1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
伊達は分かるがなw
2
3
四
どちらも塩っぱい
五
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 17:16:43 ID:XyJO+XLN
6
ただ一点を除いて、
両者共、それなりに評価している
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 17:26:10 ID:TbQ+Newt
曙vs角田みたいなもんか?
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 17:56:56 ID:DFFCu6lY
この二人が同盟してたら・・
一般の神のような扱いに飽きて過小評価しはじめる
十一
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 19:51:45 ID:TbQ+Newt
信玄と謙信は激しくやりあってたから伝説になってるじゃん?
でも実はお互い倒しきる能力に欠けてたから泥仕合になってたんじゃないの?
ゲームとかだとお互い最強クラスの武将になってるけど
実際は最弱クラス同士の戦いだったんじゃないの?
そんなオレがつける能力はコレだ!
信玄 政治60 戦闘20 智謀30
謙信 政治50 戦闘25 智謀25
3行目から蛇足だな
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 20:13:37 ID:OJXqiBtQ
>>1 スレタイワロタ
確かに謙信と信玄を糞味噌に言うのは
ここぐらいだなw
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 20:13:57 ID:TbQ+Newt
>>13 お前のレスが蛇足だよw
いいだろーがオレがどんな表し方しようが。
お前はオレを舐めすぎ!
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 20:19:01 ID:43k1aWZK
中央政局に絡みまくった松永>>>>>>>田舎で暴れただけの上杉・武田・伊達ww
一応武田と上杉も絡んでるよ
幕閣(管領・準管領)だしな。
信長は戦歴から戦争が無茶苦茶上手いことがわかる
こいつらなんかやったっけ?
川中島で引き分けてただけだろ
やっぱりスレタイのお前らは=盲目信長オタって事だなw
川中島を戦いながら、信長から贈り物や娘(人質)を差し出されてた。
>>21 そりゃだって西を攻めてるのにいきなり後ろから2万の兵が来られたら困るじゃん
それは戦略の一環だろ
このスレッドのように、謙信と信玄の体裁と面子ばかり気にして、
民を顧みない体質は、現代まで、脈々と受け継がれているのだ。
これもひとつの歴史である。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 23:55:29 ID:TbQ+Newt
信玄も謙信も田舎者ゆえに他に話題も無い地方の奴らが持ち上げただけだろ?
実際は全然大したこと無いと思うよ。
まあ伊達よりはマシだけどな。
独自の領内流通貨幣を作ったのは、この二人しかいないんだけどな。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 00:15:37 ID:C7zraKUK
>>24 信玄を持ち上げたのは、徳川家康。「甲陽軍鑑」(武田流兵学)
謙信を持ち上げたのは、徳川頼宣。「北越軍記」(上杉流兵学)
>田舎者ゆえに他に話題も無い地方の奴らが
とは言えないよなww
領内のみ有効の通貨なんていらないよね
天下取りごっこでもしてたんですかね?
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 00:30:11 ID:C7zraKUK
>>27 無知ですか、それともバカですか?
甲州金は畿内でも発掘され、広範囲に流通していたことが明らかになっている。
近世(江戸時代)の貨幣システムの基礎でもある。謙信の天正越座小判は北陸一円に流通。
貨幣鋳造が流通統制および市場支配の根幹を成すことは、近代経済学の基礎知識。
武田氏は領内の豊富な金を用いて、品質の純良な円形または長方形の金貨を発行した。
この金貨は、甲州金と称されているが、甲州金の場合、その通用価値が重量を基準として
定められるとともに、額面金額として表面に打刻されているところに特色がある。
写真の金貨の額面は「壱両」である。
このほか甲州金で採用されている額面単位は、
「両」=約15g、
「分」=1/4両、
「朱」=1/4分、
「朱中」=1/2朱、
「糸目」=1/2朱中、
「小糸目」=1/2糸目、
「小糸目中」=1/2小糸目
という4進法・2進法によっている。
この単位のうち、両・分・朱の4進法の単位は、
江戸時代の幣制において金貨の単位として踏襲された。
>>26 家康は一応信玄に負けたからな
後はわかるよな
スレタイ「お前ら」(仮に信長厨房)は、どう考えますか?
三方原合戦(元亀3年・徳川勢惨敗)の時に、佐久間信盛・水野信元ら織田勢が戦わずに壊走。
平手汎秀戦死(これも戦死の場所から考えて、戦わずに逃げてるところをアボン)・・・。
手取川合戦(天正5年・織田勢惨敗)の時に、秀吉は戦わずに戦線離脱。4万の軍を率いていた
柴田勝家は、急ごしらえの謙信軍に急襲され、ほうほうの体で撤退・・・。
爾後、天正8年まで加賀に進出できず。
いずれも、信長は後方待機。もしくはビビッて出てこず。
谷口克広氏「織田信長合戦全録」によれば、「信長の動静については、不思議なほどわからない」
どうやら、信長は信玄と謙信を「なめ」ていたわけではなさそうだね。
手取川の話題になると信長厨がすぐに撤退中に後ろから追撃うけただけで
合戦で負けた訳じゃないとか意味不明な擁護の仕方するんだよなw
手取川合戦自体あったのか怪しいとかな。
信長に都合の悪い事は全て捏造なんですよね?(笑)
>>30 そりゃ上杉も武田も2万の軍勢を動かせるからな
流石に2万の軍勢を持っている国は怖いよ
三方が原についてはそもそも織田の援軍は戦うつもりじゃなかったのかもしれん
家康に戦うなっていったから一応篭城の邪魔にならなさそうな程度の兵を送った
謙信は領土的には1万そこそこしか持ってないのに信玄の攻撃防いだり北条とも戦ってたりしてたんだから戦争は上手かったと思うよ
羽柴が離脱してボロボロな柴田を倒すには十分な力を持っていただろう
つうか、戦術的勝利をいくら積み上げても天下は取れないし。
家康なんぞ負け戦が多い将だが、重要な合戦は全部勝ってるしな。
逆に言えば、三方ヶ原や手取川で圧勝していながら次に続けることが
出来なかった時点で、かなーり凡将の香りがしてくるわけだが。(特に謙信)
そもそも、合戦ってのは敵を大量に殺すのが目的じゃなくって、戦略
目的を達成したかにあるわけであって、手取川合戦なんて、戦略目的が
ろくにわからんもんな。何しに出てきたんだろ?
北陸方面が欲しかっただけだとしたら、単なる田舎武将の域を出てない
んだよな。
>次に続けることが出来なかった
二人とも病気で死んだわけだがwww
>戦略目的がろくにわからんもん
ふつうに能登・加賀の分国化だろww
>>34 病気で死んだって、謙信なんぞ勝ったあと帰っちゃっているじゃんかよ。
加賀・能登が欲しいってだけで織田と戦争するなんて、戦略感覚がないと
しか思えんわな。
信玄にしたって、上洛過程に死んだが三方ヶ原で勝った後に何をしている
様子もない。あのまま織田勢を全部蹴散らしてゆくつもりだったんかねえ?
信長厨、必死だなwww
信長厨はなんでこうも得意げに語るんだろう?
別にあんたが何をした訳でもないんだからさ。
>37
心理学的に云う「ヴァーチャル・アイデンティティ」(仮想世界に自分を仮託する)
つまり、自分がゲームの中の主人公に置き換えられてしまい、その主人公が危機に晒される
(批判される)と、自分の存立そのものが侵されたという危機感に陥る。
したがって、仮託した主人公(信長)のライバルや仮想敵を攻撃することで、
危機を回避する心理構造。歴史解説書やPCゲームで信長厨になった人間は、大抵の場合
これに該当する。現実世界では惨めな自分が、信長となって天下を統一するという
仮想世界に生きるのが、彼らの唯一の癒し。ま、病人なんだから。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 00:30:29 ID:pbt35IOH
>38の補足
なぜ信長厨に特有の症状かというと、単純な最強英雄願望がその底辺にある。
秀吉(信長の部下)や家康(同盟者)では、その英雄願望は充たされず、
ましてや他の戦国大名は、信長に仮託した自分の攻撃対象にすぎないから。
ついでに付記すれば、信長が天下統一の途上で斃れたことも影響している。
信長が生きていれば、この閉塞感のある世界も変わっていただろう・・・・、と。
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 00:40:41 ID:YLUxlH4Z
なんつうか、信玄厨・謙信厨は結局反論できないのか?
