1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 18:54:24 ID:KWNj/8k4
当日の兵力。
@関ヶ原全域から大垣城まで含める全軍
東軍約10万1千 西軍約8万7千
A大垣城周辺(守備の西軍、攻めていた東軍)除く
東軍約8万9千 西軍約8万2千
B南宮山の西軍及びその押えの為の東軍を除く
東軍約7万5千 西軍約5万6千
C当初参戦しなかった部隊(東軍家康本隊、西軍小早川ら松尾山周辺の部隊)除く
東軍約4万5千 西軍約3万6千
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 18:57:34 ID:uzs4W7a6
訂正
×【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ6【東軍】
○【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ7【東軍】
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 19:07:34 ID:8I39q/Um
乙です
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 21:36:43 ID:HOqz1wlt
筒井定次って本戦で戦ったのになんで加増されてないんだろう。
あぼーん
>1乙
戦国板にうつったのかー
>6
カズ乙
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 00:44:55 ID:neRFsVDe
小早川家は秀秋の若死(おそらく暗殺)によって解散となるが、小早川浪人には再就職の道が無かった。
江戸時代の諸大名には、ああおまえは小早川浪人か、と言って採用しなかったと言われているくらいに評判が悪かった。
小早川の裏切り行為は当時からもマナー違反と見られていたのであろう。
>>8 裏切りなんて戦国時代ではよくあることなんだが、
小早川の場合は14日には松尾山の西軍を追い散らして実質東軍として行動していうるのに、
合戦当日の翌15日には迷って西軍を攻めるのを何時間も躊躇して、
日和見をしたと思われた(というか実際日和見以外の何物でもない)のが大きい。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 15:35:08 ID:44fbUhZF
>2
東軍説とのバランスの上で西軍説も同時掲載
51 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2006/06/06(火) 06:25:55
>>33 関ヶ原に関する古記録を見てみると、様々なエピソードも含めて
西軍が多かったとするものばかりで、東軍が多かったとする史料はない。
以下のように兵力の記録がないわけではないが、
これらも内訳が細かく記載されているわけではない。
1,東軍5万 vs 西軍8万 (イエズス会年報)
2,東軍7万5千 vs 西軍10万8千(内府公御陣場覚書)
3,東軍7万5千 vs 西軍12万8千(関原軍記大成、改正三河後風土記など)
でも「勝った方は味方はできるだけ少なく、敵方はできるだけ多く申告するだろう」ってことで、
「東軍7万5千・西軍8万」という線が一応妥当なんじゃないかと思われている。
その一方で、現在流布している関ヶ原の各大名の「兵力」は
参謀本部が100石=3人役で「仮に」算出したものがベースになっている。
(家康・忠勝・義弘・秀元を除く)
この計算だと西軍は8万になるが東軍は10万を越えてしまうので
ハッキリいって変なのだが、かといって確定的な史料があるわけでもないので、
これ以上突っ込んで考察する人は今までいなかったんだな。
>>11 兵力の算出方法は陸軍参謀本部歴史編纂部が、島津義弘が会津征伐で課せられた
100石につき3人役がベースね
毛利秀元のは、輝元の名代としてなので、毛利の兵力そのままという形
宇喜多秀家なんかは、本来なら宇喜多詮家や戸川・岡・花房など帰参組の先発隊の兵力を除くのだから
もっと兵力が少ないはずだし、小早川秀秋も書状で8000とあったりもする
(´・ω・)戦国板に移ったのですね。いまさらながらスレ立て乙です…
>>12 参謀本部は小早川の兵力を間違えて計算したらしいからね。
本来100石あたり3人で計算すると1万そこそこで、
よく見かける1万5千という数字にはならない。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 06:47:13 ID:zb2GuJkF
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 12:35:00 ID:PEhe9Q3n
>>14 なるほど、ならば上杉は小田原城を10万で包囲したわけだから、越後の石高は1000石ということが確定。やっぱ上杉最強。
>>16 小田原城を包囲したのは、上杉軍+北条を除く関東の大名
10万の内2万は戦いに参加しない裏方さんだから、
相模と武蔵の南半分を除けば200万石ほど、というのはほぼ正しい数字。
>>16 その10万は関東一円の兵力を糾合したもの。
ていうか、1000石でいいの?
仮に1000万石と書こうとしたとしても計算ではそんな数字にもならないし・・・
大丈夫?
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 19:14:31 ID:eEoVUw2W
関ヶ原の合戦は家康にとって不本意な戦いであったという。
家康は、あくまで自家のみの力でこの戦いに臨もうとしたんだけど、徳川軍の主力を率いていた秀忠がご存じのように、遅参したために、福島・黒田ら豊臣系大名に頼らざるを得なくなり、結果、彼らを優遇せざるを得なくなったと。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 20:33:32 ID:Wr2qS8cW
1000石wwww
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 21:04:59 ID:w/zhoCn7
いか天ぷら夏の陣
>>17 厳密に伊豆・相模と武蔵の南半分くらいを除いた関東の石高は、
約260万石を超え、越後と合わされば300万石にも届く、
だから、10万という数字は現実にありえるものなんだよね。
まあ、それだけの地域から満遍なく100石あたり3人をやや上回る割合で、
兵を集めるのはかなり難しいと思うから、多少の誇張はあると思うが。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 16:26:23 ID:PhU0GxIk
100石=3人は目安にすぎない。実情は全く分からない。
なんかの資料でみたけど 西軍10万 東軍7万とか書いてあった
素人考えでスマソだが、西国の方が商工業が発達してたから、石高よりも人口が多い
てことないかなあ。
だから動員可能人数も多い。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 19:43:57 ID:DLpK2eEl
>>25 単純に米が取れると考えがちだが商工を含めた「経済力の目安」
を石高と表現していたようだ。つまりGDPみたいなものかな。
あと未開発の金山とかのある土地は「潜在的石高」はさらにあっただろう。
ただ西国のほうが人口そのものが多かったので
全国同一の尺度というものが簡単に適応できるものでもないと思う。
太閤検地はそういう意味では画期的事業だったがそれでも穴は
いっぱいあっただろう。
>>8 どこの小説?
小早川が改易されてから細川に仕えた志賀親次。加藤を出奔した後わざわざ小早川に仕えた塙団右衛門がいるぞ
>>26 とすると、古記録の西軍が多かったとする説は桶?
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 18:30:12 ID:l1jSanr1
藤堂高虎は露骨に家康べったりだった為、清正にも嫌われていたそうです。
藤堂は乗り換え上手
31 :
鳥屋 ◆Mzllk81HNE :2006/07/24(月) 23:01:03 ID:utuoLZI4
(´・ω・)渡り奉公にも「その道」ってのがあるだろうな。
高虎の乗り換え癖は、ある意味割り切っており、「爽やかさ」すら感じられる。
清正みたいなのが、一番タチが悪い。おまえは結局、高虎とかわらねーよW
口で勇ましい事をいって行動が伴わないのが⇒正則
沈黙を決め、何か腹に秘めたような素振りみせて内実、保身で頭がいっぱいで、そのままくたばったのが⇒清正
漏れも西軍厨だが、高虎は嫌いじゃないな。
秀長、家康と全身全霊をかけて奉公している、だから二人の信頼を得られたんだろうな。
>>31 日記はチラシの裏にでも書いてくれよ。
まるで小学生が歴史小説読んだ後の感想文じゃねーか。
まあ待ってよ。
人間、そんな美しい生きものじゃない。
加藤、福島みたいな心の葛藤は現実社会ではよくあること。
彼らは『いかにして周囲から批判されずに、秀頼を見限るか』
この一点しか頭になかった。
しかしそれを悪とは思わない。彼らにも生活がある。自分も可愛いし、家族、家臣も可愛い。
だが、それと引き替えに後世の人々の評価は下がるのは仕方ない。
本人たちがあの世で『あの時はそうするしかなかったんだ!!』と強弁しても、今の平和の世に生まれた私たちは知ったこっちゃございません。
『腰抜けが!せいぜい加藤・福島連合軍で江戸奇襲作戦でもやれなかったのか!』
などと無責任なこと言われても仕方ないのです。
つまり彼らは後世の名声より現世の安泰を選択したのです。
もっとも加藤・福島家とも安泰は長く続かなかったですがね。
だから『現世のつかの間の安泰を得たいがため、主君を裏切り、後世の名を汚した糞大名』とののしられても、彼らは文句を言えません。
だいたい秀秋、秀家、福島、加藤、秀頼と潰されていったメンバーをみると、幕府の方針は最初から決まっていたんじゃないの?
『豊臣家の連なる大名(兵力の動員できる者)は皆潰せ』ってさ?
うん。
だから糞コテは小学生の感想文レベルの妄想を垂れ流すなよ。
>彼らは『いかにして周囲から批判されずに、秀頼を見限るか』
>この一点しか頭になかった。
いきなり妄想全開のトンデモ説前提で話を進めてる時点でキモ。
彼らは『いかにして周囲から批判されずに、秀頼を見限るか』 この一点しか頭になかった。
↑
ああ、ごめんね。おっしゃるとおり、これは私見です。事実だというわけではありません。彼らの行為、行動から類推して
「おそらく、こんな気持ちだったんじゃないか?」と思っただけです。
だから、反論は当然お受けいたします。(^^;)
鳥屋のレスって自分の妄想が正しいって前提で決め付けレスしかしてないから
見てて不愉快
明らかに荒らしで立てた糞スレにも書き込んでるのに
自分はまともだっていうあたりがガキだよな
前のコテも人としてどうかと思うし
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 21:03:14 ID:9ocrwsG1
尾宅間守のこと?たしかにこのコテ見たら大概
の人が不快になるわな、非常識のそしりは免れ
ないと思う。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 23:00:26 ID:Rvi/x/kt
>>38-40 おい!おまえら!ここはコテ(良)たたきの場所じゃないぞい!!!!!!11
スレタイ以外のことを語るなら他所でやれよ!この肛門のまわりに付着したトイレットペーパー
の切れ端の同然のカスどもよWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
ええい!!!たちませい!!!!たちませい!!!!!!!!!!!!!!!11111111111111111111
111111111111111111111111111111111111111111111111
111111111111111111111111111111111111111111
111111111111111111111111111111111111111111
関が原について語らないキモオタの股に出来たインキンに群がる蛆虫のウンコどもおおおおおおおおおおおおおおおお
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!11111111111111111111111111111
11111111111111111111WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWww
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWww
>>41 (´・ω・)もちつけ。人間、感情的になったら負けじゃぞ。
叩かれると名無しで荒らすのか
変わらないなお前は
暇な奴だなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
おう開き直ったかクズ
>>47 ま、まってください!
謝罪します!m(__)mペコリ
ほんとすいませんでした!このスレは良スレであることは重々承知でございます!
ヤギ被告ではございませんが、『自分の中の悪魔がやった』所業としか説明がつきません!
ほんとマジなんすよ〜!
信じてください!(T_T)/~タスケテ…
以後、このような事が起きないよう全力で邁進する所存!!!!!
ですから今回のことはひらにご容赦を!!
みんなの事、尊敬してます!名誉に思います!誇りに思います!最高です!ですから今回の事はなかった事にしてください!
よろしくお願いいたしますです!はい!!m(__)mペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリペコリ
死ねよ
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 09:50:13 ID:7xw4baxk
クソコテ野郎
>>49-50 窮鼠、猫を噛むってことがある。これ以上彼を刺激しないほうがいいだろう。
それともこのスレをあんたら潰す気ですか?
鳥屋氏も謝罪してることだし、あまりしつこく叩くのは百害あって一利なしです。
とにかく鳥屋叩きは即刻やめるんだ。(^-^)イイネ?
>窮鼠、猫を噛むってことがある。
今度は荒らし予告かよ。
余計なこと言わないで黙ってりゃいいんよ。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 12:39:29 ID:rGt9onkZ
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:26:25 ID:Sq+ACwym
>>54 そんなに彼を責めるべきではない。
低能無知はおまえだろ?誰も鳥屋様の深い御心を尻もしないで、ひどいぞおまえ。
おまえは一度、ロボトミー手術を受けて出直すことを勧める、てか受けてこい糞がっ。
然るのち鳥屋様に謝罪しなさい(^-^)ワカッタカ、ダホガ。
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:28:37 ID:km1H2h7P
10万という数字は、『大軍だった』の比喩ではないだろうか?
大坂の陣でも『関東百万に漢はおらんか!』と
屑コテは放置しようや、自演で擁護までする糞に構うことはない
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:35:32 ID:s3766D/L
関が原の戦いって本当に起きたのかな?
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:37:02 ID:GNfTDQon
新説ktkr
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 20:59:15 ID:Sq+ACwym
>>57 自演で擁護、って証拠あんのかボゲェェェェェ!!!!!!!!!!!!!
ただのおまえの被害妄想じゃねえかよ!!どーなんだ糞バカスケぇぇぇ!!!!
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
w連発とかまさに鳥尾屋じゃないか。
自演じゃないならそんなにムキになる訳ない
・・・・って、鳥屋尾か。紛らわしい。
>>60 は?他人の為になんでそこまでエキサイトしてんだ?
また自演か
他人じゃねえのまるわかりだぞ
(´・ω・)なにやらマズイふいんきになってますね。
どなたか私の文体で、あたかも私が潜伏カキコしてるかの如く計略を張り巡らしているようですな。
賢明なあなた方が騙されるとは思えないが、くれぐれもご注意ください。
いまこそ我々は心を一つにする時。
大坂の陣で疑心暗鬼にかかった豊臣方の二の舞にならないようこの鳥屋、心より皆様にお願い申し上げる。
私を叩いている敵は複数いるように感じますが、実は独りでしょう。
皆さん擬兵の計に引っ掛かってはなりません。
とりあえず、この糞な流れをなんとかせねばと思います。
わたしが話題を振りましょう。
『鳥居元忠は家康のために命をはった。しかし家康はその事に感謝するわけでもなく、屁とも思っていなかった。』
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/31(月) 09:25:10 ID:+WpLpFfn
関ヶ原の戦いでの一番の功労者は京極高次だと思います
京極高次の奮戦が無ければ家康は確実にあっさりと負けていたとしか思えません
もう糞コテはID表示されない三戦板から出てくるなよ。
では、なぜ家康は彼に厚く報いなかったのでしょうか?
>>68 自演乙。
すぎた過去に捕われ、成長のない方はこのスレ、いやこの板から退去すべき。
>>71 自演乙の意味がわかんねえし、他の人が言うならともかく荒れた原因になった張本人が
過ぎた過去云々よく言えるな。本当に面の皮が厚い奴だ。お前がこのスレ、いやこの板から退去すべきだよ。
そういやこいつ三戦板の前田利家スレ荒らしてたな。名無し自演擁護しながら。
荒らした後コテで話題振って名無しで回答とかもしてたし。
自説を否定されるたびに荒らすなよ。
京極は秀吉恩顧だし、かならずしも東軍に対する旗色が鮮明ではなかったからな
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/31(月) 10:52:58 ID:+WpLpFfn
猛者で有名な立花宗茂や筑紫広門らの15000人(『大津籠城合戦記』によると37000人)の兵を大津城に釘付けにし、
京極高次はたった3000人以下で戦い抜いた。
野戦でめっぽう強い立花ら猛者15000人(37000人)が関が原の合戦に間に合っていたら東西のパワーバランスが大きく変わって、
東軍の劣勢は更に顕著で家康に寝返る武将は出ないと思うね。
(´・ω・)皆さん、荒らしは放置の方向で…
京極の件は武運のなさよな…
過程においてどう貢献したかというより
『開城してしまった』という結果について責任を負わされたわけだね。
漢楚の戦いの項羽の論功の例をみても、実際、本戦に出ないと功は半減やね。
まあ、家康の論功は項羽のそれよりずいぶんマシだが。
宗茂配下は寄せ集めの混成軍だったしな。関ヶ原に間に合っていたとして逆に戦力になりうるかどうか
八郎でさえあの兵力を十分発揮することは出来なかったわけだし
だけれど宗茂の雄姿を関ヶ原で見たかったものよのう
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/31(月) 11:07:08 ID:+WpLpFfn
四職の中で大名として唯一生き残ったんだから凄いね
赤松・・・庶流斎村は西軍であぼーん。有馬は論外
一色・・・細川に誅殺されあぼーん。旧幕臣系は旗本として存続
京極・・・大名として存続
山名・・・交替寄騎
>>66 >感謝するわけでもなく、屁とも思っていなかった。
家康の内心なんてわかるはずもないのに、何故こう言える?
それに元忠は家康以外に仕える気持ちが無いという理由で、感状をもらうこと自体拒否している。
>>70 きっちり忠政に十万石加増することで報いているんだが・・・・
伏見で捨て石にされることは出発前から家康にも鳥居にもわかってたんじゃないかな
ではなぜ鳥居が選ばれたのか。後年平八郎はじめ、旧臣がことごとく左遷させられたが
家康は鳥居を伏見留守居役にすることで、旧臣に警句を与えていたのかも知れない
アボーンがあるが、また変なのが現れたっぽい
>>81 家康は家臣に忠誠を要求するが、その割りに労に報いない気がすー。
http://ex13.2ch.net/test/read.cgi/gline/1141536641/880 >880 :水先案名無い人 :2006/07/05(水) 16:07:42 ID:zicj6S0w0
>秀秋「私は西軍だ!」
>秀家「・・・」
>秀秋「早く関白にしたらどうなんですか」
>三成「いや、先に東軍を攻めろよ」
>秀秋「この軍勢は、最大限守ってあげたい」
>三成「東軍と密約してるんじゃねえの」
>秀秋「どのようにして、その先入観を打ち破る事が出来るのか。本当に悩ましい」
>吉継「西軍ってことは松尾山から降りてくるのか?俺、藤堂隊と戦ってるぞ」
>秀秋「この一方的な攻撃。この風景。こんなところに軍勢を投入したらかなわないと感じるのは当然」
>三成「だったら西軍だなんて言うなよ」
>秀秋「一言聞いただけでガセだと決め付ける、卑怯千番、もっとも恥ずべき行為」
>吉継「寝返りのほうが卑怯だよ。早く降りて来い」
>秀秋「どのような条件をクリアすれば、西軍だと認める事ができるのか、知恵を貸してください」
>三成「おまえが西軍だって言ってるんだろうが」
それって元ネタなんだっけ?
永田の偽メール
>>83 「安定」は何にも勝る報い。
例えば近代軍隊は、個人的な報いのために闘うか?
過度の褒賞で釣らない家康は「近代的感性の持ち主」と言ってもいい。
…てな考え得方も出来るよ。
過度の褒賞で釣らない>過度の報酬で釣った場合は約束を守らないと思われ。
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 01:32:50 ID:t94hYWWJ
関ヶ原後、江戸城などの城普請で金を使わされ、天下を豊臣に譲る気配も見せない徳川をみて
加藤清正や福島正則ら家康に味方をした豊臣恩顧の武将達は「石田よすまない・・・」と悔やんだのだろうか?
福島は思ったかも知れないが、加藤はそんなことは頭によぎらない。バカだから。
逆だな。第一三成が嫌いなら中立表明すればいいのにね。心が子供のまま大人になったんだろうね
徳川と婚姻を結んでいるのだから、
別に三成憎しばかりで徳川についたわけじゃあないだろう。
徳川が実権を握れば自分たちももっといい目を見れると思っていたのでは?
まさか徳川が豊臣家そのものを滅ぼし、
自分たちまで滅ぼされてしまうとは思っていなかっただろうから、
その点では後悔した、といったところではないだろうか。
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 18:34:01 ID:KwEuMDup
名声が違いすぎた。三成の実力や器が家康に劣ったと見るのは間違い
名声だのなんだのと言うより
この人勝たせたい&この人なら勝てる&この人につかないと身の危険
だと思う人らが家康に多くついただけだ。
やはり家康はすごいよ
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 19:30:23 ID:XyJO+XLN
むしろ、自前では20万石にも届かない者が、
曲りなりにも家康に対抗しただけでたいしたもの。
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 01:37:12 ID:d5cfLxWm
奉行という権力を失っていた、にもかかわらず家康を越す軍を組織した時点で普通じゃない。
それにやり方によっては負けなかった気がする。
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 06:22:43 ID:N6ALw4Vk
小早川秀秋は偉い!
すぐアボンしたのが玉にキズ
その後どうなるのか見てみたかった…
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 23:13:34 ID:U1tEM49T
石田はまさかアホの金吾に騙されるとは思わなかったようだ
気付いていたから好条件で釣ろうとしてたんだろうが
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 05:17:02 ID:uHdNHuOk
89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 05:02:04 ID:uHdNHuOk
家康が本多正信に語る。
「豊臣家子飼の大名達、ああも無節操に裏切れるものか。喜ぶ反面、心が、冷えたわ・・・せめて三成のような家臣がいて、太閤殿も初めてうかばれたであろう・・・これからは我が徳川家、三成のような家臣に恵まれれば良いが。義、忠義の家臣にのう」
後世、徳川幕府は、朱子学を取りいれ、武家の倫理を厳しく見るようになる。
90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 05:04:04 ID:uHdNHuOk
徳川幕府が朱子学を取り入れたのは、石田三成の義のおかげといっても
決して過言ではない。
103 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 05:20:13 ID:uHdNHuOk
もし前田利家が前年に死ななかったら、西軍、東軍どっちについていたと思う?
そもそも利家が生きていたら関ヶ原の合戦は
起こっていないかな??????????
起こってません
よく、空想伝記もので「伊達が西軍についたら」と「小早川が裏切らなかったら」ってのが
あるけど、実際どうだったんだろう?
西軍は勝てたのだろうか?
状況が違えば当然東軍も違う対応をするからねえ、一概に西軍が勝てたとは言えないだろう。
まあ小早川が東軍につくと言ってこなくて、かつ伊達が上杉と共同して動いたら、
さすがに家康も簡単に関東を動けないから、長期戦になったとは思う。
西軍も一気に関東に攻め込むほどの戦力にはならないし。
で、長期戦になった結果だけど、やはり結局東軍が勝つと思う。
伊達が上杉とともに攻めてきたとしても、
秀康に加えて史実で関ヶ原に向かった秀忠軍を関東においておけば、
戦力的には十分対抗できる。
秀忠隊を除き家康隊+東軍先遣隊のみで、小早川が裏切らない上時間をかけることで、
大津城や田辺城攻めの兵力も加わるだろう西軍本隊と戦うのは戦力的に危険だが、
時間がかかれば東軍側も前田隊も出てくるから、
それに対応する為に西軍の戦力も削られ、結局兵力で上回ることが出来る。
つまり、家康が戦術的にへまをやらかして、
兵力的に優勢な状況で負けてしまわない限り、結局は東軍が勝つだろう。
まあ、それに加えて前田が動かないとか、
輝元本隊が動くとかさらに仮定を積み重ねれば話は当然変わってくるが。
>>107 家康厨、乙。
関ヶ原で長期戦になるのは東軍にとって不利。
前田は日和ってるから、中央には進出してこない。
兵力の多寡が結果につながるのはゲームの中での話。
輝元本体が大阪城を動くことは無い。
短期決戦とならなければ東軍からの裏切りも出る。
伊賀・上野城だけでなく、伊予・松前城なども攻略される。
秀忠隊以外に後詰のない東軍は、現実の関ヶ原で西軍が
敗れたのと同じ原理で敗北する。
IFを語ることに意味があるとは思えないが、家康が勝ったのは
運がよかっただけだよ。
>>108 実際には既に兵を進めてきていた前田が動かないと断言、
兵力の多寡が勝敗に関係ないという根拠、
東軍からも裏切りが出るという根拠、いずれもなし。
あまりにも妄想が激しすぎて、申し訳ないが会話できるレベルに達していません。
どう考えても長期戦は西軍不利でしょう。
第一、兵糧がない。
清洲城を開城できなかったのはあまりにも痛い。
兵力の多寡が重要でない
ってほうが講談・漫画・ゲーム的だな
>>110 西軍に兵糧がないの?
妄想もここまで来ると驚異だな。
>>112 ないよ、少なくとも十分にはない。
三成の増田長盛宛の書状で兵糧と金銭の欠乏を訴えているものがあるので確認できる。
有名な話なんだが、本気で知らなかったの?
>>113 三成の増田長盛宛の書状て偽書疑惑が出てる奴だろ。
>>115 関ヶ原合戦図屏風(津軽家伝来)には刈田をしている西軍の姿が描かれている。
>>115 古今消息集には直江状が書かれているからね。
でも、石田の書状が偽書というのは初耳だなぁ。
どういう論文に掲載されていたのかなぁ。
当然、ソースあるんだろう?
>>112 刈田は戦術の一つだから、兵糧不足の証拠とは言えない
東軍は刈田してないの?
>>118 刈田が戦術として有効なのは国人が双方の諸勢力を天秤にかけるような事をしていた
天下統一前の話ですし、二本差しの侍が自ら背負い、馬に乗せて藁束を担ぐ一方、
脱穀・精米をしている光景を見てもかなり切羽詰ってる描写です。
>>117 漏れもどこかで見た木がする。
直江状の様に後世の創作でなく偽書という話。
>>116 関ヶ原合戦図屏風(津軽家)はいつ頃書かれたものなのかな。
すまんが教えて。
> 刈田が戦術として有効なのは国人が双方の諸勢力を天秤にかけるような事をしていた
> 天下統一前の話ですし、
刈田されても何も感じないの?
当時は百姓主体だから、刈田はかなりむかつくと思う
現在の百姓だって刈田、農作物を目の前で奪われたら怒るし
二本差しの侍が自ら背負い、馬に乗せて藁束を担ぐ一方、
> 脱穀・精米をしている光景を見てもかなり切羽詰ってる描写です。
脱穀・精米までするのは非常時かな
当時は軍役の兵糧、玉薬は自前というのが常識であったからね。
しかし、家康側は豊臣から兵糧、軍資金が提供されていた。
三成は豊臣から拒否されて、兵糧・軍資金捻出に奔走していた。
この解釈はおかしくないよね?
そこで愚痴のひとつもでるもの。
これが偽書かもしれないけど、結構正解かなって気がする。
淀殿が家康にころっと騙されてたから仕方ない
>>122 細くすると、西軍の士気を落とすためか東軍の士気を上げるための偽書という趣旨だったと思う。
>>120 1612年に津軽家に輿入れした家康の養女が家康にねだって手に入れた物とのこと
赤坂〜大垣の地は西軍でしたか東軍でしたか?
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 11:47:50 ID:7Y68Rrwt
>>125 当たり前の事をわざわざ余り信頼出来ない増田に書状で愚痴る必要があるのかだな。
>>125 何故かそういう愚痴が多いよw
信用していたか、取り込もうとしていたか
三成が金吾裏切ったと激怒したなら信用していたということだし
刈田っていうのは通常は敵の領土に侵入した側が侵入された方への
嫌がらせ・挑発のためにするものでしょ。
当時関ヶ原は西軍が押さえていた場所なんだから、
それは嫌がらせ目的ではなく、兵糧確保のため
やむを得ず行ったと考えるのが自然なのでは。
>>124 それで、どういう経緯で偽書の疑いがあるという話になったの?
というか、そもそも長期戦になるだろうという前提自体どうだろう。
>>106-107の言い方だと、史実の家康は関東を簡単に動けたと言わんばかりだが、
実際には家康は江戸に一ヶ月も留まって様子を窺っている。
しかし、伊達が西軍についたなら秀忠隊まで西に動かすのは関東が手薄になりすぎて無理、
このことは明白なんだから様子を窺う必要がない。
そして、秀忠隊抜きで数的有利を確保するなら前田隊との連携は必須だが、
そのためには江戸にいるよりも西に動いた方が有利だ。
だから逆に史実よりも早く家康が決断して西へ向かう可能性もあると思う。
また、小早川が裏切らないということなら、
当然小早川は西軍の指示通り伊勢方面の攻撃に参加するだろうから、
史実よりも早く伊勢の諸城が落ち、
そもそも家康が江戸でのんびりしていられない情勢になることも考えられる。
つまり、むしろ決戦は早まる可能性のほうが高いのではないだろうか。
少なくとも長期戦になる必然性はないと思う。
>>128 関ヶ原を抑えたといえば抑えたのは西軍だが
もともとは東軍(竹中)の領土
田んぼの百姓は竹中領だ
>>135 いや、関ヶ原に西軍が動いたのは決戦前日の夜で、それまでは大垣にいた。
決戦前夜の移動中や決戦直前の早朝に稲刈はやらないだろうから、
刈田をしたのは大垣周辺つまり、西軍の伊藤盛正の領地でしょう。
>>135 で、竹中重門みたいな1万石にも満たない領主の
領土を荒らして何のメリットがあるの?
>>132 合戦当日には刈田どころではないな
しかしそうなると兵粮が深刻化したのは
大垣集結以降と言うことか?
