【吉川】毛利一族を語る【小早川】

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1名無しさん@お腹いっぱい。
名将揃いの毛利一族について語りましょう。
2名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 16:33:45 ID:kbU9QOPG
厳島の戦い
3名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 17:32:55 ID:KojK1AQ9
個人的には隆景が好きです、はい
4名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 17:40:20 ID:t7BtMPBE
北条高広はどうよ?
5名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 17:44:43 ID:KojK1AQ9
南北朝の分かれかよ
6名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 19:21:40 ID:t7BtMPBE
別れも何もれっきとした毛利一族だw
7名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 20:16:37 ID:bv6LxvZ2
大江氏について、語るスレはここですか?
8名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 20:24:41 ID:i6k72dFq
スレタイに吉川小早川が入っている
すなわち安芸毛利と考えられる
及び戦国時には越後は北条名乗ってるから
語るなとは言わないが
メインは安芸と思うよ
9名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 11:20:41 ID:6mXdbJPH
戦国板だから限られるっちゃ限られるんだがな
10名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 11:31:43 ID:BAcz/j6I
>スレタイに吉川小早川が入っている
>すなわち安芸毛利と考えられる
ここは同意だが
>及び戦国時には越後は北条名乗ってるから
これは30点。北条のことを調べてからレスしなさい
11名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/07(金) 13:21:57 ID:4/7hER/w
ようするに北条も安田も、毛利を名乗っている話かな?
12名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 12:05:47 ID:WClm7kOt
山口市って県庁所在地なのに変な位置にあるんだなw
そりゃ性格も歪むわw


http://maps.google.co.jp/?ie=UTF8&ll=34.106688,131.456909&spn=0.330889,0.379715&t=k&om=1
13名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 15:06:20 ID:/e9EaSX2
福原氏とか坂氏とかは無視か?
14名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 18:38:08 ID:MWHfGxD9
戦国の安芸毛利の庶流は福原、坂、桂、志道、口羽が有名どこかな?
15名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 21:39:03 ID:GNV63mEE
有田中井手の戦い  ○毛利軍1千5百 対 ●武田軍7千
元就の初陣。 当時の毛利家の領土は3000貫といわれ、15000石〜25000石ぐらいといわれているほど少ないものだった。
初陣、そして圧倒的劣勢にもかかわらず圧倒的な戦力差を華麗な戦術ではねのけ、総大将武田元繁を討ち取り軍団を総崩れにさせる。
元就の天才ぶりはこの時から発揮されていた。
後世西国の桶狭間と呼ばれる。(状況を考えれば桶狭間以上の大勝利)

佐東銀山城死守戦  ○毛利尼子連合軍 対 ●大内軍
有田中井出の戦いで敗れた武田氏が尼子の力を借りようとし、友田興藤は武田氏の援助を受けて、桜尾城を奪った。
一方の大内義興は自ら出陣し桜尾城を包囲した。そして息子の大内義隆と副将・陶興房に銀山城を攻撃させた。
元就はまだ尼子方の武将だったので、銀山城を死守するようにと尼子経久に言われていた。
劣勢に陥った尼子武将。
見かねた元就は軍義で夜襲を提案、意表をつかれた大内軍は大混乱に陥り城の包囲を解かざるをえなかった。

吉田郡山城の戦い  ○毛利軍3千 対 ●尼子軍3万 
圧倒的な数の軍勢を率いる尼子軍を巧みな篭城戦でこれを撃退する。
その後尼子は衰退する。

折敷畑の戦い  ○毛利軍3千 対  ●陶軍7千
山に布陣した倍以上の敵軍を下から攻撃し、大将宮川長房を戦死させ完勝を収める。
地理的にそして兵数的にも不利な状況ながら、総大将を討ち取るという完勝っぷりは元就、そして息子達の戦上手ぶりが垣間見れる。

宮尾城攻防戦  ○毛利軍5百 対 ●陶軍1万6千
圧倒的な敵の大軍の大攻勢に耐え抜き、厳島合戦への足掛かりを作る。

厳島の戦い  ○毛利軍5千 対 ●陶軍2万5千
自身の頭脳を駆使して厳島へ上陸した陶軍を壊滅させ、西国無双と呼ばれた陶晴賢を自刃へ追い込む。
運だけの桶狭間とは違い、自身の頭脳を駆使した完璧な戦だった。
この戦だけでも元就の凄さが分かると思う。 この合戦後、元就は戦国随一の勢力になる。
16名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 00:01:47 ID:YdDp+MUD
麻原氏とか光永氏ってけっきょくどうなったんだろ
17名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 01:29:48 ID:NTMj0PqG
九州征伐後の隆景は事実上の九州探題と見ていいのかな?
しかし名門の小早川家が秀秋ごときのために潰れるとは
18名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 02:21:04 ID:HiPvKRfm
ツルピカ安國寺恵慶
19名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 12:06:32 ID:6JNbzJrJ
大河ドラマ好きだった
20名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 02:39:22 ID:2l8fZJ2e
毛利経光の長男の末裔が北条氏
毛利経光の四男の末裔が安芸毛利氏
これって家格は北条が上なの?
21名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 02:44:38 ID:jkyHua6b
九州に手を出したのは失敗だったと思う。
東のみに戦略を向けていれば。
22名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 03:22:50 ID:UU7yFIvx
大河ドラマ、視聴率悪かったけど結構役者がはまってたな
23名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 05:22:35 ID:zXE1n4kD
>>20
大江氏全体で言えば南北朝時代までは長井氏(のちの福原氏)が総領
24名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 15:28:33 ID:z438m1Hw
出羽の寒河江氏ってのあるね

祖の親広は広元の嫡男だけど、承久の乱で上皇方につき没落
寒河江に潜居
25名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 15:42:11 ID:b7GW1ncB
>>23
その長井氏の中でも総領は福原氏でなくて六波羅評定の血を引く長井氏ね

>>20
結果的に家督を四男に継がせて自分は越後に籠もるから
安芸が本家の扱いかな?実際は戦国末に真田昌幸が生き残りのためにとった
家中分立をやってるから、生き残ったほうを総領にさせる腹積もりだったみたい
26名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 21:26:39 ID:PO1TbmLd
隆元が長生きしていたら、戦国時代も大きく変わったはず
27名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 21:29:07 ID:hsZNh6SG
どう変わったと言いたいのかな?
28名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 21:49:16 ID:EYz4kBm2
>>22
大河では尼子経久役の緒方拳がよかった。
29名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/10(月) 23:34:30 ID:6GMnUIMn
どうかな、隆元ってストレス溜めこみそうな感じだし
50ぐらいでポックリ逝きそうかな
30名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/11(火) 01:44:47 ID:YIHSngnJ
厳島合戦は元就が誘き出したんじゃありません。
戦略的にも経済的にも重要なトコだったんです>厳島
31名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/11(火) 13:07:12 ID:wLts5TaH
因幡の私部毛利も一族?
32名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/11(火) 16:38:59 ID:4dpuw5or
よくわからないが、文和三年(1354)に私部郷の地頭として、毛利次郎が入ったのが最初らしい
この毛利次郎がどうつながるのかだね
33名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 15:17:53 ID:AHjEoA4W
>>30
厳島神官は大永三年(1523)以来、天文十年(1541)の桜尾城落城までは友田
桜尾城落城以降は大内氏に属する

厳島は航路の要衝で物資が集まる重要な港
34名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 01:30:33 ID:YJqkn9p/
大河で桂元澄が桜尾城城主に「左遷」されたみたいな書き方だったのには萎えた
35名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 17:06:10 ID:B2VjxR1O
神領地支配の要なのにね

ゑ?桂太郎の先祖なのかぁ
近代話だね、ごめん
36名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 21:15:13 ID:HOqz1wlt
尼子、大内の二大大名に囲まれ
自身は2万石ほどの弱小大名でありながら、両者を倒して勢力を拡大した元就最強

信玄や信長なんか最初から条件が良すぎるよ。
37名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 21:35:52 ID:ipFOjDgF
小早川って名字の人ってなんか可愛そうだね、「あの裏切り者のたぐいの人なんだろか?」みたいな。小早川ってだけで信じてもらえないとかワラワラ
38名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 07:55:14 ID:XfWh64Va
歴史を知ってる人はそうは思わないと思うよ
小早川っていったら太閤のおおぼえめでたき隆景ですよ
安芸毛利家の最盛期ってどれ位の石高だったんだろ?
39あぼーん:あぼーん
あぼーん
40名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 09:34:04 ID:mBDNNpyB
>>35ニコポン
41名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 07:10:07 ID:8a/V/EvE
太閤ゆかりの小早川一族から裏切り者がでるとは。。
42名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 10:00:27 ID:gNRxAhWh
石高は150万石位じゃね?
ただ銀山、瀬戸内海運通行料、出雲、伯耆の鉄とかあったから。
経済力は織田に次いで2番目の評価受けてたみたいだが。
(関ケ原時、徳川の半分の石高しかないのに、無理をせずに普通に、
徳川に匹敵する兵を、動員出来た根拠にもなっている)
まっそれでも織田の半分しか無いと言われてた見たい。
43名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 05:04:51 ID:zb2GuJkF
よく毛利輝元は吉川広家を許したね
44名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 05:17:11 ID:5pS1qhFq
許さなきゃ家潰れるからな
もっとも、とことん冷遇しまくったらしいけど
吉見とか熊谷みたいに断絶させられなかっただけマシかな
45名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 16:02:06 ID:6a6LUkiM
裏切りは死をもって償うべし!
46名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 16:07:29 ID:qbmmhAek
大友に九州から追い出された毛利
47名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 21:33:34 ID:/x2MtkrA
かつての宿敵大友家の末路が不憫でならない
48名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 20:09:02 ID:djycgZPs
毛利は山陰山陽の覇者であるには違いない
49名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 23:56:32 ID:gQRje9/Y
元就墓所で遺徳しのぶ 吉田
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200607170054.html

毛利元就の命日の十六日、安芸高田市吉田町の住民でつくる毛利奉賛会が、同町の郡山城跡ふもとにある元就墓所で墓前祭をした。

毛利家当主元敬さんの長男元栄さん(38)と妻暁栄さん(38)=東京都杉並区=や、奉賛会の兼近勝会長たち四十五人が出席。神木として植えられたハリイブキを墓標とする元就の墓へ玉ぐしをささげ、遺徳をしのんだ。

元就から数えて二十代目の元栄さんは「毛利家にとり古里は吉田の地。命日に参らせていただけるのも皆さんが守っていただいているおかげです」と感謝を述べた。

一八七〇年から始まった墓前祭は奉賛会が受け継ぐ伝統行事。同町多治比の猿掛城跡では元就の父弘元の墓に参拝した。(中橋一誠)
50名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 08:28:49 ID:CZXDrV/A
来月大河が再放送だな
51名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 00:06:06 ID:XmsMv43/
大河の毛利元就はあまり印象に無い
52名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 09:13:30 ID:E5fUIjrz
>>50
詳しく!
53名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 14:25:51 ID:BeLBNP+L
54名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 14:14:08 ID:p+I6HH8n
>>53
tx
CS系か・・・
55あぼーん:あぼーん
あぼーん
56名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 21:10:39 ID:fEmFvtnV
元就は小から身を興した名将
57名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/08(火) 16:35:04 ID:uFIsn5e+
天下を競望するようなことを思い立って はならぬ
58名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 23:24:22 ID:I+gE7aKW
毛利はなんで織田と戦うことになったの?
勝ち目はあったんですか?
59名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 23:27:44 ID:aFAzdIIc
>>58
義昭に信長包囲網参加しろって言われてしかも義昭が亡命してきたから
亡命って表現は変かもしれんな 頼ってきたというか・・
60名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 23:33:29 ID:I+gE7aKW
勝ち目はないけど織田と戦わざるをえなかったという感じですかね。
ある程度戦況が有利な状況で和議でも結んで終戦を望んでたのかな?
61名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 01:13:00 ID:0pMbLO9q
広島は今も浄土真宗の土地。本願寺を見捨てるわけにもいかんだろ。
62名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 01:54:09 ID:usMHu66g
そもそも織田の目標は天下統一なわけで、戦いは避けられん
63名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 02:07:07 ID:rV+V7GXH
じゃあ本能寺の変がなかったら毛利は滅んでたのか
64名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 02:30:53 ID:dTX0nj87
毛利とか長曾我部・上杉はやばかったでしょうな。
65名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 02:44:26 ID:j5K64tvj
毛利本家だけはガチ滅ぶ。(無能すぎ)
でも、毛利家の家臣で優秀な武将は織田家で出世すると思う。
66名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 17:42:32 ID:nv4tRRON
本能寺の変がなかったら信長は備中で討たれることになっただろうな
67名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 06:17:59 ID:RZSup+TG
滅びなかったと思うけど、
家康と同じく、防長2ヵ国に削減じゃね?
68名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/21(月) 07:50:19 ID:LYQa5fS2
もときよ!
69名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 11:48:36 ID:oN9cjMQ4
厳島の史料館でビデオ観てまつ
70名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/24(木) 01:52:09 ID:qRvB2DQC
>>61
話が逆転してるよ。
見捨てるも何も、浄土真宗の土地にしたのはそもそも毛利なんだがな。
領内の寺を全て一向宗に改宗させ従わなければ廃寺。
浄土真宗の土地だから見捨てられなかったんじゃなく、
見捨てなかったから本願寺と結びつくことを選らんだんだけど。
71名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 13:55:44 ID:eoGtQWJg
元就の親父殿、弘元ってどの程度の勢力もってたのかな?
72名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/29(火) 17:46:47 ID:7wOzz4AE
一門衆の筆頭に置かれた宍戸氏ですが、
隆家の子、元秀が廃嫡された理由はなんなのでしょう。
ご存知の方いないでしょうか?
73名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 11:36:02 ID:tFnnQq9w
元秀は病身だった説
74名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 12:06:46 ID:bhwux87b
>>73
ありがとう。病気説のソースってわかりますか?