人格攻撃やら精神疾患がどうの言い出すのは、反論できなくなった奴の
特徴なんだが。
>>40 信長厨はなんでこうも得意げに語るのかという事に対して
君が反論しなさい。
謙信が”戦争は”強かったというのはまだわかるが(戦術が上手いのは確か 戦略が下手すぎ)
信玄が戦争強かったとか言ってるのはちょっとこいつ頭おかしいんじゃねーのとか思ってしまう
戦歴から見て信長が戦争強いというのはわかるが信玄の戦歴って・・
良くて三方が原だからな しかもあれも2万5千VS1万1千のどうやったら負けるかわからないような戦いだし
信玄が信虎以上の重税を課し人身売買を平気で行い(それが資金源)国を疲弊させ周りの国を全部敵に回した状態でバトンタッチさせたという事実を知っていて信玄厨やってるんならもう何もいわねぇよ
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 00:49:17 ID:YLUxlH4Z
>>41 得意気も何も、いったい謙信はなんで手取川に出てきたんだと
いう疑問を出しただけだが。
何しに出てきたの?
それとも、信玄や謙信の戦略に疑問を投げかけると、それは全部
信長厨になるのかい?
というか、俺、家康ファンだから、あんまり信長好きじゃないん
だけど。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 00:51:42 ID:pbt35IOH
>>40 のように、スレタイ「謙信と信玄をなめすぎ」をことさら
信長批判と思い込む症例、すなわち信長厨の典型的な反応wwwwww
意味不明の論考に「結局反論できないのか?」と、スレッドの主旨からも逸脱www
つまり、信長より優れた戦国大名は居ないと云いたいのだろうが、
スレ違いな展開に無自覚・・・・・つ。wwwww
あくまでも、自分(信長になったつもり)の世界観しか存在しないのだ。
バカじゃねぇの????
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 00:52:49 ID:YLUxlH4Z
>>42 つうか、戦術能力はある意味どうでもよいんだよ。
100万石超える大名なんだから、戦略力を重視せんと。
その意味では、信玄ってどういう戦略もってたんかねえ。
上洛がクローズアップされているけど、あれって、信玄の戦略じゃ
なくって、義昭の戦略なわけだし。
>>ID:pbt35IOH
容赦ないなw
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 00:54:15 ID:pbt35IOH
釣れる釣れるwwww
>>47 後出しじゃんけん乙
負け惜しみということでよろしいかな?
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 00:58:04 ID:YLUxlH4Z
あら、勝利宣言かぁ。
まぁ、信玄と謙信の戦略について説明してくれや。
TI/b84crやpbt35IOHの方々。
>>49 信玄や謙信に戦略なんてあるわけないじゃん
そんなこと考えられる脳みそあったら周りじゅう敵だらけにならねーよ
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 01:02:34 ID:YLUxlH4Z
信玄も謙信も自己の軍団の精強さに頼りすぎたんだろうな。
さらには、その軍団を構成する実際の領土をこだわりすぎた。
だから、外交面での軽快さを失ってしまった。
戦国で一番壮大な戦略が義昭の織田包囲網なのは、義昭がほとんど
兵を持たない存在だったってのも大きいし。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 01:05:01 ID:YLUxlH4Z
>>50 そういってしまうのもよろしくない。
馬鹿に100万石は統治できないよ。
>>52 だから信玄死んで有能な勝頼が後を継いだらすぐ潰れたじゃないか
その原因の大半は信玄が作ってたわけだし 統治できてない
まわり中敵だらけというなら織田もなんだが・・・
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 01:19:05 ID:YLUxlH4Z
>>54 それでも「勝利すればよろしい」とキシリア閣下も言ってたぞ。
信玄と謙信ってどんな味なのさ?
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 01:29:28 ID:YLUxlH4Z
全くのド素人の集まりが戦略を語れも何もないだろうに。
所詮どこぞの受け売りを寄せ集めるしかないんだからさw
>>58 つかそもそも俺らも所詮文献とかで調べる程度しかできんし
そのなかで適当に議論するしかねーじゃん
何だその俺は戦国時代を見てきたぜー的な言い方は
>>59 違うって。
2ちゃんで書き込みしてる人みんなって事だよ。
それぐらいわからないか?
こういうやつってなんとなく叩かれそうだが…
試しにage
>>60 思春期ですか?自分もみんなも消えちゃえですか?無駄話を楽しむ余裕を持ってから
2ちゃんして下さい。
謙信のほぼ毎年の関東出兵は
関東管領として「征伐」と称して関東に出兵する変な義務感に囚われていただけだろう。
大体城を落としても占領しようとしないし、反乱を起こされても大抵許しちゃうで、
戦国時代じゃ稀有な「変な人」だよw
考え方が領土拡張の信玄や信長とは百八十度違うとしか言えん。
良い言い方をすれば領土拡張に野心のなかった人。
悪い言い方をすれば天皇・将軍・関東管領といった古い価値観を
後生大事にした権威主義者。
謙信当時の春日山城下直江津は石高は100万なんて全くなかったわけだが
日本の金の総産出量のかなりの割合と貿易で栄えていて
人口では京都に次いだらしいから、他国を占領しようなんて考えないわな。
そこまで恵まれてりゃ。
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 23:51:01 ID:eRL+udP+
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 00:00:59 ID:frtdz817
>>65 あまりにあちこちで見て笑ったんだがw
これアク禁とかされんのかねw
>>65-66 コペピ荒らし→アク禁→解除→荒らし→ループ
解説すると、前半は「謙信女性説」スレからの部分的コピペ。
後半は多数のスレから拾い読みしたオリジナルだが、中身なし。
信玄厨と謙信厨を煽るも、まるでマトはずれというか、IDを変えながら
荒らしを生きがいにした香具師。じつは、PCゲームで謙信に勝てないトラウマ
が根本的な動機。また2週間後に現れるよww
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 03:47:50 ID:Koz/Bdk2
また上杉厨の妄想か。
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 10:56:10 ID:01RaQZJa
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 15:54:43 ID:L9Zq/Uq8
所詮天下とれなきゃヘタレやね
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 17:27:03 ID:AQ3eU9Sa
信長に「お前じゃ勝てないからスルーしとけ」
と言われたのに身の程を弁えず突撃し
その挙句ボロ負けしてウンコ漏らした徳川家康乙
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 20:42:42 ID:eyshkXa9
皇帝 正親町天皇
御史大夫 足利義昭
大司馬 上杉謙信
大司徒 武田信玄
これが最強
信玄は確かに強かったが、家系が大きくなりすぎて
それをまとめていた有力武将が根こそぎ死んだのが破滅の原因。
しかし武田家に牙を向けられて自分に勝てるだけの力がないことを悟った信長は
上杉家に書状と貢物を持って、対武田のための牽制手段とした。
信長は強くはなかったが、強いものにへーこらしてくっついていく戦略眼があった。
武田は強かったが、信玄が病死、勝頼が有力武将を死なせてしまったのが運の尽きだった。
上杉は「早朝に痔なのにトイレにいったのがいけなかった」
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 07:03:33 ID:FrGGymvr
謙信は女の子だから仕方ないじゃん
女が馬上で戦ってれば便秘にもなるよ
>>73 いや、信長は普通に強くね? まぁ戦略が物凄く優れていたのはわかるが戦術もかなりすごいと思うが
桶狭間や天王寺のように寡兵で大軍を破ったりはなかなか他の大名はやってないからな
信玄は村上にやられたり長野にやられたり上杉には戦術では完璧に負けてるし普通に弱いじゃん
上杉は戦争そこそこ強かったとしても関東管領の名があっても、10万の兵で北条を攻めても引き上げることになったから戦略ド下手、戦術もイマイチだろう
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 13:38:56 ID:IctUY2nE
武田が信玄死後すぐに潰れたというのは認識が甘いだろ。
1572〜82の10年持ったのは十分と言える。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 13:44:19 ID:rfj/1v4t
項羽でさえ人心把握に失敗して劉邦に負けた。
まったくの無敗ってないと思うよ。
謙信も信玄も政宗も氏康も元就も義弘もおなじこと。
実際は地理的にも遠いから、関ヶ原や大坂の陣のような大戦でないと戦うこともなかったので分からない。
実力伯仲すればハッキリしたケリも着かないしね…。
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 15:41:31 ID:wkXS2+rX
信繋がりで以心伝信
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 16:07:09 ID:8icgYHtU
吉川元春はまったくの無敗
80 :
9io:2006/08/26(土) 16:07:26 ID:YgG8EtIK
jk
81 :
9io:2006/08/26(土) 16:25:41 ID:YgG8EtIK
こpkじp@
>>79 ある程度の兵があったのと相手が弱かったからな
結局秀吉とは戦ってないし
>>75 信長は野戦の弱さは周囲の国からの評判な程だとか
逆に信長の親父さんは戦術がものすごく、野戦うんぬんではなく全体的に凄かったみたい
信長は自分のたくさんあるを弱点しっかりわかっていて、
自慢の戦略眼で自分の立ち位置をしっかり決めていたように感じる。
信長が野戦弱い、ねぇ・・・・
野戦下手どころか3000〜5000くらいの中規模部隊を率いさせたら
戦国屈指の戦上手だと思うけど、信長。
>>83は尾張国の兵が東海最弱で信長はそいつらを率いて頑張った、
って話を勘違いして覚えてないか?