当初より兵粮不足ではないか?
関ヶ原合戦図屏風は現在2隻残っていて、ひとつは家康の赤坂着陣(決戦前日)を、
もうひとつは当日の西軍敗北の様子が描かれている……はず。
ちゃんと屏風を見て確認しないといけないけど、稲刈を行ったのはおそらく前日だろう。
決戦が一日で終わるなんて誰も予想してなかっただろうから、別に不思議なことではない。
屏風に描かれる以前にも稲刈をしてたかもしれないし。
>>136 稲刈りについては、現段階では特に疑義無し
論点は、どこの領内か
具体的に、西軍領内であるとする論拠は?
大垣城の絵の周辺でやっているのなら、西軍領内だろうね
離れているのなら東軍領という可能性も
>>141 大した知識無いのでスマソだが関ヶ原の屏風絵は色々あるが、全て史実が書かれているものなのかな。
どうせ勝った側が書かせたんでしょう。
稲刈りについては別に珍しいことではないから、あったと思うが141さんの言う通りで時期と場所が重要
な気がする。
徳川がわが西軍の惨めさを強調するためワザと屏風に書かせたのでは。
兵糧は各大名が自前で現地調達するのが普通なのでは?
だから、西軍が兵糧に困窮していたことを示すなら、三成の書状が明白な証拠でしょう。
勝手に偽書の疑いがあるといっている者もはいるが、その根拠は示されていない。
まずは、もしあるならその根拠が出てからの話だ。
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 10:38:00 ID:7fgSyeRd
西軍の兵糧が欠乏していた証拠については、
>>144の言うとおりだと思う。
それをさらに裏付けるのが屏風絵。
三成が豊臣家に戦費供出を願い出て却下されたという事実もあるわけだし、
間違いないんじゃないの?
刈田についてはクレヨンしんちゃんの映画(タイトル忘れた)がわかりやすい。
未収穫の稲を刈り取ることによって、その土地の農業生産量を著しく減退させるのがその目的。
籠城側兵士の士気を喪失させ、あるいは城からの出撃を誘うという戦術的効果も期待できる。
関ヶ原〜大垣周辺で西軍が刈田を行ったのが事実とすれば
その目的が上記のようなものであるとは到底考えられず、
兵糧徴収のためであると考えるのが自然だろう。
146 :
え:2006/08/20(日) 11:33:13 ID:AQTHHCHA
う
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 11:40:58 ID:g2csi57v
長期が東軍に不利とまではいえないだろな。
地方の各方面では、
九州・東北・北陸方面:東軍優勢
近畿・中国・四国:西軍地盤
関東・甲信・東海:東軍地盤
ってことろで、このまま推移すれば、東軍優勢だな。
もっとも、結束力は、双方ともさほど高くないが。
また、東軍には秀忠の徳川主力がいるんで、これが合流すると
西軍全軍をしのぐ大部隊になる。関が原の西軍主力の結束度を
考えると、時間を置いてもそうそう東軍優勢は変わらないな。
148 :
え:2006/08/20(日) 11:42:30 ID:AQTHHCHA
j
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 11:49:50 ID:RyDaCyWT
要は豊臣方には不満を抱いてた武将が多かったということ!
150 :
え:2006/08/20(日) 12:22:45 ID:AQTHHCHA
k
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 14:39:57 ID:2wAA+9oA
岐阜発だと関ヶ原はどっちに見えるのかな…
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 23:08:38 ID:C/9wh//x
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
>>149 豊臣方なぞ存在しない
強いていえば
秀頼の名で集められた会津討伐軍を太閤秀吉に後事を託された家康が率いる東軍が豊臣家正規軍で
その留守中に東軍に対し挙兵した西軍がクーデター軍と言えるが
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 12:02:23 ID:CczP+2wX
まぁな
でも人情で言えば西軍が豊臣と言いたいところだ
人情で言えばそうだが、そこを理解しておかないと
なぜ豊臣が西軍を助けないのか理解できないよな
話題ぶった切って悪いのですが、東軍の家康本隊に本当に三万もいたんでしょうか?
徳川の石高が約300万石として動員兵力が
秀康25000
秀忠35000
井伊3600
本田500
酒井1800
忠吉1500
と参陣確定だけで76400もいてさらに
本体30000
必要な佐竹への抑え、領国防備の兵とかを入れたら余裕で動員可能兵力をこえると思うんですけど、万石450人当て位で動員したんですかね?
>>152 徳川300万石は過大だと思うが、それを基準にすると
(その他の数字にも疑問が多少)
76400+30000=106400
106400/300=354.66
3人役よりちょっと多いのでそんなに無茶ではない
普通レベル
本多は息子のほうが秀忠のほうに付いて1500とか2000出してるよ
忠勝は軍艦で遊撃もしてたと聞くけどどうだったんだろ
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 17:27:41 ID:b+xm3c0E
>>154 西軍の目的は秀頼の為とか豊臣家の御為じゃあないだろ。
毛利=上杉征伐されれば次は毛利征伐・・?
そうなるまえに徳川を処分してしまえ。存亡を賭ける気はないが
やるとなったら豊臣家の執権として天下を動かしたい。
上杉=このまま徳川がのさばれば関東の背後に位置する自分達は
どっちみちやられる。だったら天下を分ける騒乱を導いて活路を開け。
宇喜多=前田利家亡く、利長が徳川に屈した以上豊臣家後見たる役目は
本来豊臣家門たる自分であるべき。だから、このまま家康を排除して
自分が秀頼を抱いて上座に就きたい。
石田三成=徳川と争う気はない。敵は武断派の連中。だが連中が
豊臣家の派閥争いに武力で訴え、外様の徳川を巻き込んだ以上
やらなきゃやられる。出来たら勝って政権に復帰もしたい。
小西=このまま徳川の天下になればキリシタンで商人上がりの自分は
早晩改易になりかねん。加藤清正が家康にすがって自分を抹殺する気
ならば、やってやるしかない。勝って豊臣の九州探題になる。
安国寺=豊臣家の天下は自分が予測し成立に協力してきた我が作品
あの三河狸に取られてたまるか。御人好しの輝元公を家康の代わりに
執権に据えて光成殿らの官僚制度で国を治めればよい。
私は宗教的な最高権威として君臨する。石高も3倍くらい欲しい。
真田=とりあえず、このまま徳川の天下にすんなり移行しては面白くない。
漢なら千載一遇の好機に賭けよう。勝てば真田家は
徳川、前田、毛利、上杉、佐竹、伊達、島津という天下七大大名に
肩を並べる。三成殿との縁戚関係と戦功によっては大老すら夢じゃない。
増田・長束、他=勝つほうにつきたい。ただ豊臣家の天下のほうが都合が良い。
とまあ、おもいっきそ思惑バラバラ。
>>156 秀康は結城家で徳川とは別計算の石高があるし、
秀忠隊の内徳川家の兵は約3万。
関ヶ原における徳川家の兵力は、
家康隊本隊約3万、忠吉3,000、井伊直正3,600、本多忠勝500、で関ヶ原に約37,100。
加えて秀忠隊の内約3万が徳川の兵で、合わせて約67,100が関東を離れていた。
関ヶ原のときの100石3人という動員率で徳川の石高を250万として計算すると、
その動員数は75,000だから、差し引きすると8,000弱くらいが関東に残っていた計算になる。
いささか関東の守りが心もとない気がするが、守る分には動員率をあげることも出来るし、
結城・蒲生等の兵力1万強も関東の守りにあたることになるからまんざら無謀というほどでもない。
つまり、関ヶ原の戦いの時に徳川家が動員したとされる兵力は、
徳川家の石高からすれば標準的なものといえる。
せいぜい、関東の守りの為に多少は無理したかもしれないね?くらいのもの。
当時の徳川家の動員数はそれほどのものだったということだよ。
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 19:35:19 ID:jrm9VM4D
>>159 そんなもん言い出したら徳川についてる輩も全員が保身のためだろ
>>162 積極的保身と消極的保身ってのがあるよ。
光成方はその性格から考えても、勝った所で豊臣権力の強大化、くらいにしか
行かなかっただろうけど、徳川方には(一部を除いて)明確に、家康を押し立てての新体制という
意識があっただろうし。
>>163 いや、それはないだろう。
西軍に比べて東軍がまとまって見えるのは、
徳川家康という実力・名声・立場・兵力全てが飛びぬけており、
且、強靭で確固たる意思を持った中心人物がいたからであり、
それに参加した各武将の意思なんて千差万別だったと思うよ。
何せ各武将はそれぞれ立場も性格も異なるわけだから。
両軍とも思惑は色々だろ
全員が同じ気持ちであると考えるのは無理がある
だいたい福島なんかは豊臣のために戦ったつもりだろ
藤堂なんかはもう乗り換えのチャンス到来ぐらいのもんだろ
保身といえば保身だな
東軍は徳川に求心力があるからな、兵力や立場など
西軍はまったくまとまりが無い、それでいて消耗してたのは東西共に豊臣ばっかだからどうしようもねー
西軍にも島津義弘、立花宗茂、真田昌幸など良い武将そろってるんだけどなぁ
島津義弘:兵少なし、献策却下
立花宗茂:主戦場に不在
真田昌幸:功績大だが、主戦場が敗北
まとめるだけの力量を持った総帥がいなければほとんど無意味なのだよ。
三成は、兵站や経済経営に関しては家康の能力を上回っていた
しかし軍事才能は遙かに下
また動員可能兵力も遙かに下
当時は石高=実力
普通に考えれば相手にならないくらいの力しかなかった
>三成は、兵站や経済経営に関しては家康の能力を上回っていた
すまん、これは根拠もない君の主観だろ?
三成はそれほど優秀でもないし凄くはない
三成の凄さとされているものの正体は
実は司馬遼太郎の小説の凄さなんだよな
>>167 史実
君のようなマンガしか読んでいない人間には到底わからないだろう
>>172 たかが20万石足らずの身の上で西軍の首謀者になっただけで、
十分すぎるほど凄いことだよ。
まあ、彼一人だけのたくらみではなかっただろうが。
>>175 でも結局西軍を紛いなりにもまとめたのは、毛利家の石高の力だからなあ。
毛利が動かないと解ったとたんみんな動かなくなったし。
奉行の連署(豊臣家の意思に見える)+3大老は大きいなあ。
特に毛利の影響力は西国ではやはり強い気がするな。
そういえば大河かなんかでムナシゲが「毛利の下知で挙兵したのに」と怒るシーン
があった気がするな。
>>172 そうか?
いつ毛利が動かないとわかったの?
吉川広家はよく暗殺されずにすんだなw
騙しに騙して毛利から恨み買っただろうに
あの時期に下手打つと毛利といえども改易確定だからな、吉川家は勢力も
大きいし徳川に気に入られてるから手が出せなかったんじゃね?
>>176 もちろんそれはそうだが、毛利だけの力では三奉行を動かして、
内府違いの状を出すところまではいかなかったと思われる。少なくとも迅速には。
もし毛利単独で出来るなら安国寺はわざわざ蟄居中の三成と佐和山城で会ったりしないはず。
もちろん、毛利の兵力なしでは決起できない、しても直ぐに鎮圧されるだろうから、
三成の方でも毛利の力を必要としていた。
つまり、西軍決起は三成と毛利、というか安国寺恵瓊が互いの目論見の為に動いた、
この両者が首謀者だったといってよいと思う。
安国寺は表立っては動いていない
密談だけでは首謀者とはいえないのではないか
毛利引き込みの立て役者だが騙されたのは毛利本家になる
>>182 毛利家を引き込まなければ、西軍決起自体が成立しないのだから、
その立役者は同時に西軍決起そのものの主要人物だったと言って間違いないでしょう。
誰々はコッチに付いたとか何処何処は攻め取ったとか盛んに宣伝しても
岐阜が簡単に落ちゃってるてるかね
動員数も石高計算だから東海大名?福島とか池田なんて目の前だから
実際の動員数はどうなんだろ
>>179 上杉無しでも成立?
主要人物ということであれば、同意だが首謀者までいくと要検証かと
主要人物なら輝元や上杉、直江、真田等々も入ってるかと
>>179 広家は秀元にネチネチと嫌がらせされたよ。
ついでに子孫も本家から差別。
その秀元は家光のお気に入り。
>>186 輝元は担がれただけ、それが証拠に家中の反対になったり西軍が余り纏まっていないのをみると、
動きが鈍くなってしまった。自身が自ら中心となってまとめようという気概がなく、
とても「首謀者」だとは言えない。
上杉主従は最初から三成らと図って、西軍決起を意図して行動を起したなら、
確かに西軍決起の「首謀者」の一人でもあるといえるだろうが、その証拠はない。
真田はほとんど関係ない。
決起前には何の相談もされず、決起が決まってから連絡が来たので、
もっと早くの教えて欲しかったと愚痴った書状がある。
つまり計画段階では全く関与していなかった。
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 08:38:59 ID:81vq6p2y
首謀者は、石田三成・大谷吉継・宇喜多秀家・安国寺恵瓊 こんなとこだろう
それにしても、宇喜多家御家騒動が無ければ・・・歴史は変わっただろう
もともと、西軍決起の謀議が行われたのは7月11日の佐和山城でのこと、
この参加者は三成の他大谷吉継と安国寺恵瓊。
つまりこの三人が主に謀って西軍決起を策したということ。
ただし、吉継は当初反対だったものが三成に説得されて参加という立場。
もちろんその場にいなくとも、仮に直江・三成間に既に話が出来ていたなら、
直江も首謀者の一人と言えるだろうが、前述の通りそのような証拠はない。
また、恵瓊があくまでも輝元の名代という立場なら首謀者に数えられるのは、
恵瓊ではなく輝元となるが、その後の行動からとてもそうとは思えない。
宇喜多秀家は最初は上杉討伐に参加するつもりで、先発隊は既に派遣しているし、
明白に西軍として行動し始めるのは輝元より後なので、
やはり決起が決まってから参加した大名であり、
計画段階では参加していなかったと思われる。
191 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 10:05:35 ID:vmieTwlr
それにしても、福島や加藤は大馬鹿野郎だね。
用済みになれば潰されるぐらい予想はできなかったのかな。普通に考えれば
分かりそうなものだけど。
まだ藤堂高虎みたいな目先の聞く奴のほうが好感持てる。
>>188 輝元は最終的には吉川や福原の反対を押し切って参戦決めたんじゃないの?
動きが鈍いと見えるのは輝元自身の性格、能力の問題と秀頼周辺の問題じゃないかな、
出陣要請に答えられなかったのは風邪で寝込んでたとか増田の内応の噂とか
で動けなかったせいもあるし。
積極的な首謀者じゃないのには同意。
>>189 普通にそうなんだけれど、いまさら石田の説得だけで奉行衆全員が動いたのは
良くわからないな。
>>192 吉川らの反対意見が届く前に輝元は動き出してしまっていたらしい。
>>193 最終的には大坂城で吉川と安国寺が対決してきまったんじゃなかったっけ。
佐和山上での謀議の参加者が、その3人だとして
三成以外が首謀者とする根拠は?
会議に参加したからといって首謀者とは限らない
また会議には左近らが参加した可能性もある
直江が首謀者(話がついていた)なのは行動から明らか
エケイは会議に参加したかも知れないが、他に西軍首脳としての
動きはないのでは?
>>194 恵瓊と広家が議論したのは7月14日でこの時はまだ輝元はいなかったが、
恵瓊はこの広家との議論を待たずに既に輝元に使いを送っており、
それにしたがってその14日には輝元は動き出してしまっている。
広家の自重を求める使者とは行き違いになったらしい。
>>195 直江云々は上杉攻め決定以前から西軍決起の謀議が始まっていたことが確認できれば、
そうなるだろうが、実際にはその証拠はないからね。
状況としては家康が上方を空けることが明らかになったから、
急遽西軍決起の図ったとしても矛盾はない。
それから、輝元担ぎ出しは三成の一存では出来ないよ、恵瓊の動きが大きい。
まあ、三成が一人で決定して恵瓊は従っただけの可能性もあるが、
そこまで三成が優位に立っていたという根拠もない。
逆に恵瓊が従っただけとするのはあまりにも三成を過大評価しすぎだと思う。
恵瓊がかなり積極的且つ迅速に輝元担ぎ出しに動いている以上、
そこには恵瓊自身の思惑があったと見て間違いないでしょう。
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 19:31:58 ID:81vq6p2y
毛利輝元・秀元は首謀者では無いが、西軍内では積極派に分類されるのでは?
輝元は美濃に向かう予定だった(増田長盛内通疑惑により中止)それに秀元も南宮山から出撃しようとしていた(吉川広家に頭があがらないので出来ず)
ま、親子そろって押しが弱いから「動く気なし」と見えたんだな
輝元担ぎ出しが三成の一存とは言っていない。
安国寺が主導したということでいいだろう。
しかし、その後の動きを見るとあくまで毛利の一員として動いており
積極的に他の大名を西軍に引き込むと言った動き、軍事行動は見られない。
決戦時にも、西軍首脳というよりは、毛利の部将としてしか参加していない。
輝元を率いれた功績はあるにしても、西軍の首謀者とは言えないのではないか。
打倒家康ということで合意していたのは確かだが
それは上杉、直江も同じ。
福島、加藤らにとっては「三成の天下」というのは承伏できない。
従って、それを阻止する選択肢かない。
福島・加藤は秀頼が関ヶ原に出てきても同じこと
結局攻めてくる(だって秀頼は三成に操れれてると思ってるから・・・意味ない)
>>198 毛利引き込みこそ西軍決起に必要不可欠な事項だから、
これを実現した恵瓊の首謀者の一人ではないとはいえないよ。
まあ、最初から話が出来ていたとすれば上杉の動きもそうなるけど。
というか、個人的には私は三成を高く評価したい人間なので、恵瓊の役割はそれほどでもない、
つまり相対的に三成の重要さが増すという解釈はむしろ歓迎したいものなのだが、
そのことを第三者に納得させるだけの材料がないという感じなので。
>>200 攻めるわけにはいかんだろ。流れ弾で秀頼が討ち死にすることもあるから
決断したのは輝元だから、そうすると彼も首謀者か
また結果的に上杉らもそうなるな
>>200 加藤は最初は西軍に加担しそうだったから石田くんの問題だけで動く訳じゃナインでは。
福島は豊臣のオン為を誰より強調していたから、本心はとにかく秀頼の馬印に撃ちかけることは
できないと思う。
205 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 07:17:17 ID:b6NI0Bh2
じゃあ秀頼は「人質」なんだね?
秀頼公に歯向かう訳にはいかない。ではなくて、攻めたら、秀頼公が三成に殺される!と言う感じなんだね?
>>203 誰かの言葉に動かされて参加を決断したわけだから、
主要参加者であっても首謀者ではないでしょう。
一応計画段階から参加していなければ。
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 12:09:09 ID:ie4MT0kT
>>196 結局輝元は広家の意見は無視、伏見攻撃を指示でいいのかな。
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 16:45:50 ID:BJ2/XJO9
>>207 その辺が微妙なんだよな。
大阪入場の際に西軍参加を止めようとした中に秀元もいた。
輝元としては広家の意見より秀元が彼と同意見だったがゆえに
警戒した面もあるんでは?っって気がする。
なんせ毛利家のお家騒動の余韻さめやらぬ時期だったしな。
輝元側近サイドでは秀元=東軍とで疑っていたし、
秀元は家康に味方すると疑われてもしかたない弱みがある。
逆を返せば輝元は秀元問題の存在ゆえに西軍決起に協力した側面も
見逃せないので、広家の発言を見ても、こいつもか?とばかりに
疑うしか出来なかったのだろ。
秀頼が御自ら出陣していたらどうなったかな。
逆臣三成を討つ家康を従える秀頼、という構造になれば豊臣家もまだ安泰
だったのでは。
恵瓊は毛利幕府か、鎌倉北条氏の様な執権政府の設立を考えていたんだろうな。
>>209 それが出来ない状況だったと言う事さ。>秀頼出陣
大体西軍はそのほとんどが豊臣家から見たら「外様」なわけで。
>>208 毛利の内情も複雑なんだよな。
前田が代替わりで屁たれ。
宇喜多がお家騒動。
上杉が転封。
石田が蟄居。
家康は最高な状況だな。
>>211 前田が代替わりしたから動いたってのもあるんじゃない?
>>211 家康自らがそうなるように動いたものも少なくないけどな。まあ、こういうのを
天命と言うのだろう。豊臣好きには気に入らないかもしれないが。
家康が前田利長の討伐に向かったときに、上杉景勝が挙兵して三成も大阪で挙兵
したらどうなった?
>>214 前田が降伏して大儀を失う。
そうなると上杉も戦うor降伏で結局かてん
ほんと上杉ってすごいよなwwwあの状態で堂々と東軍を迎え撃つ覚悟決めてた
もし西軍が挙兵しなかったらやばかったな>上杉
なんで自分と会話してるんだお前は
まあ、最近は上杉の挙兵は三成たちの動きとは関係なかった、って言うのが主流だな。
会津の方でいろいろ勝手なことしてたら、前田があんな事になって急に怖くなって防備を固めてたら
さらにそれを咎められてにっちもさっちも行かなくなった、って感じだったっぽい。
>ID:dQuO1WJV
わろうたぞえ
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 22:08:38 ID:BJ2/XJO9
徳川家もお家騒動の火種は相当に抱えていた。
前田家ばりにカリスマ的な初代と、少々温厚すぎるゆえ頼りなく見える二代目
前田利家と徳川家康 前田利長と徳川秀忠
豊臣家ばりに脇に追いやられる武断派と主流にのさばる文治派
もろに本多正信 と 徳川四天王
庶子で他家に養子に出ていた長男と本家を継いだ次男坊
結城秀康 と 徳川秀忠
鉄の結束とかいうのも家康顕在ゆえに箍が締まっていただけで
家康が利家と同時期か1ヶ月早く病死にでもなれば
徳川家は内部の事に時間をとられて天下を窺う余裕と力をなくしただろな。
>>220 利家がカリスマとは思わない
利家は若かりしころ秀吉の隣人で尚且つ年も近く親しかったから
晩年に大出世を遂げたのだ。まさに前田こそが最大の豊臣恩顧。
実際比較してみると、秀吉が中国攻めの司令官で50万石級の織田家
重鎮だったのに対し、利家は北陸方面軍の一武将にすぎなかった。
>家康が利家と同時期か1ヶ月早く病死んでいれば
そりゃもう豊臣は安泰さ。
結構240万石もあれば誰でも天下取れる(あの状況なら)と思いがちだが、
それは違うと思う。
いくら同じ240万石でも秀忠だったら、豊臣恩顧の大名は追従してこようか?
240万石という領土もそうだが、「家康」という戦国の生き残りだからこそできた
天下とりなんだ。
222 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 01:25:20 ID:IahyzN+V
信玄、信長、秀吉などの伝説的な人物と同時代を戦い抜いたのだからカリスマ。
この時代は既に2世、3世の時代。
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 01:27:50 ID:zOb8makD
まぁ、ある程度の年齢にならんと、家康がいかに権力を冷静に効果的に
抑制しながら使ったなんて判らんだろうからな。というか、そういう面
から評価するということも気づかないだろう。
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 01:38:11 ID:Oy6/9Yeo
>>221 お前が何をもってカリスマと言うのか知らんが・・・
歴戦の武将と戦ってきた(生きてきた)という実績がある
カリスマってのは功名だけじゃない
前田利家が死んだ日に三成襲撃があったのは何故だと思う?
もう豊臣を統率する器がなくなったことを意味するんだよ
だから、黒田も細川も利家が死ぬのを待ったんだ
>>220 徳川家内で秀康と秀忠で争ってもない。
秀吉在命時から秀忠が家督継ぐのが決まってました。
だから秀康は結城家に入ったんだぞ。
だれか秀康を推してた人間でも居るのかいな?
>>221 利家は、邸身分の頃の秀吉は卑賤出身で特に同僚からは嫌われてただろうが
その当時から付き合える心の広さ(言いすぎかもしれないけど)では大物かもしれん
邸身分→低身分
>>224 別に利家の立場が他の人でも同じように死ぬの待つさ>家康・黒田・細川
もし、それが蒲生氏郷でも同じこと
つまり利家じゃなくてもよいということ
>>225 火種と言う意味じゃないかな。
だれか秀康を推してた人間でも居るのかいな?>関ヶ原の前後に家康が秀忠は頼りないと
重臣連中に話したところ、秀忠を指示したのは忠隣一人しかいなかったなんて話もあるよ。
>>226 丹羽なんかも秀吉には優しかったみたい、そう考えると柴田等との対決軸がもう出来てた
きがしちゃうね。
指示→支持
ってことは・・・
毛利家:秀元vs広家 輝元vs秀元 広家vs恵瓊 隆景死亡により、小早川家独立
上杉家:越後四十万石から会津百二十万石へ転封(石高は約4倍に)
宇喜多家:前年の御家騒動により家臣団崩壊
島津家:兄が中立。援軍要請無視
佐竹家:父親と本人の意見の食い違い
長曹我部家:特になし
石田家:三成の失脚
西軍はほとんど戦える状態ですらない
忠吉が将軍職継いでたらどうなったかね?
秀忠遅参、忠吉一番槍という事で可能性的にもありそうなんだけど
>>223 信長や秀吉は、あくまで自分のために権力を使っていたけど、家康には「公権力」と言う
意識が確実にあるね。仏教の影響なのかな、とも思うが。
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 18:07:32 ID:a9cOLS4s
>>232 いろいろ言われてるが家康の中では秀忠で決まってたんじゃない。
家康の中というか、
公文書とかでも普通に家康と連名で名を連ねているし、
公式に後継ぎ扱いされています。
これを覆すのは並大抵のことではむり。
禁中並公家諸法度
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 22:20:16 ID:B+1cPFYI
>>231 逆を返せばだからあの時期に決起したとも言える。
後がない賭けともいえるな。
あのまま放置してたら徳川に各個撃破され食い物にされていくのは
目に見えていた。
勝てば
毛利家:輝元が家康に代わり執権となる。
戦功により秀元と広家を毛利家本領と別個に独立扱いの大名としてしまう。
小早川家を毛利系に戻す可能性アリ。
上杉家:旧領越後と腹背にある胡乱な敵地最上を併合奥羽に睨みを利かせ
目障りな徳川を屈服させ家康に変わる東国の束ねになる。
宇喜多家:戦争の勝利をもって混乱した家中の体制を一気に刷新する。
そして豊臣政権での主導権を握っていく。
島津家:とりあえず、勝てば若干の恩賞は当然、が何より
生糸貿易などでの優先権獲得
佐竹家:戦争での勝利で父親などの古い連中を一気に世代交代させ
戦功で関東に大なる領土を確保、目障りな徳川を失墜させる。
石田家:勝てば政権の主役として復帰できる。
て具合にみんな問題を解決できたわけで
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 22:40:16 ID:B+1cPFYI
しかし冷静に考えてみれば・・
秀吉の時期に促した
関東移封→徳川の巨大化→家康の突出
元から少ない秀吉の身内が病死したのに加え自分で抹殺
家康の対抗軸が急遽必要となり前田のクローズアップ
という具合に
前田、徳川を巨大にしたが、こいつらは秀吉の身内になってはいた。
しかし西軍が勝てば
大老のうち前田と徳川は失脚
総大将と戦端を開いた立役者で大老の毛利と上杉が東西の二大巨頭となる。
毛利と上杉という純然たる外様が徳川以上に巨大化してしまう。
まして豊臣家を壟断するのは秀吉の息子格で家門の宇喜多であるが
こいつはあくまで血筋の上で豊臣の出自じゃない。
恐らく秀家は戦後親族である前田家はかばい、縁のある秀康に徳川の
名跡を継がせ宇喜多に前田徳川を取り込んじまうだろう。
そうしないと毛利上杉に対抗できんw
三成はどうする気だったのだろう。一応縁戚関係が深い徳川を排斥して
登場するのが
西に毛利、東に上杉、大阪の内部に宇喜多
が往時の徳川以上に巨大化してのさばるという構図になるの目に見えていたろうに
秀長が病死することなく秀吉死亡後も10年くらい生きていれば豊臣が潰されることは無かっただろうに。
石田からすれば家康よりは組しやすいと考えたんじゃないかな。
輝元は凡庸な上に毛利は全般に野心が薄い。輝元の信任厚い安国寺とジッコン。
景勝は実直な性格で上杉の家風はええカッコしい、宿老の直江とは親しい。
秀家は豊臣第一、ボンボン育ちで政治向きはダメ。
徳川は潰せなければ秀忠や秀康等豊臣に親近感を持ってるものに継がせて、百万石
ほどにゲンプウ。
後は徐々に中央集権化を図る。
西軍勝っても
>>237みたいにならないから、裏切り出たりしたんだよ
チラ裏やりたいなら三戦板に逝け
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 09:49:18 ID:KnQf55/E
>>239 そうだろうね
前田や蒲生より、秀長が生きていた方が徳川も手は出せなかっただろうと思う
ランクを付けるなら
A 秀長
B 前田利家
C 小早川隆景・蒲生氏郷
D 中村一氏
こんなもんか
誰が生きてたらなんていうのは無意味
だったら秀吉が家康より長生きしてたら
重要なのはその時どういう判断をしたか
寿命は天運の部分はあれども努力の部分も大きい
家康ほどの努力をしなかった連中が生き長らえていたらなんて無駄な考えだろう
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/31(木) 15:20:19 ID:sBSHaRmm
>>241 ここって三戦と同じ趣味に属す三戦から分割した板ではないのか?
