人取橋の戦いは政宗の敗北

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1名無しさん@お腹いっぱい。
元々政宗が畠山を攻めて始まった戦。
連合軍の侵攻によってその戦略的目的を達成出来なかった以上伊達の敗北だ。
また伊達軍は大量の死傷者を出し、重臣を失うなど大被害を被っている。

伊達が勝利したというのは間違い。
2名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 21:27:14 ID:7UrJLhGB
佐竹の謎の撤退は何が原因何ですか?
3名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 21:44:54 ID:/pFRu8mb
>>1
そーなの。
ふ〜ん。
4名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 21:48:38 ID:Bkm+65na
つうか普通に敗けだと認識していたが
あれが勝ちだという見方もあるのか…

>>2
江戸・大掾の軍勢が攻めてきたからだとか
ちなみに近衛の小説では正室の謀略になってた
要するに疑問の余地があるってことだろうな
5名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 21:51:05 ID:Ofe7F0JY
義宣の母が伊達家の出身だから事前に伊達への追撃を控えるように母から指示を受けていた義宣や重臣達が遠慮したからじゃなかったっけ?
6名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 22:41:30 ID:7UrJLhGB
家臣が謀反して大将が死んだから撤退したという説もありました
7名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 00:06:53 ID:q3dkyew7
この戦いでの奮戦が政宗の名声を高め、
その後の伊達家躍進に繋がったことは確かである。
8名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 00:23:02 ID:kESOt+3E
佐竹家譜などでは、義重の代わりに佐竹の大将を務めていた小野崎義政が、
下僕に刺されて死んでしまった為に兵を退いたとなっているけどな。

義重室が伊達を潰さないように懇願してた事は、人取橋の後の郡山合戦なんかでは記述があったはず。
9名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 00:57:41 ID:FU79QDhr
>>1
両者どんくらい死んだの?
10名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 04:52:26 ID:DGpZPX65
江戸や里見が太田突いたとか言う話しは創作ぽい
まず江戸らが出陣した記録が一つもない
そもそも義重が出陣した記録すらない
前年は沼尻で100日に渡って北条と対峙して
講和したものの人取橋の数カ月前まで下野に滞陣し
北条も上野や下野南部に兵を進めていた
それで義重は国を空けられず義昌を総大将として出兵したものと思われる
で、馬丁に刺される事故で横死
義重が出陣していれば義昌一人が死んだぐらいで撤退するわけがないから
信憑性は高いと思う
江戸らが出兵する動きを見せたと言う事は永慶奥州軍記に見られるが
これは佐竹藩士が記した物で当然のようにかなり佐竹贔屓に書かれていて
義昌の不名誉な死を隠蔽しようとする意図があるように見える
実際義昌の死に関する事柄は後の佐竹のどの資料見ても不自然なほどに伏せられている
11名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 07:55:47 ID:CZPxNnJA
佐竹が攻めあぐねたのは、観音堂で伊達成実の特攻攻撃を受けて怯んだためだな。
当時の政宗、成実、景綱らの行動は、1/3以下の兵力にかかわらず狂気じみた凄みがあった。

佐竹が人取り橋で兵を退いたため、連合軍は瓦解してしまった。その後、二本松、葦名、二階堂
と、ドミノ倒しのように伊達に併呑されていった。

南奥州を見殺しにしたのは、優柔不断な佐竹の責任と言うことになる。
12名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 09:03:23 ID:VBisPvLZ
成実の部隊なんて全滅寸前だったじゃないか
というか伊達勢はどこも押されっぱなしで
死にもの狂いでなんとか日暮れまでしのいだが死傷者も多くボロボロで
翌日攻められたら全滅か潰走しかなかったよ
会津勢も確実に仕留めようと慎重に準備してたが
逆にそれが仇となった
まさかあんな事態になるとは誰も分からないから仕方ないが
勝負は時の運といったところか
13名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 10:07:04 ID:8uxvreCJ
佐竹厨が運のせいにし始めました
14名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 10:54:28 ID:/J7KbF7S
佐竹はほんの数年前まで葦名、二階堂とかなり対立してたのにな
伊達の外交力がいかにショボイかわかる
15名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 11:00:15 ID:CZPxNnJA
激戦の翌朝、連合軍は遁走していた。敵陣はもぬけの空状態。

政宗としては笑いがとまらなかった戦いである。
徳川家康も、この戦いにいち早く注目し、以後伊達家との同盟
を深めていった。
16名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 11:10:47 ID:BRZOUIgF
どっかのスレで誰かが言ってたけど
結局は信長、秀吉、家康基準なんだなw
17名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 11:35:02 ID:FU79QDhr
つーか倍以上の兵力持ちながら一日で勝負付けられんかった方がどうかと思うが
やはり伊達の奮戦は評価されるべきだな
18名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 12:06:09 ID:FU79QDhr
3倍か。伊達やっぱつえーじゃん。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 13:07:02 ID:MUDJdvZy
一日ぐらいじゃわからんよ
20名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 14:34:00 ID:nJOwoKWp
>>19
⊃関ヶ原
21名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 15:14:32 ID:KiyL6hzD
>>12
英雄はみんな運がいいんだよw
22名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 16:53:08 ID:/ztd8l/G
そうね
運も実力のうち、とだけ行っておきます

最終的に南郷以外を失ったのは事実ですから、
結果は重く受け止めます
23名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:03:14 ID:DGpZPX65
政宗は高倉城に富塚近江守・伊藤肥前守・桑折摂津守らに鉄砲300余挺を与え守備を命じ
本宮城には中嶋伊勢守・浜田伊豆守・瀬上中務少輔・桜田右兵衛尉を配置し
玉井には白石若狹守を守将とした
伊達成実は渋川から小浜城へ四本松経由で入場したが
小浜には小数の兵を残し岩津野の政宗本陣に合流する様に指示された為
馬場日向守・青木備前守ら300騎を残して岩津野へ向かった
政宗本陣に合流すると
前田沢兵部少輔と言う者が会津側に寝返り
その者を案内として高倉・本宮に攻めて来ると思われるので高倉付近に進出して応戦するよう伊達成実に命じた
伊達成実は出陣し糠塚で夜営した
24名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:12:58 ID:DGpZPX65
会津勢は岩城・蘆名らが一隊となり前田沢兵部少輔を案内とし高倉城を攻め
残りは本宮の政宗本陣へ当たる事を決した
11月16日、蘆名・岩城らの兵が前田沢の南に布陣すると
政宗は岩津野から本宮へ陣を移した
翌17日早朝、会津勢が高倉方面へ移動を開始
政宗も兵を二手に分け、一方は伊達成実を将とし高倉城まで進出させ
もう一方は片倉小十郎・伊達上野介らに大勢を与え大田原へ配置し連携をとらせた
25名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:25:29 ID:D5buPtHu
でも義重が出てこないと、伊達の三倍は集まらんのではないか?
真相は黒巾木組(漢字が分からん)が暗躍して佐竹の叔父が殺され、岩城・石川
辺りが引き返すとか、いろんな情報かく乱を伊達忍群が行ったのではあるまいか。
江戸や里見が攻めてくるとかも、情報を錯乱させて疑心暗鬼に陥らしたのでは。
で、あまりに恥ずかしい撤退しちゃったんで、叔父の死は突発事故とかにしたんで
なかろうか。 でなきゃ理由がつかぬと、いろんな本で言ってはる。
黒巾木組暗躍のことについては、伊達秘鑑とか言うので軽く触れられてる。
ああ後小大納言がかなり手助けしたかもね。政宗なら女・子供なんでも使ったと思う
特に滅亡寸前だったし。
26名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:32:13 ID:DGpZPX65
会津勢は高倉城を無視し直接政宗本陣を突こうと街道を直進した
高倉城の守備隊は打って出るか見過ごすかで揉めたが
伊藤肥前守・富塚近江守が
追い込まれようとも眼前の敵を見過ごすわけにはいけないと主張したので総勢で打って出た
会津勢は横合いから攻め掛かる高倉城兵を煩わしく思ったが
そこに後続の岩城勢がやってきた
高倉城兵は岩城勢に対し足軽を前進させ弓鉄砲を撃たせ
その後から武者が続き岩城勢に攻め掛かった
岩城勢からは竹貫三河守の隊が進み出て
雑兵に構わず後方の武者に矢を射よと命じ
手練の弓兵600名が揃って矢を放ち伊達勢の武者に降り注いだ
これには伊達勢も怖じけづき早くも後ろを向いて逃げ始まった為
竹貫三河守は一斉に攻め掛かった
その中で窪田十郎と言うものは茂庭左月を追い掛け易々と首を獲り、竹貫三河守も良き首を獲た
これを始めとして蘆名・岩城勢は勝ちに乗って伊達勢を突き伏せ首を多数獲り高倉山上まで追い詰めた
27名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:39:30 ID:DGpZPX65
本宮の政宗本陣にも鬨の声が聞こえ、浜田伊豆守・白石若狹守・高野壱岐守らに鉄砲100余挺を付けで高倉へ向かわせた
その部隊は白川・須賀川勢に遭遇したが会津勢は相手にせず大田原の伊達勢に攻撃を開始した
その為、浜田伊豆守らは背後を会津勢に遮断されてしまい
高倉付近の伊達成実ね陣へ合流しようて急いで駈けていった
やがて浜田伊豆守らは伊達成実の陣と合流し、大田原と高倉の二カ所で合戦が行われた
28名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:47:57 ID:DGpZPX65
浜田伊豆守らを無視して大田原へと向かった白河・石川・須賀川勢は
大田原を一掃し本宮の政宗を討ち取るべく攻撃を開始した
伊達勢も一応の防戦をしたものの耐え切れず観音堂を下り本陣へ逃げ始めた
敗走中に伊達勢は100騎あまりも討ち取られたが
原田左馬助・片倉小十郎・伊達元安・同上野介・同美濃守・同彦九郎らが踏み止まった為
本陣まで崩れる事はまぬがれた
29名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:57:51 ID:DGpZPX65
高倉の伊達成実隊は石川・白河勢に本隊の間を分断され会津・岩城勢と対峙し
腹背に敵を受けて進退窮まりここで討ち死にと覚悟を決めていた
会津勢は高倉城兵を山上まで追い上げ本宮へ向かおうとしたが伊達成実隊を見つけたので一旦兵馬を休ませた
伊達成実の陣中に伊達遠江と言う70を越えた老武者がおり
今日の戦が最後と言い会津勢に一騎駈けし、会津方2人と戦い一人を討ち取った
これに始まり伊達成実隊が会津勢に攻め掛かると会津勢も浮足立ち5町ばかりも後退した
しかし会津勢も橋爪で態勢を立て直して攻撃に転ずると今度は伊達勢が追われて元の陣まで押し返された
30名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 20:17:56 ID:DGpZPX65
伊達成実の家臣の羽田右馬助・中ハ右衛門などは退却の中で多数の敵を斬りつけ奮戦し
牛坂左近・萱場源兵衛などが会津勢に入り込み戦ったが勝敗は着かず引き分けた
伊場遠江は会津勢の中で傷も受けずに戦ったが退却中に会津兵一人が追い2太刀斬りつけ深手を負わせた為その夜死んでしまった
戦いが続くうちに兵馬も疲れ更に冬のため日も短く
会津勢はあと一歩のところで残念に思いながらも陣に引き上げていった
政宗本陣を目指した石川・白河・須賀川勢は観音堂を守る兵を蹴散らし進めば政宗本陣の5、6町の近さまで迫っていた
会津勢は一旦動きを止め兵馬を休ませてから本宮の政宗を討ち取ろうと観音堂から川端に移動し
弓を張り替え鉄砲の火繩に点火して準備をしたが
日暮れとなってしまったのでやむなく陣へと退いていった
それを見て政宗も岩津野へと退いていった
31名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 20:29:50 ID:DGpZPX65
その夜会津四天が集まり
明日の夜明け前に本宮を攻める事を決した
会津勢の中に100人ばかりの逃げ遅れた伊達勢が紛れていた
その者達は会津勢の動きを聞き夜半に紛れて岩津野へと帰り政宗へと報告した
政宗は今夜の内に対策するべく山路浜路なる者を高倉の伊達成実へ遣わし
会津勢の朝駈けを伝え、本日無事であった功を労い
死傷者が多数出てるだろうから今夜の内に本宮へ合流するように指示した
だが既に深夜だった為、夜明けを待って本宮城に入り会津勢を待ち受けた
ところが世が明けても会津勢は攻めて来ることはなく、その姿すらなかった
32名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 20:49:12 ID:DGpZPX65
今回の合戦で佐竹からは佐竹義昌なる者が大将として来ていた
義昌は馬を大事にする者であったので明日の合戦に備えて下郎達に馬の手入れをさせていたが
その中の一人の手入れが気に入らず、その者を蹴り倒した
その者は短気であったらしく咄嗟に刀を引き抜き
義昌の胸を突き通してしまった為に義昌は即死してしまった
大騒ぎになり事件は各陣にも伝わると会津四天らが集まり相談をした
頼りの佐竹が引き上げてしまっては士気に関わるし、明日の合戦で確実に勝てるか分からない
一旦黒川に帰り後日の為に鋭気を養う方が良いだろうと決し
その夜の内に全軍国元へと帰っていった

伊達の陣ではそのような事が起きていようなどとは夢にも知らず
なぜ攻めて来ないか不審に思い物見を出すと会津勢は引き上げ前田沢も共に付いていったと言う報告であった
それでも信じられず更に物見を出すとやはり会津は完全に引き上げたと言う事だった
用心して政宗は本宮へ行き再度岩津野に帰り様子を探ってみたが
何事もないので小浜へと引き上げていった
33名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 21:17:41 ID:VBisPvLZ
>>25
理由もなにも総大将が死んだら戦できるわけないじゃん…
大将なしで戦やってるほうが異常事態だよ
34名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 07:48:17 ID:fyphzKzH
佐竹、葦名、畠山等の連合軍3万に対して伊達軍はわずか8千人。
死者は連合軍960、伊達420人で、連合軍は散々痛めつけられている。
連合軍は、伊達の粘りに屈し、恐怖にかられ、戦場を放棄してしまったのが
真相だ。

大将が死んだから撤退というのは、ありえない。佐竹の苦しい言い訳にしか
聞こえない。
35名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 08:07:54 ID:VJUdg9V1
どこの史料だ。
36名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 10:05:40 ID:21zclcnU
戦いの勝敗は、首級などの選果ではなく、陣営が目的を達したか否かで決まる。
人取橋における連合勢の目的はなにか、伊達勢の目的はなにか、それが問題だ。
37名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 15:22:21 ID:t1cyCVk3
伊達の目的
畠山攻略→失敗
連合軍の目的
畠山の救出→成功
旧領の回復→失敗
やはり引き分けだな…
伊達はかなり死傷者が出て1年ほど動きがとれなかったが
連合軍も盟主の芦名が跡目争いで崩壊
佐竹は対北条戦で忙しく奥州に構っていられなくなった
人為的でないにしても結果的に見れば損害は多くても伊達の方が有利になったな
38名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 16:05:07 ID:mJ+66/s6
>>35
その数字は俺も見たことあるけど、ソースがわからんな。
調べても両軍の戦死者数までは載ってないことが多い。

>>37
1年じゃないよ。正確には8ヶ月後に畠山を滅ぼしてる。
それに冬場は動けないことを計算に入れると、実質的には半年も経ってない。
つまり損害もそれ程大きなものではなかったのだろう。
39名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 18:12:58 ID:DelhEs1T
奥州永慶軍記見ると佐竹勢が散々に打ち負かして
政宗は本陣まで崩され銃弾4発食らって車丹波に追い回されて三度殺されはぐってるが
江戸・里見らが太田を突いた為やむなく撤退したとされている
でも永慶軍記って佐竹家士が書いたものでかなり佐竹贔屓に書かれているから当てにならないと思う
第三者の視点から見た四家合考の方は極端な表現ないし信憑性高い
連合軍の大軍に伊達はじりじり押されて日が落ち、義昌の横死で退却
という何の変哲もない内容だが状況的に見て実際そんなものだろう
40名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 18:24:39 ID:t1cyCVk3
冬場動けないって何だよw
真冬でも合戦してるだろ
状況が許さなければ真冬でも真夏でも戦するに決まってるじゃん
41名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 18:52:03 ID:mJ+66/s6
>>40
お前出身どこだ?
42名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 20:07:16 ID:mJ+66/s6
雪国の事情を知らんやつはこれだから困る
43名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 20:50:48 ID:0ZJztnrm
真冬の戦って、どうやって戦するんだ?
44名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 21:06:08 ID:bQMz+61E
源義家も奥羽で冬に合戦してたよ
45名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 21:07:50 ID:dxIangwl
会津ならともかく
郡山で雪国って何処の馬鹿だよwwwwwwww
46名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 21:12:51 ID:mJ+66/s6
>>43
きっと雪かきしながら進軍し、かまくらを作って陣とするんだろう。
合戦する前にクタクタですな。野営しながら凍死者の数でも競ってろ。

>>44
例外なんて探せばいくらでもあるよ。
それに常に積雪があるってわけでもないから、その間は行動出来る。

だが降雪の時期になれば交戦中でも陣を退くのがデフォ。
攻め手が優位なら和議、そうでもなければ追撃戦が展開されるわけだ。
47名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 21:20:32 ID:VJUdg9V1
佐々成政とか?
48名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 21:34:12 ID:mJ+66/s6
>>45
何それ。雪国の定義について議論でもしたいわけ?
そもそも何故郡山限定で話をしてるのかが解らんわけだが。
政宗は郡山で挙兵して郡山で戦うのか?