>>85 とはいえ、信長も美濃勢相手にかなりやられているからな。
速攻が得意で決まると綺麗だが、はずれるとダメ。
もっとも、一番速いのは疾風のごとき逃げ足なんで、大敗はしないんだけど。
>>83 信長は野戦無茶苦茶強いぞ 逆に城攻めはあまり大したことが無いが
特に寡兵での戦いが上手い これは非常に強いぞ 信玄なんて多い兵で負け同じ兵で負け当然少ない兵で勝てるはずも(ry
信長以外で本願寺に勝てる大名は存在しないな
城攻めも別に苦手ではない
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 06:48:07 ID:qmbP1jDd
上杉謙信や島津義弘が凄いのは少数を持って多数を破ることができる点に尽きる
信玄相手に常に劣勢で戦術的勝利を収めたからな
これは驚異的なこと
島津義弘を出すなら九州の武将を出してやろうぜ・・・伊東とかさ。
>>89 戦術的能力なんぞいくら高くても天下は取れんから。
天下を取れなかったところが逆に受けてる要因だと思うがな。
つか武田はまだしも上杉は天下取りなんか目指してないだろ。
幕府と朝廷の権威復活を願ってた良くも悪くもアナクロな大名だし。
>>89 その信玄相手がというのが問題
信玄が戦争に無茶苦茶弱かったら大したことないだろ んで実際村上にも長野にも負けてるわけじゃん
となれば信玄は実際に戦争弱かった、下手だったのじゃないか? というか信玄が戦争上手かったってなんでわかるんだ? イメージじゃないか? それは
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 18:17:34 ID:PNHgr1Za
年食ってからはあんまり負けてないからじゃないの?
つか、若気の至りを許してあげなかったら家康はただのうんこ垂れなんだが・・・
>>94 それじゃ若い頃から強かった信長は最強ということですね?
年食ってからもちょくちょく負けてるから×
村上義清にも長野業正にも勝てなかった信玄だが2万5千で1万の家康を倒すくらいの
ことはできた、決して雑魚じゃない
>>97 2万5千で1万の兵を倒すのは”普通”だろう
簡単ではないが”普通”(年食ってからでも) 無論手取川で羽柴が抜けてボロボロの柴田を倒すことも”普通”
秀吉は賤ヶ岳その他もろもろ、家康は小牧長久手 信長に関してはいくつも普通じゃない戦功を残している
というかもう信玄とかその辺は細川藤孝よりも下じゃね? 真田昌幸よりかはだいぶ差があるな 正直その程度だろう
厨くせー発言だな
>というかもう
から下以外はまともにみえるがよ。
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 22:25:03 ID:zxHWPno7
秀吉が凄くないとか言う奴は馬鹿
秀吉が並の人間なら当然のように明智様の天下になってるぞ
もし、秀吉が滝川の立場でもうまくして中央へ戻ってくるような気がする
政治だって充分評価しても良い
さすが秀吉公を崇拝する方だけあって想像力が豊かですな
まあ持ち上げ過ぎて贔屓のひき倒しになってる気もしないではないが。
101氏に「もし秀吉が滝川の立場でもうまくして中央へ戻ってくるような気がする」
と評される秀吉はやはり天才だと思う
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 22:50:05 ID:rarj8l+9
というか三方原の時はどう考えても家康がアホなだけ。
信長からも「勝てないし篭城しとけ」って言われたのに突撃してウンコ漏らしてるし
桶狭間の再現でもする気だったのだろうか
>>105 信長の考えは「どう考えても3倍の兵力差じゃ負けるから篭城しとけ 邪魔にならない程度の援軍を送るから」
家康の考えは「んなことしてたら誰もついてこなくなるだろうがバカ! もっと援軍よこせ!」
信長のほうが現実的だが当時の家康の状況を考えると家康の行動は仕方ない(何しろ地盤が不安定でいつ反乱がおきてもおかしくない、それに逃げたらほぼ確実に内部分裂発生)
別に
>>101に評価してもらわなくても秀吉の天才は誰もが認めることだろ
>>106 つうか、三方ヶ原の戦いでは家康は政略的には失敗してないからな。
遠州の外様系の家来達がドミノ現象のように武田につくってのを抑えられたし。
さらには、「家康は三方ヶ原の戦いで惨敗したタコ武将」って評価が同時代には
まったく定着しなかったから。普通、あれだけの惨敗をすると、武将としての
評価が急落するんだが、家康はむしろ三方ヶ原で評価が上がっている。むしろ、
「普段は慎重だが、いざとなると勝敗度外視で噛み付いてくる」という評価が
追加されてやりやすくなった感じだし。
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 11:13:08 ID:EXJiY5Qn
そもそも自分の足元に火がついてるのに同盟国との義理を果たして
格上の相手に噛み付くだけでも当時の大名としては異質だしな。
あのへんの挙動で徳川家は織田・豊臣期における地位を確立したと思う。
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 18:47:09 ID:QPqpu07W
ジークジオン!