ここが日本史版ならいってることは正しいが?
関ヶ原スレは三戦板時代から、こっちのスレの方が日本史板より
学問的なクオリティは高かった。理由はおれにもわからん。
論文や文献紹介で、ものすごく勉強になった。いつもじゃないけどな。
三戦板末期は、考察スレの中で関ヶ原スレだけがまともに機能してた気がする。
日本史の方はコテがいて、ネタっぽくなってるからかもしれん。
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 22:50:52 ID:Jxg3pC6Y
皆さんへ素人からの質問です
家康が政宗に与えた(と言われる)百万石のお墨付きですが、これを
与えたのが1600年8月22日ってホントですか?
だとすると家康は江戸城に戻ってた訳ですよね?
政宗はわざわざ江戸に下向したのですか?
いっておくが手紙という伝達手段は存在するんだからな。
>>249 防御力が無い当時の江戸城に戻るのは時間の無駄ですよ
>>252 いや、何言ってるの?
家康は小山から8月5日に江戸へ戻り、9月1日まで滞在していますよ。
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 05:13:04 ID:tHowcSmG
7月24日に政宗は、白石城に攻撃をしかけ、翌日には一気に落城させる。
8月2日に、家康は、政宗に三成決起の報告を送る。
8月5日に家康は江戸に戻る。7日に政宗に書状を発して、宇都宮の秀忠
と佐竹と協力し、上杉を牽制して欲しいと指示を出す。
8月12日、秀忠から政宗へ作戦協力の書状届く。
8月22日、家康、政宗に旧領約50万石加増の判物をつかわす。
9月1日、家康、江戸城を発する。
この期間、家康が伊達家と綿密な連絡をとりあって、後背の安全を確実に
固めてから、関ヶ原へ動き出している。
255 :
鳥屋 ◆Mzllk81HNE :2006/09/03(日) 10:41:51 ID:I/xS3Sqg
>>252 嘘を教えて素人を騙す。最低な人ですね。
政宗が火事場泥みたいなことしなかったら家康は約を守ったんだろうか?
>>255 お前さぁ。
自分が叩かれた時のこと忘れて、安全な場所から叩きかよ。
ちょっとコテハンとしての自覚足りないんじゃねーのか?
258 :
249:2006/09/03(日) 14:55:07 ID:Ez861Xa4
いやあ皆さんわざわざありがとうございます とくに
>>254さんありがとう
やっぱただの手紙だったんだ。手紙にしてはずいぶん渡す時期が遅いなあ
って気がしてたんですがその前にも頻繁にやりとりしてたんですね。
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 22:45:09 ID:zazsofRh
>>255 まず無理でしょう。
なにもせずにそれほどの加増が保証されるわけもない。
関が原の合戦のほうが主体であり、そこに参陣している福島や黒田のほうが
どう見ても貢献度が高く、又そう評価しないと家康の立場がないのに、
それを飛び越して伊達に大加増するというのも・・
伊達が旧領約50万石加増というのは、その上杉領からその部分を自力で奪取したらば
それを伊達家の分として保証するという意味合いで見ておいたほうがいいと思う。
逆にいえば、保障されてないからこそ火事場泥みたいなことする必要性があったんだろ。
というかフリーハンドでいる為か・・上方の情勢は流動的であり(そして長引くであろうから)
家康の判物があるからといって上杉を積極的に攻めて東軍不利とでもなった場合
目も当てられない。
強大な上杉との衝突は極力回避し背後の南部で一揆を起こし上方の戦の長引き具合や
西軍有利となれば即座に南部とかを奪取に動くつもりだったんだろ。
逆に東軍有利の場合一揆を自力で鎮圧し恩を売る(というか口封じして)
上杉攻めを本格化、約束の報酬分の領地を武力で奪い取るつもりだったと思う。
>>259 せこいな、戦国時代のつもりか。
そこを家康に嫌われたんだろう、政宗のような二股膏薬なんぞ信用されない。
でも伊達は大藩として幕末まで存在してる罠、宇和島に分家まであるし。
まあ福島、加藤より組し易いと思われただけかもしれんが。
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 17:46:01 ID:vQisvfgX
田舎の名家大名だし、豊臣恩顧でもないしね。
そもそも、家康は伏見城を捨て駒として出ていったのだろか?
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 21:19:23 ID:0MrX+PLB
>>259 >強大な上杉との衝突は極力回避し
伊達との全面衝突を避け、回避していたのは、むしろ上杉の方じゃね? そもそも直江は、最上攻めなど
悠長な戦闘をしている場合ではないだろ。まずは甘粕不在中に奪われた白石城を奪還するのが筋としては、
先なわけでさ。背後の伊達の圧力を取り除かないと、白河口へはでれないよ?
そうそう、上杉は最上なんぞに拘って大局を見誤ったんだろう
>>264 上杉も伊達もお互いガチでやるのは避けてたんじゃないかな。
実際、裏では和睦工作してたしな、長期化を見越してお互い切り取り放題。
>>266 すると伊達は最上がどうなろうとしったこちゃないというか
>>267 まあ本音で言えばそうだろうな、援軍も申し訳程度。
命乞い位はしてくれるんじゃない。
>>265 上杉と石田に連絡は無かった、って説が今は強いな。
上杉征伐は前田の処分を見て、危機感を持った上杉が領国の防衛を強化したのが発端で
三成はその騒動を利用しただけっぽい。大阪城と畿内さえ押さえればどうにかなると
思ったんじゃないかな?三成は。
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 18:44:44 ID:jHlNnm2U
>>269 実際に抑えれば何とかなったんじゃない。
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 19:22:39 ID:TvW5RTmh
上杉、石田にかかわらず、大局観があるのは、ごく少数 目前の問題を解決しようとしたのか
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 23:06:45 ID:jcivqFLg
>>265 そもそも上方の戦争が関が原で短期決着とわかっている後出し意見だから
そういえるのだろうが、当時としては長期戦が順当な味方ではないかな。
となると
上杉としては最上攻略を最優先すべきだと思う。
最上を消せば伊達以外に背後にめぼしい敵はない。
越後を混乱させておけば前田とかの介入も抑止できる
あとは伊達さえ交渉で味方にすれば佐竹と連携し
関東には入れる。
そうなれば上方での東軍を動揺させられると構想してたのでは?
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/06(水) 23:34:07 ID:Y9gh++59
>>272 上杉は、看板倒れでそれほどではない、というのが義光の印象だったろう。
最上攻めは、庄内を攪乱されたことに焦った、景勝の短気から発したもの。
最上との対決では、上杉勢は、上の台で総崩れになり、椎名弥七郎以下、馬上
150騎、足軽300人ほど討たれて敗北している。
直江が長谷堂で膠着しているうちに、9月29日には、湯河原城を落とした
伊達政宗本隊が、仙北筋、白河境まで迫ってきていた。
上杉は、完全に最上と伊達の術中にあり、暢気に長期戦などしている状況でない
危機的な事態だったことは確かだよ。
上杉は会津に移されて日が浅いから、足元に火がついたらあっという間に
広がる状況だったのかな。
最上を過大評価し杉
>>274 上杉は謙信時代の最強軍団のうち、
揚北衆などの「使いにくいけどしぶとく強い」土豪を
景勝の代でその大半を遠ざけ、冷遇したために転封時に完全に失った。
彼らは関ヶ原時に、直江兼続の調略に呼応して一揆を起こしたけど、
決して上杉の指揮のもと家臣として一糸乱れずというかたちではなく、
文字通りの土豪として自分の立場で戦った。
謙信はこいつらにうんざりしながらも、譲歩し、うまく使いこなしていたが、
謙信以上に潔癖で実は人間の好き嫌いが多く器の小さい景勝は、
臭みのある土豪を使いこなせず、
自分の旗本衆や、信濃から流れてきて後ろ盾がないためよく言う事を聞く
旧村上系の人間を重用してイエスマンの軍団を作った。
結果は、見ての通り。
まあ、120万石の水増し軍団は確かだな。
徳川の最強旗本も水増しで大坂では醜態をさらしたが。
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/08(金) 14:33:43 ID:bnBFDp/6
>>276 そういう古い体質からの脱却はどこの大名もやってるよ。
中央集権化が必要とされる時節には古今東西散見される問題の一つだな。
>>278 うん。でも信長も秀吉も家康も時期を間違えないで成功させた。
どこの大名もやっていることだから、あきらかな大失敗をしている上杉の減点はでかい。
最強の三河武士なんて秀吉の数万相手に大立ち回りした1万程度だからな
大阪で馬印捨てて逃げたのは武田系の連中だし、もし三河系でも世代交代済みでどうせ脆い
>>280 いやあの、、、、
越後、信濃、甲斐あたりの土豪と尾張近江、近畿あたりの土豪と一緒にすんな。
>>280 信長と家康は時期を間違えたけど成功したと言う気がする
信長は尾張で今川の侵攻を受けつつ一族をまとめた
家康は今川から独立して一向宗が一揆を起こしてる時に庶家豪族を
他の時期ならもっと楽だったろうに、
その場合はもっと時間かかったかもしれないが
家康の掌握時期は、とても苦労する時期ではあったが、実に良い時期だった。
三河一向一揆で勝ち抜いたからこそ、諸松平から徳川を抜きんでた存在に出来た事と、
国内敵性勢力をひとまとめにして一挙に屠れた事は大きい。
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 00:56:35 ID:7vVSJCFk
最近は日本史板の方が盛り上がってるな
悪い盛り上がり方だが。
286 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 04:58:53 ID:IwhRlgdh
小早川秀秋の名は欠かせない
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/13(水) 07:27:33 ID:9RI1acrm
小早川秀秋氏んで
秀秋が毛利輝元の養子になって、秀包が小早川家を継いでいれば
案外上手くいった気がする。
それにしても豊臣一族だった秀秋が裏切ることが豊臣滅亡の遠因になるとはな
小早川家に追い出されて領地まで召し上げられたのに一族だからって豊臣のためになんか戦えません
領地を戻してくれたのは他ならぬ家康だし最初に西軍にいたこと自体が裏切りですよ
というか東軍の豊臣軍だって豊臣のために戦ったんだし
豊臣の家臣の家康は戦後戦勝報告に行ってるよ
豊家直臣以外の東軍武将は単に家康が勝ちそうだからついただけだろう
「豊臣のため」なんてことは思っていないはず。
>>292 そんな事言ったら西軍のほうこそ「西軍勝ちそうだから」の連中の方が…
豊臣家から見たら西軍の方が圧倒的に「外様」が多いわけで。
石田、大谷、小西、宇喜多、安国寺
これ以外はたまたまあの時大坂にいたのでなしくずし的に西軍になった。
>>294 立花宗茂も最初から西軍につく気だった。
小西、安国寺は忠臣だから西軍になったわけじゃないだろ
勢力争い
上杉も
全軍が広大な平野に集結して真正面からぶつかったら西軍と東軍どっちが勝つんだ?
298 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 01:26:48 ID:HvOHmSjO
てか秀吉が三成を100万石にしとけばよかった
そうなれば三成自身が3万連れてこれてたし
100万石の影響力からもっと西軍についた者も多かっただろうな
本人がそれを断っちゃったんだから仕方無い
三成自身も、必要になってから激しく後悔してたようだが
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 01:41:00 ID:n6JZCwlD
加藤や福島らも石田に対して文句言えないだろうね
301 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 01:47:52 ID:n6JZCwlD
>>298 そうなったら、五奉行とか旧豊臣系大名の嫉妬は激しいだろうな。
益田などは史実以上に家康に取り込まれるだろうし。
もともと傲慢って世間の記録に残るくらいだから、本人の増長もすごいだろうし。
総大将の地位を巡って、宇喜多や毛利との関係もおかしくなりかねない。
最悪、3万の兵はあるけど、他がみんな島津義弘のようにそっぽむいた、になりそう。
あと三成は、戦略の判断が悪すぎだから、
3万の塀をバックに、史実以上の強引さで戦略に口出ししてきたら、
全部裏目に出る可能性のほうが多い。
そもそもが、秀吉が100万石与えるって言ったといわれてる晩年に
そんなことをしたら、諸侯の不満が爆発して内戦状態に陥りかねない。
史実でも、代官としていった筑前接収は大失敗になって、
その間に取り消し命令がでたので収まったわけだし。
>>301 加藤は条件次第だった。
佐竹は西軍に付くつもりだった。
>>294 ていうか殆どは条件次第、勝ちそうな方でしょ、成り行きて言えば小牧も成り行き。
真田は九鬼とかと同じく
どっちに転んでもいいように二股じゃん
大した義理もなく片方に賭ける奴は無能だしな
小野寺?
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 20:23:31 ID:voWTviyN
>>304 いや、それはちと疑問。
九鬼は単なる喧嘩分れだし、
真田も密約とか怪談なるものはなかったらしい。
佐竹は確かに西軍派だったが親父や家臣の猛反対に潰されて中立。
加藤清正は確かに条件次第で西軍だったし、
実際、関が原終わるまで動いてない。
真田は婚姻関係が東西両方にあったのが問題だったんじゃねーの?
真田は結婚以外にも徳川と因縁があるね
石田も分かれたけど事実上取りつぶしだな
それは俺も思った。
西軍bP武将は誰?
政治力bP・・・石田三成
統率力bP・・・?(強いて言うなら 毛利家という存在)
戦闘力bP・・・明石全登・立花宗茂
人望bP・・・大谷吉継
名声bP・・・毛利輝元
国力bP・・・毛利輝元
容姿bP・・・宇喜多秀家
活躍bP・・・石田三成(挙兵前)・宇喜多秀家(挙兵後)
東軍bP武将は誰?
政治力bP・・・徳川家康
統率力bP・・・徳川家康
戦闘力bP・・・徳川家康
人望bP・・・徳川家康
名声bP・・・徳川家康
国力bP・・・徳川家康
容姿bP・・・?
活躍bP・・・黒田長政(工作)・小早川秀秋(裏切り)・吉川広家(不戦)
東軍の容姿No.1は井伊直政あたりか?
活躍bP 家康
合戦だと福島か
大軍の宇喜多とやりあったので
316 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/16(土) 22:19:43 ID:koyXhwuT
東軍に主家変わりまくりno.1に藤堂高虎を入れ、西軍no.1には小川を入れろ!
東軍のイケメンbPは森忠政
理由:蘭丸の実弟だから美形だろうと・・・
こいつらキモイ
>活躍bP…黒田長政(工作)・小早川秀秋(裏切り)・吉川広家(不戦)
しかし、西軍はほんと黒田甲州ひとりにしてやられたようなもんだな・・
321 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 03:29:30 ID:tI1XpLwH
もし、立花宗茂が関ケ原の本戦に参戦してたら・・?
やはり、西軍の戦略はまずかったんだろうかな?
322 :
:2006/09/17(日) 03:50:29 ID:ifBAVzJU
はなから毛利や小早川が東軍で
石田、大谷、小西、安国寺、平塚、織田(秀)
真田、島津、佐竹、立花、宇喜多、上杉
こいつらだけでも一塊で東軍に当ったら、勝てたと思う
323 :
:2006/09/17(日) 03:56:54 ID:ifBAVzJU
上杉 佐竹 真田 島津 立花 宇喜多
織田 大谷 石田 小西 安国寺 平塚
324 :
:2006/09/17(日) 04:07:39 ID:ifBAVzJU
上杉 佐竹 真田 島津 立花 宇喜多
織田 大谷 長宗我部 平塚
小西 毛利(秀) 石田 安国寺
秀頼
325 :
:2006/09/17(日) 04:10:45 ID:ifBAVzJU
上杉 佐竹 真田 島津 立花 宇喜多
織田(秀) 大谷 長宗我部 平塚
小西 毛利(秀) 石田 安国寺
秀頼
326 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 04:31:19 ID:q9wKf2wM
そなたは一体何がしたいのじゃ?
まさか、関ヶ原の西軍布陣図のつもりか??
毛利家が初めから東軍なら西軍は集まってないwwwww
よくて宇喜多が来るくらい
そらそうだ。西軍の大半は毛利120万石の石高と動員力の保証があって
集まったようなもんだ。
伊達が西軍なら勝ったな
いいえ、まったく関係無いです。
伊達様は奥州の箱庭の中で遊んでいてください
東西どっちにつくにしても火事場泥棒程度が限界です
>>318 お乱が美形ってのは後世の創作で同時代の文書にそれをうかがわせる
記述はないだろ
>>333 完全に名前(と年齢)から来ているよなあ>蘭丸
つーか、表記が「乱丸」として一般に定着していたら、どういうイメージになっていたのやら。
蝉丸なら完全に坊主扱いだな
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 01:38:35 ID:RkmiwQoH
>>330>>331>>332 伊達が西軍の立場を明確にした場合だと、さすがに西軍有利だろ。
例えば上杉に後顧の憂いがなくなるんではないか?
関東の背後に上杉伊達連合があった場合、最上は頼りにならん。
つーか伊達上杉に加担しかねん。
がんがっても勝ち目ないだろうし。
佐竹の去就もな
上杉伊達が積極的に関東を脅かせる状況になった場合
佐竹家中でも関東での戦況見て参戦するかもしれん。
なにより上杉の後背を伊達が支え加勢する状況だと
家康が上方にいけないではないか。
>>336 伊達が西軍につけば上杉が東軍につくんじゃねえ?政治ってそういうもんだよ。
>337
でも上杉にいちゃもんつけたのは家康だろ
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 05:09:08 ID:Vj86oUmi
あの時期の伊達に西軍につく可能性がどれだけあると思ってるんだ?
まずない。そんな仮定は非現実的すぎ。
徳川家と伊達家の関係をちょっと調べてみ?すぐわかるよ。
>>338 伊達が西軍について反乱起こしてくれるんなら、上杉を敵に回すいわれはなくなるし。
341 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 05:42:19 ID:NpMdAI26
家康の凄いところは、8月上旬頃には、戦後のことをすでに想定してるところだな。
家康の上杉対策は、上方で三成を破った後、伊達と一緒に本格的に武力討伐する。
よって伊達殿はあえて兵を動かさなくともよい。上杉を監視するだけで十分。
上杉は絶対に動けなくなるから、と使者を通じて言い含めた。事実その通りになった。
白河へ動けば政宗に、伊達、信夫、二本松、さらに長井まで侵攻され尽くされることを
景勝は躊躇し、家康追撃という決断ができなかった。
上杉は関東への侵攻なんて2の次。
最上を屈服させたあとは伊達と和睦して越後奪還。
上杉なんて会津に入って間もないものな
蒲生の代わりに誰かいなかったのかアソコ
関が原があっという間に終わって怒涛の流れで徳川の天下。
しかし我々後世の人間は結果を知ってるからこそ当たり前のように思うが
再び戦国の世が始まると当時の人が考えてもおかしくない。
上杉が地盤がために走ったのも当然。
上杉は、最上・伊達を撃破してからと考えたのかもな
それだと時間がかかりすぎる。
東北の冬で軍事行動は難しすぎる、実際最上の庄内征服も翌年に持ち越されているし。
1600年中に最上を滅ぼしたとしても、翌年いっぱいは伊達戦に取られるだろうから、
関東進出は1602年以降になってしまう。
しかも最上も意外に善戦して、そのまま冬期に入ってしまいそうだしな。
途中まで秀忠本隊が下野にもいたし秀忠が去った後でも関東は空ではない。
そもそも関東討ち入りは考えていなかったのでは?
そもそも上杉に軍資金&糧食があるのかな。
関ヶ原直前の上杉に残ってた軍資金は
金1300枚(=小判8枚換算として1万両)しかなかったわけだし。
>>348 謙信時代もそうやって軍勢を関東に入れることで越後の端境期を乗り切ってきたわけだが。
下野・武蔵と略奪しながら江戸へ南下すればよろし。
背後をかためないと身動きとれないからね。
今川義元を討ち取っても三河に攻め込まず家康と同盟を結び武田北条という
強敵と直接対峙せず西へ向かった信長はやはり天才。
それにくらべて朝鮮、満州、華北と敵に近づいていった我が日本のバカ!
父なる秀吉、偉大なる家康の導の元に
人民の夢の実現を、永遠なれ吾が祖国
>>349 補給が効かなくなったから小田原攻めが頓挫したんですけど?
実際それ以後の関東進出で、利根川を渡れた方が少ない。
下野辺りで暴れ回ることは出来るだろうが、それ以上はきついと思うよ。
353 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 22:42:30 ID:ToUejjFP
もし関ケ原のような東西を二分し天下分け目の決戦が1570年におきたらどっちが勝つ?
*この頃は群雄割拠なので盟主を置かず、同じ敵を持つ連合軍にする
*兵力はそれぞれの大名が動員できる最大兵力
*意思の疎通などはそれぞれの大名の性格で ただし相手を倒さなければ滅亡が前提なので裏切りはなし
東軍 織田・徳川・武田・北条・上杉・伊達・佐竹・浅井・朝倉など
西軍 毛利・本願寺・島津・大友・龍造寺・長宗我部など
利害対立で両軍崩壊。
謙信は本領には攻め込まれなかったが
関ヶ原だと伊達が乱入してくるべ
そっから謙信は野戦に持ち込めば勝てるが
養子はそうでもないっぺ
本領に侵入された上で野戦で敗走でもしたら
終わりっぽい
まあ一日じゃ終わらないだろうねえ。
関ヶ原は1日で終わり
358 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 00:50:25 ID:QUeMpDxz
>>354 まぁたしかに
上杉VS武田・北条や織田VS武田や九州殺し合いとかおきるなW
でも1570年頃なら元就や氏康、信玄、謙信などが健在だから
関ケ原以上の合戦になるから面白そうなんだよなー
勝者はやっぱ信長がいる東軍側かな
359 :
:2006/09/22(金) 02:58:07 ID:UE7HkCYh
東軍 徳川・齋藤・浅井・朝倉・今川・武田・上杉・北条・伊達・佐竹・最上・芦名・南部・津軽・真田など
西軍 織田・豊臣・足利・三好・毛利・大内・宇喜多・尼子・本願寺・雑賀・島津・大友・龍造寺・長宗我部など
に変更。尚、各大名の勢力の最盛期とし、軍を率いる大将も
例えば、伊達家は政宗、真田家は昌幸、佐竹は義宣のように、最も有能な武将とする
西軍の豊臣に関しては織田家から独立し、加藤や石田などの直属の配下だけを率いる事にする
兵数だけで言えば西軍が若干有利だが果たして決戦の行方は如何に!?
360 :
:2006/09/22(金) 03:11:21 ID:UE7HkCYh
勢力的にみて東軍の大大名クラスは、
徳川、武田、上杉、北条、今川、伊達、佐竹
西軍の大大名クラスが
織田・豊臣・三好・毛利・大内・宇喜多・本願寺・島津・大友・龍造寺・長宗我部
個人的に見てみたい対戦が
西軍、尼子経久VS東軍、齋藤道三 西軍、雑賀孫市VS東軍、真田昌幸 西軍、島津義弘VS東軍、上杉謙信
西軍、大内義隆VS東軍、今川義元 西軍、毛利元就VS東軍、北条早雲 西軍、大友宗麟VS東軍、伊達政宗
361 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 06:30:26 ID:5ViUrS4W
浅井・朝倉は西軍じゃないのか?
あと佐竹・芦名も西にするべき。
大仰なIFはつまらん
363 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 06:52:45 ID:QUeMpDxz
>>359 最盛期の時じゃみんな領地、配下かぶりまくりじゃん
だいたい最盛期じゃ家康は天下取った時だぞ
それに年代バラバラすぎだアホ
素直に1570年にした方がいいだろ
美濃、尾張が本拠地の信長西軍じゃおかしいだろ
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 06:58:19 ID:QUeMpDxz
>>361 佐竹を西軍にしたら東軍は東北地方だけになるけど
365 :
:2006/09/22(金) 14:03:45 ID:UE7HkCYh
>>363 細かい事にゴチャゴチャ言ってんじゃねーよ
直属の家臣団って考えればいいだけだろうが
仮想の戦いなんだから年代とか言うなよ
臨機応変に考える力ねーのかよ? 空気嫁よ このヒキが
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 14:17:34 ID:QUeMpDxz
>>365 真田家は幸隆から昌幸を含む息子全員、武田家の直属の家臣だけどどうすんのW
君の理論は空想にすらならないから素直に
信長、元就…VS家康、信玄 とかにしろよ
367 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 14:37:28 ID:U2ERnyFE
なぜ誰も
>>359の
>佐竹は義宣のように、最も有能な武将とする
に突っ込まないのか
マイナーだからよく知らん
死ねよ馬鹿ども
>>368 可哀想な西軍厨なんだから、生暖かく見守ろうぜ。
372 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 22:12:50 ID:uV8XeR2I
>>368 確かに親父のほうがメジャーだと思うのだがな・。
>>359 むしろ、
> 例えば、伊達家は政宗(中略)のように、最も有能な武将とする
に思い切り突っ込みたくてウズウズしているわけだがw
>>372 増やした石高だけで言うと、一応義宣のほうが有能、とならないこともない。
親父 10万石を20万石(常陸半国) 2倍、10万石増加
息子 20万石を54万石+12万石(岩城) 3倍、44万石増加
まあ、関ヶ原で負けてパアになったけどなw
375 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/24(日) 16:52:29 ID:zOPgb2Eh
話を関ケ原に戻す
もし、西軍が東軍大名・兵士の妻子を保護し、東軍の前に出して
「儂らは無事だ、それに石田様達は善政をしてくれている、だから武器を捨てて村へ帰って来い」
と兵士の家族に言わせる。
もともと東軍の兵士達は、出来れば大坂方に付きたいと願っていたらしいから、投降してくるかもしれん
でも無理か…
>>375 兵士の家族って・・・。
黒田:九州であばれまわる
福島・池田・田中・堀尾・山内・中村:東軍影響下の東海道筋
藤堂:四国
細川:関ヶ原直前まで、本拠田辺で交戦中
筒井や細川が距離的に可能なラインだが、それでも微妙。
東海は徳川が往来する際の通り道だから
早くから関係が出来てたのかも知れないな
何のために東海道に配置したのかな、秀吉も誤ったな。
東国で謀反がおこれば東国の大名が先に出陣するのは仕方あるまいよ。
前田が東海道ならよかったのに・・・
でも利家死んだら意味ないかww
まさか身内同士が大げんかするとは思わなかったんだろ
383 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 18:46:49 ID:qc7YXbtE
東海筋の大名が指揮下に入るべき大名が関東の大老である家康しかいなかった
のが問題だろう。
秀次を処分しなければ、もしくははやまって関白にしなければ
東海筋の大名は秀次指揮下にいたろうから、あそこまでだだすべりに
家康下に入ったかどうかは・・
ハゲド
385 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 19:16:31 ID:JREwERNs
そもそも清洲の正則が家康側につかなかったらあんな簡単に東海道落ちんかっただろーな
福島が西軍になればそれにつられて何人か西軍かもな
しかし石田がいる以上(ry
伊勢攻めにかかった時間を短縮できれば尾張まで押さえられたかもしれないのに・・・
何であんなに時間がかかったのだろ吉川が邪魔していたのか?
みっちゃんが大坂にいて変わりにてるもっちゃんが関ヶ原にいたらどうよ?
三成が東軍になればよかった^−^v
>>389 三成が東軍に参加した場合、誰が西軍を引き連れるのかを考えよう?
…長束?
>>390 > 三成が東軍に参加した場合、誰が西軍を引き連れるのかを考えよう?
徳川家康wwwww
つうかあんな企画三成以外の誰に音頭が取れるんだ?
