1 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :
2006/07/06(木) 20:51:42 ID:Y6JE107Z 徳川の反則負け。いくら乱世でも暗黙のルールってもんがあるんだよ。 それがわからん家康はキチガイ。
暗黙のルールって?
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/06(木) 20:56:38 ID:Y6JE107Z
まず条約は守らないと話にはならんわな。埋めるのは外堀だけという! 国家安康も無理がありすぎ。いくさを起こす大義名分のたの字にもならん。
そもそも自分の城の外堀を埋めるなんて条約を締結させられた時点で豊臣側の負け まぁ、そんなこと言ってしまえば自分ち城が囲まれた時点でゲームオーバーかもしれんが
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/06(木) 21:07:38 ID:Y6JE107Z
加藤清正も暗殺だとしたら明らかにルール違反だな。闇討ちは優勢に立ってる 側が劣勢に立つ側に対しては普通行わないもんだろ。と思う。
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/06(木) 21:11:12 ID:Y6JE107Z
>>4 内容的には豊臣の負けかも知れんが、普通に戦っても勝てる相手に数々の
姑息なことをしてる時点で家康に天下人の資格は無い。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/06(木) 21:13:09 ID:Y6JE107Z
人間的には、夜討ちをするように勧められてもどうどうと戦った三成がひとまわりも ふたまわりも上だよ。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/06(木) 21:15:15 ID:+qa5ApVC
家康は三方ケ原でウンコ漏らした時点で人生の負け組である。
戦力的に勝ってるから堂々と戦えなんて馬鹿か? そんなアホなこと言い出したら戦力的に圧倒的に上だったのに、 三木の干殺しやら鳥取城での兵糧買占をやった秀吉はどうなるんだと 戦わずして勝つのが最上で、戦うにしてもより見方の損害を少なくするべく策動するのは理の当然 勝てばそれで終わりな戦いで正々堂々と戦って味方の屍を増やしたらただの凡愚だろ
>>1 はあれだろ、上杉謙信好きだろ。絶対そうだ。
後あれだろ。野球で大量リードしてる相手が送りバントやスクイズしたら文句いうタイプだ。絶対そう。
身分はともかくとして、仮にも戦国の世に生まれておきながら 敵の寝首を掻くような真似が恥ずかしいっていうのはどうなのかね? 夜討をするくらいなら負けて一族郎党滅ぼされる方がマシなんてのは上に立つ者として完全に失格でしょ。 自分のプライドと家臣や兵士の命天秤にかけてプライドとる奴に誰がついていくのかと。 >人間的には、夜討ちをするように勧められてもどうどうと戦った三成がひとまわりも ふたまわりも上だよ 三成が坊主なら立派だけどね。誠意をもってあたるべきなのは家臣や盟友に対してであって敵にではないでしょ。 何かしらの権謀術数で味方の犠牲が減る、勝ちが近づくとわかってて何もしないのは器が大きいんじゃなくて暗愚なだけ。 そもそも夜討朝駆けは立派な戦術じゃん。野原でお互い全軍出して正面衝突なんて戦ばかりだったら兵士がいくらいたって足りないよ。 それにその三成だって関が原の時東軍方の大名の妻子を人質として抑えたよね。やることやってんじゃん。
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 00:28:42 ID:gCS5lI4e
多少の卑怯さってのは秀吉も信長もあったが、家康の場合は多すぎるし、主家に対して やってる点で失笑もんだな。あと信長、秀吉は征夷大将軍じゃなかったわけで。卑怯でも 良かったんだよ。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 00:39:13 ID:gCS5lI4e
>>12 三成がただの武将なら夜討ちで良いんだけどさ、官軍が賊軍を「討つ」
という意味を演出してる三成はもと坊主だぜ。家康は大名の子だろ。大名の血を
引いてる割にはそういう政治感覚が乏しいな。家康の戦い方は平安時代以前
みたいだよ。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 00:43:09 ID:gCS5lI4e
>>9 とか
>>12 とかの理屈だと、吉良も上杉家に逃げなかったからバカってことになるよな。
久しぶりの豊臣厨の家康叩き もっとやれ
秀頼に叛旗をひるがえすんじゃなくて、あくまで
「秀頼様を利用して天下を思うままにしようとしている三成を討て!」
って構図に仕立て上げた家康の政治感覚も悪くないと思うんだが。
そうでもなきゃ福島正則なんか絶対家康につかないだろうし。
吉良が上杉家にすぐに逃げられなかったのは上杉家の家臣達が吉良に良い感情を持ってなかったからだろ。
吉良はさっさと逃げ出そうとしてたし、現に討ち入りの日の何日か後には上杉家に移る話があったっていうじゃん。
っていうか吉良の話は
>>9 >>12 で言ってることとつながってない気がするんだが。
秀吉の死後色々えげつないことやってるのは確か・・・。その辺がアンチの多い原因なのかね。 まあでも弱みにつけこむのを卑怯とは言ってられない時代でしょ。 徳川幕府の泰平の世ならいざ知らず、天下が定まりきってないこの時代に卑怯も何もないと思うんだけどねぇ。 秀吉死んですぐぐらつく太閤政権の不安定さとそれを支えきれない三成他豊臣恩顧の武将にも責はあるんでないの? 結局利でまとめた天下は利でぐらつく。至極当然のことじゃないか。
IEで2chなんかするもんじゃないな。人大杉になって見れないwwww
秀吉も信長が死んだ後は織田家臣のくせして織田信孝らに対抗してるしさ、 どっちもどっちだろ
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 01:05:33 ID:eMD2lrxg
>>13 家康は律儀者で通っていて卑怯なほうじゃない
んだけどね。
主家に対しては秀吉はさんざん卑怯なことをし
て乗っ取ったんじゃなかったっけ?
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 01:15:37 ID:LVOJwrea
>>20 織田家の当主は秀信に決まったわけだから
信孝と秀吉の争いは家臣同士の争いでしかなく
主君に弓引いた家康とは全く違う
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 01:19:38 ID:NUkI4YvM
秀吉も家康もしたたかだね
なんだここは・・・アンチ豊臣の
>>1 による釣りスレなのか
本物の馬鹿なのか判断に苦しむな
俺は秀吉ファンで西軍派だがこんな基地外と一緒にされてはたまらん
主君と家臣、親兄弟でも騙し合い、殺し合いが普通なのが戦国時代
そんな世の中で戦功を積み権謀術数を駆使して栄達を成し遂げた秀吉がいいんだよ
そんな下克上渦巻く腐った世の中を変革して260年の太平を成し遂げた
家康を大きく評価してる秀吉ファンも存在している事を知って欲しい・・・・・
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 01:29:06 ID:eMD2lrxg
26はネ申 みんなあなたみたいだったら秀吉叩きは起きない。 家康擁護は減るかもしれないが。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 01:36:06 ID:gCS5lI4e
>>26 アンタみたいなこと言ったらどんな権力者でもそれなりの評価できるじゃないか?
フセインでも。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 01:36:34 ID:9qaYZ6hv
>>26 .>25は
別に秀吉も家康も上手く世を渡っていき結果的に天下人になった
っていってるだけで秀吉批判がどうとか家康擁護がどうとかって話じゃない
と思うのだが。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 01:37:47 ID:9qaYZ6hv
アンカーミスったorz
>>27 .>26は
別に秀吉も家康も上手く世を渡っていき結果的に天下人になった
っていってるだけで秀吉批判がどうとか家康擁護がどうとかって話じゃない
と思うのだが。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 01:41:38 ID:gCS5lI4e
それに、家康が天下を統一した後で、本多が突然家康や秀忠の首かき切って 権力者になったら本多は偉いか?
家康が評価されるのは天下を取ったからでなく、 260年間の太平の世の基礎を作ったからだと思うよ。
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 02:48:16 ID:LVOJwrea
天下を狙うのは当然悪事ではないが 家康はやり口があまりに酷い あそこまで無茶な難癖つけて天下とったのは世界史でもそうはいないだろう
>>33 やり口を酷くしないと物事は進まん!
現代の営業マンが良い例だろ!他人を蹴落として皆上に上がるんだろ?
学校で優等生がテストで良い点獲ったらそいつに向かって「○○はやり口があまりに酷い」とか云うのか?
>>33 天下を取ったのは関ヶ原
豊臣が臣従しなかっただけで
異分子豊臣を潰したのは寿命が尽きる寸前だったからな
いくら忍耐強い家康でも死んだら待てないだろ
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 16:09:03 ID:gCS5lI4e
秀吉も卑怯だったというカキコがあるが、相手はそれなりの大名だろう? 家康は関が原までは許せるとして、大坂は若い秀頼と女の城じゃないか。 女ばかりの大坂に対してあのだまし討ちみたいなやり方はみっともないね。
信長が義昭にやったように、 豊臣は終わったという見せしめじゃね?
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 18:38:53 ID:cO9HgfV5
大阪は秀吉が戦ってきた相手以下だったと?
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 19:10:45 ID:3aoKQtxN
>>36 家康のほうが結構譲歩と忍耐による猶予期間を与えてたと思うがな。
早期に時勢を見極める事を怠った豊臣家のほうに責任がある。
>>大坂は若い秀頼と女の城じゃないか。
とおっしゃってられるが、「相手はそれなりの大名」なんぞより
こっちのほうがはるかに危険だぞ。
世間知らずの若い御曹司と女は神輿には格好のブランドがあるわけで
@世に出る機会を虎視眈々と窺う浪人勢力
A信仰の為に命を捨てる覚悟のキリシタン信徒勢力
B天下をあるいは領土を求める外様諸侯
C徳川家内の非主流派
こういったのが豊臣のブランドと結託してとんでもない事態になる可能性も
あったわけで
@とAは家光の時代になってなお天草島原の乱という事態を招いており
まして大阪の陣のあたりとくればBもまだまだ胡乱な時期だし
Cは大久保長安の事件何ぞで顕著だろ
難癖つけて豊臣潰そうと言い出したのは金地院崇伝
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 19:51:53 ID:gCS5lI4e
>>39 うーん・・・どうもこっちの分が悪くなってきたな。
て言うか、徳川を擁護する人のカキコって、何となく家康に似てる。
家康擁護、アンチ秀吉は半島系の臭いがプンプンするぜw
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 20:55:20 ID:3aoKQtxN
別に家康を擁護する気も無いよ 関が原の後に政宗が「秀頼君は江戸に預かり養育されたが良い」 と主張した手紙を残しているように 関が原の時点で天下静謐の為として強引に秀頼を江戸預かりとし 淀殿はそのまま江戸屋敷住まい 秀頼は江戸のまま領国を大和あたりに転封して片桐を城代家老にするなり 手はあった。 家康にも豊臣滅亡を回避できる余地はあったと思う。
>>39 時勢を見極めるも何も、秀頼は会談のために二条城まで出向いてるし、
徳川に大義名分を与えるような行動を起こしていなかった、
それを方広寺っていう無茶苦茶な論理で潰しに掛かったのが家康で、
豊臣に責任があるって考え方は家康を正当化しすぎ。
また元々の無茶な論理からの交渉や、後の片桐且元にかけた詐術、
その後の豊臣家大名への扱いを見れば執行猶予なんてする気も無いと思うが、
まあ君の言うとおりそこらの大名よりはるかに危険だからね。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 23:25:53 ID:LASdPvMs
馬鹿すぎ、元渋々従った主君の息子になんでそんなに譲歩しないと駄目なの? しかも出方次第ではせっかくまとまった日本をまた無益な戦乱の世に戻しかねない奴をよ だからホントは潰したいが仮にも10年遣えた手前一大大名で残してやろうという 家康の心意気。しかも当時からいつ死んでもおかしくない老齢なのに15年も降伏の機会を与えてるんだよ それを支持する元豊臣小飼大名がどれほど居たか知ってるか?全国の大名がそれを支持してたんだよ で、その秀頼と淀は何した?浪人次々雇うわ、合戦の準備始めるわ、前田家に参陣要請出すわ。 既に長い平和への構想を練ってた家康が最後にこの癌を除くしか無いだろ。 あんまりこんな事言いたくないがこの全国から孤立してるのに喧嘩を売る態度は北朝鮮に通じるものがあるよ 秀頼と淀とその一行ももう少し空気読んでりゃいつか薩摩長州の様に表舞台に出れたかもしれんのにな
猿と信孝 猿と信雄
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 23:41:52 ID:gCS5lI4e
>>46 豊臣を滅ぼすことの是非はともかく、滅ぼし方が世間の尊敬を受けるやり方じゃなかった。
ほとんど外様大名に戦わせてるじゃん。忠誠心試しの意味で。みんな仕方無く滅ぼしたわけよ。
だから後に松の廊下で吉良が切りつけられた時、庶民は浅野の味方だったんじゃないか? 260
年間みんな嫌々支配されたから、薩長が錦の御旗を揚げたとたんに諸大名は今度は徳川を
見限った(会津など例外もあるが)。
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/07(金) 23:51:28 ID:gCS5lI4e
ぜーんぶ外様にやらせてさ、福島に「ちょっとおいで」って江戸に呼んでさ、 その隙に自分の主君をしに追いやってよく恥ずかしくないなと思うね。
主君ねぇ…
豊臣は福島正則も加藤嘉明も招聘しても来てくれなかったのは辛いのう。 淀や秀頼ら当時の大坂方に恩はないとはいえど豊臣子飼いの武将なのに。
少なくとも公正な見方がができるはずの現代人が、400年も前の庶民感情やらなんやらを出して 外様も嫌々やらされたとか感情論語って、挙句の果てに現代の倫理感を当てはめて 家康のやった事は卑怯だって批判するのは主観が入りすぎて賛同できない。 では信長の弟を呼び出して騙し討ちをしたことや、浅井との協約を裏切り朝倉を無断で攻めたり 秀吉の清洲会議から一連の織田纂奪がどうして家康のやり方より汚く無いかを論理的に語ってくれ 秀吉厨がどうのとかではなくマジで家康アンチの考えは主観が入りすぎている。 ハナから家康は汚い武将ってイメージで語ってない?
織田信勝は一度目の暗殺未遂を許してやったのまた暗殺を企てたからだろ 戦国の世じゃ殺されて同然だよ。むしろ一度目を許されてるのは寛大。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 00:20:32 ID:e0P0qmly
>>時勢を見極めるも何も、秀頼は会談のために二条城まで出向いてるし、
>>徳川に大義名分を与えるような行動を起こしていなかった、
>>それを方広寺っていう無茶苦茶な論理で潰しに掛かったのが家康で、
>>豊臣に責任があるって考え方は家康を正当化しすぎ。
>>45 秀忠の将軍就任への祝いを出してないぞ。
あの時点で使者を送るなり挨拶に出向くなりすればよかったとするのは
けっこう聞く意見だがあえて無視してるのか?
二条城会見というが、あれだけ淀が抵抗している時点で心象を悪くこそすれ
よいはずないだろう。「会談のために二条城まで出向いてるし、」
とは豊臣を高みにおいて徳川を下に見てる意見でないか?
