1 :
◆RX/MoGZ9xs :
舞兵庫や島清興など多彩な石田家臣達を語りましょう
左近が三成に仕えたのは、いつからなんだろう
大河ドラマ『葵徳川三代』を思い出す。
喜内「散り残る椛とは・・・?」
三成「無論・・・!豊臣家じゃ!」
横山喜内は最後の有楽に討ち取られたっていう所で微妙に評価下がってる気がするよな。
当時、「有楽の武辺、末の初物」って言われるくらいの有楽だからなぁ
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 22:48:49 ID:GdQomTLd
あれはほとんど自殺だろ。
横山無念・・・。
にしても石田家臣は個性強いな、個人的に八十島助左衛門が好き。
>>3
マイナーな舞兵庫も出てたよな
たしか矢に当たって死んだような
舞兵庫でてたとは…
舞兵庫は戦死なのか逃亡なのかどっちなんだろうか?
9 :
3:2006/07/14(金) 23:51:46 ID:OgzHOkeq
>>7そうそう、三成に戦況報告した後、戦闘中に矢にあたってたな。
前野忠康(舞兵庫)って戦死説と逃亡説が有るんだよね。
舞兵庫役って誰だったの?
なんか見たくなってきた
渡辺勘兵衛の500石の話って本当なの?
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 08:47:42 ID:XTrcf3w+
>>4 たしか有楽は追い詰めたけど
近習が殺到して斬られるんじゃなかったかな?
ところで喜内と蒲生郷舎って別人だよな
>>16 いや横山喜内は蒲生備中守真令と名乗っていて関ヶ原で死んだ。
一方の蒲生郷舎なる人物は戦後蒲生家に再士官た記録がから
二人はよく混同されるが別人だという話を聞いたのだが・・・。
18 :
16:2006/07/15(土) 14:43:19 ID:tzyUYDQA
むむむ・・・。
19 :
李恢:2006/07/15(土) 14:44:23 ID:ErgLz6ZD
お約束
なにがむむむだ!
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 15:33:49 ID:qbmmhAek
>>2 近江の領主となった石田三成から、左近に仕官の要請があった。
それまでも多くの要請を断ってきた左近はやはり断るが、三成の必死の説得により仕官を受け入れ、1万5千石の俸禄で召し抱えられた。
これは、当時の三成の禄高4万石のうちの4割近くを与えられるという破格の待遇であった。
もっとも、島左近が石田三成に仕えたのは、三成が佐和山19万石の城主になってからという説もある。
>>20 一応、1590年の小田原の戦いで一緒に行動してる資料があるから
仕官したなら4万石の時に仕官じゃね?もっとも今は
左近は秀吉死後まで与力説もあって、結構それらしき証拠もあるので
真実はわからんよね
>>14 調べたら「妻は前野長康の娘」となってたよ。
婿養子で前野姓になったのかは分からなかった。
「叢雲関ヶ原へ」はかなり三成家臣団についてかかれてた
大山伯耆かっこよス
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 01:33:41 ID:/KVbxIhQ
石田軍敗色濃厚になったとき八十島は逃亡したんだよね
石田兵達の笑いものになったとか
26 :
魔玉砲 ◆RX/MoGZ9xs :2006/07/21(金) 15:10:22 ID:7wasD+dJ
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/21(金) 17:50:15 ID:KwRo2S57
渡辺勘兵衛の500石の話
渡辺勘兵衛は武勇の士として有名だった(増田長盛、藤堂高虎に仕官した渡辺勘兵衛とは別人)。
ところが、勘兵衛は10万石でないと二度と仕官しないと公言していた(実質上の引退宣言か?)。
その武勇を惜しんで柴田勝家が1万石で勘兵衛を召抱えようとしたが
勘兵衛は「10万石でないとダメだ」と断り、
豊臣秀吉も2万石で召抱えようとしたが、
またも勘兵衛は「10万石が1石でも欠けたらダメだ」と断った。
あるとき、その勘兵衛が石田三成の家臣となったという話が伝わり秀吉を驚かした。
秀吉は三成を呼び出して問いただした
「勘兵衛のような豪傑をよくもお前みたいな小物が家臣にできたな。どうやって口説いたのじゃ?」
三成は得意になって答えた
「私が100万石になったときに10万石にしてやる。それまでワシの500石を全てお主にやろう、と約束したのです。」
当時、三成の石高は500石だった。
秀吉「勘兵衛に500石やれば、お前の食い扶持がなくなるではないか?」
三成「はい、だから私は勘兵衛の居候になりました。」
これを聞いた秀吉は三成の剛毅さに感心したという。
後に三成が出世した際、三成は勘兵衛にも加増しようしたが
勘兵衛は「100万石になれば10万石頂きますから」と言って生涯500石のままで通した。
関ヶ原の戦では勘兵衛も力戦した。
味方が崩れる中、三成は勘兵衛に「10万石の話も夢になったな」と語りかけた。
最後まで自分との約束を気にかけてくれた三成に勘兵衛は感謝して死んだという。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/21(金) 17:53:18 ID:WiuuTeLP
渡辺勘兵衛って二人いるからややこしいよな
そのとき
渡辺以外の家来の食い扶持はどうしたんだ
没収して渡辺に与えたのか
>>29 男気の問題だから、家の運営に支障はないよ。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 10:12:23 ID:2grwlKvW
500石だと家来といっても20人くらいしかいないじゃなかったのかな?
三成に「勘兵衛に全部やってしまったからお前達も俺と一緒に勘兵衛の居候になるぞ」
って感じで言われたんじゃないの?
大山伯耆、中半介(助?)についてどなたかご存知ですか?
