1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
結果的には、家康を強大化し、豊臣滅亡につながった。
力の差は歴然なんだし、無理にでも理由を作って徳川を朝鮮征伐に参加させるべきだった。
土地との執着が強い三河から引き離したかったんだろう
そんなことないと思うがなぁ
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 17:16:14 ID:6dU4KyPT
三河にいても大して変わらんと思うが
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 17:37:31 ID:Wz7CpZDd
6 :
とくがわいえやす:2006/07/09(日) 17:56:17 ID:oBOqUWEY
莫大な石高を元に堺、京に匹敵する大都市を創る計画を考えたので儂に味方しろ
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 18:08:20 ID:EvSUPR2G
結果的に大幅な加増となったわけだが、家康があんなに早く関東をまとめられるとは思っていなかっt
のだろう。武蔵、上総、下総の三国くらいでも家康は文句言わなかっただろうに。
伊豆一国でもよかった。
というか信雄がすんなり家康の旧領に入っていたら違ったかも。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 23:54:12 ID:7NZcTr4W
加藤清正などの子飼い大名は朝鮮に回したのに
家康は後方輸送に専念させ、金を遣わせなかった事は問題です。
むしろ徳川、伊達、上杉、島津などの有力外様大名を中心的に
朝鮮出兵に使い、国内は子飼い大名に鋭気を養わせるべきだった。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 00:44:54 ID:bMsiRRdx
島津はバリバリがんばったがな〜
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 12:58:46 ID:jkyHua6b
秀吉は家康に当時荒野同然だった関東を開拓させようとして移動させた。
それが想像以上の成果を上げてしまった。
>>9 それをやると、家康が日本の全戦力の半分くらい率いて戦うということ
になるわけであって、これを掌握してしまうと、そのまま秀吉に対抗で
きる勢力になる。秀吉死後なら圧倒的で、関が原なんぞいらなかったか
もしれん。
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 13:13:10 ID:PO1TbmLd
朝鮮出兵するなら家康滅ぼせたろ。
しかも関東200万石くらいあげたんだろ?天下とってくださいって言ってるようなもの。
全部の荒野を開墾して村を作り、作物を育てれるようにすれば200万石は余裕でいく土地が
関東一帯だったのだが、当時の関東は北条氏が牛耳ってたこともあり、そんなに田畑が開かれてなかった。
関東一帯を穀倉地帯にするにはそれ相応の金と期間が必要であり、
さらには北条氏と戦をしていた為、田畑も荒れていた。
秀吉はそんな状況で関東移封をしたわけだが、
・関東では↑の状況で石高が落ちている
・駿三遠はその当時家康がたっぷり金を掛け、開墾事業等をかんがっていたので、
結構富裕の土地になってた
・石高的には「痩せ土地の関東一帯≦富裕した駿三遠」
・さらには秀吉の本拠大阪より結構遠い
という事で関東に行かせたらしい
家康の政治手腕を甘く見ていた秀吉が失敗の原因。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 13:58:13 ID:cv24f8nQ
>>13 九州攻めもあって小牧長久手を長引かせたくなかったから
家康と仲直りしたんだし、そんな事するとせっかくまとめあげたのに
求心力なくすと思う。徳川もなんだかんだで同盟だった北条攻めに
参加してくれたし、豊臣に完全服従したと勘違いしたんでない?
>>15 勘違いというか、家康の方に付け込む隙がなかったからなぁ。
少しでも落ち度があれば、それを口実に所領削るなりできたんだろうけど。
何も理由がないのに潰してしまうってことも、やればできたかもしれんが、
家康が必死の外交を展開して「徳川家の次はお前だぞ」ってやると、転ぶ
大名は意外と多いかもしれん。家康以上に脛に傷を持つ大名はたくさんい
るから。
そう考えると、簡単にはできないんだよな。
92年ぐらいに難癖つけて関東征伐すればよかったのに。
なんとでも口実は作れるでしょ。
秀吉は討伐したからって
滅ぼすとは限らないから
生かしちゅんじゃない
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/11(火) 01:34:22 ID:YIHSngnJ
仮に北条氏が秀吉に素直に臣従してればどうなっていただろう?
北条の領土は削られて、跡地に家康が入るんじゃない?
どちらにしても家康は関東に入ると思うけど。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 21:13:26 ID:HOqz1wlt
家康を関東に配置したのは北条討伐後、関東を治められる人間が他にいなかったから
候補としては元関東管領職である上杉家か一応清和源氏で新田氏を名乗っている徳川家
22 :
名無しの雑兵:2006/07/14(金) 21:45:45 ID:qrxJq3m5
>>21 それより旧北条領を捌くだけの人的資源を有していたのは家康位なもん
太閤検地の時点で旧北条領国は220万石あった。そこからさらに徳川が手入れをしたのだから
秀吉の晩年には恐るべき力を有していたのは間違いない。
さらに半島に軍を送っておらず即座に戦を起こせる準備が整えられた
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 05:41:23 ID:9f7NjmDi
最初は堀秀政を関東に入れようとしてたんでしょ?
対抗させるために前田利家に北陸全部あげるとか
26 :
名無しの雑兵:2006/07/15(土) 09:51:39 ID:8CNVhl31
家康は関東の大名である間は殆ど城を改修しなかったからな
江戸城ですら二つの郭を繋げて本丸にし、隠居用の西の丸を造った程度
道三堀は主に流通用だし、他の支城は言うに及ばず。
主に行った領国整備は土地を豊かにする事に専念している事を見ると
民政家としての家康は秀吉を遥かに凌駕すると思う(信長はそれ以前で死
んだので評価外)。
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 13:42:51 ID:neRFsVDe
豊臣家崩壊の根本的な原因は尾張派と近江派の対立であろう。
しかも、尾張派と近江派がそれぞれ北政所と淀殿をかついで対立していた点がまずかった。
幼いことから秀吉に仕えた尾張派にとって、北政所は実の母も同然である。
一方、近江派(浅井の旧臣が多い)にとって、淀殿はかつての主君の娘である。
そして、この両者の対立を解消できなかったことが関ヶ原の戦いの一番の要因である。
家康はこの対立を利用して漁夫の利を得たというのが実際のところであろう。
統一した時点で武官を粛清して文官を主体とした組織作りを進めなかったのが
問題だと思うけどねぇ。
半島に進出したから武官を粛清しなかったんだろうけど、自分の寿命を考えたら
死後を見据えた体制作りが甘かったと思うが。大身の人間が固まってゴロゴロ居たし。
>>26 考えようによっては、関東入部直後の家康には秀吉亡き後の天下を狙う野心はまだなかったのかもしれない。
秀吉によって天下が安定し、関東にはしばらくは戦乱が起こらないと考えていたので、
防衛よりも国土開発に力を入れた。と考えられなくもないな。
秀吉がぼけてたんだろうな。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 18:14:39 ID:rJfNBEHU
>>28 徳川家を豊臣政権の譜代とみなすとすれば
あれだけ多くの石高を与えるのは危険すぎる
徳川政権のように譜代に権力、外様に石高を
与えるバランス感覚があれば良かった
まあ、これは結果論であって、家康がこうした
豊臣家の失敗を目の当たりにしたからこそ、
権力と石高を分散する幕府機構を構築したと
言えるのだが
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 02:27:27 ID:OvNvrQvk
これは秀吉の策略だよ
関東はもともと北条がいて家康でも統治が難しいと言われてた
一揆でも起ころうものなら秀吉は家康に責任を取らせたはず
しかし家康は関東をきちんと統治してしまった
これには秀吉もビックリ
ちなみに家康が失敗した後の関東は前田利家にやるつもりだった
前田もそれを知っていて北条氏邦を召抱えた
氏邦を使って関東を上手く統治しようとしてたわけ
でも関東一円はやりすぎだなあ。
北条は民政に力いれてたからある程度インフラは整ってただろうし
危険すぎだよなあ。
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 07:41:48 ID:yyq4fF6z
>>33 秀吉臣従後の家康は、功績はあっても落ち度はないからな。
地生え大名を土地から動かすのは同じ石高でもすごい反発を招くし、
周りも懲罰と同様に考える。
比較的でかい加増でもないと理由ができない。
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 08:26:47 ID:nbx5SaZO
一応
5大老クラスは宇喜多を除けば全員一度は大規模な転封が予定されて棚。
徳川家康 東海⇒関東
上杉景勝 越後⇒会津
前田利家 北陸⇒東海
毛利輝元 中国⇒九州
徳川と上杉は実行されたし
前田の場合秀次の跡に入れるとかなんとかだが三成あたりが中止させたとか
毛利一族は隆景が阻止したのだが、逆にそのせいで秀秋を押し付けられる羽目に。
こうしてみるとでかい加増or恩典つきにもかかわらず抵抗が強いようだな
上杉の場合庄内と佐渡そのままで表高加増での移動
徳川の場合は倍近い大加増
前田の場合も実現してたら東海の要衝に100万石クラスの大身で一気に
徳川と五分に張り合える大身に。
毛利の場合も石見と瀬戸内の要衝のひとつ防長二州はまんまで
瀬戸内の要衝の伊予、対外交易の要衝肥前、筑前等が領土となり
石高も倍増
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 10:15:35 ID:vaElLcmu
なんで秀吉は家康に関東を与えたのだろうか?
東北とか蝦夷地にすれば豊臣家にとって安全だと思うが。
それが秀吉と家康の微妙な力学関係というものだろう
小牧長久手で手痛い目にあわされていて、あからさまな左遷はできなかった
すべてにおいて家康は、秀吉の想定を超えた力量を示したということ
>>27 功名が辻みたいなフェミドラマならそういう感じになるだろうね。
関ヶ原は見方を変えると淀、北政所の対立ともとれるだけ。
家康が転封された時期の江戸は広大な湿地で、
そこに無理やり江戸城と街を建設したわけだけど
江戸城はたびたび洪水で浸かったらしい。
家康本人は職務のためにほとんど江戸に帰ることができず
江戸の建設は遅々として進まなかったらしい。
しかも関八州と言っても関東全てが家康の物になったわけではなく、
関東に中にはちょこちょこと小大名の領地がそのまま残ったわけです。
真田の沼田城は有名でしょう。
>>39 江戸城もそれなりに大きな街もすでにあったが。
さらに大きくしたのは家康だが。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 19:13:24 ID:eEoVUw2W
秀吉としては次の天下人が家康だということはわかっていたと思う。
だから、なんとか上級貴族として、秀頼を逃そうと考えたのではないかな。
自分が信長の息子たちをどう扱ったかを考えれば、凄い恐怖だったに違いない。
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 22:34:48 ID:08lN5u2Y
堀秀政が病死せずにそのまま関東に配置されていたら
歴史は違ったものになっただろう。
43 :
名無しの雑兵:2006/07/18(火) 22:51:38 ID:OvrjkZq2
>>42 18万石にいきなり二百万石加増しても満足に収められないかと
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 23:04:20 ID:iETwFy/A
家康一人に200万石も与えないで皆で
分け合えば良かったのに
褒美の領土がないからって朝鮮攻めたんだから
少しでもこのムダが排除できたはず
>>41 だから、誰かが一人で勝手なことができないように
五大老・五奉行制を布いたんじゃないか
合議制じゃないと物事が運ばないようにしたつもりで
安心して秀吉は死んだんだよ
『豊臣秀吉遺言覚書』によると、
むしろ秀吉は徳川・前田の二頭体制を想定してたみたいだけど。
それが利家死去・利長屈服で一年ほどで崩壊。
三成は既に失脚、輝元とも起請文を交わし、
家康は五大老・五奉行制を着実に崩してる。
以上、『真説 関ヶ原合戦』より。
>>40 あんな天然の良港を何百年間も放置するほど日本人は怠惰じゃないよなw
>>36 奥州200万石の方がずっと危険だろ
討伐するの大変だぞ
一度裏切った利家に100万石与えるのも危険だと思うけど
>>47 気は確かか?w
江戸の土地は広大な湿原
東京湾は広大な干潟を持つ遠浅の海だぞ
水運の要所としてそれなりに発展してたみたいだけどな。
浅草には門前町があったし、太田道灌の時代の城下町もあったし。
そこそこ栄えてたんだろ。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 21:15:08 ID:wWOs90eb
確かにこの時代の江戸については
結構評価が分かれるよな
僻地とも言えずまた重要拠点とも言えず
家康の治世度を測るためにはそれ以前の
状態がもっと研究されて然るべきだろう
>>49 それはやむおえないんじゃ
てか百もないような
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 22:12:33 ID:vOK4WWRb
確かに家康より利家を重用したのが間違いだな
利家じゃ到底家康に対立できる器量ないし
ケチで家臣雇うのも渋るぐらいだからいくら禄増やしても当てにならない
経歴よりも性格を見て重用するべきだった
誰を重用させればよかったの?
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 22:27:11 ID:Sr9fEDKH
三成をもっと重用すればよかったと思う。
利家の100万石を三成に与えればよかった。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 22:31:16 ID:wWOs90eb
>>56 そうしたら三成が家康に取って替わって石田幕府
つくるかもしれないでしょ
やっぱり権力者に過分の石高は危険なんだよ
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 22:34:32 ID:Sr9fEDKH
>>57 三成も信用できないってこと?
まぁ家康に比べれば三成は秀吉から異常なほど信用されてたから。
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 22:35:21 ID:vOK4WWRb
まあ、その通りだ
他にいなかったから藁にもすがる思いで前田に期待したわけだが
実際藁並に頼りにならなかったと言う悲しい顛末
まさかあれだけ恩着せれば利家、利長の代は安心だと考えたんだろうけど甘すぎたな
くだらん奴らに分け与えるより直轄地にして旗本増やした方がマシだったろう
豊臣は直臣が少な過ぎる
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 22:37:39 ID:loleNEmM
>>59 つっても、旗本あがりの軒並み家康についているからなぁ。
加藤、副島筆頭に。
まぁ、天下は取れても数代に渡って維持させるだけの器量が秀吉には
なかったんだろ。
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 22:44:42 ID:wWOs90eb
>>58 勝手な妄想になるが、三成は石高が少なかったから
秀吉ベッタリにならざるを得なかったという見方もできる
いくら忠臣としての史実が綴られていても前提が異なれば
本心までは判らないからな
仮に三成にその気がなくてもその領地と権力が世襲で
受け継がれていく以上、後継者の中で叛心を持つ者が
出てくる可能性も否定できない
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 22:54:30 ID:vOK4WWRb
>>60 いや、だから直臣を増やすべきだったんだよ
みんな外に出してしまって中が空っぽになってしまった
だいたい旗本が1万程度しかいないと言うのは少な過ぎだろ
七手組の大将でも1万石程度の禄だし
中枢があまりに脆弱すぎ
そんなものよりも、
謀反を起こそうとしたり自分が秀吉に代わって天下様になってやろうと思っても
出来ないような仕組みをちゃんと考えてやるべきだった。
それをやるためには、秀吉の統一のやり方はあまりにも安易で問題があった。
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 23:00:41 ID:Sr9fEDKH
>>61 武断派の清正や正則が必ず反対してくるだろうからな。
やはり三成が仮に家康の立場になったとしてもまったくまとまらないだけか。
>>63 じゃあどうするべきだったんだ?取り潰しまくるのか?
年齢的にも家臣的にも早く敵対大名を減らさざるを得なかったと思うんだが…。
信長と違って子供にも恵まれていなかったし。
確かに関東移封は失策だと思うが
それより家康があんなに長生きすると思ってなかったろうな
家康が三河180石のままでどう天下を取りに行くかが見物とは思わんか?
>180「万」石
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 12:33:38 ID:mBikeDG8
ちょっと笑ってしまったじゃないか
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 12:38:28 ID:l1jSanr1
秀吉が全国制覇後に取りつぶした外様大名は宇都宮氏(18万石位)大友氏(30万石位)かな、旧織田系は長谷川.蜂谷.高山などたくさんあるが。
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 13:15:26 ID:LR1lGi5I
家康の旧領に入れる人物がいなかったのが痛いな
秀長でも生きていれば東海甲信に大封あてがっておけば
家康も身動きとれなかったろうに
72 :
鳥屋 ◆Mzllk81HNE :2006/07/24(月) 14:37:46 ID:IMYH6BD7
東海道筋は見事に家康を封殺するにふさわしい陣容ではないか。
特に掛川城を守る義将・山内一豊は最後の一兵になるまで力戦し、城を枕に討ち死にしそうな悪寒。
封じ込めれてないじゃん…思いっきり関が原で家康側に着いているし。
山内さんは義将というより偽証だと思う
堀尾と山内の一件は本当にあったことなん?
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 17:24:31 ID:ZCc0S/gn
早速聞いてくるよ
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 18:24:52 ID:yrWcqGeg
蒲生が早死にしなけりゃ少しは封じ込め機能したかな
死人の名前上げても…
まあそのくらい人材がおらなかったのね
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 21:18:09 ID:yrWcqGeg
>>80 まず家康は
関東一円250万石(実高300万石)ともいう豊家をも凌ぎ諸侯に擢んでた大大名
そして武勇、知略で秀吉が一目置いたという経歴の持ち主
外征によってこの徳川がほとんど消耗を免れていて
しかも晩年秀吉とその周辺が暴虐に傾いて人望人心を失うのと一線を置いてた
わけです。
このような次の天下取りの第一人者なのが明々白々な家康に対し
天下の政務の代行を家康に委託してる。
一応利家に秀頼の守役を任じてるが彼も病身
そのうえ家康は秀吉の妹を娶った義弟にして
家康嫡子の秀忠は秀吉の妾で秀頼の母・淀殿の妹であり相婿になる。
そして秀頼の許婚は家康の孫・千姫を指名されてる。
つまり石高、経歴、経済力、武力で冠絶してる状態の家康を
警戒して豊臣を護る為に封じ込め機能を準備しておきながら
その豊臣の代表権を家康にするような措置をとったのは
天下政務と豊家の後見を委託しているのは当の秀吉
包囲されてる対象が封じ込め機能の最高責任者になるという本末転倒な
状況になっているのだからして、機能しないのも当たり前。
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 21:23:28 ID:yrWcqGeg
東海道筋は家康を封殺するのが任務だが
彼らは豊臣家の指揮下にある。
その豊臣家を代表するのは家康という状態だから
封じ込め機能は働かない。
そして肝心の豊臣プロパーは四分五裂して派閥抗争
中小大名じゃ無理だよ
250万石の家康相手に10万や20万石の大名が独自の意思で動けるわけない
大勢に流されざるを得ない
近辺に家康に匹敵できる大大名もいないから
仮に家康の侵攻を食い止めようにもろくな援軍期待できない
中小大名多数の寄り合いじゃお互いに疑念が生まれるのは必定だし
やはり強大な軍事力による後ろ盾がなけりゃいけない
秀次公さえご存命にあらせられれば、家康公に対抗出来たはず。
病死と伝えられる武将のifと比べると、あり得ると思いますがどうでしょう?
豊臣秀次
豊臣秀長
蒲生氏郷
前田利家
このうち一人存命で家康と互角、二人以上存命で徳川圧迫可
左様、特に秀次は世の桁違いな悪評が返って胡散臭く、実は聡明な人物だった可能性が・・・
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 23:51:59 ID:GWLvOOnA
秀頼を北政所に育てさせれば尾張派と近江派とを和解させることが
可能だったかもしれない
そんな派閥はない
89 :
鳥屋 ◆Mzllk81HNE :2006/07/28(金) 01:35:30 ID:+BOId/hw
>>88 深い考えがあるようだね。
しかし、やはり近江の長浜城に移ってから身代も大きくなり、大量に家臣を召し抱えただろうから、派閥はできそうなものだがねぇ。
分かれるとしたら、文治と武断じゃないの?
今現実にある派閥を見て考えると、同郷、同大学出身の繋がりで入るのが多いし
尾張派、近江派というのも不自然ではないだろう。部将としての尾張時代の家臣
と城主時代の家臣で家臣の質に文武の違いが出ただろうし、近江の国を治めるなら
近江出身の官僚を雇うだろうし。まあ武断派と吏僚派文治派とかの方が良く見かけるな。
徳川の場合
武断派の忠勝・井伊・酒井・榊原から
文治派の正信が孤立する事は無かったのかね
徳川の場合、槍一筋(戦術も含む)から、才覚重視に移行してるよね
土井利勝とか知恵伊豆とか
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 23:22:10 ID:whMr3DHe
関東移封以前に小牧長久手の敗戦で諦めちまったのがダメなんだよ。
北陸、四国平定後くらいにもう一回全力で徳川を攻めないでどうするってもんだろ。
徳川だけ秀吉側が譲歩しまくった形で和睦なんかしたから日本全国が
徳川だけは別格というふうに考えるようになってしまったようなもんだろ。
>>95 北条と組んで領土も接している徳川を放置して四国征伐に行くのか?
97 :
鳥屋 ◆Mzllk81HNE :2006/07/28(金) 23:26:55 ID:+BOId/hw
ここで
>>95のレスに対して『あの時期の秀吉にそれを要求することは酷』とか、したり顔で語る、しったか糞野郎登場
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
あの時期の秀吉にそれを要求することは酷
>>92 忠勝・榊原から罵倒されたりしてるから、普通に孤立してるだろうね。
徳川も派閥争いを起こしてるんで、どうにも避けられないだろうね
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 23:36:09 ID:suy0O7J5
>>99 この種の争いが起こらないってのは、無理な話だよ。
だから、起こることを前提にして手が打てるかどうかが、
一流と二流の境目だ。
だから正信は、処世術として多くの身代を望まなかった。
張良みたいなものか。
>>101 起こる事を前提に手を打ったというより、徳川の場合は実際に起こったから手を打ち易かったと思うよ、
家康が派閥争いの際に採ったのは非常に分かり易く、武断派を失脚させて終わらせてるし。
そう漢の張良、秦の范雎、越の范蠡みたいなもんすかね?
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 23:55:54 ID:suy0O7J5
>>104 豊臣家も実際に起こってたよ。放置して悪化したけど。
>>106 豊臣家は放置してたの?
半島へ出兵させていたから失脚はさせられなかったのではないのか…。
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 00:14:06 ID:k/u4tvKA
>>107 仲良くしろと言う以上の措置をとった様子はないな。
三成を左遷でもすれば鎮静したんだろうが、やらなかった。
もしくは、文治派の中心である淀君を疎遠にするとかな。
>>106 豊臣家の場合は具体的な事件にまで発展したのは秀吉死後だよ
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 08:01:54 ID:Azs35NjO
つーか豊臣家の派閥抗争ってけっこう複雑な模様なのだが
地方分権派VS豊臣集権派
分権派は豊臣秀長を代表に徳川家康、前田利家、蒲生といった系統
集権派は石田三成や増田長盛とかいった俗説に言う文治派に近い
武断・武勲派(尾張・清洲閥)VS文治・吏僚派(近江閥)
これは出身・地縁や出世の経歴による豊臣恩顧の色分け
側近政治VS官僚制
これは千利休に代表される側近政治と三成ら官僚制
や制度を整備していこうという国家運営の方針の対立
海外出征派VS交易重視派
海外進出はこの時代の全般的なムードだがその仕方において
武力を伴った方法・・これも秀吉の暴挙のように言われているが
少なからぬ賛同者がいた気がする。失敗したから責任転嫁されただけだろ。
北進論VS南進論
海外進出の方向性についても
博多の商人グループが望む北進論、酒井の商人グループが望む南進論
ってようなのがあった。
前者は秀吉の大明征伐、後者は家康の朱印船貿易に見て取れる。
前田党VS徳川党
先の分権論の中でもまとまりがあったわけでもなく前田と徳川
それぞれに組する連中が分かれていた。
地域的な問題だが
奥羽宥和派VS奥羽強硬派
宥和派はいわずとしれた前田利家や徳川家康
強硬派は蒲生氏郷、上杉景勝や石田三成ら文治に近い連中
そして北政所と淀殿の派閥
その色分けでいえば三成は出征反対の立場で家康とは同じ側にいたし
>>108 別に文治派の中心は淀じゃないだろ。
三成は淀は疎遠で北政所に親しかったし。
>>108 三成だけを左遷しても、三成の代わりが出てくるだけだろう。派閥の発言力は下がるが
対立は変わらない。家康みたいに一方の派閥を壊滅させるぐらいやらないと。この時期
秀吉がやるのは自殺行為だろうがな。
もまえら、間違ってるぞ利家が生きてるときは、せいぜい70万石くらいで、死んで利長が後をついでから100万石に加増されたんだって。
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 00:49:15 ID:loZcN61r
シラネーヨ
あぼーん
確かに関東移封は失策だと思う。
しかし、それを逆手に取って米国に出兵すりゃ良かったんだよ。
江戸が前線基地となって徳川の力を削れたのに。
米国征服出来たら、ソコに家康を移封。
どうやって米国まで当時の日本の造船技術で行くんだw
関東を前線とするなら東回りだろ?途中で沈むぞww
米沢国
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 00:26:58 ID:Sf0Gnsux
秀吉の時代はアメリカ大陸が発見されて100年経ったとこだけど
まだアメリカ合衆国は建国されていません。
しかもアメリカ大陸西部はまだ未開の地、ただの荒地です。
で、当時の日本の造船技術はまあまあ大丈夫ですが
一番問題なのはアメリカまでの航路をまだ誰も発見していないという事と
日本には大海を渡るような航海技術がないという事。
航路と航海技術がないので座礁するか海流に流されて終了です。
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 01:13:47 ID:gCZ6LcHp
俺が秀吉なら、小牧長久手で家康を飢え殺しにする
まともに突っ込んで勝てないならずっと囲んでればいい
なんなら城でも築いて年単位で気長に包囲しても良かった
持久戦に持ち込めば絶対に秀吉有利だったのに、焦って和議なんか結ぶから・・・
戦が長引けば徳川方に寝返るものが出るかも、という恐怖があったんだろうけど、
甘いなあと思うよ
120 :
備前守:2006/08/01(火) 04:53:44 ID:DyNo59rJ
もう家康暗殺しかないだろう、秀吉死ぬ前に暗殺すれば
関ヶ原もないんじゃねえか
服部半蔵は家康の子分
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 16:18:58 ID:tv2NQAkI
>>120 東国に睨みが利かなくなって
関東から戦国が復活するだろうな
少なくとも秀吉が生きている内は
形式的だが家康は豊臣政権に従順
なんだから、使えるものは使うべき
だと思う
家康を抑えられるだけの後継者
に恵まれなかったことにも問題が
あるんだろうけど
>>119 持久戦でも秀吉は別に有利じゃないだろ
焦って和議というより、あほの信雄の提案が渡りに船だっただけ
信雄家康に数年もかけてたら中国大返しからの快進撃が霞むくらい
威光が無くなるよ、他の地方はぼろぼろになるだろうね
秀次の代に全国統一を後回してでも、
今家康を討たなければ如何に禍根を残すかを
秀吉自身がどれだけ認識してたかの話だけど
当時の家康評ってどの程度の物だったんだろ。
秀吉全盛期に、大名達が次の天下人を語らった際には
家康が毛利上杉より評価低かったと聞くが。
>>124 律儀な内府殿
とはいわれてたようだがな。
>>124 >家康が毛利上杉より評価低かったと聞くが。
実際の実力ではダントツ(領土、兵力)なのに、評価が低いってのは
逆に本当に不気味だよね。
あと、家康の事とはちょと関係ないんだけど、豊臣政権が秀吉死後、あんなに
簡単に崩壊したのは、秀吉の政権というのが、日本史上他にないほど苛烈な
搾取を行った政権だから、ってのも有ると思うよ。
簡単に崩壊してないじゃん実際は関が原から20年近くたってから、豊家は滅亡しているし。
家康自身が豊臣家の温存を画策してたからな
秀忠が必死で潰そうとしてたけど
>>127 「政権」ね。あとそんなこと言ったら足利家は足利幕府滅亡後から、明治維新に至るまで
存続してるぞ。織田家も。
搾取だったら徳川幕府の搾取のほうが激しいしな
>>130 それは嘘。何故なら最近の研究では、豊臣期はなんと戦国時代に比べてすら
農業生産高が下がっているのですよ。これは豊臣政権の搾取と酷税により、農村が疲弊
したものと説明されている(実際に武装一揆も頻発した)
また有名な太閤検地は、土地の把握のため行われたものではなく、少なくなった
農業生産高の中から、少しでも搾り取るために行われた政策である(実際検地後は
ほとんどの所で年貢判定の基礎となる名目上の「石高」が増えているのだ。つまり
生産量を多く見積もったと言うこと)
そして平行して実施された刀狩も、後に言われたような「兵農分離」政策などではなく
武装一揆への「緊急対策」として行われた。
豊臣期で潤ったのは、秀吉とその周辺、一部の特権商人だけと言っていい。
ちなみに徳川政権下に入り、農業生産高は驚異的なV時回復を見せる。
コレは農村が、苛烈な搾取から開放された証拠ですな。
吉宗が五公五民に負担上げてから塗炭の苦しみが襲ってくるけどな
>>130 いやいやいや
農民への搾取じゃなくてな、
江戸幕府の大名への搾取は物凄いもんがあるだろ
>>133 それでも、秀吉の朝鮮の役の負担よりは軽かったわけで、
家康のみを考えても搾取率は秀吉>>>家康でしょ。
大名への搾取って火種残すより全然いい
秀吉と違って読書家で歴史に長けてたのが良かったのかな
秀吉は農民出身だけど
義父と折り合い悪くて家を出る時にもらった実父の遺産で行商の元手を
作れたくらいには富裕だったからね
疲弊した農村の悲惨な暮らしなど想像の範疇外だったかもしれん
秀吉個人やその実家が、というよりは濃尾平野が肥沃で他の土地よりは
豊かだったのかもしれんが
秀吉自身にとって
日本最大の軍事脅威であった家康との最終決着を避けたのも
徒に天下を急いだが故か。
北条と同じように家康を和議後切腹に持ち込む程の冷徹さは必要だったな
結局、成上り者の悲しい所で
自分の代のビジョンしか秀吉は持ち得なかったのが豊家の敗因
若い側室に呆けて秀吉没後最大の政治ブレーンとなり得る高台院を追い出したのも鬼手
豊臣凋落のターニングポイントを、秀吉死去でなく
治世中の朝鮮出兵に置く論者も居るしな。
>>138 レスするのもバカバカしいんだけど
秀吉の天下統一以前の家康に軍事的脅威なんてないよ
むしろ天下統一のためには家康は必要だったんだよ
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 01:53:26 ID:iAjsvNN9
>>秀吉の天下統一以前の家康に軍事的脅威なんてないよ
は?
>>むしろ天下統一のためには家康は必要だったんだよ
いや別に
>>139も
>>140も物事を把握出来ないタイプの人間だと言うのは良くわかった。
よく周りから「人の話をちゃんと聞け」って言われない?
