1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
なのに信玄は名将扱いで勝頼は凡将扱い
義信を殺したのは大失策ですね。
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 17:49:17 ID:b4uVQ28r
義信だろうか勝頼だろうが信長に滅ぼされる件
義信が死ななければ織田と婚姻関係が出来ていたかも知れないだろう。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 18:00:32 ID:b4uVQ28r
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 18:05:25 ID:xIfJXNJ9
信玄は親父にひどいことしたよね(´・ω・`)
信玄がきちんと健康管理をしていれば
あの重要な局面で病没する事はありませんでした。
だから元亀2年に八方塞の織田家は滅亡していたかも知れません。
今川家を平和裏に吸収していれば義信の反発はなかったし
義信の嫁を北条家から取っていれば今川家が滅亡していようと問題は起きませんでした。
義信を殺したために他家にやった諏訪四郎勝頼を世継ぎにしなければならなくなりましたが
側室の子でありなおかつ他家にやった子を跡継ぎ扱いに出来ず、
四郎勝頼を息子が元服して武田家を継ぐまでの間の後見人という立場にしか出来ませんでした。
四郎勝頼が武田家の当主ではない後見人だったために、
信玄時代からの家臣は四郎勝頼の言う事を聞かず亀裂が生じました。
勝頼は仕方なく若い家臣を自分の側近にして譜代の家臣とは距離を置くしかありませんでした。
本来なら信玄の時代に本拠地を諏訪に移すべきでしたが信玄はそれをしませんでした。
そればかりでなく甲府から諏訪の間の、何度も行き来した道すら整備しませんでした。
織田家の勢力が強くなり、本来なら諏訪か高遠辺りに本拠地を移すべきでしたが
本人が諏訪の人間だったために甲斐国内の韮崎に新府城という、
戦略的に全くもってムダな地に城を建てざるを得ませんでした。
四郎勝頼は武田家の人間ではなく諏訪家の人間だったので、
武田家の親類であるはずの小山田や穴山などが次々と離反しました。
どう考えても全部信玄のせいです、本当にありがとうございました。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 18:12:35 ID:b4uVQ28r
>>8 毛利家は隆元が死んだあとに
他家に養子に出した吉川元春や小早川隆景を毛利家に戻して跡を継がせたりせずに
隆元の息子である輝元を跡継ぎにしました。
織田家は信長・信忠の死後(以下略)
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 18:24:51 ID:b4uVQ28r
>>9 嫡子・義信…謀反
二男・竜芳…盲目で脱落
三男.信之…夭折している
四男・勝頼…健康
五男・盛信…仁科家を継ぐ
六男(7男?)・信清…元服しておらず
誰を継がせるの??
>>10 だからぁ、義信以外に武田家を継げる人間がいなかったんですよ。
信玄は義信だけを跡継ぎとして育てて勝頼以下はその家臣として教育したんですよ。
それが裏目に出ちゃったという事で。
武田家は信玄の独裁政治ではなく、
家臣が合議で決めた事を信玄が承認するというシステムでした。
信玄は自分の死後の後継者を勝頼の息子である信勝にして、
勝頼は信勝が元服して武田家を継ぐまでの後見人にしか出来ませんでした。
結果として勝頼は思うように身動きが取れず、凡将として扱われました。
正式には、信清が信玄を継いで、勝頼は後見なんじゃないか
>>10 だから義信を殺すべきでなかったと言うことなんだろうが、長男が病気で早死になんてざらだし、気にしてもしょうがない
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 18:36:09 ID:b4uVQ28r
>>14 義信が謀反を起こす原因を作ったのも信玄でしょう
じゃあ信玄がいなきゃよかったんじゃないか?
そんなものは詭弁です
1、機が熟して謀反を起こす。
2、命の危険を感じて、止むを得ず謀反を起こす。
義信は2だね。
21 :
鳥屋 ◆Mzllk81HNE :2006/07/23(日) 21:07:21 ID:9PpBcWet
>>20 え?大河?大河の内容は知らない。
これから言うことは、自分が思っていること。
まず『今川攻めに不満をもって謀反を起こす』というのは、どう考えておかしいだろーが。冷静に考えたらよ。
妻の実家だかなんだか知らないが、たったそれだけの理由かよ。
今までの日本史で、そんな軟弱な理由で『謀反』という大それた事を犯した馬鹿息子が他にいたかよw
ぜってぇ真実は別にある。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 21:08:45 ID:9hO6NVKT
妻の実家というより同盟破りが問題
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 21:17:40 ID:ybTKrxA7
>妻の実家だかなんだか知らないが、たったそれだけの理由かよ。
ああ、やっぱり大河ドラマの鵜呑みかwww
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 21:20:01 ID:yFNWcdYt
別に嫁が可愛くて今川攻め反対したんじゃなくて
今川と同盟破棄する事は三国同盟の崩壊を意味するから
上杉、北条、今川と周囲を敵にして孤立する事を危ぶんだ政治的対立だろ
>>24 それよりも、今川と縁戚関係にある義信と
今川側の家臣と縁戚関係にある武田家家臣が結託して
あーなってこーなったんだよ!間違いないよ!
26 :
鳥屋 ◆Mzllk81HNE :2006/07/23(日) 21:42:49 ID:9PpBcWet
>>23 >>24 あっ!まって!まって!いや、あの、その…無念ガク…
てか待てよっていってんだ惚け!
わかった!悪かった!謝る!
>>24 なるほどそうか!でもそれでも謀反は飛躍しすぎだろ!なんの根回しもしてねーのに、成功するわけねーだろ史ね!
むしろ彼は追い詰められてた!父親によ!
ソース?ねーよ!へそ噛んで泗ね!
ああ、みなさん本当すいませんでした!そこらへん詳しくないんですよww w wwwwwwwwww
もうでしゃばりませんっての!いいか?わかったな皮カムリども!
あばよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwまじ史ねおまえらすいませんwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 21:54:48 ID:vOK4WWRb
んでも勝頼も可哀相だな
信玄が周囲引っ掻き回して織田、徳川、上杉、北条と四面楚歌の状態にして
もうだめぽ後はよろしこだもんね
ちょwwwこの糞ジジイどうすんだこれwww
という気分だったろう
勝頼自身の唯一の失策は北条と手を切って上杉と同盟した事くらいかな?
譜代家臣と折り合いが悪かったなら
なおさら真田を頼ればよかったのに・・・
>>28 実はそれは信玄の遺言らしいよ。
信玄が上杉と同盟しろと息子の勝頼に言ったそうだ。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 00:13:43 ID:DWnkYMxE
てか謙信も自分が氏んでから家を衰退させてるから似てる面があるんだね
もし何らかの拍子に信長軍団が勝頼を追い詰めてきたところで信長が氏んで秀吉が実権握ったら勝頼は景勝みたく柔軟に対応しただろうかね。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 00:21:48 ID:73xr+Q2g
まあ信長軍が本気で攻めに転じる直前という
あるいみ最高のタイミングで信玄も謙信も死んでるんだけどな
死んだから信長が攻めに転じたのか、たまたまなのかは分からんが
>>31 無勢で長篠に挑んだぐらいだから、屈伏するとは思えないね。
一敗地にまみれてないからなおさら。
外征しまくりだし、高天神場に異常な執念を燃やしたりととにかく好戦的。
長宗我部にしても島津にしても北条にしても、はじめ抵抗したわけだから、勝頼がはじめから弱腰になると思えない。
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 10:36:07 ID:l1jSanr1
武田氏の滅亡の伏線は信玄の代から始まっている。
義信の廃嫡は間違いなく失態。
信長という時代に逆らったのも、そもそもの間違い。上杉は征伐される順位
が後だったから助かった。
信玄を英雄と信望するあまり非を全て勝頼に押し付けるのは筋違い。
新羅義光以来の名族の滅亡は岩村城奪取の時から、すでに始まっていたんだよ。
勝頼は頑張った方だよな。
かなり抵抗してた。少なくとも勝頼の業績をもう少し評価してよいと思う。
>>34-35 同意
信玄が無能とは思わないが、滅亡の責任を勝頼に押しつけるのは大間違いだろう
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 02:53:39 ID:I78YUid9
まあでも勝頼も勝頼で長篠でポカしたのが痛かったな、名将たちが犬死にしまくりだし…武田家臣団崩壊のきっかけになるわけだし。
義信がいりゃあな〜
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 07:50:13 ID:R8h8CwtI
>>37 ぶっちゃけ50を過ぎた爺たちだからボケてたんじゃねーの?
山県や馬場、内藤がいながらにして勝頼を思い止まらせる事ができなかった
なぜだろう?
長篠の合戦は勝頼がうるさい爺どもを皆殺しにするために仕掛けた壮大な計略(^-^)
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 10:15:16 ID:CK3alXi5
42 :
公孫参:2006/07/25(火) 10:21:50 ID:NZLyEYWC
勝頼は要所要所で選択間違えてるよなあ…
確かに義信斬ったのは失策かもしれんが、あのままだと武田が伸びる余地が殆んど
ないんだよな。
謙信に勝てない信玄が悪いっちゃあ悪いんだが。
甲斐・信濃よりも遥かに豊かな土地、更に港と金山まで手に入れたのだから成功でしょう。
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 11:13:00 ID:PDM6PtuI
義信の死から信玄の死まで5年あったのに勝頼に跡を継がせるための
下準備が全く出来てなかったのが一番大きいな。
生前に家督を譲って形式でも当主として活動させていれば
信玄死後もスムーズに勝頼を当主とする体制に移行できたと思う。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 12:53:25 ID:BNPoLnsa
勝頼に継がせると諏訪が実権掌握する、もしくは先方衆→旧今川と結託されるっつう甲斐の人間の危惧を払拭する努力は充分だったと考える?
信長の勢力拡大に追いつけず、国力で圧倒されて滅ぼされただけ。
信玄のせいではない。
北条を敵に回した時点で、信長の軍門に下る手はあったかも知れない。
関が原の時点で5大老の地位にいれば、武田幕府が実現した可能性もある。
但し、これは後世から見た最善策であって、
勝頼は、その時代を生きた武将として、頑張ったと思うよ。
>>47 とりあえず
>>7を読め
それでも分からないなら書きこまなくてもいいよ
すわっこランドっていい?
ちなみに、信玄が生きてた頃の織田と武田の関係は
織田が必死に懐柔工作をして武田家といい関係を築き
武田に西上させないようにしていました。
娘を武田家に嫁がせて、事あるごとに高価な貢物を送っていました。
ただ単純に高価なのではなく、桐の箱に武田の家紋を入れさせたりして
贈り物だけでなくそれを入れる箱さえもかなり凝った物を送っていたようです。
信長の信玄に対する念の入れようは相当なもんです。
それもこれも、信玄の時代の織田家は領土が急激に拡大して兵力が分散している上に
領土内では本願寺、一向宗、長嶋、雑賀などの一揆が盛んに起こり、
領土の周囲は敵に囲まれていたからです。
織田と武田が全面戦争をすれば兵力では織田が圧勝するはずだけど、
織田は兵力を一方面に集中出来ない状況にありました。
その証拠に織田は三方ヶ原では佐久間の手勢を援軍に送っただけで徳川を見捨てざるを得ませんでした。
とりあえず京都から岐阜までは戻ったけど何も手が出せないで動けませんでした。
というか、わざと手を出さなかったのかも。
美濃あたりまで攻め込ませて武田軍を消耗させておいて叩く作戦だったかも。
いずれにしても武田は織田領内に深入りすれば確実に負けます。
西上作戦開始前の時点で武田には3つの選択肢がありました。
西上して織田を潰すか、西上せずに今までどおり織田とは表面上仲良くしつつ深慮遠謀で苦しめるか、
完全に織田と仲良くするか。
信玄の西上作戦はかなり無理がありました。
実は武田家の国力はそれほど高くはないから、
順調に行ってもせいぜい美濃ぐらいまでしか到達できない、
あとの兵糧は敵地で奪うみたいな無茶な作戦でした。
(実は上洛しようとまでは思ってなかったのかも、という珍説もあるくらい)
そんな無茶な作戦を敢行してでも上洛しようとしたのは、信玄の健康上の問題があったからです。
しかし無茶な作戦を敢行するからには、絶対に成功しなければなりませんでした。
多大な出費をして、出費しただけでそのまま国に帰れば、国の経営は破綻します。
それほど無理して行なわれた作戦だったのです。。
まさに信玄が財政面で国家滅亡のトドメをさしたのが「無茶な西上作戦」でしたね。
結果として信玄が死んだおかげで反織田の勢力は衰え、逆に織田は息を吹き返し、
織田は悠々とひとつづつ潰して行きました。
3年後の長篠の合戦では、武田には最早なすすべがありませんでした。
兵農分離も出来ない貧しい山国の農民兵や、
唯一の自慢である時代遅れの騎馬軍団は最新鋭の鉄砲隊の前に壊滅しました。
最後の2行が蛇足だったな
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 08:22:14 ID:MeHdK15F
身内を追放する信長が弱ってる(勝てる見込みのある)他家をそのままにすると思うか?
信玄だろうと誰であろうと滅ぼされるよ。
時代が悪かった。
それだけ。
>>50 なんで貧しい山国と書いてあるのに騎馬軍団とやらが作れるんだ?
金山じゃない?
信玄も勝頼も良将だけど、なにか抜けてたのか。
信玄は大きい山賊ってとこか。勝頼はがんばったが、やはり不幸か。
>>53 ・当時の馬は買うのではなく武将自ら持参が基本。
よって、騎馬軍団作ったところは大概名馬の産地
・あと、当時の馬はいわゆる道産子や南部馬のようなポニーのような
馬なので、今のサラブレッドやアラブと混同してはいけない。
武将も身長150cm前後しかないから、バランスとしてはイインでないの?
俺はばんえい競馬の馬のほうがサラブレットよりも怖い
>>52 他人の発言が読めないのなら、
こういう所に書き込まないようにしましょうね
>>55 信玄の末期の頃には金山などすでに掘りつくしています
信長主役の大河ドラマでは
足利義昭の信長包囲網→信玄軍備(2万)、進軍開始→信長「もはやこれまで・・・」→信玄死亡、軍が引き返す
だった希ガス
信玄が1年長生きしてたら信長オワタはず
>>60 でもそれは緒形直人が主演したキチガイドラマだろ?
そのドラマだけは何のソースにもならんから記憶から抹消してください。
そうなの?
光秀「波多野秀治殿は?」
信長「斬った」(無表情)
光秀・秀吉「・・・」
のシーンがすごい記憶に残ってる
あと今川義元のナヨっぷりに吹いた
話題のLOOPやんか
散々、語り尽くした話題ばっか
アジア圏では大概兵科毎に軍団を分けるなんて真似はしていない罠。
あれは焼き討ちがやり難い西欧で普及した方法だよ。
>>48 異論に対して明確な反論をせず、「書き込むな」はないと思うよ。
少なくとも、
>北条を敵に回した時点で、信長の軍門に下る手はあったかも知れない。
>関が原の時点で5大老の地位にいれば、武田幕府が実現した可能性もある。
のIFがあるので、「100%」は間違い。
勝頼だって大変だったが、信長だって家督を継いだ時点では大変だった。
織田家は分裂状態だったし、今川という巨大な隣国が存在していた。
信玄の死云々より朝倉がへたれだったのが誤算だったと思う
まあ武田家がもちあげられすぎなだけだな。
後の天下人に一回勝ったから大層に言われるだけ。
信玄がうまく勝頼に継がせても滅びたと思う。
当時すでに織田家との国力差がありすぎたし。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 01:24:06 ID:9tlYpDDn
>>67 他人の発言が読めないのなら、
こういう所に書き込まないようにしましょうね
朝倉も上杉との共同作戦で加賀制圧を図ったことがありました。
関東の都合で上杉が撤退して、果たせなかったけど。
でもへたれと言われても当然か。織田には一度領地に攻め込まれているから。
武田信玄の西進作戦については、織田軍と決戦するよりも、圧力を掛けて武将・豪族たちの離反を促す目的が主だったのでは?
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 03:00:12 ID:8KbBhxBk
(実は上洛しようとまでは思ってなかったのかも、という珍説もあるくらい)
私は上洛しようとまでは考えていなかったと思いますけど、
その理由は兵農分離ができていない時代なんで(信長は別)
秋には兵(農民)を自国へ帰らせなければいけないわけで
もし秋になっても兵を帰さなければ脱走兵が出てきて
負けるのはわかりきったことだからです。
秋も出兵してるが。
信長だって兵農分離できてたわけじゃない。
>>70 その説で行くと今川義元も上洛する気がなかったという事になる。
1シーズンで上洛が完了しなくても最前線に拠点を作っておいて
次のシーズンはそこからリスタートすればいいだけの事だし。
>>71 将校以外は農民の武田軍と、
兵農分離が出来ていて補助的に農民兵を起用する織田軍を比較して
「完全な兵農分離じゃないから同列だ」と言い張るのは無理がありすぎw
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 03:36:39 ID:c9nRJoAN
義元は将来上洛する為の布石として尾張攻めたわけで
あのまま上洛する気なんかなかっただろ
つうか無理
上洛する気がないなら、
尾張相手にわざわざ義元本人が出陣する事はないし
長期の出陣を考えていないのであれば、
米の相場が高騰するほどの米の買い占めなどはありえないと思うがどうか
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 11:56:11 ID:a5WDeLLI
とりあえず今川は置いといて
武田は将軍義昭などからの再三に渡る上洛の要請に
ようやく応じるような形で出陣してるし
ただの掃闘作戦だとすると費用がかかりすぎだし
重病の信玄が出陣しなくても良かったはず
ていうか、信玄のすごいところは息子ぶっ殺した挙句池沼極まりない
四面楚歌状態を作っておきながら今川を潰し、北条とは同盟し、上杉
を抑えながら織田徳川領に侵攻できたところだろ。
>>74 一国の平定はそれほどの大事。
名将とされる武将でも生涯に切り取った国を数えてみればわかる。
>>75 織田・徳川から大量の離反者を出すには本気の姿勢を示す必要があったのでは?
たしかに、武田家滅亡の遠因を作ったのは、信玄だろうね。
しかし、義信が生きてたとしても、彼に武田家を継げるだけの器量があったのかどうかだろう。てか、川中島の戦いで信繁を死なしたのは義信のようなものでは?
義信が血気にはやって 上杉陣営につっこんだことにより、作戦が変わってしまった。
そのことを、信玄は恨んでいたからでは?もしそうでなかったら、優秀な家臣が残ってて滅亡はなかったかも。
あと金を使いすぎてて、金山が枯渇したから、駿河を攻めたんだろう? 勝頼は、信濃を押さえるための重要な切り札だったはず。なんせ
諏訪氏の血を引くものだからね。
信繁死ななきゃよかったんじゃね?
信繁が死ななきゃおそらく生き残ってたかと。あるいみ、義信のせいで死んだようなもんだし。
信繁が生きてたらどうなっていたと言うのか
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 16:15:46 ID:749NOY7B
答え:どうにもならないでしょう
信繁が生きていたところで勝頼が暴走して謀反でも起こしていた可能性の方が
大きかった気がしなくともない。
あ、でも信濃だけ独立したとすれば信繁が織田・徳川と組めば生き残りだけは
できたかもしんない。まあ、その場合問題になってくるのは信豊だけど
どう考えてもダッチロールなんだよなあ・・・
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 17:20:00 ID:eBlUT50z
武田家は織田家の様な独裁的な物では無く、豪族の集まりの中の盟主としての武田家
だったんだろう。基本的に合議制で進められ、それじゃ時間が掛かるので勝頼が独裁的
行動するようになり家臣豪族に反発食らったのではないか。長篠でも戦わずに撤退した
家臣がいたし。
そんな橙色の雑誌みたいな。
>橙色の雑誌
ワロタ
ちょっとまて。
義信の暴走で信繁が死んだって、それフィクションだから。
>>84 穴山梅雪「いわれなくてもスタコラサッサだぜ」
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 22:45:31 ID:l304PyJD
勝頼も長篠の前までは着々と領土拡大していた件
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 22:55:51 ID:D3v1eYnI
>>84 同意。だから兵農分離もすすまなかったんだよね
そんな武田家に激震が走る。【1564年 甲尾同盟】だ。
さっそく今川家から「織田とは仲良くすんな(怒)」という
使者がやってくる。
勝頼は、急ぎすぎたんだよ、織田家のように独裁的にしようとしてさ、信玄が死んでからすぐにやっただろ?
それに、勝頼は、諏訪氏の方の流れだったから、家臣団からは、余所者的な扱いだったんだろうね。 名前でも分かるように。
義信が死んでから、勝頼を跡継ぎにした、この期間が原因の一端かと、義信は、常に、信玄の元にいて帝王学を学んでいたが
勝頼は、信濃にいたからな。 まぁ信玄が勝頼を手元において義信と同じようにしてたら、滅亡しなかったかも。・・・
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 17:16:29 ID:dq8Y1bQb
信玄が偉大過ぎたせいで、息子達は常に家臣から比べられたのは可哀想だな。
勝頼は父親に政治力も器量も及ばないのに諏訪家と武田家という2つの名門の血を引いてるだけでプライドが威容に高かったから家臣からも北条氏政や上杉景勝からも嫌われてたわけだからな。
でも例えば信玄が早死にして義信が家督をついでたとしても、今川義元を討った信長に敵意を持ってたと思う。
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 18:35:39 ID:V0wjqKXl
97 :
さなだ:2006/08/01(火) 19:56:15 ID:Z24IrDUi
〇月×日、今日海津城のすぐそこに越後勢およそ13000がきた。
こんなちんけな城じゃあ軽く落とされるな〜、信玄のバカ!はやく援軍にこい
〇月××日、謙信は海津城を素通りして才女山に陣どった。
なんで攻めてこないんだろう。不安で夜もねむれない…
〇月☆日、信玄が大軍つれてやってきた。何日たったと思ってんだカス!私は物見櫓から叫んでやった。
>>95 「信玄は偉大」とかいうアフォな話になったのは
甲陽軍鑑が武士の初等教育の教科書になった江戸時代の話
99 :
雑兵:2006/08/01(火) 20:13:46 ID:Z24IrDUi
〇月!日、信玄が茶臼山から城にきて数日たち今日軍議があったみたいだ。近々妙な作戦を実施するみたいだ。ワクワクする。
〇月±日、明日は作戦が実施される、俺は城の守備兵だから戦場にはいかねえよ。
まあ信玄の作戦とやらみせてもらうよ
おっと、明日のための炊きだし手伝わないと
〇月◆日、戦があった。俺は仲間たちと櫓の中でドブロク呑みながらゆっくり観戦した。
信玄の栽可した作戦はもうバレバレでね、別働隊がくるまでボッコボコ。信繁さんたちが死んだみたいだった。みんな信玄の悪口いいながら呑んでた。
まったく、寡兵相手にあんなみっともない戦しやがって。
☆月#日、両軍痛みわけたあの戦から数日たったが越後勢はまだすぐそこに陣どっている。ったく、早く帰れよと思った
100 :
武田てつや:2006/08/01(火) 20:26:16 ID:Z24IrDUi
100とり
プライド?勝頼が降伏したくとも、できんやろwwww
信玄時代の重臣ころされるwwwwww金正日と同じwwwwwwwwww
上杉景勝?彼は臣従してなかった?武田家に
夏休みになるとこんなバカでもこの板に来るんだな
信玄はなんとかして小田原城を落とせなかったものか。
せっかく敵の本拠を囲んだのに一日で引き上げるなんてもったいない。
北条領国を併呑すれば織田とも互角に戦えたはず。
国力では北条のほうが圧倒的に上
>>103 関東はもともと肥沃な土地で平野が多いため各土豪がそこそこの
兵力を保有しており、一北条を倒した(小田原を落とした)からと
いって完全制圧なんて夢のまた夢。
さらにいえば武田の国力では小田原を落とせてもその後の統治は
上手くいかない、損害は回復しない、謙信が出張ってくる…って
感じで滅亡を早めるだけに終わる気がする。
>>105 落としたとしたら、関東の覇者北条の本拠を落としたという政治的意味は大きいだろう。
力攻めも長期包囲も無理だから、落ちないとは思うが。
むしろ自称関東管領のバカ謙信の侵攻理由作るだけ<武田の小田原侵攻
コーエーゲーでも、北条で初めて武田今川併合する方がラクだしな
勝頼も後年になると集権化や軍制の改革、商業の強化なども行っているけど
遅きに失した感…
逆に信玄があと10年早く死んでくれていれば
なるほど
これは新しい
1563年信玄死す!
義信が跡を継ぎ親今川路線で美濃へ向かう
東濃の遠山を降して斉藤織田でgdgdの西濃に進軍
うはーゆめがひろがりんくw
どっちにしろ「東の浅井・朝倉」になっちゃうかw
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/09(水) 15:22:23 ID:VcCuown0
だな
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/09(水) 17:35:26 ID:zLLDWSGX
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/11(金) 15:43:21 ID:VvRGGMCM
もしもでいいなら、信玄と家臣のクーデターが成功しなければ。信虎の独裁で
一環した戦略のより素早く領土拡大させ、信長より早く一大勢力が築けたかも。
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 22:09:49 ID:6Zef7Iyn
どうも最近の「信玄の責任にして勝頼を評価する人=歴史を知っている人」みたいな
風潮は行き過ぎな気がするなあ
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 22:14:24 ID:74ZkUZn3
信玄の幽閉が成功していたら
天下とれた?
>>118 武田滅亡の責任は勝頼が無能だったからであって信玄とその家臣団は優れていたと考えてる人よりかはマシかと
山県にしろ馬場にしろ昔は無能な勝頼のせいで死んだとか思ってたけど今となっては2人ともただのバカだとしか
>今となっては2人ともただのバカだとしか
これもいき過ぎというかなんというか……
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 22:54:53 ID:XyJO+XLN
>>119 義信にそこまでの器量があったかどうか…
未知数ですな
>>120 香ばしい意見ですね。
信長厨はどうしようもないなw
関東の大名の評価は
すべて天下を取った徳川目線なんですわ
家康に圧勝した信玄は最強で→ガチでやりあった北条上杉も最強→
その武田軍を破った織田も最強な感じで
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 23:16:36 ID:I+gE7aKW
書き込みのはやきこと風の如く
他人と会話せざること林の如く
ネットで煽ること火の如く
部屋から動かざる事山の如し
,ィ __
,. / |´ ̄`ヽー- 、 ト、 , -‐、/./.- 、
/ | | ヽ l l ( 火◇風 ノ
/o ̄`ハ._.ゝ===┴=く.ノ- 、 ノ ◇ ◇ (
/o O / l´ ⌒ ⌒ lo ',ヽ ( 山◇ 林 }
\___/. ト、( ●) (●) ハ ∧ `⌒/7へ‐´
/ ,イ レ::::⌒(__人__)⌒l~T--‐彡 /./
/ ̄ ̄l. 彡、 |r┬-| ノ'l l::::::::::彡ー7⌒つ、
彡:::::::::::l ト、__ `ー' /| l::::::::::::ミ {,_.イニノ
彡ソ/ノハ ト、 \ / ,イ 川ハ ヾー‐'^┴
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 23:18:17 ID:e8X91/Zp
そもそも信玄がどうとか言う前に、織田が大きくなりすぎただけじゃね?
さほど先進地域じゃない甲斐と信濃と駿河の一部しか支配していない武田と
畿内全域を手中にした織田じゃ経済力や軍事力の点で劣勢なのは明らか。
大名自身の器量ってのは大名家が大きくなる一つの要素ではあるけど、決定的ではない希ガス。
だから、織田が畿内全域を手中にしていなかった頃しか戦っていない信玄と
勝頼を比べるのは酷じゃないかと。
128 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 01:56:24 ID:xo0PgBVC
武田滅亡は地政学的に仕方ないと思うがね。
要するに織田家に近かったから本能寺の変より早く滅んじゃったというだけの話。
信長に喧嘩売ったのは秀吉の代になっても関東独立でいけると思ってた
北条よかよっぽど正しい判断と思われる。
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 02:12:53 ID:UD9/L/f5
滅びた大名同士で比べて正しいも糞もあるかよw
勝頼という人は
信玄と信長が対戦している将棋の試合を
詰む7手くらい前で信玄から引き継いだようなもんだよ
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 02:23:38 ID:dTX0nj87
あるわな
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 02:33:53 ID:lzHZsyyh
やっぱり勝頼の最後に従った家臣の数から考えると
人の上に立つ者として欠けたものがあったんだろうね
>>129 すごいゲーム脳ですねw
ところで本能寺で信忠まで殺られて、三法子の生殺与奪を秀吉に
握られてた織田家って滅んでないうちに入るのか?
>>132 そんなもんだろ
滅亡の時なんてのは
ドアホ
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 04:25:06 ID:l3eKM7B6
信玄が自分が死んだ時点で武田の天下統一は無理と判断し
勝頼に自家の存続のために天下をあきらめろと遺言できなかったのが悪い。
>>132 戦国時代を江戸以降の儒教目線で見るとそうなるよ。
武田信玄の刀持ちの人の名前とか知りませんか?
死ぬ前から天下統一なんて無理だし、そもそもそんな考え方が武田家にあったのかと。
勝頼は親父を恨んでいただろうか。
それでも意地のある武田家を盛り上げるために必死だった。
立派な息子だよ。
仮に信玄の上洛が成功したとしても足利幕府の副将軍になるのが精一杯だろう
幕府と足利将軍家が健在なのだから、将軍と顕如に催促されて上洛した信玄には
武田氏名義での天下統一は不可能だよ
もし信玄が義昭を追放したら第二の信長扱いになって
上洛した意味がなくなるだけでなく武田家の維持も不可能になる
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 12:09:49 ID:RfsaZdTu
しかし二万五千が40人になったのは戦国のギネスものだよな
やっぱり勝頼は人望がなかったんだろう
豪族や土豪がついていかなかった、という点でなら、それは仕方ないこと。
彼らには彼らの利益があり、その利益を守ってもらうために武田についていた。
武田に、彼らの利益を守る力がなくなった以上ついていくことはできない。
戦国期には、まだ儒教的な忠誠なんてもとめられていないのだから。
これは個人のカリスマの問題ではない。
もっとはっきり言うと「力、軍事力=カリスマ、人望」に近い。
ID変えてまで勝頼貶めたいのかな?
悲惨さが際立つ、という意味では諏訪出身の出自と
長篠で信玄世代の重臣が多く討ち死にしたことで
元々信玄に取り立てられて日が浅く、組織化が不十分な譜代緒家の
組織がガタガタになった影響じゃないのかね?
独立色の強い有力国人層(穴山、小山田、木曾)の支持を失うだけでなく、
重臣層での寄親寄子関係も簡単に崩壊したんじゃなかろうか。
勝頼どうこうではなくそういう時代にそういう家臣団構成を
武田家がとってたというだけのこと。
まぁ、見捨てられ具合から言えば織田秀信、豊臣秀頼にしたって
相当悲惨だと思うが。
勝頼が有能であろうと無能であろうと
武田家が滅びる原因の全ては信玄の時代に構築されています
×:全ては
○:多くは
信玄は、信虎の独裁を否定する事で成立した政権。国人家臣の合議での行動だから
信玄一人の責任にも出来ないだろう。信玄の稚拙な戦略もそのせい。
結論:信玄も勝頼もアホ。
>>147 勝頼はアホじゃない
信長みたいな超人と比べるからヘボに見えてくるだけで普通の奴が相手なら・・
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 01:32:57 ID:jHbgm08p
武田は甲斐国衆の協力の上に成り立っている
→それだけに当主の統率力が要求される
→信玄にはできたが勝頼にはできなかった
→勝頼は統率力が無かった
とも言えるわけで
>>149 その統率力を高めるためにあちこちに戦争を仕掛け、国は疲弊していった
そういうシステムを取っていた信玄が悪い
というか、明らかにそのシステムのせいで武田は滅びた
違うな。信玄の政治力が足らなかったのよ。
並だったんです信玄の政治は。
しかし勝頼もどのような状況であれ勝たなくてはならないのです。
さあ、お行きなさい王様のもとへ。
勇敢で立派だった信玄のように・・・。
>>150 同意だが信玄が悪いとは言えない。
信玄がああしてれば・・・という程度さ。
アンチ信玄厨もアンチ勝頼厨も今が合わさる時ぞ。
力を一本にした武田軍は強い!
集えや、風林火山の旗の下に。
逆らったからって息子を殺すか?オヤジも追放してるし
信玄ってマジで最悪だな、信長でさえ親と息子は殺してないのに。
>信長でさえ親と息子は殺してないのに。
信玄も親は殺してないと思うが
そだね、ごめん信玄、言い過ぎた
信長は一応これ以上どうしようもねー ってことで信行殺したんだがな
信玄の父親追放は仕方ないにしても息子についてはもうどうにもならんな、こいつアホだわ
殺してなくて幽閉じゃなかった?