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/27(水) 22:24:33 ID:t0q+pwUE
しかし例え西軍が完全勝利して天下を平定もしたとしても
三成の場合は東軍における家康のようにオールマイティな指導力を
もてないのが問題だな。
三成が家康なみの政治指導力をもてれば、豊臣政権も希望が持てるのだが
三成の上には
毛利と上杉が東西の二大巨頭として
宇喜多も戦功で、相当拡充する他、豊臣家門としての政治的立場も強まり
加えて二大巨頭への対抗上、前田や秀秋、徳川秀康とかも取り込んでいくであろう。
三大老が戦前の家康以上に巨大化してしまい、
三成の下には
佐竹、真田、小西、島津、長宗我部といった大大名が生まれてくる。
これでは・・指導力も発揮できまい。
三成が家康を従えてともに頑張ればよい
関ケ原にも猫おったん?
そういえば実は首謀者は宇喜多秀家、て説もあったな。
秀家の戦準備が三成より先行してる節があるだかで。
>>383 なんで小粒な大名ばかりを配置したのか疑問だよな。
全然徳川に対するけん制になっていないどころか東軍についちゃうんだもんなー。
秀吉配下で大粒っていうとぱっと思いつくのが
前田利家(死去)黒田官兵衛(九州で単独行動)羽柴秀長(死去)竹中半兵衛(とっくに死去)
えーと、後誰が居た?
蜂須賀。
そうそう蜂須賀正勝(死去)……
息子は阿波を豊臣家に献上して出家、孫は東軍として関ヶ原に参加……
蜂須賀家政は家臣に兵を預けて大坂に派遣してたよね、豊臣家次第て感じだった筈。
親父が生きてたらどう動いたかなあ、鱈れ場論スマソ。
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 17:20:57 ID:Gpdf0+rW
大粒・宇喜多を東海道70万石にする
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 19:22:14 ID:ih1Gghm9
立花宗
406 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 19:24:39 ID:ih1Gghm9
上はすんません。
立花宗茂ひきいる九州勢1万5000が関ヶ原に到着していれば
面白い戦いになっていた。
たられば、過去は変えようが無いの
温故知新、変えようがあるのは今現在おのれの人生
誰彼がこうしてれば、則、今を生きる貴方達
別に過去が変えたいからたられば言ってるわけでも
>>403 親父が生きていたら秀吉の生前にクーデター起こしてたかもなw
秀吉の事は好きなんだろうけど、怖いなどとは思わなかった人間だろうし。
>>406 立花勢は四千しかいないぞ
関が原にもしいたら奮闘しただろうし死傷者が万単位で増えてただろうが
戦全体をどうこうできるほどの数じゃない
412 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 04:19:39 ID:6ti6lZSX
立花宗茂、小早川秀包、鍋島勝茂、竜造寺隆房などの
九州勢15000が京極高次の守る大津城に足止めくらって
いたのでは?10万石に満たない京極高次の守る大津に
15000の軍勢は勿体無いでしょ。3000〜5000くらいの
軍勢を割いておけば十分かと・・・関ヶ原の本戦に
10000の実働部隊がいれば面白くなっていたようなと
思いまして・・・
413 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 07:05:04 ID:5PJnB6sw
立花いてもだ。屈強な徳川本隊がおるし毛利動かんし小早川裏切るし駄目だな。
東軍は調略の段階で、もう勝ってたようなもんなんだな・・
415 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 07:26:37 ID:LdFGcgoT
大津攻略部隊(約1万5千)、到着した時点で、西軍が数の上では一万以上優位
になるわけだから、吉川・小早川共に心変わりする可能性は高い。
ただし、そんな状態になったら東軍は、秀忠or前田の到着を待つだろうから
関ヶ原へ進出はしないだろうな。
417 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 22:05:22 ID:hzJfbFHU
前田の到着
この場合は厄介だろうな。
恩賞も100万石より上になる必要性がるだろうし
何より一応同じ大老格だからな。家康にナニカあれば
現場にいない秀忠に代わり現地の東軍を統括できうる立場だし
>>415 そりゃ全部が全部、戦闘部隊ではないが張子の虎ではないぞ
関ヶ原の進軍って家康も三成もやむえずじゃなかったか?
三成的には大垣あたりで勝負したかったろ
両方ともやむをえずというわけではない
前田も立花も来た。
あとは戦略で勝負だ。
前田は関ヶ原までは来ないだろ
西軍も後方を遮断されるのは困るから
前田が来る場合は佐和山まで引くか、敦賀や北近江の山間部あたりで食いとめるはず
まあ丹後攻めの部隊をそのまま前田の足止めに使うと言ったところか?
敦賀で守るなら大谷の部隊が関ヶ原から移動ということになるかも。
423 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/30(土) 04:22:51 ID:3tORS7oz
前田なんか、丹羽と戦うのが精一杯なんじゃ?
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/30(土) 05:16:00 ID:L6u/tmv2
飛騨経由ならば簡単に来れるだろう〉前田
>>412 鍋島・龍造寺の肥前兵が大津にいたというのは新説だな。w
見事にスルーされてる毛利(末次)元康って本当に影が薄いよな…
毛利勝永がいるじゃないか。
森を仮名にすると毛利、もり
モーリーを探せ
ま、毛利勝永は、『名門毛利家』にあやかってその苗字をもらったわけだから
まったく関係無いわけではない。
ま、畠山鈴香さまは足利の名門畠山氏に興味を持たれたそうだから
まったく関係無いわけではない。
京都で戦争すれば西軍は勝った。
無理だよ。
>>429 実際、毛利の読みは「もり」だったって話なかったっけ?
>>436 そう言えば「伊達」も、江戸末期まで「イダテ」って読んでたらしいな。
織田信長は Ota Nobunanga
関ヶ原オフを開催。
440 :
名無しさん:2006/10/01(日) 21:58:38 ID:NbdqQkCD
もし、石田三成が、大阪城から、豊臣秀頼を総大将として、かつぎだすことが出来ていてなら、豊臣系の武将は全部ねがえっていただろうし、秀忠公が、合戦に間に合っていたなら、東軍は、ねがえった兵の数は、補充出来ているし、どう戦況が、変わったか、わからないよなあー。
>>440 秀頼に弓を引く豊臣恩顧大名はいないというのは、家康は負けないと
考えるのと同程度に根拠のない妄想。
>>440 担ぎ出した所で「アレ偽者」って言われて、三成と一緒に責め滅ぼされたら大笑いですな。
つーか、大勢が堂転ぶかわからないうちから、外様色の強すぎる西軍にのこのこ
担がれるようなマネをすると思うかね?
結果的に家康が豊臣家を滅ぼしたと言う、歴史を知った上で見ると豊臣家の行動は
歯がゆいかもしれないが、当時の目から見れば間違い無く東軍の方が豊臣正規軍だよ。
正直さぁ、正則達とか秀吉には忠節誓ってたけど、
秀頼に忠誠心があったかどうかが分からん
ま、そんなことより、三成と家康が一騎打ちしたらどっちが勝つんだろうな?
家康はもう爺だし、三成はひょろそうだし
家康じゃ
三成はもっと東へ進軍して決戦できてればなー。
大軍が迫ってくれば、日和ってた東海筋の大名もびびって西に
つくだろうし。
>>446 そんな統率力が三成にあればもっと(ry
いや西軍もかなり速い速度で東進していたとは思う。
しかし政則ら東軍先鋒の西上の速さと、後方の平定に手間取った事が痛い。
田辺城はともかく伏見・大津は捨て置くわけにはいかないし、
伊勢は小大名群とはいえ、それが東軍に合流されれば厄介だから長期戦を考えれば攻略せざるを得ない。
二ヶ月でこれらのことを片づけていたことを考えれば、西軍は良くやった。
449 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 08:42:18 ID:g24wSn4h
小早川長曽我部が鳥羽伊勢に進軍して
立花鍋島が三成と関ヶ原に来てたら勝ったな。簡単ぢゃないか。
>>449待て待て。小早川が来ないと分かれば家康は関ヶ原に来ないだろ。戦いは大垣市で長期戦になる。が前田秀忠が合流する。西軍は孤立して勝てない。
51 :ひよこ名無しさん :2006/09/28(木) 20:33:08 ID:???
みんな、名古屋に「竹石 圭佑」って物がいたことを忘れないでやってくれ。
竹石は確かに人間のゴミクズで在日で、覗きや万引きで逮捕されるような
どうしようもない奴だが、それでも一応生きてるんだ…
だが、竹石も今年で20歳…脳内は小学生くらいの思考能力しか備わってないが…
馬鹿でかなりの目立ちたがりだから、成人式に出て、騒ぎを起こさなければ良いが…
>>406 立花宗茂ひきいる九州勢1万5000>主力は毛利元康率いる中国勢。
>>410 秀吉の生前にクーデター>正勝は秀吉マンセー、祭り上げくらいか。
>>412 確かに面白い。
>>413 >>416 毛利動かんし>どうなるか、毛利家中で一番の主戦派が参戦する訳だからな。
>>441 根拠のない妄想。>でも無い、当時の状況では家康も弓を引けない筈だし、その分析のため江戸を
動けなかった。
>>443 秀頼に忠誠心があったかどうかが分からん >当時の忠誠は一代限りかも。
>>444 三成はひょろそう>賤ヶ岳では一番槍じゃないか、漏れや藻前では瞬殺だな。
長々と須磨蘇。
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 14:18:34 ID:yqw8KRSX
あー、四の五の言わずに
豊臣、石田、小西、安国寺、大谷、宇喜多、平塚、真田、上杉、佐竹、立花、織田、丹羽
こいつらくらいだろ? 純粋に西軍と言える大名は?
VS他の大名で、関ヶ原で勝負したら勝てるのかよ?
佐竹は西軍に近い中立じゃね?義久は東軍に従軍してたそうだが。
>>456 豊臣の旗本的な寄せ集め部隊が従軍していたと思ったが。
真田が西軍なら九鬼も西軍じゃね?上杉だってかなり微妙
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/03(火) 05:28:11 ID:BuueDtrh
家康嫌いなら西軍です。
>>418 それぞれの備を独立部隊として働かすには構成する武将の粒が小さい。
防御主体の旗本備だからだ。
462 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/03(火) 12:01:10 ID:AwLMGgXm
寄騎同心制で規模を大きくすれば問題なし。
463 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/03(火) 15:56:01 ID:ZOpO7JAe
確かに立花宗茂らが関が原に来るまで待っていたら戦局は不明だったろう
立花は関が原で改易になった後、家康に大名として召抱えられた
名将たるゆえんだろう
関が原最大の失敗は吉川広家だろう
家康に騙された
これがなければ毛利軍が参加して家康の勝ちはありえない
広家は家康の策に乗ったたために毛利120万石を30万石にされ
臣下の安国寺は斬首された
家康は毛利に厳しい戦後処理をした
関が原で厳しくされた薩長土佐が統幕で活躍するとは間の250年がなかったみたいな話だ
>>463 薩長土佐以外にいくらでも厳しくされたところはあったわけで(上杉とか)
その250年の間に、結果的にその3つが残ったに過ぎない。
土佐って長宗我部のこと言ってるの?
長宗我部家臣に厳しかったのは山内
立花を呼び寄せないのわ三成の誤算
増援しない島津の怠慢。
でも島津に増援がなかったのは兄弟の仲が悪かったからで、仲が悪くなる様に
画策したのは秀吉な訳で。
まああんな最後まで逆らった大名信用しろってのが土台無理なんだが。
>>468 朝鮮出兵での疲弊に加えて、お家騒動で余裕がなかったんだね。
義弘自身は親豊臣・三成、いろんな逸話があるけどネタが多いね。
島津は貧乏だし、当主は介入する気なし
島津が5000率いてたら間違いなく勝ったな。
>>471 5000つれてきそうだったら、家康がなんとしても取り込んでいるよwww
島津が簡単に寝返るとは思えんが・・・
恐らく、5000も連れてきたら、三成や西軍諸大名も史実より大切にするから、
島津の発言力も行動力も上がる。
きっと独断で夜襲なり強襲なりするよ
島津と立花の揃い踏み、見てみたかったなあ。
475 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/06(金) 01:27:55 ID:Gtdh4N/3
力技一辺倒な感じの島津だけど関が原後も改易されてないんだから
したたかだ。
51 :ひよこ名無しさん :2006/09/28(木) 20:33:08 ID:???
みんな、名古屋に「竹石 圭佑」って物がいたことを忘れないでやってくれ。
竹石は確かに人間のゴミクズで在日で、覗きや万引きで逮捕されるような
どうしようもない奴だが、それでも一応生きてるんだ…
だが、竹石も今年で20歳…脳内は小学生くらいの思考能力しか備わってないが…
馬鹿でかなりの目立ちたがりだから、成人式に出て、騒ぎを起こさなければ良いが…
上杉は、総兵力8万あまりを動員し、相当に綿密な作戦をたてて
準備を万端に整え、徳川をてぐすねひいて待ち構えていたらしいね。
戦えばあるいは徳川は惨敗し壊滅状態に陥ってた可能性すらある。
そこまでいかなくても相当にダメージを受けただろう。
三成と直江がグルだったというが、むしろ三成の挙兵は横槍としか
思えん。
上杉と徳川の戦闘が始まってから挙兵しても遅くはなかったのでは
ないか。
では何で降伏したんだろ?
それは普通に関ヶ原で西軍が即効負けたからでは?
他に脅威(潜在的敵対勢力)がある場合と、完全にガチになった場合では状況も違うだろ。
三成を当てにしていたということか?
毛利や島津など他にも脅威があったけど
>>477 誰の説かは忘れたが、当時の三成の書状等から、上杉が挙兵し、徳川と戦端を
開いた直後に大坂側が挙兵し、徳川勢を挟撃するってのがそもそもの計画だったが
他の大名らの家康を早々に討つべしの声に負けて挙兵が早まったってのがある。
19万5千石の悲しさよな。
482 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/15(日) 21:07:00 ID:4H3FLoFO
東軍総大将 徳川家康250万石
西軍実質総大将 石田三成13万石
格が違いすぎる。
形式上の総大将毛利100万石VS徳川250万石で格が違いすぎる。
やはり、豊臣秀頼が総大将でなければ西軍は勝てなかった。
483 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/15(日) 23:03:35 ID:0LB/Ii5C
三成が政治的公的には隠居して家督を譲っていた立場というのも
致命的だろ。
石高だけならば豊臣政権の公的官職でリードできないこともない
まして三成は残る奉行より格下、他の奉行のやる気の無さとも比較すれば・・
秀頼が総大将なら家康は戦わないだろ
>>478 関ヶ原前と後では状況が全然違うから。
関ヶ原前は伊達も最上も家康側についたといっても表面上の従いで内心は両家とも天下の動向が決ってから動こうとしていたわけ。
事実、伊達は上杉と和議を結び、最上は上杉が攻撃してこない様にと御機嫌伺い。
越後は上杉の残党の一揆で堀が攻め込んで来れない。佐竹は中立的立場で動く気配が無し。
つまり上杉にとって徳川家康が率いる軍だけが敵だったわけ。
けど関ヶ原後になると家康の勝利が決定したため北からは伊達と最上が本気で上杉に向かってくる、そして南からは家康が率いる軍が向かってきて挟み撃ちになってしまうわけね。
こうなると勝ち目はほとんどない。
実際に戦闘になっていたなら佐竹も家康側についただろうしね。
関ヶ原前でも、伊達最上は本気だよ
戦争だからね
挟み撃ちなのは最初から
上杉は三成を当てにしていたということか?
487 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 00:25:41 ID:00xxKsro
家康は上杉を動けないようにすればいいんだったら秀忠の兵でもなんとか
なるんじゃないだろうか。
家康本体は関が原で勝てば結局同じようなきがする。
488 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 01:04:14 ID:VzV1DP2J
伊達の本気てどういう本気かなあ。
南部領の削り取りか。
上杉家は自ら滅びるつもりだったと考えれば合点が行く
490 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 02:05:57 ID:LqJGBSTv
石田毛利上杉島津立花真田宇喜多長宗我部大谷
VS
徳川加藤加藤福島黒田浅野藤堂小早川伊達最上
一気に激突したら面白そうだな
491 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 02:40:59 ID:/7p9wV1l
朝日新聞の記事は他新聞と比べて一番ま
ともではないだろうか日本が右傾化しない
ように社説で繰り返し述べているはき違え
た愛国心を煽るようなマスコミを信じては
いけない売れさえすればいいという軽薄な
商魂の論説ばかりが国を危うくするのは太
平洋戦争で懲りたであろう機会ある毎に日
本の過去の過ちに対する反省を促し関係国
の友好を深めようとしているのが朝日新聞
であるなまじ知った歴史の一部で全てがわか
った顔をすると恥をかくだけだのうのうといき
ていられるのは平和憲法のおかげであること
は間違いないできもしない自主防衛を唱えて
いては過去の過ちを繰り返すだけである。
不利なことがわかっていながら国民を煽って
戦争に突入し買い物も切符が無ければ買えも
しないような生活をさせながら運用される
資金はべて軍事行動向け動力になるべき燃
料もなく資源も無い日本が何の大義もない戦争を
推し進めるのは狂気の沙 汰としか言い様が無
進軍ラッパをもう一度聞きたいのか?
492 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 05:38:40 ID:SPD6Fgfi
うるせーゲロウ共。
吉川広家様の指ひとつで天下は変わるんじゃボケ!
確かに天下は変わったな。
毛利は大減封で末代まで屁たれ扱い、広家は一族の恥、狸に騙されたお馬鹿てね。
>>490 伊達と最上が入ってる方が負ける。主戦場以外に隔離しておくのが東軍の必勝法。
>>487 関が原はもっと苦労すると思ってただろうな
結局数時間、しかも豊臣同士の潰し合いで徳川の消耗は最小限に抑えられた
あんだけ東側の豊臣系と西がアホばかりと分かっていれば秀忠要らなかったのに
496 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 16:23:44 ID:n54kgdKY
前田伐軍が加賀に向かう途中、石田・毛利・宇喜多・上杉が起てば前田をも味方に出来る上に、中村や堀尾など東海道の大名も味方になるではないか?
497 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 16:25:21 ID:n54kgdKY
訂正
>前田討伐軍(家康率いる)
伊達の本気は寺領の拡大
徳川の天下は望んでいない
上杉はなぜ最後まで滅びようとしなかったのか?
結果論になるが、前田を見殺しにしたのは大きかった
ウーン、利家が存命の時は四大老が対家康で決結してたよね。
代替わりして支持がえられないあたりの経緯はどうなの。
三成は失脚、毛利・前田・宇喜多・上杉はそれぞれ帰国中。
このような状態で、前田討伐→宇喜多騒動→上杉謀反の噂。
家康がここまでやるとは予想しなかったのかも…。
家康は用意周到。
三成を政権から追い出して豊臣を骨抜き、
宇喜多のお家騒動を煽る、
上杉は転封して間もないので、お為ごかしで帰国させる、
だれもいないところで反家康の旗頭を潰す。
こう考えると利長が利家の遺言を守らなかった時点で家康の術中だな。
502 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 22:39:46 ID:DcuTslnB
前田の縁戚の宇喜多は領国も大坂に近いし、何もしなかったのかな?
503 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 03:22:09 ID:bG8HiZLe
本多親子ってめちゃくちゃ有名なのに日本史の教科書に出てくることは無いんだよね
>>501 つーか、戦国の文法から言えば
>三成を政権から追い出して豊臣を骨抜き、
追い出される隙を作るのが悪い
>宇喜多のお家騒動を煽る、
煽られれば燃え上がるお家騒動の種を作ったほうが悪い
>上杉は転封して間もないので、お為ごかしで帰国させる、
やすやすと帰国する方が悪い
って事なんだけどね。この程度のことは信長も秀吉も、もちろん信玄も謙信も
元就も、誰でもやっていることだよな、実際。
>>505 上杉のはちょっと無理が・・・
帰国を勧められて帰国しない方が隙になりそう
507 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 05:30:01 ID:JTBi9o1n
自領120万石の維持に奔った上杉だが、最上に苦戦した上に、
上山では大敗。さぞや屈辱的な心境だったろう。
直江の致命的な戦略ミスなのだから仕方ないが。
508 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 06:04:22 ID:xILAgwR0
ま、会津という新領地に移され
治めにくい土豪を使って
よく伊達、最上連合軍相手に押し切ったよな
普通なら、苦戦して然りな局面なのに
勝つっていうから驚きだよな
ていうか、上杉、伊達と挟まれて
最上は明らかに噛ませ犬状態で可哀そうだよな
そりゃ、最上が負けるのは仕方ない
上杉は勝ってない訳だが。
それどころか上山勢・庄内勢が壊滅させられた訳だが。
特に庄内勢は、直江に見捨てられて可哀想。
撤退の報すらなかったという話もあるくらいだからな・・・
撤退は一番難しいからなあ、仕方ない面もある。
直江厨はそのお粗末な撤退戦を持ち上げるから始末に悪い。
総大将として、決して褒められるような撤退戦ではない。
他戦線の同軍を見捨てて、本隊だけ辛うじて逃げきった。
その本隊の撤退は水原や慶次の奮戦に拠るところが大。
撤退戦であれよりいい結果残したのって何があったけ。
三増峠の戦い
なるほど、あるもんだね。
でも兵力が武田の方が上だし、条件はだいぶ違うね。
そういや関ヶ原の島津も撤退戦だったな。
関ヶ原で家康が勝ったという報せが入ったとしても
家康がそこから反転して再度会津を目指すような面倒なことをするわけないし
直江は焦って無理な撤退をする必要はなかった
もっと落ち着いて行動すれば被害も少なかっただろうに
おいおい、三増峠時、武田は100万石あるか、ないかだぞ。
その時の北条は100万石越えてたんだが。
それに対して山形撤退戦時は上杉120万石で最上25万石。
結果は上杉は庄内を最上に奪われてるんだから戦果は比較にならんよ。
>その本隊の撤退は水原や慶次の奮戦に拠るところが大
長谷堂の戦いは激戦を極めたというだけで
彼らが活躍したという記録は無いんですけど
>他戦線の同軍を見捨てて、本隊だけ辛うじて逃げきった
撤退戦ってそんなもんですよ
同軍助けていたら挟み撃ち喰らだろ
>>516 無理な撤退って云われても、景勝の命令だからね。
それに、撤退したくても出来なかったのが実情じゃねぇの。
最後に命令を受領した志田義秀(酒田衆)が、無事に帰還してんだし。
>>516 伊達も後からやって来るかもしれないのに?
家康来なくても中立から東軍派に代わった奴らに挟みうちにされる事も
考えるとヤバイよ
西軍が負けた今、様子見の連中が雪崩を打って東軍として動く。
袋叩きで壊滅する前に引くのが吉。
金ヶ崎
523 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 02:21:26 ID:RoYqpGOy
最上側は篭城戦で死力を尽くしてた関係で、兵力もかなり減っていた。
東軍側に終われる事を考えれば逃げるのは当然だが、
あの状況で逃げるのがそんなに凄いとは思わん。
むしろあそこまでの圧倒的大軍勢相手に東軍が勝ったと知るや否や、
追撃をかけてる最上義光の方が賞賛されるべき合戦であって、
兼続が褒められる要素など大してない。
三増峠
金ヶ崎
やはり撤退戦となるとこの二つか。
あと撤退’戦’ではないが、秀吉の大返しと信長の野田・福嶋からの撤収も
見事と挙げたい。
525 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 02:28:47 ID:XHX31TPr
家康の伊賀越えもある意味明智勢からの撤退戦だな
姉川の前哨戦
鉄砲を集中配備した殿部隊で浅井の追撃を振り払った戦いもあげたい
同じ関ヶ原でいうなら島津の撤退の方が有名だしね。
有名だけどあれもボロクソになって漸く義弘だけ逃がしたって感じだからな。
まあ撤退戦ってそんなもんなんだが。
そもそも余裕を持って引けるならそれは後世から見たら戦略的退却であって
ここで論じられてるような「撤退戦」じゃないと考えられてしまうのかもしれん。
あ、退却だと負けた事になるから、戦略的撤退、と言うべきなのか?
……そこらへんはニュアンスで。
撤退も本来の用語としては負けになる。
これは軍事関係者や言葉を操る職業(文筆家)にとっては常識であるらしい。
これは少し余話になろうが、イラクからの自衛隊引き上げの時も撤収が正しい表現であるのに、
朝日新聞と毎日新聞だけは撤退と記した。他の各全国紙はすべて撤収と記しているのに、
どういうことであろう。
単に知識がなかっただけかと。
転進ならいいのだろうな。
転進もまた意味が違うだろ。
>>528 そのボロクソに直正、忠勝、忠吉がやられたわけだ。
なさけなや。
何か面倒な話になってて申し訳ない。
要は、当初の戦力を十分保ちながら戦場から引き上げたなら、それは
後世から見て「撤退戦」とはみなされないんじゃないか、というだけの話。
三増峠だって、武田は殿が全滅してるじゃん・・・
なんか凄い鮮やかなに北条勢撃退して帰ったみたいに勘違いしてやしまいか?
三増峠の撤退戦は小田原まで電撃的に侵攻した武田勢だが、周辺情勢が悪化し、
包囲殲滅戦を受ける所を撤退したのが褒められるのであって、
三増峠自体はそこまで褒められたものではないと思われ
それより金ヶ崎は本当に織田勢に人的被害出てないのかいな?
秀吉などの殿の奮闘があったにせよ、ほぼ無秩序撤退に近かったのに・・・
忠勝は馬を討たれて落馬した
まあ防御に徹して消耗して無かった島津軍をぼこぼこにしたのが
先駆けドキュンで開戦から頑張ってた直政と忠吉で
忠勝も息子に戦力割いて自身は500で遊撃とかしてたらしいけど
損害0ということはないだろ
540 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 00:49:33 ID:2RS+plRh
秀吉没後の大老の顔ぶれといえば徳川家康、前田利家、小早川隆景、毛利輝元、上杉景勝
後に隆景が死去したので五大老となっているそうだが
この大老に結城秀康が入る手筈だった事実
なぜだれも指摘しないんだ。
漏れも最近そんな話し合ったのを知ったが・・
で結城秀康が大老の六人目の候補となっていたらしいことをうかがわせる書状として
慶長四年三月、江戸にいた徳川秀忠が兄の秀康に送ったものがあるそうな。
内容は家康と他の大老・奉行衆とが和解したことを祝すものだが、その中で次の一節がある。
大納言殿(前田利家)煩付 内府様大坂へ御下りなさり候処、御入魂の由、満足に存じ候。
随て、六人のうちへ御入なされ候由、御尤もに存じ候
ようは秀康を大老の六人のうちへ御入なされ候
という話があったことをうかがわせるもの。
>>540 小早川隆景が死去したのは、秀吉死去の前年
>>536 姉川の戦いの数日前の
梁田佐々の殿戦では人的被害が少なかったみたいに思える
>>536 それは同意、三増峠後の主将同士の書状を見る限り、
信玄は合戦に出てもいない氏規の首を取ったとか見苦しい事を述べてるのに比べて、
氏照の書状では殿軍を討ち取ったものの、信玄は逃してしまい極めて残念と言うような事だったはず、
どちらが信用できるかは一目瞭然。
ただもっとも損害でも相手との兵力差で言っても
上杉の敗戦の方が遥かに損害は大きいので、
どっちがマシって言ったら三憎峠の方がマシってのも同意。
直江の城攻めの手際は悪すぎる。完全に最上に手玉に取られてるじゃないか。
>>531 朝日と毎日ってところがポイントだろ、普通にw
関ヶ原が勝っていたら上杉軍はどうなっていたと思う?