>>27 教えてくれて感謝です。
それにしても触れこみの、「十万石でなければ〜」ってのは随分と高いなぁ
大和系 島左近清興
秀次系 舞(前野)兵庫忠康、大山伯耆
氏郷系 蒲生真令(横山喜内)、蒲生郷舎
こうしてみると、よく言われる
「関ヶ原で秀次旧臣の人間はみな逃げ出したが、蒲生旧臣の人間は勇ましく戦った」
という評価は首を傾げたくなるな。
所詮司馬遼太郎の捏造
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 05:12:33 ID:GfrZTp0+
大山伯耆
大場土佐
高野越中
あたりの連中の諱とか字ってわかっていないの?
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 14:15:24 ID:iK9tdywo
「少年少女日本の歴史」みたいな児童書で「おあむ物語」の作者が語り部と言う形で
関ヶ原について語る章があったがそこで
「家中の剛の者と謡われた島左近様も舞兵庫様も横山喜内様もみな討ち死にされてしもうた。」
というフレーズが出てきて彼等の存在を知った。
今思うと舞兵庫までフォローしてるのがすごいな。児童書なのに西軍視点で関ヶ原書いてるし。
ちなみにその巻の内容は関ヶ原から犬公方までだった。
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 14:38:58 ID:MKGkLEeh
おあむ物語か。
おあむの父は石田三成の家臣で300石の知行を受けた山田去暦。
関ヶ原当時16〜20歳で大垣城に篭城していた娘が老後語った話をまとめたものだね。
夫の死後出家したので「おあむ=御庵さま」とも。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 15:42:50 ID:TweLYWhS
島左近って強かったの?
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 21:58:08 ID:v0fvykr1
横山喜内と蒲生郷舎は別人ということですが、
関ヶ原での石田隊の第一段は島左近と横山喜内になるんですか?
横山喜内と蒲生郷舎が別人と云う証拠も無い。
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 10:22:08 ID:f80vV/AS
横山喜内(蒲生真令)は織田有楽の郎党に討たれたが
蒲生郷舎は関ヶ原の戦の後、蒲生家に帰参したと何かの本に書いてたような気がする。
二人とも蒲生家の旧臣で蒲生姓ももらっているので混同されたとか
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 16:54:23 ID:HDFN4sMf
あぼーん
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 14:59:49 ID:Atq8iTcN
磯野なんとか
>>46 wiki見ても分かる通り、
ほとんどの武将が討ち死にしてるんだよね・・・。
そもそも西軍総崩れの中で石田勢が
粘ったのはすごいことだよなぁ・・・。
後世に伝えられてる小さい男ってのが
間違ってる何よりの証明だと思うけどね。
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 23:05:23 ID:el2NQm3A
wiki見ると三成と秀次の関係が通説と180度違うな。
でも八人衆の内七人が三成に仕官し、六人までが三成家臣として死んだとところをみるとこっちもなかなか説得力あるな。
いくら戦国時代とはいえ、通説どおりだといわば主君の仇である三成のために命を捨てるとは思えない。
大河ドラマじゃ三成が秀次の讒言ってのが定番だが、アレは嘘だな。
殺生関白のエピソードも嘘臭いけどな・・・・
殺生関白の話は嘘っぽいよねぇ。
秀頼に豊臣を継がせたかった秀吉が
すでに関白を引き継ぎ、後継者と目されれていた秀次を殺すためにでっちあげたようにしか思えないよ
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 11:32:36 ID:+LPHz1m7
三成の配下って蒲生浪人多いよね
元々、蒲生家が近江の出だから
蒲生家減封時に故郷に帰農したのを大量に召抱えたんかね?
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 12:00:56 ID:aT8BsPFB
蒲生浪人を召抱えたあたり、氏郷毒殺も濡れ衣臭いな。
でも近江出身つっても南北で歴史的にも隔絶、同郷意識なんてあるかな?
>>49 むしろ秀次を弁護したらしいからな
しかし前野長康のような創業の功臣すら秀次を擁護したがために切腹させられたのに
同じ事をしても咎められなかった三成の寵臣ぶりは凄い
前野長康くらい創業期の功臣でかわいそうな人もいないよね
そこで舞兵庫ですな
>.>52
蒲生氏郷の家臣は下賜した蒲生姓が多いけど、必ずしも近江系だとは限らない。
つーか氏郷が急膨張した家臣団をとりあえず自分のカリスマでまとめて
後でゆっくりなじませようとして蒲生姓濫発したくらいだから、むしろ近江系は少なかったのでは?
>>55 確かに。
居城を家康に差し出しただけで、大河ドラマの主役になった奴もいるのに・・・
>>55 つ 御子田正治
つ 尾藤知宣
この二人なんて打ち首だぞ
>>62 しかも、最期はマムシに咬まれての狂い死にだしな。
島は筒井配下時代の軍功エピソードはないのかね?
64 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/26(火) 07:36:47 ID:GmOyQvKu
>>24何て読むの?
65 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/26(火) 09:37:58 ID:r4YD4mNO
66 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/26(火) 20:11:58 ID:GmOyQvKu
>>>65ありがとう。でも、アマゾンで検索してもでてこないです。どこでてにいれられるのでしょう?
67 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/27(水) 01:11:58 ID:8Caj42bW
>>66 作者は岳宏一郎だったと思うのでその線で調べられては、
「群雲、関ヶ原へ」だろう
講談社文庫にも入っていたと思うぞ。>群雲
70 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 19:07:43 ID:hgFOz/PX
今回の乱増刊
石田家臣団いっぱいでてたね
72 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/09(火) 18:43:04 ID:7WwZ+rhF
24さん。やっぱりどこも売ってないです。古本でも検索してみたけどダメですた(´ι _` )それと三成の家臣の中で小幡信世が主役の小説の「落武者日記」お持ちですか?
