豊臣秀吉の墓を徳川家康が破壊した件について

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1名無しさん@お腹いっぱい。
死者に鞭打つ家康は最低!!
こんな奴を尊敬している家康ヲタも最低!!
2あぼーん:あぼーん
あぼーん
3名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:06:51 ID:/6/Yjeg+
(´・ω・`)プニプニ
4名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:29:31 ID:bIFsjuie
なんだかなぁ…
いかにも秀吉厨、
5名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:33:05 ID:1W9XEiQg
言いたくはないが、秀吉厨を見ていると、チョンとものすごくかぶる。
6名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:39:52 ID:JfzGaBWA
明らかな釣りに引っかかった>>4>>5のおかげで>>1も大喜びだ
7名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:49:34 ID:frwgFG3c
江戸幕府って最低ですね。
8名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:50:19 ID:nxGTIYlD

家康ヲタはまとめてアク禁にして欲しい。
遺骨を荒らす人間のファンという時点で人間間違ってる人種だしね。
9名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:53:54 ID:0hIIripb
家康ってさ、相当やな奴だよね。
人質時代に凧遊びして人の家に落ちたのとりに行ったら
こんなとこで凧で遊ぶなって怒られたのずっと覚えてて
偉くなったらその家の人呼び出して切腹させてるし。
家の人は別に悪いことしてないのに。
しかもそれ伝記やなんかで家康の美談になってるし
「いじめた人は相応の報いを受けるとか」いう意味で。
10名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:56:31 ID:9D5QDDtS
何故家康ヲタは家康なんかを尊敬しているのか
家康のやった事といえば

・朝鮮出兵による日本の敗因から何も学ばなかった。
・儒教朱子派を国教化して「忠」の思想を極端に推し進めた。
・「国家安康」「君臣豊楽」「右僕射源朝臣」に代表される中国的犯罪を自ら実行した。
・豊国社を破壊し、秀吉の墓を暴いた。
後2者は「お前は中国人か!」と言いたくなる卑劣な行為だ。
それに比べて明治政府は賊に過ぎない徳川逆徒に公爵を与え、東照宮も残すという非常に寛大な政策を採っている。何と立派なことか。
11名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:58:30 ID:nxGTIYlD
家康は冷血と言うよりハッキリと悪人だろ
いくら天下取りと言え
罪のない主を殺したり墓を暴いたりまで普通はしない
信長も義昭に手を焼きながらもさすがに殺そうとはしなかった
秀吉だって秀信には手を出さなかった
だが、家康は秀頼を追い詰めて殺したり
秀吉の墓まで掘り起こす始末
そこまでする仕打ちを受けたわけでも無いのに
12名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 17:59:40 ID:nxGTIYlD
「国家安康」「君臣豊楽」「右僕射源朝臣」の歪曲と豊国社破壊、秀吉の墓暴き等やり口がえげつなすぎる!!
13名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 18:00:14 ID:nxGTIYlD
家康は恩を仇で返すの?
14名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 18:00:23 ID:rnDxawA5
>>9
秀吉も虐めた相手を探して殺そうとかしてたよね
15名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 18:01:00 ID:nxGTIYlD
家康は日本の歴史上最低の極悪人ですね

もう徳川家康は
大河ドラマに出さないでくれ。
16名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 18:13:26 ID:1W9XEiQg
本日の秀吉厨:nxGTIYlD
まぁ、スレ荒らしはまだいいが、クソスレ立てるなよな。
17名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 18:15:38 ID:nxGTIYlD
家康嫌い=秀吉厨と脳内認定している家康ヲタが笑えるw
18名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 18:19:40 ID:frwgFG3c
どうしたらあんなに頭が悪くなるんだろう。
狸信者。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 18:21:14 ID:1W9XEiQg
そんなに必死になるなよ。>nxGTIYlD
IDまで変えてw
20名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 18:22:47 ID:nxGTIYlD
はあ?ID変わってないんですけどw
また家康ヲタの妄想ですか?
21名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 18:24:05 ID:1W9XEiQg
>>20
わからすなよw
22名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 18:50:39 ID:FuzZrovq
家康はうんこですよ
23名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:06:13 ID:/6/Yjeg+
理不尽な悪口書きたてりゃとりあえずレスは伸びるからな。
まぁ頑張ってくれ。
24名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:18:59 ID:ZRPbv92L
豊臣氏を裏切り、滅ぼし、神社を破壊し、墓を暴いた徳川。
恩を仇で返す家康は最低だな。
25名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:20:07 ID:nxGTIYlD
家康厨がいくら頑張っても「家康=卑怯なやり方で天下を獲った狸親父」
という世間のイメージは消えませんからw
26名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:25:37 ID:1W9XEiQg
>>25
もう、どんどん消えてってますから、安心してくださいw
27名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:32:00 ID:QpYbAmY1
>>25
秀吉のイメージを上げたいと思ってるなら、あまり罵詈雑言は吐かないほうがいいと思う
どう見ても逆効果
28名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:34:46 ID:nxGTIYlD
信玄に殺されてれば良かったのに
うんこ漏らして生きてんなよ、ぼけ狸
29名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:35:34 ID:1W9XEiQg
>>27
まぁ、心配するな。家康ファンは、秀吉厨がクソだからって、
秀吉の評価を下げたりしないから。
30名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:36:56 ID:ZRPbv92L
何か最近1、2人の家康オタ(アンチ秀吉)が複数のスレ、特に家康・秀吉スレで暴れてるな。
文体が全く同じなんで分かり易過ぎるぞw
釣りしたいなら、もうちょっとうまくやれや。
その程度じゃチョソは釣れても日本人は釣れんぞw
31名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:39:38 ID:1W9XEiQg
>>30
またID変えてきたんか>nxGTIYlD
文体が同じで、歴史論議がでなさすぎて、笑えるぞw
32名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:41:23 ID:nxGTIYlD
また家康ヲタの妄想ですか
33名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:43:16 ID:1W9XEiQg
>>32
じゃあ、frwgFG3cを呼んできてねw
2台あれば、ID変えるなんて簡単なんだからw
34名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:46:34 ID:nxGTIYlD
どうやって呼べばいいの?w
他人なのにw
35名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:47:45 ID:frwgFG3c
家康ヲタが必死すぎて泣けてくる
36名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:48:43 ID:nxGTIYlD
家康は神号破棄・廟舎破壊も行おうとしていた。
まさに狂気。
37名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:50:08 ID:nxGTIYlD



家康オタって、山岡荘八の「徳川家康」をバイブルにしてるんだよね。
38名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:53:51 ID:1W9XEiQg
おいおい、ちゃんと呼んでくるなよwwwwwww
死ぬほど笑っちゃったよwwwww
おまえ、すげーよwwww
39名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:55:57 ID:+rvXQLcI
ID:1W9XEiQg
必死すぎだろ。
とりあえず自分の誤解だったって事を認めたほうがいいぞ。
40名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:56:31 ID:nxGTIYlD
家康ヲタはアンチ家康が全て同一人物に見えるらしい。
41名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:56:42 ID:1W9XEiQg
いやー、もしかして、本日最大の釣り氏だったんかな?
俺、思いっきりつられちゃったよ。
まさか、2PCを指摘して指摘されたIDが1分足らずの間に
出てくるなんて、そんなことないもんな。
いやー、やられたわ。
42名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:56:58 ID:ekrzplVf
ここで頑張ってるアンチ家康の中には
その家康の極悪非道とやらに
加担した武将の、もしくは
一門、譜代の家系の血を引いてる事を
知らずに言ってる者もいるんじゃね
43名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:59:15 ID:nxGTIYlD
>>41
俺は潔白を証明するため出てきただけだが。
いくらなんでも必死過ぎる。
44名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 19:59:58 ID:ABNMrtn9
ID:1W9XEiQgを嘲笑するスレはここですか
45名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:01:13 ID:1W9XEiQg
>>43
出てきたのは、 nxGTIYlDじゃなくって、frwgFG3cだろってw
もうやめてくれ。
お前のギャグセンスには、脱帽だよw
46名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:01:30 ID:frwgFG3c
つーか一分以上かかってるが
47名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:04:10 ID:dfJX6TkF
ID:1W9XEiQgを生暖かく見守るスレ
48名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:05:24 ID:nxGTIYlD
この事件は残酷過ぎるよ、俺には耐えられない。
49名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:07:45 ID:bIFsjuie
どのスレでも叩かれまくりの秀吉厨はよほど
ストレスがたまってるんだね、どのスレにも
いられなくなってこんなアホスレまで立てて
50名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:08:03 ID:U5HqK2wD
なんで死んだ人間の墓まで破壊する必要があったんだろうね
大坂の陣の発端になった方広寺すら言い掛かりのダシにする用が済んだら放置プレイだったのに
51名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:09:12 ID:nxGTIYlD
正直、父兄の仇の死屍に鞭打つ方が全然理解できる。
なんで秀吉がそこまでやられなきゃいけないんだ?
高度な政治的判断ですか?だとしたらやりすぎ。
そこまでしないと守れないような政権って一体…。
52名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:17:54 ID:JP9319Ji
秀吉の性格が相当悪くて、なにか恨み買うようなことを生前にしてたんじゃね?
53名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:24:54 ID:1W9XEiQg
>>50
墓じゃなくって、神になったからだろ。
前時代の政権の当主が神として祀られてたら、まともな統治なんぞ
できないわな。
54名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:49:44 ID:RZnvAQ9v
でもどの人物も神か仏になってるしな
王政復古で神道一色になった明治時代でも
東照宮破壊したり家康の墓掘り起こすような事しなかったし
55名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:55:32 ID:Qb9KwCXd
つか秀吉の墓破壊したのは家光なのを誰も言わない謎
56名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:59:12 ID:nxGTIYlD
いや家康だろ
57名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 21:09:59 ID:Qb9KwCXd
家康が破却したのは豊国大社、家光が豊国廟では?
58名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 21:25:27 ID:1W9XEiQg
>>54
そうもいかん。あの方法は、信長が考案し、最初にやったのが秀吉で
家康も同じ手法をとったからな。放置は無理だ。
59名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 21:40:04 ID:td/xIl5c
>>54
天皇から預かっていた政権を天皇に戻したのが王政復古だってわかってる?
家康も天下はあくまで天皇による権威である征夷大将軍に基づいた開府によって治めた
天皇を退けて神になったわけじゃないんだよ?
60名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 21:42:20 ID:Rvfbg0F0
秀吉の墓を荒らしたのは家光だったような・・・
61名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 23:39:15 ID:KAmFEtH9
秀吉の墓を破壊したのは民です。

バカ国王さまへの恨み説です。
62名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 23:42:38 ID:KAmFEtH9
つーか墓作る価値もねえよと。
63名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/31(月) 17:12:26 ID:AFO8ZWMU
死人に鞭打つ朝鮮人乙
日本では死人に悪口は言いません
半島へお帰りください
64名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 17:22:15 ID:dq8Y1bQb
豊臣を滅ぼした、徳川は豊国神社を破壊。
その習いに従えば、明治維新で東照宮は焼き討ちにすべきだったな。
文句は言えんよな逆賊徳川。
65名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 17:28:16 ID:YMBdkS+1
家康は、今川の人質時代に遊びで迷惑かけた武士に叱られたことを根に持って後年切腹させるような一面がある
秀吉に臣従させられた意趣返しじゃないの、わざわざ豊国神社に手を出したのは
66名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 20:52:02 ID:WY1Nh8NQ
秀吉は諸国の寺社に弾圧加えてる。
67名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 22:41:32 ID:iK8UEzyZ
>>63
オマエモナ
68名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 21:34:42 ID:u+bGw9H7
>>64
頭悪すぎ
69名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/03(木) 02:07:30 ID:IiENxf8h
>>52
フロイスだっけか?
秀吉の事を嫌われ者だとか、あの人は何するか分からないと
キリシタン大名から忠告されたとか書いてたのは。
秀吉のキリシタンに対する態度も大きく影響してるんだろうけど。

まあ女児まで三条河原で…ってあたりを考えるとなぁ。恨みを
買ってないとは言い切れないが…。
70名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/03(木) 09:51:36 ID:Clo5SHY0
対豊臣に関しては、異常な行動だよね。家康。
ただ、北政所に対しては、厚遇してるから、余計謎。

>69
フロイスは、秀吉を悪く書いてるね。六本指だったとも書いてる。
信長が、召し抱えたのも、当初は指のせいかも。
71名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 06:35:33 ID:QG20fd8C
>>70
異常でもなんでもないが。むしろ、かなり甘い対応している。
72名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 11:25:48 ID:dmkRLTvg
異常に甘いな
15年も大阪城に居座れたのは奇跡
73名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 11:40:50 ID:tLioCQ+/
このスレは明治時代の神仏分離令についてはスルーですか?東照宮は日光だけにあったんじゃないぞ
ttp://www.nikko-shinisekai.com/about.html
日光もヤバかったが運動によって危機を免れた。豊国神社は家康が破却した時は北政所の嘆願で中央部だけは破却を免れている
74名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 15:29:06 ID:Zr0RDfP5
>>70
>>70
北政所を厚遇なんかしてないよ、一時期利用したことはあったが。
北政の嘆願にもかかわらず無視して秀吉の墓をぶっ壊してるし。
それで北政はショックのあまり寝込んでしまったとか。
北政の晩年は幕府に監視されほとんど軟禁状態。
北政厚遇ってのは、徳川の捏造
75名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/06(日) 06:36:31 ID:EC+ySE0N
豊臣家が諸国寺社に対して行った仕打ちからして自業自得。
罰が当たったんだろw
76名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 14:51:25 ID:0aV0NJq0
家康、信玄と昌幸の兵に散々にボコられて関が原や大阪の陣でもジリ貧で
勝ってるし戦上手と呼ぶにはちょっとねぇ・・・
信長の手下で良かったのでは??江戸幕府は金正日とかぶる・・
77名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 15:41:10 ID:KLnUpwee
ドコまで本当なの?
ソースサイト教えて
wikiにものってねーし
歴史本で見たことないぞ

五大老までしてもらったのに
そんなひでえことするかな家康さん
78名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 16:20:20 ID:oFSBPNZD
ソースは梵舜日記
79名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 20:09:25 ID:hZrzX+2w
>>77
秀吉だけじゃなくて、大久保長安の墓も?じゃなかったっけ?
80名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 20:21:36 ID:vlmeuM6P
最上の人達はざまみろと思ってそうだ
81名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 00:35:22 ID:TfcxIk4R
>>80
天国にいる信長をはじめ多くの人がそう思ってるよ
82名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 03:29:05 ID:Sd7ekRno
信長は天国にはいないだろw
83名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 09:06:53 ID:QJ+XbVh6
仏に無礼な家康って朝鮮渡来系?

今、日光東照宮に誰かが放火すれば五分五分かね。
84名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 09:57:24 ID:qwDSd3WM
>>83
秀吉厨のレベルが滲み出ているレスだな。
85名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 10:05:19 ID:Sd7ekRno
明治維新の時に東照宮を燃やそうと提案した薩摩藩を板垣退助たちが必死になって止めたそうだ
江戸城も無血開城したし、将軍や幕臣たちの多くも存命中に名誉回復してる
明治の元勲たちが家康並の陰険野郎じゃなくて良かったな>徳川家
86名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 11:42:38 ID:+rfIYIbo
その日光東照宮で太閤様も祀られてるわけだけど

それに江戸時代庶民のあいだで太閤ブームがあったわけだけど
幕府はなんか反応したのかな

俺は家康と秀吉は仲良かったと思う
87名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 12:28:07 ID:ei+pp6KA
秀吉や頼朝が東照宮に祭られるようになったのは明治以後じゃないか?
新政府が倒した江戸幕府の創始者である家康を、
秀吉や頼朝と一緒に祭ることによって家康の怨霊を抑えこもうとしたのかも
江戸時代でも太閤記や豊鑑なんかはよく読まれて人気だったみたいだが、
幕府もあまりそれは歓迎してなかったようだ
文化元年に絵本太閤記が発禁になったり歌麿が「太閤五妻洛東遊観之図」で手鎖の刑を受けたりしてる
どうやら一時期秀吉をおおっぴらに誉めるとマズイ時期があったらしい
ひどい時代もあったもんです
88名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 13:36:39 ID:IBMvVqTU
壊したのは豊国大社で、豊国廟壊したのは家光だと(ry
89名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 13:37:08 ID:ySDYVwNo
家康がやった手と同じ手で徳川政権も潰されたのが皮肉だな
因果応報だね
90名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 13:42:50 ID:tBQ3Kddi
>>88
秀吉厨に事実を指摘しても無駄だろw
まぁ、畜生塚に比べりゃどうってことない行為だがな。
91名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 13:58:04 ID:ei+pp6KA
家光の時代には既に豊国廟はもぬけの空みたいだったけど?
梵舜日記に夏の陣の直後に崇伝がやってきて秀吉の遺骸の改葬を命じられた、という記事がある
秀吉の棺は方広寺本殿へ縄でくくられて運ばれていったんだとさ
家光は意外にも秀吉を尊敬してたらしくて、後に豊国神社の再建をしようかと逝ってる
まあ結局重臣の酒井忠世の反対で流れちゃったみたいだけど
「鳩巣小説」や「翁草」が伝えるお話
92名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 16:38:23 ID:th/iZkhp
>>90
おいおいwここは秀吉厨の交流所だぞw
まずスレタイチェック
93名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 16:39:53 ID:th/iZkhp
まあ最後に言葉を残すとしたら、





秀吉厨氏ね^^
94名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 18:13:00 ID:ei+pp6KA
アンチ秀吉のレベルが低くて悲しくなるスレだな
95名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 23:46:02 ID:Zoc9IkCS
>>91
たしかに大坂の陣の直後、豊国社は社頭の全面破壊が一旦決定されたが、北政所の嘆願でこの時(家康時代)は中央部は破壊を免れている(「崩れ次第」という条件付きだが)
96名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 09:15:51 ID:AIm+wajg
じゃあ遺骨には手を加えてないよね?
97名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 09:58:54 ID:VRYh+76R
豊国廟から方広寺大仏殿に改葬してるわけだから、「遺骨には手を加えてない」と言えるかどうか
墓暴きであることは間違いないわな>家康
明治時代に豊国神社の跡地を発掘したところ、ショボイ土の甕に突っ込まれた秀吉と思しきミイラが見つかったらしい
改葬するときに木棺からわざわざ移し変えたんだろうな
「縄で棺を引張った」というまるで罪人に対するような扱いといい、やることが一々陰湿と言うほかない
「遺骸を焼いて灰を川に捨てた」という逸話のソースが何かは知らないが、多分これは事実じゃない
98名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 10:15:59 ID:AIm+wajg
なんかショックだな
農民があんなに頑張って天下取ったのに
最後は結局武士のやつらにいいようにされるって
99名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 12:59:41 ID:LOIrDxZ5
敗者と死者に人の尊厳は認められない、か……
100名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 18:35:17 ID:bcvau+8h
秀頼殺した後、速やかに豊国破壊に神号剥奪。
ここまでやる奴は特殊。
薩長鬼畜等の主張有るが東照宮はそのまま。
鬼畜以下が家康。
101名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 19:11:32 ID:HrloILgR
日光東照宮の正面で、幕府の象徴天海像を、明治政府の象徴板垣退助像が、高い位置から見下ろしている件
102名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 20:03:32 ID:Xkfx+Rfj
司馬遼太郎の「城塞」には
「三代家光の寛永14年、豊国廟を悉く打ち砕いてもとの野原にしてしまった。しかもそれだけでなく、豊国廟の東の阿弥陀ケ峰にある秀吉の墓所へも人夫のべ3000をのぼらせて墓石を砕き、墓をあばき、骨をとりすてた」
と書いてあります。
北政所の嘆願を一旦聞き入れて、北政所(寛永元年死去)が死ぬのを待ってて、やったのでしょうか?
103名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 21:12:20 ID:VRYh+76R
しかし秀吉っぽい人のミイラが後にその阿弥陀ヶ峰から見つかってるからね
家光が後に墓を暴いて骨を捨てたんならこのミイラは誰よ?って話になる
司馬遼もそれなりの史料が有って書いてるんだと思うけど、その点はちょっと信用できない
家光が豊国神社の再建を考えてたという話もある
104名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 22:19:36 ID:lT4B7izy
家康は革命家だね、武家革命。
信長は挫折したし、秀吉は堕落した。
成功者家康から見れば、この二人は失敗者。
先行者秀吉のカリスマ性を奪うためなら多少無理なこともやるだろうし、
当時はそういう無理が通った。
105名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 22:22:02 ID:Xkfx+Rfj
うーん、そうねぇ。
秀吉の姉(日秀・とも)が、秀次事件後に尼になって建てた瑞竜寺にあって、ともの死後に、家光が瑞竜寺に寺領と、二条城から客殿を寄進したなんて話もあるし。確かに家光の異父姉・九条完子の祖母の寺だけど、豊臣に関する物を根絶するつもりなら考えられないしねぇ。

秀吉は死後に神になりたくて生前に、死んでも火葬にするな、といってた説もあるよね?
それで、ミイラになったんだろうか?
106名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 00:53:52 ID:bOoyGs1F
墓暴きを擁護するなんて家康厨は日本人の感覚とはずれていますね。
普通に秀吉の出兵を400年たっても恨み続ける特定民族の方でしょう。
107名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 02:42:34 ID:1jFDEaT4
400年も前に墓に陵辱を加えたというんで根に持つほうが特定民族的
108名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 05:27:40 ID:AHH4WLIS
別に根には持ってないだろ
そもそも徳川に対して恨みを抱くべき存在である豊臣家自体がこの世に存在しない
後世の人間が豊臣家の悲惨な最期に同情して、家康の陰湿なやり方を嫌ってるだけだろ
109名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 10:10:24 ID:MA8SsErW
豊臣は滅ぼされたんだから悲惨なのは当然だし、
豊臣側に立てば家康が陰湿に見えるのも当然

アイディア自体は、方広寺鐘銘は崇伝、大坂城攻略法は秀吉自身が出したもので
家康はそれを忠実に実行してみせただけ
110名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 10:56:57 ID:AHH4WLIS
ボスである家康がGOサインを出して実行してるわけだから、
やはり責任は家康自身にあるだろ
秀吉が調子に乗って大坂城の弱点を家康に漏らした、って話ははっきり逝って信憑性に欠けるし

まあ方広寺もそうだが豊国神社破却もおそらく家康の知恵から出たわけじゃなく、
側近の崇伝や天海みたいな佞人が賢しらぶって家康に吹き込んだことだろうとは思う
これ武士の考えることじゃないよ
111名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 12:13:19 ID:RwbnmGNB
>>107 半島の救世主を擁護しようとするあまり、日本語が不自然に
なってきているなww 大多数のというより、おそらく全ての
秀吉厨は秀吉とは縁もゆかりもないので、家康の暴挙を批判することは
できても、根にもつことはできないわけだがwww
112名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 12:37:06 ID:DET47xfy
たしかに、墓や死体に恥辱をあたえるというのは日本では見られない話だよな。
正直、他に聞いたことがない(自分が無知なだけかもしれんが)。
113名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 13:10:56 ID:vGYKSQfD
>>108
木下家

一時期、各家和解の流れがあったけど
徳川家が木下家に謝罪するのはいつの事やら。
114名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 15:17:09 ID:MA8SsErW
>>112
死者に恥辱をあたえるのはおまいらもネットでやってると思うが
115名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 15:29:38 ID:uhKs3gkn
あの時代に農民上がりの人間にいつまでも権威があったら駄目だろ
武家社会の体制維持のために当然の処置
116名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 15:52:04 ID:8cRfdXet
恥辱をあたえられる秀吉か・・・
男色スレで掘られまくってることのほうがよっぽど恥辱だろうなw
117名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 15:59:11 ID:AHH4WLIS
2chで下衆がやるようなことを日本の統治者がやっちゃったから非難されてるんじゃないかw
118名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 16:51:00 ID:I9xthLQj
>>112
徳川家はそういうの大好きなんだよ

幕府は桜田門外の変の関係者で自刃した高多一郎の遺体を見つけ塩漬にして放置
3年後にようやく遺族に返還されて埋葬された

幕府天文方の高橋景保は獄で拷問死したが遺体は塩漬にされて裁きにかけられた
そして死罪と言う事で遺体の首を斬り落とした
死人に口なしと言うが、それにしてもやりたい放題だな
119名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 16:59:56 ID:6KZTiuXm
>>118
この場合、スパイとテロリストなんだから
同列に扱うのはどうかと思う。
120名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 17:05:45 ID:MA8SsErW
>>117
そうか、アンチは下衆だったんだな
121名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 02:46:08 ID:N88b6U67
津田三郎氏の本が詳しそうだったので秀吉英雄伝説の謎を読んだ。それによると
大坂の陣が終わった後、家康が下した沙汰は
・ 豊国社の社頭一円全ての破却
・豊国大明神の神号の剥奪と秀吉の墓を大仏殿回廊の裏手に移し、「国泰院俊山雲龍大居士」として仏法で供養する(つまり神として供養するのはNG)
・大仏殿は天台宗の妙法院が新たに管理
・豊国社の社頭と神官の知行を没収し、豊国社より立ち退くこと。ただし、宮司の萩原兼従は職を解くもの、知行の千石は安堵
・ 大仏殿に新たに千石与える
異を唱えたのが北政所で「崩れ次第になし給え」と嘆願し、願い通り許された(これで豊国社奥の破却は取り消された。神宮寺は別当だった梵舜が賜り、一応供養はできた)
豊国社の破却は二度に渡って行なわれ、とどめをさされたのが1619年で、妙法院が崇伝を味方に着けて梵舜から神宮寺を奪い、豊国社の残骸も含めて建物を解体(ちなみに家綱が豊国社の修復を許した時も妙法院が撤回させた)、同じ天台宗の寺に贈ったりした。
訪ねて来る人もいなくなり、秋に僧が松茸狩りをするくらいに寂れた。明治政府が妙法院から土地を取り上げて豊国社を再興した(千点を越えた品々も流出して八点しか残ってなかった)。
秀吉の遺骸が何処かに移されたとか火葬されたとかの話はなかった(墓泥棒の話はあったけど)。他に詳しく載ってるものがあったら教えてくれ
江戸時代では禁句だったのか忘れ去られたのか、破却から半世紀もしないうちに自然と廃れたものと思われていたらしい
122名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 06:18:15 ID:lViDsdII
寛永6年(1629)に秀吉の三十三回忌が行われたり、
寛文2年(1662)に、諸民が豊国社へ参詣していたらしいから、
廃れはしたものの江戸時代も何らかの形で存続はしてたようだ
ところで妙法院の連中もやることがえげつないなw
豊国神社への参道を塞いで豊国神社にお参りできないようにしたり、
上で>>121さんが書いてるように豊国神社の社領を横領したりとやりたい放題
家康も陰湿だがこいつらは擁護のしようもないな
123名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 11:25:46 ID:/YUxVHY0
遺骨に何をしたか?が問題なんだよね
真相は謎って事なのかな

一昨日の大河ドラマでは秀吉&家康は仲良く立ちションしていました
脚本書いてる人はこのこと知らないのかな
124名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 17:08:13 ID:0uyzaTz+
仲良くではなくね。
125名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 17:14:45 ID:FMibldvU
「関東の連れ小便」の逸話を知らないのか
126名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 17:49:33 ID:0uyzaTz+
腹の中から友好ではない。
127名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 00:25:25 ID:0jDhv46N
グダグダ言ってんじゃねーよ秀吉厨ども
秀吉(豊臣家)は家康(徳川家)に負けたんだよww
所詮負け犬の遠吠えだなwww
128名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 10:51:33 ID:bv0YGJhh
家康は秀吉をどう思っていたかはともかくとして。

秀吉は家康を愛してたと思うけどな
肉親秀次にあんなことしたぐらいなのに。
129名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 12:19:07 ID:03mfu6fS
かなり大事にはされてたよな>豊臣政権での家康
130名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 13:36:08 ID:Clgcwfh+
秀吉「家康たんコワス(´・ω・`) 」
131名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 14:12:07 ID:Pi7hD5FB
日本の本来の信仰形態では、怨霊を鎮めるためにそれを倒した連中が神と
して祀るというものだった。日本で祀られた神社が破却されないのは、
ここら辺が理由。
だが、これは信長の発案だろうが、支配者が神になることでその政権の
基本的な権威となる手法を秀吉と家康は行った。こういう場合は、前時代
の政権者は鎮められるべき怨霊ではなく、政権の正当性を主張し、その
政権を加護する存在であるわけで、後の為政者はそのまま放置できない。
だから、家康はシビアに秀吉から神の地位を剥奪して、一介の仏に落と
した。まぁ、そういうことだ。
明治政府が東照宮を焼く必要がなかったのは、また別の原理、つまり
現人神である天皇を政権の正当性に持ってきたからであって、徳川家を
護持する神君なんぞ放置しておいても問題なかったから。
132あい:2006/09/07(木) 21:04:06 ID:JL6myJIU
明治政府誕生か。辛い歴史だな。
133名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 02:28:00 ID:Tmjy+X2d BE:291111067-BRZ(1313)
薩長も許せぬが家康も許せぬ
秀吉公の墓にそのような・・
だが幕末の徳川幕府は好きなのでそれは目を瞑ってもだ
妙法インは許せぬ妙法インは
今度言って抗議してこようか

薩長の明治政府は豊国社復興したからそれは褒めるべき点
下衆のような薩長でもまだいいところはあったのだな
134名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 02:34:56 ID:24wh7W8I
妙法院は維新の時の廃仏毀釈で寺領が15分の1まで削られたらしいから個人的にはこれでチャラ
横領された豊国神社の社領もこの時返してもらったとのこと
まさしく因果応報
135名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 18:18:04 ID:Zxs3G5IN
保守
136名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 18:25:35 ID:hHP3lnO1
東武鉄道もクソ?
137名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 20:19:54 ID:scLZmWeV
日本人は負け戦大好きだからなぁ
138名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/10(火) 23:51:25 ID:bL+WhrUo
家康は源氏だが、ひょっとして、『平将門」の終大成を

関東でやったとはいえまいか?
139ななしさん:2006/10/11(水) 03:23:55 ID:1FG1zpX5
墓地つぶしは家康の事だから家光に俺が死んだらつぶせと命令していた可能性が大きい
ただ凧揚げの一件だが只のガキンチョとしてではなく人質になった領主って
事で相当な辱めを受けたのかもしれないよ
140名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/11(水) 04:50:09 ID:pWx3U0ci
>>139
でも高台院が生存してる間は無理だろうけどね
141名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/11(水) 12:28:00 ID:G6hqai17
家康が言い掛かりで大坂の陣を起こしたが
みんな見て見ぬふりをして家康に従った
秀吉子飼いの連中ですら結局家康についた
家康が秀吉の墓荒しても同様に誰も諌めようとする者はいなかった

幕末に薩摩が徳川に言い掛かりつけて倒幕を始めたが
みんな見てみぬふりをして親藩ですら薩長に従った
家康像も打ち捨てられて、後に修繕しようとしたが幕臣達も拘わり合いを恐れて
誰一人協力しようとしなかった

因果応報と言えばそれまでだが
いつでも最後は惨めなものだな
142名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/11(水) 12:30:19 ID:Joyrl8qu
それでも徳川家は公爵として存続し、日光東照宮も破壊を免れたんだからまだ恵まれてるといえる
143名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/11(水) 13:06:08 ID:pwi/9QGa
家康は元々執念深いって
大久保長安の遺骸を死後掘り出して晒したり、人質時代に鷹狩で敷地内に迷惑をかけたことに皮肉を言った今川旧臣をずっと後になって切腹させたり
その発露じゃないの?
144名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/11(水) 21:26:26 ID:PB7bte5k
秀吉
145名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 00:23:50 ID:6mV9GSct
>>141
その江戸幕府の後にできた大日本帝国でも末期は国民全員が鬼畜米英を叫んでいながら
進駐軍が来たらみんな180度態度を変えたし
因果応報というより日本人が体制に合わせてコロコロと考え方を改めるだけだ
146名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 18:42:46 ID:U9WN3UMI
考え方というより生き残りのアレだな。
147名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/26(木) 20:10:25 ID:zxoaS729
>>112
明治維新時には政府は会津藩兵の遺骸を埋葬禁止にして朽ち果てるままに
したりしているし、別にネットでよく言われるような、日本人は死者はすべて
神様扱いなんてのは日本人を美化しているに過ぎないと思う。
148名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 13:21:35 ID:6nuS8XYy
日光東照宮って秀吉も祀ってるんでしょ?
149名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 12:54:45 ID:v75xD+QF
>>112
江戸時代まで晒し首とか普通にしてたやん
150名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 16:04:00 ID:rNRgrYWa
>>147
江戸時代以降は朱子学がかなり浸透してますからねえ。
攘夷だの尊王だの、明らかに明治維新は水戸学(朱子学)を濃厚に含んでいる。
151名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/12(日) 02:39:24 ID:ryPElfC3
権力者になるようなやつはやっぱり執念深いうえに徹底的にやるよな
旧体制や叛乱分子を抹殺しみせしめにするのは効果的だ
152名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 00:40:56 ID:xEy2AqjY
江戸時代の歴史書などでは秀吉(というか豊臣家)はどんな扱いされていたの?
墓まで暴かれて骨を捨てられるくらいだから、暴君的な扱いなのか?

153名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 01:01:09 ID:1/6kiVsu
秀吉は江戸時代も大衆的な人気があったし、幕府も何だかんだ言って多めに見てた
秀頼は存在自体がタブーだった
そりゃ儒学を信奉してる江戸幕府の創始者が主君殺しなんてまずいわな
154名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 01:52:09 ID:bTakoG5s
江戸時代でも信長、秀吉は人気があって家康は人気がなかった
当時の講談でも徳川は悪役が多い
155名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 18:48:30 ID:8P264Jzu
まあ後世的にどんなにすばらしい統治であっても常に悪役にされるのは為政者だろうね
156名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 06:08:56 ID:JecUhN9Z
家康が秀吉を嫌いだったというより、
単なる統治政策かもな。

事実、秀吉は庶民の英雄ではあったが神ではなくなった。

秀吉には晩年に信長の夢をみて怯えてたという逸話があるが
家康が秀吉を個人的にどう思っていたかはよくわからないね。
157名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 07:19:16 ID:DjnmXpiP
晩年の家康は今川の人質時代のことも好んで語ったが、
信長のことは決して語ろうとはしなかった、という逸話が残ってるね
家康が秀吉をどう思ってたかは記録に残ってないが、
まああまり好きじゃなかったんじゃないかな
158名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 08:06:24 ID:cZgxavPC
まあ、反徳川のシンボルになることを
恐れての政治的な措置だろうね、豊国神社については。

木下家とか浅野家とか親戚筋が普通に残ってるから
豊臣家が個人的に憎かったということではなかろう。
159名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 10:45:37 ID:gYGP+lKC
家康が平和を創って納得していると思うよ秀吉は。
160名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 12:09:08 ID:DjnmXpiP
息子や孫を殺されて自分の墓まで破壊されたのに、果たしてその平和に納得できるかね
そんなの余程の聖人君子だけでしょ
161名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 13:39:48 ID:5xoKf9e5
秀吉公は聖人君子ですから^^
162名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 17:52:53 ID:7HxzNVJU
>>156-157
家康は秀吉とはもう決裂しかないと何度も思ったそうだ
その度ごとに、いやまてと考え直したという
信長と同様、秀吉についてもあまり良い印象はないだろう
163名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 19:31:14 ID:gYGP+lKC
テレビドラマとかの秀吉だったら、

(あの世から)秀吉「家康殿、ようやりましたな。秀頼のことはお気にせず」ってな。
164名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 16:50:18 ID:HzecO8+8
家康も悪党だが秀吉もそれに墓の下から文句を言う立場じゃない。

家康は秀吉に恩義はないが、秀吉は織田家にどれだけ恩のあることか。
165名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 16:59:57 ID:VgG66lfC
甲信駿遠三の五ヶ国150万石から関八州250万石になったのは豊臣の恩でしょ>家康
諸大名を疲弊させた朝鮮出兵の兵役も免れたり、豊臣政権での家康の優遇っぷりは異常
それを恩が無いなんてちょっとどうかしてるんじゃないか
166名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/24(金) 18:24:25 ID:pn4fBZ+r
>>165
それ、取り潰しの口実をもうけるための秀吉の罠でしょ。
拒否すれば織田信雄の様に取り潰し。
統治に失敗すれば佐々の様に取り潰し。

本当はどうだったか不明だが、
家康が恩と感じてなけりゃ話にならんよ。
167名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/24(金) 19:15:57 ID:3KuZi1jB
確かに100万石プラスは大きいと思うけど
そのかわり三河譜代の根城三河や、長年いくさに明け暮れてようやく手に入れた遠江、駿河。
家臣団強化のために旧武田系の武将の根城甲斐、信濃・・・
これを所領が大きくなったとはいえ、善政で有名な北条が抑えていた
なおかつ未発展で京から遠い等さまざまな難関が待ち構えている関東に領地替え。
結果的には朝鮮出兵にかかわらず関東の発展に十年つぎ込んだ家康が豊かな土壌を手にしたけど
当初は最悪な状況だっただろう。恩に思えとはちょっとなぁ

168名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/24(金) 20:23:41 ID:1GBJ83sq
家康が朝鮮に行かなかった理由が、
「北条の残党が乱をおこすかも」
というもの。

それが認められる状態だったんだろ。
家康自身気が進まなかったのは間違いないが。
169名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 11:11:55 ID:ScnLUaNo
>>112
吉良上野介(一発変換できないのは時代のせいか)の墓石も何度か倒されている。
170名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 11:58:18 ID:Xgfv4XbP
天海が秀吉と家康を隣同士にまつった廟があるようだけど、どういう意味だ
様式を見るに日光東照宮の試作品らしいけど。
171名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 03:14:29 ID:G0QBmsYU
秀吉が日光東照宮に祭られるようになったのは明治維新後のことでしょ
江戸幕府を滅ぼした明治政府が家康の怨霊を抑えるために秀吉も祭った、と個人的に見てるんだけど
それとも天海の頃から祭られてたのか?
172名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 13:14:15 ID:4928vBMI
義元の偏諱を嫌って改名した家康だが
秀吉の偏諱はそのまま秀忠に名乗らせていた。
秀吉に対して一片の敬意はもっていたのだろう
173名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 13:43:29 ID:d4+jTtXA
秀忠が嫌いなだけ
174名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 15:05:26 ID:4vM1GRUs
豊臣家が完全に滅びた1615年の時点では秀忠も35歳のおっちゃん、
しかも家康から正式に権力を委譲された二代目征夷大将軍だったわけだから、
「秀」の偏諱を残したのは家康じゃなくて秀忠本人の意思でそ
大坂の陣で対豊臣家強硬派だったと伝わる秀忠が
何故改名しなかったのかはちょっとわからないが、
単に面倒くさかったからかも
175名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 18:39:26 ID:p64l1u6X
>>169
権力者が酷いことをすれば非難するのが良識
というのは死人の墓を壊すなんて家康は酷いやつだ!ともなれば
吉良の横暴のせいで浅野のみならず赤穂浪士まで死んでしまった!
吉良はなんて酷いやつなんだ!ともなる

吉良はじっさいは何も悪いことしてないんだからよけい可哀想だな
176名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/04(月) 20:21:44 ID:25qgXych
信長さんの桶狭間のおかげで今川からやっと独立の糞川(笑)
信長さんのおかげで駿河をとれた糞川(笑)
信長さんが武田さんを滅ぼし関東にやってきた一益さんを
追っ払った北条さんのおかげで甲信とれた糞川(笑)
秀吉さんが北条さん倒して倍近くの石高まで加増してもらえた糞川(笑)
石田さんのおかげで天下がとれた糞川(笑)

この常に誰かに面倒みてもらってる姿がニートの心を鷲づかみ。
177名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/31(日) 13:20:13 ID:E/RrNTIq
率はともかく量でいえば秀吉が最も加増したのは実は家康に対して。僻地の江戸等の捏造も実に卑劣である。
178名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/12(金) 14:39:47 ID:eJ9kyqm6
家康嫌い房ばっかだなw
墓の話だと、高台院が秀吉と自分を弔った高台寺は壊されてないし、つーか家康が建ててあげた物なんですが?それはどーしてでしょう?
179名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/12(金) 15:40:11 ID:xejcAgMb
既に過去レスで答えは出てるよ
豊国神社が秀吉を「豊国大明神」として祭ってるのが新時代の支配者である徳川幕府にとって都合が悪かったから
高台寺は秀吉を弔うだけでそれ以上のものではないから捨てておいても問題ないと判断したんだろう
・・・こんなことまで気を遣って哀れな男だな、家康は
最晩年の秀吉が重臣たちに泣きながら秀頼のことを頼んで逝ったが、
家康も同じように自分の死後の徳川家が心配でならなかったんだろう
徳川幕府の支配体制を少しでも揺るがす可能性のあるものは
自分が悪名を蒙ってでも潰しておきたかったんだろうな
180名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/13(土) 10:48:54 ID:OqwgmiqK
高野山に秀吉の墓あるよ
181名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/14(日) 11:30:04 ID:AaxEDjia
秀吉の骨はどこにある?
182名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/15(月) 08:11:00 ID:ZSYvg8tT
>>174
ヒデって当時は最高にCOOLな名前だったんだろうね。
183名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/15(月) 19:45:49 ID:sV8rrRuo
>>180
それ観光用の墓だよ
頼朝や秀吉や信長の墓は全国に10箇所くらいある。
要するに坊主は嘘つきが多いよ
184名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/18(木) 10:15:37 ID:8YNU+TyP
信長は家康の子供を殺し
秀吉は信長の子供を殺し
家康は秀吉の子供を殺した
185名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/18(木) 10:32:41 ID:igMlpasF
そして俺は奴に殺される。
186名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/18(木) 10:52:27 ID:66MwnVLx
>>184
因果応報だなあw
まあ最近では信康殺しは家康主導だったんじゃないかという話も有るけど
187名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/18(木) 10:56:51 ID:7xmK/FIK
>>183
ちょーwww
観光用の墓ではない。
高野山という山岳宗教地の有り様を誤解しているぞ。

高野山は宗旨関係無しの「日本の総菩提寺」
鎌倉源平時代の昔から、実際の埋葬墓から分骨したり
供養塔としての墓を建立することが広く行われていたのだよ。

>坊主は嘘つき
って知識なさ過ぎw、
真に近親者の建立した回向のための墓や
その人物がその寺の大旦那であった場合なども
供養として墓や廟を建立するもんだ。

義経や静の場合は、もう土着伝承や色んな事情が混ざってるだけ。
188名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/18(木) 12:17:03 ID:wmaQR4Sw
厨、オタども無意味な言い争いはやめろ。
そんな昔のことなんかどうでもいいやんか。
他にやることないんか?
189名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/18(木) 12:54:09 ID:ZD+2lX59
秀次さんの墓は有るのでしょうか!
190名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/03(土) 02:29:44 ID:wTCkjaH/
だけど信長に破壊された信玄の菩提寺は建て直したお
191名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/03(土) 10:38:34 ID:RJG7OP8B
>土着伝承や色んな事情が混ざってるだけ。

192名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/08(木) 09:54:51 ID:Nup1RSNF
秀吉の墓を破壊したのは三代将軍家光だったと思うが・・・
193名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/08(木) 13:05:16 ID:teXP1HcS
それは俗説
194人間七七四年:2007/02/27(火) 10:18:11 ID:+HHVHko4
高々足軽ごときに天下取られて悔しかったんじゃないか
徳川身分にこだわるしな
195人間七七四年:2007/02/28(水) 02:39:02 ID:hPEr2M7e
青春18きっぷで行こう!
京都御所「春の一般公開」4月4日から
2007年02月27日19時10分
 宮内庁京都事務所は27日、京都御所(京都市上京区)の
「春の一般公開」の日程を4月4日から同8日までと発表した。
今季のテーマは「御所の年中行事」。舞妓(ぶぎ)姿などの人形15体が
小御所や御学問所などに飾られる。公開中の7日午前10時と11時に雅楽、
8日の同時刻に蹴鞠(けまり)が披露される。入門は午前9時〜午後3時
196人間七七四年:2007/03/26(月) 13:34:14 ID:/hGGXIH+
>>1
ありもしなかったことをあったかのようにいう秀吉厨
197上州人:2007/04/14(土) 17:06:55 ID:qiC3cRqe
秀吉厨の方はうそつきが得意で砂。
秀吉もあきれ返ってその愚かさを見ていることでしょうな。
家康をけなすことは得意だが、秀吉を評価する事ができないのも
私でさえわかりました。
198人間七七四年:2007/04/14(土) 17:16:51 ID:HjCqABJM
日本語でおk
199人間七七四年:2007/04/19(木) 15:18:46 ID:BZS2ykvQ
>>1
生前鬼畜の所業しまくりの秀吉の墓など破壊されてもおかしくないわ。
200人間七七四年:2007/04/19(木) 20:54:29 ID:8IMHnSvK
じゃあ家康の墓も破壊されて当然だなw
まあ薩長の田舎侍はマジで東照宮を破壊する気満々だったようだが
201人間七七四年:2007/04/20(金) 00:50:40 ID:Y9+vNYdQ
微々たるものだけど、徳川は寺社保護してるじゃん。
202人間七七四年:2007/04/26(木) 13:00:49 ID:999yzQbh
秀吉の墓を壊したというより、秀吉を神格化した神社を否定した、
そのため神社を壊した、というのが真相なんだよね。
当然といえば当然でしょ。
そんな神様いないんだから。
203人間七七四年:2007/04/26(木) 13:05:35 ID:UaILY8Hd
そんなん言い出したら天満宮や東照宮も壊されて当然ってことになるんじゃね?
ていうか日本の神社殆どアウトなような
204人間七七四年:2007/05/08(火) 12:34:41 ID:MyfwHVv5
>>13
恩は無かったと思うよ。小牧長久手の時点で、覇を争う敵対関係にあり、
政治的に圧倒されて、秀吉の天下が続く時代は我慢して、従っていたまで。
関東に封ぜられたのも、受容れただけの事であって、大禄に感謝するというの
は、違うと思われる。元々、駿遠三に信濃、甲斐まで従えた大大名だか
らね。先祖代々の土地を奪われて、不満はあったはず。しかし、その先の秀吉
後の到来が見えてたから、平気だったんだろう。武家政権を築きやすい関東が、
偶然にも手に入ったというのも、あったろうし。
205人間七七四年:2007/05/08(火) 12:40:50 ID:MyfwHVv5
とよくに廟は、破却されたが、秀吉の阿弥陀ヶ峰の墓所は、立入が禁ぜ
られて、要は、棺はその山の上で、雨風に晒されるほったらかし状態に
なったんじゃなかった?まあ、そういうのを、墓が暴かれると言うんだ
ろうけど。それで、明治になって、明治天皇により、秀吉の名誉が復活
されると、豊国神社の復活に伴い、墓の発掘が行われて、その際、空気
に触れた遺体は瞬時に崩れ落ちたとか・・・。
206人間七七四年:2007/05/08(火) 12:48:56 ID:MyfwHVv5
>>174
偏諱は、武家、遡って公家にもよく行われた、しきたり。
時の権力者・武家の元締めである秀忠が、既に天下から転落した豊臣氏とは
言え、一字を受けた、その時の天下人の諱名を捨てたとあっては、天下に示
しが付かぬとの、判断ではなかろうか。冷静な考えだと思われるが。
207人間七七四年:2007/05/08(火) 13:01:37 ID:MyfwHVv5
>>55
家光は、一時、豊国社を再建しようとしてたんじゃなかったっけ。
酒井某に諌められて、止めたとか。
208人間七七四年:2007/05/08(火) 18:45:42 ID:c8faAQOj
自分の墓を用意して、6年間死を待ち続ける男
http://news.ameba.jp/2007/05/4583.php
209人間七七四年:2007/05/08(火) 23:42:18 ID:5WM6s0JL
別に淀も秀頼も一度だって参拝していないし、する気もなかったんだからいいんじゃないの
家族ですら行きたがらない場所が壊れた程度のことなんて気にする方がおかしい
210人間七七四年:2007/05/09(水) 00:01:58 ID:mMhHNfO8
高台院や瑞龍院は参拝してるだろ>豊国神社
211人間七七四年:2007/05/10(木) 07:38:14 ID:3+dp0zEV
豊臣と徳川は協力して朝鮮を征伐すべきだった
212人間七七四年:2007/05/10(木) 09:31:18 ID:QVxX7OOE
豊臣が徳川に待機命令を出したんだろ
213人間七七四年:2007/05/10(木) 19:25:47 ID:R3m9+7Xd
家康がうまく逃げた。
それを、見逃した時点で、秀吉の耄碌が伺える。
冴え渡っていたころの秀吉なら、絶対に見逃さなかったはずだ。
家康にしたら、この時、天下が見えたんだと思う。
考えたら、セコイな。そういう意味じゃ、出兵に反対した秀長、
秀次は正解だったんだな。
214人間七七四年:2007/05/10(木) 19:44:01 ID:vB64zADM
秀吉は初めから失敗すると思ってやってないだろ
大大名の徳川が順当(秀吉的には)に成功させたら困ると思ってたんだろうな
215人間七七四年:2007/05/10(木) 23:01:43 ID:kJJxomXz
秀吉からすれば
家康が参戦して15万の兵を掌握して司令官の立場を築いてしまったら
実質的には征夷大将軍になったも同然となる
だからどうしても豊臣の軍事力だけでやる必要があった
216人間七七四年:2007/05/11(金) 12:44:25 ID:u3tiTzGd
野望を抱く割には、なんとなく弱みを握られている。
晩年の秀吉には、やはり羽柴時代の冴えがない。
与える領地が無いのは、周知だが、やめときゃよかっ
たのに。徳川は、国内だけで、やっていけたのにね。
八方美人では、成り立たない。
潰す大名は、徹底して潰すべきだった。
余命が長ければ、時間を掛けても、家康を攻め殺さねばならなかった。
(秀長が進言したように。)そうでなければ、真の天下統一にならなか
ったと言えるんじゃなかろうか。
家康は、その後、国内を2分して、乱暴な言い方をすれば、半分
大名を削減できた。考えれば、秀吉の国内統一事業があ
ってのお陰だな。

217人間七七四年:2007/05/11(金) 23:36:44 ID:Ui2Yn4ol
スターリン
徳川家光
徳川家康

自分における歴史上最大害悪ランキングトップ3
考えるだけでも憎たらしい
218人間七七四年:2007/05/12(土) 00:41:55 ID:hb2BW6n+
>>217
理由言えよ、興味深い
219人間七七四年:2007/05/12(土) 02:29:54 ID:7XNLWSya
秀吉の日光東照宮たてたのは、たしか明智光秀と、大奥の誰かと関係なかったっけ?

TVの受け売りだけど。
220人間七七四年:2007/05/12(土) 12:17:03 ID:d6JNhZhu
>>218
アンチ感情に理由を求めても・・
221人間七七四年:2007/05/14(月) 14:01:45 ID:Mi9EkSPN
文禄の役(1592年)で朝鮮を侵略して、朝鮮人に酷い事をした日本軍司令官の子孫が、
韓国を訪問して日韓友好の為に謝罪してますよ。

【日韓】壬辰倭乱日本軍総司令官17代孫「先祖の代わりにお詫びします」[07/05/14]
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1179113338/
dat落ちミラー http://p2.chbox.jp/read.php?host=news21.2ch.net&bbs=news4plus&key=1179113338&ls=all

宇喜多秀家の子孫、韓国で先祖の不徳を謝罪
http://news23.2ch.net/test/read.cgi/news/1179112103/
dat落ちミラー http://p2.chbox.jp/read.php?host=news23.2ch.net&bbs=news&key=1179112103&ls=all

 
222人間七七四年:2007/05/15(火) 08:21:52 ID:pSQ+vqZa
>>127

二人が存命中は、秀吉の方が政治的に圧倒、圧勝していたのをおまえは、知らないのか。
死後、徳川に敵うものが存在しなくなっただけだ。
馬鹿だな。
223人間七七四年:2007/05/15(火) 12:35:47 ID:yKsFicRD
このスレはネタスレ?
本気で書いてる人が多いのか?

変人は置いといて、対豊臣に対しては異常とか本気で思ってる人がいるんだ・・・と。

根絶やしにしないと安定した政権にならないっていう、それこそ前例から学んだ結果
だと思われるのだが、本気で謎だとか思ってんのかね?

根絶やしにする事の善し悪しではなく、そういう状況を見てきた家康の結論。
時代とかいろいろだろ。
224人間七七四年:2007/05/15(火) 12:39:27 ID:yKsFicRD
>>204 とか >>205 とか >>213 とか。

、 が多すぎじゃね?