>>543 とりあえず、あのままの情勢では最上を攻めきる前に冬が来るだろ。
そうしたら一旦引かざるを得ない。
あとは情勢次第。
最上やる気失って和睦という可能性も
>>545 村山・最上郡を制圧状態なら、米沢への完全撤退はしないかな。
六十里越えのルートを確保するために出兵してるんだから。
西軍勝利なら、最低限の兵を残して越冬するんじゃね。
549 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 00:30:04 ID:rlWV0hfH
直江山城は、長谷堂のような小城をかまわず、一気に山形をほふれば良かった
>>546 どうかな、その場合まず真っ先に裏切る奴がいるだろう。義弟で片目の信用できない困った人。
安東あたりのどっちつかずだった勢力も一気に攻めてくると思われるので、
上杉より雪中行軍に慣れてるこれらの連中に同時に襲われたら、
いくらなんでももたないだろう。
まあ長期戦になれば、政宗は必ず伊達、信夫地方の略奪にやってくるから、
上杉はそこに主力を割かざるを得ない。
長谷堂城の最上と二正面作戦になるから、上杉はじり貧になる。
その2人だけ相手なら何とかなる
問題は他の勢力
南部・秋田・戸沢といった東軍諸将が、どう動くか。
政宗が花巻城にちょっかい出したのは、9月20日頃だっけ。
>>551 長期戦になれば上杉と和睦して切り取り放題が伊達のデフォルト。
555 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 09:28:51 ID:sQJFsl8t
景勝は政宗の侵攻を予想して会津へ出撃しようとしたが、
同じ頃、米沢を政宗が襲うという風評が立ったため、結局
米沢から一歩も外へ出ることができなかった。
兼続は最上を攻めきれず、景勝は最後まで政宗の影に振り回されて、
終戦をむかえた。
上杉はあれ以上最上を攻める必要はない。
伊達とも暗黙の和戦が成立していたとみるべき。
西軍優勢となれば伊達と佐竹を先鋒にして上杉が江戸まで攻め寄せる。
戦後は最上領を減らして伊達に与える程度だろうか。
戦後は上杉、伊達とも本領復帰
>>557 西軍優勢で上方で戦が長引けば上杉と伊達は裏で和睦。
伊達は領土拡張を画策、上杉は最上を降伏させて越後に進行、
佐竹、相馬は単独では苦しいので上杉の援軍が来るまでは中立を装う、
上杉が越後回復後、正式に伊達と奥羽の分割後に白河口へ進出、
佐竹等と合流、関東へ侵攻。
長期戦を想定しないとムリだわな。
560 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 02:11:31 ID:qthtS90U
なんか功名が辻だと三成が悪者みたいな演出だな。
ガラシャが死んだのも三成のせいみたいに。
家康が秀吉の言いつけは破りまくってさらに上杉に言いがかりつけてることはあまり言わないけど
ガラシャ死亡の演出で三成が悪者になるのは当たり前だろ、三成の指示なんだから。
むしろ今回の大河はかなり三成びいきに描かれてるし、
家康の腹黒さ前回に描かれてるぞ、ちゃんと見てるのか?
三成奸臣扱いされてないだけでまだましな方だと思った。
増田長盛の扱いをみてみろよ
なんだあれは
長束役の人が異様に格好よかったな
>>561 家康は腹黒いと言うより、秀吉に比べて「大人の、将に将たる武将」って感じに書かれていると感じた。
とにかく秀吉に比べればみんなましって感じに見えるなw
何で大河の秀吉て変に描かれるのかな。
ガラシャが死んだのが三成のせいじゃなけりゃ
一体なんなんだよw
秀吉をどうやったら変じゃなく描けるんだよ
中小企業のイケイケ社長みたいに描けばよくね
それますます人物小さそうじゃん
喪前ら天下を取った人間だぞ、それなりの人物と考えるべき。
でなけりゃ変な親父に負けた連中はなんなんだ。
徳川史観かメディアの視聴率稼ぎに汚染されてる。
>>567 人質なんて当たり前、処刑されたり自害も当たり前の時代だよ。
ガラシャを悲劇のヒロインにしたいだけだろ。
珍しい事とは思わんが、十分に悲劇じゃね?
家族や一族と言う価値観が希薄な現代の価値観をそのまま持ち込んで解釈しているのだろう
光秀謀反以来からの流れからみても十分悲劇だ
俺はむしろ忠興様のイカレっぷりが表現不足で不満。
あれは本気でやるなら大河より昼メロになりそうだしなぁ……。
>>572 だから三成のせいだろ
三成が人質にしようとしたから死んだわけで
当時としてはもちろん当然のこと
だからといってガラシャの死は三成の行動が原因じゃ無いってことにはならんだろうがw
当時としては当然かも知れないが
なぜか人質作戦を中止している
三成らにとって、「予想外」
悲劇が繰り返されていた時代な訳で、ガラシャがテレビなぞでクローズアップされるのは薄幸な貴婦人のイメージが
ドラマにあうからだろうね、ブ○デ○や庶民だったら相手にされないよね。
>>572 の言うように三成のせいと言えばせいでしょう、ほかの人はそれを否定してるんじゃなくて当時は当たり前だから三
成でなくてもしていたという事でしょう。
家康もやっているよね、イフで言えば利長が西軍に付こうとして松が自害したとしても声高に家康のせいとは言わな
いでしょう、
>>560 はそう言いたいんじゃないかな。
父親が謀反人になってから、つらいことの連続だったんだろうね。
長文ごめん。
絶世の美人だったしな
秀吉の妹が家康に殺されても、ああぐらいだろうな
後は旦那の異常な偏愛ぶりも話として面白いしな。
子沢山の貧農の大黒柱が足軽に取られて戦死して
残された家族とかの方が悲劇。
遊びたい盛りの女の子はまだ子供なのに身売りされたり。
>>582 いつの時代も一番の悲劇は庶民なわけで、歴史の中に埋没して朽ちていくだけ。
記録にも残らないよ。
>>582 >子沢山の貧農
間引かれます。
でなければ春を越えられません。
>足軽に取られて戦死して
可能性はゼロではありませんが、
非戦闘員としての徴用が主ですし、戦国時代の戦死率は決して高いものではありません。
>遊びたい盛りの女の子はまだ子供なのに身売りされたり。
戦争奴隷の発生もありますし、自主的に一家揃って奴隷に落ちることもあります。
後者の原因は、主に天災によってです。
一家退転くらいならともかく、村の欠落、国中諸郡退転という異常事態も起こっています。
庶民が大変な思いで生き抜いていたのは確かだし、
戦争被害も馬鹿にならないが、それだけでは決してない。
いや、まさかマジレスくるとは思わんかったw
あとは侵攻してきた敵兵に輪姦された挙句殺されちゃう年端も行かない
女の子とかの方がガラシャより悲惨だt(ry
>>585 殺されはしない。
もう少し勉強しろよ。
雑兵たちの戦場でも読んでろ。
組織的な話だけだろ殺されないと断言できるものかい。
組織的でないからこそ、殺すのは最期の手段。
じゃないと金儲けにならん。
そもそも当時の合戦数と動員人数から考えて、そうぽんぽん殺してたら
とてもじゃないが戦争なんてやってけない計算になるはずだよなぁ……
出産数多くても間引かれる事も多いし、大名家でも子供なんて病気や
何やで死にまくってるわけだから庶民なんていわんやだろう。
敵を皆殺ししようなんてしたのは家康くらいなものだろう。
論点がずれてきてないか、582が言いたいのは悲劇は庶民の側にこそ沢山あった
って話で組織的な大量虐殺の話じゃないだろ。
そもそもこのスレは民衆の悲劇を話すスレじゃないと思うんだ。
>>594 よく言ったww
なんだこの流れワロスwww
家康だって皆殺しにはしてないぞ
関ヶ原の戦死者数て本当なの?
>>566 そういう意味じゃ大河ドラマじゃないけど花の慶次の秀吉は良かったなあ。
成り上がり者、いくさ人、人たらし、天下人、晩年の孤独と狂気という
いろんな面を見せてくれていた。
原哲夫の秀吉はいいね
左近だか影武者だか忘れたけど、正則の幼少時代、腹をすかせた
正則らに食べ物を差し出して、自分は半べそかきながら我慢するとか
>>596 関ヶ原では敵将の腹を切らせまくったし、大阪の陣では皆殺し。
どちらも、過去の勝者に例がないくらいの極端な態度だよ。
宇喜多や真田はきっちり生きてるし、チョウソカベに至ってはさっぱり死んでないんで
山内が苦労してる訳だが。
そりや皆殺しなんてやろうとしたら徹底抗戦される罠。
どちらかというと徹底抗戦するような奴ら(見るからに後の災いの元丸出し)
だからぼこぼこに(ry
>>601 そう考えると長宗我部は山内の領土経営を阻害する要因として残したのかもな。
一揆起こさせて山内を改易。
実は反山内かw
宇喜多の衣料もひどいよな
経営が難しいに決まっている
豊臣恩顧は難癖付けて改易狙いか。
>>606 まぁそれを狙って長宗我部を生かしたってのはさすがに無いだろうけど、
たまたま逃げられた事を利用して、それを狙った可能性は大いにあるな。
三成の息子は生かしておくあたり
殺す、殺さないは完全に損得勘定で決めてたっぽいね
>>604 土佐なんて誰にくれてやっても意味が無い程の辺境地なんだが。
>>609 海路が発達した戦国後期にもなれば京や大阪とそれほど離れてるわけでもないから、
そこまででもないよ。
確か土佐は当時20万石もあると思われてなかったんじゃまい。
たしか当時の表高は九万五千石くらいだったはず。
少なくとも十万石は出ていなかった。
そう考えると実は山内って微妙に損してる?
辺境の+3万石より東海道の六万石だよな普通
もし10万石相当なら、損だな
通説の評価は偽ということになる
国主で10万石だと
相当きついな
30万石だったらもっときついけど
1.5倍で僻地なら加増0以下相当だろ
そうなると通説で家康は山内を高く評価したというのは嘘になる
>>617 ということは長宗我部は9万石相当だったのかな
関ケ原にはどのくらい兵力を出したの?
関ヶ原では6万石
土佐の実石高を9万と仮定
>>619 長宗我部の兵は通説6千じゃないかな。
>>613 >>614 そういうこと数万石の加増で要地からとばされたと考えるべき、大した功もないのだからね。
もらってみたら20万石相当だった訳でチョーラッキー!、まあ長宗我部が誤魔化してたん
だろうな。
いやそういうことじゃないんだがorz
まあ通説では高評価とされているが、実際に9万石相当ならば
高評価ではなかったということになる
田舎の土佐なんて島流しみたいなもんだからな
iターンってやつですよ。
土佐は豊臣政権では9.5万石
寛永時に20万石
江戸末期に50万石
>>625 江戸末期までになにがあったんだろう・・・
627 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 12:02:45 ID:7hOxMVnU
何度関ヶ原の地形図&両軍の布陣図を見ても分らないんですけど、
南宮山の毛利勢は、吉川勢を迂回して下山することはできなかったんすかね?
秀元は一応戦意はあったんでしょ?同じく安国寺・長束・長宗我部も。
あと単純に考えて、東軍が大坂目指していると判った時点で西軍も大坂城に先回りして
いれば、どっちつかずの西軍諸将も、豊臣恩顧の東軍諸将も、秀頼に弓は引けないから、
事態は変わっていたのでは?
628 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 12:26:29 ID:uvIiDY6z
土佐は、遠かったやろなー阿波・淡路16万石?のほうが遥かいいやんねー。
でも蜂須賀家がおるからあかんか。
>>627 毛利の指揮は吉川君が握ってた。
総大将は秀元だから他の人は勝手に動けない。
東軍が大坂目指すとの説で西軍が動いたというのは俗説。
南宮山は戦にならなかったから東が何処にどれくらい展開してたのか良く解らないね
浅野、池田、中村、蜂須賀、生駒、山内、、、その他にも駿遠参の諸将がかなりいたらしい
前田討伐から始まる関ヶ原!
>>627 俺は長宗我部にはそれほど戦意は無かったと踏んでるんだが、どうだろう?
上杉征伐に加わる道中の大坂で石田側に組み込まれた
島津と同じような位置付けじゃない?
633 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 21:09:10 ID:bUKN9qWy
西軍の大将は長束正家がよい
長宗我部は誰にも拘束されてないよ
>>632 土佐の人間は勇猛で誇り高いから、やる以上はやってやる位の覚悟はあるんじゃない。
義久も同じでしょ。
じゃあ何でやらなかった?
覚悟はあっても、何もせずに退却した…と、、、
何故???
やる気がなかった?
んー
西軍としては、やる気なかったことでFA
おk?
南宮山の毛利軍が動かなかったからだろ
んー、義久と同じなら余りやる気ないどころか
中立戦略を採ったという事になるが。
義弘ならば石田と仲が良かったんじゃなかったっけ。
盛親は石田と親しかったか?大名継いで間もない上に
揉めて継いだから石田との関係は島津と違い殆どないと思うが。
揉めて相続したからこそ、三成に便宜を図ってもらった可能性はあるね
国元荒れてたから中央の情勢がよく分かってなかったのかもな
>>626 新田開発や肥料改良、農具開発などで増えたんじゃないのかな
長宗我部とか長束の位置は伊勢攻めの時から毛利管轄なんだろうな
退却で追撃を受けるけど、そのまま毛利と一緒にいればいいのにね
南宮山の毛利はどう退却したの?
毛利は一応事前に内応の意志を伝えていたからな。
長宗我部はそれが無いから退却するしかない。
下手したら遊軍が勲功稼ぎに襲ってくるだろうし
長宗我部氏の土佐における蔵入地が9万石なんだよ、後は一条氏やその系列の豪族の所領。
豊臣政権では長宗我部氏は、龍造寺氏に対する鍋島氏みたいな扱いで、
土佐の国主はあくまで土佐一条氏という認識。
>>647 毛利というより吉川でないか、あくまで輝・秀元の知らない話。
でも毛利を代表して交渉していたはずだったんだけどね
同時に安国寺も(ry
>>647 毛利勢も命からがら大阪に逃げ帰ったのだが。
>>652 大坂に輝元がいるからな。さすがにそのまま東軍参加とはいかないだろうな。
しかし、毛利本家が何も知らなかったってのも嘘っぽいよな。
例え一族とはいえ単独で吉川が動くとは思えん。
両方にいい顔した結果、大幅減封食らったんで後付けで
「知らなかった。吉川が勝手にやった。」ってことにしたっぽいな。
>>654 過去スレだったかな、毛利本家の関与に関しての資料についての議論があったが
結局関与を窺わせる証拠は無いという結論だったと思う。
都合の悪い事はサクッと消せちゃうのが一族経営のいいところかもしれんね
まぁ「証拠がない」状態じゃ結論として結局陰謀論にしかならんし、
そこらへんは棚に上げとくしかないんじゃないかな。
史料がないのばかりは「史実」を追う上で仕方のない部分だし。
逆に、吉川が戦後、「無断」で交渉していたことを咎める資料はあるのかな?
あるらしいよ、色々な差別待遇という状況証拠もあるしね、
ソース厨じやないけど詳しい人いませんか。
ソースはないが怪しいとすれば輝元かな、大坂の時も変なことしているし、
秀元や主戦派の元康等が関与しているとは考えにくいな。
輝「わしは立場上知らぬ事にする故、そちの一存でやったことにせよ。」
広「ははっ」
てな脳内妄想。
西軍参加すら安国寺に騙されて…ってことになってるっぽいもんな
>>632 >>635 長宗我部・長束は前進して東軍と小競り合いを開始、秀元に出陣の督促をしていた。
やる気はありあり。
秀元が内応を知らされたのは、広家の態度に業を煮やして強引に出陣しようとしたとき。
秀→ ( ゚д゚)
(つд⊂)ゴシゴシ
_,._
(;゚Д゚)
今となってはホントに知らなかったのか、知ってたのかはわからないが、
結局は毛利本家は改易を命じられ、あわてた広家の必死の工作で
周防・長門2国に減封・・・
徳川からすればうまいことやったわけだが、その結果植え付けられた『徳川憎し』
が明治維新で爆発するんだよな。歴史って面白いよ
665 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 00:16:36 ID:2aAdhbx/
長州だけは幕末に倒幕で一貫してたかもね。
>>665 徳川慶喜や松平容保が「一貫して徳川に敵として向かってきた長州は憎くない。
憎いのは変節した薩摩だ」って発言してるね。
何しろ長州は毎年の正月の挨拶でry
668 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 18:16:06 ID:2aAdhbx/
↑ネタだって聞いたけど本当なのかなあ、本当ならスゴ杉。
669 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 18:37:43 ID:zVB0yLUq
670 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 19:27:57 ID:LugKYyXn
やってたんでないの。
初期の困窮ぶりは結構聞くしね。
やってたと聞くよね。どこまで本当か知らんけど。
上杉が関が原にれば勝てた
幸村が関が原にれば勝てた
歴史にニラレバはないんだよ
レバニラは美味いな
石田三成が西軍の実質的大将やってる限り、勝ち目はありません
677 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 01:53:28 ID:zOtsBYRL
>>666 でも、家臣をあれだけ殺しておいて道楽にうつつを抜かせる暗君についていったのが間違いだったと板倉勝静が言っていますよ。
>>677 言いたい事はわかるけど、『でも』で繋がる文じゃないよ
679 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 17:10:22 ID:p8NlQb/e
幸村とか慶次とか直江とかいたのに勝てない西軍はまじ腐ってるな
こいつらが関ヶ原にいたらなぁ…
680 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/06(月) 17:14:29 ID:jeOzxABK
大阪冬・夏の陣で、幸村にあと1000人の兵があったら家康を殺せてた
確実に
物凄くレスがゆるくなって北な
ネタが尽きてきてるのは仕方がない
前田討伐発生関ヶ原
前田討伐軍・家康北上開始。
上杉景勝家康に対し挙兵。最上伊達などとの北陸地方戦闘開始。
三成挙兵。毛利輝元を大阪に据える。伏見落城。
討伐軍一時関東へ。
東軍一部進軍開始。
岐阜城落城。
家康本隊進軍開始。
秀忠軍と真田軍(増援前田軍)激戦。
西軍大垣へ。
西軍立花隊大垣に到着。
最近立て続けに西軍マンセースレが増えたから分散してるんだろうな
西軍マンセー三成マンセーはもううんざりだ。
大河のせいか厨っぽいのも増えてうざい。
西軍マンセーというか
三成中心史観みたいなのがはびこってて
まともに関ヶ原が語れなくなってるよね
三成は有能な上に義理堅く聖人君子のスーパーマンで、敵が多いのは潔癖すぎたからこそだとか
東軍に付いたのは義よりも利をとった薄情者で
さらには西軍でも三成の思いどおりに動かなかった奴は皆ダメ人間で
一緒に戦った宇喜多や大谷は絶賛される
とにかく何もかも三成ありきって感じ
てか、今まである歴史の出来事が万人に納得できる中立な形で
語り合えた事なんてあるわけあるまい(科学的な調査結果除く)。
江戸時代には徳川史観だったり、尊王思想でぶり返しが来たり
山岡荘八だったり司馬遼太郎だったり。
世間の人は、一般人は、みたいな言い方には結局いつの時代も
「自分より物を知らない世の中」への否定以外何の意味もない。
>>686 逆に、そんな風潮の中でも島津だけ別で扱われてるところに歴史の面白さがある
三成は有能な上に義理堅く聖人君子で、敵が多いのは潔癖すぎたからこそだとか
これぐらいならありでは?
いつの時代も正論だけを言う奴は嫌われるさ。
三成中心史観は確かにアレだなw
>>686に同意
三成らの斬首に際して諸外国は”毛利の家臣の3人が斬られた”って感じの扱いだったらしい
ドラマ等では忠臣三成が主導って形多すぎ
対等な立場だとしても、裏で相当毛利が噛んでると思うけどなー
豚狸厨房自演乙
徳川家への恨み節が三成賛美の声になってると思うな。
豊臣家のため(もしくは自分の利権のため)と思って徳川に付いたのに結果は
豊臣家滅亡、自分は改易…って言う豊臣恩顧の大名は数知れず。
「あの時三成についてればな〜」←こんな声が肥大化したんじゃないか?
あと関西人の負け惜しみ
関東とか東海のボケには負けてないよって
695 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/14(火) 08:10:59 ID:jFwSNWo4
漏れは先祖から関東人だが狸は嫌い。
て東海のボケ=信長・秀吉・家康みんなそうでは。
697 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/14(火) 12:30:43 ID:3uby5U0P
>>695 ageてまで個人の好き嫌い語るなよ…
どんどん話しが低レベル化しちゃうよ
>>696 逆説的に言うなら古今東西善悪の出てこなかった戦争議論があるかい?て話だな。
むしろそんな知性と合理性に満ちた理想の議論を追っかける方が厨だと思うけどな。
そういう観念がつき物である事を理解し、歪む事を納得の上でじゃあ何が正しいかを
常に自問し、他者と磨り合わせるのがこの手の議論に必要な土台だと思うぞ。
無論2chの該当スレに来てまで善悪のレベルで話すんなうざい、てなら同意だけど。
>>698 この板のスレの多くや第二次世界大戦正義戦争論、悪の日帝論が
>そういう観念がつき物である事を理解し、歪む事を納得の上でじゃあ何が正しいかを
>常に自問し、他者と磨り合わせるのがこの手の議論に必要な土台だと思うぞ。
と君が見えるなら、同意だけど。
古今東西の戦争議論の際の善悪論に際して
「その当時」の善悪論を論拠に「何故そうなったのか。」や
「その当時」の世界情勢からその行為に至ったのかを考慮した上で
現在の善悪論からの判断ならすり合わせもできる場合もあるだろうが
当時の善悪論、情勢も無視して歴史の結果を知った上で、
現在の善悪論で判断するだけでも厨じゃないというなら
どのようにすり合わせるのか、例示してもらいたいぐらいだけど。
700 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/14(火) 17:39:00 ID:vzabW2P4
来年の参院選が関が原と言われてる
>>699 善悪論語る前に、もっと国語勉強して来い
徳川側方すれば、秀吉が死んで
家康が抜きん出た存在になった時点で天下を
取りにいかないと、逆に家康の死後に潰されてただろうなあ。
そんな感じはしないけど
淀は大名が秀頼マンセーしてる限り無理に家を潰すとかはしないと思う
そんな風に秀吉も思った土佐
権力を握っている者としては、
現実を省みずに、過去の権勢を振りかざす奴はうざいんだよ。
足利義昭然り、豊臣秀頼然り。
織田秀信一派のような従順な御輿にあたった秀吉はその幸運を感謝すべき。
不思議なことに家康も一気に秀頼を潰した訳じゃないんだよね
関ヶ原のあと何年も経って
家康が短命だったらどうなっていたことか
豊家残ったかもね
一気に潰そうとしていたら、逆に徳川幕府なんて成立しなかったかもな
>>705 従順な御輿ていうより秀吉に守ってもらわなかったら叔父達に殺されてたんじゃないかな。
長じて本人もそれが解ってたから東軍につかった面もあるかと思う。
大体家康は関ヶ原後は敵対者はいないのだから御神輿にするチャンスはあるんじゃないかな。
それが出来なかったとする能力不足か故意にしなかったかしかありえない。
能力不足というより権力不足かな、今思われるより当時の家康の立場は微妙なのかもしれないな。
>>658 輝元自身は、関ヶ原敗戦後、大坂城に帰還した吉川広家と毛利宗家の家老数名
(彼らは広家から事前に東軍内通について知らされていた)から
黒田長政を通じて、徳川家との間に所領安堵の約束がとりつけてあることを
初めて知らされたらしい。そのとき、輝元が広家に「中国大返しの際の隆景の判断に続いて、
今回も、また両川が宗家を救ってくれた」と言って心から感謝したと、
後年の吉川家の記録ではなっている。結局、家康に反故にされて水の泡になったけど。
もちろん、江戸期に宗家から冷遇された吉川家が、関ヶ原の広家の判断が
正当であったと主張するために書いた史料だからバイアスがかかっているけど。
野心家の安国寺が毛利に被害を与えた張本人で、広家は宗家のために身を捨てた
忠臣だったという吉川史観というかな。
ちなみに関ヶ原のときに、毛利宗家や西軍から「こいつ、東軍と内通するんでは…」
真っ先に疑われたのは、吉川広家ではなく意外にも毛利秀元の方だった。
これは毛利のお家騒動というか後継者問題の余波で、宗家と秀元派が対立していたから。
吉川家自体、別に以前から徳川とのコネクションが強い家ではない。
吉川広家の東軍内通は思わぬ伏兵だったというか、輝元も了承済みも計画的な二股作戦ではなく、
広家と宗家の一部の重臣による独自の判断だったかんじ。
あれ、何でID変わるのかわからん…ネットカフェからだから?
東海道を行軍中の黒田長政も、本当に毛利・吉川が内通するつもりがあるのか随分心配して、
「戦の勝敗が決まってしまってから内通してみせても遅いので、くれぐれも気をつけて、
遅くないうちに西軍を裏切るようにしてくれ」と念を押す手紙を書いている。
吉川広家が徳川方と初めて作戦の打ち合わせ(南宮山で中立堅持)をしたのは、
決戦前日で、それまでは毛利と吉川がどういう手順で内通するのか、長政にも家康にも
わからないままだった。
こう書くと、吉川広家の内通がいかにも拙速で下手くそだったような印象になるけど、
内通作戦自体は、毛利の西軍加担を知らされてからの短期間で、徳川家とのコネもない中で、
かなりの出来というか奮戦した力作だったと思う。
中国大返しで傍観し豊臣家に恩を高く売った隆景の手法を、もう一度やろうとしたというか。
結果的に家康の方が一枚上手だっただけで、狙い自体はそんなに悪くないと思う。
不戦堅持は、西軍が勝った場合にも吉川広家が腹切る形で宗家を救える。
もともと上杉討伐で領国の出雲から兵を連れて大坂に出てきた時点で、はじめて西軍への加担を
知らされた広家にすれば、それこそ寝耳に水状態だったわけだし。
だらだらと長文になってすまん。
いやまともな文で感服仕った
家康が一枚上というか、あれは騙しうちだろう
吉川も本領アンドが望みのはず
西軍を裏切ることはなかった(正確にはどっちでもなかった)ので
もし裏切るのが条件であるならば、条件を満たさなかったことになるが?
徳川とのコネがないとすれば、通常の窓口は誰だったのだろう?
安国寺か?
西軍が勝った場合でも色々言い訳はできる
例えば後ろの長宗我部がとか
>>709 輝元は隆景が死んだ際に「これからは広家が頼みだ。」とか言ってたらしいからね。
>>713 毛利は徳川とはフリーハンド。
毛利勢全体が三成に無理やり担ぎ上げられただけで、
戦意が上げるわけもない。
716 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/01(金) 22:37:34 ID:P8h4CUEY
age
717 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/02(土) 00:19:03 ID:xN9OQ1R0
隆景と元親があと10年長生きしたらどうなってた?
元親の晩年はボロボロなので何年生きようが無関係
隆景とて毛利本家を守るためとはいえ家を豊臣に乗っ取られて気分がいいわけがない
どうなることもないだろ
毛利はどう見ても成功者
関ヶ原は真田のすごさを示すだけの戦だったな
しかもお家が幕末まで残るのもすげぇ。まっさきに難癖つけられて潰されそうだが
>>720 今週のNHK「その時歴史は動いた」は突っ込みどころ満載でしたな。
どうせなら上方講談「難波戦記」での「家康は幸村に討たれた」というくらいの事はやって欲しい。
秀忠遅参は悪天候が原因の命令の伝達ミスだからねえ。
まあ、真田が戦術レベルで頑張ったのは事実だろうが。
戦術レベルで頑張ったのは確かだが、
伝達ミスがなかったら無視して進撃だろ。
流石に野戦で敵う兵力差ではないし、備えくらいはするだろうから追撃は現実的ではないし。
真田は運が良かった、名を残すチャンスに恵まれたんだから。
1週間くらいの遅参だっけ、そのうち3日ほどは口だけで止めた
それで本戦は大垣城あたりでの長期戦も想定されてたのに
あんな天下分け目の大合戦がたった半日で、しかも稀に見る大惨敗で終わったからな
運が良過ぎる、結果的には足止めだが秀忠からしたら無駄に時間をかけたとはいえ
足止めされたわけじゃないからなぁ、接戦なら真田のおかげ、東軍圧勝なら真田が1人気を吐いた
となって、どっちに転んでも美味しい
秀忠が運に恵まれてないのは確かだが、10万石程度でやれることは良くやってる気がするな。
しかし、戦後処理した信之の方が地味にすごい。
家康の死後の秀忠は福島とか豊臣恩顧大名ガンガン改易してるし、真田はよく生き残ったな
10万石?
当時の真田家なら3万8千石ですよ?信幸は離脱しちゃったし。
>>725 あからさまに冷遇したら意趣返しみたいに思われるから我慢したのではないかと思う
真田は譜代大名扱いだ。
名門からの養子とはいえ幕末には老中も出してる。
信幸どんは90過ぎまで頑張って藩を守りぬいた
池波さんの小説であった記憶が・・・
主人公が90歳ってのもあまりきかんな
>>729 真田の譜代扱いは相当年数過ぎてからだよ
いろいろいちゃもん付けられて潰される大名が多い中、スキを見せなかったのはすごいな
真田は親子3代弱小大名だが、あるいみ名将だな。
90台まで生きると、最初は幕府に警戒されてても
次第に戦国最後の生き残りとして尊敬を集めるようになったようだ。
実際、信玄、家康、秀吉と直接会った最後の人間かも。
信幸は信玄に会ってるのかなあ?親父は間違いないと思うけど。
『信』の字もらってるぐらいだから、会った事あるんじゃね?
736 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/27(水) 02:05:46 ID:bqDXjXAu
真田信之
帝鑑間 外様のち譜代格
池波といえば、
「関ヶ原を自らの足で歩いた印象では
記録にあるような両軍併せて十数万が展開するには狭すぎるのではないか」
的な事を書いていた記憶がある。
738 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/22(月) 16:55:31 ID:GhJ8DhP8
長篠よりはマシじゃね、地形も随分変わっちまってるしさ
関が原ぐらいもう少しキレイに保存してほしかったよ、真ん中舗装道路走ってるし
海外じゃマニアが古戦場で合戦再現とかしてるの羨ましいよ、桶狭間とかひどいじゃん。
古田重勝の松阪城は本当に西軍に攻められたのですか?