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 02:02:25 ID:iAjsvNN9
>>140 はいはい、
家康は軍事的脅威ではないし
むしろ必要な存在だったよ
バカバカしいw
誰にも相手にされないヤツが話しに割り込んで来て
話の内容に口をはさむ能力もないので無意味な奇声を発する
そんな状態がID:iQaPl/13
146 :
ネットの問題点:2006/08/05(土) 02:14:07 ID:JaZh7UQ9
【前頭前野の異常】インターネットをやり過ぎると以下のことが起こります。
・キレやすい性格になる。
・協調性の低下。
・人をいじめたり、日常会話で暴力的な発言をする。
・羞恥心の欠如
・時間感覚の欠場
(深夜までずっと2ch)
・すぐに理屈をこねる
・集中力の低下,ぼーとしてる時が多い。
・常に2chのことを考えたり、ネットがやめられない。
・学校や会社をサボり易くなる。
・世の中に対して悲観的になる。
↑どれに当てはまりますか?ネットはやめましょう。
>>146 【前頭前野の異常】インターネットをやり過ぎると以下のことが起こります。
・キレやすい性格になる。
・協調性の低下。
・人をいじめたり、日常会話で暴力的な発言をする。
・羞恥心の欠如
・時間感覚の欠場
(深夜までずっと2ch)
・すぐに理屈をこねる
・集中力の低下,ぼーとしてる時が多い。
・常に2chのことを考えたり、ネットがやめられない。
・学校や会社をサボり易くなる。
・世の中に対して悲観的になる。
↑どれに当てはまりますか?ネットはやめましょう。
脳がとろけてる香具師がいるな。
夏は暑いから気をつけろよ。
IDをコロコロ変えてる時点で敗北宣言してるのと同じ
うわー悲惨wwwwwwwww
>122
なるほどなー
でも家康と利家の死ぬ時期が逆だったら
歴史も変わってたとおもうんだよなー
どうなんだろ。小牧長久手当時から家康は大大名の兆候が合ったのかね
それとも秀吉にとっては勝家程度の敵にしか映らなかったか
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 16:22:08 ID:Zr0RDfP5
>>152 柴田勝家って秀吉にあっさり負けてるんで過小評価されてるけど、
実は織田家臣団の中で最大の領土を持ち、軍事的にも家康よりはるかに
強大だった。勝家が無能なんじゃなくて、秀吉の軍事力が
並外れたものだったといったほうが正しいだろう。
勝家は秀吉にとって絶対に倒さなければならない相手だったが、
家康は必ずしもそうではなかった、むしろ利用価値のほうが高かった。
(信長が武田勝頼を滅ぼしたとき、秀吉は、勝頼を配下に加えてたら
東国など瞬く間に平定できるのにと不快感を表明したと伝えられてるが、
なるべく相手を滅ぼさずに配下に加えていくのが秀吉の方針だったのだろう)
>>151 そりゃあ死ぬ時期が逆になった時点で違う歴史だからなw
>>153 逆じゃね?勝家こそ旧織田家臣団として秀吉の下に付くのを納得さえすれば
普通に体制に取り込むつもりだっただろう。丹羽長秀みたいに。
それに比べて家康は、「武家」政権を取るならとして絶対に押さえなければならない東国を
押さえていたわけで(小牧長久手の際の家康の同盟の手は、東方では北条から伊達にまで
及んでいた事が既に証明されている。家康上洛まで、三河以東は事実上の独立圏だったと
言ってもいい。)
家康を叩けなかった結果東国の直接支配に失敗し、秀吉は征「夷」大将軍を諦めざるを得ず、
関白と言う「公家」として政権を作らざるをえなかった。
藤原氏の摂関政治の時代まで戻っちゃったんだよ。
>>154 その珍説には無理があるなぁ
同じように東国をおさえていなかった信長にさえ
将軍宣下があったくらいだから
信長は北条氏政や伊達輝宗から同盟の約定を取り付けていた。
秀吉とは違う
家康は旧主の同盟者で自分より目上。
勝家は同じ織田家臣。
扱いが違うのは当然。
また徳川領は5カ国とはいえ、150万石足らず。労の割に得る物が少ない。
>>155 無論確定した説ではないけど、信長は信忠を将軍にさせて、自分は最初から「大御所」として
後見しながら統治するつもりだった、とする説も今では有力だね。
>>155 >>156に加えて、敵対者であった武田を滅ぼした事により、実質上敵対者のいなくなった
信長は既に東国においても覇者だったわけで。
>>156 その珍説には笑うしかない
「東国の大名数名と同盟する約束をしてるから東国を支配したのと同じ、だから将軍宣下を受けた」
今どき中学生でもこんなアホな事は書かないよ
>>160 あのなあ、北条も伊達も信長にはその覇権を認め、盟下に入ると言う事を
ちゃんと言っているんだよ。資料や文献をちゃんと読んでから珍説とか言えよ。
現実問題として甲斐武田氏を滅ぼした時点で東国にも信長の威令は届くようになったの。
当時の北条氏や伊達氏の信長に当てた書面でも、信長の事を「上様」と表記しているんだぞ。
もしかして君はゲームとかと現実の歴史を混同しているタイプか?
>>161 君の珍説はまず結論が決まっていて
それをこじつけるために都合のいい材料だけを拾ってきて
その珍説が事実であるかのように書いているだけ
つまり「ご都合主義」という事
>>161の2段目なんて全然関係ない話を持ち出して誤魔化そうとしてるだけ
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 20:15:38 ID:Yt3c//E+
そもそも信長に将軍宣下はあったの?
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 20:21:29 ID:4GhwrVeO
>>163 ないよ。
信長は源氏の血筋ではなく平氏だったから。
>>162 いや、たんに君が自分の気に入らない事を言う奴を「珍説」と決め付けたいだけだろう…。
反論したければそれなりの「○○だからそうではない」と、根拠を出して言ってくれよ。
>>164 あったよ
平氏とか源氏とか関係ないんだろう
>根拠を出して言ってくれよ。
いやぁ、「家康が東国を制していた」という珍説に
いちいち反論しろといわれてもwww
反論して欲しければネタじゃなくそれなりにまともな事を書けばいいのに
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 20:33:45 ID:pLDgrgOY
>>154 小田原攻めや奥羽征伐があるのに
>>東国の直接支配に失敗し、
というのかと小一時間・・
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 20:44:24 ID:Yt3c//E+
>>166 >あったよ
いつ将軍宣下があったの?なんていう史料にその
ことが書いてある?調べたのですが見つからない。
>なんていう史料
はいはい
KING OF ZIPANG
ID:mRBZ40vY
夏休みで湧いて来た厨房か。明日のラジオ体操に寝坊しないよう早く寝ないとお母さんに怒られるぞ?
ID:iQaPl/13
夏休みで湧いて来た厨房か。明日のラジオ体操に寝坊しないよう早く寝ないとお母さんに怒られるぞ?
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 22:10:03 ID:Yt3c//E+
ID:Yt3c//E+
はいはい
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 22:32:35 ID:isDd72KG
家康の関東移封は成功だった
結果的には、家康をナンバー2として確立し、蒲生や上杉を抑えて東国安定につながった。
秀吉ですら倒すことができなかったことから器量の差は歴然なんだし、
秀吉による対家康政策の外戚・ナンバー2に据える指針を継続すべきだった。
いっそ更に話を進めて、家康を東国目付の建前で
蠣崎領に移封すれば如何
これほどの僻地ならば、さしもの家康の手腕だろうと・・・・
秀吉は上杉家から直江を独立させようとしてたんだから
そういう事も徳川にやればよかったんだよね
石川数正
忠勝にも粉かけたな。
信長が北条や伊達を支配していたから実質的に東国を抑えてたと言うなら、
秀吉だって家康を傘下に入れてんだから東国を抑えていたと言えるわけで。
信長を東国の覇者というのは無理ありすぎ。
>>180 信長はもはや東国で唯一と言っていい大規模な敵である武田氏を滅ぼした。この瞬間から
東国全体が信長の威令の元に入ったんだよ。では逆に聞くが、この信長の東国支配体制を
揺るがすほどの反織田勢力は、どこにある?
あと、家康上洛前に秀吉はもう関白になってる。公家としての統治に既に切り替えていたわけだ。
>>181 そういう事を言ってるんじゃなくてな
「秀吉は将軍になれなかったから関白になった」という
大河ドラマをソースとする珍説を堂々と披露して
なおかつその結論ありきで史実を自分の都合のよいようにのみ解釈し
決め付けてるお前が面白いという事を、
随分前からここで皆が言っているわけなんだが
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/06(日) 05:13:05 ID:HArG2x1W
>>182 >大河ドラマをソース
今週の「功名が辻」で言っていたことを指すのだ
ろうけど本編ではなくてOPだから通説であって決
して珍説というわけではない。
珍説というよりデタラメだな
そんな歴史的事実ないし
後世の創作だもん
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/06(日) 08:23:18 ID:YMy2DReb
自分の天下に異議ありと兵を挙げた者に200万石超を与えるなんて
関白様は太っ腹だね
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/06(日) 10:32:57 ID:ZhaYepFO
明智と同じようにすれば良かっんじゃない?
三河遠江甲斐召し上げ
朝鮮全域切り取り次第知行する
俺は無知なもんで質問したいんだが
「東国」を支配しないと
征「夷」大将軍になれない
ってのはなんで?
>>187 ・東国は元は蝦夷地だったこと
・関東は武士の発祥の地であること
・寿永2年に頼朝が宣旨により東海、東山の支配
権を認められたこと
・鎌倉よりの伝統
などがあげられると思うが確かな根拠はない
そこら辺は関白スレでさんざん議論済みだから、行ってみるといい
秀吉が非源氏血縁で撥ねられたって説の方が一般化しちゃってるからな
それこそ、信長の長篠鉄砲伝説と同じ程に
>>181 関白になったから公家政権だとか秀吉は家康に勝てなくて将軍になれなかったとか、
かつては一般的な通説だったかもしれんが現在はすでに学会レベルでは否定された事
で論をすすめられても到底賛同はできない。
東国が夷だってことはわかってる
征夷大将軍って元元は
「これから夷を討つ人」が任命されるんじゃないか?
むしろこれから東国を支配しようという人間にこそ相応しいような・・・
>>193 その通り
鎮西大将軍=西方面軍司令官
征夷大将軍=東方面軍司令官
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 01:09:55 ID:uk2t/bsd
それがいつのまにか武士の棟梁=征夷大将軍
になってしまってるからな
この時代において「征夷」の部分がどこまで
形骸化せずに残っていたかも検証すべきだろうな
>>192 その
>すでに学会レベルでは否定された事
のソースを教えてはくれないか?不明ながらそれが歴史学の学会レベルで否定されたと言う事を
俺は聞いた事が無いのだが…
もしかして俺の知らない学会では否定されたのかな?
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 01:55:54 ID:9nzY2M3R
(●ω・`)創価?
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 02:10:47 ID:QqBOhc6h
てっ言うか江戸幕府見ている現代人でこそ征夷大将軍は凄い地位に思えるが
当時は室町幕府の将軍家の廃れようで
征夷大将軍なんてのは古臭いダサダサの何の権威もない地位だったわけ、
そんな地位に今更こだわる秀吉ではないだろう。
そんな征夷大将軍ではなく、まさに極位である関白となり
新政権を開こうとした秀吉の行動は理にはかなってる。
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 02:14:19 ID:uk2t/bsd
>>198 そのダサダサの権威を得ようとして義昭に
禅譲を迫った秀吉って…
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 02:20:24 ID:QqBOhc6h
そもそも東国を支配しないと征夷大将軍になれないとかいう理屈なら、
家康は勿論、関東の北条も、伊達をはじめとする
東北の諸大名も最終的に全て服従させた秀吉以上の適任者はいないと思うのだが?
たかだか小牧長久手で勝てなかったことのみに朝廷がこだわり続けて
征夷大将軍にしなかったなんてアホらしい。
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 02:25:02 ID:QqBOhc6h
>>199 まあ、それも手段の一つ程度だったんだろうね。
あと、むしろ秀吉が征夷大将軍にならなかったのは
足利義昭という男がその死の瞬間まで征夷大将軍だったからという
説の方が説得力があるのだが。
足利義昭が信長に京を追われても朝廷は一度も義昭から
征夷大将軍取り消しの宣下とかおこなっていず、
彼は死ぬまで名目的には征夷大将軍であった。
>>200 東国を服従させる前に関白になってるのに…
関白から征夷大将分になるってのは、官位としては降格人事だよ?何でそんな事しなきゃ
いけないんだか?
秀吉は関白を目指した時点で、武家として統治するを諦めて、自分の政府の形態を
「藤原摂関政治」もしくは「平家的統治」に求めたの。
秀吉が好きなのはよくわかるが、いくら秀吉が英雄でも、制度や慣習、周りの環境の中で、おのずと
限界があるって事も理解した方がいいよ。
「征夷大将軍になれなかったから関白になった」という説は
将軍と関白が同列の地位であるという誤解から生まれてるよなw
このスレの住人の一人が大河ドラマを鵜呑みにして吹聴してるだけだろ
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 03:39:58 ID:QqBOhc6h
確か征夷大将軍は官位にすれば従四位程度だったよね。
そもそも源頼朝が関東政権を作る時に適当な地位はないかと探したのが
征夷大将軍でこの地位の利点は京都在住というか畿内在住でなくてもOKという点だよね。
武家の地位としても征夷大将軍よりもっと高位の位はいくらでもあるそうだ。
>武家の地位としても征夷大将軍よりもっと高位の位はいくらでもある
近衛大将とかは公家かな?
>>202 いくら関白太政大臣になったかっらて、秀吉の政のどの辺が、
「藤原摂関政治」もしくは「平家的統治」なんだ?
秀吉の政治体制は、戦国大名をそのまま大きくしたような、あくまで封建的な武家政権であって、
荘園制を基盤にした藤原や平家とは全く違うだろ。
「課長になれなかったから本部長になりました」
なんてありえない
それに足利義昭が将軍だから秀吉を将軍に出来なかったという珍説もアホくさい
朝廷が足利の将軍職を罷免すればいいだけの話だからね
何よりも治安の安定を願っている朝廷は、必要であれば足利の将軍職を取り消すだろうけど
そうしなかったのは秀吉があえてそれを望まなかった事と、
足利将軍の将軍職は何の意味もないただの形骸だったからだよ
「なれなかった」よりも「ならなかった」説のほうが合理的だとは思うが
なんか悪魔の証明みたいもんだからなあ。
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 06:58:30 ID:QqBOhc6h
まあね。
思えば、秀吉の関白を使っての政権作りも斬新な試みではあったが、
実は家康の征夷大将軍を使っての政権作りも同じくらい斬新な試みであった。
何故なら江戸幕府以前の征夷大将軍政権は二度も大コケしてるからだ。
鎌倉幕府 源家嫡流はわずか三台で滅亡、以降は執権の北条氏が実権を握り京の公家を形式的な征夷大将軍に迎えた。
室町幕府 非常に弱体、まともな権威があったのは同じく三代目まで。
こんなポンコツに地位を江戸幕府という磐石な政権にした家康はたいしたものだ。
勿論、秀吉も家康には能力的には劣ってはいないのだが、
生まれとか状況とかにおいては家康より大きなハンディがあった。
>209
形式的だろうが存続した以上完全にこけたとは言えんよ。
大体、意味の無い、形骸化というのなら将軍も関白も大差あるか?ってこと
まともな権威があった関白はどこまでさかのぼる?
ポンコツでないのがどっちかというなかで
秀吉のなかでは位の高い関白>将軍、家康のなかでは逆だった
ただ、関が原・大坂の陣で大大名を潰したり削ったりできた家康のほうが
やりたいことが出来る力があったことは確か。
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 09:58:10 ID:QqBOhc6h
>ポンコツでないのがどっちかというなかで
>秀吉のなかでは位の高い関白>将軍、家康のなかでは逆だった
そりゃ違うだろう。状況にもよる。
逆に秀吉が征夷大将軍になってたり、それを秀頼に継がせたりしたら、
家康が対抗する権威を取るために関白取ろうとした可能性すらある。
そして、豊臣はやはり家康にやられてただろう。
>ただ、関が原・大坂の陣で大大名を潰したり削ったりできた家康のほうが
>やりたいことが出来る力があったことは確か。
それも全然違うだろう。状況の差だ。
家康は織豊時代を経ていろいろ平定されこなれた後だから、
そういうことが出来ただけ。
あんたの理屈だと秀忠や家光は秀吉より上という事になってしまう。
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 10:04:54 ID:QqBOhc6h
あと畿内で政権運営しようとした秀吉と
関東で政権運営しようとした家康の違いもある。
平家や豊家の悪い例しかないから
どうも関白は征夷大将軍より卑しく弱い職のイメージが付いてしまうなぁ
え?藤原氏の影響で、すっごい栄華を誇った顕職のイメージだが?
清盛は太政大臣です、はい
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 13:57:22 ID:dAD6+qdw
キチガイの脳内では
室町幕府が関東にあった事になってるらしい
>>211 ・違うというのであれば、なぜ関白取ろうとしなかったのか?ということを説明できないとね。
・秀頼が継いでいないという「状況」なのに。
・家康と源頼朝・吾妻鏡の話は良く知られるところ。
・畿内で政権運営した足利将軍家のことも時々は思い出してやってください・・・
>>217 あのスレは参考にならない思う、バカスレって
言われていること知らないの?
220 :
212:2006/08/07(月) 15:19:27 ID:QqBOhc6h
>>216 は?
何言ってんだお前?
俺の文、拡大解釈してアホな事言うなよな。
室町幕府が関東になかったことくらい知ってるよ。
そんな誤読できるお前がキチガイだろ。
単に関東政権なら関白より征夷大将軍の方が前例もあって有利かもと言っただけ。
逆に畿内なら征夷大将軍が室町幕府のイメージで地に落ちてるので、
位の高い関白の方が有利だろうね。
>>211 単に豊臣家のイメージが強かっただけだろう。
221 :
212:2006/08/07(月) 15:27:57 ID:QqBOhc6h
なんにせよ、
もしも豊臣にしっかりした実子の嫡男が居たのなら、
関白政権だろうと豊臣政権は存続し家康は天下取れなかったろう。
それだけの話し。
逆に秀吉が征夷大将軍、仮に取ってたとしても、
やはり幼君の秀頼が跡継ぎなら、やはり家康が天下を簒奪し歴史は同じだったろう。
そんなものは豊臣をちっとも守ってはくれない。
つまり豊臣政権が簒奪されたのは
秀吉が征夷大将軍ではなく関白を選んだからではなく
別の原因があったからだろう。
>>219 知らんがな
あのスレはもうピーク過ぎて過疎ってるけど、バカスレじゃなくて、バカが降臨したスレだろ
秀次じゃだめだったのか?
秀吉なら、安定した政権つくれると思うんだけど
一連のこのキチガイは
まず最初に「秀吉は将軍になれなかったから関白になった」という結論があって
その結論に達するように材料を取捨選択したり、屁理屈をこねくりまわしています。
常人とは順序が逆です。
常人は色々と材料を集めて熟考した上で結論を出します。
>>223 秀吉のプランって全く見えないし
家臣団が貧弱だし
もしかしたら種無しかもしれんのに安定なんて程遠い
226 :
212:2006/08/07(月) 18:05:19 ID:QqBOhc6h
>>224 おいおい、単に対立するロ感謝をキチガイ扱いすんなよ。
俺は別にそんな結論出してない。
秀吉が将軍にならなかったかなれなかったかは
俺は断言してない。
>>225 不可能ともいえないな。
ただ秀次はあまり有能ではなかった。
せめて加藤清正なみの人望や能力があればね。
227 :
鳥屋 ◆Mzllk81HNE :2006/08/07(月) 18:12:53 ID:GmlPsvna
加藤清正に人望などない。
ジャニタレを冷ややかな目でみる他の所属タレントみたいなもんだ。
『けっ!箱庭野郎がっ!武功ならワシのほうが勝っとるわい!!』てな武将がゾロゾロいたろ?当時。
228 :
212:2006/08/07(月) 18:17:23 ID:QqBOhc6h
「口感謝」は「論者」の間違い。
なんで、こんな変なタイプミスをしたんだか?
とりあえず、戦国時代末期の朝廷の基礎知識
朝廷はまず治安の回復と政情の安定を望んでいた。
とにかく誰でもいいから政権を掌握してくれて、戦争のない社会になってもらいたかった。
なので、朝廷からして見れば、秀吉でも家康でも誰でもいい、
とにかく安定政権を維持して治安を回復させてくれる人が重要。
なので本能寺の変の直後の流動的な時期に、朝廷は明智を相手にしなかったし、
家康が政権を取る過程で、当時の権力者の遺児である秀頼への加担はしなかった。
重要なのは「太閤の息子」よりも「実力者」だったんだよ。
秀吉が関白・太閤になったのは、
まず朝廷は信長に対して危機感を感じていたのが始まり。
信長は将軍になるように勧めても大臣になるように勧めても断る。
しまいには自分の冠位を返上するとか言い出す始末。
朝廷の権威を利用しようともしないし朝廷の一員になる事も拒否する。
無冠で朝廷に出入りするのは問題だという事で仕方なく右大将の冠位だけは持っていた。
こういうのは朝廷から見たら「朝廷も潰す気なんじゃねえの?」と思っても仕方がない。
だから秀吉には幕府を開いて別組織で政治をされるより、
朝廷の重職に就いてもらったほうが安心だ。
朝廷が秀吉に「太閤やってみませんか?」と言ったのはそういう流れ。
秀吉が将軍になれず、関白になったのは通説だろ。
通説を基地外扱いするのは行きすぎ。
最近の学説云々も、一般人が知るほど普及してないわけだし。
まぁ、楽市楽座を考えたのは信長とかと同じレベルの通説ですな
ある程度噛ってる人間の集まるこの板では通じないが
232 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/07(月) 19:39:23 ID:3A18ExyH
>>229 基礎知識というわりにはずいぶん誤解が多い、三職
推任に関しては朝廷からの要請か、信長からの要請
なのかはいまだに議論が続いてる話だし、「大閤な
りませんか」ってはあ、etc…
光秀は一度征夷大将軍になってるという公家の日記がありますが、
あれはどうなんでしょ
三職推任については、希望が朝廷にあったのか信長にあったのかの議論はあるが、
「朝廷は信長が将軍ないしは関白か太政大臣に就任することを認めていた」点では
異論はない。朝廷からすれば、それが望んでのことかしぶしぶであるかはともかく。
つまり、この時点で朝廷は義昭が将軍であることをさほど重視していなかった訳だ。
信長の方も、例えば毛利の元にある義昭が信長打倒の書状を将軍の名前でいくら
出しても実質的な影響はないと見ていたからこそ放置したのだろう。将軍の名前に
それほどの重みがあったのなら、当時の信長なら朝廷に働きかけて義昭を解官させる
ことくらいできた。
同じことは秀吉にも言える。秀吉がどうしても将軍職を望んだのなら、別に将軍に
なるためには足利の血筋以外はダメなんてもんではないのだからいくらでも方策は
ある。しかしそういった工作は行っていない。
木曾義仲も征夷大将軍だったしな、
「秀吉は源氏ではなく東国を支配していなかったから将軍になれなかった」
という珍説の人は、そっちのルールだけを尊重して
「五摂家以外は関白職に就けない」というルールは無視ですか?
養子になってるぞ。
足利義昭にこだわらなくても、
源氏の適当な奴の養子になることくらい
秀吉にはたやすいだろうよ。
それをしなかったという事は
秀吉はたいして征夷大将軍には
こだわってなかったという事だろう。
それよりも貴族的な藤原氏とか関白を望んだというのは
いかにも秀吉らしい感じがする。
秀吉は形式上五摂家の一員として関白になって
いるのですが、
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 01:30:33 ID:Fe2AY8dp
ひとまず菊亭春季と近衛前久の動きをまとめてみるべし
>>240 そういう事が可能なんだから
将軍になりたければ可能じゃないですか
>>242 言いたいことがよくわからないのですが。
>>243 形式上五摂家の一員として関白になれる程の力があれば、
適当な源氏家の養子になって将軍になることぐらい容易いだろって話。
>>245 そりゃ、無理だろう。
日本を実効支配しているのは、すべて武家。
で、源氏家の養子になると言う事は、その家の養父が秀吉より格上になってしまう。
あまりにも無名な家柄ではその信憑性が疑われるだろうし、
となると、ある程度現在も名声のある武家である必要があるが、
中途半端な家柄だと、他の武家から反発もあるだろうし、
あまり権力の強い家だと、その養父が実権を取りに来るかもしれない。
あと、跡継ぎのいない家を選ばないと当然内乱になる。
結局、名前は良いが実権は無く他の武家との軋轢も生じない、公家に入るのが一番。
ごちゃごちゃ言ってないで今川家の養子になればいい
>>246 だったら話は簡単。「秀吉は、実は源氏の流れの家の出」とでっちあげればいい。
例えば、三河の松平家が家歴を詐称して源氏を名乗ったようにね。本来は「得川」
だったのを、「徳川」として新たに創設したように。
もっとも、征夷大将軍は源氏でしかなれない、なんてのも誤解で、朝廷側はそんな
こと全く考えていないのだけどね。
>>248 鎌倉幕府の摂家将軍と宮将軍は将軍職だけで源の姓は継いでないよね?
250 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 15:19:28 ID:PZlWiQEb
家康は新田義貞の子孫から源氏性もらったようだ
確か吉良家が介在してる
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 16:27:28 ID:DzpDAG+q
なんか家康が豊臣家滅ぼしたみたいな事で論議してるが
誰の種のだかわからない秀頼だの馬鹿ばかりの家臣団だの国潰してばかりの淀君だの・・・
よく15年もったもんだ、ほぼ自滅、秀吉子飼いは誰も味方せず。
でも、家康はなんだかんだと秀吉が死ぬまでずっと秀吉を立ててた訳だし、家康は秀吉の家臣では無くて、実際のところ協力者と言ったところ。
秀吉にしても力ずくで日本の統一無理なのだ、秀吉らしい外交力と大義名分の朝廷印の関白という肩書きと、旧織田家以外の毛利上杉徳川だとかの100万国以上を最低限の戦争で従わせ、応仁の乱以降130年続いた戦争を終わらせた。
家康には戦で勝ててないし、簡単には従わない狸だ、外交で上手いこと、義弟にまでして従わせた・・・
250万石が多すぎると言っても理屈無く減らす事はできないし、関東移封に家康が反対していれば、それを理由に削したり、潰したりできるかもしれんが。
唐入りは、秀吉は勝つことしか考えてないだろう。
だから子飼いの武将に手柄立てさせに行ったのだ。家康にこれ以上手柄立てさせてもしょうがなかろう。
同盟関係の信長家康よりも
建前上家臣の秀吉家康のがイメージだとフラットに近いよな
実際信長も相当家康を立ててはいたらしいけど
信長が家康を立てていたとは?
うーん家康は少なくとも秀吉が生きていた頃は
律儀に家臣としておとなしくしてたと思うけどな。
それに戦で絶対に勝てないわけではない。
全力でやれば潰せたがあえて講和で服従エさせたのだろう。
はっきり言って家康が天下取れたのは
秀吉より長生きして、
しかも豊臣家が幼君だったからというだけなんだけどな。
家康の長命は、家康自身の弛まぬ努力の為せる業。
豊臣家が幼君だったのは、秀吉が我が子可愛さ余りに後継者を殺した所為。
家康の努力と、秀吉の自業自得というだけの話。
豊臣家のことは理解できるが、寿命を努力とは無理ないかい?
擁護するならもうちょっとうまくしなさい家康厨
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 18:15:30 ID:DzpDAG+q
家康が普通に60くらいで死んでたら、豊臣家は滅びないが、また戦国に戻っていただろう
家康にしても自分がいつ死ぬかは分からないのだから、秀忠に将軍位譲った年は秀吉の死んだ64才(数え年63才)に譲っている
それ以降はいつ死んでもいいような体制作りをずっとずっと考えて手を打ち続けていたのだ。
まあ人の生死だけは神仏の領域だねえ、信長や秀吉があと数年。。。生きてたらどうなってたか。
想像できないほどの無茶やったり失敗したりしてたかも。
家康だけは長生きした分、死んだ後の事をよくよく考えていたのは間違いない。
家康はデブとかタイの天麩羅のこといわれるけど
健康オタクだよ
スポーツも小さい頃からずっとやってるし、晩年も水泳や乗馬、鷹狩もやってる
読書家でもあって源頼朝好きなのは有名だけど
薬学医学も趣味にしてる
>努力
家康厨さえ知らないことなのかも知れんが
狸親父は、陣中でも漢方書を手放さなかった生粋の健康主義者
自身で薬の処方も行っている
殆どの武将が病死している中で、天下確保まで寿命を保ったのはこの要素が強い
(ただその後は気の緩みで・・・な)
素人の処方である事や当時漢方の信頼性の無さだとそんなにプラスでもないんじゃないの?晩年はデブらしいし
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 19:01:29 ID:6sJBbApI
自分の処方した薬を過信して医者の言う事を聞かなかった面もあったそうな。
>>262 秀吉に臣従した当初は、けっこう美食や道楽に凝ったとも聞いたことがある。
その時点で過度の肥満に陥ったようだ。
それ以前は知らないが、あのような健康オタになったのは、
天下統一後の秀吉がおかしくなりだしてからだそうな。
まあ、そうだけどさ。
現代人ですら癌などで中年で逝ってしまうこともあるように、
医学や栄養学が未成熟なら当時ならなおさらだろう。
家康の健康オタぶりは家康の長寿の確率を幾分高めただろうが、
それでも確実性があったわけではない。
先車の覆るを見て、後車の戒めとする。
>それでも確実性があったわけではない。
生きるためにとりあえず実践躬行
家康の健康管理は並じゃないよ
鷹狩り=スポーツを倒れて動けなくなるまで続けていたし
自分で漢方薬を調合して飲んで、
毒殺を警戒して人からもらった薬は絶対に飲まないようにしてた。
逆に考えると、当時は毒殺される事が当たり前だったという事になる。
加藤清正のような急死は毒殺の可能性もあるっちゅー事。
マラソンとか過酷なスポーツ選手って体ぼろぼろだし
倒れるまでやるってはどうかと思うが
60歳くらいで家臣に水泳披露したり、大坂の陣でも馬に乗れたってのが
高齢には珍しいことのように書かれてたりするからまあ凄かったろうね
上方かぶれで金もある駿河で、義元(雪斎)に英才教育を施されたのが良かったんだろうな
体の鍛錬や学問以外やることもたいして無かっただろうし
倒れてというのは、
スポーツを一回でぶっ倒れるまでやり続けるのではなく、
よぼよぼになって床に伏すまで継続的にやり続けたというニュアンスだろう。
そういう事
「家康は倒れて動けなくなるまで鷹狩りをやっていた」というのは
病床に伏して動けなくなるまで、つまり、
「健康でいられた期間はずっと鷹狩りをやっていた」という意味。
鷹狩りの途中で例のてんぷら事件があって倒れたから、
本当に倒れる間際まで鷹狩りをやっていた事になる。
家臣を纏める者は、自分がしっかりしていなくてはならないわな。
信長や秀吉と違うところですね。
>>271 秀吉には晩年の老耄があるが、信長にはなにがあると?
無慈悲なリストラの数々
というか、持病の癇癪と情緒不安定性>信長
そもそも本能寺で誰に殺されたのやら
家康の凄いところは自分で調合した薬しか飲まないだけじゃなくて
自分の家族も全く信用してなくて息子が派遣した医師も追い返すし、
息子の謀反まで警戒してるから、息子達とは一定の距離を置いていたし
有能な息子は禄高の低い他家へ養子に出して身動きできないようにして
無能な秀忠を世継ぎにして、
無能な世継ぎでも幕府が倒れないような仕組みを全部作って死んだ事とか。
>>276 その考えでいくと下三人は警戒対象ではなかった、ということでいい?
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 22:02:14 ID:Fe2AY8dp
とっとと秀忠に家督を譲って幕府世襲の
前例を作ったのは正解だったと思う
ただ秀忠を無能と決めつけるのは性急過ぎる
秀康・忠吉・忠輝などは治世には向かないと
判断したから温和な秀忠に継がせたとみる説が
やっぱりしっくりくるんだが
現代でも二頭体制って双方がしっかりしてないと
維持は難しいでしょ
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 23:01:19 ID:TxQGwHJv
家康旧領に宇喜多を移封して上杉と東西から睨ませておけばよいのでは。
280 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 23:08:32 ID:IQHlYXmd
別に秀忠は無能じゃないし。
家光の初期の政治は秀忠がやっているし、幕府の基盤整備に
かなり貢献している。
戦国期では、かなり過小評価されている人物だよ。
>>278 秀吉もとっとと関白を秀次に譲って世襲の前例を作ったけどな。
まあ、耄碌して自分でぶっ壊したけど。
ボケてと言うか、秀頼が生まれたからには必然の相克だろう、その点家康は運がいい。
>>277 下の2人はジジイになってから生まれた子供なので
今までの子と違って孫のようにかわいがったらしい。
>>278 「とっとと世襲した」と言うけど秀忠側から見たら相当待たされてると思うよ
それと、秀忠は思いっきり無能だよ。
真田には大軍で攻めて何度も負けてるし、
無能だから必死で言いがかりをつけて兄弟を改易させたし、
同じように言いがかりをつけても真田は潰せなかったし、
もう無能という他ないよ。「有能だ」と言える要素など何一つないよ。
>>283 おまえが「武将」と「政治家」の違いが何もわかっていない小僧だということだけはよく解った。
>>278 >秀康・忠吉・忠輝などは治世には向かないと
>判断したから温和な秀忠に継がせたとみる説が
>やっぱりしっくりくるんだが
温和だからというよりは正直単なる消去法だと思うよ、
秀康はよりによって豊臣に養子に行った身だし、母が築山殿の女中だった為か
それとも容姿の為か個人として家康に嫌われてる。
忠輝は秀忠が将軍を継いだ1605年では僅か13歳、話にもならない。
忠吉は秀忠の同母兄弟な上に関ヶ原の怪我が元で健康とは言い難かった。
こうなるともう秀忠しか将軍候補がいなくなるんだよね。
人を酷評するのは簡単なんですよね。
その人の能力を見出すことが大事で。
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/09(水) 15:21:21 ID:VcCuown0
秀忠は真田との負け戦のような
自分の圧倒的優位な立場を利用しただけの
何の思慮もないダメダメな政治を行っています。
なんかの本で征夷大将軍と源氏長者を兼ねると関白を超えるって書いてあったんだが、それって本当?
征夷大将軍はともかく、源氏長者ってなにか実態が伴うのかな?
>>288 確かに幕府は圧倒的だが、
その力を政権の為に費やして、長期安定政権の基盤を築いたことは非凡だよ。
大抵の奴はその力を自己満足に費やす、どっかの散財好きの三代将軍みたいに。
無欲な人物だったのかね?
秀忠の生活振りは余り記録に残ってないが
秀忠が戦闘に不得手なのは全く戦闘に参加していないから。
上田攻めが初陣なんだからしょうがないでしょうが。
その代わり、畿内や名護屋に詰めっぱなしであった家康に代わり、
江戸で政務に当たった分、実務家として大成した人物であった。
「しょうがない」ってあんた・・・
秀忠の遅参のせいで、下手すると東軍は負けてたんだよ
上田には見張り役として5千も置いておけば充分でしょうが
アホでも分かると思うけど
294 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/09(水) 22:24:09 ID:3MlzLYka
簡単な話、秀吉は家康を甘く見過ぎたに尽きるのではないかな。秀頼の後見人になってくれると最後まで信じていたようだし。
>>293 5千おけば十分?