それから俺は郡山でも十分雪国だと思いますが。

現在も  当  時  もな。何か? 
49名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 21:52:08 ID:t1cyCVk3
>>41
俺は君達の大好きな上杉家臣だよw
まあ、俺は福島育ちだけど
君の方こそ
雪の為に行動できません
てゲームの内容で想像してるんじゃないか?
東北だから何処でもいつでも大雪じゃないんだぞ
あまり馬鹿にしないでくれw
50名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 22:01:20 ID:mJ+66/s6
>>49
アホか。
俺も山陰地方の雪国育ちだ。
福島育ちは徐行されたアスファルトの道ばっかり想像してんのか。
あと>>46嫁よ。

>それに常に積雪があるってわけでもないから、その間は行動出来る。
51名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 22:08:47 ID:DelhEs1T
まあ、他の時期に比べれば少ないが冬の戦は珍しいってほどではないわな
人取橋の翌年元旦にも芦品と伊達の間で渋川合戦があったしね
52名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 22:31:47 ID:6irdd+Qo
人取橋の戦いは、数で勝る連合軍のほうが戦死者が多かったってホント?
なんかの本に、伊達軍戦死者400人弱、連合軍戦死者900以上って載ってた
ような…うそクセぇけど、事実なら芦名佐竹主力の連合軍ってかなりの
ヘタレ?
53名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 23:14:26 ID:DelhEs1T
100%妄想ネタかと
はっきりした数が書いてある資料があるなら見てみたい
そもそも兵数からして謎だからね
名のある武将が討ち死にした話しもほとんどないし
数に勝る連合軍がひしひしと押して行って
伊達が高倉と観音堂を防衛線に抗戦した所で日が落ちたってだけの話しかと
合戦の詳細が少な過ぎるし、獲った首級についての話しが殆どない
要するに特筆する事があまりなかったと言う事だろう
54名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 23:34:38 ID:SeKO8Nwj
本宮の戦場址を見たが鬼庭の墓あるのみ。付近の寺に連合軍の墓が800程
あったとの記録在り。場所は高速の本宮で降り左を直進。左の田園地帯に看板ある。
55名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 23:55:38 ID:RXO9aoYJ
東北地方も、日本海側以外はたいして雪降らない。
むしろ、山陰地方の方が雪は降る。

北だから雪が降るんじゃなくて、
日本海側は寒いのに湿度が高いから雪が降るのだ。

56名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 00:02:55 ID:dxIangwl
お願い、山陰なんかに住んでる可哀想なmJ+66/s6をイジメないで!!
57だめ押し:2006/08/19(土) 00:06:21 ID:cC25oZ1N
気象庁発表最深積雪

仙台 (仙台市宮城野区) 28cm
鳥取 (鳥取県鳥取市) 95cm



http://www.data.kishou.go.jp/bosai/report/1984/198401/198401yuki_b1.html

58名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 00:48:38 ID:AgCz4TMZ
>>57
引用するならどっちかっつーと

山形 77cm
福島 39cm
若松 60cm
白河 62cm

この辺だろうが。


山陰
松江 53cm
浜田 17cm
米子 38cm
境   62cm

都合のいいのだけ抜いてんじゃねーよ。何がダメ押しだ。


>>56
ただの煽りなら消えろ。
59名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 01:28:36 ID:mpfBN9aE
まあ実際住んでる人間としては、ひどく積もってないかぎり、街道がそれなりに整ってれば行軍はそんなに困難ではないと思う
当時の東北人も雪にはなれてたと思うしもちろん雪のための撤退はあり得るが
60名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 02:19:48 ID:W1ly2b26
何気に謙信っていつも冬に関東進出してるけど
雪深い越後でどうやって行軍してたのだろうか…
水上に抜けるあたりで凍死しそうだけどw
61名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 11:50:34 ID:6hVy6TU+
陰毛
陰部
山陰
62名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 12:50:33 ID:8TVG5LY7
山越えするんじゃないなら、雪が大きな障害になることはないでしょ
冬場に雪がずっと残るとは限らないし。
そもそも「連合軍」が成立している、ということは、
少なくとも人取橋の戦場に軍勢が集結する妨げになるほどの積雪量ではなかったと言える。

連合軍総司令官が横死したのが事実だとしたら、そこに謀略があった可能性も想像されるだろう。
そういえば、芦名盛隆も不自然な死に方だね。
いや、飛躍した想像に過ぎないのだけど、そのほうが話としてはおもろい
63名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 14:50:12 ID:PrA1M0ts
連合軍の総大将てのは存在しないよ
蘆名盛隆死後嫡子亀王は僅か2歳で盛隆の正室と会津四天が補佐する形になっていた
元々各大名は蘆名や佐竹の従属国じゃないから
あくまで立場的に協力者に過ぎない
だから誰かの命令で動いていたわけじゃない
会津四天が合議して各大名に相談すると言う形だったようだ
ぐだぐだになったのはこの辺りが要因だろう


ちなみに盛隆は寵童だった大庭三左衛門に殺された
盛隆は男色家で初め大庭を見て気に入り小姓奥番にしたのだが
次第に大庭に興味を失って相手にしなくなったのを根に持たれ刺し殺された
と言う無惨な顛末…
64名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 17:08:06 ID:k6JN2xIK
てゆうか農作業が一段落して兵糧が沢山ある冬こそ戦をする時期でしょ
65名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 17:13:51 ID:AgCz4TMZ
>>64
逆に少ない時こそ攻めるってのもあるんじゃない?
敵地で稲穂狩りしたり略奪すればいいわけだから。
収穫期に攻め込まれるのが一番嫌だろうね。
66名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 18:09:59 ID:r5SK0OFS
兵農分離してなきゃ、農繁期は出兵できないべ
67名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 18:14:06 ID:ZqgTosxl
そだね。
自分とこの稲刈りの作業ができない。
68名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 19:00:32 ID:PrA1M0ts
敢えて農繁期に出陣して青田刈りや焼き働きする手もあるが
あまり好ましい手ではないな
69名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 19:32:50 ID:7zdTbrNR
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    ヽ,/`ヽヽト、 ´  {,.○-`‐‐ 、,.-ト|    ,ノ< ハッハッハ! 見ろ!
     ∧ ̄ ゙i,   `ヽ,r'´      ノ.  ゙、--‐''´| \  人がゴミのようだ!
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  .;".;": ..;.;".; ζ /_.;_/| .;".;", _   \\\  .;".;.;".;":.
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70名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 01:26:50 ID:uBRbvvF4
本宮は市に昇格するんだよな
71名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 03:01:37 ID:rk2jYTlX
冬に戦争しないのは雪だけじゃなくて寒さもあると思うのですが・・・
72名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 04:24:14 ID:obzFFP9T
生温い
氏郷公は真冬の会津で雪の降る中、裸に鎧だけ着て一揆勢を蹴散らした
一揆方も泡食って逃げ出しました
73名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 10:18:26 ID:kJ+m9rla
冬だろうと夏だろうと合戦はあるんだから、できないという話がどこから出てくるのかわからない。
もちろん季節によるメリットデメリットはあるが、やろうとしてできないわけじゃない。
青田がりや麦薙といった敵地の田畑を荒らす戦術は普通に記録にあるし、農繁期だから出兵できないということもない。
もちろん自領の収穫も損なわれるのだが、実際にやっているし。

それより問題は
連合軍が後世の目で見ていかにも中途半端なタイミングで撤収した理由では?
74名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 11:25:05 ID:rk2jYTlX
>>72
え、名生城に引き篭もってただけじゃないんですか?
75名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 13:44:53 ID:wyyp04I5
色んな意味で恐るべし葦名四天

天正十三年夏の頃葦名亀王殿四歳にて逝去し給ひけるに依りて
四天の宿老葦名十六人の御一家執権金上遠江守を始めとして
小田山城に集まり御名跡の儀評定あり
四天の宿老申されけるは政宗の御弟政道を御養子に被成候はば
伊達と葦名といよいよ和睦し国の便りともなり日々葦名の御家繁盛せん
其上越後の上杉景勝公は御一家といひ関東の北条氏政は同じ平家の流れたり
然ば是と心を合わせ武田信玄を責亡し都へ討て登りなば
終いには葦名の天下とならんこと何の子細か候はん
76名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 23:19:07 ID:eRL+udP+
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。

※謙信自身が敗北を認めている書状↓
 晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
 かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日                  虎(花王)
[三洲寺社古文書]


【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。

1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。

上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。

謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである

本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
77名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 17:57:11 ID:zbfklkqv
つまりあれだ
連合軍は大きな戦果をあげながら、寄せ集めゆえに長期間指揮系統の統一を維持できずに瓦解した。
政宗の立場では、連合軍が結成された段階で既に政略・戦略面で負けているといえる。
いわば、避けなければいけない道だった。

だが、その死地から、大きな損害をだしながらも巻き返しができる範囲に損害を抑えてたうえで、生還したことは、ある意味、勝ちといえる。
そしてこれは怪我の功名だが
連合軍をもってしても打倒しきれなかったということが、以後の反伊達の勢力が足並みを揃えられなくなった要因の一つではないか。

いわば、合戦に負けても、事後処理で勝敗がひっくり返されたケース。
78名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 18:53:13 ID:xfZkrCYR
俺は政宗が一番好きだが、勝ちとまでは言わんでくれ
どんどん伊達好きの肩身が狭くなる
ただでさえキチガイが多いのに・・・・・・
79名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 19:58:57 ID:Zz5nYoz2
東北では、盆や正月などにお萩(ぼた餅)と一緒に
豆打餅(ずだもち)を作って、仏壇や墓前にお供えし
先祖を供養する。
豆打餅は、文字通り茶豆をすりつぶして作った粒餡を
餅にからめた、東北では一般的な料理で、地方に
よって、ずんだもち、ぬだもちなどと呼ばれている。
しかしながら、仙台人(宮城県人)は、ずだもちのことを
甚太餅(じんたもち)と呼び、伊達政宗の家臣の甚太が
陣太刀で豆を潰して作った餅を政宗公に献上したのが
起源で、仙台から近隣に広まったと捏造しているのである。
誰だよ甚太って?!!!
このように、仙台人は近隣県の文化をパクったり、
劣化コピーしたり、捏造しまくっているのである。
80名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 20:29:06 ID:nZlbmeTK
功臣、伊達成実が出奔したときの事
屋代景頼に成実の一族郎党を皆殺しするよう命じて殺してしまう。
後に成実が帰参した時には政宗はその責任を屋代景頼のせいにしてあろうことか追放してしまう。
(美談だが成実は屋代景頼に罪は無いと知っており彼と妻子たちの面倒を見てあげる。
どっかのバカの一族なのに偉い違いである。)
ttp://www.marinenet.co.jp/jinpati/lastsong/sigezane.html

家康対三成の戦いは長期間に及ぶと読んで和賀忠親に
南部領で一揆を起こさせておきながら、その読みが見事に外れ
和賀の一揆を扇動したのは伊達とバレると、あろうことか殺してしまう。
南部は最上に援軍を送るなど味方なのにその空き巣を狙う政宗はとんでもない外道である。
ttp://aonoao.opal.ne.jp/lesson/hist/ieyase2.html

大阪の陣では
6千石程度の神保相茂が後藤又兵衛を破るなど奮戦しているのを見ると
政宗は手柄を奪われたと逆上して、戦闘を終えた神保隊を背後から襲撃し、
相茂以下騎馬武者30名、雑兵200名をほとんど一方的に殺戮した。
政宗は口先八丁を駆使し罪を逃れる事に成功しているが、
この大人気ない行為に島津氏をはじめとする各大名家から非難が殺到した。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E7%9B%B8%E8%8C%82
81名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 20:30:01 ID:wW9K7Hpl
功臣、伊達成実が出奔したときの事
屋代景頼に成実の一族郎党を皆殺しするよう命じて殺してしまう。
後に成実が帰参した時には政宗はその責任を屋代景頼のせいにしてあろうことか追放してしまう。
(美談だが成実は屋代景頼に罪は無いと知っており彼と妻子たちの面倒を見てあげる。
どっかのバカの一族なのに偉い違いである。)
ttp://www.marinenet.co.jp/jinpati/lastsong/sigezane.html

家康対三成の戦いは長期間に及ぶと読んで和賀忠親に
南部領で一揆を起こさせておきながら、その読みが見事に外れ
和賀の一揆を扇動したのは伊達とバレると、あろうことか殺してしまう。
南部は最上に援軍を送るなど味方なのにその空き巣を狙う政宗はとんでもない外道である。
ttp://aonoao.opal.ne.jp/lesson/hist/ieyase2.html

大阪の陣では
6千石程度の神保相茂が後藤又兵衛を破るなど奮戦しているのを見ると
政宗は手柄を奪われたと逆上して、戦闘を終えた神保隊を背後から襲撃し、
相茂以下騎馬武者30名、雑兵200名をほとんど一方的に殺戮した。
政宗は口先八丁を駆使し罪を逃れる事に成功しているが、
この大人気ない行為に島津氏をはじめとする各大名家から非難が殺到した。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E7%9B%B8%E8%8C%82
82名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 20:40:38 ID:wW9K7Hpl
「佐沼城のなで斬り」
政宗一揆を扇動 → 秀吉激怒 → 政宗磔持参で泣き入れる
 → それだけじゃ足りないので自分で煽った一揆勢の民百姓2千人を皆殺し
 → 政宗は一揆勢を鎮圧した正義漢のふりをする

『成実記』より

「政宗の鼻取り」
『天正日記』に「首8つ、生け捕りあまた、取り申され候」
「鼻24、生け捕り20人あまり、取り申し」など、「生け捕り」とともに「鼻取り」の記録。
83名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 09:00:38 ID:5qAxjsHb
きっと82は
斉藤道三も松永久秀も織田信長も豊臣秀吉も武田信玄も長曾可部元親も
みんな嫌いなんだろうね。

本当のところは、
「〜〜だから嫌い」
ではなく、
「俺が嫌いなのをみんなに同意がほしいから、
〜〜というエピソードを羅列してみた」
というところだと見透かされているよ。
84名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 14:13:22 ID:GCpKo5RK
佐竹が兵を返さなかったら滅んでたかもね。
大崎攻めも失敗してるし、あんまり戦に強いイメージないな。
85名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 15:34:38 ID:x906KdVe
>>84
佐竹が兵を引いても芦名中心の連合軍の総数は伊達を凌駕していたはず。
まして、戦死者の数で下回っていたとはいえ、鬼庭左月など幹部に戦死者を
出し、満身創痍の伊達軍が相手なら普通に力攻めで撃破出来たはず。
そうしなかったのはなぜ?教えてエロイ人。
86名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 15:44:16 ID:z8FzyLij
大崎攻めは指揮してないはずだが
それに総大将留守政景の岳父、黒川晴氏が寝返るという誤算もあったしな
87名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:31:55 ID:HZLYR49z
情けない言い訳
88名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:39:01 ID:z8FzyLij
>>87
アンチ必死すぎ ^^;
89名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:43:23 ID:3vshDa2Z
政宗の実質勝利だよ
そのあとの展開考えると
90名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:47:37 ID:HZLYR49z
政宗は戦に強い印象ないっしょ
たいした戦してないし
優秀な政治家だろ
91名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:49:25 ID:3vshDa2Z
戦に強いとか
優秀な政治家とか
それは感じない
人取橋は敗北じゃないよと言ってるだけ
92名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:50:18 ID:HZLYR49z
なら同意見だな
93名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:52:44 ID:0gjKrTg/
大崎合戦の直後に結ばれた和睦条件が、「大崎領は以後伊達家の
馬打ち領とすること」。大崎家はこの条件を丸呑みにするしか
存続の道はなかった。
94名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 20:54:03 ID:HZLYR49z
そんなの国力考えれば当然
稙宗みたいな支配の仕方だがw
95名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 21:06:37 ID:z8FzyLij
国力とやらを考えれば伊達家に反旗を翻す時点で・・・・・・という流れになるが
96名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/25(金) 23:47:28 ID:7nN0tn9O
そこは、うほっやらないか?と吹っかけた最上の政治力でしょ
97名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 06:18:01 ID:fRkNgk/8
政宗って戦ではイマイチでしたね
98名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 07:23:49 ID:fPeshML0
政宗が戦に強くない?
野戦上手の佐竹義重相手に、人取橋・窪田の戦いで劣勢で引き分けに持ち込み
佐竹が消えた途端、スリアゲハラの決戦では、あっさり葦名を壊滅させちゃうん
だから鬼の部類だろ。だいたい独眼竜なんて命名されるのは戦に強いからだと思うけど。
義重しかり、謙信しかり、信玄しかりでね。
99名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 09:47:24 ID:8EJb6VEs
たいした目的がない戦が引き分けになるのは良くあること。
実家に逃げ帰るような当主で内部崩壊してた葦名に
勝った事なんて全国見渡したらたいしたこと無い。
100名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 10:07:45 ID:ScWZkyqR
奥羽の名門の芦名家が、赤子の手を捻られるように政宗に滅ぼされ、
奥羽六十四群中三十余群が伊達家の傘下に入った摺上原の戦い。
秀吉には恐ろしく衝撃的な事態だった。
政宗の謀略工作に翻弄された佐竹義重は、有効な葦名支援すらできずに、
なすすべもなく、すごすごと逃げ帰っている。
101名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 12:00:51 ID:bRUUzlZJ
政宗が負けた戦を教えてくれるか
勝ちと引き分けしかないんだったら、強くないという結論にはならんと思うが
相手が弱いからとか言うのは理由にならん気がする
102名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 12:09:26 ID:bRUUzlZJ
書き加えると、相手が弱いから強くないと主張を展開するなら、
強い相手と戦って負けているという事実が必要だと思うわけだが
103名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 12:26:43 ID:W1APvKU/
奥州では伊達氏がダントツでデカイ大名だったからな
周りに雑魚ばかりだと評価むずかしいね
104名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 14:06:18 ID:xc26LwJr
50万石の伊達と3万5千石ぐらいの大内が戦ったらどっちが勝つか
50万石の伊達と4万石の畠山が戦ったらどっちが勝つか
50万石の伊達と30万石前後で内乱と分裂が進む葦名が戦ったらどっちが勝つか
常識的に考えれば簡単に結果の予想がつく
105名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 14:43:13 ID:v1+JGKyr
大内も畠山も葦名の庇護下にあったのに、滅ぼされてる。
葦名も佐竹、相馬、岩城等の共闘者がいたのに滅ぼされてる。
個々の石高だけで計算するのはどうかな。
106名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 14:53:29 ID:xc26LwJr
それが政治ってもんだろ
いかに味方を増やして敵の力を削ぐかと言う事だ
優勢だからって正面から当たる馬鹿もおるまい
ちなみに南奥州全部合わせて伊達と同じぐらいの国力だからw
107名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 14:58:13 ID:0y4R0CQK
葦名がボロボロすぎたからな
盛氏から当主何回交代してんだよ
内乱も多かったしあれじゃまとまってるわけない
108名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 15:02:43 ID:ScWZkyqR
>>104
相馬家はわずか6万石に過ぎなかったが、伊達家とは三十回以上戦っても、
最後まで領土を死守しぬいているが?

また政宗と隣り合わせになった大名は、心理的、軍事的に、逆に政宗から
圧力を受け翻弄されまくって衰退する。
90万石の蒲生は、氏郷が死ぬと息子秀行は12万石に左遷。
120万石の上杉は、会津から一歩も動けず、30万石へ転落する。
政宗は、たかだか58万石に過ぎなかったが、上杉などは終始伊達を警戒し、白石城すら
奪還できなかった。
109名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 15:07:57 ID:v1+JGKyr
>>106
伊達は最上にも大崎にも気を配ってなきゃならないよ。
でも彼らに手出しさせなかったのは政宗の政治力だよね。
背後から襲われてたら相当危うかった。
110名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 15:10:26 ID:bRUUzlZJ
>>107
そこを上手く突いて猪苗代を寝返らせたり、富田美作を寝返らせたりしてるから、
つまり>>106の言う政治力が政宗にあったんだろう
111名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 15:48:58 ID:jSKdUL20
>>100
>>108
はいはい
秀吉とか天下人を絡めないでくれ
おまえみたいな妄想小説好きが
他の政宗好きに迷惑かけてる
112名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 16:38:13 ID:bZ+jQ9Jh
相馬氏と伊達氏の争いは、稙宗と晴宗の争いの番外編みたいなもの
稙宗がいなかったら、相馬氏は伊達氏から宇多、伊具、亘理郡とれなかったし
その後の奪い合いも、その延長上でやってたから特殊
113名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 16:50:45 ID:2twwhMUk
まあ、確かに蘆名は恐ろしく間が悪かったな
盛氏は嫡男盛興に家督を譲ったが28歳で急死
やむなく盛氏が黒川に戻り二階堂氏から盛隆を養子に入れて家督を継がせた
だが盛氏死後、会津四天松本氏などをはじめとする反盛隆勢力の反乱が相次ぐ
黒川城を占拠される騒ぎになったが次々反乱を鎮圧し一応の安定を取り戻しつつあった
そして金上遠江守を上方に遣わし織田との親交をはかり三浦介を任官される事となる
蘆名は三浦一族で三浦介を得る事は三浦宗家を名乗る事を許されたわけで
三浦復興と言う事で家中は大いに盛り上がりを見せたが
盛隆が小姓の大庭とのいざこざから殺害されてしまう
享年24歳、嫡子亀王丸がいたが1歳に過ぎず家中はまた混乱する
その混乱に拍車をかけるように亀王丸は3歳で病死
主を失い慌てて次期当主をどこからか迎える事となった
蘆名一族の金上派は佐竹、会津四天王は伊達を推して合戦に及びそうになるほど揉めたが
結局佐竹から義広を養子を迎える事に決まる
しかし義広もまだ11歳、初陣も済ませていない状態で
更に金上・大縄派と会津四天王派での対立は深まる一方
猪苗代氏も伊達派と蘆名派で揉めて親子で合戦
領内外で混乱は広まる一方だった
114名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 16:55:47 ID:xc26LwJr
>>110
寝返らせたと言うより寝返って来たと言うべきだ
葦名家との確執で立場が悪くなったから近隣で力がある伊達に取り入った
別に政宗だからどうと言う事じゃない
115名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 17:02:34 ID:ScWZkyqR
111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 15:48:58 ID:jSKdUL20
>>100
>>108
はいはい
秀吉とか天下人を絡めないでくれ
おまえみたいな妄想小説好きが
他の政宗好きに迷惑かけてる

