14mm)である。
一般的に火縄銃の長さは100cmよりも長く、西南蛮種は、時尭が買った2丁の他に、短い銃を所持していたのだろうか?
A『その体たるや、中通じ外直にして、重きをもって質となす。』
「胴体は、中空状の真っ直ぐな、重たい材質」と書いてあり、種子島は砂鉄の産地で、鉄匠(鍛冶職人)もいたのに、なぜ、「鉄」と書いてないのだろうか?
もしかしたら、「青銅製品」?
B『その中は常に通ずと雖も、その底は密塞を要とす。』
胴体は管状であるが、その底は密封する必要があると書いてあるが、「栓」については書かれていない。
C『その傍に一穴あり、火を通ずるの路なり』
本文中に、「火皿」「火蓋」、「引金」などの点火部品の記載は無い。
D『形象物の比倫すべきなし。』
「いままで、似た形の物は、見たことが無かった」とのことである。
E『その用たるや、妙薬をその中に入れて、添うるに小団鉛をもってす。』
なぜ、火薬のことを「妙薬」と書いているのだろうか。
当時、火薬のほかに、合薬、口火薬、玉薬などと書かれている古文書はあるが、「妙薬」「小団鉛」は今のところ、この古文書だけだったような気がする。(私だけ知らないのか)
「小団鉛」は鉛製の弾だと思うが、ちなみに朝鮮での鉛弾使用は、1593年からである。>>336 @
青銅製の銃でも「鉄弾」を発射していたら、「鉄放」の名前でもよいのかな?
F『みずから一物を手にして、その身を修め、目を眇にして、その一穴より火を放つときは。』
目を眇にして(目を細くして狙いを付ける?)と書いてあるが、本文中には、「元目当」「先目当」が出てこない。
「火を放つとき」としているが、その点火方法(引金)が書いてない。

以上の記述では、火縄銃というよりも「指火式(タッチホール)」銃砲の記述のように思えます。
377人間七七四年:2010/03/04(木) 21:12:41 ID:O3SmebTK
カルチャーショックを表現するためにわざと朴訥な書き方してんでしょそりゃ
378人間七七四年:2010/03/06(土) 12:55:49 ID:rUnAFpOw
元禄期の尾張藩では、鉄砲の鍛錬の1つに「千撃ちというのがあったそうだ。
一人で文字通り、的に向けて鉄砲を1000発撃つこと。

これは通例卯の一刻(午前五時)から申の半刻(午後四時)まで行われるもので、
不発弾や上手く発射されなかった、カウントされないのもの含めてこの11時間の間に
1100〜1400発ほど撃ったらしい。
平均して1時間に100発前後くらいですな。
379人間七七四年:2010/03/06(土) 13:01:25 ID:yPipITQT
戦時に備え火薬を備蓄しとかなきゃならんが、消費期限の問題もあり
劣化廃棄するよりは景気良く使っちゃえってことなのか

単にスポ根物なのか
380人間七七四年:2010/03/06(土) 14:29:14 ID:tK9HNH8K
弓でも同じことしてるしスポ根物なんだろ
381人間七七四年:2010/03/06(土) 14:56:45 ID:VzSI7BEX
日本人は狙撃大好きだからなぁ
382人間七七四年:2010/03/06(土) 17:06:46 ID:yPipITQT
物資が少ないからね、

ウンコしたとき紙が少なかったら大事に丁寧に効率よく拭き取るだろ
383人間七七四年:2010/03/06(土) 17:13:51 ID:VzSI7BEX
それもあるけど、妙に凝り性というか求道的な所があるしな
職人芸大好き的な
384人間七七四年:2010/03/06(土) 17:32:46 ID:w+XoreIK
>>382
旧軍も短機関銃や特殊鋼を作れるだけの技術力自体は一応あったけど、
先立つ物資が慢性的に欠けてたもんなぁ。
385人間七七四年:2010/03/06(土) 18:03:03 ID:fpWQDvI3
まあ何とかかんとか道にしたが最後、
戦争には絶対勝てないと言う事だ
386人間七七四年:2010/03/07(日) 21:15:52 ID:aHxWa1vS
ちなみに同じ元禄期、鉄砲組ではない武士の鉄砲の練習は、だいたい1回20発くらいだったようだ。
弾丸の製造や火薬の調合も自分たちでやったらしい。
387人間七七四年:2010/03/09(火) 22:16:34 ID:GOQ3odqi
388人間七七四年:2010/03/11(木) 01:52:25 ID:o1h2QYbf
火縄銃は毎回、実包を自作するようなもんだしな。
ある程度の命中率を維持しようとするなら、毎回、同じ大きさ形状の弾、
同じ調合の火薬を、同じ硬さに付き固める必要があるわけで、撃つ技術だけで済む
現代のライフルとは比較にならないぐらいの熟練が必要だろうな。
しかも、銃ごとの癖もかなりバラつくから、銃の個体ごとに習熟が必要になるわけだ。
こう考えると、鉄砲足軽って相当の技術職だよな。
熟練の鉄砲足軽が大勢討たれてしまえば、かなりの時間を掛けないと
穴を埋められないんじゃないか?
389人間七七四年:2010/03/11(木) 02:42:36 ID:Zd1wJlq6
そんなもんある程度の命中率とやらしだいだろ
390S字型金具:2010/03/11(木) 10:07:04 ID:SQQpJy0k
戦国期の火縄銃についての疑問DのE
「鉄炮記」の鉄炮の記述についてA

@『その形象を熟視せしめ、月鍛季錬して、新たにこれを製せんと欲す。その形制すこぶるこれに似たりと雖も、その底のこれを塞ぐる所似を知らず』
「よく似た銃ができたが、底の塞ぎ方が分からなかった」と書いてあるが、張り塞ぎにしてでも銃として使わなかったのだろうか?
銃身の尾部は密封すればよいことで、鉄砲には必ずしも「尾栓」は必要でない。
「尾栓」の最大の利点は銃口内の掃除に便利なことで、大砲や青銅製銃では「尾栓」の無いものがある。
また、実際、張り塞ぎの火縄銃の遺品も残っているようである。
A『その底の塞ぐところを学ばしむ。漸く時月を経て、その巻いてこれを蔵むることを知る』
翌年に来た蛮種から「尾栓」について学び、数ヶ月かけて習得した。
B『これにおいて歳余にして新たに数十の鉄炮を製す』
こうして、何年か後に、新たに数十挺の鉄砲を製造した。
C『しかして後に、その台の形製と、その飾の鍵鑰のごとくなるものとを製しつくる』
その後、銃の台(銃床?)の形製と、銃に鍵鑰のような飾り(内カラクリ?)を付けて製造した。
ということは、初伝の銃には、銃床とカラクリが無かったのか?
D『時尭の意は、その台とその飾とにあらず。これを軍を行るの時に用うべきにあり』
時尭は、「銃床」と「カラクリ」について不満があった。
「銃を行軍の際に用いるつもりで作った」としているが、理由がよく解らず、『時尭の意』とは何であったのだろうか?

「鉄炮記」の記述は、種子島開発総合センター寄託の初伝銃とは、長さも形も異なるに様に書いてある。
記述が違うのか、初伝銃が違うのか、両方とも違うのか?
391人間七七四年:2010/03/11(木) 18:50:47 ID:TnOWVZzX
>>388
少数の狙撃兵が足軽頭や侍大将を狙うならまだしも、
多数の兵員が敵部隊を撃つなら命中精度はほとんど問題ないのでは?
392人間七七四年:2010/03/11(木) 19:23:07 ID:Kxm7rb1o
集団で密集してるなら当たるだろうけど、日本は違うから
393人間七七四年:2010/03/11(木) 20:42:24 ID:Ezr9a9AX
日本の備もあれくらいの密度があって、秩序だって整列しているから密集隊形だよ
縦深が浅いだけ
394人間七七四年:2010/03/11(木) 21:12:45 ID:nNom8eXm
足軽隊は横隊だが間隔は開いているから密集と言えるかは微妙な気がする
基本的に一列だし、射撃前の移動はかなり好き勝手に走るし
395人間七七四年:2010/03/11(木) 21:25:12 ID:Ezr9a9AX
備の規模によるが最前列の幟・長槍をすり抜けても、二・四列目の徒士、三・五列目の長槍、
その後ろの侍大将の護衛や方陣、騎馬に当たるんじゃない?
396人間七七四年:2010/03/11(木) 21:45:27 ID:nNom8eXm
10〜20m程、間隔が開いているからあまりあたらないと思う
流れ弾が当たればラッキー程度
397人間七七四年:2010/03/11(木) 23:26:03 ID:Ezr9a9AX
>>396
大抵の備は二列目までの縦の間隔は1〜数m離れている程度じゃない?
長槍は体を揺らすと隣と肩が触れるくらいで並んでるし
398人間七七四年:2010/03/12(金) 00:22:07 ID:rC00D5ZV
どっちにしろ日本の使い方は命中力重視だから、
敵が固まってるから問題ないって事は無いな。
399人間七七四年:2010/03/12(金) 08:39:31 ID:fYSkWgHC
>>397
甲陽軍鑑抜書にはそう書かれていた
長柄についてはそこら辺が鉄砲普及以降、長柄が戦場の主力から後退した一因と思われる
(雑兵物語でも長柄は補助的な任務)
400人間七七四年:2010/03/13(土) 00:11:56 ID:DVEWF4kd
ゴルゴ13の第500話は火縄銃ネタだそうな
401人間七七四年:2010/03/13(土) 10:28:19 ID:/0W8oLv5


.     _ ._ ._
     |_||_||_|∧_∧    火縄銃?
     |_||_||_|(・ω・ )    竹束でボコボコにしてやんよ!
     |_||_||_|⊂   )
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     |_||_||_| ∪ ̄\ )
402人間七七四年:2010/03/13(土) 11:25:20 ID:Ji6nMPdL

                                   、_人_从_人__/
                                   _)
 ,..r;;:  (  人)  ) ,;`ー、          | ヽ丶       _) 消  竹
 ヾゞ、  ゞ'´   '`´   `ヾ、     ─|─           _) 毒   束
          -‐':、ゞ'``  ,l      / | ヽ            _) だ  は
ヾ、 ゞ;;.  ,r-、   `ヾ、    ヽ、                   _)  l
, rヾ    ,r!/r'ヽ    '`      \      _|_      _) っ
   _,,,.,ノ、_ ヽ,       `ゞ;;    ;:、    /|        `) !
,r‐'''" ,.r ,イ彡ミミヾ、      ``  ´;;i             V^V⌒W^Y⌒
__,.;;,ィ'´ ,:;;;;彳彡ミ;j`、        `i;:、      オ
;; ヾ、彡;;;ノリ;jjjjj;;;jr' i   . ノ;;:'' `゙`、 ``ー、                   ,ィ
彡冫;;il;;;ミ;;;;;y;レ  ,t'´           ,.、ー、  ゝ     ォ             i|l;
;'イ;;;'ヾ``ヽ、ィ;;i ,ri'´    ヽ ヾノ ,ry' il'Y゙r    ヽ、            ,j|l;;
j'´ '´ '´/ゞ';;::`´ヽ    ``´ー  ゙i ;;: ,r'      )  ,r、       ,rヾlir'ミ,
  / ,;:' '´/ ー≡;i{、      /ヾr'´  ,.   '`;;:、 〉ゝ  r-ー-、_ ,{i=i= }i、
ーr-、j ,! ,;',;'ィ;;:イ''``ゞ、_,、-‐'´ヽ:;/ 、 ``ヽ  ;:、 `' (´  `ゞ、;;;;'',,fi、,≡:;イ==、
,,:'  ``ゞ、,;;ゞ、 "´イ ,... `'彡 ,/´  `ヾ、ヾ   '    ー、  ii;j `i;;!'´ニil';;;;ゞr、_,r'ミ
'   ー‐─ ,rー'゙ー─-、_j;:r'´     ヾ,ゞ         、 ゞ,ミ;:l;;l  ,!  ,!,i;;'´¨/
;.   r-‐;;'"}            ``ヾ、  ノ       ,;;;: (i,;)))、,,:;!、__,:};!_,.、l
....   _,,,ィ、 i        'ヾ人  、}( /     ノ   ,r'i  r'"ヾ-‐i‐-:;イ, / ヾ
403人間七七四年:2010/03/13(土) 14:29:32 ID:bk22E319
竹束の防火対策として、竹束に土を塗って焼けるのを防ぐという手段がとられていたそうな。
これでだいたいどうにかなったらしい。
404人間七七四年:2010/03/13(土) 15:43:19 ID:URRIk2KA
>>403
要するに動く土塀と化すわけだな。
まあ、重量はかなり増えそうだが。
405人間七七四年:2010/03/13(土) 16:05:10 ID:79M95/C7


          .__
          |風|
          |林|
          |火|       __________
          |山|     /
  _∧ .∧(oノヘ| ̄     <  それじゃ騎馬隊が歯輪式拳銃持ってきたらどうすんだYO 
 (_・ |/(゚Д゚ )|\      \__________
    |\Ю ⊂)_|√ヽ
   (  ̄ ~∪ )^)ノ
    ||` || ( | ( |
    '~ ~ '~ '~
406S字型金具:2010/03/17(水) 23:55:04 ID:Ag7bPn4I
戦国期の火縄銃についての疑問DのE
「鉄炮記」の鉄炮の記述についてB

本文に『その妙薬の搗篩・和合の法をば、小臣篠川小四郎をしてこれを学ばしむ』と書いてある。
天文21年?(1552年?)、将軍足利義輝が島津貴久と種子島時堯に、妙薬(鉄放薬)について照会を掛けた古文書がある。
『嶋津修理太夫あて  雖不寄思儀候、鉄放薬事、南蛮人直令相伝、種子嶋調合無比類之由、触御耳、武家御内書如此候条、令啓候。此趣被伝達、無相違候者可然候也。猶不断光院西堂可有漏脱候也。状如件。』
『種子嶋弾正正忠あて  雖不寄思儀候、鉄放薬事、南蛮人直被相伝、調合無比類之由、被触御耳、武家御内書如之候。於無相違者、可為御祝着之旨候。卿以不可有御他言由候。猶自嶋津匠作可有伝達候也。状如件。』

足利義輝は鉄放薬について、調合方法により性能差があることを知っているため照会をしたのであって、種子島の南蛮人直伝調合方法はその一つで、それ以外の南蛮人直伝や他の調合方法も知っている。
この古文書では、「南蛮人直被相伝、調合無比類之由」と煽てて「教えてくれ」と書いているが、その結果については不明である。

南蛮人直伝以外の鉄放薬調合方法は、南蛮人の鉄砲伝来よりも前でなければならなく、南蛮以外から鉄砲が伝来(または、日本国内で進歩・発達)したことになる。
407人間七七四年:2010/03/18(木) 00:46:24 ID:87ODpzt3
世界史板の銃砲スレでやった方がいいんじゃない
408人間七七四年:2010/03/18(木) 01:13:18 ID:IVPQOWhL
やめて!
409S字型金具:2010/03/24(水) 21:58:34 ID:gi2GMbBx
戦国期の火縄銃についての疑問DのE
「鉄炮記」の鉄炮の記述についてC

その翌年(1544年)に、蛮種の商人がまた種子島に来た。商人の中に、一人の鉄匠がいたので『金兵衛尉清定なるものをして、其底の塞くところ学ばしむ』と書いてある。
今まで、尾栓製作法については実証実験や文献について報告されているが、現在においても当時の尾栓製作法の確証が得られていない。
ttp://www.riflesports.jp/nraj/archives/neji/index.html
尾栓製作法は蛮種の鉄匠から学んでいるのだから、蛮種の製作法を知り、その上で実証実験で確認するのが普通ではないだろうか。
不思議なことに、今までの報告例では日本がオリジナルのように書かれており、蛮種の製作法と比較検討されていない。
また、蛮種の鉄匠から学んでいるのだが、その他の火縄銃製作技術、パーツ名も殆ど見受けられない。(カルカの他には、何があるだろうか?)

『漸く時月を経て、其巻いてこれを蔵むることを知る』と書いてあるので、「捻子」「捩子」ではなく、「螺子(らし)」が正解であり、尾栓はプラグ(Plug)・螺螄底である。
410S字型金具:2010/03/31(水) 20:09:54 ID:Qyf6zJg2
戦国期の火縄銃についての疑問DのF
伊川健二さんの「鉄砲伝来の史料と論点(上・下)」 >>348 で、「鉄炮記(史料E)」を信頼に足る史料と結論づけた根拠について@

伊川さんは、前後の文章のつじつまがあわないなどの現象(内在的疑問)、「種子島で鉄砲の製造が始まるまでの年代と、明への貢船の派遣年代」について、
『李氏は鉄砲製造開始を早くとも1545年末だとするが、年末である必要はない。鉄炮記を素直に読むならば、鉄砲伝来は1543年8月で、ポルトガル商人再来はその「翌年」、すなわち1544年中であればいつでもよく、
したがって、それから「歳余」(語義としては、1年余りの意)を経た製造開始も、1545年中のどの時期かを確定する根拠はなにもない。
一方で三貢船の動向であるが、なるほど一度は1544年に渡航を試みているものの、種子島に吹き戻され、実際に渡航したのは翌45年である。松下五郎三郎はその段階で乗船したと理解すれば矛盾は解消する。
したがって鉄炮記に記された年次を修正する必要はないものと考えられる。』
『以上により、鉄炮記の内在的疑問を解決することができたと考える』としている。

○「1544年中であればいつでもよく」は、当時は帆船のため、季節風(モンスーン)、海流の影響を考えて考察をしなければならないのではないだろうか。
○松下の乗船には、「漸経時月」+「歳余」(語義としては、1年余りの意?)+「然後製造其台之刑制与其飾之如鍵鑰者」でないと、完成した火縄銃ではない。
○資料Cの鄭瞬功『日本一鑑』では「其鉄既脆不可作、多市暹羅鉄作也、而福建鉄向私市彼以作此」となっており、種子島産砂鉄を使っていない鉄砲となる。
○三貢船について、「我嘗聞之於故老曰。天文壬寅癸卯之交。」の解釈が抜けており、外在的疑問の範疇に入る「種子島家譜」で論じている。また、家譜では「天文十四 (一五四五) 年乙巳六月十四日、二合船帰朝す」となっているのだが。
411人間七七四年:2010/04/06(火) 00:58:06 ID:mrItx6ti
昔見たテレビで、インドネシアの原住民が自作の火縄銃で猟をしてた。
銃身 車のハンドルシャフト
ストック そこら辺の樹を削って作ったみたいな奴
弾 歯磨き粉のチューブを溶かした奴。
火ばさみとかトリガー周りは、ぶっとい針金見たいのひん曲げて作った
緩発式のバネなし版みたいな奴だった。

火薬の方も、やっぱり自作なのだろうか?
それとも、行商人みたいのが売りにくるのだろうか。
412S字型金具:2010/04/07(水) 22:46:55 ID:7LXaSvNR
戦国期の火縄銃についての疑問DのF
伊川健二さんの「鉄砲伝来の史料と論点(上・下)」 >>348 で、「鉄炮記(史料E)」を信頼に足る史料と結論づけた根拠についてA

伊川さんは、『鉄炮記を素直に読むならば、鉄砲伝来は1543年8月で、ポルトガル商人再来はその「翌年」、』として、「ポルトガル商人再来」と断定して考察している。
「鉄炮記」には、「佛郎機(フランキ)」、現在の葡萄牙(ポルトガル)が出てこなく、「牟良叔舎」・「喜利志多侘孟太」は、「此是西南蛮種之賈胡・賈胡之長」と明確に書いてあるので、東南アジア人のキリシタンの可能性がある。 >>353
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7
種子島氏(地頭)・島津氏(守護)は、明の海禁政策の中、二合船を出しているので「佛郎機最凶狡,兵械較蕃獨精」の情報は当然得ていると思われる。
鉄炮記では、天文十二年(一五四三)八月二十五日、南蛮種の船に対して、二十七日己亥までに、数十艘の舟で引かせて、十三里離れた港に入れたことになっている。
明国「武備志」でのポルトガル人は、「其人皆高鼻深目、以白布纏頭、如回回打扮」と書いてあり、見た目で区別が付くので、百余人の南蛮種を抹殺したものであろうか。
このような状態の船は、通常難破船・漂流船と見るのが妥当で、仮に修理を行っても、翌年中に、季節風、黒潮の大蛇行の中を、同じ所(種子島)に再来できるものだろうか?
また、来る必要性があるだろうか?
一度戻るとしたらマラッカであろうか?(マカオでの居留権は1557年から >>359

となると、「ポルトガル商人再来」よりも、前年と異なった東南アジアの人達が漂着した方が妥当ではなかろうか。
413人間七七四年:2010/04/08(木) 19:29:12 ID:tlNQOG+j
>>385
そりゃまた何とも極端な結論ですね……
○○道にしたからって全く戦争で使えなくなるなんて言い切れるんですか?
414人間七七四年:2010/04/14(水) 22:33:58 ID:uQjdyyri
撃つためのデザイン 「東洋の銃」
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm10382526

削除されないうちにお早めに


>>411
俺が昔見た番組だと
狩人のおっちゃんが大量のマッチを携帯してて
頭薬をナイフで削ったものを火薬に使って虎撃ってた記憶がある
415S字型金具:2010/04/16(金) 07:03:27 ID:0g5BytGD
戦国期の火縄銃についての疑問DのF
伊川健二さんの「鉄砲伝来の史料と論点(上・下)」 >>348 で、「鉄炮記(史料E)」を信頼に足る史料と結論づけた根拠についてB

伊川さんは、
『この点を修正した私見をまとめるならば、次のようになるであろう。1542年、ポルトガル人2名は、阿久根近海で遭難した。上陸はできなかったものの、なんらかの経路により琉球にたどり着いた。
翌43年には3名で渡航した。ところが今度は琉球への上陸は許されなかった。他方、彼らとは別途種子島へたどり着いたポルトガル人がいた。』
『史料@「ビーリャロボス艦隊報告」、史料B「発見記」と史料E「鉄炮記」は別の出来事を記していることが明らかなので、史料BとEを切り離し、史料Bの年代が1542年であることを根拠に、
史料Eの記述を錯誤とする外在的批判は成立せず、史料Eを信頼に足る史料と結論づけたい。』
としている。

だからと言って、鉄砲伝来が技術移転の問題を包含している以上、史料Eを信頼に足る史料といえるのかな〜。

また、伊川さんは、『ほぼ同時代の明史料である史料C「日本一鑑」もまた、「手銃、初め佛郎機國に出で、國の商人始め種島之夷に教え作る所なり」と述べ、伝来地が種子島であることを明記していることは大変示唆的である。』としているが、
『曰手銃〈初出仏郎機国、国之商人始教種島之夷所作也、次則棒津平戸豊後和泉等処通作之、其鉄既脆不可作、多市暹羅鉄作也、而福建鉄向私市彼以作此、〉』の中身については怪しいところがある。
416人間七七四年:2010/04/16(金) 10:45:58 ID:hm5YhNAp
もういい加減にしてほしいわ
このマスカキ
417人間七七四年:2010/04/16(金) 11:36:21 ID:6+DhYf+q
そろそろ自分のブログでやった方がいいぞ
418S字型金具:2010/04/22(木) 23:54:13 ID:APoJhTEK
戦国期の火縄銃についての疑問DのG

鉄炮記は、
『 ○鉄炮記  代種子島久時公
隅州の南に一嶋あり、州を去ること一十八里、名づけて種子と曰う。我が祖世々これに居る。古来相伝う、嶋を種子と名づくるは、
この嶋小なりと雖どもその居民もろもろありてかつ富めり、譬えば、種を播くにこれ一種子を下せば、しかも生々窮まりなきが如し、
この故にこれに名づくと。これより先、天文癸卯(十二年)八月二十五丁酉、わが西村の小浦に一の大船あり、何れの国より来るを知らず。』
で始まり、
『いまそれ、この物のわが朝におこなわるるや、けだし六十有余年、鶴髪の翁、なお明らかにこれを記する者あり。ここに知りぬ、
さきの蛮種の二鉄炮、わが時尭これを求めてこれを学び、一たび発して扶桑六十州を聳動す。かつまた、鉄匠をしてこれを製するの道を知りて、
五畿七道にあまねからしむ。しからばすなわち鉄炮のわが種子嶋に権輿するや明らけし。むかし一種子の生々窮まりなきの義をとって、
わが嶋に名づくるは、今もってその識に符えりとなす。古にいわく、先徳善有りて世に昭々たること能わざるは、後世の過ちなりと、
よってこれを書す。 慶長十一年丙午 重陽節 
(洞富雄「鉄砲・思文閣出版」・読み下し文)』
で終わっています。

本文中には、守護職の島津氏や九州の大内氏・大友氏などの記載が無く、種子島から日本全国に鉄砲を普及させたとするこの内容については疑問があります。

続く
419S字型金具:2010/04/23(金) 00:05:02 ID:iknMvSLn
戦国期の火縄銃についての疑問DのG
>続きです。

鉄炮記の古文書は3通残っています。
@文之玄昌自筆本の南浦文集の内。
鹿児島大学附属図書館コレクション・玉里文庫(島津久光及び玉里島津家の旧蔵書)・天の部・南浦文集・第1冊に書かれています。
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/collection/handle/123456789/45186  (図書ID:0110030001)
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/cgi-bin/prec_img_disp.cgi?ts_id=0110030001&start_pos=1&lang_mode=J
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/contents/prch/0110030001/10000019.jpg
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/contents/prch/0110030001/10000020.jpg
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/contents/prch/0110030001/10000021.jpg
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/contents/prch/0110030001/10000022.jpg

A文之玄昌の鉄炮記写者或は伊地知季安による半紙写本。
http://ir.kagoshima-u.ac.jp/collection/handle/123456789/44243 (図書ID:0100600001)
末文に「慶長十一年丙午重九之節種子島左近大夫将監藤原久時」と書き入れあり。

B1667年に上妻隆直が編纂した『種子島家譜』の内。
末文に「慶長十一年丙午重九之節種子島左近大夫 平久時」と書き入れあり。
鉄炮記とほぼ同様の記述となっている。

鉄炮記(代種子島久時公)は、16代種子島久時が文之玄昌に代作させたもので、著者は、島津家の学僧・禅僧であるため、代作文が多く残っています(南浦文集内に)。
そのためか火縄銃そのものについてはよく知らず、当時の日本での鉄砲に関する種子島以外の逸話・寓話をも含めた文章ではないだろうか。
その内容は、嶋を愛する気持ちのこもったとても良い文章だと思いますが、種子島の名前と種子島時尭の鉄砲に関する美徳を絡ませて、多禰島から種子島、肥後氏から種子島氏への変化の正統性を示すためのものではなかろうか。
420u7dee9885fw5gz6:2010/04/23(金) 22:55:05 ID:ChtoxhEn
419
S字型金具様、お久しぶりです。
色々と情報交換をしたいと思いますが、掲示板が荒れておりますので、宜しければ、ご連絡下さい。問題の無いアドレスです。
[email protected]
421人間七七四年:2010/04/27(火) 02:00:21 ID:aMFE8iyW
>>414
それ硫黄の変わりにマッチで代用してんじゃないの?
塩素酸カリとかも入ってるけど、マッチオンリーで虎を殺せるぐらいの撃てるのかな?
炭とかは、そこらの樹を燃やして作ればいいだろうけど。
あそこらへんは、硝石は採掘できないでしょ、
さすがに硝石なんて自分では作らないだろうし。
422S字型金具:2010/04/28(水) 20:25:20 ID:hvUQtwJl
戦国期の火縄銃についての疑問DのH

伊川さんは、『史料Bの「発見記」と史料Eの「鉄炮記」は別の出来事を記していることが明らか』としているが、逆に、なぜ、多くの人が『同じ出来事として取り扱っていたか』が疑問である。

日本の中学生歴史教科書には、「種子島の鉄砲伝来」・「宣教師のフランシスコ・ザビエル」が必ず書いてあります。
しかし、今まで、トルデシリャス条約・サラゴサ条約などについては教えられては無く、我々は日本の教科書で洗脳されていたように思います。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20080607
http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/ukon/index.html
http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/ukon/ukon19.html

次のブログに、売国奴のキリシタン大名らの火薬・硝石の入手例が書かれています。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400
しかし、売国奴らが輸入した火薬・硝石だけで、国内需要全てを賄っていたとは考えられず、売国奴以外の大名らはいかにして火薬を入手しただろうか?
当時、ポルトガルばかりではなく、スペイン、オランダ、イギリスなども来航していたが、火縄銃についての技術移転はあったのだろうか? >>329
火縄銃は総合的な技術や材料、軍事、時代の要請などのバックボーンの上で成り立っており、硝石についても記録が無いから、不明だから輸入品として取り扱っても良いものだろうか?
火縄銃についてはいまだに解らないことが多く、解らないことは解らない・不明として、文献至上主義で結論を出されることについては反対である。

明治以降の『上等舶来志向』、戦後の『日本自虐史観』、日本独特の『権威主義』などによって、当時の日本の技術・文化まで歪曲されてしまってはたまりません。
なぜ、「火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した」とする考え方、とらえ方がなされなかったのでしょうか?
「倭寇による伝来説」で本当に良いのでしょうか? >>327
423人間七七四年:2010/04/28(水) 20:40:44 ID:Aq6pmqlE
なにか思想的なスレになっていますね
424人間七七四年:2010/04/29(木) 02:51:01 ID:TmNHpqjL
確かに
425S字型金具:2010/04/30(金) 23:10:09 ID:xOWnwMBe
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問@

倭寇伝来説は、宇田川武久さんが「戦国日本と世界」に『「鉄砲伝来」再検討』として昭和61年に論文発表されたのが最初だと思われる。
本文85ページ『鉄砲伝来の経路』で
『「鉄砲記」は鉄砲の普及について、種子島を基点に全国へ広まったと説明している。そうしたルートもたしかに鉄砲伝来の経路のひとつと考えてもよいが、真倭の出身地や王直の活動範囲と日本との深い関係、
それにいま述べた朝鮮国王から明政府への報告書の内容などから、ポルトガル人が日本に鉄砲を伝えたとするより、大方は倭寇が伝えたとみなすほうが至極妥当だとおもう。
倭寇は禁制品の硝石や硫黄を重要な交易品としたが、ときには鉄砲も取り扱ったに相違ない。』としており、
倭寇説の根拠は、「ポルトガル人説よりも至極妥当であり、だから鉄砲(マラッカタイプ)も取り扱ったに相違ない」である。

須川薫雄さんは、「宇田川教授のポルトガル人でなく倭寇が日本に鉄砲を伝えたと言う説には現実性も具体性もない。」としている。
http://www.日本の武器兵器.jp/hinawajyu/denrai/index.htm

私は、「火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した」とする考え方なので、矛盾の多い倭寇説を論考し、その後自説を展開したい。
426人間七七四年:2010/05/01(土) 01:09:55 ID:xqT3oOJD
電波ゆんゆん
427人間七七四年:2010/05/01(土) 11:10:00 ID:CjX1EIo0
人に読ませようって文章じゃないよな
気持ち悪い
428人間七七四年:2010/05/01(土) 11:41:08 ID:bxZIOQsc
彼の備忘録だからここ
429人間七七四年:2010/05/01(土) 13:43:02 ID:cfV+xXXA
某研ですら自分のHP持ってるというのに・・・
430人間七七四年:2010/05/02(日) 19:24:06 ID:9vxJijHN
まぁ、正直面白そうだとは思うんだけど、
2chでこういうことやられてもひたすら読み辛いからさかのぼって読もうとは絶対に思わないんだよな。
やってる本人は本当にちゃんと把握できてるんだろうか。
431人間七七四年:2010/05/02(日) 19:59:42 ID:m81ds3o9
こういう人をアスペルガーっていうのかね
432人間七七四年:2010/05/03(月) 02:05:51 ID:urLEQjEv
5/5 愛知県 長篠で長篠合戦のぼりまつり 実演もあり
ttp://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/8,3185,152,719,html
ttp://www.chubu-hakkenden.com/spot/130/
433人間七七四年:2010/05/03(月) 08:55:00 ID:Ymv8QZuu
倭寇伝来説は主流でも何でもない宇田川氏だけの主張だからいちいち否定しなくてもいいよ
434S字型金具:2010/05/06(木) 21:21:34 ID:u4ZR8J+l
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問A

宇田川さんは、『鉄炮記』は伝来から六十年後、種子島久時が祖父時尭?の鉄砲入手の功績を称えるために(当初は、鉄砲入手の功績を記念して孫の久時?がと書いていた)
南浦文之に書かせたものだが、文之の創作もあり、すべてを史実とすることはできなく、それほど史料的価値が高いとはいえないものであるとしている。

だから、
「十六世紀なかごろ、海外から日本への来航船は頻繁であったが、漂着によるものは一部で、多くは交易の目的で来航し、莫大な利益をあげて帰港した。
こうした来航船が鉄炮を積荷にしていれば、種子島以外の地にも鉄炮が伝来するのはごく自然なのだが、大勢は『鉄炮記』に目を奪われて、こうした発想をしない。」
として、「倭寇」説を組み立てている。

この当時、中国(明朝)は海禁政策を採っており、朝貢関係にある外国の商船以外の受け入れを禁止し、自国の商船の海外渡航を禁じ「海寇」を取り締まっている。
海禁政策では朝貢以外は全て密貿易になり、宇田川さんの「倭寇」説では、日本人・中国(明)人・朝鮮人・東南アジア人・ポルトガル人も「倭寇」に該当してしまい、
また、中国(明)人が主体になり鉄砲を伝えたように書いてあるが、判然としない。

日本からの観点では、中国(明)以外の各国に対しては通常の商業行為であり、密貿易や禁制品という概念は無い。
また、当時の中国には「鉄砲」に関する記述が無く、当時の朝鮮にしても、鉄砲は無く、火薬も市中には無いため、鉄砲・火薬・硝石・硫黄は禁制品となっていない。
鉄砲伝来は日本の問題であり、中国(明)や朝鮮の観点から「密貿易」「禁制品」「倭寇」「鉄砲伝来」を取り上げるよりも、
「日本の問題である」とした発想をすれば、「火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した」とする見方・考え方が出てくる。

435人間七七四年:2010/05/08(土) 01:32:26 ID:ev7hHapT
S字型金具さん、>>226のアルバムが見られないのですが
436S字型金具:2010/05/13(木) 16:40:29 ID:5Xr61etU
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問B

「倭寇」説の疑問は、日本に鉄砲が伝来したとしているが、倭寇の構成員でもある中国(明)や朝鮮に伝来した形跡が無いことである。
「倭寇」説では、『来航船が鉄炮を積荷にしていれば、種子島以外の地にも鉄炮が伝来するのはごく自然なのだが』としているが、当時の中国(明)や朝鮮について、鉄砲、火薬、伝承、残品、弾丸などの記録については言及していなく、「倭寇」説は公平な理論とはなっていない。

また、ポルトガルの書簡、報告書などの史料については厳密に検討がなされていなく、都合のいいところだけを取り出して論じている。
ポルトガルの記述では、鉄砲や火薬についてどのように書かれているのだろうか?(それらの史料にはあまり目を通していないので・・・)

「倭寇」説の鉄砲の根源・由来について、『日本に伝えられた火縄銃はヨーロッパのそれではなく、東南アジアで使用されていた火縄銃とみなせるのである。東南アジアが倭寇の交易圏内にあったことはいうまでもあるまい。』としている。
だから、「倭寇」説は、「種子島に伝わった鉄炮は東南アジアの火縄銃(南蛮筒)」という見方をして、多くの、多種類の南蛮筒が次々と渡来したとしている。
所荘吉さんは、『東南アジアの火縄銃の製作地は、マラッカがそれであるとするのが至当であろうと思われる』としているだけで、伝来銃『マラッカ銃』は、状況証拠によるものである。

しかし、『火縄銃は、東南アジアの独創性によって生まれ、発達した』ものとみなせるのなら、『火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した』とする見方・考え方もできる。

>>435 サーペンタインロック式古銃の情報を求めておりましたが、これ以上情報が得られないのでアルバムから削除しました。
437S字型金具:2010/05/21(金) 18:39:57 ID:x7DV/0VE
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問C

「倭寇」説は、朝鮮王朝の記録『中宗実録』と『明実録』を引き合いに出している。
◎中宗三十九年七月のことである【1544年・天文13年】。一艘の唐船が羅州の飛弥島に停泊した。・・・・中略・・・・。
いきなり火砲を発してきた【卽發火炮】。それにわが船の二人が中って死亡し、二人が傷をうけた【二人中炮而死, 二人中炮而傷,】。
そこでやむなくわが方は火砲と弓箭で応戦したが【而勢不得已應以火炮弓箭】、やがて唐人らは楯に身を隠しながら、櫓を漕いで東方に向かった。このとき、たまたま唐船の船足が鈍くなったので追いついて捕獲することができた。
◎朝鮮王朝が漂流民を保護して明に送還するのは、明との朝貢関係からであるが、なによりも恐れたのは、唐人たちの所持する火砲が商売の末日本に伝わり、日本人が火砲の製作法や射法を学んで、朝鮮に害をなすことにあった。
【且此唐人,今持火炮器具, 漂向日本,而ヘ習於彼, 則其爲巨禍, 莫此爲甚。】、
◎福建省の国禁を犯した者たちを送還したとき、朝鮮国王は「今、また馮淑ら前後とも千人以上を捕らえたが、かれらは軍器と貨物をもっている。これ以前、倭奴は火砲がなかったが、今では多くこれをもっている」と明政府に報告している。

「倭寇」説は、
『かつて日本には火砲がなかったが、いまでは多量にもっているというのである。
この時期、朝鮮王朝はおびただしい数の中国人を保護したが、かれらは一様に軍器を所持していたという。
この軍器は火砲、つまり鉄炮であろう。朝鮮海峡で漂着し朝鮮王朝に拿捕された明の商船はごく一部であるから、それ以外は積載した火砲を日本に売りさばいたことは想像にかたくない。』
つまり、軍器=火砲=鉄炮(東南アジア製)として、多くの鉄炮を日本に売りさばいたとしている。

朝鮮王朝の記録に没収・鹵獲した鉄炮の記録が無い。倭寇を取り締まった中国(明)にも鉄炮の記録が無い。
ということは、当時の倭寇は鉄炮を使っていない。取り扱っていない。
軍器・火砲=鉄炮の前提が崩れていれば、「倭寇」説そのものが成り立たない。

『火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した』とする見方・考え方をすれば、その後の中国・朝鮮の鳥銃伝来の説明がつく。
また、東南アジア製の鉄砲が朝鮮に伝来(将来?)しなかった説明もつくし、ポルトガルの鉄炮の商売記録が無いことも説明がつく。
438人間七七四年:2010/05/21(金) 23:11:51 ID:7/4wScJH
抗倭図巻に描かれた倭寇は鉄砲持ってるけどね
439人間七七四年:2010/05/22(土) 10:51:51 ID:97Wb0+2W
鉄砲と弓の殺傷力の差を教えて下さい
440人間七七四年:2010/05/22(土) 18:55:51 ID:DXYmGW9j
単純に弾の運動エネルギーで比べれば10倍超。
441S字型金具:2010/05/27(木) 14:51:42 ID:UeAUGIIb
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問D

『抗倭図巻』(中華人民共和国国家博物館所蔵)は今まで未公開でしたが、2006年12月発行の『中国国家博物館館蔵文物研究叢書•絵画巻(歴史画)』に収録されています。
この本は、国立国会図書館でも所蔵されておらず(見つかりませんでした?)、17000円位の輸入書なので購入予定はありません。
http://www.chuka-shoten.co.jp/62_181.html
>>438 さんが『鉄砲を持っている』という『抗倭図巻』については確認できませんので、『抗倭図巻』をアップロードなり、その『鉄砲』所持について解説したものがあれば教えてください。
http://www.japanology.cn/japanese/picture/06.html

『倭寇図巻』(東京大学史料編纂所蔵)は、じつは倭寇を描いたものではなく,明代の台湾戦役を描いたものである。ただし,描かれているのは日本人である。
『倭寇図巻』の複製画と考えられている中国側の『抗倭図巻』は,じつは複製ではなく,船・服装・兵器などが相違している。その一方で,ふたつの絵巻には共通点もあるから,これら二点は同一画家によるセットの作品である可能性が高い。
http://human.kanagawa-u.ac.jp/kenkyu/publ/pdf/syoho/no41/4106.pdf

日本の武器兵器ブログのjapaneseweaponsさんや「海の歴史 倭寇」の著者 田中健夫さん、和歌山博物館、
http://blogs.yahoo.co.jp/japaneseweapons/50053735.html
浙江工商大学日本文化研究所の所長の王勇さんは、『倭寇図巻』に『鉄砲が描写されている』としていますが、
http://www.japanology.cn/japanese/picture/11.html
所持しているのは『火槍』であり、『鉄砲』とはまったく異なる『火攻兵器』です。

『倭寇図巻』は公開されているので、図中の『火槍』が確認できます。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/conference-seminar/science/ez01.html
この図巻は官軍を立派に、賊軍(倭寇=日本人?)への誇張や偏見に満ちた描き方をしているので、私個人的に受け入れがたく、そのまま信ずるわけにはいかないところがあります。
しかし、当時の中国(明)軍軍備を立派・豪華に描いてあっても、『火攻兵器』は『ボール状火器?』らしきものぐらいで、『鉄砲』などの火器は見えません。
拡大した『火槍』を持つ『倭寇(日本人?)』をアルバムにのせました。
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/159088/

倭寇=軍器・火砲=鉄炮(東南アジア製)の前提が崩れていれば、「倭寇」説そのものが成り立ちません。
『火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した』とする見方・考え方をすれば、東南アジアに少数残存する類似火縄銃の説明がつく。
徳川美術館に収蔵されている「SAM THOME刻銘銃」は、土産用(献上用?)として、日本で製造した鉄砲の一つではなかろうか。
442人間七七四年:2010/05/28(金) 00:44:10 ID:frNDFhgb
ポルトガル植民地での鉄砲、火器の記録は
「大航海時代とモルッカ諸島」(中公新書)に何か載ってたような覚えがある
443人間七七四年:2010/05/30(日) 01:06:03 ID:qd5gaZGW
朝鮮は14世紀の時点で大々的に火砲や銃の量産にとりかかっており、
日本の戦国期には天字銃筒や地字銃筒といった大砲を配備していた。
これらは鉄弾のほか、烏弾(散弾)や焼夷性の燃料と木片を詰めた棒火矢を発射することもできた。

タッチホール点火式の銃も生産していた。
朝鮮の鉄砲は14世紀から存在したが短銃身で、16世紀になっても大して進化しなかったのだ。
444人間七七四年:2010/05/30(日) 01:22:32 ID:qd5gaZGW
中国の場合は元の時代、至順3年(1332年)に銃を初めて製造した。
その後ほどなく散弾も発射できる銅手銃を開発し、
これはおそらくキプチャク=ハン国からロシアや東欧に伝わり西洋の鉄砲の元となった。

その後三眼銃という3つの銃身を持つ銃を大量配備することになるが、
これは朝鮮の銃と同じくまったく西洋の影響を受けていない銃であり、
短い銃身のため轟音の割に威力がなく、火縄銃が伝わると早期に廃れていった。
1558年には年間1万丁の火縄銃が量産されるようになった。
445S字型金具:2010/06/04(金) 22:25:38 ID:1rXrvW06
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問E

明人が書いた「倭好」がある。この史料は、鄭若曾の『日本図纂』や『籌海図編』に収められており、当時の日本人が好んだ中国品すなわち貿易品22種あげて解説したものである。
『東アジア通交圏と国際認識』の著者、田中健夫さんは、『倭好は、鄭若曾が独自に蒐集して執筆した記事と考えてよいが、「倭好」に煙硝(硝石)が含まれていないため、
「倭好」には日本人の中国品に対する受容を必ずしも正確には伝えていないと思われる点もある』として2つの事例を挙げている。
@『石山本願寺日記』の記事、「室町殿へ、鹽(塩)硝十斤進献之」からの推察。
A『日本一鑑』の記事、「土産所無、近則竊市於中国、遠則興販於暹羅」を密貿易よる取引と解釈。
それで、田中健夫さんは、『煙硝は鉄砲の普及とともに戦国大名の必需品になったものであるが、中国ではこれを輸出の禁制品としていたので、
もしこれを手に入れようとすれば、密貿易の方法に頼らざるをえなかった』として、日本は密貿易で焔硝(煙硝、硝石)を輸入していたとしている。

しかし、なぜか堺商人の日本国内ルートを取り上げ、また、海禁政策では朝貢以外は全てが禁制品となるので密貿易の証明になっていない。 >>434
煙硝、焔硝、硝石、鹽(塩)硝は、用途により名前を変えて使い分けをした物質であるから、塩硝は鉄砲火薬原料以外の用途もある。
なぜ、足利将軍の権威で直接堺から取り寄せなかったのか、できなかったのか。
「日本一鑑」に、『曰手銃〈初出仏郎機国、国之商人始教種島之夷所作也、次則棒津平戸豊後和泉等処通作之、其鉄既脆不可作、多市暹羅鉄作也、而福建鉄向私市彼以作此、〉』と書いてあり、その中身については怪しいところがある。
また、「倭好」に鉄砲・火薬・火器・原料鉄・亜鉛(真鍮の原料)が含まれていないことについては触れていない。

田中健夫さんは、『倭寇図巻』について、『この図巻は最も精密・詳細な倭寇風俗の記録で、倭寇の服装や船舶および鉄砲などの兵器だけでなく、上陸・放火・掠奪・水戦等の行動の様式を描写していて貴重である。
同時代の文献の記述ともよく合致し、信頼度は高い』と書いていますが、所持しているのは『火槍』であり『鉄砲』とはまったく異なる『火攻兵器』である。 >>441

『火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した』とする見方・考え方をすれば、火縄銃の部品名が外国語ではなく日本語であることの説明が付く。 >>329
446人間七七四年:2010/06/08(火) 20:33:10 ID:mL+xBhSW
鉄砲ではなく火槍だとすると倭寇はその火槍をどこで手に入れたんですか?
447人間七七四年:2010/06/09(水) 04:41:07 ID:K2rBfR3i
火槍は鉄砲を指すこともあればロケット弾(火箭)を指すこともあるので注意が必要

日本の火縄銃の発射機構、いわゆるカラクリはSnapLock式だが、これはドイツ南部で開発された。
主に南欧や北欧、ロシアで使われそれぞれ独自の発展をしたが、
そのうち南欧由来で東南アジア産のマラッカ式が日本に伝わったというのが一般の説。

1530年代の最初期のドイツ製SnapLockのカラクリを見ると、外カラクリでバネは松葉バネのようにU字ではなくI字ではあるが、
1540年代のものは日本のように松葉バネに似た形状になっている。
日本の火縄銃のカラクリは欧州産SnapLockに由来するのは明らかだと思う。
448S字型金具:2010/06/14(月) 22:27:40 ID:AJOMXJEq
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問F

「倭寇」説では、「五峰」について、『鉄炮記はそれほど史料的価値が高いとはいえない』としながら、
『「鉄炮記」の五峰が倭寇の大頭目の王直の号であったことは、弘治二年(一五五六)、倭寇の禁圧交歩のため明から派遣され、豊後や周防(山口県)に滞在した鄭舜功のあらわした「日本一鑑」に「王直は五峰」とあり、
また嘉靖三十九年(一五六〇・永禄三)編さんの「寧波府志」にも「王直、すなわち、五峰」とあることによってわかる』により、倭寇の大頭目の王直として断定している。

だから、ポルトガルの史料を絡めて、
『王直のジャンクはシャム(夕イ)から明に航行中、暴風雨にあって種子島に漂着した』
『王直の活動、日本との深い関係、朝鮮海峡の紛争事件、朝鮮国王が明政府へ送った報告書の内容などから、日本に鉄炮を伝えた主体は倭寇とみたほうが現実的である。』
として、「倭寇」説をまとめている。

しかし、「鉄炮記」では、「其中有大明儒生一人名五峯者。今不詳其姓字。」(その中に明の国の儒者で五峰という者がいた。その姓や字を詳しくここに書き記すことはできない。)と書いてある。
国立歴史民俗博物館の研究報告編集員会は、「倭寇の五峰(王直)だ」と認めてお墨付きを与えたが、「大明儒生」・「今不詳其姓字」についての説明を求めていない。
なぜか「鉄炮記」から「五峰」だけを採用し、他の記述を全く無視している。この研究報告編集員会の古文書に対する取り扱い方は、おかしい。

種子島の「五峰」さんは「偶遇五峯以杖書於沙上云」「五峯即書云」「偶遇五峯。以文字通言語」とそのとき日本語が喋れないので、商人=倭寇(日本人を含む)、日本にも行ったこともある(たぶん、未確認?)「王直」では不自然である。
その後の「五峰」についても、『王直と日本との関係は深く、肥前の五島に屋敷を構え、なおかつ九州各地や西国大名の大内義隆や大友義鎮(宗麟)とも接触があった。』としているが、具体的な「鉄砲と倭寇の大頭目の王直との関係について」は、証明・説明がなされていない。

鉄炮記を代作した南浦文之が、当時中国海商で有名だった五峰の名を拝借した。
「倭寇」説でも、有名な五峰の名をこじつけたと思える。
449S字型金具:2010/06/22(火) 22:43:27 ID:pGndUtVT
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問G