病死or自殺、だったと思うが
南進政策というのは家中で少数派だったの?
信玄政権成立当時の信玄は、国人の御輿だったのではないかな。徐々に発言力を
強めていったという感じで。
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 22:47:33 ID:svHe6wEk
謙信なんて信玄よりも酷い
跡取りを決めずに死んでしまったのだから
景勝に決めてたんじゃないの?
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 00:43:24 ID:8847g0+O
勝頼は3年待てという信玄の遺言を守らず武田騎馬隊の力を過信して
織田・徳川連合軍の鉄砲隊に無理な突入を行なった責任は大きい
決めるのが嫌だったのかな
三年隠せじゃね。その逸話自体知らんがたぶん。
ばれてたなら、攻めてくるだろから先手をとったんだろ。
166 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 01:14:10 ID:raEt8+7f
信玄の遺言の逸話「三年隠せ」は、器のちっちゃい話だよな。
自分はすごい男だけど家臣は無能だから、て、暗に言ってるだけじゃん…。
老害家康の大坂の陣への出陣も、次の世代に対する婉曲的な侮辱を感じるが、
それを恥と感じない東国武将や武田の家臣団も、なんだかなあ。鈍感なの?
三年隠して何になるんだか
動かないとジリ貧だし、隠しつつ動くってどんだけ高度やねんと
死ぬ間際で耄碌してたとしか・・・
実際、秀忠名義では大軍の指揮が出来んという事で
家康存命中に大坂を片付けるように
家康ではなく秀忠が必死で画策したらしいよ。
家康のほうは豊臣家を一大名として残そうと考えてた。
武田信玄という名前が他国への抑止力になっていた、という面は無いのかい?
で、死を隠している3年の間に次世代への体制作りをしろ、ということなのでは?
ああ、そっか。
そりゃそうだな。
でも、すぐばれちゃったんだっけ?姉小路だかに。
勝頼悲惨だなあ。
なら、3年と期間を限定せず、ずっと隠せばよいのに。
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 01:45:38 ID:8847g0+O
しかし信玄って家康に評価されて江戸時代に過大評価とか言われてるけど
死んだのを3年隠すって当時でもかなりの影響力とネームバリューが
あったんだろうな
元就や氏康でこんな話は聞いたことないし
>>169 織田への抑止力にならなきゃ、意味無いと思うけど?
戦端開いちゃってるんだぜ?
信玄が作った組織団はカリスマがいなくなると
機能しなくなるのは当たり前
3年かけて組織を作り直して構築して
信勝を盛り立てろってことでしょ
勝頼はとっとと信長に降伏してりゃよかったんだよ。
>>175 そんなことしたらバカしかいない家臣団に殺されるぞ
>>171 隠せて三年、と睨んでたんじゃないの?それ以降はどうしても漏れると踏んだとか。
当然体制作りが早ければ早い方がいいだろうけど。
もしくは三年程再編成にはかかるだろう、と予測したから隠せと言ったのか。
どちらにしても表に出ない限りはいつかはバレると当然だけど考えていたんでそ。
>>173 信玄が死んですぐに織田は武田に仕掛けていたっけ?自分から仕掛けてなかった?
後者ならば勝頼が自意識過剰だったのか、家中統制が上手くいかなくて、なにかしらの功績を
持つ事で求心力を高めようとしたのでは?憶測で言ってるから的外れかもしれんが…。
負け戦をしたわけではないから再編すべき組織がそもそも存在しないとも言う。
普通に長篠直前までの戦略は間違ってないでしょう。
びびってる家康を尻目に東遠江を侵略、続いて奥三河に手を出した。
高天神の時のように家康が見捨てていたら三河、遠江の国人に動揺が走るのは必至。
実際問題この時点で単独で織田、徳川の同盟に勝てる勢力は存在しない。
でも、朝倉、浅井滅亡後は本願寺以下ほとんどの勢力が守勢に回ってるわけで。
可能性としては長篠に連合軍が出てくるとわかった時点で
引き返せなかったのか?ということだけ。
三方が原の時みたいに織田の主力は出てこないと踏んでいたのか、
けりをつけるつもりだったのか。
まぁ全てが終った現代から振り返ったり、ゲームの世界と違って、
相手の動きや正確な情勢が把握できるわけではないからね。
代替わりで情勢判断が甘くなったのかもしれないけれど
それは3年間引きこもって改善される問題でもないし。
信長軍が来たから逃げるってのも周り諸国の武田軍評価が落ちるからだな。
不利になるわな、逃げたら。
仕方ねーだろ信玄死んだことは速攻バレてるし
勝頼は自分から先に手を出すしかなかった
長篠で逃げてても結局ジリ貧でやられた気が
組織があんなだしな 自分の領土を保証してくれる親分が逃げたとなればどれだけ裏切るか
信玄は、遺言残すのなら「織田と同盟して友好関係を築きなおせ」とでもするべきだったな。
自分の死期を悟って後継者に外交政策の転換を指示した北条氏康は偉大だね。
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 15:23:20 ID:HMLGAdjj
信玄も生前に勝頼の猪突猛進さを心配していたらしいけどね。
義元が氏真の文弱さを心配していたようにね。
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 15:30:40 ID:R68SaYqn
氏真が勝頼より優れていた点を挙げるなら、
最後に頼る家臣を間違えなかったということか。
184 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 15:53:54 ID:cGrYs0dv
毛利は織田と互角にやりあい生き延びたのになぜ武田は滅んだのか?
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 18:46:03 ID:ydB1WDEy
>>183 というか、最後まで「今川氏真」だった氏真と
最後は「四郎様」になってしまった勝頼との違いでしょう
諏訪関係の人は田野まで同行している
諏訪の人間さえ残っていればまずまず上々だな
たぶん信玄が信長と戦ってたら勝頼以上の無様な敗退でウンコを漏らしながら
逃げただろうよ。地方豪族の村上義清を10年以上攻略できず長野に至っては手も足もでず
にボコボコにされる男だ。
結局生涯にしたことと言えば北信濃で小競り合いをしてただけ。あ、あと治水ね。
信虎が領土広げてくれていたことと金山の発見で随分と助かってる
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 20:00:17 ID:R68SaYqn
>>186 というよりも、朝比奈泰朝に頼った氏真と、
小山田信茂を頼ろうとした勝頼の違い。
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 20:09:59 ID:l7ueHa/f
>>184 そんな事はないだろう。
秀吉にどんどん押されてた。
まあ、毛利は秀吉に与力つけて丸投げだったが、
武田は織田家がかなり総力あげてたし。
毛利って秀吉に押されてたのか?
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 20:37:58 ID:l7ueHa/f
>>191 そりゃ押されてないと、
五カ国割譲の講和とか持ち掛けないだろう。
因幡も備中もそもそも毛利にとっては外様的な領土だから
本気で抵抗してないというか不利な決戦を回避し続けている。
もちろん対織田戦線以外の事情もあったろうが、
播磨の三木救援軍を碌に出さないまま宇喜多が織田方に寝返り
備中では(人物を見越してのことであっても)高松の清水宗治に篭城丸投げw
そのまま押され続けたらどうするつもりだったんだろうというのはあるけれど。
結果的には鳥取に入った吉川経家とか与力につけた武将の被害くらいで
本能寺の変が起こってしまった。
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 20:52:48 ID:l7ueHa/f
中国五カ国(伯耆、備中、美作、出雲、備後)の割譲が講和の条件
もっとも、これら国は毛利にとっては外様の土地で
毛利領というよりは単なる勢力圏であった。
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 20:57:12 ID:l7ueHa/f
備中高松城水攻めが織田・毛利戦のいわばクライマックスであった。
毛利勢は大軍を送りながらも秀吉の水攻めという奇策により
援軍を送れず手をこまねいていた。
講和の交渉は一方的に織田のペースであっという。
しかしそこで本能寺の変が起きた。
MOTTAINAIな
で、講和したのに備中の高松城を攻めてたんだっけ?
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 21:00:26 ID:1+FJq7Rp
>>189 勝頼にとって朝比奈に相当する武将がいなかったんじゃないの?
>>197 講和して、清水宗治の腹斬らせて即時撤収。
高松城を攻めたら、その場にいる毛利勢との戦いになるのは必至だし、
大返しなんてならない。
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 21:17:21 ID:cGrYs0dv
吉川元春にびびって逃げた秀吉
武田にもこういう猛将がいればな
じゃあ秀吉は危なかったんだな
五カ国割譲って言っても秀吉の功績じゃないだろ
202 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 21:48:35 ID:cGrYs0dv
五カ国割譲したら残りの毛利の領土は安堵するつもりだったの?
残る毛利領は石見、安芸、長門、周防の四カ国。石見の銀山くらいは奪われた
かもな。
あと、時間をかけて毛利から吉川小早川を切り離して分離させたと思う。
まあこれらは、講和後の毛利が絶対服従して忠誠をつくせばだろうが。
あれだけ織田に尽くした徳川も、三河遠江駿河三カ国で頭打ちだったからな。
流れとしては
備中侵入→高松攻め→講和持ちかけ→本能寺→講和成立、清水切腹→中国大返し
ていうかこの一連の流れは小説とかでもかなり取り上げられるし、戦国史に
興味あるなら知ってて当然の知識だぞ。知らないとかギャグだろう?
えっ、いつの間に毛利スレになってんの?
何これ?
>>204 講和というのは織田家としての行動だったの?それとも羽柴単独の行動なの?
武田もひと段落して、北陸も均衡状態だよね?
西に兵を向ける余裕は織田家には無かったのかな?
それとも何かの意図があって講和に持ち込んだの?
小説とか呼んだことないっす
俺の知識は全部小説とウィキだな、時代劇とか前知識が無いと面白くもなんともない
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 22:30:27 ID:tIqt1rcD
死後三年間隠すは本当に守られたの?
三好長慶からのパクリか?
元ネタの三次長慶の場合は本当に三年後に葬式をあげていたが。
塩漬けだったんで相当腐敗していたらしいぞ。
(まあこの場合家臣団が隠したのだが)
>>207 小説とか以前に、ここに出入りするなら知っていて当然の事じゃないか?
秀吉やその配下が主人公のものならば、必ず通るエピソードだからな。
つか、wikiにも、秀吉の項と高松城水攻めの項で触れられているぞ。
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 22:57:35 ID:TaAGZbD+
三好長兄が死んだかどうかなんて、関心事じゃなかったんじゃない?
特に3年後の1567なんて
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 23:12:15 ID:tIqt1rcD
小笠原氏を保護したり三好はかなり同じ一門意識を持っている。
若狭武田から安芸武田、関東宇都宮から豊前宇都宮に養子
みたいに名門一門内は同族意識が強いと思うが。
それでも一門である小笠原を滅ぼした信玄は関係ないか。
武田と小笠原では同じ流派とは考えないのではないか。
近いからじゃね
滅ぼしたのは
スレ違いだけど、
織田と毛利の高松城を挟んだ和睦交渉はただの時間稼ぎっすよ
信長は和睦しようとしておらず、自分と信忠は山陽に向かおうとしてたし
明智を山陰方面に向かわせてたし、同時に信孝と丹羽は四国に渡ろうとしてた
一気に中四国を片付けてしまおうと思ってたんじゃないかな?
博多のボンボンどもに毛利の後ろつかせるとかはできんのか。
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 23:51:10 ID:cGrYs0dv
毛利はまだまだ対決を継続する力があったからな
下手したら備中高松で信長・信忠を討ち取ったかも試練
>>218 ないないw
どんだけ奮戦しても、それこそかつての桶狭間伝説のように
偶然信長が小休止してるとこに毛利機動部隊が奇襲かけたり
しない限り無理。まあそれでも金ヶ崎撤退とか見る限り信長
は生き延びるだろうがな。
和睦については毛利が何とか毛利本領に織田が侵入しない内
に講和しようとした。で、交渉中に本能寺。織田家の方針と
しては講和の気はないと思う。宇喜田の寝返りとかで織田家
の中国支配における必要領地が増したからね。
前線の兵も長期対陣に悲鳴を上げてたって聞くしね。
宇喜多直家が織田に寝返った後の毛利vs宇喜多でも
毛利は宇喜多領を突破できてないし、
余力がまったくないとは言わないけど、
もう終わりにしたい、ってのが毛利家の本音だろう。
221 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 04:10:15 ID:IJh57cXG
>>198状況が違いすぎる。
敵になった大名の質が違うし。
勝頼に朝比奈みたいな家臣がいても、なんの意味もなかったんでない?
毛利は財政的にはどうだったんだ?
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 14:34:44 ID:KBYXuPf/
秀吉を苦しめた毛利とうんこ武田と一緒にしないで欲しい
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 14:44:32 ID:OifucH8c
そう、それだ。これをきっかけに、
武田ネタを再開しよう。
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 15:19:47 ID:k+3Ij7xq
【体罰か】宮崎市の剣道強豪高で30年以上女子部員にフンドシを強要【指導か】
★「武士のたしなみであり伝統」宮崎市の剣道強豪高校で30年以上女子部員に褌を強要
・宮崎県の県立高校剣道部で創部以来30年にわたり、全部員に褌(ふんどし)の着用を
義務づけ、女子部員も男子部員同様に褌の装着を指示していたことがわかった。
元・女子部員の両親が事実を知り、県教育委員会が調査に乗り出し、事実とわかった。
この高校の剣道部創部は昭和46年。スポーツが盛んな県内の高校運動部において
当時警察OBで地元の剣道場の館長だった男性が初代の顧問に就任。昭和53年以降は
全国大会でも上位に入賞するほどの発展を遂げた。
58年からは、この男性顧問の指導を受けた卒業生が顧問に就任。中には女性の指導員も
いたため、この「伝統」を「普通に受け止めていた」(同校女子部員)。
しかし主に男性の伝統下着であるため、新入部員の抵抗は多く、これに部員に対して
顧問は「武士に生まれ変わるための証(あかし)」「武道は精神的なもので、男女の
性差は関係ない。強くなるためには欠かせないもの」と説いていたという。
しかし昨年末で同部を退部した女子部員が、この事実を両親に語ったため、事実が発覚。
元部員の母親は「私も剣道経験者だが、こんなでたらめな指導は聞いたことがない。
伝統を隠れみのにしたセクハラだ」と憤る。これに対し学校側は「歴代顧問が指示し、
部員も納得していたことだと思っていた」とコメントしている。
◆「褌を使う人はごくわずか」市内の武道具店
宮崎市波島1丁目の「押川剣道具店」によると「激しく運動し、発汗も多い剣道は、
衛生面から剣道袴の下には下着を着けない人が多いとは聞く。当店でも褌は扱っているが
高齢の剣道家など、買っていく人はごくわずかだ」
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news7/1151547380/l50 ソース:
http://www.miyazaki-news.co.jp/area/soc/20060816/topic02.html
義信が生きていればぬわぁ
227 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 15:28:09 ID:OifucH8c
高坂昌信があと10年長生きしてくれれば・・・って、
結局変わらなかったか。
尻で出世した男が10年長く生きていても結果は変わらん
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 17:03:54 ID:OifucH8c
>>229 ん?いらないの?
まあ、長命であっても、武田家の衰亡を防ぐことはできなかっただろうが、
いらないレベルなのか?
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 17:05:04 ID:OifucH8c
跡部、長坂コンビが織田政権にいて大活躍してくれれば・・・・・・
233 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 17:36:50 ID:OifucH8c
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 17:40:06 ID:KBYXuPf/
信玄は元就以下だったんだな
つーか山県とか馬場とか内藤とか春日とかこんな奴等が
本当に優秀だと思ってるの?そりゃ信玄の配下として、全盛期の武田軍の
要としては極めて優秀だったことは認めるが、信玄が死んだ時点で
当主は勝頼。勝頼は割りと柔軟で鉄砲配備の見直しや少なくとも信玄並に
四面楚歌を好んで作る武将じゃないことも事実。
よく信玄死後、四名臣なんかに色々任せればいいのに勝頼が新規登用した
武将たちや勝頼自身と対立しちゃったとか言うけどこれ、勝頼の政策に
反対ばっかりの老害だったんじゃないの?
口を開けば「信玄様の頃はこうであった」って言って信玄より柔軟で革新的な勝頼の
政策や軍制なんかに反対しまくってたんじゃないの?
そして信玄の体制ってのはかなり不安定で、旧時代の遺物が多かったのも事実
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 18:10:28 ID:J5DXEl2O
>>232 長坂、跡部が佞人というのは
甲陽軍艦のデッチ上げなのだが。
>>233 逆説的に読ませるのならば、日本語は正しくお願いしますねw
239 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 18:19:37 ID:OifucH8c
240 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 18:43:56 ID:J5DXEl2O
>>238 おいおい物事には「ある」と主張する方が立証義務があるんだよ。
無罪になった人間に「貴方が無罪である絶対的証拠があるのか?」と
問うようなもんだ。
佞人てない証拠というより、佞人であることを立証できるか否かだと思うんだけどな。
「幽霊がいるという証拠はない、しかし、いないという証拠もない」
というのは実は対等じゃないんだよ。
まあ、一応、根拠としては甲陽軍艦の長坂、跡部の悪役ぶりが
あまりにもバカげた漫画的な描写が多いという点。
例えば長篠の戦いで老臣たちの反対を押し切り
勝頼が長坂、跡部の主張する強攻策に従い強攻したことになってるが
長坂は留守番で出陣してないし、跡部は文官で軍事面で
こんな大胆な提案をしたとも思いにくい。
その他の長坂・跡部の愚行の類も大概はこんな調子で
老臣が正しい真っ当な提案をしているのに
長坂・跡部がメチャクチャな論理で反対して
勝頼がそっちを採用するというパターンがほとんとで、
いかにも作為的で老臣=善・聡明 勝頼・長坂・跡部=悪・愚物というような、
いかにも甲陽軍艦の最初の著者の高坂が考えてそうな事ばかりだ。
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 18:47:33 ID:QNYsRibN
>>231 外交上手の武井夕庵とまとめ親父猪子兵助コンビが
武田政権にいて大活躍してくれればとも言えるのでは?
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 19:07:33 ID:bWltSlKN
武田の滅亡は上杉が100%作っている。
ストーカー謙信がひたすら国力全開で信玄の邪魔をし!!!!
無能景勝が名将勝頼の足を引っ張りまくった!!!!!!!
上杉は謝罪しろ!!!!
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 19:18:58 ID:KBYXuPf/
滅亡した武田
戦国の世を勝ち抜いた上杉、毛利
輝元、謙信>>>>>>>>武田信玄
そこは輝元じゃなくて元就じゃないか?
いや、自分の読解力の無さを棚に上げるのもどうかと・・・
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 20:00:46 ID:OifucH8c
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 21:17:01 ID:qOwPtalI
信玄も早めに家督を譲ったほうが良かったことくらい分かってただろうけど、
諏訪の勝頼を早期に当主にするのは家を纏める上で不安があったんだろな。
それと、信長の領土が拡大しすぎて、勝頼に家督を譲ってもジリ貧になるのが
目に見えていたとも思う。自分の余命があるうちに信長を片付けて、最高の
勢力になったうえで家督を継承しようとの判断だったと思う。
まあ信長の実力を見誤った点が信玄の唯一のミスなんじゃなかろうか。
信長がいなければ、なんら問題なかっただろし。
>>249 見誤ったのは信長の実力じゃなくて自分の死期じゃないか?
病に倒れた時点で勝頼体制のために手を打つべきだったろうが、それを「自分の余命があるうちに信長を片付けて」と言う方向で考えてしまった
10年長く生きていれば勝てたとも思わないが、信長との実力差を云々する以前の判断ミスかと
30年も山奥で遊んでおいて寿命のせいにすんなよw
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 23:41:11 ID:QGLK+z9p
信繁が生きていたら、少なくとも家臣団はバラバラにならなかったと思う。
でも、結局は滅亡するのかな
信繁が生きていたら、信勝の後見人は
勝頼より信繁のほうがいいね。
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 23:59:38 ID:rr+ks7W5
しかし織田の血が入った信勝を当主にするかねえ
勝頼も織田の娘で童貞捨てたという後ろめたさが
あったんだと思うよ
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 00:01:42 ID:pxjjlexq
> 勝頼も織田の娘で童貞捨てた
んなわけないだろw
大名の子息の童貞喪失は、第二次性徴が始まった頃女中がr
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 00:43:51 ID:KzIfaFik
謙信を頼れじゃなくて信長を頼れだよな。さんざん敵対しといて
何ぶっこいてやがる!信長包囲網で棚から牡丹餅を狙ったんだろう。
城の1つも増えるかも・・てな感じ。そしたら自分の命縮めちまった。
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 00:46:05 ID:NWUmCnzs
>>235 当時勝頼は騎馬鉄砲隊を作ろうとしていたらしいよね?
その辺を考えるとなかなか武将だったんじゃないのかな
ただ長篠の戦いは避けるべきだったかもしれない
まぁいずれやられていたとは思うけど
信繁は優秀だし生き方も好きだ
では信玄の影武者だった信廉はどうだろう?
一般的にはボンクラ説が濃厚だが長篠の合戦では鉄砲隊を突破したというし・・・
>>257 何故、その騎馬鉄砲隊とやらを作ろうとしていたら、なかなか武将なんだ?
いや、国力差が歴然な以上、決戦でミリタリーバランスを崩すしか無かろう>長篠
選択肢としては悪くない。良くもないが
260 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 01:00:10 ID:NWUmCnzs
>>258 実用性はおいといて
だいぶ後になって伊達が騎馬鉄砲隊を発明したわけだ
それを誰よりも先にやろうとしてたから
先を見る目があったんじゃないかって話だったんだけどね
騎馬鉄砲隊が完成してたら長篠の戦いも多少は違う結末だったんじゃないのかな〜って思った事があったんだ
261 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 01:26:50 ID:5kN9j/OL
まあ、長篠は失策だよな
無理に合戦せず長篠城だけ落としてさっさと引き上げれば遠三での優勢は変わらないし
信長は機内に本願寺、丹波は未制圧で同年に毛利と敵対、北陸では上杉との関係悪化、獅子身中の虫に松永や
荒木、状況は違うが光秀もいるしやり方次第ではなんとかなったかもな
だが織田は、名立たる武将に3万の兵を長篠に裂けれる程には
安定してきていた。
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 04:02:31 ID:ZqgTosxl
騎馬鉄砲隊なんて使い物にならないが。
騎馬鉄砲隊なんて使い物にならないから誰もやらなかっただけだと思ってた
騎馬鉄砲隊の運用方法
敵地まで騎馬で駆ける→敵が見えた→馬から降りる→撃つ
いや、乗ったまま撃つと思っているアホがたまにいるから一応言っておいた
政宗君がやっとるじゃん
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 07:51:08 ID:ZqgTosxl
>>261 長篠城を落とせなかった。
鳶の巣砦を落とされて方位に近い形になり退却が難しかった。
このままでは地獄の殿軍戦が始まるので、
前方の織田に一撃加えてから退却しようとしたが失敗した。
>>265 無意味とは言わないが無駄だろ
政宗の戦は3流だったしな
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 11:54:05 ID:5kN9j/OL
>>267 長篠城は落城寸前だった。
わざわざ設楽原に出ずに長篠を流れる寒狭川と大野川を前面に長篠南西の連山に陣を張れば
少なくとも無惨な敗戦はなかろうし織田軍が強攻すれば勝ち目もあった。
長篠時に武田が騎馬鉄砲隊を編成していたとしても、違う結果にはならんと思うが…。
そんな戦局を左右するような力を持たないと思うけどねぇ。
>>249 普通に家督譲って実権を信玄が持てばいいだけ
氏康も60年ぐらいに家督譲ってるし信長も75年に家督譲ってる
信玄は(ついでに謙信も)遅すぎる
>>261 丹波は未制圧だけど敵対して侵攻してくるというような勢力じゃないんじゃ
それに毛利と敵対は翌年では
北陸での上杉との関係悪化は織田が越前を制圧し加賀に侵攻したからじゃ
もっともこの時期越前は一向一揆の支配だからより状況は悪いかw
そもそも武田は堺から鉄砲を高値で買うしかないから
鉄砲隊の編成自体が非現実的でただの夢物語なんだよ
のちの世になってその時代の武田の今後の事を考えると
鉄砲騎馬隊じゃなくて篭城戦には必要不可欠だったかも知れないけど
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 13:55:57 ID:E4nSB4YQ
信長は安値で買えたの?
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 14:06:07 ID:ZqgTosxl
>>269 落城寸前も何も落とせなかったのだし、
あとも都合の良い後知恵でしかない。
>>274 信長は大量に発注するから他の大名よりも安く買える
よく分からんが、どういうルートで甲斐まで鉄砲を運ぶんだろ?
>>277 鉄砲商人が普通に織田や徳川の領内を通行して
甲斐まで注文を聞きに来たり持ってきたりするんだよ
堺が誰と商売するのも自由だし信長は妨害しないよ
へぇ…荷留めとかしないのか。敵国への販売分は買い上げるとかしているのかと思ってた。
>>269 落城寸前と落城は違うぞ。
そもそも信長は通説に従えば出陣を遅らせている。つまり、攻撃側にはそれだけ
時間の猶予が与えられたわけだ。それでも援軍の到着前に落せなかった。
この時点で武田は倍の敵に後詰決戦を挑むか退却するしかなくなった。
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 14:43:04 ID:5kN9j/OL
>>275 ちゃんと261からの流れを理解してる?w
本願寺との戦いの最中に北陸からの荷留めとかしていたと思う
軍需品じゃないけど塩留めの逸話もあるし
「北陸からの荷物」「塩止め」
これは堺や鉄砲は全然関係ないだろwww
特に「塩止め」なんて信長も家康も関係ないしw
徳川勢を決戦に持ち込ませるためにわざと城を落とさなかった
援軍が戦場に到着して、そこで城を落として
戦略目標が無くなって撤退するであろう徳川勢に攻撃をかけようと思っていたところ
酒井隊に砦落とされて逆に包囲されて殲滅されたという話もあるな
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 15:38:48 ID:DA63DPfk
勝頼は武将としては優秀でも大名の器ではなかったんだろうな・・
信玄が大した器じゃなかったもんな、子を責められん
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 17:14:28 ID:QkfpwoKJ
高坂を代表取締役にすればよかったのにな
春日は堅実派だからねぇ
289 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 17:21:30 ID:QkfpwoKJ
先方衆の小幡信貞は?
まあ天下に覇者が現れた以上、大名として求められる資質が
変化したというのもある。独立心が強くて英雄的な人よりも
従属に抵抗感のない官僚的な人のほうが向いている。
勝頼は英雄的過ぎて英雄の先駆者に当然のごとく敗れただけ。
>>279 下手に商売の邪魔したら、多少の鉄砲が敵に渡るよりやっかいだろう
>>291 だから買い上げるつってんじゃん。
遠い場所まで警護雇って運ぶ事を考えれば邪魔どころか御の字だと思うけど?
293 :
sage:2006/08/19(土) 19:54:55 ID:URNcYQGd
>>290 確かに勝頼は英雄的な思考の持ち主だった。
でも当時の情報力の低さを考えると
信長の力がどれほどのモンか分からない大名の方が多かったんじゃないかと。
英雄的な思考以上にただの田舎者だったんじゃないのかな・・
うーん。
sageというコテになってしまった
素でやると非常に恥ずかしい・・。
ちょっと待て。
武田も鉄砲の配備はできていたはずだが?
確か、兵数の8%の保有を軍役で義務化してたはず。
そして、それは織田軍とほぼ同等と聞いているぞ。
ただ、火薬の元になる硝石のルートを織田軍に抑えられていた、とは聞いたが。
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 22:02:04 ID:yd2keJVx
騎馬鉄砲隊の元は葛西の鉄砲隊にあるんじゃなかった?
あと硝石は木曾でも取れてなかった?
297 :
こばこば◇:2006/08/19(土) 22:08:25 ID:rOly9smm
そうでしたっけ?
日本に硝石は存在しないが
299 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/19(土) 23:02:39 ID:jUz/54L6
>>298 存在しないって事は無い。
硝石が無いと火薬が作れないから。
ただし、当時は100%輸入。
その輸入ルートを押さえられてしまっていた、という話があった。ソースは忘れた。
天然の硝鉱石はほとんど存在しないはず。たしか国内生産の
硝石(江戸時代とかは国内で入手してた)は土壌培養法とかで
チマチマ生産してたような。
忍たま乱太郎にも書いてるから間違いないよな
たとえば鉄砲を百挺そろえて一回の戦闘で百発撃ったら、
弾一万発とそれを撃つための火薬が必要になる。
これは相当の負担になるわけだけど。
まとめると、
信長は堺にも自由に商売をさせていたから敵国にも鉄砲を売らせていた。
しかし武田には硝石などの独自の輸入ルートがなかった、構築出来なかった。
という事で。
>>303 硝石(硝酸カリウム)は便所で簡単に出来るよ。鉱物ではなく、バイオの世界。
そもそも紀元前2世紀に秦で開発され、元寇で本朝に伝わってる火薬が
なぜ堺でしか商えないと??? 信玄が弘治元年(長篠の20年前)に
300挺の鉄砲を備えてた(妙法寺記)史実も知らんの?
堺を押さえてなかった本願寺が信長をボコボコにした(信長公記)のも
越中五箇荘の硝石が原料だし。
>>304 でも何かの資料で読んだけど
戦国時代の火薬のほとんどは中国からの輸入。
で、海外貿易のほとんどは信長から西の国の大名が牛耳ってるんで
東国の武田には入らん事もないけど入荷可能な量は全然違うわな。
それと、どこに
「堺で火薬を商って武田に売っていた」
「本願寺は堺を抑えていなかったので鉄砲が入手できなかった」
というウソが書いてある?
見つからないので発言番号を指してくれ。
信玄の全盛期にはまだ堺での鉄砲の量産体制が整っていないから
信玄の時代に揃えられたという鉄砲は本願寺からの贈り物だったり
ポルトガルからの輸入だったりするわけで。
「日本で生産できるから100%国産だ」とかいう
夏厨ならではの極端な発想はやめて欲しい。
あと、他人の発言は読み間違えないように何度も読み返せ。
最近になって日本でも硝石が生産されてたという説は出てきたけど
それ=100%国産
という事にはならない。
やはり大方は輸入だろうね。
実際に輸入してたしね
国内生産+輸入で火薬を調達できた織田と
国内生産分+少数の輸入の武田
訓練でも火薬を消費することを考えると
鉄砲足軽の練度、実戦で撃てる弾の数
戦力としては鉄砲の数以上に乖離があったのかもしれない。
井沢元彦の本に書いてあったけど
元寇の時の絵を見たある事に気がついたそうだ。
モンゴル軍が鉄砲だの炸裂弾だのを使って日本軍を攻撃すると
日本軍はまず火薬の轟音で馬が怯えて動かなくなるらしい。
そんな感じで、長篠の合戦の武田の敗戦理由の一つには
鉄砲の音に慣れてない武田軍の馬が使い物にならなかったんじゃないか、
という仮説を唱えているよ。
>>309 いやあ、それはあっても「敗戦理由」の一つに考えられるほどの理由
じゃないよ。火力に優れた半要塞に寡兵が肉弾突撃って時点で敗北必至。
野戦だと機動力で火力差を詰めれても要塞戦ではそうは行かない。
武田軍が馬に乗ったまま戦っていたと思っている時点でアホな仮説だな
一般的な「長篠の合戦」は
織田・徳川軍の馬防柵の後ろに並んだ三千の鉄砲隊に
勝頼の采配で武田の騎馬隊が突っ込んで大量に戦死
だからな
硝石の生成は人糞からなる。つまり、人口が多ければそれだけ硝石の生成も多くなる。
とかどっか読んだ覚えが。
国内生産量でも武田は織田に差をつけられていたんだろうな。
火薬は100%輸入だったと記憶してるけど
100%輸入だよ
実際の長篠の戦ってのは
武田勝頼長篠城攻略のため一万五千を率い出陣
長篠城包囲、奥平貞昌奮闘
陥落できずもたもたしてたら織田徳川連合軍三万八千が後詰として到着
夜間から早朝にかけて酒井隊による鳶ヶ巣攻撃、陥落
退路を断たれた武田隊は五段に分けた波状攻撃で織田徳川に殺到
予め柵を張ってた信長の鉄砲隊による一斉射撃で強襲が成功せず
織田軍も前田隊など被害を出しつつ武田軍を圧倒
追撃戦等で、信玄の代からの優秀な家臣が多く命を落とす
こんな感じでおk?
決戦志向の勝頼がわざと長篠城を落とさず
だらだら攻めてたって説もあるけど、このへんどう?
城が落ちたら信長家康は後詰の必要が無くなる
そしたら信長は帰国し家康は城の中に篭って
武田が帰国したら家康は反撃のいたちごっこの繰り返し
着実に家康を追い込んではいるけど信長との差はますます開く
ってなるからねー
319 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 23:46:09 ID:eRL+udP+
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
硝石は、材料があっても製法がわからなかったんじゃないか?