>>111
 ID:jSKdUL20=おまえは論外だから。「妄想小説」云々等、支離滅裂だし。
 政宗好きを装った、程度の低い単なる煽り厨でしかないし。

>>112
「特殊」も何も、天正9年の伊達政宗の初陣が対相馬戦だからね。稙宗と
晴宗が遠因をつくったのは事実で、亘理へ相馬義胤が攻め込んできたため、
その防衛戦として出陣しなければならなかった。十五歳の武将が、戦に
手慣れた相馬の「矢形の備え」を崩すのは容易なことではなかったことは
簡単に推測がつくだろう。

116名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 17:15:04 ID:bRUUzlZJ
>>114
しかしそれ以前に政宗が力を示していたから伊達家に寝返ってきたわけだ
そう考えると寝返らせたという表現は間違っていない
政宗に寝返ったんだよ

それに猪苗代盛国は既に隠居した身で、蘆名家中での立場を気にする必要はなかった
息子盛胤は蘆名に忠誠を尽くしてたわけだし
117名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 17:53:54 ID:HYvz1EQ+
相馬氏の強さは殿様自ら魚燐陣形の前にて突撃するから怖いな。
118名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 17:54:14 ID:xc26LwJr
>>116
政宗が、て言うより伊達は昔から奥州一の大国だろ
別に晴宗でも輝宗でも構いやしない
ちなみ盛国は隠居したのが原因になってる
隠居後家中では相手に去れなくなり更に黒川に行った時義広にも軽ろんぜられたのに腹を立てて
盛胤が黒川へ出仕してる間に猪苗代城を襲って乗取った
そこに盛胤が帰って来て合戦になった
激戦になったが地元の僧侶達の仲裁により休戦
更に義広の命令で盛国は謹慎を受けた
当然盛国は面白くなく、この際は伊達に組して恨みを晴らしてやろうと
同僚の長沼氏と語らって伊達に内通した
119名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 18:16:34 ID:bRUUzlZJ
>>118
だから、それには結局蘆名と事を構えるっていう政宗の方針が必要だったわけだろ
大内、畠山と食いつぶして猪苗代領付近まで影響力を持ったからこそ政宗を頼れる

それから伊達家が周辺で一番の大国だったことは俺も認めるが、
伊達家内部にだって混乱はあったんだぞ?
政宗派と竺丸派が対立してたのは言うに及ばず、輝宗の代では中野氏が裏切ったり、
最上家の策謀で鮎貝宗信が裏切ったり、伊達家も政宗の家督相続時代には結構衰退してた
その上周囲をほぼ完全に敵対者に囲まれて相馬家に侵入を許したりしてたんだよ

だからこそ一族の石川氏なんかすら、まぁ位置的な関係もあるが反伊達となったんだ
こんな中で誰が伊達家を頼るよ?
この状況を打破して勢力を広げたから政宗を頼ったんだろ
盛国の選択肢の中には矛を収めて大人しく隠居するってのもあるわけ
政宗がいたからこそ内通したんだよ
120名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 19:31:11 ID:bHqKbT+k
伊達厨って何でもスゴイスゴイの一点張りなんだねw
宗教の勧誘みたいだ
芦名ってそんなに崩壊してたのか
この程度を誇ってるようでは島津の足元にも及ばないなw
121名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 19:39:28 ID:xc26LwJr
>>119
大人しく隠居するぐらいなら始めから反旗翻さないだろw
まして葦名家中の混乱でろくに援軍もだせずに
大内や畠山が落とされて孤軍と化した阿子島・高玉も呑み込まれた状態じゃ伊達に付こうと考えるのは普通の事
別に政宗の謀略能力云々は関係ない
それに地理的にも伊達以外に頼れる所なんてないしw
122名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 20:00:28 ID:v1+JGKyr
>>120
まともに反論もせずにそう言われてもね。
笑っちゃいそうですよ。
123名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 20:03:00 ID:bRUUzlZJ
>>121
自己矛盾孕んできてるぞ

>大内や畠山が落とされて孤軍と化した阿子島・高玉も呑み込まれた状態じゃ伊達に付こうと考えるのは普通の事
>別に政宗の謀略能力云々は関係ない
>それに地理的にも伊達以外に頼れる所なんてないしw

政宗が勢力拡大したからそれに従おうとしたって、君自分で認めちゃってるわけだが
それはつまり猪苗代盛国を政宗が寝返らせたということだ
124名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 21:25:48 ID:xc26LwJr
>>123
だから何度も言ってるだろ
葦名の支援があってこそ大内や畠山なんて小勢力が対立できたんだよ
それが葦名の衰退で会津領内維持で手一杯になってしまっては
伊達の10分の1にも満たない大内や畠山が守り切れるわけないだろ
余程無能でもなければ簡単に踏み潰せる
それとも伊達にとってはそんな事でも異例の大勝利なのか?w
125名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 21:52:31 ID:bRUUzlZJ
>>124
君は今までのレスをちゃんと確認してるのか疑いたくなるな
他の人間が言ってることもごっちゃにして喋ってないか
俺にアンカーつけるんなら俺の言ったことに対してのみ反論しろよ

まずそのレスで盛国が政宗の威に寝返ったという反論が全くなされていないのに、
何故>>123にアンカーをつけているのか
とにかく「政宗は凄くないんだ」ということを言いたいが為に、内容構わず噛み付いているようにしか見えんぞ

で、一応>>124にも答えておくと、俺は>>101-102
『「相手が弱いから、政宗も戦は強くない」とは判断出来ない。
政宗が強くないと主張する為には政宗が強者と戦って敗れたという事実が必要ではないか』
としか言ってないわけだが
煽りのような文句を考える前に、冷静になって反論内容を精査しろよ
126名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 21:54:19 ID:8b+NM7MY
小次郎の葦名相続擁立から猪苗代とは誼を通じてたよ
127名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 22:04:39 ID:xc26LwJr
>>125
すまん
その話は論点ずれすぎててレス返す気も起きなかったw
まずだな
盛国と盛胤・葦名家との確執がなければ寝返りも何もないだろ?
そういう事だ
十分理解できるよな?
128名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 22:17:02 ID:bRUUzlZJ
>>127
「その話は」も何も・・・君と俺は「その話」をしてたわけで・・・
全く関係ないこと言われても困るわけだが

それから君の言ってることは理解してるって
堂々巡りにしてるのは君なんだが

確執があったから寝返った→それは確かだろうが、政宗の進出がなければ伊達家には寝返られなかった→確執があったから寝返った

俺は盛国と盛胤、蘆名家の間に確執があったことは認めてるんだよな
それを認めた上で、「政宗が進出したから、政宗が寝返らせたと言える」と言ってるわけだ
そうすると君は「大内、畠山は小物で、蘆名の後ろ盾がなければ潰されて当然」
と、意味不明な展開に結んでるんだよ


ここは理解出来ない
129名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 22:21:56 ID:Hy4W0Rxr
伊達が奥州随一の勢力だったから政宗の勢力拡大がうまくいって当たり前、という論法の問題点は、
先代、先々代で伊達氏が対外的に劣勢だった件だろう。
もっとも、勢力拡大に消極的だったという理由付けは可能だ。むしろ権臣を排して内部体制をある程度まとめたからこそ、政宗は積極的に動けた(その点で一番のネックが実の母、というのは泣ける)ともいえるが、その条件を誰でもが生かせたのだろうか?

あと、ごくごく一部だとは思うが、
国力で上回っているから勝って当たり前、
というのを歪んだ論法で拡大解釈して、
ゆえに優れた武将だから勢力を拡大できたと証明できない→
すなわち優れた武将ではない→
すなわち無能あるいは愚将、
というヤツかいるようだ。
ネタとしてもつまらないし、
本気でいっているなら、バカすぎるから、生みの親をPL法に基づいて告訴すべき。
130名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 02:54:04 ID:mVw32yu8
大内を降して、畠山、蘆名、二階堂を滅ぼし、
猪苗代、長沼、白河、石川、田村家中の相馬派、大崎と屈服させていった。
相馬、岩城も風前の灯火だし、北条とも敵対関係にある佐竹とて危うかった。
この辺りが降されると間違いなく、最上、葛西といった同盟関係にある連中も実質的には従属関係となる。
まあ…最上は当主がやり手だから、そうそう下手は打たないだろうが、
義光が政宗に対して弓引く等とは考えにくくなり、共闘の道を歩むだろう。
伊達、最上、葛西が連合すれば東北に敵はいなくなる。


秀吉の小田原征伐によって後半は妄想の中の出来事となったが、
やはり政宗が戦上手だったことは疑いもない
これを否定する論理が周囲が弱小揃いだった〜などとは笑止千万
それでは>>129のいうとおり、政宗の戦上手を否定できてはいない
131名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 03:08:07 ID:mVw32yu8
誤解してほしくないのは、私は別に政宗が天下を取れるとまでは考えていないこと。
ただ、政宗を中心とした勢力が東北を制覇するくらいの力量はあったと思っている。
願望としては天下を治めるほどの器量であってほしいのだが。
132名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 08:05:37 ID:K4aQ3TZA
晴宗が対外的に劣勢だったのは仕方ない
大崎の旧勢力、葛西の旧勢力などの力を借りたし
133名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 08:32:00 ID:fVsRTkOI
最上義光の狙いは、伊達家の弱体化。最終的には政宗の廃嫡と小次郎擁立。
小次郎一派には、重臣の国分盛重も一枚かんでいたといわれる。
134名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 09:28:01 ID:WrrrJHE7
散々荒らし回って本領安堵って
あの馬鹿は何がしたかったんだよ
と奥州の連中はツッコミたいところだろうけど
結果的には政宗も20万石ぐらいは領地増やしたし
先祖の七光りのボンクラにしちゃ頑張った方だよ
135名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 09:46:15 ID:omZTRqDn
>>134
秀吉さえいなければ天下取れたんだけどね。ほんと惜しいよね。
136名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 10:07:49 ID:WrrrJHE7
>>135
織田系列大名、徳川、北条、上杉、毛利、島津、長曽我部あたりがいなければ天下とれたのに残念だったね
137名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 10:19:23 ID:k6tZ4usz
なんか伊達も蘆名も大内兄弟に翻弄されたって感じだね
かなりのくせ者だよ
あれだけ無茶やってちゃっかり生き延びてるし
138名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 10:57:34 ID:vR29xIUH
前沢が高級牛肉の産地になったのは初代領主大内定綱のおかげでしょ
139名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 12:43:12 ID:S9tykyFK
第1次(1585)も第2次(1586)も
大内の寝返りで起きた人取橋の戦い。
140名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 14:15:00 ID:K3f0wRuI
定綱も義継も政宗のおかげで有名になれたんだから感謝するように
141名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 14:22:13 ID:k6tZ4usz
人取橋の後、大内が弟の片平と共に伊達に寝返りたいと申し込んで政宗も許可したがいつになっても現れず
それどころか突然伊達成実の苗代田城を急襲して攻め落とし城主の木内主水を殺害
当然政宗も成実も激怒したが
「伊達に逆らう気なんてありません。これは蘆名を油断させる演技ですよ」
とか言って軽く済ませてしまった上に寝返るから領地くれくれ要求
政宗も渋々承知したけど結局この時は大内一人がのこのこ米沢に来ただけで寝返りに至らず

大内はかなり神経図太い…と言うか鬼だな
殺された苗代田の守備兵や木内の立場は一体…
142名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 17:55:08 ID:S9tykyFK
親父死亡の遠因になった割にはあっさり許してる。

朝鮮出兵の渡海武将に挙げられた時に
ヤダと言って反旗翻せば面白かった。
143奥州王:2006/08/27(日) 19:32:09 ID:ISuGmI2s
スカパー、時代劇専門チャンネルで9月19日から!独眼竜政宗が放送するよ〜嬉しい!
144名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 19:44:19 ID:S9tykyFK
煩悩丸もかくありたい。
猫御膳の「討ち取ったりィ〜」が印象的。

総集編では人取橋は完全勝利みたいな扱いだったな。
山岡小説みたく若気の至りで合戦して虎哉にゴルァ!
されるような流れの方が好きだけど。
145名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 21:26:51 ID:zR736IID
マチャムネ(´●Å・`)
146名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 21:27:48 ID:zR736IID
マチャムネ…(´刀・`)
147名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 21:36:58 ID:PcUE2Ixr
(●ω・`)独眼龍政宗なんて儂がガキの頃にやってたから殆んど覚えてない。
スカパーで、やるのか〜家は観れんな。
148奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/08/27(日) 21:58:25 ID:zI5Of/a8
「一生の不覚」というセリフが毎週あったのはご愛嬌。
149名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 02:11:21 ID:TuKDp5s1
「命を粗末にする奴なんて大嫌いだ!」が毎週あるよりいいじゃん
150名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 02:54:57 ID:SAxfoGEs
何故政宗は大内を許したんだ?
性格からすれば踏み潰しそうなもんだが
151名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 12:28:55 ID:OxlhPHxg
政宗が潰したのは畠山、芦名、二階堂、大崎くらいかな
他は家臣にするなり逃がすなりしてる
二階堂はそもそも既に当主が居なかった訳で
けっこう寛大な人柄じゃないですか
152名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 13:13:28 ID:V9tSmALg
どこがだよ
その他って白河・相馬・石川しかいないだろw
ていうか撫で斬りやったのは大内の城だぞ
まあ、高玉もだけど
153名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 13:19:50 ID:yqXucnVK
政宗は殺した方だな
まさに信長の劣化版だ
大抵はそこまでやらんし
時代に助けられたな
奥州仕置があと数年遅かったら家臣に殺されてたよ
154名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 13:38:54 ID:SAxfoGEs
>>151
大崎を滅ぼしたのは秀吉
畠山も国王丸は見逃してる(後に蘆名義広に殺されるが)

>>152-153
潰した家よりは残した家の方が多いな
自分の支配に都合が悪い家は潰して、そうではない家は存続させたっていう、一般的な思考だ
155名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 15:08:38 ID:e6/OyoOS
>>143

 国分盛重(輝宗の弟,政宗の叔父):イッセー尾形
 最上義光(最上家当主、義姫実兄):原田芳雄
 駒姫(義光娘、秀次側室):坂上香織
 大内定綱(大内家当主):寺田農

脇役が印象に残ってるな。寺田の大内は小狡さがよく出てた。
156名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 15:25:00 ID:V9tSmALg
大内備前より人望ない政宗もどうかと思うが
157名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 22:26:55 ID:MprIBen+
だめだこりゃ
by鬼庭長介
158名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 03:12:16 ID:nBlibyrn
当時消防だったからドリフじゃないいかりや長介は衝撃だった。
人取橋の突撃のシーンでは
ジジイがかっちょええ!と初めて感じた。
159名無しさん:2006/09/07(木) 16:01:25 ID:GbDHCq7i
人取橋の戦いで、お台場レインボーブリッジ署の長さんは、なくなった。2004年のことだ。人取橋=レインボーブリッジ。また、亡くなる前に、駄目だこりゃと言った事により、敵武将もこけた。
160名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 17:35:10 ID:ow8GsgEh
佐竹義重3万VS政宗7千(人取橋)
佐竹義重4千VS政宗1千(窪田) 

これで互角なんで、義重5千>>北条2万なんで、
北条2万を、政宗なら2500もあれば優位に戦えてしまうことになる。
161名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 17:39:42 ID:7KlVhxKC
総動員数6千程度の佐竹がなんで3万いるのかと
162名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 18:55:43 ID:z6NLQmGh
人取橋に義重は出陣してないって散々言われてるはずだが
163名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 19:16:34 ID:7KlVhxKC
奥羽永慶軍記では義重が出陣した事になっていて
やたらめったら大活躍してるw
164名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 19:41:19 ID:z6NLQmGh
「夜叉羅刹ともいいつべし」ってやつだろ?
まぁあれは軍記物だしな
165名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/07(木) 21:25:33 ID:F9ViLa5z
まぁこの奮戦で名を高めたってのはあるからねぇ。失ったものもあったが
得たものも多いんだろな。
輝宗の時に各城落とされまくってるから、ここは形だけでも勝たなきゃ伊達やってけねぇ。
166名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 17:18:05 ID:F9LqfODz
政宗の場合オヤジ殺してるので、まあ多少政宗に家族を虐殺されても
まあ悪気があったわけじゃないし仕方ないかくらいの気持ちで従えるのだろう。
167名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/16(土) 00:42:11 ID:ulKrLO2A
まあ、義重にしてみれば、もっと優先順位の高い重要案件はいくらでもあったからねぇ。
人取橋が御家の一大事というほどの切迫感は無かっただろう。
168名無しさん:2006/09/24(日) 22:19:59 ID:iSJbwwqX
あー、それで、東北の秋田には、畠山姓が多いんだ!
169名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/24(日) 23:41:13 ID:9HyY2wUG
伊達の刺客に佐竹の大将が消されて、取るものもとりあえず
遁走したんだろw で、連合軍は瓦解。格好がつかなくなって
家臣に刺されたとか、佐竹領が侵入されたなどへたな理屈
つけてるだけで w
170名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/27(水) 10:34:20 ID:YQi15wKF
政宗自身も拾った勝ちってのは認識してるようだが
後年義宣が同席したところで「いやーあん時は俺はもうダメかと思ったよ
だけどなんか超ラッキー」みたいな感じで自慢し、義宣が苦渋を舐めている
ところをみると、この戦勝は伊達に有利に働いたというより佐竹に極めて
大きいマイナス要素として働いたらしい。そりゃ勝ってるのに些細事で
国許に帰ってしまうような将では頼りになるはずがない。
171名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 01:50:32 ID:NZS1JplO
でも佐竹も戦争目的を達成出来たかというと、そうでもないんだよね
半月後には畠山滅ぼされてるし
勝ちではないが、負けでもなく・・・負けに近い引き分けって感じじゃないかな
172名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/30(土) 09:48:15 ID:YPv4lE1z
勝ち負け、ということになると伊達の勝ちということになってしまう。
もっと詳細に表現するなら、佐竹連合軍が伊達相手に終始優勢に
戦を推し進めていたのだが
佐竹が撤退したために伊達の勝ち。

たとえばなんというか、例えて言うと
沖縄まで占領したアメリカ軍がマッカーサーが死んだという
理由で全軍アメリカ本国に帰還、なんかよくわかんないけど日本軍はまあ
アメリカ軍いなくなったしということでシンガポールとかそのまま占領という感じ。
173名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/03(火) 12:45:30 ID:PTM4f4/U
>>172
俗に言う「芝居を踏む」ってやつだな。
川中島における上杉が優勢に押していた佐竹、武田が最終的に戦場を支配した伊達に相当する感じがする。
174名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/24(水) 07:16:29 ID:dcEeQenC
人取橋は戦術的には伊達の敗戦だな。戦略的には
不戦勝ってトコ。摺上原当時の芦名盛重は14、5のガキ。家中も、
伊達派佐竹派でガタガタ。芦名に入った佐竹家臣がバカ過ぎた為もある
んで、芦名に勝ったのは自慢できるものでもない。また、東義久が伊達
の出の義重の妻命で佐竹本隊と政宗との激突を避けさせたとの話も有る。