保守
75 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 20:58:13 ID:a0PXgYkn
保守
76 :
人間七七四年:2007/02/16(金) 22:56:45 ID:yh9e0jTE
島左近、蒲生頼房、舞兵庫
あぼーん
78 :
人間七七四年:2007/03/03(土) 13:52:24 ID:/GIngjfU
ホス
79 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 12:52:03 ID:LSff/yZF
wikiの「若江八人衆」の記述が変わってないか?
死傷率が下がっているような。
80 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 12:47:22 ID:8EZef3HE
調べてみると
横山喜内→蒲生頼郷
坂源兵衛→蒲生郷舎
って出てくる。
信長の野望現行版では喜内→郷舎だがKOEIの適当っぷりはすごいので
むしろ別人説を推奨するぜ
81 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 13:17:03 ID:6Fx/H1G9
82 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 10:19:42 ID:Fok5r9EG
舞兵庫=前野兵庫?
名字が誤って伝わったのは何でだろう??
83 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 19:19:51 ID:pN7FPsXH
舞兵庫=前野忠康
どこでどう間違えたんだ?
84 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 22:04:28 ID:8IMHnSvK
KOEIもそれくらいはわかってるけどゲームだからわかりやすいようにしてるだけでしょ
斎藤道三も頑なに一代説を貫いてるし
85 :
人間七七四年:2007/04/19(木) 23:43:29 ID:iH1J0tKB
>>82-83 前野忠康は、蜂須賀小六の弟分で豊臣最古参の大名の一人、前野長康の一族で、娘婿。
豊臣秀次の後見人であった長康が秀次処刑のあおりで切腹、改易させられると、
家中のものや今勤めている主君にあおりが行かないように前野から舞に名前を少し変えた、とか、
舞の名手だったからだとか、という逸話が伝わるが詳細は不明。
兵庫は官名。兵器を司る役所である兵庫寮の長。
もっとも忠康クラスの武将では朝廷/豊臣政権から正式にもらったものではなく、通称だろうが。
86 :
人間七七四年:2007/05/10(木) 09:59:19 ID:CBsMCIT0
関ヶ原後に生き残って、他家に仕官した人もいるんだね。
87 :
人間七七四年:2007/06/13(水) 21:49:44 ID:Tf8zCn49
88 :
人間七七四年:2007/08/05(日) 21:33:52 ID:aTVRh6O9
89 :
人間七七四年:2007/08/31(金) 15:20:03 ID:RyFg6hxt
保守
90 :
人間七七四年:2007/08/31(金) 17:02:53 ID:3umdY3NN
関ケ原の戦いぶりから、生き残り組はわりと早く誰かに召し抱えられたって
いうけど本当かな?
藤堂高虎がけっこう元石田家臣召し抱えてるイメージがある
91 :
人間七七四年:2007/08/31(金) 19:24:04 ID:VVLDL77g
>>90 それ聞いたことあるな。
なんで知ったのやら・・・
たしか三成がさらし者にあった時に
黒田は羽織。
藤堂は鉄砲の指揮編成を教えて貰ったな。
92 :
人間七七四年:2007/09/10(月) 23:45:27 ID:1MY/Jr45
群雲、関ヶ原へ 復刊したんだね
やっと読めるわー
93 :
人間七七四年:2007/09/15(土) 19:51:08 ID:1FYcmHJx
>>72に出てる「落武者日記」を読んだ
小幡信世がモデルなのはたしかだろうけど、最後自刃せずに終わったのは
ちょっと残念だ
短いながら金吾への憎しみがよく伝わってきたwんだが、実際も戦場の
石田家臣達はこんな感じだったのかね、金吾の裏切りに対して
94 :
人間七七四年:2007/09/20(木) 17:25:34 ID:RXPNOpND
「世の人は石田治部少輔三成のことを、あたかも武道不得手のように評判していたが、事実は異なる。
三成は士を愛し、武道名誉の者といえば、なにをおいても召抱えた為に関が原における石田家の士の働き、死に様は尋常ではなかった。」
(天元実記)
95 :
人間七七四年:2007/10/04(木) 15:55:06 ID:J6gqkrLx
>>94 三成家臣好きとしては嬉しい史料だな
それが信憑性あるなしにしても、当時の声が残ってるのがなんか嬉しい
>>93 俺も読みたくて古本屋駆けずり周ったんだんだがやっぱどこにもなかったな
羨ましい
96 :
人間七七四年:2007/10/04(木) 21:28:43 ID:mNHi+Zpf
>>95 「落武者日記」は山本周五郎の「花も刀も」って文庫に入ってる短編な。
アマゾンにあるし、ネット通販してる古書店でもけっこう在庫はあった。
近所の図書館には無いか?
やっと「群雲、関ヶ原へ」買った。文庫で1000円とか高いよw
97 :
人間七七四年:2007/10/04(木) 23:01:22 ID:J6gqkrLx
>>96 あっ、それで捜してもなかったのか!
明日本屋行ってくる・・・って
今日群雲買ったばかり・・・出費が・・・
98 :
人間七七四年:2007/10/13(土) 16:21:28 ID:Ffj/ew6A
石田一族の評価はどうだろう?
99 :
人間七七四年:2007/11/15(木) 05:22:37 ID:Gkf5keFg
>>98 一族揃って、そこそこ優秀だったと聞くが。特に兄の正澄とか。
100 :
人間七七四年:2007/11/15(木) 08:12:29 ID:g2+eDXkv
石田家臣も、他家の家臣と比べて教養が高かったと聞くが、あはり、これは三成の人選選びなのか?