廃嫡された時期や、この頃は活動の記録がある、というのでもいいんですが。
伝わる生年が確かなら元秀16の時に嫡男元続が産まれているのを始め
少なくとも3人子がいるので生来の病弱でもないのかなと思います。
乃美宗勝の嫡男盛勝が織田方の勧誘を受けていた直後に”病死”したのと
同じような裏があったりはしないのでしょうか?
75名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/30(水) 13:13:21 ID:tFnnQq9w
ごめんねくわしくはわからない、出所は武家家伝
76名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 17:29:43 ID:yzVvfGQV
お兄さんの名前って『おきもと』だっけ?
77名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 18:06:40 ID:XAOMSYbE
>>76
興元だな
渡部篤郎だな
赤マフラーだな

豊元が早死にしなければ、毛利はあんなに苦労すること無かったと思う。
↓何かキャラクターが松平と被るな
豊元−清康
弘元−広忠
元就−家康
78名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 02:18:44 ID:RkmiwQoH
>>77
輝元はそのパターンでいくと家光なのだが
キャラが秀忠とダブるなw
79名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 11:46:02 ID:lBzs9ie3
毛利って足利義昭に協力して包囲網に加わったけど、やった事は本願寺を支援したくらい?
その他との連動って全く無かったのかな。
80名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 20:44:04 ID:QQsnmeNo
何でいつも消極的なの 毛利?
81名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 23:22:21 ID:TntO16PJ
うまいのさ
82名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/22(金) 00:51:40 ID:AzQcsyyB
>>80

「これ以上多くを望むなとする元就公の御遺訓を遵守せねばならぬ」

・・・この意識が大毛利を律してしまった結果だろうか
83名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 16:34:01 ID:+QVYtvgO
結果的には存続したのだから、良しだと思うけどね
84名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 21:45:15 ID:txM1nVAE
毛利輝元はとんでもない糞であったそうじゃないか。
85名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 23:08:57 ID:7sd/O4Xj
輝元は暗君という評価だったとか、どっかに書いてあったな。
86名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 01:23:23 ID:v9N29sT1
87名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 11:57:28 ID:y64no5wW
迫力ある元就様ですね
88名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 22:53:19 ID:8nRC64rO
ALICE SOFTはエロが無くてもやっていけると思う。
最近のは知らないけどね。
89名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/18(水) 23:11:15 ID:JW+xiRne
>>80
毛利家と北条家は戦国の引きこもり
90名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/19(木) 22:31:00 ID:erXufYxB
大河ドラマ毛利元就,の、輝元参上!の回の輝元は酷かった。
勝手に抜け駆けして殺されそうになって、優秀な家臣を何人も犬死にさせたんだから。
91名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 08:14:47 ID:kPV0yRjB
隆景は輝元と2人きりのときは臣下としてではなく、
叔父として当主としての自覚に欠ける輝元を厳しく折檻したらしい
92名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 14:08:28 ID:BmK32S/6
まあ信長の本能寺がなければ、危なかったですねー
しかし秀吉なんかは美濃時代から、頻繁に小早川隆景には文を送っているし、
本能寺後、光秀も、八ヶ岳の勝家も毛利と手を組もうとしていた。
信長は絶対許さないものね。
秀吉に押されてきたのは明らかに宇喜田直家が裏切ったからですね。
あれで思うように動けなくなった。
この国は戦国時代の中にあって、比較的おっとりしているというか、
平和主義というか。。。
信長だったら領地召し上げているところでも、各豪族、大名達に自治権許して
いるけどね。
まー宇喜田直家は、小早川隆景ははじめから信用できないと見ていた節がある。
でも宇喜田が頼ってきたときは、兵を出してあげている。
毛利家はやっぱり輝元ではなく、隆景ー広家ラインで見たほうがいいと思う。
とにかくこの二人おっとり平和主義。
でも戦国時代に珍しい家だと思う。なんだか好きになってくるよ。
自分の女に関しても、子供生まれなくたって側室つくってないもんね。
元春、隆景は。まあ、元就の教育がよっぽどだったのか、律儀ものが多い。
一族で変わっているのは毛利秀元かな。この人は元春以来の豪傑だね。
豪傑だけど江戸時代には政治力もある。
元春もただの猛将ではなかったし。元就、吉川元長なんかも人を殺すことに悩んでいたりする。
戦国時代とは思えない風変わりな家だと思う。むしろ現代的な感じ。
とにかく秀吉政権から関が原と、家を守ることに必死なんだわ。
93名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 14:16:34 ID:7Td4h1qP
小早川隆景が1600年に生きていて、もし豊臣家の分裂を押さえることができなかったら、
徳川家の方についていたと思う。彼は理想主義ではなく、現実主義者。
「どうすれば、毛利家が安泰になるか」
父親の遺訓の意味を輝元より遥かに理解していただろう。
そうなると、安国寺も従わざるを得ない。
94名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 14:52:50 ID:6tSwF+vT
家康の勝利を知っている現代だから家康につくのが現実主義なんて言える。
それに関ヶ原を無傷で乗り切ったとしても次にイチャモンつけられるのは毛利だ。

95名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 14:53:21 ID:BmK32S/6
小早川隆景が1600年まで生きていたら...家康に付くというより、
確実に家康は手を出せないでいると思います。
なぜなら毛利本家、筑前小早川家を敵にまわせないからです。
両国併せるとかなりの兵力です。これに上杉、前田となるといかに家康でも厳しいです。
また何より隆景が生きていたら、黒田家が西軍につくかもしれません。
当時確実に人望があったのは、徳川家康、前田利家、小早川隆景だったからです。
隆景は特に朝鮮の役で皆と戦働きし活躍しましたから、武断派にも受けがいいです。
秀吉やルイスフロイスが言ってるように、稀にみる名将でその人柄から誰からにも慕われていた
とあります。晩年隆景は安国寺に注意するように言っていたらしですね。
広家が安国寺を嫌っているのはこのこともあると思いますけど。
96名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 20:49:19 ID:rEQUqPpp
>>94
大きすぎる外様は難癖つけられそうだから、
関ヶ原で不戦敗は結果的によかったかもね。
97名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 02:30:28 ID:DxV+CKRT
そうそう。福島正則のように色々な罠があったかもね。
前田家も下手ないいがかりをつけられ、潰されそうになったり。
関が原は屈辱だけども、後の長州による倒幕へ向かうわけだから、
結果はよかったかも。
98名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 04:21:51 ID:+ArFnp2C
恥ずかしながら信長の野望を初プレイ。しかも将星録。地元毛利でまったりプレイ。
統一前に宗茂・信繁・政宗出現!オーカッコイイ!! 秀包出現!エーッ!!
何だ!この能力の差は(宗茂と義兄弟だけに武力80あってほしかった)。まあ良かろう。
しかしこの顔はゆるせん!モデルを嫌な上司の顔にしたにちがいない。
まさかと思うが最新の信長の野望もこの顔なのか?
99名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 23:25:27 ID:zc1Mvfib
>>98
顔はマシになったけど没個性な顔になってる。
能力は将星録以降全体がデフレ傾向もあって下がり続けてる。
100名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/04(月) 22:19:40 ID:7mBPdiOj
秀包が所持してたっていう雨夜手拍子って銃はどんな鉄砲だったんだろう?
雨の日でも撃てる構造とかなんだろうか?
101名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/23(土) 00:15:43 ID:KKYE8e7D
ttp://lesyn.com/bakage.html

毛利元就:
「三本の矢」という伝説が毛利家にはある。
一人に対して三人がかりで襲い掛かれば絶対に勝てるという家訓で、集団戦法を教えたといわれる。
102名無し議論スレにて投票方法審議中:2006/12/27(水) 00:52:54 ID:csTZMw8h
 安来市民は毛利も尼子も大好きです。
103名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/24(水) 23:32:30 ID:9s/W5a7g
毛利きく
104名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/26(金) 20:33:19 ID:UM4s5Nl/
>95
「確実」かはともかく手出しし難くなるのは間違いないな。政治的にも。
五大老中二人が毛利一門(輝元、隆景)で経済力でも家康に完全に拮抗
するのだから(石高ベースでは家康が上だが収入ベースではトントン)。
105名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/01/27(土) 03:10:58 ID:Gt6Jr7+5
能力も参謀最高級クラスだけど、やっぱ俺は隆景の人望を尊敬したいな。
…【小早川隆景の補佐参謀能力】+【吉川広家の忠義】が1600年に順調に発揮されていれば…安国寺も嫌いではないんだけどな
106名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/04(日) 19:24:48 ID:yBVuThsO
隆景なんて羽柴ごときに媚びへつらった毛利の恥。
追撃しようとした元春を止めてしまったがために
「毛利幕府」は夢となってしまった
107名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 20:49:29 ID:ghPJOOvE
輝元なんか好きなんだよねー。彼を主人公にした小説「傾国の烙印」も
よかった。輝元は戦国にしては優しすぎたなあ。
108名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 21:15:16 ID:Xu498g4t
その輝元も少年時代は血気盛んな性格だったんだぞ〜

そのまま大人になっていれば天下布武も夢じゃなかったな
109名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/06(火) 22:33:53 ID:ghPJOOvE
>>108
そうなのかー!びっくり。萩城には輝元の銅像もあるんだよね。
見てみたいなあ。

110名無し議論スレにて投票方法審議中:2007/02/12(月) 17:32:34 ID:stxh/LEQ
それにしても最近のノブヤボの輝元の能力はひどいな。政治はもう少し高くても
いい気がするが・・・
111人間七七四年:2007/02/12(月) 18:20:43 ID:FnAkpnsS
政治は益田元祥に反映してるんじゃね?
112:2007/02/13(火) 02:44:04 ID:UdhCkiNJ
毛利元就のこと書いてる本じゃ何が一番おすすめ?
113人間七七四年:2007/02/13(火) 12:00:16 ID:gzDvGa3q
>>92
毛利家はなんだかんだといっても資料が残りすぎたから、
そういった印象を受けるのだろうな。
これが松永弾正だと、悪名のみが残ることになる。
あの合理主義的な逸話も当時の人はこいつはこんな気違いだったのだぞ
といった感じで語り継いだから今に残るのだろう。
その話が今の科学万能に世に受けるようになったからたいしたやつだ
と見直されるようになったのだろう。
114人間七七四年:2007/02/13(火) 13:04:28 ID:cqIuxpEG
>>112
PHPから出てる「毛利元就99の謎」
これで”一般に知られている情報”は知ることが出来る
115人間七七四年:2007/02/14(水) 00:27:51 ID:8LukLq3H
俺的には新田次郎が書いた元就が好きだった。
長門の日照り&飢餓を予想していて、
ここぞと一気に膨張するのがかっこいい。
まぁ、小説だけど。
116:2007/02/14(水) 09:14:50 ID:Bdeq94Q8
>>114>>115
有難う御座います!できれば小説が読みたかったので教えてくれて嬉しいです!(^^)
117人間七七四年:2007/03/08(木) 13:43:51 ID:6i6MjiL9
永井路子 山霧
永井の得意な妻からの視点
118人間七七四年:2007/03/11(日) 14:41:17 ID:+UdqRV5T
腹黒い毛利元就が見たいなら
徳永真一郎 毛利元就
これオススメ
119人間七七四年:2007/03/12(月) 20:17:43 ID:dbYOd//b
元就が隆元を毒殺したん?
120人間七七四年:2007/03/13(火) 12:31:49 ID:yUM2xo9x
それはないだろう
121人間七七四年:2007/03/13(火) 12:48:03 ID:JHfgfapU
隆元殺すメリットが無いんじゃね?
122人間七七四年:2007/03/23(金) 17:46:49 ID:UTcEXOif
浮上
123人間七七四年:2007/04/18(水) 19:40:25 ID:7K67gv91
今日のその時は村上水軍の話ですね