とか全然関係ない事を考えてしまった。
225人間七七四年:2007/05/15(火) 12:56:12 ID:kHxLSo5f
西村京太郎とかに影響受けてるんじゃね
226人間七七四年:2007/05/15(火) 14:33:26 ID:pSQ+vqZa
>>223
秀吉は織田家を根絶やしになどしていない。
信雄の如き愚人は、安全だから残した。
武田家だって、のちに幕府高家に名を連ねており、信玄次男龍芳の系統が
存続してるんだ。あの、信長さえ、根絶やしは行っていないんだ。
豊臣も、秀勝、秀次の女系と、日出藩の伝説が残ったとはいえ、一般に言
われている根絶やしが、通説ならば、徳川は、やりすぎである事に違いはない。
227人間七七四年:2007/05/15(火) 14:49:02 ID:ByKWj14W
信玄の悪逆非道に比べたらまだマシだろ
228人間七七四年:2007/05/15(火) 15:18:26 ID:kqey0Ebx
余談だが。
豊臣秀吉をまつる豊国神社の南のほうに、
側室の淀君が、父浅井長政と母お市の菩提寺として創建した養源院がある。
淀君は大阪城において非業の死を遂げたが、養源院は、
将軍徳川秀忠の妻となっていた淀君の末の妹、お江与によって維持され、
姉の淀君を両親同様、この養源院に弔った。
お江与の娘で、後水尾天皇中宮となった東福門院徳川和子も、
祖父母の眠る養源院を庇護したらしい。
229人間七七四年:2007/05/15(火) 16:15:23 ID:NtsEejV2
家康,秀忠は大坂の陣の後の豊臣恩顧の大名潰す理由が残虐。
自分の娘でもないやつを送り込んで毒殺で改易とか頭狂ってやがるな。
秀吉は大名から優秀な部下引き抜いて弱体化しようとしてるが
殺そうとはしてないからな。
むしろ優秀な人材で西欧諸国と対等に戦えるようにしようとしたと思う。
家康は対外勢力なんて目に入ってないな。
戦国末期とはいえ歴戦の武将を簡単に殺したり流罪にしたりと
大坂の陣直後にポルトガルやらが攻めてきたら今頃俺ら日本語
話してないかもな。
230人間七七四年:2007/05/15(火) 16:38:49 ID:uw7SExGt
前世代の為政者の墓を暴いてその権威を貶めるなんて大陸ではいざ知らず、
本朝では空前絶後の暴挙ですが・・・>家康の豊国神社破壊
日本人なら生まれつき備わってる基本的な倫理観が欠如してたとしか言い様が無い
231人間七七四年:2007/05/15(火) 17:02:41 ID:2uN4VwA0
要はそうまでしないと安心できないミミッチイ男だった。
とても天下の器では無かったということを証明していますね。
232人間七七四年:2007/05/15(火) 19:24:21 ID:oox9LgsE
秀吉の墓は耳塚だろ
ちゃんと現代まで破壊されずに残っているから問題ない
その他のどうでもいい装飾品は壊れてしまったがたいした意味はないからどうでもいいことだ
233人間七七四年:2007/05/15(火) 22:41:45 ID:Yld2hP/K
>>226
ただでさえ少ない豊臣一族を少しでも増やそうと秀次が努力したのを
秀吉が皆殺しにして絶滅寸前に追い込んだんだろ
さらに唯一人残った秀頼にもろくな教育を施さずアホのマザコンにしてしまった
家康が根絶やしにしたわけじゃなく秀吉が自分でトキやニホンオオカミのようにしただけだ
234人間七七四年:2007/05/16(水) 05:59:02 ID:T8kGRvYg
秀吉が死んだ時は秀頼はまだ幼児、その後の教育に関しては秀吉の関するところではないだろ
無茶苦茶言うなよ
235人間七七四年:2007/05/16(水) 06:43:34 ID:+AF2m9Z5
養育を淀に預けっ放しにしたうえ
15になるまで一歩も外出させるなと命令したのは秀吉だろ
236人間七七四年:2007/05/16(水) 07:40:41 ID:T8kGRvYg
淀に養育を預けっぱなし?
ちゃんと死没前に利家・且元と複数の傅役を付けてるが>秀吉
それに秀吉が秀頼に対し大坂城から一歩も出るな、なんて命令したことは無い
それまで過ごしてた伏見城は諸大名が叛意を抱いた場合心もとないから
難攻不落の要塞である大坂城で養育するように、と逝っただけ
これを拡大解釈して本当に大坂城から出なかったのは笑えるが
237人間七七四年:2007/05/22(火) 12:41:53 ID:/knnkkOK
豊臣家に不幸だったのは、養子政策の後期に、実子が出来てしまったことだ。
秀次は、豊家の為というより、二世を継いだ、豊臣関白家の世継ぎにせっせと
子作りしていた訳で、言うなれば、己の後継者であり、秀吉の子孫とは、一枚、
区分のようなものがあったろう。そのことが、実子(ここではDNAは、話を別と
する)が出来た秀吉には、到底我慢できないものがあった。
天下をとった功績者は秀吉公、しかしこの後未来を担う豊臣家は文の君・秀次の子孫・・・
それでは、立つ瀬がなかったんだろう。そして、秀次以下、甥っ子の粛清が始まった。
完子のような、徳川にも関係(お江与の娘)という、幸運な子しか、生き残れる要素は
残されていなかった。
238人間七七四年:2007/05/22(火) 14:11:04 ID:Zzcretoc
>>217
毛沢 東 が入ってないぞ!
239人間七七四年:2007/05/22(火) 17:35:04 ID:erGX7/v/
>>229
日本語でおk
240人間七七四年:2007/05/22(火) 17:38:06 ID:erGX7/v/
>>238
ヒント:支那畜の書き込み
241人間七七四年:2007/06/15(金) 04:00:03 ID:SYIU1aq+
なんか明らかに秀吉vs家康って構図で2ch進行してますね
信長なんかカエサルなんかと比べられてるのに
相当な恨み合いの因縁がこの二人のファンにはあるんですねぇ
怖いですね
242徳川家康:2007/07/04(水) 13:18:10 ID:rwCblCUx
>>1
お前朝日姫の霊魂かなんかだろ?
未だに恨んでるんだな お前ら?
こえー 一族消えちまえ お前らなんかよwwwwwwwwww
243徳川家康:2007/07/04(水) 13:48:58 ID:rwCblCUx
>>1
いろんなスレで徳川叩いたり秀吉擁護してるよな?
お前
244人間七七四年:2007/07/24(火) 11:26:50 ID:tKmpHbFA
>>115
松平も三河の土豪。武家の棟梁になぞ、まったく相応しくない家柄。
まさか、あんた本気で、徳川家が、源氏の子孫だなんて思ってないだろうね。
そういう意味じゃ、徳川も海千山千なんだよ!
245島津ヲタ:2007/07/24(火) 12:59:18 ID:FC6rBXyr
つーか、家康は天下取ったというより、秀吉からタナボタでもらっただけ。
だから、棟梁を名乗る資格すら持っていない。
家康がそこまで運よくいけたのも気が狂ったとしかいいようがない
ダブル本田(忠勝、正信)、井伊、榊原などが運よく仕えたから。
そういう意味では家康はおとなしく三河の小大名のままだったら
ここまで評判は悪くならなかった。あいつはでしゃばりすぎたんだ。
246仙台藩百姓:2007/07/24(火) 14:15:12 ID:w0BqaTWC
松平なんかより大久保の方が余程名門だおね( ^ω^)
247人間七七四年:2007/09/06(木) 15:37:08 ID:7+XLZERi
久能山に三英傑の像があるはずなんだが、これも明治時代?
248人間七七四年:2007/09/09(日) 09:51:00 ID:k58T55lO
秀吉だって主君だった織田家を支えるどころか
幼い遺児の三法師を利用するだけして
自分が天下人になって美味しい思いしたでしょ。と言うのは禁句なのか?

死ぬ間際になって、自分が三法師にしたことを
誰かが拾丸にするかもしれないと考えたら恐ろしくなったんでしょ。
予想通り、家康が豊臣家のためと言いながら自分が天下人になっちゃった。
徳川の最後が豊臣家へしたことの因果報酬と言うなら
豊臣の最後も織田家へしたことの因果報酬と言える。
まあ、因果報酬なんて思想は信じないけど。
249人間七七四年:2007/09/09(日) 21:17:41 ID:D3c4SXTr
日吉東照宮でも秀吉が祭られてるな。久能山と同じく明治の物かは行ってみないとわからん。

>>248
実力あるものが天下を治めるで俺はいいと思うね。
秀吉が関白になって主従逆転させてるんだから、家康が右大臣になり征夷大将軍になったところで主従逆転でも構わない。
ただ、秀吉が前政権の血族に厳しかったとなるとそこまでではないと思ってるが。
250人間七七四年:2007/09/09(日) 23:34:36 ID:IOl4FR2c
秀吉オタの家康に対するコンプレックスが情けない
おとなしく負けを認めたらどうだ?
お前ら負け犬なんだよ
251人間七七四年:2007/09/11(火) 04:30:31 ID:8LjQEgk0
秀吉本人も秀吉厨もコンプレックスを感じるとしたら家康なんぞよりも信長だろうw
逆に家康は信長・信玄・秀吉と色んな武将にコンプレックス感じまくりで気の毒な印象
晒す気はないのでURLは出さないが某家康厨がやってるHPも随分酷かった
世間で家康の人気が今一つで信長・秀吉が持てはやされてる現状に恨み言言いまくりw
ああいうのをコンプレックスというんだろう

>>248
それをいうなら因果応報ではないのか
252人間七七四年:2007/09/11(火) 13:52:27 ID:ogscouPt
家康は徳川幕府として260年も天下治められてたからいいじゃないかwww
好きじゃないけど戦国で1番の勝ち組
勝者だからこそ今取り立てて褒める気は起こらない
253人間七七四年:2007/09/12(水) 06:33:46 ID:mVCeuYL0
なんで秀吉だけ暗殺された疑惑が立たないの?
254人間七七四年:2007/09/16(日) 11:50:05 ID:tmeuE7p3
極悪非道
255人間七七四年:2007/09/16(日) 16:24:57 ID:klupWUNA
>>1
中国や韓国や朝鮮などでは、歴史的に死者に鞭打つのが普通にあったよ。
家康の先祖も中国や韓国や朝鮮などじゃない?
256人間七七四年:2007/09/16(日) 16:28:05 ID:7ufpy+qI
古代に死者を鞭打つのは宗教的な意味だけどな

鞭打つことで死体に魂を呼び戻す。

邪悪な魂が復活しないように肉体ごと魂を鉞で滅する。
257人間七七四年:2007/09/16(日) 22:36:02 ID:YI6VpE1t
呉の伍子ショウの故事だろそれは
258人間七七四年:2007/09/16(日) 23:20:49 ID:Yn4/HaxO
伍子胥以外でも散見できる故事だがな。死者への鞭。
259仙台藩百姓:2007/09/16(日) 23:51:05 ID:8HYckU1V
因みに家康は鶴松の菩提寺も潰しているお( ^ω^)
260人間七七四年:2007/09/16(日) 23:54:36 ID:y2ytWJ1I
昔、興福寺と近衛家の当主が喧嘩したときに興福寺が近衛家の墓を破壊したので近衛家の廟所は大徳寺にある。

墓破壊くらい探せばもっとありそうなものだけど。
261人間七七四年:2007/09/17(月) 00:37:58 ID:F55KV+Li
江戸時代でも秀吉の方が人気あったけど
子供の秀頼に触れることはタブーだったそうだな
家康が主君の子を自害に追い詰めたのはやましい事と
江戸時代の人も心では分かってたのかね
262人間七七四年:2007/10/09(火) 22:09:17 ID:TtmNCgL/
あげ
263人間七七四年:2007/10/10(水) 22:11:39 ID:lfNcxo6h
家康GJ
264人間七七四年:2007/10/11(木) 18:54:25 ID:IbrfXsCK
家康厨の哀れな法則w

「秀吉の墓を暴くなんて、日本人じゃない。残酷すぎる」という反論に「数百年も経っているのに、おまいはアホか」と嘲笑
そこで「明治政府が東照宮燃やしたら大変だったね」というと「民度が低脳」といって逃げ出しますw
265人間七七四年:2007/10/14(日) 17:36:52 ID:N2v/gUOe
現在確認されている秀吉の墓は329基。
内歴代徳川家によって破壊、毀損されたもの221基。
建てるほうも建てるほうだが、壊す側も常軌を逸してます。
266人間七七四年:2007/10/14(日) 17:45:40 ID:2XJB74JK
中国の話だが皇帝とか王侯の墓とかが、
むやみやたらに立てたられていたのを
棄却したことが、行政手腕として褒められていたのを思い出した
267人間七七四年:2007/10/21(日) 11:39:09 ID:qGLiWvDH
明治時代になって豊国廟で発見された秀吉のものと思われる瓶に入れられた遺骨。
江戸時代を通して風雨に晒されていたものを、
明治天皇が日本の歴史に貢献した人物ということで秀吉の遺骨も丁寧に埋葬されなおしたとか。

この埋葬され直した本当のお墓って、どこなんだろう?
阿弥陀が峰の頂上、500段の階段登った10メートルの塔の下なのかな?

268人間七七四年:2007/10/21(日) 23:25:34 ID:Lo4GwnuT
>>264
>「明治政府が東照宮燃やしたら大変だったね」
大日本帝国は日本国中を焦土にしてるからたいした問題じゃないね
269人間七七四年:2007/11/07(水) 15:06:15 ID:UyIXHDi1
淀殿と秀頼は淀殿の実家に当たる浅井家の菩提寺で弔われてるらしいが
270人間七七四年:2007/12/11(火) 18:35:06 ID:mQttRr8S
【2万人くらいに聞きました】 お墓参りってよく行きます?
http://news.ameba.jp/research/2007/12/9320.html
271人間七七四年:2007/12/18(火) 01:26:24 ID:BaJz4nTx
今度豊国神社行くからついでに豊国廟も行こうと思ってたんだけど…京都のガイドマップの豊国廟の紹介文に「単独行動は避けること」って書いてあったんだけど…何か危険なの??分かる人いる??
272人間七七四年:2007/12/18(火) 02:03:26 ID:nuFOanVX
明治新政府といっても旧譜代旧親藩は普通に残っていたわけで...
東照宮焼こうもんなら旧譜代旧親藩の猛反発にあって維新頓挫は必至でしょ
そのおかげか、徳川、松平一門でまともに新政府に抵抗したのは会津と桑名だけですから。
維新後爵位もらって政治に参画してる連中もいくらでもいますしね、、、
秀吉に子孫が溢れるほどいて、皆恭順してたら豊国神社は普通に残ってるよ
273人間七七四年:2007/12/18(火) 03:13:42 ID:IGerGTQo
>>272
>>子供が〜
早く居たらそもそも家康が天下とれるか不明

>>譜代
いや…もう譜代もなにも無理だろ…常考
274人間七七四年:2007/12/18(火) 04:24:39 ID:AZoJ4MuG
>>271
ひと気がないから危ないって意味じゃないかな?
墓場って静かな場所が多いし…。
275人間七七四年:2007/12/18(火) 09:48:46 ID:a3Ff6GJq
>>271 徳川厨に襲われる
276人間七七四年:2007/12/18(火) 19:39:36 ID:BaJz4nTx
>>274
やっぱそーゆう意味なんかな??レスサンクス!!

>>275
それは恐ろしいww
277人間七七四年:2007/12/18(火) 20:25:54 ID:Q0drPAVR
明治政府は反徳川幕府で徳川に滅ぼされた豊臣を持ち上げたんでないの?
278人間七七四年:2007/12/18(火) 21:14:35 ID:wOlXkKQi
書きこできん
279人間七七四年:2007/12/19(水) 07:03:37 ID:cUcqdwSi
1
280人間七七四年:2007/12/20(木) 20:09:34 ID:rwl1r+gB
>>271
人隠しで何気に有名だからね。
今までに8人ほどお参りにいったまま帰ってきてないらしいよ。
281人間七七四年:2008/02/21(木) 00:54:06 ID:RTqK11f+
昨日阿弥陀ガ峰の豊国廟行ってきた。
夕方3時くらいだったが寒かったわ〜

協力金50円払って石段を昇っていく。
視界に見えてる上り切ったとこかと思いきや、中門があってそこからまた石段(少し幅員減少)。

頂上に立派な石塔。
囲まれてはいるものの、向かって右手側から中に入れる。

石段脇の燈籠は、明治時代の侯爵:蜂須賀茂韶の奉納。
藩祖の恩返しということだろうか。

木々の切れ間から見る京都市内は、かなり下の方に望める。
この時期でも微妙だから、夏なんか全く視界が開けないだろう。

おかねもちになりたい
という子供の絵馬があって笑った。

俺一人が行って帰ってくる間に会ったのが、頂上にいたおばさん2人と、帰りの途中で会った三脚持って上がってくるおっさんと、男女の外国人だった。

そんなに薄気味悪いという場所でもなかったな。

行き帰りは、京都駅八条口からプリンセスラインっつー京都女子大の出してるバスがお勧め。
石段の下まで連れてってくれる。
282人間七七四年:2008/02/21(木) 01:35:52 ID:RTqK11f+
>>269
三十三間堂の隣の養源院ですな(今回は行けなかった)。
『血天井』で名が売れてるとこだ。

秀頼の息子:国松の供養塔も、豊国廟の石段の下にあったわ。
283人間七七四年:2008/02/22(金) 12:55:22 ID:JsbjnK5O
>>271
班行動じゃなきゃ先生が生徒を把握しにくいからに決まってんだろ
284パプキン大名:2008/02/22(金) 13:05:54 ID:ItcoUgIg
破壊したのはワシじゃが何か?
285岩ノ内 英十郎:2008/02/22(金) 13:39:52 ID:KmepFnoF
パプキン大名…

やはりお主であったか…

286人間七七四年:2008/03/01(土) 13:36:05 ID:y1vpgtLt
極悪非道
287人間七七四年:2008/03/19(水) 13:08:15 ID:xrRvlqgq
>>1
嘘は言わないように
288人間七七四年:2008/05/10(土) 12:28:11 ID:0iXM8Pbj
秀吉は今も昔も嫌われているな( ´,_ゝ`)プッ
289人間七七四年:2008/05/10(土) 20:42:17 ID:IcucD4iA
許せん(桃太郎侍風に)
290人間七七四年:2008/05/10(土) 23:20:37 ID:oAAe3Z2Z
家康は今も昔も嫌われているな( ´,_ゝ`)プッ
291人間七七四年:2008/05/10(土) 23:26:52 ID:vq5K63VZ
信長公>>>(越えられない壁)>>>家康>猿
292人間七七四年:2008/05/11(日) 02:16:58 ID:DB4o2bR7
氏康公>>謙信公>>信玄公>>(越えられない壁)>>>>>>>信長>>秀吉>脱糞デブ
293人間七七四年:2008/05/11(日) 14:58:57 ID:+MrSCWbQ
サルは所詮サル。
織田家に対して恩を仇で返したから、罰があたっただけ。
294人間七七四年:2008/05/11(日) 15:15:34 ID:IBJnzinu
サル以下の豚、徳川家康w
295人間七七四年:2008/05/11(日) 15:22:05 ID:X1EsKIDn
最初のほう見たが、資料が貼ってないから感情論にしか思えん
296人間七七四年:2008/05/11(日) 17:47:26 ID:DGSPWqMC
秀吉だって人殺しているんだから畳の上で死ねただけでも幸せwww晩年の秀吉の行動に比べれば、墓壊されたくらいで済んで良かったと思わなきゃwww
297人間七七四年:2008/05/12(月) 01:55:12 ID:Q4wr6lIq
最低だな家康。
298人間七七四年:2008/05/13(火) 17:44:11 ID:1f2vneQO
始皇帝の墓を項羽が破壊した件について
299人間七七四年:2008/05/13(火) 21:42:27 ID:gBcgWn01
どう考えても治世能力は猿より狸のほうが上。
300人間七七四年:2008/05/21(水) 21:10:04 ID:aPIYC1o4
どう考えても狸の大将としての器は北条氏政以下
301人間七七四年:2008/05/24(土) 02:19:43 ID:sXCxsKjQ
秀吉と家康というより、周囲の某臣の能力の違いだな。
302人間七七四年:2008/05/24(土) 04:23:01 ID:9UiuZHsp
豊国神社も家康が壊そうとしたが、高台院の嘆願で「荒れるに任せる」ってことに落ち着いたんじゃなかったっけ?
303人間七七四年:2008/05/24(土) 11:07:51 ID:Elonlra6
あさひ姫の件でそうとう怒っているのでしょう。家康は必死の覚悟で契ったんでしょう。一回も手を付けなかったら秀吉に対する反逆の口実になるし。しんどかったでしょうね。
この件は既出ですか?この件で論議してるところ知ってたら誘導してもらえませんか?
304人間七七四年:2008/05/24(土) 22:28:30 ID:GGBNhcIG
>>303
巨人の谷かよっっっっっっっっっっw
305人間七七四年:2008/05/25(日) 01:22:06 ID:GeiIOMyN
言い当てて妙ですね!上京してもらい家臣になってもらうのにあの仕打ちは酷いですよね。側室で若くてキレイなのもいたんだろうから致命的ではないかもしれませんが
306人間七七四年:2008/05/27(火) 03:23:43 ID:xA6vJt1x
言い得て妙
307人間七七四年:2008/05/27(火) 09:37:11 ID:Lw+1/44s
巨人の谷って何?
308人間七七四年:2008/05/28(水) 20:24:14 ID:yTx7BDsB
松平がやってるNHKの歴史バラエティーでは、家康が兵を出し
秀吉の墓を暴いて鉄棒で叩きつけたとあったけどあれ嘘だったの?
何の回か忘れたけど。
309人間七七四年:2008/05/31(土) 16:40:09 ID:pj4o/l5m
>>308
kwsk
310人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 04:35:41 ID:VtpwoFN/
>>307
FFのダンジョン
311人間七七四年:2008/06/12(木) 03:39:22 ID:QSsWbgfM
徳川家康は関ヶ原で負けた石田三成の墓を作らせず、それどころか、三成生地の石田村にある先祖の墓石まで破壊させ土中に埋めさせたとか・・・
「三成憎し」の私怨とはいえ、おおよそ天下人たる者にしては小さい男だったんですね・・・
312人間七七四年:2008/06/15(日) 04:56:45 ID:2O9aSXYL
秀吉の墓を徹底して破壊したらしいけど、秀吉の遺骨の場所とかもうわからんのかな?
313人間七七四年:2008/06/16(月) 18:10:34 ID:T163njNm
神君てただのエロ爺だけどなw
314人間七七四年:2008/06/28(土) 19:42:07 ID:KEEutFPL
むかつくわ
315人間七七四年:2008/06/28(土) 21:02:02 ID:4vkgDxre
あれだけ薄汚い家康を神と思ってるバカなんていないだろ
316人間七七四年:2008/06/28(土) 23:45:49 ID:FMKywbiz
>>311
武断派連中はともかく家康自身は三成など憎くもなんともないだろ
家康にとって三成など敵を分裂・混乱させるための道具でしかない
その証拠に三成の子供なんて無罪放免だし
「三成憎し」の私怨は江戸時代の豊臣好きな人間が家康を批判できないことに加えて
秀吉の犯した過ちを秀吉本人ではなく他人になすり付ける必要があったため
豊臣が崩壊したのは三成が奸臣として振舞ったせいにしたのが始まりだよ
徳川史観というより豊臣史観の産物といえるだろう
317人間七七四年:2008/06/29(日) 22:42:15 ID:TOg0K6gS
あのー、ネタかどうか知らんけど…。

豊国大明神を取り壊したのは三代目の家光です。

ネタでやってんだったらごめんなさい。。
318人間七七四年:2008/07/05(土) 17:29:19 ID:OsUrQQYB
旧幕府を倒した 

天下統一を果たした

新幕府を開いた
319人間七七四年:2008/07/06(日) 13:28:42 ID:Zj3QiRi4
豊富公にしろ家康公にしろ、
まさか400年後にこんなところで
庶民に罵倒されるようになろうとは
夢にも思ってもみなかっただろうな
320人間七七四年:2008/07/06(日) 16:39:36 ID:5GRMMkg4
生前の行いが死後にかえってきただけの話だ。
321人間七七四年:2008/07/06(日) 17:41:43 ID:s42UKp+R
長男、次男まで殺したんだから
憎まれて当然
322人間七七四年:2008/07/06(日) 18:01:07 ID:WCNtUW90
>>321
次男は殺してない
323人間七七四年:2008/07/07(月) 19:47:54 ID:0PPKpEk9
秀康も毒殺説があるな

家康も毒殺が得意だな
324人間七七四年:2008/07/16(水) 11:46:11 ID:gYFT5mnZ
そもそも秀吉スレがないのが気になる。戦国最強だろが。
325人間七七四年:2008/07/18(金) 21:22:43 ID:PukfFgST
応仁の乱をきっかけに乱れに乱れた乱世を納めることこそ偉業なのに調子にのって朝鮮出兵とかやると嫌われます。
信長、家康は好きですけど秀吉は好きになれません。
主家殺しは家康のそうだと言うかもしれませんが、家康は元々は豊臣の臣下じゃなかったし、あさひ姫の件や江戸に移し変えの件で怒ってるから理解できるし、
でも秀吉って恩を仇で返してますよね。
有楽斎とか主人の弟だったからへえこらしてたはずなのに家来にして聚楽斎と名乗れとか、
お市の方に恋慕して夫をころして娘をものにしたし、数え切れないくらい感じ悪いよね
326人間七七四年:2008/07/18(金) 22:40:21 ID:182zrQyc
織田家御先祖ゆかりの織田社神領を削り取った秀吉
327人間七七四年:2008/07/21(月) 20:27:53 ID:noacz7kL
スレタイと意味が、かけ離れてる書き込み多いね。
このスレタイ戦国時代板で最強だわ。家康ヲタ涙目。
わらえるね。
328人間七七四年:2008/07/21(月) 21:05:56 ID:5u4kjG6/
家光が壊したのではなくて家康が壊したんだぞ
329人間七七四年:2008/07/21(月) 21:59:22 ID:suK1K8DL
家康陰険だな
そこまでやるかw
330人間七七四年:2008/07/23(水) 18:38:54 ID:BpGKRfrt
戯曲
331人間七七四年:2008/08/17(日) 13:04:31 ID:S+HPp0g0
憎いぞ家康
332人間七七四年:2008/08/17(日) 21:50:16 ID:SjqAgW5g
身の回りに何人か健康オタクがいるんだけど、家康の人格がわかるようになってきた。共通点がある

@初めての事は大抵失敗
Aでも同じ失敗はしない
Bルーティンワークが好き
C成功者の真似が好き
D大きな事より細かい事が得意
E新たな地位を得ると人格が変わる
F周りの人は2種類、自分の役に立つのとそうでないの。

断言できる、家康は嫌な奴だし同時にキモイ奴でもある
333人間七七四年:2008/08/17(日) 21:54:58 ID:SjqAgW5g
断言できる、三方が原は桶狭間の物真似。浅井・朝倉に勝って、領土も拡大し自分が凄いやつと錯覚。
更に信長の成功例があるから、自分も成功すると安易に確信。アホだわ
334人間七七四年:2008/08/20(水) 15:20:45 ID:y4Ul8L2B
家康はウンコ漏らした時点でウンコタレ
335人間七七四年:2008/08/27(水) 15:27:24 ID:rPUQU9xi
>>334
同意
ウンコたれが作った江戸幕府プギャー
336人間七七四年:2008/08/30(土) 13:26:49 ID:bOxp4feu
>>335
そのウンコの子孫に260年間も政権を担わせたのは拙かろう。
337人間七七四年:2008/08/30(土) 22:49:30 ID:IVUgEJ8U
>>324
立てナヨ
338人間七七四年:2008/09/01(月) 05:23:25 ID:BARmh76a
こうして見るとなんとなく分かってくる品性の違い

家康=東京
秀吉=大阪
信長=名古屋
339人間七七四年:2008/09/01(月) 05:53:56 ID:PSWZzEWL
家康が東京?
なぜ?
340人間七七四年:2008/09/01(月) 09:39:56 ID:7pwJvBY9
無知だからだろ
341人間七七四年:2008/09/28(日) 11:41:37 ID:YH3/OMK7
うんこage
342人間七七四年:2008/10/01(水) 15:39:16 ID:0Qogk+aE
>>205  >>267
「豊太閤改葬始末」によると、明治30年2月28日廟墓掘削中。土中二尺より経文瓦多数、下に小壺、下に平石、更に下に一抱えの備前焼大甕ありと。 秀吉は土葬で手を組みあぐらをかき、西を向いていたとの事。
   遺体は甕から出す際の不手際で崩壊したらしく、その後個々の遺骨を 絹布で包み桐箱に朱詰めとし、更に銅製の櫃に入れ他の出土品と共に五輪塔下に埋納したとの事。(設計伊東忠太)

 と、ありますが 遺体が瓶に入ったまま、現存している文献有り
 
 この時の作業をした人からの聞き取り それによると 頭部、顔部は見えたらしい。
 その文献については最近色々解明されるにつれ、内容について評価が高まっているいるし
 かなり注目しておくべきだと思うけど、
 それによると遺体は現地にあり、 色々考えて伏せてあるのかなとも思ってしまう
 また 何なら もう少し詳細書くけど・・・(焼酎付け、文献などなど)
343人間七七四年:2008/10/02(木) 11:09:12 ID:IuhHxhtp
>遺体は甕から出す際の不手際
やっちゃった人は相当怒られたんだろうな
344人間七七四年:2008/10/02(木) 12:08:23 ID:3H3PcQtJ
と言うことだけど、違う   そのまま現存という内容

遺体は 現阿弥陀ヶ峰近隣の あぶら山(少し離れてた)に埋蔵されていた。家康等に廟は解体されていたが瓶は現存、
瓶の中、焼酎付けで現存していた。没300年時の豊太閤復活時に移動。 作業の数人が頭顔部を見る 御所の方を見ていた。
そのまま御所に向けて、埋蔵し上部に現建造物を設置       
                           作業した人の証言

  瓶から取り出すことはないだろうし 現存の事実をふせておくのは考えられるし・・
神になるため没日中にアルコール漬けは妥当だし、浸かっていれば300年は考えられる

この文献(S28発行) 書いた人(伏見関連研究者)は学者じゃなかったため 当時評価されず
直轄地でありながら地誌がほぼない伏見の研究の先駆け、近年 色々な研究内容や証言等の正しさが確認されてきているし
注目しておく重要なことだと思う 特にこのスレでは
345人間七七四年:2008/10/02(木) 12:52:30 ID:cliIuxxv
そのままが埋める直すが自然だなぁ。

埋葬目的だし、調査でなし、保存技術も無かっただろうし、

簡単に触ったり、取り出そうとすることは考えられない

よく考えると証言の方が普通にありえる。
346人間七七四年:2008/10/02(木) 13:13:51 ID:GPdoVbxb
そのウンコたれが作った江戸が今の東京
347人間七七四年:2008/10/02(木) 13:17:33 ID:veHF/PkJ
お、やっとそんな事知ったのか
良かったな
348関西人:2008/10/02(木) 16:23:00 ID:LTHbvxq9
家康や東京の悪口とかやめとけ。
今さら負け惜しみ言うのは情けない。
349人間七七四年:2008/10/02(木) 17:24:40 ID:R8dAkjqK
品のない秀吉は
あくまで尾張中村の名古屋人だぎゃ〜
350人間七七四年:2008/10/02(木) 22:40:43 ID:u0fCFihL
家康に潰された大名が泣き言言うならともかく、
家康と関わりのない後世の俺たちが家康を批判したら何で負け惜しみなんだよw
351人間七七四年:2008/10/07(火) 01:57:17 ID:r+Svj6DO
墓を破壊する事くらいは、かわいいもんだ。
薩長(特に薩摩)が徳川にやった仕打と比べればね
352人間七七四年:2008/10/07(火) 02:10:14 ID:tJxF2xBV
その薩長はちゃんと東照宮を保全してるけどな
薩摩が徳川にやった仕打ちで家康の豊臣に対するそれよりも酷いと思われるものって何?
353人間七七四年:2008/10/07(火) 02:22:35 ID:fG1D+qPc
根絶やしにして墓まで破壊って家康ってこれ以上無いクズだなw
んで豚厨の擁護はどうした?
相変わらず知能の低さ晒して電波飛ばして終わり?
354人間七七四年:2008/10/07(火) 02:31:16 ID:r+Svj6DO
>352
味方の振りをして最後に徳川を裏切り武士のやることじゃない。
さらに会津人に対して(死んだ人間に対してではなく生きてる人間に対して)レイプ等の卑劣極まりない行為。
どうみても薩摩の方が最低です。
355人間七七四年:2008/10/07(火) 12:27:20 ID:KSqmJChP
>>354
でも徳川側も長州征伐、鳥羽伏見、戊辰戦争などで略奪強姦の類いはやってるから似たり寄ったりかと…
なにより将軍家の為に戦ったお陰で會津藩らは官軍に目の敵にされたのに
知らんぷり決め込んで見殺しにした徳川の連中はある意味道義的に薩長より酷いかもしれん
356人間七七四年:2008/10/07(火) 14:13:51 ID:r+Svj6DO
>でも徳川側も長州征伐、鳥羽伏見、戊辰戦争などで略奪強姦の類いはやってるから似たり寄ったりかと…

会津で薩摩が行ったのと比べれば桁違いの人数。
会津の人達は今日になっても薩長を恨んでる人達が多いが鹿児島・山口の人達は今日でも徳川家を恨んでる人達はいない。
その事から薩長がやったことは許されない。
357人間七七四年:2008/10/07(火) 23:32:14 ID:K5TrQtl7
レイプなら大坂落城のときは凄かったらしいが
358人間七七四年:2008/10/08(水) 01:58:04 ID:LiuXkHyG
大坂夏の陣図屏風とか凄いもんな
「戦国のゲルニカ」とまで言われるほど悲惨な様
359人間七七四年:2008/10/08(水) 14:07:34 ID:kQPHjBk7
>357-358
殺戮・強姦・暴行は明らかに薩摩の方が酷い。
会津>>>>>>>>>南京大虐殺>>>>>>越えられない壁>>>>>大阪の陣(笑)
360人間七七四年:2008/10/08(水) 15:58:55 ID:poSd/S4w
まあ、主人が生前中は散々シッポ振って子供にも忠誠尽くしますと誓って置きながら
死んだ途端相手が幼児なのをいい事に手のひら返してやりたい放題、最後は殺すような
家康のクズぶりには遥かに及ばねえよ
361人間七七四年:2008/10/08(水) 16:27:29 ID:sQnpHVaf
>>360
主君信長の息子や孫を同じような目に合わせた秀吉も同罪だろ
まあ秀頼親子よりも身の処し方では三法師や有楽の方が賢かったし
プライドも覚悟も信孝の方が高かったとは思うけどな

豊臣家が素直に大和郡山か丹波篠山への転封を了承してたら
お家断絶までは行かなかったと思うよ。徳川氏が不満だったのは
秀頼一派がいつまでも天下人面して大坂城に居座っている事だったし
362人間七七四年:2008/10/08(水) 17:05:30 ID:kQPHjBk7
>360
戦国の世だから、そんな甘えた事いってるから天下とられるんだよ。
むしろ秀吉が自分が死んでもしっかりとした基盤を残せなかったんだから秀吉が悪い。
その証拠に家康公が死んでも天下は260年(薩長が汚いやり方しなければもっと続いた)も続いた。この時点で負け犬は秀吉。
363人間七七四年:2008/10/08(水) 19:17:56 ID:CDDhliEc
>362
同意
戦国の時代に汚いも無い。
汚いやり方が駄目ならずっと足利幕府に従ってればいいだろww
364人間七七四年:2008/10/08(水) 23:52:48 ID:LiuXkHyG
>>359
「明らかに」とか言っちゃいながら全く根拠出さない脳内ソースですか
これは酷いw
365人間七七四年:2008/10/09(木) 00:33:46 ID:LhnLc/TL
>364
ソース?
会津でやった殺戮と徳川が大阪でやった殺戮の知名度考えれば一目瞭然だろww
ソースなんてその辺に転がってるから自分で検索してこい。
お前は議論にならないから消えなww
366人間七七四年:2008/10/09(木) 02:07:22 ID:sNpxX030
何だ、気違いか
367人間七七四年:2008/10/09(木) 03:43:44 ID:9cIDOR20
>>365
会津人は日本史板の会津スレに帰れよw
368人間七七四年:2008/10/09(木) 04:25:25 ID:ZrJKyjBL
>>352
潰す気満々だったじゃん
369人間七七四年:2008/10/09(木) 08:12:53 ID:ceiUhFrM
ミッチーの墓も作る事を許さず埋められただけなんだって(明治になってつくられたが、、)死者にムチ打つ最低の人物だよ
家康って韓国人か中国人だろ
370人間七七四年:2008/10/09(木) 12:01:45 ID:v0LkGjCE
処遇も家康と薩長とじゃ桁違いだからな。
大坂の陣では捕縛の末、子供に至るまで斬首をしまくっていたが
戊辰の薩長は最悪でも家老数名の切腹で済ませてるわ、藩主クラスで死罪になったケースは皆無だし。

>>354
その持論からは情勢の動きが見えていないよな。
四侯会議の足並みの揃わなさに、幕府と薩摩の上層部の方では関係は最初からギスギスしていたよ
371人間七七四年:2008/10/09(木) 14:56:49 ID:LhnLc/TL
だから戦国の世の中だからしょうがないだろって。
家康が秀吉の墓を破壊してある意味戦国が終焉したようなもの。
薩長は強引に官軍になって徳川・会津をとことんいじめた。マジでありえねーよ
372人間七七四年:2008/10/09(木) 15:09:29 ID:LhnLc/TL
ちなみに俺は会津人でもないし会津ファンでもない。
まぁ、それでも会津乙って言われるんだろうけどw
373人間七七四年:2008/10/09(木) 16:08:27 ID:/I6AFI3G
とことんいじめたとかwwwwwwwww
374人間七七四年:2008/10/09(木) 16:10:48 ID:LhnLc/TL
>373
殺戮でしたww
375人間七七四年:2008/10/13(月) 16:00:19 ID:mGi9WyT6
どちらも酷い事をしたという点で、家康も薩長も同じでしょ。
程度に関係なく。
でも、その当時ならある意味しょうがないと思われ。
食うか食われるか、いつ殺されても不思議じゃない戦国や幕末の武士の出来事を、
我々現代人から見た感覚で推し量るのは度台無理っていうか、ナンセンスでは?
376人間七七四年:2008/10/13(月) 16:32:03 ID:mJfvJ3gq
絨緞無差別爆撃で、無辜の一般市民を殺戮しつくした米軍の鬼畜ぶりの方が
酷い気がする・・・。
その恨みをあっさり水に流してる今の日本人に違和感を覚えるのは俺だけ?
377人間七七四年:2008/10/14(火) 14:07:50 ID:G9nttHzO
いつまでも怨み続けるのは苦しい事だからな
378人間七七四年:2008/10/14(火) 23:31:07 ID:52lwGQXD
策源地蹂躙は南北戦争から脈々と続くアメリカのお家芸
アメリカ南部ですら無慈悲に灰塵に帰すアメリカの国是を知ってて戦争したんだから怨むのは筋違い
策源地は焼き払われるって知ってて喧嘩売った軍上層を怨むのが筋ってもんだろ
焼き払われるの知ってるから硫黄島であんなに必死になって戦ったんだ

都合の悪い事は「相手が非道だから!」で済ます韓国人じゃねーんだから歴史をフェアに見ろよ
379人間七七四年:2008/10/14(火) 23:36:35 ID:MExU9Dqr
歴史をフェアに見るべきだってのは同意だけど、
とりあえずその前にスレタイを見直すべきじゃないのか
380人間七七四年:2008/10/14(火) 23:48:24 ID:zOUZ9Ur4
はかをはかいw
381人間七七四年:2008/10/15(水) 01:13:25 ID:0FDebEqP
>380
早野乙


だから秀吉の墓の破壊なんて、酷い事じゃないって。秀吉の墓を破壊してだれが不遇に感じた?そもそも戦国の世の中だからしょうがないって。
薩摩は生きてる人に殺戮・暴行を繰り返した。
だからこっちの方が問題!>1はクダラナイスレたてんな
382人間七七四年:2008/10/15(水) 01:30:30 ID:29ZyruaV
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383人間七七四年:2008/10/15(水) 19:26:10 ID:nsPtNBcC
>薩摩は生きてる人に殺戮・暴行を繰り返した。

徳川軍の雑兵が大坂でやったのと、どっちが多いだろうか・・・。
384人間七七四年:2008/10/16(木) 00:14:04 ID:xDi6hezl
大坂の一般人は別に殺戮されていない
殺されたのはホームレス状態の浪人達だけ
後世の大坂人が被害妄想を広げているだけです
385人間七七四年:2008/10/16(木) 01:47:05 ID:4N1UYyAi
>383
どっちが多いかは問題でない。
だけど薩摩は無いわ
386人間七七四年:2008/10/17(金) 17:11:39 ID:NliDXACn
西郷って本当に馬鹿だよな。私怨の為に倒幕を決行した。
慶喜がソンノウ派で勝が空気読めるやつだから結果的に幕府と偽官軍との全面戦争にならなかったけど、
もし全面戦争になってたら戦国の世の中に逆戻りして外国の植民地になってた。
しかも100年以上経っても今だ会津に恨まれてる。
こいつこそ悪の語源。
家康が秀吉の墓を破壊した事なんてこれと比べたら極めて小さいこと
387人間七七四年:2008/10/17(金) 17:31:52 ID:mLh8lgcA
また会津人か
388人間七七四年:2008/10/18(土) 03:29:29 ID:3Rv+mLMT
自分はおろか親の代も経験してない100年前のことで
これまた当時とは何の関係もない現鹿児島県民を恨めるってすごいな。
韓国人もびっくり。
389人間七七四年:2008/10/18(土) 19:30:29 ID:vy8Im7Rv
>>386
恨むなら西郷よりも長州藩を恨め。
西郷は薩摩藩邸を焼き討ちにした庄内藩には寛大だったので庄内人には慕われている。
西郷が私怨のために動いたって自分の器の小ささを露呈するだけだ。
390人間七七四年:2008/10/20(月) 17:15:08 ID:yx5clcT3
印象として、
幕府好きは東日本に多く見受けられ、
西日本は薩長贔屓が多いように思われる。
皆さん、そうじゃないかい?
391人間七七四年:2008/10/20(月) 19:53:44 ID:Let24BH4
はい
392人間七七四年:2008/10/21(火) 01:44:45 ID:Gi0F00Xt
それってただたんに東に幕府があって西に倒幕があるってだけじゃん
393人間七七四年:2008/10/21(火) 02:01:37 ID:+lJpfX5h
印象を持つに至る程のデータがないなら、単なる独断と偏見
394人間七七四年:2008/10/21(火) 12:33:44 ID:O+3dj5nH
破壊は正義を東アジア世界に示したろ
395人間七七四年:2008/11/02(日) 09:35:22 ID:Xa7Nn4yC
>>390
つっても江戸が100万、現在の首都圏が3000万の人口な事を思えば
東、特に関東って政権をとった薩長系や京都圏の子孫が多そうだけどなあ
396人間七七四年:2008/12/11(木) 14:08:04 ID:FFMUYZNy
>>352
官軍に従軍していた藤堂藩兵が、
『建築の名手として名高い藩祖(藤堂高虎)が心血を注いで建設したものだから、破壊するのはご勘弁を』
と涙ながらに懇願したため焼き打ちされなかったんだよな。
397人間七七四年:2009/01/07(水) 18:10:03 ID:UtrGvO63
豊臣だけでなく石田に対してはもっとすごいよ
墓たてるのもダメ、先祖代々の神社、お地蔵を破壊、さわ山城も徹底的に破壊、さらに彼自筆の手紙なども処分
よほど後ろめいたのかな
ただ東照宮をつぶさなかったのは正解、、あの野蛮国家中国、小朝鮮と一緒ですよ
398人間七七四年:2009/01/10(土) 19:59:47 ID:IOtHpDCA
むかついてきた
399人間七七四年:2009/01/10(土) 20:26:37 ID:4nhDqgj4
会津は会津で重税やら労役で領民に恨まれまくってたじゃん
白川口封鎖して官軍阻止しようとしたら間道を教えて官軍誘導したのは地元の農民
そりゃ農民に畳持たせて弾除けにしてたんだから嫌われて当然。

戊辰戦争後は、早期降伏を主張していた重臣に責任取らせて首を送り、
コイツが最初に腹切ってりゃたくさんの命が救われたはずの松平容保は
日光で悠々自適の生活。残った藩士は猪苗代か斗南選べたが
領民から出て行けと一揆を頻発されたから斗南に行かざるを得なかったのに
まるで強制連行さ れたみたいな言い方だし。

そもそも会津攻めは長州と土佐だw
400人間七七四年:2009/01/11(日) 00:56:21 ID:wuwFwTEy
会津人に史実や正論は通じません
南京や慰安婦と同じ、国内の東亜人と思うほうが早い
401人間七七四年:2009/01/12(月) 04:05:57 ID:xMg8GEB9
>362
戦国スレばかりじゃなく大政奉還勉強しろよ。
402人間七七四年:2009/01/24(土) 18:41:28 ID:OgNxnJ7E
なるれす
403人間七七四年:2009/02/17(火) 20:19:57 ID:3wL2DMPq
死して尚事が済んで尚叩き続けるってのは儒教国家特有だわな。
未だ持って3英傑の残り2人に人気が及ばないのも儒教を大々的に日本に広めたしっぺ返しみたいなモノかも。
404人間七七四年:2009/03/12(木) 04:16:30 ID:s/Wqn92P
別に墓を破壊したわけではないんだけどね。
壊したのはその外側。
廟堂を破壊したのも幕府ではないし。
405人間七七四年:2009/03/12(木) 07:49:24 ID:XujEDseE
猿の墓だろ?
大した事ねえよ。
406人間七七四年:2009/03/17(火) 03:05:28 ID:izrUJif2
まあ、秀吉なんて主君(信長)の奥さん(信孝の母)惨殺してるくらいだしなぁ。
407人間七七四年:2009/03/22(日) 19:21:24 ID:72a4BpkB
家臣の妻を寝取るような変態だからな。
まあ、当然。
408人間七七四年:2009/03/24(火) 17:08:45 ID:5xh04OHV
壊しっ放しでも良かった。
409仙台藩百姓:2009/03/25(水) 23:28:33 ID:EziPzflQ
家康の墓も見世物になって小便垂れられるようになるとは因果応報ですね( ^ω^)
410人間七七四年:2009/03/26(木) 23:56:52 ID:fP301fw8
秀吉の死体は密葬されて葬式すら1度も行われていないのに
墓の破壊がどうこうなんて馬鹿げたことを言う奴もいるもんだ
411人間七七四年:2009/03/27(金) 04:09:15 ID:eBq7DkdY
唐入りの真っ最中だから死亡直後にきちんとした葬式は行われてないけど、
七回忌の法要なんかは盛大に執り行われて、秀吉を慕う大勢の民衆で京洛が混雑してる
同時期には実際には行われなかった秀吉の葬式を描いた本が出版されてるくらいだし、
秀吉死後も、つうか死んでからより一層畿内における太閤人気は盛んになってる
この人気を見た家康が豊臣家を地上から消し去ることを考えたとしたら皮肉なものだが
412人間七七四年:2009/03/28(土) 00:18:24 ID:cZGBm4Mm
>七回忌の法要なんかは盛大に執り行われて、秀吉を慕う大勢の民衆で京洛が混雑してる

でも秀頼本人は秀吉の法要にも墓参りにも一度も参加していないんだよね
太閤人気は盛んになったところで豊臣家には迷惑なことだったんだろうな
413人間七七四年:2009/06/11(木) 05:50:11 ID:z9p2sS30
保守
414人間七七四年:2009/07/11(土) 11:06:10 ID:H7PQ/92B
むかついた
415人間七七四年:2009/07/11(土) 15:40:42 ID:0G2XxVIg
猿ごときに墓なんざ必要ない
416人間七七四年:2009/07/11(土) 18:43:45 ID:oWrDoHYD
そんなことはないだろに
人臣位を極め、民衆に
愛された英雄ではないか
死んで大明神になったのだから
壊さないでも

徳川家が人気がないのは
あまりに冷徹すぎるところだろう
417人間七七四年:2009/07/11(土) 20:49:47 ID:jpOnlWd4
豊国社は別に秀吉の墓ではないけどな
418人間七七四年:2009/07/25(土) 09:47:58 ID:EC5m0Qld
小泉純一郎:現代の織田信長
石原伸晃:現代の豊臣秀吉
麻生太郎:現代の徳川家康

これらについては、異論は認めない。
419人間七七四年:2009/07/25(土) 15:45:18 ID:brxc10iG
>>418
エー
420人間七七四年:2009/07/25(土) 16:09:44 ID:nw1QGHEE
>>418
君は典型的なお子様
新聞を読めるようになってからレスしましょう

小泉純一郎:典型的な保守派
石原伸晃:典型的なお坊ちゃん
麻生太郎:典型的な苦労知らず
421人間七七四年:2009/07/25(土) 16:18:15 ID:llLCZrjW
徳川家康が豊臣秀吉の墓を〜が正しい日本語だな
422人間七七四年:2009/07/25(土) 23:26:47 ID:Boxgkfr1
>>418
2世、3世だらけの現代の政治家なんて戦国大名と比較しようがない
強いて比較するなら今川などの名門守護大名の方だろ
423人間七七四年:2009/08/26(水) 19:45:02 ID:0euE+M7L
クソ家蜜
424人間七七四年:2009/08/26(水) 20:38:43 ID:BoAIPKIa
>>420
君ももう少し、メディアリテラシーを身につけた方がいいかもね。
425人間七七四年:2009/08/27(木) 22:42:41 ID:Fihen+Ll
薩長は東照宮を壊してないかもしれんけど、会津戦争の死者を野ざらしにせよと命じた件はどうなるんだよ。
426人間七七四年:2009/08/27(木) 22:59:42 ID:zw+1QSr5
日光東照宮は破壊しなかったけど、寛永寺は焼き討ちしたな。
427人間七七四年:2009/08/28(金) 10:43:54 ID:HREVrd1V
日光東照宮は神道形式だったから無事だった
仏式の施設については廃仏毀釈によって日本中で破壊したし
会津戦争の死者を野ざらしにしたのは朝敵は人間でないという発想の下に実行した
薩長は個人的な恨みというより宗教的な思想で実行するから家康とは比較にならないくらい危険な部分がある
428人間七七四年:2009/09/18(金) 10:13:52 ID:G4HDMbJW
ようは家康はクズ
429人間七七四年:2009/09/18(金) 10:30:22 ID:NCpUsFE/
戦場でビビって脱糞
430人間七七四年:2009/09/18(金) 11:23:32 ID:4nZRHTAp
家康は秀吉に恨みでもあったのか?
431人間七七四年:2009/09/19(土) 02:04:12 ID:SF7DJoZq
自分より 身分の低い成り上がり者が上司になったので 相当腹立たしかったんだよ。その仕返しだろう。プライドを傷つけられたんだね。
432人間七七四年:2009/09/20(日) 19:46:24 ID:9ZEkOcUq
そりゃ成り上がりの猿に好意を持つわけないわな
北政所も猿には恨みしかなかったんだろう
433人間七七四年:2009/09/21(月) 01:17:15 ID:zxp7VV5y
ほうほう
キタマンが猿をのー
やっぱり子供ができなかったからかの
434人間七七四年:2009/09/21(月) 01:24:00 ID:4KWJSTs8
秀吉の墓の存続に向けて誰よりも強く運動してたのが高台院なのに・・・
つうかID:9ZEkOcUqは他のスレの書き込み見ても思いっきりアレだな
435人間七七四年:2009/09/29(火) 23:19:35 ID:F1ZBnabc
薩摩はとりあえず、会津と徳川宗家に謝罪しろや。
話はそれからだ。
436人間七七四年:2009/10/06(火) 21:51:02 ID:wokti0uJ
だな
437人間七七四年:2009/10/11(日) 01:47:18 ID:vSlw5xIi
ここのスレってどこまで、史実に沿っているの?

そういえば、明治政府は日光をある意味破壊しつつ
秀吉公の遺骨の残骸をよりよい位置づけに埋葬した経緯が
あるらしいのだけど、何か正確な証拠資料ってあるもんなんですか?