私はむしろ45が 豊臣を故意にを正当化しすぎ としか見えんが。
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 00:31:27 ID:e0P0qmly
>>53 秀吉も家康も同じような汚いことをやってるのは事実でしょう。
秀吉だって子供それも実の甥と、その妻子を無残に皆殺しにしているし
この場合の秀次本人はともかく
その妻子をどのような無茶な難癖つけた罪状を持って皆殺しにしたのか考えれば
豊臣の滅亡や秀頼の死も因果応報としか見えん気はする。
秀頼を成人するまで城から出すなとか、気に入らない侍女は
拷問死させてよいとか無茶苦茶な養育し、甥の一族皆殺しにし
自分で身内を抹殺していったり遠ざけてしまった。
こんなことやってる時点で豊臣を滅亡に追いやる条件は
すべて秀吉が整えたもので
家康がやったのは既に収拾付かなくなってあえてやらないといけなくなった
ように見える。
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 00:49:14 ID:p2wIroow
家康は豊臣の家法を守り秀頼に仕かえる旨を 誓書に血伴を押して正式に誓っている その後も家康は豊臣家を辞してはいない それでいて豊臣家に弓引き秀頼を殺害した事は 紛れもない謀反であり家康は主君殺しの奸人である事は言い逃れできない
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 00:58:59 ID:e0P0qmly
誓書に血伴を押して正式に誓っている。
確かにな。家康も言い逃れはできないし、していないだろ。
だから?
豊臣を放置して、禍根を子や孫に丸投げにするのと
自分が罪を背負って天下を乱す要因として自分も責任で主君殺しの汚名を
被って天下360年の平和を齎したのとどっちをとるかといわれれば
後者の功績を取らざるを得ないだろ。
それとも
>>56 はあのまま豊臣を残したまま家康が忠臣顔して死んで
死後に豊臣を担いだ謀反で天下が二分して戦国時代が再発したほうが
よかったと?
>>56 確に否定できない。言い逃れなんかしないけどな。
ただし血判なんかなんの役にもたたない、どうしても誓約を守らせたかったら人質って時代であり
正当ではないが情や義理に惑わされるよりも大名として当たり前の判断であった事も併せてわかってくれるか?
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 01:05:54 ID:e0P0qmly
360年じゃないや260年だな。
それに
>>56 家康は秀頼母子は処罰せざるを得なかったが
豊臣家は滅ぼしていない。豊臣家の血筋も残している。
ちゃんと豊臣姓の大名木下家が明治維新まで続いてるし
淀殿の娘さん、つまり秀頼の姉にあたる家系から天皇家に縁続きするまでになっている。
葵三代でもでたろ。
そういった点では豊臣は旧主織田を残したが徳川は豊臣を滅ぼした
というのは筋違い。
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 01:09:15 ID:e0P0qmly
>>58 そのへんは承知する。
人間として家康のやったことは許せるもんじゃないって
感情は漏れも一緒。
だがそれは家康をあしざまに言ってもしょうがない時代の罪って
側面だと思うのでいうだけで
私も家康厨ってわけじゃない。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 01:10:20 ID:e0P0qmly
養女にしてるんで義理とはいえ娘となってるはず。 淀殿の養女として京に嫁入りしてたろ。
なるほど。家として見ればそうなるか。
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 01:15:19 ID:e0P0qmly
しかも、この淀の娘さん淀の妹と関白秀次の弟の間の子という 織田浅井豊臣の血を継いだ娘で、彼女の子が関白になってるからなー。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 01:15:26 ID:vFT3Kuug
>>52 秀吉も確かに織田を裏切る形になったが、まだ天下が乱れてたし、自分の家臣と味方に
なってくれた大名だけで戦って柴田とかに勝ってるでしょ? 家康は外様に戦わせておまけに
「外堀だけを埋める約束して内堀も埋めちゃう」みたいな失笑もんの策をやってるってのが痛い。
九条家は半分豊臣に乗っ取られてるわけだ。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 01:18:21 ID:e0P0qmly
>>65 講和条件は 外堀と内堀全ての堀を埋めるというもの。
ただ内堀は豊臣川が埋めるところを徳川がいっしょにやっちまえー
でやっちゃった点がトラブッだけで内堀埋めるのは豊臣も承知。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 01:19:42 ID:kA8EZGlU
つーかなんで豊臣方は埋めてる連中を追っ払わないんだ? 内堀まで埋めてる時点で代官も殺しちまえよ どうせ徳川に反抗する気でいたんだろうに埋められてからじゃ意味ない
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 01:23:12 ID:vFT3Kuug
>>67 ああ、そうですか。どうも不勉強ですみません。
>>61 っとっと。そりゃ時代の考え方の罪って所は同意だけど
俺個人の主観としては家康も秀吉もまた信長も人間として許されない事はやって無いと認識してる
まあここまでくると俺個人の歴史の考え方や倫理感の違い、人間心理とか色々入ってくるんで流してくれたらいいけど
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 01:24:12 ID:e0P0qmly
上層部はもう反抗する意欲は無かったと思う。 城内の浪人の暴走を止めきれなくなったんでは? 北朝鮮みたいに追い詰められた主戦派の暴走を止め切れなかったとかじゃないのか
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 01:29:46 ID:e0P0qmly
>>69 そういえばこの手の小説では必ず徳川が約定無視して内堀埋めたってのが
セオリーになってるんですよね。
漏れもそう思ってた。が・・そうなると内堀埋めそうになった段階で戦争再開のはず
かと疑問に思ってたんで、よくよく見れば
総堀埋め(但し内堀はこっちでやるからね)ってな内容だったわけで
責めてる訳じゃー無いんです。
>>46 別に譲歩しろなんて言ってないし、天下取りの為に他の大名に難癖をつけてまで、
家康が天下を一旦は乱したのは事実であり、秀頼と淀が
>浪人次々雇うわ、合戦の準備始めるわ、前田家に参陣要請出すわ
をしたのは家康が無茶苦茶な論理で追い詰めたから。
そういうのを無視して「家康は仕方なく天下を取った」みたいな論理はちゃんちゃらおかしい、
それは家康を盲目的に正当化し過ぎなだけ、素直に天下取りの為に行動したと見ればいいのに、
無茶な大義名分を振りかざすからおかしくなる。
>>54 だからこその二条城会談だろうが、淀が抵抗しようと秀頼は二条城に出向いた、それが全て。
>「会談のために二条城まで出向いてるし、」とは豊臣を高みにおいて徳川を下に見てる意見でないか?
別に、徳川の要請に応じて、本来は主筋である秀頼が出向いたって事は力関係の逆転を認めたって
事実を書いただけ、それがあったから家康は大義名分がなくなり、難癖でしか豊臣家を潰せなかった。
そんでから豊臣から天下を奪うべきでないなんて言ってない、美化しすぎるなって言ってるだけ。
あと秀吉も天下取りでも汚い事したから、なんて言ってる人が居るけどそんなの言い訳にもならんよ。
家康の天下取りも同時に汚い事してんだから別に免罪符にはならんし、
単に秀吉も家康も天下取りの為に汚い事したってだけ、もっと開き直ればいいのに。
>>55 >気に入らない侍女は 拷問死させてよいとか無茶苦茶な養育
これは初耳、良ければでいいからソースを聞きたい、お願いします。
>>65 さっきから外様外様って言ってるようだが、夏の陣で最も首取ってるのは松平忠直隊で戦死した本多忠朝、小笠原秀政。
その他木村隊を撃破した井伊直孝とかこういうのは何なの?
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 01:37:43 ID:e0P0qmly
>>73 漏れの書いた54の意見に対してのみカキコするが
私の言ったのは豊臣の譲歩が遅すぎという主旨であって
何も徳川を美化してなんぞいないが?
豊臣が攻めて秀忠の将軍就任に挨拶送るか秀頼が上洛していれば
やかったんでないか?と書いたのだが・・なぜそれが徳川の美化になってるのか
私のほうが73さんの解釈をお伺いしたいです。
それと55ですが拷問とはあれですが
秀吉がお拾にあてた手紙で「あなたの気に入らない侍女は折檻して殺してもいいですよ」
なんぞという物騒な文書を書いてる。
そんだけ過保護だったということでしょう。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 01:40:46 ID:e0P0qmly
ごめん上の文書誤字多すぎですね。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 02:08:32 ID:p2wIroow
家康は罪深い 家康の悪事は現代至るまで禍根を残す事になったのだから 数百年に及んで禍を撒き散らす日本史上最悪の大奸人である
>>75 二条城での会談で徳川>豊臣という図式を秀頼を認めており、
それで家康の「豊臣が従わない」という大義名分は無くなっている、
にも関わらず家康は方広寺の一件で豊臣に喧嘩をふっかけた、
だからそれ以前に秀忠の将軍就任に挨拶したところで対して変わらんよ、
豊臣がかつて天下人で元徳川の主筋っていう過去は消えないし、、
危険性は残る、遅い早いを問わず家康はどのみち豊臣を潰すだろうよ。
美化するな、ってのは39で
>家康のほうが結構譲歩と忍耐による猶予期間を与えてたと思うがな。
>早期に時勢を見極める事を怠った豊臣家のほうに責任がある。
という意見が出ているように、最終的に家康は大義名分無く豊臣に戦を仕掛ける以外なかったのに、
家康は我慢したのに、時勢を見極める事を怠った豊臣に責任があるっていう論理の流れ。
まああんたも「会談のために二条城まで出向いてるし」と秀頼の行動を書いただけで、
>豊臣を高みにおいて徳川を下に見てる意見でないか?
と美化しちゃってるけどな。
へぇ…秀吉も駄目な親だね。ソースありがとう。
まぁ 豊臣潰さなかったら、南北朝の再来になってた可能性はある。
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 07:43:22 ID:+EH0GtNd
>78 すまん、マジレスなんだが二条城の会談の結果は「豊臣は徳川の家臣になる」って事? だったら、家康の大阪の陣における秀頼への要求は苛烈ではあるけど、過大でも筋違い でもないよ。 基本的に他の大名家でも領地替え(というか、元々、これを最初にやったのは秀吉なん だが……)された大名はいたし、江戸に親族を送った大名もいる。 それに背けば主君として討伐するのは当然のこと。 徳川幕府は特に、仮想敵にはリトマス的に苛烈な要求をして様子を見る、というのを よくやっている(この挑発にのったバカはいないけどw)。 臣従した時点で、豊臣は徳川の一家臣となったのだから、例え、理不尽でも幕府の要 求を聞く立場にある。 もし反抗するのなら弓矢に訴えると幕府が受け取るのは当然のことだし、それに討伐 の兵を差し向けるのも当然のこと。 ま、この挑発行為を家康の生きている間にやり、かつ、この挑発行為で本当に兵を挙 げたのが豊臣だけだったから、話が大きくなっているんだろうけどね。
>>73 関ヶ原で天下はほぼ掌中にしてるから、豊臣を潰したのは天下取りのためとはいえないな。
徳川の天下が乱れないようにするため豊臣を潰した、というならわかるが。
家康擁護論では、豊臣が従わなかったので「仕方なく」豊臣を潰したと言っているのであって、
「仕方なく天下を取った」とは言っていない。
>あと秀吉も天下取りでも汚い事したから、なんて言ってる人が居るけどそんなの言い訳にもならんよ。
言い訳はしているわけではないだろうな。
豊臣厨が家康は汚い汚いと盛んに非難するので、秀吉も十分汚いですよと指摘しているだけ。
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 10:00:13 ID:39h60X4k
>>80 というか、二条城の会見で豊臣家が徳川家の臣下になった、ならない
ではなく、家康は「ちゃんと臣従しろ」っていう強いメッセージを
こめて秀頼を上洛させたってこと。
もちろん、これは家康だけでなくすべての大名も理解していただろう
し、北政所なんかもそう思ってたけど、豊臣家だけがわからなかった。
場当たり的にその場だけを誤魔化そうとしたんだろうな。
結局、上洛後も豊臣家が臣従する様子がないんで、家康は滅ぼす以外
の選択肢がなくなってしまった。で、開戦理由を作り上げて、大阪の
陣になったと。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 11:36:22 ID:TKsf5L19
この戦いは、秀吉側がやはり、慎重にならざるを得なかった。 なぜなら、かつての最強武田騎馬軍団の生き残りや、多数の伊が者を抱えており、 情報戦においても緒戦から、家康側の謀略で、秀吉は相当混乱していた・・・ また、家康は野戦の天才といわれ、大軍との面きってのぶつかり合いでは、家康側の勝利は明白だった。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 12:26:32 ID:vFT3Kuug
まあ、加藤、福島や北の政所なんかが内府を信じきってる時点でもう終わり。
違うだろ。内府を信じてた組が利口なんだよ 淀と秀頼の考えはあくまで徳川は豊臣の家臣、将来的には秀頼が元首になれる様に計らえって考え。 一方加藤や北政所の考えは時代は変わった。せめて秀吉の遺児秀頼を大名にした豊臣の家名を残してほしいって考え どっちが現実的かは分かるよな?
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 13:41:38 ID:vFT3Kuug
>>85 淀と秀頼と言うよりは淀だけじゃないか? 秀頼は天下のことはどうでも
良かった。まあそこまでバカじゃないかも知れんがあんまり野望は無かったと
思うよ。家康は淀が絶対承服できないとわかった上で条件出して拒否されるや
しめしめと豊臣家を潰した。この頃の倫理じゃあんまり自慢にならんな。
>>86 この頃の倫理ではなく、現代の倫理ではでしょう。
それにあの程度の条件も承服できないようでは徳川政権下で生き残ることは不可能。
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 13:47:24 ID:vFT3Kuug
誤解を招かないように言っとくが、家康という男は確かにただ者じゃないのは わかるよ。ある意味信長以上かも知れん。ただ家臣は主君に尽くしてこそ立派という 価値観があったことは否定できないと言ってるわけで。
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 13:51:32 ID:vFT3Kuug
だって家康が豊臣を滅ぼすことができたのはなぜか。徳川の家臣が家康の手となり足となって 尽くしてくれたからだろ。時に犠牲となって。それはどう説明してくれるんだ?
当主の器量。 主家に尽くす云々は江戸時代からの倫理観。
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 14:31:24 ID:39h60X4k
>>88 主君への忠誠は一騎がけの武士のものであって、大名のものではない。
豊臣家にしても徳川家にしても、大名同盟の盟主というのが実態であって、
大名とその家臣のように、忠誠を中心とした結びつきにはなってない。
実際、幕末に大多数の藩は徳川家から離脱したが、忠誠がどうのこうで
責められてないだろ。
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 14:38:17 ID:vFT3Kuug
>実際、幕末に大多数の藩は徳川家から離脱したが、忠誠がどうのこうで >責められてないだろ。 まあね。責めてたのは本人つまり徳川だけだった。
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 14:42:26 ID:MwB/ZszP
確に戦国期でも家臣は当主に尽す考えがなかったわけではない。事実忠臣と呼ばれる武将が居るのもそうだ しかしながら一般的ではないな。あくまで下剋上の時代。家康のやることに否定など誰もできない時代だ しかも家康は最有力大名にして秀吉とはかつて小牧で戦った敵でもある。 何十年と遣えた相手ならまだしもライバルみたいな相手に忠誠心を求めるのかい?