101 :
人間七七四年:2007/11/15(木) 12:34:45 ID:E8rEjrv7
今では三成が悪人みたいに思われているのがすごく嫌だ
三成は家臣を大切にしていた様だし、三成が本当に嫌な奴なら島左近とかも来なかっただろうし
102 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 10:04:44 ID:7BiNV8Jf
>>101 三成悪人なんてどこの国の人?
徳川嫌いの司馬遼太郎以降、
三成のスタンダードは悪人ではなく、
部下と上司には愛され、同僚には憎まれる潔癖で狭量な官僚だよ。
これ以上のいい奴にしたらそれは過大評価。
持ち上げすぎ三成の魅力を損なう。
103 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 23:43:35 ID:AH3djo09
>>102 自分もそう思うけど、年代によっては酷いことになってる。
過去の大河のイメージ悪すぎたんじゃない?見たわけではないけど、親世代は相当嫌ってるよ
104 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 23:49:30 ID:xmsZa64n
それはこの板に出入りしているような人の意見。
一般的な三成のイメージとしては、家康に戦いを挑んで負けた小人物ってとこだろ。
105 :
人間七七四年:2007/11/17(土) 23:51:11 ID:xmsZa64n
106 :
人間七七四年:2007/11/19(月) 19:29:36 ID:ZBkVXCkQ
石田三成メインの大河やってほしいな
司馬遼太郎の関ヶ原とかを原作にしてさ
来年の大河いらないからそれと差し替えてくれ
107 :
人間七七四年:2007/11/19(月) 22:36:20 ID:qVVJAZz5
108 :
人間七七四年:2007/11/20(火) 17:56:16 ID:2WRICm52
三成も家康も基本悪党扱いだからな。
109 :
人間七七四年:2007/11/27(火) 02:06:37 ID:jo65Qa/4
>>107 今はいやだけど、3年後、5年後はもっと壊滅的な状況になっている悪寒。
NHKの歴史スタッフはどんどん劣化して行く。
実力ではなく性別と話題だけで選ばれる脚本家も、
歴史を全然知らないスイーツ(笑)脳女ばかり。
110 :
人間七七四年:2007/11/27(火) 15:48:20 ID:iSABd/t6
今ちょっとぐぐったら、舞兵庫の子孫が名古屋で焼き鳥屋をしてるってのが
出てきてええーー(´Д`;)!?となったわけだが
111 :
人間七七四年:2007/12/06(木) 20:21:53 ID:jD5/DhiI
>>107 秀吉の死から関ヶ原までをじっくり1年でやって欲しいな
112 :
人間七七四年:2007/12/07(金) 07:11:10 ID:9XwM8bgU
113 :
人間七七四年:2008/01/31(木) 02:32:56 ID:oH5Zwxko
明智家と同じぐらい家臣の結束は強そうだ。
114 :
人間七七四年:2008/03/17(月) 21:55:09 ID:HxjULDnE
林半助の父親は明智光秀の家臣で山崎で討死
したの?
115 :
人間七七四年:2008/04/09(水) 21:33:34 ID:xs19tTUr
116 :
人間七七四年:2008/04/09(水) 21:56:08 ID:p0pwAbKh
>>115 あれ?俺が戯れに書いた書物がなぜこんなところに?
117 :
人間七七四年:2008/04/10(木) 00:26:07 ID:sqtNBPSg
118 :
人間七七四年:2008/04/10(木) 20:15:47 ID:0w9Dek3Y
>>117 何かのニュースで、嶋左近と山田上野と四岡帯刀と書いてあった。
日向帯刀の間違いじゃないかと思い、画像を拡大してみたが判読出来なかった。
続報を待つしかないか。
119 :
人間七七四年:2008/04/12(土) 01:58:54 ID:xMv9WybD
俺も三成も家臣団も好きなんだが。家臣団に戦術家はいるが戦略家がいないよなー
三成の戦略は今ひとつだし あと嶋左近は過大評価だと思うのは俺だけか?
杭瀬川での実績のみだし本戦では黒田に狙撃されてるし。戦闘家レベルだと思うが
120 :
人間七七四年:2008/04/12(土) 02:01:44 ID:3QQ4dFIV
戦略も何も
あの状況で何を戦略しろと
121 :
人間七七四年:2008/04/12(土) 06:24:09 ID:c1FcGTqr
徳川家康は日本の恥、アホ、馬鹿、
122 :
人間七七四年:2008/04/13(日) 09:11:38 ID:6hjm2qFq
>>120 戦略=関が原突入前 立花等15000の本戦不参加・岐阜落城
特に岐阜落城で士気がかなり低下。鍋島・蜂須賀等の二股組が西軍見限る
宮部も迷ってたらしい
戦術=関が原本戦 言うように問題なし
ただ将が倒れるとその1軍が崩壊または士気が大幅に下がることを考える
と嶋左近の能力は将として疑問
123 :
人間七七四年:2008/04/13(日) 09:17:25 ID:6hjm2qFq
戦闘家=個人の武勇によりがんばる人 左近はこの部類に近いのでは
戦術家=隊を指揮して戦果をあげる
戦略家=全軍の作戦
政略家=戦争の全て・政治含む
124 :
人間七七四年:2008/04/15(火) 06:14:03 ID:l0E7IqPS
>>115 313 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2008/04/13(日) 14:05:51 ID:je+NX69L0
>>306 自己レス。二行目・「山田三野」を「山田上野」に訂正・・・しようと思いつつググっていたら、長浜市の公式文書を発見。
www.city.nagahama.shiga.jp/index/download/017864;000001.pdf (PDF注意!!)