宇田川武久さんの「真説 鉄砲伝来」を何度読み返しても理解・了解できない箇所が多くある。
P67では、『鹿児島個人蔵の銃床はだいぶ剥げ落ちているが、朱塗りの痕跡がみとめられ、断定はできないものの、銃身の形状からみて琉球筒の可能性がある。』とあり、琉球起源の鉄砲があるかのように記述している。
P82では、『外国製の鉄胞は「南蛮筒」とよばれ、それを見本につくられた鉄炮が「異風筒」である。そのことは、南蛮流の秘伝書にある「いふう物はり様之事」の秘事からわかる。』とあり、
鉄砲は「南蛮筒」と「異風筒」しかありえないように記述している。
P96では、『十六世紀半ばから十七世紀初頭にかけて銃身や台尻の形、外・内カラクリの別、銃身の長短などさまざまな仕様の南蛮筒が倭寇をふくめた外国勢力によって、日本の西国地方にもたらされた。
これまで唯一のように思われてきた種子島への鉄炮伝来は、数多くあったひとつの事例にすぎないのである。』と記述している。
簡単に、『さまざまな仕様の鉄炮が日本にもたらされた』と記述しているが、その鉄砲の由来・起源を示さないのは、非常に無責任な記述で鉄砲伝来になっていない。
また、必須物質の火薬・真鍮(亜鉛)などについても示されていなくて同様であり、鉄砲に近い「大砲の伝来」が無視されている。これで『真説』とするのは『読者をなめている』としか思えない。
時と場合により、「異風筒以外の多量の鉄砲」をも認めていて、この本の内容はむちゃくちゃである。 >>340

『火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した』とする見方・考え方をすれば、『従来の日本の鉄砲技術に、その後のポルトガルを含む西洋・インド・東アジア・中国大陸からの鉄砲に関する技術導入・移入により、急速・急激な進歩・改良・発達・生産を遂げ、
日本独自の火縄銃技術を形成した』と見なせて、大概の鉄砲伝来の矛盾点が解消する。
450S字型金具:2010/07/01(木) 01:17:00 ID:4mhvoKPN
「日本に鉄砲を伝えたのは倭寇」説の疑問H

「真説 鉄砲伝来」は、『鉄炮に関する文献史料および実物資料を徹底的に活用して、これまで未開拓であった鉄炮の伝来と普及の実像をあきらかにしたいのである。P12』を目的として書かれている。
その、P230で、『史料的価値が疑問視されて、歴史学における秘伝書の活用はさっばりである。秘伝書には玉拵えの秘事として数十種類におよぶ玉の存在を伝えている。
鉛以外に鉄の玉、錫と鉛の合金の玉、複数の玉、半円の玉、三角の玉、中空の玉などがあるが、これを裏付ける資料が国内の各地の遺跡から出土しており、もはや秘伝書の記述が嘘やデタラメでないことはあきらかである。』
として、遺跡からの鉄の玉出土や秘伝書の記述により、「火縄銃の鉄の弾」の存在を認めている。

ところが、同じ著者は、「国立歴史民俗博物館研究報告(第17集)、壬辰・丁酉の委乱と李朝の兵器(P12)」で
『倭人の銃筒進上は、事変の兵器補強の反映とみて差支えない。
さきに李朝が中国の火砲を唐人から伝習している事実をみた。
ところが、右記の両啓によれば、李朝の銃筒改良には中国人ばかりではなく、日本人が関係しているのである。
倭人が銃筒を進上した明宗九年は、西暦一五五四年であり、日本年号でいえば、天文二十二年にあたっている。
すでにこのころ、日本には倭寇によって東南アジア系の火縄銃が伝えられているから、倭人の進上した銃筒は火縄銃と考えられなくもないが、それは以下の理由から否定せざるをえない。
まず、第一に鉄丸を発する銃身は物理的に考えて鉄より軟度のある物質、銅を用いなければならないこと、また李朝の銃筒製造の技術は鋳造であるのに、日本の火縄銃は鍛造であることを考慮すると、すなわち両名が進上した銃筒は日本の火縄銃とは認め難い。
このことは後章で説くが、壬辰・丁酉の倭乱のとき、日本の火縄銃、つまり鳥銃の製造にたいそう李朝は苦慮している。
もし倭人信長や平長親が日本の火縄銃を伝えていれば、そうした事態は起こらないはずである。』
として、「倭寇」説のために「火縄銃の鉄の弾」と「1554年と1555年の倭人の鍛造火縄銃筒進上」をも否定している。

「倭寇」説を唱えている国立歴史民俗博物館研究報告は、わけのわからない物理的理由など、何度読み返しても理解・了解できない箇所が多くある。 >>335 >>336

451S字型金具:2010/07/07(水) 23:38:05 ID:AC62ePp5
逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議あり@

井沢元彦著「逆説の日本史〔9〕戦国野望編」・サブタイトル「鉄砲伝来と倭冦の謎」で、『この鉄砲伝来という「イベント」を「プロデュース」したのは、「中国人倭寇」の王直だ』という「逆説の鉄砲伝来」論が書かれている。

要点を原文から抜き出すと、
■鉄砲を伝えたのは「南蛮船に乗ったポルトガル人」ではない!?
日本に鉄砲を伝えたのは、倭寇の大ボス王直の船(中国船)に便乗していたポルトガル人なのである。(中略)
このポルトガル人は王直も紹介した通り「商人」である。王直自身も「商人」だ。そして日本は戦国時代で、優秀な武器は誰もが必要としている―――。
つまり、鉄砲伝来は果たして「偶然の出来事」なのか、ということなのだ。
■鉄砲伝来の翌年に国産化に成功した鉄鋼技術
完成品である鉄砲を輸出して大儲けをしようと思っていたのに、日本人はなんと鉄砲伝来の翌年に、国産化に成功してしまったのである。(中略)
これはポルトガル人にとって大ショックであり大誤算でもあった。しかし、そこは世界の海を制覇した、転んでもタダでは起きない(?)ポルトガル商人である。
実は、決してポルトガル商人は損はしない。そして、その事実こそ戦国史全体を見るための重要なポイントなのである。
■「火薬調合法」と「ネジの技術」を伝授したポルトガル商人の真意
ポルトガル人は日本人などには自力で鉄砲をつくれないと思い、見本のつもりで渡したところ、あっという間に複製を作ってしまったので、あわてて技術を出し惜しみしたという考え方が妥当なのではないだろうか?
■織田信長「堺直轄」「本能寺の変」の秘密は″煙硝ルート″にあった
堺を直轄地としたことは、鉄砲という兵器の運用面から見れば、大変画期的なことであった。つまり、堺を押さえるということは、煙硝ルートを押さえることであり、煙硝を安定的かつ独占的に入手できるということなのである。

素朴な疑問だが、@利益を求める「商人」が、売り込んだのは日本で種子島だけだったのか。A「倭好」商品ではなく、なぜ鉄砲関連商品だけなのか。Bパクリ品の鉄砲は優秀であったのか。C「煙硝ルート」で利益はでたのか。

また、本文のページ数は407であるが、鉄砲伝来に拘る箇所はP115からP146で、サブタイトルは「!?」ではなかろうか。
452S字型金具:2010/07/15(木) 00:43:40 ID:wNSsyDz3
逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議ありA

ポルトガル商人であるメンデス・ピントが書いた、「日本人は他国の国民よりも生来武事を好み、武事に楽しみを持っている国民である」と言う事について、鉄砲伝来当時の日本の記述がある。
この記述は「東洋遍歴記」の第百三十四章の中にあり、鉄砲伝来について「逆説の鉄砲伝来」論によく似ているが、私の異議の原因ともなっている。

『(前略)したがって、この鉄砲熱はその後ますます盛んになり、それから五ヵ月半後、私たちがそこを立去った時には、その地には六百挺以上の鉄砲があった。
そして、のちに、副王ドン・アフォンソ・デ・ノローニャが進物を託して私を豊後王のもとに最後に派遣した際、すなわち一五五六年に、日本人が断言したところによれば、この王国の首府である府中の町には三万挺以上の鉄砲があった。
そして、この物がそんなにひどく殖えるなどということはあり得ないように思われたので、私がこれにたいそう驚いたところ、信頼し得る立派な人である数人の商人が言い、
また多くの言葉をもって断言したことには、日本全島で三十万挺以上の鉄砲があり、彼らだけでも、六度にわたって二万五千挺の鉄砲を交易品として琉球人のもとに持って行ったということである。
したがって、ゼイモトが善意と友情から、また、先に述べたように、ナウタキンから受けた礼遇・恩顧の幾分かに応えるために贈ったわずか一挺の鉄砲が因で、この国は鉄砲に満ちあふれ、
どんな寒村でも少なくとも百挺の鉄砲の出ないような村や部落はなく、立派な町や村では何千挺という単位で語られているのである。
このことから、この国民がどんな人たちか、生来どんなに武事を好んでいるかがわかるであろう。彼らは、既知の他のいずれの国民よりもそれに楽しみを見出しているのである。』

メンデス・ピントの「東洋遍歴記」では、ポルトガル商人の鉄砲や硝石(煙硝)の商売関与した記述が見られない。
第百三十四章では、「六度にわたって二万五千挺の鉄砲を交易品として琉球人のもとに持って行った」と注目に値する記述がある。
453S字型金具:2010/07/19(月) 19:58:52 ID:IDSGBBuc
>>435
サーペンタインロック式古銃の動画が入手できましたので、「YouTube(ユーチューブ)」に「S字型金具」のタイトルでアップロードしました。
動画は2000年に撮影されたもので、火鋏を持って移動したためかサーペンタインの支持部が壊れ、塗装の赤色が退色しています。
454人間七七四年:2010/07/19(月) 21:04:28 ID:BJ2kCleF
リンク貼ってくれりゃいいのに
ttp://www.youtube.com/watch?v=MIvvdZ8hhUE

結構大きいもんだな
455S字型金具:2010/07/23(金) 01:54:34 ID:zwxAg/Cr
逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議ありB

ルイス・フロイスの1555年(天文24年)12月1日付、マラッカ発書翰
『我等は昨年當地に於て支那より來れる船より次のことを聞きたり。
支那と日本との間に實に猛烈なる爭ありて、鹿兒島より一大艦隊支那に赴き、支那沿海の諸地方を數多く破壊せり。
殊に甚だ人口多き一都市に大打撃を加へ、その都市にありたる諸貴人を捕へたり。
これらの戰爭は深き縁由ありて多年の間鎭定することなかりしといふ。
支那と日本との爭ひは日本に行かんとするポルトガル人にとりて甚だ好き都合なるべし。
そは蓋し支那人その商貨を載せて船を日本に送らざれば、ポルトガル商人(日本にて)、交易をなすの好き便りとなるの故なり。』

「日本一鑑」は、「明の鄭舜功が倭寇の禁圧と日本の実情調査のために1556年来日し、後に著した」としている。
この書物は、上記の「日本の一大艦隊が中国沿岸都市を攻撃した」ことについての記載が無く、「深き縁由」とは何か解らない。
また、日本と琉球との鉄砲・刀剣などの武器交易についても記載が無く、鉄や硝石などの記載内容についても疑問があり、鄭舜功の本当の来日目的は解らなく、「日本一鑑」の記載内容で、当時の日本全体を判断することはできない。
しかし、この戦争の結果、東アジア貿易はポルトガル人の独占となり、倭寇による貿易は途絶えた。

「逆説」では、日本の事情にも詳しい倭寇の王直というスペシャルアドバイザーが、船主として、ポルトガル人の「鉄砲の売り込み」の手助けをしについてきたとしているが、1555年以前について以下の疑問がある。
@倭寇自体が使用していない鉄砲を売ること自体が、おかしい。
Aスペシャルアドバイザーが選んだ、「日本の貿易最適地は種子島」ではおかしい。
B売り込み地は、なぜ種子島1箇所だけなのか。
Cなぜポルトガル船が使っている大砲を売り込まなかったのか。倭寇は使わなかったのか。
D倭寇による東アジア貿易実態は、生糸、絹製品と銀がメイン商品なのでは。
Eタダでくれた鉄砲の後、なぜすぐに追加発注を受けなかったのか。
F倭寇の黒色火薬(鉄砲火薬用)についての商取引は如何に。(硝石は火薬の原料であって、火薬ではない)
456人間七七四年:2010/07/27(火) 08:14:34 ID:FH3p4yKq
卒論で雑賀のことを調べてるんだけど南浦文集が手に入らなくて困っています
457人間七七四年:2010/07/28(水) 21:25:59 ID:ZMlsq6f1
458S字型金具:2010/08/01(日) 01:27:25 ID:ChRPR7v2
逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議ありC

『種子島にて鐵砲製し始めし事南浦文集に委しく見えたり始は筒の底を子ヂにする様をしらずして只底を張りふさぎたるなり此の事も彼の文集に見えたり
薩摩人丹生兵衛恒好が談に今鹿兒島の城下に昔の種子張の鐵砲もち傳へたる者間々有り其の筒の底は子ヂに非ず作付けに張り塞ぎたる物なりといへり』
上記は、江戸時代中期の伊勢貞丈が「ネジ尾栓ではない火縄銃の存在」を記述し、「火縄銃にネジ尾栓は絶対必要条件ではない」ことを示している。 >>390

井沢さんの逆説の本のP136〜137に尾栓について、私が理解不能な事が書いてある。
『(前略)また火薬滓も暴発の原因となる。中に残っている滓の高温によって銃身の「焼き」が戻ってしまい、もろくなるのである。
金兵衛が最初に造った銃は、よく筒底の部分が破裂した。そこは文字通り「目の前」にあるから、下手をすると頭が吹っ飛ぶということになる。
ところが、ポルトガル人の銃はそういう事がまったくない。しかも、不発もない。ということは、筒底を好きな時に開けて掃除ができるうえに、一度閉めたら火薬の爆発にも耐える「技術」があるということだ。
金兵衛は底を塞ぐのに、伝統的な方法では最も強度の高い「焼き締め」を行なった。つまり「焼き入れ」で塞いだのだ。しかし、それでも暴発するし、(後略)』

火薬滓が暴発の原因となるならば、井沢元彦さんは「早合(はやごう)」の存在を無視しているし、「銃身の焼きを戻す」には、1回数グラムの発射薬の発熱量ではおかしい。
破裂は、銃身底部の強度と発射薬量との関係によるのものでネジ尾栓と直接関係がなく、「不発もない」と、どこにこのようなことが書ける根拠となる文献や事実はあるのだろうか?
また、井沢さんは、P135で『その穴は細いとはいえ銃身の中まで通じているのだから、水などが入ると銃が使用不能になる危険がある。そこで普段は蓋をしておく。』と書いて、
「火蓋」は水の浸入を防ぐために在ると思い込んでいるが、銃口のほうが「その穴」よりも圧倒的に大きく、水が浸入する。

尾栓など火縄銃についての誤解の原因は、盲目的に「鉄炮記」を信じて(採用して)日本の銃砲史が創作されているからである。
459人間七七四年:2010/08/03(火) 09:55:32 ID:1WDpv+Dw
S字金具さんは、自分のHPを作ってそこで交流をされてはいかがでしょうか。
他HPとのリンクを増やしていけば、その方が情報提供や交流もスムーズに行くでしょう。
このような一方的な連続投稿は、いくらレスが少ないスレとはいえあまりするものではないです。
460人間七七四年:2010/08/09(月) 15:55:29 ID:x6mELivm
演武される方、危険物取扱者や火薬類保安責任者の資格持ってますか?
その勉強って役に立ちます?
461S字型金具:2010/08/12(木) 00:52:41 ID:4S3ohsRA
逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議ありD

井沢元彦さんの逆説の本のP133にポルトガル商人による硝石輸入について、根拠の無い(?)ことを記述している。
『鉄砲は火薬がなければ、ただの「鉄棒」に過ぎない。こう言い換えてもいい、鉄砲を大量に作る技術があったとしても、それだけでは鉄砲は使えない。使うためには、日本では絶対手に入らない硝石の輸入ルートを確保していなければならないのである。
(中略)その輸入ルートが確立されない限り鉄砲の大量使用は不可能であることは、戦国史を理解する上に極めて重要なポイントなのである。』

十六世紀日欧交通史の研究(岡本良知著)の「第二章 ボルトガル船の日本航海」に
『ボルトガル印度間では多くは十数艘少くも数艘の船隊をなして航海したが、当時日本へは通例一艘、ときに船一艘の外一・二艘のジャンクが来た。
三百年前のこの極東の航海に従った僚船を有せぬ一帆船は、印度を出帆してマラッカ海峡を過ぎ、寂莫たる南支那海を北上して遠路広東沖に達し、
それより更に糧食を補給し貨物を積んで台湾海狭の荒波を蹴り東支那海を東走して日本に達し、帰航にはまた同じ経過を逆に追って行ったのである。』
同著、第四章の『至一五九〇年日本航末ヨーロッパ船一覧表』に「航海年度・出発・経由地・入港地・到着月日・出発月日・カピタン名・備考」が詳しく調べられている。
これによると、ボルトガル官許船による諸侯との貿易期間である1555〜1587年(弘治元年〜天正15年)では、年間1〜3隻(33年間に66隻で年平均2隻)が7・8月に、九州各地に入港している。

今まで、ポルトガル商人との鉄砲・火薬・硝石の輸出入記録は発見されておらず、ただ、若干の贈答、融通した記録はある。
当時のポルトガル人の日本貿易は、終始一貫して支那物資(生糸・絹織物)と日本物資(銀)との仲買貿易をしていたとされている。
硝石が生糸・絹織物よりも量や利益があれば輸出入記録に残るはずだし、仮に年間1〜3隻のガレオン船のサブ輸入品としても当時の日本の使用量から見ると足りる量では無く、しかも7・8月の入荷である。

ボルトガル官許船1〜3隻の貿易記録にも残らない量の火薬が、戦国史を理解する上に極めて重要なポイントなのであろうか?
462S字型金具:2010/08/25(水) 23:58:42 ID:WKDylxhz
逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議ありE

ポルトガル政府の勅令によるカピタン・モール制は1555年から始まり、1556年からボルトガル官許船は毎年必ず一回一艘が定期的に日本へ来航し、大規模な重商業主義的な機構による貿易が始まった。
ポルトガルが支那(明)のマカオでの居留権を得たのは1557年からであり、官許船での日本貿易は必ずマカオ経由での取引となった。 >>359
今までポルトガル商人による硝石の輸出入記録は発見されていないが、支那は硝石の産地なので、仮に硝石の輸出入があってもインドやマラッカで集荷された品物とは考えにくく、硝石はマカオで集荷された物になるであろう。
しかし、明が日本への輸出や通過を認めたかどうかは不明であり、当時の輸出入の記録は少ないながらも、日本への硝石の輸出入に関する書翰の痕跡すらも発見されていない(たぶん?)。
通常、ポルトガル官許船は、南方季節風を利用して7・8月に日本に入港し、北方季節風が吹くのを待って11・12月に出帆しており、その間に日本の商人と取引を行い、それ以外の期間には日本の港にポルトガル船はいなかった。
また、当時の日本の港に支那船がいない事を1558年に来航したカピタン・モール・レオネル・デ・ソーザが1561年の書翰で記述している。
『かくして予は支那に至るや、ポルトガル・印度の凡ての煩はしき要求を忘却し、日本の港に行きて自己を利せんと決意せり。
日本人の支那に対してなしてありたる大戦争(倭寇)の故に、(支那)商人来往せず港は閉ざされてありて、予が載せ行きし商貨の価は、予をして利益に倦怠せしむるまでの額に達し、(後略)』

このような重商業主義のカピタン・モール制の現況において、井沢元彦さんの逆説の本のP133
『鉄砲は一丁持てば、二丁、三丁と欲しくなる。そして、それを有効使用するためには硝石を大量に輸入しなければならない。ならば初めの一丁ぐらいは「サービス」しても、ポルトガル商人は損はしない。いやむしろ多大な利益が期待できるのだ。』
の根拠は何処にあるのだろうか?

倭寇による鉄炮伝来説の宇田川武久さんは、硝石について殆ど触れていなく、1558年以降の倭寇説はどのような展開で成り立っているのだろうか?
463人間七七四年:2010/09/06(月) 13:37:56 ID:4n+w2dAj
ロシアに眠る幕府の大砲 江戸後期の紛争略奪品・東大調査

 江戸時代後期に起きた日ロ紛争による幕府軍からの略奪品が、ロシアのサンクトペテルブルクの博物館に多数収蔵されていることが
東京大史料編纂(へんさん)所の調査で明らかになった。近代へと向かうなか、外国との初めての軍事衝突に慌て戸惑う日本の姿が見えてくる。

ロシアにある日本関連資料の調査を同編纂所は10年来続けている。今年は7月に保谷徹教授らが博物館などを回り調べた。
一行を最も驚かせたのは砲兵博物館で確認した大砲だ。「フランキ砲」「石火矢(いしびや)」などと呼ばれる種類で青銅製。2門あり、どちらも口径79ミリ、全長約260センチだった。

大砲の一つには「FRCO」と刻まれていた。同編纂所の岡美穂子助教によると、これは戦国時代に大分を本拠に活躍したキリシタン大名、大友宗麟の印章だという。
宗麟の洗礼名フランシスコから図案化したもので、1579年から2年ほど使っていた。
「宗麟が注文したか、宗麟の受洗を祝いイエズス会が贈った可能性が考えられる」と東大の五野井隆史名誉教授。

ポルトガルの拠点だったインドのゴアなどが製造地の候補にあげられるという。
フランキ砲は鉄砲より少し遅れ16世紀後半に日本に伝わった。宗麟が最初に導入し、城の攻防に威力を発揮、「国崩し」の異名をとった。

(続く)
464人間七七四年:2010/09/06(月) 13:41:17 ID:4n+w2dAj
そんな大砲がなぜ、ロシアに渡ったのか。江戸時代の紛争での略奪品であることをロシア側の記録は示していた。

 ロシア使節のレザノフが、通商を求めて長崎にやってきたのは1804年。半年にわたり江戸幕府に交渉を求めた。

 だが、幽閉さながらの状態に置かれたうえ、交渉そのものもまったく進展しなかったことから仕返しを計画。
部下に命じ、1806年と1807年に樺太や択捉島など日本の拠点を攻撃させた。当時の年号から「文化露寇」と呼ばれる。

 保谷教授によると、利尻島で襲われた幕府の船から大砲が奪われたとの記録が日本にある。

記録では、この大砲は「さはりの大ハラカン」と呼ばれていた。かつて豊臣秀吉の軍が朝鮮から奪い、大坂城に持ち帰ったと伝わる大砲だ。
今回確認した2門のうち、もう1門がそれに当たるのではないかという。

 「幕府には、戦国時代の様々な武器が集まっていた。使用法も秘伝として継承されていたはず。
 ロシアの襲撃に驚き、そうした武器から慌てて大砲を引っ張り出したものの、奪われてしまったのでしょう」と保谷教授は話す。

大友宗麟が所有していたとわかった大砲。右下は表面の装飾を拡大したもの=砲兵博物館の資料から
ttp://www.asahi.com/culture/gallery_e/view_photo_feat.html?culture_topics-pg/TKY201009060084.jpg

大砲を特定する決め手となった大友宗麟の印章。左の文字はFとRの合わせ文字=保谷徹教授提供
ttp://www.asahi.com/culture/gallery_e/view_photo_feat.html?culture_topics-pg/TKY201009060083.jpg

(続く)
465人間七七四年:2010/09/06(月) 13:44:22 ID:4n+w2dAj
人類学・民族学博物館では日本担当研究員のA・シィニーツィンさんが、多数の品を見つけ出した。刀や鉄砲、よろいやかぶとのほか、鏡やきせるなど日用品も多い。

津軽、南部両藩から動員された兵はロシア勢より多かったが、さして戦うことなく敗走した、という記録を裏付けるように、品々には傷みがみられない。

 ロシアはナポレオン戦争の時代。武器も士気も整っていたようだ。一方の日本は11代将軍家斉の治世。太平の社会にこの紛争は衝撃だった。
平田篤胤が国学を志すようになったきっかけといわれ、時にみられる「ロシアは怖い国」というイメージの出発点ともされる。

 「襲撃は私的な海賊行為とされ、関係者は罪に問われた。ロシア政府は無関係だった」とK・サルキソフ山梨学院大名誉教授は説明する。
外交手続きを重んじて交渉を求めたレザノフに対し、時間がたてばあきらめて帰るだろうというのが幕府の方針。
かみ合わない姿勢や文化の違いに端を発した感情のもつれによる衝突だった。

 こうした日ロの初遭遇を今年出版した『黒船前夜』で描いた評論家の渡辺京二さんは
「相手のことを知らないために起きた事件。それにしても、200年も前の年代物の大砲が役に立つわけもないだろうに、あきれた話だ。
 ペリー来航の半世紀前、当時の日本にはそんな物しかなかったということなのでしょう」と語った。(渡辺延志)

鉄砲や刀、鏡なども多数確認された。鉄砲の左に二つあるのは鉄砲入れ。南部家の紋がついている=保谷徹教授提供
ttp://www.asahi.com/culture/gallery_e/view_photo_feat.html?culture_topics-pg/TKY201009060082.jpg

ttp://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201009060087.html

(終わり)
466人間七七四年:2010/09/06(月) 22:53:03 ID:GNiVcTdt
これはすごい
467人間七七四年:2010/09/07(火) 02:11:48 ID:VTPWN4gM
>>461
最大の貿易相手は明の商人だし明の交易船

鉄砲を伝来したのも明船

硝石は大部分が明から輸入していた
468人間七七四年:2010/09/07(火) 02:35:45 ID:FMztYf/B
実戦に使用したなら、フランキ砲は分離カートリッジ式子砲に火薬と弾を込めて撃つので、暴発やガス漏れが激しい。
対してナポレオン戦争時のロシアは前装式艦載砲を揚陸させて使ったろう。
ただの鉄球を打ち出すカノン砲だから、フランキと連射速度は違えど威力に差はないよ。
榴弾砲か臼砲があれば違ってくるけど。

しかしロシアのマスケット銃兵に負けるとはな。日本の火縄銃よりずっと命中率低いのに。
M1756にいたっては照星すら付いていない。密集隊形の敵にこそ使うもので、散兵戦ではほんとに使えない。
これより前になるがロシアは朝鮮の猟師を射撃教官に招いたりもしている。
命中率は鳥銃の方が上だったんだ。
469人間七七四年:2010/09/07(火) 05:17:33 ID:VtiUJo4B
津軽、南部両藩から動員された兵はロシア勢より多かったが、さして戦うことなく敗走した、という記録を裏付けるように、品々には傷みがみられない。
ロシアはナポレオン戦争の時代。武器も士気も整っていたようだ。一方の日本は11代将軍家斉の治世。太平の社会にこの紛争は衝撃だった。



武器の質はともかく、士気旺盛な戦国時代であればそうあっさり敗走はしないだろうな
470S字型金具:2010/09/11(土) 01:24:19 ID:/A10A+ws
逆説の『鉄砲伝来と倭冦の謎』に異議ありF

織田信長の堺支配(1570年〜?)の前、1565年(永禄8年)に、日本の商人等が貿易相手であるポルトガル官許船への略奪未遂事件を起こした。
この事件については日本とポルトガル両方に記録が残っているが大きな相違があり、日本側の記録「大曲記」はそれ自体の信用性が疑われる内容である。
ポルトガル側の記録は幾つかあり、それぞれ詳細に記載されている。
ポルトガル船の入港はそれまで平戸であったが、ポルトガル側の都合により1962年から横瀬浦に変わった。
1965年に来航したポルトガル官許船は、横瀬浦が戦乱中で破壊されているので、調査済みの大村領の福田浦へ入港した。
今後平戸領内にポルトガル船が入港しなくなるので、領主の松浦隆信は堺の商人等と略奪計画を盟約し、武装した商人等の大船8艘と松浦軍の小船で官許船へ奇襲攻撃を掛けた。
フロイスは、「その時の松浦軍の攻撃武器は、堺で作られた大型のマスケット銃であるエスピンガルダ銃と矢であり、商人等は生糸を買うために来た堺の商人等である」と書いている。
福田浦には、ポルトガルの小型ガレアン船1艘と支那商人の船数艘がいて、不意を突かれたポルトガル官許船にそれらの船は全力で近づき、援助を行った。
大村領の大村純忠は、ポルトガル船への援助をしなかった(できなかった?)。
ガレアン船の砲撃により松浦軍側は大船3艘が撃破され、200名以上の死傷者を出して略奪は失敗に終わった。
襲撃されたポルトガル官許船の積荷がその後どうなったかの記録は無いが、12月(?)に出帆している。

この記録から見ても、当時の日本側の貿易体制は海賊行為が行われており(瀬戸内海は海賊が横行していたが、日本海側は不明)、ポルトガル船は直接堺港に入港できない状態ではなかろうか。
この当時ポルトガルは日本の諸侯を通じて日本の商人等と商売をしており(日本在住の支那商人もか?)、堺との直接貿易ルートが確立しているとは思えず、「硝石(煙硝)」が略奪商品名や貿易記録に出てこないことから、
井沢元彦さんの逆説の本に書いてある「織田信長の煙硝の輸入ルート」そのもの自体がありえないのではなかろうか。
また、支那商人が来往しなかった時期もあり(>>462)、硝石の輸入については再検討を要する。
471S字型金具:2010/09/12(日) 09:41:06 ID:Fn9idrLd
訂正 >>470 の(1962年から横瀬浦)は(1562年から横瀬浦)、(1965年に来航)は(1565年に来航)です。
472人間七七四年:2010/09/12(日) 22:48:23 ID:Www7C5Bb
硝石は自給できるようになったらしい。
473S字型金具:2010/09/18(土) 02:16:12 ID:bXAS04K/
大友家の「鉄炮伝来記」@

大友氏第21代当主の大友義鎮(宗麟)の時代、「鉄炮」と「石火矢=国崩」の伝来についての記録があります。
「国崩し」の意味を調べている内に入手した物で、種子島氏の「鉄炮記」 >>351 と比べてみると共通点などもあり、なぜ今まで取り上げられていなかったのか不思議なことです。
「石火矢=大砲=佛郎機(フランキ)」の威力(性能)についての記載はありません。
「国崩し」の意味は「音響により地形が崩れる事」で、「弾で地形が崩れる事」では無い事が判りました。

『九艘唐船之事』
厥後、享禄三庚寅年夏の頃、南蛮国より大船九艘、豊後臼杵に着岸しけり。
商売のため渡海したる船なれば、絹布・薬種・其外美妙の重宝、其数あげて斗り尽し難く、諸国に其隠れなければ、国々の商入金銀を持参して、幾千人と云ふ数を知らず相集る。
然共、此船に乗来る商人は云ふに不及、船頭其外以下の船手の者共、何れも言語に通じがたきにより,何れの国より渡海したるといふ事をしらず。
文字も日本の筆法に相応ぜざれば、筆談もなり難し。
され共、大明国より儒学の仁を其船に雇ひ、乗来ると見へしかば、禅僧に保首座といふ出家、書翰を認め、船中に遣しければ、三官と云ふ儒学の大明人披見して、夫より保首座に初参会所したり。
三官筆誌に我は大明国の者なれ共、言語通達の為に、彼商人宿はじむるにより、此船に乗来り、商売の客は云ふに不及、船頭・楫取・以下の船方共皆南蛮の者共也。
依之、某南蛮の作法為業を偏に知らず。
然共、船中の者共のていたらくを見るに、君臣の分は有りけれ共、一円に礼儀不法の国と見へて、君臣の分ちは礼儀正しからず。
朝夕の食事をも、大勢一器に入て箸を用意せずして手づから握み食して、我や人やと云ふ。貴賎を撰ぶる事なしと答書する。

続く
474S字型金具:2010/09/24(金) 00:13:40 ID:l/6b8G1b
大友家の「鉄炮伝来記」A

『九艘唐船之事』 >続きです。

当国の大守大友義鎮公は、府内に在住し給ひ、異国人よりの進物として、種々の重宝美妙の数を尽し捧げ進上する。
其中に兵具を三(二)つ指上る。
誰がとなへ始めしとは知れざれ共、鉄炮と云ひ始めしとて、其長さ二三尺も有りたると也。中に竹の筒の如くの穴あり。
外は直にして其底は厳敷く塞ぎ堅めて、手元の傍に小き穴あり。
火の通ずる道あり。
たとへて云ふべき様もなく、妙薬を其筒に少し込みて、円き小玉を後に入て、四方の細き的の中に、墨にて星を顕はし、射垜に立置き、自彼鉄炮を手に持ち、火縄に火を付け取添て、其身を直治にして、其仁片目をすがめ、手前の小穴より火を放つ。
時に立所に星にあたらすと云ふ事なし。
其発時の甚しき事は、さながら稲妻の光りの如く、騒ぐ事は雷電霹靂の如く山に響き、大地も動く如く覚へたり。
見物の貴賎耳に手を覆ひ、岩石も只今崩るゝ如くなり。誠に肝魂を消す如く覚へけれ共、彼鉄炮を翫ぶ異国人は、少も騒ぎたるけしきもなし。
鳥獣をも刹那が間に歿命する事眼前也。
希代不思議の重宝の兵具なり。
これによりて、当国の若き侍方伝受して、もてはやしければ、其後は鳴響く音にも恐れ騒がず、何れ達者の上手と沙汰したり。

扨、南蛮の商人共、商売たやすく仕舞ければ、順風に帆あげて本国へ帰りけり。

其後数年指過ぎ、天文二十辛亥の年、石火矢迚大筒二挺、南蛮の国より進物の由にて、大友義鎮公へ送りける一挺は、大の筒にて、筒の穴口四寸余有り。
一挺は些細き筒にて、口の指渡し三寸余有りけるとかや。
此大筒共一度放せば、其響にて高山岩石も崩れ、大地も震ひわれるかと覚へけり。
此石火矢を国崩といひならはしけり。
されば大友家御代々九州を掌の内に治め給ふといへ共、威勢異国迄も聞へ、南蛮国迄も隠れなければ、如斯の重宝を捧げ、大友義鎮を尊敬する事は、古今ためしなき事共也。

この一文は、天正15年(1587年)で終わっている「豊筑乱記(著者、成立年代とも不明)」に含まれています。
種子島氏の「鉄炮記」 >>419 は、文末には慶長11年(1606年)の記載があり、この『九艘唐船之事』を参考にして書かれた可能性がある。
また、このような伝承がこの地域に流布していた可能性もあり、興味のあるところです。
475人間七七四年:2010/09/26(日) 20:44:27 ID:k9S5PXk5
 戦国時代の鉄砲兵達には訓練とかあったのでしょうか?またある程度の
腕がなければ採用しないと言った要件はあったのでしょうか?また鉄砲を
扱う兵士達の指揮官には条件とかあったのでしょうか。
476人間七七四年:2010/09/29(水) 01:51:27 ID:PbTioBne
>>475
もちろんあるよ。俺の知ってる話だと、
・鉄砲は組ごとに20〜30人ずつで編成されていた
・当時の鉄砲は微妙に銃身が曲がってて、それぞれ弾道にクセがあるので試射して把握する必要があった。
・訓練には変形する鉛弾ではなく、再利用できる鉄弾を使った。
なんてのがあったな。
477人間七七四年:2010/09/29(水) 02:37:38 ID:QDIWCE7w
>>475
鉄砲が、比較的早く普及した西国と遅かった東国では、鉄砲を扱う人間が微妙に違った。

西国(大友・島津・長曽我部)では、士分が鉄砲を使っていた。
戦いになると自分と数人を引き連れていく騎馬武者か、徒歩武者。
大名とか有力な家臣・一族とかの被官たち。

東国(上杉・武田・北条)では、その階層の武士は、鉄砲より馬を使った。

478S字型金具:2010/10/01(金) 00:21:12 ID:G1dTIrGc
大友家の「鉄炮伝来記」B

大友義鎮(宗麟)に関係すると思われる大砲発見のニュースがあった。>>463
東京大史料編纂所は、次のように解釈している。
『大砲の一つには「FRCO」と刻まれていた。同編纂所の岡美穂子助教によると、これは戦国時代に大分を本拠に活躍したキリシタン大名、大友宗麟の印章だという。
宗麟の洗礼名フランシスコから図案化したもので、1579年から2年ほど使っていた。
「宗麟が注文したか、宗麟の受洗を祝いイエズス会が贈った可能性が考えられる」と東大の五野井隆史名誉教授。
ポルトガルの拠点だったインドのゴアなどが製造地の候補にあげられるという。』
『かつて豊臣秀吉の軍が朝鮮から奪い、大坂城に持ち帰ったと伝わる大砲だ。今回確認した2門のうち、もう1門がそれに当たるのではないかという。』

しかし、天正10年(1582年)、前田利家の鋳玉を使う国産の大鉄炮の使用や大鉄炮鋳造の記録がある。
この大鉄炮が「フランキ砲」であるかどうかは不明ですが、西国大名では無い前田利家の鋳造記録であり、これ以前にも大砲を鋳造していたことが推定される。
このとき、前田利家は鋳物師に「捕虜を釜煎りするための大釜」も鋳造させている。
これは石川五右衛門(〜1594年)で有名な「釜茹での刑」のためで、前田利家は以前にも一向宗門徒を釜煎りしたようだ。
日本には古来より青銅の精緻な梵鐘製造技術があり、大釜鋳造に転用できるし、大砲鋳造も困難な仕事では無いと思われる。
また、フロイスの天正13年(1585年)の書翰に、「信長がシナ人に命じ伊勢の国において鋳造させた大砲一門と、小砲数門を用いた」と書いてある。
中国(明)は、1528年に「フランキ砲」4000門を配備している。>>359
大砲が日本国内に普及・発展しなかった理由は色々考えられるが、単純に「大砲の製造地がインドのゴア」や「朝鮮から奪った大砲だ」とは言えない点がある。
銃砲の製造については、刀匠のほかに、鍛冶師、鋳物師なども考慮に入れる必要がある。
479人間七七四年:2010/10/02(土) 16:42:01 ID:CR6ip9tu
大砲が日本で普及しなかった理由?

移動・運搬が困難だからに決まってるだろう。
平野面積が狭く、ほとんど山岳の国なのに。
480人間七七四年:2010/10/03(日) 00:59:27 ID:NlXq0YYT
秀吉の小田原の役で、大筒が1000門使われたそうだが、
これは大鉄砲が大半なんだろうか
481人間七七四年:2010/10/03(日) 10:08:14 ID:mTXqrpKo
まあ殆どそうだべ
482人間七七四年:2010/10/04(月) 01:05:57 ID:Tc4POjVn
>>479
大友宗麟が、大砲を輸入したとき、それを長崎から豊後府内まで、
陸上輸送したんだが、その総益が大変だと不平が出ていたそうだ。

あと炸裂弾じゃないので、効果がうすかったというのもある。
この欠点は、丹生島城で篭城した際、大小の玉を使用して
有る程度解決できた。
483人間七七四年:2010/10/04(月) 03:21:28 ID:TSRLvZSh
>>482
炸裂する榴弾も、ナポレオンの頃ですらそんなに威力があるわけではなかったんだよな。
近距離で使う散弾(戦国日本では烏弾と言った)と比べると戦果は微々たるものだった。
19世紀前半から順次普及したシュラプネル弾の登場で、大砲の対人攻撃力は飛躍的に上がった。
これは榴散弾ともいい、遠距離で信管が作動して散弾をばら撒くもの。
484人間七七四年:2010/10/04(月) 03:26:20 ID:TSRLvZSh
大砲の散弾の対人威力はとんでもない。
マスケット銃で使う程度の大きさの玉を数十〜数百個詰め発射すると、
射程こそ短いが拡散し一網打尽にする。
戦国時代だと大鉄砲で使うことがあったというが、詳しくは知らない。
485人間七七四年:2010/10/04(月) 18:17:10 ID:ElL8hpwO
至近距離で一回しか使えないからな、進入路限定できるとこじゃないとあんま意味ないし
城とか拠点でそこまでワララワ肉薄されるようだとオワタに近いし
486人間七七四年:2010/10/05(火) 16:02:56 ID:RuHwCpc3
上下方向にも拡散するだろうからロスが大きいな。
ゾウを一撃で肉片に変える、とかになら使えるかも知れん。
487人間七七四年:2010/10/07(木) 11:14:40 ID:fTBhdny6
 大砲の運搬が当時の日本の牛馬では不可能だったみたいな意見もあったけど、
当時の大砲より重くて嵩張る石垣や木材なんかを運んでるだからやろうと思えば
できただろうねえ。
488人間七七四年:2010/10/07(木) 12:13:33 ID:BkCzsT3S
日本では組で扱う兵器は好まれないからな
489人間七七四年:2010/10/07(木) 13:01:38 ID:dwOw7UoZ
一発一発に
大量の火薬を使うからってだけかと。

大砲一門で一発撃つあたり
火縄銃100発分以上



490人間七七四年:2010/10/07(木) 18:35:57 ID:fTBhdny6
 攻城戦にはそれなりに有効だったとは思うんだけど。戦国時代は数キロあるけば
城にあたるって位、出城・砦だらけ。壁崩すとかには有効だったろう。火薬について
もそれなりに大量になければ100年位で火器装備率があがる訳がない。やっぱり文化
的要因があったのかな。
491人間七七四年:2010/10/07(木) 18:56:52 ID:hFa+1whA
柵と土塁のビンボ臭い城と砦ばっかです・・・
492人間七七四年:2010/10/07(木) 19:00:49 ID:9471OaSW
攻城戦で壁崩すのに有効といっても、戦国時代の城は壁なんかないのも多いし、
山城なんかだとそこまで近づけるかどうか、届くかどうかも微妙。
そんな役に立つかどうかわからないものを必死こいて野を越え山越え運ぶくらいなら、
鉄砲をたくさんそろえたほうがよっぽど効果的だろう。
大砲の使用は、近代的な平城・平山城への攻撃や、平地での運用、篭城戦に限られたと思う。
493人間七七四年:2010/10/08(金) 04:29:16 ID:cBwapAsw
戦国時代、大砲を楽に通せるような道が整備されてなかったのも大きいね。
そんなこと考えて日本の道は作られてないから。
494人間七七四年:2010/10/08(金) 04:35:17 ID:cBwapAsw
臼砲は役に立ったかなと思う。
短砲身の攻城砲で、壁越しに高い放物線を描いて射撃できる。
ただ17世紀後半にならないと榴弾を発射できるには至らない。
495人間七七四年:2010/10/08(金) 10:14:25 ID:0XwusplB
朝鮮の「飛撃震天雷」みたいな弾丸を開発すれば良かったんだよ
496人間七七四年:2010/10/08(金) 11:19:58 ID:TGyd0ZCh
ヨーロッパや中国みたいに石の城壁があるわけじゃないんだから
大砲の必要性は薄い
497人間七七四年:2010/10/08(金) 12:14:53 ID:lo4LKbra
 防御砲としても一定の効果はあったと思うんだけどね。17世紀のヨーロッパ
の城塞なんかはハリネズミの様に砲台があっちこっちにある。日本の場合はすぐ
天下太平の徳川時代に入ったから同列には論じられないが、大阪城や江戸城とか
にも砲台の概念は殆ど無いよね。
498S字型金具:2010/10/08(金) 22:29:26 ID:8QEXGevZ
大友家の「鉄炮伝来記」C

現在の著作物は著作権法により守られている。この大友氏の『豊筑乱記(九艘唐船之事)』と種子嶋氏の『南浦文集(鉄炮記)』の酷似は、その内容が「日本の銃砲史」や「教科書の記述」に関わることから、著作権の侵害だけでは済まされない。
どちらかが(または両者が)『パクッた』のは間違いないので、ここに両者の読み下し文を記述順に列記してみた。
【大】は垣本言雄校訂「大分県郷土史料集成 戦記篇 豊筑乱記」より。《種》は洞富雄さんの「南浦文集の新仮名遣い読み下し文」である。

【大】『九艘唐船之事』 厥後、享禄三庚寅年夏の頃、南蛮国より大船九艘、豊後臼杵に着岸しけり。
《種》『鉄炮記』 隅州の南に一嶋あり、州を去ること一十八里、名づけて種子と日う。我が祖世々これに居る。古来相伝う、嶋を種子と名づくるは、この嶋小なりと雖どもその居民もろもろありてかつ富めり、
譬えば、種を播くにこれ一種子を下せば、しかも生々窮まりなきが如し、この故にこれに名づくと。これより先、天文癸卯(十二年)八月二十五丁酉、わが西村の小浦に一の大船あり、

【大】商売のため渡海したる船なれば、絹布・薬種・其外美妙の重宝、其数あげて斗り尽し難く、諸国に其隠れなければ、国々の商入金銀を持参して、幾千人と云ふ数を知らず相集る。
《種》何れの国より来るを知らず。船客百余人、

【大】然共、此船に乗来る商人は云ふに不及、船頭其外以下の船手の者共、何れも言語に通じがたきにより,何れの国より渡海したるといふ事をしらず。文字も日本の筆法に相応ぜざれば、筆談もなり難し。
《種》その形類せず、その語通ぜず、見る者もって奇怪となす。

【大】され共、大明国より儒学の仁を其船に雇ひ、乗来ると見へしかば、禅僧に保首座といふ出家、書翰を認め、船中に遣しければ、三官と云ふ儒学の大明人披見して、夫より保首座に初参会所したり。
《種》その中に大明の儒生一人、五峯と名づくる者あり、今その姓字を詳にせず。時に西村の主宰に織部丞という者あり、すこぶる文字を解す。たまたま五峯に遇いて杖をもって沙上に書して曰く、船中の客、いずれの国の人なるを知らざるなり、何ぞその形の異なるやと。

【大】三官筆誌に我は大明国の者なれ共、言語通達の為に、彼商人宿はじむるにより、此船に乗来り、商売の客は云ふに不及、船頭・楫取・以下の船方共皆南蛮の者共也。
《種》五峯すなわち書していわく、これはこれ西南蛮種の賣胡なり
499S字型金具:2010/10/08(金) 22:30:52 ID:8QEXGevZ
大友家の「鉄炮伝来記」D

【大】依之、某南蛮の作法為業を偏に知らず。然共、船中の者共のていたらくを見るに、君臣の分は有りけれ共、一円に礼儀不法の国と見へて、君臣の分ちは礼儀正しからず。
《種》ほぼ君臣の義を知ると雖ども、いまだ礼貌のその中に在るを知らず、

【大】朝夕の食事をも、大勢一器に入て箸を用意せずして手づから握み食して、
《種》この故に、その飲むや杯飲して杯せず、その食するや手食して箸せず、

【大】我や人やと云ふ。貴賎を撰ぶる事なしと答書する。
《種》徒に嗜欲のその情に愜うを知りて、文字のその理を通ずることを知らざるなり、いわゆる賣胡一処に到れば輙ち止まるという、これその種なり、その有るところをもって、その無きところに易うるのみ、怪むべき者にあらずと。
これにおいて、織部丞また書して曰く、ここを去る十又三里に一津あり、津を赤尾木と名づく、わが由って頼むところの宗子、世々居る所の地なり、津の口に数千戸あり、戸富み家昌えて、南商北買、往還織るがごとし、いま船をここに繋ぐと雖ども、要津の深くして、
かつ漣ざるのまされるにしかざるなりと。これをわが祖父恵時と老父時尭とに告ぐ。時尭すなわち扁艇数十をして、これを拏かせ、二十七日己亥に至りて船を赤尾木の津に入らしむ。期の時に丁って、津に忠首座という者あり、日州龍源の徒なり、法華一乗の妙を聞かんと欲して、
津の口に寓止して、ついに禅を改めて法華の徒となる、号して住乗院という、ほとんど経書に通じて、筆を揮うこと敏捷なり。たまたま五峯に遇いて文字をもって言語を通ず、五峯もまたおもえらく知己の異邦にありと、いわゆる同声相応じ、同気相求むる者なり。

【大】当国の大守大友義鎮公は、府内に在住し給ひ、異国人よりの進物として、種々の重宝美妙の数を尽し捧げ進上する。其中に兵具を三(二)つ指上る。
《種》買胡の長二人あり、一を牟良叔舎といい、一を喜利志多佗孟太という。

【大】誰がとなへ始めしとは知れざれ共、鉄炮と云ひ始めしとて、其長さ二三尺も有りたると也。
《種》手に一物を携う、長きこと二三尺、

【大】中に竹の筒の如くの穴あり。外は直にして其底は厳敷く塞ぎ堅めて、手元の傍に小き穴あり。火の通ずる道あり。
《種》その体たるや、中通じ外直にして、重きをもって質となす、その中は常に通ずと雖ども、その底は密塞を要とす、その傍に一穴あり、火を通ずるの路なり、
500S字型金具:2010/10/08(金) 22:32:52 ID:8QEXGevZ
大友家の「鉄炮伝来記」E

【大】たとへて云ふべき様もなく、妙薬を其筒に少し込みて、円き小玉を後に入て、
《種》形象物の比倫すべきなし。その用たるや、妙薬をその中に入れて、添うるに小団鉛をもってす。

【大】四方の細き的の中に、墨にて星を顕はし、射垜に立置き、自彼鉄炮を手に持ち、火縄に火を付け取添て、其身を直治にして、其仁片目をすがめ、手前の小穴より火を放つ。時に立所に星にあたらすと云ふ事なし。
《種》まず一小白を岸畔に置き、みずから一物を手にして、その身を修め、目を眇にして、その一穴より火を放つときは、すなわちたちどころに中らざるなし。

【大】其発時の甚しき事は、さながら稲妻の光りの如く、騒ぐ事は雷電霹靂の如く山に響き、大地も動く如く覚へたり。見物の貴賎耳に手を覆ひ、岩石も只今崩るゝ如くなり。
《種》その発するや製電の光のごとく、その鳴るや警雷の轟くがごとく、聞くものの耳を掩わざるなし。一小白を置くは、射る者の鵠を侯の中に捿くの比のごとし。この物ひとたび発して、銀山くだけつべく、鉄壁うがつべし。