どこにも攻城戦の様子が載った文献がないんですが?
そもそも古田重勝は小山から本戦までずっと福島らといっしょにいたのかねえ
松阪城にも関ヶ原布陣図にも名前があるが
741 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/08(木) 22:29:05 ID:90XHXykP
毛利小早川吉川って三人揃ってアホすぎるだろ。
家康に騙されるという可能性は考えなかったのか?
小早川は領地を召し上げた三成や豊臣に仕返しできたんだから大満足だろ
確かに前田と上杉の経緯考えたら毛利と吉川は
何で?としか思えない。
それほど家康が信頼されてたってことなのかなあ?
吉川は西軍諸将より東軍諸将との方がつき合いが深いから
というか毛利の場合は、豊臣のそれに連動して家臣同士の抗争があるからな
一揆構造を引きずっていたこともあり、家中の混乱で思うように動けなかったように見受ける
輝元自身はニュートラル
746 :
人間七七四年:2007/02/13(火) 12:06:34 ID:8pl3G7jy
広家は安国寺のことを「出家に戦のなにがわかりましょうや」「くそ坊主」の罵っていたそうな
747 :
人間七七四年:2007/02/14(水) 21:47:34 ID:+/oC/8kA
輝元と増田以外に
大阪城内には秀頼の兵力ってどれくらいいたの?
確か222万石だったよね
ひょっとして豊臣直轄軍だけで6万以上城内にいた?
748 :
人間七七四年:2007/02/15(木) 01:37:31 ID:fdmrISUC
七手組の一部隊が関ヶ原本戦にも参加してるね。大将は誰だったのかな
749 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 19:26:51 ID:tz9k1+kv
田中芳樹が三成を酷評し、
直江兼続などを「何もしていない」と論じた文を読んで、
その歴史・軍事の認識力の浅さに呆れた。
昔は結構銀英伝なんか愛読してたんだが…
750 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 23:36:37 ID:Lvdfl/8V
兼続が何もできなかったのはほぼその通りかと
圧倒的寡兵の最上勢相手に膠着、一部戦線では逆に潰走寸前まで追い詰められてるし、
撤退戦では庄内勢見捨ててるし、その撤退戦も水原こそ賞賛されるべきだし
良いところ無い
751 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 23:44:05 ID:3ejkOqFu
「なにもしてない」と「なにもできなかった」ってどこか違うような気がするな。
752 :
人間七七四年:2007/02/17(土) 23:44:43 ID:ohA7sNuI
少なくとも関が原においてはロクに成していないな。
753 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 00:08:38 ID:8/18s4GO
>>751 もちろん、違う意味で書いたよ
上杉が積極的な行動を起こすには後背を固めるのは必須
平和外交は失敗(これは上杉方のせいではないけど)し、
やむを得ず武力を発動するものの何も為すことなく時間切れ
何もしなかったわけではない、何もできなかっただけだ
754 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 00:33:15 ID:Cg8OydVg
>>749 どこでそんなこと書いてたの?
田中は、どこかのあとがきで、
三成に脚光をあてた司馬関が原を称えてたので、ちょっと意外だ。
755 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 07:33:10 ID:OM1QxZMe
756 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 12:27:15 ID:N2pvWi/G
>754
司馬さんの関ヶ原を評価しているのと同じ文で三成を否定しているのですよね。
司馬さんの関ヶ原に出てくる三成はすごい人間だが実際の三成はたいしたことのない人間だ。
ただし小説は話を面白くするために嘘を書いてもいい。
司馬さんの関ヶ原は小説だから実際とは違うすごい三成を書いていても話として面白いから評価できる。
こんな意味の文を書いていたと思います。
757 :
人間七七四年:2007/02/18(日) 16:39:10 ID:tNks4gY5
>>747 七手組は1組一万で7万人
輝元や増田や前田玄以や畿内の小大名合わせて10万以上は大阪にいたから
関ヶ原で敗れても十分戦えたのに総大将の輝元が帰っちゃったんだよね
759 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 00:35:36 ID:VKchTbZq
7万もいるわけないよ
慶長五年八月五日、石田三成が真田昌幸に宛てた書状を元に
外川淳氏が作成した兵力動員表の動員兵力
大坂城守備
大坂留守居 7500
御小姓衆 8300
御弓鉄砲衆 5900
前備後備 6700
伊賀在番 7000
よって豊臣軍の兵力は36400
761 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 01:47:52 ID:4+yFYoUT
あの当時、大大名で野戦でも強かった家康に戦いを挑んだことは無謀かもしれないが
評価されてもいいんじゃないかと思う
あの当時家康に勝てる大名なんていないだろうし
でも三成は吉川とか東軍に通じている内通者の存在を考えて作戦立ててたんだろうか
上杉家を東海道に配置して対徳川に備えてはどうかと思ったが
これは上杉が納得しないだろうしやっぱり無理かな
762 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 06:18:20 ID:G3+0hgt6
どうやって上杉勢を東海道まで連れてくるんだよw
本領空にしてこいとでも言うのかw
そもそも関東通してもらえるわけねーだろーがw
763 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 07:03:07 ID:vh1roUeT
移封のことかな
まあ東海に押さえとして、秀吉は東海道やら中山道やら通ってる要所を
信頼できる正則にちゃんと預けたがな、逆の結果になったがw
764 :
人間七七四年:2007/02/21(水) 23:30:49 ID:glicd99v
三成って良い人すぎたんじゃないの?島津の夜襲案を拒否したり、本気で勝つ気
があったのかね?小早川も裏切るぞって情報はあったのに秀秋が裏切るはず
ないって信じきってたみたいだし。
765 :
人間七七四年:2007/02/22(木) 06:30:08 ID:rTsaIYOB
夜襲の件は諸説あるから置いとくが、
秀秋に関しては裏切り話が出た時に関白就任をちらつかせてなびかせようとしたんじゃないっけ
それだけの餌で十分だと思って済ましたが実際は・・・っていう
766 :
人間七七四年:2007/02/22(木) 07:07:31 ID:7broRJEy
つうか 最近では 小早川勢は端ッから東軍として行動してたって説もあるな
関ヶ原の守備陣地の最要点と言える松尾山新城に在番していた連中を 半ば力ずくで叩き出して居座っちゃったため
こりゃいよいよ小早川は真っ黒だと判断 大垣城の主力部隊を急いで関ヶ原西北部へ移動させることで
松尾山を押さえた小早川勢によって 大坂との連絡を叩ききられるのを阻止したのだという流れ だっつー話
んで ひよってたところに鉄砲撃ち掛けられて突っ込んだっつー話も
そもそも大谷勢と藤堂勢が激戦繰り広げとる松尾山山麓部に 徳川の鉄砲隊が簡単に接近できるのか
また 関ヶ原中でドンちゃん騒ぎやってんのに 山篭りしとる小早川の将兵が 自分たちを狙って撃ってきたってーことを判別できるのか
さらに言うなら 少数の鉄砲隊が打ちかけてきた程度の音量じゃ聞こえねーだろと
いろいろ異説も乱れ飛んでて信憑性には問題ありと言えるというね
小早川勢は西軍とも連絡を取って味方するような節も見せながら 実質東軍に与力する予定で行動してた
言うなりゃ埋伏の毒的行動を取ってたって説 個人的には十分ありえると思うね
767 :
人間七七四年:2007/02/22(木) 16:13:28 ID:TRj6QhfQ
教えて下さい
宮部長房って東軍だったの西軍だったの
どっち?
768 :
人間七七四年:2007/02/25(日) 22:16:33 ID:ccIx5N5p
>>767 永井路子の『関ヶ原別記』を読めば正解がわかる
769 :
人間七七四年:2007/02/26(月) 21:47:18 ID:lIYedMme
小山評定が開かれた小山城、当時は誰の城だっけ?
徳川次男だっけ?
話はかわりますが上杉が南下した場合、上杉に勝算はあったのでしょうか?
770 :
人間七七四年:2007/02/27(火) 00:43:37 ID:3EeNcsfw
秀忠が西上した後ならば、或いは
その前に反上杉の諸将を黙らせる必要はあるけど
771 :
人間七七四年:2007/02/28(水) 21:17:55 ID:BWzHNQrl
>>769 当時は廃城です。
佐竹も呼応するので西軍大勝利です
772 :
人間七七四年:2007/03/01(木) 08:01:50 ID:wKO97Hvn
>>766 まあ、そうでしょうな。
大谷吉継、島左近という名将が二人とも小早川を裏切るとみていたが
別に二人が名将だから気付いたわけではなく石田三成以外の全員が
小早川秀秋は真っ黒黒の黒の介だと確信していて
精神にある意味疾患を持ってた石田三成だけが現実を認めたくなくて
秀秋を味方だと必死に思い込んでたというのが真相でしょうね。
773 :
人間七七四年:2007/03/01(木) 16:30:50 ID:B7n2/p4l
すいません、関ヶ原布陣図を見て疑問に感じました
大谷吉継 600
大谷吉勝 木下頼継 3500
戸田重政 平塚為広 1500
合計で5600人とのことですが
大谷吉継 越前敦賀 5万石
木下頼継 越前ノ内 2.5万石
戸田重政 越前安居 1万石
平塚為広 美濃垂井 1万石
4人で9.5万石で3000人にも満たないはずなんですけど
なぜ5600人もいるんでしょうか?
誰か教えてください
774 :
竜田:2007/03/01(木) 16:40:32 ID:BgO63moE
良スレ
775 :
人間七七四年:2007/03/02(金) 00:47:46 ID:tuQV0ggs
>>773 石高と動員数が乖離している場合は、代官領の有無を確認してみるのが基本。
776 :
人間七七四年:2007/03/02(金) 00:56:01 ID:EGUApX6f
あと三成から鉄砲隊借りてなかったっけ?
777 :
人間七七四年:2007/03/03(土) 10:12:41 ID:/uBoYXDn
>>772 >小早川秀秋は真っ黒黒の黒の介だと確信していて
味方から疑われてたら、俺だったら即座に寝返るな。
自分を信じない味方のために勝利に貢献するなんて、阿呆らしくて。
778 :
人間七七四年:2007/03/03(土) 16:04:07 ID:uvnb59Hc
小早川などの動きを見て関ヶ原での決戦を諦めるという選択肢は三成にはなかったのかな?
東軍が大津へ向かう途中で後ろから追撃するなり横激を加え
徳川軍とその他の与力大名を分断するとかいう手は?
779 :
人間七七四年:2007/03/03(土) 16:46:03 ID:Z62hwIxD
内応者が増えて良いのならば、決戦回避もあり得ると思う
家康の赤坂着陣で西軍が動揺したように、
近江へ無血進出すれば更に心理的に圧迫され寝返りの連鎖が起こる可能性が高いだろうし、
一回これが起きたらもうどうにもならない
もともと西軍は東軍以上に寄り合い所帯の感が拭えず、三成を含めた西軍首脳陣も西軍諸将を掌握出来ていないから
中小大名は言うに及ばず、長宗我部あたりも寝返ってきそう
想定しうる最悪なケースが、大坂の毛利輝元が東軍に寝返るパターン
780 :
人間七七四年:2007/03/03(土) 17:46:28 ID:2W44hkFB
つうか そう簡単に分断なり横撃なりを入れさせてくれる相手ならもっと話は簡単だーな
結局のところ 西軍には土壇場で信頼できる兵力がせいぜい4万かそこらしかいないわけで
防御に易い地形を利しての防衛戦を展開する以外どうしようもないだろ
戦略的迂回やらなんやらを基調にした機動戦展開したらいずれ兵力差(秀忠途中でやってくるだろうし)でもって押しつぶされちまう
結局のところ毛利一族が一致して動いてくれんことには どっちにしても手駒が足らない
781 :
人間七七四年:2007/03/04(日) 22:06:00 ID:++N0qBiq
>>773 慶長五年八月五日、石田三成が真田昌幸に宛てた書状を元に
外川淳氏が作成した兵力動員表の動員兵力
北国口
大谷吉継 1200
木下勝俊 3000
丹波七頭衆 5000
但馬二頭 2500
木下頼継 700
木下家定 800
越前東江衆 2000
戸田勝成 500
福原長堯 900
溝口彦三郎 300
寺西是成 500
上田重安 300
奥山正之 500
小川祐忠 2500
生駒家代理 1000
横須賀家代理 2000
青木一矩 6000
青木宗勝 800
計30500
戸田勝成とは戸田重政のことで、山中村に転進してきた時点で合計2400
平塚為広とは美濃に入ってから合流したのでしょうか(垂井は南宮山の北にある領地)平塚勢は300〜400と推定され合計2800
5600は誤り。
782 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 01:42:40 ID:ecK8fHt3
三成は果断で気宇壮大なのは買いたいが
その他の性質に関しては駄目だな。そもそも大軍を率いられる資質がない。
結局、関ヶ原で戦ったが、これもベストの選択だったとは思いがたい。
瀬田川を防衛ラインに敷くとか、最悪でも大阪城の篭城とか駄目なのか?
なんだか自分の居城の佐和山より前に防衛ラインを置きたいという
物凄く了見の狭い考えで大垣〜関ヶ原付近にこだわったような気もして仕方が無い。
783 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 07:12:07 ID:NUvVtguf
>>782 思いこみだけで歴史を眺めるから、そういう感想を持つんだと思う。
784 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 10:46:20 ID:ecK8fHt3
>>783 おぬしは大垣付近を防衛ラインにするのが最適だったと本気で思い候うか?
785 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 10:55:57 ID:ecK8fHt3
西軍の10万が一人も裏切らずに戦うという仮定をすれば
関が原と言う両大軍が展開できる土地で一大決戦をするというのも一つの選択肢だが
逆に本当に信用できる確実に戦う人数を4万前後だと見積もっていれば
大軍が展開できない隘路で相手の進軍を止め
常に少数VS少数でしか戦えない場を選ぶか
川を挟んで東軍と対峙し持久戦を強い、既に東海道ラインは九鬼の海軍が
寸断し補給路を危うくしてたし輸送に不便な中仙道も真田などが居て補給路は不安定だったので
それで大軍の東軍を飢えさせて、その上で調略するという手も普通にありえたと思うのだが。
786 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 11:42:02 ID:h44cw3i1
とりあえず勢田にどうこうっつーのは加賀前田80万石の存在を忘れてるとしか思えん
長期戦になれば確実に出張ってくるわけで
京周辺の隘路で云々なんてやっても背後から前田勢2・3万が乱入してくるだけ
前田抜きとしても 秀忠勢合流を待って 東軍が力押しで兵力差まかせにいずれぶち抜くのは目に見えてる
長期戦になれば補給に困るのは西軍も同じ たとえ信頼は置けなくても 毛利・吉川勢や小早川勢その他への補給を切るわけにはいかんからな
そうなれば肥沃な尾張・美濃を抑えた東軍の方が保つかもしらんし
もし先に東軍の兵糧が危うくなりそうだというなら
それこそ兵力差を生かし 速戦即決で決めに来るわけで
飢えるまで粘って って想定が既に説得力を感じられん
いかに地形障害を生かしたところで 兵力差まかせの波状攻撃を食らえばいずれ防御しきれなくなるわけで
また 関ヶ原を捨てることで 近江なんて交通の便の良い土地を東軍側に明け渡したら
一手を分派し大和を経て大坂を突くなり 越前で前田勢と合流を図るなり 東軍の可能行動の幅が一気に広がるわけで
関ヶ原から西に進ませんとした判断は別におかしいとは思わん
まぁつうか だ
どんな作戦を採ろうと 結局毛利一族が西軍側で団結してくれんことにはどうやっても勝ち目ねーよ
まともに信用できる兵力が東軍の半分もおらんなんて状態じゃどーしようもねぇべ
787 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 11:57:59 ID:h44cw3i1
また 関ヶ原という地勢は 十分に「大軍が展開しにくい隘路」に当たるわな
関ヶ原本戦において 東軍7万の内まともに戦ったのはこちらも実質3万ちょい
家康の本隊3万のほとんどは戦闘加入できてない
小早川勢の戦闘加入と それに伴う南翼側諸将の寝返りが発生するまでは
防御に有利な関ヶ原西部の高地帯に布陣した西軍は十分戦えていたわけでな
関ヶ原以上に守りにむいた地勢で
かつ 長期戦になっても前田勢なり東軍分隊なりに背後を脅かされにくい
そんな場所が大坂以東近江以西でどこかにあったかいな?
788 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 15:22:51 ID:ecK8fHt3
>>787 関ヶ原で東軍を抑えても
前田勢が大津方面からそのまま京・大阪・近江に進軍する事も可能なんじゃないの?
前田勢が居る事を防衛線を下げられない理由にするのは変だと思う。
789 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 16:00:47 ID:jKA8XU1j
>>785 ヒント:清洲城に備蓄された20万石の兵糧+東海諸大名+鍋島らの献上米
持久戦になって先に飢えるのは西軍
790 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 16:13:16 ID:yjhmiTco
応仁の乱のようになる可能性もあったのかな
791 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 16:25:44 ID:iG1rg548
>>790 関ヶ原は東軍が勝ったから、徳川を中心とした秩序が形成されたけど、
もし西軍が勝っていたら、直属の軍事力がほぼ解体していた豊臣権力では秩序を
作りきれずに、結局戦国時代が再来したと思う。ズバ抜けた存在のいない政権は、絶対に
安定しないし長持ちしないものだからね。
792 :
人間七七四年:2007/03/05(月) 17:00:16 ID:+MTSoSXm
関が原で西軍が辛勝しても
最終的には徳川が押し切るだろ
793 :
人間七七四年:2007/03/06(火) 18:12:05 ID:dIsZAmLi
徳川家康や東軍などが最初から存在しなくとも豊臣政権が瓦解する事は
最初からほぼ必然だったのが痛いよな。
秀吉としては家康に鎌倉幕府の執権くらいになってもらっても構わないから
秀頼を名目上だけでも立てて生かしてくれたらと願ってたかもしれないね。
794 :
人間七七四年:2007/03/07(水) 01:27:19 ID:UkowXbjM
三成もある程度裏切り者(内通者)がいるということを理解するべきだったな
あの布陣はそれが無いという前提なら良かったかもしれないが
逆に吉川広家が内通していると確信していた人間はどれぐらいいたんだろうか
795 :
人間七七四年:2007/03/07(水) 11:01:27 ID:VCIGTnIs
徳川って強いということになってるけど、朝鮮に出兵して
明との「近代戦」(当時のいみでの)を経験し、その戦訓
を得た大名と比べると、大規模な実戦から遠ざかっていて、
しかも時代遅れになりつつあった軍隊だというの本当?
796 :
人間七七四年:2007/03/07(水) 20:23:58 ID:nJEth2RQ
島原の乱では、実戦経験があるのは、細川家の家老が関が原に参加したくらいで、しかもほとんど戦闘の内容は
記憶からなくなってたとは聞くが。
その近代戦の技術がどういうものか分からなければ、なんとも言えないとは思うぞ。
江戸時代の兵法書に取り入れられたとは聞かないし、時代遅れになってるのなら、武田や北条の軍学者がでかい顔
できたとも思えないが
797 :
人間七七四年:2007/03/07(水) 20:44:27 ID:5HnH2K1D
>>795 むしろ明の方が戦訓を得ているように見受けられるがな
798 :
人間七七四年:2007/03/07(水) 21:50:58 ID:toEjy+yI
関が原はそうでも無いんじゃない
大坂の陣は、戦争経験者が少ないだろうな
時代遅れかどうかといったらそれは無いだろうが
あと島原の乱といえば水野勝成がいるな、家光に請われて参陣したらしい
799 :
人間七七四年:2007/03/08(木) 00:13:27 ID:CHV+qJ9z
おおっと、島原なら宗茂を忘れてもらっちゃ困るぜ
800 :
人間七七四年:2007/03/08(木) 11:06:23 ID:ttjKS0In
>>794 毛利家は外から見てて権力構造が不分明な状態だったんじゃないだろうか
隆景も死んで元清も死んで、誰を押せば毛利が動くのかよくわからんという
801 :
人間七七四年:2007/03/08(木) 16:55:41 ID:MJWgvoQT
吉川広家は豊臣家から見て裏切り者なのは当然だが
毛利家から見ても立派な裏切り者だな。
802 :
人間七七四年:2007/03/08(木) 17:30:12 ID:gn8pfrcT
>>801 毛利家はともかく、豊臣家や三成に対しては広家は家臣でもなんでもないんだから、裏切りとか
そういう話ではないわな。
それに毛利家に対して広家のやった事を裏切りと言うのなら、上杉家に対して直江のやったことも
裏切りって解釈できるぞ。
803 :
人間七七四年:2007/03/08(木) 17:36:48 ID:Zre50uXT
>>802 直江の裏切りって、直江状?あれ、偽作って話が出てなかったっけ。
上杉家全体の方針として徳川と戦うってのは決定してたみたいだし、直江一人の責任にするのはどうかと。
広家との対比って意味なら分からなくもないけど…。
804 :
人間七七四年:2007/03/08(木) 22:19:57 ID:zzNUgAs2
もちろん、広家との対比だろ
俺に言わせれば、どっちも家のために奔走しただけだと思う
努力に結果が伴わなかっただけで
805 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 02:13:50 ID:6/Y5vfgZ
主君の命令と正反対の事をして
藩を取り潰されたんだから正真正銘の裏切り者だろう
他に解釈のしようもない。
広家が主君を説得した上で「西軍を裏切れ」という命令をされて
裏切ったのなら主君に対して少しも裏切りではないが。
現在でも部長が社長の命令を無視して会社が取り潰されたら
刑法に問われるんじゃなかった?
806 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 03:51:20 ID:HDL9aHtM
命令無視なんてしてないよ
内応の件は輝元も承認済だし、家老衆も広家に同調している
もっといえば本来の手続き(毛利家は一揆構造を脱していない)を無視して輝元を担ぎ出した恵瓊にも問題がある
しかしもっとも問題があるのは、
恵瓊の要求も承認し、広家達の内通も承認している輝元
807 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 04:34:04 ID:6/Y5vfgZ
>>806 えー輝元は関ヶ原で日和見する事も知ってたのー?
じゃあ取り潰されても当然なほど愚鈍だわ。
同じ五大老として秀吉の本性を見抜けなかった点は
広家より罪が重いし、優柔不断な態度を最もとってはいけない場面で
優柔不断ぶりを発揮した点が痛すぎるな。
でも秀元は関ヶ原で戦う気満々だったと小説で読んだけど
あれは司馬亮の創作か?
808 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 04:35:04 ID:6/Y5vfgZ
訂正
×秀吉の本性○家康の本性
809 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 04:41:12 ID:HDL9aHtM
秀元が戦意が高かったのは否定しない
あと内応には広家だけではなく益田元祥、熊谷元直、宍戸元次、福原広俊らも一枚噛んでる
輝元が家中を統率出来ている様には思えない
810 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 05:47:14 ID:6/Y5vfgZ
>>809 輝元は関ヶ原日和見の件を承諾したんでしょ?
だったら誰が噛む噛まないじゃなくて全面的に輝元が悪いに決まってる。
もし輝元が承諾せずに家康を攻撃しろと広家に命じてたら攻撃してたんだよね?
しかし矛盾するよね。なんで日和見承諾の件を秀元が知らないんだ?
輝元が広家の案に承諾したんなら秀元に日和見命令を出さなきゃ駄目じゃん。
突発的に秀元が独断で家康を攻撃しちゃうケースを考えなかったのだろうか?
811 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 10:08:20 ID:f0O/4GqS
>輝元は関ヶ原日和見の件を承諾したんでしょ?
輝元が日和見に同調したなんて記録も証拠もないよ。
>あと内応には広家だけではなく益田元祥、熊谷元直、宍戸元次、福原広俊らも一枚噛んでる
これは事実。
毛利家では対徳川主戦派は恵瓊や元康、秀包なぞ、秀元は必ずしも反徳川ではないが、戦うと
決めた以上はちゃんと戦うというタイプじゃないかな。
輝元は秀元を信用してなかったから広家を付けたと思うけど逆になったね。
広家は、関ヶ原の時も東軍から仕掛けたら抑えきれないので攻撃しないよう要請しているし、
あんまり綿密なものでもないんじゃないかな、だいたい大津軍が来たらどうするつもりだっ
たのかも不明。
毛利家中の勢力争いと豊臣家取り次ぎとのつながりとかそんな事が背景にあると思う。
個人的には当主の裁断に従って一丸になって、後世に汚名を残して欲しくなかった。
812 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 12:06:25 ID:f0O/4GqS
輝元の関与についての補足
秀元は死ぬまで広家を許さなかったみたいだし、吉川家は毛利家から明治期に至るまで差別待遇を受けていた
事などを考えると、少なくとも輝元の指示はなかったと考えていいんじゃないかと思う。
さらに言えば家老衆の同調がどの程度なのかな、普通に考えて当主や一門が豊臣に荷担してるのに広家の指示
にしたがえるものなのかと。ありえるのは広家が輝元も承知の事だと嘘をついてた可能性ぐらいかな、あくま
で想像ですが。
813 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 15:13:03 ID:6/Y5vfgZ
>>811 >輝元が日和見に同調したなんて記録も証拠もないよ
じゃあ、
>>806が嘘を吐いたのか。自信満々で堂々と
「命令無視なんてしてないよ。内応の件は輝元も承認済だ」なんて
言われたから、「そうだったのか」と思って騙されたよ。
歴史板でも呼吸をするように嘘を吐く人って居るんですね。
814 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 17:30:56 ID:NfyCzxOx
これまでの流れをまとめると、毛利家全体としての方針は決まってなかったって事になるのかな。
で、吉川広家、益田元祥、熊谷元直、宍戸元次、福原広俊などが東軍に内応を進めていた。
逆に安国寺恵瓊、毛利元康、小早川秀包なんかは西軍として戦う事を望んでいた。
毛利秀元はその辺の争いとは離れていた。
バラバラだね。
輝元がどちらかにまとめていないんだったら、組織立った動きなんて出来るわけ無い。
重臣たちより、輝元に責任あるんじゃないか、これ。
せめて、関ヶ原での大将格の秀元辺りとどっちにするか相談すべきだったと思う。
815 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 17:45:09 ID:V8EPLeWr
秀元は内応してると疑われてたんじゃなかったっけ?
当の本人は戦う気MANMANだったけど。
816 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 18:09:02 ID:boEFJGgr
輝元と秀元には確執があって
秀元は家康に恩義が合った。どっちかといえば輝元の方が反家康
に近い気がする。
ただ輝元は毛利の身代を賭ける度胸がなくというか
どっちが勝っても生き残れるように保険かけて黙認していたんではないかな。
恵瓊の策に乗って西軍総大将を務めたのは・・
理由は上杉征伐を成功されたらいずれ矛先は毛利に向かうのは
必定だから、この選択はまちがいなかっただろうけど・・。
ただこれでは負けたら毛利はつぶれるので東軍が勝った場合の保険として
吉川とかが動いたんじゃないか?
吉川の関が原の不戦にしても、家康との約束を守ったというよりは
去就の不確かな小早川の動向しだいで西軍として動くつもりだった気はする。
毛利が先に動いて、あとから小早川が東軍参戦して
負けた際のいいわけできなくなるのを恐れたんだろう。
家康と戦わなければ大丈夫とまでは考えてないだろ
仮にも戦国武将の端くれなんだから。
817 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 18:28:18 ID:bknMQdig
中途半端なんだよな、輝元。
家康に尻尾振るならもっと盛大に尻尾振ればいいし、
西軍につくなら自身の出馬くらいすればいいのに。
旗幟を鮮明にしないのが一番まずい。
818 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 18:45:18 ID:NfyCzxOx
輝元の考えがどうだったかが全く見えないな。
西軍総大将って格を手に入れたのに家臣たちに命令も出さないってのは不可解だ。
というか、大坂城にいる=秀頼やその近臣のコネで関ヶ原以降の立場を有利に持っていくって事も出来るだろうに、なぜそうしなかったのか分からない。
輝元は、関ヶ原前後では大坂城から動いていないんだよな?
関ヶ原で仮に西軍に付いたとしても、例えば秀頼の守役を受けるとかしたら、家康もそこまで大きく出る事は難しかったんじゃないかな。
家康を必要以上に恐れていたって事なんだろうか…。
819 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 18:50:12 ID:bknMQdig
一応、家康が留守の時は大坂に詰めて秀頼を補佐する、という決まり事はあったみたい
820 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 19:04:25 ID:NfyCzxOx
>>819 >家康が留守の時は大坂に詰めて秀頼を補佐する
それ、豊臣家の実質ナンバー3って意味だよね。
だったらなおさら分からない…家康が大坂出てから数ヶ月、何をやってたんだ輝元は。
大坂の輝元の動向について書かれた物って何かあるかな?
