5rw.07MTD6【 六角義賢総合 】6DTM70.wr5
1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 22:44:25 ID:t1EnfPN+
ちなみにスレタイの周りの柄は文字の遠近法の原理を利用して
目立たせようとしたためつけただけで特に意味はありませんので悪しからず。
こうすることで大御所なんだけど地味大名である義賢の字が見やすくなるのです。
「上杉本洛中洛外図屏風」(米沢市)の将軍府を警護する武士の陣幕、
六角義賢の四つ目結び紋という説があるね。
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 23:07:04 ID:L13HOBrm
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 02:52:44 ID:tEgAb63k
なんか運が悪かった人って感じ
野良田合戦
↓
観音寺騒動のコンボで六角氏は完全にノックアウト
どうせなら、六角佐々木全体を語れるスレがいいなあ
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 17:28:35 ID:ItJwvL2z
>>7 >六角義賢、六角氏を語りましょう!その他周辺事象など関係ある事柄なら何でもおkです!!
こう書いてあるから大丈夫だと思われ。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 20:33:15 ID:6WyHrmqB
弓がうまいんじゃなかったっけ?
息子が豊臣秀頼の弓の先生になったんじゃなかったっけ?
楽市楽座は六角氏が一番最初にやったって聞いたこともある
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 22:01:01 ID:2pkM/L6J
吉田重政だっけ
六角定頼の代がピークだっただろうね
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 22:35:06 ID:w2RqhioV
義治は観音寺騒動の原因だね
慶長十七年(1612)没とはいい時に亡くなった
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 21:01:45 ID:mxdRcs1p
六角氏は好きだなぁ
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/31(月) 16:54:09 ID:yYilMOAV
最後はゲリラ化したのね。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 15:55:28 ID:4yGWXAfx
>>13 地味だけどファンが多い気がするよここは。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 22:09:22 ID:Pdn2BSoO
でも六角氏が色々やってくれないと将軍家は大変だったわけだが。
細川春元と義兄弟になれたのは六角にとって大きな飛躍になったと思う。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 22:13:13 ID:PDI0cYC6
ド・ズール・ザビみたいな風雲録顔グラしか思いつかん。
ていうか義賢は箕作氏
六角氏の執権みたいなものだよな
本当は
佐々木と本佐々木の話もきぼんぬ
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 16:56:01 ID:IAon2/FL
あげ
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 15:30:59 ID:ZxNVt28J
>>20 戦国板は出来たばかりだからあまり詳しい人がおらんのだよ・・・;
本佐々木氏はそれこそ平安以前からの土着民で
宇多源氏の佐々木氏と円満融合したはず。
佐々木神社の神主が本佐々木氏の嫡流
以前観音寺城を訪れたけれど、これぞ山城って感じで満喫した。
個人的に六角配下の三雲氏に興味があって
三雲氏単独スレを過去に立てたオイラが来ましたよ。
対明貿易とかやってたんだってさ。三雲氏。
その財政力はかなりのものだったらしい。武の方ではあまり活躍はできなかったみたいだけど。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 05:20:59 ID:9wXVZqLa
ほぅ…
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/20(月) 01:04:17 ID:ugWmqx+N
>28
六角側の史料に出てくる話だからなぁ。どこまで本当やら…。
江原武鑑は立派な偽書じゃん
偽系図の佐々木なんとかだよな。
沢内源内だな。既に江戸初期に偽書認定されてるからな、これ
ただ豊臣大名で江南で10万石を領した六角義郷の存在が
武鑑が記す義実系とのつながりあるいは秀吉との接点を結び付ける向きもある
義秀とかいう佐々貴神社の宮司がいたな。
そいつをいわゆる本家筋としとるわけだ
その偏諱を享けたのが秀吉だとかいう。
なんか六角臭い。
六角必死だよなあ。ところでこの時期(小田原直前)秀吉の周辺には「武衛殿」と呼ばれる人物が
二人登場する。一人は津川義近だが、なぜかもう一人は六角義治。お湯殿の上の日記は
なぜ六角を武えいとのと呼んだのか。なぞだ
えい。
えい久虎
>32
>豊臣大名で江南で10万石を領した六角義郷の存在
というのも激しく胡散臭い話だよなぁ。
日本姓氏総覧(1991/3)のP171では「沢田源内」になってるな。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 23:36:44 ID:TJVzOOJ3
戦国の◆5rw.07MTD6
曲者の多いことよ。
何だか佐々木哲スレになりつつあるなあ・・・
芸風の楽しめない夜だった。
御伽衆になった六角を扱うスレで、芸がないのはいかんのう
弓と笛くらいは嗜んでおきたいな。
六角承禎条書写は非常に貴重な資料であり、
ここには詳細が不明とされている斉藤道三のことが載っています。
これは斉藤道三とその父である西村新左衛門尉の功績が載っており、
今現在も時たま声を聞く道三への誤った認識を払拭するにいい資料だと思います。
スレ違いになるので道三の話はここまでにしておきますが。
六角義秀って何者だ。
49 :
↑:2006/12/27(水) 02:18:58 ID:S+yaobPY
気狂ったの?