【大】誠に肝魂を消す如く覚へけれ共、彼鉄炮を翫ぶ異国人は、少も騒ぎたるけしきもなし。鳥獣をも刹那が間に歿命する事眼前也。
《種》姦宄の仇を人の国になす者、これに触るればすなわちたちどころにその魄をうしなう、いはんや麋鹿の苗稼に禍する者においてをや。その世に用あるもの、勝げて数うべからず。時尭これを見てもって希世の珍となす。
はじめはその何という名なるを知らず、またその何の用たることを詳らかにせず。すでにして人なづけて鉄炮となすは、知らず明人の名づくるところか、そもそも知らずわが一嶋の者の名づくるところか。
501S字型金具:2010/10/08(金) 22:34:58 ID:8QEXGevZ
大友家の「鉄炮伝来記」F

【大】希代不思議の重宝の兵具なり。
《種》一日、時尭重訳して二人の蛮種にいって曰く、
われこれを能くせんというにはあらず、願くば学ばんと。蛮種もまた重訳して答えて曰く、君もしこれを学ばんと欲せば、われもまたその蘊奥をつくしてもってこれを告げんと。時尭曰く、蘊奥聞くことをうべけんかと。
蛮種曰く、心を正うすると、目を眇にするにあるのみと。時尭曰く、心を正うするは、先聖の人に教うる所以にして、われのこれを学ぶ所以なり、おおよそ天下の理、事ここに従わざれば、動静云為、おのずから差うなきこと能わず、公のいうところの正心、
あにまた異ることあらんや、目を眇にするは、その明もって遠きをてらすに足らず、これをいかにしてか、その目を眇にするやと。蛮種答えて曰く、それ物ごとに約を守らんことを要す、約を守るは、ひろく見るをもって、いまだ至らずとなす、
目を眇にするは見ることの明らかならざるにあらず、その約を守ってもってこれを遠きに致さんことを欲するなり、君それこれを察せよと。時尭よろこんで曰く、老子のいわゆる見ること小なるを明というと、それこれの謂いかと。
この歳、重九の節、日は辛亥にあり、良辰を涓びとりて、試みに妙薬と小団鉛とをその中に入れ、一小白を百歩の外に置いて、これが火を発てば、すなわちそれほとんど庶幾からんか。時人はじめはすなわち驚き、中ごろはすなわち恐れてこれを畏ぢ、
おわりには翕然としてまたいう、願くば学ばんと。時尭その価の高くして及びがたきことをいわずして、蛮種の二鉄炮を求めて、もって家珍となす。

【大】これによりて、当国の若き侍方伝受して、もてはやしければ、其後は鳴響く音にも恐れ騒がず、何れ達者の上手と沙汰したり。
《種》その妙薬の搗篩・和合の法をば、小臣篠川小四郎をしてこれを学ばしむ。時尭朝に磨き夕に淬め、勤めてやまず、さきのほとんど庶きもの、これにおいて百発百中し、一つとして失うものなし。

【大】扨、南蛮の商人共、商売たやすく仕舞ければ、順風に帆あげて本国へ帰りけり。其後数年指過ぎ、天文二十辛亥の年 (後略)
《種》この時において、紀州根来寺に杉坊某公という者あり、千里を遠しとせずして、わが鉄炮を求めんと欲す(中略)。その後、和泉堺に橘屋又三郎という者あり、商客の徒なり、(中略)。船中にわが僕臣松下五郎三郎という者あり、手に鉄炮を携えて、(後略)。
502人間七七四年:2010/10/09(土) 01:30:16 ID:sgaDBwFZ
>>487
大友家では、ソリを使った。
それでも、平地の多い場所はよかったが、阿蘇から竹田の坂道はきつかったと思う。
それで>>482にあるような>労役が大変だと不平が出たわけだ。


503S字型金具:2010/10/17(日) 03:27:59 ID:wnz501Mp
大友家の「鉄炮伝来記」G

『豊筑乱記(昭和13年発行)』の異本には、歴史図書社が昭和55年に発行した『大友豊筑乱記(岡藩由学館本か?)』があります。
この異本は ttp://www1.bbiq.jp/hukobekki/teppou/teppou.html でも紹介されていますが脱落や誤記が多々あり、管理人さんも解説に苦労されています。
たとえば、本文の「九艘唐船」の単語抜け、永禄と享禄、三寉と三官、義鑑と義鎮など、重大な書き写し間違いがあります。
『豊筑乱記』は大友家初代より天正15年(1587年)の22代大友義統までの当主順に書かれていますが、鉄砲伝来のような事項については年代が交雑しているため、思い込みによる書き写しミスが発生したと思われます。
『豊筑乱記(九艘唐船之事)』は、第21代大友義鎮(宗麟)の顕彰を目的として書かれており、南蛮より大友家への鉄砲伝来事項(伝来年月未記載)と石火矢・国崩伝来事項(天文20年)により成り立っている。
文頭の享禄三庚寅年(1530年)は大友義鎮(宗麟)の生年で、死没は天正15年(1587年)である。
種子嶋氏の『南浦文集(鉄炮記)』の成立は慶長11年(1606年)であるので、『九艘唐船之事』が『鉄炮記』を『パクッた』のであれば、それ以降に書かれた物となる。

『国友鉄砲記』は寛永10年(1633年)に国友の鉄砲代官4名の連署で国友の鉄砲由来を書いたものであるが、作為的な所や矛盾点もあり、成立年代もおかしい。
その本文には、『然此兵器之用法。倭人雖有流伝之願。思不叶所。初文亀元年・永正七年。従南蛮国相続渡是共。委不伝妙法。故其用知者希也。』と気になることが書いてあるが、『鉄炮記』の伝来を天文8年(1539年)として、その文に尾ひれを付けて由来を書いている。
国友の鉄砲代官らは、当時、『鉄炮記』が有名であったために、『九艘唐船之事』・『鉄炮記』どちらを採用しても由来書には影響を与えず、矛盾点を判っていながら、あえて『鉄炮記』を付け加える必然性があったのではなかろうか?
国友の鉄砲代官から見れば、『鉄炮記』の方が種子島時尭の顕彰のために圧倒的に記述が詳細で本当らしく書いてあるので『鉄炮記』を『パクッた』が、なぜか『尾栓ネジ』につては記述が違い気になる所である。

大友家からすれば鉄砲伝来については重大事項では無く、国崩しの命名の方に関心がある。
大友家は長く続き(江戸時代は高家旗本)、大友家の記録事項は数多く残っているので『鉄炮記』を『パクる』必要性は少ないと思われる。
『豊筑乱記(昭和13年発行)』の底本が不明なので、他の記録事項との突合せも必要であるが・・・。
504S字型金具:2010/10/27(水) 01:11:42 ID:WUWjhNpm
大友家の「鉄炮伝来記」H

『豊筑乱記(九艘唐船之事)』または『この地域に流布していた鉄砲伝来の伝承』が『南浦文集(鉄炮記)』に『パクられた』可能性は高い。
両記録で問題となる個所は
@享禄三庚寅年夏の頃・豊後臼杵に着岸 → 天文癸卯八月二十五丁酉・わが西村の小浦に一の大船あり
A三官(儒学の大明人) → 五峯(大明の儒生)
B保首座(禅僧の出家) → 忠首座(禅を改めて法華の徒となる、号して住乗院という)
C異国人 → 買胡の長二人あり、一を牟良叔舎といい、一を喜利志多佗孟太という
D其底は厳敷く塞ぎ堅めて → その底は密塞を要とす
であり、『鉄炮記』より「織部丞」・「時尭」・「蛮種」等の『曰く』個所を削除してみると両記述内容は非常によく似ているので、『パクッた』後に『曰くの個所を付け加えた』と思われても止むを得ない。

『鉄炮記』が「三官」を「五峯」と書かなかったら、国立歴史民俗博物館の「鉄砲伝来倭寇説」は根底から崩れ去り、『抗倭図巻』の疑問も解消する。 >>425 >>441
『鉄炮記』が「保首座」を「忠首座(住乗院)」と書かなかったら、井沢元彦さんの「織田信長の本能寺煙硝ルート」は無い。 >>451
『九艘唐船之事』の異国人は、「ポルトガル人」の可能性が高いが、「南蛮国からの鉄砲伝来年月」の特定ができない。
Dは鉄砲の尾栓ねじが絶対必要条件でないことを記している。 >>458

「世界銃砲史(上)」で岩堂憲人さんは、P128で次のように書いている。
『日本側にはこれ以上の史料は見当らないし,また事件後60年余といえば,さして長期でもない。
当時としても鉄砲の伝来というのは大事件だったろうから、文之が鉄砲記を編纂するに当っては、「種子島家譜」以外にも、今日では散逸している確実な史料を駆使したことが考えられる。
それゆえに、「鉄砲記」を日本側のもっとも確とした史料として扱うのに不都合はないものとしてよいだろう。』

しかし、『鉄炮記』の『即遣津田監物丞持以贈其一於杉坊矣』の記述は明らかにおかしい。
『鉄炮記』の『この時において、紀州根来寺に杉坊某公という者あり、千里を遠しとせずして、わが鉄炮を求めんと欲す(中略)。その後、和泉堺に橘屋又三郎という者あり、商客の徒なり、(中略)。船中にわが僕臣松下五郎三郎という者あり、手に鉄炮を携えて、(後略)。』
これらも『パクッた』記述ではなかろうか。

私は、「火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した」とする考え方なので、日本の銃砲史・技術史をいい加減な物にしたくない。
505人間七七四年:2010/10/28(木) 02:17:38 ID:iV0wB1K+
レス番号が盛大に飛ぶなあw
まだ繰り返してんのかキチガイ
506人間七七四年:2010/10/30(土) 23:25:48 ID:qIp+U5pi
もうこのスレこいつにやって新スレ立てた方がよくね?
507人間七七四年:2010/11/03(水) 00:45:33 ID:/MYolesd
火縄銃だけのスレにする?
それとも大砲スレも落ちちゃったし、大砲や焙烙玉、棒火矢なども含めた火器総合スレにする?
508人間七七四年:2010/11/03(水) 14:52:18 ID:ApeJkgSy
当時は火器の区分も曖昧みたいだし
全部一緒でいいべ
509S字型金具:2010/11/10(水) 00:48:42 ID:KojOOsib
徳永家の「鉄炮伝来記」@

徳永氏は、種子島家初代信基の種子島入部に同行して以来の家臣としている。
その徳永氏の家系図、「徳永祐家」の欄に鉄砲伝来の記述がある。『』内はその読み下し文である。

祐家、大八。大永元年辛巳生母氏不詳。為側用人。天文十二年癸卯八月二十六日。南蛮船来于西之村海浜。適祐家展祖先廟在于西之村。
『祐家、大八。大永元年辛巳生まれ。母、氏不詳。側用人と為る。天文十二年癸卯八月二十六日、南蛮船西之村海浜にゆく。たまたま祐家、祖先の廟を展みて西之村に在り。』

祐家与地頭西村織部丞及村松七郎朝光欲乗南蛮船。々中有声。其響如雷。衆驚愕。
『祐家と地頭西村織部丞及び村松七郎朝光、南蛮船に乗らんと欲す。船中より声有り。其の響は雷の如く、衆驚愕す。』

即贈書曰。何故到此地乎。欲以兵仇我乎。然則吾亦当待以兵也。報書曰。我輩通商也。欲航某国洋中遇颱遂漂着于貴地。非敢仇也。
『即ち書を贈りて曰く。何故に此の地に到るや、兵を以て我を仇せんと欲するか。然れば則ち吾亦当に兵を以て待つべき也と。書を報じて曰く、我輩は商に通う也。某国に航せんと欲し、洋中颱に遇い貴地に漂着を遂ぐ。敢えて仇するに非らざる也。』

即贈鉄砲三挺以示信。三人大喜持到城府献時尭公。公愛賞之。吾国鉄砲之権輿也。
『即ち鉄砲三挺を贈り以て信を示す。三人、大いに喜び、城府に持ち到り時尭公に献ず。公之を愛賞す。吾国鉄砲の権輿也』

「鉄炮記」は主君の種子島時尭を顕彰する目的で書かれた文書である。
「徳永氏系図」の成立時期は不明であるが、その当時の種子島氏の家臣である「徳永祐家」の欄は、明らかに「鉄炮記」と異なった鉄砲伝来記述となっており、「贈鉄砲三挺・献時尭公」となっている。
このような由緒書きが、種子島家中で黙認されていたものであろうか。
それも、家臣の西村、村松をも含めて書く必要性があったものだろうか。
そもそも「鉄炮記」に、出典として「我嘗聞之於故老曰」とか「鶴髪之翁。猶有明記之者矣」と明記して書くことは、記録が無い(検証ができない)ことを意味しているのではなかろうか。
この家系図の記載から南蛮船にはポルトガル人の乗船が確認できず、また、国立歴史民俗博物館の「鉄砲伝来倭寇説」の根拠となる「五峰」の記載も無い。
510人間七七四年:2010/11/10(水) 04:51:03 ID:fqO7/fWX
>>508
立てたよ〜

☆☆☆火縄銃・大砲について語ろう☆☆☆
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1289332220/
511S字型金具:2010/11/18(木) 21:37:14 ID:iZ/VFald
徳永家の「鉄炮伝来記」A

南蛮船から鉄砲三挺を貰った、あと二人の家系図を見ると、

村松七郎朝光の系図は
『村松家系図』朝光
天文十二年癸卯八月二十五日南蛮船之至也、朝光適在西之村、乃就誥其来到之由、蛮人以非敢為冦者、答且請献鳥銃、朝光喜急馳使報之島主時尭公、公受而試之、其用甚利、於是大賞朝光処分称♂]、
『村松家文書』治承前家改俗相伝記
(前略)七郎朝光、文禄四年卒ス、法名太源院良遠ト号、此七郎ハ文武二道ニ達、知謀有ル人、時ニ天文十二年癸卯八月廿五日南蛮人ノ船西ノ村之濱来著ス、其時七郎西ノ村ニ有合南蛮人ニ逢度ト思イ、彼ノ船ニ趣キシ処ニ、鉄炮ヲ打懸ケ其音雷ノ如ク、
七郎大キニ驚一通書南蛮人ニ被遣、其ノ文ニ曰其方風不順吹流此地ニ漂著有哉ト、存処武具ヲ用兵船ト相見エ謀叛人之於輩ニ者、是非此方モ軍勢ヲ催集一戦ヲ可致返答如何、承度候謹言、
南蛮人エ城ノ七郎朝光ト書送リ、南蛮人返答ニ曰、我等謀叛人不有(アラス)、商売之望売物積風天ニ有テ出帆ス、天俄ニ逆風吹来遠海長洋中流不順甚成テ当地漂著喜悦候、無謀叛之証拠、
鉄炮ヲ国主エ奉謹上降人ニ参候ト返事仕テ、鉄炮ノカラクリヲ馳テ持来リ、七郎ハ大キニ?ヒ急キ城下ニ致通達、諸士頭衆被差越、鉄炮御受納有テ御家御宝物ト成、角テ種子嶋鍛治鉄炮作事伝受仕テ、日本之鉄炮ノ初リ者種子嶋ト云伝エ珎敷事共也、(中略)
慶長三年戌四月五日  平 時信花押

地頭西村織部丞の系図は
時貫、織部丞。
○天文十二年癸卯三月廿三日奉従直時君内城有軍功
○同八月日廿三日西村浦着岸一大船、船客其形而異言不通、見者怪之、時貫以杖書沙上云、不知何国人乎、客即書云、是西南蛮種之賈胡也、勿怪矣、時貫速遣人告恵時君(御居城赤尾木西村行程十三里)
乃僉津々浦々遣扁舟拏之、入赤尾木津而滞在於此逾月、是船客之内有手携一物者、名鉄砲、時尭君其体無比物問其用道、客答云、用於世者可勝、故○公?学之、我亦声薀奥以告焉、時尭君欣然聞其薀奥矣、時貫亦放之、是我朝鉄砲之権輿攷、

『種子島家譜』の明治11年(1878)2月15日の記事に、
○西村時彦、鉄胞一挺を献ず、初め天文十二年、南蛮人鳥銃を法性公に献ずる也、時彦の遠祖西村織部正(丞)も亦一挺を獲たり、去歳の戦いに公室の蔵する所は兵火のために焼かれる。時彦之を聞き、乃ち己が家に蔵する所を献ず。

三人とも、主君の種子島時尭を顕彰する目的で書かれた「鉄炮記」と内容が異なる。
このような由緒書きが、種子島家中で黙認されていたものであろうか。
また、種子島家中では鉄砲を『種子島』ではなく、『鳥銃』と呼んでいた。
512人間七七四年:2010/11/25(木) 15:19:31 ID:jW4xaQYN
新スレ落ちたな・・・
513人間七七四年:2010/11/25(木) 17:52:21 ID:h67I64k2
意外と簡単に落ちるもんなんだな
保守しておけばよかった
514S字型金具:2010/11/26(金) 00:38:03 ID:9MATwgcj
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考える@

日本に火縄銃が伝来したとすると、『その銃が何処で製作されたものか』が気になる。
初伝銃の製作地については、ヨーロッパ・ポルトガル・インド・ゴア・東南アジア・マラッカなど色々と言われて来た。
近年紹介されたマラッカ説でも、その内容は以下の記述のように甚だ曖昧で根拠に乏しい。
『ここにおいて天文十二年に種子島に伝来した銃は「種子島記」ならびに定堅作の模製銃によってその形態を知ることができ、またその製作地は、ヨーロッパでもトルコでもなく、
ポルトガルのアジア基地のいずれかであって、多くの資料によって論ぜられた伝来時のいきさつから考えればマラッカがそれであるとするのが至当であろうと思われる(火縄銃・所荘吉)』
また、その後の伝来・渡来についても曖昧で、鉄砲史・技術史として不完全である。
倭寇説(真説鉄砲伝来)では「西日本一帯の広い地域に南蛮筒が続々と渡来した」としているが、その説の根拠については理解しがたい。(戦国期の火縄銃についての疑問C >>327 以下のシリーズ)
国立歴史民族博物館でも、東南アジアの何処か(特定していない)で火縄銃の進歩・発達・改良があり、そこで製作され渡来した火縄銃が南蛮筒であり、その南蛮筒を真似して日本で製作したものが異風筒としている。
したがって倭寇説では、江戸初期までは日本に南蛮筒・異風筒以外の火縄銃が存在しないことにしているが、なぜかそれ以外の多量の鉄砲の存在をも認める記述をしていて矛盾している。  >>340

今までの製作地の推定では、東南アジア地域に極少数残存している火縄銃で比較検討をしているが、その記録も無く、呼称も判らなく、年代も判らない銃、19世紀の火縄銃で論じられている。
東南アジア地域を含めて、慶長年間以前の火縄銃の残存は極めて少なく、日本最古の火縄銃とされている『喜蔵とりつき銃』でも天正11年(1583年)ということで、鉄砲伝来とされた40年後の火縄銃であり、新城市宗堅寺の『信玄砲』は説明の付かない銃身である。
現物資料が出てくる江戸初期になると、日本の火縄銃の優秀性が理解されるが、それまでの間は不明なことが多く、火縄銃の進歩・発達・改良はどうであったろうか?
戦場・城郭の発掘調査で火縄銃の部品・弾丸が出土している現実がある。この部品類をも考慮に入れて伝来論を考察しなければならないと思う。
515S字型金具:2010/12/03(金) 00:04:52 ID:xQelSgTZ
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるA

江戸時代前期まで、日本が武器輸出国であったことはあまり知られていない。
私は「火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した」と見ているので、いずれの製作推定地説も承服しがたく、日本から輸出した火縄銃をも考慮に入れて、伝来論を考察しなければならないと思う。

江戸幕府の鎖国体制が完成したのは1641年(寛永18年)であるが、それまでに幕府は2回も武器輸出禁止令を出しており、その当時の武器装備状況などから、日本が火縄銃を含む武器輸出国であったとみなしても良いだろう。

@元和7年7月27日(1621年)『幕府、豊前小倉城主細川忠利・肥前平戸城主松浦隆信・同大村城主大村純信等に令して、外国人の、邦人を買取、渡航せしめ、又武器を購入、搬出し、更に洋中に於て、賊をなすを制止せしむ、』
A寛永11年5月29日(1634年)『幕府、薩摩鹿児島城主島津家久・肥前大村城主大村純信・同国福江邑主五島盛利等をして、耶蘇会宣教師の上陸・邦人の渡航及び外人への武器販売を禁ぜしむ、』

2回も武器輸出禁止令が出されたことは、海外に日本の武器が大量に輸出されていたことと、なぜ武器輸出を禁止するのかも理解しなければならない。
東南アジア各地や各国の東インド会社商館において傭兵として多くの日本人が海外で雇われ、「邦人買取」項目は「日本人の傭兵」をも意味し、当時の「日本人傭兵」は戦国時代も終わり、火縄銃をも持つ戦争慣れした戦闘集団である。
大坂の役(慶長19年〜慶長20年・1615年)で天下統一となってから多くの浪人が発生し、彼らが傭兵となって海外で活躍した。ピーター・ウォーレン・シンガーによると、イギリス東インド会社の例では、傭兵の半数は日本人であったとしている。

鎖国について、次のような見方もある。
『単純にキリスト教流入の阻止だけが目的ではなく、貿易の覇権を求めた闘争の禁止と日本への波及の阻止、
そして日本から海外に武器と武人が輸出されることで、海外における武力紛争に日本人が巻き込まれ、それが日本に波及することで、貿易が阻害されたりすることを恐れてのものでもあったのだ。』
 http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/3-15.htm
516人間七七四年:2010/12/04(土) 19:51:13 ID:a9JXCk93
実射実験のDVD付き
けっこう迫力あった……が、音はよく空砲でやってる時代祭のほうが
すごいような。火薬の量の違いか?

http://www.yosensha.co.jp/book/b75914.html
517S字型金具:2010/12/05(日) 00:42:31 ID:qKzVk9TI
>>516
『歴史REAL vol.1、中身を少しだけご紹介!』を見た感じでは、戦国合戦を科学するといいながら、いい加減なことが書かれている。
「検証2」の三段一斉射撃の可能性の検証は、『戦国時代においては、一発目を発射したあと、次の玉込めを早めるために、火薬と弾丸を一セットにした小道具である早合が使用された。本誌でも同様の手続きで試みる。』という前提で実弾の反復射撃実験を行っている。

なぜ『戦国時代に早合が使用された』と断定して、鉛弾でのみ実験を行っている根拠が判らない。
所荘吉著・火縄銃に次の様に書かれている。
『このようにして作られた火薬も、銃腔内に充填された状態、すなわち棚杖によって圧された度合等、名人芸ともいうべき修練や見逃す事のできぬ空気中の湿度等の諸条件が完全に満足されたとき、始めて発射薬としての力を十二分に発揮する事ができるのである。
しかし吸湿性の塩類を含有した黒色火薬に対し、常に最高の状態を求めるのは不可能である。この事は初期の砲術家による経験によっても知られ、春夏秋冬の四季の変化による配合率の相違や朝夕、天候による装薬量の増減等によって補われるようになっている。』

火縄銃用の黒色火薬に吸湿性があることは周知のとおりであり、戦国時代でも条件により配合比率を変えており、あらかじめ誰が火薬と弾を装填して早合を準備したのであろうか。
戦国時代では、早合で発射の最高の状態を維持することは困難であり、早合は江戸時代の非実戦用の物ではなかろうか。

実験は現代の黒色火薬で行っているが、当時の黒色火薬の燃えかす量はどの位であったろうか。 >>308   >>309   >>310
要するに、連発は何発まで可能であって、その結果によって三段一斉射撃の可能性を考える必要がある。江戸時代の文献では『鉄砲玉五つ六つ放せば火薬筒の中に焼け付きて玉込澁りて玉入り難し』と書いてある。

90ページの『戦国合戦・戦国の城を往く』で史跡八王子城を紹介しているが、この城は天正18年(1590年)6月23日にわずか半日で落城してしまった山城で、この城跡から鉛製の銃弾は1点も出土していない。
出土した銃弾は銅製が34点、鉄製が453点であり、素焼の土玉(私は銃弾と見た?)も検出個体として163点出土している。
このことは、戦国時代の火縄銃の弾は鉛とは限らないことを証明している。
また、この本、114ページ『鉄砲玉の原産地はタイのソントー鉱山だった』は早合点であり、鉄砲の弾丸がタイの鉱山の鉛でなくてもよいことを証明している。

本文は読んでいないが、その他、火縄の種類、火縄銃など、戦国時代の実験再現方法の前提に問題がある。
518人間七七四年:2010/12/05(日) 09:53:13 ID:LiHwvEN5
これは久しぶりにいいレス
519人間七七四年:2010/12/06(月) 08:43:14 ID:miT6Uh07
>本文は読んでいないが

ワロタ、つーか椅子から滑り落ちかけたぞ
520S字型金具:2010/12/06(月) 22:07:39 ID:mxBABFqa
>>517 は以下の抜粋した部分が公開されているので、其処だけを指摘した。
>『歴史REAL vol.1、中身を少しだけご紹介!』 http://stand.honzuki.jp/9784862486394/_SWF_Window.html

>>516 「歴史REAL vol.1、特集、戦国合戦を科学する」は本体838円+税で、永久保存版という触れ込みである。
抜粋個所以外の本文もいい加減なことが書いてあったので、追加の指摘をする。

特別付録DVDのタイトルは「戦国鉄砲・実弾発射」となっているが、死闘を演じる戦国時代の再現とするには迫力もなくて程遠く、噛まし布(パッチ)や鉄のカルカなど時代錯誤のある実弾発射であったが、それなりに興味ある映像もあった。
発射映像では、火鋏から火の付いた火縄が外れたのは1回であったが、火鋏の形状、火縄の種類・長さにより外れる(飛ばされる)ことはよく生じるのか?
フロイスは「われわれの間では兵士たちは左腕に火縄を持ち運ぶ。日本人は右手に持ち運ぶ」「われわれの火縄は紡糸でできている。彼らのは紙または竹の皮でできている」と書いている。
戦国時代の火縄銃の再現には、紡糸でない(縄ではない?)当時の日本式の火縄で着火させ、火縄の火は消えるか、材質、長さによりどのくらい飛ぶのか、火持ちなど興味が尽きない。
火縄の状態によって、連射時間間隔に差がでると思うが?
映像より、発射時に火花が広がって出てくるのは解ったが、風が吹いている時には非常に危険な状態に陥ることも解った。
実験での火縄銃の口径と装薬量ははっきり判らなかったが、16世紀、西洋・倭寇の鳥銃(火縄銃)は、8分の鉛弾(直径8ミリ、3g)を1匁(3.8g)の黒色火薬で飛ばしたようで、戦国時代の日本の火縄銃は如何であったろうか。 >>308
本誌では「思っている以上に鉄砲の総合評価は低い」とし、
「したがって鉄砲の登場は、従来の弓矢が鉄砲に置き換えられたというにすぎない(しかも全部ではない)。武器としての総合評価は、前述の革新性を含めて考えても小さくならざるをえないのである」と書いているが、はたしてそうであろうか?
戦国末期の鉄砲装備率は高く、確かに黒色火薬は湿度に弱いが、打たれる側から見ると音速で飛んで恐怖を覚える武器であり( >>320 )、防御用としては最適な武器であると思うのだが?

P114、「鉄砲玉の原産地はタイのソントー鉱山だった!」は、戦国時代末期から江戸時代初期の約50〜60年ほどの時期のことで、鉄砲伝来当時のことではなく、非常に紛らわしいタイトルである。
当時は塩硝(硝石)もタイ国から輸入しており、天下統一後には塩硝(硝石)が余り、逆に東南アジアに輸出している。
521S字型金具:2010/12/10(金) 20:53:12 ID:tEglVc5O
>>516  歴史REAL vol.1、第一部 戦国のリアルを科学する!鉄砲・弓の真の威力、「検証5 戦国合戦の主力武器・弓矢の飛距離、速度、その構造を明らかにする」となっている。

しかし、この本では威力実験を行わずに道具の紹介で終わっており、科学的な検証になっていない。
このような書籍は根拠が曖昧で、戦国時代の「弓矢」にあった鍛錬・訓練は当然必要であり、「戦国時代の弓は現代人にはとても引けないと思います」と書いて記述全体を誤魔化している。
385.4メートルと長い飛距離を書いているが、これは18gの特製の軽い矢を使ったもので戦国時代の矢とはまったく異なるものであり、少なくとも戦国時代の矢を再現した上で、風向、風力、湿度などの影響を調べ、武器としての弓を明らかにすることが必要ではなかろうか。
「弓」の記述は、『019ページの「結局のところ鉄砲は、弓より総合力はやや低い」の拠り所のために書いた』と勘繰られる内容である。

036ページに、鈴木眞哉氏が「軍忠状」を集計した負傷要因と比率を紹介しており、171年間の史料142点(0.8点/年)、負傷者1567人(9.2人/年)と年間例数が少ない史料からであるが、『石・礫疵が12.4%』と書かれている。
この集計について、『戦国時代を勝ち抜いた者の家に残る記録』、『初戦の制圧戦で負傷して戦列を退いた原因の統計に過ぎない』など、『軍忠状に現れた結果は著しく偏向したものだ』と批判する人もいる。
また、「注進状」ともなると、負傷者15人全員が「石疵」となって書かれた物もあり、戦国時代の様相を調べる手法としての「軍忠状」は、注意を要する。
「石・礫疵」の負傷比率は高く、山城攻撃の際には投石・落石などによる負傷は多かったと思われるが、平地での戦いには笠などの防具を着用しているので、軍忠状に現れるような「石・礫疵」は少ないと思われる。

そこで、日本各地での「土弾・素焼弾」の出土品や、「石銃」「団子銃」「手火矢」など「鉄砲」以外の記述もあり、「軍忠状」の「石・礫疵」にこの火器(鉄砲?)による負傷も考えられるのではないだろか?
自分が火器を持っていない、其の名を知らなかった場合は、負傷要因に「石・礫疵」と書いた物もあったのではないだろうか?
また、「伝来当時の鉄砲は高価であった」と曖昧な根拠で汗牛充棟のごとく書かれているが、猟師の軍用以外の記録(永禄3年)があり、なぜ猟師が弓矢の他に鉄砲を所持できたかも考える必要がある。
522人間七七四年:2010/12/10(金) 21:04:36 ID:HloUx1ZN
>>521
>「戦国時代の弓は現代人にはとても引けないと思います」

これ近藤好和の言葉だろ?
なぜか2chではあの人の信者結構多いけど
基本的にこの人の書いてるものメチャクチャだよねw
「命懸けの戦いのために修練を積んでいた武士ならできたはずだ!」とかそんな記述ばっかり。
「弓矢と刀剣」も「騎兵と歩兵の中世史」ももちろんのこと、
「人類にとって戦争とは」や、民俗博物館の近藤担当スペースも全部そう。
彼にとっての「武士」ってドラゴンボールや北斗の拳のキャラと変わらないスーパーマンだしな。

それから、近藤批判を無理に鈴木批判につなげるなよw
この二人全く別物だから。
523人間七七四年:2010/12/12(日) 13:59:32 ID:BOruVDhl
というよりな、S字金具さん。
皆が迷惑だといっているのに、平然と居座ってシリーズものの連レスを続けるのは良くないよ。
もともとそういうスレじゃないし、
住人が困って避難スレまで立てるに及んでいるんだよ。

もし俺であれば、困らせたことは謝り、専用スレを立てるか自分のHPを作ってそこで自説を披露するよ。
524人間七七四年:2010/12/12(日) 18:04:14 ID:rrpuB5Pt
>>523

禿同だ。私物化すんなs痔
525人間七七四年:2010/12/12(日) 21:20:59 ID:ZjJ2J/np
俺はもう諦めたがな。

キ印になに言っても無駄
スルーするしかないんだよ
526人間七七四年:2010/12/13(月) 03:19:13 ID:qBpmnI+c
と言って立てた別スレ速攻で落ちたやんw
527人間七七四年:2010/12/13(月) 06:56:56 ID:Z91s89rY
>>526
そりゃもともとレスの多い話題じゃないからね。
こんなことが起きているんだし、S字金具氏も何かレスポンス返していいんじゃないの?
最初は問題なかったけど。長文連載はじめてから妙になっていったなあ。
528人間七七四年:2010/12/13(月) 13:52:31 ID:2vGCaAzy
黙らぬならころ…NGにしよう、S字金具

織田信長
529人間七七四年:2010/12/13(月) 17:11:03 ID:gxD+74Og
とりあえず、何故ブログじゃなくてここで書かなきゃいけないのか、理由が知りたい所。
530人間七七四年:2010/12/13(月) 19:26:27 ID:HlHDq8Dp
集客がめんどいんじゃないのw
2chなら過疎板でもそれなりに人いるからね
531S字型金具:2010/12/17(金) 00:41:35 ID:MSwNZJpc
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるB

その他、日本から鉄砲を輸出した記事がある。

メンデス・ピント著「東洋遍歴記・岡村多希子訳」で日本人の気質について、『この国民がどんな人たちか、生来どんなに武事を好んでいるかがわかるであろう。彼らは、既知の他のいずれの国民よりもそれに楽しみを見出しているのである』と書いている。
( 我が国固有の文化への鋭い指摘であり、それは現代にも通じている。 http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/jyujitsu/1221013.htm )

そして、その気質を紹介する意味で、
『(前略)1556年(弘治2年)に、日本人が断言したところによれば、この王国の首府である府中の町には三万挺以上の鉄砲があった。そして、この物がそんなにひどく殖えるなどということはあり得ないように思われたので、私がこれにたいそう驚いたところ、
信頼し得る立派な人である数人の商人が言い、また多くの言葉をもって断言したことには、日本全島で三十万挺以上の鉄砲があり、彼らだけでも、六度にわたって二万五千挺の鉄砲を交易品として琉球人のもとに持って行ったということである(後略)』と書いている。
この中で、「日本に大量の鉄砲の存在」「琉球を介して火縄銃を輸出」など無視できない記述がある。 >>452
メンデス・ピントの「東洋遍歴記」には記載内容に問題点のある記述もあるが、全部が全部嘘とは言えない所があり、最近再検討されるようになって来ている。

原本未確認ではあるが、的場節子著「ジパングと日本」に以下の記述がある。
『一五八九年五月二十日付けで、マニラ総督府審議会が作成した武装蜂起首謀者による供述書には、一五八八年十月二十日の蜂起発覚数日前に、イスラム系原住民首領が、ボルネオ王に火縄銃などの日本の武器を送り届けたとある。
この事実は、前年に続く日本船による武器輸送を意味するもので、ルソン金と日本製武器との交易が生き続けていたことを示す。
ところがついに、吉近と原住民ドン・アグスティンとの間の密約発覚をきっかけとして、ゴーレス交易以来の原住民に対する日本の武器輸出は終焉へと向かう。そして、その後の刀剣搭載船の取引相手は、マニラ総督府に取って代わるのであった。』

この武装蜂起失敗の一因は日本人にあったようで、日本人は航海が不慣れのため(倭寇征伐により航海する機会が減ったため)バックアップ要員が送れず、結果として未遂になったようである。
532人間七七四年:2010/12/17(金) 20:05:14 ID:53QhON30
まあキチガイに何言っても無駄ってことだよね
533人間七七四年:2010/12/17(金) 20:15:13 ID:AlcsiFux
ブログにでも書いてろ キチガイS字型金具
534人間七七四年:2010/12/18(土) 02:36:40 ID:kAcqvuCu
鉄砲組って一斉射してたのか個別射撃してたのか。

音が半端ないからやっぱ一斉射かな。
足軽投入時に射撃中止の命令聞こえなかったらまずいし。
535人間七七四年:2010/12/18(土) 20:34:51 ID:MGce7drF
まあ「鉄砲組」が組織されたのは戦国末期だからな。
その頃には少なくとも最初の2,3発は斉射してたんじゃね?
その後は足軽の再装填技量に大きく左右されて個別射撃だろうけどね。
536人間七七四年:2010/12/19(日) 04:56:16 ID:7Bbd7dzs
その後は、って…2〜3発も撃ったら普通、敵がすぐ目の前まで来てるんじゃね?
その前に撃ち方止め→長柄などの白兵戦力を前に出して迎撃、だと思うぞ。
実際信長は長篠でそうしてる。
柵なんかの防御陣地があっても鉄砲組だけで敵の突撃を抑えきれるわけがないし、
白兵戦力を投入すれば同士討ちの危険があるので鉄砲は撃てない。
>>534の言うように指揮統制の問題からも個別射撃はないと思うよ。
537人間七七四年:2010/12/19(日) 06:37:04 ID:dWAXYZhi
>>536
日本の伝統的な合戦手順は
1.射撃武器による攻撃
2.射撃によって敵の陣形が崩れたら、白兵攻撃
の手順。
射撃は、歩兵の攻撃の準備攻撃でもある。
相手が崩れてないのに、長柄の投入は損害が大きすぎる。
だから
>…2〜3発も撃ったら普通、敵がすぐ目の前まで来てるんじゃね?
は、かなり特殊な状況といえる。
鉄砲隊の攻撃力が低すぎて、長柄の衝撃力を押さえ込めなかったって事だし
長篠ではそんな感じだったんだろう。

実際、日本の鉄砲隊の訓練は個人技の狙撃が多い。狙撃による被害も多い。
一斉射撃による弾幕をはっても、日本の隊列は密集陣じゃないんであまり効果がないんだ。
538人間七七四年:2010/12/19(日) 07:31:29 ID:7Bbd7dzs
>>537
一斉射撃がただの弾幕とは限らんのでは?
狙撃重視での一斉射撃もありうるわけで…。

つか突撃してくる敵を、有効射程距離…
すなわちたかだか100〜200m程度の距離内で崩すことなんてできるかなあ?
相当な連射速度と鉄砲の数が必要だと思うけど。

まあ仮に崩すことができたとしても、各自好きなタイミングでバラバラに狙撃してたんじゃ、
ひっきりなしに続く轟音にかき消されて射撃中止の合図に気付くのが遅れる危険性がないか?
そうすれば同士討ちの危険から迂闊に白兵戦力を前に出すことはできず、
追撃の機会を失うと思うんだが。

>射撃は、歩兵の攻撃の準備攻撃でもある。
だったら敵の何割か何分かを削るだけでも十分な効果があると思う。
その分、味方歩兵が有利に戦えるんだし。
539人間七七四年:2010/12/19(日) 07:43:52 ID:r/Rsa8lz
>>537の言う通りだな〜

付け加えていうと、天正三年の長篠の段階で鉄砲衆や長柄組がどれほど組織化されていたかはよく分からない。
軍役で集められたのと同じ戦闘単位で、騎乗の侍が長柄や鉄砲を従えてめいめい戦っていた可能性も大いにある。
25年後の関ヶ原、40年後の大坂の陣ではかなりの程度、鑓や鉄砲を集めての組織化が行われてたようだけどね。

まあ、俗説では織田軍は組織化されてたように言われてるが、何の根拠もないんだよね。
織田の軍役の実態がほとんど何も分かってないし。
鉄砲の装備率が高かったのかどうかも分からん。
540人間七七四年:2010/12/19(日) 11:00:47 ID:dWAXYZhi
>一斉射撃がただの弾幕とは限らんのでは?
>狙撃重視での一斉射撃もありうるわけで…。
Boy、それは集団による各個射撃であって、一斉射撃ではない。
そして、こちらは狙撃を否定していない。ok?

>つか突撃してくる敵を、有効射程距離…
>すなわちたかだか100〜200m程度の距離内で崩すことなんてできるかなあ?
>相当な連射速度と鉄砲の数が必要だと思うけど。
鉄砲以前は弓でやっていた。弓で崩れるものが鉄砲では無理という事はない。
陣が崩れず、矢も尽きると、後日に仕切りなおす例も存在する。
あと、崩れる主原因は物理的ダメージではなく、心理的ダメージによる。

>まあ仮に崩すことができたとしても、各自好きなタイミングでバラバラに狙撃してたんじゃ、
>ひっきりなしに続く轟音にかき消されて射撃中止の合図に気付くのが遅れる危険性がないか?
10人未満の番ごとに小頭が付き、数番からなる組を組頭が指揮する。
指揮系統に問題が発生する事はない。そもそも鉄砲や弓は技能職であり、常雇いが普通で訓練が行き届いている。
そんなドジは踏まない。

>だったら敵の何割か何分かを削るだけでも十分な効果があると思う。
戦争では何人殺したかではなく、いかに士気をくじいたかが重要。
損害が軽微でも士気崩壊した敵に攻撃を加えれば大損害を与えられる。
損害が重度でも士気が維持されている敵に攻撃を仕掛ければ、負ける可能性がある。
541人間七七四年:2010/12/20(月) 00:28:25 ID:B/aJj5uQ
>>539
同時代の北条は兵科ごとの編成だったみたいだよ。

> 244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/28(日) 03:33:28 ID:Q06NYw8U
>>243
> 1577年に北条氏直が岩付衆にあてた御朱印状だね。歴史群像アーカイブにも載ってたな。

> このとき宮城四郎兵衛個人に届いた着到状では、
> 騎馬8騎(含本人)、槍17人、歩者4人、旗持4人、鉄砲2人、弓1人連れて来い、と動員が割り当てられてるんだが、
> 備を編成する段階では、武田氏と同様に一旦バラバラに解体され
> 槍600、騎馬500、歩者250、小旗120、鉄砲50、弓40、と兵科ごとに奉行が割り当てられ編成されてる。
542人間七七四年:2010/12/20(月) 00:31:31 ID:B/aJj5uQ
>>537
長柄組は互いの肩が触れるくらいの間隔で横隊を組んでたよ。
543人間七七四年:2010/12/20(月) 02:02:51 ID:8QIMUW8i
>長柄組は互いの肩が触れるくらいの間隔で横隊を組んでたよ。
申し訳ないがソースを
時と場合に応じて密度を変化させるのが基本だが、こんなに密集しては満足に動く事が出来ない。
20人ほどの横隊を戦闘機動させることを考えてみるといい。
同時代の密集方陣のテルシオでさえそんなに密集しない。

まぁ、普通に整列となるとそんな形になるが、実戦でのソースが欲しいな。
544人間七七四年:2010/12/20(月) 02:49:59 ID:8QIMUW8i
> 槍600、騎馬500、歩者250、小旗120、鉄砲50、弓40、と兵科ごとに奉行が割り当てられ編成されてる。

こいつの具体的な編成も知りたい。
武田は寄親・寄子制がベースで、これに足軽を組み合わせて備を編成した。
足軽は地縁血縁による上下関係から外れた大名直属の兵だったんだ。
これによって旧来の寄親・寄子制の特徴を残しつつ兵種ごとの編成が可能になった。
545人間七七四年:2010/12/20(月) 06:05:22 ID:RBboo+6w
横槍でスマンが、オレはむしろ
>武田は寄親・寄子制がベースで、これに足軽を組み合わせて備を編成した。
>足軽は地縁血縁による上下関係から外れた大名直属の兵だったんだ。
>これによって旧来の寄親・寄子制の特徴を残しつつ兵種ごとの編成が可能になった。
こっちのソースの方が知りたいぞ。

長柄組に関しては「肩が触れるくらいに」かどうかはさておき、
ある程度密集しないと長柄の持ち味が活かせないだろうとは思う。
散開して行動するなら長い槍は簡単に懐にもぐりこまれて意味ないだろうし、
振り回したら味方に当たったりもするだろうしなあ。
546人間七七四年:2010/12/20(月) 10:15:16 ID:8QIMUW8i
>>545
おおすまん。こちらのページがよく調べてある。
ttp://kagiya.rakurakuhp.net/i_684871.htm

>ある程度密集しないと長柄の持ち味が活かせないだろうとは思う。
答えはこれ。
>時と場合に応じて密度を変化させるのが基本だが、

 槍兵の展開は相手の隊列に合わせて展開するのが、古今東西の槍兵の基本なんだ。
相手より密集していれば攻撃力は上がるが、横から回りこまれる。
 逆に相手より広がっていると攻撃力が下がるので、突破されやすくなる。
相手と自分の兵力、展開している地形、各種状況によって密度を調整するものなんだ。
 で、世界的に見ると日本の槍兵の横陣は密度か低い類なんだな。
日本の地形は開けたところでも樹木が多く、密集していると移動時に陣が乱れてしまう所に起因していると思う。
 これは西洋でも同様で、指揮官はその場の状況に応じて、密度を決めている。
547人間七七四年:2010/12/20(月) 13:37:04 ID:B/aJj5uQ
>>546
日本の場合は備の二列目より後ろに、横を向いた長柄や徒士の縦列が配置されることが多いように思う。
548人間七七四年:2010/12/20(月) 14:01:02 ID:B/aJj5uQ
>>546
>>541はこのスレからの引用なので、ここから聞いてみて・・・
戦国時代における騎馬武者の実像とは
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1245948808/

暗黒期を除く西洋に関して言えば、数kmに渡って隙間を空けないよう戦列を展開するから、
戦列の両端の大隊以外は、横の防御をあまり心配しなくていいようにしてるね。
それでもマケドニアファランクスでは横や後方防御用に予備大隊を用意しているな。

もしくはテルシオのように四方から攻撃されてもいいように方陣化するか。
ただこれは側・後面に余計な戦力を割くため、正面戦力が低下する。
549人間七七四年:2010/12/20(月) 16:06:09 ID:RBboo+6w
>>546
読んだけど、想像の域を出ない部分が多いね。
既定事実として語られても困る。
550人間七七四年:2010/12/20(月) 19:03:41 ID:/+NExu49
横スレだが、長柄槍の密集(穂先を一本に束ねる)という戦術が、
勝海舟の「氷川清談」に、「合理的な方法で西洋兵術を学んだ俺にも納得がいった」
と、記述がある。これ、八王子千人同心(武田家臣団の末裔)の集団槍術訓練を
評してのもの。つまり、千人同心には武田流の槍衾が伝承されていたという話。
551人間七七四年:2010/12/20(月) 19:12:11 ID:gL03Uorg
>>549
判りやすくピックアップするとこれだな。
>武田家の場合、その軍役衆は大名(武田氏)直接の被官であり、
>家臣(寄親および寄子)に預けられる形であり、彼らを指揮する領主とは御恩奉公に関係しない。

これを元に件の章は仮説を立てている。想像と仮説は違うよ。
あとは個人の評価だな。君の評価を私は否定しないよ。
552人間七七四年:2010/12/20(月) 21:19:37 ID:RBboo+6w
>>551
ん?キミはID:8QIMUW8iかい?

あのサイトの仮説に特別ケチをつける気はないが、
>>544の断定的な意見がちょいと気になったもんでね。
「〜と考えられる」「〜と思う」がついてりゃいいんだけど、
さも見てきたように言い切ってるから「困る」と言ったんだよ。

>これによって旧来の寄親・寄子制の特徴を残しつつ兵種ごとの編成が可能になった。
ここはもろそのサイトの仮説部分だしね。
553人間七七四年:2010/12/21(火) 00:21:56 ID:5P2DmDpx
>>534
一斉射撃についてルイス・フロイスが1584年に薩摩で見聞した記録がある。
直訳された文章の抜粋で判りにくいが、この事例では槍や弓矢の運用についても記録しているので、戦国時代の実戦を知ることができる。


ドン・プロタジョは山上に留る能はず、また旧位置に引返すことも困難であるを見て徐々下山し、敵の銃撃の大部分を受くべき所に到った。
この間に隆信の軍は非常な勢で月の形になって進撃し、中務とドン・プロタジョの陣を包囲し、第一に銃五百挺を一斎発射した。
わが軍はほとんど皆地上に伏してこれを避け、銃撃が終った後槍隊の突撃せんことを期待したが実現した。
日本人は我等の如く楯を用ひない故ドン・プロタジョとその兄弟ドン・エステバンは銃撃に面して非常な危険を冒してゐた。
備前守殿といふ武士が、彼らの前に幅二パルモ〔約半メートル〕高さは人の腰まで達する鉄の戸を置いた。
これによって彼等は辛うじて銃丸を避けることができた。
敵は激しく銃を発射し、暫くの間弾丸は雨の降るやうであったが、ドン・プロタジョとその兄弟は長く腰を屈めてゐることができず、立って体を露出した時、大きな弾丸が激しくドン・エステバンの兜に当り、彼は地上に倒れた。
ドン・プロタジョは直に救助に駈けつけたが、その兄弟は死したやうであった。
併し再び見た時少しく動き始めたので、手をもって抱き上げたところ、不思議にも傷なく意識を回復した。彼等両人は二回敵銃隊の中に突入して死せんとしたが、部下が彼等を抱き止めた。
戦は四月二十四日の朝八時に始まり、正午過ぎまで続いた。最初の銃撃が終って、一時間槍をもって激しく戦ったが、隆信の軍は槍と共に銃を用ひ、その兵数が比較にならぬ程多かったため、わが兵はその寨内に退くに至った。
・・・・・
敵は再び寨を攻めたので、薩摩の兵は打って出たが、すでに頗る疲労してゐた。而して隆信の兵は多数の銃と少数の弓、長き槍と短き剣を持ってゐたが、薩摩の兵はこれに反して銃器は少数で、弓は多く、槍は短く剣は長かった。
・・・・・
戦闘は激しく行はれ、双方槍を使ふ余地なく、薩摩の兵は前に人なきが如く突進した。
銃は弾丸を込める時がないためこれを用ひず、薩摩の兵は甚だ弓に熟練し大いにこれを用ひ、敵は少からずこれに苦しめられた。
戦闘の最も激しい時薩摩の部将の一人は、最も勇敢なる兵士数人と共に偶然他の兵に離れて進み、隆信の駕籠の側に到って戦ひ始めた。
隆信は部下の兵の間に争が起ったものと考へ、高声に今は互に戦ふ時にあらず、汝等は隆信がここに在ることを知らざるかと言った。
この際彼の轎夫達は槍をもって突かれて駕籠を棄てた。川上左京殿と称する薩摩の青年武将は彼の名を聞き、その起ち上ったところを襲ひ、我等は汝を尋ねて来たと言って槍をもって突いた。
彼に槍をつけた人に直に首を斬られた。
竜造寺隆信の死が伝って、その軍隊は恐怖のあまり混乱し、皆背を転じて急に逃げ始めた。
彼等は啻に鎧のみならず、衣服をも脱し、身を軽うして追撃する敵より遁れんとし、負傷者及び死者の上を越えて逃げた。
かくの如き場合に恐怖は人に翼を与へ、重荷となるものは皆かくの如く急な破滅を免れる邪魔となるものである故、彼等は携へた物を棄て始め、
啻に槍、銃、弓矢、立派なる鎧及び黄金の飾を施したる兜のみならず、後方に聞えた叫喚は前方の死の像を示した故、剣も長剣も棄て、一層早く走るため、或る者は一切脱して裸体となった。
また乗馬の純然たる疲労のため地に倒れて死するものもあった。
・・・・・
554人間七七四年:2010/12/21(火) 01:38:36 ID:qPm52E8N
この鉄砲を撃ちまくった後に白兵が突撃する戦法が
竜造寺独特の戦法なのか、それとも戦国後期の一般的な戦法なのかよく分かんない
555人間七七四年:2010/12/21(火) 01:45:43 ID:zPFFLD6g
>>553
結構合理的だね。
伏せて銃撃をやりすごしたり、鉄の盾で武将を守ったり。
戦国期の歩兵ってもっと強引に突撃するイメージしかなかったw

鉄砲は連続して撃ち続けてるようなので、少なくともこの合戦に関して言えば、
撃ち始めは一斉に→あとは各個人がバラバラに撃ち続けてるってところかな?
それともいくつかの小隊でローテーションを組むことで間断なく撃ち続けてるんだろうか?