ただ、そのあと明治天皇の周りは、奇怪なことが多々起こるように
不幸な状態に・・・・ま。誰の仕業かわかっているのですが・・・
438人間七七四年:2009/10/13(火) 01:17:23 ID:2VzTT/ie
家康って(家康から三代)
本当に関心するほどに


宗教・俗信・陰陽道・霊障、霊力…

研究しくつくて実践してるよなぁ


すごいわ、、、賀茂氏末裔だけあるわ、、賀茂も陰陽師だったから
439人間七七四年:2009/10/13(火) 01:25:48 ID:HJ0QnHMT
>>435
どうして?w
440人間七七四年:2009/10/14(水) 02:09:40 ID:03xyJtrn
>>127
完全同意
所詮は秀吉なんて農民出の成り上がりの趣味の悪すぎる関西じじい
秀吉がバカなのは
力をつけていた家康を始末できなくて
まぁ荒地だしな左遷左遷の要領で
家康を関東にまわしたところ
家康の実力を理解できなくて農民出の関西エロじじいがたまだ天下とっただけの事
家柄のよい家康にぶちのめされて当然
信長だって、天下取りを家康なら
認めたかも知れないが(家康の人質時代信長とは仲良かったのも事実)
信長が健在なら秀吉の天下をとりを絶対に認めないと思う
信長が生きてたら秀吉なんか、「猿。おまえでしゃばりすぎ」って処刑されてるよ
本能寺の変の本当の犯人は秀吉の仮説を私は信じる。
明智光秀はたまたま秀吉にそそのかされて実行犯にされただけ
悪いやつ汚いやつ秀吉
441人間七七四年:2009/10/22(木) 23:38:20 ID:RlmwdIsh
秀吉公は汚いやり口多かっただろうね。
家康公が死後動き出したのは、秀吉公の
真似を少ししたようなものだといえる。
名古屋人と三河人の壮絶な戦いを子供のころから
見てきた他県民なので、断言できます。
ただ、陰陽道や風水など信長の安土城下で
秀吉公は誰よりも詳しく飛びぬけていて
他を心理誘導していた証拠が見受けられる。
徳川一族は、秀吉公が明から得た技術を発展させたものを
貰い受けたともいえる。
秀吉公の死後その証拠物を一切破壊した明らかなる形跡がある。
ただの恨みに見せかけてちゃっかり
その秘術的なところを根こそぎ消し去ろうとしたみたいだ・・・。
参勤交代は、石田光成公が作った可能性が高い。
文武で分かれて文優勢になるのを恐れて、
家康公についたといえる。そこまで出来ていたのであれば、
なんだか豊臣家もむなしい気がする・・・。
信長は、奇形っぽい秀吉公がかわいかったみたいだが、
完全に裏切られたみたいだ。
家康公の怒りの文章が日光に残っています。
三河人はねちこくて、辛抱強すぎる・・・普通許したり諦めたりするだろ
といいたくもなるが・・・。教科書だけでなくて
実物を歩いてみていくと、当時の血生臭さが漂います。
血で血を洗うという東海地方の血筋は甲乙何ともいえませんね。
442人間七七四年:2009/10/23(金) 00:14:11 ID:LVBCVqrp
>>441

家康や三河家来には暗いイメージがあるね。
443人間七七四年:2009/10/23(金) 00:23:13 ID:XOrIaUPZ
三河だからって家康派と決め付けんなあ!!
家康を確かにすごいとか(ズル)賢いとかキタナイと思った事はあるが
好きになった事はほんとに無いなあ
特に豊臣家への怨念めいた執拗なやり方は腹が立つね

三成や真田や大谷にわしは惚れる
西軍に惚れる
 
444人間七七四年:2009/10/23(金) 15:53:28 ID:ou0/aErO
秀吉側にも好きな人はいる、三成とか黒官とか利休とかでも秀吉は嫌い
445人間七七四年:2010/01/23(土) 18:56:11 ID:N0qyVxW7
ゆるせん!!
446人間七七四年:2010/01/23(土) 22:27:22 ID:MSLFh0kh
>>443
家康は信長の実力を信じ、信長が天下を取るものと思っていたから我慢して同盟していたのに
その草履取りに過ぎない秀吉が天下を取ったことに耐えられなかったのだろう
豊臣家への怨念めいた執拗なやり方というけど
豊臣家が誕生したこと自体が家康にとって許せないことだからな
秀吉が織田を簒奪したのと同じことをしないと気が済まなかったのだから仕方がない
447人間七七四年:2010/01/23(土) 23:01:22 ID:klAthhmd
久能山→狸オヤジの遺骸(空っぽとも言われる)
日光 →狸オヤジの霊魂(狸の遺骸が埋まっとるとも言われる)
岡崎 →狸オヤジの位牌

阿弥陀が峰 → 猿の遺骸があったが、狸の幕府に墓を暴かれどこぞへと遺棄された模様
448人間七七四年:2010/01/24(日) 17:00:38 ID:U7iIAFzs
ところでさ、日光東照宮って「家康・頼朝・秀吉」の三人を祀ってるけど
何で滅ぼした豊臣家の秀吉を祀ってんの?
449人間七七四年:2010/01/24(日) 17:07:40 ID:U7iIAFzs
家康が陰険なのは豊国神社の破壊後にわざわざ
朝廷に願い出て秀吉の「豊国大明神」の神号まで取下げさせて
「大居士」の戒名を押し付けて神から人間の地位に引き摺り下ろしたのに
なぜか東照宮の相殿に秀吉を祀ってること。
怨霊にでもびびったのかww
450人間七七四年:2010/01/24(日) 20:58:06 ID:aydB914w
>>448
秀吉を入れたのは明治時代からだろ
要するに薩長の嫌がらせ
451人間七七四年:2010/01/24(日) 22:12:00 ID:hW8x/zPh
>>448
神君家康公も太閤殿下の前ではさすがに・・・
って感じかねw
明治政府に家康が嫌がらせしないように、秀吉に見張らせるって感じの嫌がらせかな
452仙台藩百姓:2010/01/24(日) 23:04:24 ID:j1mlJe04
明治政府もよにりよって東照宮に秀吉を祀るとは凄い嫌がらせだおね( ^ω^)
もっとも明治政府は東照宮を潰したり海外へ売却する話しを蹴ったわけだし
豊臣系寺社を潰した家康よりは良心的だけど( ^ω^)
453人間七七四年:2010/01/25(月) 00:33:11 ID:LAUFiUvU

え?小沢尊師のご先祖の墓って日本にないの?

http://www.nicovideo.jp/watch/sm9466555

454人間七七四年:2010/01/25(月) 00:57:13 ID:VnOyGFl9
小沢は親父の代の帰化人つう話があるよ
455人間七七四年:2010/01/25(月) 01:40:08 ID:CAiZR4Yt
>>452
あくまで文化的価値を認めて、と思う。
456仙台藩百姓:2010/01/25(月) 13:41:37 ID:IGt5LoxO
>>455
そうだね
だから明治政府は他の神様も合祀して共有財産に移行しようとしたのだと思うお( ^ω^)
お陰で世界遺産になったのだから明治政府の判断は評価すべきものだお
それに比べて家康は文化がなんたるかすら理解できない無教養な田舎者だお┐ (´ω`) ┌
457人間七七四年:2010/01/25(月) 14:50:50 ID:VjiX9yGX
>>456
同意。
豊臣時代の大阪城と豊国神社が残ってれば間違いなく世界遺産だよな。
458人間七七四年:2010/01/25(月) 19:16:12 ID:y99561rg
維新〜明治初期のどさくさ紛れに神様になった武将がいるね
459人間七七四年:2010/03/20(土) 19:18:51 ID:bcCu8EJ7
猿にはちょうど良い
460人間七七四年:2010/03/31(水) 01:44:22 ID:zk4gvJDN
>>457
聚楽第や方広寺の大仏や名護屋城だって残ってれば世界遺産かもしれないけど
秀吉の建造物が倒壊した例の大半は家康とは無関係だよ
家康の部分だけ持ち出して騒いでも意味がない
461人間七七四年:2010/04/08(木) 09:55:59 ID:/G/X2Bc8
>>460
よくわからんが家康の為政者として仁君であるかどうか
為政者の性格・性質として陰湿だったかどうかを評価する
ひとつのサンプルとして意味はあるだろう
462人間七七四年:2010/04/27(火) 10:43:36 ID:BXQrKjNj
流石に墓を壊すまでする事は無かったよね
秀信に対する処遇もちょっと厳しすぎる感じがあると思うし
秀頼に関しては実際に家康は生かすつもりはあったのかな?
どっちにしても家康の織田・豊臣に対する恨みは
相当なモノがあったんだろうな
463人間七七四年:2010/05/11(火) 20:41:56 ID:fXZw06qI
世界史では敵対者の墓を破壊するのは良くあるね。
464人間七七四年:2010/05/15(土) 10:17:37 ID:zH4ydlaH
むかついた
465仙台藩百姓:2010/05/15(土) 12:58:06 ID:8OjIo+d8
>>462
感謝する事はあっても恨み持つような事はないと思うけど( ^ω^)
466人間七七四年:2010/05/15(土) 18:28:33 ID:fhL8hV0A
逆恨みじゃね
織田との同盟、豊臣への臣従で勢力を拡大してきたのに、
家康にはこの両者への感謝の念は一片も見られない
三河物語なんか読んでも信長&秀吉への恨み言が多い
467仙台藩百姓:2010/05/16(日) 00:01:48 ID:fOUVpeTs
天下人になり権力に溺れるようになったから
今川、織田、豊臣に助けられたり引き立てて貰った過去が急に疎ましくなったのだおうね( ^ω^)
独裁者や成り上がり者は必ず過去を飾ろうとするお( ^ω^)
468:2010/05/16(日) 00:17:21 ID:yX+OiCZ1
墓まで壊すことねーのにな
で、具体的にどこまでやったの?
遺骸までどっかにぶん投げたの?
死者にはもう影響力ないのに酷いことするよね
469人間七七四年:2010/05/18(火) 10:05:20 ID:ol/nnGeh
>>1
秀吉の墓って・・・、家康じゃなくて、秀忠か家光の代に壊したんじゃなかったっけ?

>>468
明治時代に墓を復元するのに掘ったら遺骨とか出てきて、あわてて埋め戻したって話なかったっけ?
470人間七七四年:2010/05/18(火) 13:47:24 ID:lPVpLeeI
秀吉の遺骨は実は江戸時代はきちんと墓の中に合ったが
明治政府が乱暴に掘り起こしたため破壊され修復不能
だから正確に言えば秀吉の遺体を破壊したのは明治政府ということになる
471人間七七四年:2010/05/19(水) 10:49:54 ID:qi9aFS2l
秀吉のミイラが誤って破壊されたというだけで遺骨は残ってるんじゃないの?。
>>342
>>344
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1314922828
参照
表向きは強い態度を示してもやはり家康も祟りが怖かったんでしょうかね。
472人間七七四年:2010/05/19(水) 17:58:49 ID:k/FUaT68



織田信成が織田信長の子孫って本当?【2代目】
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1271421161/






〜 織田信長の子孫に関する小ネタ 〜

●金スマ出演時に用意した家系図は某家系図業者共通の装丁で、
安住アナの指摘どおり「昨日作ったばかりのよう」な代物。
代々受け継いだものでないことは明らかで、歴史学的な検証には耐え得ない。
歴史ヲタにはおなじみの業者で、日本史板では落胆と失笑の声が上がった。

●織田母がTV番組出演時に語ったエピソード
「嫁に来て間もない頃に桔梗の花を飾ったところ姑に叱られた。」
「桔梗は明智の家紋だから、織田家では桔梗をいけるのはご法度ご法度なのです」
⇒旧丹波柏原藩織田家(元大名家)の当主である
織田孝一氏(本名は織田信孝、フリージャーナリスト)によるコメント抜粋。
「家には(桔梗ご法度の)習慣はないです」 「彼は誰なのでしょうね」


473:2010/05/20(木) 02:19:14 ID:/1BB/GIc
しかし酷いなぁ
仮にも天下収めた英雄なのになぁ
秀頼滅ぼしてその上秀吉の墓まで潰すとはなぁ、
幾らなんでもやり過ぎでしょう徳川
474人間七七四年:2010/05/21(金) 09:42:48 ID:ia3bysP3
猿の墓を破壊するのはOKかとw

ていうかこんなくだらないスレたてる暇があるなら>>1は薩長批判のスレでもたてろや
475人間七七四年:2010/05/23(日) 08:41:49 ID:xeeNVli8
明治の墓再建の調査では
副葬品は全く無しで
棺ではなく壺の大きいものに遺体は入ってたと。
で、頭部だけは無し。
つまり、江戸初期に入れ替えられた可能性が有り。
476人間七七四年:2010/05/24(月) 16:30:04 ID:J6DE5VpB
タヌキの器の小ささw
477人間七七四年:2010/05/24(月) 18:11:53 ID:tRP+xvN9
>>474
狸はもっといらんだろwww
478人間七七四年:2010/05/24(月) 23:06:30 ID:ClQSwPfc
てす
479人間七七四年:2010/05/26(水) 13:34:13 ID:adK6OHk4
正確には墓は壊しても掘り起こしてはいないので遺骨は残ってた

480人間七七四年:2010/05/27(木) 09:25:32 ID:dYJNb/sJ
秀頼の遺骨があればDNA鑑定ができる
多分、よその子
481人間七七四年:2010/08/08(日) 17:13:57 ID:L8IBbMqR
>>475
kwsk
482:2010/08/08(日) 21:56:42 ID:t9xD9pxI
どっから見ても秀吉>家康だけどな

墓までぶっ壊すとは調子コキ過ぎでしょう
483人間七七四年:2010/08/08(日) 23:50:05 ID:wbyR49VH
>>482
 まさにその通り
 
 旧主の一族殺戮レベル 信長の側室(信孝母)、信孝の妹、信孝>淀君、秀頼 3対2で糞漏らしの敗北
 城攻めの殺戮レベル  三木城、鳥取城の餓え殺し>>>>越えられない壁>>上田城落とせず 糞漏らし涙目
 親族虐殺レベル     秀次切腹、妻子皆殺し、畜生塚建立>>築山殿、信康虐殺、しかし信康妻、築山殿の娘生かす 糞漏らし臆病
 民族浄化レベル     朝鮮征伐耳塚、鼻塚建設>>>>朝鮮に土下座外交 糞漏らしは腰抜け
 
484人間七七四年:2010/08/08(日) 23:56:30 ID:wbyR49VH
続けると
 わずか2代で花と散る美しさ>>>>越えがたい異次元の壁>>>>>260年間も無様に続いたゴミ政権 糞漏らし無様
 関白という雅な王朝最高の地位に付いた秀吉>>>>はるかに位階の低い征夷大将軍にしかなれなかった糞漏らしみじめ
485人間七七四年:2010/08/09(月) 12:17:58 ID:whfuLaHR
>>483−434
 太閤検地反対者大量虐殺はどこに入れるべきか
486人間七七四年:2010/08/09(月) 16:00:16 ID:IFfhpL1M
世界中の政治家は日本人
http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0204/43/288.html
江戸時代、徳川幕府は、幕藩体制を敷いた。
薩摩では、多くの侍・農民は、徳川幕府を信用せず、
島津の殿様を尊敬した。
しかし、しかし、江戸中期に、徳川の巧妙な計略で、
島津一族は、家系図でも、遺伝的にも、
完璧な徳川一族に転化していた。
それでも、島津家は、薩摩では、最後まで、
徳川家であることを隠した。
今日、島津家当主も、徳川であることを隠し、
県の主要なポストに就き、東京政府とグルになり、
鹿児島を滅ぼそうと画策する。
それでも、多くの県民は気がつかない。
それほど、徳川の陰謀は、巧妙だ。
こういった計略は、世界中で行われている。
487人間七七四年:2010/08/09(月) 21:09:44 ID:bE+WEeBD
>>485
 ご要望に応えて
 太閤検地反対者大量虐殺>>>無理、ぜってー無理の壁>>百姓は生かさぬよう殺さぬように搾り取れ  
 ど百姓如きの首も刈れない糞漏らしは腰抜け

 さらに
 名門セレブ嬢コレクター兼人妻寝取りマニア&ロリコンの太閤様>>>理解不能の壁>>>田舎の未亡人コレクター兼ロリコンの糞漏らし
 
 落首犯未逮捕に対するレベルの差
 落首の書かれていた周辺地域の住民皆殺しにより情報漏えいを防いだ慧眼の太閤様
 >>>>ヘタレには越えられない壁>>>>御所柿はの落首を黙殺した糞漏らしは人の誇りを失った豚も同然


 まあ、今日はこれぐらいで勘弁してやるわ! 糞漏らし野郎w 
488人間七七四年:2010/08/29(日) 01:49:31 ID:3DTxA5RX
寺の経営の為には没落して逝った家系の墓を置いとく地代損害額を算定する
までもなくおにもつ
489:2010/08/29(日) 10:15:09 ID:xOVOB8vj
260年も引き篭もり鎖国政策やったおかげで
黒船が来てビックリ、近代化遅れたんだよね

徳川政権の罪は重い
490人間七七四年:2010/08/30(月) 06:54:43 ID:AHgHo0Mh

豊臣秀吉と李明博大統領

http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0204/41/277.html

大坂冬の陣に絡んだ誕生日だった。
491人間七七四年:2010/08/31(火) 14:16:39 ID:jnUB2YFp
>>489
司馬遼太郎先生みたいな主張やね
492人間七七四年:2010/08/31(火) 19:30:16 ID:unw5Fx1T
秀吉が長生きしてたら、家康はどうしてたんかな?
493人間七七四年:2010/08/31(火) 22:18:25 ID:/UPfAPUZ
どうもできんだろ。
494人間七七四年:2010/09/08(水) 18:14:51 ID:lIosO1cB
>389
逆恨みでしょ
495人間七七四年:2010/09/08(水) 20:52:30 ID:OLk3akhW
秀吉はそもそも天に見放されていたんだな。
家康より寿命が短く、種なし、身内にも恵まれず
天下取った後も朝鮮出兵やら身内の粛清で自ら豊臣の力を削ぐ。

まさに家康に次の天下を渡すための準備を自らしていたようなもんじゃん。
もう秀吉の意志で豊臣が滅んだというより、目に見えない天の力が働いていたとしか思えない。
496人間七七四年:2010/09/09(木) 00:30:35 ID:cdm9QAUf
天に見放されて天下人になれるなら、俺も天に見放されたいわw
497人間七七四年:2010/09/09(木) 11:47:18 ID:AwpBrdiE
朝鮮出兵は合理的選択じゃないか?
血の気の多いやつにおとなしくさせておくより
戦で発散させたほうがいいし、有力外様大名の力を削ぐことにもなる。
あと経済活動も活発になるし。
朝鮮出兵と豊臣家の崩壊はあまり関係ないと思う
498人間七七四年:2010/09/09(木) 18:32:57 ID:xH4N+FS9
朝鮮出兵に肝心の家康が参加してないんだよね。
秀吉シンパの大名が朝鮮で疲弊している間に家康は領国整備を行っていた。
豊臣家の中核を担うべき福島加藤たちと三成の関係も悪化させただけ。
朝鮮出兵は敗戦に終わり、誰も満足な恩賞を受けておらず諸大名の秀吉への不満だけが高まった。
結果として秀吉への離心と家康への求心を加速させただけ。

朝鮮出兵は豊臣にとって百害あって一利なしだったと思うよ。
499豊臣家大老・大野修理佑治長:2010/09/10(金) 03:24:24 ID:WZvdgYuq
豊臣家の滅亡は自ら招いたともいえる
500500:2010/09/10(金) 13:27:15 ID:oE5VlIxU
>498
手柄を立てさせるわけにも、行かなかったのでしょう。
501人間七七四年:2010/09/10(金) 14:21:27 ID:0joLht01
>>497
関係大有りでしょ
直接原因といってもいいぐらい
502人間七七四年:2010/09/10(金) 17:21:37 ID:WZvdgYuq
朝鮮の領有に成功しても…
朝鮮検地に30年は掛かったんじゃないか
503500:2010/09/10(金) 17:29:13 ID:oE5VlIxU
>502
無駄な金を注ぎ込むだけでした。
504人間七七四年:2010/09/11(土) 22:40:03 ID:HAFnjI4W
春日のド壺ネに日本国は振り回されました。
505人間七七四年:2010/09/14(火) 05:25:15 ID:P9kmcq0X
 
武器商人の力を過小評価している。

http://akiba.geocities.jp/pxzuwp/0203/31/204.html

昔から、戦争は武器商人の動きで勝ち負けが決まった。

足軽や、鉄砲隊でさえも、ほとんど「金」で、

どの武将に着くかが決まった。

結局、昔から戦争は、全て「金」で決着が付いていた。
506人間七七四年:2010/09/14(火) 06:09:55 ID:B+KWACDH
家康は小物だわな
だが小物故に猜疑心で生き延びた

大久保の遺体掘り起こして打ち首にしたり、大阪の陣で真田の首取ったのに恩賞渋ったり
中国だったら完全に低評価だろうね
507人間七七四年:2010/09/14(火) 07:09:26 ID:NKu/74vu
家康オタは朝鮮人の秀吉悪人論に乗っかって家康持ち上げようとするから
見ていて不快なんだよな
508人間七七四年:2010/09/14(火) 07:13:50 ID:5Ji7Go8o
この板に慣れてない俺が>>1-50を見る限り、秀吉厨とやらが優位に見える。
509人間七七四年:2010/09/16(木) 22:39:50 ID:IqrDL6ck
秀吉もどうかと思うけど家康には負けるなw
戦国一図々しい奴だからこそ統一できたんだろうな。
510人間七七四年:2010/09/18(土) 03:47:17 ID:/SLbesaE
秀吉なんて時代遅れの政権にしがみついてもしょうがないよ
家康の最新の政権こそ日本を新たな時代に導く政権なんだわ
511人間七七四年:2010/09/27(月) 13:15:30 ID:SLlvQnuP
朝鮮人は秀吉嫌いだからなー
秀吉がいいってわけじゃないけど家康のドス黒さはちゃんと直視しよーぜ
512人間七七四年:2010/10/09(土) 00:03:03 ID:0EsQHrZW
>>458

維新〜明治初期のどさくさ紛れて天上人になった烏帽子被っていちいの木持ってた坊主だっているだろw

513人間七七四年:2010/10/12(火) 16:35:50 ID:wou8zW+m
>>506
実際のところ中国でかなり評価高いのを知らないのかw

>大久保の遺体掘り起こして打ち首にしたり
中国ではこれ以上のことをしてきているから連中から見ればせいぜい妥当な処置に見えるだけ。
514人間七七四年:2010/10/15(金) 13:34:24 ID:DEO1O8iw
>>513
同じような話があるけど中国でもあれは肯定されてないよ
恩賞の件では劉邦と比べれば小物感ばりばりでしょ
515人間七七四年:2010/10/15(金) 16:18:58 ID:Fv71WN6K
でも中国でも評価高いことに変わりはない。
さすがに中国の偉人より上という扱いにはならないよw
516人間七七四年:2010/10/16(土) 15:05:20 ID:JQByefIE
秀吉ざまぁwww
でおしまい
517人間七七四年:2010/10/16(土) 15:21:26 ID:cluDwr8L
外国で評価が高いってのはその裏にある意図をよく考えないとね
518人間七七四年:2010/10/18(月) 00:05:03 ID:VSLQVA9y
>>517
たとえばどういう意図があるの?
519人間七七四年:2010/10/19(火) 14:55:43 ID:M9bYzseq
家康は国内はもちろん世界的にも高い評価をされている史上稀に見る人物。
520人間七七四年:2010/10/20(水) 19:00:22 ID:zH8zVxiL
秀吉なんてただのゴミだしwwwwwwww
521月孔雀:2010/10/20(水) 19:38:48 ID:Bvn/d0qg
秀吉がゴミって???朝鮮人?
522人間七七四年:2010/10/20(水) 20:53:25 ID:zH8zVxiL
秀吉なんて人というより物体レベルの惨めな肉片だしwwww
523:2010/10/21(木) 10:24:20 ID:X29ZGyiT
同意
アレは人間のゴミカス、頭可笑しい
524人間七七四年:2010/10/21(木) 11:31:58 ID:3MmCcLcQ
秀吉好きには汚物しかいない
525人間七七四年:2010/10/21(木) 16:16:18 ID:+7p4GxJO
家康が評価が高いのはイギリスだろ。
織田信長はナポレオンに影響を与えている。
秀吉は半島にしか相手にされない。
526人間七七四年:2010/10/21(木) 18:29:25 ID:zJ+BAb3y
家康が評価が高いのはイギリスだろ。
中韓もな。

>織田信長はナポレオンに影響を与えている。
これどういうこと?
527人間七七四年:2010/10/22(金) 14:21:13 ID:bOmdZ829
秀吉は歴史の汚点、存在自体人類の恥部
528人間七七四年:2010/10/22(金) 16:14:09 ID:YNaz2m2G
信長がナポレオンに影響与えたってどんなトンデモだよ。
大方信長厨の歴女の妄想だろ。世界じゃ無名だよ信長は。
529人間七七四年:2010/10/24(日) 00:56:18 ID:Cvvtb+nz
秀吉厨涙目で憤死wwwwwwwwww
530人間七七四年:2010/10/24(日) 16:31:33 ID:x7URQ3Ud
朝鮮人多すぎ
ワロタ
531人間七七四年:2010/10/24(日) 16:33:19 ID:NWz+q28Y
エテ吉厨w
532人間七七四年:2010/10/24(日) 16:35:32 ID:x7URQ3Ud
>>531
反日デモでも参加しろや
カス
533人間七七四年:2010/10/25(月) 08:11:39 ID:Fiq0PRn6
ゴミ吉ヲタ惨めだな
534人間七七四年:2010/10/25(月) 11:50:13 ID:EWS8VIMC
>>533
在日チョン
  きたあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
535人間七七四年:2010/10/25(月) 15:17:02 ID:ZKfKS8lD
秀吉を信奉してる奴って頭イカれてるよなー
気持ち悪いし社会に迷惑だから消滅したほうがいいよf^_^;
536人間七七四年:2010/10/26(火) 13:37:49 ID:DJ+cwoTx
秀吉って権力を手にした途端醜くなった人間の代表だよね
537人間七七四年:2010/10/26(火) 18:04:04 ID:TXlzlN+c
何を騒いでると思ったら反秀吉派(在日?) VS 日本人で
おk?
538人間七七四年:2010/10/26(火) 20:35:38 ID:HDLYDP0U
秀吉厨発狂中
539人間七七四年:2010/10/27(水) 15:05:45 ID:oq0CKg8M
秀吉がカスだってことはみんなが思ってることが証明されたwwwwwwwwwwww
540人間七七四年:2010/10/27(水) 20:41:14 ID:AjWcqX24
秀吉信者瀕死w
541人間七七四年:2010/10/28(木) 10:09:18 ID:ABgrkMlp
秀吉がいなかったら家康ごときでは天下統一はできず
とうの昔に滅んでただろうに。
天下が安定していく過程がまるでわかっていないんだね。
アホ杉。
542人間七七四年:2010/10/28(木) 11:02:10 ID:NqO1rtMQ
秀吉のカスがいなかったら日本の繁栄と近代化は早かった
秀吉は畜生に劣る
543人間七七四年:2010/10/28(木) 11:09:32 ID:a4eo/CBQ
小学生のクラスメートで秀吉って名前の奴がいて、
サルってあだ名でいじめられてて、途中からゾウリムシになっていじめが酷くなった
トイレのスリッパを全部奥に放り投げて脅して揃わせるとかやって遊んでたわww
544人間七七四年:2010/10/28(木) 11:21:47 ID:L8lePPP/
まぁ秀吉はカスだろ
545人間七七四年:2010/10/28(木) 12:13:01 ID:iwZBhOTY
今日も在日チョンの集いですか?
546人間七七四年:2010/10/28(木) 13:32:45 ID:8gFcbvmw
秀吉を信仰する大阪民国人対、
家康を信仰する頭狂人の戦いです
547人間七七四年:2010/10/28(木) 17:42:26 ID:iwZBhOTY
大変失礼しました
548人間七七四年:2010/10/29(金) 08:35:28 ID:ALJNSDTs
秀吉は大嫌いだけどバリバリ伝説のヒデヨシはカッコイイ
549人間七七四年:2010/10/29(金) 11:31:47 ID:/lcHzxz7
秀吉厨が死に絶えた模様でつw
550人間七七四年:2010/10/31(日) 23:36:11 ID:3MSrviKB
秀吉が好きとか人間性を疑われるわ
551人間七七四年:2010/10/31(日) 23:43:02 ID:i3MgRiyx
秀吉は日本史において唯一の汚点だと思う
日本人として恥ずかしい
552人間七七四年:2010/11/01(月) 13:41:49 ID:cw9D3eRD
つーか、秀吉が好きな人間なんていないだろ
553人間七七四年:2010/11/01(月) 13:49:14 ID:6ZmZ2B/k
カス吉信者が虫の息だねw
554mai:2010/11/03(水) 20:56:20 ID:JbSvpIJC
わたし6年で
ガイドブック作ってるんですけど



555人間七七四年:2010/11/04(木) 11:35:14 ID:WtAoqpFs
秀吉なんてただのゴミだし
556人間七七四年:2010/11/04(木) 17:53:20 ID:bwWhfVlS
朝鮮人から一言
   ↓
557人間七七四年:2010/11/07(日) 23:55:32 ID:aVlX3U+M
  │    _、_
  │  ヽ( ,_ノ`)ノ 残念 私のおいなりさんだ
  │ へノ   /
  └→ ω ノ
      >
558人間七七四年:2011/04/23(土) 09:16:47.65 ID:O+aGyKlv
太閤地検
559人間七七四年:2011/04/23(土) 14:11:03.39 ID:MclKO//V
主君の敵討ちをし、主君の孫を保護した秀吉
主君を殺し、主君の孫も殺した稀代の謀反人家康
大阪城、聚楽第、伏見城、名護屋城、方広寺大仏殿などの芸術的巨大建築物を作った秀吉
自分の住まいの江戸城すら、まともに整備できなかった家康、天下を簒奪してから、やっと建築し始めるも
自分一代で完成させられないボンビー野郎
560人間七七四年:2011/05/02(月) 00:19:05.69 ID:PiWrZEXM
新刊「日本のまつろわぬ民」(新人物往来社)のなかの秀吉について記した「猿という暗号」
が興味深かった。
秀吉が日光と縁の深い小野猿丸の一人であったこと。
日光の「見ざる、言わざる、聞かざる」は、秀吉封じの呪詛であるという指摘など、面白かった。
561人間七七四年:2011/05/10(火) 12:08:40.05 ID:PRy8lYML
かつての主の墓を破壊したり、幸村の首を犬に食わせるなんて家康はチョンみたいな奴だな
562人間七七四年:2011/05/17(火) 12:09:06.59 ID:m4JkOmSB
犯罪者を断固として許さない家康公はまさに神君と呼ぶにふさわしい
563人間七七四年:2011/05/19(木) 21:31:39.94 ID:pGY5eyHr
家康の豊臣家の処置に比べて明治政府の徳川家の処置は物凄く寛大だな。
564人間七七四年:2011/05/19(木) 22:01:48.26 ID:Vn8ORvPP
そりゃ例えるなら、冬の陣が始まる前に降伏したようなもんだし
565人間七七四年:2011/05/21(土) 00:41:28.90 ID:z6vTzKOy
大阪の陣で言うなら秀頼が皇族って状態だから処断なんぞしたら朝廷と関係が悪化する
566人間七七四年:2011/05/21(土) 00:58:07.32 ID:c/V3ATqP
最後まで抵抗し続けた会津松平家に対しても戦後赦免してるけどな>明治政府
時代が違うといえばそれまでだろうが
567人間七七四年:2011/05/21(土) 01:28:59.25 ID:jAzqXsga
>>586
一応、落城でなく開城でしたし
568人間七七四年:2011/05/22(日) 20:28:07.21 ID:m0z9zxlc
>>586
内憂外患の幕末、内憂をいち早く払拭する必要があった。
慶喜は、内乱を最小限に押しとどめた大功績がある。処刑など以ての外だよ。
会津は、局地戦で、奥羽越列藩同盟を崩壊させたので寛大な処置をしただけ
外患のほうが、明治の元勲たちには、強大な敵だったわけ。
569人間七七四年:2011/05/22(日) 23:39:03.82 ID:eMGA/T+z
>>586に期待
570人間七七四年:2011/05/23(月) 02:47:40.71 ID:M5+WDNoS
>>560
秀吉は猿じゃなくて鼠とよばれててだな・・・
571人間七七四年:2011/06/15(水) 20:27:31.09 ID:Ueu/VktU
>>1
さすがとくにゃん!
572人間七七四年:2011/06/16(木) 14:54:03.88 ID:l/7wHX+L
>>570
>秀吉は猿じゃなくて鼠とよばれててだな

うん、そうなんだよ。
「はげねずみ」が、なぜ、猿になったの? という謎解きが、先の「日本のまつろわぬ民(新人物往来社)」
に書いてあった。
573人間七七四年:2011/06/16(木) 16:11:56.90 ID:SJ1Paedb
太田牛一は、うしって呼ばれてたのかな
574人間七七四年:2011/06/16(木) 17:35:56.53 ID:gQ0A4NyY
前権力者の威光を絶つ行為としては当たりという
ヲタの必死な叫びが聞こえてきそうですね。

家康という臆病な小心者を顕著に現す事ですね。
575人間七七四年:2011/06/19(日) 15:42:51.15 ID:3q3iT2do
幻聴か
576人間七七四年:2011/06/22(水) 14:19:33.29 ID:9Fmve91i
>>102
まじ?
577人間七七四年:2011/06/22(水) 22:47:59.33 ID:lXeH26XB
Jejus(イェーヤス)・ルビコン川・竹千代Jr.

古代エチオピア→エド族出身、秦氏キムチ漬け係侍従
578人間七七四年:2011/06/22(水) 22:49:43.04 ID:NcjZIqam
家光が祖父・浅井長政の仇を取ったということですね
579人間七七四年:2011/06/23(木) 19:52:13.57 ID:rFBdXBJI
>>576
所詮は大阪人の戯言
580人間七七四年:2011/06/24(金) 06:48:59.52 ID:UTF79Zba
>>579
勉強してから出直してこい
581人間七七四年:2011/06/24(金) 09:04:46.39 ID:SZkr0lK3
家光が祖父の長政と勝家、祖母の市の思いを汲んで
仇をとりました

以上
582人間七七四年:2011/06/27(月) 00:36:17.98 ID:iXWfa8Zx
今年の大河を見ていたら江が自分の子供に秀吉の墓を壊すよう仕向けるのもありだな
でも家光は江から嫌われていたっけ
583人間七七四年:2011/07/01(金) 03:02:48.82 ID:LFucqx8p
>>98
農民じゃねえ、百姓のような下層民
江戸時代の農民とは違う
少しは勉強しろ!
584人間七七四年:2011/07/02(土) 14:14:32.65 ID:Wx2sJ4+P
死者の墓を暴いて鞭打つのは大陸や半島人のやり方で本朝のやり方ではない賤しい行為。
家光や老中どもはハンパなく人品卑しいな…これが三河の田舎者徳川の律儀さということか。
585人間七七四年:2011/07/11(月) 16:20:57.39 ID:a+iSm9do
あげ
586人間七七四年:2011/07/15(金) 23:48:26.52 ID:P/Yl3HFk
墓暴き
587人間七七四年:2011/07/16(土) 02:14:15.75 ID:ObXWvGqe

大坂冬の陣・夏の陣も八百長・パロディ

http://s1.shard.jp/deer/0204/46/305.html

豊臣・徳川の八百長戦争だった。
588人間七七四年:2011/07/18(月) 11:20:57.04 ID:247PXhTP
>>584
同意。日本人ならそんなことする文化がない
589人間七七四年:2011/07/18(月) 19:24:48.09 ID:B0XW34T6
家康による大坂城下ジェノサイド事件
590人間七七四年:2011/07/19(火) 00:30:35.18 ID:lot6Vr+h
日本を後進国に至らしめた徳川の罪は重い
591人間七七四年:2011/07/19(火) 10:57:21.22 ID:tTJ7LRbT
江戸時代が後進国なら、戦国時代は最貧国
592人間七七四年:2011/07/19(火) 11:11:01.80 ID:aBggM2ID
戦国末期から安土桃山時代は銀山を求めてスペインやポルトガルが群がってきたが武力占領を諦めていた富国強兵時代
593人間七七四年:2011/08/05(金) 11:49:43.85 ID:eYlI9vJL
家康ならやりかねんな。
自分の長男と妻さえ殺害した男だからな
594人間七七四年:2011/08/05(金) 15:05:35.20 ID:ZI3IzXVM
>>593
戦国時代に家族を殺害している武将は多いぞ
家を守る目的じゃなくて私情のためにね
595人間七七四年:2011/08/11(木) 16:51:34.58 ID:JreFwMDz
>>582
嫌われてたね
そして家光はオカマ化
嫌われたからオカマ化したか オカマだから嫌われたかは謎だけど
それで家光の乳母の春日局が江を出し抜いて
家康に直訴

この辺 江が主役のドラマだといろいろ変えられそうだ
596人間七七四年:2011/08/11(木) 16:54:29.19 ID:JreFwMDz
>>356
人数で許しちゃだめだろう
そして祖先の遺恨を無関係の子孫に持ちこむのは愚かな考え
597草葉の陰:2011/10/03(月) 17:42:32.72 ID:fa+3were
人の墓を壊すとは・・・家康は罰が当たって死んだのだろう。家康ざまみろw
598人間七七四年:2011/10/04(火) 00:55:16.62 ID:Sp32AEXb
保守
599人間七七四年:2011/10/20(木) 09:03:50.04 ID:G5zxedZK
家康はチョン並みの人格w
600人間七七四年:2011/10/20(木) 22:48:53.62 ID:xW99sG0Q
織田家の天下を簒奪した極悪不忠の糞猿の墓なんざ


荒らされて当然だでやwwwwwwwww





601人間七七四年:2011/10/21(金) 13:58:18.59 ID:MAx0rWMH
家康の思考回路

信長→散々こき使った上に肝心な時助けてくれなかったから嫌い。
猿→百姓のくせに自分より早く出世したから嫌い。
602人間七七四年:2011/10/21(金) 14:05:55.31 ID:iG3G4Pp7
ちげーだろ
豊臣旧家臣の拠り所となるのを恐れたんだろ

ま、家康も家臣だったわけだし、家康が壊したのにはすんげー問題あるがな
秀忠にでも壊させれば良かったのに

わしは知らん秀忠が壊したって事にしといた方が家康の不義にならずに済んだと思うがね
603人間七七四年:2011/10/21(金) 14:26:52.59 ID:zwl2S8E/
墓を暴いて故人を辱めた盗掘将軍家康。
604人間七七四年:2011/10/21(金) 15:43:36.70 ID:bJy6989m
よくやった、偉い!
605人間七七四年:2011/10/21(金) 20:30:22.85 ID:2VWiUvhV
朝鮮メンタリティ
606人間七七四年:2011/10/21(金) 21:01:42.85 ID:YmF3VRio
秀吉嫌いをみんなチョンにするとか、さすがクソ猿厨だなw
607人間七七四年:2011/10/21(金) 23:10:13.02 ID:I9uOv+jd
>>606
在日乙
608人間七七四年:2011/10/22(土) 07:29:17.59 ID:msTUtsIA
>>607
朝鮮なんて欲しいとにかw母国だもんなw
チョン乙
609人間七七四年:2011/10/22(土) 08:21:42.98 ID:bXFb96j3
まあ日本人は死者を冒涜しないからな。
そんなことしたら穢れるし
610人間七七四年:2011/10/22(土) 09:42:36.27 ID:CF+MNW4n
秀次一族とかの亡き骸どうしたんだろ?
611人間七七四年:2011/10/22(土) 12:51:14.98 ID:0Mcu+JfB
>>610
罪人だから当然刑場(三条河原)に埋葬されたが
後に角倉了以が瑞泉寺を建立してそちらに改葬された
612人間七七四年:2011/10/23(日) 14:34:28.63 ID:lysIbSEE
>日本人は死者を冒涜しないからな。

獄門(晒し)は十分冒涜していますがwwww
613人間七七四年:2011/10/23(日) 15:29:53.47 ID:/Hpu7vLj
>>612
謀反で刑死した瞬間と
墓を暴いて鞭撃つのは
全く性質が違うだろ。
614人間七七四年:2011/10/23(日) 15:44:22.18 ID:KosNGJlz
徳川家的には間違ってないと思うが

臣下の礼を取った家康がやったのは、なんつーかなぁー
615人間七七四年:2011/10/23(日) 18:32:28.96 ID:lysIbSEE
獄門も磔も数日そのままで晒します。

死者への冒涜に変わりはないだろw
616人間七七四年:2011/10/23(日) 19:26:47.36 ID:Q9pg+ZAp
無法者の朝鮮人は刑法というものが理解出来ないらしいw
617人間七七四年:2011/10/23(日) 19:36:20.03 ID:uC7hE+oK
「死者に鞭打つ」の語源となった伍子胥の墓暴きだが、
儒教が浸透していない当時の中華でも
「今死人ヲ辱メルニ至ル、此レ豈其天道ノ極無ランカナ」と
はっきりと非難されてるくらいだからね
中華でもそうなんだから、墓暴きは本朝においては極めて稀な事例
精々嘉禄の法難みたいな未遂事件があったくらいか
それを平然と何度もやってのけるあたり家康は
日本人離れした倫理観の持ち主だと言わざるを得ない

>>615
獄門は死後数日間見せしめのために
晒されるのも含めて、罪人の生前に定められた刑罰
ついでに正式な弔いも許されないから埋葬と言っても
刑場に掘ってある穴に埋めるくらい
ただ一度地中に入った死骸はそれなりに尊重されてたみたいだけどな
秀次のように支持者がもう一度改葬して
そちらで弔いがなされるという事例もあった
墓暴きとは全く違う
618人間七七四年:2011/10/23(日) 19:50:58.90 ID:lysIbSEE
刑法だろうがなかろうが死骸への冒涜に違いねえだろw

墓荒らしも同じことや
619人間七七四年:2011/10/23(日) 19:58:30.26 ID:uC7hE+oK
業務上過失致死と強姦致死死体遺棄も
同じ殺人だから同じくらい悪い、つうくらいの暴論だな
それに何度も言うが生きている罪人に対し執行される刑と、
埋葬された死者に対し行われる墓暴きは同じ俎上には上がらな
620人間七七四年:2011/10/23(日) 21:05:42.42 ID:RxZup7HB
恨を精神的支柱にする
品性下劣なチョンには区別がつきませんw
621人間七七四年:2011/10/23(日) 22:39:22.03 ID:lysIbSEE
法解釈なんてどうだっていいわw

獄門等の刑死後の死骸を晒す行為は死者への冒涜だろw

「日本人は死者を冒涜しない」なぞ幻想だよん
622人間七七四年:2011/10/24(月) 05:52:59.97 ID:Wu6fJAsc
徳川ってチョンだったのか
知らなかった
623人間七七四年:2011/10/24(月) 11:30:27.15 ID:UpLYmEMN
>法解釈なんてどうでもいい

凄い野蛮人だw
どこの国の人間だよw
624人間七七四年:2011/10/25(火) 00:46:30.44 ID:DBgV0mqO
解釈はどうだっていいだろw  

法は遵守していれば良いのだよ^^
625人間七七四年:2011/10/25(火) 00:56:56.53 ID:DBgV0mqO
バカウヨもどきの根拠の無い「チョン認定(笑)」はどの板でも見られる馬鹿芸だなw
626人間七七四年:2011/10/25(火) 10:28:23.70 ID:yJHksfOP
当時の記録には豊国神社廃絶時に、秀吉の遺骸は方広寺の裏手に改葬されたとあるのだが
627人間七七四年:2011/10/25(火) 12:49:16.52 ID:52TItc0/
>>624
だから問題ないのだろ
獄門は法に基づいた刑なのだから冒涜でもなんでもない
628人間七七四年:2011/10/25(火) 14:10:33.77 ID:0MAJkAaK
>>625
でたねw朝鮮メンタリティ
「朝鮮を批判する奴は全員ネトウヨ」と決め付けるのに
自分が在日認定されると「決め付けるな!」と逆ギレ
韓国は「親日罪」とか「日本文化規制」をなどを国策で行い
メディアでは「反日歌」や「日本人の蔑称」が公然と流されるという国を挙げての『日本差別』が行われているのに
日本でほんの少しでも朝鮮批判がされると差別だ差別だ騒ぐ朝鮮人のメンタリティそのものである
629人間七七四年:2011/10/25(火) 14:27:57.15 ID:a0c973IU
秀吉の葬儀すら許さなかったのが家康。
密葬先も破壊し、再興させたのは明治になってから不憫に思った天皇
630人間七七四年:2011/10/25(火) 15:15:52.80 ID:RU1TCJvE
あれ? 先週の江の終わりの紀行みたら京都の阿弥陀ヶ峰って山に秀吉の墓があるって言ってるよ?
631人間七七四年:2011/10/25(火) 15:18:36.69 ID:DBgV0mqO
ネトウヨじゃなくてバカウヨなwwwwwww

「親日罪」とか「日本文化規制」?w

そんなもん知ったことかw 勝手にやらせとけやwww

何を向こうと同じ低次元に落ちて批判仕返してんねんwwwwww

かっちょわるっwww


632人間七七四年:2011/10/25(火) 15:20:38.58 ID:DBgV0mqO
墓あるよな、棄却されたって典拠は何だ

棄却されていたなら当時の民衆は反応は?
633人間七七四年:2011/10/25(火) 15:26:49.33 ID:yJHksfOP
そもそも、神体となるよう命じた秀吉に対して葬儀は行うものなのか
634人間七七四年:2011/10/25(火) 16:17:21.88 ID:DZVER2e7
>>631
仕返しとかもろに朝鮮メンタリティw
日本人は朝鮮人の様に仕返しで根拠のない中傷しているわけではない
国を挙げての日本人差別や滑稽な韓国起源説で日本文化を貶めたり、違法献金したり、違法賭博したり
違憲立法推進したり、不法占拠したり、不法入国・滞在したり悪事を働くから当然の非難をしているだけだ
635人間七七四年:2011/10/25(火) 17:27:51.59 ID:TsZDbvvC
豊臣
信長の菩提を弔うため秀吉が信長の木像を安置し建立した総見院。

徳川
北政所が泣いて懇願したのを無視しての豊国神社打ち壊しにおいて
秀吉の墓が暴かれて庶民と一緒の屈葬で葬られた。
後水尾天皇の皇子である守澄法親王が日光門主
その後も代々皇族が日光法親王として
神である家康の霊に仕える事で皇室すらも臣下となして君臨。

その徳川の悪魔の行いに同情した庶民達は
京都の方仏寺で秀頼を喪主として朝廷より勅旨を迎え
五大老、五奉行以下諸大名と2万人が参列した大葬儀が
行われたような書物を作り江戸期に広く流布。
芸が細かいことに記帳まであります。

636人間七七四年:2011/10/25(火) 17:37:12.45 ID:yJHksfOP
>>635
それ江戸後期の話だから、単に面白がってやっただけ
637人間七七四年:2011/10/25(火) 17:43:20.87 ID:NpD9gmuP
ひでーよな

秀吉が生きてる時に謀叛を起こして、秀吉を倒したってなら
この行為はやってもまぁあれだが

死んだ後になっての行為だし鬼畜すぎるわ
638人間七七四年:2011/10/25(火) 18:04:43.64 ID:yJHksfOP
幕府は法体として祀ることは認めているけど、神体で祀ることは認めなかった
639人間七七四年:2011/10/25(火) 18:31:25.83 ID:DBgV0mqO
>>634
>国を挙げての日本人差別www 笑わせんなwww  
どこの国にもクズはいんだよ、日本にバカウヨみたいなクズがいるようにな。
悪事を働くのは一部だ。

近現代史学んでから出直し来いや、リアル厨房w
640人間七七四年:2011/10/25(火) 18:35:53.94 ID:DBgV0mqO
>>635
秀吉は織田に大恩があるが、徳川は豊臣になんの御恩もないから比較対象にならんだろ。
641人間七七四年:2011/10/25(火) 19:18:09.33 ID:nagWTN9v
>>639
国策で反日教育や親日罪作ってるのだから「一部の人」という言い訳は通用しない
その言い訳が通用するなら日本国も現代日本人も朝鮮に謝罪も賠償も必要ないと言う事になる
国会で在日を全て追放する法案を制定しても「一部の人」が勝手に決めたのだから関係ないと言うとこになる
642人間七七四年:2011/10/25(火) 19:36:56.81 ID:DBgV0mqO
御託並べてないで近現代史学んでこいやリア厨wwww
643人間七七四年:2011/10/25(火) 19:43:27.26 ID:DBgV0mqO
それと「親日罪」なんて法は向こうに存在しねえぞww
644人間七七四年:2011/10/25(火) 21:14:10.29 ID:MVAZ4tEI
恨思考の家康
645人間七七四年:2011/10/25(火) 22:17:29.78 ID:zW0V/zBM
>>640
「御恩」の意味知らんの?
646人間七七四年:2011/10/25(火) 23:53:25.89 ID:qnoA2wYZ
>>643
どうして嘘をつくの?