真田昌幸って人をご存知?
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/09(水) 22:48:43 ID:MZYA5WfD
>>295 昌幸つっても籠城戦に長けてるだけでしょ
真田が打って出てどうにかなる兵力差じゃないのは
十分判ってるから上田城に引き篭もっているわけだし
徳川方も、別に真田を殲滅する必要はないんだから
遠巻きに包囲すれば済むことで
放置じゃダメだったのかね?どのみち上田からは離れられないだろうし。
298 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/09(水) 23:25:08 ID:HpjRZBM6
真田なんて別に攻めなきゃこわくない
299 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/09(水) 23:32:12 ID:1yFCgqoL
あれ?伊達の牽制のために、別働隊にしたというのはガセ?
上田を攻めたのは、おちょくるだけだったのに
滅茶苦茶にして、家康お冠。
関ヶ原は、家康の軍事的直感で決戦突入だったと聞いた。ガセか?
>>296 真田にしてもわざわざ討って出る必要はないしね
真田の目的は秀忠の遅参→東軍の敗北だったわけだし
東軍は調略を駆使してた(実際に関ヶ原で戦った西軍はごく一部)
関ヶ原で戦ったのは家康から見て外様の福島や黒田
関ヶ原で負けても=三成・豊臣の時代は来ない(南北朝の再来になるだけ)
っーか、関ヶ原で戦わなきゃならなくなったのは福島の先走りの為
ぶっちゃけ、仮に関ヶ原で負けても、家康が討ち取られない限りは徳川の兵隊レベルでの損害は低い
そんなところから秀忠遅延ワザと説が生まれるぐらい
まぁ、仮に秀忠が間に合わなくて関ヶ原で負けても、徳川の致命傷にはならない
>秀忠遅延ワザと
家康は秀忠が関が原に来ても5日くらい接見を拒否してたし
後の事を考えると秀忠の立場上の問題から考えてまずいんじゃないの?
わざとなんてありえないよ
よく言われる温存説って家康の計ってことでしょ
そんな芝居うってすぐになんでもないように振舞うほうがおかしいような
秀忠の遅延って、あれは単に家康が当初の予定をいきなり変更してしまい、その
通達の使者が雨で到着が遅れたからなんだが。
石川数正を出奔させたのは、秀吉、そのせいで、徳川の軍略は、武田流になった。
秀忠が遅参して東軍が敗北または勝敗がつかないような状況になれば
間違いなく秀忠は切腹だよ
遅延
愚将で悪名高い仙石秀久に唆されて上田攻め決行したんだろ。
ていうか秀忠遅参はわざとじゃないとすると、どっちかというと補佐
するべき家臣団の責任では?
数万の大群を統御したことがない人、しかも家康から見て軍事能力に
不安ありの人が絶対的統帥権なんてもってないでしょう、普通に考え
て。部下の失策責任を受けるのも大将の責務とはいえ、個人の評価の
場では別に考えるべき。秀忠の軍事能力は「不明」が妥当。
有能無能論だと間違いなく有能。豊臣みたいなポカをしないで穏当に
新政権の支配力を伸ばし続けた。
>>310 中山道方面軍の総大将は誰でしたっけ?
真田に何日足止めを食らわされたんでしたっけ?
その決定をした人って誰でしたっけ?
軍の遅参は誰の責任になるんでしたっけ?
>>310 まあその理屈だと小牧で秀次軍15000の兵を
路頭に迷わせた責任はそれを補佐した
池田親子や堀久太郎ってことになるが
しっかり秀次の責任にされているよな
大軍率いた経験もなく、まだ19歳なのに
関が原時点の秀忠は30代だ
お子ちゃま扱いはむしろ失礼だろう
っていうか、前にも出てるけど
家康も、まして三成も関ヶ原を予定戦場になんかしていないんだよね
福島らの予想以上の岐阜城攻略から進軍に、慌てて家康が合わせた
一方の西軍も、こりゃ不味いってコトで進軍して関ヶ原を押さえたので
結果的に関ヶ原で戦う羽目になったんだけどさ
その証左に布陣だけみれば先に戦場に入った西軍の圧勝で
もし関ヶ原で東軍が敗北することがあれば、その責任の第一は福島であり、福島を押さえれなかった家康だと思うけど?
それを言うなら「時代小説」
>>313 そんな事よりも秀忠が到着予定日から何日遅れてると思ってるの?
>>315 司馬のはそれまでの剣豪物等と区別する意味で「歴史小説」と言われてたろ
過去形も何も
今でも司馬小説は初期の娯楽作以外は「時代小説」じゃなく「歴史小説」と
銘打たれてるぞ
だから史実だと勘違いしちゃうのか後を絶たない
320 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/11(金) 14:34:15 ID:78fJctsY
秀忠遅参は
真田の妨害というよりは
準備不測と悪天候によるものという方が有力なんだけどね。
真田の妨害なんてのは講談みたいなもの。
なんせ悪天候で使者は遅れるわ。
途中で軍資金が尽きて本多正信が金策のために江戸城まで
行く羽目になるわで、
城に篭ってただけの真田攻めなんて切実な理由ではないよ。
むしろ「何もしないわけにはいかない」というので
真田を攻めた形跡あり。
もっとも関が原到着に最善の方法を取れなかったという意味で、
秀忠は無能だった気もするが。
別に真田は妨害なんかしてないよ
秀忠が勝手に真田を攻めただけの話だよ
軍資金の不足は完璧失敗だな
けど、そういう自体が起こるのは単に徳川家自体に大軍運営のノウハウが無かっただけなんだろう
大軍団の運営に関して言えば豊臣の方が一日の長があるし
秀忠付きの本多や榊原らは数百〜数千の将だからな
人材不足。石川が抜けて軍制を変えてから初めての実戦だったし
家康は秀忠を待ちたかったろうし
三成は大津攻めの連中を待ちたかったろうな
そもそも野戦になるとはお互いに想定外じゃないか
324 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 22:46:31 ID:tEYAvjj1
秀忠軍の主目的は関ヶ原参戦じゃなくて信濃制圧だったんじゃないの?
存亡がかかった大事な時期に4万近い大軍を
信濃なんて大した重要地点でもない所に遊ばせておくとは思えないが
326 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 23:42:48 ID:tEYAvjj1
まあ、俺もそう思うんだけどね。
でも一番謎なのはまさに決戦に臨もうという時になんで主力4万に中山道なんかを
経由させたのかだな。 全軍で東海道を進んだほうが遥かに兵力の運用効率が
いいと思うんだけどね。
327 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/12(土) 23:44:34 ID:CA/avOpq
秀忠「降伏しる!」→昌幸「返事ちょっと待って」→
数日後、秀忠「返事マダー???」→昌幸「待ってくれたお陰で篭城の準備できたww」→秀忠激怒
秀忠「降伏しる!」
昌幸「了解!城を明け渡すのに一週間かかるから待ってちょ」
秀忠「そんなに待てるかハゲ」
昌幸「しょーがねぇなぁ、じゃあ3日で」
秀忠「よかろう」
3日後
秀忠「さあ、はよ明け渡せ」
昌幸「やっぱ篭城する事にしたよ、かかってこいや」
秀忠「ムキー!!!」
東海道方面に問題が起きた時の為の予備と甲州方面への示威行為なんじゃないの
進撃路を一本に頼るのは、危険じゃないかな
>>325 だからこそだろ。
敵は西方だけではなく、上杉もいるんだから。
どちらに万が一があるかわからないから
家康がギリギリまで江戸にいたのもそれが原因の一つだし。
また、それは短期決戦で関ヶ原が終わったと知っている後世の人間だから言えること。
とりあえず信州を平定して、進撃路を確保しておくのは長期的に妥当な判断。
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 22:02:54 ID:t07WTISu
もし真田幸昌、信繁親子を目付けとして小田原において置けば
歴史は大きく変わった筈。
関東仕置きの手柄は真田にある。
幸昌についてはおいといて、誰も納得せんと思うぞ。真田も。
334 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 01:56:46 ID:LPbkPPF4
秀忠のやたら贅沢な別働隊は東海道の進軍が遅れた時に中山道から西軍が東進してくるのを恐れたからかな?
中山道は長いけど、もし甲州方面から攻撃されたら徳川領は非常に脆い状態だったからな。
でも秀忠が宇都宮発つ前に先鋒は既に美濃入りしてるけど
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 02:40:20 ID:LPbkPPF4
そうなの? じゃあ秀忠が中山道進む理由なんか何も無いじゃんね。
甲斐、信濃方面への牽制なんて別にいらなそうだし。
さっさと東海道を進めよって感じだよね。
兵力温存説はどう?
家康はなかなか江戸発たなかったように
かなり不安を感じていたようだったから
万が一負けた時考えて半数の兵は投入せずに温存しておく
でも、まさか自分達だけ出し惜しみする訳にはいかないから
表向きは信濃の制圧にしてわざと遅れて合流の連絡を入れさせたとか
338 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 03:30:26 ID:5a9CNw0e
兵力の早期輸送のためじゃないの?
道幅なんて限られているし、関東平定の豊臣氏のように大規模水軍を有したわけじゃないから、
一刻も早く大量の兵を西に進めるには2手に分ければ結果的に大軍を早く集結出来る。
承久の乱の時だって幕府軍は3軍に分けて攻め入ったろう。
>万が一負けた時考えて半数の兵は投入せずに温存しておく
このキチガイ発想を書く前に
もう一度自分で読み返して「これおかしいよな」と思わなかったんだろうか?
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 08:30:38 ID:peyucZuy
幸昌?
西軍に中仙から江戸を突かれる恐れとか?
だから秀忠を中仙から進ませたと妄想
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 11:04:43 ID:bBHBd5ch
>先鋒は既に美濃入り
これって予定外じゃね?
大軍送るには二手くらいにわけるもんじゃねーのか
家康軍のほうの進軍は上杉を警戒しすぎで異常に慌てていたらしいね
橋を家康が通った後に破壊してしまって後続が困り果てたとか
>>343 いや、例の村越茂助を遣わして開戦を促したわけだから予定外ってわけじゃないでしょ
そもそも秀忠が出立する10日前には先鋒が清洲に到着してるし
でも進軍するのに兵を分けるのは凄く普通だよな
まして大軍だし一方から纏まって行く方が不自然なぐらい
だけど最近言われてるには秀忠は信濃制圧の命令しか受けてないって事らしいが
そこが謎
普通に美濃で合流するつもりだったんだろ。
むしろ、家康なぜ合流する前に開戦したかの方が不思議だわな。
まぁ、勝てると踏んだんだろうし、実際に圧勝しているんで計算は間違って
なかったんだろうが。
>>346 先鋒部隊への戦闘命令は、西軍本体への攻撃命令じゃなくって、
岐阜城奪取だから、変じゃないよ。
岐阜城を拠点にして、全軍集結して西軍に当たる。
西軍も大垣城を奪取して、全軍集結して東軍に当たる。
むしろ典型的な会戦のパターンというか。
でもさ、通信手段の貧弱なあの時代に同規模の敵戦力と戦うに向けて戦力を分割するのは
かなりリスクが高いんじゃないの?
べつに一本の街道を大軍で進んでいても当然かなりの範囲に斥候がいるはずだし周りの開けた
東海道の場合それらから連絡が入り次第その場で行列の前後が左右に展開(大変ではあろうが)すれば
いいわけだから。
でもそれをやらずに秀忠の指揮の下、到着が間に合わない、あるいは突出し過ぎて
袋叩きにされるかもしれない危険があることをわざわざやったのはやっぱり謎じゃねえ?
その結果、関ヶ原本戦では毛利と小早川の2つの爆弾を抱えるような綱渡りみたいな
危うい陣形で戦わざるを得なくなったようなもんだし。
まあ、そんな状態で決戦に臨んだ家康の判断というのも俺には謎なんだけど。
>>342 美濃に入った先鋒が西軍の攻撃を受けて後退するとか、
何らかの事情で美濃から退かざるを得ない、もしくは西軍が美濃に橋頭堡を確保し、
一部を中仙道を直進させるという事態が起きないとも限らないのだから、
先鋒が美濃に進んでる状態であっても中山道を進ませて甲州方面を確保するという
戦略を取る事に不思議は無いと思うが。
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 00:23:22 ID:YLUxlH4Z
>>349 相手の通信手段も機動力も同じように貧困だから、別に問題ないのよ。
むしろ、一路に絞ると輸送が滞ってしまって、予定戦場に大軍を集結する
ことができなくなってしまう。
ただ、たまに、それを破る奴もいるけどね。義経みたいに。
関が原の場合は、岐阜城で秀忠軍の到着を待つのが戦術上は普通の方法
であって、それでも西軍が急襲してきた可能性は薄いだろうしね。
>>351 なんで家康は岐阜城で合流を待たなかったの?
東海道や岐阜城を押えたから兵糧はとりあえず余裕あったろうし。
なんでまた佐和山城を攻めるかのような大袈裟でせっかちな開戦に踏み切ったんだろう。
小早川や吉川に対して未だ明らかになってないもの凄く堅い信頼関係でもあったのかな?
東軍=岐阜城、西軍=大垣城は同意
イレギュラーが福島正則と小早川秀秋
なし崩し的に関ヶ原で決戦
ここら辺の同輩大名の手綱の取り方は秀吉秀長兄弟の方が上手だったな
354 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 01:34:31 ID:YLUxlH4Z
>>352 まぁ、西軍の切り崩し状況を見て大丈夫だと思ったんだろ。
勝てるんなら、待つ必要はないし。
下手に待っていると、不測の事態も起こりやすいから。
特に、西軍の内応連中が家康が勝利に自信がないのだと思い
はじめるとやっかいなわけで。
まあどうせ待ってても秀忠軍は相当疲れてるだろうし、西軍にも大津や細川領攻撃部隊が
来たら兵力差はあんまりなくなるし、毛利輝元まで来られたら逆に不利になるな。
それ以上に豊臣家に下手なこと言われるとシナリオが台無しになる可能性もあるわけか。
356 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 01:58:55 ID:YLUxlH4Z
>>355 勝てると判断したら躊躇しないのは名将の条件だからな。
他戦場の状況が変わるのも厄介だから決戦を急いだのかな。
ということは勝利の構想がすでに完成していて出陣したわけか。
家康おそるべし。
短期決戦は上杉の事をそうとう警戒してたからだと思う
家康の関ヶ原意外での最大の脅威は
謀士伊達政宗の上杉との和睦とそれによる上杉領を通過しての関東侵入。
豊臣家の西軍加担の声明。
チョットだけ心配なのは
前田家の西軍参加と関ヶ原参戦。
各地の戦況が流動的なんだから、家康としては多少勝ち目が薄くても決戦の機会が
生じればそれに賭けることはしたでしょう。特に事前の調略状況を見れば、決戦時
の勝率はまだ高かっただろうし。
東軍にとっては秀忠の軍があるが、西軍にとっても大阪城の毛利本軍や立花軍など
の加勢のアテはある。上杉だって北上したが、時間がたてば南下に転ずる可能性が
ないわけでもない。押さえの伊達は史実をみれば信用できる行動をとっていない。
家康は東北に最上っていう捨て玉がある
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 01:30:05 ID:GTq201Bo
>>361 捨て石(爆!)
最上って、どうしてこうマイナスイメージなんだろうね(笑)
武勇もまあまあだったと思うんだけど
363 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 02:02:16 ID:l7ueHa/f
最上は遅かれ早かれつぶれる。
単なる時間稼ぎだ。
さっさとケリをつけないとね。
いや、最上の戦闘力は過小評価してないが
いかんせん、救援を望めないだろ
上杉・小野寺は仕掛ける人、伊達・安東は出来るなら漁夫の利を得たい人、徳川はんなことやってる暇あったら関ヶ原に軍をさく人
秀忠軍が中仙道を進んだのは、万一敗北した時の退路の確保もあるのでは。
東海道の豊臣恩顧大名が、負けたときに信用できるか疑問。
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 13:55:32 ID:AQjAqqR6
上でも出てるけど、この戦いは家康の天下取りの戦いと言うよりも、豊臣恩顧の大名の内戦に近い、そもそも器量の無い三成の勝ち目なんて、これっぽっちも無い。
家康としては上杉に難癖つけ、大坂を離れ三成が兵を挙げたら、自分の兵は使わずに人の兵で三成だけ撃てばよい、西軍と言っても戦意があるのは三成貴下の兵だけ、これのどこが天下分け目の決戦なの?
そりゃ秀忠勢なんぞ無しで戦闘始める気になるわ。
大坂まで攻めなくても、佐和山落とせばそれで終了、その手前の関ヶ原でどうにか決戦に持ち込んだので、天下分け目の戦いと言われてるだけ。
つか、秀吉死んだ時点で家康が天下人だろう。関ヶ原なぞ関係なく。官位的にも石高的にも
家康内大臣。利家権大納言、秀吉なりに後を考えて天下は家康に、秀頼は利家に託したわけだ。
秀吉がそう考えるかな…疑問だ
368 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 14:06:22 ID:AQjAqqR6
三成がそれに我慢できずに、兵を挙げただけ・・・
大体西軍が勝ったとしても、負けた加藤だの福島だの武闘派は三成側につくとは思えんし。
負けた家康や秀忠が江戸に逃げ帰ったとしても、三成が天下牛耳れるとも思えん、戦国に戻るか、三成が誰かに暗殺されるか・・・
西軍が江戸を落とせるほどの戦略、統率力があるのだろうか?有ったとしても西じゃ黒田如水が、東北じゃ伊達政宗が盛んに戦国やりたがってる。西軍か勝って一瞬でも天下収まるか怪しい物だ。
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 16:10:14 ID:YDGHojPj
つうか黒田の爺さんは本当に短期間で西国とれる自信あったのか?
あの爺さんは過大評価だ。真田昌幸と同じぐらいに
黒田ならまだ長政の方が、戦国再来の場合は勝ち残れそうだ
371 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 16:44:01 ID:Y6wp1EAf
脳梅毒でやられていたという説もあるしな。
梅毒=徳川政権にとって都合の悪いヤツの死因
373 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 19:32:35 ID:rNEHkrq7
>>369 黒田の爺さんは最初から西国を取れるとは思っていない。
長政があまりに徳川に傾倒しているように見えるので
後々徳川に甘く見られぬように黒田はそう甘くないと一目置かせる為に
打った芝居だ。
自分が秀吉に警戒されたことは誰もが承知しており、自分が何もしなかったり
積極的に東軍に協力しただけでも。へたな勘繰りを受けるのは目に見えてる。
最初から自分が野心あって行動しましたよ、といっておけば自分が悪人になり
関が原ので積極的な行動とあわせて、味方にすれば強いが一筋縄にいかない
ということになる。
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/18(金) 19:41:30 ID:J5DXEl2O
>>373 自分の妄想をそんなに確信的に言われてもなあ。
藤堂と黒田の決定的な差は如水の胡散臭い動きのせいじゃん
貢献度でいったら断然黒田の方が上なのに、外様筆頭は藤堂に取られたのは如水の余計な行動のせい
長政からしたら、父上、余計なことしやがってという感じではあるな。
まあ、外様の中で、黒田が藤堂や細川に差をつけられたのは、
如水の火事場泥棒のような参戦が原因というより、
藤堂と細川が、幕府相手の外交戦では黒田より上手に戦った感じだけどな。
家康と藤堂高虎、秀忠と細川忠利の個人的な信頼関係に匹敵するような
将軍家とのコネクションを黒田家はもてなかった。
関が原直後の加増では黒田家が一番だけどな
藤堂や細川が伊勢や肥後の太守になるまでにはワンクッション置かれてる
細川は関ヶ原の時なんて、前田家と連座して徳川家に三男を人質にとられてる状態から
よく薩摩の抑えの肥後54万石にまでなったもんだ
三男が秀忠に気に入られると、次男を廃嫡して細川継がせるとか徹底した将軍家への気遣い
ぶりだし、あの家は他にもいろいろ特技(礼儀指南・朝廷関係・歌道)があるからか?
藤堂家は高虎の立ち回りが見事としかいえん
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 23:21:18 ID:C/9wh//x
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 12:58:54 ID:S9tykyFK
何をもって成功か失敗か判断するかによるが
秀吉存命中、東国の安定を図る点では成功。
秀吉厨にとっては家康の巨大化、
家康移封後に東海に入れた恩顧の者が
関ヶ原で皆、東軍になびいたことが失敗ってことなんだろうけど
中村・堀尾・山内・池田・田中ら東海に入った武将と
加藤・小西ら九州に入った武将の領地が逆、
もしくは東海・甲信が反家康勢力で固まってた場合はどうなんだろうな?
381 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 13:49:57 ID:3lTMm8/O
家康と家臣との離間策を仕掛けるべきだった。
西三河の数正、東三河の忠次の内
片方陥落してますが
383 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/27(日) 14:35:29 ID:S9tykyFK
>>382 晩年の酒井忠次も居場所が無くなり京に隠棲みたいな。
384 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/28(月) 01:02:28 ID:MIUw1eP/
だが、代わりになる人材もそこそこいたからな。
385 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 01:26:06 ID:zOb8makD
まぁ、ある程度の年齢にならんと、家康がいかに権力を冷静に効果的に
抑制しながら使ったなんて判らんだろうからな。というか、そういう面
から評価するということも気づかないだろう。
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 17:15:24 ID:lmXrtZCP
家康は関東へ移る際に、居城として小田原あるいは鎌倉を希望したが、秀吉に断られ、代わりに江戸を指定されたそうですよ
>>386 講談本以外にそういう資料はなかったりする。
江戸は関東における最高の要衝と言ってもいい、少なくとも南関東では随一。
徳川が自らの居城にふさわしく大々的に手を加えたのは事実だけど。
鎌倉は伝統はあれど発展の余地が少なく居城としては不向き、
小田原は、要衝ではあるがあまりに隅にありすぎせいで江戸に見劣りする。
389 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 19:52:56 ID:BT64phyh
>>388 とはいえ江戸は沼沢で小さな山々がところどころにあり
とうてい立派な条件を備えていたとも言いかねる。
やはり江戸は秀吉が指名したというのが妥当なところじゃまいか?
自分から江戸を選定するというのも、どうかと言う気が・・
390 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 22:58:59 ID:MXmVRpqp
都市ってのは、自然に出来るもんじゃないから。
江戸が世界的な都市になったのは、間違いなく徳川幕府の功績。
そして、西に偏重していた日本の勢力のバランスを是正したのも
徳川幕府の功績。もし、江戸時代がなければ、東北なんて今でも
未開地に毛が生えたような状態だった可能性は高いよ。
いや、山形秋田あたりはそうでもないだろ
江戸が都市になって恩恵を受けたのは福島・宮城であり
逆に廃れたのは日本海側の地方全部
江戸時代は日本海側のほうが栄えていたなんて聞いたことがあるけどどうなんでしょ?
室町時代の山形辺りの大名って
福島、宮城辺りの大名と比べて圧倒的にしょぼかったけどな
>>392 その通り
だって経済文化の中心が京都にある以上、京都から近江を経て敦賀から海に出れば貿易ルートが確保された
室町時代には港湾都市の総称として三津七湊があげられるが、和泉堺津と伊勢安濃津を除く
筑前博多津、越前三国湊、加賀本吉湊、能登輪島湊、越中岩瀬湊、越後今町湊、 出羽土崎湊、津軽十三湊
がすべて日本海側にあり、江戸時代も北前船の寄港地として栄えている
首都機能が江戸に移った江戸時代でも、経済・文化の中心は依然京都で有り続けた
元禄文化の中心も上方(京都)であり、菱垣廻船や樽廻船も京都・大坂・堺から物資を江戸に回す為のモノ
経済に明るい近世大名である蒲生氏郷や伊達政宗が作った大都市である会津若松、仙台は
消費都市である江戸を近くに抱える事によって、米の生産地として生き残る事が出来た
江戸後期に至ると化政文化を代表に江戸そのものが力をつけ
江戸が経済文化の中心にたり得るに至った。ここにいたり、東西の経済バランスが均衡し始める事になる
明治維新を迎えると、北前船が廃止され、名実ともに東京が首都になったことにより
東京を中心とした経済文化圏が日本の中に誕生し、今に至る
中世の頃はそれほど差がないと思うぞ
鎌倉も室町も東北の中心は太平洋側だった
室町時代、奥州探題大崎氏や一番力があった伊達氏は太平洋側だからな
そりは単に多賀城府や霊山の関係だろう
ついでに言えば関東武士が主体になってる為に
関東に近い福島が軍事拠点になったのだろう
室町時代の北出羽は記録が残ってないせいで
軽視されがちだが万里小路藤房がその身を寄せたり
春日少将北畠顕信が味方にするのに躍起になった土地だからね
戦国期における安東氏の石高は公称五万石+二万七千石だが、
土崎湊の収益を考えると十万石はゆうに越えると思われる
上杉謙信の軍事力を支えてたのも直江津を初めとした北陸の湊の収益であり
安東実季が湊合戦の際に上杉に援護を求めたのも、二つの領国が海で繋がってたからだろう
明治になる頃までは人口でいうと東京、大阪、名古屋の次に金沢だった
>>396 貿易なら日本海側が有利、石高なら南陸奥が有利程度
所詮東北、日本海側も太平洋側も変らん
江戸時代は城下町、港町同じように発展したのだろう
差がついたのは明治中期以降だな
鉄道網が発達してから秋田はオワタ
つーか
中世の頃多賀城とか無い存在
鎌倉時代の延長で大崎はあの辺りにおりたのだろう
1400年頃伊達が急激に拡大し時期と霊山は無関係
多賀城は平安時代から設立されてる。中学校の教科書にも書いてあるが?
鎌倉時代に存在しないわけがなく、軽く扱ってる訳ではないことは
北畠顕家が鎮軍府を最初に置いたことからも判る
大体、大崎氏は足利方の奥州の抑えなのだから、多賀城を意識しない筈がない
加えて伊達氏が大名として勢力を持ち始めたのも北畠に付いて式評定衆になったから
そも、伊達が急激に拡大したときの中心は出羽国置賜で室町期の政宗から戦国期の政宗まで
伊達氏は出羽の大名と言えるんだが?出羽国はまず太平洋側じゃないわけで……そこからして
>>395はおかしい
>>399 うそつけw
置賜に本拠がうつったのは天文の乱後
それまでは高畠城は置賜地方の支配をしていただけだぞ
(直系が若いときに高畠城にいたから勘違いしてるやついるが)
基本が陸奥国伊達郡であったことは間違いないわけで
多賀城は大崎氏の領土じゃないし
平安後期には存在が終わっていたのですが
平安じゃないや
南北朝の終わりだな
東北臭い人は出てけキモスギなんだよ。。今も昔も寒村だろ。
>>400 >>396読めないのか?
多賀城が大崎氏の領土なんて言ってない。多賀城が存在するので、その存在を意識しているといっている
大崎氏(斯波氏)奥州に下向したの頃は北畠顕信が今だ奥州で勢力を取り戻そうとしているし(実際、国府を一度奪回された)
南朝北朝の争いは今だ火種として残ってるのは後の後南朝の騒動を見れば明らか
ともすれば多賀城府を無視出来ないし、南朝の影響力が残る間は多賀城は終わってなんかいない
なんでトーホグの伊達猿はエアリードできへんの?
んー元々は江戸の流通の話だったんだけどね
失敬失敬
移封は失策じゃなかった
秀吉の後継者問題の方が致命的だっただけじゃね?
>>408 後継者問題を上手く片付ければ、
確かに家康一代の間に乗っ取られる事はないだろうけど、
それでも250万石という怪物的な外様勢力が出来てしまったということは、
結局後々問題になったと思うよ。
秀吉としてはお家騒動なんかを煽って減俸または分割する方針
だったのかな?
自分がお家騒動で滅亡してりゃ世話ねえやw
秀康と秀忠なんか家康が後継者決めずに死んでたら揉めてただろうね
そこで豊臣がさらに煽る
後継者は秀忠だったろうけど
秀康を押し立てて分家化ぐらいはやるかもしれん
>>412 そう考えたら秀康を結城姓にしたのはそれなりの深慮の結果なのかもな。
結城氏の地盤は関東だし。
秀康は豊臣に養子に出して
そこから結城にさらに養子に出されたんじゃなかったっけ?
家康にも秀吉にも警戒されてたので
謀反を起こしたくてもどうにもならないような弱小家を選んで継がせたと
隆慶一郎の小説で読んだ事がある
まあ、小説だからアレだけど
>>414 でも秀康は関ヶ原の時に、家康留守中の本拠地の関東を守る総大将に任命されているわけで
家康からはかなり信用されてたんじゃないの?信頼のない人間に留守居役はさせないでしょ?
信頼が無いから前線に出さなかったんじゃないの?
>>416 秀康に任されたのは「もう一つの前線」だぞ。対上杉の。
結果的に戦闘にはならなかったが、上杉勢の関東乱入も戦局しだいで充分ありえたわけで。
上杉は実際に江戸に向けて出陣してたけど関が原の結果を聞いて撤退を始める
そこで最上と大撤退戦をやってるから場合によっては江戸近辺での合戦は充分ありえる
この役目は徳川家一門では秀康以外に出来るやつがいない
しかし仮に秀康が謀反を起こそうと思ってもこの場面では無理だわな
四天王井伊の赤鬼に対して
秀康は青鬼といわれた新の鬼武者だからな(某ゲームより)
421 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/14(木) 21:09:38 ID:VJqV/xio
422 :
0:2006/09/14(木) 21:23:18 ID:/GwskJFy
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 14:04:30 ID:gjHtuyLI
毛利も隆景が生きてたころには実質200万石近くなかったか?
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/19(火) 17:26:27 ID:A0Gnxxpw
秀吉「この大坂城は、たとえ10万の軍勢に囲まれても容易く落ちるものではないわ」
家康「ははっ!まことにもって立派なお城でござる」
秀吉「だがな、一つだけこの大坂城を落とす方法があるのじゃよ、内府殿、お分かりか?」
家康「「それがしにはトンと思いつきませぬ。」
秀吉「そうであるか、内府殿は律義者じゃのぅ」
家康「…恐れいりましてござりまする」
秀吉「この城には我が生涯をかけて蓄えた金銀銭がござる、まずこれを浪費させるのが第一」
家康「…」
秀吉「第二に人がおらずんば戦は出来ぬ、人を籠もらせずに戦をすること」
家康「…」
秀吉「第三に堀を埋め、柵を取り壊したのちに攻め懸ける、これではいかなる名城も一溜まりもあるまい」
家康「は…そのような不埒者が出ぬように、この内府、身命に誓ってお守り申し上げまする」
秀吉「そううでは無いわ!」
家康「???」
秀吉「我が豊臣が天下を保てなくなり、諸国騒乱に陥りそうになったる時には、内府殿、そなたが天下を鎮めて下され」
家康「うん、そのつもり」
秀吉「謀反じゃ〜、このデブを捕らえよ!」
家康「!!!」
秀秋をかばい立てした際に
謀反の疑いをかけ、
とっとと潰してしまえばよかった
>>427 それが出来るくらいの実力があればしてたんじゃない?実力があれば、ね。
いくらでも出来るけど
>>429 出来て無いじゃんw 出来てないものを出来るとは言わん。
飯田隆『言語哲学大全』II、IIIを読みたまえ
ああ、指示理論の勉強のためにIIIを読み直してるところだよ
うむ、あれは名著であるな
四国全部はどうよ?
結城とかに20万石もどっかやってさ
>>434 四国は畿内に近すぎ。淡路島渡ったらもう京大阪だ。
家康を関東に移したころは、秀吉は自ら明の皇帝となり、
日本は秀秋か秀家に治めさせるって妄想抱いてたくらいだから、
関東250万石など屁とも思ってなかっただろう。
437 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 02:04:24 ID:iyJEkQdm
秀吉は家康を遠ざけ、家康が、強大化するのを
恐れたあまり、江戸に放逐したといえよう。
当時の江戸は沼地が多く、人もすんでおらず、
開拓整地するだけでも非常に時間がかかり、
家康が苦労している間に豊臣政権を磐石な
ものにしようとしたのではないか?
事実、家康は江戸経営に、埋め立てから始めねば
なら成ったし、非常に苦労したと思うよ。
普通なら、三河にもどしてくれ。というとこだ。
そしたら徳川討伐と相成ったであろう。
それこそ、秀吉の望む所、しかし、家康は沼地を開拓し、
田園をつくり、人のすめる土地に改良して、みずから250
万石にしたのだから、大したものだよ。秀吉も驚嘆したろう。
都落ちして、しばらくは失意のどん底にあった家康は根性
があったな。家康を関東に放ってから、豊臣は強くなったからね。
しかし、秀吉は狂ったのだよ。それにつきる。
438 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 11:06:46 ID:NvcnbtU+
鹿児島がいいじゃん!
島津は関東
439 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 11:30:13 ID:0vV6wpkt
関東ではなく蝦夷が良かったんだよ
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 12:06:42 ID:UsbGKgTt
>>437 家康は関東を与えられて感激のあまり涙をこぼしたそうだが?