あと気になるのは銃撃が止まって槍戦になった理由。
隆信方が“敵がひるんだ”あるいは“これ以上撃っても無駄”と見て槍兵を出したのか、
それとも単に手元の弾薬が尽きて補給する際に銃撃に隙が生じたのか。

結局は謎だらけ。
実際この目で確かめられれば最高なんだがw

逃げ出す兵に素っ裸の者もいたってのはちょっと笑っちゃうけど、
みんなそれぐらい必死だったんだろうな。
556人間七七四年:2010/12/21(火) 08:03:05 ID:vL4RQaJD
フロイスは日本の戦場を見たことがないし、ほら吹きだから
「西洋では馬に乗って戦い、日本では馬から下りて戦う」の部分は信じない。
でも、この部分の記述は事実と受け取る。

そのダブルスタンダードが理解できません。
557人間七七四年:2010/12/21(火) 08:27:37 ID:oyQY9ySm
>>552
うん?変だな?言葉が通じていないのかな?
私は「仮定の話を既定事実として語るのは困る」というあなたの意見を認めると言ったのだけど。

・今の私のリソースでは一次史料を集められない
・したがってあなたを納得させる事が出来ない
・よってあたなの意見を認める
こういうこと。

武田の軍制は知っての通り寄親寄子制を基本とするけど、素直にそのとおりにはなっていない。
この辺りが複雑怪奇で、専門の研究者にとっても難物になっている。
この辺りを解明しろよ、もしくは解明したものをもってこい、と言われると謝るしかないよ。うん。
まぁ逆に言えば、兵科ごとの編成はされていなかったというソースもないんで…まぁそのあたりはいいや。
アレだけの動員をして、そんなこと普通はありえない…もとい、ありえないと私は思うんで。証拠はないが。

これからは「だと思う」「と、考えられる」って付けるよ。これでいいかい?
必要なら、レスアンカー付けて訂正して回るが?
558人間七七四年:2010/12/21(火) 08:45:35 ID:oyQY9ySm
>548
ソースありがとう。
私は事の成否ではなく、何故そういう考えを持ったのか知りたかっただけだから。

>暗黒期を除く西洋に関して言えば、数kmに渡って隙間を空けないよう戦列を展開するから、
>戦列の両端の大隊以外は、横の防御をあまり心配しなくていいようにしてるね。
>それでもマケドニアファランクスでは横や後方防御用に予備大隊を用意しているな。

この件はもっと単純な事なんだ
方陣の密度を上げることによって衝撃力を上げるという方法が使われたり、
それが仇になって隊形の変形や機動性に問題が出て包囲されやすくなったり。
「カンネーの戦い」を調べてみると、この辺りの有利不利がわかったりするかもしれない。
559人間七七四年:2010/12/21(火) 08:59:47 ID:oyQY9ySm
>>556
悩ましいところだな。
1つ嘘があるから全部信じないか、1つ事実があるから全部信じるか
『嘘を嘘と見抜けない……』って誰かも行ってたしな。
フロイスさん、ヨーロッパでの乗馬歩兵の成立っていつでしたっけ?

さて、仕事いてくる。
560人間七七四年:2010/12/21(火) 22:33:37 ID:5P2DmDpx
>>555
>あと気になるのは銃撃が止まって槍戦になった理由。
>隆信方が“敵がひるんだ”あるいは“これ以上撃っても無駄”と見て槍兵を出したのか、
>それとも単に手元の弾薬が尽きて補給する際に銃撃に隙が生じたのか。

一斉射撃後銃撃が止まった理由は、敵は弾薬を多量に携えていたので、手元の弾薬が尽きたとは思えない。
(「彼等は攻撃及び防御の武器を備え、糧食、弾薬その他必要なる物を多量に携え、速に戦争を終了せしむるため、先端の尖った短い棒を多数持参した。これを寨の壁に刺し、梯子の如くして上がり、内に入ってこれを破壊するためであった。」)

それよりも、火縄銃の連発には物理的な限度があり(当時は6発以下か?) >>517 、また不発銃も増えたためでなかろうか?

>結局は謎だらけ。
>実際この目で確かめられれば最高なんだがw

同意。
この事例(沖田畷の戦い)には、大砲についても書かれている。

ドン・プロタジョ(有馬晴信)は聖週(1584年4月12日から始まる週間)となって、陣所に大砲二門を据付けた。
これは日本でも甚だ珍しいもので、操縦する人は少なかったが、この際偶然砲に装薬することのできる黒奴が一人居合せ、
また隆信が不当に殺すことを命じたため、大村より高来に逃げて来たマルチニョMartinhoといふキリシタンの兵士があって、この人が砲の狙いをつけ、マルバラMalabarの人が火を附けた。
大砲は薩摩の兵に取って珍しく且驚くべきものであったが、敵城内の人々には甚だ面白からぬものであった。
暗黒の木曜日及び金曜日に発射した多数の砲弾は木造の家に入って大なる音を立て、この珍しい物に対する驚愕による城内の婦人及び小児の叫喚は、ドン・プロタジョの陣所まで聞えた。
561人間七七四年:2010/12/23(木) 00:48:33 ID:AjLRgbJQ
>>558
カンネーのローマ軍歩兵はひと塊というより、大隊を隙間を空け市松模様に並べこれを縦深厚めにしたものだったけど、
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/2/25/Rom-mnpl-1.png
これは錬度・装備と兵数でローマに劣る、カルタゴ軍戦列中央の突破を狙ってのことだった。
カルタゴは中央にヒスパニア・ガリア部族歩兵の弓なり密集陣、側面の主力たるリビア歩兵はファランクス陣形(下リンク)だった。
http://scottthong.files.wordpress.com/2007/05/phalanx2.jpg

歩兵のみならば脆弱なカルタゴ中央が支えきれず崩壊したところを、
ローマは両翼の騎兵が敗れたため、長槍に側面、騎兵に背面を衝かれ壊滅した。
この戦いは騎兵の多寡が最大の勝因だけど、
たしかに縦深をとったために包囲されやすくなった。
もしローマが横長に布陣すれば、左翼の側面攻撃と騎兵の後方迂回は防げただろうね。
562人間七七四年:2010/12/23(木) 00:50:06 ID:AjLRgbJQ
方陣といっても種類がいろいろあるし。
古代ローマの場合は、山岳部族との戦いで機動性の確保を悟り、
歩兵は長槍を捨て、短剣に盾を持った歩兵が数十人単位で別行動が取れるようにした
(下リンクは対飛び道具用のテストゥード隊形、ただし装備はマリウスの改革後)。
http://4.bp.blogspot.com/_qsZFggp2bPg/SkQ-xliTolI/AAAAAAAAAC0/uFVAK0jX0Qw/s1600-h/testudo.jpg

マケドニアファランクスはとんでもない正面圧力だが前を向いて進み続けるしかないので、
側・後方を取られたら終わり。隙間なく戦列を組み、騎兵と軽歩兵が両翼をカバーする必要がある。
諸兵科の複合陣形であるテルシオ(下リンク)や、シンプルな長槍円陣であるシルトロンの場合鈍重だが、元は対騎兵陣形として生まれたため、
http://historywarsweapons.com/spanish-tercio/
長槍を全周にわたって突き出せ、包囲攻撃には滅法強い。
563人間七七四年:2010/12/23(木) 00:56:41 ID:IzyyeUJB
長文はブログにでも書いてろ
スレ違いだ
564人間七七四年:2010/12/23(木) 01:08:18 ID:AjLRgbJQ
戦国時代に戻るけど、当時の軍記によく「つるべ打ち(釣瓶撃ち)」って出てくるよね。
現代砲術だと、端から一人ずつ順番に、バケツリレーみたいに撃っていくけれど
これは各個のタイミングで自由に射撃をしたという意味かもしれないと思うんだが?西洋で言うFire at will。

三段撃ちに関しても、あったとすれば「どの三段撃ち」かあまり言及されてない。
@一列目が撃つと後方に下がり、二列目→三列目と進み出て撃つ方法。
A一列目のみが射撃し、二列目・三列目が装填をして一列目に渡す「繰り込め」。森流砲術などにある分業方法。
Bその場から動かず一列目は膝射、二列目は立射、三列目は二列目の肩の間から撃つ、18世紀フランス軍のような方法。

もしBだとしたらかなり間隔が必要な上、斉射必須だろうなw
雑賀衆の二段撃ちもこのうちどれなのか気になる。
565人間七七四年:2010/12/23(木) 01:09:31 ID:AjLRgbJQ
>>563
すまんすまんw
どうも長文スキーでな・・・
566人間七七四年:2010/12/23(木) 01:30:23 ID:9aig1BPt
三段撃ちはあったとしてもAだと思うよ。
@は無駄な労力が必要だし、Bは火縄銃ではあまりにも危険すぎるかと。
567人間七七四年:2010/12/23(木) 02:17:37 ID:GkN/tAHe
>>564
>戦国時代に戻るけど、当時の軍記によく「つるべ打ち(釣瓶撃ち)」って出てくるよね。
「つるべ」についてだけども、「滑車釣瓶(かっしゃつるべ)」と「撥ね釣瓶(はねつるべ)」の2種類が思いつくのだが、滑車釣瓶の桶(バケツ)は2個、撥ね釣瓶の桶は1個である。
桶を火縄銃にたとえて「つるべ打ち(釣瓶撃ち)」と表現しているならば、滑車釣瓶ならば2つの銃(2人)が前後入れ替えて発射、撥ね釣瓶ならば1つの銃で前進後退しての発射となろうか?
深井戸ならば滑車釣瓶、浅井戸ならば撥ね釣瓶が妥当だと思われるが、戦国時代に滑車釣瓶があったろうか? あったとしても一般的な物か?
はたして「軍記」はどれを示したものか?
何れにしても火縄銃の連発には物理的な限度があるから、集団での当初だけの発射方法を表現したものではなかろうか?
568S字型金具:2010/12/23(木) 23:11:18 ID:GkN/tAHe
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるC

徳川家康は足利義輝と同じように鉄砲好きだったようで、色々な鉄砲を収集していたようである。
ただし、他の大名らの記録は見つからないので不明であるが、彼らも武器である鉄砲については興味があったと思いたい。
徳川家康については、柬埔寨(カンボジア)、暹羅(シャム・タイ)の2カ国に鉄砲を要求した結果『極品鐡砲』を貰い受け、逆に日本の鉄砲を贈答していた記録がある。これ等の遺品の一部らしきのもが「徳川美術館に所蔵」されている。

○慶長11年(1606年)9月15日『幕府、呂宋、西洋、安南、柬埔寨及び暹邏諸国渡海の朱印を出す、家康、呂宋、安南二国に復書し、また書を柬埔寨(カンボジア)、暹邏(シャム)二国に遺りて、奇楠香、鉄砲を需む』
○慶長11年9月21日『徳川家康、暹羅(シャム)国に書簡・鎧・太刀を送り、奇楠香(上上奇楠香)と鉄砲(極品鐡砲)を求める』
○慶長13年10月10日『本多正純、徳川家康の意を受け、暹羅(シャム)国に書簡と鎧を送り、家康所望の鉄砲贈呈の催促をす。また塩硝をも求む』
○慶長15年6月25日『徳川家康、柬埔寨(カンボジア)国主に対し、暴悪を働く日本人は柬埔寨(カンボジア)の国法に従い処罰すべき旨の返書を発給し、鉄砲(30挺)をもって贈答す』
○慶長15年7月『これより先、初めて暹羅(シャム)国より返書が来る。
家康所望の鉄砲などを来年の便船にて献上すべき由を記す。よって7月、徳川家康、暹羅(シャム)国に対し返書を送り、国王には鉄砲を、家臣「握雅普控」には鎧と刀を贈る。また本多正純も返書を出し、毎年商船来日のこと』
○慶長15年7月是月『家康、暹邏国王に書及び物を贈りて、鉄砲塩硝の舶載を促す、本多正純もまた、書を其臣握雅普控に遺りて、家康の意を伝ふ』

伝来銃・渡来銃については贈答用の鉄砲と実戦用の鉄砲とは区別して論じるべきで、黒色火薬に硫黄成分が入っている関係上、実戦に使用された銃は消耗が激しく、残存しにくい条件がある。 >>285 >>287 >>290 >>291
「伝来当時の鉄砲は高価であった」と通説になっているが、永禄3年(1560年)猟師の軍用以外の記録があり(伝来17年後)、なぜ猟師が高価な鉄砲を所持できたかも考える必要がある。(たぶん、日本独自の鉄砲ではなかろうか?)
なお、現存する最古の黒色火薬調合の秘伝書「鉄放薬方並調合次第」は永禄2年(1559年)であり、「両分朱」の単位系を使い、道具立ては東南アジアや西洋の物ではなく、日本の品物である。 >>62 >>339
569人間七七四年:2010/12/24(金) 00:00:52 ID:4Uujrj1u
このスレが落ちる前に書き込みをどっかにまとめておいてね
570S字型金具:2010/12/31(金) 16:13:14 ID:yibJp3Ld
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるD

メンデス・ピント著「東洋遍歴記・岡村多希子訳」に火器の名前が多く出てくる。
この本は、1537年から1558年までの21年間に渡る東洋のことについて書かれ、1578年にポルトガルで脱稿、1583年に死亡、1614年に出版された。
和訳名の根拠やその火器の詳細は不明であるが、一応火器らしき物を和訳記述のまま列挙してみた。

投石器(ロカ・デ・ペドラ)、火薬筒(アルカンズイア・デ・フオゴ)、長さ十ないし十二掌尺の大火縄銃、大火縄銃(エスピンガルダン)、火縄銃、鉄砲(エスピンガルダ)、青銅製のモスケット銃、モスケット銃
青銅製のガルバリン砲、パサムロ砲、大砲(ボンパルダ)、射石砲(ロケイロ)、球砲(エスペラ)、半球砲(メイアエスペラ)、揺籃砲(ベルソ)、半揺籃砲(メイオベルソ)
獅子砲(レアン)、駱駝砲(カメロ)、小駱駝砲(カメレテ)、鷹砲(フアルカン)、鷲砲(アギア)、犬砲(カン)、蛇砲(バジリスコ)

多くの種類・名前の火器が記載されているが、この中で日本に渡来・伝来した火器はあるのだろうか?
>>463 『ポルトガルの拠点だったインドのゴアなどが製造地の候補にあげられるという。 フランキ砲は鉄砲より少し遅れ16世紀後半に日本に伝わった。宗麟が最初に導入し、城の攻防に威力を発揮、「国崩し」の異名をとった』のフランキ砲はどれに該当するのだろうか?

的場節子著・ジパングと日本・第五章 ピント『遍歴記』日本初渡来記事と鳥銃伝来・157ページには、
『鉄砲伝来に関して発生する疑問に、ポルトガルで古今を通じて銃砲の意味で使用されるエスピンガルダという言葉が、なぜ日本に伝えられなかったのかというものがある。
さらに不思議なことには、鉄砲伝来の直後に種子島で製造法を学んだ畿内の鉄匠系統の伝書には、スペインで銃砲を指して汎用されるアルカブスを採用し、「阿留賀放至」が、ペドロ「皿伊旦崙」の名とともに伝えられている。』
と書いて、疑問を投げかけている。

なぜ、当時、ポルトガル・スペイン・現地生産の多種類の砲が東洋に存在していたのに、日本へ渡来・伝来・情報の移入が殆ど無かったのか?
また、小銃(火縄銃)のカタカナ部品名も「カルカ」(ポルトガル語?)位しか見当たらず、部品名については色々と疑問があり、謎の部分がある。 >>329
571人間七七四年:2010/12/31(金) 16:15:37 ID:hyNXVgyx
本書けよもう
誰も読まねーけど
572人間七七四年:2011/01/07(金) 20:52:33 ID:E83uHOQI
「大塩の乱資料館」のホームページに「大塩の乱銃撃戦発砲記録(幕府方)」が◇禁転載◇で掲載されていますが、貴重な火縄銃の発砲数が集計されているので、火縄銃の連射可能数を探るためにちょっと拝借いたしました。

この記録は、天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱の際の、39名分、186放の火縄銃発砲記録です。
与力・小頭9名は、0〜4放・合計12放・平均1.4発砲しており、同心30名は、4〜8放・合計174放・平均5.8発砲していて、ヒストグラムは、0放3名、1放3名、2放1名、3放1名、4放7名、5放6名、6放10名、7放4名、8放4名である。
少数の発砲数例は采配のためや不発もあると思うが、最高発砲数は8放で止まっており、江戸時代での黒色火薬は8放が連発限界数かも知れない。 >>517
連射の際には不発を防止するために火穴掃除器「せせり」が必要となると思うが、その使用法やどのタイミングで使用したものか?

また、不発銃や弾込めした銃の後処理はどの様にしたものか?
尾栓を外さなくても、銃口を下向きにして銃口を木槌で叩けば弾は出てくるような気がするが?
573S字型金具:2011/01/07(金) 23:18:15 ID:E83uHOQI
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるE

明の趙士驍ヘ、『卷一,聖旨八道,萬?二十五年條上《東援用兵八害》,?議"番銃足以破倭鳥銃"。兵部題覆:"令京營具式轉咨工部制造。"奉聖旨:"是。"二十六年五月,因京營無式,恭進?蜜西洋等銃。』で始まる『神器譜』を著している。
この書は、文禄・慶長の役(1592〜1598)の際、明の朝鮮支援軍が日本の火縄銃(倭鳥銃)が優良なことを認め、明軍にこのような火縄銃が無いので、?蜜銃、西洋等銃、軒轅等銃、鷹揚車などの朝廷献上や運用法などを記述(1598〜1603年)したものである。
この『神器譜』は主に火縄銃について記述されたもので、恭進した火縄銃以外の明軍から見た当時のアジア地域の火縄銃についても記述されている。
同名異種、または異種同名のような記述になっているので、火縄銃らしき物を其のまま抜き出してみた。

中国の銃: 中國鳥銃、中國銃炮、鷹揚銃、翼虎銃、震疊銃、迅雷銃、三長銃、三神銃、軒轅銃、奇勝銃、三眼銃、掣電子銃、霹靂火銃、改放西洋銃
ヨーロッパ・インド系と思われる銃: 佛郎機番銃、西洋番鳥銃、西洋鳥銃、西洋銃、大西洋銃、小西洋銃、水西洋諸國銃
トルコ系と思われる銃: ??銃、?蜜番銃、西域?蜜銃
東南アジア系と思われる銃: 海南各國鳥銃
日本の火縄銃と思われる銃: 倭銃、鳥銃、倭鳥銃、對馬島大鳥銃

神器譜に於いて、倭銃は??銃・西洋銃とともに研究対象の中心となっており、各国の銃とは違う独立した銃として取り扱われている。
和銃の特徴として銃床の頬付けが挙げられる。
神器譜に記載されている図の中で、西洋銃全形図・改放西洋銃図・水西洋各国番人打放図は銃床を頬付けする内カラクリ銃として描かれている。
しかし、倭銃(出土品)を所蔵している徐州博物館の「??和?型的火炮」と比べて、カラクリ、引金、銃床形などはまったく異なっている。
同じく、種子島家所蔵の2挺の古銃は、「ポルトガル人が伝えたとする初伝銃は頬付け式で内カラクリ」、「伝国産第一号は頬付け式で外カラクリ」でなぜか形式が違うが、神器譜に記載図の頬付け銃とまったく異なっている。
海南各國鳥銃の図は無かったが、「喜其初為打鳥而作。床尾稍短,後手不甚定準。打放非極精熟者不能命中。」と書かれており、海南を東南アジアとすれば「マラッカ銃」となるのかな?
本文に燧石(フリント)の単語は現れず、当時の東アジアにはスペインで開発されたミュクレット式銃は伝来・渡来しなかったのでは?
574人間七七四年:2011/01/08(土) 19:55:15 ID:Yko2q4gn
?になってる文字部分がわからん
??銃は研究対象って言われてもさっぱりだ。
という事で補足説明頼む
575人間七七四年:2011/01/08(土) 23:44:26 ID:Fd45Hba+
>>574
失礼しました。今回は、中国語の検索にでも引っかかるように『中国語簡体字の神器譜全文』からコピーペーストしたので文字化けしたようです。
前回の >>293 >>301 では文字化けしませんでしたので参考にして下さい。
?蜜 −−>ろ蜜  ??銃 −−>ろみつ銃
萬?二十五年條上《東援用兵八害》,?議"番銃足以破倭鳥銃" −−> 万暦二十五年条上《東援用兵八害》,内議"番銃足以破倭鳥銃"
「??和?型的火炮」 −−> 「鳥槍和軽型的火砲」
576人間七七四年:2011/01/09(日) 07:15:30 ID:WCWuc8e4
おおわかったありがとう
しかし見たことない文字だ。こりゃ文字化けするわ
577S字型金具:2011/01/13(木) 17:52:16 ID:65UJBWhB
>>516
歴史REALのDVDは、戦国鉄砲とは思えない江戸時代のベストコンデションの鉄砲で、平和ボケした江戸時代砲術家の雪駄を履いて立放する標的射撃再現DVDである。
18 ページに「A命中精度はおそらく弓よりもかなり低い」と書いてあるが、実験は8ページに「両氏は射撃の名手として実験に参加」となっており、両氏よりももっと射撃の上手な方で再実験すれば見方が変わるかもしれない。
しかし、その根拠となる弓の実験データを示さず、24ページに「戦国時代の弓は現代人にはとても引けないと思います」と書いて今回実験を行わず、読者をなめている。
また、「反復射撃は何秒で可能か」実験では、14ページに「E早撃ちのときには噛ましの布は未使用」と書いているのに、戦国鉄砲では使わない噛まし布を使用し、
2種の「かるか(鉄?)」で突いて余計に時間が掛かるように仕向けるなど、我田引水的な編集・著作となっており、俗書であり歴史書ではない。

朝鮮の役では2.5匁筒(口径11.8mm)が標準的口径で、それ以前はもっと小径だったと思われ、噛まし布を使えばカルカは折れ・曲がり易く相対的に弾も小さくなり、また、綿類は輸入品で火縄にも使っていないほどであった。 >>317 >>318
そのため、下向きに撃つ場合などは弾の転がり出防止のために、弾込め後に少量の発射薬を入れてカルカで再度突き固めるか、弾込め後に紙を丸めてカルカで突き固めるなど知恵を働かせている。
この方がまだREAL。 http://isv.sakura.ne.jp/gun/hina-ken.htm 弾は鎧に穴を開け、兜に当たれば脳震盪を起こさせる。>>553
命中率と引き換えに銃の大口径化による弾重量の増大化によって、具足はどの程度役に立ったものか?

この本は、5〜20秒ほどで突撃してくる距離での、敵の存在を1分間以上無視した「戦国合戦を科学する」もので、戦国合戦は面白いが謎だらけであるから慎重に。
578人間七七四年:2011/01/13(木) 20:27:26 ID:hJyX2dEH
>>577
朝鮮役では、国内では威力不足で小口径の番筒でも
鎧に劣る朝鮮の兵には有効なため、大量調達されたという経緯がある。
579人間七七四年:2011/01/13(木) 21:17:52 ID:65UJBWhB
>>578
あえて「具足」と書いたのは、鉄砲の出現によりその対応策を練った甲冑(=当世具足・南蛮具足)のことで、脳震盪を起こさせた例もある。
鉄砲の進化と具足は『矛盾』の関係にあり、具足がどの程度防御できた(=役立った)かが知りたい。
朝鮮の防具、従来の甲冑、足軽の防具は弓矢対応用で小口径の鉄砲でも簡単に穴が開き、兆弾には有効であったかも?
580人間七七四年:2011/01/14(金) 00:58:47 ID:V71J0Tb0
>>573
燧石式の開発って1620年代だし広く普及したわけでもないんだから
そりゃ伝来してないだろ

神器譜には掣電銃や翼虎銃の開発は魯密銃や倭鳥銃、西洋銃を参考にしたとあるし
絵を見るとストックを脇に入れて頬付けてる
あと、威力があって射程が長いのはオスマン製、命中率が高く撃ち易いのは日本製
軽いのはポルトガルかスペイン製とあるね
581S字型金具:2011/01/14(金) 23:16:52 ID:W9cs+/GP
>>580
>燧石式の開発って1620年代だし広く普及したわけでもないんだから そりゃ伝来してないだろ
洞富雄氏は、天文20年(1551年)にフランシスコ=シァビエルが大内義隆にespingarda de pederneira(燧石銃?)を贈ったことを紹介している。また、ミュクレット式銃(Miquelet)は1570年代に開発されている。
History :Sometime in the middle 1570s, Madrid gunsmiths introduced a prototype miquelet lock, possibly based on a lock developed in Brescia.  http://en.wikipedia.org/wiki/Miquelet

>神器譜には掣電銃や翼虎銃の開発は魯密銃や倭鳥銃、西洋銃を参考にしたとあるし 絵を見るとストックを脇に入れて頬付けてる
大きなストックで脇に挟める銃はインドなど各国に見られ、歩きながらの射撃もできるようにしてある。

>あと、威力があって射程が長いのはオスマン製、命中率が高く撃ち易いのは日本製  軽いのはポルトガルかスペイン製とあるね
当時、中国ではマラッカより西側諸国はすべて西洋と認識しており、インド、アフリカなども西洋で、ポルトガル、スペインと断定できない。
582人間七七四年:2011/01/14(金) 23:54:28 ID:V71J0Tb0
>>581
フェリッペ2世の晩年でもスペイン兵やイタリア兵の支給された火器は火縄銃だから
本国でも全く普及してなさそうだけどな

倭鳥銃の話ね、神器譜の図だと相当ストックが長い、逆に西洋銃のストックがかなり短い

掣電銃の項見ると西洋銃と佛郎机の間をとって造為とあって、違う扱いかもね
ヨーロッパ・インド系という分け方は全く持って不可解だけど
583S字型金具:2011/01/15(土) 00:48:06 ID:v0j6cFzd
>>582
>フェリッペ2世の晩年でもスペイン兵やイタリア兵の支給された火器は火縄銃だから 本国でも全く普及してなさそうだけどな
ミュクレット式銃のメカは、外カラクリの倭銃のルーツのように思われるが、そもそも燧石銃はなぜか日本で普及していないので何とも言えない。

>倭鳥銃の話ね、神器譜の図だと相当ストックが長い、逆に西洋銃のストックがかなり短い
神器譜に倭鳥銃の図はありましたか?

>掣電銃の項見ると西洋銃と佛郎机の間をとって造為とあって、違う扱いかもね
佛郎机はポルトガル国を意味し、佛狼机夷はポルトガル人、また、佛郎机はカートリッジの子機を持つ大砲をも示す。明は佛郎机のようなカートリッジを使う大型銃の鷹揚砲、カートリッジ銃身の掣電銃を開発した。

>ヨーロッパ・インド系という分け方は全く持って不可解だけど
当時、中国ではマラッカより西側諸国はすべて西洋としていて、ヨーロッパとインドを区別していない。
584人間七七四年:2011/01/15(土) 02:38:26 ID:Xg7ST/kL
>>583
火縄銃に詳しくないから倭銃と倭鳥銃の違いが解らないけど、文中じゃ区別してる感じしなくて
図には倭銃と書かれてる、結構いい扱い?というか性能は魯密銃の次に買われてる

それは確実に無いと思うな、明前期の鄭和ですらアフリカまで行って国名も残ってるし
元代の混一彊理歴代国都之図でもイラク、アラビア、ヨーロッパの地名が漢字で書かれてる
いくら海禁政策を採っていたとは行っても、ムスリム商人や私貿易に携ってた商人はいるから

あと、密迩水が何所の国なのか全然解らん。どこ?
585人間七七四年:2011/01/15(土) 10:36:14 ID:v0j6cFzd
>>584
>それは確実に無いと思うな、明前期の鄭和ですらアフリカまで行って国名も残ってるし
>元代の混一彊理歴代国都之図でもイラク、アラビア、ヨーロッパの地名が漢字で書かれてる
>いくら海禁政策を採っていたとは行っても、ムスリム商人や私貿易に携ってた商人はいるから
神器譜は鉄砲解説書であり、明の永楽帝が鄭和を西洋に派遣して土地風俗を見聞させ、陳子魯が書いた『西域番国志』などの地理志とは違い、細かい地名・国名はここ(神器譜)では必要がない。
必要に応じて使い分けるもので、『イラク、アラビア、ヨーロッパの地名が漢字で書かれてる』の指摘は見当違いでは?

>あと、密迩水が何所の国なのか全然解らん。どこ?
原文は、『ろ蜜密邇水西洋』と書かれている。したがって、国名ではなく『ろ蜜国は水西洋に密邇(接する)』である。

どこの原典か書籍から引っ張ってきて投稿しているのか判らないけれども、元が違えばその後の解釈も異なるのは当然である。銃砲史・戦国史には曖昧な根拠で汗牛充棟のごとく孫引きが横行している。
http://blog.goo.ne.jp/kanimaster/e/b33006ffe0ffd597e8544d1b2ddce5dc
今のところ、私の知っている神器譜には、倭銃・倭鳥銃の図はない。
586人間七七四年:2011/01/15(土) 14:04:21 ID:Xg7ST/kL
孫引きも何も、上海社会科学院出版社、出版の温州文献双書に載ってる
神器譜には倭銃・倭鳥銃の図があるよ、私の知っている神器譜って何?意味不明なんだけど
587人間七七四年:2011/01/15(土) 17:47:30 ID:v0j6cFzd
>>586
>孫引きも何も、上海社会科学院出版社、出版の温州文献双書に載ってる

温州文献双書ではなく、温州文献叢書(温州文献丛书)の竜門集・神器譜(龙门集・神器谱)のことでしょうか?
温州文献叢書に『倭銃・倭鳥銃の図』が載っていることを知らず、失礼しました。
神器譜には、色々なバージョンがあることが知られており、未だ完全本は不明のため、今後も追加があると思います。私は、主に谷村文庫本、玄覧堂叢書本などを見ています。>>301
中国史研究のために温州文献叢書の編集委員会が結成され、2006年に日本古典研究会の協力を得て出版されたこの本の存在は知っていましたが、国会図書館にも所蔵されておらず、今のところ倭銃図の確認はできません。

>>582
>倭鳥銃の話ね、神器譜の図だと相当ストックが長い、逆に西洋銃のストックがかなり短い
『相当ストックが長い倭鳥銃』は新発見で、倭銃研究・鉄砲伝来に関係すると思われるので、是非、図のアップロードをお願いします。
588人間七七四年:2011/01/15(土) 19:12:28 ID:Xg7ST/kL
一応これ↓多分文字見えない‥元々字画の多い字は判別不能だし
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org1362811.jpg
左側のページに無門照星乃鳥銃□要討準全在□□倭銃用、左上に棚杖とあるのと
魯密銃全形と西洋銃全形の間に挟まれてるから倭銃と思ったんだけども

>未だ完全本は不明のため、今後も追加があると思います。私は、主に谷村文庫本、玄覧堂叢書本など
温州文献双書は安い値段で普通に新品売ってたから、史書みたいに普及した書物だと思ってた
589人間七七四年:2011/01/15(土) 22:27:11 ID:v0j6cFzd
>>588
画像ありがとうございました。
この図はろ蜜銃の説明で、「照門。照星乃鳥銃樞要。討準全在此處。倭銃用一凹字形。不如此更妙。下俱作馬蹄荀。」と書かれ、ろ蜜銃の照門は『回』、倭銃の照門は凹字形と説明しています。

私が調べている「サーペンタインロック式の古銃」の照門は、ろ蜜銃の『回』字形で円形穴が開いています。ルーツが中国かと思い調べましたが、どうやら日本オリジナルの銃のようです。 >>226 >>453 >>454
590人間七七四年:2011/01/15(土) 23:34:24 ID:Xg7ST/kL
ちゃんと見れば、西洋銃と違って魯密銃全形の一枚目に銃床が無いか‥失礼しました
でも、なんで倭銃だけ参考にしておきながら全形無いんだろうか
591S字型金具:2011/01/22(土) 00:23:35 ID:TN9AdDPW
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるF

どうしても理解できないのが『国立歴史民族博物館(大学共同利用機関法人・人間文化研究機構)』が主張している南蛮筒・異風筒である。 >>340
歴博の「歴史のなかの鉄炮伝来」P15の「伝来した諸銃の系譜」で、『鉄炮は火縄挟みの取り付け位置、狙いを定める前目当(照門)・先目当(照星)、金具の地板や銃床の形式によって使用地の推測が可能である。
異風筒や南蛮筒は火縄挟みの位置が右側であり、目当は上部があいている。なかには銃身の端が鳶ノ尾形式のものがあるが、こうした特徴から日本に伝来した鉄炮は東南アジア方面のものと考えられるのである。』と書いて説明している。

また、歴博の「鉄砲伝来の日本史」P20の「南蛮鉄炮」では、『現在、国内には南蛮筒とそれを見本に作られた異風筒と思われる実物資料が複数存在している』として、表1にその7挺の銃を紹介している。
しかし、同書P22に『鹿児島県個人蔵と靖国神社所蔵の一挺は銃尾が鳶ノ尾の形式になっているので、銃身の形状から「琉球筒」の可能性がある』と書いているので、
表1には現存する「南蛮筒」は無くなってしまい(?)、「琉球筒」の製作地は台湾(?)、まさか沖縄県としているのでは?
南蛮筒そのものが不明・残存していないのに、「現存する南蛮筒(内外カラクリ不明の種子島家所蔵銃か?)および異風筒、炮術秘伝書を根拠に復元した」として歴博は南蛮筒を復元作成・所蔵しているが、論理矛盾があり、どの程度の根拠を持って作成したものか。 >>449

同書P3に、炮術秘伝書は『鉄炮を家業とする当事者によって書かれた点で、史料的価値が高い』として秘伝書を取り上げている。
しかし、炮術は陰陽道の陰陽五行説を取り入れる素地があるので、炮術秘伝書には「こじつけ」がまかり通っており、炮術秘伝書を無批判に取り上げるのは如何なものかと思う。
秘伝書には『玉拵えの秘事として数十種類におよぶ玉の存在を伝えている。鉛以外に鉄の玉、錫と鉛の合金の玉、複数の玉、半円の玉、三角の玉、中空の玉などがあるが・・・・、もはや秘伝書の記述が嘘やデタラメでないことはあきらかである。』と歴博は書いているが、
近松茂矩は宝暦3年(1753年)の書に、『古伝の拵玉についてまだ試射したことはないから、実際に用いるときは、よくよく打ち試してみたのちに用いるがよい』と付記書きしているので、秘伝書の記述には嘘やデタラメの可能性が入っているのでは? >>450
そもそも、歴博は火縄銃に鉄製の玉の存在を認めず、「1554年と1555年の倭人の鍛造火縄銃筒進上」を否定して鉄炮伝来倭寇説を組み立てている。
592人間七七四年:2011/01/22(土) 00:38:42 ID:E6xojand
倭寇伝来説は中国でも唱えられてる説じゃなかったっけ
鉄玉はどっかの城跡から出土してるけど
593人間七七四年:2011/01/22(土) 01:12:17 ID:di2GlU4/
>>517を信じて八王子城に非常に詳しい人に
「八王子城からは鉛玉が出土しなかったんですよね?」と聞いたら
次の日、やんわりとメールがきた。
「椚国男著 『戦国の終りを告げた城』に銅玉58(内38個未使用と思われる)鉄玉16個 鉛3個が出土したとあります」

「よく調べもせず適当なことを言って申し訳ありませんでした。また教えてください」と送ったら
「こちらこそ勉強し直すきっかけになりました」だって。
本当によく知ってる人は腰が低くて尊敬するよ。
S字金具に限らず、便所の落書きの内容は必ず裏を取らないと恥をかく。
594人間七七四年:2011/01/22(土) 01:34:58 ID:x0i6lQvn
>>593
というか、
便所の落書きは他でやれ!と抗議してるのに、申し開きもせず平然と連投続ける奴がまともと思うか?
自分でスレ立ててそこに連載すればいいだけなのに嫌がらせとしか思えん
595人間七七四年:2011/01/22(土) 03:29:55 ID:E6xojand
なら便所の落書きより為になること書いてけばいいんじゃね
596人間七七四年:2011/01/22(土) 03:53:25 ID:x0i6lQvn
>>595
そういう問題じゃなく、長文連投は他のスレでやってくれってこと。
やめてくれって何度も言ってるのに全部無視だからな。図々しいどころか卑怯だろ。
597人間七七四年:2011/01/22(土) 22:43:33 ID:TN9AdDPW
>>593
投稿している内容が内容だけに、出来るだけ一次史料を調べるようにして投稿しています。
517の『この城跡から鉛製の銃弾は1点も出土していない』の根拠は、八王子市教育委員会が2002年に発行した『八王子城跡御主殿発掘調査報告書 CD-ROM版 八王子城跡]V』です。
http://www.free-style.biz/book/archives/2008/07/cdrom_1.html

この調査報告書は、『市では、平成4・5年(1992・93)に、続く御主殿内のさらなる整備事業を実施するために発掘調査を実施し、極めて良好に遺存する遺構群と膨大な量の出土品を発見することができました』について書いてあります。
その347ページに『銃弾(第158図 表42・43 図版162-60〜115)  銅製34点、鉄製453点が出土した。すべて鋳造である。なお、一般的な鉛製のものは今回の調査では1点も出土していない。』と書いてあったので、そのまま採用しました。
この報告書は第13報でしたが、それ以外の発掘調査報告書は教育委員会取り扱い図書一覧に無く、また、その内容も不明なのでそれ以上詮索しませんでしたが、「鉛3個が出土」は貴重な情報です。
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/kyodoshiryokan/4283/007851.html

「八王子城に非常に詳しい人」が居られるそうなので勝手なお願いですが、『戦国の終りを告げた城』は自費出版の二・三次史料なので銃弾の出土状況なども知りたく、図書館のコピーサービスを受けたいので発掘調査報告書の情報を教えて頂けないでしょうか。
また、「素焼きの土玉163点出土」については非常に重要だと思われるので、その人から『土玉の用途について、どのように判断されているのか』を聞いて頂けないでしょうか。
598人間七七四年:2011/01/22(土) 22:45:44 ID:di2GlU4/
>>594
要するに、S字金具は人とコミュニケートする能力がゼロなのは一目瞭然だが、
それどころか火縄銃や歴史に関する知識すら極めてあやしいということ。
599人間七七四年:2011/01/22(土) 22:51:36 ID:di2GlU4/
>>597
素直に読めば、
「平成4・5年の調査では鉛玉ひとつも出土しなかったが、それ以前の調査では累計3個出土してる」
ってことでしょ。

うーん、そこまで相手を煩わせるのはちょっと・・・
『戦国の〜』の著者の参考文献を調べるか、著者の人・関係者に手紙等で聞いてみるといいんじゃない?
600人間七七四年:2011/01/22(土) 23:18:40 ID:TN9AdDPW
>>599
そうすると、合計、銅玉92個、鉄玉469個、鉛玉3個が出土したことになり、
>>517 で私が主張していた『このことは、戦国時代の火縄銃の弾は鉛とは限らないことを証明している』を了承して頂けたものと理解いたします。
問題は土玉で、国立歴史民俗博物館発行の「歴史のなかの鉄炮伝来」では、33ページに『秘伝書は土玉の作り方を説明しているが、八王子城のそれが鉄炮の玉かどうかは今後の検討を要する』と締めくくっている。
601人間七七四年:2011/01/23(日) 09:59:24 ID:Dxlg5f/q
>>600
もういい加減にしようや・・・
HPやスレッドくらい自分で立てられるだろ。
602人間七七四年:2011/01/23(日) 10:07:42 ID:1/tt+AIJ
>>99
競技用の火縄銃も存在するらしい。
今でいうスナイパーライフルとそこら辺の量産品を一緒にしては駄目だ。

>>600
つまり、削り出しで弾をつくっていたということか。すごい手間だな。
603人間七七四年:2011/01/23(日) 12:31:13 ID:EIcXrSgD
>>602
>つまり、削り出しで弾をつくっていたということか。すごい手間だな。
       ↑
>>597 『銅製34点、鉄製453点が出土した。すべて鋳造である』
旋盤やフライス盤があったと思っているのか。少しは頭を使って考えろ。
604人間七七四年:2011/01/23(日) 19:22:12 ID:RQhmB9LT
土玉って何なの?粘土焼き?
605人間七七四年:2011/01/23(日) 20:39:51 ID:EIcXrSgD
>>604
>土玉って何なの?粘土焼き?
      ↑
>>272 >『八王子城から、焼き物の弾丸、つまり粘土で作った弾が出土していたな。』

『投石と汗のメンテナンス』に、「八王子城から出土する土玉については火縄銃では使えないから弾弓、つまり中国の投石弓があったとする説もありました。」
http://www.interq.or.jp/pure/miyatate/wforum/wforum2001/2001.2.1.htm
ちなみに、弾弓とは、矢ではなく玉をはじいて飛ばす「遊び道具」で、武器ではない。
http://chisuhatatoshi.world.coocan.jp/new7.htm

土玉は他の所でも出土しており、沖縄では珊瑚弾、鉄弾、石弾が出土している。
http://www.gusuku.sakura.ne.jp/gusuku/siryo/sensou/top04.html
606S字型金具:2011/01/29(土) 17:51:40 ID:tt32/vL/
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるG

鉄砲が伝来したとする根拠にその「伝来銃」を示せば納得もできるが、詳細に調べてみると非常に心もとない結果となっている。
国立歴史民族博物館が『鉄炮記』を根拠にした通説、「天文十二年(一五四三)の八月、種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられ、日本中に広まった」とする通説に矛盾を感じ、倭寇による伝来説を主張している。
ポルトガル人によるヨーロッパ銃の伝来説は、確たる証拠(鉄炮記以外の文献)・現品(ヨーロッパ由来火縄銃)も無く、ただ「願望論」から成り立っている。ただし、倭銃には何時ごろとは特定できないが、ヨーロッパ銃の影響があったことは否めない。
しかし、「倭寇による伝来説」の東南アジア製銃についても、残存する火縄銃は国内外とも極めて少なく、今のところ東南アジアに古い銃は残存していない。
日本最古の火縄銃とされている『喜蔵とりつき銃』でも天正11年(1583年)ということで、鉄砲伝来とされた40年後の火縄銃である。
戦国期末(慶長年間で鉄砲伝来とされた60年後?)までに、東南アジア各国への、贈与の要求、日本から贈答・輸出・持ち出しを認める明確な文献があるので、残存銃にはこれらの交雑の影響があると思える。
徳川美術館所蔵鉄砲は非実戦銃のように思われ、国内には出土銃部品、中国や韓国には文禄・慶長の役の際の遺品など実戦を推定できるものがある。
残存銃の絶対数が少ないのに、制作年代の推定に火皿と照門の相対位置が挙げられているが、例外の銃もあり、本当に銃の年代推定ができるのであろうか?