第285回
海の関ヶ原
〜村上武吉・水軍に賭けた夢〜
平成19年4月18日 (水) 22:00〜22:43 総合
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/main.html
124人間七七四年:2007/04/19(木) 10:23:42 ID:Fok5r9EG
元就の四男以降について、詳しく語れる人いる?
125人間七七四年:2007/04/19(木) 20:41:09 ID:IkXACuJZ
立花宗茂と義兄弟だった小早川秀包とか
虎を捕まえてきた穂井田元清とか
輝元の養子になった秀元あたりは好きだな
126人間七七四年:2007/04/19(木) 21:46:12 ID:JkwUkCkO
いわゆる「虫けらのやうな子とも」ですな・・・。
元清はいいね。
127人間七七四年:2007/04/19(木) 22:45:49 ID:pIMrz1G5
秀包もかなりの者でしょ。
128人間七七四年:2007/04/20(金) 00:33:32 ID:Kq2jadEY
元就の子はハズレがいないな
129人間七七四年:2007/04/20(金) 00:41:45 ID:9CRW15CH
>>126
歳の離れた兄達(三本の矢)の同情を誘うように
敢えてそう書いたという説あり
130人間七七四年:2007/04/20(金) 04:11:38 ID:BdWx7KLI
>>129
三本の矢伝説って・・・
あれってよく読むと娘も矢の仲に入ってるんだよな。四本の矢が正解。
131人間七七四年:2007/04/20(金) 09:16:40 ID:oRqCawgB
娘、ひいては娘婿の宍戸隆家かな
132人間七七四年:2007/04/20(金) 15:03:19 ID:yhhd2vEM
四男:穂井田元清
五男:椙杜元秋
六男:出羽元倶
七男:天野元政
八男:末次元康
九男:小早川秀包
??:二宮就辰
133人間七七四年:2007/04/21(土) 00:21:51 ID:ol6hy+49
>>128
もっと量産していれば…
134人間七七四年:2007/04/21(土) 01:22:58 ID:r+x3d6Fw
元就の子供で結構生きたのって次男と三男くらいだよな・・・
他は早死にしすぎ・・・
135人間七七四年:2007/04/21(土) 17:51:26 ID:e7v+2hY0
>>131
元就が三兄弟に矢の話をしている時に
妹が「ウチをハブっといて何が三本の矢じゃ!ウチら夫婦も合わせて四本の矢じゃろがい!」
って怒鳴り込んできたんだよね
136人間七七四年:2007/04/21(土) 18:44:40 ID:g+1W+2cR
実際、宿敵だった宍戸家との同盟はおやじの勢力拡大に大いに役立ったしね。
五竜の方には自負があったんだろう。
137人間七七四年:2007/04/22(日) 07:46:48 ID:z3gI+pWP
>>136
男系で固めて、娘の嫁ぎ先など皆殺しってのも普通にあった時代だからな。
元就の言い伝えがなければ皆殺しはされなくても江戸時代通じて一門扱いされてたかは
微妙だと思う。
ところで高杉も一時、宍戸姓を名乗って家老になったけど一応宍戸の血でも引いてるの?
138人間七七四年:2007/04/22(日) 08:55:18 ID:5403p0ty
>>137
宍戸隆家の娘を輝元の正室に迎えたりね。
一時、大友宗麟の娘との縁談が持ちあがってもいたし、家柄が不釣合いだと
陰口たたかれたというが。
元就はすごく娘夫婦を重んじていたみたいだな。

高杉については分からぬ・・・。
139人間七七四年:2007/04/22(日) 21:40:09 ID:aC4/Gr9z
>>135
五もじこえーよw


元就は当時にしては珍しく女性の権利を大切にする人だったらしいが
やっぱり自分を育ててくれた側室の方や奥さんの影響が大きいんだろうか
140人間七七四年:2007/04/23(月) 03:23:20 ID:ML2VCC4S
吉川元春って小早川隆景と違って本あまりないよね。
瀬川秀雄著「吉川元春」くらいしかやっぱり詳しく書かれたのはないのかなぁ・・・。
でもこの本出たのが昭和19年とかだから内容が古すぎるしなぁ。
毛利氏で元就の次に好きな武将だから本少ないのカナシス・・・。
141人間七七四年:2007/04/25(水) 18:09:48 ID:+Y7sfRYG
安芸と言えばわしと毛利じゃ。









じゃあの。
142長門 ◆q8GdomS4XA :2007/04/26(木) 03:45:25 ID:XWvF1rea
両川に変わる川がなかったのが痛すぎる
輝元は秀秋の事をどう思ってたのか
143人間七七四年:2007/04/26(木) 06:55:35 ID:obEHIXYi
>>142
そんな事は無いわ。
両川以外でも叔父やその子息達はすこぶる優秀だ。
ただ問題だったのは隆元が早世し輝元が9歳で一人っ子だったのが問題だ
ったと思うな。当時の武家の一人っ子なんて居ないだろう。しかも9歳で
当時最高クラスの戦国大名家の当主に行き成り成ったんだから、必然的に
周りから甘やかされた筈。元就や隆景が補佐として関ってたのだろうが、
それが更に悪かった。余り優秀な者に小さい頃から補佐されると自立心が
気薄なまま成長してしまう。しかも、豊臣政権になるまでは戦争続きで領
土は拡張し続け逆に政治基盤は非常に脆弱な物に成って居たと思う。
隆景が北九州への移転を嫌ったのは、毛利家自身の基盤の引締めをしたか
ったんだと思うな。まぁそれを輝元の叔父の穂井田元清や二宮就辰、末次
元康が担ったのだろうが、輝元と歳も近く(末次より逆に輝元の方が年上)
権限的には両川に及ばな過ぎた。優秀な叔父や甥が居ながらも輝元のボン
ボン臭と、下手に歳が高く当主歴が長いのが災いだったよな。
144人間七七四年:2007/04/26(木) 07:01:56 ID:obEHIXYi
>豊臣政権になるまでは戦争続きで…
って書いたが豊臣政権時代も毛利一族は戦争続きだわ。
145人間七七四年:2007/04/26(木) 14:38:53 ID:MDs3Agm0
隆元が長生きしてたらどうだったろうね。
146人間七七四年:2007/04/26(木) 17:38:44 ID:bKmJcs8n
>>145
隆元は目立たないけど
隆景が「自分でも内政は長兄には敵わない」と言っているくらいだから
相当内政手腕は良かったんだろうな
長生きしていれば領内の内政も輝元の教育ももう少し何とかなったかもしれん
147人間七七四年:2007/04/26(木) 20:17:16 ID:cMPzIowd
元就が妙玖夫人生前に側室をおかなかったため、
三兄弟と庶出の弟たちとの年の差がありすぎた。
隆景と元清、二十歳ぐらい違うのかな?
隆元没後、中堅どころの位置にいなかったのが悔やまれる。
148人間七七四年:2007/04/27(金) 06:46:58 ID:46oHA9aM
>>147
居れば居たで御家騒動になったと思う。2人の同腹兄弟だったので
どっちも牽制しあい乗っ取れなかったとも思う。
149人間七七四年:2007/04/27(金) 17:50:38 ID:YE3pKIXM
元就は隆元が早世した時点で元春を毛利家に戻して
後継者に指名すべきだったんだ
元就自身、元春を有望視していたからこそ
あえて「元春」と命名したわけだから
150人間七七四年:2007/04/27(金) 18:10:47 ID:Fq0flD6Z
>149
それはそれで元春亡き後に輝元と元長の間に相続争いが起きそうな
151人間七七四年:2007/04/27(金) 18:16:59 ID:GHtaauQc
毛利元就の子孫が格闘技大会やプロレスに出てるね
152人間七七四年:2007/04/27(金) 19:36:27 ID:gCKzOmUW
>>150
元長は隆元型のまじめな性格っぽいから、輝元と譲り合って案外仲良くやるかも。
でも、広家が軽挙妄動しそうですね。
153人間七七四年:2007/04/27(金) 20:49:55 ID:rRy43VBA
>>151
kwsk
154人間七七四年:2007/04/27(金) 21:04:52 ID:mfLJVYPy
>>152
広家も乗っ取れたときに輝元を奉じたしな。律義者の一族なんだと思う。
155人間七七四年:2007/04/27(金) 23:51:04 ID:SaV0Xihh
やっぱり後継者争いの件は
元就が若い時に痛い目に遭ってるから
息子達にはくどくど言ってたんだろうなあ
156人間七七四年:2007/04/28(土) 06:40:02 ID:lWNXxGCg
大河ドラマ主役
2007 山本勘助 (武田信玄の軍師)
2009 直江兼続 (上杉家の智恵袋)

あぁ〜あ、武田上杉がウラヤマシイなあ〜
ウチの安国寺恵瓊の豚じゃ、永遠に大河ドラマの主役は無理じゃあ〜
157人間七七四年:2007/04/28(土) 14:54:56 ID:twMUhuRP
大体ね、あの米沢で三十万石領したなんてのは嘘だよ。江戸初期の検地で
米沢が三十万石以上あったことは確かだけど、兼続は米沢城主だっただけ
で、全域を領していたわけではない。その証拠に、「直江兼続は三十万石」
と記した人々のうち、秀吉なり上杉景勝なりが発行した(三十万石の)知行
宛行状を示した方がいただろうか?
ただ、秀吉が兼続を買ってた、というのは確かだ。加藤清正さえ得られなか
った豊臣姓を貰っているくらいだからね。主家が百万石クラスの大身であっ
ても、家老の石高はだいたい五、六万石といったところだね。加賀前田家の
家老本多政重、この人は一時、兼続の養子となっていた人だけど、たしか五
万石だった。宇喜多家の家老明石全登も「秀吉より十万石を知行された」と
ものの本には書いてあるが、『宇喜多家分限帳』には三万石とある。三十万
石なんざあ、ベラボーめぇ、だ。
158人間七七四年:2007/04/28(土) 15:39:36 ID:lWNXxGCg
石高の優劣で人柄の序列を語る、痴呆毛利厨 (笑
毛利輝元のヘタレが、直江兼続、井伊直政、立花宗茂より武勇人格が上と抜かす痴呆は
中国人以外にゃ居ねぇよ ヴぁか (w
159人間七七四年:2007/04/28(土) 15:51:09 ID:twMUhuRP
よく陪臣で隆景と比べられる兼続ですが、はっきり言って格が違いすぎる
と思うのです。そりゃ名宰相だと言う事は認めるが、豊臣姓などは毛利家
なら堅田元慶や平賀元相、福原元俊などなどマイナー系でも貰ってるつー
の。それどころか隆景や広家に至っては羽柴の名乗りを許してる。

五、六万石ってば毛利で比べるなら安国寺恵瓊だろう?勘助といい、兼続
といいもうほんと捏造史観を広めるのは勘弁してくださいNHK><
160人間七七四年:2007/04/28(土) 16:12:38 ID:twMUhuRP
>>158
この様に捏造史観に毒されてイメージだけで語る(騙る)馬鹿が増えるのです。
直江兼続の武勇???人格???お前語ってみろよ。
161人間七七四年:2007/04/28(土) 17:09:15 ID:1ONgldrO
兼続スレでおやりよ (あるかしらんが)
162人間七七四年:2007/04/28(土) 18:07:51 ID:lWNXxGCg
>>160
直江兼続、井伊直政、立花宗茂 これらに毛利輝元ごときが勝てるとでも?
前者3人は正に戦の神だよ 
親の財産に胡坐をかいた坊ちゃん大名はどんな戦果があるんだ? 逆に問い詰めたい
くれぐれも関ヶ原での威圧とか書くなよな W
163人間七七四年:2007/04/28(土) 18:17:07 ID:twMUhuRP
仕方ないな、全然帰って来ないから俺が纏めてやろう。
兼続は執政官として上杉景勝に用いられ、上杉領内に影響力をもち、また学問好
きで米沢に禅林文庫を建て、朝鮮の役でも文献収拾に努めたと言われる。
しかし、兼続の武功戦歴はほとんど無く、慶長5年(1600)、最上氏との間に戦
われた長谷堂城攻めが知られるのみである。さてその長谷堂城の戦いであるが、
上杉家史上もっとも無惨な惨敗であった。