『日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法』 は大韓民国の法律。
(旧名:日帝強制占領下親日反民族行為の真相糾明に関する特別法、通称親日反民族特別法)
2004年3月2日に国会通過、3月22日公布された。
2005年1月27日施行の改正法で法律名から「親日」が外されている。これは、日本との外交関係に配慮したためとされる 。


『親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法』とは、大韓民国の法律の一つ。
2005年にウリ党の崔龍圭、民主 労働党の魯會燦など与野党169人の議員が国会に提出し12月8日に可決、同月29日に公布された。
大韓民国大統領直属の国家機関として親日反民族行為者財産調査委員会を設置し親日であった反民族行為者の財産を選定して国家に帰属することとしている。
647人間七七四年:2011/10/26(水) 10:14:14.33 ID:XE3hj5DD
幕府の行ったこと

・豊国社は廃絶、社領・遺品は妙法院(方広寺)が横領
・遺骸は方広寺裏に法体として改葬
・建物の多くは移転

別に遺骸を辱めたという類はない
やったことは豊国社を廃絶し、秀吉の神号を止め法体として祀った

それ程、悪辣非道とは思えんが
648人間七七四年:2011/10/26(水) 10:17:37.64 ID:RoRAessl
これを非道というなら無縁仏も死者への冒涜になるな
649人間七七四年:2011/10/26(水) 11:12:01.87 ID:+ViNphed
屈葬って神格だった
秀吉を永遠に封印する呪詛だったようだな。
650人間七七四年:2011/10/26(水) 11:17:40.97 ID:XE3hj5DD
秀忠は座葬というから、大した意味はないかと
651人間七七四年:2011/10/26(水) 11:47:56.99 ID:d01k07XS
>>646
日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法=親日罪?w

親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法=親日罪?w


都合良く言い換えてんじゃねえよww いかにも日本もしくは日本人と親しくすれば罰します的になww

それとwikiのコピペとかいらねえから笑

652人間七七四年:2011/10/26(水) 11:52:03.36 ID:d01k07XS
>>647
朝鮮征伐を行った猿関白を顕彰し直したいウヨ猿の言い掛かりみたいなモノだからねぇ笑
653人間七七四年:2011/10/26(水) 13:05:12.66 ID:+ViNphed
なんだやっぱり在日毛利厨か。
そうだね、すべて秀吉と三成が悪くて、
毛利は被害者だよねプププ
654人間七七四年:2011/10/26(水) 14:21:39.16 ID:p0u21EkN
>>651
紛うこと無き事実だろ
頓珍漢な言い訳ばかりしてるなよw
655人間七七四年:2011/10/26(水) 14:26:57.79 ID:aQyTsoYL

●真実を広めて下さい。〜竹島を韓国に奪われた経緯● 今いる在日の過去 (コピペ)

戦後、自衛隊が存在しない期間(1945年8月から1954年6月までは日本領土を守る組織がなかった)
韓国はその隙をついて竹島を不法占拠しようと考え、
1952年に国際法を無視して李承晩ラインを一方的に設定。
日本の外務省は直ちに抗議、アメリカ・イギリスもそれを支持した。

韓国は竹島周辺で漁業をしていた日本の船舶を漁船に擬装した武装船で
至近距離で警告なしに射殺、拿捕。捕虜には地獄のような拷問を繰り返した。
328隻を拿捕、漁民3929人を拉致監禁、日本人44人を虐殺。

韓国は人質を解放する条件として日本の刑務所にいる朝鮮人凶悪犯罪者など472人を、
放免して特別残留許可を与えることを要求、日本はその条件を受け入れた。
同時期に、韓国政府は密入国朝鮮人の祖国への強制送還の受入れを拒否。
収容しきれなくなった密入国朝鮮人に日本政府は一時的な在留を許可した。
自衛隊は、1954年7月1日に設立された。
656人間七七四年:2011/10/26(水) 15:30:45.00 ID:XE3hj5DD
後、家康が秀吉の葬儀をしなかったというが、それは秀吉が神体なのだから当然
それに替わる千僧供養は慶長4年4月25日に高台院により行われて、これを拒んだ日奥を
家康が流罪に処している
657人間七七四年:2011/10/26(水) 17:21:20.51 ID:xsMFpwuL
>>656
秀吉や家康ら権力者が日蓮宗の宗徒にならない限り従わないとする
日奥らの行動が反発を買ってるだけ。しかも他宗攻撃型の破折屈伏による活動もあるので
攻撃的で、違う宗教とその信仰への誹謗中傷や反権力の色彩が強く権力者から嫌われる。
別に日奥を罰したことが家康の亡き秀吉への弔いには当たらないと思う。

1579年安土論争で法華宗に対して信長が侘び状を強要。
1595年9月10日方広寺大仏殿の落成により秀吉が大仏への千僧供養会への参集を命ず。
京都十六本山の会議において秀吉の意向に逆らうことは、法華宗の破滅との意見が大勢の中で
不受不施を主張する日奥は1596年11月3日に秀吉に法華宗諌状を出して丹波へ蟄居。
翌年からも毎年の恒例として千僧供養会が行われる。
1598年9月18日秀吉死去
1599年11月13日京都十六本山が日奥を公命違背で訴え20日大坂に召集され大老家康の前で裁判(大坂対論)
1600年1月6日訴状により日奥・日経が袈裟・数珠を剥ぎ取られ対馬に流罪
6月会津征伐出発。10月21日関が原の戦い
1608年日経が増上寺などに上訴され江戸に呼ばれ耳と鼻を削がれる(慶長宗論)
1615年大坂夏に陣で豊臣家滅亡
1616年日奥は家康から赦免されて妙覚寺に戻る。
1630年またまた受布施派と不受不施派の対立により
反権力の首謀者として幕府は日奥の遺骨を対馬へ(身池対論)
658人間七七四年:2011/10/26(水) 17:55:54.78 ID:XE3hj5DD
>>657
いや、秀吉の葬儀に値する行為が行われたという意味で言っているだけ
659人間七七四年:2011/10/26(水) 18:16:26.06 ID:xsMFpwuL
あれは毎年恒例の行事だし
秀吉の葬儀とはいえないのでは?
豊国神社を破壊したわけだし。
660人間七七四年:2011/10/26(水) 18:30:21.13 ID:d01k07XS
不義不忠の糞猿の墓なんざ棄却されて当然ってなw
661人間七七四年:2011/10/26(水) 18:58:07.48 ID:RoRAessl
>>657
余分な文が多過ぎ
662人間七七四年:2011/10/26(水) 19:33:39.85 ID:XE3hj5DD
>>659
豊国社遷宮式の一週間後に行われた最初の千僧供養ですし
高台院はその前に豊国社に詣でているから実質、葬儀としてよいかと
663人間七七四年:2011/10/26(水) 19:36:04.03 ID:d01k07XS
棄却されたという典拠は何ですか?
664人間七七四年:2011/10/26(水) 19:41:13.03 ID:XE3hj5DD
>>663
何が?
665人間七七四年:2011/10/26(水) 19:49:05.15 ID:d01k07XS
662に聞いたんじゃないよ。
墓が破壊されたならその典拠は?とその他大勢に聞いてみただけで。
666人間七七四年:2011/10/26(水) 19:59:41.35 ID:8UNY9sfc
千僧供養の内容も
例年通りで特に変化なかったんだろ。
豊臣の派手さから
供養ならそれとは別に、
大々的にやるんじゃね?
667人間七七四年:2011/10/26(水) 21:06:59.18 ID:XE3hj5DD
神体に対しての供養は内々に行われるものです
668人間七七四年:2011/10/26(水) 22:28:09.69 ID:ukVPel3M
>>665
『梵舜日記』によれば、幕府による豊国神社破却が決まった後、
秀吉の棺は荒縄で引きずられて別の場所に埋葬されたとある
明治時代の発掘調査で判明したことだが、
秀吉の遺体は粗悪な土の瓶に詰め込まれてた
秀吉と同時に埋められた副葬品が一つも残ってなかったことから、
まともな「改葬」ではなかったことは分かる
669人間七七四年:2011/10/27(木) 09:14:17.88 ID:WW8IYM1c
>>668
www.geocities.jp/dqbsh563/houkokubiyu.doc
こういう話もあるので、後世の改葬によるものかと
>まともな「改葬」ではなかった
670人間七七四年:2011/10/27(木) 10:50:52.17 ID:bKU8NUwT
スッキリしない言い訳ばっかりだな。
隠蔽体質丸出しの徳川
671人間七七四年:2011/10/27(木) 11:45:32.32 ID:z/k5jOlE
 
関ヶ原の戦いは完全な八百長戦争

http://2nd.geocities.jp/jmpx759/0203/39/266_1.html

日本史上の全ての戦争は、八百長戦争と言っていい。

八百長は、古代エジプト王朝、大和朝廷を通して、

今日まで日本の伝統で、天皇・徳川一族の「正義」である。
672人間七七四年:2011/10/27(木) 12:17:01.77 ID:JgVdSlIh
まともな「改葬」ってなんだよ。

副葬品が残ってなかったのは盗掘でも遭ったんじゃね。
673人間七七四年:2011/10/27(木) 13:12:47.47 ID:WW8IYM1c
>>670
改葬についてはしっかりと「駿府記」にあるんだが
江戸中期の記録が曖昧なのは幕府の関知しないことである証拠だし
674人間七七四年:2011/10/27(木) 14:23:33.85 ID:ti72oIXI
秀吉が埋葬された時は漆塗りに金を打った棺箱だったが、明治に発掘された時は素焼きの甕に入れられていた
副葬品も徳川が掘り起こした時に抜き取ったと見て間違いないだろう
675人間七七四年:2011/10/27(木) 14:38:29.07 ID:WW8IYM1c
676人間七七四年:2011/10/28(金) 21:12:04.83 ID:KIUipFrc
秀忠の秀の字は秀吉から拝領したものだよね。なんで大坂の陣後名を改めなかったの?
親父の家康は今川義元の死後に元康から改名して元の字を返上してるのに。
677人間七七四年:2011/10/28(金) 22:11:03.50 ID:eEtmBRaV
秀忠が秀吉や淀を慕う
江を怖れていたから
678人間七七四年:2011/10/28(金) 23:25:06.91 ID:KM2StcjY
>>672
普通の「改葬」なら近親者の合意に基づいた上で、
彼らより委託された宗教関係者が取り仕切って行われる
久能山から日光山に改装された家康なんか典型的
秀忠らが派遣した名代の立会の下、天海崇伝梵舜ら
各宗派の重鎮が参加して段取りを整えた(『国師日記』及び『梵舜日記』より)
未亡人である高台院や社僧の梵舜たちの反対を押し切って、
幕府の下級役人が棺を彼らの与り知らぬ場所へ埋め直すのは普通じゃない

秀吉の副葬品が明治時代の発掘調査で見つからなかったことについて、
百歩譲って副葬品の散逸が後世の盗掘によるものだとしても、
盗掘を防ぐ役割を担った神宮寺及び社務所を破壊させ
別当を追い払った幕府に盗掘の責任があると思うな
まあ自分は幕府が直接ではなくて、彼らの意を汲んだ
妙法院がパクった可能性が高いと考えてるけど

>>669
上記の理由で、既に梵舜存命時に行われた
最初の改葬の時点でまともなものじゃないのは明白だと思う
679人間七七四年:2011/10/29(土) 13:57:48.63 ID:HEtlvB4V
エテ公厨いい加減きしょいww
680人間七七四年:2011/10/29(土) 16:54:00.71 ID:qKekZbDc
舜旧記を読んだが縄で引きずるという記述はなかった
681人間七七四年:2011/10/30(日) 17:56:14.05 ID:CBNkKFzP
家康の豊国神社廃絶の真意は、秀吉を大仏の鎮守神にする為と「駿府記」にある
そもそも豊国神社は豊臣家守護を目的としており、その豊臣宗家が滅んではその存在意味も消失している
という理屈も成り立つ
682人間七七四年:2011/10/31(月) 07:26:41.33 ID:sXAVuIYd
>>676
ヤフーの知恵袋で「秀忠 改名」で探してみて。
多数の同類の質問&回答があるが、詳しく回答してあるのがあるよ。
683人間七七四年:2011/10/31(月) 10:16:31.22 ID:RqthZdIo
結論を述べると、徳川家の豊国神社廃絶は問題が無いとは言わないが、
基本的に仁義や常識を弁えた行為

巷間に言われる程の非道ではない
684人間七七四年:2011/10/31(月) 10:20:35.98 ID:3okR8Tjd
んなわけねーだろ。
わざわざ後世の非難がこわくて
駿府記で屁理屈こねて
自己正当化するあたり
明らかに確信犯だな
685人間七七四年:2011/10/31(月) 10:38:41.25 ID:RqthZdIo
>>684
感情論でものを語る奴はこれだから
686人間七七四年:2011/10/31(月) 13:29:56.72 ID:RqthZdIo
追記すると、家康は遺言で残っていた豊国神社の建物を、梵舜に渡すように言っていた
もっとも、おそらくは秀忠により覆され、結果的に妙法院に渡されたが
687人間七七四年:2011/11/16(水) 17:27:30.94 ID:BAOmLVTx
春日局と家光によって
さらに豊臣弾圧は
いっそう過激になった。
688人間七七四年:2011/11/20(日) 16:59:28.22 ID:uRZVUU0A
屑すぎてこいつ大嫌い
人としてどうかと思うね
戊辰戦争の時に墓とか破壊されればよかったのに
689人間七七四年:2011/11/20(日) 17:26:05.51 ID:rUxFcjV0
>>688
脳みそは使うものだよ君
690人間七七四年:2011/11/20(日) 22:30:59.23 ID:3C67qm3C
家康の人柄は嫌いだが、なりたいのは家康さん。w
江戸幕府開いて260年も続いたのはすごいな
691人間七七四年:2011/11/21(月) 10:35:47.16 ID:EQOYl+zr
だな、今の日本政府より続きそうだよな
まだ、150年ぐらいなのに潰れそうだもんなw
692人間七七四年:2011/11/21(月) 19:22:24.97 ID:Es9cU0+n
大日本帝國は1945年に滅びますた
693月孔雀:2012/01/09(月) 11:54:54.81 ID:iD8EKR2+
age
694人間七七四年:2012/02/25(土) 01:26:24.65 ID:vFTbuP1F
家康は日本史上最大のゴミ。
大坂の陣で掘を埋めて騙し討ちをした、卑怯者のカス。

695人間七七四年:2012/02/25(土) 10:45:18.64 ID:nucMZoVB
普通に講話条件でしたが
696人間七七四年:2012/02/25(土) 19:02:48.90 ID:yHd8zryd
家康は陰湿ですぐ敵だった者も許す秀吉と違い、
怨みを忘れず必ず報復する男だと看羊録が記しているが
ホントにキチガイ。
武田と徳川が共同で今川攻めした際に
遠江で武田の一部隊と衝突したら
信玄が「すぐ武田軍を呼び戻させるよ」と即刻撤兵させる配慮をする。
さらに家康が遠江の人質を全員駿河からくれ」と信玄に要求したら
信玄がすぐ駿河にいた遠江国人達の人質を全員送還。
逆に信玄が駿河国主の神輿に成りかねない
今川氏真を絶対に許したり妥協しないように
家康に約束させていたのに氏真を捕らえもせずに逃がす。
しかも北条と戦う武田の背後を攻めて駿河まで掠め取ろうと
上杉と同盟して「武田と織田の仲を割いてやる」と表明し信長に讒言しまくるキチガイ家康。
697人間七七四年:2012/02/25(土) 19:30:14.75 ID:G1yd6ctS
>>696
だから以前言ってやったろーが。
家康は年取ってからタヌキになったんじゃない、元々義理堅くなんかないってよ。
698人間七七四年:2012/06/19(火) 14:03:31.28 ID:djCMvSL/
温厚と言われながらも影では紀伊豪族の湯川氏を謀殺している秀長。
甥とその妻子を虐殺し、最古参の家臣である前野長康まで連座させた鬼畜秀吉。

699人間七七四年:2012/06/19(火) 20:13:05.83 ID:Xl2uKfJu
戦国時代では日常の範囲
700人間七七四年:2012/06/21(木) 01:26:30.81 ID:5aRovFUZ
>>676
豊臣恩顧の外様への配慮
幕府の言い分はあくまで駄目息子と未亡人&浪人達が騒乱の素で
天下太平のために涙を飲んで大恩ある太閤殿下の遺児にだもん

>>694
むしろ大坂方がちんたらやってるからキレた
701人間七七四年:2012/06/21(木) 01:27:51.33 ID:5aRovFUZ
>>602
むしろ数代に渡って悪徳を重ねないために自分の代で全部泥をかぶったんだろ
702人間七七四年:2012/06/24(日) 01:27:59.33 ID:6cPgowi+
堀の件だが、元々から外堀内堀全て埋める約定だったな
豊臣方が一向に工事を始めないので、徳川方は手伝って差し上げた。あぁ、なんと勿体ない慈悲であろうか・・・
こんな親切な事があるか?
今で言えば現場の応援のようなもの
むしろ豊臣方は徳川方に賃金を払わなければいけない
当然徳川方に全く非はなく、豊臣に非がある。
703人間七七四年:2012/06/24(日) 10:55:07.38 ID:QFTuIzA3
内堀を埋める約束をしておいて実際に埋められたら文句を言う豊臣は頭がいかれている
しかも内堀埋め立ての約束はなかったと平気で捏造し通説に変えてしまう大坂人民の陰謀ときたら
どうみても徳川の方が被害者だよ
704人間七七四年:2012/06/24(日) 11:24:50.92 ID:GNuwgBwA
そして柿から生まれた柿崎景家
705人間七七四年:2012/06/24(日) 22:49:15.11 ID:Rqn3hhud
徳川家光がやったんじゃなかったっけ?
706人間七七四年:2012/06/25(月) 01:46:34.04 ID:Zh6PZjib
両方やってる
707人間七七四年:2012/06/25(月) 08:44:06.75 ID:BLW+WvRK
現在の豊国神社裏手にある馬塚は幕府の造営であることは間違いなく、
またこれが秀吉の墓である可能性は高い
708人間七七四年:2012/07/01(日) 04:11:55.40 ID:SVlSyARz
家康は大阪で人気がない
709人間七七四年:2012/07/03(火) 23:49:43.97 ID:5qI9K0TB
秀吉は春日局にとって親の仇。晒し首にされた父や自分の幼少時の苦労を
思えば家康以上に憎かったんじゃないの。
710人間七七四年:2012/07/04(水) 00:55:57.57 ID:tsZhSK/y
大阪で人気がない?当たりめえだボケw
その代わり関東を中心に東日本では人気がある。
これも当たり前。
この間民放でやってた好きな歴史上人物でも家康の方が秀吉より順位が上だった。(家康3位の秀吉5位ww)
711人間七七四年:2012/07/04(水) 20:32:12.11 ID:GiqPmRCZ
大阪人は聚楽第や伏見を無視して豊臣の中心地が常に大阪だったという妄想に支配されている人種だから仕方がない
712人間七七四年:2012/07/04(水) 23:46:20.65 ID:MU/BfwSP
家康は関東でも人気ないだろ
と言うかイメージが薄すぎる
実質、数年しか関東にはいなかったし余所の人と言う印象しかない
関東の有名人と聞かれて家康挙げる人はいないと思う
713人間七七四年:2012/07/05(木) 02:15:18.88 ID:OOt/Q0ct
家康は関東の人間じゃないが
ていうか、三英傑は全員愛知だが、
関東の人から見た家康はやはり東京=首都になったのは家康が始原という根拠から人気はあるだろ
実際、草ボウボウの荒れ放題で漁師の村だったド田舎の江戸を元禄年間には世界一の都市に築き上げた。
家康の江戸入り後は譜代の家臣が関東各地に置かれてる(本多忠勝は千葉県大多喜)など
まぁだけど大阪で嫌われるのは仕方ないw
714人間七七四年:2012/07/06(金) 08:34:51.94 ID:BW4s6++m
家康に限らず頼朝も早雲も関東外から来た人間だぞ
関東生まれの尊氏は京都の方に政権を作っちゃったし
近世以前の関東生まれで関東中心の国作りを目指した人間?平将門くらいかな?
715人間七七四年:2012/07/07(土) 01:10:03.38 ID:VRIGxS9H
>>713
嫌われてはいないけど人気もないよ
江戸時代以降も三河と言えば家康と言う風に、関東でもやはり殿様と言うと近世以前の勢力を思い浮かべる人が多い
まあ、全国どこでもそうだけど
何故か時代の近い江戸大名より中世大名の方が印象が強い
716人間七七四年:2012/07/07(土) 11:55:58.22 ID:GncX8Ms9
水戸は確実に殿様=黄門様状態だし
江戸だって殿様=太田道灌なんて奴はひねくれたマニアくらいだし
関東で中世の方が印象が強いなんて小田原と鎌倉くらいだよ
717人間七七四年:2012/07/07(土) 23:25:06.38 ID:j7BsRDre
水戸市内だけは水戸徳川家一色だけど、茨城北部はやはり今でも佐竹の影響が強い
まあ、水戸家も烈公だけは人気あるけどね
他の地域は知名度無さすぎ
「江戸時代の殿様は誰?」と聞いて答えられる人は1割もいないと思う
何度も家が入れ替わってる地域も多いから実際よく分からない
だから結局中世の大名の方が印象が強くなっているんだよな
土地と大名家の名前が同じな場合が多いから覚えやすいし
718人間七七四年:2012/07/08(日) 00:50:59.18 ID:NvRWrqx5
家康を殿様と思ってる奴なんていない
「信長秀吉でも成し得なかった天下太平を築いた英雄」
この表現が正しい
実際近年では明治政府の徳川貶め捏造工作も虚しく、秀吉より家康の方が人気があるのは事実
(秀吉が人気なのは大阪のみであり、家康は全国的に人気がある)
719人間七七四年:2012/07/08(日) 11:22:30.43 ID:It6oRido
>>629
日本政府か内閣の紋が豊臣の家紋と一緒なんだっけ?
720人間七七四年:2012/07/08(日) 13:11:26.48 ID:Te0N9ru9
「明治政府の徳川貶め捏造工作」って具体的に何を言ってるんだろう
江戸幕府が織田豊臣を組織的に貶めたことは事実だけど、それと勘違いしてないか
721人間七七四年:2012/07/08(日) 15:00:25.92 ID:fFwn+WwK
豊臣はともかく織田は別に組織的に貶めたわけではないだろ
被害妄想もほどほどにな
722人間七七四年:2012/07/08(日) 23:56:56.15 ID:yvbxMlEK
今は在日マスコミが組織的に豊臣を貶めているな
そして相対的に家康を持ち上げている
家康自体を評価してではなく、朝鮮人が嫌いな豊臣を滅ぼしたから無理矢理持ち上げようとしている
現実には豊臣より徳川の方が朝鮮に対して高圧的だった訳だが
まあ、奴らの知能ではそこまで思考が追い付くまい
723人間七七四年:2012/07/09(月) 01:57:25.20 ID:y3m0Xuf2
秀吉と家康は良きライバルではあったが、

憎むべき敵という間柄ではなかった。

そのことを大阪人も東京人もよく認識すべし。
724人間七七四年:2012/07/09(月) 07:04:17.00 ID:eFYRJMER
家康のあの仕置きで良きライバルは無いわ
725人間七七四年:2012/07/09(月) 10:21:16.01 ID:FECKhLlN
ライバルではないわな
秀吉のライバルは明智光秀や柴田勝家で
家康のライバルは前田利家と言った所だろう
726人間七七四年:2012/07/09(月) 22:44:43.09 ID:eIJM5fj5
>>721
>被害妄想もほどほどにな
明治政府が徳川貶め捏造工作をしてたと主張する人に言ってやってくれ
当時の国定教科書読んだことあるけど、
母親思いの尊皇家だった秀吉を褒める記述はあったが、
家康を殊更に貶めるような記述はなかったよ
明治になって家康を批判的に記述する学者が出てきたのは、
江戸時代に禁じられてきた否定的意見が
自然発生的に噴出しただけで、作為的なものではない
727人間七七四年:2012/07/10(火) 11:57:20.33 ID:TobOO4ZE
>>720
江戸時代はむしろ関西人民の豊臣を持ち上げるための捏造の方が問題だよ
有名なものを挙げるだけでも

・鼻塚は秀吉が残虐そうに聞こえるので耳塚に呼称を捏造
・死んでも一切の葬式をしてもらえなかったのは屈辱なので盛大な葬式があったかのように捏造
・冬の陣の講和で内堀を埋めることがあるにもかかわらずなかったように捏造

他にも捏造のオンパレードなのに逆に江戸幕府が貶めたとか被害妄想を持っているなんて狂っているよ
728人間七七四年:2012/07/10(火) 16:42:37.03 ID:5NM6hhXE
江戸幕府が方広寺に遷した秀吉の遺骸のある塚を、
馬塚として庶民が秀吉を懐い建てたという大捏造をしている
729人間七七四年:2012/07/10(火) 23:53:40.81 ID:flmhPPR2
>>726
むしろ明治政府は徳川家にかなり気を遣っていたからな
家康の出自に関して否定的な説を書いた本が政府の圧力で発禁になったぐらいだし
そもそも大日本帝国の特権階級たる華族の半数は徳川家関係者だったのに政府が貶めるような事をする訳がない
730人間七七四年:2012/07/10(火) 23:58:31.88 ID:3csTOo/S
『秀吉公御葬式御行烈記』も『難波戦記』も
秀吉と直接利害関係のない後世の人間が彼を慕って作った創作物
山岡荘八の歴史小説『徳川家康』と立ち位置は大して変わらない
対して江戸幕府は自分たちの政権の正統性を主張するために
前政権の天下人を幕府の正史で意図的に貶め、
更に彼らを題材とした創作物の公表すら強権で弾圧していたわけで
他にも捏造のオンパレードなのに逆に大坂の庶民よりマシなんて被害妄想を持っているなんて狂っているよ

>鼻塚は秀吉が残虐そうに聞こえるので耳塚に呼称を捏造
おそらく林羅山の『豊臣秀吉譜』における記述のことを言ってるんだろうけど、
秀吉が征夷大将軍になるために足利義昭の猶子になろうとしたが断られたとか、
臨終の秀吉が家康に「秀頼に天下を統べる器がないなら内府が天下を治めて欲しい」とか
三国志先主伝の逸話を恥ずかしげもなく丸パクリして同書に記載している羅山が
「豊臣を持ち上げるための捏造」をしたなんて勉強になるなあ
731人間七七四年:2012/07/11(水) 00:01:37.83 ID:2l6lgahb
>>729
徳川家康の影武者説も旧幕臣からの圧力があって陽の目を見なかった、なんて言われてるね
まあ影武者説自体は実証的な歴史学の立場からして箸にも棒にもかからない珍説だけど、
当時の徳川家を巡る空気が何となく垣間見える逸話ではある
江戸幕府が前政権の為政者を貶めるための工作をしたから、
次の明治政府も同様のことをしたに違いない、なんて思っちゃってるんだろうね
732人間七七四年:2012/07/11(水) 00:03:26.84 ID:efuUA3v7
どちらかと言うと上方講談や立川文庫の影響かと
大坂の逆襲という奴だな
733人間七七四年:2012/07/11(水) 00:05:17.61 ID:efuUA3v7
>>730
「太閤記」が禁書になったという話はないな
734人間七七四年:2012/07/11(水) 00:27:42.44 ID:2l6lgahb
発禁になったのは『太閤記』を元ネタにした読本『絵本太閤記』の方だね
寛政9年(1797)に出版されて好評を得るが、文化元年(1804)に発禁処分を受けてる
同時に「太閤五妻洛東遊観之図」を描いた喜多川歌麿も手鎖50日の処分を受けてる
甫庵『太閤記』に限って言えば、そもそも家康が天下を取った江戸時代に成立した書物であり
伝記の主題である秀吉と同様かそれ以上の敬意(注意?)を以て家康を描いている
文中での天下人になる前の家康に対して使用される敬語表現なんかでも明らか

まあ『太閤記』自体秀吉マンセー一辺倒だったというわけではなく、
本書冒頭からして秀吉の経済政策を弱者切り捨ての人倫の道を逸したものだと批判し、
秀吉本人をして「算勘にしわき男」と非難している
さすがに小瀬甫庵は時勢を読むのに敏感な人間だったと分かる
735人間七七四年:2012/07/11(水) 09:16:47.00 ID:e18ZhjAh
『絵本太閤記』は豊臣におもねっているというより、他の大名の名誉毀損に関わるという観点で
発禁になった気がしんでもない
736人間七七四年:2013/04/19(金) 07:44:05.17 ID:wYk8W9y9
徳川家康は独特の戦法を考え付いた

http://music.geocities.jp/jphope21/0204/43/289_2.html

徳川の戦い方には、最終的な決着がない。
737人間七七四年:2013/04/19(金) 15:59:38.59 ID:wBNnNrSq
方向寺の大仏が速攻で倒壊したように豊臣の建造物は耐震強度に問題があった
政権として危険な建造物を立入禁止にして解体するのは当然のことだった
造ったから危険でも使わせろなんてどこかの電力会社みたいな言い分は通用しない
738人間七七四年:2013/04/19(金) 16:25:54.31 ID:mjLlRRSF
いや、倒壊したのは大仏だけで建物は無事だったし
そもそも豊臣家が命じただけで建築したのは諸侯
つまり豊臣時代も徳川時代も建築者は大差ない
だいたい、徳川も関わった2度目の再建で造られた大仏も地震で壊れてるし
739人間七七四年:2013/04/19(金) 17:46:47.15 ID:2A6lLGNZ
馬塚って秀吉が下に眠ってるのは知られてるのか?
ただ町人が供養塔的に作ったものと書かれてた気がするが
掘り起こしてみたら秀吉の遺骨が出てくるのか
740人間七七四年:2013/04/20(土) 08:04:39.69 ID:RFfQBFW6
武家社会の通念で算学は商人のやることとバカにしてたからマイナス評価にされとるだけ
実際、秀吉は奉行衆による兵站技術を創造したり、
兵糧集積地を創造したり、
大軍集中による排尿排便から衛生管理を創造し大軍集中の課題を解決した。
商人の算学を秀吉は理解していた。
絵本太閤記を発禁にし始めたのは武家社会に儒教道徳観が持ち込まれたことによる。
家康の行為が豊臣への反逆になるため発禁化した。
741人間七七四年:2013/04/20(土) 11:09:08.55 ID:6FxBdqy2
家康は三成の謀反を鎮圧した功績を買われて朝廷から征夷大将軍に任命されただけだから反逆でもなんでもないだろ
むしろ秀頼の方が浪人を集めて武力蜂起させるなど朝廷への反逆を露骨に示していた
742人間七七四年:2013/04/21(日) 15:31:50.83 ID:1fia2a1p
幕府が無断官位禁ずる法度出したのに、秀頼は無断で家臣に官位あげてたんだっけ
大坂の陣が起こったのも、鐘事件じゃなく
幕府の臣でもあった片桐に秀頼が兵を差し向けたのが発端だったとか
秀頼が幕府に楯突き過ぎただけな気がする
743人間七七四年:2013/04/29(月) 00:15:31.22 ID:99ZCyTxr
真田丸の戦いで散々にやられた後に和議をもちかけて豊臣方に有利な条件を魚に真田丸破壊 外堀を埋める条件を提示して工事が始まると勝手に内堀まで埋めてしまうという極悪ぶり。
堀を埋める工事が終わったらすぐさま攻めて皆殺しをか最低だろコイツ 人を騙してのし上がる典型的な極悪人タイプ。
744人間七七四年:2013/04/29(月) 13:20:27.67 ID:OQrXvLw5
それ以前から和議交渉していますし、内堀も埋めるというのが条件
そろそろそういう時代遅れの認識は改めて欲しいもんだ
745人間七七四年:2013/04/29(月) 19:12:07.60 ID:yDh7GfZR
外堀も内堀も埋めて浪人も放逐するという条件で和睦したのに
戦が終わった途端に豊臣が条件を反故にして徳川を騙した
さらに徳川が和睦違反を指摘すると逆ギレする始末
豊臣が滅びるのは当然の末路としか言いようがない
746人間七七四年:2013/05/22(水) 14:15:01.89 ID:6QzVOFt+
>>743
俺もそう思う ただの新興宗教の教祖だろ
747人間七七四年:2013/05/25(土) 11:26:51.28 ID:eWvyT7Tx
どう見ても秀吉の方が新興宗教の教祖だろう
恩だとか義だとか豊臣の言うことは胡散臭い宗教じみている
これによって石田や真田といったごく少数の狂信者が暴走して
日本を滅茶苦茶にしようとした
748人間七七四年:2013/05/27(月) 09:47:27.96 ID:62FTmXsx
御恩と奉公と云う武家社会の基本理念も知らんのか、この馬鹿
749人間七七四年:2013/05/27(月) 10:36:35.11 ID:gdp7DBY3
朝鮮出兵で諸大名が奉公をやり切ったのにその後も御恩を厚かましく主張するのは武家社会の基本理念に反する
これが豊臣をやたらに宗教臭くしてしまう理由だろう
750人間七七四年:2013/08/23(金) 19:54:35.34 ID:eXci1OKy
石田堤は破壊しなくても決壊した。
http://mirai660.net/castle/
751人間七七四年:2013/08/23(金) 21:04:36.08 ID:xFb8duA3
反日韓国人の自演は酷いわw
752人間七七四年:2013/08/24(土) 06:25:04.14 ID:76H/m0zy
墓を暴くなんて、普通の人間では考えられない。
盗掘者以下。
家康サイテー。
753人間七七四年:2013/08/24(土) 09:51:09.69 ID:LAT4J9qL
倭猿の酋長の秀吉の墓を暴き、神号を剥奪するのは
偉大なる朝鮮人への家康の倭国を代表しての土下座ニダ
家康は朝鮮の文化に憧れてやったことニダネ。
通信使を派遣したら倭猿儒学者が涙を流して、文化を教えてくれと
アイゴーしてきて迷惑したニダ
754人間七七四年:2013/08/25(日) 00:10:26.30 ID:Mor8ok8A
こいつが武田信玄に踏み潰されていれば、陽気な秀吉がすんなりと天下泰平の世をこしらえて日本も明るくなってたんだろうな
今の歴代総理大臣や官房長官がボソボソと下向いて発信するのは家康のせいなんじゃね?
755人間七七四年:2013/08/25(日) 00:16:26.87 ID:2cW2L6IH
江戸期が暗い社会だった根拠がない件
756人間七七四年:2013/08/25(日) 10:27:06.20 ID:IMvZ5rX0
初期の江戸幕府が不満たらたらの武士や浪人の対策をしなかったから
不満が深化して由井正雪の乱を発生させた。
また鄭成功救援に出陣したいなどと言い出すのもそのせい
これは明治政府が朝鮮問題を巡って対立し、最終的には士族の乱が相次ぎ起こり
結局、台湾や朝鮮へ出兵するハメになるのと同じ。
秀吉の朝鮮出兵は時宜にかなう政策。
757人間七七四年:2013/08/28(水) 08:50:15.59 ID:pmCyQR1m
>>755
商人が米価格を操作して不当に儲けようとしたからじゃないか。
室町幕府でも京への米流入を統制して不当に価格を釣り上げて餓死地獄にしたりと、
商人は悪魔だからな。
基本的に餓死を出すほど食べ物が無いというのはあり得ず、
商人による人災だからね。
あと借金で信用ない藩が発行した紙幣が紙屑になったりと藩財政政策が糞で貨幣価値が極度に低下するなどもあるな。
758人間七七四年:2013/08/28(水) 16:57:01.81 ID:rQOzCm3I
凄い根拠だな
759人間七七四年:2013/08/28(水) 17:10:38.13 ID:qpUNR0L+
士農工商のクソ階層差別システムを作った時点で徳川はクソ
しかもなんら生産性のない搾取階級武士が農民から一方的搾取をしまくり
商人がぼろ儲けして破綻藩政にまで介入する始末。
760人間七七四年:2013/08/28(水) 20:24:34.86 ID:RN47r+XX
徳川カースト制度
761人間七七四年:2013/09/14(土) 19:24:47.43 ID:w+j4FQ1f
バカテスの木下秀吉について語りましょう。
762人間七七四年:2013/09/22(日) 20:17:04.71 ID:AnC5gjXE
老後の趣味で中世城郭模型を製作しています。
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
何れみなさんにお見せできる機会があると思います。
http://mirai660.net/castle/
763人間七七四年:2013/09/24(火) 13:58:14.55 ID:Heeppgr5
>>757
徳川幕府は外交(初期)や体制造り関しては見るべき点が多いけど
経済と産業に関しては全く駄目だったな
764人間七七四年:2013/09/24(火) 16:38:18.04 ID:cr3elN0G
えた・非人とか考え出した徳川幕府は差別主義の統治をしてたからな。
幕府は宗教勢力と共謀し末端寺社を介して百姓を監視とか。
765人間七七四年:2013/09/25(水) 00:15:18.49 ID:MlK1VQs/
でも日本の被差別階級は外国の奴隷などとは違って何故か特権階級でもあるんだよな
江戸時代も水呑百姓や下級武士より遥かに良い暮らしをしていたし
良民が転落して非人になると穢多の支配下に入ると言う逆転現象が起きる
穢多が蔑視されるようになった背景には「やっかみ」に寄るところが大きい
766人間七七四年:2013/09/25(水) 10:17:33.61 ID:g3wmxI+P
秀吉は全国統一の度量衡の統一、税や法の平等を施行し、
それに反して挙兵するものは朝廷から認められた公儀政権として警察権を行使し
下克上的機運や中間搾取層の排除による既得権益の一掃と豊臣政権による官僚制を志向した。
秀吉は帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し
大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで
戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
〜キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす〜と秀吉は書状に書いている。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
また高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信長のような蒙昧暗愚の暴君と秀吉の差は天地の開きがある。
重商主義的・帝国主義的な植民地化がすでにフィリピンにまで押し寄せている中で
秀吉のみがキリシタンの野望を喝破し、逆に朝鮮への遠征を行うことで
日本の武威を知らしめ、陶工などを連れ帰り現在に至る名産品を生む。
秀吉は明確に日本人民の安全を謀り世界に対する武力誇示と同時に
国内混乱要因の武士層のストレスを解消させる政策を実行(神風連の乱や西南戦争を見れば明治政府の武士への扱いの苦心もわかる)
767人間七七四年:2013/09/26(木) 00:06:28.46 ID:Zy6LLqKP
在日マスコミや朝鮮人の息が掛かった学者らがトンチンカンな屁理屈こねて悪事のように吹聴しているが
唐入りは世界的な偉業だからな
あの時代に30万人に及ぶ軍勢を渡海させて数年間戦線を維持出来た事は世界的にみても殆ど例がない
日本の国力と豊臣家の統制が優れていた事を如実に表している
768人間七七四年:2013/09/26(木) 10:43:26.72 ID:SjDSLV0I
家康の任官については、近衛前久が「近頃は金さえあれば、前例がなくても
任官するようになって嘆かわしい」って名指しで嘆いている。
しかし秀吉については批判してない。
この時点でいかに家康が汚職脳のキチガイジジイだったのかがわかる。
769人間七七四年:2013/09/27(金) 22:28:49.02 ID:m6eK13Ee
>>767
唐入りなんて豊臣政権を崩壊させただけの愚行だろ。
日本の国土が狭いから珍しいだけで外国の戦争でいったら大した大規模移動じゃないだろ。
ヨーロッパの戦争とか中国の戦争とかもっと大軍をもっと広範囲・長距離を移動してる戦なんて一杯あるじゃん。
その長さで武将の能力が測れるなら日本の武将は外国の軍人より遥かに劣るのかって話だし
770人間七七四年:2013/09/27(金) 22:29:49.56 ID:ozOjODVs
>>171
十字軍の時代とかそれよりはるか前の古代ローマとかギリシャとかモンゴル帝国とか比べ物にならないくらい
長距離遠征しまくってるじゃん。そりゃ病気がはやれば病死者が増えるし、病気がはやらなければ病死者は増えない。
物資輸送がゲリラに狙われれば兵站網が経たれるし、そうでなければ絶たれない。
ただそれだけ。
それは武将の能力の問題ではなく敵の動向とか病気の流行など諸要因で起こる問題で、それが起こらなかったからといって
武将を過大評価する要因にはならない。戦国より前の時代でも
ヨーロッパの戦争とか中国の戦争とかもっと大軍をもっと広範囲・長距離を移動してる戦なんてやりまくってるからな。
その長さで武将の能力が測れるなら日本の武将は外国の軍人より遥かに劣るのかって話だし
そんな事は武将を評価する材料には微塵にもならない。
771人間七七四年:2013/09/27(金) 22:31:38.35 ID:48Xkm7Uc
>>768
賄賂贈りまくったりして無理矢理官位手に入れたのは秀吉の方だよ。
朝廷に献品&屋敷作ったり貢献しまくってなんとか高い地位手に入れただけです
長久手の戦いに大敗して将軍を目指す構想が適わなくなって武力平定諦めたため
各大名の高い自立を認めた非常に弱い政権しか敷けず秀吉死んだだけで天下は崩壊
豊臣滅亡で完全に負け犬
朝廷は利用していないけど信雄をまんまと利用した
しかも83年以前と84年以降で朝廷への接近度が違いすぎる
これらの論文でも小牧長久手の戦いが契機となったと書いている
それを否定してるのは堀氏など一部のアンチ徳川の馬鹿学者くらいだよ
史料に残ってるのに史料無視のアンチ徳川馬鹿の妄想なんて信じない方がいい

近世成立期の大規模戦争、小牧長久手の戦いの構造、秀吉の天下統一戦争、戦国織豊期の朝廷と公家社会
池上裕子氏「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」
立花京子「織豊期研究」「秀吉権力と「天皇の静謐」」
このあたりも上記と同じ見解を示している

秀吉は84年から頻繁に上洛したり御所を造営したり禁裏での饗応に参加したり
連歌興行に参加したり積極的に朝廷への接触をはかるようになるよ。
また秀吉がこれ以前にはほとんど見られなかった献上行為
が天正12年6月 秀吉⇒天皇 鳥、百羽
天正13年3月 秀吉⇒天皇 太刀代折り紙 銀百枚
       秀吉⇒誠仁親王 銀50枚
       秀吉⇒和仁親王 銀20枚
    7月 秀吉⇒天皇  白鳥三 蝶子三十
        ⇒誠仁親王  白鳥ニ 綿百吊 
        ⇒和仁親王  太刀
        ⇒若御方   料紙

と献品しまくり

また寺社衆への所領安堵もしまくっている    
長久手で一敗地にまみれた秀吉が朝廷を利用する事を考えたんだろう

そもそも秀吉は政権なんて取ってない。実力のない公家とか朝廷とかが形式的に従えてるのと同じ
秀吉が天下取ったというなら公家や朝廷が天下取ったというのと同じ事
秀吉が本当の意味で天下取ったといえるなら秀吉死んだくらいで豊臣が揺らぐはずがないし
家康三成のごたごたでめちゃめちゃになるなんておかしい
結局皆うわべだけ従ってただけ。武力で統一したわけじゃなく停戦令を通達して
戦いをやめさせただけの間接支配だったからあっさり瓦解しただけ。
772人間七七四年:2013/09/27(金) 22:32:45.39 ID:AxdS6KiE
外国で戦うのも長距離厭戦も凄くもなんともない。ガリア戦争とかポエニ戦争とか
アレクサンドロス大王の遠征とかそれより遥かに遠距離を、それより遥かに険しい天嶮越えて外征しまくってるし
イスラム帝国とか十字軍の戦争とか中国の戦争も一緒。
むしろ世界的にみりゃ当時の朝鮮出兵なんてショボイ方だし特段評価する点はない。
むしろ外征失敗してるんだからマイナス評価でも問題ないくらい。
773人間七七四年:2013/09/27(金) 22:33:51.05 ID:bZpgcpSO
外征しただけで崩壊する軍なんてそれこそ雑魚でしかないだろ。
朝鮮出兵なんてショボイ距離の移動なんて外国の戦史からいやカスみたいな規模でしかない
774人間七七四年:2013/09/27(金) 22:35:42.54 ID:dAo2WG7i
三成は明への侵攻について
「先々は兵糧もなくその上寒空に向かっており途中の道筋も無人になり返すことすらできなくなる」
と明侵攻において途中での補給が難しいことを説明し、
まずは国郡で政務を行うように命じ、秀吉の意向に対して、反対して方針変更してしまうほどの男
忍城攻めでも秀吉の指示による水攻めに反対し、強襲を意見するほど。
豊臣恩顧大名の書状を見ても、秀吉の絶対命令に対して、現場責任者としてちゃんと理を説いて反対意見を具申しているのは三成くらい。
これが秀吉の信用を得ていった理由だろう。
また筑前筑後の小早川領をやると言われた時には三成は反対し、
それらの領地を豊臣政権の財政基盤のため蔵入地にしてしまうなど、
当時の豊臣恩顧大名の領土欲とは正反対の志向を持っていた。

秀吉にも怒りを買うのを恐れず意見し、領土欲もない。
これが秀吉には唯々諾々と従い、強欲に領地を欲した武断派と相容れないところだったんだろう。
775人間七七四年:2013/09/27(金) 22:39:19.52 ID:/jvxi9bi
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
776人間七七四年:2013/09/27(金) 22:50:26.50 ID:ApkmjWpH
豊臣家が滅ぼされ、墓が徳川によって破壊されたのは単に秀吉がクズだったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然だし自分の身内や何の落ち度もない朝鮮人に対して殺戮を繰り返し
またその朝鮮出兵によって日本人も多く殺しまくり富も多いに無駄にした馬鹿。
質素倹約や堅実精神のかけらもない過度で無駄な浪費をしまくり、戦国経済を混乱させたウンコ武将
777人間七七四年:2013/09/28(土) 00:07:41.33 ID:p69A8qMy
秀吉は恩を受けた主君さえも平気で謀殺し、また共犯で協力約束してた光秀も騙まし討ちにして見事に織田家を横取り簒奪。

汚い手法ばかり使ってのし上がって来たから人を殺す事など屁でもなかったんだろ。
朝鮮出兵じゃ数え切れない朝鮮人と日本人が殺されたんだし
778人間七七四年:2013/09/28(土) 10:56:24.51 ID:QPOSC1YJ
いくら豊臣家を守るために大老として家康が関ヶ原で戦う羽目になったと曲解しても無駄だわ。
せめて織田秀信と豊臣国松だけでも生かしておいたら後世において
言い訳ができたけど、やったことは女子供関係なく大坂20万人を虐殺して
大坂城をいったん平地化しつくして完全破壊してからの新大坂城建設と、
秀吉の墓を暴いて神号剥奪。自分は東照大権現として神になる暴挙だもんな。
偽新田源氏を標榜したところでクズの本性は直らなかったな。
織田家は秀信が家康に改易され野垂れ死に追いやられた後になってさえ、
信雄親子も有楽斎親子も大坂城にいて、みんな反家康の豊臣擁護側のリーダーとされていたし。
豊臣と共に滅亡にならないギリギリまで織田家は大坂城で家康に抵抗していた。
どんだけ織田家は家康が嫌いなんだよレベル。
さすがは看羊録に以下のように書かれる反社会的糞人格だけあるな。
家康は恩怨を心ひそかに含み、一度でも反目することがあれば、
必ず相手を死地に追いやってしまって満足した。それ故、諸大名は、
家康の力を畏れて表面上は服従するが、一人として心服する者はいなかった。
自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり、
秀吉死んだら本性を露わにしたものの勝てるかわからん利家には和睦し、
彼らが死ぬまで待ってただけで、
ひたすら信長や秀吉や利家に屈辱の人生に、
やっと日の出をみる機会がきたから、
豹変して織田秀信や豊臣国松を死に追いやっただけだろ。
英雄群雄と競って実力で手に入れた天下ではなく、
幼君を傀儡に平時に乱を起こし簒奪して、
実力で負けたくせに逆恨みで報復しただけ。
信長に助けられて遠江や駿河を貰ったにも関わらず、
織田から甲斐信濃を盗み、
秀吉から東国取次ぎに抜擢されて関八州をプレゼントされた恩も、
すべて逆恨みとなしただけのキチガイ。
779人間七七四年:2013/09/28(土) 13:11:23.43 ID:Eqkq3aWw
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。
信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。

9/3柴田→丹羽
若子様の事は丹羽、池勝、我らはご近所とも言うべき者。
せめて仰せの如くにしてくれ。我の意を知っている衆までお越しして
もし不慮が起こったらおのおのの沽券に関わることなので
重ねて申し談じてよくよく御分別するべき。
(これ追而書なので、一番したの段の続きの話で、柴田が一番伝えたいこと)
三七郎殿(信孝)は大河切りにすると三郡まで尾張になるので川切りを主張
三介殿(信雄)は国切りを主張し同意ない。
我ら4人の奉行を境目に出して究明することがいいと兄弟に返事した。
三介殿は貴殿の書状にあるように同意してくれたので
なにぶんにも申し談じて裁判していこう。羽柴・池勝は程遠い間柄。
あなたと我らは同前に申し談ずべく候。
若子様は御幼少なので上方がとくりと落ち着いて、御座所も御普請が定まってから
申し談じて、各一同の同意を得てから上国するのがめでたい。これは境目の返事の時に兄弟にも伝えた。

10/14の晴豊記
茶筅と三七郎が上洛してきて明日の信長葬礼を抑えに出ると言う噂がある。

秀吉の葬儀に関して信孝から糾問があったのか 10/18付けで信孝の臣に秀吉が返書。 柴田と我らの間柄について何を聞いたのかね?
信孝様と三助様の両人が名代を争っていたから清洲で宿老が談合して信忠の御子を取り立てた。そして清洲から岐阜へ御供して信孝様に若君を預けた。
日数程無くして安土へ若君を移参らせると信孝様が言ったのに、いまだにその儀は御座なく候こと。
(多聞院日記7/8には三法師が上洛して諸大名衆礼とある) 名代を争い御主に事欠くことで迷惑した。秀勝も15.6歳の武者なので
御主にしようという話もあったが、私の養子でもあるので御主にさせることは誰が申すことであってもありえません。
ご兄弟や宿老衆の御悪を請け申すことは迷惑です。 信孝様が信長の仇を討てたのは私のおかげです。 濃州にかんして堀久太郎を岐阜御城に上置申し候へども
御国を人質ともども信孝様へ進上したじゃないか。 尾州も人質も三助様に全部渡した。
坂本を持とうとするのは天下を包み候て、筑前が天下の異見を申すことか
さらに志賀郡まで持てばと思い、迷惑に感じて丹羽に渡した。
御仏事に関して御兄弟から返事もなく、宿老衆からも仏事の沙汰がなかった。
天下の外聞はいかがかと思いやった。
780人間七七四年:2013/09/28(土) 13:12:07.29 ID:Eqkq3aWw
10/6 柴田→堀
秀吉批判の書状 清洲において誓った置目の条々に相違している。 仕置きを一向変えて、諸人は不審がっている。
静謐の評定をするのは無論のことなのに清洲以来、裁許に及ばず、諸人の分別になっている。
若子様の移動の件は、各一同に兼ねての約諾の如く御座を移すことを岐阜への丹羽にも返事している。四方に敵がいるので、それらを討ち果たし平均するのが
御弔なのに、それに手を付けず分国内に私構新城、種々に渡り雅意。 誰を敵と想定してこのようなことをしているのか。
我らの間柄が悪くてもこの情勢のもとでは入魂して 信長公が苦労して治めた分国のお仕置きをして
守るべきところを共食いして相果てるつもりなのか。本意にあらず。

家康は天正10年10/5に信雄が清洲会議で受領した尾張領のうち三河内で織田領に編入されている地域の返還を要求。
12/22に家康は秀吉に「信雄引立御申候事」を賛同してるが
引き立ててやることなどと信雄に対して秀吉や家康は思いっきり上から目線である

佐々成政も天正11年6/17付けで伊勢国司に御座り候、御息様を秀吉が御指南申儀候
と専横する秀吉・池田・丹羽らによる伊勢国司を傀儡にした政治体制に触れている。

信長が家臣に虐殺されるやありえない速さで織田家は解体していくのである。
いかに生前から信長が人心を得ていなかったかがわかる。
そもそも信孝を降伏させて三法師を秀吉が人質に取ってから三法師2歳が一次史料からいっさい行方不明になる。
突然史料上に現れるのが天正16年4月で9歳の時。はたして7歳も成長した三法師が信忠の息子と同一人物だと
自信をもって答えられる者などおらず誰もわからないだろう。

丹波亀山城を与えられた秀吉の養子だった信長の息子の秀勝も小牧長久手の戦いまでは確認できるが
その後行方不明どころか、いつのまにか丹波亀山城主が秀勝(木下秀勝)にすり替わってる。
それが判明するのが天正13年10月に浅井江(お市の娘)と婚姻した事実から別人だとわかる。


616 :日本@名無史さん:2013/09/14(土) 03:10:16.09
1/17秀吉→小早川 25日に三介殿が安土へ上国し即、御家家督に据えた。
4/12秀吉→小早川 滝川と柴田が信雄に謀反したのですぐに滝川を成敗した。
5/21信雄判物 前田玄以を京都奉行に申しつける。筑前にに尋ね、何事も筑前の申す次第にあい極めること。
11/21の家忠日記 小田三介殿が御腹めされた風聞を聞く。
2/14家康→毛利 信雄・秀吉らが公方様御帰洛を御請することを伝える。
3/3信雄→小川 自筆で申すがここのところの働きは余りにも是非なく、無念だ。
3/6信雄→吉村 津河・岡田ら、こいつら余りにもほしいままに仕置きするから成敗した。
3/7信雄→香宗我部 羽柴天下をほしいままに働き是非に及ばず。羽柴に心合う者三人を切った。
3/7織田信張→香宗我部 同上
3/8顕如上人貝塚御座所日記 三介殿が四人切り、筑州もっての外腹たちて詰問の使者を出すが すでに15日には尾州表に軍を出す予定だそうだ。
3/9兼見卿記 斬られた者は筑州諸式国々仕合申付の人なり。この注進を聞き筑州もっての他立腹。すでに勢州へ出陣。
3/10晩に及んで羽柴上洛、諸勢ことごとくまかり上がり尾州へ出陣。

信雄が秀吉を父に仕える如く態度で従っていたため信雄を三法師の守役にしてから清洲会談開始。
そもそも清洲会談の時点で池田や丹羽らを味方につけて派閥を形成して
秀吉のおもうがままに会談を主導。
結果、秀吉(秀長も京以西から河内まで)が大版図を獲得し領国を形成
(大和一円も貰った筒井も秀吉に入魂になっているなど多数派工作を進めていた)
信雄と信孝が名代を争っていたから、結局、三法師後見役も決めていない。
781人間七七四年:2013/09/28(土) 13:12:54.44 ID:Eqkq3aWw
清洲での宿老合意の原則を無視する秀吉は信長生存時からの織田家の敵と戦うことをせずに
宿老会談で政策をはかることもなく、ことごとく勝手に政策を決めていく。
そして一刻もはやく安土へ三法師を移動させることを策する(安土が再建され畿内が静謐になるまで待てない秀吉)
五畿内ことごとく人質を取って磐石な体制を構築する秀吉。
信雄有利の大河切りを秀吉は支持し、信孝有利な河切りの境目を否定し兄弟対立を煽る秀吉。
柴田は双方からちゃんと話を聞いて、奉行を派遣して話合おうと提案している。
堀は三法師ともども岐阜にいるらしい(信雄の千福の仕官話の書状から考えると丹羽も?)
柴田は堀に宿老全員合意の原則を掲げて安土へ御座を移す話をしている。
秀吉の勝手な葬儀が事実上の宣戦布告。それの批判を受けて秀吉が誰が天下の主になるか腕比べしようと挑発。
石川数正への書状によれば、重臣対立の結果、
安土へ三法師がこないことで長く、織田家督者が実質空位で立っていない状態になってので
信雄を安土へ入れ御代にするなど織田主君を秀吉の意のままに廃君し別に擁立する暴虐ぶりを発揮。
(良識に従えば三法師のいる信孝や柴田側にこそ大義名分が存在する)
しかも信孝を降伏させたあとに三法師まで人質として取っている秀吉。

信雄を擁立したが完全に傀儡で、秀吉の息がかかった者が国々の仕置きを申し付けられており
信雄はその者の専横を怒り斬っている。
秀吉にとっては、義昭がやってきたから信雄はもういらないという態度か。

信雄追放について
イエズス会日本報告集
御本所と称される信雄に別な国を授けることにしたが
父の形見なのでと申し出た。
関白殿はただちに、その所領も他の国も有することまかりならぬ。
汝はただ1人の召し使いのみを残し置く。
中略
じつに従順な姿勢で願ったというのに。

日本史
関白はその返答に激怒し領国を持つことを禁止し
1人の草履持ちだけしか家来を伴うことを禁止し
中略
関白はただ1人の小者と称せられている若者しか
仕えることを許さなかった。そして日本の最果ての地に流された。

家康の関東移封がもはや現実のものとして準備が開始される中で
信雄も移封の噂が流れ、領内では諸道具の運び出しの準備が開始されたが
信雄は7月朔付け書状でも神に誓ってありえないと書き
準備する者ははりつけの刑にするとまで言っている。
さらに小田原攻めの時に清洲城や星崎城は小早川隆景に接収されている(長島城は地震で崩壊している)
そして尾張伊勢は秀次に与えられ、流された信雄は8月には常真と号して出家した。
秀吉の野心を嗅ぎ取って柴田や信孝が政治闘争をしているのがわかる。
それで秀吉が三法師を一方的に廃して信雄3を擁立。
逆らう者はすべて謀反人とレッテル貼って叩きつぶす。
その後、信雄は秀吉への屈辱から家康の後援を得て戦うと
秀吉は信雄を長島城へ追い詰めて屈服させてる。
そして北条戦では家康の岡崎城には吉川広家を入れて接収し
関東移封を拒否できないようにしている。
信雄の場合は最初から秀次を入れるために信雄を潰すつもりだったのだろう
三法師を廃止し坂本城へ幽閉し織田家滅亡
木造家の傀儡北畠信雄政権樹立
秀吉の意を執行する家臣を信雄が殺したのでいちゃもんつけて攻め込む
小田原陣後に信雄を小姓1人だけしか付き添いを許さず秋田へ追放
秀吉が朝鮮役での大陣容を見せ付けたいがために旧主筋だった信雄を呼び出し息子に秀の名を与え秀雄と称させ5万石の領地を与える。
782人間七七四年:2013/09/28(土) 13:14:47.61 ID:tztZAq++
>>779-781
秀吉が織田家にした事を思えば家康のなんてあまっちょろいもんだよな
>>778
>>自分には絶対勝てないと分かっていた秀吉にはへりくだり
家康は人質なんて出してないし、へりくだってもいない。単に秀吉が土下座してきたからやれやれと応じてやっただけ。
秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

跡部信氏
秀吉の信雄「実子」獲得宣言には疑惑が残る。本願寺の「顕如日記」は信雄が「妹岡崎殿ト云ヲ御出し」したと伝えているのだ。
こちらが本当なら秀吉は得意の誇大喧伝をもって、妹より人質としての価値が高い実子の受納を宣言した事になるが、真相はわからない。
岡崎殿は家康の長南信康の未亡人であるからこの合戦の人質として似つかわしいが、信雄とは一歳違いであるから、兄に扶養される「養女」
であったとしても実子とまぎれる可能性は低いのだ。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
783人間七七四年:2013/09/28(土) 13:15:18.32 ID:tztZAq++
看羊録の著者は、日本に抑留された朝鮮人捕虜。
当然、家康本人や有力諸将等と面会した事などない。
家康の人格について、伝聞記で史実性を持たせるってメチャクチャだね。


看羊禄といいイエズス会年報といい外人が書いたやつはデタラメばかり書かれてるから
大友の研究でフロイスの日本史が扱われるくらいで他まともにソースとして用いる馬鹿はいない
そもそも軍記でも論文に引用くらいはされるわけで
あくまで参考材料ってだけでそれがまともなソース元として引用されるのとは別

主筋織田家簒奪&信雄改易・信孝殺し・秀信実権改易
宇都宮など多くの味方を改易し秀次やら殺しまくり何の罪もない朝鮮人を殺しまくった秀吉が寛容wwwwww
基地外すぎるなwww
秀吉は敵対勢力はもちろんの事味方でも殺しまくるカス
佐々・信孝・秀次etc...