国立歴史民族博物館の「歴史のなかの鉄炮伝来」P33で、
『「武蔵八王子城跡から発掘された各種の玉と鋳型」 武蔵にある後北条氏の支城八王子城は一五九〇(天正一八)年に秀吉に攻められて落城した。同城跡から出土した鉄製。青銅製の玉、玉の鋳型の類である。土玉とおぼしきものもある。
秘伝書は土玉の作り方を説明しているが、八王子城のそれが鉄炮の玉かどうかは今後の検討を要する。』
と書いてあるが、検討結果はどうなったのであろうか?
各地から土玉の出土例もあり、この城跡から鉛製の銃弾はたった3個しか出土していなく、土玉・素焼玉が鉄炮の玉であれば、「鉄砲の定義」そのものが疑われる。 >>600
新城市宗堅寺の「信玄砲」は説明の付かない(誰も解説していない)銃身で、土玉・素焼玉でも発射したものか? >>514
607人間七七四年:2011/01/29(土) 18:03:07 ID:EynA4gyi
明代中国で西南の将兵は比較的火器の装備が進んでたらしいけど
あれは何所産なわけ?
608S字型金具:2011/02/05(土) 02:02:56 ID:vc21zI0q
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるH

ポルトガル人によってヨーロッパ銃を売りつけたとする鉄砲伝来説は、納得がいかない。

1509年:ポルトガル人は初めて東南アジアに現れ、マラッカ王国と争いを起こし、王国は火器で反撃したけれども1511年に滅亡した。
1513年:この頃からポルトガル人が中国南岸に現れ初め、1517年に明国へ朝貢したが、1520年に追い払われた。
1522年:ポルトガル人は軍艦で広東を攻撃したが撃退され、明国は艦炮の大砲(佛狼機)を鹵獲した。 >>359
1530年:広東の一つの湊が対外通商のために開港されたが、ポルトガル人だけが締め出された。
1545年:鉄砲伝来?
1547年:日本と明との遣明船はこの年が最後。
1548年:明軍は寧波の東方の双嶼島(リャンボー)を攻撃・壊滅したので、双嶼を中心とする密貿易は終わった。
1548年:明国はポルトガル人との鎖国の一部を解禁(10隻か?)した。
1553年:この年から1559年までは嘉靖大倭寇と呼ばれる倭寇の大規模な海賊行為があった。倭寇は火槍などの火器で反抗したが、火縄銃の使用は認められない。>>441
1554年:倭人が李朝に銃筒を進上。 >>450
1554年:明国はポルトガルとの通商関係再開を受け入れ、ポルトガル人は広州で通商する正式の許可を得る。
1555年:ポルトガル政府の勅令によるカピタン・モール制が始まり、1556年からボルトガル官許船は毎年必ず一回一艘が定期的に日本へ来航する大規模な重商業主義的な機構による貿易が始まる。>>462
1556年:明の鄭舜功が倭寇の禁圧と日本の実情調査のために来日し、後に「日本一鑑」を著したが、鉄や硝石など記載内容について疑問がある。>>455
1557年:明国の現地官憲はポルトガルが海賊の鎮圧行動に協力したとして、ポルトガル人のマカオ居住を黙認する。マカオは日本向けの基地となり、官許船での日本貿易は必ずマカオ経由での取引となる。
1559年:明国は倭寇の取り締まりを強化し、王直を処刑した結果、倭冠の活動は縮小していった。
1567年:明国は海禁令を緩和するが日本には適用しないため、ポルトガル人は日明交易を肩代わりして大きな利益をあげるようになった。

有水博さんは、「リスボンの主要な公文書館に通う機会を得た。しかしながら、16世紀の30年代、40年代の中国沿岸における冒険的なポルトガル商人の活動を明らかにするような文書、あるいはこれらの商人の倭寇とのつながりを示す資料は、ついに見出せなかった」と書いている。
http://ci.nii.ac.jp/naid/40004878879 日葡関係開始時における倭寇介在説の検討(文化編) CiNii 論文PDF - オープンアクセス

1950年代以降も、ポルトガルが海賊の鎮圧行動に協力したので明国の現地官憲からマカオ居住を黙認されたのであって、ポルトガル商人と倭寇とのつながりは無かったと思われる。
日本への鉄砲の拡販は倭寇の協力無しには成り立たず、そのため、1556年以前(官許船以前)にポルトガル商人が日本に鉄砲を販売したとは思われない。また、本格的な貿易は1567年以降となるが、鉄砲と硝石の輸出入記録は今のところ発見されていない。

『火縄銃は、日本の独創性によって生まれ、発達した』とすれば、従来の日本の鉄砲技術に、ポルトガルを含む各国からの技術導入・移入により、急速・急激な進歩・改良・発達・生産を遂げて日本独自の火縄銃技術が成立し、従来の鉄砲伝来説の矛盾点が解消する。
609人間七七四年:2011/02/05(土) 16:46:18 ID:GK820u5u
えーっと 素人が口を出してゴメンネ
火薬の原料の硝石は確保出来ないから糞便を醗酵させたでしょ
(火薬も量が集まるとウンコ臭いもんな)

で、ポルトガル人が持ち込んだ鉄砲は我々日本人は真似が出来なかったんだよ
何故なら当時日本にはオスメス螺旋の発想が出来ていなかったからね

だから個人的には゛608 :S字型金具゛に同意です
山国地域だと鉄とか火薬の調達は厳しい&高価なので、
変則的だけど今風のボウガンタイプが使い易いし調達可能なんです・・スレチゴメン。
610人間七七四年:2011/02/05(土) 20:46:56 ID:vc21zI0q
鉄砲伝来のように、最初に鉄砲その物について良く知らない権威者が定義・解説してしまうとその後の修正は難しく(ポルトガル人→倭寇→?)、適切な解説書が出てこないことは不幸である(日本人は権威に弱い)。
硝石についても同じことが言え、権威者は良く知らない、または調べていないためか「硝石=鉄砲薬」としか捕らえておらず、頭から国産は無くて輸入品として技術史上いい加減に取り扱っています。
硝石の鉄砲薬と医薬品以外の用途について書かれたものはありません(日本国内に)。
日本は古来より朱の国・鉛丹の国であり、錬丹術があったと思っています。
鉄砲と同様に硝石についても適切な解説書が少なく、>>609 さんが硝石製法について『糞便を醗酵』と誤解されているのも無理はありませんが、江戸期の硝石製造については「板垣英治」さんの論文を読まれたら良いと思います。
http://hdl.handle.net/2297/7422 「塩硝及び硫黄の生産」
http://hdl.handle.net/2297/7434  「硝石の舎密学と技術史」
611人間七七四年:2011/02/05(土) 22:55:49 ID:a6ANbnQX
>>610
本人乙
面白いなこれ
612人間七七四年:2011/02/09(水) 19:10:40 ID:zVXWAj1v
>>606
>鉄砲が伝来したとする根拠にその「伝来銃」を示せば納得もできるが、

その言葉そっくり返したいんですが、
「火縄銃が日本の独創性によって生まれ、発達した」という説の証拠は何かあるんでしょうか?
613人間七七四年:2011/02/13(日) 00:52:52 ID:l4cZDhPq
足軽の「初心者用マニュアル?」として「雑兵物語」が伝わっているが、成立事情については原本が無くなっているので不明である。
享保13年(1728年)に書き写された「内閣文庫蔵浅草文庫旧蔵本」が最古の写本とされ、30種以上の写本が残っているが、書き写されるたびに庶民に迎合するように加筆され、娯楽読み物となっている。
この最古の写本の「浅草文庫本」と図が綺麗な東京国立博物館蔵の巻子本とでは、「本文の異同個所は550箇所ある」と指摘されている。
東京国立博物館蔵本に、持筒足軽の筒平が旦那の火縄銃を運搬するために、火縄銃と大小の刀2本とを一緒に左側に差している図がある。火縄銃の重量・長さの点で腰に差せるかどうかを別にしても、左右の重量バランスの点から、これはありえない図ではなかろうか?
國學院大學図書館所蔵の雑兵物語では、持筒足軽の筒平は、右腰に火縄銃、左腰に大小の刀2本を差していて、東京国立博物館蔵の巻子本とは異なる。
http://k-aiser.kokugakuin.ac.jp/library/lime/zohyo01/pages/page016.html
鉄砲足軽小頭の朝日出右衛門の項にも「朔杖をひん抜て、鉄炮を腰にひつばさけて、刀を抜て敵の手と足をねらつて切めされい」と「接近戦は鉄砲を腰に差して戦え」と書いてあるが、鉄砲を腰に差しての白刃戦・運搬には疑問がある。
持筒足軽の鉄平の場合は、大きい鉄砲なので腰に差せなく、帯紐で縛って背中に担いでいる図もあるが、ケース(なめし袋?)に鉄砲を入れてある図もあり、なぜ、倭銃には運搬のためのスリング(負い革)取り付けパーツを付けないのだろうか?
http://k-aiser.kokugakuin.ac.jp/library/lime/zohyo02/pages/page017.html

また、「雑兵物語」は娯楽読み物ではあるが、「トンデモ本」の範疇に入る物でなかろうか? >>348
614S字型金具:2011/02/19(土) 01:31:36 ID:hlQDpnLA
1548年(天文17年)、ゴアの聖パウロ学院長ニコラオ宣教師がインドに来た日本人(アンジロー)から聞き取った『日本の世俗的な事柄について』のインド総督宛ての報告書。

私が日本の情報について閣下に送付した第一の文書においては、甚だ簡略にですが、私はその土地において行なわれている宗教と神の礼拝に関する主要な事柄のみをいくつか書き認めました。
その他の世俗的な事柄は、私の職業にそれほど相応しくなく、また必要であると私には思われないため、余り熱心に知ろうとしませんでした。
しかし、閣下が、私が前述の世俗的な事柄に関して質問するように私に命じていますので、私はたくさんの恩義を受けている方に従わない訳にはまいりません。
閣下の質問、日本人の間に、戦いが行なわれるかということについて、彼(アンジロー)が言うところによると、 ・・・・・
日本には、鎖帷子、胸当、兜、頤甲及び腕章があります。
彼等はまた腿や脚部に鉄でできた具足を付ける習わしがあります。
彼等は、エスピンガルダ(小銃)、弓、矢及び槍を持っています。
彼等はまたたいそう幅が広くてかなりの長さがある一種の鉾をも所持しており、それは私達のものと同様に柄に付いています。
彼等は私達が片手や両手で剣を持っているように、小刀と大刀とを帯びています。
彼等には卵型の革製の盾はありませんが、その代わりに金属の薄片で被われた革を常用しています。
それは左肩の上に、そしてその箇所に楯の代わりに結び付けられます。それは長さ三パルモ(66cm)、幅はそれよりも少し短くなっています。そして、左手は戦闘のために空いています。
これらの日本人が戦争に赴く時には、土着の兵士(現地人兵士)は各々胸当、兜及び革のあの手楯のようなもの、刀、槍、弓矢を持っていきます。
彼等は武器を運搬するのを手伝う小者一人、あるいは、私達の間に見られるように、彼等の地位に応じてそれ以上の数の小者を連れていきます。
この島のある地域では山がちな土地であるためにすべての者は徒歩で戦いますが、土地が平地である他の地域では弓矢や両手を使う刀を持って騎馬で戦います。
そして敵を幾人か殺した時には、その首を斬って大将のところへ持っていくのが習わしです。そして、首を持参することができない時には、勇しさの証拠及びしるしとしてその耳を切り取って持っていきます。
日本の馬は、私達の馬と同じほどの大きさでがっちりしており、フランスの馬に似て太い脚を持っています。領主達は自分達の牧場に飼育のために数え切れないほどの雌馬を持っていることを誇りにしています。
日本の船はすべて小型であり、その最大のものでもカラヴェラ船ほどであり、丈が短く、私達の船とは別の様式です。すべての船は櫂で漕ぎ、ござ帆を持っています。あの土地に見られる強い風の時には、投錨する度毎に帆柱がおろされます。
日本の商人達はシナ人達と取引を行なっています。彼等は日本からシナに銀、武器及び硫黄や扇子をもたらし、シナからは硝石や多量の生糸を持ってきます。また同様に陶磁器、水銀及び麝香の固まりをも持って来ます。
日本人達はまたシナの下方、東にあるコレー(高麗)と呼ばれる別の人びととも取引を行なっています。
彼等はそこにも銀や貂の皮を持っていきますが、それは、同島にはそれが多量にあるからです。彼等はまた扇子をも持参し、朝鮮からは綿布を招来してきます。 ・・・・・
この島のいくつもの地方に大量の銀があり、僅かではありますが、金山も幾つかあります。また多量の銅、鉛、錫、鉄があり、鋼鉄も非常に豊富にあります。また水銀若干量と硫黄がたくさんあります。 ・・・・・
615S字型金具:2011/02/19(土) 01:37:49 ID:hlQDpnLA
日本へ伝来したとする火縄銃の来歴を考えるI

>>614 はポルトガル国が東アジア進出にあたり、ポルトガルが知りたいことを日本人から直接聞き取った報告書である。
この日本人(アンジロー)は、事情により下僕1人を連れて日本を脱出した知的能力が高い貿易商人(?)と思われ、フランシスコ・ザビエルが日本訪問を決意し、彼の故郷鹿児島へ行くことになったほどの人物である。
報告書は他にも存在する書簡から判断して、彼が出国する1546年(天文15年)以前の日本について書かれたもので、他の書簡とも整合性が取れており、戦国時代の第一級資料としての信憑性は非常に高いと思われる。

この報告書に「彼等は、エスピンガルダ(小銃)、弓、矢及び槍を持っています。」と書いてあり、アンジローは1546年(天文15年)以前の日本に「エスピンガルダ」(その詳細は今も不明。大型のマスケット銃? >>470 )があることをニコラオ宣教師に伝えている。
天文12年8月(1543年)種子島に鉄砲が伝来したとされているが、その3年以内の年月に、銃の生産・配備・習得などが可能かどうかは判断に迷うが、アンジローが銃について知っている事は注目すべきことである。
『マスケット銃とは異なるエスピンガルダ』を天文12年以前から所持していた可能性もあり、土着の兵士についての銃装備の記載は無いので銃装備は武士の一部かもしれないが、輸入、コピー、または国産オリジナルかは興味のあるところである。
アンジローが活動した日本の地域は判然としないが、ニコラオ宣教師に銃装備を伝えたのは日本で一箇所だけなのか? 1546年までに装備が広く一般的になっていたものであれば、鉄砲伝来を見直さなければならない。

>>556
>フロイスは日本の戦場を見たことがないし、ほら吹きだから
>「西洋では馬に乗って戦い、日本では馬から下りて戦う」の部分は信じない。
>でも、この部分の記述は事実と受け取る。 >>553(?)
>そのダブルスタンダードが理解できません。

フロイスの日本覚書に『われらにおいては、馬(上)で戦う。日本人は戦わねばならぬときには馬から下りる。』と書いているが、『フロイスは、ほら吹き』の根拠が解らない。
この報告書には「この島のある地域では山がちな土地であるためにすべての者は徒歩で戦いますが、土地が平地である他の地域では弓矢や両手を使う刀を持って騎馬で戦います。」と書いてある。
フロイスは、「山がちな地域で、すべての者が馬から下りて徒歩で戦っている戦闘」を目撃したと思われ、「彼の行動範囲内での宣教師の目で見た日本の覚書」と思えば、的確な記載が多いと思います。
問題なのは、フロイス(1532年生まれ)は1563年(永禄6年)から来日しているが、彼は自国の鉄砲、または彼が知っている鉄砲と日本で見た鉄砲とが明らかに異なっている様に書いている事である。
616人間七七四年:2011/02/19(土) 01:38:39 ID:oAf5xFTp
いいなーポルトガル文書、俺も買おうかな‥
617人間七七四年:2011/02/19(土) 06:07:36 ID:QOM/rlaL
エスピンガルダとは火縄銃のこと。
マスケット銃は、そのなかでも大口径の銃を言う。
後に意味が変化し、フロントロック銃の時代には先込銃全般をマスケット銃というようになった。

というか、こういう手合いに譲歩は無駄だな。
人として軽蔑しか感じない。
退治すべきだろうな。
618S字型金具:2011/02/21(月) 01:14:22.67 ID:gOPwhLQC
>>617
>エスピンガルダとは火縄銃のこと。
>マスケット銃は、そのなかでも大口径の銃を言う。
>後に意味が変化し、フロントロック銃の時代には先込銃全般をマスケット銃というようになった。

「マスケット銃は、そのなかでも大口径の銃を言う」の根拠、「大口径の銃」、「フロントロック銃」の意味が解らなく、何か思い込みでもあるのだろうか?
「大口径の銃」は『大型の銃』、「フロントロック銃」は『フリントロックの銃』とこちらで理解して、>>615 の補足記載をする。

メンデス・ピント、ジョアン・ロドリゲス、ルイス・フロイスをはじめとするポルトガル人の記録では、火縄銃を指す場合にすべてエスピンガルダを使用しているので、「エスピンガルダ」はポルトガル語である。
>>570 『鉄砲伝来に関して発生する疑問に、ポルトガルで古今を通じて銃砲の意味で使用されるエスピンガルダという言葉が、なぜ日本に伝えられなかったのかというものがある。
さらに不思議なことには、鉄砲伝来の直後に種子島で製造法を学んだ畿内の鉄匠系統の伝書には、スペインで銃砲を指して汎用されるアルカブスを採用し、「阿留賀放至」が、ペドロ「皿伊旦崙」の名とともに伝えられている。』
@『松浦軍の攻撃武器は、堺で作られた大型のマスケット銃であるエスピンガルダ銃と・・・・』>>470
A『あるいはマラバルのエスピンガルディーニャスではなく、モスケット銃に似た大型のエスピンガルドンイスであり、一人の男が肩に担いで運搬するには苦労するほどであった・・・・』
B『ポルトガル人は襲撃し、完全に破壊して勝ち取った。かれらはそこで、大小合わせて2500あまりの金属製の銃砲を見つけた。そのなかにはハーク銃やムスケット銃くらいの大きさのもあれば、もう少し大きなもの、ものすごく大ぶりなもの・・・・』
@ABから、1500年代はマスケット銃よりもエスピンガルダ、アルカブスなどの方が大きいのではなかろうか?

有馬成甫氏は、アルケビユースとマスケットの異同について、「この両者には多少の地方的特種を認めうるが何等本質的の相異があるわけではない。」と書いている。
しかし、『四百名からなる傭兵部隊が設置された。アルカブス兵は月額六ペソの俸給を受け、モスケット銃兵は八ペソ、隊長は六人でそれぞれ年間四二〇ペソの俸給を受け・・・・』と職種により明らかに俸給が異なる記述もあり、本質的に異なるのではなかろうか?
619人間七七四年:2011/02/21(月) 03:03:14.60 ID:8+3Xk+Dj
>>618
・・・?理解の仕方が奇妙だな。大口径がわからない?
フリントロック銃とフリントロックの銃という言葉遊びになんの違いがあるんだろう?わからん。
俺がしょっちゅう猫に頭をかじられて脳みそ喰われてるからかもしれないけどなw

エスピンガルダは最初火縄銃を指し、のちには小銃全般を指すようになった。
そのうち比較的小口径の物をアーキュバス(アルケブース)、叉杖をつけるような大口径の物をマスケット(ムスケット)と呼ぶ。
例えばテルシオ陣形では前列に大口径のマスケット、側面/背面にはアーキュバスを持った銃兵を多く配置した。
620S字型金具:2011/02/23(水) 01:03:46.15 ID:nLr6HvIo
>>619 さんは、『アーキュバス』という単語を使っているので、
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1179124918/89
の本人、または、これを参考にされたのでしょうか?

http://en.wikipedia.org/wiki/Tercio の Tercio にはMusketes が出ていない。
The tercio which theoretically had up to 3000 men (but usually many fewer) were
armed with an assortment of weapons to deal with any enemy they faced on the
battlefield - 1500 of them were equipped with pikes, 1000 kept the ancient short
sword and javelin armament, and the remaining 500 were armed with
arquebuses of the best and most portable type.

http://en.wikipedia.org/wiki/Musketeer のMusketeer には Arquebuses が出ていない。
The musketeer manned tercios were developed from the earlier arquebusier
manned coronelias which had firmly established their fearsome reputation
by defeating the French at the Battle of Pavia in 1525 and capturing their king.

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%AA
このテルシオ(Tercio)の内、『編成』の出典が不明であり、この『編成』部分は正しいのだろうか? また、スペイン方陣、オランダ式大隊、スウェーデン式大隊の図で、MusketeerとArquebusierの違いが解らない。

http://historywarsweapons.com/wp-content/uploads/image/Tercio.JPG では『Arquebusiers』だけのように見え、したがって、MusketeとArquebus、MusketeerとArquebusierは同義語として捉えても良いと思われる。
『テルシオ陣形では前列に大口径のマスケット、側面/背面にはアーキュバスを持った銃兵を多く配置した。』は根拠の無い思い込みではなかろうか?
621人間七七四年:2011/02/23(水) 05:38:33.71 ID:8M6va8y/
>>620
http://historywarsweapons.com/wp-content/uploads/image/Tercio.JPG
あなたが挙げたこの画像と同じサイトに、こんな画像↓もあるようですよ。
http://historywarsweapons.com/wp-content/uploads/image/Tercio_Spanish.JPG
wikiのオランダ式大隊、スウェーデン式大隊の図で両者が区別されていないのは、
それらの全盛期の17世紀にはアルケブスとマスケットの区別がなくなって全てマスケットと呼ぶようになっていたせいです。
スパニッシュ・テルシオの全盛期は16世紀。おわかりいただけたでしょうか。

こんなのもありますが。
http://greatestbattles.iblogger.org/Renaissance/14&15_Spanish.htm
http://forum.milua.org/archive/TactiqueUk.htm
これがMusketeer
http://greatestbattles.iblogger.org/Renaissance/14_Spanish_musketeer.gif
これがArquebusier
http://greatestbattles.iblogger.org/Renaissance/14_Spanish_arquebusier.gif

ていうか自分で
「(アルカブス兵とモスケット兵は)本質的に異なるのではなかろうか? 」って書いてるじゃないですか。>>618
変な人ですね。
当然ながら大型の火器を扱うモスケット兵のほうが給金は高いです。
622人間七七四年:2011/02/23(水) 08:31:19.98 ID:4Ggu0FgJ
>>620
>『テルシオ陣形では前列に大口径のマスケット、側面/背面にはアーキュバスを持った銃兵を多く配置した。』は根拠の無い思い込みではなかろうか?
いいえ。当時のテルシオ編成において常識です。
623人間七七四年:2011/02/23(水) 08:50:53.64 ID:7cxcvFmM
常識なのは、マスケットを装備したマスケット隊が前面で
側面や背面に槍兵とアルケブス兵の混成部隊が位置することでしょ
624人間七七四年:2011/02/23(水) 10:40:17.52 ID:4Ggu0FgJ
>>623
パイク方陣は側面ではなく中央に位置する。
その四辺を覆うように銃兵。前辺はマスケット兵。
後期には火力補完のため四隅に銃隊方陣を置いた。
625人間七七四年:2011/02/23(水) 12:09:05.60 ID:7cxcvFmM
>>624
槍兵は前面にも側面にも配置されてるよ
626人間七七四年:2011/02/23(水) 17:03:25.08 ID:cPmdIvZ6
上杉祭りで鉄砲隊が空砲演舞するけど音すさまじいな。
627人間七七四年:2011/02/23(水) 20:51:21.31 ID:/IRekkRI
>>626
米沢鉄砲隊は30匁筒撃つからな。ありゃすげえよ
628人間七七四年:2011/02/23(水) 21:02:44.81 ID:476lyTqq
>>627
去年行ったときは音に驚いた子供が泣いていたっけ。
629S字型金具:2011/02/25(金) 00:46:09.04 ID:dCBmmHGb
1592年ごろ明国の総兵官だった侯継高が、当時の日本についてのそれまでの情報をまとめて書いた「全浙兵制考・日本風土記」がある。写本を重ねる内に、日本での書き込み、改変、省略、欠損があるが、中国人から見た当時の日本が垣間見れる。
その中で、「砲」(鉄朴・テツホウ)を『武具』と『呴器』の両方の分類に入れている。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_d0263/bunko08_d0263_p0034.jpg
『呴器』とは「三絃子」(三皮仙・サミセン)や「鐘」「鑼」「鼓」「鈴」など音を出す道具のことである。
>>626 >>627のコスプレ鉄砲隊の鉄砲は空砲なので『呴器』の範疇に入り、「鉄砲隊」ではなく今で言う「音楽隊」に該当し、演技である。
弾を入れないので空気抜けが良く、また、装填火薬量を多くしても銃身破裂の危険性が低くいので、より大音量が可能となりコスプレ効果が高まっている。

エスパニヤ人であるメンドーサが1580年頃の中国見聞記「シナ大王国誌」には、
『およそ二万名の槍兵(ピケーロ)と火縄銃手(アルカブセーロ)がラッパと太鼓の音にあわせてじつに機敏に行動した。
まず合図と同時に進軍隊形をつくり、つぎの合図では密集隊形となり、そのつぎの合図では火縄銃隊が本隊から散開して整然と射撃をおこない、ふたたびもとの位置にもどった。これが終了すると槍隊が散開してまことに巧妙に目標に襲いかかった。
その有様を見てエスパニャ人たちは、この軍隊が世界のどの軍隊よりも優秀であり、もしもかれらの士気が旺盛で、その訓練と兵員数と同様に優っているならば、容易に全世界を征服することができるであろう、とおもったほどである。・・・・
この閲兵は四時間つづいた。チナ人たちが明言したところによれば、たとえ敵襲の恐れのないときでも、国内の全都市において同日の同時刻にこの行事がおこなわれるということであった。』
と書いてあるので、「当時の中国(明)には多量の火縄銃があった」としている人がいる。
しかし、メンドーサは「自国のテルシオ陣形を知っていて記載した」と思われるが、音を聴いたのであって、弾の発射を見ていない。

内閣文庫所蔵本「日本風土記」の『武具』には、火器の「手銃(鉄火也)」「鳥銃(弾我皮世也)」「発狼箕・イシヒヤ(酷尾突治失・クニクヅシ)」「狼銃(一路也里)」などが入っている。
『呴器』に「爆伏」、「火薬」を入れているので、「砲」(鉄朴・テツホウ)が『武具』の分類に入れるほどの威力があったかどうかは疑問である。
「砲」(鉄朴・テツホウ)を日本人が申告したものかどうかは判らぬが、手銃(鉄火也)は九州地方の「手火矢」、または火箭の可能性があり、狼銃(一路也里)は火槍の可能性がある。
当時の朝鮮には「鳥銃」が無く、明国に「鳥銃」があったとしても威力は低く、また、明国の火器の種類も日本と異なり、「テッポウ」に該当するものはどれか、私には判らない。
630人間七七四年:2011/02/25(金) 00:58:50.65 ID:SN6Hd6Ye
>>629
君に聞いてないから。
自分の妄想に都合いい史料だけ拾って来て
妄想組み立ててダラダラ書く君より、
「コスプレ鉄砲隊」を一度でも見た方が、はるかに鉄砲について分かる。
631人間七七四年:2011/02/25(金) 10:12:55.06 ID:Nt1+42WP
>>629
そういう我田引水的な解釈はやっちゃいけないことなんじゃないの?
632人間七七四年:2011/02/28(月) 17:20:22.29 ID:W2BZrexs
詭弁のガイドラインの見本みたいな人だな
633人間七七四年:2011/03/01(火) 19:39:35.51 ID:cdeKKpvu
たぶん自分の何がおかしいか未だに気づいてないと思う
634人間七七四年:2011/03/01(火) 19:40:17.96 ID:vREV8Dka
偏執的に粘着してる奴も大概だけどな
635人間七七四年:2011/03/01(火) 23:24:37.36 ID:Ytb1agpq
なんども迷惑だって言ってるのに無視して居座ってるんだもの。
何言われたってしょうがないわ。

彼は自分がどうして周囲とトラブルを起こすのか理解できないし、そもそも何が問題なのかもわかってない。
相手の言葉も歪曲して自分流に受け取ってしまうから、コミュニケーションが成り立ってない。
636人間七七四年:2011/03/02(水) 11:15:04.16 ID:x2ckE6Sm
しかし彼がいなければスレが落ちる罠w
何の役にも立たないお前らよりもずっとか役に立つ
適当に読んでる分にはまあ面白いw
637人間七七四年:2011/03/03(木) 18:30:49.24 ID:sMJLjdJE
落ちるなら落ちればいいよ
落とさないためだけなら不快な長文なんぞ要らん
638人間七七四年:2011/03/03(木) 19:36:30.64 ID:MWHn21MM
同意です。
不快なだけではなく、彼の書く内容は誤ってるからね
639S字型金具:2011/03/03(木) 20:52:58.93 ID:4NZRvxc8
戦国時代の硝石についての疑問@

火縄銃にとって黒色火薬は兵站物資として、最重要物質である。その主成分は炭素、硫黄、硝酸塩であるが、その合薬方法など日本の銃砲史にとって未解決な部分が多い。
『炭素』成分として草木の炭が使われるが、煮炊き、暖房など、火薬以外の用途も良く知られているので、普通「炭=黒色火薬」と捕らえない。
『硫黄』は日本が火山帯に位置するため産出し、火山の少ない中国や朝鮮などへ多量の輸出や献上などの記録がある。しかし、当時の日本での火薬以外の用途は記録されていないのでよく解らなく、その精製法や流通など不明な点がある。
『硝酸塩』については一般的に硝石、また、焔硝、塩硝、煙硝などの名でも呼ばれている。その用途は漢方薬の他、日本では黒色火薬以外の用途について言及されたものが無い。
日本の銃砲史は、鉄砲伝来(?)時には天然硝石の産出は無いとして、すべての硝石は輸入品としている。その後国内で焔硝の生産が始まり、需要が多かった時には一部輸入し、余った時には輸出したとしている。

1448年(文安5年)の朝鮮王朝実録に、源義成(第8代将軍足利義政)が朝鮮国王に焔硝(硝石)20斤を献上した記録がある。
『其書曰:日本国王源義成奉書朝鮮国王殿下。両国中間、海程万里、隣好不渝、天水一碧。・・・・
別幅:彩画扇二百把、黒漆鞘柄大刀一十把、練緯絹二十段、香五十觔、胡椒三百觔、焰硝二十觔、沙魚皮二十片、生脳二十觔、鮫魚皮五十片、朱漆木車椀一百一十事、白鑞一百觔、蘇木一千觔。』

献上品には胡椒などの輸入品が含まれるので、この焔硝が中国産か国産品かどうかは不明であるが、日本人が焔硝についての知識があったことは事実である。
当時の朝鮮も天然の硝石の産出が無いので、自国で床古土法により焔硝を生産して火器を運用している。
焔硝の献上記録はこれのみで、なぜ日本国王(将軍)の献上品に焔硝が含まれていたかは謎である。
1斤600グラムとすれば20斤は12キログラムとなるので飲用漢方薬としては多すぎ、朝鮮に無い高純度焔硝の酸化剤としての用途が考えられる。
日本は古来より朱色を好み、神社や国旗にまで朱色を使う、朱(丹)の国・鉛丹の国であり、錬丹術があったと思っています。 >>610
640人間七七四年:2011/03/03(木) 22:50:50.46 ID:QKeSzC5e
もういいよ・・・
641人間七七四年:2011/03/03(木) 23:01:54.85 ID:lIEQWPvT
疑問点を引いて反論して貰えると見てる側としてはすげー楽しいんだけど
642人間七七四年:2011/03/04(金) 21:38:27.90 ID:SMOF1sDs
自分のブログでやってくれねえかな。
643人間七七四年:2011/03/06(日) 17:25:26.88 ID:+v5sdylD
>>641
いや、それは無理でしょ。>>642みたいな荒らし兼保守する能力しかないのは今までの流れを見てればねえ。
644人間七七四年:2011/03/06(日) 23:50:36.57 ID:jZ5vyJRo
つうかS字は、最初の頃はコミュニケーションが取れていたから問題なかった。
それが一年ちょっと前、変な連載を始めだした頃からおかしくなっていった。
何かあったのか?

S字さんに聞くよ>>639、自分のやってることをどう思ってる?なんで答えるべきことに黙ってるの?
なんか人間味が感じられないんだけど。
645人間七七四年:2011/03/07(月) 00:19:58.30 ID:wlwzhSta
S字にとってみりゃ自分以外は皆荒らしなんだろ
646人間七七四年:2011/03/07(月) 17:55:51.67 ID:Oylfne9T
居場所が無いんでしょ
話を聞いてくれる人もいない
ここなら誰かは読むもんね
647S字型金具:2011/03/15(火) 19:42:20.94 ID:XkroXJrZ
戦国時代の硝石についての疑問A

洞富雄さんは、著書「鉄砲―伝来とその影響」で「古くから日本に火薬があったのではないか?」と指摘している。洞さんが何を言いたいか良く解らないところがあるので、P43・P44の全文を紹介します。

『※なお、「明史」巻322、日本伝には、古くから日本に火薬があったことを示すかのような不思議な話が載っている。それは胡藍の獄で有名な胡維庸の謀反に関係したことで、公武20年(1387)の記につづけてこう述べているのである。
「先是、胡惟庸謀逆、欲籍日本為助、乃厚結寧波衛指揮林賢、佯奏賢罪、謫居日本、令交通其君臣、尋奏復賢職、遣使召之、密致書其王、借兵助己、賢還、其王遣僧如瑤率兵卒四百余人、
詐称入貢、且献巨燭、蔵火薬・刀剣其中、既至、而惟庸己敗、計不行、帝亦未知其狡謀也、越数年、其事始露、乃族賢、而怒日本特甚、決意絶之、専以防海為努、」
この火薬云々の一件は、「明史」の日本伝に記されているだけで、同書、巻308の胡惟庸伝や「明史紀事本末」巻13の胡藍之獄の条には見えていない。
これについて、所荘吉氏は「(補説)天文以前における銃砲伝来の実否について」(「銃砲史研究」第83号、1976年10月)で、「この事件は「明史」のみでなく、「皇明実録」、「皇明祖訓」に掲載されているにもかかわらず、信じ難いことで、
胡惟庸を失脚させるために、明代における仮想敵国日本の名を利用したものと考えられ、このような事実は否定さるべきであり、それにともなって、南北朝時代にわが国で火薬が製造されていたことも否定されよう」と断じている。
わたくしも所氏同様、「明史」日本伝に見られる、明初の洪武年間はやくも日本人が火薬をつかっていたかのような記述内容を、そのまま真実をつたえていると信じようとするものではない。
ただ、所氏の述べているところを読んで気になる点がある。それは「皇明祖訓」や「明実録」にも、火薬云々と記されているように誤って読みとる向きがあるやもしれないということである。
「皇明祖訓」には、「日本国」として、「雖朝実詐。暗通奸臣胡惟庸、謀為不軌。故絶之」と記しているだけであり、「明実録」(洪武30年8月丙午条)には、胡惟庸の謀乱と外国との関係が記されているが、日本のことは見えていない。』


鉄砲伝来(?)よりも155年前、「南北朝時代にわが国で火薬が製造されていたこと」を否定して良いのだろうか?
○太祖皇明祖訓の読み下し文で、「朝」を「日本朝」として「日本朝すると雖も実は謀りて、暗に奸臣、胡惟庸と通じ、不軌を為す事を謀る故に之と絶つ。」と書いてあるものがある。
○鄭若曽が1562年に著した「籌海図編」にも、「十五年、賊臣胡惟庸党備倭指揮林賢、入倭搆乱、十六年、寇金郷、進巨燭暗蔵火薬兵器、佐惟庸為不軌、于是高皇帝訓、絶其往来、」とあり、以前より日本に「火薬兵器」があったことを認めている。
648人間七七四年:2011/03/15(火) 20:18:53.20 ID:v6I/UQAL
西欧ですら14世紀末には火薬が伝わっていたんだから
日本にも当然伝わってたと考えるのが自然だろ「このような事実は否定さるべき」とか
どこの老害暗黒爺だよ
649S字型金具:2011/03/15(火) 21:14:08.62 ID:XkroXJrZ
>>648
>日本にも当然伝わってたと考えるのが自然だろ「このような事実は否定さるべき」とかどこの老害暗黒爺だよ

老害暗黒爺は『所荘吉』さんで、「このような事実は否定さるべき」と書いて日本の銃砲史・火薬史を組み立てており、現在の定説となっている。
「ID:v6I/UQAL」さんのような考え方は、まだまだ少数意見である。
650人間七七四年:2011/03/15(火) 21:32:19.57 ID:rvBRvm8A
S字さんもお変わりないようで何より
651人間七七四年:2011/03/15(火) 21:49:17.45 ID:v6I/UQAL
とっくに死んでる爺さんの学問とは言えない時代の仮説を、未だに見直しもせずなぞるだけとか
明清の儒学者かよ、というよりこの方面は全然研究者いないの?
652S字型金具:2011/03/15(火) 22:40:02.62 ID:XkroXJrZ
>>651
鄭若曽は、明・清の儒学者ではない。
この方面(銃砲?・火薬?・花火?)は、範囲が広い割にはマイナーな分野で、本を書いても多くは売れない。そのため、研究者(学者)は経済的に生活が成り立たないので少なく、殆どの方は趣味の範囲でのサブ研究となっている。
しかし、歴史からも消えており、面白おかしく書けば売れる要素があるのでトンデモ本、ゲームか現実か判らないものが横行している。
653人間七七四年:2011/03/21(月) 00:44:48.11 ID:WCz03qyl
確かに武器防具は研究大会的なものがあまり無さそう
654S字型金具:2011/03/23(水) 01:01:33.11 ID:1HWRnTyq
戦国時代の硝石についての疑問B

小葉田淳さんは、「天文期以前に日本人が火薬を朝鮮に持参していた」と書いている。
『日本では、ほぼ天文の前期一五三〇年代の終りを画期として、これまでと反対に銀の輸入から輸出へと転ずる。金はこれまでの輸出から輸入へと変ることになる。
朝鮮半島との貿易では、李朝は、はじめ日本との金銀貿易は一般にきびしく統制した。朝鮮銀の輸出を禁上し、日本金の輸入も原則として禁止している。そのため民間で密貿易によって金銀が交易された。
貿易禁制品が民間貿易で取引されるため、十五世紀中期に一切私貿易を禁止してすべて公貿易としたこともあったが、公費が嵩むので私貿易開禁の議論もでた。
しかしそのために生ずる難点の一つは、日本人が火薬や金を持参して朝鮮銀と交換する機会を多くあたえることであった。朝鮮としては日本金の輸入より朝鮮銀の輸出を取り締ることに重点があったのである。
十五世紀後期より大名らの使送船による金の輸出が増加し、十六世紀はじめにも日本金の朝鮮流入はさらに活発になっている。』

朝鮮王朝実録の1485年(文明17年)の2・3月の項、「命召随駕宰相更議倭物私貿易便否」に日本人との火薬貿易について書いてある。
『・・・・如三浦、則倭奴所売者、金、銀、銅、鉄、皮物、朱紅、石硫黄、皆我国功用之物、而我国禁物、亦不過火薬、金、銀数物而已。
・・・・赴京之行、禁物之令、雖厳然、或以銀、或以他禁物、挟帰潜売者有之。但無現発者、故未之罪耳。 今於倭人、如以火薬、銀換金、此実禁物、当置重典。・・・・』
『・・・・右副承旨李世佑啓曰:金、銀、貂鼠皮、我国不産、於中国、則固是禁物、若於倭人、則非是禁物。但火薬雖為禁物、而人民得之為難、此則似若無慮。但倭人、性本軽躁、興販之際、若争利相害、於国体何如・・・・』

朝鮮では金、銀は不産としていていながら、日本の金と朝鮮の銀とを交換すると書いてあるが、この「火薬」の正体については良く解らない。
朝鮮において火器用の火薬は一般人にとって全く必要性は無く、市中に出回ることはない。この文面から、この火薬は火器用の火薬と思えず、小葉田さんが「日本人が火薬を持参した」とするには他にも何か根拠となる文献があるのだろうか?
いずれにしても、鉄砲伝来(?)よりも57年以上前の、1485年以前より、日本人が火薬についての知識があったことは間違いない。
655人間七七四年:2011/03/23(水) 03:07:56.95 ID:MWXT1VZC
火薬という言葉は、中国人にしては珍しく炭粉と硫黄と硝石を一定割合で混ぜた
厳密な火薬の意味でしか使われてないから、朝鮮がわざわざ独自の使い方をしてたとも思えんけど
656人間七七四年:2011/03/23(水) 10:54:22.32 ID:30TPsPc1
朝鮮は14世紀から大砲・銃・火矢の量産を行っているから市中に出回る可能性は否定出来ない
657人間七七四年:2011/03/23(水) 21:10:35.10 ID:vNbVez6l
大量生産したにも関わらず日本の火縄銃(鳥銃)より性能が低いってのは悲しいな。

ロケット花火のお化けみたいなのとか、爆発して金属片を飛ばす震天雷とかは
作ってたみたいだけど、どの程度の規模で運用してたのかねえ。朝鮮史観で
膨らませたのではなく実態に興味がある。
658S字型金具:2011/03/23(水) 21:17:05.71 ID:1HWRnTyq
>>655
古代中国では、火薬は「火の薬」として取り扱われ、仙薬、丹薬など火器以外での利用があり、その頃の火薬は炭粉が入っていませんでした。可燃物としての炭素成分は油などであったと思われます。
炭粉を混ぜ合わせた始めの頃は、「黒火薬」として別に扱っていたと思われます(たしか?)。
朝鮮では、火薬(鉄砲薬とは限らない)を医薬品の外、民生用にも使っていたようです。

>>656
量産していたかどうかは判りませんが、14世紀の朝鮮の火器での使用はありえるかもしれません。しかし、15世紀以降の朝鮮では火器用火薬の取り締まりは、非常に厳しいものがありました。
659人間七七四年:2011/03/23(水) 22:17:57.89 ID:XIibwn6/
中国の科学と文明に、宋代のそれ的な書物(何処に書かれてたか見つけられず)で「火薬」の語は
炭粉と硫黄と硝石を一定の割合で混ぜたものを指す、とあるから当時は今と同じ意味で「火薬」
「黒火薬」←訳者が注釈無しでこっちに火薬を当ててたらアレだけど、の語を使ってたんじゃね
660人間七七四年:2011/03/27(日) 22:13:46.89 ID:1NwP81WZ
銃身が鉄(埋まっている)のホイールロック式を入手しました。
最初、デニックスかと思ったのですが…検索してもありませんでした。
モデルガンなのは間違いないのですが、デニックス以外で販売していましたか?
教えてください。
661人間七七四年:2011/03/28(月) 14:54:14.21 ID:0OYyq4bK
画像上げてちょ
662人間七七四年:2011/03/28(月) 18:38:14.37 ID:v9sz2nGU
黒光りする長い棒up
663人間七七四年:2011/03/29(火) 20:00:09.54 ID:yIQ/bvA8
画像遅くなりました。
詳しい方、教えて下さい。
http://www.bannch.com/bs/bbs/648441
664人間七七四年:2011/04/04(月) 13:40:57.44 ID:mE3mKbWE
姉妹スレ
【火縄銃・マスケット銃】鉄砲・大砲の歴史 【種子島・ライフル】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1179124918/
[近世総合]大坂の陣、火縄銃、戦国・江戸・大航海時代3
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/army/1296659597/
665S字型金具:2011/04/13(水) 20:20:32.12 ID:gpUh9O7X
戦国時代の硝石についての疑問C

『イエズス会士日本通信』の書翰集にポルトガル人へ硝石の入手要請をした手紙が載っている。
この手紙は鉄砲が伝来した(?)とされる25年後の1567年(永禄10年)に、キリシタン大名の大友宗麟がシナ滞在中の司教ドン・ベルショール・カルネイロに送付したものである。
この手紙を硝石輸入の根拠として取り上げられているが、相手の毛利元就には自製している記録(弘治年間)があるので「硝石の当地輸入を一切禁止」はあまり意味が無い。
硝石200斤(黒色火薬として160kg)は石火矢(国崩し)30発分ほどで大友家の必要量としては少なく、国産品の他に「毎年、良質の硝石」の輸入が必要となったものと思われる。
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1289142325/109
良質の硝石二百斤で毛利元就に勝てるとは安易な考えで、しかも百タイス【銀一貫目】で勝てるとなればあまりにも安い買い物になり、売国奴のバテレン大名独特の甘えが見え、また、何か裏約束でもあったものか?
この手紙の返信やその後の結果(輸入されたかどうか)については不明であり、ポルトガル人からの火薬の融通記録は数点あるが、私の知っているポルトガルからの硝石輸入記録は、この書翰だけである。

『  最も尊敬すべき君。
我等は貴下が本年当地に来られんことを大に待ちゐたる者にして、貴下の渡航を妨げたる原因は小ならざるものと考ふれども、近く相見るの希望を棄てず。
予が常にコンバニヤを庇護せんと欲することはすでに貴下の聞に達したらんと信ず。
予が山口の王【毛利元就】に対して勝利を望むは、かの地にバードレ等を帰住せしめ、始め彼等が受けたるよりも大なる庇護を与へんがためなり。
而して予が希望を実現するに必要なるは、貴下の援助により硝石の当地輸入を一切禁止し、予が領国の防禦のためにカピタン・モール【ポルトガル船の司令官】をして毎年良質の硝石二百斤を持来らしめんことなり。
予はこれに対し百タイス【銀一貫目】または貴下が指定せられる金額を支払ふべし。この方法によれば、山口の暴君は領国を失ひ、予がもとに在る正統の領主【大内輝弘】その国に入ることを得べし。
貴下の手に接吻す。
本日陰暦第九月の十五日【永禄10年9月15日は1567年10月17日に当る】 』
666人間七七四年:2011/04/13(水) 20:59:33.13 ID:+RK+iIqU
戦国大名直筆の書簡、というか東西問わずお偉いさんの書簡って割とそんな感じの文書多くね
大仰というか大らかというか気宇壮大というか空想的というか
667S字型金具:2011/04/25(月) 00:25:08.74 ID:yReM8OWd
戦国時代の硝石についての疑問D
硝石を輸入品としている人の根拠集

@岡本良知『十六世紀日欧交通史の研究・昭和11年(1936年)』
『また、火器弾薬原料が輸入せられた。推察するにその数量は頗る多かつたに違ひないが、的確にそれを知ることが出来ない。その理由は蓋し多くの場合商取引として、日本商人の手を経ることがなく、
直接に諸侯、殊に基督教諸侯に引き渡され直に戦争に使用せられたからである。その輸入し直接交付せられた二・三の例を次に挙げる。・・・・』

A田中健夫『倭寇−海の歴史・昭和57年(1982年)』
『「倭好」のなかには入れられていないが、鉄や硝石も倭寇の重要な需要品であった。種子島の鉄砲伝来後、日本各地で鉄砲が生産されるようになったが、日本の鉄はもろく、福建地方やシャムから鉄を輸入したという。
また火薬のもととなる硝石も日本には産出しないので中国から買い、遠くシャムまで足をのばして購入に行ったこともあったそうである。このことは「日本一鑑」に書いてあることである。これらの商品の対価はおおむね銀で支払われた。・・・・
「日本一鑑」は鄭舜功が、嘉靖三十四年(一五五五、弘治元)から同三十六年まで、三年間豊後大友氏のところに滞在した日本生活の経験をもとに嘉靖四十四年に書いたものである。』

B岡田章雄『キリシタン風俗と南蛮文化・昭和58年(1983年)』
『戦国諸大名の間で鉄砲がさかんに利用されるようになると、火薬の原料、とくに硝石の需要が高まった。
わが国には硫黄は多く産出するが、天然硝石は産出しない。そこで外国船により、また海外渡航船によってインドシナやシャム(タイ)・インドなどその産出国からさかんに輸入された。』

C宇田川武久『近世初頭における火器の普及と生産・平成2年(1990年)』
『鉄炮は火薬がなければ、ただの鉄の棒にすぎない。したがって日本に鉄炮が伝えられたころ、火薬は鉄炮とセットでもたらされたとおもう。
このことは鉄炮伝来後、まもない時期と推定される種子島弾正忠宛の将軍足利義藤御内書に「鉄放薬事、南蛮人直令相伝、調合無比類之由、被触御耳、武家御内書如此侯、於無相違者、可為御祝着之旨候、聊以不可有御他言由侯」と、
種子島時尭が南蛮人から相伝した鉄放薬の調合法は比類がないから伝えて欲しいと、述べている事実に明らかである。
倭寇は鉄炮を交易品としたから必需品の火薬も取扱ったに相違ない。』
668人間七七四年:2011/05/03(火) 13:29:12.01 ID:GC3cYODu
S字さん、がんばって!
669S字型金具:2011/05/04(水) 00:48:44.73 ID:Du9+F7bF
戦国時代の硝石についての疑問E
硝石を輸入品としている人の根拠集

D岩堂憲人『世界銃砲史・平成7年(1995年)』
『すでに述べたように、銃砲類は彼らの対日貿易品ではなかった。しかし、このことを明確に証しうる資料は日本においても、ポルトガルにおいても、またそれ以外の所でも現在までのところ、発見されていない。
したがって、筆者としてもそれらが輸入商品としての規模で日本に持ち込まれた痕跡のない事から推測したのであった。そして、これはまた硝石についても事情は同様である。』

E生田滋『東南アジアの大航海時代・平成13年(2001年)』(原本未読)
『東南アジア史の研究者である生田滋氏が、次のように指摘されている。
なおここで注意しておきたいのは、大砲、鉄砲の導入は、それとともに火薬の原料としての木炭、硫黄、硝石、銃丸の原料としての鉛、火縄の原材料としての綿糸などを供給するシステムが確立しないかぎり不可能だということである。
例を日本にとってみると、これらの原料、原材料のうち、火薬の原料としての木炭、硫黄は豊富に産出するが、その他の原料、とくに硝石と鉛の供給は来航するポルトガル船に仰いでいたのである。
また大砲、鉄砲ともに最初は「輸入品」を使用していたに違いないが、それを「国産化」する場合には、それなりの技術水準が必要である。
日本の場合でも種子島には原材料である砂鉄、製鉄の技術、鉄製品の製造の技術はあったが、尾栓のねじ切りの技術がなく、これをポルトガル人に教わって初めて鉄砲の製造が可能になったのである。』

F井沢元彦『逆説の日本史・戦国野望編・平成13年(2001年)』
『しかし、問題は、世界有数の火山国で鉱物資源の種類は極めて豊富なこの国に、硝石はまったく産出しないという事実である。
鉄砲は火薬がなければ、ただの「鉄棒」に過ぎない。こう言い換えてもいい、鉄砲を大量に作る技術があったとしても、それだけでは鉄砲は使えない。使うためには、日本では絶対手に入らない硝石の輸入ルートを確保していなければならないのである。
ポルトガル人が種子島時尭に鉄砲を献上した(贈与した)というのも、この硝石のことを考えれば、有り得ないことではないことがわかるだろう。』
670人間七七四年:2011/05/04(水) 01:47:31.85 ID:LnRPiTYH
2000年代にもなってこれとは酷いな
生田滋とかいう奴も井沢と同レベル
671人間七七四年:2011/05/04(水) 13:22:14.37 ID:0qADpV9o
中古だけど、火縄銃のレプリカ欲しい人いない?