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 14:55:16 ID:e0P0qmly
家康は豊臣の準親族であるしな。 なんせ家康は秀吉の弟 息子の一人秀康は秀吉の養子ともなり 秀吉の甥にもなる嗣子・秀忠は秀吉の相婿でもあり 家康の孫にして淀殿の姪になる千姫が秀頼の正室に嫁いでいる。
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 14:55:24 ID:39h60X4k
それに、一介の浮浪人から大名にまでしてもらった秀吉が真っ先に 織田家を簒奪しちまっているのに、大名に忠誠求めたって無理だわな。
秀吉の時代では強大な大名が残りすぎていた、ということか。
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 17:56:31 ID:vFT3Kuug
秀吉の場合は何だかんだと色々やってるうちに結果的に織田から天下を取る形に なっちゃったんじゃないかな。性格的に前へ前へ出るタイプだから。
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 18:14:51 ID:39h60X4k
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 18:41:30 ID:I1GxgbMu
>>97 だったら織田秀信が成人したら天下を譲るだろ
秀吉は織田の家臣だったのでちまちまと織田から簒奪していったが、 家康は関ヶ原でドカンと実質的な権力を奪い、 大坂の陣で完全に豊臣を叩き潰した。 家康のほうが革命家。 家康は孟子の革命思想を信じていて、 豊臣の悪政を排除して理想的な武家政治を敷くことこそが 天から授かった天命であると考えていた。
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/08(土) 21:19:10 ID:I1GxgbMu
長嶋茂雄は野球界の秀吉みたいになってるな かろうじて生きてるからなんとか年配中心に野球ファンを繋ぎとめているが 不謹慎だけど亡くなったらプロ野球滅亡するかも。
>>80 家臣、かどうかは知らないけど下風に立ったって事は事実だろうね。
しかし大阪の陣の秀頼への要求は方広寺の無茶な難癖から始まり、
片桐と大野を詐術に掛けてのもの、単に家臣への要求を通り越して、
明らかに豊臣潰しを狙ったもの、幕府の命令に反抗したというよりは、
反抗するように仕向けた、例え従ってもどのみち潰されたようね、他の豊臣系大名の様に。
>>81 「仕方なく」でなくて、方広寺の一件から見られるように明らかに明確な意思をもって
潰しに掛かってるとも述べてるんだけど。
>>82 豊臣家は上洛以降は自重してたよ、だからこそ大義名分が無くて家康は無茶な難癖をつけた、
滅ぼす以外の選択肢が無かったんじゃなくて、単に徳川安泰の為に潰しに掛かっただけ、
別に悪い事じゃないが、「豊臣が従わないから」とかいう論は正当化し過ぎ。
徳川がとりあえず天領のキリシタンを禁止した時に多くでた浪人を大量に抱え始めたのは方広寺の前 これでもおとなしいと言えるか?
>>102 方広寺の事件の時は既に滅ぼす気だったに決まっているだろう。
それ以前の段階で豊臣は家臣として分をわきまえるべきだった。
>>102 どうも君の論は「豊臣家は家康に潰された」という被害者意識に肩入れするところから
スタートしているように思えるなあ。
もっとバイアスを取り払って歴史を見た方がいいと思う。
要は徳川家にとって最大の危険因子である豊臣家に出した最後通牒を、
豊臣家がかわしきれなかった。それだけの話でしょ。
酷な言い方をすれば、生存のための外交努力を怠ったから開戦になったわけで
何としてでも生存していこうという意志があるのなら、
豊臣は徳川にへりくだっていき続けるほかに選択肢はないよ。
江戸に人質を出す。国替えに応じる。この程度の条件を飲むのは当たり前。
外交戦の例として、秀吉は自分の母を人質に送って家康に上洛を促したけど、
これは一件低姿勢なように見えて、実は「天下人の俺がここまで譲歩したんだぞ」と
家康を脅迫しているわけ。事実上の最後通牒。
ここで家康と家臣団が勘違いし、もっと秀吉を困らせてやれとこの条件を拒絶したならば、
当然開戦となって徳川家はあぼーん。
戦争は外交の最終手段なのであって、戦争にいたるまでの道筋を軽視して
それを語ることはできないよ。
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/09(日) 10:04:02 ID:ihVA693b
>>102 よく理解していないようだが、「臣従しない」=「敵対する」って
ことだからな。徳川と豊臣が仲良く同等の関係を維持するなんて、
そんな選択肢はないんだよ。
だから、二条城の会見の後、臣従しないってのは、徳川家に喧嘩売る
のとほとんど変わらない。
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/09(日) 10:34:13 ID:FW6/6dhN
>>102 豊臣は一貫して徳川の風下に立とうとも自重もしていなかったはずだが?
それに詐術というが片桐に出した通帳はただしいと思うがな
(大野じゃないよ)大蔵卿を歓待し片桐に厳しい通告をしたというのは
家康の悪意を感じないでもないが、
それ以前に豊臣側の行動に自重があったとはみえない。
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/09(日) 12:44:31 ID:TdNAb0G7
薩長はあれだけ辛酸を舐めさせられたのに慶喜の命は安堵してやったのに、家康は 何の恨みも無いはずの秀頼を死に追いやって、まあ何と器量が小さい天下人なんだろうねぇ。
慶喜は恭順したし、勝海舟の政治手腕も大きかったからね。 秀頼は徹底抗戦したし、勝海舟のような有能な臣もいなかったしね。
>>103 当時の禁教令は徳川領内の問題だけで、法令という点では問題ではないし、
まだ公然と集めてた訳じゃないので数も少なく、これを口実をしてないところを見ると
さして問題でもなかったんだろう。
>>104 方広寺は口実が無いから無理矢理作った論理、こんな論理を吹っかけてくる時点で
どのみち潰す気だろうよ。
>>105 別に潰したこと自体は悪くないと書いてるが?
潰す気満々だったのに、それを豊臣が外交努力を怠った、とは正当化し過ぎと言ってるだけ。
最後通牒もそれを吹っかける過程が無茶な難癖で、最後通牒事態で大野と片桐を詐術に掛けて
離間させた、ハルノートみたいなもんで承諾しても握りつぶされるのがオチ。
秀吉は自分も譲歩して臣従させようとしてるのに対し、家康は詐術に掛けて開戦理由を作った、
同じ外交でも両者の意図は全然違い、最後の話を蹴ったから>豊臣が外交努力〜
とかいう話はまさに筋道を軽視してる。
>>106 同等な関係を維持なんて書いてない、よく読め。
>>107 二条城に秀頼が赴いた、ってのは徳川の下風に立ったっていう証明。
貴方が書いているように大野と片桐に違う条件を出して離間策をしてる時点で、
あの最後通牒を飲み込ませる気は無い。
>>110 家康が豊臣家を潰したことを正当化する気はないよ。
客観的に見ているだけ。一方君はどうだろうね。
>こんな論理を吹っかけてくる時点でどのみち潰す気だろうよ。
>大野と片桐に違う条件を出して離間策をしてる時点で、あの最後通牒を飲み込ませる気は無い。
これらは完全に君の主観だわな。君にはこの考え方から抜け出すことはできないようだ。
俺は家康贔屓だけど、家康は豊臣家を何らかの手段でもって無力化させようと
していたのは間違いないと思うよ(滅ぼすことも選択肢の一つ)。
家康はあの手この手の外交手段で豊臣家を追い詰めようとしたのに対し、
豊臣家はいったい何をした? 外交面で有効な手は何一つとして打てていない。
何らかの外交努力を行ったが、万策尽きてやむを得ず開戦に至ったというのならわかるが、
御家存続のための努力をほとんど行っていないじゃないか。主筋である家康の条件を何も飲んでないだろ?
それでよく一方的に潰されたなどと言えたもんだ。
ちなみに太平洋戦争の開戦直前において、日本の外務省は開戦を避けるために
必死の外交努力を行っている。大坂の陣のときの豊臣家とは大違いだよ。
>>111 君は条件を飲まなかった豊臣が悪いと言っているが、
家康が条件を出すきっかけの方広寺の一件は完全な言い掛かりであり、
それに対する弁明の使者を徳川が離間策にかけた、という点を無視している。
外交努力も何もそれをさせる気がなかったのが家康、
この難癖の前年に徳川で政争が勃発してるという背景を合わせて考えれば、
強引に潰しにいったという家康の意図も掴めるし、大野と片桐が交渉してる間に、
西国の大名達に誓詞を求めているから、既に豊臣を生かす気が無かった事が分かる。
あと俺は豊臣家が有効な手を打てたとは言っていない、
滅ぼされてる時点で有効な手を打てたというのは矛盾してるから、
しかしながら外交努力を怠ったというのは誤り、方広寺の言い掛かりまで徳川に口実は与えなかった。
しかも方広寺の一件なんて外交努力でどうにもなるもんじゃない。
>ちなみに太平洋戦争の開戦直前において、日本の外務省は開戦を避けるために
>必死の外交努力を行っている。大坂の陣のときの豊臣家とは大違いだよ。
違わんよ、君の言ってる事はハルノートを受け入れなかった
日本は外交努力をしなかったって言ってるレベルの話だよ。
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/09(日) 16:18:46 ID:FW6/6dhN
>>110 >>当時の禁教令は徳川領内の問題だけで
そもそも禁教令を発布したのは豊臣秀吉であるという歴史的事実を
故意に無視して
意図的に「豊臣家が自分で天下に発布した国策を自分で破っている行為」
を歪曲して「豊臣家の定めた国策を継承していた徳川家」を悪いとする
貴殿の説のより詳しい説明を頂きたいです。
>>潰す気満々だったのに、それを豊臣が外交努力を怠った、
では豊臣家が具体的にどのような外交的努力を払ったかご説明願えますか。
二条城会見以外にですよ。
>>無茶な難癖で、
というか力関係を考えたら、それ以前にもっと低姿勢の方策をとって当然
「私は徳川の主君だって顔」してるだけではねー。
>>大野と片桐を詐術に掛けて 離間させた、
というか危機意識もって徳川と折衝する努力をしなかった時代錯誤の
証拠でしかないのだがな?
徳川との折衝で多大な努力を払っていた片桐ではなく
徳川の何たるかを知らない大蔵卿の意見を取ったという時点で
豊臣の外交音痴を弁護する余地は無いと思うが?
片桐が去った後大阪城では倉庫の鍵の場所さえわからずに大混乱になること
おびただしく、大阪城の家政はまともに機能しなくなった。
大野は片桐を訪ねて徳川へ恭順の意を伝えて欲しいと頭を下げた。
大阪の陣で秀頼が淀殿に「なにゆえ片桐を信じなかった?」と攻められて、
「お前に政治は分からない」とヒステリーになった淀殿
これらの故事を承知してたら豊臣がいかに無知で時代錯誤か承知のことと思うが?
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/09(日) 16:24:50 ID:FW6/6dhN
>>この難癖の前年に徳川で政争が勃発してるという背景を合わせて考えれば、 >>強引に潰しにいったという家康の意図も掴めるし、大野と片桐が交渉してる間に、 >>西国の大名達に誓詞を求めているから、既に豊臣を生かす気が無かった事が分かる。 貴殿は離間とか主張されているが徳川との折衝で窓口になっていた片桐のセリフではなく 徳川と折衝したことの無い大蔵卿のセリフを信用している時点で 努力の形跡があったとはいえないのでは? むしろ危機意識の無さを露呈してるだけだが?
つーか方広寺前後の事に固執しすぎ。家康が秀忠に将軍職を譲った時点で、 いやもっと言えば関ヶ原で家康が勝った時点で豊臣に残された道は一つしかない ならば早く現実を見て積極的に臣従する方法もあったはずだ。二条城までその間かなりの時間がたってるが豊臣は何もしなかった 二条城の会見だって徳川のセッティングだろ。二条城で豊臣の今後をはぐらかした時点で どんな事言われてもなんも言えんわな
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/09(日) 16:32:24 ID:ihVA693b
家康の下風に立とうとしなかった時点で、豊臣家は徳川家と 敵対関係にあった。その姿勢が変わらないと考えた家康は、 豊臣家を攻撃して禍根を断った。 ま、それだけのことだしな。 そして、豊臣家には徳川家に代わって天下を治めてゆく能力 もなければ、やろうとする意思すらない。ただ、「自分達は 特別」という特権的立場を主張していただけ。 為政者としては、こういう存在は排除するのが当然の判断で あって、家康の行動は英断といっていい。
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/09(日) 16:35:09 ID:FW6/6dhN
方広寺の一件 これは豊臣家の油断もあるとおもうが? 徳川の内部的な政争を承知していたら自分が敵になりかねない という危機意識をもって対処するのが本旨だろ? 方広寺の鐘の文章にも細心の注意は必要だったのではないか? 貴殿は徳川は豊臣を潰す名文を求めてると主張されるが ならば、なおさら豊臣は細心の注意を払う必要はあったはず 鐘の名文に突っ込まれる余地を残してる 家康、徳川って文章はまさにキーワードになりかねない ので徹底的に回避してしかるべきでは?
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/09(日) 16:39:16 ID:ihVA693b
>>117 開戦理由なんて、つけようと思えばつけられるから、油断云々いっても
しょうがないよ。もっと本質的に、豊臣家に自分達が家康と敵対してい
るという自覚がないことが原因なんだから。時間を稼いで家康が死ぬの
を待って、次代になってから豊臣の復権をなんて狙っているようじゃ、
攻められて当然だわな。
家康は耐えた。 ただそれだけさ。
>>110 だから、方広寺に至るまでの豊臣家の態度が問題。
そもそも、人質だの国替えだの普通の大名は当然やっていることで、
言われたら素直にやるのが当たり前。
その程度のこともしないようでは潰されて当たり前。
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/09(日) 19:28:14 ID:3GEfgEj9
>>113 明石全登が存在が示すように、秀吉の禁教令がそこまで厳しくないのは歴史的事実ですが。
>「豊臣家の定めた国策を継承していた徳川家」悪いとする
そんな書いても無いことを書かれてもね、歪曲は止めてくれよ。
>では豊臣家が具体的にどのような外交的努力を払ったかご説明願えますか。
単純に家康に口実を与えなかった、折衝役として片桐もいたしな、
だからこそ難癖をつけるしかなかった訳だが。
つーか二条城の件をわざわざ外す意図も分からんが。
>「私は徳川の主君だって顔」してるだけではねー。
二条城会見をやってるから「私は徳川の主君だって顔」はしてないな。
>危機意識もって徳川と折衝する努力をしなかった時代錯誤の証拠でしかないのだがな?
それは徳川が豊臣家をはなからつぶす気だったとい事の反証にはならんな、
単に豊臣家が罠に引っ掛かったってだけの話、下に長々書いた話も豊臣の家中の混乱を
示してる話なだけ、ピントがずれてるな。
>>114 その片桐の豊臣家での信用をなくすための離間策な訳だけど。
>>120 家康が国替え、人質を要求したのは方広寺の後だ。
普通の大名はあんな詐術に掛けられた上での恫喝なんて受けんよ。
>>121 方広寺前が問題だし、仮にその後でも粛々と受けるのが当たり前だということ。
そして、受けなければ滅ぼされるだけ。そんな事は他の大名だって同じこと。
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/09(日) 20:29:44 ID:FW6/6dhN
>>121 >>単純に家康に口実を与えなかった、折衝役として片桐もいたしな、
>>だからこそ難癖をつけるしかなかった訳だが。
>>つーか二条城の件をわざわざ外す意図も分からんが。
逆に二条城の件を豊臣家の生存への努力した外交に入る行為とでも?
あれは徳川側が主体となったわけで豊臣はシブシブやっただけではないか。
まして加藤清正と淀のエピソードとってみても、二条城のエピソードは
面従腹背で徳川の脅威になりますとアピールしてるようにしか見えんのだが?