以下、長浜市の広報資料を参照しつつ
>>1の画像に合わせて改変。あと、史料として重要なので宛名も記載する。
免相之弁ハ、嶋左近
山田上野・四岡帯刀
両三人ニ申付候、右之三
人之儀勿論誓詞之
上可為順路候間、任
其旨可相納候、三人
方へも右之趣申付候也
八月廿三日 三成(花押)
今井清右衛門尉殿 ←ものすごい奥の下に書かれている。広報資料参照。
125 :
人間七七四年:2008/06/25(水) 01:56:45 ID:5gOS89Hd
今井清右衛門尉殿 ←ものすごい奥の下に書かれている
126 :
人間七七四年:2008/08/30(土) 13:51:24 ID:UBj3Y/wL
127 :
人間七七四年:2008/09/02(火) 07:00:30 ID:BfxI7IwH
128 :
人間七七四年:2008/09/02(火) 07:24:59 ID:OCWTXw11
>>127 結構な所領を預かっているんだから、そりゃ内政もするだろうね。
この頃は農兵分離どころか政軍分離もできていない。
129 :
人間七七四年:2008/09/02(火) 11:05:07 ID:BfxI7IwH
130 :
人間七七四年:2009/01/07(水) 13:36:39 ID:ViiRzu0F
林半介
百姓であったが、三成に仕えて禄700石の使番に抜擢された
石田家生え抜き家臣。
関ヶ原役で三成が佐和山より出陣の際に城中において
軍兵を集めて書院にて饗礼をおこない、
「われ今かかる一大事を思い立ち、運を天命に任すといえども、
汝たちが武勇をひとえに頼む処なり。
その旨を存して軍忠あらば賞は功によるべし。その約束の印」
と酒盃を座の中央に出したときに、半介は遥か末席より進み出て
「いくさに臨みて一番は知らず、二番はかく申す半介としろし召されよ。」
と功名を誓い、その酒盃を取って飲み干した。
その場にいた者はみな「にくき振る舞いよ」と言い合ったが、
杭瀬川合戦で半介は一番首をとった。
両軍が引き分けたときには半介が白じなへの指物を指して殿軍していたが、
退きながらなおも本多忠勝軍に向かって、
ただ一騎輪をかくる有様で敵があるとも思わない体であった。
この様子を見ていた家康が
「あの『白じなへの差物』を差していた林半介とは、あっぱれ不敵な武者よ、
武功を志すものはかの者の草ずりでもいただくがよい。」
と感嘆した。
これも三成の太閤リスペクトなのかなw?
131 :
人間七七四年:2009/01/11(日) 10:06:24 ID:YNL4ymcc
良スレ発見。
三成スレは最近荒れまくりだから今後はこっちに来よう。
132 :
人間七七四年:2009/01/11(日) 11:06:42 ID:VsQDIVAl
結局、蒲生郷舎って本当に三成の家臣にいたの?
133 :
人間七七四年:2009/01/12(月) 19:07:37 ID:SpRFO8Ya
ちゃんと居たけど蒲生郷舎と横山喜内は別人だと最近は言われてるな。
郷舎は関ヶ原後も生きているので、
関ヶ原で有楽斎と戦って死んだ石田家家老は「横山喜内=蒲生頼郷」が新説。
134 :
人間七七四年:2009/03/12(木) 20:05:52 ID:7jsqTREE
石田家が潰れた後は、皆々どうしたの?
135 :
人間七七四年:2009/03/24(火) 10:38:07 ID:X11rKVB2
>>134 生き残った人間の大半が他家に仕えた。
かなり優遇されたらしいと資料にある。
136 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 01:06:08 ID:8fuI/5Ux
若江八人衆って「じゃっこう」なの?「わかえ」なの?
wikipediaみると「わかえ」だけど垢ブロックされるような奴が「わかえ」変更してるし
信じていいものか・・・
137 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 01:51:12 ID:4imScPmn
三好笑岩の精兵部隊だったから「わかえ」じゃないの?
138 :
人間七七四年:2009/05/04(月) 02:08:34 ID:+hLfnim5
>>130 そういう良い話しはちょっといい話しの方にも書いてくれたらいいのに
139 :
人間七七四年:2009/05/05(火) 02:31:38 ID:kuz/uQTe
コピペで書き込めばいい
140 :
人間七七四年:2009/05/06(水) 09:54:56 ID:JdDDUOGI
ちょっといい話スレとか厨くさくて見る気がしない
141 :
人間七七四年:2009/05/06(水) 15:37:41 ID:5nL6OFs3
142 :
人間七七四年:2009/05/26(火) 00:13:26 ID:C2UsJEUa
175 名前:人間七七四年 投稿日:2008/11/03(月) 00:57:42 ID:RKVg9yMB
五奉行増田長盛の子増田盛次を討ちとったのは
藤堂家に仕官していた旧石田三成家臣磯野右近の子供
176 名前:人間七七四年 投稿日:2008/11/03(月) 00:59:47 ID:RKVg9yMB
しかもその磯野行尚(盛次討ちとった人)は
関ヶ原で三成が落ちるときに塩野、渡辺らとともに
最後までつき従い三成が解散命令出すまでずっと一緒にいた人物
185 名前:人間七七四年 投稿日:2009/04/21(火) 21:28:28 ID:nk+C0nmt
>>176 しかもこの人磯野員昌の孫なんだな
143 :
人間七七四年:2009/07/12(日) 10:31:19 ID:+mjBRscm
age
144 :
人間七七四年:2009/09/12(土) 00:29:11 ID:8CyKEUbI
先週から大河ドラマに左近がでてるけどまた三成と口をきいてない件
145 :
人間七七四年:2009/12/24(木) 07:24:49 ID:T/LF5JvS
146 :
人間七七四年:2010/01/11(月) 03:59:19 ID:LqDyBosm
>>145 福島家、黒田家、藤堂家とか。
経済官僚の不足で幕府に召し出された奴もいたような。
誰の言葉だったか忘れたけど「さすがは石田の家に召し使われるほどなり」、という言葉も残っていて、石田家臣は武士の模範みたいな言われ方もされてる。
147 :
人間七七四年:2010/03/24(水) 17:13:18 ID:NDk7QZm2
氏家作兵衛
148 :
人間七七四年:2010/05/05(水) 21:20:48 ID:zXXh7mA6
この時代の男は女の乳首を吸ってたのかな?