送料込みで6000円。
長さ110cm、重さ3kg。メーカー、定価不明。
フロントのカラクリ部分も動きます

http://e.pic.to/16gt37
http://s.pic.to/16c45f
672人間七七四年:2011/05/05(木) 00:38:05.20 ID:BdWGGTFM
あくまで音で相手を萎縮させるのが主目的だった感じ
673S字型金具:2011/05/09(月) 00:34:50.78 ID:+0e1ksqQ
日本の歴史教育の現状を憂う

雑誌(07703-04)ではあるが、磯田道史(日本史家・茨城大学准教授)と水野和夫(エコノミスト・埼玉大学大学院客員教授)の対談が載っていた。

磯田『話は少しそれますが、武士の格差をなくしたのは、火縄銃がライフル銃になったことが大きいですよ。』
水野『ほう。』
磯田『火縄銃というのは射程距離が百五十メートルしかなくて、毎分一発、せいぜい二発しか撃てない。ですから騎馬武者たちは在来の、あんなに足が短い馬でも足軽の鉄砲隊を蹴散らすことが可能だったんです。
足軽というのは農家のアルバイトがほとんどでしょう。代々武士で、子供の頃から討ち死にしてもかまわんという教育を受けている騎馬武者が向かってくると、やはり怖いわけです。
ところが、そこに射程距離五百メートルのライフル銃が出てきた。もちろん命中率も高い。そうなると、騎馬武者が背中に旗を立てたり派手な鎧を着たりするのはもはや自殺行為でしかないんですね。』
水野『撃ってくださいって言っているようなものだ(笑)。』
磯田『ライフル銃さえ持てば、たとえアルバイトの足軽でも英雄になれてしまう。騎馬武者の時代の終焉です。』
水野『テクノロジーの革新が格差を是正したいい例ですね。皮肉なことに今は金融というテクノロジーが格差拡大を助長していますが・・・・・・。』

個人にとって歴史観は様々であろうが、人々は教育によって大きく影響を受け、特に権威や肩書きに弱い我国では教授クラスの人の発言は社会に影響を与え、その後の訂正・修正は困難を伴う。
田中健夫(東京大学名誉教授)さんによる『倭寇図巻』の解説訂正は、何時・誰が行うのか? <<441
近世初頭から幕末維新期にかけての日本近世史が専門の磯田氏の発言内容は以前からのようで、水野氏も笑って同調している場合ではない。
http://kbaba.asablo.jp/blog/2006/05/03/
戦後の日本の歴史教育の結果がこれであり、今後の歴史教育はどうなるのだろうか?
674人間七七四年:2011/05/09(月) 00:55:19.30 ID:IKgmsN4a
日本史でもこんな有様なのか‥
本国で見直しが進んでる西欧史でも、未だに30年以上の前の歴史観を信奉して
新しい研究成果を無視し続ける歳の逝った日本人西欧史家は多いけど
675人間七七四年:2011/05/09(月) 17:13:10.02 ID:WIJYIaL8
突っ込みどころしかない
676S字型金具:2011/05/17(火) 01:02:06.27 ID:9GbWjj4N
戦国時代の硝石についての疑問F
硝石を輸入品としている人の根拠集

G佐々木稔『火縄銃の伝来と技術・平成15年(2003年)』
『問題は火縄銃を製造するための原材料である。すでにI部の第一章第2節でも簡単に触れたが、亜鉛(もしくは真鍮)・鉛・硝石は、最初から輸入に頼らざるを得なかった。また原料鉄の多くは、それ以前からも輸入されていた。
したがって火縄銃の伝来は、数種の原材料の調達を含む一連の生産システムとして導入された、意図的な事件の可能性がある。
たんに火縄銃が伝来したことだけを見てしまうと、歴史の真実から遠ざかる危険性がある・・・・
(硝石)火縄銃伝来当時は、日本国内では火薬の需要はなく、生産していなかった。明では禁輸品であり、従来説のように密輸品を使用したと考えたい。
(鉄)銑鉄や半製品の鋼材として輸入されていて、その比重は国産の鉄(これには不均質な中間産物が想定されている)よりもずっと高いと考えざるを得ない。』

H武光誠『海外貿易から読む戦国時代・平成16年(2004年)』
『鉄砲伝来をきっかけに、種子島家と倭寇(海商)の頭目、王直との取引が開始されたと思われる。王直の部下の船によって大量の硝石が種子島家にもち込まれ、それが西国各地の商人に売られたのだろう。
種子島家は、この硝石貿易によって大きな儲けを得た。そして、種子島から運ばれた硝石の有力な買い手が織田信長ではなかったかと思われる。』

I久芳崇『東アジアの兵器革命・平成22年(2010年)』
『鉄砲といえば、日本では織豊政権樹立の原動力の一つとなったものとして広くに知られる。そのため、一五四〇年代前半の種子島での鉄砲伝来、およびその後の全国への伝播・普及の状況については、これまでに膨大な研究の蓄積がある。・・・・・
明朝における鉄砲の伝来については、従来の研究ではおおむねその製法がまずポルトガルから伝来したが精妙に模造できず、
次に嘉靖二十七年(一五四八)に密貿易の拠点として倭寇の巣窟となっていた雙嶼を明軍が攻撃した際、倭寇側より獲得した鉄砲、および捕虜となった倭寇を通して日本式鉄砲が伝来したと推定されている。
十六世紀半ばには、威継光らによって鉄砲が積極的に導入され、倭寇対策や北方防衛に効果をあげた。しかしその後、十七世紀初頭にかけての明朝における鉄砲の普及状況については、なお不明確な点が多く、
十六世紀末の朝鮮の役時点における明朝では、十六世紀半ばに伝来した旧式鉄砲が配備されているにとどまり、それは朝鮮の役で日本軍が用いていた鉄砲の性能に遠く及ばないものであったとするのが従来の大方の見解であると言える。・・・・・
朝鮮の役を契機として、日本兵捕虜を介して日本式鉄砲と火器技術とが明朝に伝播し、それが十七世紀の中国北辺での対女真・モンゴル防衛や中国西南部での反乱鎮圧に活用されたことを解明した。
すなわち、十六世紀半ばのポルトガル人などを通じてのヨーロッパ式火器の導入と・・・・・』
677人間七七四年:2011/05/17(火) 01:44:51.28 ID:SThxbJMU
全員学者辞めろ、特に後ろの2人は無いわ
678人間七七四年:2011/05/24(火) 01:55:26.77 ID:2draH7Ph
話題はかわりますが、
馬を飼ってるところの土から火薬つくれるって本当なんですか?
どうも嘘くさくて……。
679S字型金具:2011/05/24(火) 01:58:25.06 ID:kG9R2Jp/
黒色火薬の燃焼残留物量の推定

硝石(KNO3)40〜80%、硫黄(S)3〜30%、炭素(C)10〜40%の範囲内での割合で混合すれば、一応黒色火薬として成り立ち燃焼するが、現在の鉄砲発射薬としての黒色火薬は、硝石75%、硫黄10%、炭素15%が標準的な混合比率とされている。
黒色火薬が燃焼(酸化)すると、N,O,S ,C成分はガス化(N2 ,CO2 ,SO2など)して空中に放出されるが、Kと未燃焼の、S ,C成分はガス化せずに残留する。
標準的な黒色火薬の硝石混合比率75%では、K量は29%『75%×[39÷(39+14+16×3)]=29%』含まれ、この重量割合がガス化しない。
このK量に未燃焼の、S ,C成分が燃えカスとなるが、ガス化した硫黄酸化物量の発生量は少なく、多くの硫黄は燃えカスとなる。(標準的な黒色火薬では、重量の40%以上がガス化しないと推定される)
火縄銃内で発生する燃えカスは、発射の際に銃口と火穴から一部放出するが完全な排出は困難であり、次々と薬室や銃身内にこびり付くので、連続的な発射のために清掃は必須である。
燃えカスのこびり付く量は、火薬の粒形、コーテング、混合比率、薬室構造、火穴の位置、口径などの条件で大きく異なる。
三種の混合比率を変えて燃えカスの少ない火薬は作成できるが、威力のある火薬とは別であり、戦国時代の戦闘中では、薬室までの清掃は必須であった。 >>572 >>310
大砲用の黒色火薬の場合は、砲身の破裂を防ぐために硝石比率を低くして爆発力を抑えているので相対的に硫黄、炭素成分が多くなって燃えカスが増え、また、酸素成分が減るため不完全燃焼となりやすく、炭素成分は多量の黒煙(爆煙)となった。

長篠の戦いで使った3000挺の三段撃ち戦法や輪番による連続射撃が中国明軍に伝播したとして、1638年に明朝で刊行された畢懋康『軍器図説』の鉄砲の一斉射撃戦術図「輪流操作図」を紹介している書籍がある。
この図には、中国銃の特徴である銃床が短く長銃身の火縄銃(長槍?)が描かれているが、中国銃に特有な銃架(又杖?)が描かれていなく、物理的に支えるのが不可能な図が描かれており、連続射撃の伝播の根拠に図だけで判断するのは危険である。
また、燃えカスの事を考慮に入れずに連射が可能であるとしてことや、いまだに火縄銃3000挺の三段撃ちが史実のように思われて、単純に玉数を掛けて総発射弾数量を算出している物もあって定説を覆すにはなかなか難しいものがある。
680人間七七四年:2011/05/24(火) 02:02:12.04 ID:OXxEQ/VX
なんで王直を過大評価したがるアホがいるかね。
ほとんど妄想レベルの話ばっかだよな。
681人間七七四年:2011/05/24(火) 08:14:11.28 ID:jS5HBQeW
火縄銃より海賊の研究した方がいいよね
682人間七七四年:2011/05/24(火) 11:30:55.74 ID:JpYr2H7P
>>678
そのころの厩って確か板敷きだろ、
床下には硝酸カリウムたっぷりの土壌が形成されたと思うよ。
民家の床下の土から火薬作るのと原理は同じだろうし。
683S字型金具:2011/05/25(水) 01:15:02.20 ID:WHdZI9/Q
>>678
>馬を飼ってるところの土から火薬つくれるって本当なんですか?

『萩藩閥閲録』に『えんしようの事申越候虚、早々尋越候、祝着侯』、『鹽硝熱させ侯、然者其方馬屋之土可然之由侯間、可所望侯』、『鹽硝熱侯仁爰元罷越侯、就夫古馬屋之土入之由候條中入侯、某元御短息候て可給候』と書いてある。
この文は弘治三年(1557)ころの手紙で、「馬屋之土」から黒色火薬の原料である鹽硝(塩硝・えんしょう・硝石・硝酸塩)が造れることが判る。
明治十年代では、武田司馬介を社長として東京白焔社が設立され、札幌郊外で陸軍より馬糞の払い下げを受け、主に北海道石炭採掘事業用の硝石を製造した記録がある。

>>682
>そのころの厩って確か板敷きだろ、床下には硝酸カリウムたっぷりの土壌が形成されたと思うよ。

『フロイスの日本覚書』に『われらの厩舎は地上に建てられる。彼らのには板の仕切りがなくてはならない』、『ヨーロッパの馬は、厩舎のなかで地面に放尿する。日本では、長い柄杓(ヒシャク)で人が馬の尿をとる』と書いてあるので、板敷きであることが判る。
となると、厩の土と床の有る民家の土との差は無く、あえて「馬屋之土」と書く必要性は無い。
「馬屋之土」とは武士用とは違って、民衆農耕用の床の無い、馬の食べかすや糞尿の混じった土と思える。
したがって、民家の床下の土とは硝酸イオンの形成過程が異なり、また形成されるのは主にカルシウム塩であって、硝酸カリウムとして収量を上げるためには草木灰を添加してカリウム置換が必要となる。
684人間七七四年:2011/05/25(水) 02:39:16.66 ID:5NSVokks
ごめん、ちょっと話が難しくてよくわかんない。

そのう、結局、火薬の成分ってなんなの?

話をきいてると馬糞からつくれるってことにならない?

もちろん馬糞からつくれるにしても、
戦争とそのための訓練に使用できるほどの量が取れるのかなあ?
石炭採掘事業に使ったとあるけど、
それってたぶん穴掘り用の発破に使う爆薬としてでしょ?

なんか、凄い意外な感じするんだけど。
685人間七七四年:2011/05/25(水) 03:37:00.01 ID:H/GQjUgO
現代的なモノが出来たのは全て20世紀も中頃になってから以降のことだし
そんなもん
686人間七七四年:2011/05/29(日) 00:31:50.21 ID:5XEqRalu
子供のころ読んだ漫画で、うんこの中にふんどし漬け込んで
火薬作ろうとしてた描写があったような気がする
作品名が思いだせんが
687S字型金具:2011/05/30(月) 22:49:52.76 ID:61I+nCdP
戦国時代の硝石についての疑問G

昭和十七年、外山卯三郎さんはポルトガルとの貿易関係の上で、「火器弾薬原料」が贈答品として送られた例はあるが、貿易目的で取り扱って例は無く、貿易品では無いと指摘している。
この指摘は岡本良知氏を批判したためか、なぜか一般には取り上げられず無視されたままになっている。 >>667 @

『以上のやうにポルトガルのカピタン・モールから、或は印度副王から諸侯に贈られた武器と軍需品との記載については、私達も幾つかの文献を知つてゐる。
然しこれがはたして貿易品として輸入されたと言ふ意味において、私達は異義をのべなければなるまい。
岡本良知氏は「火器弾薬原料が輸入せられた。推察するにその数量は頗る多かつたに違ひないが、的確にそれを知ることが出来ない。
その理由は蓋し多くの場合商取引として、日本商人の手を経ることがなく、直接に諸侯、殊に基督教諸侯に引き渡され直に戦争に使用せられたからである。」とのべてゐられる。勿論この岡本氏の言葉にもあるやうに、
(1)これ等の武器や軍需物資の舶載は、日本商人の手を経たものでなく、キリスト教諸侯の手に直接渡されたものである。
(2)しかもそれはキリスト教徒たちの政治的・軍事的な援助として送られたものであつて、商品として取扱はれたものでないと言ふことである。
(3)さうでない場合においても、主として贈答品として送られたものであって、貿易品として舶載されたものでないと言ふことである。
さうした点から見て、岡本氏の「また火器弾薬原料が輸入せられた」 と言ふ言葉は妥当でないと言はねばなるまい。
今日においても贈答品として個人並に使節が携帯する品物には、貿易禁止品もあり得ることをもつて見れば、商業上で言はれる貿易品と明確に区別して考へられねばならないだらう。
従って日本とボルトガルとの最古の貿易においてもまた、鉄砲は明かに貿易品ではなかつたのであつて、私達は現在までにそれ等を貿易品として取扱ってゐる文献は、ひとり日本における間接的な史料以外に見出せないものである。
この点を明僚にするために、私達はこの最古の日葡貿易の時期、即ち一五五五年以前の貿易の項に加へて、それを記述する次第である。・・・・・』

この指摘を確認してみると、一貫した至極自然な流れとなっており、私は真実であると確信している。
688人間七七四年:2011/05/30(月) 22:55:40.80 ID:gR2XkHWN
そもそも、ポルトガル商人や宣教師が切支丹大名に軍事物資を供給した事実無いよね
貿易自体も本国から持ってくるケースは稀だし
689人間七七四年:2011/06/01(水) 01:59:09.46 ID:nVk5g2jd
鉄砲伝来が1543年種子島だけというのも怪しいのだが
かりにそうだとして
鉄砲伝来より前から火薬の使用は来島水軍などが炮烙を使ってる
鉄砲伝来より前に土硝法が伝わってるのは不思議じゃない
690S字型金具:2011/06/08(水) 00:40:56.59 ID:b1Lb/Grd
戦国時代の硝石についての疑問H

岩生成一さんは著書の中で、イエズス会側から見た日本との貿易について書いている。

『現世的利益は貿易のうえでは直接的であり、効果も期待された。当のバリニャーノが、この点についてするどく見ぬいている。かれの報告によると、つぎのようである。
「諸大名は、イエズス会のパードレを介して銀をマカオに送り、その銀で、金または生糸などを求めんとするが、通常金のみを求める。銀を輸出して金に替えるしきたりは、当初、大村・有馬、その他のキリシタン大小名によって小規模にはじめられた。
大友宗麟ごときも、一五七八年(天正六)受洗以前、年額三千ドカード(一ドカードは日本銀約十匁)の取引をするようになった。
キリシタン大名はもとより、未信者たる大名も、たえずイエズス会のパードレを介して銀を金に替えんと欲している。未信者たる大名にたいしても、これを信者たらしめんためには、とくに便宜をはかってやった。
もしこれをこばめば、かれらには怨恨の結果、おおいに憤り、布教に悪影響をおよぼす虞れがある」
そこで宣教師は、領内の布教のためにも、その領主自身の教化のためにも、ポルトガル船の貿易を極度に利用した。また一方、宣教師は会堂・学校や病院維持のために、有力な信徒の浄財をあおぐとともに、ポルトガル貿易商の喜捨を必要とした。
しかし伝道がいよいよさかんになると、これに応じて商人らの喜捨を無制限に期待することはできなかった。ついに伝道資金獲得のために、宣教師みずから生糸などの商品を定期船に託して貿易経営に参加するようになり、王室もおおいにこれを支持した。』

バリニャーノは、インド地方区長巡察使でイエズス会の大立者であって、彼は「日本の諸大名がイエズス会に近づく目的は、銀を金に替えることである。そのため、信者にするために便宜を図ってやった。」と報告している。
しかし、彼は「日本の諸大名は鉄砲・硝石を求めている」とは報告していない。そのため、ポルトガルとの貿易記録の「鉄砲・硝石」は、いくら探しても出てこないのは当然である。
「倭寇が鉄砲・硝石輸入に介在した」とする論も、「日本が鉄砲・硝石を求めていない」とすれば成立しない。
文献至上主義の日本において、なぜ「鉄砲・硝石を輸入した」とする論がまかり通っているのだろうか。自虐史観のにおいがする日本の歴史教育は変えなければならない。
691人間七七四年:2011/06/08(水) 01:36:48.67 ID:x42Wrcti
金ばっかり何に使うんだろうね。
貨幣として使うだけかな。
良質の火薬を作りたい場合のみ宣教師に宗麟のように頼むんじゃない。
あとはかなり国産の生産量はあったんじゃないかな。
692人間七七四年:2011/06/08(水) 05:00:06.32 ID:OWRABOc3
>>690
輸入しなきゃ足りないんだから輸入したのは確実だろ
693人間七七四年:2011/06/08(水) 19:00:07.22 ID:tMHSmadP
なんでS字さん硝石の輸入に噛みついてんの
694人間七七四年:2011/06/08(水) 20:08:12.96 ID:43Vw9qnX
少なくともポルトガルやスペインから輸入した事実は無いよ
695S字型金具:2011/06/08(水) 21:27:37.54 ID:b1Lb/Grd
>>693
井沢元彦著「逆説の日本史(9)戦国野望編」P132〜134
『■「火薬調合法」と「ネジの技術」を伝授したポルトガル商人の真意
そのポイントとは硝石(煙硝)である。硝石とは黒色火薬の主原料であり、今日ではそれを硝酸カリウムと呼ぶ。
無色透明のありふれた鉱物で、世界各地で産出する。南米チリでは硝酸ナトリウムの形で大量に産出するが、これを硝酸カリウムにすることは簡単なので、「チリ硝石」の発見は鉄砲の普及にとって大きな意味があった。
しかし、問題は、世界有数の火山国で鉱物資源の種類は極めて豊富なこの国に、硝石はまったく産出しないという事実である。
鉄砲は火薬がなければ、ただの「鉄棒」に過ぎない。こう言い換えてもいい、鉄砲を大量に作る技術があったとしても、それだけでは鉄砲は使えない。使うためには、日本では絶対手に入らない硝石の輸入ルートを確保していなければならないのである。
ポルトガル人が種子島時堯に鉄砲を献上した(贈与した)というのも、この硝石のことを考えれば、有り得ないことではないことがわかるだろう。
鉄砲は一丁持てば、二丁、三丁と欲しくなる。そして、それを有効使用するためには硝石を大量に輸入しなければならない。ならば初めの一丁ぐらいは「サービス」しても、ポルトガル商人は損はしない。いやむしろ多大な利益が期待できるのだ。
この硝石、いや当時の言葉で煙硝と呼ぶが、この煙硝が輸入品であり、その輸入ルートが確立されない限り鉄砲の大量使用は不可能であることは、戦国史を理解する上に極めて重要なポイントなのである。
前節でも述べたように、ポルトガル商人にとって、おそらく誤算だったのは、日本人が他のどの民族よりも素早く高品質の鉄砲の国産化に成功したことだ。これによって完成品の鉄砲を高く売りつけるということは失敗に終わった。
あまり他の歴史家が指摘していないことを言おう。日本人は昔から外国からの輸入製品を「舶来物」と呼んで珍重してきた。その最大にして最良のコレクションが「正倉院御物」である。
たとえば現代でも、時計つまり「時を測る道具」としての品質は日本製が最高なのに、あえて外国の「ブランド物」を買い求める人が多い。日本人にとって「舶来イコール高級品」なのだが、鉄砲に関しては本場のポルトガル製を珍重はせず、すべて国産の鉄砲を使っていた。
あの「南蛮大好き」の織田信長ですら、「オレの鉄砲は舶来物だぞ」とは言わなかった。戦争だからである。戦争をしている以上、兵器は出来るだけ優秀なものを使わないと命にかかわる。
そのギリギリの選択の中で選ばれたのは、決して舶来物ではなく国産の鉄砲だった。今でも世界の古式銃の大会では日本製の評判が高い。』

読み物としてはおもしろいが、八切止夫さんの「チリー硝石輸入論」を取り入れている点で信頼性が落ちる。
八切止夫さん以外の人も『鉄砲は火薬がなければ、ただの「鉄棒」に過ぎない』こと認め、「鉄砲の使用には硝石の輸入が不可欠である」として著述されているが、硝石輸入の有無は鉄砲伝来を含む銃砲史の根幹に関わる問題である。
696人間七七四年:2011/06/08(水) 23:08:16.94 ID:Tq++1Y7D
火薬の材料が輸入するしか無理としたら、火薬の値段はとんでもなく高かった事になるぞ。
それだと鉄包の普及はあまり進んでなかったんじゃないか?
697S字型金具:2011/06/09(木) 00:49:43.45 ID:zHgf5jSx
>>696
「長篠の戦い」「石山合戦」など日本各地で多くの鉄砲戦が行われ、朝鮮半島での「文禄・慶長の役」でも鉄砲戦が行われたことから、現実に鉄砲は普及していた。
「鉄包の普及はあまり進んでなかった」とする君の推論は、ハズレである。
したがって、「火薬の値段はとんでもなく高かった事になる」もハズレである。
とすると、仮定の「火薬の材料が輸入するしか無理」もハズレとなる。
698696じゃないが:2011/06/09(木) 01:28:52.95 ID:ZYNXVlwA
>>697
696の言ってることは、S字が読み取った意味とは全然違うと思うぞ・・・
699人間七七四年:2011/06/09(木) 06:10:11.27 ID:IPxdGDGs
>>697
輸入のほうが高いとは限らない
土硝法じゃ量が少ないし
硝石は明でとれるから明からの輸入ならそっちが安いんじゃないの
700人間七七四年:2011/06/09(木) 09:02:30.49 ID:ln5GsNhN
国産かなりあったと思うな。
さすがに輸入だけで奥羽に至るまで全国急普及した大量な鉄砲の火薬を賄えるとは思えんわ。
取り立てて記録に残らないのは普通に身近で調達できたからじゃないのか?
もちろん良質なものになると宗麟みたいに宣教師経由でインド〜マカオあたりから来るポルトガル船から購入したんだろうけど。
禁令を犯して中国内陸部から沿岸まで運んでくるのは現実的じゃないし。
江戸時代の糞尿を肥料にするリサイクルなどからして
糞尿を買い取ったりするシステムもすでにあったんじゃないかな?
701人間七七四年:2011/06/13(月) 22:00:41.31 ID:dxE4jF/u
あー 火縄銃撃ちてえ〜〜
702人間七七四年:2011/06/13(月) 22:25:44.56 ID:WbP75V5n
>>699
当時の輸入品がそんなに高くないだと?
アホにも程がある。
703人間七七四年:2011/06/13(月) 22:31:43.32 ID:WbP75V5n
仮に火薬が輸入でしか得られないとしたら大争奪戦になってるだろ。
しかし火薬を大々的に取り合ったという話は聞かない。
704人間七七四年:2011/06/13(月) 22:42:38.89 ID:dxE4jF/u
ぬ? なんか半年前ぐらいに民放でやってた歴史IF番組で、
信長公が死ななかったらどうなるかってやってて、天下統一後唐入りして大陸で
戦うんだけどやはりうまくいかず、徳川家康が信長公に謀反を起こすんだけど
結局火薬の補給が途絶えて長くは戦えず鎮圧されるだろうとか言ってたぞ
でもその番組の先生役の人はとくに有名な大学教授というわけでもなさそうだった
705人間七七四年:2011/06/13(月) 22:45:36.35 ID:SBPFXEfr
さすがに衰えてきているとはいえ明帝国相手じゃ勝てないでしょ
706人間七七四年:2011/06/13(月) 22:52:08.17 ID:rWScnCSo
>>704
ごみみたいな大学教授とか山のようにごろごろいるしな
707人間七七四年:2011/06/14(火) 02:11:20.09 ID:ffFZ7w6V
>>702
輸入品がそんなに高くないなんて言ってないよ
国産と比較しての話し
日本は天然の硝石は産出しない
国産は土硝法といって便所の土の中で化学反応で生じるものを採取するしかない
組織的に生産していたみたいだが少量だから値段も高かった
輸入品のほうが安かったと思うな
708人間七七四年:2011/06/14(火) 02:16:41.65 ID:UGQ7L3iQ
いまの日本じゃないんだからさあ
超先進国の明から輸入するのはどうしたって高くなる
709人間七七四年:2011/06/14(火) 08:43:33.62 ID:NuILCs5I
何でも必要とあらば大量生産しちゃう日本人だ。
ふつうに国内各地で大量生産体制を構築してたと思うぞ。
じゃなきゃあんなに鉄砲が普及するわけがない
710月孔雀:2011/06/14(火) 10:39:47.69 ID:gLKEDKb9
鉄砲は、誰でも上手くなるらしい。
才能なくても射撃上手くなる。
それで、織田は武田に勝った。
711人間七七四年:2011/06/14(火) 12:53:35.45 ID:m2Gp6AXZ
先に布陣してて野戦築城してて(?)
しかも自分達より数が多い軍勢に攻撃したら普通負けます

鉄砲関係ありません
712S字型金具:2011/06/15(水) 01:33:26.41 ID:38P0KDil
戦国時代の硝石についての疑問I

田中健夫さん等は、「日本一鑑」を「硝石輸入」の根拠として取り上げている。>>667 >>669
その記述は「硝:土産所無、近則竊市於中国、遠則興販於暹羅」『硝石:土産なきところ、近くは則ち竊(ひそか)に中国に市し、遠くは暹羅シャム(いまのタイ)と興販す』である。
しかし、「日本一鑑」の此処だけを見れば問題は少ないのだが、次の記述が問題でその中身については怪しいところがある。>>445
「手銃:初出仏郎機国、国之商人始教種島之夷所作也、次則棒津平戸豊後和泉等処通作之、其鉄既脆不可作、多市暹羅鉄作也、而福建鉄向私市彼以作此」
『手銃:はじめ仏郎機(ポルトガル)に出ず。国の商人はじめて種子島の夷に教え作るところなり。つぎは則ち棒津(薩摩)・平戸・豊後(府内)・和泉(堺)等の処、通じて之を作る
国産の鉄は脆くて鉄砲の材料にはならないので、日本は主にシャム(いまのタイ)の鉄を輸入し、また中国の福建の鉄をもひそかに買入れて鉄砲をつくっている。』

「日本一鑑」について、他にも怪しいところが多くあり、その書かれた目的・成立を精査する必要がある。
田中健夫さんは、『「日本一鑑」は鄭舜功が、嘉靖三十四年(一五五五、弘治元)から同三十六年まで、三年間豊後大友氏のところに滞在した日本生活の経験をもとに嘉靖四十四年に書いたものである。』として、倭寇論を展開されているが、
来日と滞在の時期は、1556年(弘治2年)7月から同年12月までの6ヶ月間の短期間で、彼の得た日本に関する情報は豊後の海蔵寺の僧から得たものが多かったと思われる。そのため、矛盾・疑問のある記述の書物になったものと思われる。
そもそも倭寇禁圧のための明国の使いである鄭舜功が、「日本の倭寇についての記載が少ない日本一鑑」を書いた目的や成立時期を知った上で、硝・手銃について判断しなければならない。
手銃について「近ごろ手銃有り。佛郎機中より師出す。國今之れ有り。名を鳥嘴と易う」などと書いてある箇所もある。
713S字型金具:2011/06/22(水) 00:20:29.86 ID:6XgJyGLC
戦国時代の硝石についての疑問J

「日本一鑑」は「桴海圖經」三巻、「阝絶島新編」四巻、「窮河話海」九巻の三部からなる大著で、書かれた時代背景を神戸輝夫さんが記述しています。

『(前略)鄭舜功が日本に赴き,倭冠禁圧を訴える考えを最初に上奏したのは嘉靖二年発未(1523)年であった。しかし,これはすぐには取り上げられなかった。
その後嘉靖年間の倭冠の猖獗にともない,明朝は倭冠対策に迫られ,倭冠禁圧を諭す使者を直接日本に派遣する政策を取るようになる。
嘉靖三四年乙卯(1555)年,鄭舜功は再び倭冠禁圧の使者となることを願いでて皇帝の裁可を得,浙江総督楊宜によって「大明國客」の名をもって日本に派遣された。
鄭舜功の日本豊後への到着は嘉靖三五年仲夏(1556年5月)であり,以来六カ月に亙って豊後臼杵・府内に滞在し大友義鎮(宗麟)から倭冠禁圧の約束を取り付けている。一方,部下の従事官沈孟綱,胡福寧を京都に派遣し,後奈良天皇とその重臣にも接触させた。
鄭舜功は豊後滞在の間,積極的に日本に関する資料と情報を収集し,また沈孟綱らに対しても各種の絵地図などを収集させた。それらは「日本一鑑」を著述するための貴重な資料となった。
鄭舜功の帰国は嘉靖三五年末に豊後府内出帆,翌三六年(1557)一月に広東帰着であった。鄭舜功はその帰国に際して大友義鎮から明国へ派遣された二人の僧を伴っていた。即ち正使の府内同慈寺華岳院主・佐伯龍護寺住僧清授と副使の野津院到明寺僧清超である。
帰国後の鄭舜功らの運命は苛酷なものであった。
鄭舜功を派遣した総督楊宜は既に失脚しており,時の浙江総督胡宗憲は鄭舜功の功績を認めず,逆に彼を迫害して投獄した。鄭舜功の投獄期間は七年に及びその間に清授・清超らは四川に流謫され,遅れて帰国した沈孟綱・胡福寧らは広東海上で殺害された。
鄭舜功は獄から解放された後の余生を「日本一鑑」の完成のために捧げた。鄭舜功の没年は明確ではないが,嘉靖三六年(1557)の帰国とその後の状況を勘案すると,「日本一鑑」の完成の時期は隆慶年間(1567年〜1572年)から万暦年間の初めの頃(万暦元年1573年)にあると思われる。
言わば「日本一鑑」は,鄭舜功の畢生の大作である。
(中略)
鄭舜功の豊後滞在は僅か六カ月に過ぎない。二人の従事沈孟綱,胡福寧の協力も大きかったにせよ,この短期間に見聞した厖大な情報を纏め得るには,豊後の寺僧ら知識人の協力があったものと推測されるが,残念ながら彼らの氏名は分からない。
「日本一鑑」は,まさに明代の日本研究の専門書の「白眉」である。それは著者鄭舜功が日本の土を踏んだことによる成果であろう。彼の果たした任務の大きさに比べて,帰国後の生涯は極めて不遇であった。(後略)』
714人間七七四年:2011/06/26(日) 16:20:22.37 ID:HNx6se+n
戦国時代の硝石についての疑問長ぇ〜よ
715人間七七四年:2011/06/26(日) 16:25:12.25 ID:qNr6RuD+
疑問はもううんざりするほど書いただろ。

だから、S字よ。
S字は戦国時代にどこから硝石を調達したと考えてるんだ?
自説を論じてみろ
716人間七七四年:2011/06/26(日) 20:25:44.98 ID:EJNTgXOh
自作の火縄銃でテレビの画面撃ってみたんだけどブラウン管って思ったより硬いんだな・・・
カキン!ってはね返されたよ。
え?なに?通報?上等だボケ!
717人間七七四年:2011/06/27(月) 05:58:18.05 ID:n2AeRkcU
>>716が作ったのは火縄銃じゃなくて
手砲の類じゃない?w
718人間七七四年:2011/06/27(月) 19:58:25.12 ID:JwUHPDOX
いや妄想の類だろ?w
719人間七七四年:2011/06/27(月) 21:21:13.05 ID:BIL38ntG
716はギャグ書いたつもりだろ・・・
720S字型金具:2011/06/29(水) 00:44:01.39 ID:B3FDx893
鄭舜功が浙江総督胡宗憲によって投獄されている間に、王直など日中の倭寇が駆逐され始め、戚継光(〜1588)は「紀効新書」(1560?)、鄭若曽(〜1570)は「日本図纂」(1561)を著し、日本に関心が持たれるようになった。
翌年、浙江総督の胡宗憲(〜1565)はこれらを基にして「籌海図編」(嘉靖41年・1562)を編纂し、「籌海図編」は嘉靖年間に初刻出版された後も再販され続けてきたので広く知られており、中国の日本認識の原点となっている。
しかし、小葉田淳さんはこれらや、鄭曉(〜1566)の「吾学編」(嘉靖43年・1564)について、
『日本図纂・籌海図編の記事には、日本につき清新有用の文字尠からざるも、猶前代の諸書の記録を任意に剪裁縫合して其間誤謬が僅少でない。(中略)一々学説の煩に揕へぬ。吾学編の妄誤は寧ろそれ以上である』と断定している。
そして、これらの書物が架空の事を記載し、誤診を犯した理由は、『嘉靖の大倭寇を被って、倭寇の真相・防備などを述べて日本の国情に及んだ。そのため我が国情に関し潤色的なものが自然的にも或いは意識的にも濃厚である』としている。
浙江総督胡宗憲(〜1565)の死後、鄭舜功は出獄して「籌海図編」と対抗するように、そしてその内容を批判しながら「日本一鑑」(1567〜1573)を著したが、「日本一鑑」は写本で伝えられたために日本語の研究以外は良く知られていない。
その後、鄭舜功は日本に行っていない鄭若曽(〜1570)から「籌海図編」を改訂するための「日本一鑑」の借用の申し出があったがこれを断っており、ケ鍾は1592年に「籌海図編」を編集しなおした「籌海重編」を出版している。
「籌海図編」の巻十三「兵器」は、「紀効新書」巻之十八「治水兵篇」をより詳しく書いているが、「紀効新書」巻之十五の「鳥銃」については間引きの記述であり、なぜか「神器譜」>>573 の図もある。
「日本一鑑」に「國今之れ有り。名を鳥嘴と易う」と書かれている「鳥嘴銃」について、「籌海図編」にはその鳥嘴銃の図が出ているが、「紀効新書」「籌海図編」共に鳥銃と鳥嘴銃について混乱・矛盾した記述となっており、後の改編・改定が入っているようである。
「紀効新書」では鳥銃と鳥嘴銃はトリガーなどが異なって書かれているので同一形式の銃とは思えず、装備も「鳥嘴銃○○把」「鳥銃火藥○○斤」となっているが、「鳥銃○○把」は出てこない。
硝石を使う火薬は鳥銃薬だけが秘法として詳細に書かれており、鳥銃薬の合薬技術の伝播は難しかったものと思われる。そのため、「紀効新書」を読んでみても、明軍の戚継光らは鳥銃または鳥嘴銃を倭寇に対して実際に使ったようには見えない所がある。
鄭舜功は倭寇対策のために日本に来る前、明軍に鳥銃または鳥嘴銃が有り、それを知っていれば「日本一鑑」に「手銃」とは書けなく、解説文も違うものになるだろう。また、「硝」の用途や「火薬」も記載する必要が出てくる。
721人間七七四年:2011/06/29(水) 03:28:45.24 ID:N31pvr5e
そもそも鳥銃を中国が生産し始めたのって朝鮮出兵前後からでしょ
722S字型金具:2011/07/06(水) 02:18:51.54 ID:rXC8I/BC
戦国時代の硝石についての疑問L

室町時代の日本では「連句連歌」などの文芸が盛んとなり、その創作活動には共通認識の基になる知識が必要であった。五山衆は和漢の古典に長じており、文安元年(1444年)に京都五山建仁寺霊洞院の東麓軒の僧により「下学集」という辞書が編纂された。
この「下学集」の注釈は和漢の古典を拠り所として成り立っており、公家衆や博士家等の学問所の人々、連歌師らにとって受け入れられ、器財門(道具の項)には『作詞に必要な品物』が書かれている。
その後、元和三年(1617年)には刊本となり、以後増補、続刊、重刊され続け、百科辞典の体裁になってきた。
鄭舜功は「日本一鑑」の「窮河話海2巻」の「器用」(役に立つ大切な器物)欄に、『手銃』と『硝』について注釈を付けて書いている。
「日本一鑑」は「桴海圖經」「阝絶島新編」「窮河話海」の3部作で、「窮河話海」は9巻より成り、1〜4巻は物の名の解説(収録語は2530語、器用については536語)、5巻は日本語単語、6〜9巻は日明勘合貿易など日本に関しての情報が書いてある。
「日本一鑑」の「器用」は「下学集」の「器財門」から成り立っており、536語の内432語が共通で、104語が異なるが「下学集」が重要な位置を占める。
鄭舜功は「器用」欄を書くに当たり冒頭で、「器用附言土産」(器用の注釈)について『日本の用器が良くわからない時は項目の下に註を附けず、その他知らない事は訳さないことにした』と書いている。
「彼六月諮其風俗詢其他位得聞其説得覧其書」とあるように、「日本一鑑」は鄭舜功が言葉のよく通じない豊後の大友義鎮の所で6ヶ月の間に日本の国情の調査、資料収集を行った結果を記述したものであるので、当然、間違い・思い違いの記事もある。
器用の注釈は半数程に付けてあり、注釈には産地記載に注意がはらわれており、日本国での産地の記載内容などやその内容から見ても情報源は豊後大友家の僧侶からが主と思え、商人や武士など人からは少ないように思える。
「下学集」に殆ど収録語の無い武器・武具については注釈数が少なく、鄭舜功個人での知見と思われるが、ただ、『手銃』と『硝』については他の収録語とは異なる産地「暹羅(シャム)」や「福建」が書いてあり、中国へ帰ってからの知見ではなかろうか。
「窮河話海」の重複、矛盾など錯綜する記述はやむを得ないが、「鳥嘴銃」という単語は日本では使われておらず中国だけで使われており、『近ごろ手銃有り。佛郎機中より師出す。國今之れ有り。名を鳥嘴と易う』は窮河話海3巻の「漁猟」の欄にあるのは面白い。
723S字型金具:2011/07/12(火) 21:02:39.66 ID:KnD58GbP
戦国時代の硝石についての疑問M

硝石輸入の根拠として、インドに来た日本人(アンジロー)から聞き取ったインド総督宛ての報告書の『シナからは硝石や多量の生糸を持ってきます』を取り上げている物がある。
しかし、この報告書には続きがあり、『また同様に陶磁器、水銀及び麝香の固まりをも持って来ます』と続き、『また水銀若干量と硫黄がたくさんあります』とも報告している。 >>614 >>615
この報告書はポルトガルが日本進出にあたり、1548年にインド総督が知りたいことについて、ゴアの聖パウロ学院長ニコラオ宣教師がポルトガル語を習得した日本人のアンジローから直接聞き取った情報である。
この報告書には『彼らは、エスピンガルダ(小銃)、弓、矢及び槍を持っています』など、日本の大名クラスの武器・防具・馬などについても書いてある。
アンジローは1546年秋(天文15年)ポルトガル人であるアルヴァロ・ヴァス等の手引きで日本を脱出し、1549年にフランシスコ・ザビエルを案内して薩摩の守護大名の島津氏に謁見している。
となると、島津氏など九州地域の大名は1546年よりも前からエスピンガルダ(小銃)を所持し、日本の戦闘にはそれが使われてきた事になる。
当時日本と東南アジア・中国大陸との交通・通信手段は季節風に影響される帆船で行われ、日本への来航は春・秋の2回、日本からの出航は夏の年1回である。
1543年(天文12年)にポルトガル人が種子島へ鉄砲を2挺売ったとする「鉄炮記」との差が3年以内となり、このエスピンガルダ(小銃)は「鉄炮記」のポルトガル銃(?)とは異なる銃となる。>>356
また、この報告書は1546年より前の日本(九州地域?)の硝石の輸入記録でもある。
鉄砲火薬には硝石が必要不可欠であり、この硝石が鉄砲火薬用の輸入品だとするならば硝石の発注・納品には少なくとも1年間が必要となるので、この点でも「鉄炮記」と齟齬が生じる。
しかし、当時、鉄砲火薬に関して「硝石は結晶の形から純度は不明」であり「炭素成分も合薬にはキーポイント」となるので、ポルトガル人等が、貿易船に鉄砲や鉄砲火薬その物を船積して商売に来航する方が合理的で、鉄砲火薬用として硝石単独の船積は疑問である。
また、インド総督が「その他の火器」「火薬」についてニコラオ宣教師に照会していない事も不自然である。
ポルトガル語では、「しょうせき(硝石・消石)」と「えんしょう(焔硝・塩硝)」は同義語として取り扱われるのでこの報告書では区別が着かないが、日本では医薬用は「しょうせき」、火薬用は「えんしょう」の名で取り扱われ、幕末期まで決して混同はされていない。
したがって、「しょうせき」が輸入であるか否かでは無く、「えんしょう」が輸入であるか否かを論じなければならない。
724人間七七四年:2011/07/12(火) 23:24:05.47 ID:B6lKj8HJ
常識的に考えて初めての小銃伝来がポルトガル由来なわけないしな
権威ある愚かな大学者のせいで後学が迷惑な縛りを受ける文系弊害の典型
725人間七七四年:2011/07/13(水) 07:17:22.00 ID:J9zPKeMG
もし硝石が全部輸入としたら、南蛮貿易をやってない戦国大名は鉄砲をあまり使えなかった事になる。
戦国末期になっても鉄砲をあまり使わなかった大名なんているのか?
726人間七七四年:2011/07/13(水) 07:39:16.14 ID:SL6xIeiM
>もし硝石が全部輸入としたら、南蛮貿易をやってない戦国大名は鉄砲をあまり使えなかった事になる。

もし鮫皮が全部輸入としたら、南蛮貿易をやってない戦国大名は刀をあまり使えなかった事になる。
もし銅銭が全部輸入としたら、南蛮貿易をやってない戦国大名は銅銭をあまり使えなかった事になる。

同じくらい言ってることおかしいね
727人間七七四年:2011/07/13(水) 15:09:19.50 ID:sE0JKdNR
銅銭は対外的な取引の為に使われ、使用しても無くならないが
硝石・火薬は基本的に自家の為に輸入され、使用すれば消費する
鮫皮は装飾に用いられ必須ではない上に、加工され輸出される

>>726は低脳
728人間七七四年:2011/07/14(木) 16:28:28.92 ID:69SimucK
>>726
銅銭が輸入しかない時代は一部の都市以外ではほとんど流通して無いだろが
729人間七七四年:2011/07/19(火) 02:07:18.51 ID:XG03nEjt
でも土硝法でそんな大量の硝石がつくれるとも思えないけど…。
そもそも大量につくれるなら輸入するはずもなく、
戦争用の大量の火薬は輸入に頼ってたと思うがなあ。
730人間七七四年:2011/07/19(火) 02:47:39.52 ID:LoNMD/Gp
伊達も佐竹も大量に鉄砲使ってるから
日本海側ならともかく、太平洋側で輸入とかありえないから
731人間七七四年:2011/07/19(火) 10:52:06.82 ID:c1KYHs1i
戦国時代に使われた全ての火薬が輸入だとしたら、どれだけ大量の船が
必要になるんだ?

732人間七七四年:2011/07/19(火) 12:24:34.93 ID:yVYxcZwT
火縄銃で1回の射撃に使う硝石の量は多めに見積もって10gくらい。
ジャンク船が400石積み相当として、積載量は60t。

もしジャンクに硝石を満載できれば、1隻でも600万射分の硝石を運べる。
銃1丁につき100射分の火薬を用意しても6万丁相当だな。

大量の船なんか必要ない。
733人間七七四年:2011/07/19(火) 13:09:28.11 ID:rgre85m6
近世の城でも、中世城郭でも(この場合は伝承や建物跡だけだけど)
煙硝蔵って大して大きくないよね。
一大名家が何百トンも備蓄する必要があったなど到底思えないが
734人間七七四年:2011/07/19(火) 13:49:09.63 ID:uR71Z5NZ
1発10g、1人1日100発、鉄砲装備率3割として、1日1万人につき300000発、火薬3t
睨み合いや小競り合いなら、もっと遥かに消費量は少ないだろうけど
決戦するに及んで十全に鉄砲使うとなれば10t20tは要るね
735S字型金具:2011/07/20(水) 00:33:04.33 ID:tCwGM/gy
戦国時代の硝石についての疑問N

硝酸塩を「えんしょう」と呼ぶのは、日本と朝鮮である。朝鮮では古来より「焔硝(えんしょう)」であり、「硝石」の名は使われていない。中国(明)では「硝石」「硝」であり、「えんしょう」の単語・用語は使っていない。
朝鮮では日本と同様に温度・湿度の関係で硝石は鉱石として産出しないが、古来より家屋の堀土から硝酸塩を抽出して「焔硝(えんしょう)」を製造していた。この「焔硝」は酸化剤などの用途に一般的に使われており、中国などから天然硝石は輸入していない。
朝鮮では「焔硝」の需要増と堀土の減少により、1430年ごろから国家管理の下に毎年春と秋に各地から堀土を集め、国家管理の下で抽出するようになった。
その後、1450年ごろから「焔硝」製造は秘密裏に製造されるようになり、「火薬」は合薬法を含めて厳重な国家管理品となった。
厳重な国家管理品になった理由は「日本」を非常に恐れたからであり、朝鮮の火器・火薬が日本に伝播したら災いになると思ったからである。しかし、火薬の原料である硫黄について朝鮮では中国と同様に殆ど産出しないので、日本からの輸入に頼っていた。
この厳重な国家管理と自信過剰が皮肉にも朝鮮の火器・火薬の進歩・発達を遅らせ技術者の育成をも怠り、倭寇の火器だけを注目していて日本本国の火器・火薬について見誤っていた。
中国(明)が鉄砲用火薬を知ったのは、嘉靖27年(1548)に倭寇側より獲得した鉄砲、および捕虜となった倭寇を通して日本式鉄砲が伝来してからと推定され、朝鮮が鉄砲用火薬を知り、導入したのは朝鮮の役の後になる。>>676 I
日本では、古くから大量の硫黄を輸出しており、硫黄の用途も当然知りえる立場にあり、また、朝鮮において強制的に家屋の土が掘られていること知っており、その堀土が移送されていることも知っている。
日本では古来より技術管理はなされておらず、個人が自由闊達に行動する「マニア」「オタク」文化・風土があり、この人らが火薬・火器に接するととんでもなく進歩する。
また、「えんしょう」には火薬以外の用途もあるので、日本では古来より製造していたものと思われ、需要増に対して韓国と家屋構造が異なる堀土には限界があり、「馬屋之土」などからも工夫・改良して「えんしょう」を製造していたものと思われる。>>683
その「えんしょう」が丹薬の一つである火薬となり、音響・花火類・狩猟用に利用され、殺人武器となる火器・鉄砲へと発展したものと思われる。
日本でも製造した硝酸塩は「えんしょう」の名で取り扱われ、自然産の輸入硝酸塩は「硝石」と明確に区別されている。 http://hdl.handle.net/2297/28308 『硝石の舎密学と技術史』
その意味で「硝石を全部輸入していた」は正しいが、「硝石は鉄砲火薬の原料」は間違っており、「えんしょうは鉄砲火薬の原料」である。>>639
736人間七七四年:2011/07/20(水) 01:40:51.08 ID:P3ssWlKa
>厳重な国家管理品になった理由は「日本」を非常に恐れたからであり、朝鮮の火器・火薬が日本に伝播したら災いになると思ったからである。

朝鮮なんか好きじゃないが、何かソースあんの?
737人間七七四年:2011/07/20(水) 02:08:30.20 ID:Bs1c0cgv
>>735
火器や火砲用の火薬って、北宋後期には既に手榴弾用や毒火薬(何?)の火薬と
区別して製造されるほど浸透してるし、配合比も文書化されてるけど
738人間七七四年:2011/07/20(水) 07:44:48.58 ID:XmYebFbw
日本対策ってより、反乱者に使用されると困るからでしょ

毒火薬って毒ガス発生させる燃焼物じゃなかったっけ
中華ってお国柄なのか初期には火薬に毒とかウンコとか混ぜてたよね
739S字型金具:2011/07/20(水) 21:36:50.59 ID:tCwGM/gy
>>736
>朝鮮なんか好きじゃないが、何かソースあんの?