>>78 ではいかにも豊臣が徳川より下だと認めた行為だと主張なさっておいでなので
あえて外しただけのこと。
>>その片桐の豊臣家での信用をなくすための離間策な訳だけど。
だから、それに引っかかるほうがアホだといってるわけだが?
>>折衝役として片桐もいたしな、
この片桐のセリフを第一に信用すべきじゃないかい普通ならば・?
>>家康が国替え、人質を要求したのは方広寺の後だ。
>>普通の大名はあんな詐術に掛けられた上での恫喝なんて受けんよ。
だから?国替え人質をしなくていいという理由にもならないよ。
貴殿の言うように
>>二条城での会談で徳川>豊臣という図式を秀頼を認めており、
ならば国替え、人質はすべき行為だろ。
その関係を認めた時点ですべき行為なのだから。
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/09(日) 20:32:30 ID:FW6/6dhN
>>121 >>それは徳川が豊臣家をはなからつぶす気だったという事
参考までに、それはいつからなの?家康が豊臣を潰すだったというのは?
1から順番に読んできたけど、
>>121 の人が終始語っているのは
「家康を美化するな。正当化するな」ってことなんだと思う。
>>73 の
>豊臣から天下を奪うべきでないなんて言ってない、美化しすぎるなって言ってるだけ。
>あと秀吉も天下取りでも汚い事したから、なんて言ってる人が居るけどそんなの言い訳にもならんよ。
>家康の天下取りも同時に汚い事してんだから別に免罪符にはならんし、
>単に秀吉も家康も天下取りの為に汚い事したってだけ、もっと開き直ればいいのに。
あたりがそうだろうな。
それに対する反論として、「豊臣家にも責任があるだろ」っていう意見が延々と書き込まれている。
なんつーか、噛みあってないよ。
あと、(
>>121 の本音はどうかわからんが)アンチ家康の書き込みは「家康憎い。豊臣かわいそう」という
主観に立脚したものが多すぎる。結論が先にあって、その結論を証明するために
史実を自分の都合のいいように解釈するから破綻するんだよ。
まさに↓のような感じ。
>秀吉厨がどうのとかではなくマジで家康アンチの考えは主観が入りすぎている。
>ハナから家康は汚い武将ってイメージで語ってない?(
>>52 )
>>121 がいかに主観的な思考に凝り固まっているかというと、、、
>家康が国替え、人質を要求したのは方広寺の後だ。
>普通の大名はあんな詐術に掛けられた上での恫喝なんて受けんよ。
この引用の下の部分は明らかに
>>121 の勝手な判断だわな。
「家康は最初から100%豊臣を潰す気だった」というのが
>>121 の人の主張で、
それを証明するために、
>普通の大名はあんな詐術に掛けられた上での恫喝なんて受けんよ。
と自分の判断を持ち出してきているわけ。
一方それに反論する人たちは、
「恫喝であれなんであれ、それを受け入れて生存の道を拓くという選択肢もあったでしょ。
豊臣家はそのとき何も選択しなかったじゃないの」
と言ってるわけ。これは客観的事実。
論を戦わせているときに、客観的事実に対して主観的意見をぶつけたって勝てないよ。
ケンカじゃないんだから、声の大きい方が勝つというわけにはいかない。
>>121 は家康擁護派を黙らせるような証拠を提示しないと、もう議論にならないレベルになりつつあるよ?
家康が気にくわないというのが本音だろ。 だから家康そんなに悪くないと思っている人たちと延々と議論になる。 美化ということでいえば、一般的には秀吉のほうがはるかに美化されている。
>>125 というか、家康が邪魔な存在である豊臣を滅ぼしたのは単純な事実で、
美化でもなんでもない。邪魔なものを取り除くのは普通のことで美化する必要もない。
問題は豊臣が生き残る為の努力、要するに明らかに臣下として行動して、
自ら徳川にとって邪魔な存在ではなくなる努力をしていないこと。
それを怠ったから当然の結果として邪魔者として排除された。
この点を無視している時点で、むしろ豊臣を美化しているとしか思えない。
秀吉は正義堂々とやってきてたか? どうだ1よ
三法師さまを守り立てて行きましょうとか、どうのこうの聞いたが
>>123 かつては主筋だった豊臣家が、もうそうではないと認める行為だから、入るだろうね、
そりゃ臣従する訳だから渋々の部分もあったであろうが、秀頼は自分で決断し、
二条城会見に向っており、加藤清正の行為も秀頼暗殺を恐れての警護の域を出ない、
結果として秀頼は二条城に来て、家康の下風に立った。
>だから、それに引っかかるほうがアホだといってるわけだが?
だから阿呆だった事は否定していない、また策に掛かったといて、
普通な状態な訳が無いだろ、しかしながら策をもって交渉役を嵌めたって事は、
家康に交渉する気なんて無い証明だろう。
>その関係を認めた時点ですべき行為なのだから。
その命令に正当性があればね、何度も書くが過程を見れば
方広寺建立は家康も奨めていたもので、それが出来るやいなや有り得ない難癖を付けた訳だ、
単なる命令でなく、初めから陥れる事を目的とした命令で、下風に立ったにも関わらず、
この仕打ちをしてくる徳川を豊臣が信用しなくなっても仕方の無い話。
>>126 家康が豊臣をはなから潰そうとした客観的事実ねぇ…
・二条城での会談で、豊臣<徳川が成立し、家康は豊臣を攻める大義名分を失った。
・家康も建立を奨めた方広寺が完成すると、いきなりつけた有り得ない難癖。
・その難癖に対する弁明の使者である片桐に離間策をしかける。
・また弁明の交渉中にも関わらず、西国の大名達から誓詞を書かせる。
・難癖を付ける前年、徳川家では家康派の側近と秀忠派の側近が政争を行った。
こんなところか、統合すると
「大義名分の無かった家康が、家中の政争にあせって急いで豊臣を潰しに掛かった」
っていう所だろうねぇ。
それはそうとあんたの
>「恫喝であれなんであれ、それを受け入れて生存の道を拓くという選択肢もあったでしょ。
>豊臣家はそのとき何も選択しなかったじゃないの」
も主観的意見なんだけど、>それを受け入れて生存の道を拓く
と言ってるが素直に出て行って秀頼が助かる保障は無いんだけど。
>>124 清正が暗殺を心配する位だから前々から考えていたかもしれないが、
家中で政争が起きた時にハッキリと決めたんじゃないかな、
あれは秀忠の側近筆頭の大久保を家康の側近筆頭である本多が蹴落とした事件だから、
かなり影響があったようで家康はその直後に秀忠の側近に家康へ忠誠を誓う旨の誓詞を書かせてる。
んで、その次の年に方広寺っていう後年にも悪評される程無茶な難癖を付けた訳だから、
家康が自身の年齢と前年の政争を考えて急に動かざるを得なかったという事だろう。
>>125 俺の主張は前半部のそんなもん、
その反論の>「豊臣家にも責任があるだろ」
っていうのにおかしいと感じる部分があるから反論してるだけ。
まあアンチっていうレッテルで見られてるから多分噛み合わんだろうと思うけど。
>>128 美化してないといいつつ、
>明らかに臣下として行動して、 自ら徳川にとって邪魔な存在ではなくなる努力をしていないこと。
>それを怠ったから当然の結果として邪魔者として排除された。
と詐術に掛けて初めから追い込む気だった事を無視して、
「豊臣が悪いんだよ」的な言い方だから何か言いたくなるんだよなぁ...。
徳川は太平の世を築くために豊臣が邪魔だった、だから策略に掛けた。
豊臣はその徳川の策略を見抜けなかったし、策略を回避する機転は無かった。
そういう事実はあるけど、悪いとかそういう問題じゃねえだろと。
二条城の会見が豊臣〈徳川になったと言う点はその通りである 方広寺の時点で徳川がほぼ豊臣を潰す気でいたこともまあその通りだと思う。 しかし二条城の会見ははっきり言ってなんの意味もなさない。 秀頼のしたことは形だけの臣従。こんなのは血判とか誓書とかと一緒で裏切るのは容易である 結局実質的な豊臣ブランドは残ったまま。戦略的要地の大坂に居座り、豊臣〈徳川を具体的に示す人質も送らない つまり今後とも豊臣は徳川に反旗を翻す可能性がありますよって言ってるようなもん そのリミットが二条城から方広寺前後の約2年なわけ。家康もだらだら完璧な臣従を待ってもしかたがない 寿命も迫ってるわけだし少々手荒いが潰しにかかろうと言うわけだ そりゃ方広寺や片桐に対するやり方は局地的に見りゃひどいさ。しかしね、こんな態度取ってた豊臣にそもそもの問題があるわけだ。 ではどっちが悪いのと言えば因果応報ってわけで豊臣って言ってるんだよ
>>131 >家康が豊臣をはなから潰そうとした客観的事実ねぇ…
>・二条城での会談で、豊臣<徳川が成立し、家康は豊臣を攻める大義名分を失った。 A
>・家康も建立を奨めた方広寺が完成すると、いきなりつけた有り得ない難癖。 B
>・その難癖に対する弁明の使者である片桐に離間策をしかける。 C
>・また弁明の交渉中にも関わらず、西国の大名達から誓詞を書かせる。D
>・難癖を付ける前年、徳川家では家康派の側近と秀忠派の側近が政争を行った。E
家康がハナから豊臣を潰そうとした証拠としては全部不十分だな。上から、
(A)二条城会談で豊臣<徳川が確固たるものになったわけではない。
家康に豊臣を攻める大義名分を完全に失わせるには、
江戸に挨拶に出向く、人質を送るなどといったことを”自主的”にやる必要がある。
(B)(C)難癖に付随して豊臣家生存のための条件を出している。
交渉の余地がなくなったわけではない。
(D)万が一合戦になった場合の備えをしておくのは当然の事。
(E)これは面白い見方だと思う。徳川家の内紛に危惧を覚えた家康が、
自分の目が黒いうちに外憂を片付けようとするっていうのは、それなりに説得力がある。
だけど、豊臣家をなんとかしようと家康が決意した証拠にはなっても、
滅亡させようと決意した証拠にはならんよ。
>>「恫喝であれなんであれ、それを受け入れて生存の道を拓くという選択肢もあったでしょ。
>>豊臣家はそのとき何も選択しなかったじゃないの」
>も主観的意見なんだけど、>>それを受け入れて生存の道を拓く
>と言ってるが素直に出て行って秀頼が助かる保障は無いんだけど。
どこをどう読めば上の2行が主観になるの? 事実でしょ。
それから、素直に出て行って秀頼が助かる保証は確かにないけど、可能性はゼロではないよ。
>詐術に掛けて初めから追い込む気だった事を無視して、
>「豊臣が悪いんだよ」的な言い方だから何か言いたくなるんだよなぁ...。
あんたが言う「追い込む」というのは、あんたにとってみれば「滅ぼす」ことなんだろうが、
家康擁護派にとってみれば滅ぼす以外にも選択肢は色々あったって言ってるわけ。
選択肢は色々あったのに、存続のための努力を諦めて自分から滅亡の道を歩むなんてバカだなってことよ。
「豊臣が悪い」とは言わないけど、仕方ないじゃん。自分で選んだ道なんだから。
つーかさ、本音は↓なんだろ? アンチ家康の典型的なパターンなんだよな。
>家康が気にくわないというのが本音だろ。
>だから家康そんなに悪くないと思っている人たちと延々と議論になる。 (
>>127 より引用)
>>133 二条城の会見が何の意味も成さないんだったら家康は大義名分を失わない、
>戦略的要地の大坂に居座り、豊臣〈徳川を具体的に示す人質も送らない
>つまり今後とも豊臣は徳川に反旗を翻す可能性がありますよって言ってるようなもん
>そのリミットが二条城から方広寺前後の約2年なわけ。
こういう論も家康が方広寺以前に豊臣家に領地替え、人質を要求していたならまだしも、
家康がこれを要求したのは方広寺の後、別にリミットを待っていた訳ではなく、
お家の事情で状況が変わっただけの話。
>>134 >(A)
家康が大義名分を失っていなければ方広寺の難癖なんて必要なく、
家康が人質等を要求したのは方広寺の後。
>難癖に付随して豊臣家生存のための条件を出している。
B・C・Dはあわせて見ることお勧めする。
元々無茶な難癖から始まった交渉の途中で、兵を集める準備をしだし、
今まで対応役だった人物に離間策を仕掛ける、そんな上で出された条件を、
出された相手がどう反応するかなんて明白。
>滅亡させようと決意した証拠にはならんよ。
何とかしようだけなら領地替え、人質を要求しても良かったかもしれないが、
いきなり方広寺だからね、A〜Dを合わせて見れば明白だと思うけど、
もうこれ以上議論しても多分かみ合わんだろうな。
>どこをどう読めば上の2行が主観になるの? 事実でしょ。
事実とは既に確定した事項の事、つまり秀頼が選択を拒否した時点でその後の結果は事実ではなく、
あくまで仮定でしかない、
>それを受け入れて生存の道を拓くという選択肢もあったでしょ。
の場合、実際に生存できたかどうか、というのは君の主観的な仮定に過ぎない訳だ。
だから家康の追い込むってのが、豊臣家の反発を誘い戦を起こすように志向してるって書いてるんだけど、・。
家康のとった方針は選択肢など与える気は無かった、と。
まあ意見の違う人間をアンチっていうレッテルでしか見れないんだったらこれ以上話しても無駄かもね。
まぁ、簡単に言えば(他のスレでも大体同じ展開だが)、 アンチ家康 : 家康は汚い! 家康擁護派 : あの状況なら、当然の行動だろ。 なんだよね。
>>135 議論が発散してきたから、切り口かえるか。
以下の点に答えてくれるか?
(1) 徳川家による豊臣家処分が歴史上不必要な行為であり、倫理上
許されない行為であるという意見か?
(2) 豊臣秀吉による織田家簒奪についてはどう考えるか?
>>136 俺なんかは結果が良ければその過程は肯定される位に思ってるけどな
豊臣潰したのが政治的失策でないならそれで良いだろ
>>138 まぁ、俺だったら、悪名かぶるのを恐れて豊臣家を放置したら、
家康の評価をだいぶ下げるけどな。
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/10(月) 16:49:59 ID:CHJXMmMI
>>137 横レスすまん。暇潰し程度に読んで欲しい。まず(2)に答えたいが、もちろん誉められたことじゃ
ないと思うよ。秀吉は間違い無く織田家の家臣だから。いろんな大名が徐々に味方した事だって、
黒田、藤堂らが「これからは内府殿の天下」と家康に従っていったのとあんまり違い無いかも知れん。
だけど秀吉は織田家の人間を根絶やしにはしてない。そこに太閤の余裕を感じるしそう感じるように
秀吉のパフォーマンスなんじゃないのかな。
で、(1)だが、国家安康はじめ秀頼・淀側に仮に非があったとしても、滅ぼしてしまったことで
逆に徳川が非常にせっぱつまってたという印象を与えてしまってるし、征夷大将軍になるまでは、五大老の
筆頭の権限を利用していろんなことをしてる。豊臣の武器を使って豊臣を滅ぼした。まるで火付け盗賊みたいだと
思ってしまいますよ。
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/10(月) 17:04:23 ID:CHJXMmMI
ごめん。(2)に補足。何と言っても裏切り者光秀を鮮やかに討ったことが大きいと 思う。あれであたかも秀吉が信長の後継者だというようなムードができちゃったし 本人もあえて意識的に演出したんだろうと思う。
>>140 ちょっと事実誤認がありそうだなぁ。
別に、家康は豊臣家をすべて滅ぼしてないよ。
殺したのは、淀殿(豊臣家首班)、秀頼(豊臣家当主)、男子(豊臣家後継者)で
あって、女児はちゃんと生き残っている。さらに、絶やしたのなにも傍系が全然い
ないんだから、絶えるのもしょうがない。
また、織田秀信が岐阜城であくまでも秀吉の傘下に入らない姿勢を貫いたら、秀吉も
秀信を殺したでしょう。実際、信孝もその母も殺しているし、信雄は追放して軟禁し
ているわけだし。織田家が豊臣家よりまともだっただけで、秀吉の余裕ではないわな。
さらには、家康が豊臣の武器を使って豊臣を滅ぼしたっていうけど、秀吉もっとそう
でしょ。幼児を無理やり織田家の当主にしたのを皮切りに、織田家の物と使って織田家
を滅ぼしている。
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/10(月) 17:12:24 ID:CHJXMmMI
>>142 そこまで言うなら、国家安康の4文字が偶然ではなく、家康を呪い殺そうとしてる
ということが言いがかりでなく正しいということを論理的に証明できますか?