鉄砲が伝来するまで(中国製なども含む)、火薬なんて必要なかっただろうし、
そんな専門知識が確立するまでには、結構な時間を必要とするんじゃなかろうか。
秦が作っていたとしても、その製法を輸出していたかどうかはわからないし
(こういう技術は軍事力を大きく左右するから)、
仮に輸出していたとしても上記のとおり必要がなければその知識を持つ専門家の数は極めて少なかったろう。
>>320 戦国時代には、中国や朝鮮半島から技師が渡ってきて
土木工事の指導をしたり金山や銀山を掘ったりしてたんだよ
そういう技師は技術があっても中国や朝鮮では食って行けなかったから
日本に逃げるようにして渡って来たんだよ
大久保長安とかがそうだよ
>>320 培養して作る硝石ってのはむちゃくちゃ時間かかるし面倒な割にちょびっとしか取れないんだよ。
だから輸入の方が100倍効率がいい、それだけ。
武田に鉄砲が何丁あろうと滅んでるような気がするけど
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 14:09:53 ID:+u3seTEC
そもそも硝酸菌の確立は18世紀に入ってからだボケ!
武田家のみ時空を超えられるから問題ありませんが。
324 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 21:23:51 ID:xtyocIY6
嘘をつくな
大久保長安は能役者だろ。
あと朝鮮にはそんな技術はない。
信玄時代から感じることは武田家って城攻めが下手だよな。
外交も下手だし基本的に駆け引きが苦手なんだろうか。
単に国力が無いから持久戦が無理なだけなのか??
あ!
兵に農民が多いから農作業とかで長期戦が無理なのか!
すまんすまん。自分で気付いた。
>>326 そんなことは無い結構長期戦してるぞ
配下の国人に力攻めを強制させる権限が無いとかじゃない?
それにそんな下手というほど下手な気はしないと思う
山県三郎や馬場美濃がいて城攻め苦手ってあるのかな…
329 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 02:14:57 ID:VilFrMc8
木曾で硝石産出していたような?
330 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 02:17:04 ID:8/xJd3bB
じゃぁ中国はどうやって硝石作ってるのか言ってみろや
331 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 02:29:34 ID:VilFrMc8
窒素
山県三郎?馬場美濃?
>>330 この段階でまだ「硝石は作るものだ」「天然鉱物として産出しない」と主張している時点で
君はこのスレを全然読んでないダメ人間だと思うが
>>324 >大久保長安は能役者だろ。
>あと朝鮮にはそんな技術はない。
この書き方はひどいなぁw
まるでオレが「大久保長安は朝鮮人で、朝鮮から渡って来て技術指導した」
とでも書いているような反応の仕方じゃないか。
何でこのスレの住人の知的水準はネタスレ並に低いんだろうか?
335 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 03:19:49 ID:8/xJd3bB
はぁ?上から見てレスしてんじゃねーよタコ
知的水準?てめー
>>321の文面見て
>>324みたいな感想起きるのは当然だろうが
朝鮮から渡ってきた技術者の話してる中、脈絡無く大久保兆案がどうのとか言ってるんだぜ。東大卒のエリートでもそういう感想寄せるぞ
猿以下の文章書く馬鹿が知的水準なんて高尚な言葉使うんじゃねー
夏ですね
┐(´д`)┌ヤレヤレ
この厨には「中国」という小学校低学年で習う漢字が読めないらしい
なのに「オレは東大卒のエリートと同水準の知性」と来たかw
338 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 04:09:32 ID:8/xJd3bB
>>337 ううん?
三行目のあたまに「中国」って付け忘れたって事がそんなにうれしいか?
韓国人でも意味分かるぞwww←みたいな事言ったらこいつは韓国人と同じ知性って事になるそうです
>>337とかいうこの厨は。ぼくわらっちゃいました。ようちえんじのろんりですか?ばかですか?
ごめんね。つい、さいしょのほうかんじでかいちゃったけど、おうちのひとによんでもらってね
そもそもせんごくじだいに、ちゅうごくやかんこくにぎじゅつおしえてもらったって・・・
しつれいですが、どこのくにのひと?
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 04:27:35 ID:8/xJd3bB
ああ。長安が中国人っていう説あるんだな
つまりお前そういう事言いたいわけか。
でも大久保だぜ?出自もはっきりしてるんだろ?
まぁ
>>321が相当頭おかしいのは変わらんが
>でも大久保だぜ?
だから?
「大久保姓だから出自がはっきりしている」
「オレは東大卒のエリートと同水準の知性」
大久保忠隣の与力になったとき大久保性を名乗ったんだよ。
だからR2eymqSUの言うとおり中国系かもしれんし、
猿楽師の父を持つ日本人かもしれない。
それでいいじゃないか。
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 04:40:52 ID:8/xJd3bB
>>340 大久保って日本にある苗字じゃないか?
それに、本多みたいに徳川家臣に大久保姓の奴多いと思うんだが、そいつらと血縁関係無いのか?
名前が長安とかいう中国っぽいアレだから執拗にそう思われてるだけでは?
ひとつ上の発言も読めないのか┐(´д`)┌ヤレヤレ
345 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 04:48:43 ID:8/xJd3bB
ID:R2eymqSU
ID:8/xJd3bB
無駄に煽り立てる言葉ばかり好むからこうなる。
347 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 09:46:22 ID:F52VbNXd
348 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 09:47:14 ID:UlLUF1yX
349 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 09:53:18 ID:F52VbNXd
>>347 一説には中国人もしくは秦氏と書いてある。
でもこれって天海が光秀説とか秀吉が薩摩、もしくは中国出生説みたいなトンデモだろ。
350 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 11:33:42 ID:fb+fnrUb
トンデモだと言うのなら
水銀を使った金の精錬技術はどこから来たのか
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 12:42:59 ID:F52VbNXd
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 12:44:41 ID:F52VbNXd
353 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 12:46:31 ID:F52VbNXd
354 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 12:56:15 ID:F52VbNXd
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 14:56:21 ID:fb+fnrUb
黒川金山が稼動した頃はまだ
南蛮人はやっと九州上陸した頃
水銀は輸入品
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 15:31:34 ID:lUP/CN64
なるほど信玄が存命時は金山の採出量が多く、勝頼の時は枯渇していた。その差は大きい。しかし、
ぶっちゃけた話をして、申し訳ないが、
それは信玄が運が良く、勝頼に運がなかっただけ。
だいたい名将たるもの、運を味方に付けられないようでは名将とは言えまい。
信長にしても、秀吉にしても結局のところ、強運の持ち主だった。
勝頼の能力の高さは認めつつも、やはり運を味方につけられなかったので、父より評価が低くなるのは仕方ない。
スターの星に生まれた奴と、そうでない奴がいるだけ。
スレタイは異論ない。ただ滅亡責任は八割信玄、二割勝頼ぐらいかな。
それを言ったら信玄もあまり運が良いほうじゃないだろ
でも水銀を使った方法って奥州藤原氏もやってなかったか?
丹のつく地名は水銀に関係するというが
ごめん、欧州藤原氏は砂金を取ってたんだよな
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/22(火) 18:04:52 ID:F52VbNXd
>>355 黒川金山稼働時と大久保長安は時代的に少しずれてると思うが。
長安が来る前から黒川金山は稼動してたけど
長安が来てからは今まで捨ててた石からも金が取れるという事になったんで
産出量が劇的に増えたんだよな
戦国武将の姓がずっと変わらんと思ってるやつが戦国板にいることに驚いた
姓は後生大事に守るものだと思ってるやつの方がよほどシナ人や半島人に見えるぞw
もともとは土屋だっけ長安
その前は知らんが
大蔵じゃないの?
>>364 毛利講和の話題といいここは戦国好きの常識が覆されるインターネットですね。
>>364 >>367 光秀と一緒に義昭に仕えてた長岡藤孝ってどこに行っちゃったの?とか
越後の国主として第一次・第二次の川中島の合戦に出たのは「上杉謙信」だとか思ってそうだなw
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 14:07:24 ID:abgFKm1u
335 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/08/22(火) 03:19:49 ID:8/xJd3bB
はぁ?上から見てレスしてんじゃねーよタコ
知的水準?てめー
>>321の文面見て
>>324みたいな感想起きるのは当然だろうが
朝鮮から渡ってきた技術者の話してる中、脈絡無く大久保兆案がどうのとか言ってるんだぜ。東大卒のエリートでもそういう感想寄せるぞ
猿以下の文章書く馬鹿が知的水準なんて高尚な言葉使うんじゃねー
339 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/08/22(火) 04:27:35 ID:8/xJd3bB
ああ。長安が中国人っていう説あるんだな
つまりお前そういう事言いたいわけか。
でも大久保だぜ?出自もはっきりしてるんだろ?
343 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/08/22(火) 04:40:52 ID:8/xJd3bB
>>340 大久保って日本にある苗字じゃないか?
それに、本多みたいに徳川家臣に大久保姓の奴多いと思うんだが、そいつらと血縁関係無いのか?
名前が長安とかいう中国っぽいアレだから執拗にそう思われてるだけでは?
そんな事はどうでもいいから、長安が大陸から渡ってきたというのは真実なのか?
371 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 16:40:16 ID:5Qweh519
この人オランダ人て説もあるみたいだね。
まあ真相はやぶの中だね。
>>371 オランダ人だったらもう少し後の時代に来るようになると思う
373 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 16:51:52 ID:RnEkG8tB
みんな何いってんの?長安はうちの親父なんさ
俺が小さい頃に戦国時代にタイムスリップしたの
かあちゃんが言うから間違いないよ!
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 17:29:27 ID:5Qweh519
>>372 説があると言っただけ。
そもそも出身不明だからいくらでも創作できる。
本当に大陸からの人間なら
江戸になってからの大陸との交渉に多少関係していてもおかしくない
普通に日本人だろ。
また大陸から技術を学んだとする程度でも徳川の大陸外交に関与してもおかしくないがその形跡も無い。
南蛮系とは繋がりがあるような噂があったというから知識技術は西洋人から学んだかもしれない。
技術などの点も基本的に大陸とは無関係と考える方が自然じゃないか。
実はムー大陸の生き残り
トンデモ歴史編纂室な流れっすか。
378 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 23:25:39 ID:5Qweh519
大久保長安自身秦氏の末を名乗ったから多分それが一人歩きして大陸系という話しになったと思う。
大蔵氏なら秦姓でも無理はないよ。
>>375 秀吉の時代にスペインの無敵艦隊が敗れて
アジアの制海権はスペイン・ポルトガルからイギリス・オランダに移ったんだよ
その点を考慮に入れてそのキチガイ発言なのか?
家康のそば近くにはイギリス人やオランダ人が仕えていたわけだが
381 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 00:42:13 ID:lNR+KddL
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 02:12:58 ID:BSdbzqA+
中国やら朝鮮の話が出てくるだけでファビョるやつ増えてるからな。
>>380 なんだつまりイギリス人やオランダ人が家康のそば近くにいるから大久保長安は中国人に違いないニダ。
明の外交に欧州が左右する程の力なんて当時はない19世紀の欧州と勘違いしてないか?
キチガイ発言はお前だよ鮮人スレ汚すな。
お前ら一応文系なら他人にわかりやすい文章と礼儀作法を勉強しろ。
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 14:36:56 ID:TyaJXtsT
>382
あまりにも基礎知識がなさすぎ
キチガイのために、なんでいちいち
無敵艦隊の話から書き始めなきゃならんのか
さらに両国の宗教やイデオロギーの違いまで書かないと
自分の発言がキチガイ発言である事に気がつかないのか
387 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 14:52:32 ID:lNR+KddL
388 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 16:24:52 ID:TyaJXtsT
キチガイは
追い詰められると
すぐ荒らす
390 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 17:54:23 ID:lNR+KddL
もしかして在日のシナ人はホロン部って言わない?
391 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 18:37:40 ID:+RQUYCQF
そんなことはどうでもいい
ホロン部だのなんだのツマンネ
家康についてたイギリス人のブレーン
名前なんだったっけ?
ブライアンなんとか・・・なんだっけ?
オランダ人のブレーンのほうはヤン・ヨーステン
こいつが住んでた町は「ヤン・ヨーステン」からナマって
「八重洲」という名前が付けられてる
ウィリアム・アダムス(三浦按針)
そうだそうだ、すまんかった
ブライアン・アダムスと間違えてた
クラッシュ・デモリッションなんかと間違うなよw
遠い国からきたんやろ?大変だよなあ。
布教かな?なんでずっと住み着いたんだろ。
確か商船か何かのはず。
イエズス会とは不仲。
外国との折衝役として、また航海術のエキスパートとして、
当時の日本では得難い非常に貴重な人材だったので幕府が手放したがらなかった。
八重洲はどうかしらないけど、三浦按針は帰国を許される。
しかし人間関係のいざこざから日本に残る。
>>396 395が言ってるのはロックシンガーの方ではw
関係ないが俺はどっちのサインも持ってる
400 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 23:30:43 ID:zGm43gpv
>>398 イエズス会はカソリック
イングランドとオランダは反カソリック
微妙。
義重だけ目立ってる感じ。
402 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 04:13:20 ID:oXFYqovq
信長 「応仁の乱より100年
荘園已死 すなわち室町幕府はすでに崩壊したと
天下万民たれもがそう受け止めている
だが
世が変わるということは単に為政者が変わるということか!
将軍の座が入れ替わるということだけか!
そんなものは真の変革とはなんの関係もないぞ!!
この一年の戦いで武田軍なるものが充分にわかった
鉄砲衆よ 陣笠の子らよ
天下が本質的に変わることを求めぬ者どもに
お前たちの心火をたたきつけろ!!」
信長 (変革の申し子たちよ!お前たちの激情はこの信長の激情とともにあるぞ!)
武田スレで何をやっとるかボケ
もうスレタイのとおりの結論が出ちゃってるから
勝頼は、あくまでも、陣代なだけであって、本当の後継者は、信勝なんだろ?
勝頼が武田を継には、勉強不足だったというか、信玄の手元に置いてなかったのが痛かったのでは?
諏訪の押さえとして、諏訪四朗となのってたしな、初めは・・
信玄が信虎を追放しなければ、もっと早く武田家は滅亡してたんじゃない?
そもそも、川中島や三国同盟破棄が痛かった。
義信の代わりを育成していれば滅亡はなかったかと。
正確には、武田家は滅亡してないからな。高家として残ったし。
滅亡の滅とは「精一杯、生き残ろうと戦った上で性も根も尽き果てた状態」のこと
平氏は生き残ってるけど平家は滅亡してるのと同じ事だよ
このスレ面白いレスも多いが
>>48みたいな馬鹿も多いよな
レスやスレ内容を読まずにカキコムからそうなんだろうが
高家武田家は甲斐武田氏の名跡を継いでいた信玄の系統の正統として幕府から認められてるから
名跡を継ぐものがいなくなった伊勢平家の滅亡とは違うと思うのだが・・・
そんなものは屁理屈にすぎん
武田勝頼が死なせた武将達
秋山信友、秋山光継、朝比奈信直、安倍勝宝、安部宗貞、跡部勝資、安中景繁、甘利信康、
雨宮家次、飯尾助友、依田信守、依田春賢、一条信竜、一条信就、今福昌和、今福丹後守、海野信親、
大熊友秀、大嶋長利、小原忠継、小原 広勝、小原下総守、小幡昌盛、小幡憲重、小山田昌行、小山田信茂、
小山田大学、鎌原之綱、金丸定光、川窪信実、葛山信貞、笠井満秀、小宮山友晴、高坂昌澄、高坂昌元、
五味高重、座光寺貞房、三枝守友、真田信綱、真田昌輝、諏方頼豊、常田春清、武田信堯、
武田信友、武田信綱、武田信勝、武田信実、武田信貞、武田竜宝、武田信豊、長坂光堅、土屋昌恒、土屋昌続、
内藤昌豊、内藤昌秀、名和宗安、馬場信春、馬場少輔、原昌胤、日向是吉、室賀信俊、望月義勝、
望月重氏、望月信永、望月信雅、横田綱松、横田康景、米倉重継、湯本善太夫、湯本九右衛門、祢津是広、
名和宗安、仁科盛信、山県昌景、山県昌満、和田業繁、
信玄のせいにするのは強引だと思われ
すげーデタラメw
和田業繁って上野の?
419 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/09(土) 07:46:31 ID:mV9wpuv2
というより信玄が作った状況は信玄にしか収束出来なかった。
収束したところで武田の成長は限界だったから
どう転ぶかわからんけどね。
仮に勝頼が信玄より全ての能力で上回ってても
あの状況は勝頼には無理。
むしろ信玄が10年長く生きてたら勝頼以上に無様な滅び方をしていた気がする
信玄が生きてたら本願寺がもう少し粘ってるはず
いや、信玄上洛時(上洛目的だとして)の状況なら
織田もかなり苦しかったぞ。
信玄死んでから一気に問題を解決して武田を突き放したんだし。
勝頼も領土は拡大してたんだが。
信玄死んで軍事行動中止して引揚てるわけだから
信玄が死ななければ、予定通りの軍事行動続けられたんじゃないの?
上洛はありえないとは思うけど松平領をもうちょっと引っ掻き回せたんじゃないかな
信玄は上洛目的だったよ
信長は岐阜で待ち構えて決戦に挑もうとしてたんだよ
だから信玄の出陣の知らせを聞いて京都から岐阜城に帰った
しかも武田にはキツい長期戦を岐阜でやろうとしたはずだ
だから徳川領を素通りさせるために徳川には「武田に構うな」と厳命したはず
信長の構想では岐阜で決戦、武田の背後を無傷の徳川に襲わせるか
岐阜で負けた武田軍を徳川に追撃させるか。そういう作戦だったとおもうよ
信玄があのタイミングで死ななかったら武田は長篠を待たずにここで壊滅的な打撃を受けてるはず
↑
ゲームのやり過ぎ
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 08:10:44 ID:d4TWL+eM
信長の野望の世界で物を語らないで下さいw
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 12:27:59 ID:cPzIhgdS
>>424 慎重な信玄が勝算の無いことやるはずねえだろバ-カ
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 16:37:18 ID:fnak5Ffk
>>424 “〜はず”って最後につけてもな、それはお前が信長の野望でつけた知識からの憶測なんだよw
お前のレスに根拠提示されていないし・・・あ、根拠は信長の野望ですか?w
430 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 16:41:13 ID:3LkiIEnk
史実を「信長の野望」と切り捨てるこのスレの住人のレベルってw
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 17:58:59 ID:cPzIhgdS
>ここで壊滅的な打撃を受けてるはず
これ激しくワロタw
テメ-のいうとおり本当に壊滅するんだったら、
自分からわざわざ軍事行動起こして危地に飛び込むバカがいるはずねだろw
ましてや戦国屈指の智将の信玄がw
433 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 18:06:54 ID:SaYegB24
バロス。
戦国屈指の池沼
史実を「信長の野望」と切り捨てるこのスレの住人のレベルってw
435 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 18:24:47 ID:fPIf1Q1L
真田昌幸がすきだ
ID:Pel65i+Yの読みの深さは信玄以上なのか、凄いな、是非タイムスリップして
武田家を救っていただきたい
「信長の野望」に幻想抱きすぎ。
424みたいな広域的な戦略なんか、全然無いよ。
ただひたすら開墾開墾やって、国力が増えたら隣の城を攻めるだけのゲーム。
長期戦なんて考え自体無いし。
>自分からわざわざ軍事行動起こして危地に飛び込むバカがいるはずねだろw
>ましてや戦国屈指の智将の信玄がw
これこそ信長の野望の制作会社のような史観だな
>>437に全面的に同意。信長の野望に広域的な戦略なんてない。
ただし
>>424を擁護するつもりはそれ以上にない。
ていうか信長が岐阜に大軍で篭ったら信玄は尾張から伊勢路で上洛すると思う。
陸路で尾張から伊勢は厳しいのではないかと
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 22:25:48 ID:jB+oj+st
信玄の上洛ってのは、義昭の織田包囲網の一環なんだよ。
織田包囲網がなければ、信玄が上洛したって三方ヶ原で織田・徳川連合軍に
惨敗してるよ。
つまり、信玄は将棋でいえば飛車であって、王将ではないんだよ。
だから、飛車は飛車として、信玄が死んでも勝頼指揮のもとに上洛続ければ
よかったんだよ。もしくは、「もう飛車はできません、香車でおねがしまつ」
とでもいって、さっさと甲斐の引きこもるとかな。
それすらしないで、八3竜でアロンアルファに将棋板にくっつけられたように
動かなくなっちゃったもんだから、織田包囲網が完全に崩壊してしまった。
もう、戦略感覚が全然ないとしか思えないんだよね>信玄
そうなのか?
あの辺りの地理は詳しくないんだ。
ただ、伊勢には家格を気にする北畠旧臣が多いことや、信長に頑強に抵抗し武田と親しい一向宗勢力の長島願証寺が存在し補給を受け拠点にもできるだろうこと。
織田家臣では伊勢で最大の滝川一益も三方ヶ原から戻ってすぐに戦の準備を整えられると思えない。
それから、アンチ信長勢力の多い伊賀が近いこと、やはり本願寺友好勢力の雑賀衆のいる紀伊が近いこと、織田・徳川に挟撃されないこと、以上の六点から伊勢路を使うと予想したんだが・・・。
ゴメン。地形的なことも考えてなかったし、九鬼水軍の存在も考えてなくて詰めがなってなかったよ。素直に謝らせてくれ。
そして今更だがこれってスレ違いだよな。
消えるよ。スマソ。
勝頼のころには織田家と比べると国力の差はかなり差ができて
なおかつ金山の産出量も減ってきていたのが痛かった
あと「信」の字をもらえなかったとかいろいろあるけど・・・
勝頼が何か策を提案しても「亡き御館様の頃には・・・」とかって反論されたんだろうな
東海道五十三次でも尾張と伊勢は船で移動するようになってる
大きな川が集中してるから船で伊勢湾に出たほうが早いんだとか
バカがいるな、二人ほどいる
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 00:46:56 ID:T7QKas7A
勝頼は運も悪かったと思うが、信玄のせいばかりにするのはどうか。
織田家も結局信長の代に傾いたし、豊臣家なんてまさに秀吉の溺愛ぶりが秀頼の代
での滅亡の遠因になった。上杉謙信だって後継ぎの景勝に気骨があって家老の直江
兼続がやり手だったからよかったものの、後継者も決めずに死んで内戦招いたんだから
実は一番立が悪い。タヌキ親父家康くらいだろ、後継者育成で胸を張れるのは。
>>444 武田家って、義信が歿してから勝頼が甲府に来るまでの約4年間は形式上に
しても後嗣が不在なんよね
いちおう信勝は永禄十年に生まれてるけど
形式上は陣代だし、武田の旗も使わせないで大一文字の旗に限定させたし、
信玄死後の発給文書にしても信玄の花押が入ったモノが既に数百枚だったか
用意されてるし
所詮最後まで諏訪勝頼でしかなってい認識が家中でも濃厚だったろうし
>>447 他家を引き合いに出しても
武田家が滅んだ原因のほとんどを信玄が作った事には変わりない
>>441 途中までは面白かったが「戦略眼が全然無い」あたりから
単なるアホになってる。
ゲームの駒じゃないんだからそんな簡単にいくわけないだろと。
個々の状況を無視した戦略ってのは馬鹿にありがちな空論だよ。
>>424の人格を必死に否定する発言ばかりで
>>424の意見に対する具体的な反論が全く出ないわけですが
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 06:18:31 ID:JWXH2gea
だって
>>424はアホ過ぎるもん。軍をゲームのコマの矢印かなんかだと思ってる。
だから信玄軍(CPU操作)のユニットは家康(プレイヤー)を無視して通過
完全に無傷の徳川軍は、信長軍と決戦中の武田軍の背後から襲いかかり
信玄(CPU)はそんな事態は夢にも想像してないから
背後からあっさり壊滅、なんて馬鹿な断言が出来ちゃうんだよ。
配下の離脱やら三河地方の豪族の情勢やら
他にもゲームには登場しない要素は全く考えて無い。
部下なんて金あげれば簡単に忠誠度100になると思ってる。
人格否定ではなく脳みそを否定されてると知るべき。
反論するまでもないじゃん
反論して欲しいならちゃんと調べてから書いたら?
信長の野望脳で書き込むな、カス
戦国無双脳で書き込まないだけマシと思え
>>424の人格を必死に否定する発言ばかりで
>>424の意見に対する具体的な反論が全く出ないわけですが
>>450 だって、信玄って自国の周辺のことしか見えてないじゃない。
せめて日本半分を見渡した戦略なんて全然立てられて無いぞ。
上洛するのに上杉とも和睦せず、徳川の懐柔もせず、北条を動かしもしない。
上洛途中で病気になったら、進むでもなく退くでもなく、そのまま動かなく
なる。
義昭が織田包囲網をつくってくれなかったら、上洛なんて全然できなかった
わけだし。
所詮は、大戦略を立てられない田舎大名の域をでないだろ。
459 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 14:53:59 ID:fTVXx4Cq
信玄西上作戦の公式な目的は「上洛」と「信長征伐」なのよね
将軍や本願寺に求められて悪の信長を討つという
大義名分をちゃんと作って出陣してる
だから領土欲しさの私闘ではないのよね、少なくとも表面上はね
>>458 戦略に疑問は同様に感じるけど、日本半分を見渡す、と言う部分に
>>450はゲーム云々を
言っているんだと思うんだけどな。
>>460 そうはいうけど、上洛作戦規模の作戦だったら、そのくらいの視野がないと
だめだろ。実際、信長や義昭はそのくらいの規模で戦略練っているわけだし。
424はどうかしらんが
俺は「信長の野望」なんてやった事もないのにゲーム脳呼ばわりされたことは
あるな
>>461 だから、それはお前の言うように田舎大名の域を出ないからだろ?
大体、日本半分を視野に入れた大規模作戦を立てて実行なんて当時の情報伝達レベルで
出来るもんなのか?しかも武田家の領土のような田舎に居て。
>>463 なんだかわからんが。
信玄に戦略能力がないって言ったら、アホだとか言い出すから反論しただけ
だが。田舎者でハンデがあろうが、地方的な視野でしか戦略しか立てられな
いって事実は変わらんだろうが。
それに、田舎って言えば尾張だってけっこう田舎だが、信長は最初から大きな
視野で戦略を練っているが。
ようするに、義昭の戦略のコマとして上洛しようとしたが、所詮は地方大名の
能力しかなく、天下をどうこうってレベルじゃないってこと。
また話がずれてる…。
ID:RObKqWiLの叩かれてるポイントは現実的に考えてありえないこと
(上空俯瞰したような戦術や各勢力に対する戦略外交視点の欠如など)
を根拠に戦略論を展開してるからで、別に結論自体は普通。
結論に至る過程がおかしいと言われている。
>>465 ありえない理由を示さないで、叩かれてもねえ。
進攻路に当たる大名の懐柔や、留守にする本国の周辺と和睦するなんて、
ごく普通のことだろうに。実際、信長は上洛に当たって、徳川・浅井を
同盟に持ち込んで、武田に対しては徹底した媚態外交で邪魔させなかっ
た。同時代でやっているやつもいるんだから、なんで現実的にできない
という結論になるだか。
信繁って村上義清に討ち取られたんだっけ?
よくわからんけどID:RObKqWiLの言う「大戦略」って
日本地図見て「織田の周辺国全部を織田にぶつければ織田に対抗可能じゃん」って話?
そんなの後世の人間が地図見れば誰でもわかると思う…。
そんなのを大戦略とか言われても。
あと武田は上洛時に北条と同盟結んで援軍出させてるよ。
隣国しか見えてないのが普通と言うが、
遠交近攻策って、古代からなかったっけ?孫子だっけ?
織田の1つ向こうはもう毛利だし、そういう視野を持てって話じゃない?
今川を攻めて、北条と上杉の両方を敵に回したりするぐらい大局的戦略が無いから
かなりの近視眼である事は決して否定できないが。
まー戦国の世であれだけ弱体化した今川との盟約に北条が固持するなんて
思わないような気がしなくもないな。
しかも結果的に駿河併合して北条と同盟してるし。
信長包囲網にしても義昭を中心に周辺の駒が動いてただけなので
「信長包囲網」という観点で見ると信玄は義昭の駒の一つなのよね。
決して信玄目線の作戦ではないのよね。
その包囲網にしてもきちんと団結して行動してたわけじゃなくて
自分達の利益のために動いてただけだから上手く機能してなかったのよね。
474 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/12(火) 22:58:24 ID:cYuez/qA
>>469 なんか、戦略を理解してないんじゃない?
織田の周辺大名をぶつけるのは、すでに義昭がやっているでしょう。
本願寺、浅井、朝倉、武田と包囲網が構成されている。
完全包囲はできてないが、将軍の権威と織田への警戒心を刺激する
ことでちゃんと形はできているよ。
戦略っていうのは、こういうのをいうわけだけど。
で、その義昭の戦略の一環として、信玄は上洛作戦やったんだけどね。
周辺への配慮がほとんど有効になってないでしょ。
特に、後方を脅かす上杉とも停戦してないし、最初に当たる徳川に
は懐柔した形跡すらない。ここら辺、地方レベルでの外交なんだけど
ね。それすら満足にできてないわけで。
徳川はそんなことしなくても踏み潰せると思ったんじゃない?
上杉はよくわからんが
476 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/12(火) 23:02:08 ID:cYuez/qA
>>475 踏み潰すより、味方にした方がはるかにいいでしょう。
鎧袖一触で粉砕しても、主力が上洛したら、後方で蠢動するんだから。
上杉だって、冬の間は出てこないだろうけど、春になったら出てくるん
だし。半年でケリがつくと思ってたんかね。
477 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/12(火) 23:35:15 ID:Yuuu6Kff
でもな、長篠と同じ1574年、勝頼は3万ほどの兵で美濃を攻めて
苗木城ほか、東美濃の諸城を落としている。
最後に、明智城攻めだが、このときは信長から3万ほどの援軍が来たが
そのまま明智城も落としている。(土岐市史
しかし、次の年、1575では一万五千。
上杉が動いたんだろうけど、こんなことなら
1574で明智城攻略した後、互角の兵で決戦しておけばよかったのにな。
この辺りの戦は有名じゃないけど、勝頼も十分勝機があったといえる。
結局、信長の成長の方が早すぎて、信玄だろうが滅ぼされたとおもうよ。
478 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/12(火) 23:37:09 ID:Yuuu6Kff
上の間違いだ。
1行目、ながしのの前年、だな。
479 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/12(火) 23:44:42 ID:Yuuu6Kff
と、書いてて思ったが
ひょっとしてこの長篠の前年の東美濃攻略戦で
信長軍の援軍が無抵抗だったから、弱いという印象になり
次の年、少ない軍で行軍したのかもしれんね。
信長からみると、少ない相手に対しての固い陣地建設も納得いく。
>>474 少なくとも上杉の後方は常に攪乱してる。北条とは同盟してる。
徳川は実際に一戦して粉砕してる。
それから三河調略をどうする予定だったかは不明だが
家康を完全に放置して岐阜までノコノコ進軍して
背後つかれるなんて考える方が無理があるな。
信玄はお前や俺らが考える程度の事は理解してただろうよ。
ただ武田には武田の事情があり、完全な義昭の駒になるのは不可能。
それは朝倉にも言える。
つうか、そんなに食料を持参していたのか?
補給線が延びれば延びる程危険なのは分かっていただろうし、
時期は冬だから現地調達も出来ないわけだろ?
「そんなに」とは?
>>480 それじゃあ、本当に短期間の作戦しかできないだろうに。
せいぜいもって半年、一年以上の作戦継続なんて不可能だぞ。
北条だって、武田主力が遠くに行ってしまっている状態で、上杉を
抑え続けるほど武田に義理があるわけでもない。
それに、徳川だって一戦して粉砕できた(っつもしっかり家康は生
き残っているが)のは、出てきたくれたからで、浜松無視して上洛
しようとしてたろうに。
なんつうか、信玄の上洛作戦って、行って帰ってくるだけか?
それとも、織田と主力決戦やって、「勝った勝った」で甲斐に戻る気か?
だいたい、義昭のコマにゃならんというが、あの状況で義昭のコマとし
て織田を潰す以外にいったいどういう戦略目的があるんだよ。徳川領を
併呑しようとするんならまだわかるが、その意図もなさそうだし。
484 :
あ:2006/09/13(水) 11:24:29 ID:yw+0gX+/
1574年の美濃侵攻では、東濃18城を攻略したそうだ。
ただその間に信長は、上京したり本願寺攻めの準備をしたりして、いまいち正面から戦おうとしていない。信長の頭には既にこの時、対武田戦=設楽原の構図があったのかもしれないな。
>>483 他スレで似たような議論されてて、そこでは
信玄の目的が上洛だったのか、三河遠江併合なのか
それすらわからんから結局は答えが出てなかったな。
三河併合なら家康を放置したのも正しいわけだし。
俺は信玄が10年長く生きているよりも3年早く西上した方が
色々な可能性は変化したように思ってるが、実際はわからんよな。
最終目標は分からないが、とりあえず三州なり遠州に楔を打ち込んで、
家康と信長の動きを止める事が当座の目的だったんじゃないの?