성종 101권, 10년(1479 ) 2월 26일
경연에 나아갔다. 강하기를 마치자, 지사 강희맹이 아뢰기를,
“이번 일본 통신사가 갈 때에 화약을 잘 합성할 줄 아는 경중의
약장을 데려가게 하셨으나,
신의 생각으로는, 염초 로 만든 화약은 병가에서 중히 여기는 것인데 약장이
왜국에 가서 만일 누설하게 되면 매우 작은 일이 아닐 것이니,
경중의 약장을 보내지 말고 외방 사람을 뽑아 보내소서.”
하니, 임금이 좌우를 돌아보고 물었다. 영사 김국광이 대답하기를,
“왜인이 화약을 사용할 줄 알게 되면 작은 일이 아닐 것이며,
총통군 중에서 화약을 모르는 자를 보내는 것이 옳겠습니다.”
하고, 강희맹이 말하기를,
“세종조에 왜인이 와서 화약 한 말 남짓을 바치며 달이고 볶는다고 말하므로,
세종께서 왜인이 화약을 태우는 법을 아는가 의심하여 통역하는 자를 시켜
사사로이 어디에 쓰는지를 묻게 하셨더니, 대답하기를,
‘일찍이 중국에서 얻었는데 속이 갑자기 아픈 것을 고칠 수 있다.’
하였습니다. 저들이 화약을 쓰는 방법을 안다면 반드시 이것을 노략질하는
밑천으로 삼을 것이니, 매우 두렵습니다.”
하고, 우승지 이경동은 아뢰기를,
“청컨대 경상도의 총통군 2인을 가려서 보내소서.”
하니, 임금이 말하기를,
“그리 하라.”
하였다.
740人間七七四年:2011/07/20(水) 21:53:19.51 ID:Bs1c0cgv
>>739
なるほど。って、おい
741人間七七四年:2011/07/20(水) 22:20:54.04 ID:P3ssWlKa
成宗101冊、10年(1479 ) 2月26日競演に進んだ。
強いことを終えるや、支社カン・ヒメンが申し上げることを、
“今回の日本通信社が行く時に火薬をよく合成することができる軽重医薬長を連れていくようにされたが、
神の考えでは、煙硝で作った火薬は兵家で大事に思うことなのに約職人倭国に行って万一、漏洩することになれば非常に小さいことでないこととか、
軽重の略章を送らずに他の地方の人を選んで送って下さい。
”ハニ、賃金が左右を見て回って尋ねた。
領事キム・クククァンが答えることを、“倭人が火薬を使うことができることになれば小さいことでないことであり、総統軍(郡)中で火薬を分からない者を送ることが正しいです。”
と、カン・ヒメンが言うことを、“世宗朝に倭人がきて火薬した話余を捧げて煮詰めて炒めると話すので、世宗(セジョン)が倭人が火薬を焼く方法を分かるのか疑って通訳する者をシキョササロイどこで使うかを尋ねるようにされたところ、
答えることを、‘かつて中国で得たが中が突然痛いことを直すことができる。’しました。 あの人たちが火薬を使う方法を分かるならば必ずこれを略奪する元手とすることとか、非常に恐ろしいです。”
と、優勝紙イ・ギョンドンは申し上げることを、“チョンするに慶尚道(キョンサンド)の総統軍(郡)2人を分けて送って下さい。”ハニ、賃金が言うことを、“そんなにしなさい。”した。


>今回の日本通信社が行く時に火薬をよく合成することができる軽重医薬長を連れていくようにされたが
>倭国に行って万一、漏洩することになれば非常に小さいことでない
>倭人が火薬を使うことができることになれば小さいことでない
>あの人たちが火薬を使う方法を分かるならば必ずこれを略奪する元手とすることとか、非常に恐ろしいです。”


結局S字の挙げたソースとやらに書いてあるのは、
「1479年の日本行き使節団に火薬技術者を同行させるべきではないとカン・ヒメンが意見した」
それだけじゃん。
一体どこに『厳重な国家管理品になった理由は「日本」を非常に恐れたから』なんて書いてあるの?
742人間七七四年:2011/07/20(水) 22:46:07.15 ID:5CBby6Fr
>734
ヨーロッパではナポレオン戦争の時代まで
主要会戦でも小銃弾は1人1日20-30発くらいしか消費していない。
よって各兵士がそれぞれ100発程度を携行していれば、
ほとんどの戦役でそれ以上弾薬を補給する必要は生じていない。
詳しくはクレフェルトの「補給戦」を読んでくれ。

ヨーロッパより何倍も弾を消費する戦い方を何日も継続して行わない限り、
兵士1万人火縄銃3千丁で200万発、硝石20tも消費することはありえないから。


他のケースだと、後装式ライフル銃数万丁を使用したと思われる西南戦争田原坂の戦いで、
政府軍が1日あたり32万発消費という記述が「征西戦記稿」にある。
元になったデータがわからないんだけど、
戦闘期間が17日間だとして合計540万発、小銃1丁あたり100発は超えているか。

日露戦争で最大の激戦だった奉天会戦では、本格的な戦闘は10日間ほどで
小銃19万丁で銃弾消費量は2127万発、小銃1丁あたりだと113発。
最も多く銃弾を消費した第6師団で小銃1丁あたり212発となっている。
正確な資料はhttp://www.jacar.go.jp/の検索窓にC02030391200って打ちこめば閲覧可能

これらのデータから、火縄銃で1日100発という>734の想定は過大だと思われる。
743人間七七四年:2011/07/20(水) 23:29:49.24 ID:b6ultff9
明は全員が銃を装備した火器師営を16世紀前半には遼東などで編成している。
しかし結局は銃の性能が14世紀から大きく進歩しなかった事で、後発の日本に遅れをとったな。
騎乗銃兵が多いのも注目に値する。
744S字型金具:2011/07/21(木) 01:34:18.54 ID:/hTwUq3H
>>741
原文に『儻被知用藥之術, 必以此爲寇掠之資, 深可畏也』とある。

成宗 101卷, 10年(1479 己亥 ) 2月 26日(癸丑)
御經筵。 講訖, 知事姜希孟啓曰: “今日本通信使之行, 令帶行京中藥匠能合火藥者, 臣謂焰硝火藥, 兵家所重, 藥匠至倭國, 萬一漏洩, 則甚非細故, 請勿送京匠, 抄外方人以送。”
上顧問左右, 領事金國光對曰: “使倭人得知用藥, 則非細事, 以銃筒軍中不知火藥者, 送之可也。”
希孟曰: “世宗朝有倭來獻火藥一斗餘, 稱爲煉炒, 世宗疑倭人得燒藥法, 令譯者私問用處, 答云: ‘嘗於中國得之, 能治心腹卒痛。’ 儻被知用藥之術, 必以此爲寇掠之資, 深可畏也。”
右承旨李瓊仝啓曰: “請擇慶尙道銃筒軍二人送之。” 上曰: “可。”

>>437『且此唐人,今持火炮器具, 漂向日本,而ヘ習於彼, 則其爲巨禍, 莫此爲甚。』
745人間七七四年:2011/07/21(木) 01:48:42.03 ID:17rELQdS
相変わらず、本当に話が通じない奴だなw

>原文に『儻被知用藥之術, 必以此爲寇掠之資, 深可畏也』

この部分は、>>741で訳した
>あの人たちが火薬を使う方法を分かるならば必ずこれを略奪する元手とすることとか、非常に恐ろしいです。
という意味でしかないだろ。

S字が>>735で言ってる
『厳重な国家管理品になった』だの、『その理由は「日本」を非常に恐れたから』だの、この史料には一行も書いてないだろ
例によってまた脳内ソースか?
746人間七七四年:2011/07/21(木) 01:54:25.59 ID:8bdqS2i9
>>742
ナポレオン戦争の時代まで、ではなく、ナポレオン戦争の時代は、であって

ナポレオン戦争の時代は、戦争が本来あるべき激烈な形態をとり
決戦志向が強まったために、どの戦役も短期間で終結してる。
また、それ以前の戦争と比べ戦闘が激烈になると同時に
兵士が戦闘へ参加出来る時間も精精3時間程度で、前代の微温い戦争とは様相が変わってる。

16世紀後半の高々数万の軍勢同士がぶつかり合った西仏戦争でも
当面(1ないし2ヶ月分)の弾薬として火薬200樽を持ち込んでいる。
戦役開始2ヶ月後には火薬不足に陥ってるので、樽の大きさが解らないが、仮に200gとして
1月40000g〜20000gの消費量になり、1人当たりでも2g弱〜3g強の火薬を消費してる。

一応火砲に消費する分もあるが、この戦では国内事情もあって
開戦当初大砲が不足してたので数十門しか配備出来ず大した量にはならない
10d20dは本格的な戦になれば普通に消費される程度の火薬量と思われる。
747S字型金具:2011/07/22(金) 01:12:26.84 ID:3IiKjskK
おっちょこちょいが >>739 のハングル文章を「エキサイトの韓国語テキスト翻訳」で直訳し、その直訳を持って云々している。原文を示しても漢文を理解できないのかその直訳を信じていて、おめでたいやつだ。
「성종 101권」とくれば「朝鮮王朝實録」だと直ぐに判るもので、その原文の一部を紹介したところ飛びついて『>>745この史料には一行も書いてないだろ  例によってまた脳内ソースか?』と「朝鮮王朝實録」が何かを知らないようだ。
「朝鮮王朝實録」は膨大な記録文書であって難解な漢文で記述されているが、ハングルの現代韓国語訳が完成しておりネットでも利用できる。
 http://ci.nii.ac.jp/naid/110002829553  http://sillok.history.go.kr/main/main.jsp
ハングル訳の「日本通信使」の箇所を例示したが、原文を理解するには日本通信使の役割や藥匠の理解と世宗がなぜ「疑倭人得燒藥法」と疑っていたかなど、前後の史料を調べなければ理解できない。
そのときの(1479年)日本通信使(日本からみれば朝鮮通信使)はなぜか中止になっているようだ。
世宗は、「道貢焰焇, 曾於嶺東沿海各官煮取, 因此每人傳習, 慮有奸民及背主奴僕, 逃往茂陵、對馬等島, 將火藥秘術, ヘ習倭人。自今沿海各官, 勿令煮取。」と1426年に日本に焔硝・火薬が伝播することを禁止している。
世宗 の1445年に「今後火砲合藥, 令宦官掌之。火藥匠, 改稱火砲匠, 止令制造火砲」と今までの火藥匠を改めて火砲匠とし、火砲合藥は厳重な国家管理品になっている。
中宗の1542年に「倭人雖曰隣邦, 實爲敵國, 而近來尤爲輕狡, 不如前昔」と昔とは何時からか分らないが、はっきりと「実は日本は敵国である」と書いている。
朝鮮では日本に火炮器具が伝播しないように今まで厳重な注意を払ってきていたが、1544年に「且此唐人,今持火炮器具, 漂向日本,而ヘ習於彼, 則其爲巨禍, 莫此爲甚」と中国(明)から日本に伝播するのではないかと危惧している。
「朝鮮王朝實録」にはその他多数の火薬・火器について書かれていますが、日本の鉄砲について知るべきことは少ないと思います。>>336
748人間七七四年:2011/07/22(金) 02:13:07.03 ID:hhCQJVfS
朝鮮語読めないから前後が解らないけど
李朝世宗の時点で日本に火薬の製造法が伝わってたのか、会得拡散したかどうかはともかく
749人間七七四年:2011/07/22(金) 19:16:40.16 ID:hhCQJVfS
>>738
唐後期から宋初にかけて火薬に混ぜてたのは鉛の粉末だね、有毒。
元々東晋以来燃焼兵器として使われてた名残らしい。うんこは混ぜてないよw

毒煙火薬に狼毒や烏頭なんかの毒草が混ぜられてたけど
これ、高温で燃焼爆発するのに意味有ったのか?
750人間七七四年:2011/07/23(土) 09:48:01.56 ID:Ytm62Yl6
全然無い
むしろ不純物が混ざるので燃焼爆発の邪魔
751人間七七四年:2011/07/23(土) 12:46:45.97 ID:tGAp+9Lq
不完全燃焼させて煙を出すのが目的じゃないの?
752人間七七四年:2011/07/23(土) 14:53:53.68 ID:aUV249Gc
>>751
もちろん煙出すのが目的だけど
燃焼させたら毒素が効果なくなるんじゃねーの?
という素朴な疑問ガガガ
753S字型金具:2011/07/29(金) 20:28:06.92 ID:TY+o1yoE
そもそも鉄砲とは何か@

1281年(弘安4年)7月30日の夜、総勢4千4百隻の船と14万人ともいわれる元軍の大半が長崎県伊万里湾の海底に沈んだとされ、鷹島周辺の海では昭和56年7月から調査が行われており、数多くの元寇遺物が発見されている。
そして、平成5年(1993)、鷹島町神崎港の海底から直径15p、厚さ1・5pほどの陶器製の球状物体が発見され、未使用のものとみられる半分に輪切りしたような形の物体からは、一辺2〜3p、厚さ約1pの柱状の鉄片10数個が確認されている。
http://saint-just.seesaa.net/article/20128007.html
この物体を九州国立博物館は「てつはう」(鉄炮)と断定し、モンゴル軍の最新兵器として発表している。
http://www.rkb.ne.jp/kyuhaku/100705.html
http://www.kyuhaku.jp/pdf/asiage_01.pdf
その根拠は、鷹島周辺海域は元寇の際に暴風雨を避けて避難した元軍と高麗軍の軍船が遭難した海域として知られ、元軍の遺物が発見されていることと、「蒙古襲来絵詞」に描かれている「てつはう」から連想しているようだ。

しかし、私には疑問点が残る。
@この物体が元寇の時代のものであると確認されているのだろうか。後世の戦闘や落下物を否定できるのだろうか。
A元軍の爆発火器ならば、「火球」(火毬)の類とするのが妥当ではなかろうか。
B表面は陶器製であるのに、なぜ鉄製品をイメージする「てつはう」を採用するのか。
D「蒙古襲来絵詞」には信頼性を疑う改竄があり、3人の蒙古兵は後世に加筆されたもので、「てつはう」なる物体も後世に加筆されている可能性がある。
http://blogs.yahoo.co.jp/sa341gazelle/2953448.html
「蒙古襲来絵詞」は基本的に「日本軍に苦戦する元軍」を描いたものであり、絵からの判断ではあるが、「てつはう」の飛来方向から私には日本軍の火器の様に見え、破裂の仕方も一方向で破裂力も弱く、中に金属片が入っている様には描かれていない。
また、竹崎季長の馬が出血しているが、これは「てつはう」によるものでは無く、2本の矢が刺さったことによる負傷である。
C「蒙古襲来絵詞」の「てつはう」について、『変体仮名の「てつはう」は文字から、実は後世、江戸時代頃に書かれたものだと言われています』と指摘がある。
http://www.h3.dion.ne.jp/~oneone-p/ii/tetsuhau.html
となると、この物体が「てつはう」なのかどうかも疑わしい。

そもそも「てつはう」(てっぽう)の呼称は中国(明)・朝鮮の史料には現れず、日本独自のものであって、そのため1281年(弘安4年)よりも前から日本に火器があった可能性がある。
独立行政法人国立文化財機構 九州国立博物館は「てつはう」(鉄炮・鉄砲)と断定しているが、正しいのであろうか。
754人間七七四年:2011/07/29(金) 21:47:09.20 ID:2w/rROoR
宋元代の「砲」は爆発兵器を指す詞で、「火球」や「煙球」は燃焼兵器
管形兵器の火砲は「火筒」、鉄砲は「火槍」その他、「鉄火砲」が大型の爆発兵器
「鉄砲」も一応あって明初の鋳鉄製火砲は鉄砲と呼ばれてる

なので、絵で使われた兵器が「てつはう」と書かれているのは別に不自然じゃないと思う
どう見ても鉄砲ではないけど
755S字型金具:2011/07/29(金) 23:36:52.37 ID:TY+o1yoE
>>754
>「鉄砲」も一応あって明初の鋳鉄製火砲は鉄砲と呼ばれてる
その「鉄砲」という明初の鋳鉄製火砲の根拠、出典は?
756人間七七四年:2011/07/30(土) 00:43:31.33 ID:7+lODW8M
南宋代にも「鉄砲」は造られてるけど、呼び方が異なるだけで「鉄火砲」と同じ『景定建康志』

元末から「砲」や「銃」が大砲や鉄砲の呼称に使われるようになり『元史の巻188』『続資治通鑑の巻211』
1377年に平陽衛で製造された鋳鉄大砲の「鉄砲」が出土していて、これには銘文が掘られている
757S字型金具:2011/07/30(土) 01:31:24.88 ID:gO9hFhG0
『景定建康志』『元史の巻188』『続資治通鑑の巻211』は直ぐに入手出来ないので、その箇所の抜き出し投稿紹介と、図書館コピーサービス用のページを教えてください。
平陽衛の出土品が「鉄砲」である根拠の「銘文」内容も教えてください。
758人間七七四年:2011/07/30(土) 02:51:59.82 ID:7+lODW8M
『中国古代火薬火器史』をまんま受け売りしただけで確認してないけど
元史(4303ページ←元本の説明無し)と続資治通鑑(5906ページ←同じく)はここので確認出来るはず?
http://lib.ecit.edu.cn/guoxue/

ただ、どうも抜粋文は原文のままじゃなく多少現代語訳してる気が
元史からの抜粋文が「不一会、山上旗動、于是火炮斉発、伏兵従城外衝殺出来、斬殺敵陣〜」で
著者はここで言う火砲は管状火器だろうと述べてる
同じく続資治通鑑から「以火銃撃退其兵、随樹木柵」で、こちらは字のまんま

『景定建康志の巻39』の抜粋文は「両年零三个月時間之内,共創造、添修火器63754件,其中新創造火器38359件,
計有:十斤重鉄炮殻四只,七斤重鉄炮殻八只,六斤重鉄炮殻一百只,五斤重鉄炮殻一万三千一百零四只,
三斤重鉄炮殻二万二千零四十四只, 火弓箭一千只,火弩箭一千只, 突火筒三百三十三个〜以下長いので省略」

「鉄砲」(鉄砲ではなく鋳鉄製大砲)に関しては銘文が書かれてないけど、明代の火砲火器の多くに
製造者が製造時期・兵器名・製造施設その他の銘が彫られているそうなので
間違えようは無いのかなと思う。一応、『文物1988年5』収録、山西省博物館所蔵とあり
759S字型金具:2011/07/30(土) 21:20:11.77 ID:gO9hFhG0
>>758
史料、ありがとうございます。「国学経典書庫」は膨大で、ページではその箇所の確認はできませんでした。しかし、続資治通鑑・元史には「鉄砲」の記述は無いようですね。
景定建康志卷三十九は1260年ごろのことを(宋)周應合が撰したもので、原典は不明です。
この書物は、続資治通鑑と同じく清乾隆年間(1736〜95)に編纂された書で、中国の書物で初めて「鉄砲」が出てきます。しかし、その後しばらく中国の書物には「鉄砲」の記述が出てきません(たしか?)。
『又剏造添修火攻器具共六萬三千七百五十四件
内剏造三萬八千三百五十九件
鉄砲殻十斤重四隻七斤重八隻六斤重一百隻五斤重一萬三千一百四隻三斤重二萬二千四十四隻火弓箭一千隻火弩箭一千隻突火筒三百三十三箇火蒺藜三百三十三箇火薬棄袴槍頭三百三十三箇霹霢火砲殻一百隻
内添修二萬五千三百九十五件
火弓箭九千八百八隻火弩箭一萬二千九百八十隻突火筒五百二箇火薬棄袴槍頭一千三百九十六箇火薬蒺藜四百四箇小鉄砲二百八隻鉄火桶七十四隻鉄火錐六十三條』(なぜか合計は25435件となり、40件多い)
「鉄砲殻」の記載は1箇所のみであるのに、「巻39の抜粋文」にはなぜか「鉄砲殻」が5箇所もあり、この加筆は何か意図があるようにも思えます。
「殻」の字が付いているので火砲と思われますが、「砲」と「炮」とは明らかに異なる武器であるのに、現代中国語はすべて「炮」と成っているので、原典を調べる必要がでてきます。
思うに、「鉄砲」は中国に古来から記述されている「鉄火砲」の脱字ではなかろうか。この文章には、数が40件多い誤記もあることだし。
ただ気になるのは、添修火攻器具に「小鉄砲」二百八隻の記述があります。「小鉄砲」は添修できることと、数量が208個と中途半端な数であるので、火攻武器というよりも、火器具ではなかろうか。
平陽衛の出土品が「鉄砲」である確証はやはり無いようですね。明代の火砲火器には銘が彫られている物もありますが、面白いのはなぜかシリアルナンバーらしき番号が彫られている火器具があります。
760人間七七四年:2011/07/30(土) 23:07:40.81 ID:7+lODW8M
まず、上の抜粋文で砲の字を当てていたのは全て「炮」です
文字化けすると思って砲にしたけど余計だった、ごめんちゃい

「鉄炮殻」は、宋代の炮が爆発物を指すこと、数え方が個でなく消耗品の隻なこと
殻もおそらく宋代の爆発兵器が蝋紙や陶器で覆われていた処から付いた名称なので
火砲ではなく手榴弾とか投石機で撃ち出す榴弾の類。
あと景定建康志参考の文は加筆した抜き出し文でなく筆者の要約文、文体も今風

平陽衛製造の出土品に刻まれた銘文は「鉄炮」で確定だと思います
幾ら何でも研究者が彫られてる銘文を読み間違えたりはしないでしょう。
「鉄銃」ではないので、日本の鉄砲とは違いますけど
明代は、青銅製なら銅炮、鉄製なら鉄炮と呼ぶのは普通のよう

一品だけ銘文の図が載せられてますけど、確かにシリアルナンバーありますね
「莱州衛(竹冠に耒)宇二十九号 大砲筒〜」
761S字型金具:2011/07/31(日) 01:20:21.85 ID:/05xTexq
>>760
>まず、上の抜粋文で砲の字を当てていたのは全て「炮」です
抜粋文は全て「炮」の字を当てている。何を言いたいか分からん!。
>文字化けすると思って砲にしたけど余計だった、ごめんちゃい
>>753の「てつはう」(鉄炮・鉄砲)の箇所を読まずに投稿したの?
>「鉄炮殻」は、宋代の炮が爆発物を指すこと、数え方が個でなく消耗品の隻なこと
隻が消耗品の単位なら、魚・鳥・船も消耗品?
>殻もおそらく宋代の爆発兵器が蝋紙や陶器で覆われていた処から付いた名称なので
「殻」とは物を覆う硬い物のことで「鉄」も該当するよ。
>火砲ではなく手榴弾とか投石機で撃ち出す榴弾の類。
「火砲」は「砲」なので榴弾の類となる。
>あと景定建康志参考の文は加筆した抜き出し文でなく筆者の要約文、文体も今風
「『景定建康志の巻39』の抜粋文」と書いておいて、今更何を言うの?
>平陽衛製造の出土品に刻まれた銘文は「鉄炮」で確定だと思います
>幾ら何でも研究者が彫られてる銘文を読み間違えたりはしないでしょう。
『「鉄砲」(鉄砲ではなく鋳鉄製大砲)に関しては銘文が書かれてないけど』はどこへ行ったの?
「鉄砲」(鉄砲ではなく鋳鉄製大砲)の「鋳鉄製大砲」がなぜ「鉄炮」になるの。
>「鉄銃」ではないので、日本の鉄砲とは違いますけど
日本の鉄砲は「鉄製品」ではないと言いたいのかな。なぜここで「鉄銃」がでてくるの。
>明代は、青銅製なら銅炮、鉄製なら鉄炮と呼ぶのは普通のよう
だから、中国で「鉄製なら鉄炮と呼ぶのは普通のよう」の根拠・出典を問うているのだ。>>755
762人間七七四年:2011/07/31(日) 01:33:18.74 ID:wkckuijH
ほらほら、S字ってのはこんな奴だよ
まともに話なんてできないってw
> ID:7+lODW8M
763人間七七四年:2011/07/31(日) 02:43:05.26 ID:X5ewivlv
>>761
上で挙げた文献では「砲」の字は使われてないってこと
文字化け防止目的で書き換えたけど、文献上は全て「炮」

誰も「炮」の字は文字化けせずに使われているな!なんて目的で文章を読みはしないでしょ

景定建康志の記録では消耗兵器の数が隻、そうでない兵器は個

宋代の榴弾「炮」は多くが蝋紙製や木製、「殻」が付くのは火薬を覆って製造する兵器だから
もちろん火薬を鉄球で包めばこれも「殻」が付く、材料の硬度は無関係

宋代の「炮」は爆発兵器に対する呼称、大型管状火器に用いられるのは元末以降

抜粋文は抜粋文。それに、こちらが現代語訳されてると注釈したのを読んだ筈

銘文の内容が書籍に記述されていないだけで、「鉄炮」には当然銘が彫られてる
でなきゃ、製造場所や兵器名が判る筈もなし

「鉄銃」なら鉄砲に似た鉄製小口径火器を指し、「鉄炮」は鋳鉄製の大口径火器を指す。それだけ

そらあ、明代の衛所で兵器を製造していた職人が「鉄炮」という兵器名を刻んでいるから
製造者が「鉄炮」と銘しているのだから、これ以上確実なことはない。
他にも銘文入りの兵器が挙げられていて、青銅製火砲は「銅炮」、青銅製火器は「銅銃」
まあ「大砲筒」や「神銃」もあるから、命名規則があった様には見えないけど
「鉄炮」「銅銃」「銅炮」などの呼称は理に適った自然な命名で、普遍的な名称
764S字型金具:2011/07/31(日) 10:02:57.29 ID:/05xTexq
現在の中国語の記事・論文・文献は簡体字が多く使われている。だから >>763 のように勘違いをしている。
http://homepage3.nifty.com/jgrammar/ja/tools/ksimple.htm

「砲」と「炮」とは明らかに異なる武器であるのに、現代中国語はすべて「炮」と成っているので、原典を調べる必要がでてきます。>>759

>1377年に平陽衛で製造された鋳鉄大砲の「鉄砲」が出土していて、これには銘文が掘られている >>756

銘文には、“大明洪武十年丁巳季月吉日平造”と記しているが、どこにも「鉄砲」とは書いていない。形状からは「鉄火砲(鉄製の火砲)」である。昔から中国に「鉄砲があった」と思っている、中国の一部の人達の思い込みである。
「鉄砲薬」と「大砲薬」とは明らかに製法・形状・組成などが異なる黒色火薬であり、この区別が付かない人が思っているもので、中国での「鉄砲薬」の出現は16世紀の末であって、中国での「鉄砲薬」の呼称は「鳥銃藥・鳥銃火藥」である。
765人間七七四年:2011/07/31(日) 16:43:17.73 ID:X5ewivlv
なるほど。 ということで元史巻188を調べたが、火砲を指す単語は「火砲」
宋代の「砲」は爆発兵器を指し、元末明初以降は火砲にも「砲」の字が使われている
「大砲筒」と刻まれた銘文もあるし、当時は「砲」が使われたか。ざっと見た範囲では旧籍に「炮」は使われていない

銘文には「大明洪武十年丁巳??季月吉日平陽衛鋳造」と、刻まれている
1530年代以降、兵仗局で製造された火砲に「仏郎機中様銃」が見られる様になるが
明代後期16世紀以降に刻まれた銘文にも「鉄砲」とは刻まれていない
もっとも、銃に関しては日本に戦国時代の鉄砲が残っていないのと同じく、明代の銘入り銃は銅銃しか出てない
とはいえ「鉄砲」という単語は、17世紀以降も史書には出て来ず、使用されていたとは考え難い

「鉄火砲」が宋元代に爆発兵器を指し、元末明初以降(あまり使用されないが)鋳鉄製火砲を指す様になったのと同じく
宋元代には爆発兵器だった「鉄砲」が、元末明初以降鋳鉄製大砲を指す様になるのは至極自然なこと。
あと、ちゃんと人の書いた文章読んでる?(鉄製の火砲)と、何度も繰り返し説明したのを読んでいる筈だし
日本の鉄砲に該当するのは「〜銃」だと何度か書き、それを読んでいる筈。追記:〜筒も〜銃と同義

そもそも発射機構の元始的な物ではあっても、「火銃・神銃・火槍など」の銅銃・鉄銃は
南宋末元初以降の中国には存在しているのは周知の事実であって
火薬の組成も多少粗末とはいえ、出土した硝石6硫黄2炭2の火薬は、模擬実験でも使用に耐えた。
16世紀末の鳥銃用と大砲用と銃用の火薬組成が、それぞれ概ね6.7:1:1.3と30:1:10と16:2:3で
「鳥銃薬」と「銃薬」の違いはあまり見られない。
766S字型金具:2011/07/31(日) 19:10:38.93 ID:/05xTexq
>>765
>火薬の組成も多少粗末とはいえ、出土した硝石6硫黄2炭2の火薬は、模擬実験でも使用に耐えた。
>16世紀末の鳥銃用と大砲用と銃用の火薬組成が、それぞれ概ね6.7:1:1.3と30:1:10と16:2:3で 「鳥銃薬」と「銃薬」の違いはあまり見られない。

失礼ですけど、次の話を聞かれたことはありませんでしょうか。
火縄銃の口火薬(火皿に載せる火薬)は発射用の黒色火薬をすり潰し、細かくして使用する。しかし、多くすり潰しすぎた口火薬を発射薬として使用しようとしても、発射薬として使えない。
成分は同じとしても、形状によってでも燃焼速度は異なり、大砲用の黒色火薬の形状を調べられたことはあるでしょうか?
767人間七七四年:2011/07/31(日) 20:31:43.29 ID:X5ewivlv
年代を書き忘れていたけど、上の出土した残留火薬は元代の物で
1558年の『武編』では発射用火薬の組成を、硝:硫黄:炭=8:1:1
1560年の『紀效新書』では、50:7:9としているので
16世紀中葉又はそれ以前から組成の大きな変遷は無さそう

明代中国は口火薬、というか着火・導火用の火薬には発射火薬と別の組成を指示してるので
大砲発射用の火薬も用途に合う形状に加工して用いたんじゃないでしょうか?
使用目的毎に成分の違う火薬を作っておきながら、形状に無頓着というのはちょっと考え難い。
ただ、著者は火器使用の研究者じゃないので形状に関しては何も言及してませんが
768S字型金具:2011/07/31(日) 22:53:27.02 ID:/05xTexq
黒色火薬について、所荘吉さんの解説や >>306、私の私見を投稿しましたが >>308 >>309 >>310 >>311 奥深いものがあります。
日本の鉄砲(鳥銃)は対衝撃性のために鍛鉄を使い、燃焼速度の速い鉄砲火薬が使用でき、対磨耗性、耐久性などの点でも優れていた。(ただし、錆易いことが欠点である)
大砲薬は燃焼速度を遅らせて衝撃波を減じ、発生するガスが有効に弾の推進力になるようにガス産生速度を遅らせるように作られている。
衝撃波の強さと、砲身の材質、砲身の強度、砲身長、口径比率などが関係しながら大砲は進歩・発達してきた。それは大砲薬の改良と共に、砲身が半球形から長砲身長へ変化し、弾の発射速度の向上により飛距離の増大、弾の大型化に繋がっている。
当時の大砲の砲身の材質について、「鉄」と「銅」との優劣は付けがたい。
衝撃波に対しては、「鋳物鉄」は強度の不均等により破裂の危険性があり、銅は粘りがあるので鉄よりも破裂の危険性は少ない。砲身成型の点では銅は鉄よりも融点が低く、成型し易い。比重にはあまり差は無いので、ほぼ同形大となる。
銅が鉄よりも劣る点は、銅の価格が鉄よりも高いことである。したがって、「鉄火砲」が「銅火砲」よりも高性能であるとは言えない。
769人間七七四年:2011/08/01(月) 12:08:01.53 ID:SQ/Ge0u0
忍者が短筒使ってたって聞いたけどって本当?
770人間七七四年:2011/08/02(火) 09:09:35.32 ID:jfXa1HUH
メイン武器じゃないけど必要なら使うんじゃない?
771S字型金具:2011/08/05(金) 21:01:40.71 ID:X/+w4GBp
そもそも鉄砲とは何かA

『八幡愚童訓』という、京都岩清水八幡宮の祠官が書いたとされる鎌倉時代の書物が日本に伝わっている。
この書き物には元寇の事が記載されている箇所が有り、他に類書がまったく無いことから様々な写本が伝わっており、写本の中に「鉄砲」について2箇所記載している物がある。(写本により、鉄砲・鉄放・鉄鉋・鐵包などと表現されている)
@『太鼓ヲ叩銅鑼ヲ打チ、紙砲鉄砲ヲ放シ時ヲ作ル。其の声唱立サニ、日本ノ馬共驚テ進退ナラズ。』
A『大将軍ハ高キ所ニ居リ上リテ、引ベキニハ逃鼓ヲ打、懸ベキニハ責鼓ヲ叩クニ随テ振舞ヒ、逃ル時ハ鉄放ヲ飛シテ暗ク成シ、鳴音闇高レバ、心ヲ迷シ肝ヲツブシ、目眩耳鳴テ、亡然トシテ東西ヲ弁ズ。』

しかし、どの写本にも「鉄砲」は武器では無く、音を出す道具として取り扱われている。
@では、鬨の音(ときの声?)を出すために、太鼓を叩き、銅鑼を打ち、紙砲・鉄砲を放っている。
Aでは、太鼓で退却のときは「逃鼓」打ち、責め懸かかりのときは「責鼓」打ちで指示をしている。逃げる時には「鉄放」を飛ばして(?)鳴音を出している。

蒙古軍は火攻武器である「鉄火砲」などの「火球」(火毬)の類を所持していると思われるのに >>759 、武器ではない「鉄砲」を蒙古軍が使用するのは不自然である。また、蒙古軍の火攻武器の使用は、『八幡愚童訓』のどこにも書かれていない。
戦に「太鼓」・「鉦(銅鑼)」を使うのは蒙古軍ばかりではなく、日本でも古来より使われており、太鼓のたたき方には、合図太鼓・早太鼓・押太鼓・懸かり太鼓等があった。
『八幡愚童訓』は八幡神の霊験を説くために書かれた書物で、その中には中世的思想に基づいた荒唐無稽な記載もあり、霊験により日本が救われたような記述もあり、実際の日本軍と蒙古軍との戦を見てないで後から聞き語りを記述したものと思われる。
著者は当時の日本の戦い方に基づいて@Aを記述していると思われ、日本に「紙砲・鉄砲が鎌倉時代からあった」のではなかろうか。
772人間七七四年:2011/08/05(金) 21:54:27.61 ID:mSHOBj7Z
可能性としてはあるんじゃね、宋代の特に南宋時代は頻繁に貿易船来てたし。
ただ、宋代「鉄火砲」は「鉄砲」と同じでどちらも火球・爆弾・煙球を指した
773人間七七四年:2011/08/11(木) 14:18:06.69 ID:APbhCptW
杉谷善住坊(すぎたに ぜんじゅぼう)  ? 〜1573

甲賀五十三家の一つ・杉谷家の当主与藤次の子で、
「飛ぶ鳥も射落とす」と言われた鉄砲の名人。
1570年に鈴鹿山系千草山中の椋木峠にて織田信長を狙撃したことで有名。
しかし軽傷を負わせただけで失敗、逃走したが3年後に磯野員昌の手に捕らえられ、
土中に埋められ鋸引きの刑に処された。

柘植清広(つげ きよひろ) 1542〜1631

通称三之丞。「威風流(柘植流)」と称される高度な鉄砲術を持つ伊賀の下忍。
一説によると徳川家康の「伊賀越え(甲賀の資料では甲賀越えとある)」を先導したのは服部半蔵ではなく、
この柘植三之丞清広だともいう。


根来の津田監物から雑賀とか伊賀甲賀に広まったのか
堺から買って独自に扱いを学んだのか気になるぇ
774人間七七四年:2011/08/11(木) 23:09:05.49 ID:kdI04jiK
そりゃ独自だろ
鉄砲の生産ならともかく
775S字型金具:2011/08/13(土) 08:51:49.24 ID:Iyb+jbL5
そもそも鉄砲とは何かB

鎌倉時代の書物「八幡愚童訓」の一節に『紙砲鉄砲ヲ放シ時ヲ作ル』と書いてある。 >>771 そのため、『紙砲』『鉄砲』について、当時は一般的な物であったことが推察される。
中国(明)人の鄭舜功は「日本一鑑」(1567〜1573)を著したが、その「日本一鑑」の「器用」欄を書くに当たって、京都五山建仁寺霊洞院の東麓軒の僧が連歌のために編纂(1444年)した「下学集」という辞書を参考にしている。 >>720 >>722
東麓破衲著の元和3年(1617)刊の「元和版下学集」は49丁・3292語から成り立っているが、武器類については少なく「太刀・長太刀・鑓・鞘・鐔・鍔・釼・草薙剱・御多羅枝・楊弓・重藤」などとまとめて記載してあるが『鉄砲』の記載は無い。
しかし、山脇道円撰述の寛文9年(1669)刊の「増補下学集」は「元和版下学集」の語彙に追加し、227丁・15000語の浩瀚本となっている。
この「増補下学集」の「増補」部は「いろは」順に記載されていて、『炮』の字が付く語彙は、『銕炮(テツホウ)』、『紙炮(シハウ)』の2語記載されている。
「増補」部の記載は「いろは」順のため武器・防具かどうか分からない物もあるが、『銕炮』、『紙炮』には注釈が付いていないので、当時の読者が理解できる物、一般的な物だったのではなかろうか。
また、 >>327 の「大鉄炮・石火矢・手火矢・長大筒・小筒・六匁玉・種嶋・薩摩筒・南蛮筒・南蛮鉄炮・異風筒・異風物・意府物」などについての記載は無いので、なおさら『紙炮とは何か』が気になる。
「増補下学集」は辞書・百科辞典の体を成して、「島原の乱」・「慶安の変」などの動乱も治まった江戸時代の初期に刊行されている。『紙炮』を抜きにした銃砲史は片手落ちである。
776人間七七四年:2011/08/15(月) 15:39:48.80 ID:RVKxN5hM
当時としては鉄砲は兵器の中でも高級品でしょ
銘品までいかなくともブランドがあっても不思議じゃない
777S字型金具:2011/08/21(日) 01:07:01.33 ID:n4BMpwuQ
そもそも鉄砲とは何かC

佐藤鉄太郎さんは「蒙古襲来絵詞」の改竄に気付き「蒙古襲来絵詞と竹崎季長の研究」を著し、新聞でも紹介された。
http://www.kinseisha.jp/0317.htm
また、佐藤さんは中村学園のページ「蒙古襲来絵詞と竹崎季長」の「おわりに」で、その改竄箇所を紹介している。
『絵七は文永の役で竹崎季長が鳥飼潟で蒙古兵と戦っている蒙古襲来絵詞の随一の見せ場として大変有名な場面であり、特にこの場面に描かれた三人の蒙古兵はこれを本来の絵として、これについて種々論じられているが、
竹崎季長と対時している三人の蒙古兵は蒙古襲来絵詞の本来の絵ではなく、後世の描き込みであることを明らかにした。竹崎季長の周辺に描かれている矢、槍も後世の描き込みである。』
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/sato/index.htm
佐藤さんは「鉄砲」について『さく裂している鉄砲の絵も、3人の蒙古兵と同時に書き加えられたのではないか』と問題提起している。
それは『3人の靴や剣、槍の柄の黒と鉄砲が全く同色で、しかも蒙古軍のいる左側ではなく、右側から飛来しているように描かれているのは不自然』というのが理由だ。

佐藤さんは「問題提起」で終わっているが、『「鉄砲」の黒、赤の絵の具はひび割れしていない』、『絵の中央上方に書かれた「てつはう」の変体仮名文字と、その右側の楷書の「季長生年二十九」は明らかに別人の字である』などから、明らかな描き込まれた改竄である。
「てつはう」の緑色は元の絵に松の木が描かれ、「季長生年二十九」に続く文字は消されているようである。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/19/M%C5%8Dko_Sh%C5%ABrai_Ekotoba.jpg
http://album.yahoo.co.jp/albums/my/241640/
そもそも「蒙古襲来絵詞」は竹崎季長が蒙古襲来に於ける自らの戦功や活躍を記したものであり、蒙古襲来の事件全般について記された絵巻物ではない。
日本語記入の無い絵は稚拙で、蒙古軍を描いた絵は筆のタッチが明らかに異なり、改竄ではなく「詞」と関係のない蒙古軍の絵が追加されている。
太鼓、銅鑼を叩き対峙している蒙古軍の「絵八」は、『八幡愚童訓』の『大将軍ハ高キ所ニ居リ上リテ、引ベキニハ逃鼓ヲ打、懸ベキニハ責鼓ヲ叩クニ随テ振舞ヒ』に合わせた追加絵であろう。
「てつはう」の書き込みも『八幡愚童訓』の「鉄砲」に合わせて「パクっている」いると思われ、「蒙古襲来絵詞」は日本の銃砲史と関係が無いと思われる。

情けないのは、「玉川学園・玉川大学」のホームページである。
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/index.html#gen1
鎌倉時代の解説のために「蒙古襲来絵詞」や「八幡愚童訓」を無批判にそのまま採用し、真実のように吹聴するのは如何なものかと思う。
778人間七七四年:2011/08/21(日) 05:04:51.02 ID:imWwVaL0
元々描かれていた兵士が持つ弓と
改竄された兵士の持つ槍や弓の色も全く同色。はい論破
779人間七七四年:2011/08/22(月) 18:58:52.75 ID:5wXLcBCm
丸数字使うところが気に入らないw
780人間七七四年:2011/08/23(火) 04:04:19.38 ID:NhbMheUC
てつはうに関しても、右手より飛来ではなく右(敵)に向かって火を噴いている。
絵の具の種類が違うだけで、江戸時代ぐらいと何となく想像。
当初描かれたあろう部分と追加部分を洗い出した功績のみ
781人間七七四年:2011/08/23(火) 16:08:00.50 ID:NCh+4DRK
てつはうは右から飛んできてる様に見えるけど
矢には飛跡が描かれてないから、何とも言えないのかも
782S字型金具:2011/09/01(木) 00:52:20.79 ID:2NgpFdbW
そもそも鉄砲とは何かD

「蒙古襲来絵詞」について、山田安栄編纂の『伏敵編』(明治24年)には『竹崎季長絵詞』と書かれている。
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2387705
『伏敵編』は元寇記念碑運動のために書かれた書物で、『実録ハ諸家ノ日記文書、及竹崎季長絵詞、八幡愚童記、日蓮註画讃ノ類ヲ以テ最トス。但愚童記、註画讃ノ如キハ。真偽雑出シ。其他内外群籍互ニ錯誤詳略アリ。』と、注意書きしている。
『竹崎季長絵詞』は『残闕支離シテ。文理接続セス。然トモ当時ノ実録此右ニ出ルモノ無シ。図亦事実ヲ徴スルニ足ル。世上伝写本二三種アリ。字句段落亦各異同アリ。肥後ノ故族大矢野氏所蔵ヲ真本トス。頃者御府ニ奉納ス。』と書かれ、真本は明治23年に奉納された。
「竹崎季長絵詞」は帝室の御物であり、残闕支離で文理が接続していなく、原本の佚脱を模本が補っていることから、模本で『元寇・てつはう』が論じられてきた。
『元寇の新研究』(昭和6年)など原本での研究もあるが、稚拙な蒙古兵についての「絵」の言及が無く、「詞」とその「絵」についてのみであり、歴史的には如何な物かと思う。
『伏敵編』では、〔付録 按〕に「大小火砲考」として項を立て、変体仮名文字の『てつはう』については、『文永外寇ノ時ニ当リ。始テ火砲アルヲ知ル。蒙古来寇図巻ニ鉄丸飛撃ノ図ヲ載セ。又其傍ニ火箭発射ノ図アリ。』と、『火砲の鉄丸飛撃』としている。
「てつはう」・「鉄丸」・「砲」・「炮」の取り扱いには苦慮し、大橋周道著の『元寇紀略』を紹介して、『鉄炮は火器の総称』としている。
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_03659/ri05_03659_0001/ri05_03659_0001.pdf

同年(明治24年)に西村時彦著の『種子島家略譜 附・鉄砲伝来録』が出版され、坪井九馬三など、この頃「鉄砲伝来」が論じられている。
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780476
「鉄砲伝来」については、南浦集を節録して天文12年としているが、以下の文が気になる。
『是ヨリ先。天文十年七月。葡萄牙人フランスグサヘイト豊後ノ神宮浦ニ来リ。鳥銃ヲ伝フ。藤原玄斎ト云物、大友宗麟ノ命ヲ受ケテ鍛造セリ。
茅元儀曰。西蕃波羅多伽児人仏来釈古(ポルトガル・フラマチヱーグ)、鳥銃ヲ日本豊州ニ伝フト。即此事ナリ。牟良叔舎、仏郎斯屈撒、仏来釈古、皆一人ニシテ訳音ノ小異ナルヘシ。其後葡国ヨリ大熕二門ヲ豊府ニ贈ル。是ヲ本邦大砲ノ始トス。』
783人間七七四年:2011/09/02(金) 15:27:06.61 ID:2DdMWx3F
長文貼ってる人、目が痛い
784人間七七四年:2011/09/04(日) 20:11:23.64 ID:0Qxt+UDG
コテハンだしNGしちゃいな
どうせこのスレには要らない子だから
785人間七七四年:2011/09/04(日) 21:49:46.08 ID:Htc+RgBG
このスレの価値も半分くらい無くなるなw
786人間七七四年:2011/09/05(月) 14:45:19.76 ID:SxKiFcjr
空気読めない子は中身がどうでも要らない子
個人のサイトやブログならともかく掲示板である意味がない
邪魔なだけ
787人間七七四年:2011/09/17(土) 20:39:31.58 ID:Qpg+E440
先に出た「鉄砲」「鉄火砲」はやっぱ手榴弾ですね
元代でも鉄火砲が使われ、明代前期でも火器を火銃と呼んでる

硝石と火薬は明代はもちろん元代でも、沿海諸州では流出を恐れて禁制品にされてる
788人間七七四年:2011/09/20(火) 19:01:52.26 ID:lQeW5RA1
以前あった中国の鉄銃の話ですが、明代弘治年間以前は官営作坊で製造して無い模様
それ以降になると鉄槍や鉄銃や仏郎機鉄銃の名前が、明会典に出て来るそうな
789人間七七四年:2011/10/01(土) 14:00:50.72 ID:25NBgPJa
火縄銃って、どの位の人数で、どの位の日数をかけて作られていたんでしょうか?
種子島に伝来してから一年後には数十丁が製作された、なんて記述も見掛けたんですが、そんなホイホイ量産出来るんですかね?
790人間七七四年:2011/10/01(土) 20:23:08.71 ID:TfC8iYSr
戦国時代の製作体制は一応銃身、銃床、カラクリの分業体制(比率3:1:1)で
大量の職人が作ってたみたいだけど資料あんま残ってないし実物も
現存してないので良くわからないんだYO
791人間七七四年:2011/10/02(日) 21:27:28.78 ID:S9eFsjuj
マルチはやめろよ
792S字型金具:2011/10/03(月) 02:23:37.78 ID:VcDoTeUV
そもそも鉄砲とは何かE

日本と中国や西洋諸国とでは、戦い方が根本的に異なる。
日本の場合、城塞内にあるのは城・砦であって、住んでいたのは武士とその一族である。負けそうになれば城を捨てて逃げ去り、奪還の機会をうかがう。勝った方はその城塞内に残っている者を全殺・惨殺することはまず無く、味方に取り入れている場合もある。
中国や西洋諸国の城塞は、農業は城壁外であるが、城壁内で町や村を形成し夜間は城門を閉める。そして、戦いに負ければ住民共々全殺・惨殺されるか戦士奴隷として使役される。
この戦い方の差は大きく、中国や西洋諸国の場合は城壁・城門を堅固にして徹底抗戦をしなければならず、この徹底抗戦に対して城壁内へ直接攻撃する火攻兵器が発展・発達してきた経緯がある。
投石機を併用するなど武器・火器も大型化したが、重量や大きさは日本と違ってあまり問題になっていない。日本は急峻な山岳地形で河川が網目のようにあり、大砲のような重量物は車馬での運搬は困難である。
「蒙古襲来絵詞」の「てつはう」には論理矛盾がある。元軍が日本に残した単語で「てつはう」だけが残り、武器・防具などその他多くの単語が残っていないのは変である。
蒙古襲来時点での中国の火攻兵器は、火球・火槍などの燃焼性火器、鉄火砲・霹靂砲・震天雷などの爆裂性火器が知られているが「鉄砲」の単語は出てこない。
元軍は蒙古人・中国人・韓国人などの混成部隊であり日本語が喋れたとは思えず、元軍が『鉄砲』について母国語で『てつはう』と発音することは言語上あり得ず、また、爆裂製火器とセットになると思われる投石機が出てこない。
中国が日本の「鉄砲」についての初見は侯継高著全浙兵制考(1592年)の「鉄朴(テツホウ)」であり、『武具』として『响器』として観ている。>>629
硫黄の用途は色々有り、硫黄成分は着火・点火温度を下げることが知られており古来より利用されてきた。日本は硫黄を豊富に産出するが、中国大陸・朝鮮半島では硫黄産出量は少なく輸入に頼っている。
黒色火薬は硫黄混合物であり、今まで黒色火薬の重要な成分である「硫黄」についての考察は銃砲史上殆どされていなかった。朱・丹は硫黄化合物である。>>610

「鉄砲」「紙砲」は日本古来の物であり、『花火、火縄銃・焙烙玉などの武器へと発展した』するのが妥当であろう。>>365
火縄銃は戦国期末で一応完成された物になった。それは戦乱が終わって戦う相手もいなくなり、徐々に武器の開発や戦術・訓練などにも力が入らなくなった結果であり、火術は花火へと進化していった。
しかし、平和になったことから火縄銃で糧を得ていた者達は生活が苦しくなったのは事実であり、大筒など奇妙奇天烈な行動で人の目を引き付けることや日本古来の「マニア」「オタク」文化・風土、秘伝などで細々と技術が伝承されていた。
戦争に明け暮れていた西洋やアメリカでは武器・火器が進歩するのは当たり前で、平和であった日本や中国ではその必要性は低く、幕末期の西洋武器・火器と日本のそれと同列に論じて日本の銃砲史を語るのは筋違いである。
日本が中国や西洋諸国とでは戦い方が根本的に異なることを認識しないで、渡辺京二ら識者と言われている人らが「馬鹿」なことを言っているのが情けない。>>463 >>464 >>465
793人間七七四年:2011/10/03(月) 03:49:30.60 ID:86ktSM7p
ですよね

ただ、「鉄砲」の単語は一応出てきてたでしょ、一般的には飛砲や火砲と書かれて
それに日本の鉄砲と違って爆裂性の兵器だけど
794S字型金具:2011/10/03(月) 22:02:40.26 ID:VcDoTeUV
>「鉄砲」の単語は一応出てきてたでしょ、一般的には飛砲や火砲と書かれて それに日本の鉄砲と違って爆裂性の兵器だけど

物事の確認。
○日本での初見は、『八幡愚童訓』という、鎌倉時代の書物の「紙砲鉄砲」。 >>771
○その後の日本での記載例は次のようなものがある。
『壒嚢抄』(1446年)には、「テツハウト云フ字ハ何ゾ、鉄炮卜書也。紙ニテ作ルヲ紙炮卜云也。」
『蔭涼軒目録』(1466年)には、「放鉄放一両声。人皆聴而驚顚也。」
『碧山日録』(1468年)には、「串楼層櫓・飛砲火槍・戦攻之具所至悉備焉。」
『北条五代記』には、「享禄はじまる年(1528年)、和泉の堺へ下りしに、あらけなく鳴物のこゑする。是は何事ぞやととへば、銕炮と云物、」
『渡唐記』(1539年)には、「持戟放鉄炮者三、或奉楽、或扣鉦」
『増補下学集』(1669年)には、「銕炮(テツホウ)」「紙炮(シハウ)」 >>775

◎中国からの初見(日本製の)は、『全浙兵制考・日本風土記』(1592年)の「鉄朴(テツホウ)」 >>629
◎中国での初見は、清乾隆年間に編纂された『景定建康志』(1736〜95年)の「 鉄砲殻」。
だだし、原典は不明であり、「 鉄砲殻」は1箇所のみであるので「鉄火砲」の誤記・脱字の可能性がある。また、「 砲」「 殻」の字が付くので「火縄銃」ではない。>>759
◎その後の中国での記載例はしばらく見当たらず、中国に「 鉄砲」という単語は元々存在しないのでは?