芦名を滅ぼした時点でやっと伊達は佐竹とまともに争える程度。小田原が
無くても伊達は佐竹には勝つことはできないだろう。
175名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/24(水) 08:54:11 ID:xgQ+BHHt
>時点でやっと伊達は佐竹とまともに争える程度   
釣れますか?
176名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/25(木) 16:29:27 ID:Kgbwzucj
ああ、大漁だったよ
177名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/25(木) 20:14:51 ID:7S+2Kt6e
176 名前: 名無し議論スレにて投票方法審議中 [sage] 投稿日: 2007/01/25(木) 16:29:27 ID:Kgbwzucj
ああ、大漁だったよ
178名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/25(木) 21:07:48 ID:bxwL6SC9
人取橋の戦いで、連合軍は戦術的にも伊達成実に突き崩され、観音堂
をついに抜くことができずに膠着状態になった。さらに佐竹義政が家僕
に暗殺される、稀にみる情けない、コントのような一大失態(失笑)を
犯し、佐竹勢は常陸へ遁走した。
翌年には、二本松城は開城となり、政宗は戦略的にも勝利を遂げることに
なった。
179名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/25(木) 23:05:30 ID:YUNaALzt
つまり政宗は守備隊千人にも満たない二本松城を
重臣を失い多大な被害を出し一年近くかかってようやく攻略したわけである
しかも二本松城は落城したわけではない
高倉合戦の翌年三月、孤立無援の畠山を見限り箕輪周辺の畠山家臣が伊達に寝返った
それを好機とばかりに政宗は片倉景綱に箕輪城を攻撃させたが畠山勢に蹴散らされた
翌四月に政宗は1万を超える大軍で攻めたが落とせず7月を迎える
結局見かねた相馬義胤が双方に無血開城の申し入れをし
それを双方が受け入れた為二本松開城となった
180名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/25(木) 23:26:47 ID:bTCuuSxI
>>172
史実でいうと奉天会戦といったところかw
181名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/26(金) 00:45:12 ID:BcwHO3FZ
二本松城は昔登ったことあるが凄みがある立体感に圧倒されたなぁ・・・
昔はもっと頂上に本丸があったらしく正に難攻不落な城だったんだろうな
182名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/26(金) 05:28:32 ID:n+B+lglK


人取橋で敵前逃亡の佐竹(笑)
183名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/26(金) 06:40:09 ID:YOnnu0B1
鉄砲玉食らいまり車丹波に追い回されて死にはぐり
上東野隠岐守に捕まったがお情けで逃がしてもらった政宗
いつも佐竹の気まぐれに助けられるヘタレ政宗w
184名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/26(金) 06:53:20 ID:bYRzvH4q
佐竹にとっての驚異は
江戸>だぺ
185名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/26(金) 07:11:53 ID:U0G/ipxQ
んだ
186名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/26(金) 19:53:44 ID:Iyo5rSsY
>上東野隠岐守に捕まったがお情けで逃がしてもらった政宗

これマジ?
NHKの独眼竜政宗で、こんなエピソード無かったぞ???
187名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/26(金) 20:45:46 ID:ElYaDquh
車丹波に追われたっていうのは、何て書物に書いてあるのか教えてくれよ。
188名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/26(金) 21:56:29 ID:e7XVEZmN
>>186
物事を測る基準がズレてる
189名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/26(金) 22:31:00 ID:010SiRx3
>>186
奥羽永慶軍記で、古老の話として伝わってる電波噺で、
佐竹家臣である永慶軍記の作者ですら
こんなことはありえないだろうという注釈がつけているのだが
佐竹ヲタの一部がしょっちゅう引用する。

190名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/27(土) 00:09:19 ID:yo5114+E
佐竹や上杉はこうでも妄想しないと自尊心が保てなかったわけさ
191名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/27(土) 01:33:10 ID:uhoce40y
まじレスすると戦自体はもちろん伊達の勝ち。佐竹が撤退しなかったら伊達は確実に滅んでいた。
192名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/27(土) 04:43:39 ID:DUXwUMMg
>>190
 それはいえてるなあ。「奥羽永慶軍記」「武辺咄聞書」「会津陣物語」
(東国太平記)等の電波・軍記物語は、伊達家へのコンプレックスの裏返し。
 これらの本の中では、いずれも車丹波らが絶対にあり得ない大活躍をして
いるのが笑える。なぜか、必ず政宗の本陣を突き崩し、一騎討ちをするものの、
政宗本人を取り逃がす、というシナリオだ。
193名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/27(土) 08:21:40 ID:rafby9M/
伊達に噛み付いてくるアホって、ソースが『難波戦記』や『薩藩旧記』や
『奥羽永慶軍記』や『会津陣物語』ばっかなのな。
してやったりの如く書いてるけど、恥ずかしくないのかね?
194名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/27(土) 09:59:54 ID:n+JE5mHH
でも伊達関連サイトってどこも奥羽永慶軍記引用してるよね
しかも都合のいいところだけ抜粋してw
wikiでも恥ずかしげもなく当然のように引用している奴がいる

>>186
佐竹側でも政宗だとは言っていない
安積で隠岐守が政宗とよく似た風貌の武将を捕えたとの事
それで隠岐守は義久のもとへ引っ立てたのだが
義久が勝手にその捕虜を逃がしてしまったと言ういきさつ
195名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/27(土) 15:57:24 ID:zLaXh901
>>194
> 安積で隠岐守が政宗とよく似た風貌の武将を捕えたとの事

あんな片目のブサ政宗みたいな武将がそんなに大勢いてたまるかよw
196名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/27(土) 18:13:00 ID:rafby9M/
政宗叩く連中は相変わらずレベルが低い。
197名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/28(日) 10:28:58 ID:zrCPwteq
擁護する連中のレベルもたかがしれてるがな
198名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/28(日) 10:43:06 ID:uk7ayYbp
196 名前: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日: 2007/01/27(土) 18:13:00 ID:rafby9M/
政宗叩く連中は相変わらずレベルが低い。
新着レス 2007/01/28(日) 10:42
197 名前: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日: 2007/01/28(日) 10:28:58 ID:zrCPwteq
擁護する連中のレベルもたかがしれてるがな




それぞれ具体例を挙げて、それに対する自分の考えを理路整然と述べねばイカンぞ
199名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/28(日) 13:08:54 ID:zrCPwteq
・理由
ダブルスタンダード
・具体例
193:名無し議論スレにて投票方法審議中 :2007/01/27(土) 08:21:40 ID:rafby9M/
伊達に噛み付いてくるアホって、ソースが『難波戦記』や『薩藩旧記』や
『奥羽永慶軍記』や『会津陣物語』ばっかなのな。
してやったりの如く書いてるけど、恥ずかしくないのかね?
194:名無し議論スレにて投票方法審議中 :2007/01/27(土) 09:59:54 ID:n+JE5mHH [sage]
でも伊達関連サイトってどこも奥羽永慶軍記引用してるよね
しかも都合のいいところだけ抜粋してw
wikiでも恥ずかしげもなく当然のように引用している奴がいる
200人間七七四年:2007/03/10(土) 21:20:49 ID:3SKpNsGM
人取橋、窪田、摺上原等を見ても戦う前に勝つと言うんではなく
戦術的勝利による状況打開に頼っていた

中央の情勢が切迫して、そういう戦略的選択肢が少なかったのは事実だとしても
人取橋や摺上原は、伸るか反るかの博打的要素が多すぎた
201人間七七四年:2007/03/10(土) 23:17:07 ID:CUvBwE3u
人取橋は二本松城攻めに時間が掛かって
仙道連合に囲まれた受け身の戦だから博打には当たらないなぁ
202人間七七四年:2007/03/17(土) 08:04:07 ID:r+09sLCa
同感です
203人間七七四年:2007/04/28(土) 23:15:40 ID:ww47kjLE
大河の人取橋はどんな扱いだったの?
204人間七七四年:2007/04/28(土) 23:36:39 ID:DVoYIMnM
政宗本人も戦闘中に鉄砲5発、矢一本喰らったみたいだけど
重傷じゃなかったの?
205人間七七四年:2007/04/28(土) 23:49:13 ID:UZOi0ozk
伊達=家康の劣化版なのね
206人間七七四年:2007/04/29(日) 00:16:52 ID:nFZvz4xc
結局妄想でしか話が膨らまないんだから
虎哉和尚の政宗に対する折檻について話そうぜ
207人間七七四年:2007/04/29(日) 02:06:14 ID:+PIdr/oL
>>204
後の北斗神拳継承者だった
208人間七七四年:2007/04/29(日) 09:54:18 ID:ZU50JZOB
バカタレ
209人間七七四年:2007/04/29(日) 10:11:53 ID:GJrsdriA
伊達の実質的敗北なのは明らか。
210長門 ◆q8GdomS4XA :2007/04/29(日) 13:41:17 ID:mQwzlDkL
これを勝ち戦っていうやつがいるのか疑問なんだが
211人間七七四年:2007/04/29(日) 13:55:06 ID:Pyv5CuuW
勝ったて言うなら二本松攻めてるよな
その為に政宗は出てきたのだから
でも佐竹連合が消えた後
伊達も撤退してるんだよな
畠山なんて千ぐらいの兵力しかないのに
1万数千の大軍で何度攻めても結局落とせなかったし
212人間七七四年:2007/04/29(日) 15:25:03 ID:J2jVvEn2
そらあそこまで総崩れしたら帰るだろw
213人間七七四年:2007/04/29(日) 16:11:49 ID:xHOZ+Oa4
戦術的には両軍とも野戦軍の撃破に至っていない。
基本的に戦場に残った方が勝者だが、佐竹の撤退の理由が不明瞭。
残った伊達方も二本松を攻めず撤退している。

蒙古襲来の文永の役と似てるね。
相手が有利だったのに、急にいなくなってしまったところが。
214人間七七四年:2007/04/29(日) 16:39:42 ID:xHOZ+Oa4
少なくとも伊達方は二本松城を落とせなかった以上、勝利ではないだろ。
佐竹連合軍は陥落を阻止したが、これも伊達を駆逐できたわけじゃない。
伊達方が撤退したのは二本松城から8kmほど離れた小浜城で、
伊達軍はここで年を越し、翌年城を陥落させている。
連合軍の一時的な救援成功といったところだと思う。
215人間七七四年:2007/04/30(月) 08:42:07 ID:KY3L2uyB
実際は二本松を攻めずに撤退を条件に和睦と言うことで義宣の母に政宗が斡旋を頼んだんじゃないのかな?
佐竹が撤退したのも伊達が追い討ちを恐れて先に撤兵するように依頼したんではないかと思うんだが。
216人間七七四年:2007/04/30(月) 08:58:51 ID:VIEM0vXc
>>215
 佐竹の遁走の裏には、政宗の謀略の可能性が臭うな。
 実際は伊達軍の粘られた連合軍が、恐怖に駆られて瓦解した戦いなわけだが。
 政宗は翌年二本松を開城させ、戦略目標も達成してその名を高めた。
217人間七七四年:2007/04/30(月) 09:16:58 ID:ePpVy2aF
>>216
伊達が謀略って証拠ないだろ。妄想するのは良いが、さらに恐怖に駆られて瓦解って…君完全に伊達厨ですね。
戦国武将でなおかつ大軍なのに粘られただけで恐怖で瓦解ってありえねーよ。だいたい連合軍が瓦解しても鬼義重は必要とあらば1人でも踏みとどまるよ。自慢の鉄砲隊もいるし何よりも負けない戦い方をさせたら関東一の戦上手だぞ。
伊達も撤退したんだから戦略目標達成できずに終わったろうが。
翌年になって情勢が変わったから早速に盗人根性で二本松襲撃したんだろ。
218人間七七四年:2007/04/30(月) 10:00:20 ID:mfq16nUM
>>217
盗人根性てwwwwww

えーっと・・・
輝宗が拉致られるあたりから勉強し直してきてくださいw
219人間七七四年:2007/04/30(月) 12:25:48 ID:ePpVy2aF
>>859
まぁむしろ軍事上、謎に包まれてるようにするのが上策だろう。
要害の規模や伏兵配置や備えの位置。
山岳渓谷地域の特性を生かすとはこういうやり方だろう。
220人間七七四年:2007/04/30(月) 12:29:12 ID:ePpVy2aF
すまん誤爆した
221人間七七四年:2007/05/23(水) 12:41:54 ID:bSX6D0ET
伊達巻き晒しage
222人間七七四年:2007/05/23(水) 13:57:02 ID:8K5GDZSN
終始有利に試合を進めてた相手が突然試合放棄した・・って場合、攻められてた方の勝ちでしょ?
伊達側の言い分はそんな感じでしょ。

決着つかずに判定に持ち込まれて有利に進めてた方が勝ちでしょ?
連合軍側の言い分はそんな感じでしょ。

審判が居ない以上、当事者が“勝ち”と言い張っても仕方ないのではないかな?
後世の研究者の見解はまた別物。
223人間七七四年:2007/05/23(水) 21:28:01 ID:Z4JoIO51
でもさ、大連合を組んで3万にも及ぶ動員をかけて得た成果が後詰め成功という
優勢勝ちしか得られず、それさえも1年もせず二本松城落城によって失われ、
そこからさらに3年経ったら佐竹と相馬以外根こそぎ軍門に下る羽目になるようじゃ
ダメダメじゃないか。
224人間七七四年:2007/05/28(月) 00:49:07 ID:M6KdPDhw
室町中期以前安土桃山以降のスレは板違いです

戦国時代ではありません。移動お願いします。
http://academy6.2ch.net/history/

225人間七七四年:2007/05/28(月) 01:30:11 ID:ZWVveHBx
光栄ヲタなら逆に展開としてわかりやすいと思うんだな。

降伏勧告使おうとしたが操作ミスで総大将撤退→全軍撤退
→やっちまったー。でも来月のターンでぶっつぶす→忍者送って情報見る
→なんか知らないけど徴兵して兵増やしてる→しょうがねえやまたの機会に。

つまり佐竹の中の人の操作ミスが原因だったんだよ!
226人間七七四年:2007/08/05(日) 20:58:59 ID:aTVRh6O9
佐竹家の史料でこの戦がどう扱われているのか知りたい
227人間七七四年:2007/08/05(日) 21:17:24 ID:G6DdvrFo
そうですな
228人間七七四年:2007/08/05(日) 21:49:56 ID:tuK8dSbr
佐竹なんて小田原征伐がなかったら滅亡確実
229人間七七四年:2007/08/06(月) 03:27:36 ID:pRwLNy3e
>>228
仙台・会津の火病キタコレ
230Y ◆nzdGjBH722 :2007/08/06(月) 04:29:25 ID:hobOH8q5
>>229
佐竹厨が紛れ込んでいる件についてw
231人間七七四年:2007/08/06(月) 08:58:42 ID:Tc06VoiG
普通に引き分けでしょ。
でも三万対八千なんて戦力差で
自軍を遁走させずに1日持ちこたえられた統率は優れたものだと思う。
で、この状態で士気を保ち続けられたのは
何か策があることを言い含めていたんでは?という憶測を生み
ついつい政宗謀略論を信じそうになる。
実際には新たに史料でも出てこない限り謎のままなんだろうけど。
232人間七七四年:2007/08/15(水) 12:44:44 ID:1qk0XypF
まぁ戦術的には伊達の敗北でも問題ないだろう
壊走寸前だったはずだが
233人間七七四年:2007/08/25(土) 12:11:22 ID:QwhhqoYK
おマイらだって冬にキャンプしないだろ?冬の野営は辛いんだよ
まともなキャンプ道具も無い当時ならなおさらだ。
1日ぐらい持ちこたえられれば良い、という政宗の読みの勝利だったんだよ。
何も不思議無いだろ?
234人間七七四年:2007/08/25(土) 13:31:41 ID:/PtANM28
なんか伊達厨必死だなw
なんの戦果もあげてないのにw
235人間七七四年:2007/08/25(土) 14:21:20 ID:ENRy6lGz
完全勝利だろ。人取橋防いだことで旧領をどれだけ楽に支配することができるように
なったことか。 被害だって連合軍側の方が多いだろ。兵数何分の一だよ。
236人間七七四年:2007/08/25(土) 15:41:31 ID:K33kXTU6
その通りだね
237人間七七四年:2007/08/25(土) 21:15:25 ID:u8CkfXuC
戦闘そのものは微妙としても、戦いの結果として得たものは伊達家の方が大きかったんじゃね?
238人間七七四年:2007/08/25(土) 21:33:07 ID:G7NbYdGI
逆かと
別に会津方はこの戦いで一寸の領地も失っていない
伊達方は二本松の囲みを解いて撤退した
二本松攻めを再開するのは半年後
畠山の延命と言う点で十分効果を出した
結局二本松のような小城手にいれるのに10ヵ月要した
活動期間の短かった政宗としては二本松のタイムロスは大きい
239人間七七四年:2007/08/25(土) 23:20:10 ID:idGP2wQ0
延命www

10ヵ月の延命で何を得たんだよw
佐竹厨必死杉だろー
240人間七七四年:2007/08/26(日) 02:44:32 ID:Ao+SpQLh
政宗の南奥州統一を妨げましたが

関東進出どころか会津の平定すら間に合わなかったじゃないかw
北条と連携して北関東の豊臣方を攻撃するとか言いながら
足元を固める事すらできず
結局コソコソ信濃の方まで迂回して秀吉に土下座しに行くハメにw
おまけに留守にした途端に反乱起こされて
南陸奥の伊達方総動員で鎮圧に向かっても落とせず
秀吉が黒川入城してもまだすったもんだしていた
秀吉も反乱軍の武勇を誉め称えて反乱軍の大将矢田野藤三郎に官位と領地を与えた
政宗の面目丸潰れw
そして元の領地以外は取り上げられ政宗の5年間の努力は徒労に終わりましたとさ
241人間七七四年:2007/08/26(日) 03:39:28 ID:1EGJi7nK
信長の美濃攻めとか本願寺との戦いなんかを考えると
ホント5年て短いなあ
242人間七七四年:2007/08/26(日) 03:57:00 ID:F7NOffb2
日本史板・戦国板ともに伊達厨は痛いとされているが、
本当に痛いのはアンチ伊達厨なんだよな
243人間七七四年:2007/08/26(日) 06:48:43 ID:C+w4mID7
また伊達厨の火病が始まりました
都合悪くなると妄想に入っちゃうから困ります
244人間七七四年:2007/08/26(日) 07:25:43 ID:0LYLqmw3
佐竹義政の不可解な暗殺と、佐竹領への江戸重道の侵入の風説など、
政宗の謀略工作が濃厚だ。
優位に戦いを進めていたにもかかわらず、浮き足だった連合軍3万人
が敵前逃亡した人取り橋の戦いは、伊達の武名を高め、徳川家康等の
注目を集めた。
245人間七七四年:2007/08/26(日) 14:05:43 ID:hjHy/Pqz
>>238
葦名が滅亡する契機となった戦いじゃん。 そりゃ三万で攻めてりゃ領土なんて
失わんだろ。
246人間七七四年:2007/08/26(日) 20:28:58 ID:C+w4mID7
>>244
また根拠のない妄想か
もうこれは病気だな
247人間七七四年:2007/08/26(日) 21:04:06 ID:k/96KWjb
将軍家光「そなたの快心の一戦は?」

政宗「こちらにいらっしゃる佐竹殿らが大軍にて攻めてこられましたが…快心の一戦でした」

佐竹義宣「あのときは母(元々伊達家の人)の言うことを聞いて手を抜いてやったんだ。あ〜あ、女の言うことなんぞ聞くもんでないわい」

義宣は、認めたくないけど敗者の弁になってる
248人間七七四年:2007/08/26(日) 21:48:49 ID:ezfHZDQp
中新田の戦いって、どうしてどの小説でもスルーされるの?

