◇◆◇西国の名門大名 大内氏◇◆◇

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595人間七七四年
毛利輝元以降の毛利氏によって大内義隆は文芸に溺れた暗愚な当主とする風潮が広まってしまいましたが

・備後における神辺合戦のように軍事活動も成功している
・一揆の拠点にされやすい寺社を復興させることは民衆の一揆抑止に役立った
・公家を迎えることは地方の山口において機密情報入手の手段としては適切
・文化人を招いたり、産業を奨励したことは領内における輸出物品の生産という結果をもたらし、投資として成功している
・経典を積極的に求めることは現在人からみれば散財に過ぎないが、当時は四書五経の知識量で人物の優劣を決める経典主義だった
・この方針は中国では1905年まで続いていた。(現在の受験戦争において良い塾に通わせるようなニュアンス)
・出雲遠征以降衰退したとされているのに倭寇取締に支障をきたすこと無く、明王朝から国王として認められ続けている
・同じく衰退しているはずなのに朝廷も従二位を授けている。
・死後、倭寇の台頭。倭寇衰退後の日明貿易途絶と国内通貨危機。それによる南蛮人によるボッタクリなど日本経済の打撃。

略奪や労役で軍事施設を作り国土と民を疲弊させただけの地方豪族達が
合戦の結果だけで戦国大名として優秀と言われていますが
大内義隆を評価できる面は多々あります。
山口県は縁の薄い毛利元就を広島から横取りして戦国ブームのネタにしようとしていますが難しいでしょう。
そろそろ大内義隆を再評価させていくべきではないでしょうか?

運が悪いことに、「大内滅亡を予期していた」と各地の武将に後出しで言われた為に不当に世間の評判が低くなっています。
これらは朝倉宗滴や山本勘助の人物像を高めるために講談で利用されている側面もあります。
佐藤藍子的な後出しであることを各方面に抗議していく必要があると思います。