50 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/07(日) 04:23:22 ID:7wp3t4sf
>>25 もっと詳しく。
三雲資隆・宗伯について知りませんか?
51 :
霍去病 ◆jNfzY2GRwo :2007/02/15(木) 10:05:17 ID:Y0S5bugp
あげ
52 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 10:09:12 ID:aHhqTqQ8
>>47 内容を少しでも教えていただけると嬉しいのですが。
53 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 22:06:28 ID:m44R5qV4
観音寺騒動があったとはいえ、信長上洛時に箕作城1つが
落ちたくらいで何であんなに簡単に城捨てちゃったんだろ?
甲賀に逃げるなら甲賀と連携してもっと粘れただろうし、
そんな簡単に逃げるなら表面上だけでも協力したフリして
居城と領地はキープしたまま雌伏するって手もあったように
思うんだけど・・・
「信長の勢いも一時的なもの。すぐ巻き返せる」って
楽観しすぎたのかな?
何か資料とか知ってる人いますか?
54 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 22:56:07 ID:db9C63eQ
信長上洛以前にも城を捨てたことあった(そして帰れた)から
癖になったんじゃない
55 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 18:19:36 ID:W5oKK9kI
あげ
56 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 11:12:17 ID:hc+BumqE
観音寺騒動で瓦解したね、その後は豪族の盟主的存在だわさ
57 :
人間七七四年:2007/04/13(金) 23:58:27 ID:NkCu7a5T
58 :
人間七七四年:2007/05/02(水) 19:30:19 ID:Kr1+xN7W
楽市楽座を思いついた定頼は凄い人だな。
59 :
人間七七四年:2007/05/02(水) 20:33:12 ID:6Ec5Jijm
六角さん
兄さん日立製作所のエンジニアだったよ
弟さん日立造船の顧問やってたよ
60 :
人間七七四年:2007/06/04(月) 20:32:00 ID:iq4+XRr6
観音寺陥落後は伊賀でゲリラ戦をやったそうだが、
甲賀衆に食わせて貰ったんだろうか?
61 :
人間七七四年:2007/07/01(日) 23:04:08 ID:AJ/S1tx/
>>60 つうか、甲賀って伊賀同様の治外法権だったのかな?
信長の追及の手も及ばないような。
大津〜鈴鹿(今の国道1号線沿い)は、室町初期から細かい集落が確認できるからね。
戦国期に大きな勢力はいないけど。
63 :
人間七七四年:
暇なんで佐々木氏の全盛期を考えてみた
1・平家滅亡〜承久の乱まで
一族で最大17ヶ国の守護を兼ねた時代
鎌倉幕府の下でここまで威勢を誇ったのは、北条氏以外では例がない
通称「5兄弟」時代
2・室町初期〜中期まで
分家の京極氏が四職の一つに数えられた時代
出雲・飛騨・隠岐などの守護を兼ねて、宗家六角氏を大いに凌いだ
通称「四職」時代
3・戦国初期〜中期まで
分家の分家の尼子氏が山陽山陰8ヶ国の守護を兼ねた時代
中国地方11ヶ国に勢力を伸張して毛利氏を屈服、西海の太守・大内氏を圧倒した
通称「尼子」時代
4・江戸時代
分家の分家(かもしれない)黒田氏が豊前福岡藩52万石を領した時代
秀吉にさえ恐れられた天才軍師・黒田官兵衛が親子二代で成し遂げた
通称「福岡」時代