一気に上洛は無理でしょ、どちらにしても。
>>486 どうなんだろうなぁ。
どっちにしても、戦略目的がはっきりわからない作戦ってのは、たいてい
ろくなもんじゃないが…
問題なのは三方が原以降、健康上の理由で
作戦を実行出来なかった可能性がある事だよね。
仮に健康な状態で三方が原以降、モタモタしてたなら
そりゃろくでもない作戦なんだけど。
>>474 徳川の懐柔は難しいでしょ
第1駿河攻めで裏切っておいて信用されるのか?
また信用できるのか、見方にして美濃を攻めたとして徳川に裏切られたら戦線が非常に長くなる
>>477 明智城攻めはまだ一月二月で信越国境越えは難しいかも
ついでに上杉はようやく越中を落ちつかせたばかりだからかも
>>484 信長にとってはさして重要でない地域を固守して兵力と時間を浪費する気は無いってとこでは
信玄の行軍の動きだけしか見てないから
「上洛か領土拡大戦か分からん」とか平気で言えるんだよ。
信玄が出陣した大義名分は「幕府再興」「信長征伐」であって
将軍や本願寺の再三の要請を受けての出陣だ。
その事は対外的にも広めているので信長も家康も「信玄が上洛を始めた」と思い込んでいる。
その証拠に信長は信玄出陣の知らせを受けて京から岐阜へ戻り信玄を待ち受ける準備をしているが
これが単なる領土拡大戦であれば放置しても構わなかったはずだ。
家康も上洛の途中で自分の領国を素通りされると思ったから城を出て野戦をした。
だが現実には武田の兵力や兵糧の量からすると独力での上洛は難しい。
行軍の途中で本願寺などから補給を受けるような手はずが整っていれば別だが
本願寺は本願寺で織田と戦っているわけだから普通に考えると無理。
上洛しても各地に分散している織田軍が集結するような事になればおしまいだ。
それらを総合すると、
信玄は将軍や本願寺への対面を保つために上洛に見せかけて出陣し、
徳川領を攻略しつつ、最終的には信長軍と対峙して適当な所で和睦、
というストーリーを描いていたのではないか。
死期が見えて焦ってたようにも見えるがね。
本当に上洛なら信玄らしからぬ無謀さだし。
>>492 どうみても兵站線が持たないんだよねぇ。
唯一は、尾張の港のどっかを占領して北条水軍に輸送してもらうくらい
なんだけど。
>>490 >その証拠に信長は信玄出陣の知らせを受けて京から岐阜へ戻り信玄を待ち受ける準備をしているが
こんな事実ある?
9月には横山に戻ったみたいだけど
>>490 え?駿府からと信濃から侵攻して、更には美濃にも侵攻しているような
大規模作戦なのに見せ掛けの義理出陣だったのか?
>>495 そうじゃなくて、上洛に託けて織田領土を侵食するのが目的って事じゃないの?
進軍地での略奪は武田の得意技だもんな!
499 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/16(土) 23:11:20 ID:PdS6aXAX
信濃で繰り広げたように村を潰せば大量の食料が手に入る!ましてや信濃攻略時とは比べ物にならない程の大軍だ!
略奪で得られる量も半端ではない!!!!
まず、村人を全て狩れば村人が暮らしていくための大量の食料が手に入る!これで1月は十分持つだろう!
女はいつものように女郎屋に売れば大金が手に入る!これで半年分の食料は手に入るだろう!
子供は愛玩具として信玄公に献上するもよし!奴隷として売ればこれまた大量の金や食料にできるだろう!
老人はいつものように黒川金山に連行すれば労働力として国力を高める事ができる!いざという時は非常食だ!これも貴重な食料になるだろう!
孫子の兵法の基本は敵地で略奪!補給?ハァ?何言ってるんですかお前等wwwwwwwwwwwww
織田厨は馬鹿ばっかりですなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
お前が馬鹿にしか見えんが。
100%釣りだろ。
釣りにしてもレベルの低い気がするが・・・
503 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 04:49:09 ID:UkS8RKS2
別に釣りじゃないとオモ
505 :
$‥(゚∀゚)$:2006/09/17(日) 14:39:27 ID:C6W1BT49
武田徳川の今川領分割の密約は、武田が裏切った事になっている。
しかし、だ。家康は掛川城開城交渉の際「武田から駿河を奪収したら氏真を駿府に帰還させる」との条件を提示している。
既にこの時点で密約を破る気満々。
>>505 だってそれ以前に秋山山県が徳川を攻撃してるし
家康だって武田との同盟が今川領を平らげるまでの一時的な物である
事くらい百も承知だったろ
そうでなければバカだよw
北条はまだしも徳川は潜在的には絶対に敵だからな
むしろ織田・徳川・武田の新三国同盟を締結すればよかったんじゃないかと
武田織田との同盟が生きていれば家康から積極的に武田を裏切ることも無かっただろうに
上杉と結んだ今川を滅ぼして後方を安定させ北条と共に上杉と戦えば良かったのに
上杉と戦ってたらいつまでも上洛不可能
512 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 15:46:20 ID:PSkRjR+N
今川の旧領を全部取ったらその分の国力だけで上洛、
武田の旧領分で上杉にあたる。
その際の戦線は川中島ではなく
国境から春日山城の間とする。
どっちとも戦線が破綻するんじゃね?
信玄じゃ今川の旧領を取るなんて無理、できたのなら史実でやってる
515 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 21:29:38 ID:b/72rjT4
俺もどっちかというと、勝頼に全責任があるわけじゃない派なんだけど
長篠直前の、信長と勝頼がそれぞれ後方の配下武将に宛てた手紙みると
ヤパーリ勝頼じゃ信長の相手はムリぽな気分です
勝頼の手紙
もうね、大チャンスですよ。家康(笑)ボコボコにしてたら信長(笑)が
援軍に来たんだけど、もう明らかにビビッてるわけですよw
援軍に来たヤツが後ろの方で縮こまっててどうすんのよw
アレじゃ戦争なんてできないよ。「兵力の差が、戦力の決定的要因でない事を…教えてやる!」な感じw?
ここは一発キツいのをカマして、もう二度と俺らの邪魔しに来れない様にしとくべき。ボコボコにしますよw
じゃ、酒でも用意して待っててね〜
同日付の信長の手紙(ちなみに細川藤孝宛)
補給乙。全て計画通りですよw
勝頼(笑)は俺らがビビりまくってると完全に思い込んでます。
今にも突撃してきそうですwこっちはエネルギー充填200%の波動砲並べて
待ってますんで、もう完膚なきまでにたたきのめすでしゅ〜な感じw
ま、朗報を待ってろってこった。そっちでも何かあったらすぐ連絡しる
516 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 21:31:45 ID:3OXow7RP
なんでみんなそんなに信玄叩きたいの?
マイノリティが好きなの?
>>515 もうちょっと他に意訳の仕方はないのかw
518 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 22:35:07 ID:lrQwov0l
信長にぼこられた武田
秀吉と互角以上に戦い信長を引きずり出すところまで行った毛利
やはり、毛利輝元>>>>>武田信玄だな
>>518 互角以上じゃないから備中まで攻め込まれているんじゃないのか?
521 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 22:43:42 ID:lrQwov0l
>>520 結果的に毛利の支配権を乱され外様に裏切られどう考えても
あのまま戦が続いてたら毛利家の存続すら危うかったのに
互 角 以 上 !?
確かに途中織田家臣団を諜略したり外様の別所氏が勇戦したり
したが、それで「互角以上」なんて評価は先の大戦において日本
は米国と互角以上に渡り合った、というようなもんだ。
毛利が戦ってた織田軍なんて枝葉に過ぎない、信長本人が出張れば武田と同じ目にあってただろう。
つまり当時の織田にとって毛利なんて秀吉の一軍団だけで充分な相手だったわけだ
524 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 23:16:37 ID:lrQwov0l
備中高松に行って毛利本体と合戦してたら信長の首は討ち取られていただろうな
支柱を失った織田家は一気に崩壊か
525 :
あ:2006/09/21(木) 23:44:55 ID:22vqIDhu
備中高松城落城の折の講和条件は、毛利所領を大幅に織田に割譲するという内容だったはずだが……
どう見ても、互角な戦いじゃないだろ。
秀吉陣営には「毛利勢が5、6万出陣してくる」て情報になってたらしいので、信長に決戦を促したんだろ?
実際の戦局不利の援軍要請じゃないだろ。
賢いから適当に講和したのさ。
ガチでやれば羽柴などでは勝てない。
>>521>>525 ソースはどこ
527 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 23:55:48 ID:lrQwov0l
賢いから講和したってのは正しいな。
ただ信長存命の場合、果たしてどうなったのやら。
対織田戦に全力を向けることができればよかったのだろうけど、
毛利家も包囲網敷かれていたから無理なんじゃない?
決戦の機会はそれまでも何度かあるが、全て回避している。
織田との戦いで領地を拡大したわけでもなく、戦費の負担に苦しんでいる。
石見銀山を押されている毛利家の基本戦略は、大友を打倒して北九州に勢力を伸ばし、
流通システムを掌握すること。
当時、石見産の銀は明国に大量輸出され、東アジア貿易圏の発達を促した。
尼子、毛利が巨大化したのは、流通ルートの小豪族を従えて、
交易路の整備や安全確保、過剰な中間搾取の抑制を行ったから。
>>518 ちょっと違うねぇそれは
秀吉はこのままで行くと毛利軍と全面対決して勝ちそうだった
それだとヤバイと判断したんだよね秀吉は
信長様を抜きにして毛利を破っちゃいかんと
ここは水攻めとかで戦いを引き延ばして準備も整えて
「ヤバイっす、信長様助けてください」と信長様をご招待して
明智や丹羽や信長様のご子息も使って中四国の掃討を一挙に片付けていただこうと
そういうアレだったんだよね
531 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 07:54:40 ID:16f4rpaN
ここは武田を語るスレです
よそでやれ
533 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 13:52:03 ID:mkLqpECU
うちのクラスの武田、メガネかけてる。
頭はけっこうイイけど、不真面目なとこがある。
身長は167くらい。こんなもんでいいか?
534 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 14:16:25 ID:YudVFlzn
うちのクラスの武田は陽気でいい奴だよ
陸上部の武田はヤリマソで有名だったな
536 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 14:53:39 ID:vy4z2CoK
みなさん、大河ドラマ「武田信玄」観ましょう!
新田次郎の「武田信玄」も読んじゃおう!
今宵はここまでにいたしとうございまする。
オレの知り合いの武田ちゃんは
小5の胸が膨らみはじめた頃から
自分の乳を触ったり揉んだりするクセがついてしまって
何かあるとボーっとした顔で一日中自分の乳を触ってて
そのせいか中3の頃には巨乳ちゃんになってたよ
たまに触らせてくれたし一度だけ気が済むまで揉ませてくれた事があるよ
俺の幼なじみの武田は小五から大人の階段を一段とばしで駆け上がってたな。
兄貴が妹の乱れっぷりを嘆いていたのが印象的でした。
同僚の武田クンは頭はいいけどちょっと時代遅れ
そいつは信玄は結構好きなのかしらんけどワザワザあやかって苗字を武田に変えたらしいよ。
ぶっちゃけ今時甲州甲州うるさいんだよね。
そんな彼も事情があって今度退職するらしい。
どっちかっつーとウザイやつだったけど、いざ居なくなるとちょっと寂しいね
……さて、送別会での準備でもしようかな。
知り合いの武田は後輩だけど超優秀で将来は外務省に行きたいらしい。
でも性格がウジウジしててかなり馬鹿にされてる。
他人の目を見て話せない。
後輩の山田は空気が読めなくて、いつも皆にうざがられる
知り合いの武田がすし屋で働いてた。
武田の70%以上が排尿時の不快感に悩んでるらしい。
日本の武田の四割は仮性包茎
漏れが、思うに、信玄は、勝頼に政治や戦のことを教えてなかったのだろうと思う。といっても深くって意味だよ。
あと、駿河はたしかに、平和的に解決できたかもしれんな。まぁ北条や徳川が狙ってたし。
信玄は海がほしかったのと金山が目当てだったんだろ?海があれば、交易でもうけられるし、そもそも信濃攻略も金山とかじゃないの?
>漏れが、思うに、信玄は、
小学生より酷い日本語だな
我思ふ。信玄は子勝頼に政や兵を教えることなきであった。
,ィ __
,. / |´ ̄`ヽー- 、 ト、 , -‐、/./.- 、
/ | | ヽ l l ( 火◇風 ノ
/o ̄`ハ._.ゝ===┴=く.ノ- 、 ノ ◇ ◇ (
/o O / l´ ノ ∴∵∴ ヽ lo ',ヽ ( 山◇ 林 }
\___/. ト、∴●∴∴● ハ ∧ `⌒/7へ‐´
/ ,イ レ_∴∴/●ヽ∴ミl~T--‐彡 /./
/ ̄ ̄l. 彡∵三|∪|三 ノ'l l::::::::::彡ー7⌒つ、 <尻に教えた者はみな名将になったのに・・・
彡:::::::::::l ト、___ヽノ /| l::::::::::::ミ {,_.イニノ
彡ソ/ノハ ト、 \ / ,イ 川ハ ヾー‐'^┴ 豚息子どもは頭に教えたのが悪かったのかのう!
>548
小学生でも
もっとマシな日本語を使うぜ
信長にとって苦しめられたもの比較
信玄の中途半端な西上<朝倉の引きこもりぶり<斉藤家の切り崩し<義昭の戦略<本願寺の底なしパワー<大大名今川との戦い<兵力差で劣りながらも戦い抜いた尾張統一戦<光秀謀反
過疎ってますなぁ。こんなものか。
このスレを通して見ると,結構信玄時代後半〜の時間における信玄の失策が
挙げられているようだけど,俺が思うにもっと以前に原因があったように
思うんだよな。
勝頼の末路を見て思うに,このスレでも多くの人が原因の一つとして見ている
国人領主の家臣団化に失敗したことが,武田家の成長の足かせになって
しまったように思う。
合議制で行う限り,迅速な意志決定は困難で,時間的なロスが少なからず
発生してしまうからね。
仮に信玄が名将で「あと10年生きていたら・・」というのであれば,
なおさらこうした時間的なロスは見過ごせない要因だと思う。
親父の信虎の追放原因としてwikiでも触れられているが,中央集権化に反対
する国人領主に祭り上げられてしまった時点で国人領主の家臣団化は困難
なわけで,武田家あぼんフラグが立ってしまった希ガス。
晴信と信繁の間は良好だったことから,信虎の中央集権化に父子一丸となって
取り組んでおけば,少なくとも支配体制においては強固なものになったのでは
ないだろうか。
ま,信玄個人の失策を挙げるとすれば
・信虎と協力できず,支配制度として国人領主の家臣団化が確立できなかった
・嫡男義信をスペアを定めず処断
・信長の懐柔策に嵌り謙信と無駄に遊んだ(つきまとわれた)
・天下を狙っていなかったため領域拡大速度が極端に遅い
ぐらいですかね。
天下狙っていないって言い切っちゃったけど,そういう風にしか思えないん
だよね。あの成長速度の遅さを見ると。
せいぜい足利幕府下の最大有力大名ぐらいでいいやって位にしか考えていなかった
んじゃないかなぁ。
そしたら信長の極端なまでの膨張っぷりに焦り,更には将軍家や親戚(本願寺)から
もHelpされて押っ取り刀で出かけようとしたけど,「ウッ,ゲホゲホ」で
タイムオーバーになったってのが真相だったりしてねw
もっとも,「俺は天下を取るぜ!」なんて最初から考えているヤツの方が
当時としては変人だったかもね。
信長以外で当初から天下統一を考えてた戦国大名なんていたんかねぇ。
みんなせいぜい「地方のトップをとってやるぜ!」位が関の山だったような。
こうしてみると信玄の失策以外にも
・変人
・ハンパないストーカー
・リフティングの達人
・地方王国建設に邁進
な人に囲まれてしまった不運もあるわな。(3番目の人はあまり有害じゃない
けど)
畿内からも遠いし,経済はダメだし。
信長でも武田家に生まれていたら天下取れなかったかもね。(信玄死語は特に)
勝頼は精一杯頑張ったと思うよ。
あり得ないぐらい不利な状況下で家を継いだ中でさ。
ゲームのハナシで恐縮だが,あの政治と知謀の低さはありえないと思う。
悪くても50は切らないだろうよ。
結果は全く残せなかったし太守の器じゃなかったかもしれないけど,
感情的には器量一杯に生き抜いた漢として好感持てるな。見習いたいものだ。
長文,スレ汚しスマソ。
>>553 >勝頼は精一杯頑張ったと思うよ。
>あり得ないぐらい不利な状況下で家を継いだ中でさ。
勝頼は恵まれてるほうだろ
一国すら持たずにスタートした元就や信長に比べれば、はるかに勝頼のが恵まれてる。
ただちょっと目を武田家の外に向けると、とんでもないことになってるけどな
>>556 織田も毛利も、隣国に馬鹿でかいのがいたわけだが、それも険悪な状況で。
>>557 そりゃ確かにそうだけど,毛利にしろ織田にしろ厳島や桶狭間での
勝利(これに勝つのもスゴイと思うが)というワンチャンスをモノにした
ことでパワーバランスを変えることができたけれど,
勝頼の場合,ワンチャンスで求められるハードルが異常に高い,ないしは
ワンチャンス程度ではどうにもならない程に懸絶してしまっていると思う。
554や555が述べているように,確かに勝頼は三州プラスアルファの封土と
軍団を引き継いだという意味では恵まれているけれども,同時に周囲の強敵にとって
打倒順位が高い状態で引き継いでしまったとも言えるし,更に言えば,
中途半端に強大であるが故に安易に信長の傘下に下るわけにもいかず,
進むも引くも抜き差しならない状態での継承なわけで,一概に恵まれていたと言い切るのは言い過ぎな気がするのだが・・・。
>>558 でも勝頼が継いだ段階じゃ織田は武田の2倍程度、
多目に見ても3倍程度でしかない
上杉と徳川も敵対していたけど武田に比べれば国力は劣る
元就や信長と比べるならかなり楽。
あとは元就や信長みたいに勝ちつづければいいだけ。
まあ不可能だが。
>ワンチャンスをモノにしたことでパワーバランスを変えることができたけれど,
あとこれは完全に間違い
元就と信長はかなり危険な戦いを何度もモノにしている。
560 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 00:28:44 ID:rvFhx1WM
>>559 織田には斉藤との縁戚同盟があり、毛利は大内尼子の緩衝地帯、安芸の
豪族。信長や元就が非常に優秀なのは確かだが、そういうバックを背景
に勢力を磐石に出来たのが大きい。
勝頼の場合、信長の初期状態をさらにビッグスケールにしたような環境
で武田の実験を握ったのでより崩壊しやすかったってのがあると思う。
>>557 >>559 信長や元就と比較されても勝頼も困るだろw
巷説のような無能ではなく、かなりの出来物でもその二人の真似をしろと
言われて出来るものではない
桶狭間と比べるのは有田合戦にしないか?
毛利も陶の謀反で大内が滅びるというラッキーイベントがなければどうなったか
まあ確かに、でかい大名になった奴は運が必ず良い、とはよく言われること。
ありがちなのが、脅威だった大名が死んでくれた、とか、内部で争ってて攻め込める、とか。
でもそういうチャンスを生かすのも名将の条件だと思う。
あと個人的には、いかに勝利を積み重ねても慢心しないこと、か。
年内持ちこたえてりゃ本能寺という最高のチャンスが巡って来ていたのにw
畿内以外の有力大名で完全制圧の最初のターゲットに選ばれてる時点でダメダメだろ。
>>565 >年内持ちこたえてりゃ本能寺という最高のチャンスが巡って来ていたのにw
釣りか?
本能寺は武田討滅がなったから起こったとばかりw
因果関係は別にして、
最大のチャンスである本能寺が滅亡直後に起こるような運の無さじゃどうしようもないな。
本能寺の変のようなチャンスが
本能寺以前にもいくらでもあったんじゃないの?
このアホがその事を言っているのかどうかは分からないけど
>>560 マテ。緩衝地帯の盟主として大内尼子と渡り合える立場は
元就が自らの手で作り上げたものだろ。有田合戦、鏡山攻略、郡山篭城。
また吉川、小早川との婚姻。数々の武功と政略によって発言権を拡大し
安芸の豪族を味方につけ、大内尼子の抗争のキーとなる安芸勢力を作り上げた。
それがなきゃ緩衝地帯どころか単に二大勢力に翻弄されて滅亡したろうよ。
毛利だって最初は何のバックも地理的優位もない安芸の弱小国人に過ぎなかった。
>>560 勝頼にも同盟相手はいたんだが・・境遇の良さで上を見たらきりないよ。
>>571 戦国初期の国人級領主が独立もしくは日和見できる頃なら、
小さな合戦の勝利の積み重ねでも雪達磨式に勢力が伸びる。
戦国後期のどの地方でも統一が進んで、各国人勢力が強大な勢力の
傘下にある状況では小さい合戦の結果だけではどれだけ効果があるか。
それが
>>558のいう大きいハードでないの?
574 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 21:54:42 ID:m9YioEGF
>>572 別に同盟相手の有無とかではなく、
>>559の「勝頼の初期状況は信長・元就に
比べりゃ相当ラクだぜ!」ってのに返しての「彼らには強力な庇護者がいた」
って意見が
>>560。
議論の流れを読まずに「勝頼にも同盟相手いるよ」と言われても…。
結論として、強い奴はどんな状況でも這い上がってくる。
信長や元就ならどこで生まれようが同じような結果残してるんじゃないの
>>573 合戦の規模は小さくても戦力比は変わらないからなあ。
それと、戦国後期でも当主クラスが参戦しての決戦に負ければ一気に旗色が変わるのも同じだろうし。
国人なんて戦国大名のもとで家臣化されたようでも結局は保身が一番。
国人じゃなくて譜代の家臣でも血縁者でも裏切りうる。武田の最後見ればそうだと思う。
例えば長篠で桶狭間や厳島のように信長の首が飛んでいたら
形勢はそりゃあ大きく変わったと思うよ。
そしてそういう効果を狙って乾坤一擲の勝負に出たのが長篠だったと思う。
>>575 全くそう思う。しかしあの二人は別格。野戦での嗅覚が・・・
あれだけの活躍ができなくても信玄や義元は十分すごいと思うよ。
勝頼もそれなりに有能だったと思う。
>>574 庇護者って・・何をいってるんだか。大して兵も出してくれないのに。
そういう気休め程度のことなら、充分普通の同盟相手と同じだろ。
確かに勝頼は負の遺産を継いでるけど、でもそんなのはどこの大名にだってあるわけで。
突然死んだせいで家中ばらばらとか、周りが険悪な敵だらけ、とかね。
だから100%は言い過ぎ。
50%ぐらいだよ。
勝頼の場合は将棋で言うと「あと5手で詰む」という状態で引き継いでるから
挽回は不可能
それをひっくり返すのが稀代の名将って奴だ。
・・ま、つまり勝頼はせいぜい猛将ってぐらいで。
じゃあ誰だったらあの状態から挽回出来るんだ?w
義信
そら立場が違うだろハゲ
584 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/17(金) 16:10:13 ID:al0LHRSz
武田勝頼の本当の名前は源勝頼なの?
585 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/17(金) 16:35:35 ID:Nt70z8D3
勝頼の領地が信長なら十分可能性はある
但し信長の領地が信玄以下の将の場合
信長の領地にいたのが俺なら勝頼でも勝てる
環境が人を作るから
信長が武田家の四男として生まれてきても
結局は勝頼と変わらんと思うがどうか
環境が人を作るといっても……
信長と氏真が入れ替わっていても変わらんとは思えないがなあ
>>587 環境は確かに人を作る部分もあるが、生まれ持った性質というものもあるよ
信長は親父が急死したあと重臣が弟について謀反
庶子系だから他の織田氏を倒して尾張を統一しなきゃならん
勝頼より厳しい条件だったんだが。
信長の場合は親父の存命中にも親父からの手厚い保護を受けていなかったので
初陣なんかも派手な合戦じゃなく小さな小競り合いの上に負け戦だし、
戦に負けて命からがら逃げて生き延びた事もある
ちゃんと保護されてた勝頼とは少し違うね
強いて言えば信長はあまり失うものはなかったけど。
勝頼は沢山持っていて、しかもしがらみのせいでそれを守るため打つ手が
限られていた。
失うものって・・家や命はどっちも失うわけにはいかんだろ。
むしろ勝頼はあんだけ大きな軍事力と、一応従ってくれる有力家臣達がいるんだから。
勝頼ってあくまでも、陣代だったような気がするのだが・・
信勝が世継ぎに指名されてたような・・
死ぬまで諏訪勝頼だったようなもん
武田信者は一つの方向からしか物事が考えられない人種である
このスレいつ落ちるん?
598 :
。:2006/12/29(金) 11:10:32 ID:I8/+2Vdy
ネタ切れにつき終了
600 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/31(日) 02:43:41 ID:TABy7Gih
武田信玄って極度のオナニー野郎だよね。
ってことは俺は武田信玄並の器量があるって事だな。
>601
百万石を目指してガンがれ。
603 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/04(木) 13:06:53 ID:x/W6kTOv
勝頼を裏切って、滅亡とともに織田(もしくは家臣)に裏切られて殺された人
小山田信茂 武田信豊 山県昌満 一条信竜 武田信廉 甲斐衆のほとんど
家康に下って安堵された人
穴山梅雪 依田信蕃 その他駿河のほとんどの武将。
あとは生き残ったのは真田昌幸 内藤昌月 ら上野衆ぐらいか。
604 :
バナナマン:2007/01/04(木) 13:13:45 ID:APWlaba+
家臣が強かっただけでしょ?
>>1 勝頼は凡将だろう
まあ、そのおかげで上杉景勝は助かったけどな
御舘の乱の時に、勝頼が景虎を支援したら景勝が滅びていた
ところが勝頼は景勝を支援したから、北条を完全に敵に回してお仕舞い
北条氏政と同盟するほどアホらしい事はない
同盟して景勝を倒した後でも「西上野をくれ」だの何だのと言い出しそうだ
で、織田が攻めてきたらあっさり同盟を破棄して織田方につく
それが北条氏政という男の本質
御舘の乱で北条方についたら上杉まで北条になってしまい
北条の勢力が激しく拡大する
もし武田が北条方についていれば
それはそれで武田にとって致命的な失策になっただろう
それ逆。
織田が攻めてきたから同盟した、ではなく、
甲越同盟に対抗するために織田・徳川と結んだ、が正解。
あとお前の妄想はともかく、
史実として北条との同盟を破棄して、三方敵に回した事は武田にとって致命的な失策になった訳だが?
その時点でどっちに付こうと詰んでた気もするが
越後から小田原まで北条が占めたら織田との衝突は間違いないでしょ。
そうなったら武田は重要な防波堤になる。
結局、信玄が死んだ時点でもう詰み将棋。
むしろあの状況で勝頼は良くやった方だよ。
>信玄がきちんと健康管理をしていれば
あの重要な局面で病没する事はありませんでした。
だから元亀2年に八方塞の織田家は滅亡していたかも知れません。
後半は同意するとしても前半は無理ないか?信玄はかなり前から病を患っていた
といわれてる。それをなんとか押して上洛に出たんだろ。
信玄が死んだ後、強大になった織田が武田家を放っておいてくれるとは思えんし
健康が悪い事を承知で勝負に出たんだろ。健康管理だけの問題ではないと思うぞ。
>今川家を平和裏に吸収していれば義信の反発はなかったし
義信の嫁を北条家から取っていれば今川家が滅亡していようと問題は起きませんでした。
今川家を平和裏に吸収するって具体的にどうするんだ?
家康にとらてしまっている三河を分割する案さえ跳ね除けられてるのに。
それと三国同盟が結ばれたのは信玄がまだ信濃もとってない頃だと思うが。
予言者じゃないんだから10数年先の義元敗死から今川との関係悪化までの
流れを全部読みきって事前に手を打っておくのは無理と思うが。
特に義元敗死はどの大名にとっても意外な事態だったろうし。
後、当時の武田にとって今川との同盟関係をさらに強固にしておく事は重要で
その意味で義信の妻が今川から来たのは無理が無い事だと思うが。
>義信を殺したために他家にやった諏訪四郎勝頼を世継ぎにしなければならなくなりましたが
側室の子でありなおかつ他家にやった子を跡継ぎ扱いに出来ず、
四郎勝頼を息子が元服して武田家を継ぐまでの間の後見人という立場にしか出来ませんでした。
勝頼陣代説だが、これは一次資料の裏づけがないそうだぞ。
>四郎勝頼が武田家の当主ではない後見人だったために、
信玄時代からの家臣は四郎勝頼の言う事を聞かず亀裂が生じました。
勝頼は仕方なく若い家臣を自分の側近にして譜代の家臣とは距離を置くしかありませんでした。
代が変われば若い家臣が側近となるのは結構よくある事だぞ。
>本来なら信玄の時代に本拠地を諏訪に移すべきでしたが信玄はそれをしませんでした。
そればかりでなく甲府から諏訪の間の、何度も行き来した道すら整備しませんでした。
織田家の勢力が強くなり、本来なら諏訪か高遠辺りに本拠地を移すべきでしたが
本人が諏訪の人間だったために甲斐国内の韮崎に新府城という、
戦略的に全くもってムダな地に城を建てざるを得ませんでした。
信玄の時代に本拠を諏訪に移すべきだったというがいつごろ移すべきだったと思うんだ?
武田家は甲府に根付いた名門だし、甲府は要地だ。そんな簡単には移れまい。
それに北条や今川との戦いではむしろ甲斐が本拠でよかった面もあるだろう。
それから道についてだが、戦国時代道を整備するのはリスクを伴う事だし、
信玄は信濃を通るに当たって棒道を良く使ったとも言われる。
道のことを考えなかったわけじゃあるまい。それから新府城は壬午軍乱のとき
徳川家康が本陣としているし、戦略上無駄な地ではなかったようだぞ。
>四郎勝頼は武田家の人間ではなく諏訪家の人間だったので、
武田家の親類であるはずの小山田や穴山などが次々と離反しました
小山田や穴山はもともと一つの勢力としてやってきた歴史がある。
信玄以前の武田家の拡張においてその傘下に入った。(建前は同盟関係。実際は違うが)
彼らにとって武田家の傘下に入ったのが生き残りの選択だったように
織田に寝返ったのもそうだったんだろう。それは戦国の数多の豪族の行動原理でもある。
全体的に後付の論理が多くないかな?滅亡原因うんぬんでいったら信長や秀吉も
そうなってしまう。ただ勝頼はよくやったほうだと思う。それでも長篠等の
いくつかの失点はある。全てを信玄のせいにするのもどうかな、と思うよ。
バカが長文で反論してるw
馬鹿かどうかはわからんが、>7のにはかなり無理があると思うぞ
まあ、確かに分けて書くべきだったかな
>>611も相当無理があるし
相手の発言を部分的にあえて読まないようにして
持論を展開しているように見える
さあ、書き直せ
これじゃ点数やれないぞ
611だが、相手の発言を部分的にあえて読まないようにして
ってなんの事だ?
一通り挙げてあるだろう?
まず、三国同盟が成立した直後に拠点を諏訪に移すべきだった。
毛利元就や織田信長や豊臣秀吉や徳川家康のように
後に成功して急成長した大名はそうして来ているんだから
「信玄は特別な事情があって出来なかった」というのは間違い。
勝頼の代では遅すぎるし勝頼自身が諏訪の人間として扱われていたので
勝頼が諏訪に移すのは逆に困難だ。
信濃の国人や土豪からすれば「甲斐の武田が諏訪に移った」となれば脅威になるし
信濃の攻略はもっと早く完成していたはずだ。
拠点を移さないのなら、織田信長のように道路網を整備しなければならない。
三国同盟以降の前線は信濃であり、戦争のたびに「棒道」と呼ばれる
細い通路を毎回通らなければならなかった。
路面の整備もされておらず、雨が降ったらぬかるんでまともに歩けない。
これでは機動力で負けても仕方がない。
上杉謙信が挙兵するたびに甲府市から長野市まで、ぼろぼろの細道を歩いているんだから
アホとしか言いようがない。
勝頼は諏訪か高遠あたりに移すべきだったが、家臣の手前、甲斐国内の韮崎という、
武田本国の防衛拠点としてまったく意味のない場所に移さざるをえなかった。
これは「信濃はあきらめました」と言ってるようなもんだ。
>>618まずひとつずついくが、
>>まず、三国同盟が成立した直後に拠点を諏訪に移すべきだった。
毛利元就や織田信長や豊臣秀吉や徳川家康のように
後に成功して急成長した大名はそうして来ているんだから
「信玄は特別な事情があって出来なかった」というのは間違い。
甲府に根付いた甲斐源氏の嫡流という立場を少し軽く見すぎてないか?