全国統一してから、難癖つけて徳川を潰しにいけば良かったのにね。
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 22:54:11 ID:g51j8Hts
中井貴一と柴田恭兵ははまり役だったと思う。
>>112 /ノ"~::::::::::::::::::i::::、::::::::::::、::::::::::::::::::::::メ、_ ._
/....:::::::::::::;;:::::/::!:::::i;:::ヾ::::::\:::::::::\:::::::\ ┌┘└─┐ /7 ┌┘└─┐
/:/:::::::/:::/:::::イ:/゙!:::::ヘ::::i\:::ヽ::::、:::::゙i;:::::ヽ,|. └┐ r─┘ / / .└┐┌─┘
レ/:::::::/::;イ::/|/ ヽ::::゙i\l,ンヘト\ヽ::::i:::::::} / 二,゙''ヽ、 / /─-、 / /l二二l
.{:::;;::::|/ |/,'゙~'''=-ヽ\ヽ‐~イ,、i ヽ_iヽ:ト:::::〉 | /~| レ'/ヽ ゙i / / ̄ヽヽ、┌┐ / /「l
i:::;|:::::l, / (o}゙ ゙ヽ ゝ-- '" ∧,|ヽ/ ヽ二、_/┌┘ノ|/ \二_ノ∠_/ L二二l
ヽ/|::::|ハ `' -'''~ <l ハノ::レ'  ̄
| ヽl、(ヘ __,,,,,r‐-、 .ハ'/ ┌-、 ,-‐──-、
ヽヾ∧ i'‐''"""'‐i /::::ヘ 厂7\ \□口 _/ ̄/__ | ┌─┐ |
|:::ヘ !, ノ ,イl::::::::i, / / ヽ ヽ L_ __ ゙ヽヽ_l | |
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_,,--メ‐‐.、 ̄ !゙'-、,,,,,,...‐" i' ヽリ:::レ' / / ヽ ヽ / / | | |_|
/~ { ヽ''"l |'ヽ、ヽl/"_,,,,,,∠_/ ゙i >/ / 」 | ┌┐
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ヽ ,-‐‐ヽ::::::::::: ヽ、 ゙"'‐-
} ノ メ、::::::::: \ _,,,,---、
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i! ゙i i,:::::-'"::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ /‐--、;:::::::....
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ノ i;:. i;:...::::::::\,---‐'"..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:.‐'>
.(´ :|:. \::::::::::::ヽ.l..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:..:''"ヘ
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゙ヽ、 ゙'',─,-、,_,‐'\‐''ヽi;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,,,,,,,,:/ ゙"'‐-
>>114 徳川も難癖つけて豊臣に戦をしかけてる訳だが
甲斐一国の領土を100万石越えまで拡大させた
信玄を雑魚みたいに語っちゃうここの連中って厨二病丸出しw
>>116 信玄クラスの領土拡張を行った大名って結構いるけどな。
雑魚とまでいわないが、地方の有力大名の範疇で語る存在だろ。
>>117 そういう妥当な評価してる奴はいいんだよ
ただこのスレ見ても「信玄は普通」「雑魚」的なレス大杉。
そもそも寡兵をもって大軍に勝利した事を評価したがる奴が多過ぎ。
>>116 そういうヤツは信長以外は全部雑魚と思い込んでるんだよ。
で、信長の事を認めないやつは全部雑魚だと。
つまり病気なんだなw
>>116 その論理でいくと毛利は武田よりも遥かに優れていることになるな
その論理でいくと武田は織田に比べれば――
――――で、何で世間ではまだ信玄が信長よりも強いとか優れてるとかいうバカがいるの?
いやそれよりもほとんどの奴が元就よりも信玄の方が優れていると それのほうがよっぽどおかしい
信玄は1大名としては優秀だがここまで評価されるべきではない
>>118 普通兵が多い方が勝つだろ 負けるほうがおかしいんだよ 普通に戦ってりゃ勝てるんだから
だから寡兵で勝った例自体が少ないからどうしても評価の対象となる
>>120 なんつうか、戦略と戦術の違いを理解していないのが大杉なんだけどね。
ちなみにこの板には戦略を語ることができる人間はいても、戦術を語ることができる人間はいない。
専門的すぎて、自衛官か趣味で軍事を学んだものしか理解できないからな。
>>120 寡兵で大兵と戦った事が無いのはむしろ優れた部分ってわかってる?
そもそも大軍を用意するってのは基本だがな
>>123 それが戦略において優れてるって事だからな。
桶狭間の状態の信長はどうしろっつーんだ
まさか今川とも同盟結べとでも? ああいう無茶苦茶な状況 序盤なら寡兵は仕方ないだろ
武田みたいに最初から1国丸ごと 最初から8000の兵を動かせるならわからんが
>>126 たしかにその通りで仕方ない。
桶狭間時は信長はやっと尾張を統一して、いざこれからってところだったし
大将首のみ狙うよう指示していることからわかるように、
これが国力が劣り、援軍もない大名の唯一の戦術。
でも信長はそれ以降、寡で衆を制す作戦は実行していない。
勝てるかどうかわからない戦は、大将としてやってはいけない
だからそれから信長は衆で寡を制す、素人技しかやっていない
平時から相手を上回る兵力・金を持つ必要があるから
大軍を用意できるって事は、相手より戦略面で勝っている証拠
信玄の長期に渡る戦略眼や戦術の上手さささておき
何かの小説で秀吉が言ってた「信玄入道は絶対に負けない戦しかしない」
ことこそが信玄の怖さだったんだろうね。
常に最善の布陣を用意するなんて並大抵じゃ出来ない。
実際にはそれでも負ける事はあったにせよ
戦略的には極めて優れた人だったって事だよ。
我々のように後世から地図見てモノ言ってるわけじゃないんだから。
>>128 その絶対に負けない戦で負けてる辺り武田信玄は戦争弱い といえるかもしれん
まぁ結構負けてる割に領土広げてるのは戦略的にはかなり上手いのだろうがその結果周り敵だらけになり後を継いだ勝頼が苦労した
組織作りにも失敗し、外交にも失敗、内政面では重税を課し、戦争に次ぐ戦争で国力は疲弊
勝頼は苦労しただろうな つーか滅んだけど
2つ3つ先を見る目はあったのだろうが織田や羽柴のように更にその先を見る目が無かった ということだろう
そういう意味ではやはり戦略面でも劣るか
しゃあねえべ。誰かも言ってたが所詮「地方大名では優れてるレベル」
なんだから。中国地方一の都市は広島だが、だからって日本一の東京と
同じライン上では語れまい。
違うだろ。東京と比較するから貧弱に見えても
広島は立派な大都市だべ。
信玄の場合は信長と違い、早い段階から天下を見てたわけじゃなく
甲斐の力を強める為に戦っていった結果として
天下が見えるかも?と言われるくらいの地方屈指の強豪に
成長したっぽいから仕方ない。
信玄自身も上杉北条の双方を敵に回す愚は避けたがってたし
机上のようにはいかないだろ。
明確な戦略があり実行した信長が異常なだけ。
最後に謀反されてあぼ〜んしたら、所詮負け犬
>>127 >信長はそれ以降、寡で衆を制す作戦は実行していない。
つ【天王寺合戦】
134 :
>>127:2006/09/02(土) 23:26:40 ID:n/FURSR3
>>133 言い訳すると、あの場合もっと被害が出た可能性があるから正解だったんじゃない?
兵はもっと集めれたけど、なかなか集まらなかっただけだし
けど実際に寡で衆を制す作戦を採ってるんで、そこは訂正しておく
寡で衆を制す作戦は止むを得ない場合以外は実行していない。
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/16(土) 12:39:40 ID:uiIDKFGt
age
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/16(土) 13:18:58 ID:tatPnJ3w
9
つーか、信玄と謙信の家臣団が強かったんだろ?
信長のように、強権てきなことをできなかったんだろうと思う。 でも信玄は、上野や信濃、甲斐、駿河などを領土としてたからな。
石高的にたしかに、信長が上だっただろうよ。
漏れは、信長は、運がよかったからだと思うよ。まず、家康との同盟と斉藤道三との婚姻などで、国内の支配を確立できる時間を得たのが大きかったのでは?