>>141 そりゃ、秀吉の演出は見事だけど、やったことを検証してみれば、かなり悪質な
簒奪劇だからな。
例えば、一つ例をあげて見れば、信孝を倒したいきさつにしても、
「秀吉は三法師を返さない信孝を討伐して、三法師を救出した」
って感じで語られているけど、三法師の叔父である信孝がその養育をするのは、
すごく当たり前のことであって秀吉が返せっていう方がおかしいわけだ。
さらには、軍を発して主君の居城を攻めているわけであって、これって、見方
によっては反乱だし。ここでやったことは、主君の叔父を攻めて幼君を奪い取っ
たってのが実態なわけでしょ。
やっていることを散文的に事実だけみると、すごく悪質な行動なんだよ。
>>143 そこまでもへったくれも、あんなのは単なる難癖つけだけど、それがどうしたの?
主家の当主に無理矢理幼君を立てて、それを利用して家を乗っ取る行為の方がは
るかに悪質だけど。(中国史なら腐るほどある例だ)
>>140 貴殿はちょっと豊臣側の意見が強い。とくに
>そこに太閤の余裕を感じる
とか
>豊臣の武器を使って豊臣を滅ぼした。まるで火付け盗賊みたいだと
思ってしまいますよ。
>何と言っても裏切り者光秀を鮮やかに討った
この一連の発言からは自分が秀吉を英雄のごとく思っている証拠であり
家康を簒奪者として見ている証拠にもなりえている。で、今になって
議論しつくされたようなことを言っている以上は
>>1 から読んでないと思われる
一度上から全部読んでから改めて言ってみてほしいな
暇つぶし程度に読めというわけであんまり強く議論する気は無いけど
あと一つ指摘させてもらうと家康も決して豊臣の家系を根絶やしにしたわけではない
嫡流ではないがこのスレの
>>60 前後で言われているので参考にして欲しい
方広寺の事だってそれまでの豊臣の姿勢が原因だってニ三日前から かなり言われていること。結局この議論に決着はついてない。 ただ方広寺の一件は豊臣を潰すための冷徹な戦国時代の謀略の一つであることはもはや共通の認識
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/10(月) 17:40:11 ID:CHJXMmMI
>一度上から全部読んでから改めて言ってみてほしいな はい。
秀吉の織田家簒奪の過程: ・清洲会議で成人の信孝・信雄ではなく、幼児の三法師を無理矢理当主に立てる。 (1582) ・岐阜城で三法師を養育していた信孝を攻撃し、三法師を強奪する。(1582) ・秀吉の行動に怒って出兵してきた柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、勝家を 自害させる。(1583) ・現君主の叔父であり、引き立ててくれた信長の子である信孝を殺す。 同時に、信長婦人である信孝の母も殺す。(1583) ・三法師はそのまま飼い殺し。自分の主君であるという教育はいっさい施さず に、自分の配下大名として育てる。(1592年、岐阜城主となる13万石?) ・その間、自分の方針に逆らったということで、信長次男の信雄を攻める。 後に講和したにも関わらず、転邦を嫌がったという理由だけで所領没収・ 軟禁状態にする(1590)。
家康の豊臣家簒奪の過程: ・秀吉死後、反家康派を関が原で破り覇権を確立(1600)。 ・秀頼の代官として、関が原の敗者を処分。同時に、豊臣家の所領を大幅に削り、 自領とする。(1600-1601) ・江戸を中心に新政権を発足し、豊臣家以外の大名を江戸に集める。 ・征夷大将軍になる(1603)。翌年、退位。秀忠が二代将軍となる。 ・豊臣秀頼を上洛させて会見。臣従をうながす(1611)。 ・大坂冬の陣(1614)、夏の陣(1614)で豊臣家を破る。淀殿・秀頼は自害。 秀頼男子は処刑。女児は寺あずかり。
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/10(月) 18:55:19 ID:HzINThtz
>>149 コピペだが
☆ 秀吉は、一介の浮浪者を大大名にまで抜擢してくれた恩ある織田家に、
・ 織田家の当主に無理矢理幼児(秀信)を据えて、織田家簒奪の
道具とする
・ 秀信を預かって養育していた信長の子(信孝:秀信の叔父)を
だまし討ちして、秀信を強奪する。
・ 自分に反抗したという理由だけで、信長の子(信孝)を殺害。
さらには、その母(信長の側室)まで殺害。
・ これらの秀吉の主家に対する悪事に怒った織田家重臣(柴田勝家)を
攻め、自害させる。
・ 他の信長の子供(信雄)の所領を没収し、追放。
・ 織田本家(秀信)については、その所領をほんのわずか(30万石)
だけ残して他のすべて没収してしまう。
・ 秀吉の養子になっていた信長の子供(秀勝)が都合のいい時期に
いつの間にか死んでいる。(暗殺の疑惑あり)
といったことをしました。
一方家康は豊臣に恩は無い罠。天下統一に協力してくれと
無理やり離別させた妹を家康に強引に嫁にやり関東に追いやってるしな。
方広寺の後だろうがなんだろうが、 人質を求められたら出すのが、国替えを支持されたら従うのが当たり前。 その程度もしなければ滅ぼされて当たり前。 それだけのこと。
>>135 >だから家康の追い込むってのが、豊臣家の反発を誘い戦を起こすように志向してるって書いてるんだけど、・。
>家康のとった方針は選択肢など与える気は無かった、と。
(ギリギリまで)追い込むことが必ず合戦につながるわけではないよ。
外交ってのはあんたが考えてるほど単純じゃないんでさ。
限界まで追い込まれても開戦に踏み切らなかった例なんて、歴史上いくらでもある。
家康は選択肢など与える気は無かったとあんたは何度も言うけど、
豊臣家が取れる選択肢なんていくらでもあるじゃない。その後どうなるかは別としてさ。
仮に全ての選択肢が滅亡につながっていたとしても、最後まで存続できるよう努力した場合と
やけっぱちになって戦争に踏み切った場合と、どっちが評価できるだろうね。
家康擁護派の人たちは、このことを何度も何度も言ってるんだよ。
擁護派の人たちのほとんどは「家康は汚い」ということを別に否定しないと思うよ。
汚いのを十分認めたうえで、あの時代なら当たり前の行為だって考えてる。
逆にアンチの人たちの多くは、汚い家康の人間性を感情的に攻撃することに終始している。
っていうか家康は勝手に天下が転がりこんで来ただけだろ 信長死ぬまで何もしてないし さらに秀吉死ぬまで何もしてない 仮に先に死んでたら三河の暗愚としてあまり知られない戦国武将に過ぎない 秀吉死後の家康のポジションは反三成(豊臣)からならだれでも代わりになるとおもうよ
>>154 君に戦国板で武将を語る資格が心配だ。
何もしてない三河の暗愚だったら三河当主にもなれないっての
そういう運命的なことを語って天下取って260年の太平を作る武将を貶めるのは感情論入りすぎ。
156 :
155 :2006/07/10(月) 21:11:30 ID:QAuTdlPd
×資格が 〇資格があるか
157 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/10(月) 22:21:32 ID:cKzhMA0X
>>154 家康死後のポジションは他の武将でもできたかもしれん。
だが、他の武将では260年の平和は間違いなく築けなかった。
秀吉ですら、20年すらもたなかったしな。
家康を甘く見すぎなんだよ。単に天下をとっただけなら、足利尊氏や
後醍醐天皇だって取ったんだ。だが、これらの2流と超一流の家康で
は格が違う。家康にくらべれば、秀吉でも一流のせいぜい中くらいが
限度だわ。
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/10(月) 22:28:43 ID:RuaH8lPu
豊臣政権をぶっ壊したのは秀吉だろ?
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/10(月) 22:35:50 ID:cKzhMA0X
>>159 その点については異論がない。あれだけ失政していれば、普通はつぶれる。
ちょっと遅れたが、
>>137 >(1)
徳川政権を安泰にする以上は仕方の無い事、倫理なんて大した問題じゃない。
>(2)
当時は今だ乱世であり、織田家の後継者たる力を持った人物が秀吉だったという事。
上と同じく倫理なんて大した問題じゃない。
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/10(月) 23:54:50 ID:cKzhMA0X
>>161 なるほど。
まぁ、つまり両者ともに天下を取るまでの倫理性にまったく問題がないと
いうことだな。
(だったらなんであれだけ家康を非難したのかよくわからんが)
まぁ、ならそれでいいよ。
後は、両者の天下を取った後の業績の評価ってことになるからな。
その点では、家康>>>秀吉か。
>>162 何か勘違いしてるが、俺が非難してるのは家康じゃない。
単に「家康は豊臣家を滅ぼすつもりで行動してた」と言ってるだけ、
それの良い悪いを評した事も無い。
俺が非難してるのは「天下の為に仕方なく」だとか、
家康が明らかに豊臣家を潰す気で策略を仕掛けてるのに、
「外交的努力を怠った豊臣が悪い、家康は仕方なく潰した」
とか言ってる輩。
まあ評価は個々が考えれば良いから、別にどーでもいい。
>>163 流れからして
>>161 の人だよね、
「仕方なく」はあなた自身も言っていることし、
豊臣が外交努力を怠ったのも、そしてそれが悪い結果につながったのも明らかな事実。
どこに避難しなければならない点があると?
仮に人質も国替えも応じたのに滅ぼされたというなら話は別だけどね。
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/11(火) 00:31:48 ID:9GYQ/BIk
家康が「天下のために仕方なく」……だなんて誰も言ってないと思いますが。
あなたの思い込みではないですか?
たぶん
>>46 のことを言ってるんだと思うけれども、
>>46 は要するに
家康は豊臣にさほどの恩はなく、今後の徳川の天下のために邪魔者の豊臣を何らかの形で処分しようとした。
存続の可能性があったにもかかわらず、豊臣は徳川の要求を拒絶したために開戦となり、
豊臣家は滅んだ。とまあ、こういうことでしょう。
「仕方なく」だなんて一言も言っていない。
豊臣に肩入れする気持があるから、そのように読み取ってしまうんじゃないですかね。
>家康が明らかに豊臣家を潰す気で策略を仕掛けてるのに、
まだこんなこと言ってるんですか? やれやれ……。
166 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/11(火) 01:41:00 ID:IfOV3FHW
まあ、いいじゃないか。 このスレで頑張ってきたアンチさん、家康が豊臣を滅ぼしたのは 倫理的に何ら問題ないことをはっきり認めたんだから。 一歩前進というべきだろう。 あと、家康擁護派の擁護の仕方がまだ気に入らないらしいけど、 擁護なんてそんなもんだし、他派のDQNさに比べればずっとまし。
>>164 徳川家安泰の為には仕方ない、と
>「外交的努力を怠った豊臣が悪い、家康は仕方なく潰した」
とは全然違うんだけど、仕方ないの前後を確認してから反論して欲しい。
外交努力を怠った訳じゃないのは既に何度も書いたのでまた書くのは面倒くさい。
>>165 >家康が「天下のために仕方なく」……だなんて誰も言ってないと思いますが。
>「仕方なく」だなんて一言も言っていない。
>>57 >自分が罪を背負って天下を乱す要因として自分も責任で主君殺しの汚名を
>被って天下360年の平和を齎したのとどっちをとるかといわれれば
>>81 >豊臣が従わなかったので「仕方なく」豊臣を潰したと言っているのであって、
まずスレぐらい読み返せよ、徳川の要求云々の話も腐るほどしたし、
>家康が明らかに豊臣家を潰す気で策略を仕掛けてるのに、
具体的な論も提示もしないではお話にもならんな。
>>166 俺は初めから倫理的に問題ありとは言ってないが…
>>167 怠っているんだよ。
怠っていないと思うあなたの感覚が異常なだけ。
人質も国替えも嫌です、でも滅びたくありませんではただの怠慢。
まぁ、倫理的に問題ないと宣言してしているわけだから、策謀・陰謀 なんて言葉を使うのは適当ではないな。 これからは、豊臣家処罰(せいぜい処分)といってくれんと。 あと、方広寺事件で家康が豊臣を追い詰めたからどうのこうのも一切 なしだな。あんなの開戦理由つけただけの行動で、やり口が汚いって 批判のネタにしかならんし。倫理上問題がないんなら、完全に枝葉末 節だわ。
>>167 なかなか自家撞着してしまっているな。
まず、大きな前提として、
「家康は豊臣家を残す気はなかった」「豊臣家は外交を懸命に行っていた」
の議論のどっちも結局は倫理上の問題なんだよ。
もし家康の豊臣家処分に倫理上問題がないんなら、「家康は豊臣家の動向に
左右されることなく、禍根を絶った」ということになるわけだから、いつか
ら云々なんて話はほとんど意味がなくなってくる。というか、むしろ家康の
英断として語られるべき種類に変化する。
まぁ、あなたの議論がそういう方向になっていたとは、とても思えないんだ
けどね。
>>168 口実が難癖なのも、人質も国替えの命令に至る経緯も何度も書いた。
>>169 何か倫理を問題にして無いって発言を変な風に捉えてるな、
>>161 で書いてるように、>倫理なんて大した問題じゃない。
と言ってるだけで、秀吉や家康の行動が倫理に沿っていたとか言ってるんじゃない。
おまけに家康の行動を否定した事は無い、否定してるのは無茶苦茶に家康を正当化してること。
>>170 君も倫理を問題にしてないっていうのを変な風に捉えてるな、↑に書いたとおりで、
倫理に沿ってました、倫理に反していないって意味じゃないんだよ。
それにね>「家康は豊臣家の動向に左右されることなく、禍根を絶った」
事を「英断ではない」と否定した事は無い、否定してるのは
>>167 で挙げた様なや輩。
あと>「豊臣家は外交を懸命に行っていた」
はまた俺の主張とニュアンスが違うな、俺が言ってるのは、
豊臣は言われる程ふんぞり返っていた訳でも外交を軽視していた訳でもない、
家康の口実を与えない程度には頑張っていた、っていう事。
そんで>「家康は豊臣家を残す気はなかった」「豊臣家は外交を懸命に行っていた」
は別に倫理上の議論じゃない、単に家康の意図や豊臣の動きの推察や事実関係の話、
俺が「家康が倫理上問題ありだから駄目だ」とか言った事があるんだったら挙げてみればいい。
>>171 例えばだ、110 にある、
>秀吉は自分も譲歩して臣従させようとしてるのに対し、家康は詐術に掛けて開戦理由を作った、
>同じ外交でも両者の意図は全然違い、最後の話を蹴ったから>豊臣が外交努力〜
>とかいう話はまさに筋道を軽視してる。
なんていうのを見れば、どうみても「秀吉に比べて悪辣な家康」と言っている
わけだ。
だいたい、家康が豊臣処分を決断した時期がいつかという議論なら、なぜ正当
化云々という議論を吹っかける。「自分は、関が原の後すぐに豊臣家を処分す
るつもりでいたと考える」ってそれだけでいいだろう。
家康が豊臣家を存続させる意思をどこまで持っていたかという意見に対して、
「正当化するんじゃない」と言った時点で、それは、倫理上の問題として非難
していると同じことだろ。だから、アンチだって言われるんだよ。
>>172 >なんていうのを見れば、どうみても「秀吉に比べて悪辣な家康」と言っているわけだ。
別に徳川を潰す気が無かった秀吉と、豊臣家を潰しに掛かった家康の
外交意図の違いを説明してるだけで、単なるあんたの被害妄想。
それで家康と秀吉をどうこういった事は無い。
なぜ正当化云々の話をしているのかというと、無茶苦茶な理由をつけての正当化してる人の論理が
おかしいと感じるから、あとは家康の意図の解釈の話。
何度も書くけど>倫理上の問題として非難 、しているのは家康の行動ではなく、
わざわざ正当化したがる輩の行動。
174 :
172 :2006/07/11(火) 15:43:28 ID:H1Em0I/m
さらにいやあ、例えば秀吉の秀次妻妾虐殺に対して、 「女児まで殺すなんて秀吉は残虐だ」 っていう意見が出たとする。 それに対して、 「いや、晩年はボケが入ってて、判断力がおかしかったんだ」 という擁護意見が入ったとする。 それにたいして、「正当化するんじゃない」「虐殺を正当化する輩」と いう意見が入ったら、それを立派な意見だとするのか? こんなの単なるアンチ秀吉の煽りだろ。 「ボケてたって限度ってもんがある。許される行為じゃない」って倫理上 の問題として反論するのが普通の議論のやり方であって、それもしないで、 発言者の人格攻撃に移るのは、明らかにアンチのやり口なんだよ。
175 :
172 :2006/07/11(火) 15:49:17 ID:H1Em0I/m
>>173 まぁ、前に書いているから何度も書かないが、たとえその意見が
間違っていようが、「正当化しようとする輩」なんて言っている
時点で完全にアンチなんだよ。
>>173 何か変だぞ。
家康の行為は倫理的に悪くないというのであれば、、
家康擁護論は正当化した意見ではなく、正当な意見になるはずだが。
もし擁護派に事実誤認があって家康を過剰に擁護しているというなら、
正しい事実を指摘すれば済む話で、
擁護派を非難するのは完全な八つ当たりということになる。
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/11(火) 18:13:36 ID:E9XXUdqW
>>171 >>豊臣は言われる程ふんぞり返っていた訳でも外交を軽視していた訳でもない、
>>家康の口実を与えない程度には頑張っていた、っていう事。
おたく・・いっている意味がわかってるの?