149 :
人間七七四年:2010/05/15(土) 09:19:34 ID:rzKnIJqI
渡辺って人と島左近はキャラがかぶるな…
150 :
人間七七四年:2010/09/09(木) 00:41:08 ID:CQgEGVAF
舞兵庫って何した人
151 :
人間七七四年:2010/09/14(火) 10:58:53 ID:DI3J5HB0
石田家臣団三家老の一人。
152 :
人間七七四年:2010/09/30(木) 02:04:24 ID:n+3T+gE+
群雲関ヶ原へ読んだ
家臣団格好良すぎだろ 舞とか島とか蒲生はともかく大山はゲームで見たことないわ
153 :
人間七七四年:2010/09/30(木) 07:37:30 ID:IYrToemU
九州攻めの際に三成の家臣として相撲した左近の元家臣なのに
何故か若江八人衆に名を連ねている謎な人か
154 :
人間七七四年:2010/10/09(土) 20:58:09 ID:FZHsdBzI
155 :
人間七七四年:2010/10/28(木) 07:41:51 ID:YzFyQql1
蒲生シリーズは石田家限定ですらプロレベルの鑑定眼が必要
元は横山姓で横山喜内と名乗っていた蒲生頼郷
元は坂源兵衛こと蒲生郷舎
元は赤坂隼人佐こと蒲生郷安
元は森頼元で横山喜内こと蒲生大膳の娘婿の蒲生大膳
元は美濃3人衆の1人安藤守就の弟安藤将監こと蒲生将監
元は上野田姓であった蒲生大炊介
156 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 03:48:38 ID:GOedl1bY
石田家家臣て結局何人くらい?
吉継は110人みたいだけど。
157 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 08:03:53 ID:LDEkC3yw
石田家とひと括りにすると正継の家臣も正澄の家臣も入ってくるからさあ大変
158 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 08:20:17 ID:GOedl1bY
ああ、そうか。
では三成限定で。
159 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 10:47:13 ID:6Lz3gpON
>吉継は110人みたいだけど。
これって何に載ってた?
160 :
人間七七四年:2010/10/29(金) 14:20:54 ID:GOedl1bY
>>159 敦賀博物館に行った時に、そういった資料を見せてもらった。
友人はコピーを取ってもらっていた。
実際には110人以上いるのかもしれないが、名前が分かっているのは今のところ110人のようだ。
161 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 00:35:02 ID:I9UFHAE0
>>160 ありがとう
コピーとってもらった、って事は売ってる冊子資料じゃないのかな?
110人も名前解ってるんかー
162 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 03:07:17 ID:4emouvZH
地元で研究している人の冊子だった。販売はしてなくて博物館への寄贈品だとか。
ご本人がちょうどいらしてコピーおKといってくれた。
自分は別に要らないと思ったけど(石田家家臣の事で頭が一杯だった)。
今になって惜しいことした?という気になってきた。
パラッと見せてもらった感じ。下川原なんとかとかそういったのが載っていたな。
163 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 03:10:06 ID:4emouvZH
なので、博物館の受付の方に聞けば見せてくれるかもしれん。
コピーはご本人がいないと無理かも。
来週、また敦賀博物館に行くんでその時に見てくるよ。
しかし誰か、石田家家臣研究している人居ないかな。
冊子出そうよ冊子。
164 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 05:39:16 ID:VmHl5DBD
165 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 07:06:46 ID:4emouvZH
これは知らなかった、すごい!
>>164 ありがとうございます。
166 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 12:49:14 ID:I9UFHAE0
>>162-163 おお、くわしくありがとう。寄贈品かー。
博物館は自分も何度かいったがそういうのは気づかなかったよ。
スレ違いな所にくいついてスマンかった。
もしよかったら冊子名や著者名わかったら、大谷スレの方に書いて頂けるとありがたいです。
167 :
人間七七四年:2010/10/30(土) 15:03:07 ID:4emouvZH
了解しました。
11/7以降になると思うけど、冊子の詳細判明次第、大谷スレに書きます
168 :
人間七七四年:2011/02/05(土) 08:32:59 ID:JwPwSN/O
結束の強いイメージ
169 :
人間七七四年:2011/10/07(金) 10:53:27.19 ID:LgeKScnE
そんな大雑把な
170 :
人間七七四年:2011/10/12(水) 00:08:50.76 ID:GQNXv9Ah
先月長浜城歴史博物館に行ったら
二年前に発見された、例の
嶋左近の名が書かれた書状が展示されてて鼻血出そうになった
171 :
人間七七四年:2011/10/15(土) 16:20:30.34 ID:wlnJ0n45
戦国武将の手紙に載ってる家臣3人の名前が挙がってるやつ?