兼続は上杉軍の総大将として2万5000の兵を率いて最上へ侵攻した。最上は総勢7
000に過ぎず、本拠地山形城に半数の兵を置き、残りの兵で領内各地の守備に当
った。上杉軍も兵は五手に別れて侵攻し、兼続は萩野中山口から進軍した。兼続
は最上が兵500で篭城する畑谷城を、万を越える兵で包囲し攻城するも1000人近い
死傷者を出してようやく陥落させる。直江軍とは別に掛入石仲中山口へ侵攻して
いた別働隊4千も僅か500ばかりの兵に散々に蹴散らされ多くの将兵が死傷した。
戦況は最上軍有利で進んだが、上杉景勝に呼応して小野寺義道までもが最上領へ
侵攻してきた。

兼続は畑谷城を落としたあと長谷堂城近くの菅沢山に陣を取る。そして、その大
軍で今度は長谷堂城を包囲したのである。このとき最上軍1000上杉軍1万8000人。
兼続は即座に力攻めを敢行するが、最上軍は良く守りそれどころか、200名の決
死隊を率いて上杉軍を夜襲する。上杉軍は大混乱になり本陣近くまで攻められ25
0人ほどの首を取られてしまった。翌日兼続はさらに城を激しく攻め立てたが、
鉄砲の一斉射撃を喰らうなど散々に翻弄され、業を煮やした兼続は敵を挑発する
も、長谷堂城を守る最上軍からは逆に『笑止』という返礼を貰い、諸将の上泉泰
綱まで討ち取られる失態であった。

関ヶ原では東軍が勝利し、伊達の援軍も布陣するに居たり遂に上杉軍は総撤退を
開始する。兼続は撤退戦に措いてよく此れを凌ぎ、整然と撤退したと言われてい
るが、同年代を生きた上杉家臣たちの書き残した物を編集した「上杉将士書上」
によれば、兼続は自決を覚悟し家来から『言語道断。左程の心弱くて、大将のな
す事とてなし。心せはしき人かな。少し待、我手に御任せ候へ』と言われ、その
家臣たちが少数で奮戦し敵を追い払ったとある。最上からは「直江は近習三百騎
ばかりにて少も崩れず」と称賛されたがそのような経過では、雅に『笑止』であ
った。

兼続の死後、養子先であった直江は御家断絶に成りその人と成りを示すと言われ
る戒名は「達三全智居士」と言う長年、上杉家の執政を担当した者の戒名に相応
しく無い名が付けられ(百回忌に「英貔院殿」を贈られる)、菩提寺は取り壊さ
れ、法要は藩では執り行われる事は無く、直江の家臣団だけで行なわれたとの事
164人間七七四年:2007/04/28(土) 18:19:51 ID:twMUhuRP
>>162
今頃返答が帰って着たか。
お前調べもせずに兼続を『正に戦の神』とかほざくな、雅に『笑止』だよ
165人間七七四年:2007/04/28(土) 18:29:58 ID:wQcHdfCU
せっかく>>159で面白い着眼点を出してるんだからいい流れにしようや。
荒らしは無視しなさい。

秀吉による羽柴賜姓と豊臣賜姓には大きな違いがあるのだし。
166人間七七四年:2007/04/28(土) 18:41:38 ID:lWNXxGCg
>>164
てるもと 爆笑〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
167人間七七四年:2007/04/28(土) 18:45:25 ID:lWNXxGCg
>>159
隆景は馬鹿の跡取りを時期当主に据えた結果、
小早川家は無残に改易取り潰しで地上から消えうせましたとさ をしまい w
168人間七七四年:2007/04/28(土) 19:05:30 ID:Llqrb6fq
隆景が継いだ時点で桓武平氏の正統小早川家は断絶してるわけだが
169人間七七四年:2007/04/28(土) 19:08:01 ID:B3rUOxsZ
>>167
釣りか?
秀秋は秀吉の甥で秀吉のごり押しで跡取りとして養子になったのであり、
秀秋が家督を継いだ以降毛利と小早川は無関係だが?
170仙台藩百姓:2007/04/28(土) 19:10:49 ID:CYmNBDUZ
毛利勝信、勝永親子はなかなかの名将だお( ^ω^)
171人間七七四年:2007/04/28(土) 19:11:04 ID:wQcHdfCU
今日から黄金週間だからな
172人間七七四年:2007/04/28(土) 19:13:36 ID:lf+TdMoQ
そもそもID=lWNXxGCgは何でキレてるんだ?
別に直江を酷く叩いたレスは無いと思うんだが
173人間七七四年:2007/04/28(土) 19:34:36 ID:twMUhuRP
>>172
そっそうだよな?俺も遂いらない事を書いたが、これ殆んどコピペなんだぜ?
直江を酷く叩くっていうかウィキなんかで語られてる事をピックアップしただけ
、事実に目を向けない奴等が多すぎるんだよ。

あと輝元とかはスパーお坊ちゃまだぜ?この位のお坊ちゃまになると、軽々しく
戦争なんて行かないんだよ。百姓や人質の子供時代を送った貧乏人と同列に扱う
なよ。

それに毛利家の御当主が前線に出るなんて下の下なんだよ。元就見てみろ、尼子
に大軍で攻められた時、最後の決戦で家臣が鎧を着るよう勧めたら、『こんな寒
い時に鎧着たら風邪引くし嫌だ』とかもうね、後の創作としても当主にはこのく
らいの余裕が欲しいって事なんだよ。尼子は雪の降り積る山の頂上で補給路も絶
たれガタガタ震えてる姿が想像できて滑稽だろ?
174人間七七四年:2007/04/28(土) 19:38:07 ID:hnOf6xW2
直江兼続が大河に決まったから調子乗っている直江厨の仕業。。。と思わせたい人
175人間七七四年:2007/04/28(土) 19:40:20 ID:jIdm3KZ5
元就が尼子を族滅しなかったのはなぜだ?
彼の性格からすれば不安要素は根こそぎ摘み取ってしまいそうだが
176人間七七四年:2007/04/28(土) 20:45:18 ID:bLyJSGpz
やけに伸びてると思ったら大河厨が暴れてるだけか
177人間七七四年:2007/04/28(土) 21:30:29 ID:lWNXxGCg
>>169
釣りか?
秀秋は秀吉の甥で秀吉のごり押しで毛利家にねじ込もうとしたのを
隆景が本家を守るべく自ら秀吉に養子縁組を乞うたんだが
隆景の後継者・小早川家と毛利家が無関係???   ヴぁか降臨あげ wwwwwwwwwwwww
178奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/04/28(土) 23:13:00 ID:f+iByvRY
そろそろやめれ。流れ見ててつまらんし芸がない。
179169:2007/04/29(日) 00:13:52 ID:32mpRs1x
>>177
めんどくさいから毛利本家云々のくだりを省略したのだが、
そこまで分かっているなら隆景が家督を譲り渡したとき
毛利累代の家臣を引き連れて毛利に戻り、
小早川と毛利の縁が切れていることも分かって書いているはずだよな。
やっぱり釣りか。

あ、そうか、WIKIあたりで慌てて調べて書き込んでいるのか。
180人間七七四年:2007/04/29(日) 02:04:54 ID:L3uabL4R
つまり秀秋はハブられたってことか…
関ヶ原でも全く別行動だもんな
181人間七七四年:2007/04/29(日) 03:09:28 ID:VymbvXvn
しかし結果的に両川が同じ道を選択した事は何か因果を感じますな。
182人間七七四年:2007/04/29(日) 08:30:58 ID:1YwcmLVp
小早川秀包が元の毛利に名乗りを戻したのはなぜ?
小早川が明治に再興されたが、この人の子孫ではなかった木が・・・
183人間七七四年:2007/04/29(日) 08:57:49 ID:ZMYydlmC
宍戸開だろ
184人間七七四年 :2007/04/29(日) 09:49:00 ID:UK9Ac6bh
>>174
そう
どこのスレにもこういうカキコをする奴いるだろ
自作自演でファンとアンチを演じてる馬鹿が
その罠にまんまと引っ掛かってる奴も奴だ
んな初歩的な煽りに引っ掛かんな、と
武田スレみたいになりたいのなら相手にすればいいが俺は反対だ
185人間七七四年:2007/04/29(日) 10:41:09 ID:SmK/vgHm
>>182
小早川家の養子じゃなくなって毛利家に戻ったから
186人間七七四年:2007/04/29(日) 10:51:16 ID:1YwcmLVp
教えてくれて感謝です
187人間七七四年:2007/04/29(日) 12:51:19 ID:BHG0rc6X
>>182
他に養子に行った元就の子孫も吉川以外は毛利に戻ったわけで
188人間七七四年:2007/04/29(日) 17:54:56 ID:VymbvXvn
>>187
そうなると今度は、何故吉川は吉川のままだったのかが気になりますな。
189人間七七四年:2007/04/29(日) 18:08:10 ID:uXX7VljA
そりゃ関が原の恨みで、
「支藩にしてたまるか、毛利を名乗らせてたまるか」
ってことじゃない?
190人間七七四年:2007/04/29(日) 18:49:57 ID:Osdunl71
>>149
期待してっつーか養子に入る前に元服しただけ。
191人間七七四年:2007/04/29(日) 23:55:05 ID:SPbBoqxp
>>153
http://mma.client.jp/mouri_akihiko.html

山口に毛利道場開いたり精力的な活動してる
今はUWAI STATIONでプロレスのレギュラー参戦中
192人間七七四年:2007/05/10(木) 13:54:54 ID:lHdP/mI2
193人間七七四年:2007/05/10(木) 14:00:50 ID:MLGpDJnq
ああ、それ釣りブログだから
194人間七七四年:2007/05/10(木) 23:20:28 ID:nw5SVs3g
>>192
そこ真面目に考えてもふざけて考えてもよく潰れねーな
195奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/05/10(木) 23:22:56 ID:l/oQyDrS
釣りだな。紛れもなく。
196人間七七四年:2007/05/11(金) 00:48:12 ID:FE/Lebce
197人間七七四年:2007/05/11(金) 05:36:36 ID:yFF4TsOe
毛利元就ブログ
ttp://erai.jugem.jp/?cid=21
198人間七七四年:2007/05/14(月) 00:48:13 ID:DcQApAF7
輝元みたいなぼっちゃまと比較対象に持ってくる理由はわからんが。
井伊みたいな徳川とはいえ只の家臣とか、人生はドラマチックだがこれまた
大名と比べる意味がわからない立花とか(最後は大名だけどもさ)。
どっちも批判する気もないが、比較するのが変だしなぁ。

ただ単に、大河決まって有頂天の加熱具厨だっただけか。
199人間七七四年:2007/05/14(月) 12:24:20 ID:0bcMNkTi
もう触れるな
ダシに使われた立花と井伊はお気の毒だがスルーしておこうよ
200人間七七四年:2007/05/15(火) 03:36:00 ID:M0sAgTkp
吉川広家の世間的な評価ってどうなの?
201人間七七四年:2007/05/15(火) 03:54:16 ID:EcUusdnZ
やったこと自体は正しいが、独断で勝手に行動する
ホウレンソウの出来ない越権行為野郎
202人間七七四年:2007/05/15(火) 12:00:04 ID:Kh2dxAt8
輝元には舎弟もいないし小早川は分家しちゃったしで
自分が毛利の副将だと思ってたんじゃないのかな>広家
203人間七七四年:2007/05/15(火) 17:05:42 ID:R4AgB/lN
>>200
>>201みたいにボロクソに言われてる事が多いと思う

自分は風雲児たちを読んでからは結構好きになったけど
204人間七七四年:2007/05/15(火) 17:15:17 ID:cwRA2tQ/
関ヶ原。

南宮山から、広家が東軍へ向けて動いたらどうなってたんだろうな。
広家が動けば、秀元や盛親、恵瓊とかも動くよね。
205人間七七四年:2007/05/15(火) 21:42:34 ID:FoDehlq8
>>204
最初から内応してたから、仮想としてもありえない。

そもそも南宮山はかなりの高地で、関ヶ原の様子がよく見えないw
206人間七七四年:2007/05/16(水) 03:08:25 ID:7F2Kfz+E
中立もしくは東軍に参加していれば安泰だったとも言えないし、
(毛利が西軍として参陣しなければ関ヶ原での決戦自体が無いだろうけど)
不戦敗で減封という結果で良かったんか。
207人間七七四年:2007/05/16(水) 12:52:58 ID:UlHlO1D1
そういや、昔アートディンクから出てた関ヶ原ってゲームを第1部からやって
毛利秀元を参戦させ松尾山付近に布陣させたら、小早川秀秋と並んで布陣してた。
両部隊合わせて約3万は凄かった(w

この2隊の左前方に大谷形部隊。
で、小西&宇喜田の間に長曾我部盛親隊が布陣し、その後方に島津義弘隊と立花宗成が布陣。

これは強かった。
西軍は全隊無事帰還で、東軍は3日目に現れた徳川秀忠隊を含めて全滅(w
ちなみに3日目には、毛利輝元隊が援軍で到着。
これにて、西軍は万全の状態。

特に初戦の毛利秀元、小早川秀秋隊の突撃で東軍右翼の諸隊が壊滅したのが良かった。
右翼に穴が空いたので、そのままの勢いで中央部に突撃したら宇喜田、小西隊と挟み撃ちに出来たからね。

いやー、毛利強いわ。



ゲームだけどね(w
208人間七七四年:2007/05/16(水) 23:07:43 ID:M2cbMAYZ
元就が死んだ後の毛利って強かったのか?弱かったのか?