毛利元就は吉田郡山城を終始本拠地にしてたはずだとおもったが?元就がしたのは
城の拡張だったはずだ。ちなみにこれは元就の後の輝元の時代までつづき天守閣まで
造られている。毛利氏が広島城の造営を開始するのは1589年の事だ。
いうなれば毛利氏は戦国時代を通して本拠を動かさなかったわけだ。
織田信長の家系はもともと清洲織田家の庶流だったはずだ。父の信秀どころか祖父の信定の居城勝幡城でさえ信定が海西郡を手中に収めてから築城した城だ。
信秀は那古屋城を取った後で本拠をそこに移している。信長はいわずもがな。いわば3代に渡って居城を移しているような一族で
居城を移す事にそもそも抵抗もない一族だったと思われる。
これはそもそも弾正忠織田家が信定の父から始まる、信長にいたるまでを数えても
わずか4代でしかない新興の家であったことから特に地縁にしばられなかった故と考えられる。
数百年に渡って甲斐に根付いた甲斐源氏の嫡流とは条件が全く異なる。
>>617の続き。
確かに武田家が躑躅ヶ崎館に移ったのも信虎の代だ。
信虎の代において造られた躑躅ヶ崎館は信虎・信玄の代において整備され、
城下町も整えられている。別に無駄な所だったわけでもない。
そして勝頼の新府城もやはり甲斐の内につくられている。
武田家の本拠は常に甲斐を根底にしている。これは先ほども述べたように
甲斐守護として存在してきた武田家という存在が甲斐に根付いていた故と思われる。
ID:UFD2OLxW
もうちょっと勉強してから絡んでおいで。
毛利は周防の防府に本拠地を移している。
武田が特別な理由で拠点を移せないのなら同じように織田が岐阜に拠点を移す事も不可能なはずだ。
それを信長は周囲の抵抗も受けながら強引にやったんだよ。抵抗がなかったわけではない。
つまり、織田信長には拠点を他国に移す技量があって武田信玄にはなかった、という事。
義信を甲府に残して自分が諏訪に移るなど、やり方はいくらでもあったはずだが、
信玄にはそもそも「拠点を国外に移す」という新しい発想がなかったんだよ。
古い者は淘汰される時代、つまり武田は淘汰されるべくして淘汰されたという事だ。
>>619の続き
>>勝頼の代では遅すぎるし勝頼自身が諏訪の人間として扱われていたので
勝頼が諏訪に移すのは逆に困難だ。
信濃の国人や土豪からすれば「甲斐の武田が諏訪に移った」となれば脅威になるし
信濃の攻略はもっと早く完成していたはずだ。
さらに信玄が信濃侵攻時に甲斐から離れられなかったのは政治的・経済的要因もある。
武田家の政治的・経済的バックボーンがまさに甲斐だったことに起因する。
甲斐はもともと信玄が当主になる前から水害や飢饉に悩まされている。
信玄は信玄堤(直接造ったかどうかは明らかでないとされるが、新村開発などによる
堤防管理は進めている。)新田開発によって国土の安定と発展を目指している。
他にも甲州法度などによる国内整備、度量衡の統一、金山開発など甲斐でやらねばならない
事は山積みだった。それをほっぽりだして諏訪に簡単に移れるものではない。
そして甲斐が安定しなければそもそも外征など行えない。勝頼の代で諏訪に移れない理由は
最後の段とかぶるので後述する。
>>620さん
毛利氏が本拠を移したのは1589年の広島城からではなかったっけ?
萩城が出来たのが1604年じゃなかったっけ?
少なくとも毛利元就の一代では吉田郡山城だった気がするのだが
記憶間違いだったかな?あおりでも皮肉でもなく教えてほしい。
俺は信玄が最終的に信長に及ばなかった事は認めている。
しかし、本拠地を移さなかった事で滅亡して当然というならこれまた生涯
春日山城から動かなかった謙信の上杉氏が生き残ったのは何故?となる。
(本能寺の時は滅亡寸前だったが。)
武田家の滅亡には外部的要因や後継者であった勝頼自身の失策もある。
全てを信玄のせいにするのはどうかと思う。信玄はあくまでも戦国時代に存在した
大名の一人として自分なりの事情からやるべき事をやったにすぎない。
愚将扱いや無理な言いがかりはどうかと思う。
>>拠点を移さないのなら、織田信長のように道路網を整備しなければならない。
三国同盟以降の前線は信濃であり、戦争のたびに「棒道」と呼ばれる
細い通路を毎回通らなければならなかった。
路面の整備もされておらず、雨が降ったらぬかるんでまともに歩けない。
これでは機動力で負けても仕方がない。
上杉謙信が挙兵するたびに甲府市から長野市まで、ぼろぼろの細道を歩いているんだから
アホとしか言いようがない。
戦国時代に道を整備するのはリスクを伴う。信濃侵攻のときに村上などに敗れて
反武田勢力が勢いづいたような事態になり、佐久郡まで攻め込まれた事もある。
万一の事を考え、本国が攻め込まれる事も想定するなら道を整備しないと
いうのも一つの考えだ。上杉謙信に関してだが、結局海津城などで謙信の攻勢を
防いでいるうちに本軍を到着させ、最終的に信濃は制圧している。
悪くいいすぎるのもどうかと思う。
>>勝頼は諏訪か高遠あたりに移すべきだったが、家臣の手前、甲斐国内の韮崎という、
武田本国の防衛拠点としてまったく意味のない場所に移さざるをえなかった。
これは「信濃はあきらめました」と言ってるようなもんだ。
それから新府城が韮崎に選ばれたのは、躑躅ヶ崎館は防御には適していても
城下町としての発展に限界があった事、韮崎が交通の要衝であったことが挙げられる。
新府城が役立たずといわれてしまう由縁は、武田家の最後にろくすっぽ使えなかった
事が原因だが、この城はもともと数千の城から一万の兵を使うことを想定した
巨大な城だ。内部崩壊してろくに兵力があつまらなかった武田家では使いきれなかったのも
無理はない。そしてこのような状況になればどの城であろうと落城は必至だ。
高遠城はもともと信玄の信濃攻略の拠点として重視され、後に甲斐防衛の為の最終拠点と
みなされた。後詰を想定し、甲斐に踏み込ませない為の拠点であって
それ自体が主となるものではない。武田が最後に侵攻されたときのように
敵は駿河などからも押し寄せてくるのだから高遠に本拠を移して信濃だけに
かたよるのはむしろ危険でもある。
>数千の城から一万の兵、間違えた
数千の兵から一万の兵、だ。スマソ
>ID:UFD2OLxW
信長厨をまともに相手するな。人の話を聞かなくて泥沼に引き込まれるから。
話の通じる相手だと思うな。
これがうわさに聞く「武田厨」か
本当にひどいなw
しかも信玄の失政を列挙すると「お前は信長厨」と来たかw
そりゃどこのスレでも相手にされんわなwww
「○×厨」と一くくりに纏めてレッテル貼りするやつはry。
キチガイや反論の為の反論をする人間はどの大名好きにもいる。
ざっと見た感じではまずまず会話のキャッチボールが出来てるんじゃねーの。
今川を平和裏に取り込む手段なんていくらでもあるのになぁ
武田厨は武田の事で頭がいっぱいだからそこまで思いつかんだろ?
>>629 それが最上だとしてもそれだと取り分が減ってごねる人間もいて
やむなく拙攻に甘んじたのかもね
>>620 本拠地を移した大名がどんな立場の人物だったかを考えてみる必要がある。
信長、信虎、長慶、早雲…
要するに、自分の代で急成長した人間だ。
自分の代で急成長する事で権力を集中できている事が、本拠地移転の条件になる。
一方の信玄は、甲斐一国を持っていた。
地盤を継ぐという事は、同時にしがらみも継ぐ。
一門・譜代の重臣達が幅を利かせた状態では、移転などできない。
信玄が、本拠地移転をできる可能性があったのは、もう晩年だろう。
しかし、この頃に信濃に移転したらどうなるだろう。
上野は?駿河は?
躑躅ヶ崎や韮崎あたりが中央なのだから、もはや移転する理由が無い。
戦国時代における大名家の動きを、武将一個人の性格のせいにするのは
非常に問題が大きいと思う。
それは逆に言うと甲斐からいけるとこまでしか攻めれないということ
それ以上の進攻は無理ということになるね
>>631 信玄も領土が急成長した時期があったのに
無能なので移転しようという発想すらなかったね
同じ頃に信長は苦労して本拠地を岐阜に移してるのにね
家康でさえ浜松に移してるのにね
>>633 信長:尾張半国→信行派鎮圧+尾張美濃
家康:三河わずか→三河一向一揆鎮圧+三河一国
反対派の鎮圧が既にできている。
反対派の鎮圧っていうのは、反対する重臣の統制に成功した、って事ね。
さらに4倍近い成長をしている。
信玄の、甲斐→甲斐信濃 程度ではこんな成長とは比べ物にならない。
武田が踏み絵を踏ませられたのは、飯富虎昌ぐらい。
>>634 清洲への移転は織田の棟梁になるという事なので
信行派以外の全ての家臣が賛成したが
他国であり自領にしたばかりの岐阜への移転には拒否反応が多く
家臣の中には自分だけ移転して家族を尾張に残して単身赴任する者もいた。
それらを強制的に岐阜へ移すために信長は苦労しているが
そこで頑張って移転させたために後の安土への移転もスムーズに進むなど
その後大成功している。
信玄が同じ事をやろうと思っても無理だが、
それ以前に信玄には移転しようなどという発想すらなかった。
甲府→諏訪→駿府と移転していれば
信玄の領土拡大事業はもっと早いペースで進んだかも知れない。
水害や飢饉に悩まされ、国内整備も未完成だった甲斐を
ほっぽりだして諏訪に移るわけにはいかんと思うが。
あと
>>631さんもいってるように
領国全体の管理でいうならむしろ甲府とかのほうが中心としてはいいと思うが。
諏訪に移って甲斐の整備を続ければ良かったじゃん
信玄のいた躑躅ヶ崎館はもともと甲斐統一の段階で信虎が要地である甲府に
築いたものだ。甲府は甲斐の中心に位置し、後に躑躅ヶ崎館の一角の砦があった
一条小山に甲府城が築かれて江戸時代を通じて甲斐統治の中心となったように
甲斐一国を治めるには非常に良い場所だ。険しい山道を隔てた他国の諏訪で甲斐の
整備をやるよりはるかにいいだろう。
そうそう、信玄にとっての信濃は領国ではなく「他国」なんだよな
だから「自国」である甲斐のために「他国」である信濃から搾取してきて
甲斐を富ませてきたんだよ。
「甲斐の整備が」「甲斐の整備が」って信濃の整備はどうでもいいんかいと。
新しい領土のほうが整備とか大変なはずだろ。
だから信玄はダメだったんだよ。
「他国」というのはあくまでも甲斐の外という意味合いでいったんだが。
ちなみに信玄は別に信濃の整備を行ってなかったわけではないぞ。
あくまでも信玄の政治的・経済的バックボーンである甲斐が
信玄以前から水害・飢饉に悩まされていたのでやらねばならない事が多かったという事。
>信玄には移転しようなどという発想すらなかった
どうやらただの信長厨ではなく
ちゃんとした知識は有してるように見られるのに
どうにも強引な結論なんだよな。
既に先代で本拠を躑躅ヶ崎に移転したばかりである事を指摘されているにも関わらず。
先代がやったばかりの事を信玄や甲斐の国衆が知らないわけがなかろうが。
ただ、信濃を「他国」と考えていた、という点では同意する。
スレタイ通りに武田家滅亡に拘るなら、甲斐に閉じこもっていて織田に降伏すれば良い。
なんで移転に拘るん?
武田家存続=織田家を倒すじゃないだろ。
「甲斐に閉じこもっていれば他国からの侵攻を受けない」というアホ出現
甲斐信濃の道をもう少し整備するべきだったよなぁ
信長が弊害覚悟で国内流通の発展と経済力強化を目指して楽座制や関所廃止を実施したのに
「信濃が敵に回った時のために道路整備をしない」って考え方は守りに寄り過ぎる
もともと信長が勢力とした所は経済的に豊かな所が多い。
商業も発展しており、道を整備すれば流通と経済のさらなる発展が見込めた。
しかし甲斐や信濃はそうじゃない。道を整備したからといって飛躍的な経済発展が
みこめるわけでもなく、むしろ危険が大きいと判断したのでは?
道をいくら整備してもそれを使った活発な経済活動が行われないならリスクが増すだけだし
信玄の棒道は領民も使ってたみたいだし、甲斐や信濃ぐらいの経済活動ならこれくらいで
十分間に合ったのでは?信玄も漆を始めとした産業を興して発展も目指してはいるけどね。
>>646 だね
国が異なるのだから経済政策って自然と異なる
こと経済力の豊かさに関しては
信長の領土と信長が攻め取っていった土地は甲斐信濃と比べると豊か過ぎる
まあそのことを持って信玄>信長と言う気は全く無いが
信長はそれ以上に周りを強国に囲まれて武田と比べると外交的には不利過ぎ
る状況からのスタートだから
648 :
人間七七四年:2007/02/13(火) 02:51:09 ID:xDTcp0Fh
信玄が信長に臣従してれば武田は滅びなかった
やはり武田滅亡の原因は100%信玄にある。
649 :
人間七七四年:2007/02/13(火) 03:21:49 ID:hv46/1wv
臣従したって領土とられまくる事は必然ぽいし、そうなった後で用済みになったら
つぶされる可能性だって高いし、そもそもあの状況で織田に臣従しようというのが
わけわからんし、家臣たちだって納得しないだろう。
650 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 02:15:04 ID:XKxqShY/
>>646-647 それ以前に「なぜ信玄の領内は商業が発展しなかったのか」を考えてみれば?
651 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 06:58:08 ID:9WFpfLgW
まさかとは思うが、信長の領地が信長の手で急速に経済発展したとでも思っているんじゃ
ないよな?尾張はもともと信長が生まれる前から非常に商業が発展していたし土地も豊かだ。
まだ尾張の有力勢力のひとつにすぎない信秀が24歳の時にはすでに京の貴族達が目を見張るほどの
財力を有していた。これは津島の港を掌握し、そこの商人達を保護した事に要因がある。
有力商人の保護はこの時代多くの大名がやっているし、もちろん信玄もやっている。
しかし山がちで土地も豊かではなく、港も無かった甲斐ではそもそも条件が異なり、尾張ほどの富は得られない。
飢饉や水害にも悩まされており、豊かな商業圏を形成する土壌ではない。
むしろ信玄は商人や職人の保護や育成を積極的にやっていたが、もともとの地力の差や立地条件から
ついに尾張ほどの富強にはならなかった。
652 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 08:57:23 ID:etLBG7Ne
棒道っていう騎馬が並んで通れる幅の軍用道路はあったんだけどな
653 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 09:00:16 ID:oA9NsQMx
だからこそ商業の発展した土地に進出するべきだったんだよ
いつまでも上杉と戦なんかしてないでさ
654 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 09:27:03 ID:9WFpfLgW
棒道は領民も使っていたみたいだけどね。
しかしいくら道があってももともとの経済的な土壌が高くなければ活発な経済活動には
結びつかない。棒道はむしろ余計な道を多数つくらずとも甲斐ー信濃間における
経済活動を充足させ、ある程度の発展を促したという意味もあったのでは。
655 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 09:34:10 ID:9WFpfLgW
>>653 今川・北条は同盟相手。あと信玄がいけそうな商業の発展した所といえば
信濃から行く美濃くらいだが、木曽路は大軍で行くには橋頭堡がないと厳しい。
そもそも上杉の要求は村上たちの領地を返せ、なのでこれを受け入れた場合の
国力では60万石近い美濃を制圧するのは厳しい。
656 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 10:19:30 ID:oA9NsQMx
>>655 まぁ上杉についてはその通りだけど
実際に岩村城を一度は落としてるんだし美濃攻めはムリかな?
駿河じゃなくて美濃攻略していけば北条と敵対することもないし義信も死なずにすむんだけど…
657 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 10:26:20 ID:KXMY5O+w
>>653 上杉領は非常に商業の発達した土地だぞ
直江津とか日本海の交易はこの時代太平洋側より発達してたんじゃ
658 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 10:34:40 ID:9WFpfLgW
岩村攻めは数千の兵力だからなあ。
数万単位の兵を動かすにはやっぱり橋頭堡がないと木曽路は厳しいんじゃないかな
659 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 10:41:22 ID:KXMY5O+w
それに東美濃の特に東部はもともと武田織田に両属しているようなもの
その中で東美濃で一番東の恵那郡の中の東のはずれに位置する岩村城を落としたことで
全体を評価するのは難しいんじゃない
660 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 10:55:59 ID:oA9NsQMx
東美濃にある程度の影響力はあったんだし、木曽路の整備ができたんじゃないかって思うのですが
661 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 14:53:49 ID:9WFpfLgW
確かに、武田勝頼が信玄の死後に東美濃を1万5千で攻めて18城を落としている。
しかしそれっきり勝頼は東美濃からのアプローチを行わず東海道方面にシフトした。
そして勝頼の東美濃攻めの時信長も3万の兵を率いて救援しようとしたが、
山県昌景が6千の兵でかく乱しようとした為その動きが鈍り、救援に間に合わなかった
という話もある。よくも悪くも山岳地帯で大軍を動かすには不利な場所だったと
いえるんじゃないかな。
>>9WFpfLgW
うーん。困ったものですねえ。
663 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 22:16:15 ID:CVxDWKvK
あげ
664 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 00:12:25 ID:cx99VZcl
信濃なら、例えば川中島というか善光寺周辺は中世から経済の中心地域で発展も
していた。武田と上杉がこの地に拘ったのもそういった経済価値があったことも
一つの理由。
そもそも、うちらは経済あんま発展してないからインフラ整備もいいや、ってん
では経済の発展など望めない。信長が支配した地域は経済が発展していたが、
さらに発展させるために様々な政策を行ったことも忘れてはならない。
665 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 00:26:27 ID:XXupo6NN
>>653 やっぱ、甲斐と信濃どちらも山国っていうのは痛いよな。
信長が信玄と争わなかったのも、早期に争ったところで旨みがなかったからだろ。
信濃狙うより、史実のように近畿を制圧していったほうが、何倍も益があったわけだから。
666 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 02:26:59 ID:m2Lh4ut4
667 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 02:30:06 ID:XXupo6NN
>>666 土下座外交って、信長が信玄謙信に与えたモノってなんだ?
668 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 03:10:28 ID:My0xX9sV
自尊心とかw
まあ実際には舶来品など珍しい品を送ったりしているが実際はその程度か
信玄が危機に陥った時、和睦を謀ろうとしたりとか
669 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 03:17:41 ID:+SB4KvZ+
争っても自分的に利益がない相手と、一時的なブツで和睦できりゃラッキーだよな。
東美濃割譲とかしていていれば、そら土下座外交だが。
適度にブツ送って、その間に美味しい方向に領土を広げていけりゃ、安いものだもの。
670 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 03:58:06 ID:vtut36JR
1560年代に遠山氏の東美濃帰属をめぐって武田と織田が衝突した事が
あったんだよ。この時信長は信玄に和議を持ちかけ、信玄が岩村と苗木の
遠山領に影響力を持つことを容認して部隊を撤収させたといわれる。
(この2つの遠山氏は信玄の駿河攻めや飛騨攻めにも参戦したらしい。)
信玄も西上野攻めにかまけててそれ以上は深入りしなかったらしいね。
671 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 04:02:26 ID:XXupo6NN
岩村周辺なんて、美濃全域の5%にもなるかっていうレベルの山岳地帯だからなぁ。
そこを完全に譲ったわけでもなく、多少に影響力を認めるくらいで他の地域の安全を得られるなら、割の良い取引だ。
672 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 04:07:52 ID:ED3S5sW7
>>670 >2つの遠山氏は信玄の駿河攻めや飛騨攻めにも参戦したらしい
どっから出てきた話だ、これ。
673 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 04:34:53 ID:vtut36JR
歴史群像シリーズに載っていた。
高田徹・横山住雄などの研究で確認されてはいるらしい。
674 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 05:24:06 ID:XXupo6NN
何かただの一説に過ぎないレベルの話っぽいね。
675 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 06:33:18 ID:exaGHQpX
信長の信玄への贈答品は
単なる「高そうで珍しい物を送っとけばいいだろ」的なものではなく
ちゃんとした物を職人に作らせた上で贈答用の箱にまで武田の家紋を入れさせたりと
かなり気を使って凝った物を贈ってる
贈り物というのは物を贈るのではなく心を贈るものだよ
初期の信長は周辺の強大な大名にそういう心配りをしていたので
謙信が信長のために動いてくれたりもしている
676 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 06:36:57 ID:4C8g476p
土下座はタダとはよく言ったモンだ
677 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 07:27:43 ID:xePP6Jtf
『センゴク』では顕如はんも言ってたね。
678 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 10:38:40 ID:MZrVGW7/
>>667 信長のょぅι゙ょを諏訪四郎勝頼に与えた
野豚だと信玄の六女松姫の婚約
679 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 10:55:14 ID:YQ8hA7x1
勝頼に嫁がせたのは、妹や娘じゃなく養女って点がなぁ。
信忠・松姫の婚約は双方凄く幼い頃で、お互い反故の可能性前提のただの約束だし(実際に実現しなかった)・・・
そもそも実の娘を差し出すの、信玄側で信長の土下座外交にならないだろ。
680 :
人間七七四年:2007/02/25(日) 16:07:46 ID:3ePraGSu
勝頼の立場は継いだ時点でかなりつんでる
1.親父の人生全てを賭けた西上途上での頓死
これは、結果として武田家の軍資金兵糧備蓄物資をかなりの規模で消費してしまい、更に
精神的にも武田家将士に疲労感を残しただけとなった
2.周囲の状況
西南は織田徳川、北は上杉 唯一東南の北条とのみ同盟
つまり海津・上野・東美濃・東遠江が敵国との最前線で四正面もあり、機動防御可能なのは
海津〜上野方面のみで、あとは兵の貼り付けしかない
3.跡目としての軽さ
もともと諏訪四郎勝頼という名が表す通り、諏訪家の跡目として扱われ、そのため武田家累代の
「信」の一時をもらえていない
親父も親父で「死後は3年伏せろ」と言って逝く
つまり、3年は合議制で行けと言ってるようなもので、もともと国人衆の集合体のような武田家の
混乱に輪をかけてしまった(重臣衆による合議を予想していたとは思うが台頭してきたのは信玄
在世時には比較的影の薄かった御親類衆)
「俺のあとは信勝。おまえはそれまでの代理ね」と言って逝った親父のおかげでどうにもこうにも軽い
跡継ぎですらないその存在感
4.武田家を武田家たらしめた資金源の枯渇
甲州内にあった有力金山の多くが採掘量減少
つまり、甲信というもともと富裕とは言えない土地を基盤としていた武田家の活動資金が目減りしていた
本人の器量は多少武に偏っていたと思われるが、こんな状況なら信玄が信玄の後を継いでもきついべ
681 :
人間七七四年:2007/02/25(日) 17:06:32 ID:hx4lhlvO
西上作戦が中断した事で武田の崩壊が物質的にはじまったとは思えんね。
2万単位の兵を率いる事は勝頼はその後何度もやっている。
後、勝頼陣代説には一次資料の裏づけはないよ。
戦線だけど、他の大名も複数の戦線は抱えている。
海津・上野・東美濃・東遠江で熾烈だったのは東遠江くらいで、しかもそれは
武田の侵攻作戦が多い。他はなんだかんだいって武田崩壊のときまで安定している。
682 :
人間七七四年:2007/02/25(日) 17:58:39 ID:e7K9aofx
信玄って保守的なんだな。
というか父親の信虎が革新的な人物だったと言うべきか。
信虎の生き様はなかなか面白い。
683 :
人間七七四年:2007/02/25(日) 18:08:21 ID:i1c3peFl
>西上作戦が中断した事で武田の崩壊が物質的にはじまったとは思えんね。
中断したことで崩壊はしていないが
西上作戦で財政破綻してる事は間違いない
684 :
人間七七四年:2007/02/25(日) 18:29:24 ID:PtNgB50W
仮に西上作戦実行してなくても、どうにもならなかったろ。
当時の武田から金山欠けたら、財政はもう成り立ちようがないぽ。
685 :
人間七七四年:2007/02/25(日) 18:29:25 ID:hx4lhlvO
いや、だからそれ以後も勝頼が大軍を率いての侵攻作戦を何度もやってるんだってば。
財政がきつくなるのもまだ先のことでしょ。
686 :
人間七七四年:2007/02/25(日) 18:33:09 ID:PtNgB50W
>>685 金山の具合は、信玄時代の末期にもう兆候が出てたんじゃなかったっけ?
勝頼の侵攻作戦は、完全に金山が終わる前に事態を打開しなくてはという、財政危機の裏返しだったのでは。
687 :
人間七七四年:2007/02/25(日) 18:40:16 ID:hx4lhlvO
金山に関しては徳川が支配するようになってからも
採掘は続いているみたいなんだが。まあ大久保長安の尽力もあったのだろうが。
688 :
人間七七四年:2007/02/27(火) 18:49:39 ID:z14gjwrY
長安の奴もっと早く本気出せよ
689 :
人間七七四年:2007/02/27(火) 19:13:40 ID:zuKD62DK
単純に2万単位の動員といっても、ほとんどの勢力が大大名に収束している状態になってからだから信玄時代と同じような戦果は無理だし、無理して大動員掛けないと戦果も期待できない時期になっているからな
仕方ない状態ではある
才能あふれる不世出の天才なら他に奇策もあろうが無能とは思わん
690 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 21:17:08 ID:IeyMxeAF
691 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 21:58:15 ID:wKYTBHrI
>>690 >どう考えても信玄が悪い
全面的に同意
692 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 21:59:59 ID:JbJxS3be
693 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 22:00:52 ID:mScekXPO
694 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 22:32:45 ID:jKA8XU1j
>>690 非の打ち所がないな
というくだりは、よく調べてあるな
695 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 22:54:02 ID:bpL8FEdf
>>690 そりゃそうだけど…それをいっちゃあおしまいだろw
696 :
人間七七四年:2007/03/08(木) 19:22:03 ID:gqTSfhdE
697 :
人間七七四年:2007/03/08(木) 21:56:40 ID:zNNY2+FM
武田家臣団ってのは烏合の衆だから
信玄のカリスマでこれらを纏め上げていただけ
信玄が死ねば崩壊するのは自明だったのさ
698 :
人間七七四年:2007/03/08(木) 22:50:26 ID:89BIUd4L
>>697 家臣団が崩壊した理由は、信玄の死じゃなく、単に形勢が圧倒的不利になっただけだろ。
699 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 06:06:46 ID:oVloEumm
信玄のカリスマ性ってのは江戸時代以降の話だろ
700 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 01:04:43 ID:H2yg1jtJ
織田、豊臣だって落ち目になったら家臣の裏切り続出
戦国の世はそんなモンだって。
701 :
やまかん:2007/03/17(土) 16:56:19 ID:e5rotuwq
武田信玄が倒した国持ちクラスの大名は
今川氏真(それも徳川との共闘)だけ。
北条(両上杉・・・上野・武蔵)
織田(斉藤・・・美濃、六角・浅井・・・近江、越前・・・朝倉)
毛利(大内義長・・・長門・周防、尼子義久・・・出雲・石見・隠岐)
小豪族や没落大名など弱いものいじめしかできない
たいした武将ではない。
702 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 18:13:59 ID:7taY8h4v
戦術面だけは孫子に忠実だったともいえる
当てる相手としか戦わずに勝つ
703 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 23:03:01 ID:ZcqHzBzF
今川氏真を倒したこともなー
徳川と共同と言うだけでなく当時の今川は40万石ほどで武田は80万石ほどあるからなー
たいした相手じゃない
704 :
人間七七四年:2007/03/18(日) 01:52:19 ID:CbuSB9tf
705 :
人間七七四年:2007/03/18(日) 23:33:41 ID:uStQOpsC
信玄と信長ではそもそも目指すものが違うので同じ土俵での比較は無理。
尾張平定時はともかく、岐阜へ本拠を移したころに既に信長は天下統一に向けて動いていたのに対し、
信玄はあくまで地方領主として領土を増やしていくだけ。
仮に信玄が天下統一を狙って動いてたなら、姉川の戦い時に三河や美濃に出張って来れば情勢は変わっていたが、
謙信に足止めされたと言うより、むしろ自分から西上野にちょっかい出してる有様。
そもそも信虎が中央集権に移行させようとしたのに否定した時点で天下統一は無理だけどね。
もちろん信虎追放しなくては跡継げなかったかもしれないけど。
勝頼は信玄より信長に考えが似てるんだけど、
いかんせん旧態全とした当時の武田家を改革しながら織田家と戦うのは無理。
もちろん戦国大名としてみるなら信玄は非常に優秀だったかと・・・・。
信長さえいなければ勝頼が更に領土増やしただろうし・・・・。
もっともそれを言うなら北条氏政や朝倉義景も一緒だけど。
706 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 09:26:06 ID:8txluVfq
当時の寿命知ってたら言えないあほなセリフにフイタ
>>7 前々から死期を悟ってるなら根回ししとけというのならまだ分かるが
707 :
人間七七四年:2007/03/20(火) 09:31:38 ID:8txluVfq
とりあえず、義信が入ればなんとかなった論を念仏のように唱えるのは大局が見えてないとしか思えないw
708 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 16:18:09 ID:A7NVrHtl
どーでもいいが
あんたら頭いいな
うちの会社に入れたい
709 :
人間七七四年:2007/03/21(水) 19:00:16 ID:BYbqvCHs
餅を絵に描いてるだけだからなぁ。
現実とは違うだろw
710 :
人間七七四年:2007/03/28(水) 04:00:59 ID:E2R8OmMZ
後知恵の天才戦略家
ゲームの上での常勝将軍だからなw
711 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 02:19:15 ID:HMOuBfw6
712 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 12:13:21 ID:jdhWZoIG
>>705 信玄は信長がどれだけ先進的な政策をやってるか理解してなかったのだろう
義昭が完璧な包囲網を形成しなければ
信長の天下統一は確実に達成されると予測できなかった
信長と対抗する為には包囲網の時にどんな形であれ援護すべきだった
3年喪に服せば武田は信長に滅ぼされると
信玄はこれっぽちもおもわなかったのだろう
713 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 12:35:00 ID:GQAsGiFK
信長の政策は先例があるものばかりだけどな。
第一姉川の時に信玄は駿河をめぐって北条と争ってなかったか?