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 12:21:35 ID:aS+tCUMt
>>437 >当時の江戸は沼地が多く、人もすんでおらず、
>開拓整地するだけでも非常に時間がかかり、
当時の江戸は、江戸湾を中心に栄えていたのでは?
当時の江戸が寒村というのは違うと思う・・・・
442 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 13:22:57 ID:K89fnil8
>>438 大陸視野に入れてた頃だから
九州の大名はあんまり動かしたく
なかったんだろうな
あと、島津はどこに移封しようとしても
必ず抵抗しそう
>>440 真意は判らんでしょ
>>437 大田道灌の江戸城や浅草門前町、品川の港はどうなる。
当時の江戸は関東有数の港町だった。
>>443 海外の船まで入港していた小田原の方がはるかに上。
当時後背地域の無い江戸はあくまでローカルな存在でしかない。
今の東京が発展したのは100%家康以降の、徳川家の営々とした努力の結果だ。
秀吉は江戸の湿地帯の中で家康が立ち腐れる事を心から望んでいただろうけどな。
秀吉はネタで「江戸はエ〜ド〜」って言ったんだぜ。
「有り難き幸せ」と、家康がマジレス
江戸は広大な湿地帯
江戸湾は広大な遠浅の海
品川は小船で漁をする程度の小さな漁港
家康が最初に建設した江戸城西の丸はたびたび洪水にあっているし
江戸の町は水浸し→乾く→泥が粉塵になり飛散するという最悪の環境だった
江戸の商店などは本店が京や大坂にあり、江戸支店には男しか赴任させなかった
だから江戸は男ばかりの西部劇のような町だった、当然治安も悪い
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 16:59:05 ID:y/3tP3Wo
>>444 小田原の方が発展してたのは事実だが、
氏康、信玄以来の伝馬なども既に発展してたため
江戸付近も宿場などはかなり発達していた。
これは後の江戸の四宿などの成り立ちを見てもわかるし、
関ヶ原以後に制度化された伝馬制の基礎にもなってる。
またそれぞれの土地は既に北条の代替わり検地により
土地の整理もされていたし、発展させる地盤は既に出来ていたよ、
江戸にしても。勿論そこから更に発展させたのは徳川家だし、
北条の残党にも苦しみ、また低税金からの引き上げで民からの反発もあったり
大変だったのは事実だけど、100%徳川の努力は言いすぎ。
>>446 太田道灌の頃から港湾としての記録が残ってるし、
隅田川付近の拡張工事が行われた記録も残ってるぞ。
また男が多くなったのはむしろ家康が江戸の大工事を始めるために、
関東中の次男などのあぶれ者を集めた結果だったはずだぞ、
その影響で吉原などの女郎宿も発達していく結果となった。
それ以前から男が多いなどと聞いたことが無い。
というか北条家が治めてた時代から商店の本店が京や大阪って
違和感を感じないのか?その持論。
>>448 お前よく「アホ」って言われるだろ?w
家康が江戸城西の丸を建設した時代に「北条氏」かwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
wwww
wwww
w
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>447 北条期の江戸と、関東の、そして日本の首都として育成された江戸とは質的に意味が
違いすぎると思わないかね?宿場として発達していたと言うが、それは関八州を統べる都市に
相応しいほど発達していたのかい?あくまで地方の町村レベルでしょ。都市ですらない。
移封された当初、徳川家臣を収容する事すら出来なかったのですよ、江戸と言う街は。
それを日本国首都として機能するほどの都市に作り上げたのは徳川氏ですよ。
そういう意味で100%徳川のおかげと言ったわけです。徳川の治世を過小評価したいのなら
別の結論になるのでしょうが。
>>449 俺の文章の意味がよくわからなかったらしいね。
>>446の前半に関しては普通にレスしてるが
後半に関しては平たく言えば
「スレタイ読めアホ。」
って言ってんだよ。
>>450 徳川家康の治世に文句をつけるつもりなど無い。
ただ
>>443のレスに対する
>>444で100%まで言い切っちゃ言いすぎな事ぐらいわかるだろう?
関東の土壌を作った先人に対する礼儀ってものは無いのか。
それと単純に
>>443の既に関東有数の港だったというレスの裏づけでもあるわけで、
それを100%などと言って先人の努力を切って捨てる意見さえ撤回してくれるなら、
徳川家の政治に文句をつけるつもりなど無い。
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 22:39:59 ID:Bmb/QTsI
443殿。太田銅管の江戸城は土間ばかりでござったぞ。
およそ、城とは呼べない小屋同然の城でござった。
港町といってもさびれた一種の漁村ですよ。
何もなかったんですよ。普通は『三河に返してくれ」
というとこですよ。それを関が原以降も干拓を続けて
三河から住人移住させて、見事な首都にしたのは
徳川家康だったからこそじゃ。『不遇』を逆手にして
『これこそ、天運。わが伸び行き所得たり」と思えたのは
家康だったからこそ。普通の大名なら「謀反」をおこすとこ
だよ。実際、石田三成は、小田原参陣で何回も徳川の豊臣と
に対する『背信、謀反」を秀吉に訴え、そのつど,浅野長政
や織田信雄の調停でことなきをえているのだよ。
キチガイの言い訳はもういいよ
スレの無駄遣いはやめろw
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 23:15:38 ID:Bmb/QTsI
家康は叔父,清康。父、広忠。妻、築山御前。長男、信康。
という甚大な犠牲の上で、天下を取りえたのだよ。
しかも少しも取り乱すことなくな。そんな不遇ヲ天が
家康に味方したとしか考えられない。頭のよさなら、
石田の右にでるものはいなかった。関が原家康包囲陣も
なかなか、立派。古来、ハンニバル対ローマ帝国ののいくさ、
また、ナポレオン対ウェリントンとのいくさで、石田のように
陣をして、ハンニバル、ウェリントンは『待ちいくさ」で敵に
散々、攻撃をさせて攻めつかれたところを側面から攻撃して、
全包囲戦で敵を皆殺しにしたのだ。全く関が原はおしかったな。
どうかんがえても西軍が負けるはずないいくさだったよ。
455 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 23:25:33 ID:Bz+6N7AS
Bmb/QTsIは色んなスレで見るが
よっぽど手先が不器用なんだと感じる
完全に後世からの視点の話だが、
東海筋に中途半端なやつらポツポツ置くより、
信頼出来るやつをでっかく置けば良かったよな。
(まぁ、堀尾山内等も当時は信用できると思ったのだろうが)
>>457 東海なんて要地にでっかいのを置いたら、そいつがまた豊臣にとって脅威になるって事じゃ
ないかな?もしかすると池田勝入が生きていたらでっかく置かれたのかもしれないけど。
氏政も氏康も氏綱も江戸に代官置いたり、自身が統治したりしていなかったか?
当たり前、今時まだ江戸が寂しい漁村だったとかいう徳川史観を間に受けてる阿呆がいるとは心底驚き。
とはいえ家康の努力も実績も素晴らしいし変わる事も無いのに、
くだらん過剰なマンセーは家康も迷惑だわな、
小田原戦で、北条の扇動に乗って織田と徳川が謀反すればよかった
>>460 厨は「全肯定」と「全否定」しか考えられないからだよw
463 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/11(水) 23:37:03 ID:qVD1uxn6
江戸は消費地であって、生産地ではない。
当然、上方から船で物資を輸送すれば売れる。運んだだけ売れる。
上方から見て江戸は巨大な胃袋であった。運んでも運んでも足りない。
上方で商品を作り、運び、江戸でそれを消費する。
そういうサイクルが出来ていた。江戸が栄えたのは武家という一大消費階層が
どっかりと腰を据えていたからであり、それは徳川の治府があったからであり
決して関東平野が肥沃だからとか、関八州が最強だからというわけではない。
商品開発や流通経済は大坂を中心とした上方が依然として握っていたのである。
ただし、それらが発達した要因は江戸という途方もない空腹の胃袋があったからであり
双方が依存関係にあったからである。昭和は暗黒の時代だった。 BY 司馬遼太郎
司馬ってとことんウザいのね。
転封しなかったらもっと失策じゃない?
転封がなく領地がそのままだったら家康が自分で江戸に行くわけはないので
駿府幕府が成立し時代の名称も駿府時代と呼ばれていたかもしれない
確かに江戸期の江戸が一大消費地であったのは事実だが、
まるで上方だけが供給源みたいな言い方は、なんか作為を感じるなw
まぁ小説を書く以上それっぽい情報を載せてそれっぽくした方が
盛り上がるのもわかるんで、司馬の責任では無いわな。
それを史実と勝手に勘違いして信じすぎる事が問題なのであって。
469 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 01:22:42 ID:ybDVXNGS
>>467 たとえば出羽の紅花だけど、半製品までは現地で出来た。
それによって出羽の農民は流通経済の概念を習得できた。
だが、依然として出羽では紅餅にするまでしか出来なかった。
京に運んで紅として完成する技術がなかった。
のちに出羽の農民は中間に入った商人を排除し、自身が商人的色合いを帯びてくる。
出羽とは不思議な土地で紅花を通して江戸期の流通経済に参加した稀有な存在である。
その出羽の農民層から最上徳内という不思議な男が出てくるのは必然であった。
司馬はこんな感じに書くんだよね。南部は南部鉄器とかあったのに何故かボロクソ言われるし。
南部盛岡藩は司馬の中では最悪の存在らしい。近江商人にめちゃくちゃにされたことになってる。その通りだけど。
松前藩は流通経済に参加してたけど領民の血を吸い上げる悪党のように書かれてる。その通りだけど。
会津藩は会津塗りにケチを付けられてるし、長州藩は下関について罵倒されてる。鳥取藩なんかセコく書かれすぎだ。
司馬は武士がキライなのか?と思うと一転、好きな薩摩芋は綺麗に書くんだよなぁ…。結局、あいつの好み次第なんだよね。
そんなに言うならお前が統治してみろと言いたい。あいつ信長の野望やったら謙信で突撃繰り返すタイプだよ。不粋の極みってやつ。
スレ違いも甚だしいが
南部藩は寒冷地で無理して米を作って大飢饉を起こした
藩の中でもワースト3に入るくらいの最悪の藩ですよ
一揆多かったからな
ただ、幕府に北の警備を命じられて、その上10万石から20万石に格上げされたのは哀れ
正直、幕府に義理なんて無いのに戊辰で幕府につくあたりがアホだが
>>471 そりゃあ東北は佐幕派一色だったからな。一つだけ裏切るような真似は出来ないでしょ。
そんな力も無いし。まあ最終的に東北管領と言ってもいい仙台藩がコロっと方針転換して
同盟崩壊したがw
つ 久保田藩・三春藩
南部藩の大名行列が江戸に近づくと商人が借金取りに殺到したそうだなw
家康はどこに転封されようが天下取ってたんじゃね?
別に関東に移したからって秀吉の失策って訳でもないだろ?
包囲網もそれなりに作ったし
476 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 23:41:18 ID:1IGm7Dur
名は体を現すとはよくいったもんだ。
光秀、三成とか、みつなんとかは謀反
出つながってるね。秀なら、最初なら
天下様。徳川家康は見事な名前だね。
何か、飛行機事故で、男性一人だけが
生きてた話があったが、その人の名も
「徳なんとか、だったよ。石田も相手が
悪すぎたね。石田佐吉なら、商人として
成功してたんじゃないかな。名は体を
現すとはほんとうのことだね。
477 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 23:51:30 ID:T1vk+VuJ
結果論極まりないな
478 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/13(金) 10:45:17 ID:bsb8SaHG
479 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/13(金) 13:54:49 ID:mM2729mg
秀吉は家康を上方から遠ざけたかったんだと思う。家康が関東で謀反しても東海道ぞいには中村、福島、堀尾、山内ら豊臣恩顧の大名が防ぐみたいな。
480 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/13(金) 13:59:01 ID:rJRYGmZY
その程度はこのスレの住民は周知では?
481 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/13(金) 13:59:06 ID:mM2729mg
だから関ヶ原の時どうしても石田
482 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/13(金) 14:21:32 ID:avyMxCnh
東北にすればよかったのにね。政宗と交換で、そんで政宗に天下を取られてしまう。
家康ごときに取られるぐらいなら、よっぽど政宗の方がよいぞ。政宗なら日本は
正反対なオープン国家にしただろう。しいてはアメリカとあんな戦争せずに済み、
先進国家として早くから位置付けられていただろう。モレも勝ち組になったかも
しれぬぞよ。という、いちウジムシの叫び。
| | | | | | | | | | || | |
| | | レ | | | | | J || | |
| | | J | | | し || | |
| レ | | レ| || J |
J し | | || J
| し J|
J レ
ァ ∧_∧ ァ,、
,、'` 。゚( ゚^∀^゚)゚。,、'`
'` ( ⊃ ⊂) '`
484 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/13(金) 18:09:12 ID:IGTckeK3
伊達は駄目だな
一門衆が強すぎる
一門衆が弱いトコってあんまり聞かないけど…
徳川は一門衆が比較的弱いトコじゃないかな?
このスレのソースは小和田哲男だろ?
関東は昔から独立国を保ってたとか言う
>>1は小和田哲男に対する自分の意見を言え
486 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/13(金) 22:22:34 ID:+7d386wP
>>484 家康の場合は関東移封とかで地生えの故地から切り離されたおかげで
そういった再編成が可能になったんだろ。
家康にとって関東への移動は、
豊臣の脅威から離れられる。石高が倍増する。
家中を中央集権に再編できるといったメリットがあった。
もちろん未知の地へ写るという不安要因があったが・・
>>486 そーいや転封を機に酒井や鳥居、平岩などの旧来の譜代重臣や一門衆の力削いで
三河衆ではあるけど家康の代から台頭した本多、榊原、大久保や他国人の井伊などの
地位を上げたんだよな
488 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/14(土) 09:21:37 ID:TT0XQrLF
朝鮮出兵を期に、朝鮮をやるかわりに関東を召し上げるって言い掛かりつけとけばよかったじゃん。
朝鮮出兵にそもそも反対してる大名には無理だろそれは。
やる気満々の筋肉コンビならともかく。
490 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/14(土) 09:44:47 ID:TT0XQrLF
狸:領国の整備がいそがしいので・・・。
猿:えっ?ワシが明国を取った暁にはお前さんには朝鮮をやろうと思っておるのだが。
嫌と申すか?国力を高め、謀反を企てておるのか?
狸:とんでもございません。喜んでお受けいたします。
猿:ではこれより、関東を召しあげ、朝鮮をとるまでは佐渡をあたえておこう。狸:ははぁー。
朝鮮は取れなかったので狸は佐渡で生涯を終える。
そんなに家康はへりくだってない、
朝鮮出兵には普通に反対してるし、それは普通の大名家の主君と家臣でも同じだろう。
492 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/14(土) 09:56:43 ID:znJ29tac
家康の朝鮮出兵反対を口実に、徳川家取り潰しをすればよかったのに
でも、石田三成とか前田利家らも反対してるので、
そこで徳川と戦争にでもなったらなんだか微妙な構図になりそうな・・・。
それに朝鮮出兵直前に関東へ左遷したのは他ならぬ秀吉だしな。
>>490 上杉景勝程度でも、そんなことを言われたら挙兵したじゃん
家康を舐めるのも大概にしろや!
>>495 秀吉厨って、正気がどうかは知らないが、家康さえ殺しておけば豊臣政権が続いたと
思い込んでるハッピー脳が多い割に、家康を異常に過小評価するよね。そこがすでに
自己矛盾だということを理解できてないんだろうな。
家康がいなかったら誰が天下を取ってたかね?
輝元か?利家か?どれも天下人の器じゃないな。
家康がいなければ再び群雄割拠に突入したんじゃない?
利家は何故にあそこまで秀吉に忠義を持ったのだろう?
五大老の中で誰よりも秀吉なしではあの地位を築けなかったと言う事を、
利家自身が判っていたからじゃないかと。
五大老といっても実際秀吉にあれこれ言えたのは家康、隆景くらいだからね。
利家は織田家臣のとりまとめ的な存在として重用したのだと思う。
500 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/15(日) 11:23:01 ID:XO6GpkPA
そりゃあ苦労に苦労を重ね、上司裏切ってまで元同僚の機嫌とって
やっとこさ政権の中枢と大領土の主という美味しい位置を占めたん
だから、死に際になってそれを脅かす事態が起こるのは嫌だろうさ。
家康の利長に対する対応を見てもわかるが家康は前田家も潰せるもん
なら潰そうとしてたみたいだし。
利家が生きてたら家康の政権掌握もあそこまで上手くは行かなかっただろうね
>>501 もっと早く、上手く行った可能性も、ある。
503 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/15(日) 16:50:20 ID:2d3Z2CE8
前田利家が、『結核」の特効薬、ストレプトマイシン
が当時、有って、それを飲んで、元気になったら、
家康を再度、呼び出して『豊臣に対する叛意、明らかなり、」
とすれば、どうしたろう。時を見て、豊臣連合軍にて伏見城
攻めにて、家康の腹を切らせたであろうな。
まあいち早く、それを察知して、家康も東国に返っていくさ
じたくで、第二次、豊臣対徳川のいくさが開始されたであろう。
これは結構長引いたことも考えられる。このいくさなら、
石田は、権謀術を駆使して,元々の参謀長的役割と早期伝達
と朝廷工作、寝返り工作もうまくしたろうな。
参謀長的役割の物が大将をしたところに悲劇はあったと思う。
504 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/15(日) 18:29:20 ID:hU+nGVu+
利家は人望あったけど野望がないからなぁ
>>503 三成は何もしない方が豊臣のためになったな。
んでも、大野治長とかよりかは好き。
大野三兄弟(笑)
・・・悪い奴ではないんだよ
意外に気骨のある奴なんだよ、
そんなにせめてやるなよ
507 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 11:14:27 ID:V3c3Lj+k
利家は秀吉に義理は有っても家康には義理は無いしな
三成も利家に取り入ってはいるが、味方になるほどでも無いようだし。
三成=豊臣家ではもちろん無いので、生きてて三成武闘派の仲介してやれば
まだ、三成も激発はしなかったかな。
利家が政権ってイメージ無いなあ、家康は東北の処理したり
唐入りの後方支援手伝ったり政治にずっと関わってるからな
やはり、秀吉死後は内府に託されてるね。
家康は豊臣を助けようと色々やってるが、家康譜代には秀吉は恨まれてたからな。
関東移封で家康はそれなりに納得してるが、譜代達はさぞかし秀吉を恨んだだろう。
それが大坂の陣まで尾を引いてると思う。
>>504 人望は有っていい兄貴、親父分なんだろうけど
野望と言うか実績が足りなさ過ぎる。
家康は実質従属とはいえ独立した大名。
本能寺のどさくさに紛れてとはいえ
たった三年で甲信を平定し自力で140万石を手にし
その上、あの秀吉にも対等に渡り合って
軍事的には屈していない。
それに対して、利家は末森城の後詰が最大の武功で
自力で越中を手にした訳ではない。
509 :
ななしさん:2006/10/16(月) 16:04:17 ID:XSfiEQI6
豊臣がつぶれなくても淀君と秀頼じゃあ豊臣の存在価値ないね
家康は俺も嫌いだが戦争を250年なくした功績はすごいよ
江戸時代の功績を全部家康に還元するなよw
>>510 家康がいなければ江戸時代は存在しませんでした。
もちろん平和な時代を維持し居続けた幕府も評価すべきだが、
それをつくった家康は、歴代将軍でもやはり別格
そして、日本は有史以来初、海外に技術も文明もすべからく大変な遅れを取ったわけだな
でもって明治大正とやけくそのような政策を繰り返さねばならず、太平洋戦争につながったと
それと江戸時代の藩の固定化による地域格差は悲惨だな
これから今の日本も地域格差社会に突入する訳だが……
日本全国何処へでの移住できるだけの金は貯金しとかないといけないと
江戸時代の記録読むたびに思ったりする
>>513 >有史以来初
おいおい、じゃあ聞くが鎌倉時代やら室町時代は海外と比べて何か優れたものがあったのか?
糞の都パリより文明的だし
江戸期の人口分布も現代の東京一極集中に比べればましだからな
もちろん自分がタイムスリップするのは御免だが、時代なりだし
つか明治大正の愚行まで他のせいにするなよ
>>513 家康は天皇が現人神で命を捧げなさいなんて妄言は吐いていない
吐いたとするなら水戸家と薩摩・長州の連中だな
玉砕特攻の責任はこいつらのせいってことか?
寧ろ禁中諸法度で日本史上初めて天皇を法にて規制した人間wwwwwwww
>>513 司馬遼太郎の昔の史観そのままの家康評価だね、君。
司馬さんも晩年は家康をちゃんと評価していたよ、曰く「仕えるなら家康」だってさ。
まあ、現在の観点から見て鎖国が良かったか、悪かったかの議論はスレ違いだな
俺は良かったと思うがね
ただ、江戸時代は長く続きすぎた
>>513 鎖国といっても完全に遮断したわけでもないし、徐々に緩和されてますが。
むしろ幕末〜明治維新を根底で支えたのは、
当時世界でも驚異的な識字率の高さと基礎計算能力だと思うがな。
特権階級に限らず、あれほど民衆が教養を持てたのは平和なればこそ。
鎖国は家光だし
文治化政策は綱吉頃
庶民の充実は吉宗
522 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 02:20:48 ID:uIo+/pcz
_、_
( ,_ノ` )y━・~~~
江戸の町の整備も家光から家綱の時代だしなー。
途中から開放が理想だが無理か
家康治世当時の東アジア情勢なら、鎖国、というか貿易制限は止むを得なかった
と思う。旧教国の侵略意思は明確だったわけだし、信長時代に仏教系の秩序徹底
破壊しているから東南アジア諸国のように、簡単にキリスト教にそまってしまう
素地は充分あったんじゃないかな。
ただ家康の政治力と初期幕府官僚のシステム構築力がすごすぎた。
何百年単位で続くほど完成度が高かった。それで世界から置いてかれたわけで
その責任を家康に求めるのは酷な気がする。
>>525 家康は鎖国や貿易制限などしていませんが
「当時の東アジア情勢」って何?
遅れをとったといっても、産業革命から数十年程度。
維新後あっという間に追いついた。
戦前も戦後も世界のトップクラスになっている。
何が不満なんだか。
>>527 追いついたってのはイタリアくらいのレベルでしょ?
海軍が世界bRって言っても国力はイタリアと同レベル
日本はロシア、アメリカと勝負しなきゃなんねーんだよ!!
こーゆうへたれを見てるとマジむかつくは!!
>>528 ∩___∩
/ ノ \ ヽ
| ● ● |
彡 (_●_) ミ
/、 |∪| ,\ この鮭の切り身やるから帰れよ
/.| ヽノ | ヽ
,,/-―ー-、, --、 .|_,|
r-、,'''";;:;;:;::;;;;:;;::;:;:;;::;:;`'- /_,l,,__ )
|,,ノ;;:;r'" ̄ ゙̄^"`Y'-、;;;::;:;::;:;:;:;::;:|
.ヽ,′ ; `"";;;;;⌒゙')
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| .‖ /
("___|_`つ
無知だな、イタリアよりも国力は上だよ
もっとも大日本帝国のアホ軍人の脳みそではどれだけ国力があろうと
最後は負けて終わるのが運命
>>528 戦前は軍事力を競う時代だった。、
その時代に軍事力でトップクラスになった。
戦後は経済力を競う時代に変わった。
そして経済力でトップクラスになった。
そう馬鹿にしたものじゃないだろ。
もちろん、上には上がいるのだから、満足して良い訳じゃないが。
>>531 ∩___∩
/ ノ \ ヽ
| ● ● |
彡 (_●_) ミ
/、 |∪| ,\ この鮭の切り身やるから帰れよ
/.| ヽノ | ヽ
,,/-―ー-、, --、 .|_,|
r-、,'''";;:;;:;::;;;;:;;::;:;:;;::;:;`'- /_,l,,__ )
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.ヽ,′ ; `"";;;;;⌒゙')
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| .‖ /
("___|_`つ
天下は誰かが統一してたかもしれないが、
家康じゃなければ、江戸で幕府を開こうとは思わなかったと思う。
信長も秀吉も結局は京を中心に考えてるし、その付近が栄えていくに過ぎない。
そのまま400年経っていたら、日本そのものがどういう社会になっているかはわからないが、
東西の格差は今とは比べ物にならなかったろう
その固定概念を壊し東国を発展させた事は、むしろ日本全体の安定した発展に
多大な恩恵を与えたと思う。
534 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 23:08:16 ID:zKWO1PKp
>>528 君の意見を「正」とするには鎖国しなければ日本の国力がアメリカを
凌駕した可能性があったことを証明せねばならんのだが。
馬鹿を見てるとマジむかつく「わ」www
>>528 いいか小僧、良く聞け
鎖国で日本が遅れた、と言うのなら、国を閉ざしていなかった西アジア、アフリカ、インドは
何故西欧にかなわなかった?
西欧が強くなったのは1にも2にも金の力だ。その金はどこから来たか?もちろん新大陸から
ただ同然のコストで略奪してきた金銀だ。それまで辺境の、貧乏で小さな、キリスト教と言う
マイナーな教義のみで固まっていたヨーロッパと言う地域が、突然他地域の想像を絶する
大金持ちになったのだ。
彼らはその溢れる金の力で世界各地に進出し、また内域的には産業の機械化を行った。
産業革命だ。
これを勘違いしている人間が多いが、蒸気機関や電力などは西欧の発明ではない。
古代ペルシァやローマではすでに電気も蒸気の力の利用も行われていた。ただ、それを産業化
することは無かった。何故か?人間や動物の力を使った方が、安上がりだったからだ。
世界帝国であるペルシァやローマであってすらも、わざわざ莫大な金をかけて機械を作り
それを燃料を購入し起動させ物を作るなんて、コストに合わなかったのだ。
そのくらい機械と言うのは金がかかるのだ。それを可能にしたヨーロッパの金の力とは
暴力的と言っていい。
日本にアメリカ大陸がなかった以上、ヨーロッパ的な発展は不可能なの。金が無いからだ。
とくに徳川時代の支配層は、民間から金を吸い上げる事をしなかったから貧乏だった。
どのくらい貧乏かと言えば、支配の頂点に立つ将軍家が、その日の食事にも倹約するくらいだ。
だが、それこそが民間に資本を蓄積させ、明治になって政府の主導の下、日本資本主義を
花開かせたのだ。
鎖国をしようがしていまいが、出来ないことは出来ない、と言う話だ。わかったか?
536 :
名無し募集中。。。:2006/10/19(木) 03:35:33 ID:mkxgoPOu
おれも秀吉は微温的だと思う
おれなら家康は怖いから青森や対馬にでもとばした
家康は一貫して秀吉には面従腹背だったんだろうなあ
537 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 10:04:23 ID:u1lBMfgH
>536
小田原役直後に家康をどうやって減封させるの?
東海五ヶ国の大主を一気に減封させるなんて、よほどの落ち度が無いとできるわけがない。
織田信雄は、転封を拒否したってだけ全てを失ったんだよなあ。
芝居なら打てそうなものだけどなぁ。例えば信雄を甘言で惑わし挙兵させ
豊家に反逆した罪とかなんとか
家康がそんなアホな策にはまってくれるんならこれほど楽な話もないが、
逆にそんなアホなら策にはめる必要性もないな。
ま、小田原の恩賞を伊豆一国くらいにしとけばよかったというのが俺の感想なんだけどね。
それに尽きる
それって東海にそのまま居座る上に+10万石ほどの加増って事?
家康は嬉しいと思うぞ、それは。
関東に移して、+30万石ぐらいが妥当じゃね
大して変わらんな、東海・甲斐・信濃の時点で最低でも150万石以上あるんだから、
結局200万石ぐらいにはなってしまう。
徳川240万石って言ったって、家康が増やしたぶんもあるんだから、普通にやっぱり増やすだろう。
人口的にはどうなの?三、遠、駿、信、甲と関東では同じぐらいなのかな?
>>544 信濃は半分ぐらいだよ
北信濃川中島4郡は上杉領で
小県の真田は秀吉に臣従している一応独立の大名
計算すると徳川は
駿河15万石遠江25万石三河30万石の東海3ヶ国で70万石
甲斐22万石
信濃半国で20万石
の計112万石程度だったはずなのに・・・
>>545 やっぱり石高なりじゃないの?
江戸の街づくりに関しては、三河人と少しの遠州人が合わせて10数万とか移住したんだし
その連中と出稼ぎ土方がいればいいんだから、家康なら東海も関東も関係無いと思うけど
では家康の蔵入を分散させて飛び地を与え、累計して加増させるか。
小田原終了時点では参戦拒否大名が東北・関東に集中してるから
関東を丸ごと与えるよりも、そのあたりに徳川領を分散させるとか
スレ違いだが・・・
>>古代ペルシァやローマではすでに電気も蒸気の力の利用も行われていた。
ほんと?いつ頃から電気が利用されていたの?
太閤検地の換算で家康の関東の新領土は250万石あったのかな?
>>550 どうなんだろ?佐竹や里見などにもあれだけ削り込んでた北条家でも
220万石と聞いたことがあるから、それ以上って事は無いんじゃない?
552 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 23:42:40 ID:5VVvh7X+
大体が、小牧、長久手で秀吉が、秀次のために、
家康に負けてから、小牧山に入った家康に対し
『今日はもう、日暮れだから、夜明けと共に
城攻めしよう」などとのんきなことをやってたことが
もう、だめ。その間に、家康は夜中、小牧山城を出て
野陣に戻ってしまった。柴田勝家の時のように、
城を夜襲して炎上させて、勝家を滅ぼしたからこそ、
秀吉政権の基礎ができた。なぜ、家康には甘かったのか?
家康が城から出たことを朝、知った秀吉はためいきをついて
「ああ、家康という男。餅でも網でも取れぬ名将よ。日本
国中さがしても二人といまい。ああ、こんな人を一度で
いいから、余に頭をさげさせてみたいものだ」と感嘆
したという。何のことはない。家康を逃がしてやった
みたいなもんだ。『家康、お前の器量をみてやる。
お前がばかなら、城にこもったままだろう。そしたら、
俺は明日、お前を討ち取る。お前が、かしこけりゃ、
夜に城でるだろう。どうじゃ。ひとつ、ためしてやろう」
とね。でも、逃がしたと一緒。
石田三成は『秀吉の後継者が家康と聞いて、真剣に
豊家の存亡ヲ杞憂したとある。」
553 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 23:54:09 ID:5VVvh7X+
548様。秀吉のやり方は、元々が
譜代がないため、外様にいったんは
「あめをねぶらせて、いい目をさせて
臣従させる必要があったのよ」
その上で、失政あれば、きびしく責める。
このやり方で、佐々成り正や、千の利休
もひっかかったろう。なんせ、秀吉に逆
らって死刑のはずの佐々成政に肥後一国
、50万石も与えタンだからな。成り正
自身が、「なぜ、自゛分の命は助かるのか
?不思議がったという。それだけではなく、
肥後一国50万石も与えた。普通はびっくり
する罠。これが、ひとたらしの真髄、秀吉の
やり方。討伐には大儀、名文がいるからな。
佐々成政信長には可愛がられたからのう。
むやみに殺すと、信信長派家臣がどうでるか
わかったもんでない。そこまで計算して、
やってるのよ。秀吉という男は。
家康は違う。譜代が多い。だから、
外様にはきびしく処断した。
なんでそんな日本語が変なんだ?
つーかお前はいい加減無駄な改行は止めろ
556 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 17:54:20 ID:3KC14gkz
家康が関東行って初めの石高は120万程度だった読んだ。
ソースは小説だけどw
関東平野開拓したのは家康の手腕だね
>>546 駿河15万石遠江25万石三河30万石
もうちょい有るはず、
今川時代に駿河遠江三河で米以外だが合わせて160万石は無いと4万の兵力は動かせない。
1万石につき250人で計算でだが。もちろん外征に4万だから国内にも数万は残しておかないとまずいし
まあ、戦闘員以外合わせて4万って説もあるが
http://www.asahi-net.or.jp/~me4K-skri/han/toukai.html 色々ググってこんなの見つけた
足しても三河で20万しか無いし少ない気がする、米だけかな?