大崎義隆なんて二流どころに負けるなんてかっこつかない?
249人間七七四年:2007/08/27(月) 13:01:59 ID:EjKRCuAG
>>247
それ摺上原の戦いでは?
250人間七七四年:2007/08/27(月) 13:35:58 ID:uiu75cES
郡山だろ
佐竹と直接対峙したのは郡山ぐらいだし
251人間七七四年:2007/08/27(月) 17:33:54 ID:Yru7EdZx
>>248
スルーされてないだろ。郡山合戦の流れとして当然のように出てくるが、
政宗自身が参戦してないので描かれないだけだろう。
>>244
間違いない。
252人間七七四年:2007/08/27(月) 20:25:22 ID:LCt7XxLX
成実も家光に人取橋のこと語ってるし
一夜明けると敵が消えるって現象は相当痛快なんだろうな
253人間七七四年:2007/08/28(火) 01:09:01 ID:pjUmkyGv
ほんとあり得ないよな
3万もの軍勢がたった一人も損なわず敵に気付かれもせず撤退なんて
まるで演義の孔明じゃないかw
日本史上でも稀有の用兵と言えるだろう
政宗も何が起きたのか分からず、策略か疑って退いていいのか判断出来ず
3日ほどウロウロしていたほどだ
奥羽永慶軍記の言うように義重が指揮していたのなら恐ろしい男だな
254人間七七四年:2007/08/28(火) 17:59:32 ID:Cn+sgBrj
>>253
指揮は義重だろう。そんな真似できる野戦指揮官は義重しかおらん。
たまに義重が参戦してないっていうやつもいるけど、それじゃ総監の叔父が死んだ
段階で連合の分解が始まり、各個バラバラの退却したりして、政宗が気づかんなんて
自体にはなりえまいと思う。
叔父が殺されたからか、常陸侵攻の偽報が原因かよくはわからんけど、どちらが原因でも
義重がいたからこその速やかなる退陣だったと思う。
少なくとも勢力の温存はできるからな。追撃喰らってあからさまな負け戦にでもなれば、
それこそ大変。
255Y ◆nzdGjBH722 :2007/08/29(水) 19:44:44 ID:8j5BfK3L
>>248
天候不順もあったし、そもそも総大将格の留守と泉田が対立してたら話にならんわな。
孫権の周ユと程普の話を思わせるよ。ま、孫権同様政宗も五年で一気にビックな人間になったがw
256人間七七四年:2007/10/17(水) 02:15:26 ID:OJ/18LlR
中新田は、政宗がカプセル怪獣の留守政景を軽く投げつけてみた、って感じなんだろうな。
でも、それが示威となってその後、大雪がなければコリャかなわん、とばかりに大崎は勝手に降伏してきたから結局最善手だった?
257人間七七四年:2007/11/20(火) 14:35:29 ID:J26uxjnx
この時まだ佐竹方だった石川昭光と白川義親は、積極的に働かず、傍観しておったそうな
この2人が伊達方に寝返る、というデマの噂を政宗が流したんだと
そうなったら一気に形勢逆転なので、噂にビビッて佐竹は夜逃げしたんだと
真相っぽくないか?
258人間七七四年:2007/11/20(火) 15:03:17 ID:5pmWGPXT
佐竹方の総大将の義政が馬丁と口論になり逆上した馬丁に殺された
という真相なのに、何で新たに真相を創作する必要があるんだ?
259人間七七四年:2007/11/20(火) 15:03:33 ID:6wB0zs3h
そうですな
260たられば君:2007/11/20(火) 16:53:58 ID:aiGPynYk
武田氏や今川氏の全盛期で25000の兵力が疑問視されているのに
伊達や佐竹にどうやったら30000という動員力が発想できるんだろう
261人間七七四年:2007/12/05(水) 20:02:05 ID:auixxplO
そうですな
262人間七七四年:2007/12/10(月) 23:29:24 ID:c/xl2DWy
>>258
要因は一つとは限らないだろう
石川、白川の二隊が動かないのは佐竹にとって超不気味だっただろう
石川昭光は、後に政宗にかなり信頼されて、白石城代を任せられたり、伊達家の一門に列したりしている。
この時すでに政宗に気脈を通じていたとしてもおかしくないわな
263人間七七四年:2007/12/10(月) 23:32:54 ID:mj1IoqCc
堂々巡りしてるけど

結局、政宗が負けたのは事実なんだね
264人間七七四年:2007/12/11(火) 01:52:00 ID:TELaUnKU
>>263
政宗も後に小姓に手取橋で負けたと話している
265人間七七四年:2007/12/11(火) 01:53:50 ID:TELaUnKU
>>264
すまん、手取橋→人取橋
266人間七七四年:2007/12/11(火) 06:53:16 ID:UXqq42s5
どんまい
267人間七七四年:2007/12/11(火) 08:52:04 ID:L6ZXqILP
会津勢は伊達を潰さなきゃならないが、伊達は追い払えばそれでいい
だから引き分けなら伊達の勝ちです
伊達優勢の元の状態に戻っただけですからね
268人間七七四年:2007/12/11(火) 10:33:16 ID:y1kuE5LK
バカか?
伊達軍は崩壊したから佐竹は撤退したんだぞ。
その証拠に追撃すらできなかった。さらには二本松城攻撃も続行不能で撤退し伊達は戦略目標を達成できずに終わった以上は佐竹の勝ちだろが。
269人間七七四年:2007/12/11(火) 11:02:21 ID:L6ZXqILP
は?ヴァカの人ですか?
崩壊したのは会津勢でしょうw
だいたい人取橋の時に二本松なんて攻めてません
そんな事ぐらい知っとけよタコw
天正十三年十月十五日に伊達による二本松城攻めが始まったわけだが
大雪になってしまったので二十一日に陣を払って小浜に撤退
その隙に畠山が葦名に救援を依頼し連合が結成され伊達を駆逐するべく北上した
その報を受けて政宗公も小浜より出陣
十一月十七日に人取橋・高倉城付近で衝突
だが夜になって佐竹がトンズラすると他の連中もビビって逃走
連合は一日で壊滅
翌年雪解けをまって悠々と二本松城を攻撃
そして畠山は滅亡しましたとさ
めでたしめでたし
270人間七七四年:2007/12/11(火) 11:34:43 ID:UXqq42s5
その通りですな
271人間七七四年:2007/12/11(火) 13:00:02 ID:DsH/Bpap
伊達厨のこのキチガイぶりw
272人間七七四年:2007/12/11(火) 13:59:27 ID:KBrX1Rg1
二本松城攻めに失敗してる最中に周囲が騒然となり佐竹の北条戦線の安定化とともに
大規模北上の危機が高まり陣容を改めるべく伊達本隊が一時的に退避したのが小規模の小浜城。撤退するなら米沢城に帰る。
人取橋の本戦でも終始圧迫を受け本陣まで襲撃をかけられて軍の組織的運用が不可能になり半壊。
佐竹軍では義重の妻で政宗の伯母が伊達を追い詰めるなと圧力を加えており
佐竹軍は二本松城救援の戦略目標が達成できたために撤退した。
一方の伊達に佐竹退却後の真空地帯であってさえも被害が大きすぎて
二本松城攻めを放棄し、以後、1年近くも二本松城を落城させる事ができなかった。
完全に伊達の敗北です。ありがとうございました。
273人間七七四年:2007/12/11(火) 14:17:23 ID:Kb/XYgzR
ねぇねぇ虚しくならない?
274人間七七四年:2007/12/11(火) 14:42:47 ID:L6ZXqILP
なんとも古典的な負け惜しみですな(苦笑
結局滅ぼされちゃ意味ありませんよw
細かい事言うと、葦名滅ぼすまでは小浜を前線基地としており大概政宗公は小浜におりました
二本松城攻めは天正13年間に6日間
天正14年間に3ヶ月間です
12〜4月までは雪で動かなかっただけで実質3ヶ月ちょっとで畠山滅亡
ご愁傷様です
275人間七七四年:2007/12/11(火) 14:44:57 ID:D3Rn+jf4
伊達厨があまりにもアホすぎて伊達政宗そのものの評価が下落してるなw
276人間七七四年:2007/12/11(火) 14:53:57 ID:sUobj0+4
前にさ
上杉関連スレに執拗に絡んできてた低脳厨がいてさ
俺はてっきり北条厨や三好厨と思ってたんだけど

もしかして伊達厨の陰謀だったの?

もしそうなら、俺も電撃参戦してフルボッコしちゃうよ
277人間七七四年:2007/12/11(火) 15:07:50 ID:L6ZXqILP
低俗なレスで絡んでくる上杉厨ならいますけどねw
278人間七七四年:2007/12/11(火) 15:13:45 ID:UXqq42s5
そうですな
279人間七七四年:2007/12/11(火) 15:21:58 ID:KBrX1Rg1
>>274
伊達が自分で愚かにも真冬に攻めておいて何言ってんだ。
佐竹の戦略目標は達成してるし佐竹の戦略に冬という要因も組み込まれている。
1年近く二本松城落城させられない事実を誤魔化すなよ。
1年先に落城って明らかに牽制した遅滞作戦が成功した結果だろう。
二本松城攻撃〜人取橋までの状況で佐竹は成功して撤退してる。
1年先になり北条戦線に引っかかって状況条件が大きく変更しかわってる未来の話を持ち出して
伊達が勝ったなどというのは明らかにおかしい。
280人間七七四年:2007/12/11(火) 15:23:32 ID:L6ZXqILP
まあ、上杉が伊達を妬みたくなるのも分からないでもないですけどねw
281人間七七四年:2007/12/11(火) 15:24:52 ID:y1kuE5LK
二本松城を落城させたのは北条の功績だよ。
伊達は佐竹に負けただけ。
これが事実。
282人間七七四年:2007/12/11(火) 15:37:41 ID:L6ZXqILP
>>279
あなた本当に頭悪いのでは?
>>269で説明してあげたのに何で逆戻りするのですか(呆
283人間七七四年:2007/12/11(火) 15:44:15 ID:y1kuE5LK
>>282
屁理屈ばかりの必死さに伊達厨のウンコぶりがわかる。
歪曲もほどほどにしろよw

実際の主戦場は北条氏で真壁や太田、梶原ら最強メンバーで戦ってるけど
伊達に対しては後方部隊を派遣してのついでに相手をしてるだけだから。まぁ所謂、子どもの駄賃程度。
284人間七七四年:2007/12/11(火) 15:50:48 ID:L6ZXqILP
北条に負けて居候してる連中が最強とは佐竹も人材がいなかったのですね(苦笑
285人間七七四年:2007/12/11(火) 16:03:23 ID:KBrX1Rg1
>>284
太田の才略を侮れない。里見や上杉、武田と全方位外交ができるデキる男だな。良将を傘下につなぎとめておくことは難しい。さすが義重!
結城や小山、宇都宮らの諸将をまとめて北条と戦ってたから伊達なんて二軍メンバーで充分足りてて軽くあしらって帰ってるようなもんだよ。
286人間七七四年:2007/12/11(火) 16:22:15 ID:L6ZXqILP
その割りに謙信はつまらない理由で三楽斎殺そうとしましたよね
そんな名将殺そうとは謙信も相当なイカレ具合ですなw
ちなみに三楽斎は奥州方面も担当していましたよ
287人間七七四年:2007/12/11(火) 16:27:58 ID:KBrX1Rg1
>>286
ほう?つまらない理由とは?
288人間七七四年:2007/12/11(火) 17:32:57 ID:y1kuE5LK
>>286
謙信は三楽斎を大きく褒めたたえてますな。いい加減な話すんなよ。それとも何か?もしかして松山城落城の時の責めの時かアホwww
奥州方面担当だぁ?
三楽斎の奥州での業績って言ったら芦名外交で義広を養子にするのに貢献したくらいだろ。
奥州担当ってわけじゃない外交担当を担ってただけで軍事行動は対北条の備だぞ。
それに息子の梶原が義宣の命令で奥州窪田城に転封したのが第二次朝鮮出兵くらいだし。
しかし太田三楽斎ほどの男をバァカにするとは…秀吉も高く評価してんのに。
289人間七七四年:2007/12/11(火) 17:39:34 ID:L6ZXqILP
>>287
松山城が武田と北条の大軍に攻められて上杉らの援軍が間に合わず開城した時
臆病者に城を任せるお前が悪いんだ、と腹いせに三楽斎を斬ろうとした
三楽斎が八つ当たりで殺しちゃってよい程度の男だったのか
謙信がトチ狂っていたのかは知りませんが

>>288
必死過ぎる余り誤爆までして見苦しい人ですね(呆
上杉厨はムサくてたまりません
290人間七七四年:2007/12/11(火) 18:49:10 ID:y1kuE5LK
なんだホントは知らなかったから答えられなかったんだろw
だいたい本気で殺すつもりなんてありませんでしたからアホだねー。
八つ当たりではなくその責めを受ける相応の立場を任されていたのが能力ある三楽斎なんだよプ
291人間七七四年:2007/12/11(火) 19:06:14 ID:KBrX1Rg1
なんだ>>289こいつクダラネ
292人間七七四年:2007/12/11(火) 19:57:56 ID:7ZToNvdX
信者もアンチも反応が一緒で笑える
293人間七七四年:2008/01/07(月) 11:15:20 ID:mjz6Kr2X
まあ珊瑚海海戦みたいなもんですな。
佐竹は伊達を袋叩きできたんで戦術的には勝利。
伊達は佐竹に二本松城救援をさせなかったんで戦略的勝利。
ただし、北条が伊達と示し合わせて関東で動いたから佐竹が引いた、ということであればむしろ政略的勝利かもしれんが。
で、未だに両方の信者が勝ったと主張してるところも珊瑚海と一緒だ。
294人間七七四年:2008/01/11(金) 21:22:14 ID:mdWyLqLn
佐竹にとって全力をあげて取り組まなければならない主敵は北条で太田・梶原・真壁・多賀谷・宇都宮・結城等の一軍主力の全力を叩き込む。

伊達相手はあくまで片手間なんで二軍で戦ってたが敗北した事すらない。
295人間七七四年:2008/01/11(金) 21:38:06 ID:mdWyLqLn
珊瑚海海戦は日本軍が米空母を撃破して米稼動空母ゼロに追い込み史上最悪の米海軍記念日と自嘲した戦い。
ただ日本側も被害があり目標だったポートモレスビー攻略を断念した為に戦略的には日本の負けと言われてる。
さて伊達軍の戦略目標は二本松城。
佐竹軍の戦略目標は籠城中の二本松城への補給。
戦術レベルで言えば…布陣を見ればわかるが伊達側は佐竹の籠城物資補給を阻害する事はできずに終わっている。
この為に二本松城は籠城を続ける事が可能になり伊達行っていた包囲は徒労に終り撤退せざるおえなくなった。
これにより佐竹側の戦略目標は達成できた以上は長居は無意味なので撤退する事になる。
ただ撤退中に背後を追撃されては大被害になるので佐竹側は一大攻勢をかけて強襲威圧をする事で伊達の戦術行動を瓦解させた上で神速の撤退を見事に成功させた。
進退ともに見事な手腕をみせた佐竹の部隊運動は北条の大軍相手に長年戦ってきただけあり洗練されている。
296人間七七四年:2008/01/15(火) 23:23:04 ID:jrGUnf6e
>>295
> 米稼動空母ゼロに追い込み史上最悪の米海軍記念日と自嘲した戦い。

それは南太平洋海戦だろ。珊瑚海の時点ではエンプラとホーネットが無傷じゃないか。
いきなり事実関係が間違ってるんじゃあとはどんなに長文だろうが説得力あろうがまじめに読まないw
297人間七七四年:2008/01/16(水) 10:31:00 ID:dluaxUfR
298人間七七四年:2008/01/16(水) 11:22:23 ID:bEDnXBDO
>>1
そうだよ
299人間七七四年:2008/01/16(水) 14:47:38 ID:sc166L+w
誤認してるっぽいがその下の文章にはなっとくできるな。
300人間七七四年:2008/01/17(木) 02:42:43 ID:gEBSMuZk
まぁ勘違いだろ。
二本松城攻防では佐竹が戦略戦術レベルで圧勝してるのは間違いない。
301人間七七四年:2008/01/17(木) 09:42:59 ID:Ed8D3XAK
圧勝してるのに奪われるってどんな気持ち?
302人間七七四年:2008/01/17(木) 11:10:53 ID:2dbodO6g
別に二本松は佐竹の領地でも何でもない
友好国の従属大名という関係以外のなにものでもない
無論、佐竹が勝ったというのも間違い
葦名の要請で小野崎義昌を援軍に差し向けたと言う事以外に記録はない
この頃の葦名と佐竹はただの友好国でしかなく主導できるような立場にはない
後に書かれた書物では義広が葦名勢を率いて義重の主導も元戦ったことになっているが
実際に義広が葦名家に入嗣するのは人取橋の戦いの2年後であり明らかにデタラメ
佐竹が主導して活躍したと言うのは戸部一憨斎が主家を持ち上げる為に創作してねじ込んだものである
人取橋の戦いは葦名と伊達が仙道の覇権を争った戦いであり
伊達と佐竹の戦いとして捉えるのは完全に間違い
303人間七七四年:2008/02/12(火) 01:17:30 ID:U/cfFuEC

松川の戦いは本当にあったのか? その4
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1198253856/1-100

政宗厨脂肪www
304人間七七四年:2008/02/13(水) 15:08:41 ID:ZJhlFNes
>>301
肉を切らして骨を断つって感じだな。これが戦国合戦の妙味だ。
305人間七七四年:2008/02/15(金) 15:30:04 ID:xk7PH7JT
葦名支援で助けにきて
包囲された二本松城に兵糧を運び込み
伊達に一撃を加え鬼庭討ち死・伊達本陣強襲。
やるべき事を一通り行なった後は追い討ちも受けずにさっさと退陣。
当初の目的を迅速かつ効率よく達成した佐竹の行動に非のうちどころが無い。

伊達の包囲が徒労に終わりこれ以上包囲しても食料豊富な二本松城への包囲効果がまったくなく
輝宗が危惧したように二本松城の堅固ぶりに撤退するしかなかった。

二本松城は結局攻城戦では落ちず、一年後に二本松重臣が弱気になり自ら開城してるので佐竹の負けを主張するのは意味不明。
306人間七七四年:2008/02/16(土) 10:03:05 ID:+OdUj//D
この戦いもそうだけど戦国時代の合戦って有名なわりに実際はどうだったのかとか勝ち負けなどがあやふやな戦いって多いね。
307人間七七四年:2008/02/16(土) 13:50:15 ID:mqFKdxoB
このスレを読んで、人取橋の戦いが政宗の敗北だってよくわかった。
次は「摺上原の戦いは政宗の敗北」ってのが読みたいな。
308人間七七四年:2008/02/17(日) 02:41:26 ID:vZibDhYr
伊達は1万以上の兵力差で圧勝が予想されたが実際に戦い始めたら
摺上原では芦名の先方たる富田隆実軍に押されまくられた片倉・原田・猪苗代の伊達隊は敗走し早くも陣形が崩壊し始めた。
この好機を逃さず若干14歳の芦名義広と旗本700騎が突撃。
なぜ当主自ら突撃したのかと言えば芦名軍はすでに戦う前から瓦解してて富田美作も佐瀬河内らも両翼は戦わず傍観。
それでも富田隆美は政宗本陣に切り込む活躍を見せて義広も突撃を敢行。
この時に風向きが変わらなければ政宗は討ち死にし芦名勝利確実だった。
政宗生涯のうち唯一の勝利となったこの戦いも風向きの変化によって芦名軍兵の目に砂ぼこりが入って目が開けられなかったから辛勝しただけ。
よって東北最弱が伊達と決定。