821 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 19:54:21 ID:f0O/4GqS
>>820 何をやってたんだ輝元は。>
確か諸大名に味方になる様に書状を送ってたね、戦後にそれを理由に家康に取り潰されそうになったはず。
ただ毛利は九州の大友を助けるために派兵してるし、四国にも出兵はしてるのでそれなりには努力したと
思いますし、毛利ブランドがあったからこそ西軍が組織できたのも事実でしょう。
やはり輝元の指導力のなさや、優柔不断さんが物足りなく感じる所以なんでしょうね。
822 :
太閤:2007/03/09(金) 22:30:07 ID:O2otEOnZ
ジブ公が子供の時から虎や水牛に親切に
してたら西軍が勝ったかもしれないのにね
823 :
人間七七四年:2007/03/09(金) 22:52:06 ID:yg74BNo9
秀頼つう大将がいない戦いでは勝てないぞ、ばかばかしい
824 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 00:25:52 ID:0iogqZUi
平時においては輝元は凡人ではないかもしれないが
乱世においては愚人としか言い様がないな。
自分の意見を言わない事で‘三本の矢’というか家中を平和に
治めようと思ってたのかもしれないが結果的には最低、最悪の愚人だ。
無口と言われた上杉景勝ですら家中で反対意見の者など
絶対に許さない厳しさを持ってたが、輝元は自分の意思を口で示さないばかりか
本当に何も考えてなかった魯鈍人だったのかもしれない。
秀秋と対して器量が変わらないな。というより大領を持ってるだけ
かえって性質が悪い。
825 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 01:23:05 ID:JWj0rWsS
>>824 毛利家も自分たちが主導する反乱なら本気になったんだろうけどな。
でも自分が西軍の中心のつもりで大阪に入ったら、主導権は三成ら奉行衆一派がにぎっていた。
毛利としてはばかばかしくて本気で動く気にはならんわな。なんで大老の毛利家が
奉行ごときの指揮権に屈せねばならないのか。
結果家を潰したから毛利は誠心誠意従うべきだった、って考え方もあるだろうけど、
そういう合理的に出来てるわけじゃないからね、人間社会は。特にこんな非常時は。
まあアレだ、個人的には「三成が、指導力が無いのに反乱の主導権を握ったこと」が、
一番の問題点だったと思っているよ。
あ、一応行っておくけど指導力と言うのは、個人の能力の事だけじゃないよ。
官位とか領土とかみなを納得させる経歴とか軍事力とか、そういうのも含めての「指導力」ね。
826 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 01:30:04 ID:ZmNZz5IW
三成に指導力が無いなら、何で輝元はそこから主導権を取り返さなかったのかな。
西軍の中心のつもりで入ったら、本当にそうなっちゃえば良かったんじゃね?
827 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 01:36:08 ID:JWj0rWsS
>>826 「主導権」って一旦握られたらなかなか取り返せないものよ。それに反乱はもう動いていたからね。
主導権取り返そうとしたら、反乱を再構成して、もう一度始めるくらいの事をしないといけない。
それは時間的にも現実的にも不可能でしょ?
まあ、「最初っからボタンを掛け違えていた」って事だよ、西軍は。
828 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 01:37:18 ID:Cho3MqRs
淀のおきにだから仕方がないだろう
829 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 01:48:33 ID:5tgOKx9f
主導権を握られた、取り返す猶予もない
それはそれで良いんだけど、その後何をしようとしたの?日和っちゃった?
830 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 01:52:21 ID:cTjaaxqp
主導権を取り返す為には、いっそ、三成以下の奉行衆が大坂に行って、輝元たちが出陣しちゃえば良かったんだよ。
ありえないかもしれんし奉行たちが何しでかすか分かったもんじゃないけど、後の事考えたらそっちのが良い気がする。
まぁ、実際は輝元自身の出馬はなく、長州30万石に押し込められたわけだけどね。
なんというか、全てにおいて後手に回った感じだよな、毛利家全体でさ。
831 :
安国寺:2007/03/10(土) 01:59:30 ID:T0fq58Db
終始輝元は、元就の遺訓もあり、積極的な天下とりなど考えていなかっただろう。家康とはそこが決定的に違う。
832 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 02:00:49 ID:cTjaaxqp
>>829 >九州の大友を助けるために派兵してるし、四国にも出兵はしてる
ID:f0O/4GqSの発言が正しかったら、一応動いてはいるって事になるかな。
ただ、どうにも動きが少ない気がしてね…本戦が美濃方面って意識はあったんだろうか?
まぁ、なけりゃ秀元や吉川達の重臣を配置しないか。
そっちに送った奴らに、少なくとも吉川辺りには方針だけでも伝えるべきだったろうな。
833 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 02:05:11 ID:JWj0rWsS
>>829 つーかさ、毛利があがいても、三成たち奉行衆が毛利以下の大名に主導権を渡さないよう
動いているんだから。
三成たち自身は、自分たちの指導でこの反乱を勝てる!と信じていたわけだしね。
これは、もし三成たちの上に秀吉がいれば、まさしくその通りに勝てたでしょ。
ただ、現実には三成たちは、秀吉がいないことのマイナス要因を軽く考えていただけの話で。
834 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 02:31:15 ID:cTjaaxqp
>>833 だったら、やっぱり大坂で工作するべきだったと思う。
三成以下の奉行衆はほぼ全員が関ヶ原方面に行っている訳だし、家康自身も関ヶ原にいる。
ジャマしそうな奴は誰もいないんだし、やり方によっては関ヶ原での結果に関らない程の成果も見込めるでしょ。
大坂でやったのは大友とかの西国諸侯への援護程度で、他には関ヶ原の主導権争いだけしかしないなんて、ちょっとどうかと思う。
たしか家康は、一月以上は江戸から動かなかったんだよな。
それを踏まえると、毛利家は全体としてロクに動いてなかったと言わざるを得ない。
家康も、拍子抜けしたんじゃなかろうか。
835 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 02:49:53 ID:cDcF+3Vp
>>830 奉行が大阪城に篭って毛利VS徳川になったら、
三成にとっては「どっちが勝っても豊臣家の主導権を外様に譲り渡す合戦」
輝元にとっては「三成が仕組んだ外様大大名潰しの合戦」になるのでは?
秀吉の中央集権路線を引き継ぐ三成を、輝元も警戒せざるをえないだろうと思う
836 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 03:05:17 ID:JWj0rWsS
>>834 大阪城の中だって奉行派が支配してたわけで。輝元の手足となる家来衆は戦場に出向いてる。
直属の軍事力から引き離されている輝元一人じゃ、何ほどのことも出来ないわな。
837 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 03:43:46 ID:cTjaaxqp
>>835 どうしても主導権争いがしたいんだったらって事さ。
言ってみれば、極論だね。
>>830にも書いたけど、奉行の暗躍を防ぐためには大坂にいた方が良いってのは明らか。
>>836 俺は、軍事じゃなくて政治的な面で動くべきだったって考えだな。
清洲会議での秀吉の立ち振る舞いを真似しろとまでは言わないけど、それに近い事はできたと思う。
美濃方面での争いをしている時点では、奉行派の支配もかなり薄まっているはず。
家来衆がいないのは、毛利家も奉行衆も一緒のはずだしね。
いっそ、安国寺か吉川辺りを手元に置いておくべきだったかもしれんね。
美濃方面にどうしても必要ってんなら、毛利家4宿老格の誰かでも良い。
その中の一人でもいたら、かなり動けるんじゃないかな。
838 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 04:02:44 ID:JWj0rWsS
もし毛利が本当に西軍の主導権を得ようとするなら、項羽が楚軍の主導権を奪うため上将軍の宋義を
殺したように、三成以下奉行衆を皆殺しにするしかなかったかもね。
839 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 05:09:09 ID:0iogqZUi
単純計算で西軍が勝てば毛利家の土地が削られる可能性は無かったけど
東軍が勝てば改易の可能性もあったと何で考えられなかったんだろう?
別に結果論で論じてるわけではなく当時、普通に考えれば
誰でもそういう結論に達するのはさほど難しい事だとは思えないが。
840 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 05:41:57 ID:5V++FGbP
>>839 広家が馬鹿だったんでしょうな。俗説どおり秀吉が嫌いつう単純な動機
だったのかも
841 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 06:02:09 ID:JWj0rWsS
>>840 馬鹿も何も、西軍に毛利が引き入れられた時点で広家は減封を覚悟したでしょ。
毛利家の実態を知っている広家としては、毛利が参加しても西軍は絶対に勝てない、
って結論だったんでしょ。なのに毛利家が西軍に組み込まれる事を阻止できなかった。
ならば被害を最小限度に…、って考え方は、特に非合理ではないよ。
その広家の判断自体を云々するのはありだとしてもね。
842 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 09:33:09 ID:VptXggsO
>>824 景勝は創業者。
輝元は三代目。
秀秋は落下傘。
それらの違いを前提に考えた方がいい。
843 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 10:02:13 ID:0iogqZUi
844 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 10:03:32 ID:EiU0n5uT
毛利の一揆引きずった中世的国内体制じゃ、元就本人の手腕でもないと天下取りなんてできんだろうしな
845 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 10:07:01 ID:08GIC6S3
>>840-841 毛利には天下を支える力なしと判断したんでは?
妥当だと思うよ。
たとえ勝利したとしても関東まで攻め上る余力はなかろうし
万が一完全勝利したとしても豊臣政権は室町幕府の二の舞化
するのは目に見えている。
そこでの毛利の末路が細川や三好や大内のようにならないとはいいきれない。
つーか室町幕府に入りこんだ大内の末路とか見てるだけに
たとえ一時天下の権を握っても大内のようにすぐに没落してしまうであろう
と先読みしすぎたのかもしれず・・・
史実の江戸幕府のごとき磐石な天下政権を打ち立てる目算や構想や自信
があればともかく・・
846 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 10:15:04 ID:08GIC6S3
あと忘れちゃならないのが豊臣から見て最大の仮想敵国が
徳川ではなく毛利だという点もあろう。
箱根の向こう関東に位置している徳川なんぞよりも毛利のほうが
脅威であろう。
奉行からしたら毛利の脅威への警戒や不信がそこはかとなくムード
で出ていた可能性もある。
これじゃあ勝っても後が危ないと思われたのかもしれない。
よくいわれる日頼様(元就)の天下を競望するなという遺言
も眉唾な気がする。
徳川が律儀な内府殿として律儀を売り物に警戒をそらそうとしたのと
同類な気はする。
847 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 10:15:08 ID:VptXggsO
>>843 景勝は謙信が築いた社稷を継いだわけじゃない。
自分の力で家を築いた。
だから、家中を統率しきることが可能となった。
基本中の基本だ。
848 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 10:20:41 ID:VptXggsO
付け足しておくと、家康は(一向一揆鎮圧は経たけど)家中を統率しきれて
いなかったと思う。
関ヶ原が長期化すれば、東軍諸将だけでなく、重臣たちからも寝返りが
出る可能性もあったと思われる。
849 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 11:16:17 ID:0iogqZUi
>>847 君、大丈夫?
社稷とは古代中国では天子や諸侯が祭った神々
日本においては朝廷または国家の尊崇する神の事だよ。
いつ謙信が天皇になったり神になったんだ?
継ぐとか継がないとか出来る物じゃないだろ。
基本中の基本だ。
850 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 11:41:34 ID:EiU0n5uT
>>849 横レスだが、文脈を読まない揚げ足取りをメインに据えるのはどうか
そういうのは反論の補足でいうものだ
851 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 12:34:51 ID:rpf5hBUj
>>847-848 上杉→御館の乱で一旦完全にぶっ壊れた状態から新しく家臣団を作り直した
徳川→三河一向一揆で半端に壊れた状態から戻した
この差だな。
もっと言えば、松平広忠の家臣とは顔ぶれが違うんだけど、それはさておいて。
基本的な面子が変わってないなら、体質も変わらないって事になる。
確かに、石川数正みたいな奴が出てくる可能性は否定できないわな。
関ヶ原で相当不利になったらって但し書きはつくと思うが…。
個人的には、四天王の中で酒井辺りが危ないかもと思う。
石川と同じ重臣だからってだけの、根拠ない勝手な考えだけどね。
852 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 13:12:39 ID:3GZsEp64
家康は信康処断、関東転封に際して、かなり中央集権化には力をいれてるが
元が三河盟主だったのがあるからな
豊臣、織田に比べればましだし、毛利より大きく進んでいたが
まあ、中央集権は、秀忠の代まで待たないといけない
853 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 13:24:56 ID:Il8sTizA
酒井は関が原前に死んでるし
家康は現役にしか禄はやらんから、重臣酒井も怖くはないな
まあ平和になってからは政治で持ち直すんだが
854 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 13:28:56 ID:VptXggsO
>>849 顔を真っ赤にしている馬鹿をからかうのは面白いから続ける。
お前の調べた辞書ではそう限定されているかもしれんが、転じて
「社稷」とは国家を指し示して使用される単語だぞ。
もう少し高い辞書を買うか、ネット検索方法を身に付けるかした方がいい。
嘘だと思うのなら、パパやママンに質問してみろよ。
855 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 14:02:54 ID:rpf5hBUj
>>853 >家康は現役にしか禄はやらんから、重臣酒井も怖くはないな
東三河の旗頭って地位にいながら、信康問題とかで家康には嫌われてたらしいし、酒井。
あ、でもそれは俗説かな…まぁイメージだけの事だし、勘弁して下さい。
酒井ほどの家柄なら、徳川の中枢にはいるんだし、裏切られたら相当痛手だと思うけどね。
>>854 >「社稷」とは国家を指し示して使用される単語だぞ。
更に転じて、日本のイエ制度の総領の地位を継ぐって意味になるんだよな。
じゃなきゃ、景勝は国家を受け継いだ事になっちゃう。
○○国って名付けられてた辺りから考えると、あながち間違いじゃないけどね。
重箱の隅をつつくのはさておき、景勝と家康の差は上に書いたけど、実際裏切りが新発田重家一択ってのはかなり凄いと思う。
重家を中心にして、御館残党とかが集まってたんだろうけどね。
それにしても対立の図式をあんな早くまとめるってのは、景勝は相当腕の立つ政治家だったんだなぁと思う。
856 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 14:22:01 ID:Il8sTizA
貧乏な土地だけど主家思いの三河武士てのも微妙だしな
元々足利のメインの蔵入れ地でもあったし
現代でも農地としてもいいみたいだし、豪族が鬱陶しい
家康の前は2代連続で家臣に殺されてたり、家康も三河一向一揆は三大危機の1つとして相当苦労したようだ
旧武田や旧北条の掌握や、豊臣政権牛耳るほうが簡単に見える
857 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 14:33:34 ID:GI4ZPibA
>>855 信康処断は信長指示という通説は否定されているからな。
浜松を中心とした家康+家康子飼い(中央集権派)
岡崎を中心とした三河土豪連合+信康(名目上の頭目)
の派閥争いの面がある
家康は土豪連合の内乱を防ぐ為に頭目に担ぎ上げられた信康を処断した
毛利、武田家でもそうだけど、殆どの戦国大名は土豪の盟主に過ぎないからね
家康にとって関東入府は幸いだったろう、家臣は反対するだろうが……
関ヶ原時に酒井が離反しても家中体制には余り影響なさそうだな
史実でも左衛門尉家は重用されてないし
858 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 14:51:08 ID:rpf5hBUj
>>856 大久保だけは裏切らなかったとかいう三河一向一揆ね。
確か、正信の弟だかも加わってたな。
小説がソースになっちゃうけど、家康とは戦えないって言って逃げ出した奴とかいたって記憶してる。
とりあえず、そういう苦難を乗り切ってるってのだけで凄いわな。
そりゃ海道一の弓取りって呼ばれるわ。
関ヶ原辺りになったら、マジで怪物と思われてるんじゃないかな?
>>857 >史実でも左衛門尉家は重用されてないし
酒井忠勝が大老になってなかったっけ?雅楽頭家の方だっけ?
この時期はまだまだで、江戸時代になってから政治面で持ち直したって事なのかな…。
信康問題が派閥争いってのは、ちょっと知らなかった。
上のと合わせて、政治・軍事の両面で物凄い苦難を乗り切ってるんだな…家康。
マジで化け物だ。
859 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 15:24:37 ID:GI4ZPibA
>>858 大老になった酒井忠勝は雅楽頭家だね
左衛門尉家では老中になった当主はいても大老はいない
860 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 15:38:13 ID:/S88L11Q
>>859 大老は雅楽頭系か。でも、老中にはなってるんだし左衛門尉酒井もかなり政治能力は高かったのかな。
なんか関ヶ原から話がそれちゃってるから戻すと、西軍はバラバラというか後の事考えた権力争いがあるからまず勝てない。
一方の東軍も、中心の徳川の体質に若干の不安がなくもないけど家康がいる限りはまず騒動は起きないと考えて良いのかな。
こう見てみると、小早川がどっちにつくか悩んだってのもあながち間違いじゃなかったのかもね。
徳川の次代としての秀忠が本戦に来てないってのも、判断を悩ませる一因だったと思う。
861 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 22:58:18 ID:0iogqZUi
>>854 おまえ痛すぎるな。
なんで話すそばから続々と嘘ばからい吐いてるの?
輝元が関ヶ原の日和見を命令したと嘘を吐いて逃亡したと思ったら
今度は社稷という言葉を知らずに使って間違いを指摘されると嘘の上塗りか。
まつでNAVER朝鮮人のような惨めな嘘の繰り返しをする人だね
高い辞書を買えって? 大辞林と大辞泉より高い辞書なんてそうそうないだろ
アホは死ね
大辞泉
1 古代中国で、天子や諸侯が祭った土地の神(社)と五穀の神(稷)。
2 朝廷または国家。「―の危機」
3 朝廷または国家の尊崇する神。
大辞林
[1] 土地の神(社)と五穀の神(稷)。昔、中国で建国のとき、天子・諸侯は国家の守り神としてこの神々を祀(まつ)った。
[2] 国家。朝廷。[3] 朝廷または国家の尊崇する神霊。
転用の意味まで完璧に書いてある両辞書に載ってない時点で
おまえの脳内転用という事で完結してるんだよ。
おまえの脳内お花畑か?
862 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 23:01:46 ID:0iogqZUi
しかし、とっさに嘘を吐く厨房が歴史板に来ると困るよ
毛利輝元のありもしない停戦命令を脳内捏造して「事実」だと主張してみたり
社稷=家督だと主張してみたり、まるで幼稚園児だな。
アホの巣窟か ここは
863 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 23:22:44 ID:ltozvJSb
俺はあんたが突っ込んでる相手ではないが
正確な用法ではないにせよ、完全に間違いとも言い難い範囲だし
まら、別にいいたいことは取れるんだし、正直どうでもいい部分だわな
明らかに本筋じゃないもので顔真っ赤にして怒らない方がいいぞ
頭が悪く見えるから
864 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 23:44:00 ID:SDMdfzKE
頭悪いから怒り狂ってるんだろ
厨房厨房言うくらいならレスしなきゃいいのに、堪え切れない程度の知能
865 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 23:49:17 ID:0iogqZUi
ID:VptXggsOは一人何役やってるんだろう・・・
866 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 23:50:44 ID:ltozvJSb
おまいから見たら自演に見えるんだろうけど
俺は違うぞ、ただちょっと見て居れなくなっただけ
867 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 23:52:05 ID:0iogqZUi
正確な歴史用語の使えない人が歴史を語る資格など全くないのは常識だと思うんだがな
流石2ちゃんだ。実にレベルが低いというか中学生というか朝鮮人というか・・・
平気で嘘を吐くレベルは朝鮮中学生レベルだな。
臭い臭い、チョン臭いからもう来ないは
死ね
868 :
人間七七四年:2007/03/10(土) 23:53:55 ID:ltozvJSb
うーん、君みたいなひとは、ニュー速とか東亜とかハン板
あたりにいるといいと思うよ
批判したら全部チョンだとか言うのは、言ってる奴が鏡に写ったチョンなんだけどなあ
わかんないか
869 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 00:03:36 ID:y8p2HiML
「関ヶ原の戦い総合スレ」の総意
・毛利輝元が関ヶ原の日和見を毛利軍に命じた
・社稷=家督
歴史を語るレベルじゃぁないな。
悪い病原菌の脳を侵された可哀想な人たち・・・
哀れだね〜
870 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 00:04:07 ID:5dAzZLyb
871 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 00:10:22 ID:DsuJPLzg
>>869 一点目に関しては、特に同意はしない
二点目に関しては、叙述として理解は出来る
そもそも君の文章も含めて学問的に厳密な用語法
使ってる人間がほとんどいない場で揚げ足取り的に
恣意的な指摘をする意味はない
理解できてたらそんな事してないと思うけど
また、無駄に煽る文章は書き手の知性の低さを露呈するだけなので
お勧めしない
872 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 00:52:15 ID:c3aLddqW
>>854にも責任がないとは言い切れないわな。
煽る言い方に煽る言い方で返している辺りで、ちょっとどうかと思う。
>>869 2 朝廷または国家。「―の危機」
[2] 国家。朝廷。
一応、この意味なら国家って事になるんじゃないの?
ついでに、家督云々ってのはID:rpf5hBUjの言った事?
なら俺だ。すまんね、間違った。
というか、こうやって一言謝れば済む話を、チョンだの可哀想な人たちだの厨房だのと、煽る言い方するの?
自分からは煽る言い方しといて、相手から煽りを受けたら余計火がついたように煽るって、それこそチョンだと思う。
と、言う俺も煽る言い方になってるかな…ごめん。
873 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 01:09:17 ID:c3aLddqW
一言謝れば済む話を、何で〜
だな。また間違った…。
話を関ヶ原に戻そう。
>>860で言っているどっちが勝つか分からないってのを踏まえての考えなんだけど。
>>2で出てる、当初参戦しなかった部隊がやたら多いってのは、やっぱり勝敗が見分け難かったからなのかな。
特に毛利と小早川、そいつらに入り口ふさがれてる西軍諸侯辺りの戦意とかってどうだったんだろ。
秀元は戦意はあるけど吉川に止められてて、小早川はどっちに付くか迷ってるって従来の考えで良いのかな。
1・2部隊位は勝手に飛び出してもおかしくないと思うんだが…。
874 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 01:11:00 ID:5dAzZLyb
南宮山は高いからなあ。
875 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 01:26:43 ID:DsuJPLzg
降りるのに時間かかるけど動けば家康本陣壊滅する位置だし
ほんとに秀元にやる気はあったのだろうか・・・・
ちなみに、関ケ原観光でレンタサイクルとかで回ると南宮山だけはずれてるは、
遠いは、高いはでいってられん位置にある
小早川とか大谷の陣もだるいけど。。。
876 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 01:32:47 ID:5dAzZLyb
高いって事は降りるのに時間がかかる。
やっぱ多少は疲れる。対して、浅野や山内などの東軍側は待ち構える体勢になる。
それに吉川が降り口塞いでたしね。
蹴散らして行くわけにもいかんよ。
年齢も違うしさ。
877 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 02:20:31 ID:OlH/d8BJ
そういえば井伊直政だか、本多忠勝だか忘れたが、
あんな所(南宮山の頂上)に構えている以上、やる気無いんだからほっとけ、
とか言っていたという話を聞いたことが有るな
878 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 02:38:46 ID:y8p2HiML
景勝は謙信が築いた社稷を継いだわけじゃない。
自分の力で家を築いた。
だから、家中を統率しきることが可能となった。
基本中の基本だ。
879 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 02:41:03 ID:y8p2HiML
命令無視なんてしてないよ
内応の件は輝元も承認済だし、家老衆も広家に同調している
もっといえば本来の手続き(毛利家は一揆構造を脱していない)を無視して輝元を担ぎ出した恵瓊にも問題がある
880 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 02:45:05 ID:y8p2HiML
パパやママンに質問してみろよ。
基本中の基本だ。
881 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 02:47:20 ID:c3aLddqW
>>877 それは、最低限徳川家の総意に近いものだったって事かな。
言ったのが忠勝でも直政でも、ある程度家康の意思を汲んだ言い方になると思うし。
毛利に対して徳川は、少なくとも傍観、最大限で協力を望んでいた、もしくはそうなると考えてきたんだろうか…。
>>874からのやり取りを見ていて迂回とか思いついたんだけど、そんなレベルじゃないよな、南宮山。
実地で見ないとイメージが掴めない…。
882 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 02:57:30 ID:KdJItaoL
言ったとされるのは忠勝だよ
883 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 04:29:07 ID:y8p2HiML
パパやママンに質問してみろよ。
基本中の基本だ。
884 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 04:37:24 ID:0XCF4kB0
実際に南宮山とかほぼ隣の駅だからな
遠い遠い
885 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 05:53:02 ID:SL4LFISx
>ID:VptXggsO=ID:y8p2HiML
半年と言わず半万年ROMるか、初心者板へ帰れ
886 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 06:41:34 ID:y8p2HiML
パパやママンに質問してみろよ。
基本中の基本だ。
887 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 08:40:42 ID:cdrNYckk
>>841 もし減封も覚悟してたのなら、あの陣形を実際に目の当たりにしても動かず
自分の判断を曲げなかったのはやはり広家は馬鹿としか、つうか敢えて
言うならカスだと思う。
888 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 09:20:19 ID:95PJ5STR
俺はVptXggsOだけど、854以降は書き込んでいないよ。
社稷イコール家督と書かれると、さすがに違うような気がするけど、
元の書き込みはそう読めるね。
使いたかったのは領国・国人衆に対する支配権(ニアリイコール家督)
という意味。
現代でも社稷を継ぐという表現は使われているし、その場合の社稷は
会社の経営権や組織本体を指す。
輝元や秀秋(おそらくは広家も)が家中を独断で指揮するのは不可能
であり、コンセンサスに基づく判断を下すしかないと思う。
家康だって、重要な判断は重臣を集めて討議させて、その結果でた
案の中から結論を選択していたと聞くし、巷間言われているように
東軍諸将をピシリと統率していたというのは無理のある話だ。
自分の思い通りに動かそうとすれば、秀秋時代の小早川家のように
家中が崩壊してしまう。
武将の評価をするのなら、こういった事を踏まえた方がいいという
のが本旨。
チラ裏スマソ。
889 :
人間七七四年:2007/03/11(日) 12:48:52 ID:50theFBh
>>885 自演かな
それに突っ込んで、チョンチョン喚いてた人が
一人でファビョってオウムみたいな荒らししてるだけだぞ?
890 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 00:08:14 ID:xt6aYJsS
毛利勝永を先頭に安国寺と長束の軍だけでも池田や浅野を撃破できたでしょうに
なぜ突っ込まなかったのかな?
891 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 03:42:08 ID:C+oYNf/M
パパやママンに質問してみろよ。
基本中の基本だ。
892 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 07:26:33 ID:rNhvjHwq
関が原での家康の勝利は稀に見る幸運。
兵数は西軍の方が上回り、陣形も東軍を包囲した西軍必勝の配置。
事前に西軍内部に裏切り工作をしておいたおかげで、
西軍が不統一だったとはいえ、
小早川秀秋や吉川広家の動向はあくまで不確定要因。
特に性惰弱な小早川秀秋はどちらに転ぶか全くの不明で、
こんな頼りにならない連中を戦力に見込んで戦をした家康は凡将とさえいえる。
開戦当初から東軍は西軍に押されっぱなしで、
小早川秀秋がトチ狂って東軍に攻めかかっていたなら、
東軍の負けは明らか。
そもそも家康の戦歴で特筆すべき戦は、
姉川での浅井軍への横入れと小牧長久手での局地戦の勝利くらい。
将才はたいしたことはない。
893 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 08:17:27 ID:DtrarlDn
>>892 >特に性惰弱な小早川秀秋はどちらに転ぶか全くの不明
ただの「歩」を「成金」にして使うのが家康の老獪な手腕といえる。
894 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 08:23:51 ID:PtWb2GLG
鈴木本人も近作じゃ「幸運だけの凡将」なんて言ってないのにねー
マルチまでして必死だな
895 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 08:47:19 ID:rNhvjHwq
>>893 >ただの「歩」を「成金」にして使うのが家康の老獪な手腕
小早川秀秋は戦の最中、
最後の最後まで東軍か西軍かのどちらに付くか迷いに迷っている。
家康の催促の砲撃で結果的に西軍を裏切るのだが、
それは単なる小早川秀秋の気まぐれにすぎない。
関が原の勝敗は、
愚図の小早川秀秋の動向如何にかかっていたわけで、
家康は確率二分の一の丁半博打に運良く勝っただけ。
896 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 08:56:04 ID:jZTRcj6W
小早川隊は吉継本隊に押し返されている。
決定的な東軍勝利のトリガーは四将の寝返りだろ。
それがなければ、戦闘は膠着状態のまま休戦となったのではないか?