徳川忠長は駿河中心に55万石だしな。江戸時代石高の詳しい無いものかね
>>556 今川時代は金山とか商業とかで儲けてたのでは。
今川滅亡と武田の浪費で、それらは期待できない。
石高だけなら、貧相な土地だろ。
558 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 19:50:38 ID:6bT1Dqih
北条領が全土で270万て話をきいた。
それは里見や秀吉来襲時に佐竹や宇都宮についた豪族を含めてのものだろうね。
北条の勢力範囲は小田原征伐開始時に北条についた豪族までにするべき。
やはり220万石くらいになるんじゃないかな。
>>556 太閤検地だとだいたい
常陸53万石下野37万石上野50万石
上総38万石下総37万石安房4.5万石
武蔵67万石相模19万石伊豆7万石
甲斐23万石信濃41万石
駿河15万石遠江25万石三河30万石
これは調べれば簡単に分かる
>家康が関東行って初めの石高は120万程度だった読んだ。
>ソースは小説だけどw
>関東平野開拓したのは家康の手腕だね
それは小説の作り話だろう。
本能寺後、北条は相模伊豆武蔵・上総下総の大部分で5万を超える兵を動員して
滝川を破ったとされる、また滅亡時にも対豊臣家に備えて10万とも言われる兵を
動員している、それ以外にもいろいろ、
家康が来る前から太閤検地程度の石高はあってもおかしくない。
>今川時代に駿河遠江三河で米以外だが合わせて160万石は無いと4万の兵力は動かせない。
>1万石につき250人で計算でだが。もちろん外征に4万だから国内にも数万は残しておかないとまずいし
>まあ、戦闘員以外合わせて4万って説もあるが
2万5千という説もあるが、石高から推測するならそちらの方が自然、
三国同盟で背後は安全だから河東以外の地域から動員すれば、
それぐらいの兵は動員できるはず、前年から準備をしているわけだし。
また1万石あたり300人というのも割と平均的な軍役でそれ以上の動員が不可能なわけでもない。
>足しても三河で20万しか無いし少ない気がする、米だけかな?
単に大名領以外があるだけだろう。
ついでに石高とは米の取れ高じゃなく、その土地から得られる物を米に換算した額で
元々米以外の収穫物も入っている。
何が入るかは地域によって違ったりもするようだが。
江戸時代で石高に詳しいのは
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/ の旧石の石高
ついでにマナーとして直リンはしないほうがいい。
564 :
556:2006/10/22(日) 16:44:46 ID:7szhBffk
>>561 ありがとう、助かります。
石高と特に実収が載ってるのは参考になるわ
小説だと、4万を逆算して150万石にしたりしてたのかな?
結構いいげんだったなw
しかしいくら何でも秀吉
112万石から220万石って気前良すぎだろ
それとも5カ国の大名から6カ国の大名にした程度にでも思っていたとか
検地して非常に関東が豊かなこと知って後で慌てたとか・・・
566 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 19:02:08 ID:xso6/T1A
失策ってのはあくまで結果論だろ。
少しでも大阪から遠ざけておきたいのは別におかしな発想ではないし。
失策失策と言ってるだけで代替案がほとんど無いが、では何処に移封すればと。
あれだけの石高をもつ家を移すとなれば旧北条領以外に手は無い。
567 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 22:29:14 ID:YVjVH+L/
急な身代の膨張とそれに伴う混乱、新地撫育にかかる費用と治安の悪化
などなどマイナス要因から徳川が自己崩壊起こすか、少なくとも家康の
中央に対する影響力は当分削げると判断したんだろうな。
>>568 加えてちょっとでもゴネるようだったら潰せる口実になるし。
四の五の言わずサッサと移ってしまったのは秀吉にとって
正直肩透かしだったんじゃなかろうか。
>>565 220万石は安房や常陸の一部も入る北条家の石高なので、200万石前後だろう。
で、まぁ実際の所、東海に据え置きだったとしても、
3〜40万石の増加はやむをえないよ。
結局小田原征伐までの間で、一番功績があって、
なおかつ苦しい所で同盟関係になってくれた上に、婚姻関係まで結んでいる徳川家に
報いないようでは、出だしから先行きに不安が出てしまう。
似た状況の毛利には本領安堵プラスで小早川に33万石も与えている以上、
同数程度は少なくとも必要になる。
かと言って飛び地にするわけにもいかんとなると、信濃全部と尾張の一部ぐらいは取られた上で、
東海道、中仙道にどどーんと150万石の大名が居座る事になる。
それはそれで充分怖いと思う・・・。
関東に改めて誰を入れるかってのもあるけど。
>>569 >関東に改めて誰を入れるかってのもあるけど。
すげー奇策だけど、秀吉自ら入るってのはどうだ?
死ぬまで7〜8年あるんだから全国の外様連中を酷使して関東経営に力を注ぐ。
北条攻めの褒美は各地にある蔵入地をわざとばらばらに飛び地として与える。l
畿内は鉢植えで整理して完全に秀次にあげる。関東には譜代の連中を効果的に配置して東海と東北に備える。
朝鮮攻めなくていいんだし、豊臣の国力は上がることがあっても下がらないし。
何なら天皇も関東に呼んじゃえ!
毛利=秀次=家康 ラインが出来上がるね。
>>570 奇策すぎw
しかし、畿内・関東を完全に豊臣家で固めると、
外様連中への恩賞はどこからひねり出すんだ?
>>569 >>561や上のリンク先を見ると約220万石だぞ
>3〜40万石の増加はやむをえないよ。
徳川家では伊豆が加増されると考えていたらしいが。
>>573 伊豆は一番近いから取り合えずでしょ、
あの段階でそれ以上予測のしようが無いし。
まぁそれはいいとして220万石って
>>561のどれから出た数字?
>>下野37万石上野50万石
>>上総38万石下総37万石
>>武蔵67万石相模19万石伊豆7万石
この太閤検地時のそのまま引用するなら255万石じゃないか?
>>575 だよねやっぱり、下野が外れてるね
でも一応下野の南の方も徳川領に入るのよ。宇都宮らへんとはちょっと違うけど。
で、逆にそうはじき出すと上野は全域で計算されてるみたいだけど
それこそ真田と北条の国境で有名だったらへんが全部徳川領で計算されてる。
そういう風に計算するなら下野も入れるのが一般的でしょう、だからよく本とかで255万石とかかれるけど、
実際は下野も上野も半分以下、だから200万石前後って事。
577 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 10:10:45 ID:6Jy+8xns
移封は家康自身は石高と兵も増えるし、近畿と距離を取るのも悪くないとプラス思考だったかも。
でも譜代の家臣は怒っただろうなあ。小牧には勝ってるのに、無理矢理大将が懐柔されて
あげくに先祖代々の土地を追われるんだから。
この辺の恨みが大阪の陣の原因になったかもね。
>>577 譜代で一くくりには出来んかもね。井伊さん、本多さん、大久保さん、榊原さんは内心ホクホクかも。
家康も何だかんだ言って自分の代でこれらを重用して取り立てた形になってるからね。
譜代って言っても必ずしも一枚岩じゃないんだよね。まあ、家康を神輿として担ぐっていうのは一緒なんだけど。
関東行った時に家康が誰を信用して重く見てたかが良く分かるかもしれんね。
とにかく、家康の儲けもあったけど家臣も儲けてると思うよ。
一説では、関東移封により家臣団が地元から切り離され、改めて関東で封じられたことで、
それまで中世的豪族連合体だった徳川家が家康を頂点とする近世的な体制に再編成された
という面もあるらしい。関東移封前はあくまで駿遠三甲信の地生え豪族・地侍の盟主的立場
だったのが、より専制的権威を持つことができるようになったのだから、家康にとってはかなり
大きなメリットだったんじゃないかな。
>>576 >そういう風に計算するなら下野も入れるのが一般的でしょう、だからよく本とかで255万石とかかれるけど、
>実際は下野も上野も半分以下、だから200万石前後って事。
横からだが全然違うと思う。
上野は真田信幸領数万石(2.7?)以外全て徳川領
その上、信幸は昌幸とは別家で諏訪小笠原保科同様徳川家臣と見る見方もある、
どちらにしろ50万石の大半が徳川領
それに対し下野は蒲生の18万石はじめ、
大関成田那須大田原山川佐野皆川と大半が徳川以外
上野入れるのは普通だが(井伊榊原だけで上野の半分近いし)
下野入れるのは一般的じゃないと思うが
取りあえずもう少し関ヶ原関係の本でも読んでみてはネットでも結構詳しいとかあると思う。
200万石とするなら結城を別家と考える方がまだ近いと思う。
親父だけじゃなく
お前らにも徳川家の一員だと認められない
秀康さん可哀想
毛利は本領安堵+小早川33万石っていうけど
小早川は秀秋を送った時点で豊臣に小早川家を取られたようなもん
転封はされなかったが実質マイナスに近い
そーゆう観点からみれば転封なしで加増なしってのもありえた
小牧長久手は一部徳川が勝ってるけど
結局信雄がやられちゃってるし
あのまま羽柴と戦いつづけると
徳川には相当不利だってのは家臣にもわかってたと思う。
まあ転封にはそこまで反対はなかったんじゃまいか。
倍位の加増になるわけだし。
ずっと東京にすんでたやつが永久転勤で年収倍にしてやるからど田舎いけっていったら
おまえらはいくか?
俺は喜んで行く
586 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 22:56:46 ID:PLjC1u2f
>>585 秀吉社長「ただし、潰れかかっている会社を立て直しつつ本社から命じる
仕事もこなせ。あ、出来なきゃクビね。」
家康専務「それはひょっとしてギャグで言っているのか」
587 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/23(月) 23:46:56 ID:DtFOu55W
結果として
秀吉社長の本社は無謀な敵対買収で大失敗してリストラの嵐
家康社長の子会社は着実に業績を延ばし大躍進して本社を上回った。
秀吉社長は立つ前脳溢血で倒れ帰らぬ人に・・
で秘書室の三成室長は家康社長を解任して子会社を吸収すれば
経営建て直しできると画策したと。
>>585 江戸はド田舎ではないしなあ。
まあ東京すんでたやつが神戸くらいの感覚じゃまいか。
>>580 実際、簡易な資料や小説などではあっさり255万石と書いてるもの多い、
wikiまでそうだ。その根拠は上野も下野も全域計算してるんだろうなぁって事。
これは別に俺の意見ってわけじゃないし、どうと言う意味もない。
ただどれもこれも全域足していく計算ならこうじゃないの?と書いただけ。
そうじゃないなら、上野を全部徳川領で計算するのは乱暴すぎる。
井伊が箕輪城、榊原が舘林城、ちなみに井伊が当時徳川家臣中最大領土。
その二つらへんが徳川領だがこれらは上野でも南から真ん中の方。
50万石もあんだから上野はまだ北がある。
とりあえず岩櫃城以北は真田領なのはこの時点では間違いないので、
三国峠付近まで徳川領がありようはずが無い。
ならばその付近の利根郡や吾妻郡も徳川領とするには危険すぎるし計算も合わない。
また位置的に沼田城だけ徳川領というのは考えにくい、それこそすぐ隣の下野が徳川領ならともかく。
名胡桃城を廃城した意味もわからん。
もうこの時点で既に全域と言うには無理が無いか?
上野が半分程度となれば、大体200万石前後になる、
下総と常陸の辺りも曖昧だし。
>>583 秀秋が小早川の養子になったのは小田原の役からもっと後だ、
それはもう全く別の秀吉の政策で、初めからゼロなら不平が出てたに決まってるだろう。
もっとも同じような政策を家康に考えると言うのなら話は別だが。
しかも関ヶ原で小早川の兵力はとてつもなく大きな意味を持ってしまった、
毛利にとってはマイナスだったが、豊臣にとってもマイナスだったわけで、
迂闊な事をすれば身に帰って来るハメになる事だってありうる。
591 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 02:39:17 ID:2hcRdHDx
秀吉が生きている時に、
徳川家の跡目を秀康にするよう命じるって可能なの?
信長が前田家の家督を長男・次男を差し置いて
お気に入りの利家にしちゃったように・・・。
秀康って豊臣贔屓らしかったから、
家康に対するすごいイヤガセになったんじゃない?
>>589 君は面積で語っている
それ以外の人間は石高で語っている
それだけの違い。
井伊の群馬郡箕輪は上野でもやや南に位置するが
上野14郡中北から3番目ぐらいの位置にある。
群馬郡より北は山ばかりで面積は広くとも石高は低い。
ついでに沼田の真田は3万石とか言われてる程度。
面積で考えてるためあなたの理論は根底から間違っている。
東京23区と西東京の各市全てとで面積は23区以外の方が広いから
経済力も同じぐらいと考えているようなもの。
>>592 それでも双方10万と言われてて
残りの30万はどこに消えたのよ、
あと岩櫃城
>>594 奥平菅沼松平諏訪本多牧野平岩のことも忘れないでやって下さい。
というか普通に徳川の旗本領直轄領とかだろ。
大名以外カウントしないなら相模伊豆武蔵上総下総も徳川領が半分すらいかない
ことになるぞ。
それに沼田の信幸は3万石と言われるが徳川の直臣だったとも言われるから
徳川領に含めることだってできるし、
吾妻郡は一応上田の昌幸に属すとも言われているが
何故か真田昌幸は小県吾妻で4万石でしかないから
本当に吾妻が真田に属していたのかという疑問も出る。
まあ豊臣家の蔵入地があったのかもしれんが、
取りあえず蔵入地には詳しくないのでパス。
誰かが言ってたみたいにちゃんとした本とか買って勉強したら、
簡易な資料や小説wikiみたいなどうでもいいようなものじゃなくて、
いちいちここで誰かに説明受けるのも面倒だろうしさ。
>>595 >大名以外カウントしないなら相模伊豆武蔵上総下総も徳川領が半分すらいかない
この場合の大名ってのは徳川家臣で1万石以上のものって意味ね。
相模は大久保6.5万石と本多1万石で7.5万石しかいかないと。
>>579 後付けもいいところの説だな。その説は結構いろんな人が言っているが、一番の弱点は
移封前と後とでどう家康の指導力が変化したのか納得に行く説明をしたものが一つもないことだ。
家康に免じて、娘婿北条氏直に関東1国でもくれてやれば
徳川家に対する恩賞は無しにできないだろうか。
599 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 21:07:13 ID:3niohf6R
>>598 それをするには家康が「自分の功と引き換えに娘婿に領地を」と
言わねば実現不可能だろう。史実では助命嘆願以上のことはして
ないので。
また、家康がそういったとしても関東に一国は無理。家康の連枝
を強固にするだけだからな。たぶん飛び地で10万石とかが妥当。
>>594-595 そもそも上野って50万石もあったっけか?
上のHPでも寛永の検地見ると割と関東のどこも上がってるのに、何故か下がってるし。
武蔵は下総とかから吸い取ったりしてるからこの辺微妙だけど。
広さ的にも下野と大して変わらんくらいだと思ってた。
移封しないでそのままの方が御し易かったような。
関東に同規模の勢力があれば、挟み撃ちにできるし、家康が天下を取ろうとしてもおめおめと風下に立たないだろうし。
問題は人材だが、秀長くらいしかいないのよね。
俺が秀吉だったら、徳川家康には九州と四国を飛び地で与える
>>602 毛利、島津と手を組まれたらそれこそ怖いような。
>>600 >そもそも上野って50万石もあったっけか?
正確には49万石強だろ
>武蔵は下総とかから吸い取ったりしてるからこの辺微妙だけど。
そんな事実あるのか?
上野は徳川発祥の地とされたから検地が甘く
常陸は水戸藩が貧乏なためやたら検地が厳しかった
武蔵は江戸初期の大開発があるから増加するのは分かるが
ただ検地は結構曖昧だから実質とかけ離れてることはあると思う。
能登や尾張も下がってるし、
肥後とか40万石無いのに加藤25万石小西20万石相良数万石とかあるし。
まあそれでも小説みたいに何の根拠も無く適当に石高あげるよりは
余程信頼がおけるが。
>広さ的にも下野と大して変わらんくらいだと思ってた。
一応関東管領府のある国、下野とはかなり異なると思う。
>>602 >>603 飛び地は良いと思う、上杉だって120万石とはいえ庄内と佐渡が飛び地状態
他に細川も丹後以外に豊後に所領あったりするし。
>そんな事実あるのか?
ある。
とは言っても江戸市街拡張みたいな感じなので、
云万石単位の石高が動くようなものではないが。
>>601 つか移封時の態度を見るのが一つの目的だったんだろう。
現に信雄は伝来の地を離れるの惜しさにゴネて追い落とされてるし。
石高よりもその土地で主君として一体化してるのを切り離されることで
ゴタゴタさせる方が上に来てた気がする。
言う事聞いたとしても遠くの地に追いやれるから当座は安心ってな感じで。
>>604 下総の葛飾郡、今の江戸川区やら葛西の辺りはもともと下総の中心地で、
律令時代の正倉院の文書にも残ってるので、かなり発展していたみたい。
現在の埼玉や茨城の一部まで含む大きな土地だった模様。
だけど、寛永年間に大々的な利根川の治水工事が行われて、
現在の旧江戸川が作られたことで、葛飾郡のうち江戸川より西は武蔵に編入される事になった。
で、そのまま今も東京と千葉を分ける境目になったというわけ、ディズニーランドがある辺りね。
現在では埼玉や茨城の方の葛飾の名前は消えてしまっているけど、その名残で
東京市が出来た頃、現在の葛飾区、江戸川区、江東区の辺りは、「南葛飾郡」と呼ばれた地域だった。
武蔵が伸びてるのは他にも理由があるだろうけど、下総ががくんと落ちてるのはこれが理由だと思われる。
よし。家康の領地は全国200カ所くらい飛び地にしよう
え〜っと、基本的な話なんですが
ディズニーランドは昭和に埋め立てられた土地
>>609 わかりやすいように位置的な話しをしただけよ、
そんな小さい規模じゃないぞ。
>現在では埼玉や茨城の方の葛飾の名前は消えてしまっているけど、
つ埼玉県北葛飾郡
茨城の葛飾は知らない
下総らしい地名としては相馬ならあるが
昔は両国に武蔵と下総の境の橋があったんだよねえ
今は両岸とも東京だけど
墨東三区は、今でも江戸野菜(小松菜とか)の産地だね。
肥沃な土壌が栽培に適しているとか。
615 :
名無しさん:2006/10/28(土) 03:47:09 ID:VB+rObzE
家康の最高動員能力は7万人位かな?
もし味方する大名が出てきたらもっと増えるし
秀吉が手が出せなかったのは無理がないかな
616 :
名無しさん:2006/10/28(土) 08:07:18 ID:rP7PGdBy
自分は現在、南葛飾郡に住んでいます。
617 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 10:17:21 ID:9++EvTHV
>>615 秀長が生きていたら、家康を討伐したんじゃないかなとよく言われてるが。
どうなんだろう?
>>617 ぶっちゃけ過大評価のきらいはあるよね。個人的には史実を考えても
家康を抑えて豊臣政権存続させられたほどの統率力があったとは思えない。
史実とは違った形で豊臣政権の幕を引く事はあったと思うが。
秀長生存のIFもよくでる話題だけど、だいたい家康の方が過大に評価されてる
きらいがあると思うけどねえ。秀長が生存秀頼後見となってるような場合
家康には政権奪取なんて到底無理だろうし、家康もそんな自殺行為はとらないだろう。
>>619 まあ秀長が死んでしまった以上、IFストーリー上で秀長にせよ家康にせよ過大評価か
どうかなんて想像の世界でしかないからなあ。個人の見方しだいでいくらでも変わっちゃうし。
まあ、ただ、戦国の文法で言えば「実力がないから先に死ぬ」ってのはあるな。
>>617 家康がそんな無謀な事をするとは思えないよ、秀長が長命だったら、
家康もそのまま家臣として生涯を終えたと思う。
要は、上杉景勝がおとなしく上洛していれば、
何事もおこらなかった。
だけど、
ほんとに、上杉が正月の挨拶に来なかったことを理由にして討伐軍を出したの?
そのときは、今度は毛利が槍玉にあげられるだけかと。
この時点での家康の目的は、反対派である自分以外の五大老を全て屈服させて
独裁政権を打ち立てることだったろうから(あくまで、豊臣政権内でだろうが)。
>>624 それだけじゃなくて、巨大な城を建てて軍事的な強化を図ろうとしてて、
周辺国から訴えがあった気がする。
あとは武器兵糧の買い入れ、浪人の雇用なんかもそうだったんじゃないかね?
あの時代に正確に測れるわけねーだろ大体だろ
なんなんだ細かいやつは
加賀100万石も100万石じゃねーしよ
>>628 加賀百万石は江戸時代になってからの呼称。
利家の時代もそのぐらいあったんじゃないの?
その死後に利長の加賀北部・越中・畿内飛び地領と利政の能登に分割されちゃっただけで
江戸時代には飛び地領がなくなって加賀南部を加えて同じくらいの石高のはず
631 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 02:23:50 ID:0MPWZ4T7
上杉が上洛しなかった裏には三成>直江兼続あたりの策動があったのだろう。
兼続にしても友情よりも、このまま地方の外様よりは、旧領に未練もあるし
家康が鬱陶しいという、打算も有ったのだろうな。
西軍勝てば、会津に合わせて越後も取り戻せると言うくらいの約束ができてそうだ。
632 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 03:15:17 ID:Lnv7bix+
確か加賀は80万石だったんじゃないかな。
江戸時代に実質石高が増えて幕末時には120万石を超えてたけど。
633 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 03:36:06 ID:RwfD+Yn/
そんなさぁ、才知一本で天下までとった超々大大人物が、
>>1ごときでも思い付くことを懸念しないわけないじゃん
>>632 630にもあるが、利家遺領は表高では百万石あったし
分割された加賀前田家と能登前田家はほぼ一体と言ってよかったからな
(関ヶ原での向背は真田とかと同じ処世術だし)
逆に加賀一国だと80万石もない
当時の加賀一国の石高は40万石くらいで、そのうち前田家は半分程度
むしろ領地としては越中・能登の方が多かったくらい
名実ともに加賀一国を所有したのは関ヶ原の後だから
まあ実高は80万石くらいかしもれんが、それだと徳川家の250万石とかも
怪しくなるので100万石あったと計算した方がわかりやすい
上杉が東軍に付いていたら、最大の外様大名になってたな
どっちみち削られてたと思う
家康は名家好きだからね。
律儀が認められれば長続きした可能性もある。
>>637 実は家康を名家好きにしてしまうと、信長や秀吉は家康以上の名家好きと規定されなくてはならなくなる。
639 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 19:44:01 ID:LugKYyXn
>>638 秀吉は名家好きというより名家出の女好きでは?
信雄が秀吉からすんなり家康の旧領を貰っていれば良かったのに・・・
織田家の為になったのに
>>641 どのみちどこかで削られてたか、下手すれば命どころか一族断絶まで至ってたかもよ。
秀吉か家康によって。
織田の家名を残すだけなら有楽や秀信がいたわけだから。
東海の要地で不覚人に大封を持たせておく程二人とも甘くはないだろう。
保守
保守!!
関東移封がどうというより決戦に勝利しないまま外交で服属させたのが悪いな。
ちゃんと勝って一度は長宗我部や島津のように完膚なきまでに叩きのめす必要があった。
それをせずに家康の力を削ぐのは関東移封が限界だったんだろう。
ということで関東移封そのものは失策ではない。失策があったとすれば
家康との戦いを合戦を勝利で決着しなかったことだと思う。
小牧長久手の時って、圧倒的に兵力上だったのに何で叩きのめさなかったんだろ?
>>646 そりゃあ出来なかったからでしょう。
時間を十分かければどうにかなっただろうが、
西で長宗我部や島津、東で北条や伊達等も動いていて、
家康にばかり時間をかけるわけにはいかなかった。
実際に沼尻の対陣が終わった北条は、
本格的な援軍の編成に取りかかっていた最中だったらしいしな。
もし北条が関白就任後の秀吉に従順な態度を示していたら
その後の北条や徳川への処遇はどうなってたんだろう?
650 :
名無しさん:2007/01/01(月) 20:43:03 ID:2vE6nS9/
家康の最大動員力は7万人位かな
2等分しても3万超えるんだからすごいよな
651 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/01(月) 21:46:09 ID:ISaayfxw
200万石はやりすぎだと思う。何故秀吉は徳川にそんな加増をしたのだろう不思議だ。
それにしても家康の内政手腕、素晴らしいと言うほかない。確か伊奈何とかという
農政家(その子孫も農政で活躍したそうだ。)がいて戦後荒れ果てた田畑を再生させたと言う話を聞いたことがある。
徳川の天下取り勲功第一はその彼なのかもしれない。
伊奈家の凄いのは河川事業。
これは本当に、東京に住んでる人は一度は敬礼すべきだと思うぐらい。
>>651 他にあげるべき奴が居なかったからじゃないかな、
親族に乏しく、子も居ない秀吉は家康みたいに一族に大封を与える事が出来ない、
秀吉がもっと親族に恵まれていればまた違った配置になったんではなかろうか?
654 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/01(月) 23:20:23 ID:ISaayfxw
>>653ならどうして関八州に豊臣直轄領を置かなかったのだろうか。これなら余計な
領地与えなくて済むし、牽制にもなる。
>>654 そんな巨大な直轄領は管理できないからじゃないの?
結局は代官に任せる事になるだろう。
江戸幕府だって直轄領は400万石程度、創成期はもっと少なく豊臣家と大差ないと言われてるし。
元も大身であんだけ活躍して、三河のコネとも切り離し
上方からさらに遠くに追いやるんだからあんなもん
秀吉なんて母や妹を人質に出して必死すぎた
657 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/01(月) 23:34:10 ID:ISaayfxw
でも200万石はやりすぎだと思う。何故秀吉はそんなことをしたのだろう・・・・・・・・・・・。
不思議だ。
658 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/01(月) 23:37:03 ID:ISaayfxw
追伸、豊臣蔵入地はせいぜい一国くらいでいいと思う。半国でもいい。
関東を舐めてたんじゃね?
秀吉はずっと西国や中央の征伐をしていたし、
小田原城を囲んだ時には既に勢力で圧倒していて、
勝負にならなかった、関東はそのイメージ以外無いんだと思う。
東北以降なんて征伐すら任せて見てすらいないし。
でも家康が天下を取れたのは石高のせいではないと思う
661 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 03:11:02 ID:fs5N59dW
家康には関東で引き篭もって満足してもらって
朝鮮出兵で子飼い大名を大幅加増する予定だったんだろ。
結局、朝鮮出兵失敗で全てがおかしくなったんだよ。
大封を与えることで自滅させるか、徳川が内政にかまけてる間に
豊臣政権を強固にしようとしたんだろうな。家康が関東で手腕を
ふるうってことは、京都方面での活動が鈍るって事でもある。
豊臣氏意見が強権を握ってしまえば後で煮ようが焼こうが好きに
出来るわけだし。
まぁ後は家康が自分よりここまで長生きするとか考えてなかったってのもあるだろな。
秀康を手なづけておいたり、根回しの陰は見えるし。
実は関東は上手い事やって秀康に継がせて、事実上豊臣家を名乗らせてしまおうと言う魂胆もあったのかも。
にしては秀康は結城家の養子という名目で豊臣家から叩き出されたわけだが
>>660 石高が最大の要素なのは間違いないよ。
石高さえあれば誰でも出来るって物でもないが、
家康だって圧倒的な石高がなければ天下を奪うなんて出来はしない。
666 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 11:57:40 ID:FpP604UJ
東国の武将は青森の武将の鎮圧に駆り出されたり、北条討伐があったから
朝鮮出兵に徴用されなかったのは仕方のないことではあるんだよね。
秀吉も徳川に手柄立てられまくりで朝鮮での権益を徳川に取られたくなかったのかも
しれない。
むしろ徳川より上杉のほうを警戒していたのかもしれないし。
上杉を先祖代々の地から東北へ遠ざけ国替えして、徳川を東北に対する
押さえとして期待したのかも。
死ぬ間際でさえ秀吉は家康が自分の死後に華麗な裏切りを見せるとは
少しも思ってなかったはず。
死後の政権の体制に関して、豊臣家の内々の家政や
秀頼のお守りは利家、公儀の事は家康に任せる事を決めたのは
秀吉自身だしね。
五大老が行政をし、五奉行が政策決定や五大老の監視をする事を決めたが
その五大老筆頭の座に家康を置いてたのも、全然家康を疑ってなかった証拠。
少なくとも家康が裏切る可能性は毛利や上杉が裏切る可能性と同程度と考え
五大老同士も相互監視する事を期待してた。
実際に利家が死ぬまでは、不十分だがその機能は果たせてたし
関ヶ原でも見事に大老と奉行が東軍・西軍と分かれて相互監視を果たしたので
秀吉の目論見の5割近くは実際に達成されたと見るべき。
もし秀吉が家康の魂胆を完全に見抜けてたら家康を体よく公職追放して
関東に戻してたはず。
もし、そうなれば結果的に家康が天下を取れる可能性が大きく減り
逆に、豊臣政権は残りの四大老や五奉行のまとめ役がおらず
家康の存在と関係なく瓦解して室町幕府化してただろうと思える。
秀吉としては、
ひとりが暴発して反乱を起こしても他の4人がそれを潰すシステム
だから元から反乱を起こせないようなシステム
っていうのはちゃんと作ったつもりだったかも
>>667 自分もそう思う。秀吉にしてみればしっかり仕事をしてくれる
ベテランだし、家康もそんなに大きな野心は
最初無かったと思う。
ただ、晩年の秀吉や、後継者争いの火種など、いろいろ見て来て、
「これじゃこの先ボロボロになるだろう。
ワシがなんとかまとめるしかない。そのために
豊臣家には申し訳ないが・・・。」
と、半分、使命感、半分、野心、みたいな感じに
家康はなったんじゃなかろうか。
670 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/02(火) 15:42:06 ID:IxZjwMxI
徳川関東入りは結果的に徳川にプラスとなったが、その最大の成功要因は何だったんでしょうか。
民政充実ではあまりにも漠然として具体的ではないので実例を一つ一つ挙げて誰か説明してほしい。
さっさと日本を統一して唐天竺を征服するプランに変更はありませぬ。
関東なんてシナに比べたらちっちゃいものじゃん。
>>670 北条氏が伝馬制等の情報統制機関、細かい兵役の基準を定める、一貫した対農民対策
を5代による長期政権で確立し、農民や豪族を慣らしきっていた。安定した雇用があっただけに
遺臣も再雇用で満足した。それを家康が壊さずに受け継いだ。親北条の人間にとっても
当主氏直が赦免された、それが家康に婚を通じてたおかげという義理もある。つまりは北条対策。
673 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/03(水) 16:20:03 ID:wDECXsJN
関東に移封になって幸運だったのは、直後の唐入りに距離を置けた所も大きいね。
家康はたしか15陣とかで秀吉の幕僚での参加だが、少しでも西に居るとその分負担も大きいし。
なにより移封させた直後なんだから、秀吉も海を渡れとはいいずらい。
毛利島津あたりはかなりしんどい事なってしまってる、関ヶ原に響いた面も大きいだろうな。
>>667 あと秀吉死後に家康が天下取ったのは必然だから、仮に家康が暗殺されてたら、また戦国に逆戻り。
家康が関ヶ原で豊臣譜代の兵を使い、秀忠本軍温存してこその戦後の取りつぶしたりの余力ができる。
勝っても徳川に大きな損失のでるような勝利では、影響力薄れて、地方が言う事聞かなくなる。
しかしまあ秀吉が死んでしまえば、生前に残した事は全部意味を失ってしまう現実がもの悲しい。
残ったのは大阪城と秀頼だけだ。ほかバラバラなってしまった。
674 :
名無し議論スレて投票方法審議中:2007/01/03(水) 17:58:45 ID:82FK83IM
秀吉の政策は「情」に頼るところが大きい。
徳川のように「恐怖」でしばっていなかった。
だから、大幅な増加で家康が「恩」を感じていなかったため、破綻した。
>>674 どこがだよw 秀吉だって恐怖とバランスで政権運営してる。
豊臣政権に足りなかったのは、豊臣本家の能力と秀吉抜きでやって
いけるだけの組織力。
>>673 あの、他はともかく秀忠の遅参は、
そのせいで秀忠軍に参加した徳川譜代の家臣に加増できず、
逆に関が原で活躍した豊臣譜代の家臣を大幅に加増せねばならなくなった点で、
徳川にとっては不利になってしまった要因なのですが。
でもおかげで、その加増した連中を地方に飛ばして、
邪魔者をはじいたおかげで、譜代をあまり過剰な領地にすることなく
中央政権下が謀れたとも言える。
転んでも唯ではおきない。
679 :
名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/07(日) 03:20:36 ID:L+EBTGuj
家康は豊臣譜代連中に大幅な加増はしたが、その後失政や世代交代後の二代目三代目の不祥事で取りつぶし多数。
狡猾と言えばこの上なく狡猾な処置だな。
ただ善政というか失政せずに、忠実で経営を頑張った大名は残った。
譜代は政治に参加させるので石高少なめに、外様は石高でかい分、中央政治には関われない。
ただ、石垣作ったり治水やったりの下請けはガンガンやらされる。
この辺が家康流の政治術なのだろうな、現在の視点から見てもベターな政治やってると思う。
しかも外様をなるべく大藩にせずに細分化して遠方に分散配置し
そこに譜代の小藩を隣接させて監視してるから反乱も起こせないという
本当に狡猾なシステムだと思う
それを狡猾というのはさすがにバイアス入りすぎでしょ。
しかも外様と大藩にせずに細分化って、どの大名のこと?
>>681 細分化ってか飛び地のことだろうか?