309人間七七四年:2008/02/17(日) 02:54:36 ID:vZibDhYr
初陣の相馬戦では相馬が偽って兵を引くと低能政宗は血気に逸り家臣の諫めも聞かず追撃し包囲され
家臣が我が政宗なり〜と身代わりになってる隙に敗走。
家督を継ぐなり友好的だった葦名を奇襲し関柴の戦いで葦名に大敗。
大内攻めに大苦戦し逆切れして民衆撫で切りの愚行。
父親を謀殺したあげく二本松城を真冬に攻めて大失敗。
さらに狭い隘路の要害に野戦陣地を築き鉄砲隊を揃えておきながら
わずか半日の戦いで伊達軍半壊したので佐竹は撤退。もちろん追撃なんてできるわけがない。
崩壊した伊達軍も二本松攻めせずに退却し佐竹の二本松救援成功。
大崎に超大敗。窪田の戦いでもビビッて要害に立てこもり同盟してる北条の動きに一縷の望みをかけ撤退するのを待つばかり。
政治外交でも佐竹義重に敗退し葦名の養子が佐竹次男に決まる。続いて岩城への養子縁組まで佐竹の三男に決まるセンスの無さ。
惣無事令が発令され中央政治外交の情勢分析ができてる諸将は武装を緩め秀吉との外交に集中してるのにDQN政宗は御家改易への想像力が欠如し
これ幸いと火事場泥棒をし三代続けて早世し弱体化した葦名に大苦戦。結果、空中分解し葦名自爆。
葦名亀王丸2歳・二本松畠山国王丸11歳・葦名義広14歳を滅亡に追い込む姑息な弱いものイジメでガキハンター。
北条に都合がよい情報のタレ流しを盲信し続けギリギリになって事の重大性に気づくマヌケぶり。
自分が奥州の代表とか言いながら自分の命乞いに終始し他の田村ら奥州諸将の弁護をせずに秀吉に改易されるのを見て見ぬフリの卑怯者。
浅はかな謀略で大崎・葛西の乱や南部領で謀反を起こし見事にバレる低能。
スペイン・神聖ローマ帝国に日本を売り渡そうとした売国奴・・・だがローマ側コメントは「だが断る!」と言われたがw
政宗が役に立たない趣味放蕩に走り、政宗の死の翌年にさっそく幕府に頭を下げて借金の申し込み飛ぶ鳥後を濁しまり死後も迷惑。
もうあまりのDQNすぎてあきれるな。


310人間七七四年:2008/02/17(日) 11:42:37 ID:p66fRj0G
>もうあまりの巨QNすぎてあきれるな。
311人間七七四年:2008/02/23(土) 12:36:02 ID:PcHu3JgN
日本語でおk
312人間七七四年:2008/03/09(日) 21:08:17 ID:Q+4bgsH8
伊達さいじゃく
313人間七七四年:2008/03/10(月) 00:39:13 ID:UTW7Q01u
伊達政宗公と北の将軍様って俺の中ですごくイメージが被るんだよねwww
314人間七七四年:2008/03/10(月) 15:45:00 ID:kmB1N2CY
人取橋だけじゃなく、郡山対陣も摺上原も敗北だろ。
葛西大崎一揆も結果として領地を減らしているから明らかに負けだ。
あと、清正に邪魔だから後ろにすっこんでろと言われた晋州の戦いも一人負けと言える。
で、松川で負け、道明寺でも真田に負け・・・・・圧倒的に負けの方が多いな。

どんなに勝ち続けても一度の負けで全てを失うことの方が一般的なのにむしろこれだけ負け続けて身上が残った、って言うこと
の方が奇跡的だ。異常とさえ言える。
仙台人は、捏造で強さを誇るよりもむしろこのことを誇るべきなんじゃね?w
315人間七七四年:2008/03/17(月) 12:34:11 ID:qtEAXWpp
はいはい
316人間七七四年:2008/03/19(水) 10:47:58 ID:nAMOW8vg
>>179
片倉相変わらず弱っw
317人間七七四年:2008/03/19(水) 11:48:08 ID:SHfg04Xq
伊達日本最弱の兵。同じ数なら姉小路にも負ける。
318人間七七四年:2008/03/28(金) 15:01:08 ID:lgoR4C+P
>>314
罵倒するにしても、もうちょっと論理的になw
319人間七七四年:2008/03/30(日) 06:17:42 ID:qf6AkRO+
>>318
どこか間違ってるか? 少しも間違ってないじゃん。
320ももも:2008/04/29(火) 16:07:36 ID:Yzf8LdG5
摺上原の戦いは最初は風向きが芦名有利に吹いていたが、後半風向きが変わったのでは?
佐竹氏が人取橋の戦いで勝利を確信していたのであれば何故夜中に慌て撤退しなければならなかったのだろうか?
また、この戦いが佐竹氏主導でないのならば、どうして佐竹氏撤退に呼応し全軍退却したのだろうか?
夜中撤退したという事は伊達軍に追撃する余力がありと認識していたのでは?



321人間七七四年:2008/04/29(火) 16:37:24 ID:c73P7qJP
>>320
何言ってんのアホ?
322ももも:2008/04/29(火) 18:16:32 ID:Yzf8LdG5
連合軍の北上を察知した時点で伊達軍の戦略は見直されていたと思います。
自軍を上回る連合軍に仮に勝利しても、その後すぐの二本松攻めは難しくなることは予想でき
たはずです。恐らく伊達軍は仙道の覇権をかけ南下したのだと思います。その軍事行動は当然
連合軍の北上を阻止する事が目的でした。圧倒した連合軍ですが理由は別とし夜中に撤退を選択
するほどの危機感を持って退却しました。確かに連合軍は二本松を一時的に救い目的を達成しました
が、仙道の覇権をかけこの戦いのぞんだ伊達軍も同じく目的を達成したといえます。伊達兵の強弱は別として
人取り橋の戦いは、引き分けだと思います。しかし、ここで伊達氏にトドメをさせなかったことが、
後々大きな禍根となったのも事実なのではないでしょうか。


323人間七七四年:2008/04/29(火) 18:20:53 ID:jXFQy07n
>>314
お前さ、叩く事が目的で歴史を学ぼうとしてないだろ?
伊達を貶められればそれでいい、という魂胆がみえみえ。
醜悪な文章から人間性が分かろうというものだ。
324人間七七四年:2008/04/29(火) 20:09:10 ID:c73P7qJP
おまえ撤退戦略を勘違いしてるだろ?勝ってる軍が戦場離脱する時でも追撃に気を使うのは当たり前だ。
追撃する余力って意味がわからんがやっぱりアホなんかな?
325人間七七四年:2008/04/29(火) 23:37:06 ID:WHDsa9+p
佐竹は鼻から伊達を潰す気なかっただろ。
禍根になったのは事実だがね。
326人間七七四年:2008/04/30(水) 02:16:38 ID:3Nj26D/O
今から帰りますね
って断ってからじゃないと不利になるらしい
327人間七七四年:2008/04/30(水) 03:27:04 ID:ZkJgMpGZ
川中島でも和睦する時に双方の撤退の手順を打ち合わせし合意の上で撤退してるしな。
三国志廚やゲーム厨は妄想戦闘しか知らんからこういうクダラン事を言い始める。
見事な撤退ができる武将こそ評価されるんだ。
328人間七七四年:2008/04/30(水) 12:25:20 ID:AjXp42fQ
>>323
じゃ、どこか間違ってるかい?
連戦連敗なのもその割に滅びずに比較的大きな身代が残ったのもその通りじゃないか。
信者は物事を客観的に見られないから信者って言うんだねw
329人間七七四年:2008/04/30(水) 17:39:07 ID:G2KeZTKb
>>328
レベルが低過ぎてお話にならないな。
まあ、郡山合戦を例に挙げてみようか。
これは伊達軍と連合軍の戦であるが、この戦いを伊達軍の敗北とした史料を見た事が無いんだが、
何の史料に敗北したと書いてあるのか教えてくれよ。
少なくとも、『政宗記』や『奥羽永慶軍記』ではないだろうけど。
330人間七七四年:2008/05/01(木) 03:48:57 ID:/eYfDBkF
短期的に見れば引き分け
長期的に見れば政宗の勝ち

川中島みたいなもんだ
331人間七七四年:2008/05/01(木) 11:06:38 ID:y54LqNzA
>>330
長期的に見たらこの戦線で一応のキリがついた秀吉の奥州仕置きで領土を巻き上げられた伊達の一人負けなんだが。
短期的にみたら伊達の負けだしな。
なんせ葦名が自爆しただけだから。
332人間七七四年:2008/05/01(木) 12:17:30 ID:y54LqNzA
あれだろ、郡山合戦って連合軍が新国貞通を囮として伊達の砦の近くをゆったり進軍させたら
伊達成実と片倉景綱がバカみたいに脊髄反射して片倉重継に襲撃させたら
佐竹側の二つの砦からわんさか兵が繰り出され包囲され
ヤベェと思った伊達成実と片倉景綱が兵を率いて救援に向かったら
佐竹全軍が一挙に逢瀬川を渡河しまくってフルボッコされ脱出不能になり
政宗も必死に前線まで出てきて救援せざる負えなくなり
二階堂の矢田野義正が伊達の伊東重信を討ち取ったりで伊達100人以上が討ち取られ惨敗して山王館へ逃げていったんだろ。
そんで山上に大量の銃を構えて籠もったままビビリまくり挑発しても一切出てこなくなり伯父の岩城・石川に和議斡旋を哀願したってのが郡山合戦。
ビビリ症の伊達は退却中に追撃されるのを恐れて佐竹が完全に危険ラインから消えるまで見届けてから退却したんだよなw
(その頃北方では母の義姫に政宗が泣きついて最上義光との和睦を願ってた)
333人間七七四年:2008/05/01(木) 12:29:04 ID:y54LqNzA
しかしあれだなわざわざ『政宗記』や『奥羽永慶軍記』を持ち出して牽制してるところが伊達厨のアホなところだな。
334人間七七四年:2008/05/01(木) 20:28:37 ID:ZCXi4Bi8
あんまり語られていないが、一番の負けは芦名家だよなあ。

奥州仕置でも領地が返ってくることもなく、
家臣も伊達家や佐竹家、他にも行ったんだろうがとにかくばらばらになったわけだし。
秋田芦名家も3代で潰れ、悲しいものがある。
335ももも:2008/05/01(木) 22:56:38 ID:Z88/dWNU
間違っているかもしれませんが、夜中の戦略的撤退というのは一般的に、戦闘が不利な場合か、戦闘が膠着状態に陥った場合に実行される事
が多いのではないでしょうか?不利な伊達軍が正面から戦いを挑み押されながらも戦場に留まっている状況で、例え戦略であったとしても
夜中の撤退が、伊達軍にどのように受け取られるのか、連合軍の誰も考えなかったのでしょうか?伊達を潰す気がないのであれば、連合軍も
この軍事行動で大切な兵力を失いたくなかったはずです。なんといっても圧倒できる兵力を持っていたのですから、両軍が睨み合ったまま連合軍の
意にそう条件での和睦を検討をするのがベストだったのではないでしょうか。
両軍入り乱れて戦ってしまった場合でも、有利に戦いを進めていた連合軍であれば意にかなった調停もできたはずです。理由はあるにせよ
戦略的撤退といってもその戦略を見出せないところが連合軍の大きな失敗であったようなきがします。








336人間七七四年:2008/05/01(木) 23:29:03 ID:bfViJPib
一撃を加えて牽制し、「明日も攻撃を受けるのか」と思わせて備えさせておいて完璧な撤退を成功させるのが虚実を駆使して相手の予想の範疇から外れる縦横無尽な用兵を行う名将と言えるでしょう。
佐竹は北条の大軍相手に虚実をもって巧みな用兵を得意としてます。
そしてしばしば大軍の北条の撤退を勝機に変える猛追で大勝を得ております。
だから一撃を加えて伊達に明日も早朝から襲撃を受ける危機感を抱かせておいてあっという間に素早い用兵で見事な撤退をしたのです。
伊達軍は前日の大敗を挽回する追撃の絶好の機会をみすみす逃してしまい翌日は唖然としたでしょう。
そもそも佐竹は伊達に勝ったところで伊達領まで攻め入る侵略戦争をする余力はなく義理で来援してただけなので一撃を加え懲らしめるだけで良かったのです。
337ももも:2008/05/02(金) 00:01:34 ID:9u2z4rt+
親切な説明ありがとうございました。摺上原の戦い直前の佐竹軍の動きくらいしか知らず、佐竹軍の事を
てっきり慎重で、どちらかというと主力同士の短期決戦で雌雄を決する事を望んでいたのかと誤解しておりました。
ただ北条氏と戦うために、東北方面に侵攻し国力を養いたかった為に、伊達氏の影響力を排除したかった
ということはないのでしょうか?
338人間七七四年:2008/05/02(金) 00:30:21 ID:aEM5WS0f
ただ伊達軍が撤退を知りつつ追撃できなかった可能性があります。この場合は伊達軍が組織行動が不可能なほど半壊していたと思われます。
気づいていなかったとしたら伊達軍は相当に追い詰められて明日早朝の亡軍を思い敵軍の調査すらする余裕がなかったと言える。
また佐竹の戦略目標は要害の二本松城に食料を運び込む事と思われ、それに成功した以上は長居する必要はなく
葦名の援軍要請を受けてのものなので伊達領を奪ったところで飛び地になり維持が困難なので国力拡大にはあまり意味がないでしょう。
339ももも:2008/05/02(金) 18:47:09 ID:hfoyJODB
なるほど、確かに佐竹軍は二本松城に対する援軍に成功し、目的達成後は速やかに撤退しました。伊達軍はそれに気付いていた
可能性があったが追撃する気力はななかった、そう考えるとこの戦いに伊達は負けていたと言って良いと思います。しかしこの戦は
そもそも伊達軍の南下に手を焼いた芦名氏が佐竹氏の援軍を得て南東北の諸氏と連合しておこした戦いです。目的を達成した佐竹軍が退却した
後、芦名軍は伊達軍の力を弱める絶好の機会であるにもかかわらず、連合諸軍の盟主たりえず全軍撤退してしまいました。この事
が何を意味するかと言えば、佐竹軍が中心にいなければ伊達軍と真っ向から戦いを挑む勢力は居ないという証明になってしまった
のではないでしょうか。また例え数で圧倒しても進軍して立ち向かった伊達氏と、佐竹軍がいなければ及び腰な芦名氏という構図が
浮き彫りになってしまいました。逆に伊達氏からすれば、めったに来ることのない佐竹軍にさえ気をつければ、二本松城どころか
他の芦名の勢力をも侵食できる可能性が見出せた戦いだったのではないでしょうか。
340人間七七四年:2008/05/02(金) 19:31:39 ID:nFoxv5mk
正論だな
341人間七七四年:2008/05/02(金) 19:36:47 ID:e6usFBDt
亀王丸・国王丸がリーダーシップが取れるわけないじゃん。
少しは頭で考えろアホ伊達厨。
おまえホントにバカだろ?
342人間七七四年:2008/05/02(金) 20:02:18 ID:zX5PaOPX
>>334
どこでだって生き延びてりゃいいじゃん
343人間七七四年:2008/05/02(金) 20:42:47 ID:hbKxbw3I
>>331
本当に本当にレベルが低くて嫌になるよ。
何で郡山合戦で豊臣が出てくるんだか。
大体、長期的に見れば家が断絶した豊臣が負けと言えるだろう。
短期的に見ても、大軍をやり過ごした伊達側の戦略的勝利だ。

>>332
まず、彼我の戦力差で見てみようか。
伊達側の兵力は六百余り、それに対し連合軍側は八千余りである。
孫子の兵法を持ち出すまでもなく、連合軍側が圧勝できそうな戦力差だ。
ところが、連合軍側は伊達勢の伊東重信は討ち取れたものの、他の主だった武将はまったく討ち取る事ができなかった。
損害を比べてみると、伊達勢の損害は130余りで連合軍は100余り。
伊達側が惨敗とはとても言えなく、むしろ連合軍側の情けなさが際立つ。
まあ、寄せ集めの軍勢だから、士気が高くないのは当然かも知れないがな。
政宗は慎重な男なんだよ、泰平の世の中になっても猶、宿敵である相馬氏の義胤を警戒していたのだから。
344人間七七四年:2008/05/02(金) 21:17:38 ID:aEM5WS0f
>>343
惣無事令の発令と全国統一され奥羽で戦乱が止み秩序が樹立し安定をみた豊臣政権下で一応の区切りが着いたんだから豊臣が出るのは当たり前。
それと佐竹や伊達の被害や兵力の裏付けはどこから持ってきた?意味わからねー兵力とか出してくんな。
345人間七七四年:2008/05/02(金) 22:37:10 ID:if752TRP
連合組まれちまってんだから孫子の兵法を持ち出したら伊達の負けだもんな
346全板トナメ戦国板の投票日は5/3!:2008/05/02(金) 22:39:19 ID:NFfon+AX
【第3回2ちゃんねる全板人気トーナメント】
明日5/3日は戦国板の投票日だよー

選対スレ
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1205796433/
投票方法
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1205796433/477
347人間七七四年:2008/05/03(土) 08:15:58 ID:G/mWJ0Zz
相馬が律儀に伊達との同盟を守ってたのに、田村に行った時に伊達勢に銃撃されまくり重臣殺戮され自身も殺されそうになり相馬軍首脳がボロボロにされたら怨まれるだろう。
極悪人政宗が自身の裏切り行為を認識しててビビッて警戒してたんだろうが。
相馬がこの卑怯な行為で弱体化してなければ伊達に負ける事は有り得ないからな。
関ケ原後だって政宗は恩賞に相馬領を望んでたしな。
まー対北条戦用の精強佐竹一軍と違い佐竹二軍相手に大苦戦しまくる伊達じゃあな。
なんせ伊達はヘタレだから要害に陣を構えて鉄砲揃えての防衛しかしないで、いくら侮辱しても討って出てこないビビり集団だからな。
348人間七七四年:2008/05/03(土) 12:25:29 ID:/uAaA/hR
>>343
天下統一した豊臣の負けってどんだけ歪曲すんだwww
アホだろwww
しかも二次に渡る朝鮮出兵や秀吉死後だぜw
黒川城で奥州仕置を命じてから25年後を持ち出して豊臣の負けで伊達が豊臣に勝ったとかwwwwどんだけ俺ルールだよwww
もう基地害すぎてワロタよ伊達厨クンwww
>>345
そうそう伊達流の孫子の兵法ってのが母に泣いて頼んで伯父の最上義光に和睦を頼むことだからwww
349人間七七四年:2008/05/04(日) 11:38:09 ID:lGNQsTg4
>>344
政宗はそもそも惣無事令なんて大して気にもしていない。
豊臣が強大だから一時的に臣従しただけで、それで敗北だと言うなら全国の大名が敗北している訳だ。
で、人に文句をつける前に君は何の史料で語っているのか教えてもらおうか?