関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を寛容どころか殺しまくり
里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護し宇都宮改易
南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
784人間七七四年:2013/09/28(土) 13:15:58.58 ID:RJe8pynt
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は
天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
785人間七七四年:2013/09/28(土) 13:16:42.17 ID:D6MveUJy
秀康は史実で家康に嫌われまくってたから(秀康年譜)豊臣家から戻ってきた後も徳川家なんて継がなかったし
秀忠もいるし、子なんて作ろうと思えばいくらでも作れるから家康にとってそんな大きな存在じゃない。
その証明として秀忠が問題なく継いでるし、翌年は、家康は秀吉に屈服どころか>>130のように抵抗して
秀吉も家康討伐を進めていたし、戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
その証拠に家康は翌年も秀吉に抵抗しまくってたが、秀吉は殺害対象とはしていない
岡崎殿と呼ばれる事がなぜ待遇の良さに繋がるのか不明。元の身分が高い女性なら、親の死後もその威を受けて、
呼称だけそのまま残されただけ。
五徳なんて今や徳川にとって何の愛着も恩もない他人みたいなもんだろアホ
なんで信康が死んで、離縁した後の信長の娘持ち出して家康の敗北感に繋がるんだよボケ
宣教師の記録は>>122-123を読めばわかるがほとんど秀吉側が垂れ流した偽情報を元に事実化のように記載されてる、あってる記述の方が少ないほどのデッチ上げ史料にすぎないから
全くソースにならない。秀吉が人質と書いてるのも事実を歪曲した秀吉お得意の誇大喧伝で、その証拠に天正13年6月の信雄書状で「秀吉は於義井を人質として扱ってない」と書いてる

北条から養子に入った上杉景虎も北条との同盟決裂後殺されるどころか、むしろ家督相続候補にまで入ってるのに
養子として入った人間の生殺与奪権を秀吉が持ってるとか相当馬鹿だな。
そんな事があったら翌年家康が上洛せず諸城普請や北条との同盟強化とか家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員など、抗戦姿勢示せるわけないし、その瞬間秀康は殺されてただろ。
秀康は単に一時的な停戦の条件として秀吉の元に養子として入っただけだし、池上氏の指摘するように家康の屈服を意味するものではないのは明らか。
養子として入った人間だからこそ、信雄も秀吉は秀康を人質としては扱っていないと言ってるし
家康は天正13年も抗戦姿勢を崩さなかったんだし
養子は当主が死ねば当然その家の後継者候補になるし
その家を継ぐ大義名分にもなるし家中で大きな権力・威信・名分・軍事力を持つきっかけにもなる
786人間七七四年:2013/09/28(土) 13:17:16.18 ID:lPGMY3Fu
フロイスの捏造
>> 根来衆は秀吉に対して幾つか無礼を働き、ある陰謀をたくらんでいた
明らかに秀吉サイドの目線で、根来衆からいえば明らかに秀吉が自分らを迫害
>>秀吉は伊勢に入ると敵の諸城を包囲し始め、幾ばくかの苦労をしたが、武力をもってそれらを次々と陥落せしめ
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
>>敵方は長島と称する一城を残し国を挙げて彼に引き渡してしまった
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
>>秀吉の軍勢は同所(伊賀)から異常な迅速さをもって尾張に進撃し、犬山城はたちまち降伏
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
787人間七七四年:2013/09/28(土) 13:18:01.59 ID:lPGMY3Fu
>>全軍はそこ(犬山城)を占拠すると、美濃尾張両国を分つある非常に流れの早い大河(木曽川)を渡った。
犬山城は木曽川より南に位置する尾張の城なのになぜか犬山攻略→木曽川渡河という幻想w
>>御本所(織田信雄)は同じ尾張の(国)境にある一陣地に自らの兵を率いて待機した。
信雄がいたのは長島と清洲であり3/29に小牧に移動しており(3/29家忠日記)いずれも
尾張の国境地帯の陣地ではない。
>>羽柴(秀吉)は軍中にあり軍勢の移動に(つれて)進撃を続け、途中で幾つかの城や町を征服し、
佐和山から楽田に移動する最中に途中でどこかで戦った形跡も城や街を攻略した資料も全くなくただの妄想
>>そこで秀吉は幾人かの城主宛に書状をしたため降伏を勧告した。彼らがそれを主君である三河国主に報ずると
そんな事をした形跡は全くない。またそれを城主が家康に報じた資料も形跡も全くない
>>(家康)は、降伏を装う事によって羽柴の軍勢を確実に 自国内に深入りさせ、その上で彼らを襲い、
>>その真只中に乗り込んで(敵を)潰走させよ、と彼ら(城主ら)に命令した。
そんな事やった形跡も資料もないし途中で秀吉方が攻略した岩崎城は丹羽氏次が抗戦しており偽りの降伏もしてなければ秀吉方を不意をついて襲撃もしてない
>>そして事態はそのように展開した。
全く展開してない。丹羽はちゃんと抗戦してるし秀吉方は丹羽によって襲撃かけられもしてない
>>すなわち彼らは羽柴(秀吉)から相当な額の金子を授けられ、城を明け渡すであろうと約束した。
そんなこと全くやってない
>> 羽柴は彼らの言葉を信じ、数人の指揮官に1万四千ないし一万五千の兵を伴わせて派遣した。
秀吉は偽りの降伏なんて受諾してないしそもそもどこも降伏なんてしてない。別働隊の人数は秀吉書状で24000〜25000で数も大きく違う
>>これらの指揮官たちは安全だと思い込み相互に相当離れていた。
縦長ではあったが相当離れてはおらず、秀次が襲撃されてすぐに堀・長谷川隊、ついで池田森隊がすぐ駆けつけてきてる
>>三河の国主は夜に入ってからその新しい小牧城を出、天明を待って羽柴の甥の陣地を襲撃した。
明け方に行われたのは秀吉方先遣隊と池田勢との間で行われた岩崎城の戦いであって、家康が秀次の陣地を襲撃し合戦になったのはそれより大分後の
巳〜午の刻。
>> 三河の国主はこの勝利を博すると小牧城に戻った。すると羽柴(秀吉)はただちに2万の兵をもって同城を包囲するように命じた
そんな事全くやっておらず、小牧方面から目をそらして、大河に挟まれた進退の自由の利かない木曽川筋のデルタ地帯に家康・信雄を誘いだして
殲滅しようと岐阜城の秀勝につけた田中・伊藤・谷・石川・藤県に対し、岐阜から木曽川筋を長島に向かい12キロほど南下した所にある大浦城
への加勢を命じている(4/11秀吉→伊藤・田中・谷・石川)また、木造攻撃中の小島・榊原・田丸らに加勢する目的で津田・富田・八重羽らを派遣して
(4/12秀吉→津田・富田・八重羽)明らかに小牧方面への進出を諦め、伊勢や尾張北西部に戦局を転換しようとしている
>>こうした戦闘がすでに終わった頃になって、越前加賀能登から三万近い軍勢が羽柴を助けるために到着したが、秀吉はもはやそれだけの
>>大援軍は必要なしと認め、ただちに引き返させた。
>>羽柴がこのたびの戦いのために大阪を出発した後、根来及び雑賀と称する仏僧らは、彼の不在に乗じ、約1万五千名が一団となって出撃し羽柴が大阪に築いた新しい都市を
>>すべて焼き滅ぼしてしまおうと決意した。大阪を占拠した上はかつて信長が五年も六年も攻囲したかの石山本願寺の僧(顕如)を再びそこに
>>おらしめる事にした。敵(僧兵)は徐徐に前進し途中幾つかの場所を破壊したり焼いて行ったので、四日ないし五日かかった。
788人間七七四年:2013/09/28(土) 13:23:41.34 ID:mKwpOL8B
>>秀吉から東国取次ぎに抜擢されて関八州をプレゼントされた恩

家康は信長から恩なんて欠片も受けてない。大国武田に一人でガチンコで立ち向かってるのに
援軍なかなかよこさないどころか姉川金ヶ崎上洛志賀の陣など畿内平定戦には次々狩り出され、
武田に勝てたのは長年武田を抑えてくれた徳川の働きによる所が大きいのに
駿河しかよこさない身勝手ぶり。
秀吉に関しては秀吉が家康にビビリまくって気を使って顕如や信雄に取り成しやってもらったり自国の15分の1程度の国力の相手にもかかわらず
肉親を差し出したり中央から遥か離れた辺境の関東に移封し、240万石の大国の国力と、中央集権化と、五大老や千姫との婚姻という
豊臣継承の大きな大義名分を与えたのは秀吉が家康に直接対決で1万人ぶち殺された上にその後の諸城攻防でも戸木・蟹江・前田・下市場・松ノ木・東駒野・河波・長久保など
各城郭で雑魚の信雄が秀吉に勝利し(長久保や蟹江や前田や浜田などは秀吉方本陣と目と鼻の距離なのに雑魚の信雄が8倍の兵力の秀吉方から奪回している)
実力で大敗したから家康に気を使いまくって与えなくちゃならなかっただけだし秀吉の与えた恩義ではなく、秀吉の家康への恐怖からで実力の結果。
、取り立てて恩を感じる事もなかっただろ。
織田に関してはむしろ酷使されてたにもかかわらず、それまで良好だった秀吉との友好捨てて
信雄を助けてるし、信雄が秀吉に追放された後徳川がやはり救って領土与えるし秀信も正面から歯向かったのに
殺さずに改易で済ませてるし、むしろ温情あふれる処置といっていい。


604 :人間七七四年:2013/09/14(土) 13:50:52.07 ID:PnH/ANDM
豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然
789人間七七四年:2013/09/28(土) 13:24:26.49 ID:T7ke0CRd
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね
790人間七七四年:2013/09/28(土) 13:25:50.22 ID:r+HjfZGh
秀吉厨のデタラメ
>>「一次史料を見ると信長も1万〜3万くらい
>>兵糧や衛生管理や屎尿対策の壁で一戦場3万が動員限界とされたのが戦国時代」

天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
毛利軍も高松攻防時5万と秀吉が本能寺後の書状で書いてる
柴田も上杉討伐の時45000の大軍を動員してるのが享禄以来年代記でわかる
手取川合戦では織田軍は主力級総メンバー連れており、少なくとも長家家譜のように4万越えはしてるはず
国力に対して課されるのが動因数で国力があっても大軍を集結できない大名なんていねぇよクズw
一揆とか国が疲弊・瓦解してるだけだろうがw
軍なんて鎌倉や南北朝時代の戦争でも動員されてるだろ
織田の場合は戦線が複数あったから一箇所に超大規模の大軍が集結しなかったというだけだし
信長公記基準だとかなり大軍動員してるし島津も大友も動員してる(耳川や水俣城攻防戦など)
足利軍30万騎とか書いてあるね。
多聞院日記や兼見卿記をみると15万とか10万とか天正5年で動員してるし
戦国期より遥かに兵站技術が遅れた鎌倉や南北朝戦争でも数十万の大軍が一遍に動いてるのに
兵の動員数に限界数値があるわけねーだろアホ
ローマ軍や清とか中国の王政はどうなるんだよ馬鹿がw

朝鮮出兵なんて馬鹿な戦を
>帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し 大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
>看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで 戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
>戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
>国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
>戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
>また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。

こんなすり替え方してマンセーの流れに入れ替えるとか馬鹿すぎる。その結果が豊臣崩壊じゃねぇかw
791人間七七四年:2013/09/28(土) 13:26:46.72 ID:7hLdDQ5M
まーた反日織田チョンのアンチ秀吉曲解火病爆撃コピペ発狂かw
792人間七七四年:2013/09/28(土) 13:30:03.28 ID:D6MveUJy
本能寺の変は明らかに秀吉が仕組んでやった事。
備中〜京都までの距離で信長が殺されて一日半程度で
情報が正確に伝達し、真偽も確かめず備中陣を引き払ってるなんてありえないし
秀吉が最初から画策して首謀者として信長を殺しただけ。


かにそこそこ切れ者のはずの光秀が、あんな勝算のない状態で単独で主殺しを行い
四面楚歌を招くとか普通にありえないわな。織田家中での光秀単体での軍事力なんて知れたもんだし
秀吉と光秀が協力した画策(信長殺し)を協力するはずの秀吉が破って光秀が逆に汚名を一心に背負わされて結果殺されたと考える
方がしっくりくるな。

つまり秀吉と光秀が共謀で恩を受けた主君ノブナガを暗殺したばかりか、協力を約束してた明智を裏切り、主殺しの汚名を一身に押し付けて
騙まし討ちにして殺しただけ。その後も様々に織田家中での崩壊・弱体化を謀り、見事に簒奪した極悪人が秀吉。
793人間七七四年:2013/09/28(土) 13:31:27.28 ID:2IRLCwo7
豊臣家が滅ぼされ、墓が徳川によって破壊されたのは単に秀吉がクズだったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。

こんな体制じゃあっさり崩壊して当然だし自分の身内や何の落ち度もない朝鮮人に対して殺戮を繰り返し
またその朝鮮出兵によって日本人も多く殺しまくり富も多いに無駄にした馬鹿。
質素倹約や堅実精神のかけらもない過度で無駄な浪費をしまくり、戦国経済を混乱させたウンコ武将

秀吉は恩を受けた主君さえも平気で謀殺し、また共犯で協力約束してた光秀も騙まし討ちにして見事に織田家を横取り簒奪。

汚い手法ばかり使ってのし上がって来たから人を殺す事など屁でもなかったんだろ。
朝鮮出兵じゃ数え切れない朝鮮人と日本人が殺されたんだし
794人間七七四年:2013/10/01(火) 14:19:01.81 ID:CmLGKC7T
>>769
ほう、例えば?
俺は30万の軍勢を渡海させて戦った戦争なんて殆ど知らないわ
795人間七七四年:2013/10/01(火) 14:57:15.47 ID:f1jrp4jS
ポエニ戦争ですら総軍15万くらいの大軍がカルタゴ→ローマ、またローマ→カルタゴと
渡って戦争やってるし
イギリスフランスの中世戦争とかイスパニアのアフリカ侵攻とか大軍が渡海して戦争とか全然珍しくないからな
しかも朝鮮出兵で実際に渡海したの15万程度だろ。
中国の戦史でも渡海してるかはよく知らんが日本より遥かに広範な領土において日本より遥かにでかい大軍が
日本より遥かに昔の侵略戦争とかやりまくってるじゃんよ
796人間七七四年:2013/10/02(水) 10:27:08.91 ID:W+2Mf8pr
それ渡海したのは2〜5万人ぐらいだから
しかも大概は対岸に策源地を持った状態での侵攻だし
敵地に上陸して戦うのは経済的にも技術的にも凄く難しい
近世以降、近代戦ですらそれは同じだ
797人間七七四年:2013/10/02(水) 10:39:46.79 ID:jueuahLX
ポエニ戦争で渡海したのは15万程度
ちなみにローマ軍カルタゴ軍双方とも行ってる。
イギリスフランスの中世戦争とかイスパニアのアフリカ侵攻とか大軍が渡海して戦争とか全然珍しくないからな
しかも朝鮮出兵で実際に渡海したの15万程度だろ。
中国の戦史でも渡海してるかはよく知らんが日本より遥かに広範な領土において日本より遥かにでかい大軍が
日本より遥かに昔の侵略戦争とかやりまくってる
朝鮮出兵の時のが遥かに楽だよ。距離でいっても装備の重装性でも。
798人間七七四年:2013/10/02(水) 11:10:42.42 ID:V+7v1feP
朝鮮出兵で日本軍の上陸が容易だったのは
朝鮮側が釜山攻撃までにろくに迎撃態勢を整えず兵力が集中化されてなかったため
楽に渡海先にに駐屯地を作る結果となっただけでしょ。これなら最初から渡海先に策源地があるのと大差ないわ。
799人間七七四年:2013/10/12(土) 16:20:06.92 ID:77aivF7J
>>797
渡海は陸戦の何倍も費用とリスクを伴うと言う戦争の常識すら分からない人は黙っててね
それにポエニ戦争で一度に15万も渡海したなんて初めて聞いた
その資料だけは教えて欲しいわ
新説として学会で発表できるじゃん
800人間七七四年:2013/10/13(日) 15:36:08.35 ID:g3EXAl9X
>>799
ポエニ戦争で15万上陸したって常識じゃん。一般向けの本よりゃ何にでも書いてあると思うが。

>>渡海は陸戦の何倍も費用とリスクを伴うと言う戦争の常識

そりゃ渡海先の拠点に渡海を阻止するような迎撃拠点と兵力など迎撃態勢を十分に整えまくってた場合に限る。
朝鮮出兵の場合それが全くなく、釜山攻撃までにろくに迎撃態勢を整えず兵力が集中化されてなかったため
楽に渡海先にに駐屯地を作る結果となっただけでしょ
801人間七七四年:2013/10/13(日) 15:41:27.23 ID:A/Ctll4z
ポエニ戦争でのハンニバルの上陸は15万どころか20万以上いたらしい。だが
渡海はあっさり済ませたものの途中のピレネー山脈のガチンコ天嶮を越える仮定で
兵士が欠落しまくって最後には8万程度しか兵が残らなかったそうだ。海路よりも陸路の方が
きついからね。日本のショボイ天嶮とはレベルが違い過ぎるし距離も兵士の装備「重装備」も遥かにキツイ上、
兵站技術もまだまだ未発達の古代の戦争だから。
802人間七七四年:2013/11/09(土) 16:54:10.78 ID:sllwJW3k
徳川vs武田の戦い、二俣城があった。
http://mirai660.net/castle/
803人間七七四年:2013/11/26(火) 10:36:09.82 ID:cH0MPyeD
家康の鬼畜ぶりは異常
804人間七七四年:2013/11/27(水) 09:12:27.74 ID:HpSkOeSL
家康は神
805人間七七四年:2014/01/04(土) 21:32:01.56 ID:rPp7VgTu
家康ほどの棚ぼた大名はいないね。
棚ぼただから、とにかく武功なんてものがロクにない。
だから家臣団も全く加増されるような感状がほとんど無い無い無い。
勝って切り取った領地が無い無い無い。
とにかく極限まで棚ぼた領地拡大大名が家康。
それを証明するように、関東移封になった時の3万を超えた家臣なんてほとんどいない。
12万石の井伊直政
10万石の結城秀康、榊原康政、本多忠勝
4万石の鳥居元忠、大久保忠世
3万3000石の平岩親吉
3万石の松平康貞、奥平信昌、酒井家次、大須賀忠政

たったこれっぽっち。
あとは戦力にすらないザコ。
当時、10万石を超えていない大名の意見は聞かれない、発言権が無いとされて無力扱いされていた時代だからね。
棚ぼた領地だから、家臣の武功によって領地加増する必要性が無かった。
だから家康は100万石の蔵入地を持ってた。
しかも井伊直政なんて戦経験もロクにない新参のガキ扱いされてたくせに、
家康の尻を突いてブッチュウってディープキスしただけで、
意味不明な加増してもらった挙句に最大領地だよw
結城秀康は秀吉の養子だからだしよ。
松平シリーズなんて武功ではなく、親族だから加増になってるだけ。
もうね、家臣団は誰も家康との石高差が激し過ぎて奴隷だよ奴隷。
ほんとケチ家康の家臣団なんてやってた三河武士はバカだね。
徳川家臣団なんてぶっちゃけ清正だけで勝てるレベル。
当時、もっともハンパねぇ勇猛さで恐れられていたのは清正と忠興の二人だったからね。
806人間七七四年:2014/01/04(土) 22:05:05.56 ID:qV+sNr3l
確かに家康って感状をほとんど出してないんだよな。
3万石の松平康貞=依田信蕃の次男説が事実だとしたら、
武田旧臣で真田調略して北条氏直の背後を閉じた父の功績だけで、
速攻で徳川家臣8位だしね。
奥平信昌に至っては長篠の戦いの後に、
調略の条件になった家康の長女との婚姻関係だけが理由だからね。
807人間七七四年:2014/01/05(日) 04:55:14.03 ID:GygGskUB
むしろ榊原康政と本多忠勝って、
家康より5歳歳下の子飼いなだけで、
武功らしい武功がまるでないよね。
鳥居元忠は家康の4歳上、
平岩親吉は家康より1歳歳上で、
家康を弟として守り支えた側近中の側近小姓として苦労を共にしていたから完全に今までありがとう功労賞だろうし。
大須賀忠政の場合は実父が榊原康政だからだし。
大久保一族なんて三河物語で誇張されてるだけで実体はよくわからん典型。
ただ徳川家の場合、家康との関係が近くて、ほぼ三河以来の小姓側近からの子飼いじゃないと万石大名になれない。
ホモ関係だけで家中第一にのし上がった井伊直政は例外中の例外。
808人間七七四年:2014/01/06(月) 02:23:11.24 ID:aNlVKEtI
家康、頼朝、日本史2悪人。
809人間七七四年:2014/01/07(火) 12:08:51.98 ID:hgRlhFuW
まあクズだよね
秀吉もクズだけど
810人間七七四年:2014/01/07(火) 17:15:52.79 ID:hoVrCBf1
>>97
「遺灰は川に投げ捨てろ!」なら、リチャード3世(ヨーク朝)っぽいが。
ランカスター派チューダー家に敗死して、晒される→で、チューダー朝の
手で葬られたが・・・。のちの宗教改革(イングランドでカトリックが制限
され、国教会に取って代られる)の時に、改革派の民衆の暴動で葬られた
修道院が破壊され、そこの墓地の遺体が皆焼かれて、遺灰は川に流されたと
の記述が古文書にあったはずで。ま、実際には修道院跡から、無事出てきた
けどね。
>>99
確かずっと前にどっかの記者か人権派弁護士やったかが言ってたよね。
「大変気の毒だが、犯罪で殺された人には最早人権は無い。人権を言うなら
加害者のそれこそ大切にするべきである」って。
811人間七七四年:2014/01/10(金) 19:21:40.05 ID:Xm6vNHLc
確かに家康は棚ボタだわ 
今川を退けた後、織田は松平(家康)を今川との緩衝地帯
として残したんじゃないか
812人間七七四年:2014/01/10(金) 19:56:24.85 ID:SE/eUC8F
豊臣秀吉にたいへん可愛がられた武将に堀秀政(ほりひでまさ)がいたんだそうな
813人間七七四年:2014/01/10(金) 20:06:19.20 ID:GJQixxGv
家康がいなかったら信長なんて武田や今川に瞬殺されてただろうな
家康より遥かに弱い浅井や朝倉に押されまくり滅亡まで追い込まれる始末だし
814人間七七四年:2014/01/11(土) 09:58:32.59 ID:j1O9coOV
遠江国人の大反乱で駿河から孤立した三河を棚ぼた。
武田の駿河攻めで、遠江が棚ぼた。
織田の武田征伐で、家康は大苦戦。北条が順調に侵攻したのに、
信長から駿河をもらい棚ぼた。
上杉南下と武田旧臣の依田が真田を北条から離反させた為に、
北条氏直が孤立し和議になり信濃と甲斐が棚ぼた。
関東移封で棚ぼた。
会津征伐をする家康を無視放置して、
三成を討ちに西上した武断派が三成を追い詰め、
関ヶ原でも主力の武断派が勝利し、天下様の棚ぼた。
815人間七七四年:2014/01/11(土) 10:35:57.01 ID:vPm8pCYs
家康は一向一揆を基盤が大きく、今川氏真から侵攻を受けてる中奥三河や東三河を自力で侵攻し
大国武田の圧迫に、信長からろくな援軍もない中、長年耐え抜いてきたじゃん。
一方家康は信長の畿内平定には狩り出されまくり、寡兵にもかかわらず大軍朝倉相手を任されたりしてる
天正壬午で依田が活躍したのは、武田攻めの際、依田の命を救った家康の慈悲深さが功になっただけで
こういうのは自分の性格によるところだから棚ボタとはいえない。
関ヶ原では武断派は大軍で連携しながらろくな戦功もない寡兵の石田隊や小西隊や大谷隊、宇喜多隊などに苦戦しまくってたが、
家康が小早川を調略してくれたおかげでマンマと劣勢を覆す事のできた棚ボタっぷり。
こんな棚ボタ大名は他にはいないだろ。はっきりいって武断派なんて家康が小早川を調略せずにいたり、自分らを味方に退き入れなかったら
石田らに失脚させられるだけの雑魚でしかなかったのが史実。
その証拠に結局豊臣を見捨てて功利主義に走った武断派はマンマと改易されてるし
816人間七七四年:2014/01/11(土) 10:38:11.99 ID:tMe7pb4T
家康はほとんどろくな支援も受けずに逆に信長の畿内平定戦やら岩村合戦などには
いやいや付き従わされて、大国武田の侵攻を1人で支えてきたのに
貰った領土が駿河だけとかいかに苦労の割りにろくな目にあってないかわかるな。
武田を滅ぼせたのは、武田相手に孤軍奮闘してきた家康のおかげなんだし、信濃も甲斐も家康に直接あげるくらいじゃないとおかしいからな
817人間七七四年:2014/01/11(土) 10:40:54.68 ID:iQduvxx1
家康の戦歴…大国今川相手に西三河数万石そこそこの所から吉良・今川の大軍相手に勝ちまくり三河一向一揆でも大勝。
その後も最強武田軍団相手に敢闘し、信長を滅亡寸前に追い込んだ大敵朝倉を大破した上に、戦上手の武田勝頼を多いに疲弊させ、
信長死後は甲斐信濃を巡り北条氏直の大軍相手に勝利。その後豊臣軍135000に対し織田信雄含めても16000そこそこの寡兵で豊臣軍を一万人戦死させる大勝利をあげた上に
秀吉はビビリまくって信雄相手に顕如送って必至に取り成しを懇願し、さらに自国の15分の1の国力しかなく、木曽小笠原石川水野真田の離反とそれによる軍事機密露見と
天正大地震と天正11年からの徳政令連発で領国が崩壊した家康にも母と妹を差し出すヘタレっぷり。
さらに関が原では畿内だけで18万もいる豊臣の大軍を大破する大勝利w
大阪の陣でもあれだけ規格外の堅固で大規模な城郭&城攻めとしては少ない2倍いくかいかないかくらいの兵力で短期間で大勝
信長の戦歴…チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死亡

秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される
結局実力では全く歯がたたず信雄・家康に顕如使って土下座してなんとか和議までこぎつける
北条氏直…神流川で織田家トップクラスの滝川の18000を24000そこそこで10倍の被害差で大破
朝倉義景…信長を滅亡寸前に追い込む。姉川の合戦では浅井軍は織田を押しまくり当時の織田四天王の一人の坂井の息子を討ち取る
勝頼…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死と織田徳川を寡兵で圧倒しまくる
一揆勢…信長の数万の大軍を餓死寸前のところで騙まし討ちかけられた状態でわずか数百の寡兵で織田一門10人以上討ち取る


以上をまとめると勝頼>>>>家康>>>氏直>>>>>滝川>>>>>一揆勢・朝倉>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長
818人間七七四年:2014/01/11(土) 10:42:24.55 ID:wToDKmjG
ぶっちゃけ織田が武田を滅亡させる事ができたのはほとんど北条と徳川のおかげ。
武田は長篠以降も謙信の関東出兵に対して北条と結託して上野方面に外征したり遠州で徳川方を撃退したりと
全くといっていいほど衰退していないし勝頼は、翌年に武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるので
まだまだ自力は大きく残ってたんだろう。北条との同盟決裂後も関東において北条を押しまくっていたが
天正8年・9年の甲斐の都留軍への侵攻をゆるした(撃退してるが)ため、新府城の築城を北条対策として行ったが
これが多いに失策だったため、武田領国の国人は大いに不満が高まり後の離反フラグになったんだろう。
徳川も田中城や高天神城に手も足も出てなかったし武田が謙信に対応した天正3・4年の関東派兵や対北条戦のため関東に出兵したのと
甲江和与の影響で武田が軍備解除してた隙をついて居留守泥棒的に二俣城や高天神城を奪回するがその周辺の拠点や
田中城には手も足も出ず、北条が駿河伊豆国境地帯の長窪城や天神ヶ尾城を落とし、武田がその方面に出兵した隙をついて開城勧告で
なんとか開城させたにすぎない。
よって「北条が滅亡寸前の武田に上野で負けた」ではなく「武田は北条戦で大いに出費面や戦力集中の観点から犠牲を払い
その隙をついて甲江和与詐欺を生かして武田領国を無防備にさせた所に織田・徳川で奇襲をかけたら離反の連鎖になって運よく滅んだ」が正しい
819人間七七四年:2014/01/11(土) 10:45:50.33 ID:lXyb9vgB
普通に考えて関ヶ原で棚ボタだったのは家康ではなく
家康のおかげで戦闘に勝利でき、ろくな戦功もなく石田や小西や宇喜多や大谷などの寡兵の雑魚に苦戦しまくってただけなのに
大版図もらえた福島池田黒田細川ら東軍の雑魚武将達だろ。
家康が味方に誘ってやらなきゃ、石田らに次々に実権を奪われて失脚するだけのアホでしかなかったが
家康のおかげでマンマと大版図もらえた。
ガチで実力0の癖にに棚ボタと漁夫の利と金魚の糞で大名になっただけのウンコみたいな大名でしかない。
820人間七七四年:2014/01/11(土) 10:47:43.26 ID:Lsewow5i
家康がいなかったら信長なんて武田や今川に瞬殺されてただろうな
家康より遥かに弱い浅井や朝倉に押されまくり滅亡まで追い込まれる始末だし
821人間七七四年:2014/01/11(土) 11:21:24.03 ID:j1O9coOV
そもそも三河一向一揆なんて大したこと無かった。
そもそも西三河の安城周辺だけの話なのに、なぜか三河全域の一向一揆のように描いたり、
すごかったように見せてるのは大久保一族の功績を強調しようとする三河物語の超誇張。
822人間七七四年:2014/01/11(土) 11:25:36.59 ID:Lsewow5i
三河一向一揆では徳川譜代系が敵味方真っ二つに割れて抗争をしてるんだが…
823人間七七四年:2014/01/11(土) 11:35:22.98 ID:AaY9deyC
>>822
真っ二つ?
じゃあ、そのメンバーの顔ぶれを一次史料で教えてください。
824人間七七四年:2014/01/11(土) 11:41:12.29 ID:AaY9deyC
家康って秀吉との天正12〜13年戦役で、
信雄、雑賀衆、高野山、長宗我部、佐々を奪い取られて、
秀吉に追い詰められて縁戚にしてくれたら上洛するから許してって懇願した人だからね。
自分の保身だけに固執してただけ。
825人間七七四年:2014/01/11(土) 11:45:49.74 ID:vPm8pCYs
>>323
定本徳川家康でも読んで勉強してください
826人間七七四年:2014/01/11(土) 11:47:35.73 ID:RLT0n6HQ
>>信雄、雑賀衆、高野山、長宗我部、佐々を奪い取られて

家康に土下座して和睦した隙をついて、孤立無援の、雑魚国力の勢力をこれ見よがしに棚ボタ的に火事場ドロしただけじゃん。
豊臣の国力からいえば各地に散在する勢力なんて蟻みたいな雑魚でしかないんだし家康に土下座して和議を結んで、孤立無援にさせた上で、その隙にドロボウしただけ

康は従属なんてしてないし人質なんて出してない。
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
827人間七七四年:2014/01/11(土) 11:48:35.18 ID:iQduvxx1
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>縁戚にしてくれたら上洛するから許してって懇願した

全くしてない。家康は秀吉の討伐計画と人質要求を無視しまくって
浜松会談開いたり北条との同盟強化に臨んだり秀吉に反発しただけ。
家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる

下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
828人間七七四年:2014/01/11(土) 11:49:03.12 ID:tMe7pb4T
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言

本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない。
829人間七七四年:2014/01/11(土) 11:49:58.76 ID:wToDKmjG
家康は臣従なんてしてねーよボケ。
停戦しただけなのを家康が土下座したとか曲解したり
養子を人質とかデッチ上げたり秀吉厨の脳内は相当腐ってるな。
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
和睦停戦してるのになんでわざわざ秀吉に挑みかからないといけないんだよアホ
秀吉なんて天正13年秋〜翌年1月にかけて家康討伐をちゃくちゃくと進めてたが結局いざとなったらビビリまくって
信雄に取り成ししてもらったり母と妹を人質に出して決戦を避けてるんじゃねぇかw
しかも当時の徳川は木曽石川真田小笠原水野の離反とそれによる領国の軍事機密露見により崩壊状態といっていいのに
そんな状況ですら決戦必死に避けてるほど秀吉は家康にビビリまくってるんだよアホ
>>朝日姫は小心者の家康を安心して上洛できるようにした関白の慈悲だろw
お前の妄想だろタコw普通に家康にビビリまくってるからそんな事する必要があるんだし信雄相手に負けまくった天正12年の攻防もあって、
家康に対してもかなり警戒して何とか従わせたかったから「ワシに従ってくれ〜」と土下座して、家康はやれやれと恭順しただけ。
結局これが原因で豊臣家は滅ぼされることになるんだし、結果でいっても完敗してるのは明らか。
家康領国なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。

戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
830人間七七四年:2014/01/11(土) 11:50:54.35 ID:VGmZ5GGB
>>秀吉に臣従する以外に生存する道が無くなった
家康は秀吉の威圧行動と対真田の敗戦や上杉景勝の川中島侵攻や天正13年夏の領内大地震や木曽小笠原石川水野真田の離反とそれに伴う領国機密露見
といった、種種の領国崩壊要素があり、秀吉からしてみれば半月で瞬殺できそうな状況で、天正13年秋から天正14年初頭まで上杉木曽真田など諸大名や家臣に当てて
天正14年初頭の三河出兵計画を散々書いて、重臣一柳にもその実行のための行動を命じておきながら
いざとなるとビビリまくって信雄に仲介を必死に頼んで、戦闘を回避した上に
母や妹を差し出して家康に土下座してるんだがw
家康は暢気に岡崎や浜松で北条との同盟強化や諸城普請や人質招集など
領内の防衛体制を構築してただけで、秀吉に従属する構えは全く見せてなかったなんだがw
>>家康が沼田問題で指導力発揮出来ない無能なことが露呈した会談
何それ指導力って(笑)北条が真田の領土問題で援軍をよこさなかったため
北条からの加勢を得る事や北条との結束を強化する意味で浜松会談や真田との戦いに挑んだだけじゃん
家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
天正13は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
831人間七七四年:2014/01/11(土) 11:54:11.04 ID:VGmZ5GGB
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
832人間七七四年:2014/01/11(土) 11:56:32.31 ID:Lsewow5i
本多氏によれば本証寺門徒連判状により一族が本願寺門徒側と家康側で割れる事態が起こったとされてる
833人間七七四年:2014/01/11(土) 11:57:38.86 ID:wToDKmjG
>>臣従の証として家康の上洛を要求
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな


翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
834人間七七四年:2014/01/11(土) 11:58:52.00 ID:tMe7pb4T
>>佐々の領国安堵と家康重臣のさらなる人質提出のどちらか選べと最期通牒を突き付
そんな事全くやってない。
>>家中を纏められない家康に呆れた石川数正もヘタレ家康を見限り11月に秀吉の元に走
石川は天正12年の長久手合戦の頃から秀吉に篭絡されかかってたし、別に家中をまとめられないから逃げたとか関係ない。
秀吉のお得意のヘタレ土下座が功を奏して、大した相手でもないのに石川は過大評価してただけ。
>>秀吉は見せしめに閏8/13に丹羽長重が越前加賀を召し上げをやって威を示していたから
>>丹羽は若狭12万石に減封にされた姿に家康も上洛しなかったら自分も丹羽家のようになると恐怖
丹羽みたいな雑魚と、家康や信雄は全く違うからその比較は根拠にならない。

史実で秀吉は家康はおろかザコの信雄に負けまくったから会戦になったり100%負けるのは秀吉だろ。
何せ小牧長久手合戦時は北条の変身の風聞や上杉の川中島侵攻で家康はわずか8000程度しかつれてこれなかったにもかかわらずあの圧勝ppるいだったからね。
秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ

>>信雄は秀吉は佐々も潰すけど、お前どうすんの?って家康へ最後通牒を叩き
そんな事全くやってない。信雄は家康に秀吉は秀康を全く人質としては扱ってないよ。
だから秀吉にもっと人質出して臣従してしたら?と、家康にビビリまくった秀吉の必死の土下座要請に応じて、取り成しをやってただけ。
秀吉の家康討伐の際(天正14年初頭)にも秀吉は信雄に取り成しやってもらって母や妹まで送って必死に戦い避けてるし。
>>さらなる人質を出して秀吉の騎下に服しない場合は、討伐する
そんな事信雄の文書に書いてねーよクズ。
835人間七七四年:2014/01/11(土) 11:59:23.58 ID:16IY/wu3
>>家康はビビッた
下記のように秀吉がビビリまくってて家康は暢気に過ごしてただけ。
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
836人間七七四年:2014/01/11(土) 12:29:27.28 ID:AaY9deyC
>>832
本証寺門徒連判状の内容を転記して、
徳川家臣団が半分に割れて、
誰が一向一揆側に付いたのか列挙証明して下さい
837人間七七四年:2014/01/11(土) 21:56:23.88 ID:rDXfwYWK
>>836
返答出来ずに逃亡したみたいだなwww
838人間七七四年:2014/01/11(土) 21:57:36.15 ID:eKAgUPCN
暇人なんだから自分で調べる努力もしろよ
839人間七七四年:2014/01/11(土) 22:35:35.15 ID:NYVI9zGH
そもそも徳川家臣団が半分に割れたなんて大ウソだから。
840人間七七四年:2014/01/11(土) 23:08:30.85 ID:XYVqDPeK
岡崎市史通史編、定本徳川家康、一向一揆の基礎構造など三河一向一揆に関して書かれた本では
三河一向一揆で家臣団含めて半分に割れて戦ったと書かれてる
841人間七七四年:2014/01/12(日) 09:55:05.59 ID:hrTxrxlt
>>840
で、その結果をどうやって証明したのか一次史料の根拠を出してくれよ。
実際は根拠なんてないからまともな論文では、
〜と言われていたとか、
〜だったと言う
などと苦しい言い方でしか書かないからねぇ。
842人間七七四年:2014/01/12(日) 17:58:48.33 ID:lGiTyJT3
まあここの書き込みより信頼に足るけどな
教授らの言うことと、一次一次と騒ぐお前とどっちがアテになるかってなw
843人間七七四年:2014/01/13(月) 08:35:59.97 ID:VpMFmRcH
とりあえず戦ったんだから、割れた、という点では
いいんじゃね?
半分というのなら数字出せ、なんて言いだしたら
歴史は何も言えなくなるぞ。
844人間七七四年:2014/01/13(月) 12:25:46.00 ID:coVnNXhG
数字じゃなくて、
一揆に参加した人名を根拠をつけて列挙しろと書いてるだけなのに、
必死に誤魔化して逃げようとするなよwww
なんら根拠が出せないで逃げようとしてるあたり、
やっぱり三河一向一揆との戦いなんて大したことは無かったってことで結論だな。

家康の三大危機のうち、
三河一向一揆と伊賀越えの二つは捏造歪曲だからな。
845人間七七四年:2014/01/13(月) 15:49:58.00 ID:jBGP1rW+
捏造歪曲だと捏造歪曲してる現場に今立ち入った!
846人間七七四年:2014/01/13(月) 15:50:58.56 ID:sy6jr1S0
本多氏によれば本証寺門徒連判状により一族が本願寺門徒側と家康側で割れる事態が起こったとされてる
岡崎市史通史編、定本徳川家康、一向一揆の基礎構造など三河一向一揆に関して書かれた本では
三河一向一揆で家臣団含めて半分に割れて戦ったと書かれてる
847人間七七四年:2014/01/13(月) 15:53:58.75 ID:jBGP1rW+
市史&学者&学者
VS
にちゃんねるの書き込み
848人間七七四年:2014/01/14(火) 11:30:15.99 ID:qBrSEuxm
で、具体的に徳川家臣を二分したという顔ぶれは誰なの?
849人間七七四年:2014/01/14(火) 13:56:49.18 ID:QxEic5Vz
>>814>>844
家康がガチでやばかったのは三方ヶ原の戦いと天正12年戦役の二つの時だけだからね。
あとは常に棚ぼたの超イージーモード。
850人間七七四年:2014/01/14(火) 14:31:33.30 ID:xHHG2TMF
家康は一向一揆を基盤が大きく、今川氏真から侵攻を受けてる中奥三河や東三河を自力で侵攻し
大国武田の圧迫に、信長からろくな援軍もない中、長年耐え抜いてきたじゃん。
一方家康は信長の畿内平定には狩り出されまくり、寡兵にもかかわらず大軍朝倉相手を任されたりしてる
天正壬午で依田が活躍したのは、武田攻めの際、依田の命を救った家康の慈悲深さが功になっただけで
こういうのは自分の性格によるところだから棚ボタとはいえない。
関ヶ原では武断派は大軍で連携しながらろくな戦功もない寡兵の石田隊や小西隊や大谷隊、宇喜多隊などに苦戦しまくってたが、
家康が小早川を調略してくれたおかげでマンマと劣勢を覆す事のできた棚ボタっぷり。
こんな棚ボタ大名は他にはいないだろ。はっきりいって武断派なんて家康が小早川を調略せずにいたり、自分らを味方に退き入れなかったら
石田らに失脚させられるだけの雑魚でしかなかったのが史実。
その証拠に結局豊臣を見捨てて功利主義に走った武断派はマンマと改易されてるし
851人間七七四年:2014/01/14(火) 14:32:06.71 ID:rq3s/afB
家康はほとんどろくな支援も受けずに逆に信長の畿内平定戦やら岩村合戦などには
いやいや付き従わされて、大国武田の侵攻を1人で支えてきたのに
貰った領土が駿河だけとかいかに苦労の割りにろくな目にあってないかわかるな。
武田を滅ぼせたのは、武田相手に孤軍奮闘してきた家康のおかげなんだし、信濃も甲斐も家康に直接あげるくらいじゃないとおかしいからな
852人間七七四年:2014/01/14(火) 14:33:14.83 ID:qs1b+pkg
普通に考えて関ヶ原で棚ボタだったのは家康ではなく
家康のおかげで戦闘に勝利でき、ろくな戦功もなく石田や小西や宇喜多や大谷などの寡兵の雑魚に苦戦しまくってただけなのに
大版図もらえた福島池田黒田細川ら東軍の雑魚武将達だろ。
家康が味方に誘ってやらなきゃ、石田らに次々に実権を奪われて失脚するだけのアホでしかなかったが
家康のおかげでマンマと大版図もらえた。
ガチで実力0の癖にに棚ボタと漁夫の利と金魚の糞で大名になっただけのウンコみたいな大名でしかない。
853人間七七四年:2014/01/14(火) 14:35:19.78 ID:2CzFEJ4Q
家康の戦歴…大国今川相手に西三河数万石そこそこの所から吉良・今川の大軍相手に勝ちまくり三河一向一揆でも大勝。
その後も最強武田軍団相手に敢闘し、信長を滅亡寸前に追い込んだ大敵朝倉を大破した上に、戦上手の武田勝頼を多いに疲弊させ、
信長死後は甲斐信濃を巡り北条氏直の大軍相手に勝利。その後豊臣軍135000に対し織田信雄含めても16000そこそこの寡兵で豊臣軍を一万人戦死させる大勝利をあげた上に
秀吉はビビリまくって信雄相手に顕如送って必至に取り成しを懇願し、さらに自国の15分の1の国力しかなく、木曽小笠原石川水野真田の離反とそれによる軍事機密露見と
天正大地震と天正11年からの徳政令連発で領国が崩壊した家康にも母と妹を差し出すヘタレっぷり。
さらに関が原では畿内だけで18万もいる豊臣の大軍を大破する大勝利w
大阪の陣でもあれだけ規格外の堅固で大規模な城郭&城攻めとしては少ない2倍いくかいかないかくらいの兵力で短期間で大勝
信長の戦歴…チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死亡

秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される
結局実力では全く歯がたたず信雄・家康に顕如使って土下座してなんとか和議までこぎつける
北条氏直…神流川で織田家トップクラスの滝川の18000を24000そこそこで10倍の被害差で大破
朝倉義景…信長を滅亡寸前に追い込む。姉川の合戦では浅井軍は織田を押しまくり当時の織田四天王の一人の坂井の息子を討ち取る
勝頼…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死と織田徳川を寡兵で圧倒しまくる
一揆勢…信長の数万の大軍を餓死寸前のところで騙まし討ちかけられた状態でわずか数百の寡兵で織田一門10人以上討ち取る


以上をまとめると勝頼>>>>家康>>>氏直>>>>>滝川>>>>>一揆勢・朝倉>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
854人間七七四年:2014/01/14(火) 14:35:56.96 ID:rq3s/afB
ぶっちゃけ織田が武田を滅亡させる事ができたのはほとんど北条と徳川のおかげ。
武田は長篠以降も謙信の関東出兵に対して北条と結託して上野方面に外征したり遠州で徳川方を撃退したりと
全くといっていいほど衰退していないし勝頼は、翌年に武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるので
まだまだ自力は大きく残ってたんだろう。北条との同盟決裂後も関東において北条を押しまくっていたが
天正8年・9年の甲斐の都留軍への侵攻をゆるした(撃退してるが)ため、新府城の築城を北条対策として行ったが
これが多いに失策だったため、武田領国の国人は大いに不満が高まり後の離反フラグになったんだろう。
徳川も田中城や高天神城に手も足も出てなかったし武田が謙信に対応した天正3・4年の関東派兵や対北条戦のため関東に出兵したのと
甲江和与の影響で武田が軍備解除してた隙をついて居留守泥棒的に二俣城や高天神城を奪回するがその周辺の拠点や
田中城には手も足も出ず、北条が駿河伊豆国境地帯の長窪城や天神ヶ尾城を落とし、武田がその方面に出兵した隙をついて開城勧告で
なんとか開城させたにすぎない。
よって「北条が滅亡寸前の武田に上野で負けた」ではなく「武田は北条戦で大いに出費面や戦力集中の観点から犠牲を払い
その隙をついて甲江和与詐欺を生かして武田領国を無防備にさせた所に織田・徳川で奇襲をかけたら離反の連鎖になって運よく滅んだ」が正
855人間七七四年:2014/01/14(火) 14:41:59.11 ID:JbmfZpQY
・若くして織田家の人質に出され、その織田と松平が対立する
・今川の尾張攻めで先鋒を無理矢理勤めさせられる
・桶狭間合戦で主君義元が殺される
・貧国で一向一揆が根強い三河の数郡の小領主として独立する
・三河一向一揆で、家臣が二分するような危機に追い込まれる
・自国より遥かに強大な国力の今川や武田の侵攻を次々に受ける。
・自国より遥かに強大な武田の侵攻を受けながら、信長の畿内平定戦に次々刈りだされる(金ヶ崎の侵攻戦、上洛戦、滋賀の陣、姉川の戦い、長島侵攻戦、岩村攻囲戦など)
・自国より遥かに強大な武田の侵攻を受けながら、信長からはろくな援軍が来ない
・自国より遥かに強大な武田に苦戦している間、信長が内訌や内紛、有力者の病死に付け込んで火事場ドロして版図を拡張したため
従属に近いような関係を強いられる。
・自国より遥かに強大な武田に苦戦している間、信長が内訌や内紛、有力者の病死に付け込んで火事場ドロして版図を拡張したため
従属に近いような関係を強いられ、信康を命令で殺される
・ろくな援軍もなく、長年武田相手に敢闘し、単独で抑えてきたにもかかわらず、武田攻めでは駿河しかもらえない。
・堺で穴山と遊行中、信長が本能寺で殺され、同行してた穴山が殺され、家康も襲われて危うく死にかける
・命からがら戻ってきたものの、元の国力がしょぼ過ぎ、同盟者家康には大義名分に欠けるため、ろくな兵が集まらず、光秀討伐に行けない。
・信長が死んだ後の信濃・甲斐に上杉景勝と北条氏直が進出してくる
・北条との同盟後も、天正11年・12年と上杉景勝が揚北や越中戦線を放り出してまで川中島侵攻を続けてくる
・秀吉が馬鹿みたいな大軍を率いて、しつこく侵攻してくる。
・圧倒的に秀吉軍を蹴散らしまくってたにも関わらず、織田信雄がマンマと和議に応じ、家康も応じざるをえなくなる
・天正11年に領内で大洪水が起きて、その対応に追われ、徳政令を連発するハメになる
・天正12年に木曽義昌、天正13年に小笠原貞慶・真田昌幸・石川数正・水野忠重が離反し、領内の軍事機密が露見する
・秀吉死後、自分を敵視した奉行衆らが、自分を暗殺する計画を企てる
・秀吉死後、自分を敵視した前田が、天下の差配を牛耳ろうと威張り散らす。
・秀吉死後、自分を敵視した上杉が、自分の命に背いて、領内に立てこもり、戦線布告する。
・秀吉死後、自分を敵視した輝元や三成らが、規格外の大軍を率いて馬鹿みたいに戦をけしかけてくる。
・藤堂隊や黒田隊、細川隊などが弱過ぎて、寡兵でろくな戦闘経験もない雑魚三成相手に苦戦し、あやうく負けかける。
・関ヶ原後も、秀頼や幸村らが巨大な富と、戦国一の堅城大坂城に大軍で立てこもり、自分に歯向かう。
・ヨボヨボのジジイになっても、息子が無能すぎて頼りにならないため、仕方なく自分が采配を振るって前線まで一々出かける。
856人間七七四年:2014/01/14(火) 14:44:58.79 ID:wGTMyqA8
家康が不運だったのは、単独でハナクソみたいな小国で最強&大国の武田軍団を支え続けなければならなかった事
信長の畿内平定戦には次々かり出されたが、信長は家康に中々援軍も送らず、孤軍奮闘を強いられていた。
857人間七七四年:2014/01/14(火) 19:49:32.06 ID:d6owazk3
PHP文庫の『秀吉の悲劇』を読んだけど、たしかに家康、引いては
江戸幕府が秀吉の廟所に対して行ったことは、あまりに酷いと思うね。。。。。
2度に渡って、破壊してるんだよね。
858人間七七四年:2014/01/14(火) 20:06:08.95 ID:CB6wLiDO
だから戦国板の自演キチガイ在日織田半島人が、
日本人大量虐殺した信長と並んで、
家康も崇拝して朝鮮人の鼻をもいだ秀吉を貶して荒らしまくってる。
859人間七七四年:2014/01/14(火) 21:49:15.59 ID:yC7jTEng
秀吉はかなり残虐な性格だったらしいからね。フロイスの日本史より
関白が都に出発する数日前(1587年2月)全員がきれいな服装をした貴族2、30人を従えて、
ある若者が伊勢王国からやってきた。若者は関白の兄弟だといった。若者の知り合いのほとんどがそれは事実
だと証明した。…関白は誇りと尊大とさらに軽蔑の態度であの男が自分の息子かどうか、認めるのかを母に聞いた。
母はその男を息子として認めるのがとても恥ずかしかったし神様deosを余り恐れなかったし
神様の正義を知らなかったので(本当の事を告白しなければならなかったのに)まるで人間である事を否定するかのように
「そのような者を生んだ覚えはない」といった。その母の話がまだ終わらないうちに秀吉はただちに若者そして一緒に来た人々を捕縛し
秀吉の前に連れて来させて首を切った。首は都に行く道沿いで棒で串刺しにされた。
関白は彼の自分自身の肉体の血筋の者すら(己に不都合とあれば)許すことはなかった。