「大藩にせずに」の意味は分からなくなるが。
結果的に大藩はわずかに残ったが
何かと理由をつけて必死に取り潰そうとしてたじゃん。
当時の「中央」はあくまで京都のことだからなあ。
京が上方って呼ばれてたからには中央は京か、政治的には江戸幕府が中心なんだが、権威的には京が中心でしたね。
686 :
人間七七四年:2007/02/19(月) 22:14:58 ID:CVxDWKvK
あげ
687 :
人間七七四年:2007/02/23(金) 10:51:42 ID:HDqTfeUY
天正壬古の乱で真田を味方に付けて数倍の北条軍を孤立させたりできたのも、
武田残党の処遇を誤っていなかったのが大きいよね。
日頃の行動が物を言ったというか、苦労人の強さだな。
秀吉も唐入りを第一に考えて、大盤振る舞いで味方にしておきたかった&気持ちが
大きくなってたんじゃなかろうか。
若ければ、未知の戦いの勝ちに全部賭ける愚よりも、ゆっくり国内の強者から
つぶそうと思っただろうけどねえ・・・。
唐入りの、以前とは違う力攻めと半端な敵情分析と言い、年齢による焦りじゃ
ないかな。
688 :
人間七七四年:2007/03/13(火) 21:46:42 ID:TtV1nxN+
家康の天下取りの意思を秀吉が見抜けなかった、ってのはどう?
毛利(元就)や上杉(謙信)みたいに、大国でも天下取りの意志が無い家もある。
足利の関東公方&豊臣筆頭大臣みたいなもので満足してくれる、と秀吉は信じた…
実際、家康は秀吉の朝鮮出兵という失策が無ければ(もしくは信長が死ななかったら)
巨大な地方政権で満足していたと思う。
689 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 10:15:35 ID:cbg5soKx
家康が天下を狙ったのは、秀吉の死が直接の原因と、私も思う
690 :
人間七七四年:2007/04/04(水) 17:34:07 ID:tuMP33KH
同意
仮に秀吉が死んでも、後継者と政権が盤石ならばその中で生きたと思う
秀吉が政権を滅茶苦茶にして、後継者がおしめもとれないようなガキで、
しかも自身が政権内で名実共にNo1と来た日には、天下を夢見ても仕方ない
691 :
人間七七四年:2007/04/12(木) 23:00:44 ID:E4SVPbIp
上にもあるがやっぱ小牧長久手の始末の失敗が最大の失策だよ
秀吉の周囲に敵が多く家康に専念する事が出来なかったとはいえ、
窮迫し始めていた徳川方に対して和議をもってこれを解決し、
以後対話重視路線でなんとか徳川の押さえ込みをしようとしたのが失敗
この秀吉の事情を家康に付け込まれ、
小牧長久手後2年も家康を臣従させられず、
これによって家康は豊臣政権内でもかなり有利な地位を手に入れてしまった
小牧長久手の戦いそのものは秀吉の外交戦術の勝利だったといっていいが、
豊臣政権の運営という観点から見ると大きなしこりを残してしまっており、
手放しで誉められるようなものではない
692 :
人間七七四年:2007/04/29(日) 15:04:34 ID:GcwxddFO
揚げ
693 :
人間七七四年:2007/04/29(日) 15:40:22 ID:4C3xywCB
頼朝を尊敬し吾妻鏡を愛読していた家康が天下人をあきらめていたわけがない。
その頼朝の地関東に家康を配するなど秀吉の完全なミスだね。
694 :
人間七七四年:2007/04/29(日) 17:21:45 ID:ZunTqjZi
筑前はさっさと徳川を族滅すればよかったんだ。
謀反の容疑をでっち上げて武力攻撃するもよし、
何らかの機会を見つけて謀殺するもよし。
筑前の絶大なる恐るべき権力と武力を持ってすれば
徳川の殲滅など赤子の手をひねるも同然だった
695 :
人間七七四年:2007/04/29(日) 17:43:38 ID:hl8fCBAt
徳川つぶししようとすれば、筑前の足元も揺らぐのがわかってないのか?
全国の大名は絶対的な忠誠を持ってるわけでもない。
>>謀反の容疑をでっち上げて
>>頼朝の地関東に家康を配するなど秀吉の完全なミス
そうした場合大陸出兵を政治的に放棄しなけりゃならんけど?
全国統一まで統一後は大陸出兵して
内外に統一政権の実現とその意識付けを行うのは第一前提
だったわけで、
そのためには不安定になる天下統一での最後の占領地の関東奥羽
に対して
内政に実績にある実力者家康を関東に置いて
背後の奥羽をけん制させるのは妥当な配置だと思うけど。
唯一失策をあげよというならば
海外出兵を急いでしすぎだというべきか。
国内安定と政権運営の確固としたルールもできていない
おまけに敵への情報収集や諜報活動、勝てる可能性の計算など
準備不足もはなはだしいような状態で挑んだのが間違いかと
696 :
人間七七四年:2007/04/29(日) 19:39:05 ID:wyo/BwTb
>>695 揺らぐどころか、逆に諸大名たちへ恐怖心を植えつける見せしめになっただろう。
宇喜多秀家・小早川隆景・直江兼続などの盲目的服従大名どもを動員すれば
徳川など本当にたやすくつぶせた。
筑前のカリスマ性は神がかり的だった。
697 :
人間七七四年:2007/04/29(日) 20:10:30 ID:oFFUMy80
秀吉厨に偽装した工作員か
698 :
人間七七四年:2007/04/30(月) 18:33:35 ID:twzbBl0Y
小早川、直江って盲目的大名なのか…
699 :
人間七七四年:2007/04/30(月) 18:40:54 ID:8coRSebr
筑前の忠実な犬だったことは確かだな
奴らの豊臣愛は半端じゃない
筑前の命令とあらば何でもする家臣だった
700 :
人間七七四年:2007/04/30(月) 21:51:17 ID:GYXsAH9r
関東移動前の家康領土の石高はどれくらいなんだ?
三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の北部以外
180万石とういう数字がでているけど
各国の石高を足し合わせてもその数字にならないぞ
701 :
人間七七四年:2007/04/30(月) 23:04:22 ID:/zsPpV3+
家康潰すと従属させた成果なくなるからな
なんの為に苦労して従属させたのやら
702 :
人間七七四年:2007/04/30(月) 23:21:43 ID:azjptwWU
あれだけの大国潰せるなら
従属させた苦労が水泡に帰しても安いものだと思うがね
703 :
人間七七四年:2007/05/01(火) 00:49:11 ID:NEcdB18g
徳川なんて北海道に移らせればよかったな。
そんで樺太、千島、シベリア進出を命令する。そしたら天下を狙うなんて
暇ぜんぜんなかったのに。
704 :
人間七七四年:2007/05/01(火) 01:16:42 ID:gGbC4FjZ
>>702 潰し終わる頃には第二次応仁の乱が始まってそうだ。
705 :
人間七七四年:2007/05/01(火) 08:22:02 ID:ftE+GZB4
小田原後の秀吉は衰えと呆けで戦場指揮を取るのが難しくなった
海外遠征なら渡海せずにごまかすこともできるが家康と戦うなら秀吉自身が出陣しなくてはならない
そこで秀吉が老醜をさらけだしたら秀吉個人の力で成り立っている豊臣はすぐに崩壊してしまう
それなら平和ボケしている朝鮮を征服して領土を増やした方が得策と考えた
最悪でも朝鮮は取れるだろう運よく明も取れれば儲けものというのが秀吉の考えだった
ところが秀吉の考える最悪より遥かにひどい結果になったのが秀吉にとって想定外だった
706 :
人間七七四年:2007/05/01(火) 16:37:39 ID:rX/MfssW
>>703 そして家康は蝦夷地で独立を果したのだった
707 :
人間七七四年:2007/05/01(火) 19:55:53 ID:Ok0wIiq1
>>702 ゲームじゃねえんだ、潰して即美味しくいただけるわけねえだろうが。
北条の跡地に入れられた家康が旧北条領を美味しくいただくまでに何年
かかったと思ってんだ。
708 :
人間七七四年:2007/05/01(火) 20:19:44 ID:HedlvB3B
709 :
人間七七四年:2007/05/01(火) 21:54:14 ID:5mxR2BI7
>>705 秀吉の天才が一番冴えていたのは中国大返しから賤ヶ岳までだろうな
小牧長久手ではいい所なし
明智、柴田と比べて家康は相手が悪かったともいえるが
花の命が短いように、天才発揮できる期間は限られているんだろう
信長なんか老醜さらす前に殺されたのはある意味幸運だった
その点家康は極端なピークもない代わりに、極端な衰えもない
凡人の強みだろう
710 :
人間七七四年:2007/05/01(火) 22:41:45 ID:U3gf/F/S
勝てなかった徳川をも家臣にしてしまった羽柴筑前。
あらゆる勢力を隷属させてしまう奴のカリスマ性の根源は何なのか。
半農半士の出自だったという人物に公家や大名が隷属するとは思えない。
羽柴秀吉とはいったい何者なんだ?
実は織田家をも遥かに凌ぐ名家の生まれだったんじゃないか?
筑前が生まれた当時は没落していたのだろうけど。
711 :
人間七七四年:2007/05/01(火) 23:58:14 ID:NEcdB18g
>>709 日本統一まで冴えてただろ。
小牧であの徳川を丸め込み 毛利を懐柔し 島津を屈服させ 北条を潰した
これすごいことだぜ。
家康は凡人じゃないよ。徳川の天下の基礎を確立したんだから。
ただ、関が原以降は強欲さがむき出しになって嫌な動物だが。
関が原以前限定なら歴史に残る名将と名を刻んだんだろうが惜しい。
冴えという面ではどうなんだろ。
晩年、大久保長安一派とか粛清したのはボケかもしれない。
712 :
人間七七四年:2007/05/02(水) 06:30:18 ID:c68O3uTx
関ヶ原以降があるから歴史に残る名将扱いだろうに。
最終的な勝利者になる、ということは重要。
713 :
人間七七四年:2007/05/02(水) 13:55:43 ID:JEsG9Zny
名将が最後の勝利者になる方が稀
714 :
人間七七四年:2007/05/02(水) 16:21:10 ID:9EGroqLY
徳川に叛心吹き込んだん、わしや(´・ω・`)
715 :
人間七七四年:2007/05/02(水) 22:32:10 ID:9B4/6ubT
だから家康に関東ではなく、蝦夷地(北海道)を与えればよかったんだよ。
関東よりも面積は広いのだから。
716 :
人間七七四年:2007/05/03(木) 00:31:04 ID:dPVmsDdo
その時点で全面戦争だっつーの
717 :
人間七七四年:2007/05/03(木) 01:10:56 ID:zE/SyXTw
現代で言えば南極やるから日本から出ていけって
言われるようなもんだ
当時の蝦夷は石高ゼロだし
戦仕掛ける言いがかりとしか受け取れない
718 :
人間七七四年:2007/05/03(木) 01:13:18 ID:6ke+/FPA
事実上の国外追放ね。
ていうか、あんたの領土全部没収! といってるのと変わらん。
719 :
人間七七四年:2007/05/03(木) 01:23:03 ID:byO5fDwm
徳川(松平)は織田配下の弱小大名だったはずだが、
いつの間に毛利を超える大勢力になっていたんだ?
720 :
人間七七四年:2007/05/03(木) 02:03:54 ID:dOcRSsH8
家臣は関東移封に反対だったが、家康は乗り気だったね。
いろいろと過去のしがらみを断ち切れるし。
家康にとっては天下を治めるための絶好のシミュレーションになった。
まあそれも並外れた統治能力があればこそだが。
721 :
人間七七四年:2007/05/03(木) 11:27:23 ID:ZvpTXbrj
>>719 本能寺のドサクサに紛れて
織田領分捕ってから
722 :
人間七七四年:2007/05/03(木) 15:00:47 ID:Nb5KMmfj
弱小も何も三遠駿の太守で
栄華を誇った義元並にでかかったけどな
723 :
人間七七四年:2007/05/03(木) 15:14:07 ID:J67V/F/S
しかし所詮は織田に隷属して生き延びた存在
現代では何故か「同盟」という詐欺表現が使われているが
実態は完全な主従関係だった(言うまでもないけど)
724 :
人間七七四年:2007/05/04(金) 19:40:08 ID:NIygoy/p
関東へ移る前の家康旧領石高が甲斐・信濃・遠江・駿河・三河で
各国合わせて131万石という計算になる
関東に移って250万石以上
秀吉はとんでもない加増をしたということになる
725 :
人間七七四年:2007/05/04(金) 21:58:10 ID:dOc2QuTR
age
726 :
人間七七四年:2007/05/04(金) 22:39:49 ID:9dKH9v7Y
>>724 北条と交渉したり
各地の支城を陥落させたり
東北の大名を取り成したり
なんだかんだで徳川の軍功が一番でかいからな
三成なんて指揮官として箔を付けさせるつもりが失敗して右往左往してただけだし
今では秀吉の楽勝のイメージが強いが実際は秀吉の目論見が外れたことが結構ある戦なんだよ
727 :
人間七七四年:2007/05/05(土) 01:39:42 ID:Pf/sm10F
力で抑えられなかった徳川に無理に移って貰う立場だしなw
728 :
人間七七四年:2007/05/05(土) 09:22:22 ID:fwSFy9OF
家康は相手が生きている間は本当に従順に尽くすからな(芝居?)・・・。
ずっと天下を取ろうとして今川〜織田〜豊臣にしたがってたのか?家康が従っていた奴らはみんなその時代では天下取りに近い奴らだったのもすごいが・・・。
今川が桶狭間で死ななくても家康は結構良い地位だったんだから天下取れたかもな
729 :
人間七七四年:2007/05/05(土) 10:30:12 ID:C2zhTz5f
芝居ではなく、無理をしていないだけだと思う
そこら辺の情勢判断、或いは保身センスは手放しで評価できる
しかしいける、と思えば今川からの離反や一向一揆、小牧長久手、関ヶ原の様な思い切りの良さもあるしな
家康は有る意味、最も戦国大名らしい戦国大名
隙を見せたら食らいつかれる
730 :
人間七七四年:2007/06/01(金) 19:28:22 ID:KS8x+RPq
保守age
731 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 03:37:58 ID:6m/lQ/fY
結論: 関東移封は失敗
移封するにせよ、なぜ関東のように、平野が広くて、一円的な地域に封じる必要があったか?
石高や面積が大きくても、山がちだとか地理的に統一のとれにくい場所にすればよかったのに
例えば、上杉景勝は、移封で石高は増えたけど、会津・米沢・北越後・北福島周辺など、
山で寸断されたポテンシャルのない場所を与えられた。これを家康にやればよかったのだ。
北条征伐後は、小牧長久手時とは状況が違って、圧倒的に秀吉優位の状況である。
九州も収まったし、関東東北も治めており、すでに敵対する勢力はない。
とにかく、朝鮮成敗に向かった軍勢をそのまま家康に向けていれば、家康といえども勝ち目はない。
移封を拒否すればしたで、それを口実に征伐すればよかったはず。
あんなに賢かった秀吉が、なんでここまで甘いのか首をかしげるほどだ。
天下をとったことで、変わってしまったか。
俺だったら、
丹後・若狭・因幡・ほうき・美作・丹波あたりに移封するな。
これらは、京に近いし、あからさまな飛ばしじゃないから、諸大名への同様も抑えられる。
反面、これらの土地は、交通網からはずれていて、平野も少なく、潜在実力が少ない。
石高が足りなければ、飛騨とか伊豆とかの細切れの飛び地をくれてやる。
732 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 03:46:22 ID:6m/lQ/fY
言い換えますと、
旧足利幕府における 一色氏や畠山氏のような立場にする
四職家といわれ官位も高いけれども、そして領国は京都に近いけれども、
丹後・若狭・能登など、天下取りの基盤となりえない場所に押し込める
733 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 23:57:33 ID:nUXw12Ru
家康の理想的な移封先を考えるスレに変わりました。
漏れ的には、
1.遠国だとあからさまだから、中央に近いけど実質生産性に乏しい地域を選択する。
2.国数は、移封前の5カ国と同等かわずかに多くする
3.石高も、移封前と同等かわずかに多くする。
それらにより、外様大名が抱くかもしれない不審感や不公正感を緩和する
以上の方針の下、
プランA:
丹波、但馬、因幡、丹後、若狭、美作、伯き、隠岐 (山陰道8州)
○3カ国加増の昇進に見せかける 京都の近くであると恩を売る
○首府は、篠山城か鳥取城か?求心力のある首府とはなりえない
○毛利と豊臣と宇喜田に挟まれた形になる
○畿内経済圏から外れた山陰に閉じ込める効果
プランB:
越前、加賀、能登、越中、飛騨、若狭、丹後 (北陸道7州)
○2カ国加増、近国配置、石高増加により昇進に見せかける
○首府は、越前府中か、金沢か?
○石高は稲作地帯を含むため高くなり、プランAよりリスクがある
○だが、真に価値のあるのは、「越前、加賀、越中」の3国だけという罠
○山に隔てられた豪雪地帯なので、機動力を奪うことができる
プランC:
駿河、甲斐、信濃、飛騨、上野、下野 (中部6州)
○徳川が根を張る三・遠2州を召し上げ、飛騨・上野・下野を与える
○首府は明らかに駿河
○上野・下野・飛騨の3国は、駿府から遠く、実際の一円支配は困難
○上野・下野以外の北条跡地には、豊臣の縁故大名を入国させる
○しかし、中部は戦国時代の枢要な地域であるため、リスクは大きい
みんなはどうすればよかったと思いますか?
734 :
人間七七四年:2007/07/19(木) 23:59:17 ID:xRQ4vlmU
>>732 土地を動かす以上は加増しないと誰も納得しない、
秀吉の台頭がなければ織田に潰されていた上杉と、
既に東海に巨大な要地を構えていて織田の時代からの功労者である家康では与える土地に差が出るのは当たり前。
むしろ景勝は元の状況から考えれば家康以上に過大な恩恵を受けた大名だ。
いくら秀吉が天下を取ったからってなんの理由もなく功労者を減俸してしまうようじゃ誰もついてこない。
信用するところは信用していくようにしなければ戦国時代直後の政権など保てるはずがない。
あと、散々秀吉の読みをバカにしてるが、実際
関ヶ原では徳川は関東で離れてしまっていたがために、
途中の真田に足止めされる形に成り、徳川の本隊はたどり着けず、
本戦の結果は毛利の動向で趨勢が決した。
家康は関東へ送れば充分、毛利こそ警戒すべきと考えた秀吉の読みは少なからず当たっていた。
735 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 01:05:45 ID:RVZwcBxg
>>734 @三河、遠州、駿河、甲斐、信濃半国 (4.5カ国)
A若狭、丹後、丹波、但馬、因幡、ほうき、美作、隠岐 (8カ国/京都の近く)
B越中、加賀、能登、越前、飛騨、若狭、丹後 (7カ国/石高高い)
@がもともとの家康の勢力だけど、
石高や国の位地からみた、外見上の有難さは、B>A>@ でしょ。
だったら、関東のようにまとまった平野部分よりかは、
AやBに移したほうがよかったんじゃないかな?
(T)外観上の「有難き幸せ」度は、旧領よりあるけれども
(U)実質的には、中途半端で脅威とはなりにくい領地
に移すことができたんじゃないかって、検証してみようというわけです。
Aとかは、旧来的な価値観からすれば、明らかに栄転でしょ。
三河の田舎モンの延長から、上方の大身になれるのだから。
実際、豊臣株式会社で、安定的な給料で守りに入ろうとするサラリーマンになるなら、
Aは、あながち酷い扱いとはいえないはず(足利政権下の山名氏のような立場)。
でも、Aだったら、地理的に、豊臣を攻めるような勢力にはなり得なかったでしょう。
関東にまとまった大領土を与えるのは、虎に翼をあたえて野に放つのと同じ。
736 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 01:09:32 ID:RVZwcBxg
>>734 それに、誰も納得しないかもしれないが、それくらいの無茶なら全盛期の秀吉ならできるでしょ
信長だって、家康だって、ずいぶん無茶をしてきたし 秀吉だって、もちろん無茶をしてきた
どうせ無茶をするならば、対家康にだけ集中して無茶をすればよかったのだ
背に腹は変えられない
737 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 01:25:16 ID:SDU23Hx7
あっさり秀吉死後に毛利に乗っ取られて史実より早く滅亡しそう。
738 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 01:31:00 ID:RVZwcBxg
>>737 それはないだろ あれだけの大身ぞろいのパワーバランスで、
よほどスーパーキャラじゃないと、島津も伊達も受け入れないぞ
739 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 02:03:27 ID:KJZnoX4p
日本海側は優良経済圏だぞ
740 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 02:08:20 ID:RVZwcBxg
>>739 確かに商業の恩沢を受けるのは日本海だが、
ちょと、ジモティには失礼だけど、鳥取や篠山じゃあ、いくら開発しても伸びシロが少ないから、
国家統一の偉業を成し遂げる根拠地にはならないだろ
坂東平野は未開の地だけど、開発ポテンシャルが高すぎる
独立割拠するには格好の別天地 幕府開いてくれっていってるようなもん
これまで、源頼朝、足利尊氏、武家政権はみなすべからく坂東割拠を出発点にした
741 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 02:22:11 ID:SDU23Hx7
>>735 実際Aは悪くないと思う、ただちょっと隠岐がひとつだけこじつけっぽいし
従順に働き続けた忠臣に対する恩賞の意味もあるんだから
いくら中央と言っても20万石近くも低下させてしまうのでは無理があるので
その位置関係だと播磨をある程度は与えないといけないと思うが。
さらに若狭・丹波を与えるのは相当な度胸が必要だと思う、
実際秀吉もここは身内を入れてるし、街道と海路の中心に当たるここは喉笛のようなもの、
これなら東海にそのままいた方が余程安全。
また関東はどうするのか?
巨大な土地を与えてしまったら意味が無いし、バラしてしまったら飛ばされた大名は確実に不満を持つ。
かといってそれなりの実力のある大名じゃないとこの土地を治める事は不可能なわけで。
誰かは結局信用して東を任せないと政権などもたないと言う側面も忘れてはいけない。
誰も彼も敵とみなして警戒する事も結果だけ見れば必要かもしれないが
天下を統一した秀吉は今度は統治する必要性も出てきた事を考えれば、
最初からあまり優遇する気のない東国を抑える重石として関東に実力のある大大名は必要になる。
家康はその役目をしっかり果たしていた。
742 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 03:07:27 ID:RVZwcBxg
関東には、血縁筋、福島や加藤、浅野らを入れるか、
あるいは親類をいれるか、蒲生あたりを入れるか、といったところかな。
関東は分解しても、北条討伐の結果だから、あまり不満は爆発しないでは?
やはりどうかんがえても、関東まるまる投げ与えは危険すぎる
秀吉ほどの人間なら、家康がいかに油断ならない人物かをしっているはずだし、
また家康と三河衆がいかに鉄の団結で戦も最強だったかしっているはず。
だとしたら、さすがに、関東与えて、豊臣本領よりも石高が上なんて状態は、
通常の危険予知能力があれば十分死後の危険を察知できておかしくないんだが・・・
東海地方に残すデメリットは大きい。
@坂東畿内間との交通を独占できるから、そのまま坂東までも家康の影響下におかれてしまう。
A東海三国は、徳川が根をはるだけはりまくっている。
B戦国時代にもっとも武を誇った精強な地域である。
C駿府は、天下を望む根拠地として十分適格する。
反面、山陰や北陸だら、一地方勢力で終わる可能性が強い。
丹波や若狭は、そんなに重要とは知らなかった。
ならば、丹波をやめて、出雲や、備中北部・播磨北部・丹波西部など内陸部を切ってあたえようかな。
そうして、石高がぎりぎり、旧領とほぼ等しくなるようにして、
それでも拒む場合は、朝鮮征伐にかけることができた動員力をそのまま対家康に対して差し向ける。
または、プランB(北陸案)か、プランC(三遠・毛野交換案)に切り替えるか。。。
743 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 05:11:51 ID:KJZnoX4p
>秀吉ほどの人間なら、家康がいかに油断ならない人物かをしっているはずだし、
>また家康と三河衆がいかに鉄の団結で戦も最強だったかしっている
知らんだろ
家康は戦国でも珍しいぐらい長い同盟を信長と結んだ律儀者。
家康家臣団の巨頭の石川数正は出奔して秀吉に仕えた。
744 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 12:03:45 ID:fbd6op+3
というか、家康の関東移封は不安定な北条滅亡後の関東と新規服従勢力の
東北を押さえ、監視する(あわよくばその役目で小さな失敗を起こさせて
家康に難癖つけ減俸する)ことも考えられてたわけだから、家康をどうこう
というより日本中のパワーバランスを根本から考え直さないと。
かといって既存の大名家をあれもこれもと鉢の植え替えすると逆に日本中
が大混乱して戦国再びになるわけだけども。
745 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 18:59:05 ID:pOJEE41p
>>742 >C駿府は、天下を望む根拠地として十分適格する。
>反面、山陰や北陸だら、一地方勢力で終わる可能性が強い。
何だこれ?
だらって静岡県民の地元びいき?w
746 :
人間七七四年:2007/07/20(金) 23:50:25 ID:e9+47MeB
>>745 いいえ。でも確かにそれは思った。越前府中や金沢は広域圏の雄となりえるからな。
でも、柴田勝家が中央とのつながりの不便さで相当損をしたから、そう思ったわけだ。
んじゃこれはどうだ?
移封国: 越後・上野・越中・飛騨・能登の5カ国+プラスアルファ(北信濃あたりか)
石高: プラスアルファで調整して、もともとよりも20万石くらい加増になるようにする
上杉謙信の最大勢力範囲と同じくらい
北陸をカバーして、物流や農業でそこそこ物成りも良くなるけれども、
領地は東西に長細く伸びていて、それぞれ山で隔てられているから、
地政学的に求心力のある独立勢力になりにくい
実際、上杉謙信は、山で隔てられた上野を維持できずに、武田北条に奪われているし、
領地をなんとか維持するだけで汲々となるだろう
それが、飛騨や能登にもあてはまる形になる
首府は、高田あたりになるのかな
747 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 09:16:27 ID:sqV7lIC5
748 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 15:02:46 ID:nHtMPqsx
>>747 加賀も呉れてやるよ
前田には、三・遠・駿の三国を守ってもらう
749 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 15:08:47 ID:nHtMPqsx
>>748 名目上の石高は上になるだろ
むかしの、桃井直常・石塔頼房のような足利直義派のような勢力にする
東海道に居座られると、東国まで影響下におかれてしまうし
関東をくれてやると、独立を認可しているようなもん
これらにくらべれば、北陸は、安定的で豊かな経済力はもらえるけど、
地政学的には、脅威は薄くなるよー
どうだい、北越の一勢力として閉じ込めるには適している
750 :
人間七七四年:2007/07/21(土) 16:57:39 ID:sqV7lIC5
加賀をもらえるのであれば一気に能登は後顧の憂いがなくなる上に
仮に上野が無くても140万石になる、関東より中央に近いし、海路は開けてるし、
東北にも関東以上に顔が効く事になる、これではあまり意味が無いような気もする。
また上野にしても、上杉謙信が苦労したのは越山してきては上野の北部を取っただけで
帰らざるをえなかったと言う中途半端な状況によるところが大きい。
また、信頼できる城代に任せる事が出来ない状勢的な問題もあった。
だが上野の全域・50万石を貰えるのであればこれはもう単独で充分関東を睨む事のできる存在になれてしまう。
そこに三河譜代の信頼できる重臣を入れれば何の問題もなくなってしまうだろう。
経済圏・石高は言うに及ばず、史実以上に中央に関わりやすく、
関東も東北も睨める200万石弱の太守であれば、もはや史実大して変わらんような気がするがいかがか。
751 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 01:29:05 ID:t9ocNcYp
うむ。それも一理ありますな。
(ただ、上杉謙信は、最初は上野の南限まで抑えてた気がするが。)
それにもかかわらず、やはり関東移封は、完全な失策といわざるを得ないと思う。
すでに書いたとおり、源頼朝、北条泰時、足利尊氏、みな関東割拠により天下をとった。
鎌倉公方も、ずっと独立していた。関東はほんと独立国をつくってくれといっているような感じ。
じゃあ、石高を増やして移封するよりは、もとの4国半の状態で放置して置けばよかったのだ。
関東攻略には、家康は参加させないで単独で実施。それにより、恩賞も対象外にする。
(まあ伊豆くらいは北条外交の褒美としてあげてもいっかな。)
そうすると、家康領地は、
駿河・遠州・三河・甲斐・信濃の南部と中部 となる。
土着ゆえに脅威はあるけれど、
@関東には家康ではなく宇喜田秀家を入れる
A尾張美濃伊勢を畿内とあわせて豊臣直轄領にするか、強力な親藩に与える
B越後・北信濃・上野は、前田利家か蒲生氏郷に与える
こうすることで、東海徳川領の四境をすべて豊臣ガチで固める。
これなら、山がちな田舎5カ国未満である徳川の脅威は、関東に移すよりは低いはず。
752 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 01:34:49 ID:zmWRVuyQ
関東割拠というほど尊氏は関東に割拠してないだろ
お前なんど鎌倉堕とされてるんだよと突っ込みたくなるぐらいだ
753 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 01:52:11 ID:t9ocNcYp
だけど、独立しようとするときにまず拠点になるのがなぜか皆坂東の地なんだよな
それに南朝に対して不利になっても、関東は確保していることがほとんどだったから、
京都を失陥したとしても、すぐにまた挽回を図ろうとしてる 子供を関東に置いていたし
坂東の草原は、ポテンシャルがあるし、武士を統率するには適している
それに、山脈によって領地が隔てられてないから、一円支配が容易い
四境はすべて山脈か海で囲まれている 領域も細長くもなく、まるい円のように広がる平野
754 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 04:12:43 ID:0QqnL7DK
>>751 関東小田原の征伐以前から家康は従軍してるから今更と言う感じではあるが、
小田原征伐に参加させないなどそれこそ無意味、もちろん単純な兵力で言えばそれでも勝てるだろうが、
家康は確実に信頼されてないことによる不信感を覚えるし、ムダに不穏な動きは他の大名に不安を感じさせる。
それどころか家康は北条氏直の義父、北条と手を組む路線もあるわけで、
そうなったら奥州の伊達政宗も抗戦の構えを見せてくる可能性が大きくなる。
北条+徳川+伊達の推定550万石弱の勢力との激突なんかになったらもうどうしようもない。
例え勝てても東日本は焦土と化す、もはや豊臣政権にも日本を治める余力は残らんだろう。
また宇喜多秀家に何万石与えるつもりなのかは知らないが、小田原攻めの時の彼の年齢は若干18歳。
その後も中央に非常に近く、父の代からの備前国を大領と共に安堵され、朝鮮出兵でも大将を任され
秀吉からも信頼され可愛がられていた10年があったればこその関ヶ原での忠誠であって
いくら領土が増えようと、若年のうちに旧来の土地から追い出され
中央からも切り離され、元敵国の大変な土地と東北も東海も抑えろと言われて困らない奴などいない。
史実と違ってこんな扱いを受けた秀家が秀吉亡き後に、
関東でいつまでも豊臣を守ってくれているなんて理想論に過ぎない。
しかも宇喜多家は非常に内乱の多い家(父が父だからしかたないが)
関東なんて中央の目が届かない土地に行ったらそれこそ危ない。
まともに関東を治められる可能性が低すぎる。
755 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 04:35:46 ID:zmWRVuyQ
鎌倉って関東平野と関係ないとこにあるだろうと小一時間
756 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 09:07:58 ID:bP9LaPoh
前田を関東に移す
家康には飛騨か伊豆を与える
尾張美濃伊勢は豊臣本領に編入
757 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 09:08:31 ID:bP9LaPoh
758 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 10:21:26 ID:0QqnL7DK
>>756 徳川や毛利に対して「主君として恩賞を与えている」という事実が
何よりも天下を治めていることの既成事実になるという意味も大きい事をお忘れなく。
徳川にその程度しか恩賞を与えられないようでは、史実より求心力のない豊臣政権になるだろうな。
それでは先もたかが知れてる。
あと本領をふやすと言う事はそれだけ自身で統治する苦労が増えると言う事も考慮が必要。
759 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 13:34:39 ID:wGwTSabo
足利の基盤は三河武士だったな
吉良、今川、細川、一色など
760 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 15:25:19 ID:zmWRVuyQ
そゆことだね
新田郷と足利郷は関東にあるけど
761 :
人間七七四年:2007/07/22(日) 17:39:31 ID:f2hXiCLl
現実追認しか能のない腑抜けは共に語るに足りず
762 :
人間七七四年:2007/07/23(月) 14:26:40 ID:zX6llaCt
>>742 >家康と三河衆がいかに鉄の団結で
そうか?