>>347
はいはい、間違いが多過ぎてお話になりません。
伊達と相馬は同盟などしていないし、銃撃したのは田村方の伊達派であって政宗が指示した訳でもない。
そもそもが和睦しただけで何の提携もしていないし、裏切りと言われる筋合いもない。
田村方の銃撃は、田村が伊達に靡いた結果であり、相馬は戦略的にどんどん押されている為、
その後の経緯から勘案するに、中央の介入が無ければ伊達に呑み込まれていただろう。
政宗が恩賞に相馬領を望んだというのは、何に記録されているのかな?
連合軍の御輿は佐竹であるが、軍勢は諸勢力のものが多数であって、佐竹そのものに苦戦したのではない。
そして、あれだけ兵力で圧倒しているのに、伊達を攻め切れない連合軍側の不甲斐無さが際立つ。
350人間七七四年:2008/05/04(日) 13:13:28 ID:0LYTJHM/
>>349
全編を通じて言い訳屁理屈乙
351人間七七四年:2008/05/04(日) 16:05:25 ID:DshEx+TA
>>347
金持ち喧嘩せずを守ってるんだろう
352人間七七四年:2008/05/04(日) 16:33:51 ID:DshEx+TA
ここんところの政宗叩きは常軌を逸してると思うぞ
353人間七七四年:2008/05/04(日) 19:14:49 ID:CCEeTq1i
政宗は秀吉の惣無事令に逆らい続けたのに本領を安堵されたり、関ヶ原ではこっそり家康への
裏切り行為をしてたのにお咎めがなかったりばかりかその後幕府から厚遇されてる。大物に好か
れるその性格と才覚は、一般人には叩き甲斐があるのかも。
354人間七七四年:2008/05/04(日) 19:31:43 ID:WEp1F7Q+
直江と同じだよ
同盟者を血祭りにあげて自分だけ助かる。そういう糞野郎が過大評価されてるとムカつくんだ
355人間七七四年:2008/05/04(日) 19:53:06 ID:CCEeTq1i
ではそういうスレたてて思う存分どうぞ。
人取り橋の戦い、対畠山なら負け。対芦名なら勝ち。対連合軍では勝ちに等しい引き分け。
356人間七七四年:2008/05/04(日) 21:21:01 ID:0LYTJHM/
【戦術上の要地を占めての迎撃戦における類似性ある戦い】
沖田畷の戦い
陣を固めて敵を鉄砲で迎撃側が島津→圧勝
攻め手は龍造寺→敗死大敗

長篠合戦
陣を固めて敵を鉄砲で迎撃側が織田→圧勝
攻め手は武田騎馬隊→首脳陣大量討ち死に大敗
人取橋の戦い
陣を固めて敵を鉄砲で迎撃側が伊達→政宗まで銃撃され大敗
攻め手は佐竹連合軍→鬼庭を討ち死にさせ政宗本陣まで襲撃し圧勝
357人間七七四年:2008/05/04(日) 22:16:03 ID:CCEeTq1i
七家の連合軍と政宗が戦って、連合軍の死者961名、伊達軍426名。前半は伊達が有利で、後半伊達が疲れ連合軍の新手が参戦し
た時に伊達側に死傷者が多かっただけ。討ち死に数からも分かるけど、連合軍の凄かったのは最後だけ。
358人間七七四年:2008/05/04(日) 22:22:06 ID:CCEeTq1i
↑死傷者の数、失礼。
359人間七七四年:2008/05/05(月) 00:07:53 ID:wcNL7STl
>>357
それと佐竹や伊達の被害や兵力の裏付けはどこから持ってきた?意味わからねー兵力とか出してくんな。
360人間七七四年:2008/05/05(月) 00:12:43 ID:wcNL7STl
【鉄砲頼み】何かと天嶮に籠もる弱武将【消極的】
http://c.2ch.net/test/-/warhis/1209792197/i
361人間七七四年:2008/05/05(月) 01:34:53 ID:1h0hcArh
>>351
日本語でおk
362人間七七四年:2008/05/05(月) 04:22:14 ID:WDAyC/Qw
有名どころを叩いて通ぶるのが戦国厨
363人間七七四年:2008/05/05(月) 04:43:28 ID:uvxxJgBh
米沢30万石ってのは信夫郡・伊達郡を含んでいる。つまり伊達との防衛戦で勝ち守ったからこそ信夫郡・伊達郡は安堵されたわけだ。
最上も上杉に勝ち庄内地方を奪い取った地のみ安堵された。
家康は確保した地のみ安堵してる。
つまり伊達は一連の福島表の戦いは敗退し軍費や食料や人的損害がまったくの無駄になり敗北した。
逆に上杉は伊達に勝ったからこそ徳川にケンカを売ったが米沢30万石を安堵されたと言える。
逆に勝ち守りきった地ではない会津や中通り中部は召し上げられ蒲生に渡された。
伊達は秀吉にメンツを潰され巻き上げられ蒲生氏郷に渡された土地を今度は家康により再び蒲生の息子に渡され愚弄侮辱されたのである。
しかも蒲生家はほとんど何も働いていないにも関わらず大加増だ。
この一連の流れは秀吉の奥州征伐による伊達の大敗北に続き家康の奥州征伐による伊達の2度目の大敗北と言っていい。
364人間七七四年:2008/05/05(月) 06:17:23 ID:GLB52cZL
>363
>逆に上杉は伊達に勝ったからこそ徳川にケンカを売ったが米沢30万石を安堵されたと言える。

それ「東国太平記」の作者(上杉の国枝清軒w)が勝手に言ってるだけだよ。いわゆる「負け惜しみ」。
伊達に負けたため、徳川家康と伊達による挟撃の危険が恐ろしく高まった(慶長5年10月中旬時点)。
上杉が、徳川との和睦交渉を焦って進め始めたのもこの時期で、11月には結城秀康が政宗に「和睦
交渉を進めているから、ともかく上杉への武力侵攻は控えてくれ」と頼み込んでいるほど。
上杉が滅亡せず、30万石で落ち着いたのは結城秀康の尽力があってこそ。
でなければ、伊達と徳川に殲滅されていた。
365人間七七四年:2008/05/05(月) 08:43:00 ID:/7KKK8co
>>364
> 伊達に負けたため、徳川家康と伊達による挟撃の危険が恐ろしく高まった(慶長5年10月中旬時点)。

関ヶ原が家康の勝利で終わった以上、福島表の戦いで上杉が勝とうが負けようが「挟撃の危険が恐ろしく高まった」のに変わりないんじゃないか?
「東国太平記」の作者の言い分と同じく偏った見方だと思うぞ。
366人間七七四年:2008/05/05(月) 10:37:44 ID:8T8MKjgi
なんか戦国版全体にいえるんだけど、上杉がからむと荒れるんだよね
上杉ファンってマナー悪いね
無関係なスレに入ってきて自慢始めたり
367人間七七四年:2008/05/05(月) 10:43:41 ID:W/L+d3jn
それは織田厨のほうがひどいと思うが。
368人間七七四年:2008/05/05(月) 11:15:15 ID:uvxxJgBh
何かと東国太平記を持ち出せば否定できると執拗に持ち出すアホがいるが軍事的戦略視点で見れば自然と出てくる結論でしかない。
東国太平記がどうこうとかまったく関係ないし東国太平記なんて読んだ事すらない。
伊達厨の独りよがりの持論の裏付けに東国太平記を持ち出して否定しようとしてるだけだw
なぜか東国太平記という言葉を持ち出せばすこい否定力があると勘違いしてるようで笑えるがそろそろ東国太平記の呪いから卒業してはどうか?
369人間七七四年:2008/05/05(月) 21:17:40 ID:1h0hcArh
恣意的だな
370人間七七四年:2008/05/05(月) 22:24:54 ID:ahnm4juz
結城秀康に言われたから戦いやめたじゃ 結局天下は取れるような
人では無いということですね。例え負け続けても命令無視して戦い
続け領土拡張を狙うほうが覇気を感じる。
371人間七七四年:2008/05/05(月) 23:00:25 ID:uvxxJgBh
秀康に11月に言われたから止めたと伊達は主張→実際には1月に相馬と一緒に月夜畑で上杉に大敗→その後にも上杉領でなんとか火をかけたとの報告を家康にしてる
明らかに伊達側の言い訳は矛盾してるんだがw
372人間七七四年:2008/05/06(火) 03:06:52 ID:HpoZsbG9
373人間七七四年:2008/05/06(火) 05:23:09 ID:xwAaovj+
>>372
http://www7.plala.or.jp/oygd/atagoyama.html

>伊達政宗が本陣を置いたといわれる愛宕山(黒沼神社近辺)から
 福島城までの距離は約1.7kmぐらいです。福島市史2、を見てみますと黒沼神社近辺に
 本陣を張ったことが記載されており、また一統志には愛宕山にあった大仏堂について、
 「関が原記記に伊達政宗卿と上杉家の臣岡佐内と太刀撃せし所又は本庄の家士小嶋左近
 が討死にせし所も批辺に近かるべし」と正宗卿がいた場所をこの近くと記しております。

このサイトはまさしく「東国太平記」をベースに曲解されていることが丸見えだな。
笑いどころ満載だが、「伊達政宗卿と上杉家の臣岡佐内と太刀撃せし所」等と真剣に
書いている時点でアウトw。また須田系譜の箇所では何故か「慶長6年」という年号が
削除されているのも、矛盾を突かれるのを恐れたものだろう。
374人間七七四年:2008/05/06(火) 08:13:19 ID:X1DctyrY
捏造・脚色なんて上杉の特技だからな
上杉二十五将だっけ?(ゴロが悪すぎw)
375人間七七四年:2008/05/06(火) 09:25:27 ID:R74hu2aH
結局上杉が負けて家康に土下座して30万石ばかりお情けで貰った事は紛れも無い事実ですからねぇ^^
376人間七七四年:2008/05/06(火) 09:54:28 ID:v4XAW1Qc
>>373
>東国太平記大好き
まで読んだ
377人間七七四年:2008/05/06(火) 10:03:54 ID:xoEdx7Ec
車丹波、岡左内など名のある武将達に次々と一騎打ちを挑まれて無傷で生きて帰る政宗は凄いね
378人間七七四年:2008/05/06(火) 11:05:33 ID:kmFWRC0a
まっ結局は伊達が大敗北してこの福島表の戦線は終結したわけだがw
聖地の信夫郡や伊達郡すら奪回できずに、そこに住む伊達派の人間達まで火をかけられて殺戮され命からがら伊達軍とともに逃走w
伊達軍は人的損害や食料を浪費したあげく徒労に終わる虚しさを噛み締める伊達主従w
上杉側は最上に負けた事は素直に認めてるし理解力はあるが伊達厨は池沼ぶりを発揮し続けているw
379人間七七四年:2008/05/06(火) 14:40:10 ID:R74hu2aH
最上に負けたの認めてるって当たり前じゃんw
あれだけボロ負けしてるのに負け以外の何があるんですかw
380人間七七四年:2008/05/06(火) 15:32:42 ID:kmFWRC0a
>>379
何が言いたいのかまったくわからないんだが池沼か?
最上義光はわずか山形館からスタートし日の出の勢いで拡大した才覚溢れる人物だぞ。
政宗みたいな戦略ゼロとは違う。
381人間七七四年:2008/05/06(火) 15:40:47 ID:R74hu2aH
伊達や最上が優秀なのはよく分かってますよ^^
上杉が誇大妄想馬鹿の捏造大国だと言っているだけですよぉ
382人間七七四年:2008/05/06(火) 16:23:58 ID:tnRWzVoB
なんかスレの前半と話が違うなぁ
>>93とか>>100とか
383人間七七四年:2008/05/06(火) 16:37:25 ID:HpoZsbG9
>>381
いろんなスレを荒らすなボケ。
>>382
伊達厨の妄想には毎回笑わせてくれるね!
384人間七七四年:2008/05/06(火) 17:07:02 ID:HpoZsbG9
伊達厨ってみっともねぇw
385人間七七四年:2008/05/06(火) 17:53:14 ID:MUvHLDfo
勝ったのならなんで実効支配して、そこを徳川に自分達の領土だと認めさせなかった
のかな?認めさせれば”家康が恐れた男”と言うのも納得できるのだが
もしくは その辺のやり取りがあったのらな教えてください。
386人間七七四年:2008/05/06(火) 18:08:00 ID:HpoZsbG9
まぁ福島城あたりをうろついたのは実質わずか1日くらいの話で片倉家臣が2人も討ち死に大敗して
高速の速さで逃げ帰ったから実効支配なんて不可能だよねw
387人間七七四年:2008/05/06(火) 18:18:58 ID:9o5RJdvw
何だか伊達軍叩きになってません?そもそも人取り橋の戦いを畠山救援軍と完全に決定している
このスレの冒頭が怪しい。1584年以降、大内氏が小浜城を捨てた頃から芦名、佐竹、その他
南奥が連合して政宗を討とうという気運はあった。1585年10月15日に伊達軍は二本松城
を包囲したが落ちず、11月初旬に連合軍の北上を知り小浜城に撤退。連合軍は11月16日に
安積郡に布陣。伊達軍は16日に南下、夜に本宮城到着。もしも連合軍の目的が畠山氏救援軍で
あるならば、この野戦で伊達軍を後退させその勢いで拠点である小浜城を手に入れるか、せめて
宮森城を落とし大改修し大軍を常駐させるなどの方法をとるしかないのでは?最善は政宗を殺し
弟の小次郎に家督を継がすか。南奥の諸軍は伊達にやられるのは次は自分達という思いでこの際
立ち上がった訳だし、佐竹、芦名は輝宗が死んで伊達家中が揺らいでいるうちに叩きのめそうと
行動に出た訳だからその位の気概は持ってのぞんだと思う。二本松城の攻囲を解くだけならこの
時点で完了のはず。案の定、翌17日に戦いを始めると佐竹1万と芦名1万はまっしぐらに伊達
本陣に向かった。二本松救援が目的ならば主力で観音堂山を牽制しつつ別働隊で高倉城と
瀬戸川館攻略が定石では?一気に主力戦に持ち込んだ事でこの戦いが最初から殲滅戦として進め
られていたことがわかるだろう。結果は周知の通り。
南奥諸軍は佐竹が長く本国を空けられない事実と芦名の腑甲斐なさを知ることになり、二本松は
完全に孤立した。もう伊達は焦る必要もないのだが、翌年4月から7月までかかって二本松城を
攻略。当然本国を留守にできない佐竹は来ないし、これ以上伊達軍殲滅戦に関わったら後で政宗
に何をされるか判らない南奥諸軍はこれ以降連合に消極的になってしまった。この戦いの目的が
伊達軍殲滅戦であるからには、結果伊達軍の勝ち以外のなにものでもない。
人取り橋の戦い、主力決戦が4千対2万で政宗は後退したが観音堂山の陣は保たれたのだから弱い
伊達軍かも知れないががんばったと言って良い。そもそもこの数字で戦闘内容だけの勝ち負を
談じても意味がないと思う。


388人間七七四年:2008/05/06(火) 18:33:34 ID:HpoZsbG9
>>387
4千対2万
この裏づけになる資料の提出を求む。
あと伊達の親類ばかりなので最初から伊達の小せがれを懲らしめる目的だけなので伊達を追い詰めるつもりは最初からなかった。

伊達からもらった妻を持つ佐竹義重も伊達に対して本格的に敵対するつもりはこの時点ではまだない。
389人間七七四年:2008/05/06(火) 18:44:00 ID:9o5RJdvw
388>>
390人間七七四年:2008/05/06(火) 19:10:58 ID:9o5RJdvw
失礼。388さん、馴れてないもので。数は歴史群像に工藤章興という人が示していたもの。また佐竹義重
が本格的に敵対していたと言ってるのではなく、芦名と特に南奥諸氏にとっては佐竹氏とは違った戦いだった。
だから佐竹氏が撤退してしまった意義は大きい。また血の繋がりで殺し合いを論じるのもどうかと思う。
本陣めがけて進軍しているからには、大将が討ち取られる可能性は大きい。それともあのまま乱戦になっても
政宗一人は誰も殺さなかったとでも?


391人間七七四年:2008/05/06(火) 19:41:21 ID:HpoZsbG9
婚姻親戚関係ばかりの奥羽は伝統的に最後まで色黒の決着をつけるまでトコトン戦わない。
石川や岩城がなんだかんだで和議斡旋を毎回してるのもそれをあらわしている。
392人間七七四年:2008/05/06(火) 19:43:04 ID:HpoZsbG9
訂正
×色
○白

あと軍勢の数の裏づけが取れてないなら数は書かない方がいい。
393人間七七四年:2008/05/06(火) 20:46:53 ID:kmFWRC0a
奥羽は秩序が守られ下克上も発生せずに、わりかし名門が戦国末期まで生き残ってるくらいのぬるま湯で甘ちゃんな地域だったからね。
すごいのは伊達輝宗の時代には従属してた山形館の最上義光の急速な拡大くらいなもん。石高の小さい出羽でありながら最終で伊達とほぼ互角まで拡大したのは異常。
394人間七七四年:2008/05/06(火) 21:10:54 ID:9o5RJdvw
了解。伝統的になで斬りなどしない奥羽で政宗がしてしまった事が南奥諸国の血類にとって
脅威だった。また奥羽で伝統的に決着を着けたがらないのはわかるが、それは家を潰さないという
ことで、誰の血にも誰かの血が入っているため、都合のいい人物を当主の座につけ実質自家に取
り込む事の方が簡単だったというだけの事では?
政宗が人取り橋で崩壊し小浜に押し込まれるような事があった場合、家中はかなり揺れ、政宗は
南下するどころではなくなっていたと思う。それこそが芦名、石川、白河、岩城、二階堂、畠山の
望んだ結果だろう。仮に政宗が死んだら、弟か、伊達の血を持つ者が跡を継げばいい。誤算は
佐竹氏が引き上げを決めたことだ。決して連合軍が一枚岩でない事をお互いが知るはめとなった。
その後郡山頼祐や大内定綱が帰服したのも、それを知っての事なのでは?

395人間七七四年:2008/05/06(火) 21:15:44 ID:MYlEZQSm
そりゃあまあ、義重の甥っ子だしな。

こまったなあー。梵天ちゃんを攻めたら後でかみさんに
こっぴどく怒られそうだしなあ。ヤダヨーモー・・・なんて内心思っていたんだろう。

義重も思慮深い人だからね。
396人間七七四年:2008/05/06(火) 21:32:00 ID:9o5RJdvw
佐竹義重については、良く知らない。何か有名な戦いが?
397人間七七四年:2008/05/06(火) 21:45:04 ID:kmFWRC0a
みんなにとって伊達は本家筋だったり実家だったりするんだから伊達を尊重する意向はふつうにあるだろ。
撫で切りだって叔父や叔母から見れば伊達の小倅が困ったちゃんだからお灸を据えないとと思ってたくらいなもんだろ。
葦名にしたって当主が幼児で実権握ってた正室だった未亡人が伊達家の人間なんだから。
398人間七七四年:2008/05/06(火) 22:13:42 ID:ZivCafn2
なるほど、しかし政宗は叔父叔母に反抗して本気で戦い、叔父叔母も後半は協力せざるおえなく
なった。結局政宗も後半叔父叔母を尊重し我が道を進んだということだ。
399人間七七四年:2008/05/06(火) 22:15:00 ID:MYlEZQSm
>>395
大きい戦いというなら北条との競り合いぐらいだな。
これもまあ、結果的には小競り合いだが。

戦いも、外交を使って周りを固めてから攻める武将というイメージがあるな。
あまり単独ではやらない。宇都宮と組んで北条と戦い、それでも厳しいので
豊臣と仲良くなって挟み撃ちというね。その後は、豊臣の力をうまく借りて常陸統一だとかね。
織田家ともやり取りしてみるだとかさ。外交を使って少しでも相手より優位に付いて攻める、か。
そういう意味では正面突破力よりも揺さぶって倒す感じだね。
400人間七七四年:2008/05/06(火) 22:15:46 ID:MYlEZQSm
ごめん>>396
401人間七七四年:2008/05/06(火) 22:24:22 ID:kmFWRC0a
>>398
ごめん。何を言いたいのかわからない。
佐竹は外交と追撃戦の名手。北条をたびたび撃破したので義重は鬼佐竹の異名で呼ばれる事もある北関東の盟主。
その寄騎の太田三楽斎や息子の梶原や真壁などなど一癖も二癖もある人物達で対北条戦線陣営は超強力。
402人間七七四年:2008/05/06(火) 23:04:10 ID:ZivCafn2
399さんありがとう。佐竹が人取り橋では唯一不気味な存在ではあったのは確か。佐竹がもう一日居残っていたら
戦局は大きく変わっていたはず。
397さんの言うとおりだとすると、親族会議に家臣や兵士をかりだしたようでつまらない戦いだった気がしてきた。
それでも結局、政宗にお灸は利かず南下。
403人間七七四年:2008/05/07(水) 00:40:04 ID:5NkgnAcR
まぁ人取橋の戦いが攻守逆転してたら
義重なら抜かりなく斥候を出して
伊達の撤退を見逃さずに猛烈な追撃を
開始して大勝を得ていただろうね。
前日に一撃を加えて明日早朝から総攻撃と誤認させておいて
相手に悟られずに見事な撤退をした佐竹はさすが対北条戦での
駆け引きを何度となくやってきただけに見事だ。
佐竹は何度となく北条の撤退に追い討ちをかけて大破してるからね。
まぁ伊達に追撃できるだけに余力はすでにないだろうが。