信玄の家臣団はいざ知らず、謙信の家臣団はあまり優秀じゃない。
内政以外は謙信のワンマンに近い。
さもなきゃ14回も三国峠を越えて不毛な関東征伐なんて出来んよ。
家臣団にもっと発言力があったら完全に瓦解してる。
数度の謀反どころじゃすまんところだった。
ちなみに優秀な家臣団が発言力を持って上を支えるようになったのは景勝からかと。
関東征伐は領地欲しさに行ってた訳じゃなくて
農地から米etcを略奪に行ってたはずだし、不毛ではない気がする
不毛は言いすぎたかもしれんが
南は小田原、北は唐沢山と
毎年のように越山して(それも冬に何回か越えてる)
出兵するのは流石に謙信自身に相当権力がないと無理だ。
ということが言いたかったんよ。
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 21:04:22 ID:WO0Mjk8t
信玄、謙信2人とも実は信長に暗殺されたんじゃねーの?信長としては、2人とも嫌な相手には
間違いないし、2人とも信長と戦う直前に死んでるってタイミング良すぎないか?
信長は古い仕来りを次々壊したし、今川にも奇襲で勝ってるし、暗殺する側もされる側、不名誉
っぽいからお互い歴史から消してんじゃないの?
信長が今川に奇襲で勝った???
貴方のような博学な方が唱えられると暗殺説にも信憑性が増しますな。
謙信の家臣には優秀な官僚も多いよ。
武断派集団と考えるのは、講談や小説の影響が強いと思われる
信長の強敵の義龍、信玄、謙信は暗殺説があるね
謙信は卒中だろうけど他の二人、特に義龍はそうかも
暗殺得意らしいのは元就直家あたりが有名だが
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/03(火) 22:00:21 ID:h2oiJs/G
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/03(火) 22:18:24 ID:Iw5m+JFu
>>145 どう見ても奇襲だな。
だが、奇襲と暗殺を結びつける141もどうかとは思うが。
全然違う手段なんだが。
147 :
141:2006/10/04(水) 01:21:20 ID:9GfokbHa
>>146 言いたかったのは、信長は勝つために合理的?手段を使うんじゃないかと言う事。
その時の信長の情勢も考えると武田、上杉と真っ向から戦う前に、駄目もとでやってみたら、
たまたま成功した、みたいな所もあるかもと思っただけ。
桶狭間奇襲説は、随分大昔に否定されたはずだか。
中島砦から義元前衛を叩いて、そのまま本陣に突入。
今は、こっちが定説。信長公記にも奇襲などとは書いてない。
>>143 内政官は直江景綱を筆頭に立派な連中だったが
外交や調略関係を得意とする人間はほとんどいないよ。
彼らは国を疲弊させずにしっかりと切り回したが
正に「官僚」って感じだな。
謙信には謀臣がいなかった。
宇佐美定満が軍師だったっていうのは
自称子孫が書いた九割方フィクションだし。
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 07:19:19 ID:fj7ZopRc
>>45 マジで得意げにいってるこいつの無知をどうにかしてくれ
信長、謙信、信玄、みんな過大評価だな
>>149 河田長親ってけっこう優秀だったみたいだよ。
奇襲と強襲の区別も付かない馬鹿が得意気に戦国談義をする。
戦国板の真骨頂だな。
>>153 河田は優秀だけど斉藤朝信と似たタイプじゃない?
智勇兼備の武将という感じ。
>>154 じゃあ強襲と奇襲の違いについて語ってくれないか?
信号弾1発なら奇襲
信号弾2発なら強襲
というのは冗談だけど相手に気付かれないで攻撃したら奇襲(ようするに不意打ち)
相手がこちらに気付いていたら強襲。
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 20:37:49 ID:MGwWyElP
桶狭間って強襲だったんだ、俺も初めて知った
で、いつから強襲になってたの?
桶狭間は、信長が正面から攻撃して、そのまま押し潰
した戦い。
今川や武田の旗本は御親類衆がボヤーっとつったってる
イメージがある。信長の旗本のように抜擢人事で選抜
された百戦錬磨の強豪揃いという感じではないね。
当主もろとも、草を刈るように薙ぎ倒されたのもむべ
なるかな。
この時代、当主の旗本の突撃が戦局を決めた例は
小谷、天王寺、賎ヶ岳、長久手とけっこうある。
信玄の代に信長と会戦した場合、信長の馬廻衆に
切り込まれて、「信玄公、あえない御最後」という
のは多いにありえる。
それに比べると、謙信の方は名の知れた旗本を抱え
とるな。
>>158 400年くらい前から強襲。
350年くらい前から奇襲が定着したんじゃないかな?
最近は強襲がアツイ
>>159 第四次川中島で信玄の本陣が突き崩されまくったのも
謙信の旗本集が強かったからっぽいね。
信玄を負傷させたというのは謙信じゃなくて
謙信の旗本という説もあるからなあ。
まあどちらにせよ、本隊で敵本陣に突っ込んだのは余程自信があったんだろう。
謙信の本陣にも義信が突入してきたけど
追い返されたうえ追い討ちをかけた中条と宇佐美に突き崩されて負傷してるし。
>>162 どの文献を元にしているかわからないけど、そこらへんのことって
ほとんど不明が正解。
江戸時代あたりは
一に上杉二に武田が兵隊の強さのランクと思われていたらしいが。
>>162 両軍大混戦になってわやくちゃになったのと
武田方に信繁始め幹部クラスの死者が出たのは確か。
義信が謙信の本陣に突っ込んだのは
複数の文献で謙信が後々口癖にしていた、とあるし。
死者の人数とかはまちまちだが
凄まじい数だったのは近衛前久から謙信にあてた戦勝祝いの手紙でわかる。
実際、どちらも勝ったとは言えないけど。
まあでも不明なことが多いのは事実だな。
上杉方に伝わる参陣リストも
何故か越中にいる斉藤朝信が入っていて
参加した可能性が濃厚な宇佐美定満が入っていなかったりと。
遊軍扱いだったので外されたのかもしれんが。
わかるのは戦死した武将くらいか。
小話だけど上杉方のしんがり務めた甘粕近江守の子孫が戦前戦中に暗躍
したあの甘粕大尉だよ。
甘粕という苗字はそんなにないよなあと思ったら
甘粕大尉の先祖だったのかw
いかん、一瞬坂本龍一の顔が浮かんできたw
信玄はおっさんだけど謙信は信長と2つしか年違わないからもっとライバルとして見るべきだ!
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 21:15:04 ID:d6ITwljg
しかし謙信はなんで2チャンでは評価低いんだろ?
俺はよく戦国物の本を読んでるが大半は謙信は戦国最強であり戦の天才だとかかれているんだけど
あれって嘘なんだろうか?
2ch=便所の落書き
と昔から言われてるのを知らんのか?
間に受ける方がどうかしてる
アンチは声がでかいからな
俺は家康厨だが織田も上杉も武田も北条も伊達も
名前を残した武将は評価してるよ。
アンチも信者も相手を落として持ち上げる奴は敗北宣言だとみるようにしてる。
批判でも納得できるのはあるんだが。
だが家康のは焼き味噌だ
謙信は天才だけど戦国大名としてはどうなの?っていう漢字?
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 02:19:21 ID:rpvILSru
謙信って何が凄かったの?やっぱ統率と戦術が優れてたの?