三河武士の忠節なんて後から言われたことで、実際にはむしろ関東移封によって
武士団との土地給付関係が築き直され、家康が求心力を強め「三河武士団の頭領」
から「三河武士団の主人」に成りおおせたんじゃなかったか
763 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 04:04:16 ID:XZ95LETU
>>762 それよりはるか前の三河一向一揆後、
家康直属軍「旗本備」をつくって強化することで、
家中の専制体制の強化をはかってる
764 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 12:19:42 ID:4gvAHLAl
なら何で家康は信康を殺さなければならなかったのか
なら何で石川は秀吉に寝返り、徳川の軍制を悉く漏らしたのか
765 :
人間七七四年:2007/07/24(火) 19:45:54 ID:E2TeAJkI
馬鹿の見本のようなレスですね
766 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 15:01:26 ID:StNQ1Fvq
馬鹿に釣られてやるよ
信康を殺したのには諸説があるからどれとは言えんが信長が殺せと言ったのが、1番でかいんだろうな
石川については少しくらい調べてみろよ
767 :
人間七七四年:2007/07/27(金) 17:39:22 ID:8zKyk/T5
どう考えても徳川家の意向だろ>信康殺し
768 :
人間七七四年:2007/07/28(土) 00:51:38 ID:yFZ4ZUE0
764のレスのどこが馬鹿の見本か、と言うと、
「家中の専制体制の強化をはかっている」
ということの反論として、
家中のクーデター未遂事件や家臣の離脱事件を上げているところ
「クーデター起こされかけてるんだから、専制体制なんかできていない」
といいたかったのだろうが、
あれほどの独裁体制誇った信長でさえ最後はクーデターで死んでいる
「専制体制の強化をはかってたらクーデターは起こらないはずだ」
というあまりに幼稚な反論だから、馬鹿の見本といわれてしまう
直属軍とされていた旗本備が実は家康の直属軍ではなかった、とか言うなら、
「だから別に家中の専制体制の強化ははかれていない」
と立派な反論になるんだがな
769 :
人間七七四年:2007/07/29(日) 00:21:35 ID:JEgp5Vpi
ん?その三河時代はその「旗本備」の強化が中途半端だったのが。
関東移封でそいつらに所領を多く与え、古参の酒井とか平岩とか鳥居とかは
微禄に抑えたことで完成したんじゃねーの?
>>769 三河一向一揆後の徳川家の軍制は、
まず、徳川領内の古参の実力者である酒井・石川両家老による二つの備があって、
この二つの備だけでみれば、
戦国期によく見られる「領主連合型」の軍制といえる。
(領内の諸領主の上に大名が乗っかっている、という形)
ただ、ここで家康が一つ手を加えているのは、
酒井・石川ほどの大領主ではない、本多・大久保・榊原・鳥居といった、
勢力の小さな諸領主達を直臣として城下に常駐させて、
これを酒井・石川の両備とは別の、「旗本備」として家康の常備軍としているのね。
この「旗本備」の大きな特徴は、
「先手備」として常に合戦の主力として戦闘に加わっていっていたこと。
これが「馬廻衆」といった親衛隊との大きな違いで、
要は家康は自らの意のままに動かせる常駐の戦闘集団を組織して、
家臣団に睨みを利かせることが出来るようにしたわけだ。
つまり酒井・石川といった諸領主の上に乗っかった「領主連合型」の軍制から、
一歩大名の専制色が増した軍制で事にあたっていたわけ。
そして、おっしゃるように関東移封後には、
この旗本備だった連中が徳川四天王と呼ばれる家臣団の中枢を為すほどになっていて、
家康の家中の専制体制はほぼ完成、
「領主連合型」の政治からは脱却しているわけだね。
だから家康の家中における専制強化は、
関東移封時に完成したのは確かだけど、
その始まりははるか前の三河一向一揆のあたりから、ということ。
771 :
人間七七四年:2007/09/03(月) 03:14:19 ID:U/AzcsPx
772 :
人間七七四年:2007/09/09(日) 23:54:45 ID:gDEtD7qg
家臣の中から誰か分離独立させればいいんじゃない?
773 :
人間七七四年:2007/10/09(火) 16:27:45 ID:Y/ucyu9l
秀吉から見れば東国に封じ込めたつもりなんだろうけど
家康が災い転じて福となしてしまったかんじ。
774 :
人間七七四年:2007/10/10(水) 16:38:42 ID:oGz26LwK
蝦夷は五百万石っていってたひといたから、蝦夷に飛ばせばよかったのにね
775 :
人間七七四年:2007/10/10(水) 19:08:25 ID:nFIVBZC9
>>774 あれは蝦夷地が四国の南側に移動できたらという条件だったろ?
776 :
人間七七四年:2007/10/10(水) 19:27:18 ID:oGz26LwK
四国方面に移動しなくても、米はつくれんでも、交易で二百万石はいくんじゃないか?
777 :
人間七七四年:2007/10/13(土) 01:57:15 ID:GCslut48
>>776 室町後期あたりから江戸初期にかけては蝦夷地は大陸北部との交易が絶たれて地場の産物の本土
への輸出しか出来なくなってたから精々50万石程度の歳入にしかならんと思う
寒冷気候が長く続いて大陸への窓口である今の沿海州辺りがほぼ無人になっちゃってたのが原因
その後、清朝の時代に民族の故地である沿海州に民族の威容を示すがごとく再移民(女真族限定)が
行われて蝦夷地・樺太との山丹貿易が再開、松前氏が美味しい汁を吸ったと。
778 :
人間七七四年:2007/10/26(金) 01:16:32 ID:EBmWTEdF
hosyu
779 :
人間七七四年:2007/11/10(土) 10:46:03 ID:c2+5sett
昔は、正確な地図がなかった。
関東平野がこんなに大きいとは知らなかった。
更に、秀吉は小田原近郊しか行っていない。
当時、関東で栄えていた小田原が、畑が多い貧弱な町だったので、
関東平野の将来性を誤った。
ということで、正確な地図が無かったのが原因では?
780 :
人間七七四年:2007/11/10(土) 15:21:19 ID:95XDMWga
>更に、秀吉は小田原近郊しか行っていない。
関東縦断して宇都宮→会津まで行ってますが
781 :
人間七七四年:2007/11/11(日) 01:33:42 ID:6l9fPh8u
>>779 正確な地図以前に太閤検地の武蔵・相模・上野・上総・下総の合計数値見るだけでも普通気付くだろw
栄えてるのも土地が肥えてるのもわかっててなお、
秀吉は京中心の考え方から脱却できなかったのではないかと。
782 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 17:09:27 ID:lhAmTwwF
武蔵・両総に先祖伝来の地の岡崎周辺、東北、四国、九州と飛び地で領地与えるとか。
ついでに僻地の領地は信吉・忠輝とかの息子に家康の有力家臣つけて行政権を与えるとか。
783 :
人間七七四年:2007/11/14(水) 21:43:16 ID:XZY88GsN
>>782 信吉は7歳、忠輝に至っては生まれてないよ。
いくらなんでも無茶でしょ。
784 :
人間七七四年:2007/12/13(木) 23:33:06 ID:mqUadVcD
家康を恐れて気を使ったんじゃなくて、逆に見くびってたんじゃないか?
250万石与えても牙をむくとは思ってなかったからくれてやったんじゃ。
785 :
人間七七四年:2007/12/14(金) 00:09:24 ID:f1y9R1lj
まぁ常陸を佐竹に統一させたり、会津に蒲生とか甲斐に浅野とか越後上杉とか家康牽制役を配置しまくったからな。
秀次とその補佐の田中・堀尾・山内・中村ら東海筋は従属して固めてるし。
俺は家康を固めて封印成功してると思うよ。
やっぱり秀次を殺したのが明らかな失策。
786 :
人間七七四年:2007/12/14(金) 01:53:30 ID:TOrgclCc
秀吉が小田原近郊しかいってないとか地図がないとかひどいデマが横行するスレだが、めげすに陽明学!
787 :
人間七七四年:2007/12/14(金) 05:11:13 ID:f1y9R1lj
あれ?秀吉は宇都宮までじゃナカタ?
788 :
779:2007/12/24(月) 21:48:07 ID:Gf3lP0fx
言葉足らずでした。
家康の関東移封を決めたときは、小田原近郊までしか行ってないと思っていたが・・・。
石高って、米の収穫量だけでしょ。石高のみで論じると、山城は小国。
やっぱり人口で論じないと・・・。
789 :
人間七七四年:2007/12/25(火) 00:11:47 ID:j+GNQEFX
伊豆一国の加増でもよかったんだよな
790 :
人間七七四年:2007/12/25(火) 11:33:07 ID:x5HoxEix
家康を奥州に飛ばせば良かったんだよ
家康には陸奥と出羽を与えて、津軽・南部・秋田・最上・伊達・相馬・岩城なんかを関東に移す
蒲生氏郷に武蔵・相模・伊豆を与えて、伊達には上野を与える。
その他の奴等は下総・上総に飛ばせばOK
常陸と下野はそのまま、佐竹や結城や那須なんかに任せれば良い。
家康の総石高は関東のパターンと同じく250万石くらいになるから、兵力はそんなに変わらない。
史実通りに進めば、おそらく家康は越後の上杉と常陸の佐竹から牽制される形となり、更に領地が東北にあるため一揆にも結構苦労する。
伊達政宗は野心家だから、やっぱり家康と同盟して越後や関東を睨むだろうし、下野衆もおそらく家康の支配下に入ると思う。
でも、南関東を平定するのに家康は時間がかかるだろうから、その間に西軍は箱根あたりまでは進軍出来ると思う。
そうなれば家康は袋の鼠でひゃっほーいとなる。
791 :
人間七七四年:2007/12/25(火) 12:18:37 ID:0VKvMuK+
そんな事したら大反乱だろw
792 :
人間七七四年:2007/12/25(火) 12:39:59 ID:xJkdfnJj
>>790 関東転封でも家康カワイソスな雰囲気だったらしい
それがトーホグなんて僻地だと家康も承服しないんじゃないか
で、北条とのタッグで豊臣に歯向かう
793 :
人間七七四年:2007/12/25(火) 16:07:43 ID:HeuEouaZ
>>788 関東は畿内と並ぶ人口密集地。
武蔵(71万人)だけで広大な奥州(79万人)と同じくらいの人口があった。
今の千葉県に当たる上総・下総・安房も合計で70万人以上いた。
794 :
人間七七四年:2007/12/25(火) 16:29:10 ID:0VKvMuK+
>>793 それ何年のデータもの?
興味あるのでソース教えてください。
795 :
人間七七四年:2007/12/25(火) 17:16:34 ID:dNzK2S1Z
1600年。
どこのサイトか忘れたが、時々この板にリンクが貼られてる。
ちなみに甲斐の人口は11万人だったかな。少ないw
796 :
人間七七四年:2007/12/28(金) 02:00:13 ID:VwtKDCR4
今だって山梨の人口は千葉の1/7くらいだろ
797 :
梶山幹事長:2007/12/30(日) 01:19:57 ID:DX80+1rQ
武蔵野は沃野だと気づいた徳川軍団が正義だ!
798 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 12:41:24 ID:urBaO+BY
いや利根川などの大河川が氾濫しまくる不毛地帯だから。
古来、どんだけ水害で死亡した人間がいると思ってんだ。
まずは関宿スーパー堤防を見学してこい。
799 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 13:03:15 ID:DJ6wM5n0
不毛地帯だったら人口がこれだけいる理由は何だ?
生産力のある土地だから人が集まるんだろ。違うか?
800 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 15:38:37 ID:0eiT7vZ9
ナイル川と利根川同じ理由だよ氾濫するから肥沃な大地で生産上がるんだし
801 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 15:45:38 ID:/Ohvfa/l
台風がある日本とナイルを一緒にするなよ。
下総に至っては武蔵から小船で苦労して大湿原を渡るほど。
だから東海道は相模→安房→上総→常陸なんだぞ。
802 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 16:29:00 ID:4uWFkru+
それは平安時代まで、鎌倉時代から開発が行なわれている。
これは鎌倉幕府によって行なわれた。
803 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 18:35:31 ID:OG1GaN0D
豊後の小さな城でも5万住んでたわけだが、当時の日本の全人口はいくつだっけ?
804 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 18:45:07 ID:UXkjjQJ9
1590年頃で約1800万人と言われている。
805 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 19:23:11 ID:urBaO+BY
>>802 具体的にはどんな政策やったん?興味あるから教えてください。
江戸期の利根川東遷事業や印旛沼の埋め立てで田畑開発をするまでは大きく改善したとは聞いてなかったのでぜひ教えてください。
806 :
人間七七四年:2007/12/30(日) 21:45:09 ID:Bh2TE1SF
>>805 湿地帯を先ず水抜きして荒地にし、次に開墾を行う。
ある程度、生活にゆとりができると入植前の神を祭る。ここまで20年。
「吾妻鑑」とこれらの記録により、埼玉平野では河川流域に平行して
層状に入植が行われてるのが確認できる。
鈴木理生著『江戸はこうして造られた』より参照。
807 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 00:55:35 ID:97J1pDVg
808 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 03:28:23 ID:o8EtLCii
「荒川(あらぶるかわ)」って言うくらいだから難儀だったと思うよ
あとは富士山と浅間山が灰を巻き散らしてただろうしね
809 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 03:32:02 ID:o8EtLCii
500年くらい前なら京都上方では文化的な生活があり日本料理の基礎が作られた頃、武蔵野くんだりではまだまだカエルやイナゴがメインの蛋白源なんだろうな
810 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 04:18:26 ID:uzSL7Wau
そこからいきなり江戸時代にはなれんっつーの。
811 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 06:38:14 ID:PkUPjno/
>>807 確かに楽天ではないが、かなりの生産力はある。第一、利根川東遷工事は徳川家に付いては治水ではなく、房総半島を通らずに、物資を送ることを目的としている。
実は記録的な大洪水が起きるようになったのは利根川を付け替えてからだったりする。
812 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 11:23:49 ID:TUR+6MAG
城郭建築の軍事技術の平和的利用と土木技術の粋を集めて立ち上げた利根川東遷事業は
江戸北辺の防衛目的
家屋財産を守る治水目的
江戸を支える物資輸送力目的
と多くの意味があった。
さらに農地の拡大を目指し下総の印旛沼などの埋め立てを目指すも難航し幕閣の政争に利用される事になり成功をみなかった。
そしてこれらは明治政府も受け継いだ国策事業。
813 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 14:42:17 ID:jx3n4h9n
開墾技術が成立していたため 関東から 移らなかったんでは? まあ 京から ある程度距離あるのは 魅力ある
814 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 15:24:54 ID:TUR+6MAG
潅漑農業の伝播については農業先進地伊勢神宮への江戸期の参拝が関わっているらしい。
戦国期の越後などは潅漑が行われていなかったと言われているが関東はいつぐらいから潅漑が行われたの?
ちなみに戦国期に芦名領住民らの大規模な伊勢神宮参りが行われた記録がある。
815 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 20:01:45 ID:2TIekI/1
>>814 伊勢から関東にかけては平安末期より、伊勢神宮の保護を受けた定期航路が存在している。
816 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 22:25:34 ID:G/dyFE+D
関東といっても房総には里見、上州にも真田、常陸に佐竹など
先住民いたから結局は200万石弱程度しかないわけで
目的はやはり京都から少しでも遠ざければオケー、なのでは?
817 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 22:49:01 ID:p+cvBrfw
江戸時代以前のものとしては上野での長野業政が作ったとされる長野堰や渡良瀬川から水を引いた新田の周辺の用水がある。
長野堰流域は高崎台地と呼ばれる微高地で、元々小規模な河川がありその周辺には稲作遺跡もあるが、
後背湿地と小河川を除けば全体的に水不足になることは免れない土地柄であり、
長野堰が分水によって灌漑区域を飛躍的に広げたことは間違いない。
ただし長野堰が出来た後も慢性的な水不足に悩むことになる。
対して、高崎台地の東の前橋台地は利根川の伏流水による湧水で高崎台地よりは水が豊富だった。
武蔵野台地の東側(武蔵野面)は本来の高崎台地と同じく水が少ないところで、
農業用水どころが生活に必要な水も得ることは難しく、
開けるには家康の入府による玉川上水や野火止用水の開削を待たねばならなかった。
大宮台地についても似た状況だった。
ただし武蔵野面の東は古来から条理遺構が発達した地域で、水も豊富だったものと考えられる。
武蔵野台地の西側(多摩川流域)は湧水があって非常に恵まれた土地で灌漑の必要もなかった。
『府中』なだけあって、この水に恵まれた地域が武蔵で特に豊かなところだったんだろう。
小田原周辺も湧水が豊富でやはり灌漑の必要もなかっただろう。
前橋台地、武蔵野面の東、小田原周辺にはかなり大規模な条理遺構が見られる。
関東は渡良瀬川と江戸川のラインで西と東に分けられるが、
西関東では湧水が豊富な平野での農業が行われていたのに対し、
東関東では平野部は沼沢地なので古来から谷田地(谷津田)での農業が中心だった。
>>798さんや
>>801さんがいうのは東関東の話だろう。
東関東での大規模な条理遺構というと宇都宮の辺りくらいになる。
818 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 23:02:28 ID:TUR+6MAG
>>871 勉強になります。ありがとうございます。
ちなみに徳川幕府が江戸に水道を作ったとの事で水道橋駅も水の通る橋から命名されたと聞きます。
また小田原北条も水道を作ったと聞きます。
他の大名でも水道は作られたものなんでしょうか?
819 :
人間七七四年:2007/12/31(月) 23:03:22 ID:TUR+6MAG
820 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 09:02:00 ID:Q1D4P1eh
日本で初めて水道を作ったのは北条氏康で、小田原征伐の時にこれを見た諸大名が真似して作った。
だからそれ以外の大名も徳川と同時期に水道を作っている。
821 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 10:20:33 ID:8F0bU2IS
>>816 当代記の記述によると家康の領地は250万石
これを通説としている
822 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 14:45:47 ID:PrwZGys1
>>818 >>820さんの言われるとおり、1545年頃までにできていた
小田原早川上水が日本の最初の上水であり、他の上水の模範になったようです。
小田原市〜南足柄市は箱根東の湧水群があるため水に恵まれていますが
小田原城下は海に近いので、生活に必要な水を確保するため上水が作られたわけです。
江戸の水道橋の水道は神田上水ですが、これも小田原早川上水と同じく
灌漑用水というよりは海に近い土地での生活のための水を確保するためのものです。
他にも江戸時代には海に近い城下町で上水が作られることがありました。
823 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 14:51:53 ID:I0CSIU0x
ほとんど妄想だとは思うけど…
秀吉は家康に天下を譲るつもりだったんじゃないかな…
それも秀頼誕生後も。
晩年の秀吉視点から見ると、
ピンチの柴田勝家を裏切った前田は、自分の死後はアテにならない。
三成や宇喜田、加藤、福島などは自分が育てただけに、その人間性の深いところで頼みにならないと見抜いていた。
能力的に黒田は期待できるが、秀吉は自分と似たタイプが信用できない。なんせ秀吉自身が「主の子供」を殺してんだから。
それ以下の身分の者は実力的に無理。
となると外様の大大名に政権を預けるしかなく、その相手としては「律義者の徳川殿」は理想的なんじゃないかな?
秀吉は末期に家康に政権を譲り、秀頼は公家にしてしまうつもりで行動してたんだけど、豊臣政権に固執する三成や宇喜田に暗殺されたんじゃあ…
無理かなww
824 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 15:16:01 ID:RDAnJN2u
>>823 ほとんどではなく、完全に妄想
お前の妄想は初夢だけにしとけ
825 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 16:00:48 ID:scAujhcV
寺小僧から大名まで育ててくれた殿を簡単に暗殺する三成wwww
826 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 16:18:32 ID:I0CSIU0x
そういじめるなよ。オレだって本気で主張してるわけじゃないさ。
ただ末期の秀吉が打った手が、効果が無かったというより完全に的はずれのような気がしてな。
仮にも天下を取った人物が家康を削ることも、旗本を強化することもロクにできなかったとは思えないんだ。
だから秀吉は三成はじめ小飼を全く信用できなかったんじゃないかとね。
827 :
【末吉】 !:2008/01/01(火) 16:43:24 ID:NXAL1clH
まぁ現実としては明らかに失策なわけだが、だがどうすればよかったかを考えると
ちいとも策が見当たらない。
甲信駿遠三を抑えていた家康だから減封というわけにもいかないし
とはいえそのまま置いとくには危険すぎるわけで
四公六民を動かせば一揆確実な関東にでも送って、
一揆でも起きれば普通に大崎葛西の木村親子のように取り潰す気だったんでは
828 :
人間七七四年:2008/01/01(火) 17:25:27 ID:I0CSIU0x
秀吉の天下は所詮、預かりものだったと思うしかないのかもね。
家康へのワンクッション役。
でも、もし秀吉が一時的にでも天下をとっていなかったとしたら、家康は天下を取れたんだろうか?
829 :
【大吉】 !:2008/01/01(火) 18:07:45 ID:NXAL1clH
本能寺の時点で中国大返しが遅れていれば取れていた可能性は十分にある。
ただし江戸幕府のような長期安定政権は無理。
秀吉は信長死後の政権を早急にまとめるために外様を温存した。
関が原後から大阪の陣まで家康の持っている時間は十四年
一方、秀吉は本能寺から小田原攻めまでわずか八年
関が原時点の家康と本能寺時点の秀吉の勢力差を比較してみれば
関が原時点ですでに200万石を越えていた家康(関が原後は400万石)と
本能寺時点で70万石余(本能寺後は遺領分割で90万石程度)しかなかった秀吉とでは歴然とした差がある
830 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 04:25:24 ID:ms4I/2zv
仮に家康に国替えさせずに伊豆加増程度にした場合
直轄領は五畿と博多
尾張美濃飛騨に前田を
伊勢伊賀に秀長を
近江若狭に秀次を
相模武蔵上野に上杉を
くらいかな?
831 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 05:42:51 ID:nXoceHDz
通りすがりなのでスルーで結構。
>>830 >尾張美濃飛騨に前田を
>伊勢伊賀に秀長を
前田利家は転封ってこと?
豊臣秀長も転封するの?
それだと降格のような気が・・・。
832 :
にゃんこ:2008/01/02(水) 08:46:01 ID:EazQiIDN
惣村に、
大名の側に立ち、出兵に積極的な軍役衆 と
惣村の自治を望み、出兵に消極的な百姓衆 の
分裂があって、この軍役衆を城下町へ集住させるのが兵農分離だよな。
でも、軍役衆と百姓衆の血縁・地縁が問題。
何が問題かと言うと、一種の地方ナショナリズムが生じてしまう。城下町の武士と
農村の百姓が親戚や友人なんだから、一体感が強い。
当然、兵農分離が徹底しない。城下町の武士の子が、村の親戚を頼って百姓に
なったり、その逆も可能だ。
そして、一体感が強ければ、政治的に中央政権から独立しやすい。
だから、豊臣政権は、機会と口実があれば転封させたかったのだろう。血縁・
地縁を断ち切って、中央政府(豊臣政権)への依存度の高い大名に改造しようと
したんだと思う。
結果的には、徳川家が短期間に関東をうまく治めて裏目に出たが。
833 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 09:21:49 ID:gzL6mVwp
元の三河遠江駿河に東北・九州・四国・山陰あたりに飛び地で与えるとか。
甲斐と信濃は召し上げで。
834 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 10:11:40 ID:1b0I85wY
家康は本当に関東をまとめていたんだろうか?
実はたいしてまとめてないから関東にたてこもる(箱根あたりで西軍を迎え撃つ)という消極策を捨てざるをえなかったということはないかな?
1年ぐらいの長期戦にしたほうが家康有利だろ?
西軍は短期決戦に全てをかけなければ、時間とともに崩壊しかねないぐらい組織が脆弱だったんだから。
と、後知恵で言ってみる。
835 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 10:21:16 ID:ZDtUIdk8
>>834 そりゃまさしく後知恵
家康という男は勝てると判断するまでは、絶対に動かんが
判断したら直ぐに且つ、徹底的に突き進む人
836 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 10:22:51 ID:ZDtUIdk8
家康に関東を与えない場合に問題なのは、誰が東国の旗頭になるかという事
当時の豊臣陣営にそれができるのは家康しかいない
子飼いは西国に回さないといけないし
837 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 11:57:47 ID:ms4I/2zv
東を家康に任せるくらいなら西を毛利に任せる方がマシだと思う
秀吉による信長政権の継承をいち早く支持した毛利上杉の両家の方が
家康よりは信に足るだろうし宇喜多と前田で彼らは牽制出来る
838 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 12:31:54 ID:ZDtUIdk8
>>837 上杉はだめでしょ、元の身代が少なすぎる。
東国に睨みを効かせるには200万石はいるし、そうなると毛利か徳川しかいない
一番は毛利を関東に移す。北条の統治システムと毛利の気風が合致して、関東に
見事に埋没するでしょう。で、家康に中国・九州・四国の内、八ヶ国をあげて独力で
朝鮮を切り取ってもらおう。
家康なら何とかしかねんのが恐ろしい
839 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 12:55:40 ID:CtrYnB71
そんなに大規模な移封は無理。
東海から関東だから家康は呑んだが中国四国九州なんてありえないだろうし、秀吉はそこまで無理難題はふっかけない。
それに諸大名も不安に思い世情は騒然になるだろうから自爆行為になりかねないリスクがある。
なんせ関東も東北もまだ安定してるとは言いがたいし織田系家臣団なども腹の底で何考えてるかわからん。
政権瓦解のリスクをあえてやる必要性は感じられない。
840 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 16:22:57 ID:1b0I85wY
もういっそ、東北だの九州だの言わんで
秀吉「家康、国替えしろ。行き先、ハワイ!」
家康「ちょwwおまww太閤wwあまりにヒドス」秀吉「反省した。蝦夷でヨシ」
家康「ショボーン(しかたねぇ)」
てのどうだ?
841 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 17:41:14 ID:jAzx2mgI
蝦夷で伊達と組みそう。
842 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 17:55:56 ID:1b0I85wY
秀吉「家康 クセワルス 伊達とクム やっぱハワイ逝け!」
家康「ちょwww太閤www妄想ヒドスww」
秀吉「東に逝く代わりに征夷大将軍名乗ってヨシ!」
家康「ショボーン(しょうがなす)」
で、時は流れて270年後、ハワイ幕府を倒す為にリオ・サカモンドやサイモン・タクモーリーをはじめとする勤王の志士がコシミノいっちょで立ち上がるわけよ。
そのころ日本は江戸時代を経なかったんで産業が発展せず、カンボジアとどっこいな国になりましたとさ。
……豊臣イクナイ!
843 :
にゃんこ:2008/01/02(水) 22:17:18 ID:EazQiIDN
834>
西軍は短期決戦のつもりはありません。関ヶ原を見下ろす山に、城を築いて
長期戦をするつもりでした。(最近の発掘による研究)
その城を、小早川に占拠されてしまったのです。
844 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 22:54:15 ID:1b0I85wY
>>843 それなにかで読んだことあるんだけど、西軍は長期戦のどこに勝機を見い出していたんだろう?
確かに兵力分散が主戦場における西軍の敗北原因(の一つ…いっぱい有りすぎる)だけど、長期戦になれば東軍だって秀忠が来るよね?
実は純軍事的には、山の上に位地するのは必ずしも長期戦狙いとは限らないんだ。なんせ補給が難しくなるから。大軍だと特に。
845 :
にゃんこ:2008/01/02(水) 23:11:23 ID:EazQiIDN
844>
後世の我々は、誰が裏切り、誰がサボタージュしたか、はっきりと解っているけど、
渦中の人々には、開戦するまでわかりませんからね。
西軍に、裏切りや、サボタージュが無ければ勝てましたよね。
>なんせ補給が難しくなるから。大軍だと特に。
完全包囲された場合はね。
846 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 23:52:04 ID:7eKnZKlA
長期戦が実現できていたら西軍の方が有利じゃないんですか?
確かに秀忠軍が東軍には加わるが
西軍も大津城組や細川幽組に毛利輝元、秀頼まで担ぎ出す事ができたら
東軍←西軍の裏切りよりも東軍→西軍への内応が増えるだろうし
小早川、吉川も史実どおりの動きはしなかったんでは?
大坂の陣でさえ城から出なかった秀頼を動かすのは難しいけど
大野とか女ばかりのバカ首脳陣だった大坂の陣よりも
石田とか利口な人間が揃ってたし、もう少し秀頼を動かす事を重点に時間を稼いでいったら勝機も広がるのかな?と
847 :
人間七七四年:2008/01/02(水) 23:59:57 ID:ck4DXQ7t
にゃんこ・・・相変わらずアンカーをちゃんとつけてくれないのな。
おかげで会話の続きが見づらくて内容以前に会話する気失くすわ。
848 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 03:27:42 ID:0/c/bWuR
岐阜落城から大垣決戦を回避したタイミングで佐和山籠城は選択肢無いのかな?
松尾山城は小早川に任せて大谷吉継、脇坂、島津、小西等は長浜に入り
三成、宇喜多、毛利等は佐和山に入れば良い
そこで田辺組は長浜へ大津組は佐和山へ後詰し
背後から関ヶ原へ松坂組が兵站を絶ちに動けば
灰色大名達も旗色を伺う間も無い
秀頼と云わずせめて輝元が大津か草津まで来れば形勢は西に傾くだろう
849 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 03:34:42 ID:0/c/bWuR
その場合は本隊が関ヶ原を固め豊富恩顧の大名は佐和山を囲み遅參した秀忠隊が長浜を攻めるだろう
850 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 03:53:32 ID:ECY218+F
流れぶった切って関ヶ原後の話だけどさ、島津とか毛利を他の地(東北とか)に
飛ばすことはできなかったのかな
851 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 04:21:46 ID:0/c/bWuR
毛利も島津も本隊は無傷だ
単独で数万の軍勢を動員出来る大名の国替えは不可能に近い
負けたとは思って無いし
後に入国する大名もたぶん持たない
852 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 04:43:24 ID:CEfTr3C8
松尾山城を秀秋に占拠されて慌てて大垣出て行ったのに、秀秋に松尾山を任せるとはこれ如何に?
西軍は家康が出て来れない事を前提に、岐阜や大垣など美濃の拠点を固めて西上する東軍先発隊と戦う予定だったのに、
気付かないうちに家康が美濃まで出てくるわ、以前から怪しかった秀秋に江濃の境の拠点である松尾山城占拠されて、
大垣決戦がとてもじゃないが出来なくなったから、毛利とか放置して急遽関ヶ原に移動したのに、佐和山まで勝手に引くのは無茶言い過ぎ
秀秋が東軍と合流でもしたら、松尾山という拠点を使われジリ貧
それに会津征伐の為に畿内で流通していた兵糧米や軍事物資を買い上げてられてる為、事前準備がなかった西軍は慢性的な兵糧不足
だから三成は増田長盛に援助要請だしてるし、岐阜陥落や家康到着で傍から見れば形勢不利にしか見えない状況で、
内部は疑心暗鬼で自壊寸前だった西軍が、さらに美濃放棄して佐和山まで引きましたとなると、それこそ他の寝返りが出てくる恐れだってある
とてもじゃないが佐和山まで引いて籠城なんて無理
853 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 06:05:24 ID:0/c/bWuR
>>852 なら三法師が籠る稲葉山が落ちた時点で西方の負けじゃん
政治的に難しいのは判るが敵か味方か解らない松尾山を一翼に布陣するなんて自殺行為だよ
ひょんな事から間違って三成のマスターベーションに付き合った島津は不幸の極みだな
854 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 07:06:06 ID:6EF//IWy
家康の関東移封って、ようするに「タヌキはいずれ立ち上がるから会津クンはハリセン持って立ってろ」てことでしょ。
関ヶ原当時の会津クンだった上杉はそれを怠ったよね。
あれワザとだよね。
三成にしてみたら「ちょッww直江ww話しが違うww」てトコだろ。
上杉が関東を脅かして家康を釘付けにしてるという大前提だから、三成もヘボ将棋みたいに各地に兵力を派遣してたんだから。
上杉がこの約束を破ったのは、最初から三成ら西軍主力を使い捨てにしてそのスキに自分の領土を増やして「第2次戦国時代」に備えるつもりだったんだとと思う。
上杉の予想外は主力決戦があっけなく終わっちゃったことだな。直江も「ちょww三成ww話がww」て、何日か前に自分が三成に言わせたことを繰り返したんだろな。
855 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 08:08:42 ID:6EF//IWy
>>845 にゃんこサンへ
たとえ裏切りやサボが無くても、西軍(を三成とするなら)の勝利は無理じゃないかな?
戦場で家康を倒すのがまず困難だし、倒したら倒したで上杉か毛利が肥大化して手がつけられなくなるだろうし…
結局三成にとっての関ヶ原は
「俺たちの戦いは始まったばかりだ!」〜三成の勇気が豊臣家を救うと信じて…太閤殿下の次回作にご期待ください。
ていう、ジャンプの打ち切り漫画みたいにしょっぱいものだったんじゃないかね?