参考スレ
梟雄※太田三楽斎資正※反骨
http://c.2ch.net/test/-/history/1198844155/i
404人間七七四年:2008/05/07(水) 10:33:59 ID:kzpqJVbh
政宗が一流の外交家ではなく、伊達軍が最強とは思はないが、血縁でがんじがらめになった南
東北を一つにまとめて強力な共同体にして行こうと考え、反対を受けながら取り敢えずは貫いた
姿勢は評価できると思う。後々には石川氏も協力し政宗から厚遇されているみたいだし。
家族でみる長男の苦労が、連合軍との戦いだったみたいな感じがする。当然汚い事やひきような
事もやってのけたはずだが、案外それが目立ちにくいのは、どこか突拍子もない変わったことを
時々するその伊達さのほうが際立ってしまうからのか?
とにもかくにも、人取り橋の戦いは政宗にとって、周辺地帯に一瞬だけ自由にできる時間を与えて
くれた事は確かだと思う。
405人間七七四年:2008/05/07(水) 11:32:34 ID:hu/codl9
>>404
それは違う。
葦名盛氏死後の伊達輝宗期の伊達勢力圏130〜150万石と言われている。
輝宗は岩城氏にも天下の軍が奥羽にきたならば共に戦おうぞと手紙も送っていた(状況的には織田軍を念頭に入れていたと思われる。まさに伊達一族の当主にして奥羽の盟主)
もしこの勢力圏を維持していたら秀吉の小田原征伐でも独自軍事行動すら可能だった。
石川らは元々は伊達派であったのを政宗が敵にしてしまっただけである。
また輝宗期までは最上家も伊達従属下であり山形館3〜5万石程度のちっぽけな存在だったが政宗期に独立したどころか最終で伊達の石高にほぼ追いついてしまった(陸奥と違い出羽の石高は非常に低いにも関わらず)
そもそも大内氏だって伊達に服属していたのに政宗が当主になって挨拶に出向いた途端に離反していたり
二本松だって葦名盛氏死後は明確に葦名に服属していたわけでないどころか伊達に組していたと思われる節もあり和睦斡旋に輝宗に哀願して輝宗が二本松との厚誼から政宗にとりなしをしようとした点でもわかる。
そもそも輝宗は二本松城は要害で苦戦するとわかっており、和睦をあの時点で受けていたら良かったのに
政宗はトチ狂って冬場にせめて失敗したどころか佐竹らの介入まで招いた失策ぶり。
輝宗の政治バランス感覚や軍事的才覚がここでもハッキリわかる。
いや政宗が輝宗を暗殺しちまった為に佐竹や石川らとの親族関係が急速に悪化したともとれる(政宗が父を暗殺したと少なくとも母は疑っていたし、のちに弟を殺し母を追放し功臣が出奔したくらいなので不思議ではない)
406人間七七四年:2008/05/07(水) 13:47:30 ID:thN/EIlH
>>405
>葦名盛氏死後の伊達輝宗期の伊達勢力圏130〜150万石と言われている。

誰がそんなこと言ってるの?出どころを示してプリーズ
407人間七七四年:2008/05/07(水) 14:27:10 ID:5NkgnAcR
>>406
さんざん過去レスで激論が交わされてきた結果に反論の余地なしとなった数字だ。
オマエは半年ROMってろ。最近の伊達厨とやらは過去レスをまったく読んでないニワカ伊達厨が増えたな。春だからか?沸きまくるな・・・
可哀相だからリンク先だけは教えてやる。
http://c.2ch.net/test/-/sengoku/1197266689/403
408人間七七四年:2008/05/07(水) 14:35:18 ID:5NkgnAcR
伊達厨も低脳さは輝宗の偉大さを理解せずにやたら無能扱いにして
それに反比例するように政宗の有能さをアピるところだ。
実際の政宗は直轄領70〜80万石の巨大な伊達の版図を大減少させた無能DQNで最上に石高でほぼ互角に肩を並ばれたダメ大名。
それなのに伊達厨はなぜか政宗が相続したときの伊達直轄領を30万石とかほざく池沼w
409人間七七四年:2008/05/07(水) 14:58:30 ID:YyEIrzam
三好厨はどうして似たような文体なんだろう
410人間七七四年:2008/05/07(水) 15:50:28 ID:LXe9Xj+d
たばかられた
別スレじゃねーか
411人間七七四年:2008/05/07(水) 16:02:55 ID:KSXOPqJr
>>405
> また輝宗期までは最上家も伊達従属下であり山形館3〜5万石程度のちっぽけな存在だったが政宗期に独立したどころか最終で伊達の石高にほぼ追いついてしまった

これに関しては政宗の責任ではなく義光のキャラクターなんじゃねえの?
412人間七七四年:2008/05/07(水) 16:25:22 ID:Sm6RrLcJ
>>411
それは、全て伊達厨の思い込みです。
413人間七七四年:2008/05/07(水) 17:15:52 ID:hu/codl9
伊達厨が低脳なのは政宗厨であって伊達家自体を評価しないって事だよな。
伊達家は室町時代を通じて奥羽一の実力と威光があったのに、それを無視したあげくに輝宗を下等評価し政宗を捏造してまで持ち上げる始末。
414人間七七四年:2008/05/07(水) 18:17:12 ID:kqtyXprc
基本的に輝宗の政策を受け継いだようなもんだよ。
南東北での戦は。だから輝宗・政宗親子の政策なんて表現されるときもある。

ちなみに話は変わるが、伊達では輝宗が当主の頃の最上家は、
義光と義守とその息子?の当主争いで無茶苦茶。1570-1575年くらいまで、ずっと揉めていた。
親父を仏門に入れて当主になったが、その後も1577-1584年ぐらいまで
今度はやつだての連中と揉めてな。そんなこんなで、結局一族との争いに終始していたという。
争いが終始しても燻っていたそうだ。

山形館3〜5万石だとか、中野城だとかも元々全て最上家関連の領土だからな。
うまくやっていれば無駄な争いもせずにすんだという。ここらへんは何ともいえない。
義光も結局強引な当主だったから反発が起きたんだね。何だか政宗もそんな感じで強引だからね。
やはり強引なのは反発を食いますよ。という教訓ですね。
415人間七七四年:2008/05/07(水) 18:32:46 ID:hu/codl9
どこが輝宗の政策を受け継いだんだかw
葦名を攻めて大敗した話が継承した政策か?それとも大内に離反された話がか?
親子の政策って表現なんて聞いた事ないな?誰の説か教えてくれ。
416人間七七四年:2008/05/07(水) 18:50:24 ID:kqtyXprc
昔の本だね。
奥州会津・檜原軍物語という本だ。
今も売っているかもしれないので暇だったら読んでみてちょーだい

結局檜原の金山がほしかったんだろう。金山を巡る戦い。
417人間七七四年:2008/05/07(水) 20:53:43 ID:11ltYs+B
結局金脈がなければお金もいつかは底をつく。
金脈がありそうな場所を攻めるのはある意味仕方ないことだとは思うけど。
418人間七七四年:2008/05/08(木) 01:34:42 ID:3obsm7ht
>>414
ちゃんと調べないからな、伊達厨は
中野城は義守の居城なんだよ、で、そのオヤジが義光を潰そうとして
輝宗の後援を受けて上山城主あたりと侵略したりしたんだよ
強引ならむしろ、オヤジをあおって侵略した伊達のほうが強引だよw
義光は強引というよりもむしろ柔軟、しかも内政と信賞必罰がしっかりしていたからこそ、
敵の裏切り投降があいついで勢力拡大できた
どこかの撫で斬り上等、家臣出奔しまくりのバカと一緒にしないでくださいw

ただし義光が輝宗時代に独立したのは間違い
義定の代に伊達の侵略を受けて属領化したが、
義守が伊達の内紛である天文の乱に乗じて独立している
そうはいっても義守の義母である伊達出身の女が権力をふるっていたから、
半属領というのが正確かね
419人間七七四年:2008/05/08(木) 02:35:38 ID:ns85yDJN
まっ実際、輝宗期には最上義光は明確な自立行為は避けていたな。また上山城主と一緒に家督介入されるのもかなわんからな。
中野城の最上義守は幼児の時に伊達に擁立された傀儡だしな。
伊達が山形城に乗り込みワザと嫡流ではない中野の幼児を擁立したので、これで最上一族は完全に分裂分断され内紛状態だった。
420人間七七四年:2008/05/08(木) 04:03:47 ID:9WjUa08B
義光って誰だっけ
421人間七七四年:2008/05/08(木) 04:15:36 ID:ns85yDJN
>>416
1566年に葦名盛氏と伊達輝宗は和睦し、
さらに婚姻関係を深めていったので
1584年に政宗と対立するまでの18年間は
協調関係だったから政策を引き継いだとは言えないよ。
政宗が葦名との協調路線を一方的に破棄して奇襲したあげく大敗してるからね。
422人間七七四年:2008/05/08(木) 08:14:23 ID:yCkXzzxt
観音堂での激しい伊達の抵抗に怯えた佐竹は、前代未聞の同士討ちまで発生。
浮き足だった連合軍は崩壊し、佐竹は常陸まで遁走してしまった。
伊達政宗は翌年易々と二本松城を開城させ、戦略目標も達成した。
徳川家康が、政宗に接近して同盟を組んだのも当然だろう。

423人間七七四年:2008/05/08(木) 11:19:55 ID:65Ooexs9
ここのアンチ伊達のやつら大丈夫か?
毎日毎日昼間っから書き込んでいるだろ
おまいら仕事してんの?アンチが生きがいになってるんじゃねの?
424人間七七四年:2008/05/08(木) 11:24:11 ID:X55JvVJQ



425人間七七四年:2008/05/08(木) 11:54:08 ID:ns85yDJN
>>422
二本松城は伊達自力での落城はできず大苦戦。
見かねた相馬が和議斡旋で開城になっただけです。
その恩ある相馬を裏切り田村へのお見舞いに行った丸腰の相馬主従を卑怯にも銃撃しまくって相馬首脳陣を崩壊させたのも政宗。
426人間七七四年:2008/05/08(木) 12:21:58 ID:EQsdhox+
でもそれが戦国時代だと思うのよねぇ
427人間七七四年:2008/05/08(木) 12:32:35 ID:7uHZSH47
浅井が織田を裏切ったって朝倉氏への恩があり筋がとおっていた。
政宗は恩を受けても呵責ひとつなく裏切る真性DQN。
ちなみに中野城は山形城の単なる支城だから同じ山形市内にある。
山形城って言ったって現在残るような巨城ではなく、盆地の平地にポツンとある粗末なもので山形館と言った方がいいレベル。
今川氏の今川館や武田の躑躅ヶ館みたいなもん。
428人間七七四年:2008/05/08(木) 13:10:33 ID:7uHZSH47
バカみたいにまわり中を敵にまわした戦略性ゼロがあっちこっちの戦線に兵を派遣しまくって分散させておきながら、
ちょっと苦労しただけで(実際は道が狭まった要害に鉄砲揃えて隠れてただけ)政宗はすごいってどんだけ贔屓目に見てんだよ。お前は政宗の保護者かって感じだよなw
まわりはみんな親戚だったから政宗にかなり過保護だったけどな。
政宗が泣きついたから母親も兄ちゃんに黒川や大崎を抑えるよう頼んでるし、
和睦してた相馬は伊達の顔を立てて兵を動かさずにいて佐竹を牽制する陣配置をしてたから佐竹も内応してるんでは?と疑ってたし、石川も岩城も佐竹葦名に和睦を仲介しようとして士気が低く戦線拡大を望んでなかったしな。
佐竹は佐竹で義重の妻は伊達出身だから大将の東義久に伊達を追いつめるなと厳命してたし。
429人間七七四年:2008/05/08(木) 13:19:31 ID:ns85yDJN
葦名の未亡人も伊達出身だしな。
430人間七七四年:2008/05/08(木) 13:47:10 ID:7uHZSH47
>>422
易々と開城ってw
人取橋後も一年近くも粘られて相馬に泣き入れて和睦仲介してもらったのにw
だから難攻不落だって輝宗が忠告してたのに。
佐竹や葦名らが介入する前に和睦仲介受けた輝宗を政宗が邪魔に思って暗殺なんてするから無駄に時間を浪費したんだよアホ。
輝宗は必死に政宗の面倒を見て兄弟親戚にお手軽出して伊達の当主だから倅を頼むとなだめてたと思うよ。
431人間七七四年:2008/05/08(木) 18:25:12 ID:WKHwb1oy
>>421
まあでも結局芦名が破れ、それに伴い撤退せざるをえなかったというのが
穴沢一族のむなしい所でな。よく守ってはいたんだがね。

やはり政宗に檜原城を作られたのが痛かっただろう。
しかも一族は殺されるわ伊達家に寝返るわでわやくちゃ状態。
前線守らされると辛いね
432人間七七四年:2008/05/08(木) 21:42:15 ID:ZTPlcO8Z
>>422
家康はどの奥羽の大名にだって手紙出したり、まめに工作してますよw
ビビったとか一目おいたわけじゃなく、駆け引きとしてしていたまでだw



最上だって家督相続でいちゃもんつけられたあとは、伊達と和解して普通の親戚づきあいをしていた
捏造電波大河では義光が輝宗を殺そうとしたりしているがねーよw
輝宗の奥羽勢で上方勢を迎え撃つ構想には、むろん羽州最上も一翼として組み込まれていたわけだ

ところがアホ宗が家督相続直後会津を攻め込んだり、
輝宗を暗殺して妹を泣かせたりするから、義光も流石に危険を感じ始め謀略開始w
伊達家臣鮎貝がアホ宗を見切って最上に寝返るw
ところがアホ宗は「クソ伯父がオレを誘ったから攻めた」とわめきちらし、皆の失笑をかっていた
空気を読める義光は家康たちの勧告に従い、早々に伊達から手を引いたのに、
アホ宗は火事場泥棒しまくって小田原では白装束で這いつくばった上会津を取り上げられる始末w
433人間七七四年:2008/05/08(木) 21:48:03 ID:i7hAk5eN
でもちょっと面白いな政宗は。
金山ほしかったり領土がほしかったりとはいえ、そこまでやりたい放題する20代というのも恐ろしい。
お話としては面白いが、周りは大変だったろうと推測する。
434人間七七四年:2008/05/08(木) 22:59:24 ID:7uHZSH47
政宗は単なる厨二病DQNだろ。
隣人にDQNが住んでたら最悪。
上司がDQNだったら最悪。
恋人がDQNだったら最悪。
435人間七七四年:2008/05/09(金) 00:13:11 ID:FBC2yRf3
いやもうこのくらいDQNだとあきれるを通り越して面白いわ。
あんたなんで白装束着てんですか?wキリスト気取りかwみたいなさ。
家臣親族はそりゃはらはらするけどね、他人からしたらすげーおもろい。馬鹿すぎて。

蛇が政宗から逃げ出した話とかな。蛇が逃げたのは、俺のチンポの先が縦に割れているのを見て、
物凄い強そうな敵だと思ったから逃げたんだ。なんて感じのことをのたまうとかさ。しゃれのきいているアホですよ。
436人間七七四年:2008/05/09(金) 00:19:06 ID:5GSBMp4F
テメエがDQNなくせに、母親や伯父をDQN扱いしているのがムカツクw
特にDVサイコパスにされちゃったおかんが気の毒すぎ
437人間七七四年:2008/05/09(金) 00:21:04 ID:8ENXLcS4
19歳ですからねえDQNで結構じゃないですか
438人間七七四年:2008/05/09(金) 00:28:15 ID:5GSBMp4F
政宗の場合は19でもDQN
30過ぎてもDQN
ジジイになってまで姉弟丼のあげく寵愛する小姓を殴りつけるDQN
まるで成長しないのが問題なんだよ
439人間七七四年:2008/05/09(金) 00:29:50 ID:EHZpTFUC
瓢箪から駒の話とかもおもろいし、晩年は所ジョージみたいなオヤジだったんじゃね?
440人間七七四年:2008/05/09(金) 07:02:16 ID:0rCJ13dZ
まあ伊達の情報戦に攪乱されて、味方同士で内ゲバ状態。疑心暗鬼になったんだろうなw
大量殺戮すら犯す得体の知れない若武者にびびったわけだ。好機も生かせず、転がるように
撤退した連合軍をみて、片倉はじめ政宗も笑いがとまらなかったはず。
441人間七七四年:2008/05/09(金) 13:18:16 ID:KljAyNxO
>>440
情報戦?そんなこと伊達ウンコがやってたのか?
詳しく聞かせてもらおうじゃないか?www
442人間七七四年:2008/05/09(金) 16:11:40 ID:7p45b7hc
黒脛巾組が本当かどうかはわからんが、
一応暗躍行為や情報収集させる忍者はいたみたいだね。
そういうのがいないと、東北では流石に中央の情報わからんもんな。
443人間七七四年:2008/05/09(金) 16:55:38 ID:KljAyNxO
>>442
それ捏造だろがプププwww
ってなんだ君も疑ってるのか。。。
444人間七七四年:2008/05/09(金) 17:32:47 ID:7p45b7hc
なんつーか、正直捏造かどうかもさっぱりわからんからな・・・
何をどこまで信じていいかいまいちわからん。400年前のことだしな。

だからまあ、ああいうエキスパートな集団は脚色だとして、
実際には、情報収集の忍者くらいはいたぐらいにとどめておくのがいいかと。
445人間七七四年:2008/05/09(金) 17:46:08 ID:E4Awdb7b
諜報活動の人々なら古今東西問わずにいる
446人間七七四年:2008/05/09(金) 20:48:22 ID:lN0cZccE
>>423
>おまいら仕事してんの?

「毎日毎日昼間っから書き込」みするのがお仕事の人達なんだお…( ^ω^)
447人間七七四年:2008/05/10(土) 05:52:07 ID:G13t0LuD
伊達は叩きやすいもんな
天下3傑に比べれば実績で明らかに劣るし、
スタートラインの時点で日本有数・東北最大級の大名だし、
東北の片田舎出身だから四方皆弱だと言うやつもいるし
448人間七七四年:2008/05/10(土) 17:48:52 ID:pJ9GCuuk
>>447
そして人格低劣で過大評価されているからな
449人間七七四年:2008/05/10(土) 20:06:01 ID:uVa59dRv
>>446
毎日昼間っから伊達叩きしているこのスレのアンチを
みんなで更生させて社会復帰させてあげようよw
450人間七七四年:2008/05/10(土) 23:02:24 ID:6cRcmbzq
450
451人間七七四年:2008/05/11(日) 03:51:33 ID:wr/iLC3H
 
452人間七七四年:2008/05/11(日) 05:05:24 ID:s93rHb2S
>>423
>2008/05/08(木) 11:19:55
453人間七七四年:2008/05/13(火) 15:27:54 ID:kcj+2DEl
【捏造】兵力や戦果を捏造し過ぎだろ【辺境】
http://c.2ch.net/test/-/nanminhis/1210524233/i
大友家臣団
http://c.2ch.net/test/-/history/1182505705/i
【棚から】運がいい大名ベスト5【ぼた餅】
http://c.2ch.net/test/-/history/1208533778/i
松川の戦いは本当にあったのか? その4
http://c.2ch.net/test/-/warhis/1198253856/i
454人間七七四年:2008/05/22(木) 16:41:10 ID:b9PAwFgL
455人間七七四年:2008/06/24(火) 12:57:33 ID:hk4CorD1
佐竹の猛攻で茂庭左月や騎馬武者60騎を討ち取られ政宗本陣500メートルまで進出され政宗自身まで銃撃されまくり
伊達軍壊滅敗走し岩角城へ逃げたんだから政宗の大敗北以外に考えられないだろバカか伊達厨ってw
456人間七七四年
うんこ政宗の目的→二本松畠山はマジつぶすからww邪魔すんなww
鬼義重たちの目的→政宗調子のんな、うぜぇよ糞餓鬼

〜人取橋の合戦〜

義重:あww休養できたから俺帰るわww
政宗:だから邪魔すんなって言ったべww

結果:政宗の邪魔に失敗、しかもやがてフグスマほぼ全域がうんこ政宗の手にww