早朝から夕方まで激戦を継続するのが戦国時代の常態であるなら話は別だが。
897 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 09:12:09 ID:rNhvjHwq
>>896 >決定的な東軍勝利のトリガー
は、小早川秀秋の裏切り以外有り得ない。
それが西軍の裏切りの連鎖を生んで、西軍が総崩れになったからだ。
>小早川隊は吉継本隊に押し返されている。
大谷吉継隊程度の小勢では小早川軍の攻撃に対して焼け石に水。
小早川秀秋の裏切りに激怒した大谷隊の将兵が玉砕しただけのこと。
898 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 09:25:05 ID:C+oYNf/M
仮に小早川隊が西軍として参戦し
東軍へ逆落としをかけて攻勢に出ても西軍が勝てるとまでは言えないよね
せいぜい、ある程度長引くだけの話で。
毛利までが同時に西軍として参加して西軍がなんとか有利というくらいじゃないの
数日持ちこたえれば秀忠軍が来るし、さらに持ちこたえれば前田勢も来るし。
899 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 10:48:01 ID:rNhvjHwq
>>898 >仮に小早川隊が西軍として参戦し
東軍へ逆落としをかけて攻勢に出ても西軍が勝てるとまでは言えないよね
せいぜい、ある程度長引くだけの話
戦局が拮抗している状態で、
一方から新手の大戦力が投入されれば、
他方は戦線を持ちこたえられず総崩れとなるのは、
西軍の敗北が実証している。
なのに何故東軍にはこの論理が当てはまらないと言えるのか。
論拠に全く合理性が無い。
小早川軍が東軍に攻めかかれば、
赤座、小川、朽木、脇坂ら四将も小早川軍に押し出される形で東軍を攻撃せざるを得ず、
戦局は一気に西軍有利に傾く。
>毛利までが同時に西軍として参加して西軍がなんとか有利というくらいじゃないの
毛利の東軍への攻撃開始は、
「西軍がなんとか有利」という軽微なインパクトで済むはずがなかろう。
家康の背後の南宮山に布陣している吉川広家は、
東軍が大混乱を来たしている様を見れば、
もはや日和見を続けるわけにもいかず、
何より血気に逸る毛利秀元をこれ以上留めておくのは不可能だ。
吉川広家の傍観は家康勝利が大前提なのであって、
東軍が敗色濃厚なら自分の保身のためにも東軍攻撃に参加せざるを得ず、
そうなれば東軍は東西から挟撃されて総崩れとなり、
退却のドミノ現象に陥る。
家康は戦場から無事に抜け出せるかどうかさえ微妙だろう。
つまり、関が原の勝敗の帰趨は、
小早川秀秋一人の動向にかかっていたのは紛れも無い絶対真理である。
900 :
安国寺恵瓊の慧眼:2007/03/12(月) 11:25:17 ID:rNhvjHwq
「信長之代、五年、三年は持たるべく候。
明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。
左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候」
毛利の外交僧として織田方との折衝にあたっていた安国寺恵瓊が、
天正元年に信長の将来の没落を予言したとされる文言である。
本能寺の変から遡ること八年と半年ほど前、
彼は当時の信長のどこに、その萌芽を見つけたのだろうか。
901 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 14:04:53 ID:u/kz5k+e
3〜5年は持つだろうと予言してて
8年と半年後てのは微妙だよな。
902 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 18:12:05 ID:aAZuYXHJ
903 :
人間七七四年:2007/03/12(月) 20:06:19 ID:7KzOBFYT
LD株は倍になる
と予言してたおばはんが居たが
紙屑になったよな
904 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 00:14:36 ID:krSDn1ga
パパやママンに質問してみろよ。
基本中の基本だ。
905 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 01:51:53 ID:mxBZl620
小早川が西軍として攻撃した場合は、宇喜多と一進一退の接戦をしていた福島辺りが側面からも攻撃受けて壊滅。
ただ、完全に温存されていた状態の家康本陣の投入をすれば戦線は維持される。
まずないと思うけど、この期に及んで毛利が東軍に参戦するか中立を保てば、家康本陣の数の力で押す事が出来る。
一方、毛利が攻撃した場合、抑えの諸将は兵力差で粉砕、そのまま家康本陣に肉薄されて一気に東軍は壊滅状態に追い込まれるな。
毛利が攻撃した時点で、仮にトチ狂った小早川が東軍として参戦したとしても状況に変化はなし。
大谷辺りは潰されるかもしれんけど、勢いに乗った西軍諸将に粉砕されるだろ。宇喜多とか。
こう見ると、小早川より毛利に裏切られた方がヤバかったんじゃないかな、東軍。
陣系図を見たら分かるけど、毛利が動いた時点で東軍は終りだ。本陣の真後ろにロクな抑えも置いていないしね。
メッケル少佐が「西軍の勝ち」って言った理由が良く分かるわ。
906 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 01:54:46 ID:G4wz+5AH
>>903 おばはんが持ち株を売り抜けるためについたデマだな。
あ、そのオバハンを風説の流布で訴えられないのかな?
907 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 02:20:34 ID:HD2W7i3d
>>905 毛利が動くのかなり時間かかるんだけどな
早い時間帯に決断しないとあそこは無理
現地みりゃ実感する
908 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 02:49:57 ID:mxBZl620
>>907 図面を見た限りでは、長宗我部と長束はやる気ないんじゃないかって位置だけど、毛利ならどうにかなりそうなんだけどな。
>>882の、忠勝が言ったとされるやる気ないんだからほっとけってのは正しいって事かな。
実際、何時間程度かかるんだろ。やっぱり、実地で見ないと分からんね。
909 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 04:52:04 ID:zcRgbgyZ
910 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 05:35:51 ID:krSDn1ga
パパやママンに質問してみろよ。
基本中の基本だ。
911 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 06:59:59 ID:1DNSGIUD
>>908 お前の想像力がもう少し現実的だと、議論が盛り上がるのにな。
残念だ。
小早川が寝返って福島隊が崩れれば、東軍全軍が崩壊するよ。
西軍が崩れた史実を検証すれば理解できると思うが。
それと南宮山の長曾我部と長束は明らかに先鋒だ。
布陣図を見ても判らんのか?
(長束隊が戦闘したことも知らんのだろうな)
912 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 07:15:57 ID:HD2W7i3d
長曾我部と長束は南宮山の東側で平地布陣だろ
まあ、交戦開始と同時に毛利が動いて東軍の後方閉塞に動けば
決定要因だとは思うけど、日和見してる時間的余裕はちょっとないだろうさ
913 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 08:31:53 ID:Ou28If4b
比高をちょっと調べてみたんだが、
南宮山の比高は362m、松尾山の比高が300mで
高さだけで見れば(縦の60mは大きいが)あんまり差がないね
まあ、松尾山は城だったから整備されていたけど
南宮山はどうだったんだろう?
非整備で山頂付近に陣取って、比高362mは、流石に戦う気は無いように思えるな
914 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 14:05:58 ID:NA2VrFfp
俺は家康より秀吉のほうが好きで、
本音では徳川方の勝利を苦々しく思ってるんだが、
天下の趨勢から鑑みれば、東軍の勝利で良かったと思う。
そもそも家臣同士が分裂して冷戦状態になった時点で、
豊臣政権の統治能力衰退は明白であり、
それが戦という熱戦に移行すれば、政権の権威は地に堕ちたも同じ。
なのに西軍の勝利なら、
関が原は第二の「応仁の乱」となり、
以後の豊臣政権は足利幕府のように弱体ながらも、
大大名乱立の上で、何とか命脈を保つ形骸政権になるのは明らか。
そんな脆い体制は政権崩壊の萌芽を常に孕んでいるから、
近い将来、些細なきっかけで必ず戦国乱世が再現される。
つまり、当時天下を背負えるのは家康しかいないと判断し、
戦場で日和見に徹した吉川広家の大局観は見事であり、
個人的には好きではないが、
一武将としては、その聡明さを評価している。
915 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 14:26:13 ID:RFaNPfk9
荒れる第二次戦国時代ってのも見てみたいが
916 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 14:31:44 ID:n08cFYGt
この板にいる人間なら当然だな。
というか本当に広家が本当に聡明ならもっと積極的に立ち回るべきだろ。
日和見して約束反故にされてじゃいいように使われたようにしか見えない。
判断として間違ってなかったとは思うがそういうのを聡明とは思えん。
917 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 14:56:43 ID:NA2VrFfp
>>916 >広家が本当に聡明ならもっと積極的に立ち回るべき
西軍の一員として参戦している以上、
「積極的に立ち回る」ことは毛利本家に対する露骨な背信行為であり、
裏切り者として糾弾されるだけ。
自己保身のためにも西軍を装って戦を傍観するしかなかった。
西軍攻撃を実行し、
世間から「裏切り者」のレッテルを貼られて軽蔑の対象に成り下がり、
無様に発狂して死んだ小早川秀秋が悪い見本だ。
吉川広家は小早川秀秋のような阿呆ではないから、
体よく立ち回っただけ。
理に適ってる。
戦後の毛利に対する大幅減封を計算に入れるべき、
というのは酷というもの。
吉川広家は聡明だが、信長や秀吉クラスの武将ではない。
流石にそこまでの洞察力は彼にはないよ。
918 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 15:08:01 ID:n08cFYGt
この場合「立ち回る」は戦前も含むよ。
919 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 15:24:59 ID:TQfoGQKb
広家が仮に家康と直接交渉出来たならやっとくべきだったな
家康との間に人が介在するから戦後いいようにやられちまったんだ
920 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 15:25:26 ID:cvgQXH8z
序盤に秀元軍が桃配山へ攻撃を始めたら普通に西軍勝てないか?
921 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 15:45:06 ID:RFaNPfk9
南宮山から桃配山はダイレクトに通じてないんじゃないかね
吉川軍のいるあたりが上り口
922 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 15:55:43 ID:/tVeuOoC
山降りて、中山道まで出て、浅野軍とかとえっちらおっちら開戦してってやらないといけない以上
結構大変
戦場の縮尺よく見ると浅野とかいるの実はかなり後方だし、実質別戦場
923 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 18:31:13 ID:3xj/GJ2x
つーか 山頂から降りようにも 山道を一斉に駆け下るとか幻想以前の問題だし
降り口ふさがれて出てくる端から叩かれて進むも引くもならずがオチ
そもそもなんで秀元勢はあんなトコに布陣してもうたんだっけ?
924 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 20:02:36 ID:fI13e8AS
>>917 勝てば大増封どころか政権簒奪もありえたのに大減封だからなあ。
こんなアホのどこが聡明なのか。アホと言うよりカスだけど広家は。
925 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 21:58:14 ID:krSDn1ga
広家は普通に知恵遅れでしょう。
家康が勝った後の天下の成り行きなど考えてるわけがないじゃん。
光秀謀反後、秀吉との講和条約を破棄して姫路城突入なんて
気の狂った建策をしたそうだし。
歴史的な評価も
小早川秀秋>吉川広家
存命中、あの大毛利家より広い封土を貰ってた事で結論づいてるな。
926 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 22:41:50 ID:HT0oG7Ge
中国大返しのときに追撃を献策したため冷遇され
不戦を献策した隆景が厚遇されたから
そのしっぺ返しで今度は自分が不戦を貫いただけ
秀吉にとっても輝元にとっても人生は塞翁が馬ということだ
927 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 09:42:43 ID:0b4UKjIb
>>875 降りるのに時間かかるけど動けば家康本陣壊滅する位置だし
ほんとに秀元にやる気はあったのだろうか・・・・
>>秀元は南宮山の中腹に居て、本体は麓に布陣じゃなかった?
>>879 命令無視なんてしてないよ >>
初耳ですソース希望。
>>884 大垣の西軍を後詰めする形で南宮山に布陣してたのを西軍本体が陣替えしてあの配置になった訳。
>>890 毛利勝永を先頭に安国寺と長束の軍だけでも池田や浅野を撃破できたでしょうになぜ突っ込まなか
ったのかな?>>
総司令官は秀元だからねえ、ただ長宗我部なんかも陣を進めて小競り合いはしていたし、秀元に
出陣の要請を何度もしていたよ。でも後方で戦闘が始まれば東軍は激震だろうね。
>>892 家康は誤算の連続だったと思うよ、多くのエピソードから家康の焦りが解るよね。
>>920 鱈レバだけど、東軍の後方を毛利が突けば家康本隊が前進できないよね・・・・
東軍先鋒は家康の後詰めとプレッシャーが無くなるから士気のの点でも大マイナス
、秀秋も西軍に荷担しそう。
928 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 20:47:32 ID://P8aayb
結局は広家みたいな池沼が勝敗を決めたのかあ
929 :
人間七七四年:2007/03/14(水) 23:05:17 ID:wlwBwbxK
家康は池沼や精白を騙す才能があった
930 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 04:08:46 ID:ncydN8J3
>>924 >勝てば大増封どころか政権簒奪もありえたのに大減封だからなあ
毛利輝元では天下を治める器量が無いと判断したからこそ、
関が原では傍観を貫いて家康を間接支援したんだろうがよ。
広家のその大局観を評価したらどうだ。
>>925 >広家は普通に知恵遅れでしょう
家康が勝った後の天下の成り行きなど考えてるわけがないじゃん
それは家康に加担した東軍諸将も同様。
関が原以後の天下構想など家康以外に分かるはずもなかろうに。
そもそも当の家康でさえ、関が原が終戦するまでは、その先の事なんて全く頭にねーよ。
普通に知恵遅れなのはお前だよ。
>光秀謀反後、秀吉との講和条約を破棄して姫路城突入なんて
気の狂った建策をしたそうだし
それは親父の元春。歴史を検証し直せ。
>歴史的な評価も
小早川秀秋>吉川広家
って、それはお前の個人的評価だろ。
関が原開戦後も東軍か西軍のどちらを攻めればいいのかさえ判断できず、
家康からの砲撃に慄いて腰砕けとなり西軍を攻撃するような腑抜けの秀秋が、
終始家康支持を貫いた広家より武将として上なわけねーだろ。
普通以下の知恵遅れだよ、お前は。
>存命中、あの大毛利家より広い封土を貰ってた
豊臣政権下では、毛利家の石高は120万石、一方小早川秀秋は30万石そこそこ。
戦後、備前と美作の2カ国を与えられるが、それでも51万石。
簡単な算数さえ出来ないお前って、重度の知恵遅れか?
>>926 >中国大返しのときに追撃を献策したため冷遇され
不戦を献策した隆景が厚遇されたから
そのしっぺ返しで今度は自分が不戦を貫いただけ
一理ある。
広家の親父元春は秀吉とそりが合わず冷遇されていた。
よって広家が反豊臣親徳川となったのは自然の成り行き。
だが力量不足の本家の輝元を見限って家康こそ次の天下人に相応しいと、
冷徹に判断できていたのもまた事実。
931 :
仙台藩百姓:2007/03/15(木) 04:20:54 ID:RvcohfXj
浅はか
この言葉一つで済むお方ですお( ^ω^)
932 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 04:57:05 ID:u0HVgzhx
>>930 パパやママンに質問してみろよ。
基本中の基本だ。
933 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 04:59:43 ID:LGXHquz3
>>932 >パパやママンに質問してみろよ。
その台詞どっかで流行ってるの?
934 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 07:22:07 ID:u0HVgzhx
>力量不足の本家の輝元を見限って家康こそ次の天下人に相応しいと
↑これ毛利家から見たら完全に裏切り者以外の何者でもないな。
日本企業に勤める重役が自社の社長を見限って外資の買収に秘密裏に協力するようなもんだ。
935 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 07:44:14 ID:u0HVgzhx
生存中で比較させてもらうと
小早川秀秋の功績 30万7000石→55万石 (+24万石)
吉川広家の功績 120万5000石→29万8000石 (-91万石)
↑これ見て広家>秀秋とか言ってる人は
完全に脳味噌がいかれてるか吉川家の子孫なんだろうね。
936 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 14:26:35 ID:H9xwPveB
>>935 はいはい、無嗣断絶無嗣断絶
しかし、前に袋叩きにされたからって拗ねるなよ
中学生くらいなのかな
937 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 18:51:28 ID:SaUcz5Nj
>>935 秀秋の場合自分で判断したというよりは
周囲の重臣の意向で動いたような気がするんだがな。
少なくとも広家は自己判断の割合が大きかったから
責められる割合は大きいが
秀秋の場合、良くも悪くも周囲の判断を無視できるほど
家中統制ができるような立場でも経験も年齢でもないだろう。
938 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 21:26:31 ID:sl2GDLeT
広家は獅子身中の虫だったんだなあ、毛利家にとって
939 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 22:10:38 ID:u0HVgzhx
もし毛利家が一丸となってたら改易危機や30万石への減少はしてないよ。
加賀100万石のように残る公算は十分あった。
少なくとも池沼の広家が家康自身からの御墨付きを貰わない限り東軍に付かないと言えば
家康は関ヶ原の戦い直前にほぼ100%の確率で御墨付きを与えただろうし
大阪城明け渡しの時も同様の御墨付きを家康自身や東軍緒将の連判状なしでは
絶対に行なえないと言えば家康は、まず確実に出してたはず
そうしてれば流石に毛利の所領を削り取るのはかなり難しかった。
940 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 22:15:45 ID:u0HVgzhx
秀秋は関ヶ原直後おびえて家康の御前への戦勝報告へすぐに出向こうとしなかったと言われるが
この行為はかえって小早川家の功績を際立たせた。
犬のごとく家康の前に真っ先に馳せ参じれば安く見られ
緒将の前で家康が秀秋の功績を誉める事もなければ加増もなかった可能性すらある。
941 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 22:19:41 ID:sl2GDLeT
>>940 それは無いやろ、戦勝直後じゃ豊臣恩顧の連中はまだ微妙な空気だろうし
秀吉の親族の秀秋をないがしろにしたら抵抗勢力になりかねないし
942 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 22:53:04 ID:39u4+XPZ
>>939 逆にいえば広家は毛利の力を過信していたのかもしれない。
例え交わした取引が口約束だとしてもそれを破って毛利と
事を構えかねない真似はすまい、と。
943 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 23:06:29 ID:WzBjTa8T
南宮山から関ヶ原まで下りる道は狭すぎて数万の大軍で駆け下りようとしたらすし詰め状態になる
そこに一斉射撃でも喰らえばドミノ倒しで一気に全滅してしまう
つまり吉川の内応があろうがなかろうが毛利は戦闘に参加することができない
吉川だって自軍の死体の山を作るわけにはいかないから立ち止まらざるをえない
自分の布陣ミスを棚に上げて吉川にすべての責任を押し付けて
吉川さえいなければ勝てたと妄言を吐く毛利は相当に頭がおかしいと言わざるをえないだろう
944 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 23:16:42 ID:fTc2e2hk
>>943 もうちょい地図見ろ
関ヶ原まで直通で降りられるわけじゃない
で、降りるなら、関ヶ原の中山道方面にでてちょっといった辺りに
向かっていくことになるが
地図の縮尺を考えてみたらわかるけど、南宮山下りてから
池田・浅野軍まで結構距離があるので、さっさと動いてれば
問題ない
945 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 23:23:31 ID:sl2GDLeT
まあ、広家は無能の謗りを受ける要素はあっても聡明と誉められる
要素は何もないね。関が原の陣形が東西が逆だったら広家の判断も
ありかもしれんけど
946 :
人間七七四年:2007/03/15(木) 23:38:01 ID:5juorBeQ
毛利が動いたら家康本体も後退で
東軍前線もじりじり下がって崩壊
撤退も史実の西軍ほどの被害は出ずに
大垣やらで勝成や秀忠と合流して
仕切りなおして東軍圧勝、めでたしめでたし
947 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 00:29:52 ID:3s/9jiIV
>>943 それを防ぐために、麓に長宗我部や長束が配置されてたんじゃね?
948 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 02:10:39 ID:cT672W4m
ふと思ったが、三成たちが、本来外様である毛利家に頼らざるを得ない時点で西軍終わってね?
949 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 03:41:54 ID:yeJcPpkI
>>948 お前の論理では、
豊臣恩顧の諸将に頼った家康率いる東軍も終わってることになるよな。
950 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 03:45:41 ID:cT672W4m
家康は東軍最大の戦力を直に率いていたけど、三成たち直属の戦力は毛利や小早川など1大名にも及んでいなかった、って意味。
わからないかな?
951 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 04:24:56 ID:YAw58IXi
それは今更いう事かって内容だな
五奉行クラスで領地も小さい三成が徳川と決戦なんてのが
そもそも無茶だって話だろ
952 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 05:40:18 ID:++aRtiRF
秀吉死後の豊臣政権がそんだけ不安定だったってことだわな。
大大名連立政権だから、あくまで権力闘争の場にしかならなった。
三成は「忠義者」として評価するよりも、「フィクサー」として評価すべき。
953 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 07:09:07 ID:nMVITm/z
家康が自ら自称した「大樹」という言葉はオリジナルじゃなくて
後漢の光武帝が自らを自称した言葉で真似しただけなんだよね。
でも、そんな言葉を家康が知ってたという事は元々ブレーンに古典に通じた者が
居たといい証拠なのか、それとも武田信玄が孫子の「風林火山」という言葉を
好んで使った事から家康が武田信玄の旧家臣どもを配下にした際に
軍学に詳しいブレーンも手下にした事になると思う。
954 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 11:35:39 ID:L2vj5AkF
閑室元佶←家康の軍師、軍事ブレーン。
関ヶ原にも従軍、つか武田の旧臣がとか意味わからん。
徳川に従った武田の旧臣なんて徳川の重要な軍事ポストにいないよ。
955 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 12:53:21 ID:8ZSITWZD
そもそも「大樹」は光武帝じゃなく馮異の事だしな。
956 :
人間七七四年:2007/03/16(金) 14:30:21 ID:SoYtXO14
大体、当時の知識人の主流は公家と坊さんだろ
957 :
人間七七四年:2007/03/17(土) 06:29:28 ID:eCpQTGbZ
958 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 09:28:04 ID:W+CcJhtb
そういえば、輝元は広家の内応を承知済みだとしつこく主張する椰子がいたが・・・証拠マーダー。
959 :
某研究者:2007/03/23(金) 22:16:32 ID:T9aPiJ70
左近が夜襲を掛けていたら
結果はどう成っていたのかだが
戦況に拠っては毛利等が動いた可能性も
有るのかどうかだが
960 :
人間七七四年:2007/03/23(金) 22:43:55 ID:SWIL84R0
パパやママンに質問してみろよ。
基本中の基本だ。
961 :
人間七七四年:2007/03/24(土) 20:52:41 ID:VL4ecGMp
この前の大河みたいに島津も主張してたのなら夜襲してみても良かったかもね
多少でも打撃を与えれば秀秋とかは気が変わったかも知れないしね。池沼の
広家は徳川方に固執しただろうけど
962 :
人間七七四年:2007/03/26(月) 09:44:39 ID:qdiYlKMQ
夜襲はねたでつよ。
963 :
人間七七四年:2007/03/26(月) 14:14:57 ID:ACF9tOtZ
>>960とは別人だが
この前パパンに毛利輝元って知ってる?って聞いたら
「ああ、あの逆恨みのアホたれか」と言われて泣けた
964 :
人間七七四年:2007/03/26(月) 16:31:25 ID:+1BB6INb
>>963 パンピーにとってはそんなもんだろ
関ヶ原の戦いだって知らないか知ってても豊臣秀吉VS徳川家康の戦いだと思ってる人多いし。
965 :
人間七七四年:2007/03/26(月) 17:23:19 ID:SEvZM99+
それはさすがに・・・・
豊臣家対徳川家と誤解している人は多そうだが
966 :
人間七七四年:2007/03/26(月) 18:33:16 ID:G8p6nZiO
>>965 それは関ヶ原当時から庶民にはそう誤解されておった。
967 :
人間七七四年:2007/03/26(月) 21:39:34 ID:RHNGQQW8
秀元に前進の意志さえあれば
迂回するなり吉川を突き脅すなりして池田山内浅野を突いてたのは想像に難くない
結局東部戦線の醜態は、吉川の妨害でなく
西部戦線の情報を把握しようともしなかった秀元が自分自身に敗れた訳だ
968 :
人間七七四年:2007/03/27(火) 09:23:11 ID:czLwvbLu
ねんねだからさ。
969 :
人間七七四年:2007/03/30(金) 16:05:58 ID:ixkyZtvy
というか、決戦当日に広家と秀元間でどれだけ緊密な連絡があったのかも
よくわからない。秀元が南宮山を降りたのも翌16日になってから。
この時点で吉川・福原隊は東軍との連絡・指示(堀尾)に従って、すでに撤退している。
秀元が撤退の命令を出した時点で、毛利軍の将兵は戦況が把握できておらず、
秀元の統制が利かず、あやうく解体しそうな混乱状態に陥っている。
大坂城引き上げまでの道程も、吉川・福原(毛利家の家老)と秀元ではバラバラ。
当日の霧の濃さと、南宮山と主戦場の関ヶ原までの距離を考えると、秀元は当日ほとんど
戦況を把握しないまま、山頂に居続けたと思われる。
970 :
人間七七四年:2007/03/30(金) 18:46:34 ID:ukzlrblw
秀元はただのお飾りであり、家臣達は輝元に動くなと言われたのか吉川に従っていたのかのどっちかだろ
971 :
人間七七四年:2007/03/30(金) 23:10:26 ID:KhpQqNit
で、津軽為信はなんであそこにいたんだ?
972 :
人間七七四年:2007/03/31(土) 20:34:00 ID:V4ZgweFh
為信がどこにいたのかなんて、判ってないのでは?
諸説あって、どれが正しいかは不明。
973 :
人間七七四年:2007/04/02(月) 15:12:32 ID:42O5+uyA
大垣周辺に為信がいたのは確実
なぜ為信だけ米沢口に布陣した仙北諸将と行動を共にしなかったのだろうか?
さらにどうやって上杉、佐竹領を突破して福島らと合流したかだ
974 :
人間七七四年:2007/04/03(火) 00:05:51 ID:dnSRnmWy
>>973 申し訳ないが教えてくれ。
「大垣周辺に為信がいたのは確実」という根拠は何?
975 :
人間七七四年:2007/04/03(火) 01:29:18 ID:G8HHPq2o
根拠も何も津軽史に書いてあるじゃん
976 :
人間七七四年:2007/04/07(土) 16:37:55 ID:GlRJ3KG2
>>973 普通に海上移動。
津軽氏は中国やロシアとも貿易してたので船をいっぱい持ってる。津軽水軍は東北最強だしね。
977 :
人間七七四年:2007/04/10(火) 13:03:13 ID:ZN3TPYiv
津軽水軍の事をこのスレで始めて知った。
面白いな。家康が日本国の領土拡張の事をより真剣に考えてたら
蝦夷地の開発を幕府主導で津軽水軍にも命じて
松前藩、南武藩にも手伝わせて領土が広がってたかも。
978 :
人間七七四年:2007/04/10(火) 16:02:59 ID:WoNd5ub5
>>977 >家康が日本国の領土拡張の事をより真剣に考えてたら
なんでそんな秀吉の二の舞をせにゃならんのか。だいたい領土広げてどうするの?
内戦の終わったばかりの日本には海外に領土を得てそこ資源を取り込んだり、もしくはそこの市場に
商品を売らなきゃならないほどの産業も無いのに。
意味が無さ過ぎる。
979 :
人間七七四年:2007/04/10(火) 16:05:09 ID:ZN3TPYiv
パパやママンに質問してみろよ。
基本中の基本だ。
980 :
人間七七四年:2007/04/10(火) 16:06:50 ID:soORf76T
田沼意次は蝦夷地開拓によって飢饉をなくそうと画策してたがな
981 :
人間七七四年:2007/04/10(火) 16:08:59 ID:M8K31Qaf
加藤清正も一時京畿道を抑えて
朝鮮住民から年貢徴収してたぞ
982 :
人間七七四年:2007/04/10(火) 16:51:15 ID:WoNd5ub5
>>980 田沼時代と戦国終了直後を一緒にするなよ。
983 :
人間七七四年:2007/04/11(水) 01:10:25 ID:H/ruUCBY
984 :
人間七七四年:2007/04/12(木) 17:59:30 ID:u4GjZVrm
生め
985 :
人間七七四年:2007/04/13(金) 18:00:15 ID:g66HTZgZ
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986 :
人間七七四年:
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