>>714 毛利輝元領国の母体は緩やかな連携合議集団から脱し始めたのは
毛利を秀吉に売った隆景や安国寺らの毛利からの自立や
山陰諸国人が吉川家臣団として忠誠を誓った広家相続時の自立からで
輝元による権力集中を目指す動きからの明確な離反の中で進行した。
そして秀吉政権が秀秋や秀元の養子政策の中で毛利分裂傾向を助長させたこと
秀吉死後の家康による毛利分領問題介入により、完全に家中をバラバラにさせられ失敗。
>>721 マルクス主義史観とかまったく関係ありません。バカですか?
領国支配する装置の一つではなく、上位者(将軍や大内)に対して
共同で意見を言ったり、要求を通すために組織された自治のようなものであり
大内もその総意を無視できない反面で、毛利の独裁が完全に否定されているのが傘連判です。
>>722 Q、関ヶ原の西軍の総大将は誰でしょう A、輝元
Q、厳島合戦で陶を破ったのは誰でしょう A、安芸国人一揆衆
Q、秀吉が中国大返しをしたとき、和議を結んだ戦国大名は誰でしょう A、自立を策謀していた隆景と安国寺主導
Q、幕末、薩摩と同盟をして徳川幕府を倒した有力な藩は何でしょう A、長州のテロ容疑者主導
>>726 長門13 周防16 石見11 出雲18 伯耆10 因幡9 隠岐4 安芸19 備後18 備中17 備前22 美作18
宇喜多や南条や山名を足しても175万石。万が一、実高がこれより多くても、
それを徴集できない統治体制ではまったく意味をなさない。秀吉政権により国人の抵抗を抑えて竿を入れて
やっとこんだけ叩き出せた以上は、むしろ一揆連合が織田と戦っていた時期は
これより大きく下回る石高であったと考えねばならない。
>>728 そんな大軍は不可能。そのソースはいったいどこから出てきた?
>>731 あなたが毛利型の一揆と他の戦国大名が同じだと
主張してるからそう書いたまでです。
傘連判は南奥羽などでも見られた領主連合合議連盟形態ですが
戦国期に入るころには上位者が(篠川・稲村両御所や鎌倉公方)滅亡するなどした結果
南奥羽ではとっくに廃れていて安芸周辺という大内の保護圏の中でぬくぬくと
ぬるま湯につかっていた地域しか生息してませんでした。
また通常の一揆と戦国大名を同一視するのだとしても
まったくそんなデタラメな話を聞いたことがないので
誰の主張論文なのか明示してください。実に興味あります。
一揆契約とは同等な階層の者と考える者同士で契約するものであるので
すると甲駿相三国一揆契約だったのでしょうか?納得し難いですね。