とりあえず誰か手本を
ttp://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152432786/ に貼られていたのから再転載
いち早く鉄砲の導入を進め、上洛し、
日本全国を武家のもとに統制しようとした。
周辺の有力大名らを敵に回し、包囲網を敷かれる等、
幾度か危機的状況を迎えたこともあったが、
その度に外交交渉や、彼の同盟者や家臣たちの
軍事的な働きによって、その危機をはねのけた。
家臣の謀反によって彼の子供ともども京都で絶命するまで、
畿内での統治はおよそ十数年に及んだ。
その晩年には、旧来の有力家臣が相次いで粛正される等の
事件もあり、もしかしたら、この謀反には、
このときの粛正が関係しているのではないかと言う者もいるが、
謀反の背景については、依然日本史の謎の一つである。
また、鉄砲の普及に伴い、それまでの木の柵と土塁からなる城に、
新たに石を多用するなどした新時代の築城術を模索したことでも知られる。
城下には鉄砲鍛冶を集め、キリシタンの教会までもその領内にはあったという。
度々仏教界と衝突しながらも、その存命中はキリシタンを保護
し続けたことでも有名であり、金銀を豪奢に用いた彼の宮殿は、
彼の死と共に完全に焼失してしまったが、その内部の様子については、
彼の庇護を受けたフロイスら宣教師が、その著書や書簡に
詳しく書き残していることなどから、窺い知ることができる。
美術面においては、新進の絵師狩野永徳を重用した。
おそらくは焼失した彼の宮殿も、永徳の手になる様々な絵画で
飾られていたのではなかろうか。
最近の学説においては否定する人々もいるが、
上杉謙信にこの永徳の手になる洛中洛外図を贈ったのは、彼であるともいう。
織田信長……………じゃなくて足利義輝。
『甲斐の虎』こと武田晴信(信玄)の宿敵ともいわれる戦国大名。
漢字一字の軍旗を用いた。
信玄に追い落とされた信濃の敗将を迎え入れ、
北信濃の地を巡って信玄と数度にわたる激戦を繰り広げた。
信玄を信濃から駆逐することは叶わなかったが、
その軍略で武田家譜代の臣を多数討ち取り、天下に勇名をはせた。
「人は石垣、人は城」として家臣を上手くまとめた信玄とは対照的に、
配下の反逆を数多く経験しており、その政治力は信玄に及ばないと見る向きが多いが、
滅亡の憂き目にあった武田家と異なり、
子孫は上杉一門の名跡を近代にまで残している。
なお、塩不足に陥った武田領に塩を送ったという事実はない。
上杉謙信……………じゃなくて村上義清。
>>2駄作でいいのなら…
・隣国の騎馬軍団を撃破したが、現代では騎馬軍団の存在が疑問視されている
・部下に何度も謀反を起こされた
・特定の宗教勢力に激しい弾圧をした
・晩年は精神異常をきたしていた
・敵に攻められ自殺したあと遺体は燃やされたが、生存説も高い
・彼を主人公にした戦略シミュレーションが発売されている
・後世の歴史家からは大悪人のレッテルを貼られたが、現在では再評価の動きがある
織田信長ではなくアドルフヒトラー
スレ復活キタワァ*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゜゚・* !!!!!