3年服喪説は疑問視されてるしなあ。
714 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 13:10:50 ID:5SIXtFD8
>>712 所詮は30年間山奥で小競り合いしてただけの男だから
715 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 13:25:08 ID:GQAsGiFK
>>714 2万単位の兵を動かして戦い、領土を百万石以上に広げたのに
そういう言い方はどうかと思うが。
716 :
仙台藩百姓:2007/04/15(日) 14:10:09 ID:mVZ17zOD
政宗公の5年>信玄の一生
717 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 14:11:16 ID:2gMWgX/u
>>715 元々50万石あったのを2〜3倍に広げただけじゃねーか
718 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 14:19:31 ID:TzC1kesS
>>717 信濃の諏訪を滅ぼす事に成功して、
「よーしおじさん信濃全部いただいちゃうぞー」
と小笠原や村上に侵攻を開始したら、
予想以上に手こずり、上杉との抗争に突入
その後三国同盟の要の一つ今川の凋落に付け入って、
徳川と同盟を結んで駿河を得るも、
「信長が包囲網に苦しんでるからその間に遠江・三河も欲しいぞー」と、
西の織田との同盟を破棄して、対織田・徳川戦争に突入
そして大きな戦果を得る事もないまま遠征先で死亡
その後も三河遠江を得ることなく織田徳川の逆襲に会って武田家アボン
よく戦ったし得るものもあったけど失うものも大きかったという事だね
719 :
人間七七四年:2007/04/15(日) 14:32:58 ID:qWM3Jg9+
周囲の同業者が拡大成長している時には
自分も拡大戦略を取らないと潰れてしまうのよね
720 :
人間七七四年:2007/04/28(土) 11:23:48 ID:NetM1cez
さよう
721 :
人間七七四年:2007/05/12(土) 17:12:00 ID:+hPyEQ6v
722 :
人間七七四年:2007/05/16(水) 23:41:37 ID:vGurSUQg
723 :
721:2007/05/20(日) 13:21:00 ID:3mjxPrbz
横山光輝の描く武田勝頼ににてるから
724 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 16:12:00 ID:cRdGgTbS
勝頼が負けたのはやはり仕方ないと思う。
信玄の一番のミスはやはり「勝頼を正式な跡目」にしなかった事。
それと「三年間を喪を秘せ」で状況に応じた戦いを勝頼(武田)がしずらくなった事。
仮に勝頼を正式な跡目にしてれば(あと3年間の遺言なければ)織田包囲網をある程度
維持する事も可能だったかもしれない(勝頼の力量考えると)
あるいは、信玄死亡後再度、西上作戦再開も可能だったかもしれない。
信玄死亡後、織田、徳川に体制を立て直す時間を与えてしまったのが
大きな痛手でその責任は信玄のせいじゃないかなと思う。
さらに正式な当主でないため、権力が不安定の勝頼がしなくていけない事の一つに
「権力を上げる」があったのがきつい。
勝頼の場合、権力を上げるには 当時は「戦に勝つ」以外、手段がほとんどなかった。
逆に負ければ「内部崩壊」を招く可能性もあった。
これが長篠の戦で勝頼が軍を退けなかった原因の一つだと思う。
(客観的にみれば宿敵の信長から決戦から逃げたになり、名声が落ちる
可能性あった、そして勝頼にとってそれは大きな痛手になる可能性高い)
無論、情勢の変化(金山枯渇、包囲網が崩される)も大きな要因。
長篠の戦の敗戦は、武田滅亡の最大の原因だが決戦をさけるのは、
ほぼ不可能(天下を目指すならほぼ不可能、時は織田に味方する)
本来ならもっと早く織田、又は徳川と決戦してないといけない。
さらに信玄の時代と違い周囲が大勢力で一度大きな敗戦すると体制の立て直し
をする時間がないし(戦の規模がでかくなり損害が大きく増えるため)家臣団にも
問題があった。さらに謙信の死など不運もあった・・
正直、信玄でも勝頼の状況は きびしいと思う。
まったくミスがなかったわけではないけど、それはどんな名将にもいえること。
総大将としての責任はあるけど勝頼は 十分名将だったと思う。
余談だけどもし「長篠の戦」で穴山等が引かなければどうなったてたのか気になる。
総攻撃で柵を破り逆転できたか、または撤退し後日逆転できたか・・
勝頼は戦では信玄以上という話もあるので満足に采配できたらどうなってんだろう。
柵を破り混戦に持ち込めば、大軍なら指揮系統は乱れやすいし武田勢は、精強で
有名だったので勝機はあったんじゃないだろうか。
725 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 17:12:00 ID:KE98KMkp
突っ込みどころ満載だがとりあえず一つ
変な改行入れるなよ
726 :
人間七七四年:2007/05/23(水) 17:20:06 ID:ia4C+dEr
要点まとめろよって感じ
727 :
人間七七四年:2007/05/24(木) 14:33:23 ID:mJaSEgC7
勝頼は信玄も落とせなかった城も落としてるし
信玄死亡後も今川北条上杉織田とかの強豪に囲まれながら甲斐を10年も支配
してるんだから、二代目としては上出来だろ。
728 :
人間七七四年:2007/05/24(木) 16:14:32 ID:v41x8YFN
最大版図も信玄の時より大きいしな。
信濃に手こずってた信玄より戦上手なんじゃね?
729 :
人間七七四年:2007/05/24(木) 17:49:41 ID:L6f7uS7/
勝頼は将として優れている、少なくとも無能ではないと思っているが、最大領土で
比較云々は違うと思う。
30から100にしたことと、100を受け継いで120にしたことを比べて後者が凄いという
のもねえ。
730 :
人間七七四年:2007/05/24(木) 18:03:21 ID:1X15aVFM
>>729 時代背景なんかを無視して単純な数字に置き換えて「もねえ」と言われても
731 :
人間七七四年:2007/05/24(木) 18:07:54 ID:7MTrTiVM
30から100にして-50くらいしてるからな
732 :
人間七七四年:2007/05/24(木) 20:36:27 ID:1Zd62npH
それなら1を150にした毛利元就最強だな
733 :
人間七七四年:2007/05/25(金) 10:30:15 ID:nVhlP0h9
馬鹿が訳判らん数字持ち出したせいで・・・・。
734 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 09:32:08 ID:EMFcVeW7
というかどんな天才なら信長の侵攻を防げたんだと、絶対無理だろと。
735 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 09:52:54 ID:LzSG4rEk
スタート地点からして、信長と同レベルじゃ負ける。
信長のさらに上を行くレベルじゃなきゃ勝てない。
736 :
人間七七四年:2007/05/26(土) 18:37:53 ID:+WsGly4P
いや、信濃大崩壊の時点で守りきれる奴は皆無
もはや軍事で覆せるような状況じゃない
737 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 04:28:19 ID:ZMT+hPNM
信濃大崩壊に至った理由は何なのかねぇ
木曽の裏切りがきっかけだが、それにしても崩れすぎだ
738 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 05:00:12 ID:F3ULOQQb
事前に徹底的に調略が進んでたんだろうな・・・・
後はやっぱり豪族連合って感じで一枚岩じゃなかったんだろう。
裏切る要素満載だった、木曽の配置換えが出来てない時点で。
739 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 18:45:24 ID:p59QgOI8
信玄が家督をついだ状況からして武田家が
強権的な運営をすることは不可能だろうし、
勝頼の代になると周りが強大すぎて改革してる暇なんかないだろうな。
まあ信玄も勝頼もうまくやったほうじゃないか。
740 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 19:56:27 ID:AL4LK0xt
信玄は駿河を平定した時点で、自身の病を案じ勝頼に家督を譲る方が
良かったかもしれんな、じっくりと国力を蓄えて息子にその後の戦略
を託すか、もしくは早く信長を打ち濃尾〜東海に侵略している時点でも
勝頼には負担が軽くなったかもしれん。
その中途半端な状況で死んだもんだからそれが滅亡に繋がったな。
後継者の選び方や家臣への領土配分のあり方など問題ではないだろう。
741 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 21:12:59 ID:7BOKEQlq
>>740 でも当時の外交を考えると
代表者が信玄じゃないとダメだっていう事情があったから
存命中の家督相続はまず不可能だったんじゃないだろうか
742 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 21:35:19 ID:ktvfC1WM
>>741 とはいえ、北条はそれ(存命中に家督を譲るということ)が出来てる訳だからなあ
家臣団の構成が違うといえばそれまでだけど・・・
743 :
人間七七四年:2007/05/27(日) 21:48:37 ID:AL4LK0xt
>>741 いや、自身の病を考え西上は控えて、駿河を取ったことにより
水軍を編成するなどして国力の維持に努めつつ織田徳川を内部調略する
ことに励んでれば、後々勝頼の負担も軽くなってたんじゃ。
またその時期に西上しなければ、一向宗や越中の諸将へ上杉を無理に
抑えるよう促す必要もないわけだし、あわよくば甲越相が形成出来たか
もしれん、織田徳川への対抗として
744 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 00:20:07 ID:AzfBdRs+
存命中に家督相続。しばらくは自身が主権を握るが後継者を共同統治者、一気にそこまで
いかなくともある程度の権を委任させて箔付け。
という流れで権力の安定した委譲を成し遂げた大名家はあるわけで。
今川家でも、義元は桶狭間より以前に氏真に家督相続させてたりしたわけで。
745 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 00:39:18 ID:jF49ZDfl
真田昌幸の言う通りに岩櫃城へ行っていればなあ・・・・・
そこまで信長は追ってきただろうか?
その数ヵ月後だろ本能寺の変は、もしかしたら生き残れたかもしれないのになあ。
746 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 01:06:04 ID:AzfBdRs+
勝頼が生きている以上、信長が引揚げる可能性は低い。少なくとも、信長と信忠の
両者が揃って甲信から引揚げて京に同時滞在する可能性は極めて低くなる。
そもそもの前提として「女子供を連れて岩櫃まで行けるのか」「昌幸は信用できるのか」
また「岩櫃に篭ることが出来たとして、それがどれほど保てるか」という問題が。
747 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 02:11:24 ID:ldOoZ9QF
>>746 岩櫃城は、位置的に上杉、北条辺りとの連戦になり兼ねないし、甲府・信濃を失った敗将をそこまで追い掛けるとは思えないが・・・
信長は結構、その辺はドライだし、滝川たちに任せて京都に戻ってることは十分にあり得ると思う。
むしろ問題は、真田がどこまで尽くしてくれるかだな。
書状が残ってるからといって、あっさり引き渡されるとは思えないが、何かを境に差し出されても不思議はないわけで。
748 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 02:12:04 ID:qqVwwe6F
真田家のために平気で勝頼を裏切りそうなんだがな。
真田昌幸の事跡をたどれば、そう思えてしまう。
749 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 02:19:11 ID:qqVwwe6F
連投になるが失礼
>>747 上杉は当時、柴田勢と越中で鎬を削っていて抜き差しならない状況、とてもじゃないが援軍は出せない。
北条は既に織田に恭順して、駿河・上野へ侵攻して武田攻めの一翼を担っている。
特に織田政権下での関東太守を夢見る北条は、
上野侵攻+最高級の軍功である勝頼の首には執着を示す可能性は高いよ。
750 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 02:25:18 ID:aYBpj5vj
>>747 武田討伐では信長は何もやってない
のんびりと出発し、信忠が武田を滅ぼした後に甲府に到着、
旧武田領の一部を見学した後
家康と合流して東海道をゆるりと見物して帰ってる
なので武田が滅びようと滅ぶまいと信長が引き返すという事はない
751 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 03:00:55 ID:AzfBdRs+
なにしろ、信長がまだ美濃にいるうちに勝頼が死んでいるからなあ。だから
余裕もった行程になったのであって、敵総大将がまだ生きて兵を持って健在な
うちにそんな余裕をかましたりは、それこそドライな信長がするかね?
仮に信長が引き返すとしたら、昌幸が内通して勝頼の首級確定になってから
だろうな。朝倉攻めのとき、義景がまだ生きていても、景鏡の内通でほぼ
決着を確認してから近江に引き返したように。
752 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 03:12:41 ID:aYBpj5vj
引き返さないでしょう
朝倉の時と違って引き返す理由がない
武田という大規模な敵が滅んで大きな領土が手に入ったんだから
論功行賞や領土の配分、新しい家臣への対応や捕虜の処刑などの
膨大な事務処理が発生するし
753 :
人間七七四年:2007/05/29(火) 20:00:55 ID:wwcCRDEP
確か兵力十万前後で(家康と北条の軍も合わせて)で信濃甲斐駿河に侵攻して
武田軍はほとんど戦をせず降伏していったから信長が出撃しないのも伺える。
まあ武田は重臣クラスがこの時期ほとんどいないからな
754 :
人間七七四年:2007/05/30(水) 23:13:19 ID:XbFeQTJ+
自転車操業の限界だな
武田なんてそんなもんだ
755 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 00:49:34 ID:LwmLIlfc
織田に降るという選択肢もあった。
長篠の後に降っても武田家は存続出来たさ。
756 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 07:33:27 ID:eauZ293H
長篠以降の勝頼からしたら降伏したい気持ちもあったかも知れんが
愛すべき馬鹿親父が散々世話になっておきながら信長包囲網につけこんで裏切るという最悪の行為をやらかしちゃったからな。
織田が武田を許すとは到底思えん。
757 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 10:26:29 ID:5pzZnN/K
というか豪族同盟である武田の場合、本家が降伏したくても有力国人どもが
同意しないと。長篠の時点では武田本領はほとんど侵略されてないんだから
国人衆が納得しないでしょう。
北条も壁が欲しいから全力で武田家臣団に「続けろ」って諜略しかけるだろうし。
758 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 11:14:22 ID:IApVLAWt
天正7年から翌年に掛けて佐竹義重の仲介で織田武田の和平交渉が行われてる
信長にせよ戦わずして甲信が丸々支配下に入ればこれ以上のことは無い
和平交渉の経過・詳細はよくわからないが半ば纏まりかけてた和平を最終的に蹴ったのは勝頼なんだとさ
理由はわからないがこの話が事実だとしたら勝頼の滅亡はやはり自業自得としか言い様が無い
759 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 17:09:56 ID:S5Ss+WZh
和平交渉を武田側が潰した=武田討伐の大義名分
織田がこんな風に調略をしかけたんじゃないの
760 :
人間七七四年:2007/05/31(木) 20:52:48 ID:WdgmqgGa
>>756 だから、信玄の死後に織田から同盟の申し込みがあっただろと。
761 :
人間七七四年:2007/06/03(日) 22:52:13 ID:Tn386I/b
武田の体制からして断るのは当然のこと。
勝頼の一存で決まる話じゃない。
762 :
人間七七四年:2007/06/07(木) 00:14:35 ID:7hXev3Qy
勝頼の一存では決められないってのは同意だが、断るのが当然とまではどうかね。
763 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 01:56:48 ID:3y+1p4bN
うん。家臣にとっては領地を保証してくれるのなら武田でも織田でも良いわけで。
764 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 03:48:38 ID:LjpDpuWp
武田も甲斐半国ぐらいまでに落ちぶれていればね
織田との同盟も受け入れやすかったと思うが
(そんな小国になったら織田が同盟を持ちかけるわけがないが)
武田が信玄の死後も大国だったわけだしね
しかも織田と同盟するという事は、
家臣からしたら「もう武田の領土は増えない、自分への加増はない」という事で
そういう部分で反発するヤカラも多いんじゃないだろうか
765 :
人間七七四年:2007/06/08(金) 04:57:06 ID:Ln1seCHK
>>764 織田と組んでいた場合、上杉領が狙えたと思われ。その後は北条。
もちろん取り分は、圧倒的に低い割合だろうが・・・
766 :
人間七七四年:2007/06/11(月) 01:40:38 ID:I4F7poM4
ハゲおやじの約束破り癖が元で信用というものが一切なかった武田
767 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 05:04:54 ID:lOk1fXqq
要するに今川攻めたのが全ての誤りって事だな
768 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 12:27:28 ID:RjULhWbl
同盟国を謀略してる時点で信用度ゼロだよな。
義というものを弁えぬ田舎者のオヤジの跡で勝頼は苦労しただろうな。
769 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 13:08:10 ID:10a/djMk
ネタかと思ったけど、本当に勝頼の代になって
「武田ってオレら裏切って織田と講和する気じゃないの?」
って上杉から責められてるな……
で、それを弁明して収めたのが軍鑑じゃ奸臣扱いの跡部勝資
770 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 13:13:06 ID:FRKV+N/m
尽くしてくれた人間を奸臣扱いするとは感心せんな
771 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 14:00:48 ID:xwEfGnHE
武田譜代の家臣の心の狭さは異常
ま、土地柄もあるんだろうが
772 :
人間七七四年:2007/06/12(火) 14:04:42 ID:10a/djMk
跡部も武田譜代の一人なんだよね、史実では
信玄時代から朱印状奉者を務め、三百騎の軍役持ち
それがなぜか軍鑑では勝頼の太鼓持ち扱いに
長坂も信玄存命時から、直轄領の郡代とかやってた譜代なのに
773 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 08:49:46 ID:E3AhejBs
>>771 正確には山梨県民の心の狭さもだ。
一族を何人も死なせながらも忠義を尽くしてきたのに悪人扱いされてる小山田とかカワイソス
あと大河ドラマで有名になるまで長野では信玄は嫌われていたが山梨県民は長野を繁栄させたニダ!とかマジで思ってたらしい。
774 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 08:54:26 ID:4A5ujO8A
小山田一族、そんなに何人も死んでるかぁ?
775 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 12:43:23 ID:htEleYs4
小山田裏切ってしまったからな
776 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 03:17:20 ID:uqB0QJXC
悪者扱いされてるもなにも、そういう理由で処刑されてるんだしなぁ。
777 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 12:41:05 ID:vmbmpqtO
まあ関東という括りには入ってるけど、首都圏という括りからは除外される。
それが山梨という地域だからな。
所詮信玄の残した功績も県民性もその程度という事。
778 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 21:28:24 ID:+X7E9ADl
信玄がもっと大活躍していれば山梨県が首都圏になっていたというキチガイ発想w
779 :
人間七七四年:2007/06/14(木) 23:41:17 ID:OvSK0+Vh
財政力、確か尾張一ヵ国で69万石 武田はあれだけとって66万石、四方を敵に囲まれ守りにくい土地柄〜後見人という面もまずかった。勝ち気な面も慎重さに欠けてまずかったが、武田家滅亡は信玄に一番原因があるね〜家来が心服しないのは遺言のせいでもあるし
780 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 05:36:29 ID:2Wl0moSb
尾張は57ですよ。
武田は120万石くらいですよ。
後見人は講談ですよ。
781 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 08:44:17 ID:xlg50fAB
120万石って勝頼の代の最大版図の話じゃなかった?
まぁ太閤検地前だし、こういう石高は往々にして格下の同盟者の領土も版図に加えちゃってるし、の不正確なモノだけど
782 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 11:30:04 ID:Dw57qO3h
重税強制労働金山収入女郎屋収入奴隷市場収入含んだ上で
九公一民で120万石だったんだろw
783 :
人間七七四年:2007/06/15(金) 15:10:34 ID:WnHOy7xs
マジレスすれば、信玄領では甲州桝が使われていたので、米の年貢は比較的安かったからそれはない
その代わり、棟別銭はじめとして特別税・臨時税が無茶苦茶沢山あったうえに高かったけどな
784 :
人間七七四年:2007/06/16(土) 17:38:06 ID:GiTc2CAU
民衆にとってはそういう雑多な諸税が一番堪えたらしいな
785 :
人間七七四年:2007/06/16(土) 23:46:17 ID:PvfH/4VD
マジレスするなら甲州桝と大小切の起源は不明で
江戸時代に年貢が安かったのは大小切において米の換算率が
江戸時代通して一定であったため次第に農民に有利となったわけであって
信玄時代は年貢が安かったかはまた別問題
786 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 13:13:48 ID:P0LKxseF
それでも、甲斐で戦争やらかさなかった=田畑が荒れない
って事で、最悪の事態からは百姓は救われたんでないの?
787 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 14:05:45 ID:fc/MQujL
信玄自身が重税で田畑を荒らしているようなもんだろ
平和なのにそこから民衆が逃げ出すってレベルだからなー
昔から苛政は虎よりも猛也というから
788 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 15:32:34 ID:lDR6zb1F
人は城
人は板垣
人は堀
789 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 15:50:39 ID:gds3moGd
人は尻
人は板垣
人を掘り
790 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 17:55:22 ID:p6MfbtZ1
領民の物は武田の物
武田の物は武田の物
791 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 18:06:04 ID:Gf57q1Go
792 :
人間七七四年:2007/06/18(月) 21:07:21 ID:c8TWkadA
>>787 ちなみに領民の逃亡はよく善政とされてる北条でも起きていて
北条もその対策に苦慮している。
793 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 08:16:54 ID:/QxATkBF
わざわざ法度に逃げても税金取るぞ、残った人間に責任取らせるぞ、と書くぐらい
ってかこれどこの闇金?
794 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 09:13:20 ID:sn9P52PE
北条では初代から年貢率は低かったが、諸点役はそのままだった。
そのために農民の逃亡はかなりの数存在した。
それを防ぐために氏康は諸点役、不定期徴収を廃止したんだよ。
もちろんそれで完全に逃亡が無くなったわけではないが
数は激減したし、これ以上は家の存亡に関わるから不可能。
795 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 11:42:24 ID:R3HvVt25
しかし武田領から北条領に逃げる農民はいてもその逆は無いと言われていることから
どっちがマシかは・・・
796 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 13:14:27 ID:5KSZJadm
昔日本から地上の楽園に行った人たちが居ましたね。
テロ朝や共産党が必死こいて印象操作した結果なんだろうけど
疎開した、移住したって実績のみで語るのは危険かと。
797 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 14:03:57 ID:B5O8zNcy
あれはアカヒとかがキャンペーンしたからだろう
北条がそういう宣伝でも張った、という証拠でもあるの?
武田が批判されて悔しいからって、何でも言えばいいってもんじゃないよ
せめて同時代の例とかじゃないと笑われるだけ
798 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 16:47:33 ID:5KSZJadm
なんでいきなり噛み付いてきたのかがわからんが
俺は別に武田マンセーでもないよ。
情報メディアが無い時代に、どうやって後北条の善政を甲斐の農民が知りえたのかとか
って疑問もあるし。
あちこち行脚する商人とかならともかく。
甲斐からわざわざ常に戦で荒れてる信州へ行くのはさすがに不味いと判ってるだろうから
単に戦の無い方向、身延山越えて遠江駿河へ逃げたり、関東に逃げただけなんじゃない?
逃げて別の領主の所に行っても扱いは変わらなかったんで更に逃げまくって
後北条にたどり着いてなんとかやっていけるようになった
ってんならわかるけど。
最初から後北条の善政を知ってて関東に向かうってのがあの時代ちょっとムリがあると思っただけ。
自国の領主の政治批判に加え他国の政治賛美なんてのは罪になるような時代だしなぁ。
799 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 17:03:52 ID:5KSZJadm
あ、だからって善政敷いてる大名の下に民衆が多く集まるってのは否定してないよ。
あちこち流浪した農民やらが定住した結果人口が増えるってのはありえるし。
俺が否定してるのは、甲斐の民衆が後北条の善政を知って、後北条に逃げた
っていう後北条の善政っていう情報を予め知ってて甲斐から逃げるって所ね。
800 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 17:50:25 ID:QafmDeb0
だから
戦争で一旗上げたきゃ武田
官僚政治の北条
なんだよ
801 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 17:53:17 ID:IeDe2CWJ
>>798 >あちこち行脚する商人とかならともかく。
そのあちこち行脚する商人から聞いたに決まってるだろ。
なんで忍びの里(富山や甲賀)は薬作りが盛んだと思う?
全国に薬売って歩くと同時に情報収集してたんだよ。
802 :
人間七七四年:2007/06/19(火) 23:41:41 ID:6HNjPUNK
江戸時代じゃ何処の藩が年貢が安いとか農民にも判ったらしいから
戦国時代でもある程度知る手段はあったのではと思う。
北条記では農民に対して善政を敷いていることが敵対国の農民も知っていて
進んで北条の支配下に入ろうとしたような記述があったと思うがあれは講談か?
803 :
人間七七四年:2007/06/20(水) 13:22:08 ID:51kIDPVO
>>801 情報収集する人間が存在するのと、それを農民が知るのとは別だろ
商人が流民を増やす原因になって領主に追われるかもしれないデメリットを抱えて
極貧の農民にわざわざそれを教える必要なんか無いだろ。
大抵北朝鮮みたいに、余計な知識を入れると現在の生活に不満を持つから
情報を遮断するのが普通じゃね?領主が搾り取るためには。
804 :
人間七七四年:2007/06/20(水) 14:04:25 ID:I9g/JiIV
農民が兵士にされて、外にいってるんだから嫌でもわかるんじゃあ?
805 :
人間七七四年:2007/06/20(水) 14:30:46 ID:51kIDPVO
兵士にされて他国に行って略奪とかしてるなら、そこに移住したら殺されちゃうね
806 :
人間七七四年:2007/06/20(水) 18:00:13 ID:AN7QFaXQ
>>803 戦国時代は商人からもたらされる情報は領主にとっても重要だったんだよ
領主が商人を追い出したらその国は商人が来なくなるぞ、どうすんの
807 :
人間七七四年:2007/06/20(水) 18:15:02 ID:51kIDPVO
自国民に知られたくない情報流す商人なんて間者扱い
808 :
人間七七四年:2007/06/20(水) 18:38:44 ID:AN7QFaXQ
実際に間者だったりする事もあるけどな
しかし情報うんぬんで商人殺してたらその国には商人来なくなるって
809 :
人間七七四年:2007/06/30(土) 22:08:04 ID:T5b7Z1VM
810 :
人間七七四年:2007/06/30(土) 22:21:21 ID:GcBseqEg
山梨って関東からも中部からも東海からも毛嫌いされてるよね。
人間性が一件だけ特殊で心の狭い奴らの流刑地みたいな感じ。
811 :
人間七七四年:2007/06/30(土) 22:22:41 ID:GcBseqEg
×一件
○一県
812 :
人間七七四年:2007/06/30(土) 22:59:25 ID:K9r9d5d1
信玄がいなかったら
武田はすぐさま滅びていたっていうか
小山田か板垣が乗っ取ったが正しいな
813 :
人間七七四年:2007/06/30(土) 23:05:34 ID:zkGyKqgD
信虎でも簡単には滅びんぞ
きっと江戸時代にも譜代に潜り込んで生き延びたろうね。
815 :
人間七七四年:2007/06/30(土) 23:11:53 ID:FNLXa8Q/
信玄がいなかった場合
信虎が駿府にお出かけ→家臣たち信繁を立てて信虎を追放→信繁が当主に
後はどうなるかは知らん。
816 :
人間七七四年:2007/06/30(土) 23:15:38 ID:K9r9d5d1
>>813 信虎は滅ぶす前に追放されたわけだが・・・
817 :
人間七七四年:2007/07/01(日) 00:35:51 ID:Mgg1WaIy
滅びる以前の問題ってことでw
818 :
名無し野電車区:2007/07/08(日) 23:09:53 ID:oVCSWG1B
信玄を絶賛するには信長を貶めなければならない
勝頼を絶賛するには信長を大絶賛しなければならない
このことからも、信玄>勝頼は暗黙の前提。
819 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 23:42:47 ID:GkedomS4
まあ、でもほっといたら今川領が織田、徳川連合軍に持っていかれてた可能性もあるしなあ。
そうなると次は甲州の可能性も高い。
そうでなくても信長との国力差は開く一方だった訳だし
東の北条にしたって国力そのものは甲州、信州よりは上だろうしな。
多分三国同盟を堅持しつつ謙信と死闘を演じつづける時間的余裕はなかったろうし
やむを得なかったと思う。
820 :
人間七七四年:2007/07/08(日) 23:51:37 ID:XodJD+ge
>>819 同盟を堅持しつつ信濃から美濃に攻めてけばよかったんじゃね?
そうしたら、義信を殺さずにすんだし、後方の安全は確保出来るし。
821 :
人間七七四年:2007/07/09(月) 00:01:35 ID:YckUglmT
どうかなぁ。
信濃→美濃だと軍の移動および補給が
まず追いつかない気がする。
よっぽど信長が各地に戦力を分散してて徳川方が動きが取れないという
好条件が揃わない限り
そのルートだと各個撃破の危険の方が高い気がする。
信長よりどうみても氏真の方が確実に勝てる相手だと思うし
822 :
名無し野電車区:2007/07/09(月) 00:14:08 ID:8uBXLxnA
いや、織田が美濃を占領する前に武田が取っとけばという話でしょ
823 :
人間七七四年:2007/07/09(月) 00:18:48 ID:nPRSRIDE
【自民党滅亡の原因は100%小泉が作っている件】
なのに小泉は名首相扱いで安倍は迷首相扱い
とも言えると思わないか?
824 :
人間七七四年:2007/07/09(月) 00:28:17 ID:YckUglmT
それもどうだろうなあ・・・
村上義清が謙信の元に逃亡したのが1553年
武田家もここに至るまで結構連戦続きだから、国力回復に2〜3年は欲しかったのが
実情ってとこじゃないかと思う。
(ここでも国力の低さが足枷となる)
が、その1553年からすでに村上の要請で川中島の戦いがスタートしてるから
この時点で斎藤氏が治める美濃一国に2正面作戦で攻め入るのは
ちょっと無理かと思う。
で計5回の川中島が終わるのが1564年
(この時、すでに織田徳川はしっかり同盟中)
その3年後に美濃は信長に攻略されているのでちょっと時間的に・・・
825 :
人間七七四年:2007/07/09(月) 00:49:50 ID:SuMFMDDI
概ね同意。
後付け足すならこの時期信玄は1561年から本格的に攻撃を始めた
西上野攻略に力を注いでいる。
箕輪の支城があらかた攻略されて孤立するのが1565年。1566年に箕輪を攻略。
1567年に惣社を攻略。ちょいとこれではタイムスケジュール的にも美濃攻略は厳しい。
1565年に一回織田と武田の勢力が信濃と美濃の国境で激突したらしいけど
上記の理由から武田も本格的には戦おうとせず、信長も美濃に集中したかった
事から和議を結んでいる。
826 :
人間七七四年:2007/07/09(月) 08:29:52 ID:DtQDk4iQ
せめて川中島の合戦がなければな。
827 :
名無し野電車区:2007/07/09(月) 10:45:02 ID:bOqxHo7t
井沢元彦は北信濃を諦めて美濃に侵攻すべきだったと言っていたが
828 :
人間七七四年:2007/07/09(月) 15:23:11 ID:UQMK5Swi
そりゃ美濃を取った信長が天下取りへの流れを唯一作り出したからって後世の視点からでしょ
829 :
人間七七四年:2007/07/09(月) 16:43:21 ID:OKHtvHQY
北信濃をあきらめて美濃を狙ったとしたら
美濃が北信濃になるだけの事で何も変わらなかったと思うがどうか
830 :
人間七七四年:2007/07/09(月) 17:08:31 ID:Pk3CzE1F
甲斐と南信濃だけで美濃に遠征なんかしたら村上さんが大喜びだろうな。
831 :
人間七七四年:2007/07/09(月) 22:43:29 ID:yBmvfLEJ
で、信濃の北部よりも東美濃を優先する理由がわからん。
信濃をほったらかしといて西美濃まで攻略出来るとでも思ってるのかな?
山育ちには山育ちの感覚があるから。
岩村にとっては迷惑な連中だけど。
833 :
人間七七四年:2007/07/09(月) 22:50:52 ID:YckUglmT
タイムスケール的に考えるとすると北信を諦めるというあたりだとどの当たりになるんだろ。・
正直、村上氏に加えて小笠原氏まで残ってた1540年代後半なら、武田家は
美濃に攻め入る途中で後背を突かれて壊乱という公算の方が高くないかな、と思う。
最低限小笠原氏を破った後の1550年あたりで考えるのが妥当だろうけど
これにしたって西上野や越後を考えたら、村上氏と一戦交えないとやっぱダメだろうしね
それにそれだけ信濃勢が残ってると当然抑えの兵力を諏訪あたりに残しておかなきゃ
いけない=美濃に動員できる兵力がさらに低下=攻略どころか惨敗
こっちの可能性のほうがはるかに大きいように思う。
834 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 00:17:00 ID:vDbxNDFY
北信濃への不可侵を条件に村上あたりと和睦はできんかな
835 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 00:26:20 ID:OyV0rsSH
ゲームじゃないんだから不可侵なんてものは存在しない
隙があれば一族でも戦争になる。
836 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 03:13:30 ID:9Y1yyzaE
そもそも、木曾氏が武田に臣従したのがいつかと
837 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 03:57:04 ID:SKWOoAnE
まず、北信濃をあきらめてまで東美濃に手を出すという
動機も目的も国力も兵力も武田家にはないわな
838 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 04:29:48 ID:zFjPDKIj
そもそも当時の武田が木曽路から大軍を動員できるのか?
仮に美濃に進出できたとして甲府からそれを維持できるのか?
すでに佐久平を得、諏訪から信府に進出していた以上、防御線としての
伊那・木曾制圧は当然としても北信制圧が無益とは到底思えんがなあ。
むしろあの時点では北信以外に侵攻すべき地がなかっただろう。
別に信玄はその時点では天下を意識していたわけではなかったのだし
版図拡大としては極めて妥当な選択。
839 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 04:44:56 ID:gPv2+4h7
まだ小笠原、村上を取り逃がさずに殺害して、
上杉に介入の大義名分を与えないようにする方が可能性ありそう。
840 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 05:38:38 ID:SKWOoAnE
村上を殺すのはいいとしても
信濃守護職の小笠原を殺したら
それはそれで武田討伐の大義名分になるわけだが
841 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 06:39:55 ID:cSJHadOC
越後にちょっかいを出さなければ謙信も無理にせめてくることはないかもだが
小笠原は長尾とは縁戚関係だからな……死ぬ前にどうあっても助けを求めそうだし助けに行きそうだし
長尾家の家督交代前でも怪しいな
842 :
人間七七四年:2007/07/10(火) 12:44:00 ID:uVd78HhA
むしろ南進や西進といった移り気とも取れる多方面作戦を止めて
対上杉一本に絞ってたほうが逆に早くカタついたかも
843 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 22:23:35 ID:anbgBruW
1550年代の美濃侵攻はともかく
1560年以降も今川と仲良くして遠江を一緒に奪還その後、三河方面に行くのはどうなの?