口実を与えないようにがんばってたのは恐らく片桐であって豊臣家のほかの幹部が
そのようなことにたずさわっていた形跡はみうけられない。
片桐退去と同時に迷走に陥っているからな。
一個人のがんばりだけでかろうじて取り繕えるほど当時の豊臣家の置かれた居場所は
安易ではない。
@大阪城という京に近い難攻不落の堅城
Aかりそめにも徳川を含み天下諸侯の主筋という立場
B大阪城にうなる膨大なる金銀
以上三点を抱えたまま
いざとなると二条城会見のように主筋の豊臣が家康に挨拶に出向くくらいなら
母子そろって死ぬとか主張しだす某母親が筆頭で
そんなのでもこれまた二条城で加藤清正が家康と刺し違える覚悟だったという
対面式がありーの、つまり豊臣に協力しますよと自己主張してる大名までおり、
こんなのほかのどうしようがあったと?
>>口実が難癖なのも
その難癖に対し
お宅の主張する「外交を軽視せず、口実を与えない程度に頑張ってた」人材の
片桐を信用もせずに放逐し
とりあえず生き残る手段の国替え人質を無視した段階で
豊臣家にも責任有ちおいってるわけだが?
確かに半分は家康の悪意だが半分は豊臣家の無策と自暴自棄に責任あると思うのだがな
おたくは豊臣家にも問題ありとかいいつつ、
肝心な点で一方的に家康のみに責任を置きすぎと思う。
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/11(火) 18:28:07 ID:E9XXUdqW
ちなみに、それだから家康は離間策で片桐を大阪から 退去させたんだと主張するかもしれないが、 対徳川に渡り合える片桐を一顧だにせずに信用せず放逐 以降迷走している時点で 豊臣家の全体的な雰囲気が 「外交を軽視していた訳でもない」 「口実を与えない程度には頑張っていた」 該当しない事は史実の証明するとおりだろ。 これは一個人ないし極少数の意向でしかない。 難癖に外交努力ではなく、開戦という回答をだしているのだからな。
>>171 難癖だろうが、経緯がどうだろうが家臣なら従うだけ。
それをしなかった段階で豊臣は滅ぼされて当然だったんだよ。
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/11(火) 22:43:27 ID:vbcZpEES
まぁ、結論でてきたかね。 共通認識としては、 ・方広寺事件に関しては家康の開戦理由を作るための難癖つけでかない。 ・家康が豊臣家を滅ぼしたことは何ら問題はない。 ・家康の行為の正当化がどうとかの議論はアンチ家康の煽り。 あと、家康が豊臣家を滅ぼすことを決定した時点は、 ・最初から(関が原の直後から) : アンチの意見? ・二条城の会見の後から ; 多数派か? ・方広寺事件の後も助命の意思あり : これも少数? ってところですか。 なお、参考として、悪質度では秀吉>>家康もほぼ決定かね。
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/11(火) 23:02:22 ID:8+AJrjAH
つーか、秀吉だって主筋の血統(信孝、信雄)を滅ぼしたのだから、 家康に文句は言えないわなw。戦国乱世、滅ぼされた方が悪いっ てことだ。それを現代の価値観で非難しても意味ないでしょ。
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/11(火) 23:12:37 ID:NjI0Ww3T
まあ、本能寺の変ですべてが振り出しに戻った状況から天下取った秀吉と 自分に都合良く豊臣の家臣が仲間割れしてくれて秀頼も幼少だという状況 で棚ぼた天下取った家康を比べるってのもなあ。あれで勝てなかったら無能 だよ、家康は。
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/11(火) 23:19:27 ID:vbcZpEES
>>182 本能寺の後は織田家の内紛で、秀吉死後の豊臣家の内紛だから変わらない
けどな。両者ともに、内紛を拡大して自分の勢力伸ばしたわけだし。
まぁ、天下取る過程では家康の方が綺麗にやってみせたけど。
184 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/11(火) 23:50:32 ID:NjI0Ww3T
>>183 五大老の筆頭なんだから綺麗に簒奪できて当たり前でしょう。相手は
自分の半分も生きてないひよっ子独りなんだから。
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 00:00:11 ID:BadNHTza
>>184 んなこと言ったら、秀吉も光秀倒した時点で重臣筆頭だわな。
しかも幼君立ててるし。
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 00:10:17 ID:kSxlNV2U
秀吉がいくら光秀を打ち破っても、領土を取ったり与えたりする権限は 無いわけ。なんせ戦国真っ只中だから。家康みたいに関が原戦後、豊臣の 領地を削って良いんなら、そりゃ勝てて当然じゃないか?
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 00:13:19 ID:DQAIHxjP
秀吉は秀信を生かしておいても全く問題なかった むしろ秀信は秀吉に対して好意的だったし 織田一族は全員取り立てている 家康は無理矢理にでも秀頼殺さなくては天下を治めきれなかった やはりこの点から見ても政治力に関しては秀吉の方が優れてるよな まあ、生まれ持った人望の効果も大きいが あまり関係ないが家康は織田の嫡流も結果的に滅ぼしてしまった
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 00:17:57 ID:BadNHTza
>>188 おーい、信孝君や信雄君はどこにいってしまったんですかー?
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 00:30:27 ID:/nd9jtdr
>>189 織田の嫡流ってのは、長男の血筋という意味だと思う。
長男(織田信忠)の息子の織田秀信のことだよ。
関が原の戦いの後、許されて高野山に入ったのはいいが病死してしまった人物でしょ。
信孝や信雄やは正確な意味で織田の嫡流とは言えないのでは。
両人とも1度は他家へ養子に入ってるし(信孝ー三好氏?信雄ー北畠氏)
191 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 00:36:16 ID:BadNHTza
>>190 嫡流だろうがなんだろうが、主君の子供を殺していることに
変わりないんだけど。
しかも、信孝を殺したのは三法師の意思では全然ないし。
ただの家臣でありながら、当主の叔父を殺すって、ずいぶんな
もんだわな。
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 00:47:48 ID:kSxlNV2U
>>191 戦国時代は勝てば官軍て主張してたのどっちだったっけ?
何が秀吉の人望だっての 秀吉の纂奪に肯定的な織田重臣なんか一人も居ないじゃん。 柴田とはガチでやりあい、信雄とは小牧でぶつかり、滝川も一度は敵対してるし 丹羽は秀吉のやり方に見かねて憤死するくらいだし 信孝は恐ろしく呪いを込めた辞世の句詠むし。 これに対して家康はどうよ? 秀吉のその黎明期からの家臣蜂須賀、小飼の加藤、福島、黒田。 さらに大事な合戦で裏切るかつての養子小早川、羽柴の姓を持つ毛利、小飼の脇坂 まともに戦ったのは石田だけときてる。どこまで人望とは言わんが どっちが纂奪を支持されてたかは明白。 さらに言うと織田秀信はものごころつくころには自分に味方してくれる 心ある織田の旧臣は秀吉によって全て駆逐されてるか遠ざけられてる 秀頼みたいに妙な母や無責任な一党は居なかったからな。秀信は殺されずにすんだが
肉親同士殺しあう時代なんだから、 元主君の子とかでも大して珍しくは無いんじゃね? 現代人の忠義とかの感覚って江戸時代の間に出来たものらしいし、 忠義より自家の存続の方が大切でしょう。
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 01:20:24 ID:kSxlNV2U
秀吉のその黎明期からの家臣蜂須賀、小飼の加藤、福島、黒田。 さらに大事な合戦で裏切るかつての養子小早川、羽柴の姓を持つ毛利、小飼の脇坂 ↑ これだけの相手からの寝返りがあって、もし勝てなかったらアホではしょ。 家康は泣くまで待ってたらホントに天下が転がり込んできた。ただ運が良かっただけ。
家康も秀吉も汚い。 それでいいじゃまいか。
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 02:23:52 ID:okMSj1Sr
【豊臣秀頼】(1593〜1615) 最後の戦国武将。5歳の若さで豊臣家の当主となり、広大な領地に覇を唱える。 早くから大老徳川家康の野心を見抜き、石田三成らに監視させるが、家康は 1600年に兵を起こしてしまう。謙虚な秀頼は決戦に際し、総大将の地位を毛利輝元に 譲り、その度量を見せる。しかし彼の才能と地位を妬んでいた親戚筋の小早川秀秋の 裏切りにより、関ヶ原合戦は惜敗に終わる。 だが、この後の人生こそ彼の真骨頂と言えるだろう。巧みな外交術により家康の 追及をかわすだけでなく、家康の孫千姫を人質としてとる事に成功。また、若くして 戦国の覇王織田信長と同じ地位、右大臣に就任。片桐且元ら旧臣が専横するにも かかわらず、家中を纏め上げ、徳川方が羨むほどの蓄財を成す。 また一方で、方広寺改築など、父の菩提を弔う事に財を惜しまないという仏心に 厚い面もあった。 1611年、二条城にて家康と今で言うサミット会議を行う。その際、秀頼の見識の高さと、 その先祖からの威容を受け継ぐ出で立ちに恐れをなした家康は1614年、またもや兵を 起こしてしまう。それに際し各地から、秀頼の人柄に惹かれて戦国を代表する知将、豪傑が 彼の元に終結する。秀頼の指揮の下、形成された軍団は家康の本陣を揺るがすほどの 勇猛さを示す。この戦いの中、徳川方の工作で、戦場に秀頼を誘き出して討ち取ろうと するために彼に出陣を促す報が何度もあったが、そんな罠にかかる秀頼ではなかった。 善戦空しく、場内に敵兵が雪崩れ込んだ時、天守閣北側の山里丸にて爆薬を仕掛け、 家康を誘き出して自爆という最後の策を立てるも、千姫の裏切りにより無念の自害を 遂げる。 これは余談になるが、蒲鉾を現在の形としたのは秀頼の発案である。このような日常の 食品への細やかな気遣いからも、彼の遺徳が偲ばれる。
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 02:58:18 ID:10T5Kfmb
名将だ…
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 06:04:11 ID:vVHsMZyg
>>195 なぜそこまであなたは家康を認めたがらない
のですか、なにか恨みでもあるのでしょうか?
それとも小説と事実の区別がつかないのですか?
あなたの意見を読んでいると支離滅裂としか思え
ないのですが、これはこれで少数意見として受け
入れるべきなのでしょうか。あなただけが異常だ
とおもいたいのですが。
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 07:15:57 ID:iVs3jBx8
「嫡子以外は、さっさと他家へ養子に出す」 信長の一大テーマである。 父に対する信長の怒りもそこにある。 「お前は出来が良いの悪いの…」 何かに付け、他の兄弟と比べ、子供達を暗闇に追い込む奴に、 親としての確かな愛情など微塵もない。単なるエゴだ。 人が足りないなら、人を雇えばいいのである。 子が邪魔なら、養子に出せばいいのである。 …イカン、この話はスレ違いだな。
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 08:12:56 ID:/ezG8b/D
結局、関ケ原は双方『利』の戦いだったと思う 三成が豊臣の世を守るのはたて前で実際は豊臣の中で実権を握りたかったってのもあると思う。上杉も結局は庄内奪取が目的だし。 西軍で義のために
>>201 間違って書いてる途中に書き込み押してしまったorz
西軍で義のために戦ってたのは大谷ぐらいだけだったんじゃないか?
結局どちらかの批判はどちらかの鏡って事で良いジャマイカ
>>204 すまん、どっちもどっちだと思うぞ。君がそうやって厨とか言ってるのも鏡だって事だしな。
>>205 まぁ、これはギャグだが。
実際問題として、家康を擁護する議論をする人間と非難する人間の
言動をよくみてみな。例えばこのスレの
>>1 と、それ以下を読んで
みるとかな。
単純に「どっちもどっち」と言ってても、他人は同意せんぞ。
このスレだけ読めばね、と言っておくわ。 まあ関係ない話だね。
>>207 残念だが、他のスレも似たようなもんだ。
秀吉関係のスレに突発的な煽り・荒らしをする家康ファンなんて本当に
まれだが、家康関連のスレには定期的に荒らしがやってくるからな。
豊臣派の奴らはどうして家康にばかり腹を立てるんだ? 俺個人としては家康より淀殿や大野修理、織田有楽や片桐且元のほうがよっぽどいらつくんだが。 家康云々よりこいつらに最低限の聡明さ、あるいは豊臣家を思う気持ちがもう少しでもあれば 良かったんじゃねーかと常々そう思ってるんだがそのあたり豊臣派の人達はどうお考えなのかね。
なにがどうであろうと、攻めた家康が悪い、と思ってるんじゃないの?