その後妹も同じように殺されてる。

秀次や利休やその縁者を殺しまくったりしてる所からすると、播磨攻めとかで残る人々を殺しまくったのも
信長ではなく秀吉の指示かもしれないね

フロイス日本史22章より。関白はすこぶる狡猾であったからこの二人の武将(家康と信雄)から、己が身の安全を確保した上でないと、
北条殿に対する攻撃を開始しようとはしなかった。それがために彼はこれらの武将たちに対して並々ならぬ愛情を示し
法外な好意を与え、その関係は主従というよりは、むしろ同僚に対してのように思われた。このようにして彼らは関白から強力な指示を得、
かつ彼と結ばれていたのである。
あるときなど、関白は家康を援助するために、金九万クルザード近くを無償に与えた程で、日本では例を見ない事であった。
さらに彼はこれらの武将にたいして、北条殿の諸国を制服した暁には、それらを彼らと分かち合おうと言い、漸次このやり方でもって
彼らを自らの支配と命令下に置く事を成就した。
そして彼らを政庁へ召還し、戦端を開くにさいして安んじて通過できるようにしようと、彼らの主城を明け渡し
さらに用心のためその守備兵を自分の兵と交代させたいと要請した。
…関白はきわめて抜け目なく用心深い人物であり彼らからは人質をとって常時手許に留めており時には贈賄によって篭絡するかと思うと
自らに有利とみれば厳重な懲罰をもって彼らに臨んだからである。
特に全ての武将達が関白に大いなる恐怖心を抱いていた。
関白は彼らに対してほしいままに振舞うを得たのである。
860人間七七四年:2014/01/14(火) 21:49:54.33 ID:JbmfZpQY
・三木城や鳥取城など中国地方の城で虐殺を繰り返す(信長の命令だったなんて根拠はない)
・恩を受けた主君を裏切って光秀と協力して暗殺し、協力した光秀を主殺しの汚名を負った隙をついてまんまとだましうちにする。
・恩を受けた主家を、主君不在、後継者不在、幼君、信雄や信孝の争い、家臣達の空中分解を利用し
煽りまくり主家をマンマと火事場ドロする。
・何の罪もない主家の主君筋にあたる織田信雄にいちゃもんつけて攻め込む。何の罪もない織田信雄重臣の人質
・何の罪もない朝鮮にいちゃもんつけて攻め込んで、何の罪もない朝鮮人を殺しまくる
・何の罪もない養子の秀次やその一派や親族を殺しまくる。(他大名の親族らも殺しまくる)
・何の罪もないどころか、佐々攻めや雑賀征伐や家康との仲介など、恩が一杯あり
清洲会議後には臨時での織田家の後継者に利用させてもらった織田信雄をいちゃもんつけて改易する。
・佐々成政にいちゃもんつけて改易する。
・関東攻めでも中国計略でも降伏する人々を殺しまくる
・里見からも上総奪い上げ結城も改易しようとして徳川が擁護して守られる。
・宇都宮を改易する
・南奥州はじめ東北の諸将も改易の嵐
・信包ら他の織田一門の連中を主家を簒奪する過程でいつの間にか政権の隅に追いやり事実上失脚させる
861人間七七四年:2014/01/15(水) 17:40:12.46 ID:TPombuGQ
>>849
本多隆成氏
「三河一向一揆が起こったのは永禄6年の秋からで、
翌年のはじめまでのほぼ半年間」
すぐ解決されてるwww
「本来ならば一家衆寺院として一揆を指導すべき本宗寺の住職が不在であり、
いわば統一的な司令部がなく、各人ばらばらの戦いになったことである。
さらに門徒武士達の多くが、家康が出てくれば逃げるというような有様では、
とうてい勝てる¥ようはずがなかった」
主君家康とは絶対に戦わない自作自演の戦いwwww
862人間七七四年:2014/01/16(木) 09:24:20.58 ID:ot7UNKv6
>>861
在日織田チョンが書いてるアンチ秀吉の内容はデタラメ曲解ばかりの連呼だからね。

例えば、岩田氏覚書によれば、天正12年2月には酒井重忠を使者に信雄と家康は密談していて、
3/6に信雄が三重臣殺害をしていて、
あきらかに家康が悪しき謀略をしたのが、
事の発端であり、不意な三重臣殺害に秀吉は驚き不思議なことが起きたと言っていて、
戦闘準備すらまだしてない状況の中で、
即応した家康は3/7には早くも居城浜松をたち、3/8には岡崎で全軍に陣ぶれ、
3/13には清州で信雄と会談してる。
美濃の池田と娘婿森の自立勢力の帰属を巡る外交調略戦で、
信雄家康陣営は完敗し、
池田らは秀吉側につくことを決め犬山を攻めて旗色を鮮明にする。
しかし森は羽黒の戦いで敗北するや、鬼武蔵の異名を穢した汚名返上したいと秀吉の助力を嘆願するようになる。
秀吉は伊勢戦線と紀州一揆が気にかかり、東美濃戦線にはあまり興味が無かったため、
森は26日にむさしの名で自筆遺言書を書き、死を決意し、宛先には秀吉軍監だった尾藤になっており、
尾藤この由御申し候べく候と書き、
自分の死後に遺された家族の身の振り方を指図してる。
つまり最初から死ぬつもりで無謀な進軍をするつもりで秀吉に嘆願していた。
ちょうどそのタイミングで家康が28日に小牧山を占拠したことめあり、
秀吉も対応し29日に楽田に集結。
この際、三鬼氏は秀吉軍戦力を10万は誇張で実際は6万と指摘しており、
その中から別働隊に割ける兵力も少ないながら、
死に急ぐ森らを危惧し、
三好秀次を支援に付ける温情を示した。
しかし秀次は素人丸出しで、徳川軍に背後を襲われ不意だったために混乱。
敗因を作ったのは秀次であり、
しかも元々、汚名返上のために死ぬ覚悟だった森らが、
秀次を生きて帰すことが恥辱をそそぐことにつながると考えた結果、
森らが生還を考えず勝手に討ち死に。
しかし秀次や長谷川や堀らは無事生還したので、
森や池田が討ち死にしたが、
その後も池田や森は秀吉の元で動いていることからも大した損害にもならなかった。
絶望的な家康らは宣伝戦略を行って、秀吉に敵対する勢力を増やそうと苦心していた。
そのため甲斐にいる平岩らにさえ、
池田、森、堀、長谷川、その他に大将分(秀次)
ことごとく一万討ち捕らえたと、
戦果を過大に言い触らし回っている。
無論、1万討ち捕らえた根拠として挙げられた
秀次、堀、長谷川ら秀吉直轄人員は無事に生還しており、
自立勢力であった池田と娘婿森らだけが討ち死にしただけである。
863人間七七四年:2014/01/16(木) 11:55:44.15 ID:TH0Pq/DE
>>岩田氏覚書によれば、天正12年2月には酒井重忠を使者に信雄と家康は密談していて、
>>3/6に信雄が三重臣殺害をしていてあきらかに家康が悪しき謀略をしたのが事の発端

多聞院日記2/2条で秀吉方の脇坂安治が伊賀の国衆を組織して伊賀上野城を乗っ取っている。これが発端
また津川ら信雄ら三家老は秀吉がこぞって彼らの人質を取っていたために操り人形だった(家中対秀吉心合候者共両三人)

>>美濃の池田と娘婿森の自立勢力の帰属を巡る外交調略戦で、信雄家康陣営は完敗

何それ?外交戦って?ソースを書いてくれ。

>>鬼武蔵の異名を穢した汚名返上したいと秀吉の助力を嘆願

全くそんな事嘆願していない。
森の3月26日遺言状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
「森家の後継ぎは忠政が長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい」
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
俗にいわれてるようなDQNっぽさは全く読み取れない。

池田・森も秀吉が伊勢に侵攻するや否やさっさと秀吉に従属
追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている

さらに宇喜多も援軍を秀吉の要請に応えて尾張に派遣し上杉・木曽・河野・十河、
信包・神戸ら南伊勢諸将も従属。石川もこの頃から秀吉に離反しかけているのが徳川方史料でわかる

小牧長久手では尾張転進時の兵力10万に加え、伊勢方面軍2万4千に岐阜後詰6千で総勢13万もの圧倒的大軍を動因している
864人間七七四年:2014/01/16(木) 11:56:36.65 ID:gCNx9dew
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし

清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。

二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。
865人間七七四年:2014/01/16(木) 11:58:10.48 ID:gCNx9dew
追記するとして3/20秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる

池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう

同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)

天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており
現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
866人間七七四年:2014/01/16(木) 12:02:11.13 ID:4vvBr7Ri
>>秀吉は伊勢戦線と紀州一揆が気にかかり、東美濃戦線にはあまり興味が無かった
お前は本当に無知だな。
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「半月程度で決着つけてやる」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。
84年一杯を対信雄&家康に使って伊勢口や美濃の押さえ合わせて計135000ほどの圧倒的大軍引き連れて
砦間の戦闘や城の取り合いや信濃の木曽、上杉ら周辺大名への働きかけもガチガチにあったのに
滅ぼす気がないとか言われてもな
「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するがこの目的も『必家康後巻可仕儀にて候間』
(毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
867人間七七四年:2014/01/16(木) 12:02:52.58 ID:gCNx9dew
この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります

7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
7月3日秀吉⇒木曾 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
868人間七七四年:2014/01/16(木) 12:05:15.58 ID:4vvBr7Ri
>>最初から死ぬつもりで無謀な進軍をするつもりで秀吉に嘆願していた

何で今度の戦が熾烈なものであり戦死する可能性があったから、遺書を書いただけなのを最初から無謀な進軍の予定に摩り替わるんだよアホ
秀吉が献策によって軍を動かしたとするのは年次レベルでも誤りばかりで
世間からけちょんけちょんに批判されている哺庵の創作にしかなく、またこの捏造太閤記ですら
秀吉がしぶしぶ従ったとはかかれず、池田の意見を聞き、よく考え、尤もだと賛成している
また秀吉の敗戦前日書状から龍泉寺に根城を拵え柏井、大草、篠木に構えを堅固に申し付け、
三河に向けて手勢を発向し九鬼嘉隆も船手にて三河に差し向けるというように三河への大規模軍事計画を綴っていて
池田の献策的な事は一言も読み取れないばかりか、秀吉自身この作戦に向け、兵を集め、陸海から派遣するというように
積極的に動いている様子が見て取れる

追記するとして三月20日秀吉書状で秀吉は池田を池勝入と呼び捨てにして其の方と完全に上から目線で書いている
また犬山へ留守居を堅固に申し付け森を同行して池尻に来るように指示をだし「置目」のごとく
城城へいれる留守居は秀吉の方から申し付ける事を指示を出すというように完全に縦の関係が読み取れる
また森の3月26日付け書状で茶壷を秀吉様に進上をして母上は手当てを秀吉様からおもらいになって
森家の後継ぎは忠政ではなく「長可の地位を継ぐ事は大変困るので、兼山の城は要衝なのでもっとしっかりした者を配置なさいませ」
と秀吉様にいいなさい。母上は必ず必ず京都にお住まいになってください。忠政がこの城の後継ぎになるのは困ります。
万一今回の戦が全面敗北になる場合はみんな城に火をかけて死になさい。
というように森は秀吉に対し様をつけ、また進上と完全に目上の人への言葉を使っている
また森家が城主の家柄でなくなることを長可自ら強く望んでいる様が読み取れ、上昇志向が全くなく、
むしろその反対である事がわかる。一般的に思われているような武功にあせっている様は全く見て取れない

あの中入り作戦は秀吉が立案したもの
敗戦前日の丹羽長秀宛書状見りゃあの中入り作戦は家康本国への陸海両面攻撃の中の
一部として位置づけられ、中入りの過程でも途中で篠木柏井大草等に砦を普請する等あの作戦の計画性が読み取れ、池田の献策により急ごしらえで作られたといった事は全く読み取れない。
森の暴走等同時代資料に一切存在せず全く読み取れない。仮に池田が献策してたとしても当時の力関係では秀吉とは比較にならず
否定しようと思えばいつでもできる。清洲会議の時点で丹羽や池田と秀吉では歴然と力の差が読み取れる。
丹羽は若狭の城主となって後出世が頭打ちになり支配領域もそれ以上広がらず
さして大きくもない遊撃軍の一人の地位から抜け出せなかった。本能寺直前の四国征伐でも
信孝の補佐として蜂谷、津田信澄と並ぶ副将にすぎず本能寺の変当時も京都から近い大阪近辺にいたものの軍勢が少なくて動けなかった。
清洲会議の1か月半後の8月11日付けで秀吉が長秀に宛てた5か条からなる長文の手紙(専光寺所蔵文書)で次のことがわかる。
執政官の一人であるだけに滝川や信孝から長秀に訴えがあった。
しかしとても彼の力では裁定できない。それで秀吉にお伺いを立てて裁定を仰いでいる
安土城普請が遅れているので三法師が安土城に移る事ができず、これは長秀の責任であると秀吉は詰っている。
秀吉自身も直接普請のため安土に行く覚悟である。
安土の普請の遅れについて言葉は柔らかいものの『(長秀の)御油断と存じ候』
という明らかな叱責な言葉が使われており二人の間が同格であるとは言えない。

池田はずっと小身のまま止められ一時は信忠軍団の一員にされ、ようやく摂津の大部分の支配を委ねられ遊撃軍の地位に昇ったが
実績で言えば秀吉や勝家はおろか、丹羽にすら及ばない程度であった。天正十年十月付けで恒興が摂津塚口神家に下した禁制と
同年十月十八日付けで同所に秀吉が下した禁制(興正寺文書)から
恒興と秀吉の権力の差が推し計れる。摂津塚口とは恒興が清洲会議で得た新領であり、
恒興の領分にまで秀吉が介入している有様がわかる。
869人間七七四年:2014/01/16(木) 12:10:59.63 ID:XQQHFZ9B
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる


中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
870人間七七四年:2014/01/16(木) 12:13:07.58 ID:4vvBr7Ri
二人は信長生前にして秀吉とは身上面で大きな差が生じ、光秀謀反に際しても秀吉の東上を待つしか手立てがなく弔い合戦に際し
秀吉の指揮下に属する事により秀吉と二人の間にはっきりと縦の関係が生じた
のではなかろうか。秀吉は二人の執政官を実質上配下にしたが表面上は三人の合意の形をとり
己の野望を隠す事ができた(『尾張織田一族』谷口克弘)まして長久手時では清洲会議後
柴田・信孝・滝川を倒しますます権力関係に差がついているだろう。

あの戦闘の後秀吉は楽田の防衛力強化を命じていたりと持久戦の構えに変わる。
その内家康に北伊勢一揆や甲賀、丹波の土豪を蜂起させられその対処に追われ家康の勝利により
厄介な事態が生まれる契機になっている。敗報は十三日に京へ伝わり京では秀吉敗戦により織田・徳川連合軍
が上洛してくると思われたようで騒乱が数日続いた(『兼見卿記』)
長久手の秀吉軍の敗戦は単なる局地戦の敗戦ではなくまさに日本の中心である京までも騒乱に陥れる
一大事だった(長久手町史本文編)結局講和を持ち出したのも秀吉。

正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因

当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、
ただ単純に手出し云々というより秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
871人間七七四年:2014/01/16(木) 12:19:46.24 ID:NNEary3U
>>三鬼氏は秀吉軍戦力を10万は誇張で実際は6万と指摘しておりその中から別働隊に割ける兵力も少ない

一次資料や陣立書類から、秀吉軍は下記のように総軍フル動員で戦闘に臨んでるからそれは絶対にない。
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。
872人間七七四年:2014/01/16(木) 12:22:21.77 ID:4vvBr7Ri
秀吉方は 秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
873人間七七四年:2014/01/16(木) 12:22:50.24 ID:NNEary3U
秀吉方は秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、
稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島。長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、
生駒吉一、矢部、山内。彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる。上記のように一次資料類から秀吉側は領国中主力武将ほとんどかき集めている。当代記や三河物語などでも楽田周辺の秀吉軍だけで
10万かそれ以上としている。また秀吉に同行していた渡辺清忠や桂横重が小牧山に陣替したときの人数を10万といっており当代記、三河物語もこれと同じ数字。その他に伊勢方面を攻めている諸勢2万4000と
美濃に残されている秀勝勢数千が存在するため総勢で13万を超えると思われる。また尊禄以来年代記では秀吉は3月に大阪をたった時125000、八月には16万で尾張へ出兵した。また長久手合戦参加者の家記や家譜、
合戦記などでも同じ数字が用いられている

長久手合戦の陣立書や3/11秀吉→木下判物3/13秀吉→丹羽3/17羽柴秀吉人数書立
3/19毛利輝元→大多和副宗衛尉、3/20秀吉→池田3/22渡辺清忠→元行3/26秀吉→黒田長政
3/29秀長→秀吉4/8秀吉→丹羽、同日秀吉→毛利4/10筒井書状4/11秀吉→木曽、長船、富岡
同日あて先不明書状、4/12秀吉→富田八重羽津田などみても秀吉は総軍あげてほとんどの武将引き連れて
13万以上の圧倒的大軍でわずか16000〜7000の信雄・家康連合軍に戦い挑んでるのに
戦力集中させてないとかアホすぎてワロタw
874人間七七四年:2014/01/16(木) 12:23:04.17 ID:4vvBr7Ri
3月13日の丹羽長秀宛書状では『14、5日程で一気に酒の酔いを醒ますごとく決着つけてやる』と言ってるししかも大軍結集してるから実行にも移してる。
敗戦前日の丹羽宛書状等複数の書状では『家康さへ討果候へは』とあるし龍泉寺に向かう途中での柏井、大草の根城に山内一豊、
生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦も
その一貫であり自分の意思で池田等の兵力を三河に向け発向させる予定である旨を報じてる。
北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀かねに同道してた
渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』と記してる。その後も秀吉の決戦構想はは秋頃まで一貫してて11月の信雄との和睦時ですら
「家康には恨みが深いので年内であっても攻め滅ぼしてくれん」とか言ってる。伊勢にいた軍勢北尾張に呼び寄せてるし留守居に最低限の兵
残して北尾張に秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄、細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、
赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、長浜衆、木下一元、徳永、 小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、
蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、長久手方面進軍者を除きこれだけ
主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内 彼らが柏井の屋敷に在番してる。
上記の最低限の留守居除く全て総力でかき集めたといっていい
21日に美濃池尻に来た時は125000(細川軍記)100000(当代記や野坂文書)これだけ大軍を連れてきたとある。伊勢の兵も四月にはだいぶ尾張に進めてるし。
それから詳細な地図ないから説明しずらいが犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでてそこにも兵をある程度配置してると思われるし、さらに楽田〜龍泉寺までの大草、柏井、篠木にも屋敷が普請さ れている

3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。合戦時の陣立書にもはっきり名前がある。秀長、蒲生氏郷も
遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)
陣立書や書状から上記のように秀吉側は主要メンバーほとんど引きつれて短期決戦構想で合戦に及んでいる事がわかる
松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる
伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。堀と長谷川は中入り組。(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)
3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。丹羽長重も派遣されてる。信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる。北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、
八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄もそれに合わせ多く兵残してる。
875人間七七四年:2014/01/16(木) 12:34:50.74 ID:rAtt/XPA
>>死に急ぐ森ら
森らは全く死に急いではいない。4/8秀吉→丹羽にあるように軍令に忠実に三河方面へ淡々と行軍してただけ。
>>三好秀次を支援に付ける温情
秀次は当時秀吉の数少ない血縁者。森が自殺を考えてるなら生きるか死ぬかもわからん戦に秀吉が行軍させるわけがない。
>>秀次は素人丸出しで、徳川軍に背後を襲われ不意だったために混乱。敗因を作ったのは秀次
背後を襲わせたのは、秀吉のアホ戦術。

4/8秀吉→丹羽長秀
池田らを小幡表に派遣し龍泉寺を根城に拵え柏井・大草何も取積丈夫に普請を申しつけ
小幡や森山を残さず放火させ三河表に手遣、九鬼も船手で三河に派遣と
秀吉の命で敵地を放火・城普請などさせ隠密とは程遠い行軍をどうどうとさせているのがわかる
4/6に派遣して4/9に白山林で会戦。敵地のど真ん中で無謀ののろのろ行軍させた秀吉の完敗
また柏井にいる一柳などと緊密に連絡を取っている事から、この軍事行動自体秀吉が全面的に行動に移している証左といえる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。 白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
876人間七七四年:2014/01/16(木) 12:46:57.61 ID:rAtt/XPA
>>汚名返上のために死ぬ覚悟だった森ら
ハイハイ、ソースなし。
国境地帯にいる森らがいつ命落すかは全くわからんし、去就が注目されてた程なので秀吉に従った後
いつ先陣をやらされるかわからんから、遺言状を念のため書いただけ。それを無理矢理森が命を省みず無謀な行軍をするつもりだったとか
中入りが森らが名乗り出たとか相当馬鹿だな。森らは>>863-864>>868のようにとっくに秀吉家臣だから
4/8丹羽宛書状にあるように秀吉の命令で三河侵攻に派遣され、秀吉の命に忠実に動き、三河方面に放火や城攻めや築城をしながら行軍してただけだろアホ

>>秀次を生きて帰すことが恥辱をそそぐことにつながると考えた結果、

恥辱も糞も仮に背後から襲われる結果になった場合真っ先に狙われるのは最後尾の秀次軍であり
森らは最も安全な、徳川や信雄から離れた位置で行軍してたのだから、最初からこれが無謀な行軍なわけがない。
そんな危険な戦を考えていたならなら、秀次が一緒に派遣されるわけがないし、秀吉の親戚筋の木下兄弟まで一緒に派遣されて戦死してるほどなんだがw

>>森らが生還を考えず勝手に討ち死に
生還を考えずも糞も、尾張方面から進出してくる徳川軍に退却路をふさがれてただけだろ。
池田元助という、未来のある武将まで逃げ切れず戦死してるし。

>>秀次や長谷川や堀らは無事生還

秀吉のアホ作戦のせいで秀次が急襲されて、ねねの兄弟の木下兄弟が戦死し、長谷川や堀らが榊原隊に蹴散らされあっさり敗走したために
徳川勢と信雄勢がわらわら集まってきて、池田と森らが退却できなくなって、戦死しただけ。
池田元助まで逃げ切れずに戦死してるから、逃げようとして逃げられなかっただけであって自ら死を選んだわけじゃない。
877人間七七四年:2014/01/16(木) 12:49:37.59 ID:rAtt/XPA
>>その後も池田や森は秀吉の元で動いていることからも大した損害にもならなかった。

○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り 5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人 フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平 佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。 アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに 家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

むしろ1万人くらい死んだとしないと説明つかないわな
何せこの後は7倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
878人間七七四年:2014/01/16(木) 12:50:03.62 ID:4vvBr7Ri
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
879人間七七四年:2014/01/16(木) 13:01:11.61 ID:rAtt/XPA
>>絶望的な家康らは宣伝戦略を行って、秀吉に敵対する勢力を増やそうと

そんな事実ねーよクズ。別働隊の隊長は池田親子森木下兄弟堀長谷川でそのうち半分が戦死してる。
また別働隊の兵力は24000。つまり戦死率から考えても普通に別働隊の半数は戦死してないとおかしい。
つか顕如日記は明らかに秀吉の捏造歪曲フィルターによって捻じ曲げられた事実ばかり書かれてるし、その顕如日記でも
その後の沙汰(噂)にてと真横に加筆されて書かれてる。明らかにこれは敗戦の事実を隠蔽したい秀吉の工作であって、
家康の誇大喧伝なんて存在しない。つか、秀吉によって捻じ曲げられた捏造情報ばかり書かれてるイエズス会年報やフロイスの日本史ですら
一万人戦死と書かれてるし看羊録でも秀吉は家康に大敗して和議を結んだと書かれてるしな。
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人 4/10家康書状一万人 4/11家康書状一万人 4/13北条氏政・氏直書状1万人 5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人 5/7織田信純書状一万人 家忠日記1万五千余り 顕如日記1万人余り イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人 当代記2万人 池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる 3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ

最初から信雄・家康と秀吉は135000VS16000〜17000で絶望的な兵力差にもかかわらず
小牧合戦後、秀吉は尾張国内に正々堂々と攻め込むのをやめて家康が絶対に出てこれない木曽川筋の諸城をこそこそドロボウするのがやっとだったんだし
いかに長久手合戦の被害が甚大で、秀吉が信雄らにビビリまくってたかがわかるな。
普通なら秀吉の書状にあるように半月くらいで瞬殺できていい兵力差で尾張や美濃や伊勢の諸将も秀吉に寝返りまくってるのに
秀吉が自力で攻めた所はほとんど一進一退どころか、蟹江や前田・下市場・長窪や浜田城を奪回されるなど劣勢なくらいだしね。
880人間七七四年:2014/01/16(木) 13:02:18.52 ID:4vvBr7Ri
唯一長久手合戦での戦死者を3000と後年の加筆によって捏造してる顕如日記自体が秀吉によって歪曲されまくった捏造フィルターを通した情報ばかりを事実として書き記してるし日記形式の癖に
日付の順番とは関係なく後から加筆されまくってるからな。

・3/8晩より前の時点なのに3/20や3/27の出来事(大坂出兵など)が書かれてる。
・3/23の出来事が3/22条より前に加筆されて書かれてる
・根来寺よりは懇望、但泉州知行方について望みこれあり、秀吉は同心あるまじきと云々、それに付き同寺の儀堅く仰せ付けられた。
・来る15日尾張表へ諸勢を差し遣わされる予定を3/8時点で書いてる
→実際には秀吉の当初の出兵計画は尾張ではなく伊勢だし到着予定日も席に3/11と大きく異なる
・3/14の峰城の合戦の後に尾張犬山に池田と森を派遣して犬山まで切り取り、そのほか所々放火して存分に任せられ、尾張も秀吉に味方したと書いてる
→実際には池田や森による犬山奪取は3/13で峰城の合戦より前だし池田も森も当初秀吉につく事が予想されておらず
「申合令手遣」は明らかにおかしい。尾張で秀吉に味方した勢力があったのは事実だが(両毛利氏や松の木城近辺の将など)
「存分に任せられ秀吉一味」というのは明らかに秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて書いてるだけ。
・岸和田城での雑賀衆との合戦の日付が3/18になってる→実際には3/22
・4/10で尾張表は過半秀吉の理運とか書いてる→明らかにデタラメで秀吉のハッタリ。
北部にある小牧山やその周辺の砦や蟹江など西部の城すら攻略してないし、隅っこにある加賀野井竹鼻奥の三城もこの時点でしっかり残ってる
・4/9の大敗の条で「然れども秀吉が覚悟を堅固にしてやがてかちかためられ」という秀吉が「ほんのさわりにもならない」とか書いてた強がりのハッタリと同内容がしっかり書いてる
(実際には秀吉は池田や森らが死んで大変不便だ。これを次やったら親子の縁を切られるのを覚悟しろ。などと秀次に譴責状を書いてる)
・秀吉が6/27の夜に馬五六騎で大坂に帰ったとか書いてる→秀吉が帰ったのは6/28だし五・六騎で帰ったとか明らかに捏造
・8/26に木曽川を渡って8/28に清洲辺りを放火したと書いてる→実際には秀吉が渡河したのは8/19で大きく異なるし
そこから一回美濃に戻った形跡もない。8月下旬の秀吉は小牧や丹羽郡小折などを攻撃目標として定めてるのが家忠日記・9/1秀吉→石川・蜘庵や8/18秀吉→景勝・須田でもわかる
・9/8条に「御書の日付7日也」と書いてる
・9/8条に「9/2に合戦、家康敗戦とも風聞在之」と書いてる→実際には9/2には合戦はなかったし
その前日の9/1家康→尾張黒田城の澤井雄重で尾張島東での戦功を賞され感状がでてるように、信雄が勝利してる。
881人間七七四年:2014/01/16(木) 13:16:09.50 ID:gCNx9dew
秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし

秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした

つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと

顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
882人間七七四年:2014/01/16(木) 13:17:36.19 ID:gCNx9dew
基本的に朝廷は京を制圧している大名と積極的に関係を築こうとするからね
近世成立記の大規模戦争86ページ
信雄は、この時期にも天皇・公家衆と積極的な関係を構築していない
これは信雄自らが京都を制圧しておらず、安堵などを通じて公家衆に対する主従的な関係を構築していないからである
公家衆や門蹟衆としても京都の支配者は秀吉であり、公家社会の擁護者である秀吉との関係が重視された。
83ページ
公家社会の政治的構造は、基本的に京都を制圧する政権やその有力武将との良好な関係の構築を試みるが、対立する武家勢力にも様々な人脈に基づき
関係を構築しうる二重性を備えていた
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから

イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉の下記のようなデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
883人間七七四年:2014/01/16(木) 13:21:57.65 ID:gCNx9dew
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
>>しかし長宗我部は逆に秀吉の要請で毛利の侵攻が開始される始末。
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
>>友軍の離反を繋ぎ止めてるが、もちろん秀吉は佐竹を使って北条を牽制してるし
>>新発田との争いを止めさせた上杉も参戦してきたから家康は完全に追い詰められてた。
圧倒的大軍がありながらわずか8分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
884人間七七四年:2014/01/16(木) 13:39:23.51 ID:22F+Il/J
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
885人間七七四年:2014/01/16(木) 13:40:03.02 ID:ELxAkU43
秀吉側に都合いい戦果だけ史実扱いして
圧倒的に多くの史書に残ってる戦果だけ捏造とか妄想も大概にしとけこのボケ
加筆ミエミエの真横の己後の沙汰は三千計死と云々
これのどこが正確な情報収集なんだ糞カスが
>>いかに家康らが不利な状況だったかがわかる
>>必死な政略的宣伝工作かがわかる。
なら佐竹その他書状でデタラメハッタリ誇大喧伝まで書き入れまくってる秀吉はめちゃめちゃ不利な状況だったってことだな
顕如日記の数はただ秀吉が敗北をひたかくしにしたから
異常に少なく見積もられてるだけだろ
実際諸大名あてに大した事はないだのなんだのいいつくろってたしな
長久手の戦いの戦死者は2万くらいだろ
織田・徳川方は最初は1万と書いてたけど後に正確な情報収集の結果2万におちついた
だからこそ8倍ほどもの圧倒的兵力がありながら眼前の織田方を叩き潰せず1年無駄にした
つーか京以西は完全に秀吉側の情報のがいきやすいんだから
家康の誇大喧伝の結果とか馬鹿かと
顕如が正確な情報収集してたなんて史料は存在しない
アンチ徳川馬鹿の堀ですら「その後の沙汰」を噂と訳しているし
つーか京以西は秀吉の捏造戦果情報の歪曲フィルターの情報地域なんだから
徳川織田方戦果が過小に見積もられるのは当然のこと
顕如の日記ですら当初の情報では1万としてるし
他の資料でもことごとく1万か多くて2万なんだからそっちが正しいと馬鹿でもわかる
>>実際、一万討死なんて非現実的過ぎるアホな数字だよな。いかに家康らが不利な状況だったかがわかる 必死な政略的宣伝工作かがわかる。
>>しかも不必要なまでにしつこく長期間にわたり吹聴して同盟諸将に繰り返し書き送って決起を呼びかけ秀吉の背後を襲うように言ってるからな。
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
大体記録でも史料はある事柄が起こった時代が近い史料・近い現場にいた人が書いた資料ほど信憑性が高いとされるのに
なぜか伝聞レベルの顕如日記の「後の沙汰」が他諸々の史料の情報より優先って馬鹿かと
>>当時の家康は長宗我部が秀吉の背後を突いてくれないと八方塞りで敗北必死だったから誇張宣伝を繰り返して長宗我部に決起を促していた。
>>しかし長宗我部は逆に秀吉の要請で毛利の侵攻が開始される始末。
>>そうなると家康は北条が援軍に来るなんて非現実的なことを言って
>>友軍の離反を繋ぎ止めてるが、もちろん秀吉は佐竹を使って北条を牽制してるし
>>新発田との争いを止めさせた上杉も参戦してきたから家康は完全に追い詰められてた。
圧倒的大軍がありながらわずか8分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」
886人間七七四年:2014/01/16(木) 13:40:39.31 ID:4vvBr7Ri
むしろ1万人くらいは戦死したとしないと説明がつかないわな
何せこの後は8倍もの圧倒的兵力差で一進一退。長久手会戦後
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
    →伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
887人間七七四年:2014/01/16(木) 13:41:12.97 ID:gCNx9dew
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝

尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる

尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
888人間七七四年:2014/01/16(木) 14:18:29.06 ID:22F+Il/J
>>絶望的な家康らは宣伝戦略を行って、秀吉に敵対する勢力を増やそうと苦心していた。
>>そのため甲斐にいる平岩らにさえ、池田、森、堀、長谷川、その他に大将分(秀次)
>>ことごとく一万討ち捕らえたと、戦果を過大に言い触らし回っている。
身内や家臣に対して捏造を書いても全く秀吉に敵対勢力拡大には繋がらない。
身内に対しては正確な戦況報告を常に淡々と行うのが家康。
身内に対しての戦況報告=今後の作戦や指令に繋がっていくわけだから捏造戦果書いても戦線が混乱するだけ。
まぁ秀吉は家臣に対しても捏造戦果書きまくってたが。

>>無論、1万討ち捕らえた根拠として挙げられた秀次、堀、長谷川ら秀吉直轄人員は生還
一万人打ち捕らえた根拠が堀秀次長谷川というのが意味不明。
敵の首が一万以上あっただけ。それで家康が、堀や長谷川や秀次の影武者の首を本人の物と錯誤して彼らが戦死したと報告しただけ。
敗戦直後の4/9には堀長谷川秀次が戦死したと家康が錯誤してたため、誤った戦果が平岩らに伝わってるが
その後には4/21家康→皆川や5/3信雄→香宗我部5/7織田信純→香芸でも堀長谷川秀次らが戦死したというのは書かれておらず
4/9や4/10時点での堀長谷川秀次戦死というのは、誇大喧伝目的ではなく、戦闘直後で首実験が十分にされていない事による
家康や信雄の錯誤による物とわかるし、それが修正された後でも壱万人とか壱万五千人という数字はちゃんと変わらず書かれており
(むしろ信雄書状などでは8000→15000などと首実験の結果数がちゃんと正確に把握され、戦闘直後には計上されていなかった首まで計上されてより正確な数になってる)
1万人戦死の根拠は秀次堀長谷川の戦死ではなく、むしろ壱万人討ち取ったからこそ、秀次堀長谷川も死んだと推測して書状に書いていたから、1万人かそれ以上戦死というのは
正確な数字か実際より少ない数なのがわかる。

吉川元春の書状でも秀吉軍はみな討ち取られたとしっかりかいてるし
4/23熊谷信直書状でも羽築方衆合戦候て数多落度の由としっかり書かれてる。
4/12松井康之書状でも池田森堀木下助左、同勘解由、此衆手をわけて一戦にでて
池田森木下兄弟此の衆討死候、堀と秀次が異議なく撤退し、其の他諸卒大方うたれ申し候と書いてる。
別働隊の兵数は4/8丹羽宛書状で24000〜5000で其の中の諸卒が大方打たれたんだから、戦死者は2万人くらいいないとおかしい。
其の証拠に秀吉は規格外の兵力差と、会戦当初から寝返り続出で崩壊状態の雑魚信雄相手に手も足もでなくなって
ビビリまくって楽田からヘタレ敗走して家康らが絶対でてこれない木曽川を超えた先にあるデルタ地帯の小城数城をマンマと火事場泥棒するのがやっとだったし

>>自立勢力であった池田と娘婿森らだけが討ち死に

池田も森も自立勢力じゃない。これは>>863-865>>868でわかる。
889人間七七四年:2014/01/16(木) 14:30:31.89 ID:5Ox7XHaU
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
890人間七七四年:2014/01/16(木) 14:37:47.47 ID:NNEary3U
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
891人間七七四年:2014/01/16(木) 14:38:44.01 ID:4vvBr7Ri
信雄家康は秀吉に圧勝したじゃん。135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ〜」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。

そもそも豊臣政権自体が単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
892人間七七四年:2014/01/16(木) 14:39:27.68 ID:gCNx9dew
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。

結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
893人間七七四年:2014/01/16(木) 14:39:58.58 ID:5Ox7XHaU
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
894人間七七四年:2014/01/16(木) 14:41:17.83 ID:5Ox7XHaU
秀吉が困った状況を隠すためにハッタリパフォーマンスするのはいつもの事。
例えば小牧長久手合戦で1万人殺され諸城の攻防でも長久保・浜田・戸木・松ノ木・二重掘・蟹江・前田・下市場・東駒野など
負けまくり奪回されまくってたが、下記のようにハッタリと捏造でもみ消してる。
パフォーマンスで一夜城作ったり茶会やったりして中身のないパフォーマンスやったり
苦戦しまくってても隠蔽して楽勝みたいに捏造しまくるのはいつもの事だからな
6月の時と同じでガチンコで東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし
小牧長久手時も秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ

むしろそれは兵糧や物資に困ってて早期に決着つける必要があったため
相手の戦意喪失を狙ったものとみるべき。
むしろ米20万石&金1万両を容易しながら、わざわざその後に兵糧や金をふんだんに出してなどと書いてるんだから、
金や兵糧を出さないといけないような状態だったって事だろ。豊臣方は那須記や榊原書状によれば50万もいたようだし
20万石も容易させながら3か月程度でなくなりかけてたんだから。
豊臣作成の北条家人数覚書や関東八州諸城人数覚書から小田原には1000しかいなかったとわかるし
兵力を集中してた下総や北武蔵・上野の拠点を家康や上杉・真田・依田、佐竹・宇都宮などが落としてくれたおかげで
秀吉ははっきりいって何もやってない。
そんな雑魚諸城攻防で20〜80倍もの兵力で攻め込んで落とせず大苦戦し一柳・堀尾嫡男・前田重臣など多数戦死し
4か月だってもガチンコで落とせず徳川や伊達に見捨てられてただでさえ抗戦・和議で割れていて乏しかった
戦意が0になったおかげで助かっただけなのが秀吉
豊臣軍は北条以外全て味方で、しかも北条からは会戦開始早々皆川ら下野勢が寝返ったりしてるし
豊臣にぜめられた山中城や本拠小田原も内通者がいた上に氏勝は逃亡。
松田・笠原など重臣まで篭絡されてる有様だったし別に実力で負けたわけじゃない。

あと小田原城は落ちていない。ただ自軍の味方がいない状況で抗戦しても無駄だと判断して開城しただけで、
兵糧物資がなくなってるわけでも豊臣方に内部まで侵攻されたわけでもないしただ圧倒的大軍に攻囲されて反抗を諦めただけ
享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
秀吉が苦戦しまくっててもハッタリパフォーマンスするのは小牧長久手の茶会とか見りゃ一目瞭然だし確か高松城攻囲のときとかもやってるはず。
逆に妻まで呼び寄せて戦意高揚させないと危うい戦況だったとも解釈できるな。兵糧どうこうは上記の理由で不足が確認されるし
小田原市史の久保田氏もちゃんと書いてる。
895人間七七四年:2014/01/16(木) 14:46:24.05 ID:5Ox7XHaU
小牧長久手合戦は、135000(伊勢→尾張に陣替した100000の他に秀長勢や戸木城攻めに当たってる兵力や岐阜の後詰などがいる)
VS16000〜7000という規格外の兵力差でもって短期決戦挑んだ秀吉は1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北
浜田下市場蟹江前田長久保などは秀吉方本陣の程近くにもかかわらず信雄方に見事に奪回されたりしてる
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
伊勢と伊賀で秀吉方が優勢だったのは三月の攻防のみ。
神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉
信雄は伊賀と伊勢の半国は割譲なんてしてない。会戦そうそう地元諸侯が一斉に秀吉方に寝返り家康も池田や森の動きに対応して伊勢戦線放棄せざるをえなくなって
がらあき状態になった所に棚ボタ的に奪っただけ。
秀吉の戦略は一巻して家康打倒なので戦略目的は全く達成されてない
あと家康が人質を出したなんて根拠はない。秀吉は人質などといってフカしているが、信雄→佐々書状では於義井を人質としては扱っていないと書いてる
天正13年も秀吉方家康方はかなりの緊張関係にあり秀吉は天正13年12月頃まで真田木曽上杉などにあてて家康討伐計画を着々とすすめていると書いていて来春には決戦すると書いてるが
直前になって信雄を取り成しの使者として派遣した上に母と妹を人質に差し出しておりいかに家康にびびってたかわかる(ちなみに家康領国は天正11年からの徳政連発と
木曽小笠原真田石川水野など譜代衆の離反により軍事機密露見、また13倍ほどの国力差がついており
普通なら一週間で一ひねりできる圧倒的優位な状況で上記のように出兵計画進めていたにもかかわらずいざとなったらビビリまくって信雄に必至に取り成し頼んだり母や妹まで送り込んで
必至に懐柔しなきゃいけない醜態っぷり)
和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる。完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。 秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ。家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
896人間七七四年:2014/01/16(木) 14:48:26.09 ID:22F+Il/J
>>家康は人質提出でも、養子だよ!とかいい訳
翌年も家康は全く秀吉に屈服どころか、お互いにらみ合って秀吉は会戦準備まで進めてたし
家康は家康で北条との関係強化やら、諸城普請など戦争の準備やってるのに、上下関係、臣従関係は全く生じてないんだから
人質なわけねーだろクズ、
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。

>>天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わった
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。

>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
897人間七七四年:2014/01/16(木) 14:50:35.57 ID:F+a7/j0I
>>天正12年戦役でも秀吉に圧倒されヤバくなった家康は、
全く圧倒されてないしヤバくなってない。
むしろ秀吉方のは135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
>>秀吉にビビって清洲城で引き篭もったまま動けず
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。
>>信雄への援軍すら出せずに見捨て
小牧山城やその周辺拠点には秀吉方の兵力2万以上いたから、秋時点で8000程度しかいなかった信雄・家康勢ではどうしようもない(家忠日記や当代記で
8月時点で家康はただでさえ少ない兵力の半分を領国に帰してるのがわかる)
しかもそんなわずかな兵力にもかかわらず6月には前田・下市場7月には蟹江・浜田を奪回し11月に長久保城を奪回してるのが信雄。
雑魚の信雄でも秀吉よりは遥かに戦上手だったのがわかる。
>>秀吉から懇望があったからとか
織田信雄の書状によれば間逆で秀吉が懇望してきたが断ったといってる
また9/8秀吉→丹羽、前田  9/9秀吉→あて先不明
  信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった
などとデタラメをいつもの如くデッチあげているが、
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
等と、なぜか9月時点での懇望を断ったのに11月では容認という明らかにデッチ上げの内容を書き連ねてる。
池上裕子氏も、小牧長久手の講和は、秀吉の懇望によって行われたと書いてる。
秀吉の戦果報告は以下のようにデッチ上げがほとんどなので、人質と書いてるのは例の如く秀吉のハッタリ誇大喧伝と見るべき。
898人間七七四年:2014/01/16(木) 15:05:39.02 ID:F+a7/j0I
>>家康信雄連合は秀吉から雀の涙の如き一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的

信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし

秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
秀吉は実力じゃ全く信雄や家康に勝てないからって天正13年の夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流され、徳川方が大ダメージを負い
さらに家康の真田攻め、丸子合戦などで大敗したダメージや、譜代衆含めた領国での離反連鎖などに付け込んで
火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと着々と計画を練ってたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
上杉も木曽も真田も秋から出兵計画聞かされてて、いざ出陣と身構えてただろうけど、あまりの秀吉のヘタレっぷりに
あきれ果てたのは間違いない。
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
899人間七七四年:2014/01/16(木) 15:07:02.90 ID:22F+Il/J
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
戦国を代表する凡将織田信雄ごときに大敗を繰り返し1年かけてもまだ苦戦を続けていた秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で
抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる。そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく11/13秀吉→伊木、
池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている。そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっているこの時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の三河七か寺の還住を許可し動員を期待
している。また岡崎・当部城などの普請も初めている。秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
家康はおろか織田家で最も無能な信雄相手に135000で挑みかかって1万人ぶち殺され
戸木城・松ノ木城・河波城・東駒野城・二重掘砦では散々敗戦し
浜田城・長久保城・蟹江城・前田城・下市場城は秀吉方陣地のほど近くなのに見事に奪回されるアホっぷり。
雑魚すぎて涙が出てくるわw
結局会戦早々から三重臣、池田・森、尾張毛利氏はじめ離反の嵐だった信雄方に対して1年つかって自力では尾張半国すら切り取れないとかw
実際秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
900人間七七四年:2014/01/16(木) 15:07:08.47 ID:F+a7/j0I
>>秀吉に呼応する上杉の南下と秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
圧倒的大軍がありながら他勢力頼みなのが秀吉。自力では規格外の大軍がありながら雑魚国力の信雄・家康相手に勝てないのがわかる
>>無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
901人間七七四年:2014/01/16(木) 15:08:16.46 ID:gCNx9dew
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし
池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう
同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)
天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
902人間七七四年:2014/01/16(木) 15:13:42.95 ID:ELxAkU43
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)
6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。

最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。

秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
903人間七七四年:2014/01/16(木) 15:18:29.37 ID:TH0Pq/DE
>>秀吉側を見れば5/9の書状によれば秀吉は小牧の家康がぜんぜん出てこない
小牧山から出て池田勢を思いっきり撃破しただろうが。小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境 。それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したから
攻められなくなったのに家康が取り合わないって馬鹿妄想もいいところだな
>>無駄な対陣しても仕方ないので付け城を小牧に三箇所申し付け
4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってたのにこのタイミングで普請とか妄想乙
いかにこの書状が秀吉の垂れ流したハッタリ誇大喧伝ばかり載ってるかわかる文章だなw
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度の柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
秀吉は佐竹や毛利にデタラメばかり書いて必死に友軍離反をつなぎとめる事に必死だったのが「わかる」

>>軍を移動させ加賀野井城を落とし、奥城では信長舎弟の信照を捕虜にして落城させ
加賀野井城なんて尾張の隅っこにある300程度しか城兵がいない雑魚城。


小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
904人間七七四年:2014/01/16(木) 15:20:14.19 ID:TH0Pq/DE
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉

和議の前日に秀吉は馬を納めるつもりといってるし和議がなった時の書状でも馬を収めるつもりでいたら
信雄が種種懇望してきたと書いてる
完全に信雄がヘタレてラッキーで和議がなっただけ
11月10日秀吉→大井、土井 砦を数箇所構築したので納馬する予定である
11月11日秀吉→津田 砦以下を構築し、2、3日中に納馬予定でいた所、信雄より種種懇望があったので
講和について同心した。
11月13日秀吉→伊木、池田・荒尾書状
これって「秀吉の主観による信雄の心中予測」ってだけ
実際秀吉の予定とは全く別
ちなみに秀吉は10月28日にも丹羽宛書状で砦が出来次第、「大阪に」納馬する予定だと言っている
また浜田・桑名・長島・など圧倒的大軍に攻囲されながらなおも抗戦中
戸木も軍記では開城した事になってるが一次資料にはない
実際は苅田の応酬で領内荒らしまわった程度で大した戦果がないのが実態
んで福田氏も寝返るが結局長久保も奪回
ちなみに織田・徳川方は家康が領国に半分の兵を帰し1万足らずの兵力
どうみても苦戦しまくりでラッキーで和議が結べただけです
本当に(ry
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包・小島・榊原・岡本など地元諸将がこぞって羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
905人間七七四年:2014/01/16(木) 15:21:23.13 ID:ELxAkU43
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

尾張松ノ木・脇田近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で終盤になってから劣勢になりまくって裏切りが多く発生したわけではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。(家忠日記・当代記)
そんな圧倒的有利な状況&条件で長久手・蟹江・二重堀・戸木・松ノ木・長久保など各所で苦戦・敗戦を繰り返しまくって
尾張半国すら切り取れなかったのが秀吉
906人間七七四年:2014/01/16(木) 15:22:15.55 ID:4vvBr7Ri
秀吉・織田徳川方史料で各城郭攻防が激しく行われているのがわかる
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
          羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
秀吉→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じる
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12秀吉→八重羽・富田・津田 木造の城がいまだ落ちず小島と相談して砦を4つ設けるよう指示
田丸・榊原・小島に申し付けるよう指示したので相談するように指示
4/12秀吉→榊原・小島・田丸 木造の砦は2箇所は小島、一箇所は田丸、一回書は榊原が申し付けるよう指示
各自相談し城中の者を一人も逃さないよう普請を堅固に申し付ける事を指示
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが敵に数多手負い死人が出た
4/23信雄→吉村 今尾口へ秀吉方兵力が出撃してきた旨を了承 吉村へ必ず加勢を申し付ける旨を伝える
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
信雄→吉村 秀吉が其の表(松ノ木)出兵してきたため信雄より加勢を使わす事を約束。伊勢方面の事を申し付けるため
本日(5/3)信雄が小牧より長島へ帰った事を伝える
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/5 信雄→吉村 松ノ木の加勢と防衛について詳細に命じる
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
907人間七七四年:2014/01/16(木) 15:23:04.36 ID:22F+Il/J
3/25 大久保→皆川 3/17に濃州口との境目である羽黒において池田・森の守る出構を撃破した事を報じる
4/20 秀吉→上部 秀吉が在陣する尾張方面では、普請など堅固に申し付けている旨を報ずる
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
6/2信雄→吉村 松ノ木への玉薬を送付
6/7秀吉→前田 尾張河波を敵城を全て攻略する意思である旨を報じる
6/12信雄→寺西・橋本・吉村 敵(秀吉方)が松ノ木近辺に陣取った旨を了承
6/13信雄→橋本・寺西・吉村 秀吉方を撃退した旨を了承 其の城について油断なく注意するよう指示
6/13家康→信雄 昨晩秀吉方が松ノ木へ攻撃してきたが撃退した旨の注進に対して賞する
6/16信雄→橋本寺西吉村 秀吉方の様子に関する報告について了承 松ノ木についていろいろな点で注意するよう指示
6/20信雄→吉村 今尾へ秀吉方兵力が少々出てきたため松ノ木への加勢を要請を承諾しやがて遣わす事を報じる
6/20家忠日記 秀吉方楽田に向かい放火する
6/28家忠日記 楽田へ小牧衆(小牧城に在陣している家康方兵力)が物見に出かけ秀吉方と交戦した
7/7秀吉→小野木・大塩・津田・富田 神戸城の守備について滝川益重を派遣する事を報ずる
7/7秀吉→一柳 蟹江落城により、蟹江に対する秀吉方拠点として神戸城に秀吉から軍勢を派遣することを報ずる
7/7蜂須賀→南条元続 秀吉方諸将は尾濃境目の城に在陣している。数日中に秀吉が伊勢へ出兵する旨を伝える
7/9秀吉→分部 神戸方面へ敵(信雄方兵力)が出兵してきた旨を了承
安濃津・上野城に敵が出兵してきたら秀吉が出兵して討ち果たす事を伝える
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから
ちなみに尾張松ノ木近辺の諸将は会戦当初から去就が微妙で
終盤になってから劣勢になりまくって裏切り続出といった流れではない
3/16信雄→吉村 松ノ木近辺の者が羽柴方についたとの報に接し兵糧等の支給を約束
3/18秀吉→尾張石田の毛利広盛で毛利秀頼に同調して内応した事を賞賛
美濃でも去就が定かでなかった池田・森が羽柴方について信雄は留守同然だった犬山城に襲撃を食らう
伊勢でも神戸・関・信包など地元諸将は多く羽柴方についたため&池田らに対応するため徳川が尾張方面に転進したおかげで
楽に侵攻できただけ 家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除 3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政 家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしており 現に夏に半分兵を帰し一万足らずしかいなかった。
んで結局1年一杯使っても上記の城は攻略ならず。寝返りだらけでガタガタだった信雄領国を
8倍もの圧倒的大軍で攻め込んで結局尾張半分すら切り取れなかったのが秀吉
908人間七七四年:2014/01/16(木) 15:24:53.96 ID:5Ox7XHaU
7/10信雄→吉村 浜田城築城を申し付ける。出来次第長島へ帰城する旨を伝える
7/10信雄→吉村 尾張から伊勢まで南下して放火した
7/12家康→木造 戸木城への兵糧搬入が困難である。戸木城を堅固に守るよう指示
7/14秀吉→津田 浜田之古城を信雄方が攻略した旨を了承。信雄方にとって菅生砦へのつなぎの城になるだろう
との考えを示す。明日美濃へ行くので神戸城で大方申し付けたならば、神戸城の一柳・小野木は美濃の秀吉陣所
へ来るよう指示
7/15家忠日記 秀吉方兵力が物見に出てきて家康方と交戦した
7/17伊勢から帰った家康が在陣する清洲へ出仕。軍勢半分を返す
7/18信雄→吉村 秀吉が曽根に到着し松ノ木の吉村に調略を仕掛けてきた知らせを聞いた
7/28秀吉→小島・蒲生 戸木城からの講和に関して指示する
8/12秀吉→長浜町人中 鍬などを取り寄せ犬山に届けるよう指示
8/14信雄→吉村 近いうちに秀吉が出陣してくるようなので諸事油断せず松ノ木の普請と昼夜の番等を堅固に申し付けるべき事を指示
8/18秀吉→上杉・須田 明日19日に秀吉が木曽川を超え小牧まで出兵し付け城を申しつけ家康が逃れられないようにする、三河へ出兵すると報じる
8/19信雄→高木 駒野城への加勢について空明と太田の両名に申し付けたのでよく相談して落ち度がないように
8/25秀吉→長浜町人鍛治中 鍬をつくり完成させ、普請に利用する
8/26加藤→長浜鍛治中 鍬について10駄分命じられたので朱印状を持参した旨を伝える
9/1家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/5家忠日記 小牧より楽田を苅田するために行く
9/7家忠日記 秀吉との講和交渉決裂のため重吉へ惣人数を移す
9/9秀吉→あて先不明 尾張で秀吉方が放火し要害を数箇所申し付けた
9/16秀吉→前田 尾張国内で下奈良・宮後・河田へ砦3箇所堅固に申しつけ
過半が完成したので2.3日中に兵糧玉薬及び4千〜5千くらいの人数を入れる
9/19家康→滝川 戸木城が苦戦していると家康へ注進があり、いまだ本城を堅固に守備しているならば
家康が急ぎ出陣する予定なので戸木城の様子をよく聞き届け再度滝川雄利からたまわりたい旨を伝える
9/23信雄→保田 秀吉より講和に関して懇望があったが拒絶した旨を報じる
10/27秀吉→上部 虎落に用いる竹を調達する
11/10 信雄・家康→吉村 長久保攻略を賞する
909人間七七四年:2014/01/16(木) 15:27:12.08 ID:5Ox7XHaU
>>潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww
>>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
>>家康を倒すことが主目標ではない
お前は>>481-487のまともによめねー馬鹿だな
>> 家康は局地戦で戦術的勝利、
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない
なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで
秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛
と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw
秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw
>>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし
伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉

>>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり
割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ
>>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので
>>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら
時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)
910人間七七四年:2014/01/16(木) 15:27:36.19 ID:4vvBr7Ri
>>秀吉の圧倒的優勢化で、家康や信雄は引き篭もってひたすら佐竹に牽制されてる北条が援軍出すとかデタラメを吐き続けて
家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
>>毛利と宇喜多を無視して長宗我部が秀吉の背後を襲うように依頼を続けると言う現実逃避っぷりの情けなさで、
圧倒的大軍がありながらわずか7分の1程度兵力で柵もめぐらされていない無防備な徳川陣を攻めきれず
上杉や毛利宇喜多に必死に援軍要請しまくって佐竹毛利その他大名宛に基地外ハッタリ誇大喧伝書くまくったんだから
いかに秀吉がボロクズレベルの雑魚で追い込まれていたか「わかる」
1万も戦死したのに諸大名あてに大したことないだのほんのさわりにもならないだの必死に言いつくろって過小喧伝
してたからいかに必死で政略的誇大喧伝か「わかる」
>>戦略的に戦況が好転するなんて展望は一切見出せないまま
135000の大軍相手にわずか1万7千そこそこで優勢になるわけねーだろボケw

854 : 人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/03(金) 11:54:38.37 ID:WE1dyRQD [2/3回]
>>秀吉に呼応する上杉の南下と秀吉得意の調略で家康方だった信濃諸将の離反と
圧倒的大軍がありながら他勢力頼みなのが秀吉。自力では規格外の大軍がありながら雑魚国力の信雄・家康相手に勝てないのがわかる
>>無理な動員で荒廃しまくった三河と言う
徳川・信雄領国なんて会戦勃発当初や其の前から徳政連発してるほど困窮している
家康は3/1松平親宅に蔵役・酒役免除
3/3徳川家康定書 で三・遠両国で徳政
家忠日記3/4で三河・遠州徳政入、
信雄も3/17 尾張聖徳寺および寺内町の年貢諸役免除、違乱煩いを停止
3/25家康→尾張熱田の加藤景延らに信雄の了承の上で徳政免除を認めると
圧倒的不利な状況の下での会戦をしておりまた上杉景勝の天正11年・12年と続けての川中島席巻と
中信濃方面への南下と、北条氏政が家康領国に留守中乱入するとの報に触れ大半の兵力は徳川の領国内の要衝の城に配され
尾張方面にはわずか8000程しか連れておらず、現に四天王と石川・大須賀くらいしか有力武将の活躍は各資料でも見られない。
さらに夏に半分兵を帰している。家忠日記・当代記)
当初去就が不明だった美濃の池田・森や神戸関毛利田丸信包など尾張・伊勢の諸将が味方についたおかげで家康は尾張に転進せざるをえなくなり
不意うち的に尾張楽田に上陸成功・南伊勢も無人になって居留守泥棒同然に奪ったのに
羽黒で負け長久手で1万人戦死の歴史的大敗、その後蟹江で負け松ノ木で負け戸木で負け長久保で負け
二重堀で負け河波で負け東駒野で負け1年一杯使って7〜8倍の圧倒的兵力差で
基盤ガタガタで寝返りばかりの信雄領国のうち尾張半国すら切り取れずお手上げ状態で手も足も出ず
諦めて大阪に納馬予定だったのが、たまたま信雄のヘタレ和睦に助けられただけなのが秀吉
911人間七七四年:2014/01/16(木) 15:30:08.85 ID:22F+Il/J
それで敗戦まみれだった秀吉が天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
912人間七七四年:2014/01/16(木) 15:31:07.97 ID:22F+Il/J
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ。
秀康が家康に嫌われていたというのは秀康の記録として信憑性高いといわれてる秀康年譜にあるな
家康は当初秀康を自分の子と認めず秀康の念願でなんとか家康との面談がかなったと書かれている
関が原にしても優秀とされながら凡庸と一般的に言われ真田の用兵にまんまと翻弄された秀忠の方を上方への派遣部隊としているし
諏訪から武田へ復帰し家を継いだ勝頼と違い秀康は結城からの復帰も認められずそのまま秀忠に嫡流を奪われ、小牧長久手時の和睦も家康側から差し出したのは
秀忠を疎んじていた証拠といえる
上記のように家康への討伐計画を進めておきながらいざとなるとビビリまくって信雄を家康の元に送って決戦を避けているのが実情
顕如日記1/24で織田信雄が三河に向かい調停をはかっている。さらに5月朝日姫の家康の元への輿入れが実現し
10月大政所が三河の岡崎に送られてくる有様。このように三河遠州駿河甲斐南信濃3郡で100万石いくかいかないかの家康(徳政連発と
譜代離反と軍事機密露見と天正大地震の影響で領国は崩壊状態)に対して
機内全域+上杉毛利佐竹木曽小笠原真田石川水野大友蘆名十河河野など1200万石くらいあるであろう圧倒的優位な状況でありながら
軍事的には手も足もでず出したら大損害蒙りビビリまくって徳川の焼け太り状態を作り豊臣滅亡の主要因を作ったのが秀吉
913人間七七四年:2014/01/16(木) 15:46:45.45 ID:22F+Il/J
秀吉80000の後詰は本多500に行軍妨害されてほうほうの体で楽田に戻ったからね
しかも一柳宛書状から秀吉は大分早く家康方の動き察知してたけどすぐに軍送らずにまんまと家康を逃がしたんだから100%秀吉の責任としかいいようがない
普通に考えりゃ秀次軍の後ろに警戒用の兵2万くらいつけて家康軍に備えてりゃよかっただけでしょ
敵地の中では迅速かつ隠密に行動するのが鉄則で、城攻めを行ったり砦を築きながらゆっくり行軍するなら
それに備えた陣構えで望むくらい普通の指揮官ならするわな
最も気づかれやすい方法で、最も襲撃かけられやすい遅い行軍でもって、家康はそれでも中々気付かず、秀吉方は逆に家康の動きをすぐ察知したのに
軍をろくに迅速に機動・展開せず、展開したら本多500に蹴散らされ、結局本戦で大敗した秀吉は戦下手どうこうといったレベルではなく、無能といっていいレベル
なんでもかんでも都合悪い事は部下になすりつけようとする秀吉厨は秀吉並のクズだな
わずか10町ほどの眼前にいる敵に対して行った軍事行動が秀吉の責任じゃないなら
逆に他の戦の功責なんて全て部下のおかげで秀吉の功責じゃなくなるな
100%秀吉の作戦が稚拙すぎたから負けただけだろうが

堀秀政が榊原隊を破ったというのは明らかに豊臣方の捏造。
同時代史料にはそんな記述全くないどころか三河物語や本多藤四郎覚書だと
堀鉄砲隊で一時榊原隊は崩れたが、その後反撃して切り崩し堀隊は敗走したと書いてる
つうか堀が榊原を破ってたら池田や森隊と秀次敗残兵を含めて家康・井伊隊を蹴散らせるくらいの兵力には十分なるはず
確かに堀が大敗したからこそ池田や森は単体で戦う事になり、大敗して三人とも戦死したんだろう。
堀隊は白山林で急襲を受け瓦解した秀次軍と池田・森らとの間にいたはず。
それでもって榊原勢と衝突して勝利したならば池田や森隊と秀次敗残兵で家康・井伊隊を敗走させられる兵力には十分なるはず
それがなぜか楽田の方にいつの間にか敗走してるのは、榊原隊に負けたからに他ならないだろ
現に堀が榊原に勝ったと書いてるのは秀吉側の家譜・家記や軍記ばかりで同時代史料の三河物語や水野藤四郎覚書だと
堀鉄砲隊で一時榊原隊は崩れたが、その後反撃して切り崩し堀隊は敗走したと書いてる
徳川軍8000の中で小幡方面に出兵したのは史料から井伊・家康・榊原の三人のみで 石川・本多・酒井らは小牧在城。
これに信雄勢が加わってもせいぜい8000〜11000くらいだろ(信雄も小牧山とその周辺の拠点に幾分かは兵残す必要があるし)
楽田→龍泉寺・篠木・柏井・大草方面に向かったのは秀吉の書状から24000であり、しかもこれとは他に山内、矢部、一柳などが留守居用として派遣されてる。
榊原隊が本当に堀勢に蹴散らされてたら家康・井伊隊は池田や森と戦うどころじゃないだろ
堀は長谷川とも軍を一緒に部隊を編成してるのが史料からわかるし別働隊の中でも池田・森・堀・長谷川と井伊・家康軍のみでは勝負にもならないはずで、
家康と井伊隊は一目散に逃亡してなきゃおかしい
914人間七七四年:2014/01/16(木) 15:48:43.83 ID:22F+Il/J
葦名、佐竹>田村>伊達>相馬、白川、最上>石川、二階堂>猪苗代>大崎、葛西>>>>>>>>秀吉

織田家中でいえば
柴田、滝川、明智>佐々>佐久間、丹羽、細川、森(父)、蜂谷、稲葉>原田、川尻、日根野、金森、前田、池田
>>>>>>>>>>>秀吉
こんなもん

長久手の戦いは単なる局地戦ではなく天下を揺るがす大事件だったのは
戦いの後京で数日間騒乱が起きた事や丹波の赤井氏など国人が蜂起している事
それまで短期決戦一辺倒だった秀吉が一転して楽田周辺の施設を堅固に普請させ
長期戦の構えをさせてる事からも一目瞭然
池田親子に加え、ねねの親類の木下兄弟・森長可他1万人戦死

結局あの戦いの後も木造、奥、松の木、蟹江など各城郭で苦戦、敗戦して
結局84年一杯使いながら兵力比7倍で尾張口すら突破できないとか
弱いにもほどがある
しかも相手は家康ではなく織田家で最も無能かつ権力もクソ弱い信雄とその領国
ちなみに捏造でいえば信長や秀吉の方が遥に酷い。
83年に滝川が降ってない時期にもう城を明け渡したと嘘ついたり
84年に伊勢南半分すら完全には平定してないのに伊賀伊勢全て平定したと言ったり
紀州の敵勢が攻めて撃退しただけなのにもう既に国内に攻め込んで多数討ち取って平定目前だと言ったり
尾張の小幡城にノータッチなのに2の丸まで攻め落としたと言ったり奴のいう戦果は滅茶苦茶
秀吉が外様大名系にいう戦果ははじめから嘘っぱちと疑ってかかった方がいい。

徳川が捏造したなどとアホみたいな妄想を毎回語る馬鹿は消えろ
長篠の戦いも本当は武田圧勝だったけど徳川が捏造して織田徳川圧勝だったとかそういう話でもするか?
915人間七七四年:2014/01/16(木) 15:50:59.16 ID:VvApiVaQ
秀吉って鉄砲の名産地長浜を根拠とし、その後も富裕地を領国としてるから
経済基盤でいえばかなりのものだし装備も当然充実させられるのに
こんなに雑魚なのは本人の指揮能力がクソレベルなんだろうな
秀吉が全軍で小牧山を攻めていたら織田信雄に大敗していたのは間違いない。
何せ信雄家臣の木造や吉村などにぼこぼこにやられた史実があるんだしな
しまいには小田原、韮山、山中、忍、松ノ木、太田など大敗や大損害を重ね、天下失った凡将w
犬山から小牧山にかけての羽黒、楽田、小口、楽田、青塚、岩崎山、内窪、小松寺山、田中、二重堀(最期の二つは小牧山城から真東)
これだけ秀吉方の拠点がずらっと並んでて要害として拵えられ、陣取りした前方には
芝のついた土手を築いて柵を付けている。そこに秀吉方が陣取っていて龍泉寺
にも根城をこしらえ、柏井、大草にも堅固に普請を申し付けられてる。
家康から見れば東、北は秀吉方拠点が並んでて包囲されてるみたいなもの。
中入り作戦なんてしなくても北と東から力づくで押し込める
あと秀吉は中入り軍を追撃していく軍の動きを把握していた事は明らかだが
ここですぐに軍を動かさずもたもたしてたから負けただけ。これは柏井にいる一柳直末にあてた書状から明らか。

単純に秀吉が雑魚すぎるだけだと思う
野戦するからにはある程度なんらかの傾斜物を超えなくてはならないのは自明の論理で、
あの場所は川とか沼地とか崖や山などに比べたら遥かに決戦しやすい上にその辺りが突破しずらいなら
戦場の変更とか転進とか兵力6倍以上ならいくらでもうつ手あるわけで。
中入り勢増やすもよし、西方面迂回するもよし。砦を一つ一つ兵力に物言わせて攻め取るもよし
支配力の弱い信濃や信雄の本拠の伊勢を荒らすもよし。結局何一つ有効な手打てないまま
だらだら対陣するしかなかった秀吉は弱すぎる

あのあとだらだらと木曽川筋の城を 攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、
南伊勢でも反撃くらい 加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
当時を記した日記などや合戦参加者が書いた合戦記などの記録類によると
夏も春も砦間の小競り合い自体はあったため、ただ単純に手出し云々というより
秀吉が弱すぎて攻められなかっただけだと思われる
7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
それを秀吉のアホ作戦で台無しにして奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのにそれをさせないあたり軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
織田家で最も無能な上に重臣の謀反&粛清等があり、権力基盤弱い織田信雄の領土相手にこの醜態ってw
916人間七七四年:2014/01/16(木) 15:52:43.61 ID:VvApiVaQ
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
しかも柏井にいる一柳宛書状から秀吉は家康の動き把握してたのに

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ

あんだけ兵力差ありながら晩秋まで一進一退続いてるからな
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
つうか尾張口突破がそんな困難なら権力基盤弱い伊勢攻めるか
間接的統治を行うだけで支配力が弱く、木曽が寝返り、翌年に真田、小笠原が寝返るなど
不安定な支配の信濃を上杉とともに攻めりゃいいだけだろ
だらだら尾張口や木曽川筋で対陣続けて晩秋になるまで突破口見出せん秀吉は馬鹿すぎる
中入り勢は突出などしとらん
秀吉の命令通り動いただけ
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるし
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな

敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
917人間七七四年:2014/01/16(木) 15:53:15.02 ID:ELxAkU43
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
>>51
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。

長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ

よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。
どこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい
時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が経済的に圧倒的なものをもってるから
なせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
918人間七七四年:2014/01/16(木) 15:54:42.48 ID:ELxAkU43
正直大将が秀吉じゃ誰が別働隊でも勝てないと思う。
秀吉の、宇喜多家臣長船、木曽義昌、あて先不明の三通の書状から
遅くとも敗戦翌々日の11日には秀長や蒲生など伊勢方面の攻略にあたっていた軍勢が到着した事がわかる
織田厨はわずか20町ほどの距離の敵に対してとった戦術を秀吉のせいとは考えず
池田森秀次に押し付ける馬鹿 そんなら秀吉が総大将として戦った戦なんて戦場から
ある程度はなれた場所にいたのがほとんどだから秀吉の手柄といえる戦なんて存在しないっつーの。

秀次の補佐役の木下兄弟も戦死し堀・長谷川は一旦的を退けたものの結果として味方見捨てて退却
池田・森はずっと南に移動し岩崎城陥落させていたが秀吉が丹羽、あるいは敗戦後の木曽や長船、その他あて先不明の書状に書いた内容だと
これらの行動を賞賛している。これは決して秀吉の命を無視した行軍ではなく完全に秀吉の命通りという事だ。
別働隊の暴走ではなく完全にその命を発した秀吉の戦術的敗北とわかる
秀吉が奇襲をやすやすと許してしまうような戦術を立ててしまったのがすべての要因
兵力差6倍を生かし、小牧山周辺砦を陥落させるかあるいは龍泉寺方面の中入り部隊を増やし
家康の動きにそなえる部隊を置きつつ家康方の後方拠点を落とし、三河からの連絡を分断・孤立させる策にするか
それも無理ならそもそも尾張口を無理に突破する必要もなく、基盤の弱い伊勢でも支配の弱い信濃でもどこでもいい

結局11月になるまでだらだら戦い続いてるしな
木曽川筋のわずかな城を落としただけで
南伊勢でも反撃くらい滝川が作ったチャンスも無駄にして
権力基盤が弱い信雄領国を荒らしまわってたら信雄がびびって降伏しただけだし
919人間七七四年:2014/01/16(木) 15:55:36.27 ID:ELxAkU43
黒田官べえはきてる。3月上旬の秀吉の書状で中国にいる黒田よし孝を紀州の岸和田に移す旨を述べ、
三月下旬まで岸和田在番しててその後尾張に向かった。
三月下旬に黒田長政宛書状でそこにいる軍勢を尾張口に派遣するよう言ってる。
合戦時の陣立書にもはっきり名前がある
秀長、蒲生氏郷も遅くとも敗戦翌々日の4月11日には秀吉の陣所に着陣してる
(4月11日の秀吉の三通の書状でわかるし黒田、蒲生、秀長は陣立書にも名がある)

松ヶ島は4月7日時点で落城しており、その時留守居の富田と八重羽残して
攻略に当たっていた他の武将は秀吉陣に来るよう指示されてる

伊勢攻撃組のうち蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、甲賀州は敗戦前に来てる。
堀と長谷川は中入り組。
(戦死した池田親子、森の名がある敗戦以前に作成された陣立書のメンバーに入ってる)

3月の伊勢での攻防の時に関等地元勢に加え蒲生、長谷川、堀、日根野兄弟、筒井滝川、多賀、
池田景雄、山崎、浅野、一柳が配され、美濃口には秀次、秀長、秀勝、細川、加藤、堀尾、木村。
この段階では備前、美作、因幡の軍勢はそのままにされてるが3月26日に黒田長政宛書状で
「備前の衆(中国で領土の折衝に当たっていた諸将)をこちらへ来させる」と伝えているし
その他美濃、伊勢、甲賀等全ての諸将を集めている事が秀吉の書状から確認できる。
丹羽長重も派遣されてる。
信雄領伊勢方面の軍勢も尾張口に集められてる
北伊勢には羽柴方が滝川、岡本、津田、富田、八重羽、小島、田丸、榊原を残して信雄も
それに合わせ多く兵残してる。秀吉方は
秀長、筒井順慶、蒲生、日根野兄弟、山崎、池田景雄, 細川、多賀、浅野、加藤光やす、木村、
蜂須賀正勝、黒田孝高、前野長やす、赤松、明石、生駒、稲葉一鉄、 神子田、高山、中川、
長浜衆、木下一元、徳永、小川、高畠、毛利秀頼、牧村、松下 滝川益重、
蜂屋五郎介、柘植、池田和正、川尻、蜂屋頼隆、金森、丹羽長重、氏家行広、甲賀衆、
越中衆、伊藤祐時、加藤清正、加藤よし明、竹中重門、糟屋、佐久間、福島、

長久手方面進軍者を除きこれだけ主力武将を楽田あるいはその付近に結集させてる。
長久手方面進軍者は秀次、堀、長谷川、池田、森の他に、一柳、生駒吉一、矢部、山内
彼らが柏井の屋敷に在番してる。中国地方の兵も呼び寄せられてる
920人間七七四年:2014/01/16(木) 16:17:40.46 ID:5Ox7XHaU
豊臣軍135000が、織田家で最も無能な信雄22000相手に敗走、大苦戦。
戦国最弱の豊臣軍。
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後
すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに軍事的才能がなさすぎる
秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
六倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ
わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒した
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな
秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな

秀吉のアホ作戦で奇襲を許した。
白山林で秀次が奇襲受けた時池田勢はずっと南方の岩崎城を攻めるというかなり縦長の陣容だったが
この時秀次勢に後続させて龍戦寺で二万程家康方に対する抑えを小幡方面に向けて置いてれば
こんな自体にはならなかった。秀吉は中入り勢に楽田〜龍泉寺に至るまで砦・拠点を堅固に普請させたり
途中の家康方拠点を攻撃させながらの隠密とは程遠い堂々とした行軍を無謀にもさせた。
奇襲許してしまったのもすべては秀吉のせい。
921人間七七四年:2014/01/16(木) 16:19:07.55 ID:5Ox7XHaU
柏井にいる一柳宛書状に『小牧を出た軍勢が小幡に到着したら知らせるように』と書いてるから
一応家康軍の小牧山からの移動は把握していたと思われる
しかし秀吉が動き出すのは長久手での敗報を聞いた後

すぐ軍ださなかったorのろのろ山道を行軍させて間に合わずむざむざ家康を逃がした
正午の池田勢の敗報を受け取ってから平地部分を動いてるから竜泉寺にさっさとついてるから
朝に動けば絶対間に合ったのに
軍事的才能がなさすぎる
敵地の中で無謀な行軍を中途半端にさせたのが馬鹿としかいいようがない。
池田・森が味方についたわかげで木曽川ライン超えられ、家康は伊勢方面から
尾張に転進せざるを得なくなり、伊勢南半分を蹂躙できたのに、緒戦で負け、本戦で6倍以上の兵力差がありながら
相手の5倍もの被害出す大敗を喫し池田森木下兄弟が死に、本多500に20000で足どめくらいそのあとだらだらと木曽川筋の城を
攻めるばかりで、戸木城でも負け松ヶ島城で手こずり、南伊勢でも反撃くらい
加賀の井城も正攻法で瞬殺できず滝川が作った大チャンスも無駄にし
夏の対陣でもこれまで以上の兵力差がありながら手も足もだせず、結局 晩秋に信雄の本拠地近くを
荒らしまわったら信雄がびびって降伏したから勝てただけ
922人間七七四年:2014/01/16(木) 16:20:10.96 ID:5Ox7XHaU
池田や森が秀吉方に付かなかったら秀吉は木曽川ライン超えることも叶わず一生伊勢筋の小城郭で苦戦して
信雄は秀吉方に史実以上の大打撃を与えていたのは間違いない
何せ史実では伊勢方面に大軍で出兵してきた秀吉に対応するため、家康・信雄とも総軍伊勢口に兵力集中させててら
味方につくと思ってた池田・森が秀吉方について居留守泥棒的に犬山・楽田方面への上陸成功(北尾張の佐久間正勝らは総じて
伊勢に出兵しており尾張は留守状態だった)この流れで伊勢方面の諸将に加えて信濃の木曽・尾張の石田毛利氏・毛利秀頼・松ノ木近辺の諸将と
秀吉方に寝返りがあいついで圧倒的勢いで信雄を圧倒すると思ったら小牧長久手で1万人戦死の大敗・その後も
松ノ木・蟹江・二重堀・戸木・河波・浜田・東駒野・長久保・神戸と各城郭で敗戦を重ね、135000の規格外の大軍で
わずか16000〜7000の家康信雄領国をろくに切り取ることもできず、諦めて大阪に納馬しようと思ってたら本願寺顕如に必至に信雄への取り成し依頼してたのが
実って信雄がヘタレ和睦に応じただけだしな。そもそもこの和睦時点では信雄は人質なんて出してないし単に顕如使って必至に土下座してきた秀吉を
かわいそうに思って和議に応じてやっただけだし

池田や森らが当初の予想に反して秀吉に付いたため家康方が伊勢方面から尾張方面に転進して伊勢ががらあきになって秀吉方優勢になっただけ
家康方は3/7陣ぶれ3/8岡崎から矢作川3/13津島3/14伊勢の桑名と移動し信雄は桑名に出陣していた水野に3/13になると
その先の戦場として想定される伊勢神戸へ出陣要請している。之に加え、佐久間・中川ら重臣も桑名方面に出陣
特に中川は美濃尾張国境の犬山城主であり、この事は織田・徳川全軍が、桑名近辺に集結したことを意味する。
ところが3/13信雄方が味方と信じていた池田森に一日でがらあきになった犬山を攻略された事に対応して徳川は伊勢戦線から離脱し尾張へ向かう

同日伊勢安野津の織田信包も秀吉方になり、南伊勢は信雄から秀吉へ寝返った神戸・関・田丸ら国人連中らも含めて秀吉方の独壇場となる
あと秀吉が「信雄への寝返りを気にして三河方面への別働隊に組み込んだ」なんて妄想はしらん
秀次や長谷川・堀・木下兄弟など信頼に足るべき連中らとともにきわめて重要な敵地への行動させてる時点で秀吉が池田・森らを信じていないとする根拠なんぞない
特に秀次は秀吉の数少ない一門衆で後継者候補。木下兄弟も秀吉に非常に近く堀や長谷川も本能寺後一貫して行動をともにし、もはや譜代といっていい連中
大して信雄家臣の吉村高木毛利滝川雄利なんてなじみのないもいい所の外様家臣
吉村なんて信雄に付き従ったのがつい去年だしな
そんな信雄の領国状況無視して秀吉が味方の寝返り気にしてどうこうとか完全に妄言もいい所
信雄が家康の離反気にして小牧山から思うように行動できなかったとか
家康が石川の離反気にして思うように命令できなかったとかいってるのと同じ(石川はこの頃から秀吉に通じだしてると三河物語にあるし水野も翌年秀吉に寝返っている)

天正12年3/12秀吉→関一政で信雄方の林与五郎が亀山城へ攻撃してきたが防戦した事を了承
さらに3/13秀吉→丹羽で小島・関は味方になったと書いてる
3/15にも秀吉→関や3/17秀吉→田丸で峰城攻防での奮戦を賞賛されたり松ヶ島攻防での指示を事細かにしている
つうかそもそも信雄三重臣ですら秀吉に篭絡されてたしそいつらを信雄が粛清した事でボロボロ連鎖的に秀吉方に寝返りが続いてる
岡本良勝も秀吉方だし小島はその後秀吉から直接木造攻めの指示を事細かに出されている
923人間七七四年:2014/01/16(木) 16:20:56.87 ID:gCNx9dew
実際は秀吉与党の津川氏の松ヶ島城を3月初旬に信雄方に奪回され関・田丸・岡本・津川・津田・信包・富田・榊原・
八重羽・小島など地元諸侯がなだれをうって秀吉方に付いた上に池田・森の北尾張急襲を受けた徳川軍の尾張転進の
隙をついて居留守泥棒的に奪っただけ。
松ヶ島も3月時点では落ちてないし戸木城浜田城桑名城としっかり残っており、秀吉方は地元諸侯がこぞって
味方についた南伊勢を火事場ドロしただけ
秀吉は3月に伊賀にいたなんて史料はないし3/11秀吉→黒田・蜂須賀で本日坂本に到着したのがわかる他、その後3/21に
美濃の池尻に到着(3/20秀吉→池田書状)その後24日に岐阜到着(3/24秀吉→生駒)27日に鵜沼(3/26秀吉→黒田長政)29日に
木曽川を超え尾張国楽田に着陣(3/29秀吉→木曽) と非常に遅い速度で進軍。ちなみに犬山城を落したのは池田・森(3/26秀吉→佐竹)
しかも城主の中川が伊勢方面に出兵してた留守を狙って泥棒しただけ(3/26秀吉→佐竹)

6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるしそこからスタートと考えればかなり善戦した方だろ。
924人間七七四年:2014/01/16(木) 16:22:39.32 ID:ELxAkU43
>>引きこもり続けた家康

家康や信雄が引きこもってるとか秀吉書状のデタラメハッタリ誇大喧伝だな。史実では家康は小牧山→清洲→蟹江合戦などでまくってるし
信雄も小牧山→清洲→長島など動いてるし逆に引きこもってたとしたらその周辺の城郭(浜田松ノ木戸木蟹江二重堀長久保東駒野など)全く落とせず撃退されてる秀吉は雑魚にも程がある
兵力差7〜8倍程度なら雑魚武将相手でも流石にビビるわwしかも小牧山などに秀吉は2万以上留守居部隊置いて
家康がなかなか動けないようにした上で、家康が寡兵では到底後詰にこれない敵陣深い木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の城を
攻めて、家康から逃げ回ってる。その上、家康が秀吉のいた大垣から眼前にある秀吉方の蟹江・前田・下市場の、超重要拠点をわずかな兵で攻めてたら
ビビリまくって大垣から一目散に大阪までヘタレ敗走してる。いかに長久手合戦で自軍の8分の1にすぎない兵力にもかかわらず規格外の兵力を殺された
雑魚の信雄や家康にビビリまくってたかわかるな。

>>一方的に秀吉に押されまくって

秀吉方は135000もの規格外の大軍でもってわずか16000程度の雑魚信雄相手に短期決戦挑んで1万人殺された後
二重掘合戦でわずか1000程度の雑魚の信雄の奇襲にビビッて楽田から敗走した後、
戸木城、松ノ木城、東駒野城、河波城で敗戦(4月〜11月の間で戦闘が確認できるが信雄や家康からの奮戦に対する感状や勝利の報告ばかり
で結局落城せず)6月に前田・下市場、7月に浜田城、蟹江城、11月に長久保城など、いずれも秀吉から眼前にある城を
秀吉より遥かに少ない軍勢で攻め込まれて奪回されるアホっぷり。
結局、全く戦闘に勝てず手詰まりになった秀吉が11/4に顕如に土下座して取り成しを要請して
しかたねぇなと思った信雄が温情で講和に応じてくれたおかげでなんとか引き分けで終わっただけ
秀吉はさしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
925人間七七四年:2014/01/16(木) 18:17:40.84 ID:22F+Il/J
>>6/10秀吉→石川 これ偽書状で有名じゃん。秀吉が今日十日竹鼻で拝見って書き出しは、多聞院日記の城ヲ筑州へ請取云々
>>もしくは、 顕如日記の尾州竹鼻城、六月十日、筑州へウケトラレなどを読んで、秀吉が6/10に竹鼻城を落城させたと誤読して偽書状を作製した

誰がそんな事書いてるわけ?
時分の脳内設定には興味ないんで、論文か史料をあげてくれ。

>>三河物語の石川がすでに秀吉に心を寄せていたとする話は大久保が後からそうだったのだろうと穿った解釈をしてるだけ。
同上。大久保の回顧録に当たる三河物語が、適当だという論拠を出せ。
つかお前金が崎では三河物語を直接ソースに持ち出してただろうが。

>>尾張への 中入り戦略

この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
926人間七七四年:2014/01/16(木) 18:18:16.25 ID:4vvBr7Ri
 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
・滝川家臣でもない九鬼が滝川と一緒に行動してる
同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら九鬼と同時に九鬼が兵出すわけない
・秀吉は滝川の蟹江奪取に対して兵糧を搬入しようとしてる(顕如日記)
・滝川と秀吉は同盟関係ではなく、れっきとした主従関係。滝川の独断行動なんてできるわけがない。
・滝川の退城につき、秀吉は出兵日を7月から8月改めてる(滝川の行動が秀吉の戦略と無関係ならわざわざそんな必要は全くなく
無視して予定通り攻め込めばいいだけ。)
・蟹江は信雄と家康を分断できる丁度よい位置にあり伊勢方面に侵攻かける場合も尾張方面に侵攻かける場合にも超重要な拠点になる
蟹江や前田に秀吉が大軍で東西から後詰をすれば家康は逃げ道がなくなって殲滅されるのは目に見えてるし
それが無理でも大垣から眼前にある蟹江で2万くらい兵出せば余裕で蟹江の防衛と徳川方への大打撃は可能。
しかも今なら小牧山周辺の徳川方砦は徳川方が蟹江や前田を攻撃したことにより手薄ですっかすかな状態だから
そちらを攻めて落してもいい
・秀吉は滝川の行動当時6/16蟹江から眼前にある大垣にいた。その後もしばらく大垣におり、佐和山に移った後帰ってる
・史料読む限り秀吉の侵攻目標は一貫して三河・遠江方面なので、小牧山の家康を手薄にする意味でも
蟹江は超重要な拠点になる
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高
927人間七七四年:2014/01/16(木) 18:19:13.25 ID:gCNx9dew
6/10秀吉→石川
って三鬼清一郎氏の豊臣秀吉文書目録でもしっかり一次資料認定されてるんだが。
秀吉からすれば、貴重な血縁者の1人を家康に差し出す事になり、大損。
家康からいえば豊臣政権簒奪のチャンスの大義名分を得る事になり、大得。
朝日姫は、豊臣政権に忠義者である石田増田など近江組や福島加藤らの尾張組など
秀吉の子飼いに与える方が遥かに望ましい。
外様中の外様にやっても家を簒奪させる名分ができて、豊臣政権として危険なだけ。
その危険な政策をやらざるをえないほど追い込まれてたのが秀吉。

家康は娘が一杯いるけど、秀吉は娘0で血縁者も少ない
意味合いが全く違うわな

>>秀吉は滝川なんて知らんぷりで竹鼻城陥落の目処が立つと伊勢に陣替

長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
>>秀吉は6/8に墨俣で茶会

東駒野・戸木・松の木・二重堀・河波など砦みたいな小城郡を全く落とせず
苦戦しまくっていた雑魚秀吉お得意の中身のないパフォーマンスだろ。11月の時だって全く勝利の糸口がつかめず
諦めて大阪に納馬しようとしてたら信雄のヘタレ降伏に助けられただけだし
本願寺顕如に和睦斡旋してもらってやっと和睦にこぎつけただけだしそれなのに秀吉は9月に信雄が種種懇望してきたが断ってやったとか大嘘吐きまくってるし

秀吉自身は9/6付け書状などで戦勝まじかだと書いてるが大嘘で信雄のヘタレ降伏による
秀吉のウルトラスーパーラッキーパンチでの停戦(秀吉の勝利でもなんでもない)まで2か月も経ってるな。
大体戦利まじかなんて春頃からしょっちゅう秀吉の他大名宛の基地外歪曲誇大喧伝で使われるフレーズで秀吉方の実情を示したものからは程遠い。
しかも10月には家康も戦勝まじかと書いてるわけで何の根拠にもならない
戦勝まじかとか春頃から頻繁に出てくるような尾張や伊勢一国平均に候とかと一緒で秀吉お得意のハッタリで茶会も同様に苦戦を覆い隠すため
苦戦や敗戦を歪曲して 何もなかったように振舞っているだけのパフォーマンス
3月時点でも紀州に攻め込んだとか伊勢一国とったとか北国は景勝、東国は氏政まで従えたとかデタラメ書いてるのと同じ
928人間七七四年:2014/01/16(木) 18:20:18.73 ID:5Ox7XHaU
大垣から蟹江は間違いなく半日で行軍可能。 秀吉は近江の土山〜伊勢楠本(松坂市)をわずか1日
伊勢楠本〜同国神戸をわずか半日 神戸〜土山をわずか一日 坂本〜大坂もわずか1日の時間で行軍してる
大垣蟹江間はわずか20キロ程度で、当時の平均的な一日の行軍速度はおよそ50キロだから
半日あれば余裕で行軍可能。
蟹江合戦当時加賀野井城・竹鼻城・奥城と木曽川筋の3城は落城済みで邪魔な敵の拠点もないし
九鬼は秀吉方だから制海権もしっかり握ってる。
>>吉村氏吉の松ノ木城が邪魔
吉村のいたのは尾張海西郡の中で、今尾の地に隣接した現海津市近辺と考えられるが
滝川が使った西周りルートで行軍するか、あるいは稲沢市などを経由した東周りルートで行軍すればいいだけじゃん。
すでに松ノ木城近辺の諸侯は3月時点せ秀吉方についてるし祖父江氏も両毛利氏も秀吉方だし。
竹鼻〜稲沢市ルートなら途中邪魔な拠点もろくにないし。
蟹江合戦が滝川の単独行動というのは絶対にありえない。
長久手町史本文編の谷口氏はこの行動を信雄領国の敵地分断作戦で秀吉の作戦の一環
滝川が行動した当初秀吉は蟹江から半日ほどで行軍可能であろう大垣にいたと思われる
6月11日秀吉に同行してた小早川秀包書状 もうすぐ大垣に入る
6月16日秀吉⇒伏与六入 吉里・駒野に砦申し付た。近日馬を納める
この日滝川が蟹江・小口・下島・前田を奪い蟹江合戦勃発
6月18日信雄⇒吉村 今尾で敵が動いたら注進するように
6月20日信雄⇒吉村 今尾で敵が少々出てきた
6月21日家忠日記 筑前は馬を近江迄入れた
6月22日信雄⇒吉村 秀吉が佐和山に引き取った
三河物語 関白殿は今尾の城を水攻にさせ給う内に蟹江の城にて前田が別心之し
・滝川家臣でもない九鬼が滝川と一緒に行動してる
同盟者でも臣従関係でもないのに秀吉の意思がなかったら九鬼と同時に九鬼が兵出すわけない
・秀吉は滝川の蟹江奪取に対して兵糧を搬入しようとしてる(顕如日記)
・滝川と秀吉は同盟関係ではなく、れっきとした主従関係。滝川の独断行動なんてできるわけがない。
・滝川の退城につき、秀吉は出兵日を7月から8月改めてる(滝川の行動が秀吉の戦略と無関係ならわざわざそんな必要は全くなく
無視して予定通り攻め込めばいいだけ。)
・蟹江は信雄と家康を分断できる丁度よい位置にあり伊勢方面に侵攻かける場合も尾張方面に侵攻かける場合にも超重要な拠点になる
蟹江や前田に秀吉が大軍で東西から後詰をすれば家康は逃げ道がなくなって殲滅されるのは目に見えてるし
それが無理でも大垣から眼前にある蟹江で2万くらい兵出せば余裕で蟹江の防衛と徳川方への大打撃は可能。
しかも今なら小牧山周辺の徳川方砦は徳川方が蟹江や前田を攻撃したことにより手薄ですっかすかな状態だから
そちらを攻めて落してもいい
・秀吉は滝川の行動当時6/16蟹江から眼前にある大垣にいた。その後もしばらく大垣におり、佐和山に移った後帰ってる
・史料読む限り秀吉の侵攻目標は一貫して三河・遠江方面なので、小牧山の家康を手薄にする意味でも
蟹江は超重要な拠点になる
>>いやいや、すでに蟹江が落城寸前だったのは家康自らが出陣しての攻撃は6/21書状などでわかる。
家康がそういってるだけで実際に滝川が城を明渡したのは7月
これも単に秀吉が後詰寄越さないから単独で抗戦するのが無理だと思って明渡しただけの可能性が高い
929人間七七四年:2014/01/16(木) 18:21:12.22 ID:ELxAkU43
>>蟹江城を取り尾張への中入り戦略

この戦いは3月13日の丹羽宛書状で「酒の酔いを覚ますごとく半月程度で決着つけてやる」
3月22日渡辺清忠書状や23日桂書状で「家康が尾張境まで陣取ったので討ち果たされる由候て築州が美濃に陣替した」
「天下の弓膳一大事である」佐竹義重宛書状で清洲近辺まで押し詰めれば家康は出てくるだろうから
一戦におよび討ち果たすと述べ29日秀長書状で「家康打ち果たす事案の内に候」
敗戦前日の4月8日の丹羽宛書状に「家康さへ討果候へは」「家康を取巻、即時可討果候間」とあるように家康討伐のための
進軍でありまた「至参集表令手遣、可発向調儀間、九鬼右馬も船手にて彼の国へ差遣候」
とあるように家康本国へ陸海両面攻撃を想定した大掛かりなもの。龍泉寺に向かう途中での
柏井、大草の根城に山内一豊、生駒吉一、矢部家定、一柳直末を入れると記し、九鬼の水軍を
三河へ派遣し家康本国への陸海両面攻撃等の計画を細かく書いてて中入り作戦もその一貫である旨
を報じてる。北尾張に向けて出陣する時桂黄繁の書状では『徳川事、三介殿後見被仕候付被討果之由候
て尾州表へ陣替候』とあるし小早川秀包に同道してた渡邊清忠が『秀吉自ら北尾張の家康を攻撃する』
と記してる。長久手の敗戦後秀吉は木曽川筋の城を攻撃するが

この目的も『必家康後巻可仕儀にて候間、この口へ引き出、一戦に及び討ち果たす』(5月九日毛利輝元宛書状)
長岡越中宛5月11日書状 小牧表の人数が討ち入る時家康と一戦を遂げ討ち果たそうとした
『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛)と伝えている事から家康を小牧山からおびき
出して戦う事にあったと考えられる。5月2日の小早川隆景の書状でも『来秋』(太陰暦なので7〜9月の事)
軍事行動を行う予定であった事が書かれてる。6月四日佐竹義重宛書状 家康が小牧に陣を張ったので
時を移さず10町15町に陣を張り、一戦討ち果たそうとした。家康が木曽川の敵城の中に乗り入れた所に後詰に来たら
討ち果たしてやる
六月25日⇒木曾 来月15日諸国の軍勢を集い尾張の右方へ出兵する。そのとき其の表(木曾)へも援軍送ります
と一貫して家康への討伐意思の表明があり蟹江合戦も谷口氏や愛知県史資料編の位置づけどおり
秀吉の敵地分断・三河侵攻計画だとわかる
7月3日秀吉は『8月15日に「西国・北国」の兵力を総動員して
尾張、三河、遠江へ総攻撃かける』計画を報じている。この計画は七月上旬〜下旬にかけて各方面に書状で報じており
その後も三河への侵攻計画を表明している。8月中旬〜下旬にかけて再び北尾張に軍結集させ、この時は家康は帰国させてた
兵も多く今まで以上に兵力的に優位だったのに結局和議の話があがっている
(これは決裂になったが)秀吉が信雄と講和した11月13日にも家康に対しては秀吉の「存念」が深いため三河に攻撃をかけてた
とえ年内であっても「家康分国へ乱入、所々令放火、日比之可散無念心中候」と報じている。
一貫して秀吉は家康への総攻撃を表明している
 7月8日秀吉⇒東義久 7月8日秀吉⇒梶原政景 7月30日秀吉⇒下間頼廉 
日付不明秀吉⇒津田小八朗で 来月15日に西国北国の軍勢を総動員して三河遠州尾張に総攻撃かける計画を報じる
8月18日⇒上杉景勝、須田満親 家康が小牧にいるので明日木曽川を越えて小牧表へ押し詰め、付城を申し付け家康が退却できないようにする
三河表へ出兵する予定である
9月6日秀吉⇒安井定次 鉄砲薬五斥とどく旨を賞する
同日 ⇒いわ やかて開陳する予定であると報ずる
9月16日秀吉⇒前田利家 尾張の砦、下奈良に一つ、宮後・幸田三ヶ所普請丈夫に申し付け過半ができた。
二三日中に兵糧・玉薬以下4000か5000軍勢を入れ置く2526くらいには岐阜まで開陣する
11月13日秀吉⇒伊木 家康が信雄を引き入れ相届かぬ儀があったので三州表へ押し詰め
930人間七七四年:2014/01/16(木) 18:23:14.85 ID:GW6WypVE
吉村氏吉なんて3000貫そこそこの雑魚領主なのにそんなとこもさっさと落せない秀吉が悪いだけだろ。
兵力でいってもたかがしれてて無視できる規模でしかないんだし
留守居部隊6000〜8000くらい貼り付けて動けなくした上で
自分は竹鼻→加賀野井→稲沢市と東周りルートで大軍で滝川の後詰に向かい
蟹江を東西から包みこむように兵を展開すれば家康なんて簡単に瞬殺可能だろ。
それと同時に楽田に残してある留守居部隊に小牧山やその周辺の砦襲わせれば
その周囲は簡単に陥落するだろうし、秀吉軍は規格外の兵力があるから兵の3分の1くらいをそっちに割いてもいいし。
いくらでも戦略の幅はあるし、尾張での情勢を一気に変化できる大チャンスを滝川が作ったのにむざむざ無駄にして前田・下市場・蟹江3城を奪回され、
三河侵攻計画を延期して、神戸などに在番衆をおいて大坂にヘタレ敗走するアホっぷり。
無能すぎて涙が出てくるな。
加賀野井城から蟹江はわずか20キロ程度。
その間に目立った信雄方拠点はなく、吉村は勢力規模的に秀吉から無視できる距離
また、秀吉の奥城や加賀野井城攻略は全くといっていいほど危険を冒していないどころか、
家康を罠にはめようとしてるだけの攻略。

>>伊勢長島へ向けて木曽川の西岸を南下するのが本来の戦略

秀吉の戦略は一貫して三河・遠江方面への侵攻。これは>>808-809でわかる。

>>加賀野井城・竹鼻城・奥城へ援軍にこないで悔し涙で引き篭もりを続ける家康

小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
家康が蟹江・前田などを攻めてるんだから野戦決戦を行うにはこれとないチャンスじゃん。
蟹江方面に東西から侵攻すれば、家康は背後を絶たれて退却不可能になる。
信雄が出てきたら両者とも一度に叩き潰せばいいだけだし、蟹江や前田や下市場が顕在なら
信雄と家康は分断されてて、連携も困難。連携しても兵力差が規格外だから勝負にすらならない。
秀吉方の大浦城から至近距離にある奥・加賀野井・竹鼻攻めを「危険を冒した渡河での城攻め」などとは言わん。
進退の自由の効かないデルタ地帯での戦闘になれば100%危険なのは寡兵の徳川方だし
家康のいた清洲や小牧山からの方が遥かに距離は長いし、尾張北西部や美濃に領地のない家康は地理にも不案内。
だからこそ秀吉は『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わっただけだし。
徳川方は8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってたから
後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
20キロ程度の行程なら、途中で拠点や砦を堅固に普請させたり放火や苅田や城攻めを行いながらの行軍でも
2〜3日程度もあれば余裕で行軍可能。
4/6に楽田を出発してから、小幡城や岩崎城を攻めたりあたりを放火させたり
柏井や大草、龍泉寺山城などを根城にして堅固に普請させながらの行軍で、
4/9朝で岩崎城より大分南の地点まで行軍完了してる。
急行軍なら、4/9の正午頃に敗報に接してから楽田を進発した秀吉が、その日の夜にもならないうちに
小幡城近辺まで達したように、半日どころか4時間程度で行軍可能だと思われる。
931人間七七四年:2014/01/16(木) 18:25:44.12 ID:5Ox7XHaU
>>秀吉にとって自軍の城が周囲に全くない家康らの勢力圏内
秀吉方の大浦城から至近距離にある奥・加賀野井・竹鼻攻めを「危険を冒した渡河での城攻め」などとは言わん。
進退の自由の効かないデルタ地帯での戦闘になれば100%危険なのは寡兵の徳川方だし
家康のいた清洲や小牧山からの方が遥かに距離は長いし、尾張北西部や美濃に領地のない家康は地理にも不案内。
だからこそ秀吉は『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わっただけだし。
ついでに徳川方は小牧山周辺の砦に秀吉方留守居部隊2万人以上残された状態だから放っておいても動けない状態。
徳川方からすれば8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってたから
後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
>>さらにリスクある木曽川を背後に背負う背水の陣で加賀野井などを攻め
大浦城から加賀野井城は木曽川なんて超える必要のない位置であり眼前の距離
また、徳川方は遥かに遠い小牧山や清洲にいる上に、木曽川筋の後詰を行うとなれば
小牧山周辺の砦を放棄するも同じだから、ほとんど自殺行為。
>>城や砦をいちいち攻略して行くのは時間がかかるし、兵力の消耗
それは城や砦に巨大な兵力がいる時に限った話であり、加賀野井・竹鼻や松ノ木みたいな
数千貫そこそこの雑魚領主やよくて3000そこそこしかいない雑魚城を瞬殺する場合には話は別。
>>それをやれば年内に確実に長島へ着くことは可能であった
松ノ木城や戸木城みたいな雑魚領主や500そこそこの寡兵しか篭もってない所すらまともに攻撃しても落せてないのに
そんな妄想言われても。秀吉方は尾張国内で赤見・島東・奈良・小折・河波など派手に暴れまわっていたが
全くといっていいほど自力では切り取れていないじゃん。
会戦早々から伊勢でも尾張でも美濃でも離反の連鎖で信雄領国なんて崩壊状態だし
家康もただでさえ少ない兵力のうち半分を夏には領国に返すほど規格外の兵力差があったのにな。
>>一方、家康らには全く展望がなく、ひたすら引きこもりを続けるだけで何ら策がない。
信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
932人間七七四年:2014/01/16(木) 18:27:42.04 ID:4vvBr7Ri
>>家康が戦局打開するには野戦で勝つしか
家康が戦局打開なんて家康や信雄が秀吉より遥かに戦上手でも到底無理。
野戦になれば城攻め以上に兵力差がモロに出るし、武器性能差も直接的に影響するから
それこそ秀吉の指揮能力が信雄の1000分の1くらいの実力じゃなきゃ無理。
>>秀吉はそのチャンスを与えるリスクを取り
木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯での野戦になれば有利になるのは100%秀吉の方。
退路を絶たれて徳川方は全滅の危険すら出てくる。家康がいた小牧山やその周辺の砦には2万以上留守居部隊がいた上に
家康は尾張北西部や美濃に領地がなく、地理不案内だし。
>>一気に秀吉は勝敗をつけたがった。
それなら自分から小牧山やその周辺の砦に攻め込んで、直接対決を行えば済む話。
小幡・森山・比良あたりを落した上で、信雄方拠点の小折・宇多津・田楽・蟹清水・北外山などを一つ一つ兵力を集中して
葬っていけば、家康は周囲の拠点が全くない状態になっていき、自然と孤立して立ち枯れる。
それができずに、家康を小牧山周辺の砦に2万以上もの大量に兵力残して動けなくした上に、
家康が絶対出てくる事のできない木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所を
ダラダラ攻めて家康に100%勝てる状態で罠を張って待ち構えてたが、家康は「馬鹿か。そんなとこいかねーよ」
とばかりに無視してそのまま清洲や楽田に居座り続けたり、蟹江・前田・下市場など秀吉方拠点を逆に奪回してただけ。
>>ヘタレ家康は味方を見捨て続けるだけで
徳川方は8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってたから
後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
>>長島に至った秀吉に信雄は降伏
信雄はそもそも停戦しただけで降伏なんてしてねーよクズ
秀吉は天正12年11/4本願寺顕如に信雄・家康への取り成しを依頼し
これにまんまと信雄が乗ってしまったため北条の変心と上杉の川中島〜中信濃への出兵への備えのため
単体では8000しか対秀吉に動員できない家康は単独で抗戦する名文も兵力も失い和議にのらざるをえなくなる
そしてこのときの秀康に関しては秀吉の命令で人質に入った等という資料はなく
11/13秀吉→伊木、池田、荒尾11/15→津田、11/18→前田で家康側から実子を差し出してきたと書いている
そしてこれを秀吉は人質としていたが家忠日記や多聞院日記でも養子となっている
この時点で家康は秀吉に従ったわけでもなんでもなく
翌年は軍備をちゃくちゃくと進め北条との同盟関係強化・家中の人質徴収、本願寺派の中心寺院の
三河七か寺の還住を許可し動員を期待している。また岡崎・当部城などの普請も初めている
933人間七七四年:2014/01/16(木) 18:29:03.99 ID:GW6WypVE
秀吉側も天正14年初頭まで家康との対決姿勢を崩していない
兼見卿記1/28秀吉が家康との再戦のため出陣準備を始めた
天正13年11/19秀吉→真田昌幸 この上は人数を出し、家康を成敗するべく相極候、
秀吉の出馬の儀は当年無余日候間、其国(信濃)へも其方の申す次第に軍勢を入れ差し遣わす
11/20秀吉→一柳 来春の家康攻撃準備を命じ尾張星崎から三河の情報を収集するよう伝えている
ちなみにこの頃天正大地震の影響で徳川領国はめちゃめちゃになる(三河で大洪水が起きたりしている)
天正14年1/9秀吉→上杉景勝では去年申したように先勢を当月に差し遣わし2/10くらいに自身も出馬する
四国・西国の人数其の外兵糧以下の儀は船手を以って申し付けた。2月末・三月初めくらいに海上を自由にできる
其の方の人数は2月中旬くらいに信州へ人馬の足立申すべく候、信州・甲州・関東の儀は申すに及ばず
公事に抜かりないように。信濃へは其の方の人数だけでは足りないだろうから2・3万この方からも木曽口へ使わす
2/10くらいには尾張迄出馬する、などと事細かかに家康討伐計画と上杉の出馬要請を行っている
このように天正12年時点での和睦がそもそも臣従でも何でもないんだから人質でもなくただの和睦条件だったというだけ

