島津歳久(1537-1600)
薩摩島津家四兄弟の三男「智謀の歳久」
九州統一戦では補佐・後詰めの役割を受け持ち、地味ながら堅実に活躍した。
豊臣秀吉の九州征伐では家中で唯一慎重論を提案し、長男義久はこれを承諾、
三州を所領として残すことで和睦となる。
義久が秀吉と会見した際、和睦の提案者が歳久であることを告げたことにより
秀吉に気に入られ、様々な条件で引き抜きを受けるが歳久はこれを総て拒否する。
朝鮮出兵の際、病を理由に遠征を免除されるが関ヶ原には「恩ある太閤の為」と
義弘の結成した義勇軍に弟の家久、息子の忠麟、甥の豊久と共に参戦。
西軍総帥である石田治部と仲違いし、動こうとしなかった義弘に代わり
弟家久と共に実質的な島津隊の大将として奔走する。
同じように動こうとしなかった毛利、吉川、小早川勢を動かし、西軍を勝利に導くが
「病で死ぬより戦で死ぬ。私は死に場所を探していた」と本多忠勝の敵中突破の阻止を敢行し、討死する
島津家久(1547-1605)
薩摩島津家四兄弟の末弟「兵法の家久」
九州統一戦では家中でも最高の実績を上げた猛将。
九州征伐にて開戦派の筆頭であったが、義久が和睦を提案すると
それを承諾し、その為の準備に奔走した。
朝鮮征伐でも獅子奮迅の活躍をしたが、朝鮮半島の征服まで後一歩のところで
秀吉の訃報が入ったためやむを得ず撤退する。
関ヶ原では義弘、歳久らと共に西軍として参加し、指揮を放棄した義弘に代わり
歳久と共に島津隊の指揮を取り西軍を勝利に導いたが
撤退する本多忠勝を追撃した際に手傷を負わせるも負傷し、それが元で数年後亡くなった。
西軍総帥である石田治部にかなり頼りにされていたようで、
島津に無礼を働いた石田隊の使者が戻ってきた際、三成自ら頭を下げに行ったという逸話が残っている。
川上久朗(1536−1603)
島津家家臣。幼い頃より才気に溢れ、18歳で島津氏の家老職・守護代に任命される。
肝付氏との戦いなどで、その才能を遺憾なく発揮して武功を挙げた。1568年、相良氏
との戦いである大口城攻めのとき、勇む島津義弘を止めたが義弘は聞かずに敵陣に突撃
して戦死。責任を感じた久朗は蟄居・出家を申し出るが、義久は久朗を翻意すべく久朗の
彼の自宅へ日参したという。その後、九州平定に活躍し、次いでの織豊政権下を義久と
共に乗り切った。秀吉死後、義弘の遺児・御屋地が、子の島津久賀や伊集院忠棟らと計
らって起こした庄内の乱(御屋地騒動)を制圧した。関ヶ原の合戦ではあくまで中立を
貫くよう進言。三州安堵を確認した後、安心したかのように没した。
島津 義久(1533−1611)
島津四兄弟の長男。島津家第十六代当主
優秀な弟達や家臣を率い、島津家悲願の三州統一を果たす。九州制圧に
あと少しで手が届く頃、秀吉から惣無事令が届く。怒りに任せて秀吉を
挑発する手紙を書くも、川上久朗に留められ、降伏を決意。三州を安堵
することに成功した(なお、秀吉に出す予定だった手紙が近年尚古集成館
から発見され、話題となった。
《関白羽柴事は、寔(まこと)に由来なき仁と世上沙汰候。当家の事は、
頼朝已来愁変なき御家の事に候。しかるに羽柴へ、関白殿あつかいの返書は
笑止の由どもに候。≫などといった文面が書かれており、実際に秀吉に
届けられたのなら九州に大軍が押し寄せたものと思われる。)
男子が居らず、島津彰久に嫁いだ次女玉姫の子・信久を後継とするが、
これを不満に思った義弘の遺児・御屋地らが謀反を起こす(庄内の乱)。
この乱を通じて弟達の勢力は大きく削がれ、結果的に不満分子が排除
された事から、この謀反は義久・歳久サイドによって仕組まれたもの
ではないかとする研究者もいる(この乱に密かに加担していたとされる
弟家久も責任を問われて大幅に所領を減らされている)。