信長好きでアンチ秀吉ってのはあんまり見ないな。 織田はスレ違いですが。
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 13:15:31 ID:vVHsMZyg
たしかに信長好きは「秀吉に乗っ取られた」 などと批判したりしない、 家康好きも「薩長に政権を纂奪された」とは 言わない、それらのことも歴史的事実として 冷静に受けとめている。 しかしなぜ秀吉好きは…
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 13:50:04 ID:pu6XvXOW
司馬小説の影響は大きいのでは。
覇王の家もちゃんと読んでもらいたいものだ。
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 16:24:08 ID:M7O++EwX
同じ事をするにもやり方が違うからだよ。 時代背景も当然違うし、置かれている立場も違う。 それに陰気よりも陽気の方がいいでしょ。
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 16:59:12 ID:p3USR1ZI
派手さが足りないんだろうなあ…。わかりにくいっていうか、調べないと でてこないっていうか。一政治家、一統治者として家康を見た場合、日本 至上屈指(もしかしたら一番かも)の傑物だと思えるんだけど、どうしても 日本的。 よく対比される秀吉信長はどっちかと言うと大陸的な英雄。だから目立つ し、一際光彩を放っているように見える。他に類を見ないからな。
>>211 信長好きっていうか、織田家好きのアンチ秀吉ここにあり
>>212 秀吉にのっとられたと批判しまくりですよ。心の中でね。
だって、秀吉厨相手にした時点で、時間の無駄だからね。
しかしもっと目立たないのが、勝家の織田家への忠義。
というか乗っ取った乗っ取られたとまで感情移入出来る事が不思議な件について。
>>218 よく分からないんだが、信長好きは秀信をそのまま当主として仰いで主家を
盛り立てていけば良かった、と思っているのか?同じ事を秀吉好きに対しても思うんだが。
>>209 言いたいことはわからんでもないが、
片桐且元は七本槍の連中の中でも貧乏くじ引かされたようなもんだから勘弁してやれ
淀は…二度も落城する城から落ち延び → 親あぼんを経験してるからなぁ
おかげで後ろ盾が無い上に、(実質二度の)親の仇の秀吉の側室にされとるし
生まれた子供を天下人として存在させなきゃやってられんかったってのもあるんじゃまいか?
それがなくなったら人生本当に何も残らないし
222 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 22:42:49 ID:BadNHTza
>>220 織田家の場合は、秀信っていうより信孝中心にした体制ってことに
なるだろうけどな。
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 22:49:58 ID:BadNHTza
>>215 おんなじことをしたが、やり方は秀吉の方が悪質だけど。
また、陽気・陰気なんて、最近小説の印象だろ。
(つうか、司馬遼太郎がそういっているだけだし)
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 22:57:47 ID:DQAIHxjP
秀吉も信孝殺したかったと言うより勝家を滅ぼしたかったわけだし 仕掛けてきたのも柴田・信孝の方だしな
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 22:58:16 ID:kSxlNV2U
>>199 家康のすべてを評価しないわけじゃない。人の恨みを買わないようにしていた
点はなかなかやるじゃん。それに比べて三成は逆にいつでもバカ正直に自分が「正しい」
と思う通りに行動していろんな武将に目の仇にされて敗れ去った。だからこそ家康は
憎らしいし三成は同情できるんだよね。論理的にじゃなく感情としてね。
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 23:01:06 ID:BadNHTza
>>224 信孝・勝家からしかけたんなら、あんなに各個撃破される
わけないだろ。 冬になって勝家が動けなくなってから秀吉
がしかけたんだよ。
>>222 その場合、信孝を後継者と担ぐのか秀信の後見人とするかは分からないけどさ、
どのみち崩壊しそうな気がするんだけど…。秀吉がきっかけかどうかは分からんが。
織田にしても羽柴にしても、なるべくしてなったと思えるんだけどなぁ。
織田はまだ征伐していない地域があったし、二代目も一緒に死んだから仕方ないにしても…。
228 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 23:14:01 ID:BadNHTza
>>227 まぁ、信孝でも崩壊した可能性も少なくないが、信秀を当主に
したらもう崩壊一直線だからさ。
それを目的で秀吉が強引に幼君立てたってのは、事実として
認識しといた方がいいと思ってね。
実力主義の時代だけど、やっぱ、素浪人から取り立てられて
大名にしてもらった人間や、小者から大名に取り立ててもら
った人間が、取り立ててくれた人間を殺したり、その子供を
殺して家をのっとったりってのは、寝覚めのよい話ではない
しな。
まぁ、ある意味信長ファンは一番寛容だわな。光秀も秀吉も
受け入れているからな。
229 :
228 :2006/07/12(水) 23:14:39 ID:BadNHTza
まちげーた。秀信だ。親父に後継がせてどうするw
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 23:16:22 ID:VZB5MJ+n
d初めまして!w豊臣=石田光成ですよね?徳川が負けて豊臣が勝ってたら今頃は多分首都は大坂だったとおもう・・・よ!
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/12(水) 23:17:43 ID:VZB5MJ+n
徳川家康の教科書の耳きもいっすよね〜
>>174 そんなもんは場合によりけり、例えば秀次への処罰が濡れ衣だとして、
それを「秀吉は悪くない、秀次の行動に問題があったんだ」
となればそれは単なる正当化(秀次事件は複雑なんであんま例え話にしたかないが)
>「いや、晩年はボケが入ってて、判断力がおかしかったんだ」
だけでは別に秀次に言及してる訳じゃないし、無茶な正当化もしてないから、
例えとして不適、俺が指摘してるの>、無茶苦茶な理由をつけての正当化してる人の論理
人格攻撃でもないな。
>>176 別に変でもないだろう、家康の行動の倫理を問わないっていうのは、
家康の業績は倫理で否定出来るものではないって事で、
家康の行動が倫理に適っていた、という訳では無い。
んで何度も事実誤認を指摘しており、家康の行動が倫理に問題ない、
っていうヤツをそれを元に非難する事は八つ当たりでもないんでもない。
>>177 その片桐を重用してきたんだから、別に豊臣家
@はその通り、
Aは二条城会見を果たした時点でその立場は放棄してる。
Bはその消費、を意図していたかどうかは知らんが結果として消費に繋がる為
家康も支持していた方広寺建立だったけど、そこを漬け込まれた。
二条城会見の加藤もあくまで秀頼の護衛を果たしてるに過ぎず、
会見の実現も秀頼自身の意思が強かったから実現した事を無視してる。
>対徳川に渡り合える片桐を一顧だにせずに信用せず放逐以降迷走している時点で
信用できる奴を信用させない為の離間策でしょ、元々片桐の立場は微妙だった上に、
離間策を掛けられたから信用出来されなくなった、まあ一顧だにされなかった訳じゃ無いけどね、
片桐が屋敷に篭った時、淀から仲裁も出てるし。
なぜ難癖に開戦って言う回答を出したのかも
>>131 で列挙したとおり、
家康が明らかに豊臣家を潰しに掛かっているのを受けた危機感からだろう、
だからそれまで家康も口実が無かったから無理矢理作ったわけだ。
まあもう俺ってアンチってみられてるから結論出ないからこれで終わるわ。
日本に首都などない!
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/13(木) 10:21:29 ID:174xooka
>>1 は大坂の陣の事かい? それにしてもこの豊臣秀頼ほど不様な死に様をさらした大名も珍しいな。
夏の陣の最後の戦いにおいても、肝心の秀頼公は出陣もせず側室にべったりで、女の事しか頭に無く、戦の事は
まるで関係無いような立ち振る舞い。 こんな馬鹿殿では、天下人の器量にあらず・・・
当然、家康公は天下人たる名声、人望、権力を持ちこの馬鹿殿を滅ぼしたまでの事。
徳川方に卑怯な言われわなく、豊臣恩顧の諸大名もほとんど、味方しなかった。 せめて最後の決戦日において、真田や毛利勝長の奮戦ぶりを見て、
奮い立つ事もせず、旗印を見せる事も無く、最後の最後まで側室の胸元で震え上がっている惨めな大名。 全く日本史においてもこう言う馬鹿大名も珍しい。
>>232 そうだね、もう書き込まない方がいいよ。
他人の迷惑だから。
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/13(木) 13:42:01 ID:ViJQRCmU
国家安康君臣豊楽 ってあきらかに徳川おちょくってる気がするんだが 漢字の読み方無視かよ! は始めから用意しておいた言い訳、、と思えてならない
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/13(木) 13:58:33 ID:ozbNQyDE
こういうセコイ手段を使うのが家康。クラーィ
徳川方も冗長な文字列の中からこの2つの四字熟語をよくもまあ見つけてきたもんだ。
この作業中に居眠りして処刑された数が数百に及ぶとか及ばないとか
>>236 呪いかどうかは知らんが、すぐ近くに「家康」と「豊臣」の字があるのに
まったく気づいていないとは考えにくいな
普通に、徳川方を甘く見すぎたんだろ
結局、秀信が生き残れて秀頼が死んだのは取り巻きの利口さが大きいだろ それを引き合いに秀吉には温情があるみたいな論調をいまだに聞くが 家康の秀秋への大加増や北政所への大名並みの待遇なんかはあんまり知られてないのかね ところで秀頼に側室とじゃなくて千姫との間に男子がいたら助命されたと思う?
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/13(木) 22:16:28 ID:cXXKMDqg
>>241 たぶん秀頼暗殺されてその子を跡継ぎに、ついでに国替えってなったと思う。
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/13(木) 22:40:38 ID:4LH24Vbo
>>242 やる気なら千姫との間に子供いようがいまいが暗殺しているよ。
まだ餓鬼のうちに殺してしまえばいいんだから。
家康は暗殺で物事を決するなんて考えはしないからな。
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/14(金) 09:51:26 ID:ORrZ4ZzO
アホか。状況に応じて総合的に一番有利な判断をするのが政治家って もんだ。そんな「家康は〜」なんて考え戦国時代には通じない。 特に徳川幕府は(真偽はどうあれ)暗殺、謀殺を用いたって話が多い。
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/14(金) 10:01:14 ID:UsR9/0ZG
nn
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/14(金) 13:28:30 ID:PxZmMSBN
>244 え!? 徳川幕府? 家康じゃなくて? 幕府は確かに謀略で次々と大名を潰したけど、いわゆる暗殺なんかほとんどしていない。 というか、正当(ま、謀略でなんだけどw)な手段でつぶせるのに、わざわざ、暗殺、 謀殺なんてリスクの高いやり方しないでしょ。 それに家康にしたって信長や秀吉、謙信なんかは謀殺しているけど、家康はいわゆる謀殺は していないはず。 法令に沿って切腹させたって話はあるけど、それだって蟄居、放逐のケースの方が多い。 後、家康の暗殺話は加藤清正、武田信玄とかあるけど、加藤清正はもともと梅毒で、あ の時期に死んでもおかしくないし、信玄は戦場だもの。 例え殺したとしても、文句言われる筋合いはない。
毒殺が好きなのが豊臣厨クオリティ
ちょっと不可解な死がある時点で時の権力者の暗殺ってのは短絡だよな
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/14(金) 16:59:29 ID:zmRJFa/Z
悔しいときは陰謀論に逃げ込むのさ。
松永久秀
江戸時代初期に大名を取り潰すための決め技は「無嗣」と「狂疾」じゃないだろか。
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/14(金) 22:44:02 ID:PuyCwIQR
>>246 >それに家康にしたって信長や秀吉、謙信なんかは謀殺しているけど、家康はいわゆる謀殺は
していないはず。
何言ってるか分からん。
謀殺無しってやっぱり司馬史観かよ…
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/15(土) 01:32:05 ID:+ABEyv7N
羽柴が集めたのは12万だったが、徳川家康は信雄と合わせても総勢1万6000程度だった。それで局地戦で勝つのだから家康も戦上手よの
秀吉の謀殺話も与太話もんだよ、信長の謀殺も信勝くらいなもん、 謙信はよく分からん。
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/15(土) 02:24:16 ID:JKo9/m8K
これだけは表に出ないからな 家久が死んだ時や池田加藤が死んだ時も当時は噂になったんだろうか
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/15(土) 16:53:29 ID:L25ARNyy
秀吉の場合謀殺より表立った虐殺の方が有名だからな。非道の君主 の観はあっても、陰気な暗殺家のふいんき(なぜか変換できない)は 見出しにくいのかも。
現実はどうあれ、清正幸長の二条会見直後の死は 色々臆測流れただろうねえ。
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/15(土) 17:32:05 ID:4OFThBe8
大阪城の落城は、秀吉の養子であった、三好秀次の呪いにて本丸丸焼け、豊臣家の 没落・・・ という因果応報ですな。 当然の報い・・・ 過去に無関係な人々を 散々殺戮してきた報い・・・天罰だな。
どこが無関係なのか意味が分からん。 思いっきり政争に巻き込まれる位置に居た人間じゃねぇか。 民草の事なら他の大名も似たり寄ったりだろうし。
>259は先祖の因縁とかで壺売る類の人
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/15(土) 19:54:39 ID:uLV4GIkY
はなはだしくスレ違いだが
>>257 「ふいんき」で【雰囲気】と変換したかったのだらうが
【雰囲気】は「ふんいき」で変換しないとでてこないんだ。
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/15(土) 19:56:15 ID:9f7NjmDi
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/15(土) 20:00:19 ID:uLV4GIkY
おとついでに一言
>>260 >>261 259のいいたかったのは(違うかも知れんが)
秀吉が後継ぎにしたかった秀頼は結局のとこ
大阪落城で死亡
処刑されたはずの秀次のほうはといえば
秀次の姪がちゃっかり関白の家柄に嫁入りし
豊臣家は女系として江戸期を通じて摂関家の家柄
さらには明治維新後天皇家に嫁ぐまで至る皮肉な結末だからじゃないかい。
>>264 何が言いたいのかよく分からないんだが…。
その事と呪い、因果応報、天罰、と何の関係が?