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 03:22:22 ID:5d8cLY2A
北条はうじむし
斉藤道三が一番凄かった
>>173 戦闘が恐ろしく強かった(野戦において生涯無敗、戦場では常に最強の存在)
内政が上手かった(史実では港湾や商業を整備してお金は腐るほどあった)
戦国屈指の教養人だった(琵琶の名手で古典に詳しく和歌の古今伝授も受けている)
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 18:35:05 ID:6TMxf6DH
謙信って源氏物語が大好き、馬上やら庭先でも酒を飲むアル中&肴は梅干、毎月10日には腹痛で休み、
他人の妻に手紙を送って政治事を託し、戦で城を落としても帰ってしまうとか…
戦国時代類稀なる奇人だよね。
奇行ばかり目立つというか。調べれば調べるほど謙信が女だった説が濃厚になってくる
男だけど生理ある人たまにいるよね
尼将軍ならぬ、尼関東管領です
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 22:57:44 ID:I2lEBcep
信長みたいな歌舞伎者でもないのに、真っ赤な衣装?だか女性物のような
服を着てたり、尼さん頭巾かぶってる謙信て…
馬上で酒飲んで男らしくふるまう尼将軍を連想させる
アル中&つまみが梅干や塩舐めじゃ
高血圧でなくても脳卒中で逝っちゃうよな
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/05(日) 03:35:56 ID:fEydiqk2
上杉謙信>織田信長>武田>北条
・手取川の合戦で上杉勝利
・長篠の戦で織田勝利
・三増峠の戦いで武田勝利
戦国最強の上杉軍団
川上憲伸のお父さんは謙信ファンだったのかなあ
それならその字をつけるんじゃないか?
>>182 北条は10万の上杉勢を引き上げさせてるから一周したぞ
上杉軍と上杉を中心とした連合軍は別物
上杉を中心とした連合軍の方が凄いと思うが。
あと三憎峠は特に捏造の感の強い事で有名な合戦だぞ。
事の発端は小田原攻めから引いた武田信玄を、氏康自身は深追いせず、
追撃を氏照・氏邦に任せたというもの、ただ知られている通り武田勢はほとんど小田原で戦うこと無く
引いているので、本軍にそのままぶつかるのは危険だった氏照は津久井勢も率いていた模様。
その経過としては北条方には目立った損害は無く、名のある武将も誰一人殺されていない。
武田方は殿軍の武田24将浅利信種が討ち死にして、その被害も出ているが信玄は逃げる事ができている。
逃げる事が出来たということで、何故か勝ちになっているが、この合戦はどう見ても
北条の勝ちではあっても負けにはなりようが無い、せいぜい痛みわけという所ではないかと思う。
双方の書状を見てもどちらが必死か一目瞭然。
>>169 嘘とは言わんが、本当とも言わん。
当たり前の話だけど、人間に対する評価なんて人それぞれだから。
>>182 >上杉謙信>織田信長>武田>北条
個人を比べるのか家を比べるのかどっちかにせい。信長は確かに武田には勝ったが、
謙信との戦には出てないぞ。
>>182 上杉>織田>武田>北條>上杉>織田…
だから、武田と上杉じゃ決着が付かないんですね^^
三増峠なんだが残っている北条方の書状においても
負け惜しみ的な表現が残ってたり、
北条の遺臣が残し、北条マンセーな「北条記」「北条五代記」
にも北条が負けたとしてあるのだから
武田の大勝利とはいかなくてもそこそこの勝利といっていい戦いでは
あったんじゃないか?
信玄の書状なんか負け惜しみどころの騒ぎじゃないぞ、
氏邦と氏規を討ち取ったとかもう滅茶苦茶。
その割に当事者の氏照や綱成の名が無い、本当に勝利してたのなら出せばいいのに。
あと、北条記と北条五代記は江戸に出来たもんで、
北条マンセーじゃないぞ、読んでみればわかる。
10月15日付けの信玄の書状には北条方の武将に源三(氏照)が挙げられて
なかったっけ?あと綱成って三増峠にいたの?駿河の城にいたような
気がするんだけど。煽りでもなんでもなく、教えて欲しい。
氏照が混ざってる文章は俺が知らないのかもしれない、ただ俺が本で読んだ諏訪文書の
奴では氏邦といるはずの無い氏規まで討ち取ったなどといってる以上信憑性はきわめて低いと見てる。
もちろん氏邦も討ち取られてなんか無いし。
綱成に関しては俺も気になるところ、と言うより同じ疑問を持っているんだと思う。
北条五代記などでは綱成が氏照らの後に追いついて助言をしたことになってるし、
信玄の殿軍を討ったのも綱成という事になってる。
だが、そもそもその記述自体が怪しく、そうなるとますますこの合戦自体が怪しくなる。
また甲陽軍鑑などでは三増峠での北条方の軍に玉縄衆が混ざっているが、
氏康が武田に対して消極的な動きを見せている割に、
氏照が率いてる軍勢が多すぎるし、どこから連れてきたのかと思える感じで非常に不自然。
津久井や深谷、鉢形や岩槻などの氏照・氏邦の軍勢が位置的にも限界ではなかろうか。
玉縄衆が追いつけるなら小田原の氏政本軍が追いつけないはずは無い訳で。
この事から玉縄衆が混ざっていると言うのも、筆者が羅列しただけで信憑性は弱いと考える。
結局武田軍の被害は将が討ち取られている以上隠しようが無いだけに、
そこは否定できない代わりに無理矢理河越合戦での名将綱成を居たことにして、
彼に討ち取られたのなら仕方ないと言う事にしてる気がしてならない。
浅利信種の死因は確か鉄砲じゃなかったっけ?
それでその後も曽根内匠が部隊をまとめて戦ったはず。
そう考えると浅利隊の戦闘能力はそれほど削がれていたのかな?
将が流れ弾で死んで、部隊は戦闘可能、とも受け取れる。
北条五代記は確か、北条の遺臣だった三浦浄心が書いたまとめたものだったはず。
もしこの戦いが武田の負けであったなら、彼があえて北条の負けと書いたのは
何故なんだろう?徳川におもねって武田を強く書いたというならば
三増峠以外のところでは全て北条が勝ったとしているのは何故?と
いろいろと疑問がわいてしまう。
俺は北条も武田もどっちに肩びいきするつもりはないけど、
この戦いを武田の負けとするといろいろと不可解に感じてしまう。
もっとも甲陽軍艦や信玄書状ほどの大勝利だったとは思わないが。
>>三増峠以外のところでは全て北条が勝ったとしているのは何故?
どの合戦の事言ってるの?
またこの合戦は別に北条の勝ちというほどでもないと思われるし、
北条方の勢力もそれほど多くは無いと思われる。
あなたが気になったとおり、綱成が存在せず、氏照や氏邦がつれてきた兵力だけだったとしたら、
およそ1万にも満たない。ましてこの二人はちょっと前までこの武田軍相手に篭城をしていて、
氏照にいたっては滝山城を落城寸前まで追い詰められてるのにいきなりそんな大軍で追撃できるはずも無いし、
いくら撤退中とは言え2万はいる上に、特に小田原包囲で被害があった訳でもない武田軍に勝てるはずも無い。
武田方が恐らく予定通り、小田原攻撃を程々で止めて撤収に入って、氏康・氏政も追撃には消極的だったところを、
氏照・氏邦らが追撃をしかけて、殿軍に関してはある程度討ち取り被害を出したものの、
数的にそこまでで深追いは出来なかった小田原合戦での小競り合いの一つ、と言うのが真相だと思う。
浅利隊の戦闘能力に関してはそんなの想像の域で、どうとでも取れる、
しかし、信種が死んでいるのは事実で、それを討ち取ったのが北条方だという事実は変わらない。
ある程度損害は出ても逃げるだけの力は有していたと言うだけの事だろう、
別に違和感は無い、流れ弾とかを勝手に想像するのはいかがなものかと。
いずれにしろ北条方の2万と言う数字が何の根拠も無い時点で、この合戦は
大した規模ではない小競り合いというのが俺の感想。
どうしても勝敗をつけるなら被害が明らかな方が負けでは?というだけ。
追加、
逆に俺はこの一連の小田原合戦に関して、結局北条家との同盟関係を修復できて、上杉と切らせる事に成功した点と
氏照が滝山城から八王子へと移転せざるを得なくなるほどに被害があったと言う点で、
駿河からの撤退までは引き出せなかったものの、武田方の優勢勝ちといって差し支えないと思ってる。
だけど三増峠合戦は怪しい点が多すぎる。
丁寧な説明をありがとう。
俺が>三増峠以外のところでは全て北条が勝ったとしているのは何故?