856 :
人間七七四年:2008/01/03(木) 10:07:33 ID:CEfTr3C8
>>853 三成からすれば松尾山を鶴翼の一翼にした布陣のつもりでもなく、秀秋の動向確認と西との連絡網の確保、
街道封鎖の為の移動な訳で、それに本来なら毛利や長宗我部がいるので東軍は関ヶ原まで出場って来れないはずだったんだよ
それが東軍は思いもかけず南宮山の前を横切り、毛利などに後背を晒した布陣を取ってきた
ここでも三成の思惑とは大きく異なる
結局、三成の構想は確かに理に適っていたけど、それは三成にとっての都合によるものであり、
西軍の諸将は将棋の駒でも三成と共通の目的を持っていた訳でもなかったと言う事で
これは東軍も同じだけど
857 :
人間七七四年:2008/01/04(金) 05:40:12 ID:YWEb314n
自分よりも高い石高を上げた時点で失敗だろ
難癖つけてつぶせばいいのに
858 :
人間七七四年:2008/01/04(金) 09:12:52 ID:Qj1oXfki
南陸奥下野上野武蔵を徳川にして
下総上総には蒲生を甲斐相模伊豆駿河には前田を
越中佐渡越後北信濃は上杉を美濃飛騨は三法師以下織田家に能登加賀越前若狭丹後但馬因幡伯耆出雲はに細川、池田や丹羽など古参諸将を勢南志摩は九鬼を南信濃は山内を
宇喜多は備前美作備中備後、讃岐は小西、毛利は安芸石見周防長門豊前豊後伊予に
伊達は中陸奥と米沢、佐竹は常陸、島津は薩摩大隅日向、筑前筑後肥前肥後は西国諸将に安房は里見、南出羽は最上、北出羽や北陸奥は安東、南部以下の東国諸将を
三河遠江には加藤を尾張には福島を勢北伊賀には浅野を阿波には蜂須賀を
親藩譜代諸将は近江丹波播磨淡路紀伊大和に配置し
直轄領は山城摂津河内和泉と堺長崎平戸博多の貿易と各地の鉱山収入の半分
859 :
人間七七四年:2008/01/04(金) 11:28:22 ID:WI6TcCRE
それでも家康なら…
家康ならなんとかしてくれ…
(AA略)
860 :
人間七七四年:2008/01/04(金) 19:08:29 ID:I2Mojq4C
なんか最近クソスレになってきたな
861 :
人間七七四年:2008/01/04(金) 20:43:22 ID:WI6TcCRE
「こうすれば家康を封じられた!」
↓
「いや当時の状況では無理だ」
この「無理だ論」が結構説得力があるから議論が止まるのだな。
思うのだけど、家康がこのスレで言われているほどの本命鉄板馬だったとしたら、晩年の秀吉が政権をフイにする危険を犯してでも抹殺するんじゃない?人間心理として考えてさ?
それをやらないってことは、少なくとも当時の世論は「次の天下=家康」ではなかったんだよ。
「家康には通用しない論」て、後の天下人に対する過大評価が前提になりすぎてると思うんですけど。
862 :
人間七七四年:2008/01/04(金) 21:53:43 ID:FR1jekSJ
>>861 秀吉は「律儀な家康」を信じた。そして、家康もそれに応えた。
それがとても有能だから、秀吉も勿体無くて潰せなかった。
事実、東国の仕置きは殆ど家康が行っている。
863 :
人間七七四年:2008/01/04(金) 23:33:46 ID:wiXsdSke
関東移封せずに家康が力をつけなかったとしても第二の家康が秀頼にかわって日本を治めただけ。
豊臣天下が維持出来なかった原因は問題は秀頼の人間力不足と秀吉が他に跡取りを作れなかったこと。
864 :
人間七七四年:2008/01/05(土) 00:59:41 ID:WhNm0rAU
>>861 毛利も充分突き抜けてる。
地理的な部分も含めればむしろ家康より天下に近いとさえ言える。
だから秀吉が一番警戒した。
その結果毛利は分散させられる方向へと向かったわけだし、
その対抗馬になれるだけの実力を持ち、かつ律義者である者は必要だった
現段階でこの任に家康以上の適任な者などいない。
前提となるこの位置関係を考慮して無いようじゃ「無理だ」という論に説得力が出てしまうのも仕方ないのでは?
それだけ猜疑心の強い秀吉でも家康のことは信用してしまっているという史実を無視して
「家康だけを警戒して〜」って言う適当な前提立てられてもそりゃ「無理だ」としか言えないだろう。
865 :
人間七七四年:2008/01/05(土) 01:43:15 ID:6X7H5TBs
いや東海道や中仙道沿いの大名配置見れば秀吉は家康を十分警戒してたと言えるだろ
しかしまさか子飼いのウチワ揉めに乗じてシステム崩壊するとは秀吉の想定外だろ
街道沿いの諸将は誰もが城を枕に討ち死にする様な律義者ばかりだし
ひとつひとつ潰して疲弊した東軍を岐阜の三宝師と清洲の福島が死守する
そこに近江の秀次と大和の秀長が後詰めに向う手筈だろ
西は宇喜多と細川と蜂須賀が壁になり秀吉の旗本衆が後詰めに向う手筈
そもそも加藤や小西や立花や鍋島が九州に居ればその不安も少ない
前田も宇喜多と姻籍関係だから北陸東海だけでなく山陽山陰に火急が起きてもすぐに後詰めに行くだろうし
すっかり安心してたと思うよ
更に天下の大坂城は数年間は籠城出来る筈だ
866 :
人間七七四年:2008/01/05(土) 12:32:36 ID:fE34wN9c
>>862と
>>863でほとんど結論だと思う。
秀吉の失敗は「律義な徳川殿」を信じたことと、しっかりした後継者不在で徳川を信じざるを得ない心理が働いてしまったことかな。
もし秀吉が結城秀康を後継者に選んでいたら、家康は豊臣家をどうしていたんだろう?
(まぁ、秀康は養子じゃなくて融子だけど←漢字は怪しい)
867 :
人間七七四年:2008/01/05(土) 14:29:37 ID:isHBSmUi
猶子
868 :
人間七七四年:2008/01/06(日) 03:18:33 ID:ZOtWvzxh
家康を釜山に転封し慶尚、全羅、忠清、濟州の4道400万石を与え、正三位右大将朝鮮探題に任ずる。
869 :
人間七七四年:2008/01/06(日) 09:12:35 ID:WUH1W+Ga
>>868 秀吉「家康国替えシル 逝き先朝鮮!」
家康「ちょww太閤wwハワイから反省ナスww」
秀吉「代わりに朝鮮短大名乗ってヨシ!」
家康「どwwどんだけ偉いかわかんねぇww漢字間違ってるしww」
秀吉「400万石の超大名ステキ!」
家康「ショボーン(しかたねぇなぁ)」
こんな感じか?
870 :
人間七七四年:2008/01/08(火) 19:24:26 ID:Hjl5Mpcs
まぁ関東以外となると、あんまりまとまったとこないよな。
流石に飛び地ばかりじゃキレるだろうし。
プランA
陸奥・出羽250万石(本拠地は会津か仙台)
石高はあるが、寒いし、遅れてるし、一揆やばいし、都から遠すぎる偏狭の地。
この場合、関東には上杉・蒲生・伊達・最上・安東・南部・相馬・岩城を入れることになる。
プランB
越後から若狭までの北陸道250万石(本拠は北庄か金沢か春日山)
都には近いが、冬は雪に閉ざされる上に領国が長すぎる。
奥州、関東、信州、近畿と接しており非常に守りづらい。
この場合、関東には上杉、前田、丹羽を入れることになる。
プランC
東海五国+α
妥当ではあるが、都に近い。
この場合、関東には池田、田中、堀尾、山内、中村、浅野などの豊臣恩顧の諸将を入れることになる。
こんな感じ?
徳川は西国には行かないよな。
871 :
人間七七四年:2008/01/10(木) 16:41:57 ID:tgKvaZ+a
Bだと日本海航路を完全に掌握され、莫大な金銭が徳川に流れる。
関東よりやばい。
872 :
人間七七四年:2008/01/11(金) 01:08:12 ID:oUPw0RAM
播磨・但馬・美作・因幡・伯耆・丹波・丹後
の七カ国はどうかな?
近くで監視できるし意外に安全そうだけど
873 :
人間七七四年:2008/01/11(金) 03:14:36 ID:tAQAyhdA
それだと120万石ぐらいだからちょっと少ない。
ただでさえ家康の功績は明らかな上に動いてもらうんだから増加させるのはもうしょうがない。
その位置関係だと備前・若狭辺りも持ってかれるだろう。
874 :
人間七七四年:2008/01/11(金) 04:32:38 ID:mdWyLqLn
畿内支配力そのものだろ…それこそ虎に翼を与えるようなもんだろ。
家康はたとえ石高減っても大喜びだわな。
悪夢の応仁大乱を引き起こした山名宗全をも超える大勢力の完成だろうが…
875 :
人間七七四年:2008/01/11(金) 13:29:53 ID:Z50FU8r3
豊臣家からすれば失敗だったけど日本にためにはよかったんじゃね?
歴史が変わればちゃねら〜各位も生まれてないぞ。
876 :
人間七七四年:2008/01/22(火) 22:14:37 ID:HXvEi17r
準譜代クラスの山之内・中村・堀尾家が、
若い加藤清正・福島正則より石高が低かった。
そりゃぁ、山之内・中村・堀尾家は、家康につくと思うよ。
それも失策の一つ。
877 :
人間七七四年:2008/02/17(日) 19:09:03 ID:Cl62rpIW
スレタイ通り、関東を家康に与えたのが失策だろう。
小田原征伐の恩賞は伊豆一国で十分。家康がどう思うかは分からないけど、少なくとも家臣達は現状維持を望んでいたみたいだし。
前田に武蔵相模を中心に100万石、浅野に厩橋25万石を与えて東から徳川を牽制。
上杉に越後佐渡と信濃と上野の北部を与えて90万石くらいで北から徳川を牽制。
清洲城に福島正則、岐阜城に加藤清正を入れて、山内堀尾中村生駒田中なんかを越前近江伊勢に入れて中央を徳川から守る。
徳川を関東に移封しない代わりに、毛利を北九州に移封する。毛利に筑前筑後豊前、吉川に豊後、小早川に肥後を与える。
空いた中国地方に石田小西長束増田なんかの吏僚系を入れて瀬戸内海の水運を豊臣系で独占。立花も中央に配置。黒田には蒲生の旧領92万石を与える。
こんな感じで全然いいと思う。
878 :
人間七七四年:2008/02/17(日) 19:23:41 ID:jajGZGvi
位置が変わっただけでそれじゃなんの解決にもなってない。
東海から関東にかけて関ヶ原での東軍ががっしりスクラム組んでる上に
対抗馬の毛利を九州に追いやったらもうどうしようもないんじゃ・・・。
伊豆だけってのもどう考えても無理。
この恩賞は小田原征伐だけじゃなくて小牧以降の功績を含めてなわけで。
そこでケチってる程度だったら秀吉は天下自体取れてない。
879 :
人間七七四年:2008/02/18(月) 10:11:26 ID:O4Ohmaft
尾張に福島正則を置いたから大丈夫なはずだったのだろう。
家康自身は江戸にばかりいたわけでもない。
失策は家康を朝鮮半島に渡らせなかったことではないか?
880 :
人間七七四年:2008/02/18(月) 19:18:17 ID:HTs9/mmF
>>878 日和見的だった山内堀尾中村生駒なんかは領地が近畿にあれば西軍に付いていただろう。
あと、豊臣の敵は徳川だけじゃないからな。毛利とか上杉だって徳川に敵対したからこそ西軍に付いただけで。
>>879 むしろ朝鮮じゃなくて台湾や南蛮を攻めれば良かったと思うよ。
古来より北伐が成功する例は余りないし、南蛮人の来航で当時の大名は南蛮に対してある程度の興味は持ってたっぽいし。
881 :
なななな梨:2008/02/18(月) 23:15:19 ID:rKfWW9OA
てか家康よく武田取り込むとか考えたよな
882 :
人間七七四年:2008/02/19(火) 00:01:47 ID:PAqKrXeP
武人として尊敬してた部分あるのかも
883 :
人間七七四年:2008/02/19(火) 00:13:22 ID:KggvdTXm
家康が信玄尊敬するとなるとずる賢いとこくらいじゃね
頼朝や義元が好きなんだし
あと遠州も関東も普通に取り込んでるでしょ
884 :
人間七七四年:2008/02/19(火) 18:30:03 ID:E1Qaybt7
そんなこと言ったら、信長だって斎藤取り込んでるだろ
885 :
人間七七四年:2008/02/23(土) 01:25:22 ID:dCgrfn11
>>876 石高と言うより、こいつらは秀次付の残党だから秀頼にはなんの義理も無いと思ってると思う
886 :
人間七七四年:2008/02/25(月) 06:36:17 ID:G2oWCuLz
最大の失策は秀次殺したこと。
秀次殺した時点で家康が天下とらなくても
だれかにとられてたんじゃまいか。
887 :
人間七七四年:2008/03/01(土) 13:34:33 ID:jIsyYzp3
そのとおり
888 :
人間七七四年:2008/04/18(金) 02:00:52 ID:gE4AQdtE
天下の握るにはやっぱ三河重要w
頼朝も尊氏も家康も三河武士の操り人形なんだよ。わかったかお前ら
天下は三河武士の気持ち一つなんだよ。
www.city.okazaki.aichi.jp/museum/iyeyasu/ka302.htm
889 :
人間七七四年:2008/04/19(土) 09:58:21 ID:k/tritow
関東地方じゃないとするとどこに配置するかと石高いくらにするか問題だけど?
890 :
人間七七四年:2008/05/31(土) 13:09:53 ID:/QLvSCQ3
小笠原諸島に表高100万石で(実高1000石ぐらい)
891 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/01(日) 15:46:20 ID:YyCSnIrh
朝鮮500万石を与えるから朝鮮派兵の先兵をしてくれ、と頼まれたら家康は引き受けたであろうか?
征夷大将軍に任命して石狩平野に
893 :
人間七七四年@全板トナメ開催中:2008/06/04(水) 16:46:54 ID:CprevpVu
再度、関東征伐しても徳川相手なら負けるな
徳川は失敗だったけど
毛利もかなりの力があったからな
どっちにしろ終わってた気がする
秀吉死後の状況を見ると徳川家と家康がいなくても豊臣の支配力低下は確実だし
毛利、宇喜田、三成あたりが騒動を起こしそう
どう転ぶかはわかんないけど
>>889 一応、小田原の役における戦功に対して加増兼転封だからなあ。
徳川の石高は戦前で150万くらいだっけ?
なら転封させるなら180万石以上は与えるとして、
そんな土地関東以外にないよな。
898 :
人間七七四年:2008/06/11(水) 09:44:34 ID:DtgXGmp2
家康単独トップだっからな、兄弟が居ればトータル加増で
分家独立させて実質減封って手も使えただろうが
899 :
人間七七四年:2008/06/11(水) 11:52:37 ID:ZnUEt3D6
康元・康俊・定勝は家康の兄弟ではないとおっしゃる。
900 :
人間七七四年:2008/06/11(水) 14:09:28 ID:9IJsIUO6
そいつらは徳川じゃねえし。
901 :
人間七七四年:2008/06/11(水) 17:06:51 ID:ZnUEt3D6
小田原の段階で、
徳川って家康だけじゃね?
902 :
人間七七四年:2008/06/11(水) 18:21:56 ID:nMSf9oQM
256万石ってどのくらいの動員兵力?
903 :
人間七七四年:2008/06/11(水) 19:39:56 ID:A6BnwPir
1万石で300人動員すると75,000人。
無理して500人動員すると125,000人。
関ヶ原のときだと、東海道方面(家康本隊、井伊、松平など)が約4万
中仙道方面(秀忠勢)が約3万。
宇都宮の対上杉防衛部隊(結城秀康など)が1〜2万?
江戸をはじめとする関東諸城の留守防衛部隊が1〜2万?
て感じじゃないかな。宇都宮と関東の留守部隊の数字は全然根拠ない。すまん。
904 :
人間七七四年:2008/06/24(火) 09:39:11 ID:pLwcfFln
記念カキコ
905 :
人間七七四年:2008/06/24(火) 22:43:33 ID:/UVtmjw+
家康の関東移封は失策じゃなかったと思う。
適切な徳川封じ込め&利用策じゃないかと。
ただ秀吉の失策は海外進出を政権構想の前提に考えてたことだろう。
秀吉は国内を固めずに無謀な遠征をしたというが豊臣の天下は
海外進出しなければ日本だけで完結しては持続できなかった自転車操業のような
不安定な側面があっただけで。
この点では秀吉の失策とすらいえないかと。
100%ありえないが
「唐入り」=海外進出が成功したとして豊臣プロパーと西国諸侯は
関東250万石が中堅諸侯水準になる程度には巨大化したろうし
豊臣家も世界帝国の君主家として天皇家をもしのぐ不動の権威となったはず
逆に参戦できなかった家康とかは相対的に僻地の中級大名に
レベルダウンすることになるから。
906 :
人間七七四年:2008/06/24(火) 23:36:02 ID:hNOQI8kk
>>905 そうか?
不安定要素は多少あるかもしれんが、家康始め諸大名は秀吉の命令裁定に服従している
独立や謀反の兆しは見られない
室町幕府と比べれば、は る か に安定している
907 :
人間七七四年:2008/06/25(水) 00:15:48 ID:uVubc2Hy
あそこは秀次を消したのが失敗だったな
まあ秀頼が生まれた時点で秀吉の死後戦乱は必須だったかもしれないが
908 :
人間七七四年:2008/06/25(水) 07:12:10 ID:Xqe+6/lT
>>906 秀吉に服従してるのであって、豊臣家に服従しているわけではない
という意識の大名がかなりいたのでは。
909 :
人間七七四年:2008/09/10(水) 19:35:29 ID:cskoEvRg
>>907 それでなくても繁殖力の低い豊臣家。
貴重な一門を根絶やしにするなんて愚行もいいところ。
910 :
人間七七四年:2008/09/10(水) 21:36:10 ID:PubdSl+u
>>905 >「唐入り」=海外進出が成功したとして
初めっから、成功する可能性なんてない。
当の秀吉自身、現地の事情には全くの無知だったんだから。
勉強せずに受験には合格できんよ。
911 :
人間七七四年:2008/09/10(水) 22:50:00 ID:NqNiWHku
東海道にボンクラばか3将でなく景勝を置いたら、家康はそう簡単に動けなかったのでは?
あとは、伊達だな。
912 :
人間七七四年:2008/09/10(水) 23:26:53 ID:yyN3MIGM
>>910 100%あり得ないがって上に書いてるよ〜
913 :
人間七七四年:2008/09/10(水) 23:35:40 ID:q4JQeDWc
つーかさあ、秀吉だって、
ほぼ同じだけの領土を、長年にわたって支配し、徳川や伊達といった同盟者までいた北条が、
豊臣にはアレだけ簡単にやられたわけで。
新規に入ってきて、支配基盤もなく、親豊臣大名に取り囲まれた徳川家が、豊臣家を滅ぼすほど
強大化するなんて、想像すらするわけがない。
914 :
人間七七四年:2008/09/11(木) 07:40:08 ID:RGSo8ukR
蒲生氏郷の死が痛いな!
915 :
人間七七四年:2008/09/11(木) 08:18:32 ID:HEETDBfI
武田滅亡→武田旧領を支配→北条滅亡→誰に関東を任せるか→近くに徳川が→現在の領地を取り上げ関東へ
916 :
人間七七四年:2008/09/13(土) 13:28:08 ID:c5wSNBSM
>>913 家康の偽善者面に騙される秀吉が間抜けだったってことだろ
拡大成長路線一辺倒の単純爺だからしょうがない
917 :
人間七七四年:2008/09/13(土) 13:29:43 ID:I+wMAFL6
>>916 言いたいことが良くわからん。
もう少し自分の考えを整理して、具体性を持った書き込みをしよう。
918 :
人間七七四年:2008/09/13(土) 13:47:59 ID:c5wSNBSM
919 :
人間七七四年:2008/09/13(土) 23:16:25 ID:KwpEr2dL
>>1 豊臣家滅亡に関しては秀吉の引き起こした朝鮮出兵、秀次切腹のほうが大きいと思う。
それに徳川を日本の中央に置いておくことのほうが危険ではないか?
920 :
人間七七四年:2008/09/15(月) 07:22:37 ID:6KdNhUEZ
頼朝の伊豆流罪は失策だった
921 :
人間七七四年:2008/09/16(火) 08:04:59 ID:77LAfSbc
>>866 「豊臣政権」としては結果的に家康移封はしっぱいだったかもしれんが
秀吉個人としてはあの時点で十分に成功と言えるベターな策であり
実際、秀吉が亡くなるまで特に諍いも無く
家康は豊臣家の重鎮として良く仕えてくれたからな
922 :
人間七七四年:2008/09/20(土) 16:02:31 ID:qot11TNd
進駐軍と在地勢力の軋轢を期待したんだろうね。
一揆でも起こってくれれば……と思っていたが、速やかに統治に成功してしまった。
そのあたりは今川、武田旧臣を召し抱えて拡大してきた徳川家を侮っていたかな。
923 :
人間七七四年:2008/09/20(土) 16:33:20 ID:t9a3qiii
924 :
人間七七四年:2008/09/20(土) 16:53:13 ID:t9a3qiii
925 :
人間七七四年:2008/09/21(日) 08:55:16 ID:RXuGqWBs
926 :
人間七七四年:2008/09/21(日) 11:21:11 ID:7anyDMYS
仮に九州に移封しても毛利を味方にして大阪に攻め上ってるよ。
それが家康。
927 :
人間七七四年:2008/09/21(日) 11:26:21 ID:dSsjJXoU
で家康はいつごろから豊臣家をつぶそうとかんがえてたの?
大坂城の謁見あたりで
「調子のんなやクソざる、後で見ていやがれ」
みたいなのってあったのかね?
928 :
人間七七四年:2008/09/21(日) 11:33:34 ID:5Mvd8BIJ
豊臣家を潰そうなんて、最後まで考えてないだろ家康は。
政権を奪おうと思ったのは、秀吉死後の、豊臣政権の求心力が急激に無くなって行った時期だと思うが。
929 :
人間七七四年:2008/09/21(日) 11:36:16 ID:XPsvtOKl
関東にいった家康を征伐しようとしても、小田原役の様な展開は無理だろうし
そうなると二度目の小牧役がオチだろうな
930 :
人間七七四年:2008/09/21(日) 12:12:23 ID:CXzo8T0d
方広寺の鐘の件の時には潰す気満々だったと思う。
逆に言えば、それまではどうしても豊臣家を潰そうという強固な意志は感じられない。
931 :
人間七七四年:2008/09/21(日) 12:19:36 ID:RXuGqWBs
932 :
人間七七四年:2008/09/21(日) 12:28:55 ID:5Mvd8BIJ
>>930 方広寺の鐘の件はむしろ、豊臣家側からの挑発行為だったと思う。
933 :
人間七七四年:2008/09/21(日) 13:25:20 ID:RXuGqWBs
934 :
人間七七四年:2008/09/21(日) 13:30:02 ID:5Mvd8BIJ
つーか、大阪の陣直前の豊臣家は、自分たちが立ち上がれば、少なくとも日本の大名の半分は
豊臣側につくと、本気で考えてた節がある。
935 :
人間七七四年:2008/09/21(日) 13:48:00 ID:RXuGqWBs
936 :
人間七七四年:2008/09/21(日) 15:35:13 ID:RXuGqWBs
937 :
人間七七四年:2008/09/21(日) 17:05:16 ID:RXuGqWBs
938 :
人間七七四年:2008/09/21(日) 21:11:17 ID:RXuGqWBs
939 :
人間七七四年:2008/09/21(日) 21:50:05 ID:P+V7mrLt
>>934 豊臣は世界が全て自分を中心に周っていると考える天動説思想の持ち主だから仕方がない
940 :
人間七七四年:2008/09/22(月) 07:10:49 ID:EusBPI1+
941 :
人間七七四年:2008/09/23(火) 03:56:09 ID:nCR+AyEC
>>934 そりゃそうでしょ。
関ヶ原の論功行賞は秀頼の名義で行われているし。
しかしながら、豊臣家は武家の棟梁ではないし、前関白家でしかない。
五摂家に阻まれて関白職に就けない上に、武家の棟梁は徳川家。
こうなると豊臣家による支配権は時間の経過と共に不明瞭なものになってしまう。
家康の狙いは前君主の子孫として一定の官位を与えながら、一方で豊臣家を
「制外の家」として秩序の外側に追いやっていくことだったのかも。
「制外の家」に飽き足らずに反旗を翻すようなことがあれば潰しに掛かる、
当初はそんな腹積もりだったのでは?
942 :
人間七七四年:2008/09/23(火) 04:28:34 ID:Lc8op+ZB
征夷大将軍は武家の棟梁職ではないぞ
そういう風に錯覚するように持っていったのが家康なんであって
943 :
人間七七四年:2008/09/23(火) 07:37:40 ID:hUSJEdiM
944 :
人間七七四年:2008/09/23(火) 08:31:15 ID:OEURhEkQ
>>942 頼朝じゃないの?
日本の武士を統べる将軍と御家人との間の
関係の基礎が築かれたのは鎌倉時代でしょ。
945 :
人間七七四年:2008/09/23(火) 10:04:37 ID:PVmbkiBX
946 :
人間七七四年:2008/09/23(火) 18:37:23 ID:Lc8op+ZB
>>944 頼朝ではない
頼朝の時代にそこまでの権限はないし
鎌倉幕府が握っていたのはあくまで地頭職の権限で、主に東日本ね
だから鎌倉時代っていうのは荘園と地頭の二重支配で未だに貴族が力を持っていた時代でもある
その後に摂家や宮家が征夷大将軍になっていることからしても
そのネームバリューに武家の棟梁という性質は含まれてない
征夷大将軍という職はあくまで朝廷から離れた場所で幕府を開ける職であって
これに源氏長者を兼ねさせることで独立した政権構造と正当性を得たのが家康
(足利義満もやってたけど、足利幕府本体の力が足りない……)
947 :
人間七七四年:2008/09/23(火) 19:31:46 ID:PVmbkiBX
>>946 宮将軍にも武家の棟梁としての機能はちゃんとあったぞ。
なんで北条が将軍をころころひっかえたが少し調べてみ?
948 :
人間七七四年:2008/09/23(火) 20:43:59 ID:iZYD6lbA
征夷大将軍なんて秀吉が見向きもしなかった職だろ
なろうと思えば関白なるより簡単だし
949 :
人間七七四年:2008/09/23(火) 21:05:23 ID:Lc8op+ZB
>>947 宮将軍はすでに河内源氏ですらないじゃん
征夷大将軍が武家の棟梁なら、大塔宮も武家の棟梁だというの?
950 :
人間七七四年:2008/09/23(火) 21:48:01 ID:XStAcNLZ
宮将軍や摂家将軍も武家の棟梁だよ。
北条氏が武家の棟梁たる征夷大将軍を継がせるためだけに
呼び寄せたのが彼らだもん。
出自はどうあれ、鎌倉殿である人が
武家の棟梁であるっていうのが鎌倉時代のシステムだから。
951 :
人間七七四年:2008/09/23(火) 21:53:45 ID:nZQb8JEi
武家の棟梁と幕府というシステムのトップというのは同じではないような。
952 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 00:27:01 ID:brxhXxiH
>>948 しかし、足利義昭に「猷子にしてくれ」と頼んで断られたよね。
953 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 00:30:31 ID:tfyYMlnq
秀吉が官位を求めるようになったのは小牧長久手で負けてから。
急激に自分の官位を上げるため任官を過去にさかのぼらせる書類偽造までした。
954 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 00:46:46 ID:1k/MkMWx
>>952 別に足利で無くてもイイし(信長の時点で征夷大将軍の打診が来ている)
豊臣なんて姓を作って摂関家にねじ込む方がよっぽどスゴイぞ
955 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 00:51:11 ID:tfyYMlnq
>>954 > 豊臣なんて姓を作って摂関家にねじ込む方
それは藤原姓のままだと、関白位は朝廷のルール上、他の藤原摂関家との持ち回りにせざるを得ないから、
秀吉としてはどうしても「新摂関家」を作らざるを得なかったからだよ。
956 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 02:27:43 ID:1k/MkMWx
その発想力とやる遂げる権力がスゴイだろ
957 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 05:41:51 ID:yMBz8sNP
そら天下人になったんだから結果論からいえば何でも凄いと形容できる
家康もしかり
というか関白は凄くて、征夷大将軍は大したことないという議論もおかしい
大したことない将軍位を実質大したものにした家康は凄いということになる
958 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 12:40:11 ID:gBzmUVXP
秀吉が征夷大将軍にならなかったのは、その当時まだ義昭が将軍職を返上していなかったから
秀吉の武力を持って恫喝でもしておれば返上して、征夷大将軍なれたかも知れないが
それでは簒奪者の汚名を着せられるのであえてやらなかっただけ
北条征伐の後にやっと返上したが、完全な天下人となったので最早将軍職に就いても意味がなかっただけが
959 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 18:41:09 ID:1k/MkMWx
>>957 百官の上にある関白と、幕府開く権利しかない征夷大将軍では、そりゃ関白の方がスゴイだろ
そして征夷大将軍の価値をあそこまで高めた家康も、そりゃスゴイに決まってるだろ
お前は何あたり前のコトを言ってるんだ?
960 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 18:43:09 ID:tfyYMlnq
>>959 百官の最高位は太政大臣。関白ってのは制度外の地位で、具体的には「天皇の筆頭相談役」みたいなもの。
961 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 20:47:17 ID:1k/MkMWx
令外官なのは征夷大将軍も一緒ですが?
962 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 20:57:03 ID:tfyYMlnq
>>961 だからなに?
何で関白のことを言っているのに征夷大将軍が出てくるわけ?
963 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 21:21:47 ID:1k/MkMWx
秀吉はきっちり太政大臣にもなっているよ
その上で、令外官として、辺境司令官と天皇の相談役のどちらが本質的に上位かは論ずるべき所ではない訳で
加えて辺境司令官では寺院や朝廷を押さえる名文が持てないのな
これは鎌倉幕府も室町幕府も慢性的に抱えていた問題なんだが
ちなみに秀吉が足利の猶子を断れたという話は
徳川の御用学者である林羅山の「豐臣秀吉系譜」にしか出てこないんですよ
そして織田家時代に平朝臣で筑前守を任官してて(内大臣の時も平だし)、同じ平朝臣の信長に征夷大将軍の打診が来ている
964 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 21:32:52 ID:tfyYMlnq
>>963 だからなに?
キミは何を言いたいのかさっぱり見えてこない。
965 :
人間七七四年:2008/09/26(金) 21:54:28 ID:1k/MkMWx
じゃあもういいわ
966 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 07:38:12 ID:DJ7nGMwR
>>1 家康を駿遠三甲信+豆州(小田原征伐の恩賞と想定)に留め置いた場合にも
それなりのリスクはあったのでは?
少なくとも、北条家の旧領を誰が統治するのか?という問題は生じるよね。
967 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 08:17:19 ID:HniJJ0O5
>>966 越中は直轄地にして代わりに関東には上杉家を転封させるのはどうだろうか?
良い徳川の抑えになるんじゃね?
968 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 08:31:23 ID:QcLusX8Z
>>967 上杉だと過去の経緯から関東の士豪をまとめることも
難しかったかもしれんね。むろん北条の旧臣たちも。
とはいえ佐竹や結城、里見では役不足だろうし。
969 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 11:01:53 ID:y0g+B+30
970 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 12:03:56 ID:y0g+B+30
971 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 12:23:29 ID:q2E7kNJ6
家康本家150
秀康分家100
みたいにするってのは?
場所もバラバラにはずして
972 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 12:58:50 ID:nFUsISd/
鎌倉幕府は東京湾の海流をうまく利用して物流をやって
密集した鎌倉に必要な物資を各地から輸入していた。
家康もこのくらいの発想はできたろう
973 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 13:22:03 ID:2rV+hiuN
>>971 徳川家が二頭政治を行ってないと、可能性すらない
974 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 13:26:45 ID:q2E7kNJ6
家督秀康にさせるって無理なの?
975 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 15:38:40 ID:y0g+B+30
976 :
人間七七四年:2008/09/27(土) 15:42:06 ID:y0g+B+30
977 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 06:54:19 ID:msTzEzce
978 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 09:09:18 ID:msTzEzce
979 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 09:21:05 ID:msTzEzce
980 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 10:01:18 ID:msTzEzce
981 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 12:16:08 ID:msTzEzce
982 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 12:17:13 ID:msTzEzce
983 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 12:17:53 ID:msTzEzce
984 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 12:18:46 ID:msTzEzce
985 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 12:19:22 ID:msTzEzce
986 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 12:20:36 ID:msTzEzce
987 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 12:21:36 ID:msTzEzce
988 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 12:22:22 ID:msTzEzce
989 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 12:23:50 ID:msTzEzce
990 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 13:11:11 ID:msTzEzce
991 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 13:12:32 ID:msTzEzce
992 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 13:13:43 ID:msTzEzce
993 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 13:14:26 ID:msTzEzce
994 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 14:03:26 ID:msTzEzce
995 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 14:04:44 ID:msTzEzce
996 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 14:05:28 ID:msTzEzce
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人間七七四年:2008/09/28(日) 14:06:19 ID:msTzEzce
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1000 :
人間七七四年:2008/09/28(日) 14:08:14 ID:msTzEzce
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/ 秀家 ゙ヽ:::::::::', ごくろう。このスレはみごと統一された。
゙|゙゙゙''' ‐‐''""' ';:::;r==,、 さすればおぬしらには次スレの攻略を命ずる。
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