795人間七七四年:2011/10/03(月) 23:21:11.65 ID:8QDuhY1a
言葉だけなら太平記にもあるね鉄砲
796人間七七四年:2011/10/05(水) 06:22:11.29 ID:UjUsPJdu
中国での初見は、南宋景定年間に編纂され、明の万歴以降に国士監から散逸してしまった物を
清代に民間から収集して再編纂した『建康志』に出てくる「鉄砲殻」と「小鉄砲」

ただし銃ではなく手投げ弾なので、蒙古襲来図の「てつはう」の絵に近いと思うけど
日本での「てつはう」に関する知識が全く無いから、よく解らない

それと鉄火砲を文字数の違う鉄砲と写すことは、幾らなんでも無いわ。2箇所あるし
元史には火砲が数ヶ所で使われてるが鉄砲は出て来なかったけども
797S字型金具:2011/10/05(水) 19:14:54.87 ID:YHd98zWi
物事の確認
>中国での初見は、・・・・
1795年の『景定建康志』。関ケ原の戦い(1600年)後、195年も経っている。
中国は文書記録の国である。『民間から収集して』の記録と言っているが、『中国での唯一の「鉄砲」単語の記録』となっている。
>「鉄砲殻」と「小鉄砲」の2箇所
「鉄砲殻」は剏造火攻器具の分類。「小鉄砲」は添修火攻器具に分類されているので物が違う。
「鉄砲殻」は「鉄火砲殻」の脱字ではなかろうか。「小鉄砲」は添修できることと、数量が208個と中途半端な数であるので、火攻武器というよりも、火器具ではなかろうか。
>ただし銃ではなく手投げ弾なので・・・・
『鉄砲殻十斤重四隻七斤重八隻六斤重一百隻五斤重一萬三千一百四隻三斤重二萬二千四十四隻』 >>759
殻の斤重量が書いてあるので、1斤600グラムとして計算しろ。そしてその中に火薬・鉄片などを詰めての重さになる。
有効な手投げ攻撃は無理で、投石機を併用しなければ実用にならない。ただし、防御の際、城壁からの手投下には使えそうだが?
798人間七七四年:2011/10/05(水) 21:51:10.84 ID:/fk5tRTw
『景定建康志』の成立は、南宋景定年間で関が原の300年以上前

「小鉄砲」は〜箇ではなく、〜隻なので、矢箭と同じ消耗兵器と考えるのが自然

殻の重量ではなく「鉄砲殻」の重量、その中でも5斤3斤が大半を占め
重量的にも数量的にも歩兵用の手投げ弾と考えて間違いはない

名称は定まってなかったので、鉄火砲や震天雷と同じものを「鉄砲」と書いた可能性は多分にある
799人間七七四年:2011/10/24(月) 20:33:09.13 ID:xCXD/m9y
保存状態のいい元寇の時の沈没船が発見されたね
800S字型金具:2011/10/25(火) 00:22:33.57 ID:huJuncU3
そもそも鉄砲とは何かF

鎌倉時代の文永の役(1268)と弘安の役(1274)とは、日本にモンゴル軍の分隊である大元帝国征日本行省(その後征東行省と改名)高麗国が侵略してきた事件である。
主力は高麗軍で、元軍の大半が漢人と高麗人で構成されており、モンゴル兵は少なかったと思われ、戦費・物資は高麗持ちであった。 http://www26.atwiki.jp/crescent_castle/pages/163.html より。
元軍が火器を使用していれば李氏朝鮮にも引き継がれ、現に朝鮮王朝実録では『火器は中国から習った』としており
『大將軍、二將軍、三將軍、六花石砲、火砲、信砲、火桶、火箭、鐵翎箭、皮翎箭、蒺藜砲、鐵彈子、穿山五龍箭、流火、走火、觸天火』などの記載がある。
朝鮮王朝実録(1392〜1910)の中で日本の火縄銃を意味する「鳥銃」記載の初見は1592年で、その後1907年まで数多く記載されているが、「鐵(鉄)砲」記載の初見は1612年であり、次に出てくる1653年の2箇所のみである。
朝鮮では「鉄砲」という単語は「銅砲」の対義語として使われていて一般的では無く、また中国でも使われていないので、「鉄砲」は日本オリジナルの単語であると思われる。

朝鮮王朝実録を調べていて不思議に思うのは、「倭人」と「日本人」の区別がよく判らない。九州地域以外の日本の状況を知っていたのだろうか。
朝鮮は倭寇征伐のために火器など軍備増強を行っていたが、中国と違って海禁政策を採っていないのにポルトガル人らの記載が無く、「西洋人」の初見は1582年。「耶蘇宗」の初見は1644年など・・・・。
ポルトガル人がインドのゴア工廠で製造した鉄砲を伝え売ったとする説、倭寇が日本にマラッカで製造した鉄砲を伝え売ったとする説が唱えられているが、それらの説では『なぜ朝鮮を無視したか』『なぜ中国に鉄砲が伝来しなかったのか』の説明が付かない。
ポルトガルは1511年にマラッカを征服し1543年(?)に日本へ鉄砲が伝来したとされていが、西洋人の朝鮮入国や朝鮮でのキリスト教の布教が遅れた理由はよく判らない。
日本での火器販売はカピタン・モール制での制約があり、ゴア工廠で製造した鉄砲類はどこで販売したものだろうか。>>462 >>608
倭寇の被害を被っていた朝鮮に伝来記録が無く、倭寇のマラッカ銃とは1511年以前にマラッカ王国で使っていた銃では話の辻褄が合わなく、ゴア工廠で製造した鉄砲をマラッカ銃とするにも無理がある。
そもそも倭寇が火縄銃を使っていたとする記録が曖昧である。>>441
801人間七七四年:2011/10/25(火) 03:03:09.49 ID:mKBi9c81
鉄砲という単語は何度も出ている通り
日本の鉄砲とは対象が異なり、また一般的ではないものの中国にも存在した
ただし「鉄砲」自体は日本のオリジナルだろう

中国にも鉄砲は伝来していて、広西だか広東だかの巡撫もフランキ銃を導入している
ただ官営の神機営や火器房(名前を失念)で大々的に製造されるのは朝鮮出兵以降で
フランキ銃の生産は弘治年間以降されてはいるものの、限られた少数の製造のみ

朝鮮半島の国は高麗も李氏朝鮮も前に出ていた通り、技術の扱いが極端に秘密主義的で
同じ様にまた、外国の文物の勝手な持ち込みを厳禁していたうえ
日本や明と比べて物産も購買力も乏しいので、西欧人が寄り付かないのも不思議無いと思う

もし倭寇が火縄銃を使っていたのなら、明軍が倭鳥銃に驚いたのは不可解
802S字型金具:2011/10/28(金) 00:12:22.44 ID:uaPju5Ho
『1557年以降、ポルトガル人は毎年役人に賄賂を渡しながら本格的にマカオに居座り続けるようになり、明朝は72年から毎年500両の地代を納めることを条件にポルトガル人のマカオ居留を正式に認めるようになった。』
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/china/macau.html より。
>>608 の『明国の現地官憲はポルトガルが海賊の鎮圧行動に協力したとして、ポルトガル人のマカオ居住を黙認する』は訂正。
1557年(弘治3年)以降、中国はポルトガル人と本格的に接するようになったので、マカオ周辺で西洋火器の複製品を製造しても不思議は無い。
1523年、中国は前年広東を攻撃してきたポルトガルより分捕った佛狼機を試作し、その後配備していることから、複製品の製造は得意分野である。>>359
小型火器についての詳細は不明であるが、「日本一鑑」(1567〜1573)に『近ごろ手銃有り。佛郎機中より師出す。國今之れ有り。名を鳥嘴と易う』と書かれている「鳥嘴銃」が「フランキ銃」に該当するかも知れない。>>720 >>722
中国での「鳥嘴銃」と「鳥銃」についての記述は混乱・矛盾しており、中国に「小銃の鳥嘴銃」は定着せず消滅(?)したものと思え、この時点では『小銃(火縄銃)が伝来した』とは言えない。
明軍が倭鳥銃に驚いたのは、『明軍に倭鳥銃に該当・相当する火縄銃類を持っていなかった・知らなかった事』であり、倭鳥銃と鳥嘴銃が異なる事を意味し、倭鳥銃がポルトガル(佛狼機夷)由来ではない事を意味する。

西欧人が朝鮮に寄り付かない理由として『日本や明と比べて物産も購買力も乏しい事』は結果論であって、西欧人の初見が遅れた理由にはならない。
武器調達は時と場合により重要事項となる場合が多く少量の武器購入も有りうるので、宣教師やポルトガル商人の初見が遅れた理由は『必要性が無かった・少なかった事』ではなかろうか。
803人間七七四年:2011/10/29(土) 07:41:00.88 ID:VauuVAlL
そもそも朝鮮半島国家は歴代の大半が非常に閉鎖的で
海外交易や技術・知識・文物の導入も宗主国相手以外とはほとんど行っていないし
それ自体も政府によって厳重に管理制限されていたから

西欧人から近付く伝手も意義も無いし、朝鮮半島の側もそれを望んでなかった
804人間七七四年:2011/10/31(月) 23:22:43.35 ID:CERMI1Ly
大砲スレ落ちたんだね・・・
豊薩軍記によると、丹生島城の戦いで大友方は有名な「国崩し」を使い
大玉と共に二升ばかりの五、六匁の小玉を大量に詰めて、
350mほどの距離で放ち「大小の飛丸に当たり許多失せにけり」と威力を伝えている。

西洋ではマスケット銃の弾を詰めて散弾にする事は珍しくないが・・・
口径によって数十〜数百発を詰め、イギリスでは300mほどから、
フランスでは散弾の跳弾にも殺傷力があると考え500m以遠から撃っていた。
朝鮮でも地字銃筒といった後装砲に、烏弾という散弾を使用するので
近距離では散弾の威力はやはり脅威なのかな
805人間七七四年:2011/11/01(火) 18:41:32.64 ID:ka+C36XH
ただの鉄球撃ち出しても、建築物以外には非効率過ぎるからな
806人間七七四年:2011/11/02(水) 09:43:03.88 ID:Lhs57S4g
明帝国じゃ初期の手砲の頃から散弾じゃなかったか
807人間七七四年:2011/11/03(木) 01:58:42.50 ID:TQ+Sfeci
>>806
手で火縄を持って点火してた青銅銃の時点で散弾だね
明は鳥銃すら青銅製というw

しかし・・・明の鳥銃はサーペンタインロック、緩発式のカラクリばかりだな
日本ではスナップロック、瞬発式火縄銃ばかりだったのを考えると好対照だ
808人間七七四年:2011/11/03(木) 15:30:06.60 ID:emF3atS8
明でも鉄鳥銃は作らせたんだけど
生産に時間が掛かるからっつー理由で
簡単に作れる青銅製のままだったよね、銅が豊富に採れたのもあるだろうけど
809人間七七四年:2011/11/03(木) 16:32:16.71 ID:+gWW0ChN
鋳造技術高いシナ
810S字型金具:2011/11/14(月) 01:25:42.19 ID:2qpb6E8r
そもそも鉄砲とは何かG

西村時彦著「南島偉功伝」に、『小銃は日本より中国朝鮮に伝わった』の根拠史料を挙げている。
「小銃支那に入る。」
格致鏡原曰。鳥嘴木銃。小銃の事なり。嘉靖間日犯淅。倭奴被檎。得其器。遂使傳造焉。
談餘叢考曰。七修類彙云。嘉靖年間倭入内地。有被擒者。并得其銃。遂令所擒之倭奴演中國。遂傳其法。今且遍天下。
何氏兵録曰。中國無鳥銃。傳自倭夷得之。此與各種兵器不同。利洞甲。射能命中。弓矢勿及。
經國雄略云。鳥銃傳自倭夷。十發九中。即飛鳥皆可射落。因是得名。
武備志曰。鳥銃中國本無此器。得之倭奴。
「小銃朝鮮に入る。」
懲録曰。天正十四年宗義智渡鳥銃於朝鮮。朝鮮有鳥銃也始於此。
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992713 P60/100

これらの史料から、倭寇やポルトガルが朝鮮ばかりではなく琉球、中国にも火縄銃を販売しておらず、日本だけに火縄銃を販売したとする倭寇やポルトガルによる鉄砲伝来説は受け入れがたい。
中国朝鮮では日本の鉄砲(炮)の事を「鳥銃」と称し、「經國雄略」でその名の由来を述べ、日本の大鉄砲は特に「大鳥銃」と呼ばれていたが、日本では「鳥銃」の名称は使わない。
「神器譜」では倭の鳥銃と西洋の西洋銃は、カラクリや操作法などが全く異なる別の銃として書いてある。
中国の書に鳥銃は「一銃總按三彈」、信長公記に「もとより一巴もニツ玉をこみ入れたるつゝをさしあてて」、「信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し侯」「山中にて、鉄炮二玉をこみ」などと書いてある。
戦国期の火縄銃は一度に二・三発の玉を込めて発射するとなれば、異径・異種の弾の大量出土例や種々雑多な異口径の火縄銃の存在に納得が出来、日本の火縄銃はフレキシブルに対応できた物と思える。>>326
鈴木眞哉さんを通じて名和弓雄さんに写真で古銃を見て頂いたところ、『口径からすると一つ玉を撃ったのではなく、散弾を撃ったのだろうと思われる』と鑑定されました。>>241 (画像削除)
はたして戦国期の火縄銃は、「単発の鉛弾」、「単発である早合」、「単発用の噛まし布(パッチ)」などは使われたのであろうか。>>517 >>520
811人間七七四年:2011/11/17(木) 03:38:18.57 ID:BhJHPpBP
稲富何某の書いた鉄砲の指南書にも
複数発装弾の他に単発の早合の解説が載ってなかったっけ?
812人間七七四年:2011/11/17(木) 17:28:39.90 ID:lEFJ5iDg
火縄銃、
長石の

銃の扱いに関してだいぶカン違いしてる方がいますね。
当時の銃は戦国中はほぼ威力も射程もなく。また弾道がみえないため
扱いにくく、リロードも遅く、弓にかてない投射兵器だった。
だからやり感覚でつかってやりの延長だった。

弓が事実上射程100メートルくらいであつかわれたのにたいして
銃は狙撃で60〜80メートル それ以上になるとまずあたらないし威力もない。
そして弾道もみえないため、修正ほか難しくねらうなら射程は30〜50メートル確実に弓以下に低減する。

でそうなると確実にやり感覚でしか使えない。そして当時やりは非常に少なく
馬、鎧が非常に多かったため(数十万から50万以上場合によっては銃以上)
やりをつかわず騎兵、鎧対処ってのはないんだよね。

日本は足軽がもったやりないし、足軽が使った槍の記録、ないし使ったやり
の証拠が極めて少ないんだ。そして騎兵と鎧のみたくさんあってバランスが悪くなる。

ところが戦国がピークを迎えて歩兵が増えたとき、事実上銃がやり感覚でつかわれてたなら整合性つく
また銃、弓が明白に混在で、弓が射程、威力もながかった。その状況で銃使う理由がやりなら整合性つく

そして銃の数が異様に多く。それこそ本来足軽分に以上にあること説明がつく。

つまり銃はやり感覚で足軽はやり感覚でつかった。またそれだけ銃があった。
やりの使用。記録、物証

これがまったく少ない。
813人間七七四年:2011/11/17(木) 17:32:44.57 ID:lEFJ5iDg
さらに

銃狙撃使用例が少ないんだよね。だいぶ後期になるんだよね。

それまではなぜか銃とやりが格闘する状況。資料、証拠が以上に多いんだ。
だから銃やり感覚で当時中距離で使ってたらしいね。だから過剰にやりがでてこない。
そして弓より射程が短い。


またよって、長石の〜なんかはほぼすべての戦機、資料がうそになるね。もともと戦国史ってかなり
改ざんがおおいんだけど。物理的に長石のの戦いはありえなくて

銃が弓より射程もなく、威力もないから、ただの平原説
ないし塹壕説
どちらも違う。

当時銃はそのかるみをいかして、ながしのの山々に隠れて狙撃する。
銃だから隠せる
かくしてゼロ距離射撃だから、威力もでる。

その戦い方がただしい。平原説、塹壕説は物理的にありえない。
せいぜい塹壕もくしして、隠れてやり感覚でうちはらった〜が正しい。少なからず当時記の長石のはだいぶ違う。
814人間七七四年:2011/11/17(木) 17:37:41.79 ID:lEFJ5iDg
違った。

銃の長きゅうり狙撃技術の確立がだいぶ後期だし
弓に匹敵するほどの威力、射程距離になったのはだいぶあと


そのため長石のレベルではほぼ物理的に長距離狙撃などできず。
ゼロ距離服劇しかできない。

そもそも銃で騎兵を〜なんて空想にきまってんだろ。当時ガチじょうへい騎兵はいないし、(下車騎兵)
そんなそれだけの火力陣地が形成してれば普通は迂回するよ。突撃しないも手段。

さてその状況で騎兵をゆういに打つのはゼロ距離での近距離伏兵手段
これのほうが合理的だし戦術的手段。

戦国は膨大なうそ、資料改ざんあるな。
815人間七七四年:2011/11/17(木) 18:31:39.94 ID:Wvoim81E
ID:lEFJ5iDg
電波と言われたくなかったら、具体的な史料に則って話してください
816人間七七四年:2011/11/17(木) 18:57:25.94 ID:hDM6XWLz
つーか、漢字ちゃんと使えよ…
朝鮮の方ですか?
817人間七七四年:2011/11/17(木) 19:28:07.43 ID:aZNWNgqu
小幡山城守「鉄砲は遠い物を撃つには無類の強さである」
横田備中守「たしかに敵との間が遠い場合は無類の道具である。しかし間近の勝負を鉄砲でするのは危うい」
818人間七七四年:2011/11/17(木) 20:58:04.77 ID:+ApoVYLZ
>>812-814
糞チョン死ねw
鉄砲を造れなかった落後劣等民族は、哀れな歴史を受け容れろ
819人間七七四年:2011/11/17(木) 22:02:10.09 ID:IHQpZzyL
読んだら頭が痛くなった謝罪と賠償を要求する
820S字型金具:2011/11/19(土) 02:55:41.80 ID:1N/RqFZF
自鳥銃流傳中國。則諸器又失其為利矣。諸器一手持柄。一手燃藥。未及審固。彈已先出。高低遠近。多不自由。
鳥銃。後有照門。前有照星。機發。彈出。兩手不動。對準毫厘。命中方寸。兼之筒長氣聚。更能致遠摧堅。臣自海氛初起。即留心訪求神器。

照門照星乃鳥銃樞要。討凖全在此處。倭銃用一凹字形。不如此更妙。下倶作馬蹄筍。
821S字型金具:2011/11/19(土) 08:40:15.81 ID:1N/RqFZF
自鸟铳流传中国。则诸器又失其为利矣。诸器一手持柄。一手燃药。未及审固。弹已先出。高低远近。多不自由。
鸟铳。後有照门。前有照星。机发。弹出。两手不动。对准毫厘。命中方寸。兼之筒长气聚。更能致远摧坚。臣自海氛初起。即留心访求神器。

照门照星乃鸟铳枢要。讨准全在此处。倭铳用一凹字形。不如此更妙。下俱作马蹄笋。
822人間七七四年:2011/11/19(土) 08:49:16.55 ID:4WPOY0mC
今度は中国人か?
823人間七七四年:2011/11/19(土) 15:35:09.62 ID:vfyYA4/t
簡体字と繁体字を並べてる上に古典からの引用でもないとか
成り済ましっぽいな
824人間七七四年:2011/11/19(土) 17:36:34.01 ID:M1Q6FIVW
こんな字初めて見た 氛
825S字型金具:2011/11/19(土) 20:36:09.88 ID:1N/RqFZF
>>823 >簡体字と繁体字を並べてる上に古典からの引用でもないとか

出典は「神器譜」の「原銃」の項です。>>589
中国の書においても子引き孫引きが数多く見られ、「武備志」でも「神器譜」の引用がありますが語解釈で書かれ、「武備志」もまた語解釈され引用されています。
中国のパクリ文化や韓国起源説が横行し、小銃(鳥銃・火縄銃)も日本からの伝来ではないと主張されそうです。『ここで倭銃の特徴をしっかりと記しておかないと』と思い、原文の繁体字と中国大陸で採用されている簡体字に変換してみました。
倭銃に照門・照星があることは狙撃も可能な武器であることの証明である。また、倭鳥銃は『四季各有加減之方』とあるように火薬処方に秘密があり、TPOによっては強力な武器となる。
『今日制藥,能以磺炭分兩,斟酌損益,求合燥濕之宜,以適南北之用,未嘗非軍旅之一助耳。南方卑濕氣潤,磺炭稍掾B北方高爽氣燥,磺炭稍減。西方氣燥,嚕蜜每料用炭六兩,用磺二兩。
海中氣潤,日本用炭六兩八錢,用磺二兩八錢。』と、火薬の調合に秘密がある。
826人間七七四年:2011/11/19(土) 21:58:42.85 ID:tR243VwE
原銃の項に甘粛新疆からオスマン製の鳥銃を入手したとあるし
神器譜の何所かにも新式銃は魯蜜銃やフランキ銃を参考に製造したとあるでしょ
827S字型金具:2011/11/20(日) 01:39:02.37 ID:Vj9EzOfL
原銃の項で、「甘粛」「新疆」「オスマン」の単語は出ていました?
甘粛、新疆は、現中国の省では? 通過ならば分かるが。原典を読みましょう。
もしかしたら魯密銃のことをならば、中国(明)が魯密銃について知ったのは1598年以降のことである。>>298 >>299 >>300 >>301
中国(明)が倭鳥銃を知ったのはそれより前で、日本の銃をきっかけとして「原銃」が書かれている。
格致鏡原、談餘叢考、何氏兵録、經國雄略、武備志などに「小銃支那に入る。」について書いてある。>>810
828人間七七四年:2011/11/20(日) 04:22:49.97 ID:MLmKXLER
原典を素直に読んでないのはアナタでしょ。
魯密銃については、神器譜の著者の先祖が著者へ語った処によれば
先朝がトルファンを攻略した際にハミで魯密銃を入手した、と記してる
829S字型金具:2011/11/20(日) 10:46:24.40 ID:Vj9EzOfL
『既得西洋銃於遊擊將軍陳寅,又得嚕蜜番銃於錦衣衛指揮朵思麻』とあり、
『思麻攜帶神器,度雪嶺,涉洹河,逾昆侖,重譯獻獅以修職貢。寒暑八更,始達都下。皇祖官思麻而不發,未必非天心默相,以遺陛下,為制服倭奴之具,使陛下今日神武布昭於夷夏者也。迄今四十余年,年已七十有四。』
思麻個人が、40年以上「嚕蜜番銃」を所持していた事になる。(挺数は不明)
『去歲與武舉把臣、把仲弟兄較射,方知其父把部力從嚕蜜進貢獅子進京,皇祖留之不遣。臣問及鳥銃,臣仲雲:義伯朵思麻,即本國管理神器官,一訪可知。臣即同部力詣思麻家,思麻欣然出其本國帶來鳥銃。臣見其機,比倭銃更便。』
趙士驍ヘ、把部力の紹介によって70歳過ぎの思麻から「嚕蜜番銃」を知ったことになる。

大砲火薬はあるが小銃火薬の無い当時の中国に於いて、思麻はただ単に「嚕蜜番銃」を携帯(保管)していただけではなかろうか。
趙士驍ヘ、倭鳥銃用や西洋銃用の小銃火薬を入手し、「嚕蜜番銃でこの小銃火薬使ったところ発射できた」が真実ではなかろうか。その後、趙士驍ヘこの小銃火薬処方で調合するようになり、新式銃を考案するようになったのでは。
830人間七七四年:2011/11/20(日) 17:24:28.10 ID:zgISrZDM
小銃火薬(何を指してる単語か知らないが)は小口径の管形兵器が南宋代からあるので当時からあるだろうし
1300年前後に沈んだ銅製手銃から発見された火薬は、硝石60:硫黄20:木炭20で実用可能な範囲内。

「武編」巻6には「黄居硝十分之一為中料、炭同、凡銃砲及鳥銃用之」
「紀効新書」巻15:放鳥銃法式にも「制合鳥銃薬方、硝1両、黄1銭4分、柳炭1銭8分。」
とあるから、遅くても16世紀中頃までには合理的な配合割合になってると思うが。
831S字型金具:2011/11/20(日) 22:00:34.92 ID:Vj9EzOfL
小口径の管形兵器の薬室は膨らんでいるので、粉末火薬を使用したものである。したがって、粉末火薬は燃焼速度が速すぎるので硝石割合を60%におさえたのでは。
また、小口径の管形兵器での粉末火薬はガス圧の増加速度が遅くなるので、丸い弾丸では発射速度が遅く、矢の発射または発音器として使用されたのでは。

大砲用火薬は燃焼速度を抑え、ガス圧速度を遅くし、砲身の破裂を防ぐために硝の割合を抑えているので小銃火薬として不適である。
鳥銃と書いた時点で倭の小銃を指し、「紀効新書」巻15の硝割合は75.8%となり、この割合は現在の標準硝石割合と同じである。>>679
ただ、小銃火薬は混合比率以外の要因でも性能は大きく異なり、秘伝となる。
832人間七七四年:2011/11/20(日) 22:42:06.02 ID:3OO6QSLw
世界で最初に銃を開発した中国。
明では15世紀内に歩・騎全員が銃を装備した師団、火営が創設され、
編成においては同時代の欧州を凌ぎ非常に先進的に思える。
これで銃の性能がよければな・・・

チャンコロはなぜ長銃身化で威力・射程を伸ばす方向に行かず、
多銃身化・しかもそれを制式銃なんて流れにいっちゃったんだろう。
16世紀に鳥銃が伝来したとき、あまりに中国の銃がしょぼかったので
あっという間に置き換わってしまった。
833人間七七四年:2011/11/21(月) 00:31:41.70 ID:ZZE8y3RE
基本的に弩の代わりみたいな運用だから
狙撃出来るような高性能の物は求められなかったからじゃない?

ズラーっと10万人ぐらいw並んで一斉射撃すりゃいいだけだもん
数を作ることも必要だし
834人間七七四年:2011/11/21(月) 01:29:29.75 ID:e/1wU8BV
>>831
矢の発射ではなく球形の弾丸を放つ為に小口径の管形兵器を使用したのですよ。
手銃などと共に球形の鉛玉も出てますし、前述の紀効新書にも
火薬の装填量は鉛玉より少なくすべしという記述がありますからね。
そもそも粉末火薬であっても実用可能な範囲で、現実に朝鮮戦役で使用されていますからね。

火縄銃への置き換えが急速に進められたのは、射程と命中率と利便性に欠けていた為であって
まったく新しい新兵器を導入したわけではありませんよ。主張が無茶苦茶過ぎ
835人間七七四年:2011/11/21(月) 01:31:39.81 ID:e/1wU8BV
>>832
同時代の西欧諸大国と比べると日本の軍隊編成も遥かに先進的だよ
火縄銃も西欧の物より日本の方が質量共に勝っていた
836S字型金具:2011/11/21(月) 01:56:42.93 ID:LeCAwG5i
>>834
小口径の管形兵器の薬室部が膨らみ、なぜ銃口径よりも大きい薬室を造ったか。大きな薬室が必要であったかを考えてみては?
その後の小銃の薬室は徐々に小さくなり、銃口径と同径となっています。
837人間七七四年:2011/11/21(月) 11:21:08.86 ID:WpAurYFm
というか鳥銃の登場より以前に、中国で大量の小銃が運用されていたのは常識じゃね?
オリジナルは12〜13世紀と諸説あるが、
13世紀後半の南宋で銃尾に柄を挿して使う銅銃が実戦使用されており、13世紀末にはそれがヨーロッパに伝わる。
火薬を詰め、木馬子という蓋をして鉄丸を放つタイプだ。
初期のヨーロッパのタッチホール式手銃(Hand Cannon)は、中国のものと酷似している。

明においては千里銃など十数種類の小銃を製造していた。
1372年に手把銅銃(長銃筒)の製造を開始し、
次いで制式銃となったのは1410年の永楽手銃(永楽七年型、のち永楽十二年型)だ。
火器専門師団である神機営に優先的に配備され、
1449年の土木の変の対オイラット戦では夥しい火器が投入された。
838人間七七四年:2011/11/21(月) 12:06:59.00 ID:WpAurYFm
>>835
どうかな〜、一長一短では。
テルシオやマウリッツのオランダ式大隊と比べると、
日本の「備」は中隊単位の諸兵科連合という柔軟さはある。
ただ戦国中期までは寄親・寄子制から脱却できず、
その後も封建的主従関係による指揮系統・編成の支障があったんじゃないかなあ。
動員力では大きく勝るだろう。

鉄砲の性能は日本の方が上だが、
欧州は大口径マスケットなど銃架を使用する鈍重さがあるとはいえ射撃統制も洗練されてるし、
漸進射なんて日本でできたのは島津くらいでは。
この時代の大砲、デミカノン砲やカルバリン砲は対人には向いてないけど
対人砲のサーペンタイン砲は速射が効き、水平射や散弾の威力は並大抵ではない。
騎兵は比べるべくも無い。

長柄組も備一つあたり4組として百数十人。複数の備を並べても、薄い横隊のラインでしかない。
これで数千人のパイク密集陣の圧力に対抗し、突破されない厚みを保てるだろうか?
本陣備のように長柄組を数段重ねても、まだ不足じゃないだろうか。
徒歩武者もパイクの密林に分け入るのは難しいだろう。
騎兵に限らず、白兵兵科は小分けにすると機動力は増すが衝力が減る。
中国なんかはさらに一歩進んで、小隊すら槍・長槍・盾・弓・三連発手銃・鳥銃・小型砲という複数兵科の編成にしてた。
839S字型金具:2011/11/21(月) 22:34:49.09 ID:LeCAwG5i
>>837
>というか鳥銃の登場より以前に、中国で大量の小銃が運用されていたのは常識じゃね?

この図の銃 http://www.uraken.net/world/china/bei09/02_122.jpg のことを指摘していると思いますが、大量の小銃が運用されていたのは間違いないけれども武器ではないと思う。
中国では武器には名称を付けるのが普通であるが、この銃には名称がなく、「銅銃」「銅火銃」「手銃」「手把銅銃(国立歴史民族博物館)」など各種様々に呼ばれている。
明のこの型式の銃にはシリアルナンバー(確認されている最終番号は天字九万八千六百二十号、勝字壱万弐千柴伯柴拾伍号)が刻印されており、大量の銃が運用されていたのは確かである。
しかし、薬室の膨らんだこの型式の銃の出土品はあるが、武備志など中国の兵書に出てこなく、そのため名称が分からない。朝鮮の「兵器図説」には、よく似た図に矢を飛ばす「箭銃筒」として出てくる。
しかし、30〜40cmの銅銃身に木の柄を付けて、熱した金属線で点火する(火蓋は有るが火皿が無いので口薬は使用できない。導火線は「せせり穴」が大きくなり、小銃には使えない。)銃は、武器として使うシチュエーションが浮かばない。
用途として砦や城塞において、昼夜天候に左右されない通信信号用として使った物ではなかろうか。
粉末火薬は燃焼速度が速く、衝撃波が強いので高音を出し、大砲音と区別出来たものと思われ、その後連発可能な3眼銃などは通信信号用としても使われたのでなかろうか。
武器にはナンバーを打つ必要性が少なく、中国では盗難、紛失などの対策に、また、備品管理用としてシリアルナンバーが必要であったのでは。
朝鮮では、烟臺で信砲を使っていた。
『我國之患, 在於北方。 野人不能侵中國之境者, 畏火砲弓弩也。 近來十餘年, 野人不得侵掠我境, 以田時貴、李澄玉、河敬復等, 能戰勝也。 雖有賊變, 若能高築烟臺, 具備禦之物而戍之, 則野人必不得久留。 其令兵曹, 預備烟臺信砲小火砲等事。』
ポルトガルのレイナー・ダインハルト氏も、手銃は信号用に使用したのではないかと推定している。
http://www.fhaj.jp/archives/738
840人間七七四年:2011/11/21(月) 23:46:25.11 ID:WpAurYFm
>>839
普通に弾丸を発射する銃として使ってるよ。
中国は大砲にもシリアルナンバーがある。
中央集権国家ゆえ、官営工廠で管理生産がされていたから。

朝鮮の手銃に関しては、文禄の役で宣教師が
発砲音の割に威力が少なく誰も倒れなかったと記録している。
日本の甲冑は手銃の弾丸を弾いてしまったわけだ。
841人間七七四年:2011/11/21(月) 23:55:01.31 ID:WpAurYFm
>>839
写真のタイプの銅銃は明初期のもので、複数の鉄丸を込めて撃つタイプ。
見ての通り射程は短い。
火門を塞ぐ火蓋があるはずだが、写真では確認できない。
842S字型金具:2011/11/22(火) 00:13:21.42 ID:6S8eQH3K
>>840
「普通に弾丸を発射する銃」の名称は。その出典を教えてください。
シリアルナンバーのある大砲の名称も教えてください。

>>841
複数の鉄丸を込めて撃つタイプの根拠。出典は。
『(火蓋は有るが火皿が無いので口薬は使用できない。・・・』と書いたが・・・。
843人間七七四年:2011/11/22(火) 01:20:18.64 ID:6c1zVlbT
>>838
封建的主従関係による指揮系統・編成の支障は無いよ
現実に足軽組や鉄砲組が編成されてる。

それ以前に、当時の西欧諸大国の軍は高価で数が少なく練度は低く士気も非常に低い
かつスペインやオランダ軍の編成は日本の軍と比べて下士官の数が少なく大雑把な編成
844人間七七四年:2011/11/22(火) 01:26:25.90 ID:6c1zVlbT
>>842
火槍、突火筒などなど
管理号入りのは、大碗口筒、大砲筒、二十九号大砲筒などなど

出土した物には火皿があるから
845S字型金具:2011/11/22(火) 03:09:24.14 ID:6S8eQH3K
>>844
火槍、突火筒には、薬室部の膨らみは無いのでは・・・。
「銅銃」「銅火銃」「手銃」と火槍、突火筒は大きさの点でもまったく異なる銃ですが・・・。
『出土した物には火皿がある』は本当に「銅銃」「銅火銃」「手銃」でしたか。

突火槍では、『至順三年二月吉日綏邊討寇軍第三佰號馬山』
明洪武五年碗口銃では『水軍左衛進字四十二號大碗口筒,重二十六斤,洪武五年十二月吉日寶源局造』
明洪武十年銅銃には『夙陽行府造。重三斤八兩。監造鎮撫劉聚,教匠陳有才,軍匠崔玉。洪武十年月日造』で番号が無い。
明洪武八年大砲筒には『萊州衛萊字七號大砲筒重壹佰貳拾斤洪武八年二月日寶源局造』
二十九号は、>>760 の「莱州衛(竹冠に耒)宇二十九号 大砲筒〜」ですか。
しかし、『各地舊藏和新發現的洪武八年以前的銅銃還有幾件,銘文格式完全相同,反映了當時造銃已有嚴格的制度。』の一文が気にかかり、「官営工廠で管理生産」したとするならば番号が小さく、モデル番号(鋳型番号)かも知れない。
846人間七七四年:2011/11/22(火) 03:12:17.45 ID:t17jV5Vc
火縄銃を実際に撃った経験がある人はあまりいないだろう
実際にやってみると良く練習した人でも早合をつかって一分に2発くらいが限度
雨だと火縄より火薬が湿めって撃てない
火皿も濡れるし弾込めのときに立てた銃の銃口から水が入る
だから燧発式の銃も撃てないだろうと思われる
雷管式でもゲベール銃のように先込めだと弾込めのときに銃を立てて火薬を注ぎ込むので
銃口から水がたくさん入ってしまえば撃てなくなるだろうと思われる
847人間七七四年:2011/11/22(火) 04:43:53.85 ID:6c1zVlbT
永楽7年の手銃には
5238号、22058号、23283号、23625号、4344号とあるから
大砲のみ型番表記というのは考え難いような
848S字型金具:2011/12/11(日) 07:09:27.52 ID:bEjYbNC4
そもそも鉄砲とは何かH

天文18年?(1549年?)摂津の細川晴元は山城の本能寺へ出した書状に 『種子島より鉄炮馳走候て、此方へ到来す、誠に悦喜せしむるの由、彼嶋へも書状を以て申し候・・・』と書いてあるので、これ以前に種子島に鉄砲があったことは間違いないが、
種子島氏16代当主の久時(1568〜1612)が慶長11年(1606年)和尚である南浦文之に編纂させた「鉄炮記」には、あたかも種子島がはじめて「鉄砲」の呼称を作ったように書いている。>>364
しかし、日本においての「鉄砲」の呼称用例はそれ以前から有り、種子島が最初ではない。>>794
天文19年(1550年)「萬松院殿穴太記」には、前将軍足利義晴が天文18年から京都東山慈照寺の大嶽での築城の際、『鉄砲の用心』のために細川晴元等と議して築城したことが書いてある。
天文21年?(1552年?)将軍足利義輝が島津貴久と種子島時堯あてに妙薬について照会した書状、『鉄放薬事、南蛮人直令相伝、種子嶋調合無比類之由、触御耳』がある。>>406
これらの細川晴元や足利義輝、島津貴久の古文書は「鉄砲」とは何か、また、南蛮以外の鉄放薬調合方法を知っていなければ書けない文面である。
日本では中国とは違い日本語独特の当て字が使われ(鐵銕鉄・砲炮放朴など)、「砲、炮」の違いはあまり意味をなさない。
近世初頭における「鉄砲」と思われる異名は「鉄炮・鉄放・大鉄炮・石火矢・手火矢・長大筒・小筒・六匁玉・種嶋・薩摩筒・南蛮筒・南蛮鉄炮・異風筒・異風物・意府物」と多くある。>>327
島津義久の家老の日記(天正2年・1574年からの上井覚兼日記)には、鉄放16件、手火矢27件、同一日に鉄放と手火矢を同時に書いてあるのが4件あり、薩摩島津氏は天正2年以前から鉄放または手火矢(手火矢は人吉藩相良家文書にも出てくる)を使っていた。

「火縄銃」の呼称は、文献では江戸期に西洋銃と区別するために使われた例もあるが、一般的に使われるようになったのは昭和に入ってからである。
安齋實さんは「徳川時代の小銃と其製造」(昭和8年)で、徳川時代の小銃に火索式(火縄式)小銃と外国からの燧石式小銃を挙げるが、我邦独特の型式である火縄式小銃のために火縄銃と呼称して論文を書かれた。
洞富雄さんの「鐵砲傳來記」(昭和14年)では「火縄銃」は一箇所、「前装火縄銃」は一箇所であったが、「種子島銃―伝来とその影響―」(昭和33年)になると火縄式発火装置から「火縄銃」を呼称されている。
所荘吉さんの「火縄銃」(昭和39年)では火縄式発火機から「火縄銃」を呼称され、その後一般に使われるようになった。また、所さんは「天文十二年の火縄銃伝来」と書いている。
しかし、現在「鉄砲伝来」は使われるが「火縄銃伝来」はなぜか一般には使われず、「鉄砲」と「火縄銃」は同義語ではあるが同一物とはされていないようである。
849人間七七四年:2011/12/11(日) 09:13:48.87 ID:BJyB1i3m
火縄銃ってマスケット銃になるのかな
ライフリングは切ってないよね
850人間七七四年:2011/12/21(水) 17:46:48.90 ID:7n5wYKxz
日本は何匁とか、形式で管理してた感じだな
851S字型金具:2011/12/31(土) 11:03:40.02 ID:sr9RbboJ
そもそも鉄砲とは何かI

>>4
>現存している火縄銃は慶長以後のもので、戦国時代のものは皆無。
>よって、江戸時代のものがほとんどな現存火縄銃を考古学的根拠に
>戦国時代の火縄銃を云々する歴史家のバカさ加減にあきれる件について。

戦国時代の日本は鉄砲(火縄銃)の装備率が50%を超える戦闘集団もおり「世界一の銃保有国だった」と言われているが、「慶長初年頃までに製作されたと確定できる遺品は皆無である」と指摘されている。
それ以降の少数残存している鉄砲は「製造其台之刑制、与其飾之如鍵鑰者」が当てはまり、贈答用と言える鉄砲であって実戦鉄砲の遺品では無い。
『戦国時代の火縄銃を云々』するには少数残存している武将クラスが所持する鉄砲ではなく武士・足軽が持つ実践鉄砲で論じないと実態に正確性を欠くが、残念ながら良く分からない。
最近の出土品の中には鉛でない鉄やその他の材質の弾が出土している外、実戦鉄砲用と思われる「カラクリ」が出土している。それは従来品(江戸時代の火縄銃)と趣が異なる形状や材質の部品である。
当時の文献を見ると、実戦銃は筒(銃身)と火縄銃の台(+カラクリ)とは別に管理されているように見え、鉄砲の計数やその装備率を算出するに当たり、この筒数の扱いについて良く判らない点がある。
簡単に銃身の補修・清掃ができるものなら別に計上する必要性は少ないが、筒は大小様々と記載されているので、戦闘中に燃えカスの詰まりや破損の際に換え筒を交換したものと思える節がある。
また、カラクリの火縄鋏アーム長は銃身の長短・大小と関係が無く一定であり、台(+カラクリ)を基準として実戦銃は贈答用の鉄砲とは異なり、フレキシブルに筒を取り替えてを対応させたものと思われる。
戦国時代の戦闘について鉄砲の数だけが取りざたされているようだが、その運用や火薬の性能などで結果は「月とスッポン」ほど異なると予想され、判らないことが多い。

国立歴史民俗舘の『歴史のなかの鉄炮伝来』の記載について。
「はじめは珍しさから贈答品として、あるいは離れた獲物を瞬時に射止める狩猟の道具として使われた。鉄炮が続続と伝来すると、それに呼応して各地に火薬の作り方や・・・・」とあり、倭寇は自分らも使わない狩猟道具を種子島に売りつけたことになるが、何かおかしい。
また、「異風筒や南蛮筒は火縄挟みの位置が右側であり、目当ては上部があいている。なかには銃身の端が鳶ノ尾形式のものがあるが、こうした特徴から日本に伝来した鉄炮は東南アジア方面のものと考えられるのである。」とあるが、本末転倒ではなかろうか。
フロイスは自国の鉄砲、または彼が知っている鉄砲と日本で見た鉄砲とが明らかに異なっている様に書いている。>>615
信長公記に「橋本一巴を師匠として鉄炮御稽古」とあるが、橋本一巴は何時、何処で、誰から鉄炮を習ったのであろうか。
鉄砲は「音響・花火類・狩猟用に利用され、殺人武器となる火器・鉄砲へと発展したもの」とすれば旨く説明が付くのだが。>>735
852人間七七四年:2011/12/31(土) 16:43:53.17 ID:4vsBFzOJ
>また、カラクリの火縄鋏アーム長は銃身の長短・大小と関係が無く一定であり、台(+カラクリ)を基準として実戦銃は贈答用の鉄砲とは異なり、フレキシブルに筒を取り替えてを対応させたものと思われる。


これ面白いね。撃った後はすぐ掃除しないと錆びちゃうから、筒はけっこう頻繁に取り外しはしてたんだろうけどさ。
台と筒に互換性があるならいろいろ効率的な運用が可能になる。


S字さんもよいお年を
853人間七七四年:2012/01/06(金) 16:06:31.97 ID:TD3GYxrr
砲術にも色々流派があったと思うんだけど、戦国最強とかあるの?
854人間七七四年:2012/01/06(金) 21:56:51.44 ID:yv/A4p3U
>>852
たぶんネジと筒の組み合わせは製造過程から考えると、規格統一は不可能だったんじゃないかな?

規格統一した銃というのは、米国の南北戦争期からだったと思う。
855人間七七四年:2012/01/08(日) 23:13:59.49 ID:709BtJX+
いやネジの話はしてないって
856S字型金具:2012/01/23(月) 18:05:23.95 ID:qYyIPqRs
そもそも鉄砲とは何かJ

江戸時代初期、大久保彦左衛門忠教(1560〜1639)が著した「三河物語」に「鉄炮」のことが出ている。
古式鉄砲研究家のS氏は「歴史研究(第595号2011年10月号23頁)」で、『三河物語には鉄砲伝来以前の銃撃戦や天文時代の鉄砲使用が述べられているが信憑性を欠く』と書いている。
S氏は、「鉄砲伝来は天文12年(1543)であるから、三河物語の鉄砲記述は信用できない」と推論されているようだが、はたしてそうであろうか?
「三河物語」で信憑性が問われる記述は4ヶ所あると思われるが、以下にその抜粋文を記す。

1)五代長親 ○北条早雲の来攻を沮む(永正5年・1508年)
『大拾〔樹〕寺に本陣ヲ取バ、所勢伊〔諸勢〕ハ岩津之城ヱ押寄、四坊〔方〕鉄炮放チカケ、天地ヲヒヾカせ、鬨ノ声ヲ上ゲてヲメキ叫ブトハ申せ共、岩津殿と申ハ弓矢ヲ取て無其隠御方ナレバ、少モ御動転ナク譟ガせ給ハズ』
2)七代清康 ○尾張に出陣し岩崎・品野を占領す(享禄2年・1529年)
『熊谷ガ城ヱ押寄給ひて、忙〔放〕火シテ、大手ヱは松平内前殿・同右京殿、其外御一門之衆寄サせ給ふ。御旗本ハ搦手上之嵩ヱ押上サせ給、天地ヲ響カせ、四方鉄炮打コミ、時〔鬨〕ヲ上サせ給ふ。 熊谷も去弓取ナレバ、事共せズシテ、大手ヱ切て出る。』
3)八代広忠 ○忠俊等に迎えられて岡崎城に入る(天文6年・1537年)
『然間、城ヲ固メテ、「広忠ヲ御本居〔意〕ヲ遂げゲサせ給ひて、只今、城ヱ写〔移〕ラせ給ふなり。二三之丸に有侍、広忠え心有者ハ、二三の丸ヲ固メ給ひて、入番之族ヲ一人モ洩ラサズ打取給え」ト云て、鯨声ヲ上、鉄炮ヲ放シ懸申せパ、知ルモ知ラザルモ落行く。』
4)九代家康 ○今川義元の将太原崇孚、織田信広を安祥城に攻囲す(天文18年・1549年)
『案〔安〕祥之城には、小〔織〕田之三郎五郎殿移ラせ給ひて御処に、四方より責寄て、鐘・太鼓ヲ鳴、四方より矢・鉄炮ヲ放シ、天地ヲ響、鯨声ヲ上、持楯・垣立〔楯〕、井楼ヲアゲ、矢蔵ヲ上、竹束ヲ付て、昼夜、時之間モ油断無、荒〔新〕手ヲ入帰〔替〕入帰責入ば』

この「鉄炮」の記述内容について、私には『鬨を作る(上げる)ための鉄砲使用』と思われ、『武器としての鉄砲使用である』と解釈できない。
この時代の戦闘には「鬨」が重要であり、「鉄炮」と同列に鯨声(大声)・鐘・太鼓・矢(鏑矢)による「鬨」の記述がなされていて、「鉄炮」は「天地を響かせて鬨を発生させることが目的である」と解釈する。
「八幡愚童訓」にも「太鼓ヲ叩銅鑼ヲ打チ、紙砲鉄砲ヲ放シ時(鬨)ヲ作ル」と書かれている。>>771
また「三河物語」には口合戦(言葉合戦)も書かれており、当時の日本の合戦は色々と心理的な戦いでもあって、四柱推命・占い・まじない・御霊信仰などによる影響を受け、勝敗は武力の大小だけでは無いようである。
石火矢=大砲=佛郎機の別名「国崩し」は「弾で地形が崩れる事」では無く「音響により地形が崩れる事」を意味するが、この強大な「新たな輸入品による鬨」の効果(結果)に興味がそそられる。>>473 >>474
明国の侯継高は日本の鉄砲を「?器」としても書いて(1592年ごろ)おり、4)の安祥城の攻囲(天文18年)に「竹束」が出てくることから、「武器」としての鉄砲はこれ以前から使われたようである。>>629

問題となる「鉄炮」の記述は大久保忠教が生まれる前の出来事を書いたものだが、「三河物語」は徳川家を含む徳川政権下での大久保家の記録書であって、彼自身の自筆本が存在し、存命中からも写本が出されている。
彼と当時(江戸初期)の人の間において鉄砲に対する認識が異なっていれば指摘・訂正されるだろうし、文章の流れからも鉄砲の記述は自然であって、4ヶ所も誤記(先祖・先輩から聞き誤った)しているとは思われない。
「三河物語」は、「1)鉄炮」「豊臣秀長の毒死」「大阪夏の陣の日付」など多少の誤記があるとされているが、234)の「鉄炮」については無視されている。
S氏は「三河物語は信憑性を欠く」としているが、記述が真実であればS氏等の銃砲史は根底から覆る。
857人間七七四年:2012/01/23(月) 18:20:12.55 ID:31Lkzzdt
S氏等の銃砲史研究なんぞゴミ同然
過去の愚にも付かない歴史研究が覆った事例なんて幾らでもあるよ
858人間七七四年:2012/01/25(水) 10:01:11.94 ID:xUVNbhjd
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859人間七七四年:2012/01/28(土) 00:58:48.94 ID:CZyus5j7
火縄呪の起源解明ま〜だぁ〜?チンチン!AA略
860人間七七四年
色々読み漁ってみると南蛮銃と鉄砲って違う点多いのな
いままでの日本史家は何の根拠を以てポルトガル人が伝えたなどと言ってたんだ?