秀吉相手に苦戦したことしか知らないが、それ以外の戦いではどうだったんだろう?
209人間七七四年:2007/05/17(木) 12:09:50 ID:4Oo85hSA
碧蹄館の戦いとか好きだ
210人間七七四年:2007/05/17(木) 20:13:48 ID:sHjZ3Ayr
>>209
もっと知名度があっても良い戦いだよね。
211208:2007/05/18(金) 00:56:12 ID:xsBxg0W8
朝鮮出兵の時は島津とか加藤とか活躍している大名沢山いるし、
日本の武士が朝鮮・明より強かったって事じゃない?

で、日本の中ではどうだったの?
212人間七七四年:2007/06/05(火) 04:53:27 ID:OPkPzHer
吉川元春が駿河守になったのは吉川氏が元々駿河国を領していたのも関係あるのですか?
213人間七七四年:2007/06/24(日) 12:37:25 ID:dFwGXTbf
輝元は部下を捨て駒にする愚将。
人の上に立つ器ではなかった。

214人間七七四年:2007/06/24(日) 13:53:40 ID:WGvbPVCa
輝元は毛利の恥だな。
215人間七七四年:2007/06/24(日) 16:22:40 ID:UlX8rm+R
輝元はオロオロしてばっかの無能ピザとして描かれる事が多いしNE
216人間七七四年:2007/06/25(月) 14:52:37 ID:xhLFibke
関が原だって西軍が敗北したのも輝元のヘタレの所為。
217人間七七四年:2007/06/27(水) 11:10:46 ID:FU6hk02e
輝元は広家の操り人形
また広家は毛利領安堵の密約を家康と一切せず、黒田長政のみとやって
毛利領を大幅に減らした愚将
218人間七七四年:2007/06/28(木) 17:22:49 ID:h1YOOqQ0
石見銀山が世界遺産に登録されたか
関連としては厳島に続き二つ目か
219人間七七四年:2007/06/28(木) 20:28:22 ID:wHCSfi4F
大内家が開拓した銀山おめ! さすが大内家すばらしい
尼子毛利豊臣徳川はそれを奪った泥棒
220人間七七四年:2007/06/30(土) 11:18:30 ID:tn0/L4yW
大内は何もしていない。
開拓したのは博多商人の神屋氏
221人間七七四年:2007/06/30(土) 13:27:43 ID:jHyAhtto
掘ったのは土工
ゆえに毛利をはじめとする全ての大名は搾取人
世界遺産キャチチフレースは、「土工ゆかりの石見銀山」の看板よろ。
222人間七七四年:2007/06/30(土) 15:29:57 ID:XaA3Oscq
>>219
百済王の子孫がホルホルってのが湧いてくるぞ。
223人間七七四年:2007/07/02(月) 01:51:43 ID:AHoqveSX
>>221
海上から山の形を見ただけで銀脈が有る事を悟り、
銀山開拓に資力を投じた神屋ジュテイ(字を忘れた)
をお忘れなく。
224人間七七四年:2007/07/11(水) 19:22:24 ID:nVJ7AJmi
毛利の両川って微妙に評価低くない?
225人間七七四年:2007/07/11(水) 20:22:59 ID:JvukMoRj
秀元の評価低杉。
226人間七七四年:2007/07/11(水) 20:40:13 ID:YbrTWyLg
>>225
穂井田のどこが"川"なんだ???
227人間七七四年:2007/07/12(木) 00:15:49 ID:kWuqxgPF
【格闘技】戦国武将の毛利元就の末裔である毛利昭彦選手がHERO’S参戦へ
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1184135352/
228人間七七四年:2007/07/13(金) 03:22:35 ID:DaOiHEBE





俳優の吉川銀二を恐喝で逮捕 羽賀研二との“共犯容疑”

 タレント・羽賀研二容疑者(45)らによる恐喝事件で、
大阪府警は10日、恐喝容疑で新たに、
羽賀容疑者の知人の俳優吉川銀二容疑者(42)を逮捕した。

サンスポ:http://www.sanspo.com/sokuho/070710/sokuho056.html

(関連スレ)
【芸能】“羽賀恐喝”にVシネマ俳優の吉川銀二が同席していたことが、被害者男性の証言で明らかに
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1183498167/









229人間七七四年:2007/08/11(土) 16:00:26 ID:Fu646P8L
>>225
元春はどうでも隆景は高いっしょ
230人間七七四年:2007/08/28(火) 20:42:41 ID:2V6i/MXt
輝元はダメ武将の見本です
231人間七七四年:2007/08/29(水) 12:17:54 ID:p50gsSig
wikipediaみたら輝元酷評されててワロタ
232人間七七四年:2007/09/03(月) 13:00:22 ID:tv+Ikwxu
輝元よりも、ケンカ沙汰や情緒不安定で改易されかかった吉川広家の方がボンクラ。
233人間七七四年:2007/09/06(木) 23:14:33 ID:o8t32LmE
俺も輝元クズだと思う
元就は凄いけど
234宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c :2007/09/07(金) 00:26:34 ID:f6ZCRCof
一族なら相合元綱もいる…
235人間七七四年:2007/09/07(金) 02:13:54 ID:1cvXMmDa
弟さんですね。
236人間七七四年:2007/09/07(金) 18:12:08 ID:ZPTgEuvT
軍神      毛利元就

名将      毛利隆元、吉川元春、小早川隆景

知将or猛将  毛利元清、毛利秀元、毛利元包、吉川元長

凡将      毛利輝元、吉川広家

痴将

愚将


痴将、愚将はなし。
さすがは毛利家!
237人間七七四年:2007/09/07(金) 19:25:40 ID:3OPcIjYd
徳富蘇峰は「近世日本国民史」で関ヶ原後に、家康の策謀で大阪城を
あっさり退去して剃髪して家康に頭を下げた毛利輝元の情けなさを
「痴人の殿堂」と酷評している。
238人間七七四年:2007/09/07(金) 21:18:38 ID:bVSRXOts
>>237
蘇峰の時代は反徳川史観だからな。
239人間七七四年:2007/09/10(月) 20:53:38 ID:56dW1CJS
反徳川でなくても痴将っぷりは笑えるけどな
240人間七七四年:2007/09/17(月) 20:48:38 ID:VsFAZTao
>>236
毛利秀元、関が原時の年齢が30を超えていれば確実に名将レベルの器だったろうに
吉川広家を怒鳴りつけてでも参戦できたろうに
241人間七七四年:2007/09/17(月) 22:28:17 ID:lx1r5s2J
毛利と島津ってちょっと幕府に冷たくされたからって
戊辰戦争や西南戦争を起こすなんて非人道的な連中だよな
242人間七七四年:2007/09/18(火) 17:02:40 ID:xmktMwn0
吉川広家を叩きにきますた(´・ω・`)
243人間七七四年:2007/09/22(土) 10:16:10 ID:mXU6FnSN
>>240
まぁ、年をとったくらいじゃ無理だったろうな。
ifだから妄想できる事だな。
244人間七七四年:2007/09/23(日) 02:00:12 ID:97KNhuhj
元就が生きていれば・・・
大返しが無かったな。
245人間七七四年:2007/09/23(日) 19:11:51 ID:GLC3L4Te
さらに長生きしていたらしたで、状況がすべて変わるだろうから意味ナス
246人間七七四年:2007/09/23(日) 22:41:06 ID:1Z/EDqXq
不戦の代わりに所領安堵するの密約を反故にされ、戦わずして領土を没収され、広島を追われ、山陰の一隅萩に本拠を置いた。
247人間七七四年:2007/09/24(月) 00:16:10 ID:OwC7rjQm
>>246
そして200数十年、回天の大業を成すに至るのであった。
248人間七七四年:2007/09/24(月) 23:51:01 ID:vLlOWxht
>>243
両川>>娘婿>>>>>虫 だったからな。
249人間七七四年:2007/09/25(火) 19:24:20 ID:fIaBqPpp
>244
おお返しが必要な状況(つまりそこまで軍事戦略レベルで押し込まれる)
自体を政治戦略レベルで避けてしまう(調略しまくリングで東上していく
のか、織田家と何らかの妥協をするかは神のみぞしるだが)のがオチだろ。
250人間七七四年:2007/09/25(火) 21:04:32 ID:QT+Wy42y
元就が生きてたら本能寺の時点で85歳だぞw
いくらなんでもそんな歳で戦場にいけるかよ。
251人間七七四年:2007/09/25(火) 23:58:42 ID:m08yNACF
ちょうど近場に90過ぎて戦に出て御家再興を果たした龍造寺家兼が居ることだし元就も判らんゾ。
252人間七七四年:2007/09/26(水) 03:38:56 ID:AAbaPnX/
元就は巨体だしな。
253人間七七四年:2007/09/26(水) 18:36:44 ID:TlENg4ML
70で子供作るんだから大丈夫だろう
254人間七七四年:2007/09/27(木) 06:16:33 ID:UGNm7pEF
吉川広家の項目なんだけど
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%BA%83%E5%AE%B6&diff=15076271&oldid=13245483
この氏名不詳者という編集者の偏向は酷すぎるんじやないの?
255人間七七四年:2007/09/27(木) 06:29:00 ID:7uNYg4az
>>254
偏向しているのが自分でもわかっているから氏名不詳者なんだろう。
256人間七七四年:2007/09/27(木) 18:37:58 ID:rzjnEyqa
毛利秀元って関が原の後は親徳川派になったり、
輝元の息子の秀就の後見になったのに秀就とものすごい仲悪かったり、
よりにもよって広家の吉川家と一緒になって毛利家からの独立をしようたとしたんだってな。
257人間七七四年:2007/09/30(日) 15:12:29 ID:+BGkHRsJ
efheetgehjn