172 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 17:36:02.08 ID:ifu8Bw8H
遅レススマソ。 ぞう、免相がなんちゃらで3人を行かすねっ、てやつ
173 :
人間七七四年:2011/10/24(月) 21:32:13.28 ID:ifu8Bw8H
追記…期間限定展示だたと思
174 :
人間七七四年:2011/10/26(水) 16:47:34.48 ID:IGqmjGKN
>173
どうもありがとう。展示サイクル1か月って短いなあ
また展示するだろうから気長に待ちますわ
石田スレがあの調子だからこっちに書くけど、福岡市博物館も三成書状が常設で2、3点展示されてたり
秀吉の名護屋城の陣取り指示書きが見られたりで結構楽しかった
175 :
人間七七四年:2011/10/31(月) 00:47:41.34 ID:YyHvZblg
福岡、黒田かw
常設はありがたい。行長領地行く途中、立ち寄りたいな。
因みに、三成文書がどこの博物館にあるとか、展示されてるとか、結構調べにくいもんだぬ…
スレチ続けたけど、まぁここ限界スレだから良いよね
176 :
人間七七四年:2012/02/02(木) 00:37:34.98 ID:3ML1Li8l
ごめん今更だけど恥ずかしいから訂正させて
>>174は高麗渡海陣立書です
知らない人ばかり
178 :
人間七七四年:2012/03/14(水) 11:53:32.38 ID:7GBhEqDU
>>155 坂源次郎→蒲生郷成ってのもいるが、蒲生郷舎と縁者なんですかね?
179 :
人間七七四年:2012/03/14(水) 21:09:37.95 ID:gc3cKCcI
>>178 wikipediaでは郷舎の父、又は兄となってるね。
180 :
人間七七四年:2012/07/30(月) 03:16:13.23 ID:8YTM100z
>>174 三成は最初結構いい位置だったのに
出兵を中止するよう諫言しまくったせいで
端っこに追いやられちゃったって話はマジ?>陣取り
181 :
人間七七四年:2012/07/31(火) 03:38:18.37 ID:3upy2+rX
>>53 そもそも蒲生氏郷の死因は胃癌であることが確実視されてるしね。
182 :
人間七七四年:2012/08/01(水) 05:07:35.49 ID:1H29ZaN/
現実の死因よりも、それを暗殺だと多くの人間が信じたことのほうが重要
183 :
人間七七四年:2012/08/22(水) 17:23:07.42 ID:bUz3A3gY
秀次事件で秀次の妻子を動物みたいに殺したのは事実だしな。
184 :
人間七七四年:2012/08/25(土) 12:23:13.17 ID:3Z7LTlz+
>>183 そうなの?
じゃあ、秀次は仕方無いけど
他の人達には何も罰を与えないで下さいよー
とか言ったって話は創作?
185 :
人間七七四年:2012/08/25(土) 13:02:25.28 ID:M8PWV1s6
そんな記録は一切ない。創作。
186 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 19:34:40.38 ID:J18DFBdy
>>183にある三成が主導したってのも後世の創作の可能性大だがな。
187 :
人間七七四年:2012/08/31(金) 20:06:49.44 ID:VY1J2o8S
秀次事件に関しては三成は「何やってたかよく解らんけど一部被害者筋からは恨まれてたフシがある」
程度だな、現在言えるのは。
188 :
人間七七四年:2012/09/05(水) 22:55:04.16 ID:Ewg1aZ5M
秀次事件の被害者が大体関ヶ原で東軍についたのを三成主犯説の根拠にする人は
彼らの多くはあの時家康に救われてるということを忘れてると思う。
まあ、事件の後佐和山貰ってるからあれこれ邪推されることは当時からあっただろうがね。
189 :
人間七七四年:2012/10/03(水) 21:35:35.31 ID:SKFwdXhp
そもそも三成って秀次事件起こるかなり直前まで佐竹さんとこで検地してなかった?
利休事件の時も検地だの何だのであっちこっち出張してる最中だったよな。
190 :
人間七七四年:2012/10/10(水) 22:51:32.69 ID:hAei6L9g
秀次はようわからんが、少なくとも利休と対立した形跡はない。
むしろ事件が起こる少し前に利休が土地に関する件で
三成に取り計らってもらったことに関する礼状があるし
利休と正澄や宗安と三成の関係から考えても、両者の関係が険悪だったとは思えない。
多分、利休七哲筆頭の三歳様と三成が仲悪かったからそういうイメージが出来たんだと思う。
191 :
人間七七四年:2012/11/21(水) 02:22:20.85 ID:hvSbJfUS
左近が仕えたのも文禄年間以降とすると
有名な家臣は意外と仕えてた期間短いんだなあ。
192 :
人間七七四年:2012/11/21(水) 09:58:42.79 ID:LGvazCHD
>>191 急に身代が大きくなって、慌てて急募したんだろうな。
太閤が百万石与えてたらどうなってたことやら?
193 :
人間七七四年:2012/11/21(水) 18:34:59.93 ID:hvSbJfUS
逆に言えば関ヶ原前のゴタゴタでよく出奔者が出なかったなw
194 :
人間七七四年:2012/11/21(水) 20:51:02.27 ID:6pAeQzF3
その辺は漢気ある的な逸話いくつかあるしな
195 :
人間七七四年:2012/11/22(木) 00:11:08.77 ID:MSEgHv1I
関ヶ原で実はかなり早く壊滅したっての知った時はショックだったな。
やっぱり最後まで奮戦したってのが真実であって欲しかった。
196 :
人間七七四年:2012/11/22(木) 21:27:40.58 ID:1knoCbfJ
>>189 その時期は母親の法要だかで数日だけ検地から京に戻って
また検地に出向いてたとか何かで読んだ記憶
197 :
人間七七四年:2012/11/23(金) 03:28:14.80 ID:4zixlAjn
>>195 あくまでもそういう説もあるよって話だからね。
早期決着説の根拠になってるのは島津家臣の記録だけど
島津隊も割とゴタゴタしてたから覚書きだと結構曖昧になってたり。
一応、石田隊は通説でも左近が負傷して一度崩壊しかけるんだけど
その時の事を指してる可能性もあるし(通説だとその後持ち直して押し返した事になってる)
逆に東軍の記録だと日暮れまで戦いが続いたってのもあるし真相はまだわからんよ。
198 :
人間七七四年:2012/12/01(土) 02:37:10.93 ID:1V0Gt0FB
>>189 そもそも秀次がいなくなる事は一見三成にメリットが
あるように見えてまるでメリットが無いからね。
事実、秀次事件以降中央集権化どころかかえって豊臣政権は不安定なものになった。
そもそも秀次の側近の官僚達はみんな三成より1〜2世代年上なわけで
そういう面で見ても「秀次が跡を継いだら居場所が無くなる事を危惧して」っていうのも考えにくいのよ。
199 :
人間七七四年:2012/12/01(土) 13:58:29.91 ID:967gJXn3
>>198 居場所なくなるに決まってるだろ。秀次は既に家中を形成しているんだから。
今秀次の側近官僚が三成より世代が上でも、その後を受け継ぐのは三成ではなく秀次系の若手官僚になる。
200 :
人間七七四年:2012/12/01(土) 16:39:18.71 ID:1V0Gt0FB
秀次系の若手官僚って例えば誰?