天正12年の秀吉と家康は一時的に和睦停戦しただけで翌年も両者は冷戦状態が続いてて全く恭順関係にもないのに人質とか馬鹿か。
停戦の条件として秀康を養子に出しただけだし信雄も秀康を秀吉は人質としては扱っていないと言ってるし
>>20日には秀吉が佐野宗綱に家康が人質を提出したと報告しているので義伊が秀吉の元に到着したと思われる
戦死した池田遺臣にあてた天正12年11/13秀吉書状では家康が実子及びその重臣石川以下の人質を出す事を認め服従を願ってきたなどとデタラメをデッチあげているが、
近臣の小野木11/17書状で「家康、近日人質可被出之由候」と書き、この時点で家康の人質が来ていない事が露呈する。
戦国時代の人質を分析した上井有規子氏は養子や政略結婚で嫁いだ女性を人質と同一視してはならないと警告している。
彼と彼女らは同盟が破れた際にも殺害対象とはならず、人質とは異なる存在だったという。
池上裕子氏は秀康の送付を「家康の敗北・服属を意味するものではなかった」ととらえ、さらに
「秀吉は勝てなかった。快進撃は頓挫した。家康は秀吉の天下統一事業の前に大きく立ちはだかったのである。秀吉はここまで信長の
天下布武すなわち武力統一の路線を走ってきたが戦局が膠着し好転する兆しをみせなくなった所で敢然と路線変更に踏み切る」
家康は講和直後和親は「羽柴懇望」により応じたと北条に説明した(田島文書大日本史料11/17条)
自国の15分の1程度の国力・譜代の石川離反で軍事機密露見・天正11年からの徳政連発で領国は離反だらけで崩壊状態の
雑魚国力の家康相手に必死に顕如や信雄に仲介取りなし依頼したり母と妹さしだすんだからよほど家康が怖かったんだろうな
934人間七七四年:2014/01/16(木) 18:30:40.73 ID:5Ox7XHaU
>>臨時に陣を構えただけ
根拠なし。史料に城と書いてるからちゃんと城とみるのが妥当。
>>300しか入れ置けない
大浦城は「境目」に属するのでこの時期「馳走が寛容」と秀吉が言ってるほど重要かつ
4/12秀吉→秀勝では「大浦城があるので他所の普請は不要」とまで言ってる。
つか大浦城に巨大な兵力を駐屯させられないなら、城を築けばいいだけだろ。
楽田近辺に陣取った時も拠点を短期間で築きまくったし
楽田〜岩崎方面に中入りした部隊も次々に秀吉方拠点を堅固に拵えていったじゃんよ。
つか加賀の井城の周辺には大浦に加えて墨俣・太閤山・狐穴・富田・長池・矢上・福束・今尾・高洲と
秀吉方の城郭や陣城が馬鹿みたいに並んでて敵地の中で自軍の城が周囲に全くない家康らの勢力圏内とかないわ。
木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯での野戦になれば有利になるのは100%秀吉の方。
退路を絶たれて徳川方は全滅の危険すら出てくる。家康がいた小牧山やその周辺の砦には2万以上留守居部隊がいた上に
家康は尾張北西部や美濃に領地がなく、地理不案内だし。
徳川方からすれば8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯の小城2箇所くらいしか放棄してない
しかも小牧山周辺の砦には秀吉方の留守居部隊2万以上いて、徳川方が動けば小牧山の陥落は必至で動けなかっただけだし、
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で罠を張ってたから
後詰なんて自殺しにいくようなもんで、そんな所危険すぎていかなかっただけ。
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
大浦城から加賀野井城は木曽川なんて超える必要のない位置であり眼前の距離
また、徳川方は遥かに遠い小牧山や清洲にいる上に、木曽川筋の後詰を行うとなれば
小牧山周辺の砦を放棄するも同じだから、ほとんど自殺行為。
短期間で普請した小口・楽田・羽黒の3城にすら、2万の兵入れておけるんだし
大浦だけに大軍の召集が不可能というならその周辺に拠点を構築すればいいだけ。
実際楽田に布陣した時の秀吉はそうやって大軍を置いてるし
城攻めの時とか敵城の周辺に砦や根城を普請しまくって大軍で囲って敵が逃げられないようにしてる
2万どころか10万くらい尾張楽田近辺にいたほどだしねえ。楽田近辺に築いた即席の拠点でもこれだけ大軍収容可能なんだし
大浦城近辺だけなら収容不可能とかないわな。大浦城近辺に拠点を築けばいいだけ。
秀吉は伊勢から北尾張に陣替する際、留守居を除く全軍を北尾張に結集させてる
4/7秀吉→八重羽・富田・津川   陣立書一、3/28秀長→長秀書状 4/8秀吉→一柳や4/10筒井順慶書状
3/22渡辺清忠書状などでわかる。勿論甲賀方面の一柳らも一緒に尾張に行軍してる。
つか、そもそも瀬田や甲賀みたいな中途半端なところに軍置いたままにしておいて何の意味があるのかと。
長久手合戦の陣立書や3/11秀吉→木下判物3/13秀吉→丹羽3/17羽柴秀吉人数書立
3/19毛利輝元→大多和副宗衛尉、3/20秀吉→池田3/22渡辺清忠→元行3/26秀吉→黒田長政
3/29秀長→秀吉4/8秀吉→丹羽、同日秀吉→毛利4/10筒井書状4/11秀吉→木曽、長船、富岡
同日あて先不明書状、4/12秀吉→富田八重羽津田などみても秀吉は総軍あげてほとんどの武将引き連れて
13万以上の圧倒的大軍でわずか16000〜7000の信雄・家康連合軍に戦い挑んでるのに
戦力集中させてないとかアホすぎてワロタw
935人間七七四年:2014/01/16(木) 18:31:59.37 ID:5Ox7XHaU
さしたる理由もなく信雄にいちゃもんつけて攻め込んだら
あらかじめ信雄の重臣の津川や富田らの人質を取っていたために
信雄重臣は悉く秀吉方に寝返り当初信雄につくと思ってた池田や森や尾張石田毛利氏や毛利秀頼や松ノ木近辺の諸将まで
味方につき、池田と森の南下の動きに対応した徳川方が伊勢戦線を諦め、尾張に進軍したため
火事場ドロ的に伊勢を奪えたにもかかわらず、8倍の兵力で臨んだ小牧長久手合戦では一万人戦死の大醜態。
その後は松ノ木城や東駒野城や戸木城など1000貫そこそこの雑魚領主が篭もったところに
1年一杯苦戦してろくに落すこともできず
瀧川が折角作った大チャンスも失い、蟹江前田下市場を奪回され
7月には浜田城、11月には長久保城まで奪回されるアホっぷり。
結局勝ち目なしと悟った秀吉が顕如に泣きついて取り成しを必死に要請したら
やれやれと思った信雄が仕方なく応じてやるんだよな。
信雄方は6/19尾張下市場城攻略(家忠日記)6/23尾張前田城攻略(家忠日記)7/3尾張蟹江城攻略(家忠日記・7/6秀吉→羽柴秀長)
7/10頃に伊勢の浜田城攻略(7/14秀吉→津田)11/10尾張長久保城攻略(11/10信雄・家康→吉村)
最初から信雄陣営は重臣連中が秀吉方に人質取られた状態から会戦してるから岡田・津川・浅井の三重臣始め、伊勢の諸将は3月上旬時点で悉く
秀吉方に寝返ってるし逆に秀吉軍は自力では全くといっていいほど雑魚信雄の領国を切り取れてないわけだが。
家康のいる小牧山周辺に2万以上の兵力を置いて動けなくした上で家康が後詰にこれない木曽川筋の進退の自由の効かないデルタ地帯の小城数城をダラダラ攻め落とすのがやっとだったじゃん。
蟹江合戦という、瀧川の作った大チャンスも秀吉のいた大垣から眼前の距離にいた自軍の10分の1程度の兵力しかいないと思われる
家康相手にビビリまくって大阪までヘタレ敗走してるし。
秀吉が優勢だったのは伊勢で関岡本榊原信包小島津田富田八重羽岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって、当初味方につくと思ってた池田と森が木曽川を超えて犬山を奪取し北尾張に進出してきた動きに対応するため
家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力集めて南伊勢方面ががらあきになった三月の攻防だけだしな
伊賀も抗戦するものがろくになくただ降伏しただけだし
こんな居留守泥棒的に奪った南伊勢と伊賀を以ってその後の攻防も無視して秀吉優勢とか馬鹿かと
不意打ち的に尾張上陸・南伊勢居留守泥棒ができたのにその後の攻防では小牧長久手以外でも松ノ木浜田東駒野河波神戸二重堀蟹江長久保戸木と各城郭で負け続けて
135000の圧倒的大軍で以って尾張半国すら切り取れなかったし
小牧長久手合戦でわずか16000そこそこの雑魚信雄勢に1万人もぶち殺された秀吉は
その後ビビリまくって、あれだけ周りに陣城だの砦だの堅固に普請させまくって準備したにもかかわらず
自分から敵領国に侵攻させる作戦はすっかり諦め、
936人間七七四年:2014/01/16(木) 18:32:23.72 ID:22F+Il/J
秀吉は小牧山周辺の砦に留守居部隊2万以上を配置した上で、
徳川方が8分の1程度の兵力で後詰するのが危険すぎる木曽川筋の大河に挟まれた進退の効かないデルタ地帯を延々とこれ見よがしに攻めて
秀吉が毛利や佐竹あてで『必家康後巻可仕儀にて候間』『家康後詰可仕事案内与存』などと小牧山からつり出して殲滅する意図満々で必死に罠を張ってたが、
結局作戦が浅はかすぎて失敗に終わるんだよな。
結局この後は瀧川が折角作った長島と清洲を分断できる大チャンスを無駄にして、蟹江や前田や下市場を全て織田方に奪回され
眼前で8分の1の兵力で城攻めやってる織田徳川を殲滅する事すらできず、大阪にヘタレ敗走するアホっぷり。
こんな雑魚が総大将じゃ100年かかっても自力で信雄や家康を倒すなんて到底無理だわ
結局あれだけの兵力差・信雄方は会戦早々重臣含め悉く伊勢尾張美濃の味方が篭絡されてる状況でもって自力では全くといっていいほど秀吉は切り取れず
小牧山周辺の砦や、その他の地域の拠点(東駒野・戸木・松ノ木・長島・桑名・浜田・河波・長久保・前田・蟹江・二重掘など)は全て健在だし
秀吉自体が土下座と棚ボタと謀略で成り上がってきただけの人だから純粋な戦がゴミみたいに弱いのは仕方がない。
雑魚の毛利に連戦連敗するアホなんてそうそういないよ。
毛利なんて5万石程度の南条にすら攻略失敗したり20万石そこそこの宇喜多にも野戦でガチ大敗するくらい弱い軍隊なのに
天正13年の時も家康が夏の三河で起きた地震で三河の大洪水で田畑がメチャメチャに流されるなど大ダメージを負い
真田攻めの上田合戦や丸子合戦などで大敗したダメージや、前年の木曽に続く小笠原・水野・石川・真田の離反やそれによる
領内軍事機密露見に付け込んで 火事場ドロ的に徳川領に侵攻をかけようと
着々と計画を練って上杉や真田や木曽や一柳に散々計画を書いてたが、いざその時期が来た!と思ったら
ビビリまくって信雄を送って仲介した上に、妹を差し出して戦いを避けてるんだよな。
どんだけ家康が怖かったんだよ秀吉。まあ直接対決で蹴散らされまくったからビビリまくるのは当たり前だよな
937人間七七四年:2014/01/17(金) 23:01:01.02 ID:BMe4xyCW
↑言いたいことがわからない・・・
938人間七七四年:2014/01/18(土) 00:12:40.16 ID:mF8x4gHn
秀康は元々一時的な停戦条件の養子として秀吉に送られただけなのを秀吉が無理矢理人質として歪曲誇大喧伝しただけでしょ。
家康と秀吉は天正13年も以前として睨み合って、両者とも出兵準備進めまくってたし
上下関係など全く生じていないのだから、人質などというのは明らかにおかしい(人質なら、即上下関係、臣従関係が生じているはず)
実際秀康を人質だの書いてるのは、秀吉有利なハッタリ誇大喧伝やそれを真にうけてる宣教師のハッタリ史料だけだし
京以西の秀吉の基地外誇大喧伝と偽情報によって歪曲されまくった情報ばかり載ってる顕如日記や公家日記でも、秀康は養子と書かれてるだけで、
東国表は和睦したとか無事になったとか書かれてるだけ(顕如日記では唯一秀吉のハッタリを真に受けて
信雄より種種懇望があったとか秀吉のデタラメをそのまま事実として書いてるが)
年代記や記録類をみても
享禄以来年代記→秀吉出張勢州、而後連和止戦
永禄以来大寺記→十月信雄与家康和親
本国寺年譜→秀吉、信雄和親、解兵而別
高野春秋→信雄・秀吉両公和睦
当代記→信雄秀吉令一和
などと書いてて、両者が和睦しただけなのは明らかだし
秀吉のハッタリ誇大喧伝を真に受けて偽情報ばかり垂れ流してる顕如日記でも
秀康はやがて罷下べしと也と書いてて、一時的に講和の条件として秀吉の養子として大坂に預けられてて
いずれ三河に返される予定だったのを、秀吉が無理矢理奪って、人質に摩り替えて卑怯な誇大喧伝をしてただけ。
だから秀吉が余りに卑怯なのに恐れをなした家康が、このままでは到底自分が臣従しても騙まし討ちを食らうのではないかと恐れて
秀吉が出兵計画進めまくったりそれを佐竹や真田や上杉に宛てて書きまくっても、家康は臣従せず
秀吉は秀吉で家康よりも遥かに劣る織田家で最も無能な信雄に8倍の兵力で短期決戦挑んで散々に蹴散らされまくった程苦い思い出があったから
長々かけて考えてた出兵計画を取りやめて、母や妹を差し出したり、信雄に仲介和睦を必死に懇望して、家康に「ワシにしたがってくれ〜」とばかりに
土下座してきたから、家康はまぁそこまでするなら卑怯な秀吉でも、上洛して大丈夫だろうと考えて、上洛しただけ。

石川→天正12年時点で秀吉に篭絡されかかってて完全な秀吉親派。
三河物語で小牧合戦に勝利後秀吉を襲うぞ!と息巻いてる本多らに対して石川は秀吉に篭絡されてたから
反対してやめさせたという逸話が書いてるが、嘘くさいようだが、下記のように本当に秀吉と連絡をとりあっていたようだ
6/10秀吉→石川
去八日御状今日十日竹鼻で拝見しました。前より散々よい機会がなく、あなたのご家中宿老衆は言うに及ばず
下々の者まで存じる事になるため、音信をなし、馬・鎧1走御意にかけられ、自然家康の耳に入れられ
その方に相届かぬように候へは、如何しき候条、これにより、後の書状は下々の者まで通達は無用だ。
堀秀政より申し知らせる。 恐々謹言

本多→奉行衆の下っ端で、ろくな影響力もない雑魚。雑魚の人質なんてあげたって、家康と秀吉の上下関係の証明には全くならない
939人間七七四年:2014/01/30(木) 23:39:54.91 ID:sUIqLJ25
江戸幕府はホントに運がいい。
ペリー来航まで外国からの侵略がなかったからね。
まあ秀吉が朝鮮出兵で日本侮りがたし!と宣教師が報告してたことが最大の理由だが。
しかし秀吉の中央集権全国支配体制なら外国からの侵略なんて怖くもないどころか、敵地に報復侵攻できるし、
南朝鮮をはじめ、沿岸地域に拠点を設けて大航海時代→重商主義→産業革命が始まってただろう。
それだけの蓄積が日本にはあった。

しかし家康は大名たちに媚びた土下座っぷりで天下を盗んでバカ幕府を作ったので幕府には力がなかったからペリー来たら呆気なく内乱へ向けて混迷。

関が原土下座外交の結果、
豊臣恩顧大名が20カ国で日本の1/3を支配。
伊達や毛利や上杉や毛利や佐竹など旧族外様大名達が1/3支配。
かろうじて徳川系大名は20カ国1/3支配したものの、
東海道など小国が多く面積レベルはかなり下回る劣弱な基盤しか徳川幕府にはない。
豊臣政権は立ち入り検地、太閤蔵入地設定、
与力大名による監視、
領地宛行において有力家臣の知行地や石高を指定し、
豊臣政権と有力家臣を結びつけ支配、
奉行による指南による内政干渉をしたり、
一国一円領有支配をできるだけ許さないなど、
秀吉は強力な全国支配体制を構築した。
しかし家康は立ち入り検地も蔵入地も大名家臣狙いの加増も廃止、
越後の溝口と村上の例外以外は与力大名廃止。
中小大名を移動させての一国一円支配の国持大名の増加による大名領有権の自立性の強化を背景に、
藩による分権自治を容認せざるを得なかったのが家康。
これは全て関が原で味方につけようと武断派に媚びた結果であり、
関が原が武断派によって勝利し、
西軍支持の北政所や淀とその意向で動いた女性たちも家康は処罰できず、
結果、武断派の奉ずる豊臣による論功行賞が行われ、
強欲武断派の要求を飲むハメになったからである。
幕府体制と呼ばずに幕藩体制と呼ばれる藩王による分割統治という弱体国を作ったのが家康。
940人間七七四年:2014/01/31(金) 01:13:57.89 ID:DeiE1jpf
豊臣家が滅亡したのは、秀吉が広大な版図持ちながら自力ではどこにも勝てず上杉佐竹毛利長宗我部木曽小笠原真田石川水野十河河野大友龍造寺前田
柴田勝豊金森不破信雄宇喜多など諸大名に土下座しまくって力を借りて漁夫の利を得ただけの見せ掛け政権だったおかげ。
所詮自力で取った天下じゃないのであっさり徳川に敗戦し潰されたのが史実
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。
以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)

7倍以上もの兵力差あり小牧山の北と東をガチガチに秀吉方拠点で築き
さらに遥か南東の竜泉寺に至るまで秀吉方拠点で固める周到な準備しておいて
あんな糞作戦立てた秀吉の完敗だろ

わずか20町ほどの距離にある自軍の6分の一以下の家康軍に対してあの醜態晒して
責任を池田森らに押し付けるとか基地外だな
100パーセント秀吉の戦術的大敗だろうが
6倍以上兵力差あり秀吉軍は家康の5倍以上もの被害出し装備などは当然
畿内持ってる秀吉>>>>貧国ばかりの家康 だから
戦闘能力でいえば家康は秀吉の30倍以上上手だろーな

秀次の補佐役で木下兄弟がつけられ戦死してるな
目付け役で堀・長谷川も加わってるしさすがに別働隊だから秀吉の責任じゃないとか全くそれは言い訳にならん
お前らの論理だと秀吉は相手と近距離で直接戦闘をした経験はほとんどなく
ある程度距離がある味方に指令だすのが中心だったからわずか20町ほどの距離での
家康との対陣での敗北を秀吉の責任じゃないというなら秀吉が勝った戦もほとんど秀吉の功じゃなくなるな
941人間七七四年:2014/01/31(金) 01:15:20.95 ID:juJnakEd
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり
陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚。そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。

長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ
よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。どこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が
経済的に圧倒的なものをもってるからなせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
942人間七七四年:2014/01/31(金) 01:15:24.83 ID:DeiE1jpf
織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
943人間七七四年:2014/01/31(金) 01:20:31.71 ID:T3VOETqT
そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
944人間七七四年:2014/01/31(金) 01:20:59.47 ID:aBF5hDcx
確かにそれはいえてるね。そういう中身0で配下の諸大名の力に頼りまくった傀儡的な棚ボタ他力本願の政権だからこそ
本人の死後あっさり崩壊したんだろうね
945人間七七四年:2014/01/31(金) 01:25:45.65 ID:aBF5hDcx
関が原の戦いで西軍について厳封・改易された大名はめちゃめちゃいて
総石高数百万石に及ぶ

上杉景勝 西 奥羽ノ内 1,200,000 → 出羽 米沢 300,000 -900,000
毛利秀就 西 安芸他六ヶ国 1,205,000 → 周防 長門 369,000 -836,000
佐竹義宣 西 常陸 水戸 545,700 → 出羽 秋田 205,800 -339,900
秋田実季 西 出羽 秋田 190,000 → 常陸 宍戸 50,000 -140,000
宇喜多秀家 西 備前 岡山 574,000 → 所領没収 −−− 遠流 八丈島
長宗我部盛親 西 土佐 浦戸 222,000 → 所領没収 −−− 浪人
前田利政 西 能登 七尾 215,000 → 所領没収 −−− 浪人
増田長盛 西 大和 郡山 200,000 → 所領没収 −−− 追放 高野山
宮部長熙 東注@ 因幡 鳥取 200,000 → 所領没収 −−− 身柄預 奥州南部家
小西行長 西 肥後 宇土 200,000 → 所領没収 −−− 斬首 享年不詳
石田三成 西 近江 佐和山 194,000 → 所領没収 −−− 斬首 享年41歳
織田秀信 西 美濃 岐阜 135,000 → 所領没収 −−− 出家 高野山
立花宗茂 西 筑後 柳河 132,000 → 所領没収 −−− 浪人 のち復帰
小早川秀包 西 筑後 久留米 130,000 → 所領没収 −−− 隠居
丹羽長重 西 加賀 小松 125,000 → 所領没収 慶長八年 再封 常陸古渡
岩城貞隆 中立 陸奥 岩城平 120,000 → 所領没収 −−− 身柄預 出羽佐竹家
青木一矩 西 越前 北ノ庄 80,000 → 所領没収 −−− ??
小川祐忠 西→東 伊予 府中 70,000 → 所領没収 −−− 翌年死去 享年不詳
太田一吉 西 豊後 臼杵 65,000 → 所領没収 −−− 出家
木下勝俊 西 若狭 小浜 62,000 → 所領没収 −−− 隠棲 長嘯子
安国寺恵瓊 西 伊予 伊予ノ内 60,000 → 所領没収 −−− 斬首 享年不詳
毛利勝信 西 豊前 小倉 60,000 → 所領没収 −−− 身柄預 土佐山内家
山口宗永 西 加賀 大聖寺 60,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
多賀谷重経 西 常陸 下妻 60,000 → 所領没収 −−− 浪人
相馬義胤 東注A 陸奥 中村 60,000 → 所領没収 −−− 再封 本領安堵
織田秀雄 東→西 越前 大野 50,000 → 所領没収 −−− 隠居
大谷吉継 西 越前 敦賀 50,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年42歳
長束正家 西 近江 水口 50,000 → 所領没収 −−− 自刃 享年不詳
丹羽長正 西 越前 藤枝 50,000 → 所領没収 −−− 浪人 豊臣家仕官
青山宗勝 西 越前 丸岡 46,000 → 所領没収 −−− 浪人
田丸忠昌 西 美濃 岩村 40,000 → 所領没収 −−− 追放 のち赦免
南条忠成 西 伯耆 羽衣石 40,000 → 所領没収 −−− 浪人 豊臣家仕官
真田昌幸 西 信濃 上田 38,000 → 所領没収 −−− 追放 高野山
小野木公郷 西 丹波 福知山 31,000 → 所領没収 −−− 自刃 享年不詳
伊藤盛正 西 美濃 大垣 30,000 → 所領没収 −−− 追放 前田家仕官
原勝胤 西 美濃 太田山 30,000 → 所領没収 −−− 自刃
小野寺義道 西 出羽 横手 30,000 → 所領没収 −−− 追放 石見で客死
石田正継 西 近江ノ内 30,000 → 所領没収 −−− 自刃 三成の父
島津豊久 西 日向 佐土原 28,600 → 所領没収 −−− 戦死 享年31歳
堀内氏善 西 紀伊 新宮 27,000 → 所領没収 −−− 身柄預 肥後加藤家
木下頼継 西 越前ノ内 25,000 → 所領没収 −−− 病死 享年不詳
氏家行広 西 伊勢 桑名 25,000 → 所領没収 −−− 浪人
佐藤方政 西 美濃 鉈尾山 25,000 → 所領没収 −−− 浪人
新庄直頼・直定 西 摂津 高槻 24,000 → 所領没収 −−− 身柄預 会津蒲生家
946人間七七四年:2014/01/31(金) 01:27:52.87 ID:la6NDWTD
斎村広道 西→東 但馬 竹田 22,000 → 所領没収 −−− 自刃 享年39歳
岡本良勝 西 伊勢 亀山 22,000 → 所領没収 −−− 自刃 享年57歳
多賀秀家 西 大和 宇多 20,000 → 所領没収 −−− 寄食 越後堀家
木下利房 西 若狭 高浜 20,000 → 所領没収 −−− 浪人
木下重賢 西 因幡 若桜 20,000 → 所領没収 −−− 不明
木下利久 西 不明 20,000 → 所領没収 −−− 不明 木下一元
木下延重 西 播磨ノ内 20,000 → 所領没収 −−− 不明
滝川雄利 西 伊勢 神戸 20,000 → 所領没収 −−− のち再封 常陸片野
垣見一直 西 豊後 富来 20,000 → 所領没収 −−− 謀殺 大垣城
丸毛兼利 西 美濃 福束 20,000 → 所領没収 −−− 逃亡 後に仕官
赤座直保 西→東 越前 今庄 20,000 → 所領没収 −−− 再仕官 加賀前田家
杉若氏宗 西 大和 郡山 19,000 → 所領没収 −−− 逃亡 行方不明
筑紫広門 西 筑後 山下 18,000 → 所領没収 −−− 出家 加藤家寄食
高橋直次 西 筑後 内山 18,000 → 所領没収 −−− 身柄預 奥州立花家
横浜茂勝 西 播磨ノ内 17,000 → 所領没収 −−− 不明
氏家行継 西 近江・伊勢ノ内 16,000 → 所領没収 −−− 身柄預 豊前細川家
寺田光吉 西 大和ノ内 15,000 → 所領没収 −−− 追放 高野山
熊谷直盛 西 豊後 安岐 15,000 → 所領没収 −−− 謀殺 大垣城
石田正澄 西 近江ノ内 15,000 → 所領没収 −−− 自刃 三成の兄
村上義忠 西 不明 14,000 → 所領没収 −−− 不明
藤掛永勝 西 丹波 上林 13,000 → 所領没収 −−− 不明 のち再仕官
宇多頼忠 西 大和・河内ノ内 13,000 → 所領没収 −−− 自刃 三成室の父
石川貞清 西 尾張 犬山 12,000 → 所領没収 −−− 剃髪 京で金融業
石川頼明 西 不明 12,000 → 所領没収 −−− 自刃 享年不詳
石川貞道 西 山城・丹波ノ内 12,000 → 所領没収 −−− 身柄預 奥州南部家
糟屋宗孝 西 播磨 加古川 12,000 → 所領没収 −−− 不明
池田高祐 西 伊予 大洲 12,000 → 所領没収 −−− 再仕官 伊予藤堂家
平塚為広 西 美濃 垂井 12,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
奥山正之 西 越前ノ内 11,000 → 所領没収 −−− 剃髪 京で隠棲
松浦久信 西 伊勢 井生 11,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
垣屋恒総 西 因幡 浦住 10,000 → 所領没収 −−− 自刃 高野山


戸田重政 西 越前 安居 10,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
赤松則英 西 阿波 住吉 10,000 → 所領没収 −−− 自刃
早川長政 西 豊後 府内 10,000 → 所領没収 −−− 浪人
山崎定勝 西 伊勢 竹原 10,000 → 所領没収 −−− 逃亡 のち再仕官
中江直澄 西 不明 10,000 → 所領没収 −−− 身柄預 奥州伊達家
山口修弘 西 加賀ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
寺西信乗 西 勢・江・越前ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 剃髪
寺西清行 西 越前ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 剃髪 のち再仕官
池田勝俊 西 不明 10,000 → 所領没収 −−− 不明
岸田忠氏 西 大和 岸田 10,000 → 所領没収 −−− 身柄預 奥州南部氏
上田重安 西 越前ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 逃亡 のち再仕官
木村勝正 西 美濃 北方(西保) 10,000 → 所領没収 −−− 追放 高野山
高木盛兼 西 美濃 高須 10,000 → 所領没収 −−− 再仕官 出雲堀尾家
加賀井秀望 西 美濃 加賀井 10,000 → 所領没収 −−− 殺害 享年不詳
川尻直次 西 美濃 苗木 10,000 → 所領没収 −−− 戦死 享年不詳
堅田広澄 西 不明 10,000 → 所領没収 −−− 不明
高田治忠 西 丹波ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 不明
川勝秀氏 西 丹波ノ内 10,000 → 所領没収 −−− 不明
三好丹後守 西 不明 10,000 → 所領没収 −−− 不明
947人間七七四年:2014/01/31(金) 01:50:18.28 ID:JMxY64Wi
家康は一向一揆を基盤が大きく、今川氏真から侵攻を受けてる中奥三河や東三河を自力で侵攻し
大国武田の圧迫に、信長からろくな援軍もない中、長年耐え抜いてきたじゃん。
一方家康は信長の畿内平定には狩り出されまくり、寡兵にもかかわらず大軍朝倉相手を任されたりしてる
天正壬午で依田が活躍したのは、武田攻めの際、依田の命を救った家康の慈悲深さが功になっただけで
こういうのは自分の性格によるところだから棚ボタとはいえない。
関ヶ原では武断派は大軍で連携しながらろくな戦功もない寡兵の石田隊や小西隊や大谷隊、宇喜多隊などに苦戦しまくってたが、
家康が小早川を調略してくれたおかげでマンマと劣勢を覆す事のできた棚ボタっぷり。
こんな棚ボタ大名は他にはいないだろ。はっきりいって武断派なんて家康が小早川を調略せずにいたり、自分らを味方に退き入れなかったら
石田らに失脚させられるだけの雑魚でしかなかったのが史実。
その証拠に結局豊臣を見捨てて功利主義に走った武断派はマンマと改易されてるし
948人間七七四年:2014/01/31(金) 01:51:10.00 ID:LB0/ry6C
家康はほとんどろくな支援も受けずに逆に信長の畿内平定戦やら岩村合戦などには
いやいや付き従わされて、大国武田の侵攻を1人で支えてきたのに
貰った領土が駿河だけとかいかに苦労の割りにろくな目にあってないかわかるな。
武田を滅ぼせたのは、武田相手に孤軍奮闘してきた家康のおかげなんだし、信濃も甲斐も家康に直接あげるくらいじゃないとおかしいからな
949人間七七四年:2014/01/31(金) 01:52:20.94 ID:ONn+w6wV
ぶっちゃけ織田が武田を滅亡させる事ができたのはほとんど北条と徳川のおかげ。
武田は長篠以降も謙信の関東出兵に対して北条と結託して上野方面に外征したり遠州で徳川方を撃退したりと
全くといっていいほど衰退していないし勝頼は、翌年に武田の命運をかけた一戦を織田とやると書いてるので
まだまだ自力は大きく残ってたんだろう。北条との同盟決裂後も関東において北条を押しまくっていたが
天正8年・9年の甲斐の都留軍への侵攻をゆるした(撃退してるが)ため、新府城の築城を北条対策として行ったが
これが多いに失策だったため、武田領国の国人は大いに不満が高まり後の離反フラグになったんだろう。
徳川も田中城や高天神城に手も足も出てなかったし武田が謙信に対応した天正3・4年の関東派兵や対北条戦のため関東に出兵したのと
甲江和与の影響で武田が軍備解除してた隙をついて居留守泥棒的に二俣城や高天神城を奪回するがその周辺の拠点や
田中城には手も足も出ず、北条が駿河伊豆国境地帯の長窪城や天神ヶ尾城を落とし、武田がその方面に出兵した隙をついて開城勧告で
なんとか開城させたにすぎない。
よって「北条が滅亡寸前の武田に上野で負けた」ではなく「武田は北条戦で大いに出費面や戦力集中の観点から犠牲を払い
その隙をついて甲江和与詐欺を生かして武田領国を無防備にさせた所に織田・徳川で奇襲をかけたら離反の連鎖になって運よく滅んだ」が正しい
950人間七七四年:2014/01/31(金) 01:53:13.22 ID:JMxY64Wi
普通に考えて関ヶ原で棚ボタだったのは家康ではなく
家康のおかげで戦闘に勝利でき、ろくな戦功もなく石田や小西や宇喜多や大谷などの寡兵の雑魚に苦戦しまくってただけなのに
大版図もらえた福島池田黒田細川ら東軍の雑魚武将達だろ。
家康が味方に誘ってやらなきゃ、石田らに次々に実権を奪われて失脚するだけのアホでしかなかったが
家康のおかげでマンマと大版図もらえた。
ガチで実力0の癖にに棚ボタと漁夫の利と金魚の糞で大名になっただけのウンコみたいな大名でしかない。
951人間七七四年:2014/01/31(金) 01:53:46.52 ID:ONn+w6wV
家康の戦歴…大国今川相手に西三河数万石そこそこの所から吉良・今川の大軍相手に勝ちまくり三河一向一揆でも大勝。
その後も最強武田軍団相手に敢闘し、信長を滅亡寸前に追い込んだ大敵朝倉を大破した上に、戦上手の武田勝頼を多いに疲弊させ、
信長死後は甲斐信濃を巡り北条氏直の大軍相手に勝利。その後豊臣軍135000に対し織田信雄含めても16000そこそこの寡兵で豊臣軍を一万人戦死させる大勝利をあげた上に
秀吉はビビリまくって信雄相手に顕如送って必至に取り成しを懇願し、さらに自国の15分の1の国力しかなく、木曽小笠原石川水野真田の離反とそれによる軍事機密露見と
天正大地震と天正11年からの徳政令連発で領国が崩壊した家康にも母と妹を差し出すヘタレっぷり。
さらに関が原では畿内だけで18万もいる豊臣の大軍を大破する大勝利w
大阪の陣でもあれだけ規格外の堅固で大規模な城郭&城攻めとしては少ない2倍いくかいかないかくらいの兵力で短期間で大勝
信長の戦歴…チート尾張斯波家継ぎながら幼君でガタガタの斉藤領火事場泥棒しようとしたらまけまくり
長島侵攻では3回も敗北し餓死寸前の一揆勢数百を騙まし討ち&数万の大軍で一門10人以上殺されるなど負けまくり
本願寺攻めでも大苦戦し武田にも上村合戦や東美濃攻防で敗北し信玄在世中は追い込まれる一方で滅亡確定、
最後は光秀に殺されて死亡

秀吉…小牧長久手で家康より遥かに戦下手で織田家で最も無能で伊賀攻めに失敗し信長の勘気蒙り縁を切られそうになるアホ信雄に135000の大軍で挑んで
1万人殺される大敗。その後の攻防も二重堀・蟹江・前田・下市場・松ノ木・浜田・長久保・東駒野・河波・神戸攻防で敗北
二重堀合戦では防衛戦にもかかわらず1000そこそこの信雄勢に奇襲食らって楽田陣から見事に敗走させられる
蟹江・前田・浜田・下市場・長久保・神戸は秀吉方本陣から程近い距離にあるにもかかわらず見事に寡兵の信雄に奪回される
結局実力では全く歯がたたず信雄・家康に顕如使って土下座してなんとか和議までこぎつける
北条氏直…神流川で織田家トップクラスの滝川の18000を24000そこそこで10倍の被害差で大破
朝倉義景…信長を滅亡寸前に追い込む。姉川の合戦では浅井軍は織田を押しまくり当時の織田四天王の一人の坂井の息子を討ち取る
勝頼…「まるで城のようだ」と思わせる堅固な陣地にこもった高性能鉄砲・弓で待ち構えた織田徳川の大軍に対して直前の雨でぬかるんだ地面の中、結束力0の烏合の衆で挑んだ
ガチンコ城攻めだったが天正6年成立の長篠日記によると武田軍の9時間近い長時間の猛攻後に撤退。 馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
山縣隊1500で徳川隊6000を柵まで敗走させるも 大久保隊が側面へ回りこむのを必死に阻止 さらに馬場の第二次攻撃で佐久間隊崩壊寸前
まで追い詰めるも 鉄砲隊の反撃で武田は撤退。織田方6000討死。武田方7000討死と織田徳川を寡兵で圧倒しまくる
一揆勢…信長の数万の大軍を餓死寸前のところで騙まし討ちかけられた状態でわずか数百の寡兵で織田一門10人以上討ち取る


以上をまとめると勝頼>>>>家康>>>氏直>>>>>滝川>>>>>一揆勢・朝倉>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>秀吉
952人間七七四年:2014/01/31(金) 01:56:17.69 ID:SesL1BnG
家康はかなり不運な人生だからね

・若くして織田家の人質に出され、その織田と松平が対立する
・今川の尾張攻めで先鋒を無理矢理勤めさせられる
・桶狭間合戦で主君義元が殺される
・貧国で一向一揆が根強い三河の数郡の小領主として独立する
・三河一向一揆で、家臣が二分するような危機に追い込まれる
・自国より遥かに強大な国力の今川や武田の侵攻を次々に受ける。
・自国より遥かに強大な武田の侵攻を受けながら、信長の畿内平定戦に次々刈りだされる(金ヶ崎の侵攻戦、上洛戦、滋賀の陣、姉川の戦い、長島侵攻戦、岩村攻囲戦など)
・自国より遥かに強大な武田の侵攻を受けながら、信長からはろくな援軍が来ない
・自国より遥かに強大な武田に苦戦している間、信長が内訌や内紛、有力者の病死に付け込んで火事場ドロして版図を拡張したため
従属に近いような関係を強いられる。
・自国より遥かに強大な武田に苦戦している間、信長が内訌や内紛、有力者の病死に付け込んで火事場ドロして版図を拡張したため
従属に近いような関係を強いられ、信康を命令で殺される
・ろくな援軍もなく、長年武田相手に敢闘し、単独で抑えてきたにもかかわらず、武田攻めでは駿河しかもらえない。
・堺で穴山と遊行中、信長が本能寺で殺され、同行してた穴山が殺され、家康も襲われて危うく死にかける
・命からがら戻ってきたものの、元の国力がしょぼ過ぎ、同盟者家康には大義名分に欠けるため、ろくな兵が集まらず、光秀討伐に行けない。
・信長が死んだ後の信濃・甲斐に上杉景勝と北条氏直が進出してくる
・北条との同盟後も、天正11年・12年と上杉景勝が揚北や越中戦線を放り出してまで川中島侵攻を続けてくる
・秀吉が馬鹿みたいな大軍を率いて、しつこく侵攻してくる。
・圧倒的に秀吉軍を蹴散らしまくってたにも関わらず、織田信雄がマンマと和議に応じ、家康も応じざるをえなくなる
・天正11年に領内で大洪水が起きて、その対応に追われ、徳政令を連発するハメになる
・天正12年に木曽義昌、天正13年に小笠原貞慶・真田昌幸・石川数正・水野忠重が離反し、領内の軍事機密が露見する
・秀吉死後、自分を敵視した奉行衆らが、自分を暗殺する計画を企てる
・秀吉死後、自分を敵視した前田が、天下の差配を牛耳ろうと威張り散らす。
・秀吉死後、自分を敵視した上杉が、自分の命に背いて、領内に立てこもり、戦線布告する。
・秀吉死後、自分を敵視した輝元や三成らが、規格外の大軍を率いて馬鹿みたいに戦をけしかけてくる。
・藤堂隊や黒田隊、細川隊などが弱過ぎて、寡兵でろくな戦闘経験もない雑魚三成相手に苦戦し、あやうく負けかける。
・関ヶ原後も、秀頼や幸村らが巨大な富と、戦国一の堅城大坂城に大軍で立てこもり、自分に歯向かう。
・ヨボヨボのジジイになっても、息子が無能すぎて頼りにならないため、仕方なく自分が采配を振るって前線まで一々出かける。
953人間七七四年:2014/01/31(金) 01:57:07.87 ID:T3VOETqT
秀吉は元々あった対立関係利用して漁夫の利得ただけ。
中身のないゴミ政権だからすぐにボロが露呈した。
信長に従い土下座外交してた氏政が秀吉に従わなかったのも秀吉の実力のなさを見抜いてたからだろうな
本能寺時点でも光秀が運良く信長を打ち逆賊の汚名被り毛利も運良く追撃せず
柴田戦でも運良く勝家が雪で動けないのを利用し勝家と勝豊の運よく不仲なのを利用し寝返らせ
運良く権力基盤が弱い信孝を攻め運良く稲葉を寝返らせてへタレ前田が運よく軍を引きやっと勝てただけ
>>51
単に圧倒的兵力差があったから勝てただけ。島津も先鋒勢蹴散らせたし
北条も支城に配した兵が少なかったからあっさり陥落したが本城は余力ありまくりの状態での降伏だった。
逆に秀吉側が兵站維持できるギリギリの所まで追い込まれてたくらいだった。
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
そういう優位な状況は秀吉が実力で作ったわけじゃない。
織田家が当主の能力や運、状況に恵まれ拡張でき秀吉はあくまでその中の枠内で歯車のひとつとして働いていたにすぎない。
本能寺時点で大きな勢力持っていたのもひとえに織田が拡張したからであってその中で秀吉が果たした役割は
初期ではほんのわずか。後期でもあくまで軍司令官の一人、つまり一部分。
そこで光秀が運よく信長を討って逆賊の汚名も被ってくれたから逆賊打つという格好の名分を
おいしく頂いた。上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。

長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友、北条の敵対者佐竹、信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、真田
石川の場合は秀吉の威信が強大になっていたのが大きく小笠原は石川が小笠原の人質もって逃げたから寝返った。
水野は元々外様だし石川と同じく秀吉の威信が高まりすぎたのが原因だろうな。
どれも秀吉が自力で作ったというより運よく強大な勢力を持てたのと元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけ

よく秀吉は城攻めの達人とか人たらしの名人とか言われるがこれも間違い。
どこの大名でも漁夫の利を狙うような芸当はやってるし
城攻めに関しても鮮やかと言われるのは対中国戦くらいだろう。しかも水攻めといい兵糧攻めといい
時間や金ばかり無駄に浪費した下策でこんなもんは織田家が経済的に圧倒的なものをもってるから
なせる芸当。少数しか兵のいない忍城や竹ヶ鼻城、紀州の城を正攻法で瞬殺できないのは終わってる
954人間七七四年:2014/01/31(金) 01:58:09.05 ID:juJnakEd
秀吉より棚ボタな大名なんてどこにもいねぇしな

織田家臣だから当主の能力&恵まれた運や状況で織田家が膨張して大きく勢力拡張。山名&荒木&尼子残党&毛利の中途半端な介入で
ぐちゃぐちゃになってた播磨に運よく派遣されて戦わずして味方が多く集まって信長が光秀に殺されて光秀が主殺しの汚名負ったから味方が多く
あつまっただけ。毛利宇喜多上杉大友佐竹なども味方で対柴田戦でも勝家が雪に閉ざされて動けず佐々も対上杉で動けず
勝豊と勝家が不仲で信雄と信孝が不仲で稲葉が味方で前田や金森不破が戦の途中で兵を引いたから勝てただけ
秀吉の対戦相手なんて皆豪族国人連合の寄せ集め烏合の衆部隊の上に寡兵だもんなぁ
謀略・暗殺・家中の内紛による火事場泥棒ばかりで拡張し宇喜多南条始め寝返りばかりで
戦いのたびにドミノゲームのように勢力図の入れ替わるハリボテ西国大名毛利
前田・金森・不破が勝手に退却し稲葉らも美濃遠征で裏切りまくり結束力が0露呈した柴田
戦い当初から尾張では毛利、伊勢では神戸関信包田丸など離反の連鎖だった領国基盤ガタガタの信雄
徳政の連発・駿河も甲斐も南信濃も平定から時間がない上に領土安堵状を出すなど国人の自立統治を後押しする間接統治を行っただけで
譜代の石川ですら籠絡され木曽も離反し翌年小笠原も石川も水野も真田も離反するなど烏合の衆もいいところの徳川
まともな迎撃体勢すら整わずはなから離反の連鎖の応酬だった島津
わずか34500しかいない、戦意0で抗戦・主戦で割れていた北条
徳川に至っては北条氏政がたくらみが深い武将で家康留守中に背信して徳川領に侵攻するとのうわさが垂れ流されていた上
上杉も信濃方面へ侵入の構えを見せていたためかなりの兵力を本国に残したままだった。
家康が対秀吉時に四天王の他は大須賀康高、本多広孝、そしてその頃から秀吉に通じつつあり翌年に寝返った石川数正くらいで
数は8000程度。残りは信雄の軍に依存してた。しずヶ岳時も信雄味方で雪で勝家が出られない間美濃や伊勢で暴れ周り
勝家が出てきたら圧倒的兵力で襲えばよかっただけ(それでも柴田勝政らの撤退中を大軍で襲撃して持ち堪えられる始末)
山崎も兵力差圧倒的なのに光秀軍より多い被害だした。ただの雑魚
家康は遠江、駿河、甲斐、信濃の要衝となる城に24000程も配置してきたため
尾張には8000程しか連れてこなかったとある(吉村文書、豊臣秀吉辞典)北条氏政は
企みのある大将で家康の留守を狙って駿河に侵入するという噂があった上に
上杉が川中島を押領し猶も国中へ切って出る事が予想されたため、
駿河と相模の境の長窪に牧野康成、三河岡崎に本多重次、甲斐に鳥居元忠、平岩親吉、
伊那に菅沼、知久、晴近衆、松岡貞利、諏訪に諏訪頼忠、木曽に木曽義昌(三月頃秀吉方に寝返る)
佐久に柴田康忠・松平康国、安曇・筑摩に小笠原貞慶を置き、大久保忠世は伊那、佐久、小県、諏訪、
松本等を指揮して廻った上浜松に留守居。以上の武将を配置したというように総兵力の大部分を領国内に配置していた。
長久手戦参加の家康の主力武将は四天王の他はこの頃から秀吉に接近しつつあり翌年に寝返った
石川数正、大須賀康高、本多広孝・康重親子くらいで残りは刈谷の水野忠重等信雄の兵。
したがって小牧山で秀吉と対峙したときは1万6、7千と少なかった(『御当家記念録』『当代記』『御年譜徴考』『下伊那郡誌』)
955人間七七四年:2014/01/31(金) 01:58:57.59 ID:SesL1BnG
そもそも単に敵対者の対立を利用して得た漁夫の利の棚ボタ勢力だから
敵対勢力を根こそぎ潰すなんてできるわけがない(実際信雄・家康を散々押し潰すだの攻め滅ぼすだの書状で書きまくっておいて戦うと
長久手で1万人戦死、戸木・松ノ木・浜田・蟹江・二重堀・神戸・東駒野など各城郭で負けまくったんだからそんな芸当無理)
対明知戦…摂津衆、神戸信孝・丹羽・中川など離反。対柴田戦…勝豊・稲葉ら美濃衆・前田・不破・金森・信雄
そこで上杉と徳川は82〜83年にかけ信濃中部で争い家康の同盟者北条との関係の悪さからも秀吉側につくのは
自然な流れだし毛利も本能寺前で既に和睦の話が上がっていた。宇喜多も直家死んで八郎人質取ってたからそうそう
裏切られない。両者とも本能寺時も運よく敵対しなかった。
毛利の敵対者宇喜多、南条、尼子残党、赤松、小寺、山名、別所、浦上、草刈
長曾我部の敵対者十河や河野、島津の敵対者大友や龍造寺残党・相良・阿蘇、北条の敵対者佐竹・結城・宇都宮・那須・壬生・皆川、
信濃での家康の扱いに不満を持った木曽、小笠原、真田や水野、石川
等の場合も同じ。元々敵対者同士だったか家康の扱いに不満があったのを利用しただけで取った中身のない天下だから
一々敵対勢力潰すなんてしてたらこいつらまで敵に回して滅ぼさなくちゃいけないからそんな実力到底秀吉にはない(対毛利戦や信雄戦で証明してる)
確かにそれはいえてるね。そういう中身0で配下の諸大名の力に頼りまくった傀儡的な棚ボタ他力本願の政権だからこそ
本人の死後あっさり崩壊したんだろうね
956人間七七四年
>>潰そうと思いさえすれば徳川にしろ毛利にしろ簡単に潰すことは出来た
史実で上月防衛戦の熊見川で3000人戦死の大敗・徳川どころか織田家で最も無能な信雄相手に敵の8倍の135000の大軍で挑みかかって
1万人戦死・そのほかも二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北し
結局寝返りだらけで崩壊状態の信雄領国を尾張半国すら自力で切り取れなかったのに潰すことができたとか寝ぼけてんじゃねぇよボォケwwww
>>家康が北条のように上洛して臣従することを拒んでいたら間違いなく滅ぼされていただろう
史実では秀吉なんて235000も全国からかき集めて小田原1000や忍城韮山城数百にボッコボコに蹴散らされ
前田重臣、一柳、堀尾の嫡男・平岩弟が戦死するなどゴミっぷりを発揮してたし
佐竹宇都宮結城連合と上杉真田依田ら北国勢が北条方兵力の集中した松井田、八王子、鉢方、など要衝の城を落としてくれたから
優勢になっただけだし
寝返った皆川やら松田やら大道寺やら逃亡した氏勝やら抗戦意欲0ですらこんな敢闘したんだから
北条軍が主戦派和平派で割れずちゃんと結束して反抗できてたら豊臣軍は瞬殺されてたのは間違いない

享禄以来年代記による豊臣方は兵力29万で、他の史料だと50万と書いてるのもあるくらい。
普通に34500の北条が勝てるわけがないのは算術ができる人間ならわかる
そんな半月くらいで終わってもおかしくない兵力差で豊臣は一柳や堀尾の嫡男、前田重臣、平岩弟や依田が戦死し、氏家も負傷。
韮山500や忍城1000では豊臣は苦戦しまくり小田原1000程度に手も足も出なかったのが現実
>>家康を倒すことが主目標ではない
お前は>>481-487のまともによめねー馬鹿だな
>> 家康は局地戦で戦術的勝利、
秀吉は主力決戦で135000の大軍でもって信雄相手に1万人ぶち殺される醜態を演じ、その後の
二重掘・蟹江前田下市場河波東駒野浜田松ノ木長久保など各城郭の攻防で敗北(長久保蟹江前田下市場浜田などは秀吉方本陣の程近くなのにもかかわらず
信雄方に奪回されてる)
>>秀吉軍に尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を落とされても後詰めすら出来ない
なんで自軍の8倍もある135000の豊臣軍が、家康の地理不案内な、しかも木曽川挟んだ川に挟まれたデルタ地帯に不用意に飛び込んで
秀吉が佐竹や木曽などにあてて『必家康後巻可仕儀にて候間』 (毛利輝元宛書状)『家康後詰可仕事案内与存』(佐竹義重宛
と秀吉の思惑通り無謀に寡兵で飛び込まないと腰抜けになるんだタコw
秀吉の方が本陣の目前で蟹江前田下市場長久保などが攻められてるにもかかわらず雑魚信雄にビビリまくって味方を見捨ててよっぽど腰抜けだろうがクズw
>>その後、伊賀、伊勢は連戦連敗でほとんど占領されてしまい
お前は時系列を何もわかってねぇな。伊賀は2月〜3月初旬段階でさっさと抗戦することなく秀吉に降っているし
伊勢は三月の攻防のみ。 神戸関岡本榊原信包小島岡田・尾張で毛利秀頼・毛利広盛・美濃で池田森・信濃で木曽
など一斉に離反がおきまくって池田が佐久間が留守にした隙をついて犬山を奪取したため家康が伊勢戦線放棄して尾張口に兵力を集中させたため
伊勢ががら空き状態になり居留守泥棒的に奪っただけ。小牧長久手後戸木城で秀吉敗北浜田城は7月に奪回
長島桑名などは言うに及ばず手も足もでてないのが秀吉

>>結局、信雄は伊賀と伊勢の半国を割譲して秀吉の主人という立場から臣下になり
割譲なんてしてねぇよクズw秀吉が端から棚ボタ的に留守居泥棒した所がそのまま秀吉方占領地として残っただけだろうがタコ
>>その後の家康の臣従は、信長ばりに妹を家康にくれてやったのになかなか上洛して臣従しようとしないので
>>家康を滅ぼすため、上杉や前田等の諸大名に出陣の準備を命じたら
時系列の誤り乙。家康討伐計画は天正13年秋頃から上杉真田木曽などに当てて書きまくっており、来春(天正14年春)出兵予定だったが、
いざその頃になると秀吉は信雄に取り成し依頼して家康と停戦できるよう必至に取り繕ったり、母と妹を差し出したりして[家康に土下座したら
家康があまりにもかわいそうになって、仕方なく上洛してやっただけ。
(天正14年4/28言経卿記や多聞院日記で朝日姫と家康の祝言が決定されてるのがわかる)