と書いたのは、北条五代記の中に「信玄が北条と弓矢をかまえて勝利したのは
その一代でこの時だけであった」という記述があったと思ったから。
さらに北条五代記では小田原が包囲された事が書いてなかったり、
小田原から撤収する武田軍を氏康・氏政軍が追撃して千を超える兵を討ち取ったとしている
ようにいろいろと北条びいきの本なのに三増峠を負けとしているのは
もし武田の負けであったならば変な話だと思ったんだ。
信玄書状にも北条軍が6、7千とあるように、あなたのいうように
北条軍の実数は一万を超えなかったんだろうね。
丁寧な説明をありがとう。
俺が>三増峠以外のところでは全て北条が勝ったとしているのは何故?
と書いたのは、北条五代記の中に「信玄が北条と弓矢をかまえて勝利したのは
その一代でこの時だけであった」という記述があったと思ったから。
さらに北条五代記では小田原が包囲された事が書いてなかったり、
小田原から撤収する武田軍を氏康・氏政軍が追撃して千を超える兵を討ち取ったとしている
ようにいろいろと北条びいきの本なのに三増峠を負けとしているのは
もし武田の負けであったならば変な話だと思ったんだ。
信玄書状にも北条軍が6、7千とあるように、あなたのいうように
北条軍の実数は一万を超えなかったんだろうね。
連投になってしまった。スマソ。
あ〜なるほど、確かにあった気がするな。
ただそれは無いよ、深沢城などの伊豆での合戦とかもあるし。
まぁこの時期の軍記物だからそういう表現はあまり深く捕らえすぎない方がいいのかも。
三浦浄心もまだ生まれたばかりのはずだし、この時期の話題は人伝に聞いてるだけだろうから
変な誇張が入るのもまぁ無理も無いのかも。
ただ真偽はともかく調べてて面白い合戦ではある。
>>199 ちょっと気になったんだが、
>滝山城を落城寸前まで追い詰められてるのに
二の丸まで攻め込まれていたことを指してるんだろうけど、
滝山城はどこから攻めても二の丸にぶち当たるように設計されていて他の防備が薄い。
地形的にそれほど難所ではない故に縄張りで勝負した造りになっている。
構造的に二の丸だけが異常に厳重に固められていて、そこに至るまでの郭はあまり無理して守らず二の丸で受け止める。
という城らしい。このことを考えると落城寸前ってのは疑問を感じる・・・防衛計画としては想定通りだったようだ。
まぁこれだけではなんとも言えないか・・・
滝山城は三の丸まで落とされたんじゃなかったっけ?
それであとは本丸のみを残す事になって、これ以上攻めると被害が出る
という事で武田軍は城攻めを切り上げたんじゃなかったかな?
悪い、いきなり矛盾した。
もともと信玄が滝山城を攻めたのは氏照の兵力を消耗させて小田原とかを
攻めるときに背後をつかれないようにするためだったと思う。
既に廿里峠で小山田達が滝山勢を破っているし、二の丸の攻防で消耗を
強いたことで目的を達したとして小田原にむかったんだと思う。
信玄自身も「勝頼などの大将を討ち死にさせてはいけない」とかいって
切り上げたとされてるし。まあこの言葉は軍艦の話だけどね。
二の丸三の丸ってのは正直眉唾だと思ってる。
もちろん勝頼と源三の一騎打ちってのも、まぁ妄想する分にはカッコいいけど。
ただ実際問題、この合戦を境に、氏照が滝山城での守りに限界を感じて、
戦国最後にして未完成に終わった超巨大山城八王子城の建設に取り掛かってるだけに、
損害もやっぱりそれなりにあったんではないかなと見て、ああ書いた。
まぁでも落城寸前てのは言いすぎか。
えと、氏照が滝山城に拘っていた理由は、山林資源の流通ルートである多摩川の水運を確保するのに都合の良い場所だったからなのよ。
八王子に移った時期は周辺の大半は北条氏の支配下にあり、氏照自身が多摩川の水運を押さえなくても十分になったからのようだ。
まぁそれ故に元々防御しにくい滝山を捨てたと。
だけど北条の築城術は凄いね。数ある戦国大名の中でももっとも縄張りが巧みだったように思える。
それは聞いた事ある、でも八王子城を作り始めた時期はまだだったんじゃなかったっけ?
移ったの自体は武田滅亡後だし、随分後なんだよね。
まぁそもそも滝山城と八王子城自体さほど離れてないけども。
どっちにしてもあの時期に作り始めたのはやはり関係するんじゃないかなとは思う。
しかも規模が・・・あれは凄すぎる。小田原の役前に完成してたら・・とホント思う。
北条の築城術は凄い上にさらに驕ることなく石垣の技術も発展させてたり本当に凄い。
212 :
名無し議論スレにて投票方法審議中 :2007/01/30(火) 16:04:26 ID:UizCAdXe
北条オタきめえwww
知名度でも屑な蛆虫どもが謙信公に勝てるわけがない
謙信と氏康なら氏康の方がわずかながら知名度高いだろ、相模の獅子だぞ
>>213 「相模の獅子」知らんかったぞww
検索エンジンにかけてみたが・・・、
越後の龍=9750件
相模の獅子=170件
著名度の差は歴然としてるな(爆笑)。
215 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/30(火) 17:50:43 ID:WkDiySWU
良スレアゲ
>>214 その内の9700件くらいは無双やBASARAに出てくる名前だけ同じの違う人物について
ヒットしてるんだろ
217 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/31(水) 00:12:18 ID:ukX2mOBp
甲斐の虎(武田信玄)、越後の龍(上杉謙信)は全国区で有名だが、相模の獅子(北条氏康)を知る人は県内でも少ない。
「chakuwiki(小田原市)より」
Google検索結果
武田信玄(948000件)武田晴信(39600件)甲斐の虎(19700件)
上杉謙信(885000件)長尾景虎(47200件)越後の龍(9820件)越後の虎(39900件)
北条氏康(69200件)伊勢新九郎(991件)相模の獅子(151件)
信玄:謙信>>>>>>>>越えられない壁>>>>>氏康
じゃね?
まあ知名度では信玄・謙信の方が上だが、実力では氏康は両者にも
引けを取らんと思う。とくに領内の統治では三者の中で北条が一番上
だと思うが。
簗田晴助に大苦戦した北条
唐沢山城を十回攻撃して十回も撃退された謙信が一番ヤバいと思う
調略で取り込んでもすぐに再寝返り打たれるし
10倍の敵を撃破したのは三人のうち氏康だけ
残り二人って泥仕合か、優勢な兵力での順当勝ちしかしてない
江戸期の政治的理由からの武田マンセー(そのおこぼれで上杉マンセー)・北条氏の影薄くという流れがなければねぇ……
まあ、氏康もその二人相手にはいい戦績じゃあないからな。
戦略的視野から見て妥当かどうかは別として
はたから見ると氏康は謙信に好きなように関東を荒らされてる印象が強い。
信玄のときも篭城して小田原あらされて追撃にも失敗している。
戦争を知らない江戸期の人間から見れば北条はいまいち地味な印象が強かった
のでは?