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/18(火) 04:42:54 ID:zb2GuJkF
淀を人質にすればよかったんだよ
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/18(火) 21:59:07 ID:FLYp3Vo1
【上杉家の特徴】
・武田に北信濃を奪われ、頼りにしてきた豪族を裏切った上杉は論外
・関東を散々荒らしまくりながら、結局土地を取れなかった上杉は論外
・一時の感情で味方に暴行し、離反された上杉は論外
・小学生でも見抜けるような捏造武勇伝ばかりの上杉は論外
・下野の小豪族佐野家の城を10度攻め、一度も落とせなかった上杉は論外
・関東豪族を裏切ってまで北条と同盟したのに、その後北条にも同盟破棄された上杉は論外
・家臣に反乱を起こされまくった統率力が無い上杉は論外
・後継者の事を何も考えず便所で死亡し、勝手に自滅した上杉は論外
・勢力的に明らかに格下の神保に苦戦しまくった上杉は論外
・織田家に嫉妬し、手取川の戦いを捏造した上杉は論外
・伊達家に対するコンプレックスで松川の戦いを捏造した上杉は論外
・自ら起こした関ヶ原で負け組みになった上杉は論外
・幕末、何も見せ場がなかった上杉は論外
・容姿がキモ過ぎる上杉は論外
http://www.valley.ne.jp/~rinsenji/kenshin.jpg ・肖像画まで捏造した上杉は論外
・大量の基地外信者を生んでしまった上杉は論外
【vsスレ荒らし・上杉信者の特徴】
・根拠もなしに上杉謙信最強と言う
・歴史初心者に上杉家最強と吹き込む
・紛れも無い捏造の松川を事実と言い張る
・上杉を擁護するために平気で捏造をする
・自作自演での印象操作が得意
・たいして知識が無いのに、歴史に詳しいフリをする
・なぜか伊達家の話題を振ってくる
・突っ込んだ質問をされると即逃走
・人格攻撃、コピペが得意
・どこ行っても嫌われ者
・上杉は○○だからダメと言われる→そんなことは無い、とただ単に全否定するだけ
・一度書き込み出すと連続で書き込む(でも時間は絶対に被らない)
>>267 『駿府記』によると、
冬の陣後の講和の段階では
淀殿は人質となることに同意してたらしいけど。
そのかわりに牢人衆知行のための加増要求したってさ。
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/19(水) 23:10:16 ID:sMfmMWYG
『真説 大坂の陣』にあった話だけどね。 この著者曰く、 「国替えは脅し程度で、堀を埋めるか淀殿を人質とすることの 二者択一を迫ってたのであろう。 しかし、秀頼も大野治長も淀殿よりも大阪城を取ったことに 腹を立てたのだろう」ってさ。
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/28(金) 17:39:21 ID:XmsMv43/
「駿府記」は家康の側近によって書かれた物(後藤庄三郎か林羅山か?)なので、 淀殿の評価が厳しいものになるのは仕方がないことかと思います。
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/30(日) 18:10:41 ID:nxGTIYlD
本当家康は外道だね
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/08/16(水) 05:12:45 ID:uHdNHuOk
89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 05:02:04 ID:uHdNHuOk 家康が本多正信に語る。 「豊臣家子飼の大名達、ああも無節操に裏切れるものか。喜ぶ反面、心が、冷えたわ・・・せめて三成のような家臣がいて、太閤殿も初めてうかばれたであろう・・・これからは我が徳川家、三成のような家臣に恵まれれば良いが。義、忠義の家臣にのう」 後世、徳川幕府は、朱子学を取りいれ、武家の倫理を厳しく見るようになる。 90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 05:04:04 ID:uHdNHuOk 徳川幕府が朱子学を取り入れたのは、石田三成の義のおかげといっても 決して過言ではない。
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/08/20(日) 23:50:30 ID:eRL+udP+
【謙信最強は創作】 謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。 武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が 上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。 臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。 ※謙信自身が敗北を認めている書状↓ 晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、 併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より 取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、 房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、 とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、 早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと のひ候てきうしくちおしく候(中略) かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々 いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと 心ほそく候、 永禄七年三月十三日 虎(花王) [三洲寺社古文書] 【上杉家の歴史】 上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。 奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。 1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。 諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。 原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。 だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。 この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。 上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。 これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。 長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。 臼井城攻撃に失敗した謙信は 信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた 上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。 謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。 謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。 しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。 つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである 本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、 信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。 新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。 景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/10/08(日) 02:11:39 ID:CT6gYOar
石田三成は誠,まじめな正義の武将でごさるぞ。 ただし、まじめすぎた。だから、家康の謀略に 負けた。ただ、井伊直政の記した『井伊軍紀」 にはこう書いてある。石田はいずれにせよ、 左和山で「窮死」する運命だったと書いている。 しかし、石田は「窟起」したと書いている。 誠あっぱれな武将だと書いている。上杉の次は 石田の左和山が攻められたことはまちがいなかったからな。
大谷なんていい迷惑だよな
ほしゅ
秀吉と家康どっちがマシかなんて論議は無意味。 時の権力者がめぐらす策なんてどれも酷いだろ。 秀吉も最悪だがここって家康による豊臣滅亡策の汚さ度合いを語るスレなんだろ。 ・・だとしたら結論として秀吉に匹敵する卑怯な政治工作だったという他なし。 豊臣が非力且つ馬鹿なのが原因だとしても徳川の行為自体は最悪といっていい。 ただこんなのは支配者側からすれば当たり前の行為なんだけどね。 大抵の大名が徳川と同じ立場だったら同じような事するだろ・・ まあ家康は後世あまりにもせこすぎる盗人イメージに成り下がったが。 豊臣擁護者や徳川擁護者の気がしれん。 歴史的意義とか省いて行為自体を語る意見なんだけどね。
282 :
名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/09(土) 00:51:12 ID:l5T/yPVB
>>259 秀次の娘が大坂の陣で大坂方にはせ参じてるのですが?
秀次の姪(弟の娘)も淀の養女となってますよ。
284 :
名無し議論スレにて投票方法審議中 :2006/12/10(日) 19:32:33 ID:N6gfab0X
・・・多用するやつにレスしたら負け
>>283 横レスだけどそれは知らなかった。
親の汚名を雪ぐつもりだったのかな?
秀次謀反が根も葉もなければ親の仇になるだろうし
謀反は本当だったのかもしれないな
286 :
名無し議論スレにて投票方法審議中 :2007/01/26(金) 12:27:06 ID:5GAF4aHk
秀吉も家康のように主家を裏切りはしたけど滅ぼしてはいない。 信雄なんてバカだし、いつも秀吉に逆らっていたと思うんだが 滅ぼしていない。家康は了見が狭い。
再三の転封要求に応じなかった淀・秀頼が愚かとしか思えんが
288 :
人間七七四年 :2007/03/10(土) 21:15:58 ID:3SKpNsGM
若い頃のタヌキは魅力あふれる武将だったけど五大老就任時機くらいからつまんねぇ強欲親父に成り下がった。 天下取るときのやり方が強引すぎる。 どちらかと言うとみな破滅の道を歩んだ武将のほうが日本人向け。 家康好きって言う奴は一部の経営者くらいじゃないの?
289 :
人間七七四年 :2007/03/10(土) 23:26:28 ID:AT6lNBbY
三成や淀が被害妄想に取り付かれて勝手な行動をしているだけ ああいう話の通じない人間は倒さないと問題が解決しないんだよ
290 :
人間七七四年 :2007/03/15(木) 00:52:40 ID:9VmDFaJS
徳川も豊臣氏だったわけだが
291 :
人間七七四年 :2007/03/15(木) 06:15:28 ID:c8x180jD
>>281 秀吉の方が盗人武田家しい気がするけど?
五十歩百歩でもわるわな・・・
292 :
人間七七四年 :2007/03/15(木) 06:24:25 ID:c8x180jD
>>33 超亀だが
アメリカ、中国等々世界中どこにでもあると思われ・・・
293 :
人間七七四年 :2007/03/27(火) 07:05:43 ID:m/dXOFSa
大阪の陣はイラク戦争に近いな
294 :
人間七七四年 :2007/05/06(日) 00:22:13 ID:ASY6ZRTh
295 :
人間七七四年 :2007/05/09(水) 16:18:18 ID:FMU0j8E/
どっちかというと家康より秀吉の方が好きな俺から見ると 方広寺の件は完全に言いがかりでスマートではないと感じるな。 宣戦布告と言えるくらい、例えるならハルノートと同じくらいの最後通牒だったと思う。 ただ、最後通牒に至るまでに、豊臣家存続の為に外交策を行っていたか という問いに対してはNOとしか言えない。 それはあくまでも 秀頼に関白を継がせたい、徳川家の下風に立ちたくない という大前提があったから。 一大名として存続する位なら乾坤一擲の大博打に出て家康を倒して 天下を再統一するか、滅亡するか位の覚悟を淀殿、秀頼のトップは思ってたんだと思う。 家臣には甚だ迷惑だが。 ただ、秀頼嫡子の磔や豊国神社と社殿の取り壊しとかはやりすぎ。 (親豊臣派のあぶり出しといった側面があったとしても) 明治政府も賊軍である幕府軍に対してそこまではやってない。
296 :
人間七七四年 :2007/05/09(水) 20:27:32 ID:s9F4Pmqe
>>295 >明治政府も賊軍である幕府軍に対してそこまではやってない
賊軍とはいっても徳川家は吉野朝のために尽くした忠臣・新田一門なんだし
幕府軍はその新田一門の配下の部隊だからね。やっぱり印象は違うでしょ。
>秀頼嫡子の磔や豊国神社と社殿の取り壊しとかはやりすぎ
これはやりすぎでもなんでもない。
城主親子の助命とかほざいてたが、まさに手ぬるすぎ。
反逆者は全て討ち取るのが定石。もちろん秀頼親子は問答無用で獄門。
おごうの助命嘆願など無視するのが当たり前。
297 :
人間七七四年 :2007/05/11(金) 14:52:56 ID:g8dkpv4j
>>295 敵対者の扱いなんて状況次第で変わるのが常。明治政府の場合、戊辰戦争の
戦略目的は旧政権の打破と新政府の権威および実利の拡大・構築だから、必要
以上に脅しつけて徹底抗戦されると政権運営上有害でしかないため割と寛大。
別に人道的に考えて、なんて思考が働いたわけじゃない。全くないとは言わ
ないけど。
信長だって弱小の頃に起こされた反乱に対しては割と寛大。柴田や林の反乱
参加を許し、重臣として取り立てている。利害計算上彼らを失うことによる
織田家の求心力の低下のほうが反乱への見せしめよりマイナスだと思ったん
だろうよ。
298 :
人間七七四年 :2007/05/21(月) 09:26:54 ID:UpC4/Psj
だからといって、死者の墓に手を付けるなんて最悪だろ
299 :
人間七七四年 :2007/05/21(月) 10:04:23 ID:Pl5bEPas
300 :
人間七七四年 :2007/05/21(月) 10:57:33 ID:UpC4/Psj
死者への冒涜なんて日本の有史の中で正当化された時代なんか無いんだが。 敵対した相手を戦闘の末に破って獄門にして首を晒したりするのとは違い、 すでに死亡し、埋葬されて神格化されてるものに対しての冒涜は明らかに悪だろ。 古代中国だって伍子胥が死者に鞭打つ行為を行った際、親友だった申包胥に その行為に至った理由を知っていた上で非難されているし。
301 :
人間七七四年 :2007/05/21(月) 23:57:00 ID:q4ileXMw
秀吉の神格化が豊臣の徹底抗戦の根拠の一つであることから冒涜とかそういう次元ではないよ 江戸幕府にとって秀吉神格化の否定は現代ドイツがヒトラーを否定するようなもので 政治体制上は許しようがないこと
302 :
人間七七四年 :2007/05/22(火) 09:24:04 ID:P8CHYWU6
大坂の陣終了後、別に豊国神社残ってても問題ないだろ。 家康の器が小さかっただけ。 同じように神格化されてる日光東照宮は明治政府は手付かずでおいたんだし。 いくら徳川家が従順だったとしても、当時は天皇を神格化してるからやはり問題は あったと思うが。
303 :
人間七七四年 :2007/05/22(火) 09:25:53 ID:P8CHYWU6
あと、ヒトラーとの比較はおかしいだろ。
304 :
人間七七四年 :2007/05/23(水) 19:55:30 ID:ZvWZVzQp
>>302 明治政府は室町将軍の墓所と菩提寺は破壊してないの?
少なくとも尊氏・義詮・義満の墓所は墓暴きとかされてない?
305 :
人間七七四年 :2007/06/13(水) 04:14:11 ID:quAgmBkf
だからな、許すとか許さんじゃなくてプラスかマイナスかなんだって。 歴史に人情とか人道を持ち込むな。そういう基準で歴史を眺めて良い のは当時を生きた人、もしくは小説書きぐらいのもんだ。 相手を説得したいなら、メリットデメリットを論じてデメリットの方が 大きいぞ、と証明すべき。
306 :
人間七七四年 :2007/06/13(水) 20:35:12 ID:qQAdlpxB
織田や明治政府が足利将軍の墓所を徹底的に破壊しなかったのは理解不能だな 仇敵の存在そのものを歴史上から永久に抹消するためには墓所の破壊はもちろん その一族の血一滴・毛髪一本もこの世に残さない処置をとるべきだった 徳川は羽柴の血脈を結果的に完全に絶ち切ったといえるが、 なぜ明治政府はあれほど足利を憎悪していたのに足利宗家を族滅しなかったのか 明治政府は大量殺戮に何の躊躇も無い氷の精神の持ち主ばかりだったから 室町将軍家系の足利宗家の人物を何十年かかっても根こそぎ捕らえて斬首しなきゃおかしかっただろ
307 :
人間七七四年 :2007/06/13(水) 22:47:09 ID:gWb/JJvX
>>302 一代で絶えた豊臣の象徴と250年続いた徳川のそれが同じ扱いをされるわけないだろ
308 :
人間七七四年 :2007/06/14(木) 07:03:54 ID:Uhd/D8L6
たいしたことじゃないけど スレタイの釣り合いが取れてないのでは? 「羽柴と徳川の戦いは・・・」とすべきだったのでは?
309 :
人間七七四年 :2007/06/14(木) 11:51:16 ID:w/ZpIbs+
大阪城の金銀財宝はどうなった?
310 :
人間七七四年 :2007/06/17(日) 08:33:00 ID:InM5+7Jy
板垣退助が必死で止めなければ東照宮は薩長によって焼き討ちされてたけどなw
311 :
人間七七四年 :2007/06/18(月) 22:26:41 ID:Htg04S2/
足利三代や細川勝元らの墓所が破壊されなかったのも板垣がやめさせたため? 薩長の比類なき残虐さからすれば、等持院・相国寺・鹿苑寺・慈照寺・龍安寺も 跡形も無く破壊しつくされて僧侶たちも皆殺しにされていたはずだ
312 :
人間七七四年 :2007/06/18(月) 23:36:16 ID:441fZuS/
どう考えても家康も途中までは豊臣を秀吉政権下の織田のように扱うつもり だったはずだ。その証拠に大阪冬の陣は大変な接戦で外様大名の動向次第では 将軍の影響力が関東〜東海道の限られた地域に限定された可能性だってある こんな博打のような戦を打つくらいなら服従させた方がいいだろう
313 :
人間七七四年 :2007/06/19(火) 01:36:21 ID:oweIMebe
>>312 それは証拠になってないw 豊臣家を戦争で潰すより権威と実力で従属化
させるつもりではあっただろうが。
314 :
人間七七四年 :2007/06/19(火) 16:33:06 ID:5KSZJadm
どう考えても信長も途中までは一向宗を織田政権下の徳川のように扱うつもり だったはずだ。その証拠に長島は大変な激戦で反信長勢力の動向次第では 信長の影響力が南近江〜尾張の限られた地域に限定された可能性だってある こんな博打のような戦を打つくらいなら服従させた方がいいだろう どう考えても信長も途中までは伊賀衆を羽柴の蜂須賀党のように扱うつもり だったはずだ。その証拠に伊賀は大変な激戦で反信長勢力の動向次第では 信長の影響力が南近江〜尾張の限られた地域に限定された可能性だってある こんな博打のような戦を打つくらいなら服従させた方がいいだろう こうですか?わかりません><
315 :
人間七七四年 :
2007/07/13(金) 17:17:54 ID:tNFVeMDk 鎌倉幕府に対する北条家の乗っ取りがあるんだよ 秀吉に近いね