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dfmfmhdm




jkrjrjry




fdhdfhdf





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258人間七七四年:2007/10/20(土) 16:49:14 ID:SB1I7Ug0
>>256
広家って先を読む目がないよね。
259人間七七四年:2007/11/02(金) 21:13:44 ID:CMDDYHNJ
関ヶ原後の論功行賞を考えれば
毛利の大領はタダじゃすまないと思うのだが・・・
260人間七七四年:2007/11/02(金) 21:15:33 ID:/VOrDX3P
関ヶ原の時毛利にとって一番良かったのは、三成一派を止める事、だったな。
261人間七七四年:2007/11/03(土) 01:08:08 ID:qPG4mCDW
いや、巨体親父+三姉妹で日本を席巻すべき。
262人間七七四年:2007/11/03(土) 23:11:18 ID:fhdA+i62
>>260
むしろ三成を応援してるからなw
263人間七七四年:2007/11/04(日) 00:26:03 ID:nMDm627g
知識がほとんど無い俺的には
毛利=「乱」
「乱」で三本の矢をへし折ったのは誰だたけ?
264人間七七四年:2007/11/04(日) 00:35:30 ID:Pz5sX3V2
>>263
三男の三郎。
265人間七七四年:2007/11/04(日) 08:44:12 ID:5s5zHwSE
歌手でも女優でも別に気にもとめないが
小柳ルミ子が唄う『乱』はいろんな意味で最強
266人間七七四年:2007/11/10(土) 22:22:54 ID:BqZSOeRj
267人間七七四年:2007/12/01(土) 16:36:34 ID:2OG970kF
>>256
秀元は、茶の湯や和歌を好んだ温和な人物というイメージがあるけどね
268人間七七四年:2007/12/01(土) 16:44:39 ID:+yaGTDND
>>267
実際は剛胆な面も持っていたらしいからな。
天野元政の書状にある、黒田長政の手を・・・という話もあるし、
関ヶ原まで来てしまった以上秀元自身はやる気だったみたいだし。
結局、不完全燃焼みたいな形でまともに戦わなかった挙げ句、
防長2州に押し込められたっていう思いがあったのかも知れない。
269人間七七四年:2007/12/01(土) 23:42:28 ID:1FTWn4rW
関ヶ原でもそれなりにやる気があったような・・・
270人間七七四年:2007/12/03(月) 15:00:45 ID:QoQrbdnB
元就亡き後の毛利家って没落政権を常に抱え込んでないか?
子の時代の足利といい、孫の時代の豊臣といい
先見の明がなかったんじゃ…
その割りにお家断絶だけは回避してるから
ある意味最強の運の持ち主だな
271人間七七四年:2007/12/15(土) 09:57:05 ID:GMYgvqCO
山陰山陽に覇を唱える大大名だったからこそ、没落政権に頼られたというのもあるだろう
確かに運が悪ければ高松攻めや関ヶ原で負けて滅んでいたかも知れんけど
272人間七七四年:2008/01/08(火) 17:48:53 ID:1+IkUFas
頼られるのはいいとして
そのあと今一歩踏み出せないのが毛利らしい。
遺訓のお陰か。
273人間七七四年:2008/01/09(水) 11:46:58 ID:V/VGPsZY
でも毛利のそんなところが好きだ
274人間七七四年:2008/01/09(水) 14:03:08 ID:ivPwpgmg
俺も結構好きだな。
275人間七七四年:2008/01/12(土) 13:29:41 ID:JFiD0jfE
そうだね
276人間七七四年:2008/01/18(金) 05:32:52 ID:8YKPP5e9
元就甥の敷名元範の子孫は居るの?
いるとしたら一応毛利一門に連なる庶家のはずだけど
江戸時代はどんなポジションだったのか知ってる人はいるかな?
277人間七七四年:2008/01/30(水) 19:01:45 ID:FaV8WwUk
>>258
むしろ、益田・福原・宍戸あたりが広家に入れ知恵したらしいが。
278人間七七四年:2008/02/01(金) 00:48:59 ID:cSiCPH7M
>>277
詳しく
279人間七七四年:2008/02/04(月) 20:49:40 ID:mQnz2biz
慶長5年7月14日に吉川広家が安国寺から輝元総大将擁立案を聞いて口論となり、それを知った益田元祥・福原広俊らが7月15日に会談して、輝元は無関係である事を徳川方に知らせようと談合して広家に話を持ちかけたのが発端。
重臣グループは元々安国寺と秀元が独立大名になったのは気に食わなかった。
280人間七七四年:2008/02/05(火) 08:46:36 ID:wucEv/Zq
わかりやすい解説d
入れ知恵した張本人のわりには戦後も重用されてるんだな益田元祥
281人間七七四年:2008/02/11(月) 02:19:15 ID:Rr13ha1W
>>280
戦後、福原広俊が発言力が強すぎて他の重臣から浮き上がった。
そこへ秀元が吉見らと結んで執政に就いた。当然、福原は吉川広家と組む。
282人間七七四年:2008/02/18(月) 20:14:03 ID:7ACfpxeD
輝元の情勢の読めなさ、判断の遅さを示す例

輝元の秀吉への臣従の為の上洛上阪は、なんと家康よりも後。
例の北条氏規の上洛の直前くらい。
283人間七七四年:2008/02/18(月) 22:23:14 ID:7YjtIFuI
>>282
輝元の上洛に関する本が出てるね。
ttp://item.rakuten.co.jp/book/5378129/
284人間七七四年:2008/02/19(火) 12:58:45 ID:8Rx9aYGR
>283
それでもちゃんと豊臣政権下ではちゃんと五大老まで行ってるんだから、
判断にまずいところがあったとも思えないな

 もっともその判断をしてたのは隆景だったんじゃないかという気もするが…
285人間七七四年:2008/02/20(水) 20:06:02 ID:ZC3Oywb8
>>282
秀吉と敵対した家康と味方として四国征伐や九州征伐に
協力した輝元のどこが情勢を読めないといえるのか
上洛が遅れたのも四国征伐や九州征伐による
領国が疲弊したのまとめたあとで上洛しようとしたんじゃないのか
そしてそれを秀吉が許したからお咎めもなかったんじゃないの
286人間七七四年:2008/02/25(月) 00:44:21 ID:DmTeHATV
そもそも九州平定の時に秀吉が広島城に入っているだろう。
287人間七七四年:2008/02/25(月) 01:57:51 ID:+bptbaCc
しかし九州征伐の時、秀吉は輝元には会っていない。
288人間七七四年:2008/03/01(土) 13:31:06 ID:qXYto/ro
陰険なイメージが大
289人間七七四年:2008/03/03(月) 01:11:18 ID:DA9LtmpP
>>287
秀元が秀吉より毛利家後継者として認められたのはいつだっけ?
290人間七七四年:2008/03/18(火) 16:20:56 ID:65Sge4IL
秀吉は秀元に広島城であってるのかな、
291人間七七四年:2008/03/19(水) 10:12:08 ID:V7D/EpRQ
天下が目の前にあったのに
292人間七七四年:2008/03/30(日) 03:45:50 ID:CvwW7S4a
まず、「誰でも天下の覇者になりたかった」という概念を疑うことから始めようや。
国会議員が全員総理大臣になりたい訳じゃ無い。
293人間七七四年:2008/04/05(土) 12:35:30 ID:okTo3zMH
吉川元春さんと黒田如水が親友だったって
書いてあるサイトなんか結構あるけど

世話してもらった、程度だよね?
資料あったら着ボンヌ
294人間七七四年:2008/04/05(土) 21:44:26 ID:Rqo14533
むしろ如水は隆景と仲が良さそうだけどな
如水の即決をたしなめる話とか広島城の話とかこっちは結構エピソードあるし
295人間七七四年:2008/04/24(木) 15:07:23 ID:MHujh4M0
>>292 元就の遺訓の影響だね。
296人間七七四年:2008/04/24(木) 18:12:01 ID:RdbPNvb0
ま現代で言えば憲法9条みたいなもんだよ。
297人間七七四年:2008/05/04(日) 18:36:25 ID:2DCHIA6q
毛利隆元って能力的にはどうだったの??


298人間七七四年:2008/05/04(日) 18:51:21 ID:ThFDlmgR
中の下くらいかな
299人間七七四年:2008/05/05(月) 15:02:50 ID:dBYs82a4
鎌倉末期から南北朝時代毛利は何してたの。よくわからんのだけど
300人間七七四年:2008/05/16(金) 00:03:53 ID:QbbbBxAi
寒河江が幕府方で自害者あり。長井は本家は討幕、福原は幕府方。
小早川は六波羅軍、吉川は討幕て言うのは確実だけ毛利系統はよくわからんのだよな。
尊氏の下に息子出したという話もありゃ、幕府方について安芸に逃げた系統が毛利で残ったのが北条って本もあったし。
実際のところ長崎氏の近親という立場と年齢から、何もしてなかったんじゃね。
301人間七七四年:2008/05/28(水) 11:26:43 ID:f5Z60PB2
毛利隆元は元就に似て無能
糞元就よりはましだけどwww
302人間七七四年:2008/06/13(金) 14:12:19 ID:AZKghEOC
そもそも宝治合戦の時長井泰秀が懸命に庇ってくれなければ、経光は佐橋荘と安芸吉田荘を安堵されなかっただろう
303人間七七四年:2008/06/27(金) 14:26:23 ID:6ym4BiaB
そこで滅んでいた可能性もあるんだね。
304人間七七四年:2008/06/28(土) 21:13:33 ID:oTF1nGhv
結論:何もしてなかった



ワロスもるりワロス
305人間七七四年:2008/07/12(土) 14:02:06 ID:rNzPuzV9
弘元が細川方(?)についたってどういうこと?
306人間七七四年:2008/07/28(月) 16:16:11 ID:qBCakaSw
安芸守護は細川?山名じゃなかったっけ?
307人間七七四年:2008/07/28(月) 19:28:32 ID:alSqXcqr
豊元の代で山名から離反
山名が没落した安芸の国人には細川の手が伸びてて、その代表が竹原小早川
当然、細川の宿敵の大内も安芸に干渉してくる

弘元は名前をみればわかるように大内派だったが、
幕府=細川の大内追討令を受けて、家督を子の興元に譲って隠居
だから表向きは興元が大内派で弘元は細川派ということになる


だったかな
308人間七七四年:2008/08/11(月) 15:26:51 ID:cnnjRMCM
>>307
なるほど 山名細川大内が絡んで結構複雑なんですね。
309人間七七四年:2008/08/28(木) 14:50:32 ID:z4oBdoTq
大勢力の動向には左右されたでしょう
310人間七七四年:2008/09/11(木) 00:29:00 ID:qwcl/Om8
安芸は将軍親衛隊である、奉公衆の領地がやたら多くて、ここは守護不入の権利があったので、
守護大名には支配しづらかったらしいね。
311人間七七四年:2008/09/27(土) 14:51:04 ID:SRg6aMm4
奉公衆 具体的にはどこら?
312人間七七四年:2008/10/11(土) 14:04:16 ID:NGmbrce9
毛利も奉公衆かな?
313人間七七四年:2008/10/17(金) 17:50:31 ID:4C0LBCCN
安芸武田からして将軍と近い勢力だし
314人間七七四年:2008/10/31(金) 15:12:25 ID:Lp2fyeKd
それはそうだね
315人間七七四年:2008/11/01(土) 19:33:00 ID:8otsF4EK
つーか、毛利も小早川も吉川も奉公衆じゃん。あの辺の国人の多くは
奉公衆になって将軍と直結する事で、守護大名の支配を逃れたのが多かった。
316人間七七四年:2008/11/15(土) 14:30:29 ID:WAyMHlWn
>守護大名の支配を逃れたのが多かった
安芸は特にだね。
317人間七七四年:2008/11/16(日) 03:26:23 ID:eVbAQ5Jg
>>316
それこそが安芸国人一揆と言う、特異な組織を産む土壌になった。
318人間七七四年:2009/01/18(日) 09:51:56 ID:COX+uEYh
吉川浩司が有名になったからいいんちゃう?
319人間七七四年:2009/01/25(日) 01:16:24 ID:/lpm9XG3
関が原の真実は毛利が応仁の乱の時の細川のような立場で戦局をみながら
自派に優位な交渉を進めるはずが前線の思わぬ大敗で山名に屈服させられた
秀頼を擁していたのだから毛利軍が正規軍で徳川軍が反乱軍
320人間七七四年:2009/01/25(日) 01:17:28 ID:z8hGLN95
日本語で(ry
321人間七七四年:2009/01/25(日) 01:23:42 ID:/lpm9XG3
関が原で毛利はやる気があったんだよ。毛利執権体制を築くつもりだったんだよ
最後の所で吉川が西軍を見限りすぎて大敗しちゃったけど
総大将が敵と通じるのは常識だし
322人間七七四年:2009/01/25(日) 01:27:36 ID:/lpm9XG3
>>284
そこまで判断がまずければ秀吉が五大老には任命しないだろう
輝元も一国を保つ力量は十分持っていた。ただ天下を動かすとなると
疑問符がつく器だったのかな
323人間七七四年:2009/01/25(日) 07:17:37 ID:wqTGdE4b
宍戸隆家て毛利一門扱いだよね?
324人間七七四年:2009/01/25(日) 10:11:47 ID:hmKfytxC
>>323
嫁と息子以降は一門、本人は一門扱い
325人間七七四年:2009/02/06(金) 07:17:21 ID:viTFKSjk
yahoo戦国武将人気投票
http://weekly.yahoo.co.jp/97/busho/index.html
326人間七七四年:2009/02/26(木) 18:33:23 ID:Guv00nh7
毛利氏展が開幕 県立歴博

 中国地方を治めた毛利家を中心に戦国時代の歴史を伝える企画展
「毛利氏VS(と)天下人―瀬戸内の戦乱、そして平和」が20日、
福山市西町の広島県立歴史博物館で始まった。3月29日まで。