それ張ったの俺。前スレの職人に敬意を払いつつ自作張ってみる。
中国地方全域に覇を唱えた大名。
父の急逝により若くして後を継ぐ。
名は将軍より一字を拝領している。
家督相続の前後より東部へその勢力を伸ばしており、一時は備前・播磨の辺りまでその勢力下とし、
因幡守護の山名氏や備前の浦上氏もかの勢力に従属していた。
この如何によっては上洛することをも視野に入れていたらしい。
西国へも意欲的に出兵しているが、結局失敗に終わっている。
偉大なる祖父からは力量を疑問視され、当時の史料からも器量を問う言葉が残されている。
その祖父の死後も彼を支える一門衆の力が強く、
当主として思うように力が奮えなかったようである。
このことが要因か、のちに敵方の大名の謀略に嵌り(異説あり)、自己の勢力を大きく損なう。
最近の研究では、領内政策のためには一門の粛清をも辞さない
冷酷で我の強い一角の人物であったと見直されている。
毛利輝元……………じゃなくて尼子晴久。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 23:57:56 ID:mH4fhvS0
相当の知識が無いと難しいな。
とりあえず職人さん乙。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 01:00:28 ID:lbvwCkak
西国の名将の四男。
最前線地域を領し、敵勢力との戦いに明け暮れ、その智勇を存分に発揮した。
秀吉の軍勢とも戦い、その軍略・人柄・忠義は敵方である秀吉らにも大きく評価された。
実は兄三人が正室の子であるのに対し、彼は妾腹であったため、
その心のうちに複雑なものを抱えていたのかもしれない。
豊臣政権の治世の中没したため、天下分け目の関ヶ原ではその采配を振るうことはなかったが、
彼の血を引く子が彼の地へ参陣している。
周知の通り、西軍は一枚岩ではなかったため、彼の軍勢は思うように動くことはできなかったが、
彼の戦意は旺盛であり、歴史が一歩ずれていれば
家康の軍勢に大打撃を与え、その天下を遅らせることもあったかもしれない。
島津家久……………じゃなくて穂井田元清。
ちょっと無理やりすぎるか。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 16:42:56 ID:S9ifT6Z0
>>4 謙信じゃないって前提で読んだからわかったw
しりぞけたってのはいいね
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 02:46:32 ID:hGavb28F
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 02:57:49 ID:hGavb28F
信長
戦国時代の武将。
永禄年間に上洛を果たした。
その後、重臣の反乱により命を落とす。
しかしその反乱には黒幕の影が見え隠れする。
つまり、本当の黒幕は三戸南部晴政であり、晴政が八戸南部家の重臣・新田行政を操って
八戸信長を追い落としたのではないか、ということである。
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 03:38:30 ID:DVTvZHzQ
アレだ本家にあった今際に炎の中で踊ってたホモの人のヤツ、アレが最高傑作だな
>>5 >・隣国の騎馬軍団を撃破したが、現代では騎馬軍団の存在が疑問視されている
そうだったんだ。ポーランド人もそこまでバカじゃなかったってこと?
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 09:07:59 ID:MQ98WFVo
/;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\
/;;;;;;;;;::::::::::::::::::::::::::::;;;;;;;;;'i,
/;;;;;;;::::::::::/:::/:::/:::/ ̄^ミ'i,;;;;'i,
|;;;;;/::::::#//:::/:::/:::/ 淀 ミi::::|;|
/ ̄\ |;;;;|::::::/ノ::ノ::ノ::ノ |::::|;|
,┤ ト|;;;;|:::::::| (●) (●) /:::/;;|
| \_/ ヽ;|:::::::| *\___/*ノ:ノ;;;;;|
| __( ̄ |:::::::| __ \/ _ ノ;;;;;;;;;;;|
ヽ___) ノ;;;'i,::::::'i,;;;;;;;;;;; ̄  ̄ ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|
1の母でございます。
このたびは、息子がこのような素晴らしいスレッドを立てるに
至ったことに、人として、また、1の母親として感動に打ち震えている
次第でございます。私は今、とても誇らしい気分でございます。
息子は幼い頃に父親を亡くしましたが、そのせいもあってか自立心のあふれる
当主に育ちました。徳川政権下でも諸大名の人気者で家康公より上の右大臣もつとめて
おりました。この年になるまで、私どもには何の心配事や迷惑をかけたことが
ございません。この2ちゃんねるというサイトを知って以来、息子の生活は
ますます充実しているようでございます。「今日も2ちゃんでね、愚臣がさあ…」
と、とても楽しそうに夕食の時に話してくれるのです。
どうぞ皆様、息子をよろしくお願い申し上げます。
1の母より
>>11 前に俺が書いてスルーされたやつじゃねーか
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 13:15:52 ID:4i+s+RAn
17 :
前スレからコピペ:
風流を愛するいくさ人。妻子を捨てて自由気ままに生きた。
信長、秀吉に大きく関係する大名の一族でもある。
当時の教養人と多く交わった。武勇、膂力は衆に優れ、数々の武功をたて、
家中でその名を知らぬものはなかった。天下人秀吉とも面識があり、家臣に
欲しがるほどの男ぶりだったという。
彼は一箇のもののふであり、教養のある人であった。決して歴史上において
名高くはないが、その生き方には深く感銘をうけ、共感するものも少なくは
ない。
荒木村重