今川も武田さえ裏切らなかったら徳川にむざむざ負ける事もないし
むしろ共闘すれば徳川も滅んでたきがする
844 :
人間七七四年:2007/07/13(金) 23:55:16 ID:GQ61q12A
武田からみて三河攻略はなんのメリットもないんじゃないかと思う。
駿河、遠江が今川の領地で三河が武田の領地になり得るはずも無く(交通の便で勝る)今川領にしかならない
そこまで血を流して相手に全部明渡すメリットが武田にまったくないと思う。
完全に今川に武田が従属している関係であれば兎も角。
845 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 00:19:02 ID:ikGQ+kH8
>>843 それだったら今川を滅ぼして吸収したほうがいいじゃん、どう考えても
846 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 00:39:11 ID:ikGQ+kH8
まあ、歴史を知った上での結果論での話でしかないんだが
どうせなら、今川氏真は親の仇を討つ気が全然ないんで
信玄が「じゃあ親類の俺様がお前に変わって織田を討って来てやるから兵を貸せ」と
強引に今川軍を引き連れて武田軍+今川軍で織田を叩けば良かったんだよ
信長を討ち取るに越した事はないし武田が織田を潰すとしたらこのタイミングしかないんだけど
別に討ち取れなくてもいいんだよ
織田軍をじゅうぶん叩いていい頃合を見て引き返してもいい
これで今川は武田の物だ
847 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 11:45:31 ID:EGA1ctkR
>>843 それは信玄が今川に持ちかけて蹴られた
信玄はその時点で既に今川家家宝の伊勢物語を勝手に持ち出して返さなかったり
今川家中に不穏な手紙を送って調略を開始していたり
今川の宿敵織田と結んでいたり
兎角、今川方の信用無くすことばっかりしてたから無理w
848 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 12:02:35 ID:p4myyRqD
早く父親の義元の仇討ちしようぜ、って信玄が氏真をけしかけた話だろ?
あれって信玄どこまで本気だったかね
家康も同じようなこと氏真に言って断られ、
氏真恃むに足らずと見たら速攻で織田と同盟して今川方の豪族攻め始めてる
信玄も家康も氏真の器量と当時の今川家の状況を計るために逝ってみたんだと思う
849 :
名無し野電車区:2007/07/14(土) 18:24:52 ID:ZwoWmLxV
信玄が氏真に断り無しに信濃から三河に乱入して徳川滅ぼしたら
氏真は怒るの?もう三河は今川の領土じゃないのに
850 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 23:02:56 ID:heptm+EW
>>848なんかの創作で読んだ話だな
でも桶狭間自体は義元が死んで松平が寝返っただけだし
今川は武田北条の力を借りれば挽回の余地もあるんじゃね?
851 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 23:28:23 ID:XEeXAJSZ
>>849 家康にとっても信玄にとっても
相手と渡り合うより
はっきり勝てると判ってる氏真を相手にしたほうが
楽に領土を増やせるという話だと思う。
家康やら信玄が仇討ちを進めたのは共同戦線を今川と張るというより
氏真がどのような反応をするのか様子見した意味合いのほうが強いと思う。
ま、信玄も家康もそういう性分なので当然今川領を侵食しきると対立しちまったがw
852 :
人間七七四年:2007/07/14(土) 23:55:21 ID:heptm+EW
信玄や家康の進言に氏真が乗ってきたらどうするの?
853 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 00:12:56 ID:vT6sbm1R
>>852 実際は乗ってこなかったからこそ家康は氏真を見限り
織田方と同盟を結び、以後今川領の切り取りを図りだしたのだろうし
それは、後の信玄にしてもそうだろうと思う。
あと徳川に関していったらだけど、仮に乗ってきたのなら、徳川勢は大義名分をもって尾張勢に
攻勢に出ることも出来るだろうし徳川勢にとってはどっちに転んでも
損はないと思われる。
854 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 00:25:27 ID:Vk2rCmZC
万が一氏真がやる気なら言いだした手前多少援軍を送らなきゃならんな>信玄
けど別にそれは武田にとって大した問題ではなかろう
義元でも勝てなかった信長に氏真が勝てるとは思えないし、
惨敗して逃げ帰ったところで腰を入れて駿河攻略に掛かればいい
855 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 02:23:58 ID:iPVDTfS8
氏真にしても義元討ち死に当初は動けない理由があったんだよ
信玄が死んだ直後に勝頼が西上作戦を再開出来なかった理由と全く同じで
経済的な問題があったんだよな
856 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 08:49:22 ID:HsHFzbqO
信玄は今川を裏切り北条家を敵に回し危うく滅亡しかけた馬鹿将。
氏康が病死しなければ確実にホロンでいたよな。勝頼以上の愚将として名を残しただろうなwwwwwwwwwwww
857 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 10:31:58 ID:PlPwfLkw
一応いっておくと氏康生きていてもまず滅ぼせないけどなwあの状況じゃw
858 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 10:56:02 ID:wcnSori3
信玄自身が包囲網喰らった時に
「信長に見捨てられたら我が方は滅亡です」とはっきり書状に書いてるからな
オーバーに書いたのかもしれんが、かなり切迫していたのは確かだろう
何しろ一番弱い徳川すら一ヶ国強の勢力
三者がそれなりに合同してきたら、武田は滅ぼされててもおかしくない
859 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 11:56:41 ID:PlPwfLkw
まあ、包囲網打破の為ならいろいろやるさ。
実際の所、上杉は越中を攻めてばっかり。越中には武田と仲のいい勢力が
結構いる。一向一揆とかね。
徳川に対しては織田を通じて動きを掣肘する事ができる。
結局武田と北条の組みあいになるけど北条は反北条勢力も抱えていて
武田を滅ぼせるとは考えにくい。
駿河を制圧するまでは武田もかなり大変だったろうけどね。
860 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 12:55:28 ID:uXw+gyF5
>>856 氏康が死ななくてもかわらんでしょ
逆に北条視点で、なぜ武田を滅ぼすことが出来なかったかだ
まー武田が苦労して、信濃甲斐を平定したのと同じで防御も良かったはず
攻める側もゲリラ戦法とか取られたらリスクを追うだけやらんでしょ
861 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 16:10:43 ID:vlLr8xNL
氏康や家康からしてみれば、武田側から仕掛けられた同盟破りや戦争であって、積極的な目的を持ちにくかったんじゃ?
謙信だって既に興味は信濃から去っていて北陸経略に熱中する時期
862 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 18:58:51 ID:ed4rODtM
関東の肥沃な土地を持っていた北条からすれば、甲斐の山国なんて大した魅力なかっただろうしな。
現に武田と冷え込んでた時期も、関東にばっかり目を向けて侵攻してるし。
863 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 19:17:48 ID:Di5zJu5Z
>>859 反北条勢力には北条と仲のいい勢力がいるわけだが
越中にも上杉に親しいのがいる
上杉は仲の良い勢力で抑えられて、北条は無理とはなんとも都合の良い解釈ですね
864 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 19:27:17 ID:hUx6xu8e
信長が義昭奉じて上洛したとき、氏真が総力を挙げて三河・尾張に侵攻すれば
よかったのに
865 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 19:48:52 ID:PlPwfLkw
>>863 実際動けてないしな。上杉は。
北条とて武田に対してついに押す事はできなかった。
逆に伊豆まで攻め込まれてる。
滅ぼすなんてまず無理でしょ。
866 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 21:37:44 ID:tCz1OR7+
>>864 上洛前に
「将軍様の護衛のために上洛するから攻撃すんなよ」
という根回しがちゃんと出来てるから
攻撃したら全国の大名が敵にまわる
867 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 22:06:31 ID:Di5zJu5Z
>>865 そりゃ親武田の氏政が次第に実権握るようになっていってるからな
強硬派の氏康が生きていたらの話だろう?
矛先は鈍らんよ
868 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 22:14:07 ID:vT6sbm1R
北条、武田、上杉
多分全員が思った事
「あいつさえ、いなければ・・・」
869 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 22:18:02 ID:PlPwfLkw
>>867 氏康が生きていようとも別に武田が特に押されてはいないだろ?逆に押してる。
うまく反北条を仮にさばけたとしても、(まあ、里見とか見る限りどうかとも思うが)
駿河を得て北条と対等に近い勢力を持つ武田とようやく組み合う状況になるだけだが?
上杉も徳川も北条が期待するような働きはとても示していない。
これで武田を滅ぼすなんてまず無理だろ。
870 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 22:24:21 ID:vT6sbm1R
>>864 確か、三河一向一揆の時に今川勢も一向一揆側に荷担してたと思う。
それで勝てなかったから・・・
内政家としてはまだしも軍事面での氏真は・・・
期待値0かと・・・
871 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 22:35:56 ID:Di5zJu5Z
>>869 >氏康が生きていようとも別に武田が特に押されてはいないだろ?逆に押してる。
おや、なんで武田は小田原を攻めたんだ?
>駿河を得て北条と対等に近い勢力を持つ武田とようやく組み合う状況になるだけだが?
西上野は上杉が本領奪回に来る、となれば上野経由の武蔵侵攻は困難になる
すると北条は駿河を集中して攻められる
この段階で上杉北条のコンビで見ると武田のそれとは比較にならない
またそこで武田が劣勢に追い込まれると、当然織田も徳川を抑えるようなことはしない
さあどうする?
>上杉も徳川も北条が期待するような働きはとても示していない。
上杉は動く前に氏政が不穏な動きしてるからな
徳川も上記の如し
>>870 してない
状況みてもできるわけない
872 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 22:48:13 ID:PlPwfLkw
>>871 都合のいいこといわれても困るな。
武田はちゃんと駿河を氏康存命の時期にほぼ制圧してるわけだが?
実際の所上杉は何度も北条に要請されても越中攻めてばっかり。
西上野侵攻なんて絵空事。実際武田がやばくなるほどの動きを上杉は氏康存命の時に
示してはいない。上杉にしてみればやりやすい越中のほうが主目的。
実際動いてもいない事をつみかさねられても困る。
現実としては武田・里見に伊豆まで突っ込まれてる北条があるだけだ。
氏政が不信な動きといってもそれは上杉の行動をみて十分理由のあるもの。
つまり出来合いの関係。お互いの為に身を挺して大敵を殲滅するような関係でもない。
信玄上洛前まで信長は信玄と上杉の和睦仲介をしようとしてる。
上杉に関してはこっちのほうからも手はある。
873 :
人間七七四年:2007/07/15(日) 23:15:35 ID:vT6sbm1R
>>871 今川の三河残存軍が確か加わってた希ガス。
その前年に今川と徳川は確か三河で戦ってると思う。
この時期は、徳川による三河平定戦が行われており、
今川軍と徳川軍の衝突は結構起こってる。
(その平定戦の途中で、一向一揆が発生してるって感じだったと思う)
874 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 02:39:54 ID:e/sfD9Ij
>>859 逆に武田と仲の悪い勢力も多い。
実際一族や信濃の豪族に裏切られ何人も処刑している。
織田家侵攻時にはありえないレベルで裏切られまくった大名がいましたけど・・・・どこでしたっけ?
>>860 何故信玄は同盟破り、虐殺、奇襲、略奪、多くの兵や重臣達を犬死させてまでして信濃侵攻にひたすら拘ったのかな?
甲斐は戦争してまで手に入れる土地じゃなかっただけの話し。山奥の動物園よりも肥沃な関東平野こそが重要。
875 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 07:26:45 ID:CM5wWQBl
>>872 都合がいいのはお前
>武田はちゃんと駿河を氏康存命の時期にほぼ制圧してるわけだが?
武田は準備万端駿河に攻め込んで北条が介入してきたら撤退に追い込まれてるだろ?
>実際の所上杉は何度も北条に要請されても越中攻めてばっかり。
>西上野侵攻なんて絵空事。実際武田がやばくなるほどの動きを上杉は氏康存命の時に
>示してはいない。上杉にしてみればやりやすい越中のほうが主目的。
越相同盟の強力な推進者である氏康が存命なら越相同盟の条件履行もスムーズに進む
上杉が動かなかったのは北条が次第に甲相再同盟に傾いていってるから
仮に再び氏康が上杉に武田と結ぶよとブラフかければ間違いなく北条の為に動く
再び自ら敵を増やすことになるんだからな
>実際動いてもいない事をつみかさねられても困る。
氏康が死んだ結果に起こった出来事を氏康が生きていたらという仮定の推測にあてはめられても困る
それまで連戦連勝でレースに勝ってきた競走馬があるレースで事故を起こして死にました
仮にこのレースで事故が起こってなくても実際は事故で勝てなかったんだから、生きていても勝てません
こんな理屈にもならない理屈に納得できるか?
>氏政が不信な動きといってもそれは上杉の行動をみて十分理由のあるもの。
>つまり出来合いの関係。お互いの為に身を挺して大敵を殲滅するような関係でもない。
氏政が甲相再同盟を展開して越相間の関係が悪化すると、上杉は武田との再同盟を模索している
両者を再び敵に回したくないという上杉の思惑、駿東を押さえて本拠の安全を確保したい北条、見事に目的が合致するな
ここで上でも述べたように、ブラフかければ上杉は動かざるを得ない
そもそも氏政の行動に理由があろうがなかろうが、実権者は氏康であって氏康がどのように行動するかに関係ない
>信玄上洛前まで信長は信玄と上杉の和睦仲介をしようとしてる。
>上杉に関してはこっちのほうからも手はある。
従属下の徳川が単独で武田を押せると見れば静観する
織田としては東西に敵を作りたくないからこその武田との同盟
武田にしてみれば信濃、上野経略に集中するための同盟
こっちこそお互いの為に身を挺して大敵を殲滅するような関係じゃない
しかも俺が言ったのは武田が北条上杉に手惑えばという条件をつけてるからな
この条件なら織田の目的は徳川をタテにすることで達成できる
そうなれば武田の為に動くなんてしないし、以前にも武田信玄は同盟して裏切って暗殺なんて不信行為しているという事実を織田がどうみるか
そもそも少しでも長引けば将軍と織田の関係が悪化するから将軍方面の調停機能は使えなくなる
>>873 本国駿河と連携が取れないのにどうやって行動起こすんだ?
朝比奈らは動いて無いぞ
876 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 07:29:20 ID:u5fcdHxP
>>874 なにか釣りをしたいのか知らないけどね。
追い詰めれられたら裏切りが大量発生するのはどの大名でも一緒。
まして織田・徳川・北条に3方向から攻められればね。
第一謙信における越中攻めの状況や武田包囲網の話をしているのに
なんで信濃や一族が出てくるのかと。
他国を侵攻すればそりゃその場所の豪族達はいろんな動きを示すもの。
そんな事いったら北条も決して他の事を笑えないんだけどね。
877 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 07:39:56 ID:u5fcdHxP
>>875 だからなに?氏康存命中にちゃんと駿河を制圧して伊豆まで攻め込んでるのに
押してる、と表現してなにがおかしいわけ?
そんで?何年も時間があったのに一度も武田を追い詰めるような侵攻作戦を
上杉がついにやってない事をどう思ってるわけ?氏康はその期間の間ちゃんと
生きてたわけだが?都合のいいIFをいってるだけにすぎんよ。
そんなにブラフが強く動くならなんで北条はあれだけ譲歩し何度も要請したんだ?
しかも結局駄目だったし。とてもそんな簡単に動くとは思えんね。希望的観測すぎ。
上洛直前における信長の和議工作は10月まで行われてる。信玄の要請でね。
もうこのころには義昭とも仲はまずくなってるけど普通にやってる。
別に織田が武田に対して身をていしてくれる必要はない。
あくまでも時間が稼げればいいのだから。盟約破りなんてどの大名もやってる。
そんな事でいちいちかわるわけないだろ。織田にしたって一応同盟勢力である
武田の要請なら和議のテマをとるくらい大したことじゃない。実際やってるしな。
少なくとも一度も行われてない上杉の本格侵攻よりははるかに想定できるな。
878 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 09:11:28 ID:yfPhSEq8
伊豆まで攻め込んでいるといっても伊豆の国境のみで
そもそも北条が介入した1569年初頭の段階で葛山が武田についているから
駿東も武田に属していて伊豆までと誇るようなことでもないと思うが
それに越相同盟がちゃんと結ばれた(義氏の古河入り、氏秀の越後行き)1570年は
北条が武田を押している
その後氏康の病状悪化か越相同盟の機能不全によって北条の動きが停滞すると
武田が盛り返すが
879 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 10:11:16 ID:nokj8Syu
>>878 70年は北条が押してるか?
むしろ武田が駿河の拠点を次々と奪ってるけど何の理由で北条が押してると?
880 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 10:39:03 ID:CM5wWQBl
>>877 >だからなに?氏康存命中にちゃんと駿河を制圧して伊豆まで攻め込んでるのに
>押してる、と表現してなにがおかしいわけ?
それは氏康が死にかけてる状況の結果
氏康が健康体である初戦では駿河から撤退させられてるってこと
>そんで?何年も時間があったのに一度も武田を追い詰めるような侵攻作戦を
>上杉がついにやってない事をどう思ってるわけ?氏康はその期間の間ちゃんと
>生きてたわけだが?都合のいいIFをいってるだけにすぎんよ。
実質二年三年の期間を数年と言って長く感じさせるのが目的?
それともちゃんと知らないか、どっちかだな
それに実際上野に上杉は軍を起こしてるし、上杉はその後武田との和平も模索してる
北条が武田と徹底抗戦する構えなら当然上杉にもそれ相応の催促がくるし、当然ブラフでもなんでもかけていく
それから上野抑えられるだけで武田にとっては大打撃だぞ
>そんなにブラフが強く動くならなんで北条はあれだけ譲歩し何度も要請したんだ?
北条も条件の不履行があったし、帰属問題でもまだ協議中
いってみれば同盟交渉中
そんな空手形が効くと思うか?
>しかも結局駄目だったし。
結局と言い出すなら、二年三年後に信玄が死んで代替わりの混乱が起こって、そこを突かれて崩壊だな
>とてもそんな簡単に動くとは思えんね。希望的観測すぎ。
都合よく事実をスルーしてるからそう思えるんだろうな
>別に織田が武田に対して身をていしてくれる必要はない。
>あくまでも時間が稼げればいいのだから。
武田から見すぎ
織田からしてみれば徳川は従属勢力、武田も同盟勢力、上杉とはどうだったか思い出せないが、北条らと膠着状態になってくれるのは望むところ
武田が押されたり押すようなことがあれば介入もしてくるだろうが、氏康が存命でこう着状態なら介入しないな
まあ実際おされてるから泣きつかれて織田は動いたんだろうが、どの道北条に食いつぶされるとなれば
>盟約破りなんてどの大名もやってる。
わけだから織田から切ってくる可能性もあるな
>少なくとも一度も行われてない上杉の本格侵攻よりははるかに想定できるな。
上野に侵攻してるだろ
なんで本格侵攻なんて条件狭めるのやら
絵空事なんて言ってたあたり知らなかっただけみたいだが
881 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 10:59:26 ID:yfPhSEq8
>>879 伊豆駿東で武田を撃退
深沢を奪う
逆に問うが上で挙げた時期武田が駿河で奪った拠点って何?
882 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 12:02:05 ID:nokj8Syu
藤枝城、得之一色城、花沢城かな
883 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 12:30:05 ID:nokj8Syu
つーか70年の段階って武田があらかた駿河占領して
奪われた深沢も71年の1月には奪い返してるしな
北条が押してる状況とは言えんと思うが
884 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 16:18:07 ID:u5fcdHxP
>>880 なんで?氏康が死にかけていたのは1571年8月の事だろ?
確か4月には氏康は上杉に「武田と和睦なんてしてないよ。」
という弁明状を送っていたはずだが?その前に小田原焼かれるは駿河をあらかたとられるわ
深沢城は攻略されているわで駿河はほぼ武田の手中にある。
「氏康公が健在なら武田などに遅れはとらぬ」とか考えて脳内変換してたか
知らなかったのかどっち?
どっちでもいいが「氏康健在の間に既に駿河もとられて伊豆までおされてる」という事は
さっさと認めてもらえる?
上野に侵攻っつったってろくに影響与えてないだろ。武田の西上野支配をゆるがせてないだろ。
石倉攻めて武田と対陣したのは
越相同盟崩壊後だし。数年っていってなにがわるいんだ?越相同盟は1569年1月13日に上杉が
受諾表明、最終的に崩壊するのは1571年12月だろ?一々2年11ヶ月とまでいわなきゃならなかったか?
どうせ言葉尻つっついて逃げるつもりだろうから、論点を絞るが、これだけの時間が
ありながら上杉が越中攻めてばっかりでろくに武田領に侵攻できておらず影響も与えられてない事は
さっさと認めてもらえる?甲越和与があったとかいうなよ。それなら他者からの和議斡旋で
あっさりとまる程度の同盟関係だということだ。
そんで?結局あれだけ譲歩したはいいけど上杉は越中に夢中なわけだが?
お前のいう上杉にとって最悪の事態である武田・北条が両方敵にまわった状態でも
普通に越中攻めてるわけだが?これでよく氏康さえ生きてれば共同歩調とって武田領土蹂躙とか
考えられるもんだな。
都合よく事実を無視してるのはそっちだろ。まさか北条が武田に押されたのは全部氏政が
やったからとでも思ってるわけじゃないよな?
織田から切ってくるって?実際の所は西上作戦直前まで上杉と武田の和睦をとりもとうと
してるんだけどな。氏康さえ健在なら劇的にそれが変わると思ってるのが不思議だな。
知らなかったって勝手に決め付けるのはやめてくれる?その上杉の動きで結局の所
武田がおされているようにはとても思えんが?本格侵攻じゃなきゃ全然役に立たない事くらいは
わかるだろ?実際上杉は越中攻めるのが主眼で武田をおすどころか行動を縛れてもいないのだが?
885 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 16:37:10 ID:4TTZ24z8
あくまでも信玄からの侵攻・同盟破棄に対する防御的反応だからな
実力云々以前に、その気がないだろ
旗頭の氏真自身が妥協的態度に転じたこともあるし
886 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 18:26:59 ID:CM5wWQBl
>>884 >なんで?氏康が死にかけていたのは1571年8月の事だろ?
死因は胃がんと言われてる
一回持ち直して、多少の政務に関与できるほどには回復したが、いかんせん末期癌じゃな
癌は辛いぞ?
食べたいものを指で指して穴あけて伝えるなんて状況にまで陥ってる
>確か4月には氏康は上杉に「武田と和睦なんてしてないよ。」
>という弁明状を送っていたはずだが?
それこそが軽いブラフだな
>その前に小田原焼かれるは駿河をあらかたとられるわ
>深沢城は攻略されているわで駿河はほぼ武田の手中にある。
逆に御嶽城とられてるけどな
興奮してるのか知らんが駿河に関してダブってるぞ
>「氏康公が健在なら武田などに遅れはとらぬ」とか考えて脳内変換してたか
>知らなかったのかどっち?
言わないだけ
>どっちでもいいが「氏康健在の間に既に駿河もとられて伊豆までおされてる」という事は
>さっさと認めてもらえる?
「病態の実力者の間隙をついて初戦で敗退したものの、相手方の政治的な混乱もついてなんとか駿河攻略に成功した」なら全くもってその通りだな
伊豆?それこそ多大な影響を与えたのか?
>上野に侵攻っつったってろくに影響与えてないだろ。武田の西上野支配をゆるがせてないだろ。
武田本体が撤退に追い込まれてるのに影響を与えてないか
小田原でちょっと焚き火したら物凄い戦果にするのにな
>石倉攻めて武田と対陣したのは
>越相同盟崩壊後だし。数年っていってなにがわるいんだ?越相同盟は1569年1月13日に上杉が
>受諾表明、最終的に崩壊するのは1571年12月だろ?一々2年11ヶ月とまでいわなきゃならなかったか?
越相同盟の条件の履行がなされたのはいつだ?
だから「空手形」なんだよ
>上杉が越中攻めてばっかりでろくに武田領に侵攻できておらず影響も与えられてない事は
>さっさと認めてもらえる?
上で否定
そもそも越中も武田氏勢力がいるからな
ここが元亀三年あたりで平定完了してるから領土の侵攻してるし、いわんや上野にも出張してる
越中全土で太閤検地で四十万石ぐらいか
タビタビいうが、武田の牽制はえらい高く評価して、上杉のそれは全く評価しないんだな
なんというか言葉なくすわ
>甲越和与があったとかいうなよ。それなら他者からの和議斡旋で
>あっさりとまる程度の同盟関係だということだ。
あぁ、そういや甲越和与もあったな
上杉の大名領国制における幕府権威の重要性を理解すればこんな物言いできないけどな
>そんで?結局あれだけ譲歩したはいいけど上杉は越中に夢中なわけだが?
>お前のいう上杉にとって最悪の事態である武田・北条が両方敵にまわった状態でも
>普通に越中攻めてるわけだが?
そりゃこの時点では上杉は既に関東攻めれる状況じゃないからな
>織田から切ってくるって?実際の所は西上作戦直前まで上杉と武田の和睦をとりもとうと
>してるんだけどな。氏康さえ健在なら劇的にそれが変わると思ってるのが不思議だな。
レスぐらい嫁
>知らなかったって勝手に決め付けるのはやめてくれる?その上杉の動きで結局の所
>武田がおされているようにはとても思えんが?
武田本体が撤退に追い込まれたのをおされて無いといいますか
>本格侵攻じゃなきゃ全然役に立たない事くらいは
>わかるだろ?実際上杉は越中攻めるのが主眼で武田をおすどころか行動を縛れてもいないのだが?
お前が教えてくれた甲越和与があるからな
その後は武田が上野にきたら応戦してる
言質とろうとばかりしてくるから俺からも何か聞こうか
武田の駿河攻略において北条に撤退させられたのは認めるんだな?
887 :
人間七七四年:2007/07/16(月) 21:29:49 ID:qEAs4T1w
>>877 北条が譲歩と言うけど
領土的にはともかく政治的には上杉が古河公方を容認と譲歩している
結果上杉家は関東への影響力を失うことになっている
>>882 横からだが花沢城の陥落などは
>>878の言う越相同盟が成立する前の話し
越相同盟は交渉時期こそ早いものの、条件の履行は1570年春から
>>884 西上野でもいくつかの支城が北条側に寝返っている
また上杉の関東への行動だが1569年末に出兵しているほか
1570年秋にも関東へ出陣し武田と対峙している
上杉が武田に影響与えられていないというが
甲越同盟中の1569年冬でも信長への書状で上杉の関東での行動にやたら注意し
上杉家に非常に気を遣っている
1570年の時は上野で上杉と対峙し、またそれ以外にも武田は何度か上野に出兵している
上杉が武田に影響を与えていないと言うことは無い
888 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 01:06:29 ID:bq8yUDMW
スレタイを読め。
889 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 04:23:59 ID:Md5sLASY
むう。
>>886に答えようかと思ったがスレ違いか。自重します。
890 :
名無し野電車区:2007/07/17(火) 12:07:18 ID:gfIahrfI
甲斐って信玄が家督継いだ頃に諏訪が現小淵沢付近に乱入してから
織田軍が乱入するまで40年近く外的の侵入を受けてないんだっけ?
これは信玄の軍事力・外交手腕もさることながら甲斐の魅力のなさも
あるのかな
891 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 15:58:10 ID:t45/wBH7
氏康は信玄に暗殺された。
怪しい点を纏める。
・北条氏康が倒れたのは脳卒中、当時の技術で3年も生きられるか?
・北条氏康は三増峠で戦っているが、脳卒中で倒れて病状進行中の人間がどうやって戦うのか?
・氏康はその後表舞台には出てきていない。
・もし上が事実なら戦えるはずなのに氏政が武田と戦っている。氏康ではない。
・なぜか武田と講和、城も明け渡しているし上洛時は援軍も出している。氏政は武田贔屓だった。
・氏康が暗殺されたなら、薩多峠後の消極性もぴったり来る。
・武田勝頼との争いでも武田贔屓を氏政が行っている。
・氏政は氏康に離婚させられており怒っていた。
・氏政の嫁は武田出身である。なぜ離婚なのか?人質として取ってあるなら利用できるはずである。
・武田信玄との争いは駿河を切り取られたといえど、まだまだ有利な状況である。何故だか圧力すらかけない。
・氏政は武田信玄が死んだをうそだと思っていた
・越相同盟では氏康時代は上杉はいろいろやっているのに氏政時代はボイコット
・氏康と信玄の戦いには俗説が多い。死んだのではないか。
・いつ死んだのかが明らかになっておらず遺言すら氏康は残していない(信玄と和睦せよとの遺言は捏造)
・氏康は信玄との敵対姿勢を信玄が同盟破りをした後は和睦しようとすらしてない
・信玄は1571年には北条をほうっておいて徳川領に出兵している
892 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 17:25:30 ID:b8AJ+DMt
長文すぎて読む気がうせる。
893 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 18:08:02 ID:tXts6PGB
人の死に多々怪しい点があるとして、それを暗殺とするならば「何故殺すだけの利益があったのか」を追求するわけだが、
信玄はそんなに氏康を殺す必要性に迫られたのか?
北条氏政の「武田びいき」は何故贔屓していたのか、嫁さんを離婚させられているが、それは血縁結束の特に強い後北条で
親を殺すかそれを見過すほどの理由になりうのか(当時同盟決裂による離縁はよくある話)?
同盟決裂後人質も送り返してしまうのは今後敵となる勢力との余計な縁を断ったり、のちのち余計な足枷にならないためでもあるわけだが
(上杉で氏秀が騒動の種になったみたいに、血縁を利用しての他家による家乗っ取りなども起こりかねない)
あと北条家の支配欲はあくまで関東での独立であって、まったく逆方向に進軍する信玄をわざわざ着引き止める理由は薄いと思うんだが
894 :
人間七七四年:2007/07/17(火) 18:11:15 ID:tXts6PGB
ごめ、ちょっとミスった
氏政の武田びいきは氏康との政治的見解の違いじゃなくてただの怨恨ないし氏康への反目なのか?
この文が抜けてた
895 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 00:25:03 ID:gBoFWdAJ
氏康は信玄に暗殺された。
怪しい点を纏める。
北条氏康が倒れたのは脳卒中、当時の技術で3年もしにかけてから生きられるか?
北条氏康は三増峠で戦っているが、脳卒中で倒れて病状進行中の人間がどうやって戦うのか?
北条氏康はその後表舞台には出てきていない。
上が事実なら戦えるはずなのに氏政が武田と戦っている。氏康ではない。
なぜか氏政は武田と講和城も明け渡しているし上洛時は援軍も出している。氏政は武田贔屓だった。
氏康が暗殺されたなら、薩多峠後の消極性もぴったり来る。
武田勝頼との争いでも武田贔屓を氏政が行っている。
氏政は氏康に離婚させられており怒っていた。
氏政の嫁は武田出身である。なぜ離婚なのか?女性なので家を乗っ取られることはなく人質として取ってあるなら利用できるはずである。
武田信玄との争いは駿河を切り取られたといえど、まだまだ有利な状況である何故だか圧力すらかけず一方的に和睦している。
氏政は武田信玄が死んだをうそだと思っていた
越相同盟では氏康時代は上杉はいろいろやっているのに氏政時代はボイコット
氏康と信玄の戦いには俗説が多い。死んだのではないか。
いつ死んだのかが明らかになっておらず遺言すら氏康は残していない(信玄と和睦せよとの遺言は捏造)
氏康は信玄との敵対姿勢を信玄が同盟破りをした後は和睦しようとすらしてない
信玄は1571年には北条をほうっておいて徳川領に出兵している
いきなり権力が氏政に移っている。
武田の都合のよいときに死んでいる
氏康は当時57歳。不摂政でも病弱でもなくまだまだ死ぬような年齢ではない。
北条氏康も武田信玄も駿河に固執しており利権衝突が起こっていた
北条氏康は当時武田を外交で追い詰めていた武田にとっては目の上のタンコブであった
896 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 01:55:48 ID:IdPQD+/c
しつこい長文の割には
氏康の死に武田が関与しているという証拠が1文字もないのは何故か
897 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 08:48:59 ID:IHfxKm+q
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898 :
人間七七四年:2007/07/18(水) 12:00:14 ID:AbsmYmS3
「氏康は信玄に暗殺された」というタイトルで長文を書いている割には
氏康の死に信玄が関与したという状況証拠を何一つないのは何故だろう
899 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 07:49:26 ID:gEJfAZVv
氏康は信玄に暗殺された。
怪しい点を纏める。
北条氏康が倒れたのは脳卒中、当時の技術で3年もしにかけてから生きられるか?
北条氏康は三増峠で戦っているが、脳卒中で倒れて病状進行中の人間がどうやって戦うのか?