 国重要文化財を含む古文書や絵巻、着物など約80点を紹介。織田信長、豊臣秀吉、
徳川家康らとのかかわり、攻防などをたどる。天正 19(1591)年3月、
秀吉が毛利輝元にあてた書状は安芸、備後、周防など9国の支配を認める内容。
大阪夏の陣図屏風(びょうぶ)は、戦の残虐さを伝える。

 21日午後2時から三重大の藤田達生教授が「足利義昭の鞆幕府と毛利氏」と題して講演する。
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200902200219.html
327人間七七四年:2009/04/12(日) 00:39:07 ID:I/wOuzxD
有能な兄弟が奥手うらやましいね
328人間七七四年:2009/04/16(木) 01:16:44 ID:tcW89AhH
オクテな元春と隆景ってどういうことよ
329人間七七四年:2009/05/06(水) 14:37:16 ID:AUniINYE
保守
330人間七七四年:2009/05/28(木) 08:07:56 ID:Mwxp2QvO
杉原就良という人物についてわかる事があれば教えて下さい。
1584年に小早川隆景らと共に河野氏の援軍として赴いて長宗我部軍の砦を落としたことくらいしか
現状、わかりません。
吉川氏に属した杉原盛重とは血縁関係とかあるんでしょうか?
331人間七七四年:2009/05/28(木) 10:13:48 ID:IdZdutjS
毛利両川は、ある意味元就の統治能力の無さを物語ってるね。
秀吉や家康にやられた分断工作はマジ後世の笑いものだったらしいね。
332人間七七四年:2009/05/28(木) 10:16:19 ID:Os9kUl13
実際仲悪かったしな 元就が三本のどうたら言い出したのも仲直りさせるためだったとか
333人間七七四年:2009/05/28(木) 16:04:38 ID:V8Ppa2wW
>>332は確かに訓戒状みたいなものがあったからわかるけど、
>>331みたいに元就と直接的接点のない秀吉家康を持ち出して
貶める意味が分からんね。
334人間七七四年:2009/05/29(金) 12:49:41 ID:Od8mg5fp
ほんとだよな
馬鹿は感覚だけで物をいうからタチが悪い
ほうっとけ
335人間七七四年:2009/05/29(金) 21:22:09 ID:smoytG0Y
あの時代本当に仲が悪かったらどっちかの血が流れるだろう
336人間七七四年:2009/06/10(水) 20:44:01 ID:dNdJYktz
>>330
もう見てないかもしれないけれど。

杉原一族で直良ー春良ー景良という系統があります。
「熊谷一族から出ている直良の母」が「河野氏に嫁いだ宍戸隆家の娘」の子の乳母になった関係で
春良は河野氏の家臣となり、河野氏滅亡後に毛利氏に復帰しています。
春良は元春の、景良は隆景の偏諱だと思われますから天正年間に就良という人物がいたなら
春良と同族で元就の偏諱を受けられるほどの人物と考えられそうです。
元資料がわからないのでなんともですが、春良か景良の誤記かもしれませんね。
337330:2009/07/18(土) 00:25:20 ID:x4Mv+Uoa
>>336
なるほど、参考になりました。わざわざ昔のレスに回答ありがとうございました。

ついでといっては何なのですが、

宍戸元真について
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1028298790
宍戸隆家の孫。1600年の関ヶ原に際して村上勢と伊予へ攻め込むも敗退、安芸へ逃げ帰る。
これ以外で何か生没年や前後の事績などわかる事ありますでしょうか?
338人間七七四年:2009/07/18(土) 23:11:33 ID:IX21PVBL
>>337
あ、水軍スレの方ですね。向こうで回答したものです。
>>336も私ですが、今見返すと乳母になったのは直良の妻、春良の母の間違いです。すみません。
どうもご質問を見てると私と興味がとてもかぶってるようです。

>>337の関ヶ原の伊予攻めですがこれにあたったのは元真の兄弟である宍戸景好と考えた方がよいと思いますし、
興味がおありなのはそちらかと思います。
あとややこしいのですがこの前後に毛利家には宍戸元真という武将が3人ほどいるようです…。
宍戸景好についてはいろいろ調べたのですが簡単に書くのは難しいです。
私も調べたことをまとめるつもりだったので、ブログにでも書くつもりです。
夏の間になんとかするつもりなので、気が向いた時に関係する人名などでググって探してみていただければ。
339人間七七四年:2009/07/29(水) 09:03:25 ID:e+ro7Fcb
>>338
だいぶ返事送れちゃいましたが、回答ありがとうございます。
了解です。ブログは非公開ですか?もし無理なら更新した時にでも教えて下さい。探してみますんで

>どうもご質問を見てると私と興味がとてもかぶってるようです。
最近、ちょっと小早川氏や村上水軍について調べているもので。
340人間七七四年:2009/08/24(月) 07:59:23 ID:MYEr+sO8
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090823/acd0908232029008-n1.htm
>新聞小説、堺屋太一が9月から連載 テーマは戦国の「三人の二代目」
>主人公は、激動の戦国時代を生きた毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家の二代目武将3人。
輝元が二代目???
341人間七七四年:2009/08/24(月) 08:46:40 ID:fyAKXlvM
隆元は元就より先に死んだし
342人間七七四年:2009/08/24(月) 09:13:39 ID:MYEr+sO8
元就は早々と隠居して隆元に家督を相続してるけど
343人間七七四年:2009/08/24(月) 12:15:34 ID:+z1eJOCS
よくはぶられるよね隆元は・・・
344人間七七四年:2009/08/24(月) 20:35:07 ID:vqMl9CAz
隆元の後に元就が再度継承して
その後を輝元が継承した系図をみたことがある
だからあながち間違いでもない
それにそういった継承の仕方をしたから
隆元の存在が忘れ去られたかもしれない
345人間七七四年:2009/08/26(水) 21:26:22 ID:8p0ADVHp
ちょっといい話スレのおかげで隆元同情票も増えてるから
がんばろうぜ長男
346人間七七四年:2009/08/26(水) 21:33:54 ID:oVkPo1hW
はぁ死んだから頑張れんよ

隆元
347人間七七四年:2009/11/01(日) 22:41:43 ID:yxm4qGwV
隆元は元就や隆景でも敵わないほどの政治的才覚があったんだよなぁ
もっと長く生きていれば…
348人間七七四年:2009/11/16(月) 01:42:32 ID:XCaYJ9Dz
>>340
340の小説読んでいるだが、少し気になることが
「上月城陥落後、毛利軍は織田追撃を企図したが、防長の市川経好が大友に寝返る動き
があって、取りやめた」とあるんだが、あれ内応しようとしたのは息子のみと言われているが
 作者の堺屋氏間違えたか?それとも市川一族全体が内応しようとしたと判断したのか?
 後者の見方を理由づける物証ってあるんですかね
349人間七七四年:2009/11/20(金) 01:59:12 ID:+36L3zy5
一族は名将ぞろいだけど、家臣団はどうだったの?
350人間七七四年:2009/11/20(金) 03:55:51 ID:1l2mm3HS
家臣団もそりゃあ粒ぞろいだった。だが関ヶ原の頃は、朝鮮陣のダメージからまだ抜け出せてないな。
部将クラスでも、主なのだけで戸崎彦右衛門尉、中屋善四郎、冷泉元満、阿曽沼元秀、都野家頼、乃美宗勝、
てなのが戦死、あるいは病死してる。
351人間七七四年:2009/11/20(金) 15:11:15 ID:QSgtME0O
>>350
   以前萩藩諸家系譜を読んで気づいたんだが、
 それ以外に口羽春良と熊谷信直の嫡男、福原元俊(貞俊の嫡男)と宿老クラスも同時期に他界している
 、関が原で毛利の定まらない去就は家臣団の切り替わりの影響も多分にあるだろうね。
352人間七七四年:2009/11/20(金) 22:15:15 ID:SyfgNhXV
どっちかというと輝元と秀元の暗闘の方がいろいろありそうですけど。
秀元領は最終的には長門あたりを中心に決着してますが秀吉の死を挟んだり家康の介入があったり、と大変だったようです。
そこに隆景遺臣の処遇問題とかも絡んでいたり。

光成(三成じゃないよ)論文を読むとそのあたりの論が面白いです。
>>350であげられている武将達の死も直接的な軍事力としてはマイナスでも
旧来の力が落ちて輝元中心の体制を実現するという意味ではプラスの面もあったのでは。

>>351
高直(信直嫡男)というより信直自身が亡くなってますからね。
信直爺ちゃんがあと10年頑張ってたらどうなったんでしょ(って生きてたら100歳近いけど)。
353人間七七四年:2009/11/21(土) 03:04:48 ID:+TAUvNFq
>>351
彼らだけじゃなくて福原貞俊・宍戸隆家・宍戸元秀・益田藤兼・穂井田元清・小早川隆景と
元就時代から活躍した武将たちや輝元と同年代の武将たちも結構死んでいる
後を継いだのは輝元より下の世代で意思の相通があまりできなかったんじゃないか
354人間七七四年:2009/11/23(月) 23:48:57 ID:XrO7d8VC
>>353
 そう考えると、毛利にとって秀吉の死去→関が原が家中的に最悪のタイミングだった。
もう五年早いか遅かったら、早ければ前述の宿老が健在(特に隆景)だから、史実通り東軍内通でも
きっちり家康の書状を要求していただろうし、遅いならなら秀元、広家の新両川中心の輝元専制体制で固まって
いただろうし、
355人間七七四年:2009/12/03(木) 12:36:31 ID:iaH+2zVD
ちょこっと口羽家の御当主が国営に出番
いいとこ住んでるなあ
356人間七七四年:2009/12/09(水) 00:35:54 ID:4EijMAFi
あげ

小早川隆景は秀秋を暗殺しようとは考えなかったのでしょうか?他家からの養子に跡を継がせるよりは、弟に任せた方が後々良さそうに思いますが。
357人間七七四年:2009/12/09(水) 00:43:49 ID:eQ2sMdsy
小早川秀包いるし
358人間七七四年:2009/12/09(水) 00:51:10 ID:4EijMAFi
>>357
秀包は廃嫡にして別家?を立てさせましたよね?
秀秋を暗殺して秀包に継がせた方が毛利家の利になったのではないか…、という意味です
359人間七七四年:2009/12/09(水) 16:53:31 ID:/ysNz8Vs
毛利家の利の為に秀秋を養子にせざるを得なかったわけで
360人間七七四年:2009/12/09(水) 19:27:01 ID:qQcHAu/b
もしも殺したのばれたら押尾の比じゃないくらいの問題になるよ
361人間七七四年:2009/12/12(土) 00:32:52 ID:NsfZUzTF
 晩年の太閤殿下は信長にひけをとらんサディストだったからなあ
362人間七七四年:2010/02/07(日) 00:22:13 ID:rSMeOOsf
毛利時親は鎌倉幕府滅亡時何してたの?
長崎円喜に反発しても中立はできんだろ。
倒幕?幕府方?
363人間七七四年:2010/02/12(金) 20:05:28 ID:eDYUrfHD
今日立ち読みした久留米藩史の本で、
小早川秀包の印章として載っていたものが「fida」と読めたんだけど
どこらへんからfidaになったんだろう…ヒデ=fidaなの?