201 :
博多学才:2014/02/17(月) 04:32:03.06 ID:swMgmPyr
大一大万大吉
今年の一発目!?レス…ということで、
[スレタイの原点に戻って]
島左近勝猛(清興)、蒲生備中真令(頼郷)、舞兵庫(前野忠康)、
高野越中、樫原彦右衛門、大場土佐、北川平左衛門、
蒲生郷舎、大山伯耆、河瀬左馬助、杉江勘兵衛、
森九兵衛、大橋掃部、林半介、横山監物、松田重太夫、
渡辺勘兵衛、曾根高光、小幡信世、荻野鹿之助、水野庄次郎…
思いつくままにざっと名前を挙げるだけでも、やはり
石田三成家臣団は他家と比べても(一騎当千級の)粒揃いだった
と言えるのではないか。
202 :
人間七七四年:2014/02/19(水) 21:13:52.75 ID:yMsMH2q6
秀次には実務をやる奉行がいないんだから、
結局、秀次政権でも奉行らはそのまま。
そうしないと取次、指南、奏者といった仕事に支障が出る。
秀吉死後、大坂城を利家が主導していても、
利家死後に家康が北政所を追い出し西の丸占拠しても奉行は運営に必要不可欠だったし、
浅野と三成が追放されたら、
奉行の業務に支障が生まれ、
大谷と小西を家康は奉行補填に追加してるくらい。
奉行は大坂の実権者のために働いているだけだから、
輝元が大坂を占拠したら輝元のために働いている。
奉行には巨大な武力がないので実力と才覚はあっても実権者の力の裏付けが無いと困る。
実権者と奉行は互いに必要不可欠な存在。
203 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 00:46:26.17 ID:+JvkXSg2
家康「豊臣奉行なんていなくても政権運営できたけど?」
204 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 08:54:03.22 ID:kOeI/fzR
家康は中央集権による全国支配を諦めて幕藩体制という封権統治で妥協したからな。
いまで言えば地方分権ってやつだな
205 :
人間七七四年:2014/02/20(木) 18:32:38.15 ID:2VRSYr1K
江戸幕府はホントに運がいい。
ペリー来航まで外国からの侵略がなかったからね。
まあ秀吉が朝鮮出兵で日本侮りがたし!と宣教師が報告してたことが最大の理由だが。
しかし秀吉の中央集権全国支配体制なら外国からの侵略なんて怖くもないどころか、敵地に報復侵攻できるし、
南朝鮮をはじめ、沿岸地域に拠点を設けて大航海時代→重商主義→産業革命が始まってただろう。
それだけの蓄積が日本にはあった。
しかし家康は大名たちに媚びた土下座っぷりで天下を盗んでバカ幕府を作ったので幕府には力がなかったからペリー来たら呆気なく内乱へ向けて混迷。
関が原土下座外交の結果、
豊臣恩顧大名が20カ国で日本の1/3を支配。
伊達や毛利や上杉や毛利や佐竹など旧族外様大名達が1/3支配。
かろうじて徳川系大名は20カ国1/3支配したものの、
東海道など小国が多く面積レベルはかなり下回る劣弱な基盤しか徳川幕府にはない。
豊臣政権は立ち入り検地、太閤蔵入地設定、
与力大名による監視、
領地宛行において有力家臣の知行地や石高を指定し、
豊臣政権と有力家臣を結びつけ支配、
奉行による指南による内政干渉をしたり、
一国一円領有支配をできるだけ許さないなど、
秀吉は強力な全国支配体制を構築した。
しかし家康は立ち入り検地も蔵入地も大名家臣狙いの加増も廃止、
越後の溝口と村上の例外以外は与力大名廃止。
中小大名を移動させての一国一円支配の国持大名の増加による大名領有権の自立性の強化を背景に、
藩による分権自治を容認せざるを得なかったのが家康。
これは全て関が原で味方につけようと武断派に媚びた結果であり、
関が原が武断派によって勝利し、
西軍支持の北政所や淀とその意向で動いた女性たちも家康は処罰できず、
結果、武断派の奉ずる豊臣による論功行賞が行われ、
強欲武断派の要求を飲むハメになったからである。
幕府体制と呼ばずに幕藩体制と呼ばれる藩王による分割統治という弱体国を作ったのが家康。
206 :
人間七七四年:2014/03/29(土) 09:28:51.23 ID:1q+5DZlb
ここ定期的に過疎るけど、なんでスレタイに島左近(勝猛)をつけなかったの?
(横山喜内よりは賑わったでしょ)
207 :
人間七七四年:
w