北条氏康はその後表舞台には出てきていない。
上が事実なら戦えるはずなのに氏政が武田と戦っている。氏康ではない。
なぜか氏政は武田と講和城も明け渡しているし上洛時は援軍も出している。氏政は武田贔屓だった。
氏康が暗殺されたなら、薩多峠後の消極性もぴったり来る。
武田勝頼との争いでも武田贔屓を氏政が行っている。
氏政は氏康に離婚させられており怒っていた。
氏政の嫁は武田出身である。なぜ離婚なのか?女性なので家を乗っ取られることはなく人質として取ってあるなら利用できるはずである。
武田信玄との争いは駿河を切り取られたといえど、まだまだ有利な状況である何故だか圧力すらかけず一方的に和睦している。
氏政は武田信玄が死んだをうそだと思っていた
越相同盟では氏康時代は上杉はいろいろやっているのに氏政時代はボイコット
氏康と信玄の戦いには俗説が多い。死んだのではないか。
いつ死んだのかが明らかになっておらず遺言すら氏康は残していない(信玄と和睦せよとの遺言は捏造)
氏康は信玄との敵対姿勢を信玄が同盟破りをした後は和睦しようとすらしてない
信玄は1571年には北条をほうっておいて徳川領に出兵している
いきなり権力が氏政に移っている。
武田の都合のよいときに死んでいる
氏康は当時57歳。不摂政でも病弱でもなくまだまだ死ぬような年齢ではない。
北条氏康も武田信玄も駿河に固執しており利権衝突が起こっていた
北条氏康は当時武田を外交で追い詰めていた武田にとっては目の上のタンコブであった
900 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 21:44:12 ID:yGWIh1fr
怪しい点は「氏康の死因が脳卒中かどうか」であって
信玄による暗殺などどこにも書いてない点について
901 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 21:45:25 ID:yGWIh1fr
しかもそれ専用のキチガイスレが立っているのに
スレ違いのこの場所に何度もしつこくキチガイ発言のコピペを続ける
アホさ加減についての釈明もなし
902 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 23:54:47 ID:0XBoS2Du
上で争ってた奴が論破されてコピペに走ったとか
903 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 00:37:57 ID:XeWfE0iK
904 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 01:00:36 ID:HIBoS0Fw
氏康は信玄に暗殺された。
怪しい点を纏める。
北条氏康が倒れたのは脳卒中、当時の技術で3年もしにかけてから生きられるか?
北条氏康は三増峠で戦っているが、脳卒中で倒れて病状進行中の人間がどうやって戦うのか?
北条氏康はその後表舞台には出てきていない。
上が事実なら戦えるはずなのに氏政が武田と戦っている。氏康ではない。
なぜか氏政は武田と講和城も明け渡しているし上洛時は援軍も出している。氏政は武田贔屓だった。
氏康が暗殺されたなら、薩多峠後の消極性もぴったり来る。
武田勝頼との争いでも武田贔屓を氏政が行っている。
氏政は氏康に離婚させられており怒っていた。
氏政の嫁は武田出身である。なぜ離婚なのか?女性なので家を乗っ取られることはなく人質として取ってあるなら利用できるはずである。
武田信玄との争いは駿河を切り取られたといえど、まだまだ有利な状況である何故だか圧力すらかけず一方的に和睦している。
氏政は武田信玄が死んだをうそだと思っていた
越相同盟では氏康時代は上杉はいろいろやっているのに氏政時代はボイコット
氏康と信玄の戦いには俗説が多い。死んだのではないか。
いつ死んだのかが明らかになっておらず遺言すら氏康は残していない(信玄と和睦せよとの遺言は捏造)
氏康は信玄との敵対姿勢を信玄が同盟破りをした後は和睦しようとすらしてない
信玄は1571年には北条をほうっておいて徳川領に出兵している
いきなり権力が氏政に移っている。
武田の都合のよいときに死んでいる
氏康は当時57歳。不摂政でも病弱でもなくまだまだ死ぬような年齢ではない。
北条氏康も武田信玄も駿河に固執しており利権衝突が起こっていた
北条氏康は当時武田を外交で追い詰めていた武田にとっては目の上のタンコブであった
905 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 02:30:55 ID:3cbFhofa
オレが立てたスレが
スレ違いのコピペで埋め立てられてるのを見て悲しくなる
何でこんな嫌がらせをするんだろう?
オレが何か悪いことでもしたんだろうか?
906 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 03:06:33 ID:HIBoS0Fw
新しく建てろ
907 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 07:31:10 ID:V0Z6A5tS
908 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 09:29:48 ID:XeWfE0iK
909 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 12:13:32 ID:V0Z6A5tS
折角ちゃんとした理由を自演してまで造ったのに、その努力を自ら無にすることは無いさ
910 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 12:34:01 ID:XeWfE0iK
>>909 あいにく自演なんかできる環境じゃないんだってば。
本当に続けてもいいよ。突っ込みたい所一杯なんでな。
911 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 12:47:57 ID:uPb0fo9s
912 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 12:52:36 ID:XeWfE0iK
913 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 16:45:49 ID:V0Z6A5tS
断る
何の理由もなしになぜ移動せねばならんのか
914 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 16:59:19 ID:XeWfE0iK
ふーん。そうかい。でもこっちでやっちゃ迷惑なんだとよ。スレ違いだし。
移らないというなら相手のことを逃げたとかいうのはやめてくれ。
こっちも反論せざるを得ない。お互い自重しようや。
915 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 04:12:01 ID:9dVjXg6b
氏康は信玄に暗殺された。
怪しい点を纏める。
北条氏康が倒れたのは脳卒中、当時の技術で3年もしにかけてから生きられるか?
北条氏康は三増峠で戦っているが、脳卒中で倒れて病状進行中の人間がどうやって戦うのか?
北条氏康はその後表舞台には出てきていない。
上が事実なら戦えるはずなのに氏政が武田と戦っている。氏康ではない。
なぜか氏政は武田と講和城も明け渡しているし上洛時は援軍も出している。氏政は武田贔屓だった。
氏康が暗殺されたなら、薩多峠後の消極性もぴったり来る。
武田勝頼との争いでも武田贔屓を氏政が行っている。
氏政は氏康に離婚させられており怒っていた。
氏政の嫁は武田出身である。なぜ離婚なのか?女性なので家を乗っ取られることはなく人質として取ってあるなら利用できるはずである。
武田信玄との争いは駿河を切り取られたといえど、まだまだ有利な状況である何故だか圧力すらかけず一方的に和睦している。
氏政は武田信玄が死んだをうそだと思っていた
越相同盟では氏康時代は上杉はいろいろやっているのに氏政時代はボイコット
氏康と信玄の戦いには俗説が多い。死んだのではないか。
いつ死んだのかが明らかになっておらず遺言すら氏康は残していない(信玄と和睦せよとの遺言は捏造)
氏康は信玄との敵対姿勢を信玄が同盟破りをした後は和睦しようとすらしてない
信玄は1571年には北条をほうっておいて徳川領に出兵している
いきなり権力が氏政に移っている。
武田の都合のよいときに死んでいる
氏康は当時57歳。不摂政でも病弱でもなくまだまだ死ぬような年齢ではない。
北条氏康も武田信玄も駿河に固執しており利権衝突が起こっていた
北条氏康は当時武田を外交で追い詰めていた武田にとっては目の上のタンコブであった
916 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 04:15:03 ID:hCriLsDA
その「怪しい点」が尽く「氏康は信玄に暗殺された」という主張を肯定できる物じゃ無いのは笑う所か?
917 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 05:25:52 ID:MgxGBRll
>>915 「怪しい点」という無駄に長い項目の中に
信玄による氏康暗殺に関する記述が1文字もないのは
単なる嫌がらせなのか、それとも精神科に通ってる人なのか
918 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 05:26:42 ID:9dVjXg6b
暗殺ってなんで「暗殺」か知らない馬鹿だなあ。
919 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 10:49:57 ID:+bX/EbBg
920 :
人間七七四年:2007/07/23(月) 17:05:15 ID:Ff8CwD99
武田家滅亡の原因は100%信玄の無節操な下半身と無節操な戦略が生んだ
間違いない
921 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 04:51:45 ID:EJkpQAeL
武田信虎によって近世的な戦国大名として生まれ変わろうとしていた武田家を
晴信を押し立てたクーデターによって旧態依然とした中世大名に逆戻りさせた
板垣・甘利らが原因
最後まで責任もって御輿担げばよかったものを、何てこともない田舎の戦で落命
したりするから担ぐ人間のいなくなった御輿が自分は名君だと勘違いしちゃった
922 :
人間七七四年:2007/08/06(月) 11:00:18 ID:gs6Lhb/G
信玄=戦後処理〜地方財政まで、なんでも放置で目先の金儲けに走り日本を借金漬けにしただけのくせに
高度経済成長したオレらスゴい(゚∀゚)と自画自賛の勘違い団塊オヤジ
勝頼=年金取られ損、雇用不安定、ツケたまりまくりの日本を押しつけられた上に
ろくな就職もしないでなっとらん!とけなされる就職氷河期世代の団塊ジュニア
923 :
人間七七四年:2007/08/17(金) 21:15:41 ID:gd6WaLMI
武田家の滅亡は勝頼がアフォだから
政治家としてしっかりしてない勝頼なんかが当主になった時点で
織田家康に滅ぼされるのは時間の問題
あと信玄自体信長家康との同盟破棄して美濃三河侵攻してる時点で
滅ぼされるのは時間の問題
924 :
人間七七四年:2007/08/19(日) 04:10:30 ID:seY5d82S
>>7 読んでこい
925 :
人間七七四年:2007/09/02(日) 23:20:51 ID:vSlBk+dq
>>923 >織田家康
ちょw
言いたいことはわかるが、姓なら姓、名なら名で統一してくれ
926 :
人間七七四年:2007/09/06(木) 10:47:51 ID:ToM90YTx
信玄は田中角栄タイプとも考えられますよね。
家臣を束ね、周辺豪族を切り崩して寝返らせ領土を拡大し、甲斐の領民の暮らしが
豊かになる政策もいくつも成功させてるが、結局は一門、家臣団を強引に結束させる
手段として他国に攻め入るって手法を繰り返して自軍の戦死者も出し続けた。
身内関係でも卑劣な行為は多かったし、同盟関係の国に対する不義理も目に余る。
別に海を手に入れるとか上洛するとかって甲斐守護の責務でもなんでもないのに、
それを最優先にして領民に負担をかけ身内、家臣団にもシコリを沢山残した。
甲斐、信濃、駿河を納める有力大名に伸し上がった功もあるが、裏にダークな面や罪の部分が沢山ある。
功と罪を比べても、この甲斐守護武田大膳大夫源晴信徳栄軒信玄さんって武将は
それほどの高評価に価するのでしょうかね?
実業が行き詰まって、M&Aを繰り返しで見せ掛けの時価総額だけを増大して、結局は最後にツケが回った
某○○エモンにも重なる面もあるように思えます。
小説の武田信玄、風林火山、映画の影武者で描かれてる信玄さんは大好きなんだけど
あくまでそれは実在した人物をモデルにした、それこそ作り物で本物とは別と考えるようにしてます。
927 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 06:59:10 ID:XRAlgTnx
でも田中角栄て当時は「上杉謙信の再来」てよはれてたな
単に出身地の関係なだけだと思うが
928 :
人間七七四年:2007/09/07(金) 14:16:51 ID:R204PLtq
経営感覚が抜群なところは似てるな、角栄と謙信
直江津の保護育成
越後・越中の染料農家の囲い込むと染料相場の差配
あとは捕虜の人身売買w
929 :
人間七七四年:2007/10/10(水) 16:43:41 ID:oGz26LwK
あげ
930 :
人間七七四年:2007/10/13(土) 02:26:09 ID:RhYoJAqJ
北条・一向宗を味方につけ、本庄を焚きつけて謀反させたのに、越後や信濃飯山城を奪えなかった雑魚
なんとか確保できたのは、もともと上杉の勢力が及びにくい西上野のみw
931 :
人間七七四年:2007/10/13(土) 09:55:00 ID:JTBWhC4A
>>926の理屈で言うと戦国時代に高評価に値する武将ってほとんどいなさそうだな。
932 :
人間七七四年:2007/10/13(土) 12:16:41 ID:znKpEudP
信玄の考えあっての遺言だろうけど死の意味が分かんなかったんじゃ…
933 :
人間七七四年:2007/10/13(土) 14:55:14 ID:VAQXPxU/
うまい事言うな
934 :
人間七七四年:2007/10/14(日) 16:17:26 ID:SQ3uSno1
>>930 飯山城の位置をわかっていってんのか?
上杉が飯山城失うってことは、春日山城を攻められるってことだぜ。
935 :
人間七七四年:2007/10/19(金) 18:57:02 ID:gCeuCxvE
豊臣家滅亡の原因は100%秀吉が作ってる件
名前: 人間七七四年
E-mail: sage
内容:
滅亡の責任を石田や徳川や淀殿や福島や加藤に押し付けているが
どう考えても豊臣家滅亡の原因は100%秀吉
というスレを立てようとしたが立てれなかった
936 :
人間七七四年:2007/10/22(月) 01:34:08 ID:jCZchKpr
まああながち間違いじゃないな
937 :
人間七七四年:2007/12/05(水) 20:17:16 ID:auixxplO
そうですな
938 :
人間七七四年:2007/12/08(土) 17:00:33 ID:7lg4MUM/
個人的には信玄は7割、義信が2割、勝頼が1割だと思うのだが。
海・・・とりわけ駿河制圧は信虎の頃よりの念願で、義元が
強固な政権を作ったから頓挫(それよりも信濃の方が容易ってのもあるけど)
したわけで。(信玄はその路線を世襲しただけで)
今川との同盟を重視して、クーデターを起こす義信
にも十分問題があるのだが・・・。
で信虎の再評価はないの?軍監に載ってる、妊婦をかっさばいたり、
重税をしたりとかいくさの連発とか・・・。後者の二つは信玄もやってるし。
むしろ、内政重視で躑躅ヶ崎の館を築いたりと。決して暴君には
思えないのだが。(クーデターの原因は、信虎の権限を強めるための
国人衆の粛正を行なったら、国人衆が晴信の御輿を担いだだけのような)
939 :
人間七七四年:2007/12/11(火) 02:49:03 ID:7iLFZQBN
>>938 あと信濃の先にある越後も、信虎追放前後は、
長尾氏vs守護大名の上杉派の豪族で分裂してたし。
一気に信濃を平定できれば、越後も容易と考えていた可能性もある。
予想外なのは次男の景虎が長尾家の家督をついで一気に
越後を押さえてしまったこと。
940 :
人間七七四年:2007/12/17(月) 01:10:07 ID:UfFoNBzp
>>938 妊婦の腹かっさばきは後世の人間がある人物を貶めるためのお決まりのデマだな。
それこそ古代の中国からある古典ネタ。
武田の重税は伝統的にそういうもんだしな。
まあクーデターを正当化するためのネタだわな。
941 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 03:22:48 ID:f1dApGGU
低脳ゆとりの証明である、アンチ武田信玄の思考(毛利オタ 北条オタ 信長オタなど)
大名として成熟した時期の元就54歳(厳島)と、大名としてまだ未熟な時期の信玄28歳(上田原)
を比較して、元就>>>信玄と背伸びしたがる始末wwww
駿河攻略の途上で行われた信玄の小田原攻めを、「信玄は相模を取れなかった」
としか解釈できない始末www
背後を見せた信玄を討ち取れずに散々に敗北し、おまけに駿河を信玄に取られた
事実には目をそむける始末www
周囲の大勢力全てに打ち勝ってきた信玄が最強なのは歴史的事実であるが、ゆとり
世代からすれば、「大勢力を滅ぼせなかった」としか解釈できない始末ww
謙信も氏康も信長も、生涯信玄を恐れて生きていきました。
942 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 04:38:39 ID:/u2DZTBc
釣り餌としてはヘボすぎる
943 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 10:34:41 ID:Rgc0L/uW
>大名として成熟した時期の元就54歳(厳島)と、大名としてまだ未熟な時期の信玄28歳(上田原)
三方が原の信玄と家康でも言われてるな
944 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 12:38:59 ID:1FIditLQ
信玄は年食っても厳島みたいなウルトラCができなかったしね
945 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 12:59:36 ID:dNn+9/Jo
しないで済むならそれに越したことは無いんじゃないか
946 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 13:02:17 ID:hKqkf0zo
こんな餌に食いつくお前らって何?
947 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 14:33:53 ID:04yOinvc
ウルトラCやられるヤツは相当な無能。
なかなかいないアホ
948 :
人間七七四年:2007/12/24(月) 15:38:26 ID:jJVe1p4W
そんなことをしない、する必要があるところまで追い詰められない、と
いうのが名将に望まれる要素ではあるが、結局ジリ貧で御家滅亡してる
からなあ。
949 :
人間七七四年:2007/12/26(水) 21:09:21 ID:I6h/Aem5
義信を切腹に追いやったのが全ての原因。
950 :
人間七七四年:2007/12/26(水) 21:27:18 ID:yDrC69oA
勝頼カワイソス
951 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 08:35:52 ID:Q8MU9giy
氏康は信玄に暗殺された。
怪しい点を纏める。
北条氏康が倒れたのは脳卒中、当時の技術で3年もしにかけてから生きられるか?
北条氏康は三増峠で戦っているが、脳卒中で倒れて病状進行中の人間がどうやって戦うのか?
北条氏康はその後表舞台には出てきていない。
上が事実なら戦えるはずなのに氏政が武田と戦っている。氏康ではない。
なぜか氏政は武田と講和城も明け渡しているし上洛時は援軍も出している。氏政は武田贔屓だった。
氏康が暗殺されたなら、薩多峠後の消極性もぴったり来る。
武田勝頼との争いでも武田贔屓を氏政が行っている。
氏政は氏康に離婚させられており怒っていた。
氏政の嫁は武田出身である。なぜ離婚なのか?女性なので家を乗っ取られることはなく人質として取ってあるなら利用できるはずである。
武田信玄との争いは駿河を切り取られたといえど、まだまだ有利な状況である何故だか圧力すらかけず一方的に和睦している。
氏政は武田信玄が死んだをうそだと思っていた
越相同盟では氏康時代は上杉はいろいろやっているのに氏政時代はボイコット
氏康と信玄の戦いには俗説が多い。死んだのではないか。
いつ死んだのかが明らかになっておらず遺言すら氏康は残していない(信玄と和睦せよとの遺言は捏造)
氏康は信玄との敵対姿勢を信玄が同盟破りをした後は和睦しようとすらしてない
信玄は1571年には北条をほうっておいて徳川領に出兵している
いきなり権力が氏政に移っている。
武田の都合のよいときに死んでいる
氏康は当時57歳。不摂政でも病弱でもなくまだまだ死ぬような年齢ではない。
北条氏康も武田信玄も駿河に固執しており利権衝突が起こっていた
北条氏康は当時武田を外交で追い詰めていた武田にとっては目の上のタンコブであった
952 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 19:42:49 ID:WefJ4fnB
>>951 氏康より信玄や謙信のが信長にとって絶妙だけどな
状況証拠は無意味だって
953 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 21:12:23 ID:6EF//IWy
信玄が死期を悟った時点で、しゃにむに徳川を抹殺して三河に居座るっていう、いつもやっていた事に作戦を切り替えていたら…
その後、信玄が死んだら勝頼が「親父が死んだんで以後、織田さんをアニキと呼ばせてもらいます。ゴメンちゃい」と信長がポカーンとするような土下座外交を繰り広げていたら、史実よりはマシな扱いを受けていただろう。
いっそのこと、こんぐらいの馬鹿の方が幸せだったかも?
954 :
人間七七四年:2008/01/04(金) 00:22:31 ID:GwUwqOnz
氏康は死ぬ前から家督を氏政に譲ってるだろ。
955 :
人間七七四年:2008/01/04(金) 02:24:43 ID:nc2Tigk4
氏康は信玄に暗殺された。
怪しい点を纏める。
北条氏康が倒れたのは脳卒中、当時の技術で3年もしにかけてから生きられるか?
北条氏康は三増峠で戦っているが、脳卒中で倒れて病状進行中の人間がどうやって戦うのか?
北条氏康はその後表舞台には出てきていない。
上が事実なら戦えるはずなのに氏政が武田と戦っている。氏康ではない。
なぜか氏政は武田と講和城も明け渡しているし上洛時は援軍も出している。氏政は武田贔屓だった。
氏康が暗殺されたなら、薩多峠後の消極性もぴったり来る。
武田勝頼との争いでも武田贔屓を氏政が行っている。
氏政は氏康に離婚させられており怒っていた。
氏政の嫁は武田出身である。なぜ離婚なのか?女性なので家を乗っ取られることはなく人質として取ってあるなら利用できるはずである。
武田信玄との争いは駿河を切り取られたといえど、まだまだ有利な状況である何故だか圧力すらかけず一方的に和睦している。
氏政は武田信玄が死んだをうそだと思っていた
越相同盟では氏康時代は上杉はいろいろやっているのに氏政時代はボイコット
氏康と信玄の戦いには俗説が多い。死んだのではないか。
いつ死んだのかが明らかになっておらず遺言すら氏康は残していない(信玄と和睦せよとの遺言は捏造)
氏康は信玄との敵対姿勢を信玄が同盟破りをした後は和睦しようとすらしてない
信玄は1571年には北条をほうっておいて徳川領に出兵している
いきなり権力が氏政に移っている。
武田の都合のよいときに死んでいる
氏康は当時57歳。不摂政でも病弱でもなくまだまだ死ぬような年齢ではない。
北条氏康も武田信玄も駿河に固執しており利権衝突が起こっていた
北条氏康は当時武田を外交で追い詰めていた武田にとっては目の上のタンコブであった
956 :
人間七七四年:2008/01/04(金) 07:47:50 ID:dxb+kUKb
分かったから証拠をだせ
根拠のない妄想なんて見苦しい、しかもスレ違い
957 :
人間七七四年:2008/01/06(日) 03:40:42 ID:ncp1R9nw
>>955 君は以前からしつこくそのキチガイ文をコピペを繰り返してるけど
そのキチガイ文には「氏康は信玄に暗殺された」とする部分がどこにもないじゃん
タイトルの中身が全然違う事すら気が付かないのかい?
958 :
人間七七四年:2008/01/07(月) 13:25:04 ID:ryr2A/6V
>>953 武田が裏切った時点で、信タンは「もう絶対武田と(信玄だったかも)くまねえ!」って上杉に言ってるから無理じゃないか
959 :
人間七七四年:2008/01/07(月) 18:47:44 ID:adhLqyfU
そこは相手が斬る気も無くなるぐらいアホのフリをするということで。
なんせどうころんでも史実より悪くなりようはないんだし。
本能寺みたいなことは、いずれどこかで起こってたんじゃないかという「必然説」を取ることとし、そこまで生きていたらあるいは?
960 :
人間七七四年:2008/01/22(火) 16:34:37 ID:HFr6PKwn
まぁ信玄が悪い罠
最悪のタイミングで裏切って信長怒らせた。あの時点で滅亡は90%避けられんだろ
謙信も「さっさと協力して武田滅ぼしちゃいましょうよ〜」なんて持ちかけてるし
とにかく裏切りまくって周り敵だらけにして死んだからな〜活路が見出せん
961 :
人間七七四年:2008/01/26(土) 03:43:58 ID:JhVm0aKx
信長の書状によると激怒って感じだもんな
あの時点で武田の滅亡は決まっていたのかも
962 :
人間七七四年:2008/01/28(月) 17:44:24 ID:blqAFV6F
信長「何を裏切ってんだ? ん? 甲斐の山猿さんよ」
信玄「何って、金山掘りつくしたし、駿河の経済とかも把握しきれなかったから…退屈で」
信長「それは間者の報告で分かる。だからって何でいきなり裏切った?」
信玄「信長さんがびっくりするだろう、と思って」
信長「確かに驚いた。だけど、その後に俺が本隊率いてやってきたら、どつき回されるって思わなかったか?」
信玄「…うん。今考えれば、確かに」
信玄「でも、その時は『ああ、これで信長さんをびっくりさせられる』って思ったらもう、信長さんの呆れる顔が見たい一心で」
信玄「他の事はあんまり…」
信長「こいつ出たての芸人か」
勝頼「しかも天然系ですな」
963 :
人間七七四年:2008/01/28(月) 21:08:57 ID:CNFyD7lR
>勝頼「しかも天然系ですな」
勝頼より
家康「しかも天然系ですな」
このほうがいいのでは?
964 :
人間七七四年:2008/01/29(火) 17:07:40 ID:BC5SUwh3
史実を考えれば信玄って裏切りの連続だから(今川裏切ったばかりだし
信長も怒ったは怒ったんだろうが、全く予想していなかった、って訳じゃないんだろうな
元ネタ漫画あるネタに突っ込むのも野暮だが
965 :
人間七七四年:2008/01/29(火) 17:20:43 ID:7Icej6Iu
徳川に対してもいきなりの盟約違反で遠江に侵攻したし
まあ信玄に人道を問うことが既に間違ってるがw
966 :
人間七七四年:2008/02/08(金) 20:12:02 ID:Lk0WefOf
氏康は信玄に暗殺された。
怪しい点を纏める。
北条氏康が倒れたのは脳卒中、当時の技術で3年もしにかけてから生きられるか?
北条氏康は三増峠で戦っているが、脳卒中で倒れて病状進行中の人間がどうやって戦うのか?
北条氏康はその後表舞台には出てきていない。
上が事実なら戦えるはずなのに氏政が武田と戦っている。氏康ではない。
なぜか氏政は武田と講和城も明け渡しているし上洛時は援軍も出している。氏政は武田贔屓だった。
氏康が暗殺されたなら、薩多峠後の消極性もぴったり来る。
武田勝頼との争いでも武田贔屓を氏政が行っている。
氏政は氏康に離婚させられており怒っていた。
氏政の嫁は武田出身である。なぜ離婚なのか?女性なので家を乗っ取られることはなく人質として取ってあるなら利用できるはずである。
武田信玄との争いは駿河を切り取られたといえど、まだまだ有利な状況である何故だか圧力すらかけず一方的に和睦している。
氏政は武田信玄が死んだをうそだと思っていた
越相同盟では氏康時代は上杉はいろいろやっているのに氏政時代はボイコット
氏康と信玄の戦いには俗説が多い。死んだのではないか。
いつ死んだのかが明らかになっておらず遺言すら氏康は残していない(信玄と和睦せよとの遺言は捏造)
氏康は信玄との敵対姿勢を信玄が同盟破りをした後は和睦しようとすらしてない
信玄は1571年には北条をほうっておいて徳川領に出兵している
いきなり権力が氏政に移っている。
武田の都合のよいときに死んでいる
氏康は当時57歳。不摂政でも病弱でもなくまだまだ死ぬような年齢ではない。
北条氏康も武田信玄も駿河に固執しており利権衝突が起こっていた
北条氏康は当時武田を外交で追い詰めていた武田にとっては目の上のタンコブであった
967 :
人間七七四年:2008/02/08(金) 23:36:34 ID:Olf0GS77
勝頼って、長篠の失敗のお陰で過小評価されまくってると思う。
それを抜かせば軍略、政治において中々な大名のように見えるんだが…
968 :
人間七七四年:2008/02/09(土) 00:10:33 ID:ONzcvEDQ
つーか武田家滅亡の原因を作ったのは信長だけど。
こんなあたりまえのこともわからないなんて!
969 :
人間七七四年:2008/02/09(土) 00:13:43 ID:MtVdyjly
そう言う話をしてるんじゃない。
>>967 名将だと思うよ。
970 :
人間七七四年:2008/02/09(土) 21:25:09 ID:jTU5RVt9
新府城はいいよなー
何度も行ってるけど、あそこで一戦も出来ずに
城を焼いた勝頼の無念は計り知れない
971 :
人間七七四年:2008/02/09(土) 22:08:39 ID:imG6NzoD
>>967 上杉家の家督争いで、せっかくの味方の北条を敵に回してしまったのは、長篠に匹敵するチョンボではないかな?
972 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 01:03:10 ID:gaWXTU1S
そうだよな、どんな理由があったにせよ
駿河遠江を挟撃される事だけは避けねばならなかった
973 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 01:07:52 ID:46XxKiF2
>>966 当時57歳は普通に死ぬような年齢だろ。
974 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 01:09:48 ID:sm1PmZpW
やはり勝頼は優秀な軍人ではあっても、政治家としては並以下と言わざるをえないと思う。
まぁ、信玄が教育を怠ったのか、他国との信頼を大事にせずに小手先の軍事力でごまかす武田家の悪いクセを受け継いでしまったのかは知らないが。
なんとなく武田家ってソビエト軍みたいねw
975 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 01:22:49 ID:OJpJ5QuK
>>971 まあ勝頼だけの所為ではないけど、
もう少し上手く立ち回れなかったものか…。
976 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 01:53:12 ID:fkzYtnAh
同盟の解消なんてごく普通にあることなのに、
なんでこう信玄が格別不義理であったような考え方をする奴がいるんだろう。
977 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 04:35:57 ID:R2zlboma
>>976 よくあった事ならそれなりの例を多数晒してこそ説得力を持つと思うが
978 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 08:07:27 ID:sm1PmZpW
いきなり破って踏み込んでくるからじゃね?
あとは末期の織田との約定破りが、武田家の致命傷になったので
「信玄ていわれてるほど大したことないんじゃねぇ?」
という疑惑がトルネードしている。
979 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 15:27:12 ID:D/jO5ryG
武田信玄の悪行
諏訪・・・騙し討ち
長尾・・・停戦協定破棄
今川・・・同盟破棄
佐竹里見・・・一言の断りもなく一方的に北条と和睦、事実上同盟破棄
徳川・・・協定破り
織田・・・同盟破棄
980 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 18:57:12 ID:sm1PmZpW
小豪族に毛が生えた程度の頃なら、いきなり約定破って攻め込めば、相手を滅ぼせて後顧の憂いを無くせるかもしれないけど、
互いに国持大名になってまでそれやっちゃ信用無くすだけだよ。
信玄は最初の頃の成功体験が忘れられず、政略や戦略の切り替えを誤ったんだと思う。
そんな父親をもった勝頼は不運だったなぁ。
981 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 19:58:46 ID:fypEBx2H
山賊の頭として、山奥では英雄扱いされてた男が
都会の軍隊と渡りあってしまった事による悲劇だね
982 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 20:41:00 ID:zj8nXyzU
長宗我部家に対する信長の対応なんてひどいもんだろ。
元就が尼子に付いたり大内に付いたりするのに特に大義名分があったようには思えない。
大内家の娘を娶っていた息子を毒殺した大友政親、
信長の力で将軍になったのに公然と敵対して挙兵までした足利義昭、なんてのもいる。
北条に無断で勝手に武田と和睦した今川義元も、最終的には北条とも和睦できている。
つーか、信玄が不義理という風評で外交に苦労した形跡はないな。
勿論躍進目覚しい勢力であれば警戒はされるだろうけど、その範囲内。
駿河侵攻をめぐって対立した北条とも比較的簡単に和睦してるし。
983 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 20:44:52 ID:Kfj0RlrL
徳川が信玄を信じたら信長やばかったな
信玄を信じるとかありえんけどなw
984 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 21:04:28 ID:DWPuoVgs
疑問があるんだけど、信玄の名言の中に
「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」てあるでしょ?
これって創作の可能性大な訳だが、考えた人は信玄の所業をどういう風に見たら、
「情けは味方、仇は敵なり」なんてフレーズを当て嵌めたんだろうなw
985 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 21:10:54 ID:zj8nXyzU
家臣の処遇はまあ上手くいってた方なんじゃないの。
前半部から考えて、基本的に国内統制の話だと思う。
986 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 22:04:31 ID:d55cngb2
>>974 >信玄が教育を怠ったのか
勝頼は、かなりギリギリまで「大名家の跡継ぎ」ではなく「その配下の名家の跡継ぎ」
として教育されてきましたから。
987 :
人間七七四年:2008/02/10(日) 22:11:59 ID:oVqOCwRj
教育というより運が悪かったんだろう。
謙信でも義元でも出家させられたが還俗して当主を務めてた。
戦国中期なら勝頼でも大丈夫だったが、信長と同じ時代に生まれたのが不運だった。
988 :
人間七七四年:2008/02/11(月) 00:13:28 ID:FMv3At60
>>984 とりあえずネームバリューのある人物に自分の思想や嗜好を上乗せしただけじゃないかな?
989 :
人間七七四年:2008/02/11(月) 02:06:52 ID:m5zzsWmq
良スレ
990 :
人間七七四年:
北条家との外交をもっと上手くやるべきだったと思う。
3国同盟破棄による対立は当然として、初めから西に行きたかったなら義元健在の時点で
今川とは結ばずに北条か長尾と結ぶべきではなかっただろうか。
糞外交の結果四面楚歌になって息子にパスとか馬鹿過ぎる。