>>222 でも実際には謙信側が劣勢で、越後から厩橋に配置した子飼いの北条景広らまで北条に寝返るくらい。生野山合戦などでも敗北しているし
信玄だって駿河侵攻時には薩多峠で北条軍に大敗して駿河制圧に氏康の死を挟んで4年も費やす破目になっている
実際には五分五分程度でしょ。やっぱり政治的な理由がからんでるよ
家康が「北条の遺風が残ってるのでやりにくい」と正直に吐露しているぐらいだし
生野山合戦は残されてる情報からしてどうも大した戦いには思えない。
謙信・氏康の評価をつけるのに参考とできるほどではない小競り合いだったんだろう
現に江戸時代でもみすごされた。
薩多峠は大敗といえるほどだったかな?北条の優勢だったとは思うが。
それ以後は廿里峠、滝山攻め、小田原、駿河蒲原城、その他で北条は
武田に押されている印象がぬぐえない。結局駿河もとられたし。
もちろん北条にもそれなりの理由や事情があるが、江戸期の戦争を知らない人間達から
見ると、マンセーはしづらかったと思うよ。
>>224 たいした戦じゃないといっても、逆に謙信が野戦で氏康に対してそのたいした程度じゃない勝利すら挙げられていないよ
まぁ、小田原攻防戦あたりを除いて関東の戦って小競り合いか睨み合いで終り、が多いんだよなぁ
これは古くからの中小豪族が乱立している背景が影響したんだろうけど
同じ豪族があっちについたりこっちについたりしている
謙信と氏康は直接対決はほとんどないからね。それこそ大規模なものなら
小田原攻防戦ぐらいだし。これは戦略的には北条の勝ちだけど、
戦争を知らない江戸期の人間からすると篭城して地味に成果を掴むというのは
理解はできても好きにはなれなかったんじゃないかな。それに小田原城が天下に
聞こえた名城だったこともあって「城に頼った」と受け取られがちだったと思う。
もちろん氏康は名将だと思うが。印象はそれをうけとる側の意識が大きく作用するしね。
江戸時代の人間は勇ましいのが好きだったみたいだし、常に北条の領国を荒らしている
ように見える謙信のほうを評価しがちだったんじゃないかな。
直接の戦績:氏康やや有利
他の勢力に対する戦績:河越夜戦など氏康のほうが派手
略奪集団のボスである謙信に対し、領民の直訴を認めるなどもっとも進んだ民政家だった氏康
これで人気が謙信のほうが上なんだから、後世の評判がいかに身勝手化わかる
228 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/31(水) 12:21:10 ID:dY2Obmoi
謙信の凄いところは天の時も地の利も人の和もないのに勝っちゃうとこかな
謙信=戦闘馬鹿
まあ、謙信も越後にとってはいい領主だったんだろう。
財テクもうまかったみたいだし、略奪も厳しい越後の冬をしのぐ為でもあった
わけだし。もともと成り上がりの長尾氏が名門上杉氏を継ぎ、内乱ばかりだった
越後も謙信の晩年にはうまくまとまり、後の上杉氏の礎になった。
北条は滅んだけど上杉はその偉大さを伝えてくれる家が残ったしな。
231 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/31(水) 13:09:48 ID:cgdAPYPa
戦マニアの厨房ケンちゃん
略奪集団の頭領って言っても、なりたくてなった訳じゃないだろう。
支配地の平和を願う願文も出してるしな。
願文だけならなんとでもいえそうだが
武田滅亡させて、北条と和睦してから義昭奉じて上洛しますなんていう非現実的な願文だって出してるし
どっちかっつーと願望であって現実的ではない
234 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/05(月) 20:12:31 ID:LrNGHVFX
すごく疑問なのは上杉謙信の軍事行動などを見ると
計画性がなくどうしようもない大将に思えるんだが、
なぜ無欲で平和を願う最強の大将というイメージになってるの?
そのイメージはどこ発祥なんだろう?
武田軍学に対抗するために創作してみた上杉の神話。
↓
でも調べてみると暴れてる割に全然領土取れてない!これじゃ話に箔がつかない!
↓
そうだ!領土取れてないんじゃなくて取らなかった事にしよう!
>>234 それなりに史実をたどってみると納得できるけどね。
降伏すれば許す・出兵は依頼に応じて・室町幕府(関東府)の安寧を願う
分国化を始めたのは天正四年以後・それも旧領主の遺児に知行安堵
天下統一は望まず(つまり、現代の天下取り史観からは理解不可能)
>>236 贔屓が過ぎる
降伏を許さざるを得ないほど権力が弱かっただけ。本庄氏のケースのように実力で抑えられず芦名氏の仲介を頼ったケースなんかは保証人の面子もあるし
出兵は依頼に応じてというが、信玄と手紙のやり取りしたことを口実に攻めるのが依頼か?
旧領主の遺児って畠山氏から貰った養子の事だろうけど、畠山氏には春王丸という遺児が居て既に家督を継いでいた。謙信が無理矢理家督を奪おうとしたために篭城戦中にこの跡取は死亡。そしてちゃっかり領土奪う
だいたい越後の豪族居れて占領した北上野はいわゆる領国化じゃないのか?
天下統一を望まなかったというのは同意。中世武将の謙信からすれば、天下より地方で覇権を握ることが優先
>>237 はいはい、ビジネス作家系の天下史観。乙!
謙信神格化→反論できない→見飽きた煽りに落ちる
いつもの謙信厨パターンか
このあたり信玄厨のほうがまだマシですね
240 :
メガトン ◆xfEWihaR6w :2007/02/13(火) 21:20:48 ID:AtdpU7T+
メガトン級大爆笑!!アハハハハハハハハハ
いつまで下らない争いをしてるんだか全くーーーーーー!
戦闘 政治 外交 統率力 全てを考慮すると(有力大名別で)
最強・・・・・武田信玄
2番手・・・・毛利元就
3番手・・・・織田信長 豊臣秀吉 クソ漏らし
4番手・・・・北条氏康 アホのように関東に出兵した奴
伊達政宗 島津義久 大友宗麟
241 :
竜田:2007/02/13(火) 21:33:18 ID:sMdevLGz
242 :
人間七七四年:2007/02/13(火) 21:46:39 ID:GxT4lH/X
こいつはよくコテ名乗れるな
釣りにしてもつまらんし
243 :
人間七七四年:2007/02/13(火) 23:07:06 ID:uYRPO8+s
メガトン ◆xfEWihaR6w
あぼ〜んしとくか
244 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 00:14:48 ID:o6w0xcfj
春が近くなるとよく湧いてくる
245 :
人間七七四年:2007/03/31(土) 00:34:28 ID:tD+h297n
246 :
人間七七四年:2007/03/31(土) 00:48:06 ID:2eibXZnG
>>220 唐沢山城は、謙信に何度も落とされているだろ。
越後平林城主の色部勝長が常駐しているぐらいだ。
247 :
人間七七四年:2007/03/31(土) 18:24:09 ID:41esn8p/
>>246 だからって撃退された事の反証にはならんのでは。
もともと何度も上杉側に寝返ってる城だし。
248 :
人間七七四年:2007/03/31(土) 23:29:58 ID:2eibXZnG
249 :
人間七七四年:2007/04/01(日) 00:13:19 ID:vKvti1a3
>>248 そのHPによると長尾の養子の件の方が
輝虎書状ぐらいで諸説あって断定は出来ないって書いてるようだけど、それが何か。
250 :
人間七七四年:2007/04/01(日) 01:24:37 ID:tdX85GmU
251 :
人間七七四年:
>>250 10回とか細かい回数は知らんけど唐沢山城の戦いって、
天正5年の七尾城攻略失敗の後に、氏政が上野に攻めてきたのに乗じたもんだと思ってた。
まぁそのwiki詳しく読んでないから良くわからん。
あぁちなみに
>>220は俺では無いのであしからず。