立花宗茂が使ってたらしいローマ字印(飛騨守=fida)と間違ってたり…しないか
364人間七七四年:2010/06/22(火) 15:41:50 ID:eall8J8P
吉川経世ってなんだったんだ?
元就に興経を隠居させることを勧めたきり消えたけど…
365人間七七四年:2010/06/26(土) 22:00:11 ID:Lclyqha2
>>364
普通に隠居じゃね?
366人間七七四年:2010/09/07(火) 11:02:39 ID:zoLLXSrF
幕末に活躍した乃美織江は
元就の家臣、乃美宗勝の子孫?あるいは子孫の家系に養子として入ったのか
367人間七七四年:2010/09/07(火) 22:19:00 ID:BrZYyEbW
吉川元春は不敗の将軍であり、織田、豊臣に戦を仕掛けてもらいたかった。  本能寺に追撃しているば、戦乱は続いていたと思います。
368人間七七四年:2010/09/07(火) 22:29:18 ID:cb5TeZeI
輝元の将器
元春の武
隆景の知では、
領土は守れても、百戦錬磨の猛者どもと四つに組み合って
天下に覇は唱えられないという隆景のシビアな読み
369人間七七四年:2010/09/07(火) 22:38:54 ID:pISfPoXK
まぁ方面軍作れるのが2人だけで片方は国政も担ってるてな時点で
秀吉を倒せるかどうかが一杯一杯で、その後は講和もならず近畿も覇者に圧殺される
てな所までは呼んでたんだろうな
光秀も信長を倒したまでは良かったが、先が続かなかった
370人間七七四年:2010/09/07(火) 22:49:48 ID:BrZYyEbW
本能寺時に隆景は秀吉と通じていたのかな?    元春は秀吉嫌いなだけに、毛利が後手に回ったのか?
371人間七七四年:2010/09/13(月) 23:32:43 ID:fYgmiyiW
>>366

乃美宗勝の子孫は後に浦氏に復します。
乃美織江は宗勝のいとこ、隆興の子孫になります。
それも、庶子家八郎右衛門宣利の子孫になります。
372人間七七四年:2010/09/14(火) 01:27:49 ID:0QtMGhWx
>>371
傍流の庶流ってことですか
どうもご丁寧な説明、ありがとうございます
373人間七七四年:2010/09/25(土) 02:28:47 ID:IhL5G/cW
毛利氏に関する本を多数出版している河合正治さんの本っておもしろいですか?
374人間七七四年:2010/09/25(土) 12:10:13 ID:NviFpeyU
>>372
傍流の庶流ってあんた……。

乃美氏は隆興の系統が本家筋であり、宗勝の父、賢勝は継子でなかったため
浦氏を継いでいるのですが。
戦国期の乃美氏で最も著名なのは宗勝で確かでしょうが
著名=本流ではないので。
375人間七七四年:2010/09/26(日) 22:41:37 ID:XciaQf+o
>>372、374

浦氏と乃美氏は同じ小早川氏の庶流ですが、浦氏が小早川宣平の七男氏実の子孫であり、乃美氏は4代後の熈平(熈のノがン)の次男是景の子孫になります。
どちらが本流、庶流という関係にはないです。
小早川氏内での立場は小早川を隆興まで名乗り続けた乃美氏のほうがよかったかもしれません。
乃美賢勝が養子に行った先でも乃美と名乗り続けたのも実家が隆盛だったというものあったのかもしれません。

376374:2010/09/30(木) 00:14:21 ID:5zHWrDqP
>>375
374では乃美氏の血統上の視点で本流、庶流と書いてしまっていました。
乃美宗勝は浦氏の基盤で活動しながら乃美を名乗ったのであれば、双方小早川家の庶流で隆景配下の家臣と考えるべきでした。

ご指摘感謝です。
377人間七七四年:2010/10/16(土) 12:30:52 ID:6Ni9dpRe
蔚山城の戦いに登場する桂孫六についてご教授お願いします。
検索してもよくわかりません。
桂元盛の六男・「桂元盛」とは別人ですか?
378377:2010/10/16(土) 23:32:08 ID:6Ni9dpRe
訂正:最後の行

×桂元盛の六男・「桂元盛」とは別人ですか?
○桂元澄の六男・「桂元盛」とは別人ですか?
379人間七七四年:2010/10/24(日) 11:07:32 ID:KLwlUX6N
童門冬二の小早川隆景で
毛利隆元が自分を卑下するアホとしか描かれてなくてガッカリ
隆元死後、収入が減ったって話しも書かれてないし
380人間七七四年:2010/10/24(日) 13:44:08 ID:kdM1PDR/
まあ童門だし
381人間七七四年:2010/10/26(火) 13:27:00 ID:Iz30xYx2
主人公TUEEEEEだし
382人間七七四年:2010/10/28(木) 03:57:46 ID:qmpS1f93
なんで吉川広家ってうつけっていわれてるの?
383人間七七四年:2010/10/28(木) 10:51:43 ID:cVmqeMcI
勝手に工作して家康に取り入ったからだろう
384人間七七四年:2010/10/28(木) 21:34:20 ID:c83PGsfi
>>382
若い頃、傾いた格好してるのを心配した父ちゃんからの手紙が残ってたり、
3男で養子に出されることになったんだけど、養子先が気に入らず、もっとでかい家の養子になろうとして怒られたりしてる。
385人間七七四年:2010/10/28(木) 23:13:42 ID:Z67iAYJt
>>383
それだけでか?

>>384
それは初耳だサンクス
386人間七七四年:2010/10/28(木) 23:37:47 ID:+K7MSWRT
>>384
毛利家でも持て余してた感があるんだよな。
結構いろいろやらかしてるし
387人間七七四年:2010/10/30(土) 21:05:08 ID:ur57YOEe
嫡男の広正は父親を不遇の境遇にした秀元の失脚後、しっかりと毛利家の
執政になっているんですね。

二男もどこかの毛利支藩の養子に入ったはず。
388人間七七四年:2010/10/31(日) 03:17:47 ID:djdJ0mra
秀元からしたら不遇にでもせんと気がすまんだろ
389人間七七四年:2010/10/31(日) 05:06:49 ID:GHcAGROI
秀元、秀包は良将であった。
390人間七七四年:2010/11/09(火) 20:19:24 ID:nQ+eGteV
広元子孫って仮冒やろ
土豪じゃん
391奇矯屋onぷらっと ◆a..l..g..o :2010/11/09(火) 22:32:50 ID:pWYJUd3R
繋がらない証明はできない。
392人間七七四年:2010/11/10(水) 10:34:02 ID:BoYB/KKc
この家に関しては仮冒しようがないだろ

大江広元の4男季光が相模毛利荘を領したので毛利氏
宝治合戦で相模にいた本家一族はほぼ討たれたが4男経光は別領の越後佐橋荘にいた為、生き残り
経光の長男基親が越後刈羽郡を継承(子孫では安田顕元、北条高広などが有名)
4男時親が安芸吉田荘を継承
以降、細々と続いて元就に至る
393人間七七四年:2010/11/14(日) 13:08:35 ID:3vr9MKQ2
毛利も松平も弱小豪族だったことも共通してるし、大内、尼子、今川、織田ら強大勢力に服属していたのも共通している。
また、山から平地へ平地へ押し出したのも共通している。
394人間七七四年:2011/02/08(火) 20:45:55 ID:yAfy7sV5
大内尼子=織田今川なら
大友=北条
宇喜多=真田
395人間七七四年:2011/02/21(月) 23:37:46.66 ID:Hzy7ewq9
関ヶ原後の展開を吉川さん家はどう思ってたんだろ?
396人間七七四年:2011/04/23(土) 22:52:57.87 ID:EZUvZcsO
もうひとりのおにいちゃんの元長さんの逸話がなさすぎて泣ける。
この人も長生きしていたら、関が原の結果もまた違ったものになっていたと思う
(どっちに転んでいたかは分からないけど)
397人間七七四年:2011/04/24(日) 18:09:21.20 ID:5NfFrGUu
元長なんて初めて聞いたよ誰?
秀包とか秀元も最近知った無知でスマソ
取り上げられる機会があればなあ
398人間七七四年:2011/05/13(金) 16:39:55.60 ID:ocd6C/o9
吉川三兄弟、真ん中の元氏さんの話が皆無な方が泣けるわい
検索してもロクに資料がない
399人間七七四年:2011/05/15(日) 03:10:37.42 ID:7oWSvQeH
輝元がバカ殿ってことはその親隆元も無能だったんじゃ…
400人間七七四年:2011/05/15(日) 08:36:28.53 ID:PmYw21Gd
輝元さん、関ヶ原の前と後で能力が違いすぎるんだよなー。
人間は失敗から学ぶことができるということか、領国大削減の非常事態になってようやく重臣たちが云うことを聞くようになったか、どちらだろう。
401人間七七四年:2011/05/25(水) 22:44:30.45 ID:6ehVjVOF
賢かったら取り潰しだろ。
402人間七七四年:2011/06/04(土) 23:31:23.69 ID:ykc4iH2Y
隆元がなんとなくこの人有能なの?って気になるのって
おっとりと欝のダブルパンチなあの性格のせいのような
死後突然財政難になる話とか見るに内政に関しては有能な人だよね
403人間七七四年:2011/06/06(月) 18:19:57.48 ID:Tzwq4vYz
関ヶ原で醜態さらした毛利家は
一家丸ごと晒し首にしたほうがよかった
404人間七七四年:2011/06/06(月) 19:54:02.34 ID:RMBhPoKh
>>402
家督を継いでた人間が死ぬだけで財政が崩壊するわけないだろ。
経理業務を隆元独りが専断してたわけじゃねぇし
経理業務してた人間全員暗殺されたわけでもあるまいに
405人間七七四年:2011/06/06(月) 22:04:45.65 ID:mlKopK8d
ヒント:肥後加藤
406人間七七四年:2011/06/06(月) 22:31:04.46 ID:jq+S0+od
>>403
毛利がいないとお前も俺も、今この世に存在してなかったかもね
輝元が家康の意に従ってよかったね
輝元に感謝しようね
407人間七七四年:2011/06/07(火) 13:50:00.13 ID:ZQXt3Otz
毛利初心者が飛ばし読みで『陰徳太平記』を読みはじめた

織田の中国攻めからはじめて、元春・元長死亡〜広家の家督継承を過ぎ、
九州征伐〜文禄・慶長の役が終わって、いま秀吉が亡くなったあたり
文章は読みやすい

・この本の毛利一門は、描写で顔に美形補正がかかる仕様なのか???
 広家がすごい美形に書かれてる
・唐入りで「明軍120万」が「瓜のように」バッサリ倒されたりしてる
 この本、どのくらい信じても大丈夫なのかと心配になってきた・・
408人間七七四年:2011/06/07(火) 15:17:39.21 ID:VhwUzORm
>>20
鎌倉は長子相続ではないから。
409人間七七四年:2011/06/07(火) 15:27:12.42 ID:PCaGRQtn
>>405
それ史実じゃ無くただの講談逸話
>>407
それあくまで毛利マンセーが目的の軍記小説だから信じちゃダメ
元ネタの安西軍策からして毛利に都合よく歪曲しまくった挙げ句に恣意的に年代すらも弄り倒して想作してるシロモノ
もっとも元就本人がすでに捏造してるんだが…
元就が過去を振り返って書き残した書状内容からして自分が都合良いように歪曲だらけの事実…
410人間七七四年:2011/06/07(火) 16:55:21.06 ID:WyI9qM9o
毛利って鎌倉六波羅攻めの時何してたの
嫌いな義兄長崎氏の為に倒幕挙兵したの
411人間七七四年:2011/06/07(火) 21:45:33.11 ID:H4/h2sR/
>>409
毛利関係で信頼できる研究書とか文献って、何かいいのあります?
『陰徳太平記』は物語としては読んでて楽しいので、軍記物だと
割り切って読もうかと
412人間七七四年:2011/06/07(火) 21:57:32.00 ID:PCaGRQtn
う〜ん難しいなあ
広島や山口のデカい書店なら良い本あるかも知れないけど。
高校ぐらいで漢文が読めるように勉強したことある?
全文漢字でレ点とか一二三とか上中下ってついてるの読んだことあるかな。
413人間七七四年:2011/06/07(火) 22:14:00.34 ID:H4/h2sR/
>>412
大学では日本史でも国文でもなく、西洋史を専攻中(後悔してる)
高校時代は漢文は得意だった方だけど、せいぜい大学入試レベルで
それ以上の訓練は受けていない状態
『陰徳太平記』みたいに漢字・カタカナ混じりの文体だと読める程度で
専門的な文書は読んだこともないし、お手上げだと思います
414人間七七四年:2011/06/07(火) 22:43:30.47 ID:B+CisOd3
>>411
「安芸毛利一族」
大河やってたころ売ってた。
鎌倉初期、毛利氏の始まりから、元就前まで、色んな資料からまとめてある。
南北朝時代は、親子で敵味方に分かれて戦っている。
そうする事で安芸での影響力を強めていった。
415人間七七四年:2011/06/07(火) 22:49:48.63 ID:PCaGRQtn
>>413
じゃあ図書館で県史を読むのが一番だと思うよ。
ただ広島県史は戦前の言葉使いだから読みづらかった記憶がある。
山口県史を当たってみると良いかも。
ちなみにレ点とかの読み方ルールがわかれば最初は漢文だと意味わからないかも知れないけど
繰り返し読んでると独学でもなんとなくわかるようになるよ。
慣れてきたら毛利や吉川の家わけ文書もなんとなくわかるようになる。
416人間七七四年:2011/06/07(火) 23:24:32.35 ID:H4/h2sR/
>>414、415
丁寧なご助言、ありがとうございます!
大学の図書館で検索してみます
417人間七七四年:2011/06/07(火) 23:46:13.48 ID:PCaGRQtn
>>416
俺は大学受験に世界史を選んだし
漢文は高校の授業レベル。
誰からも学んでない完全に独学
でも場数踏めばある程度何とかなるよ。
ただかな文字はいまだに読めんけど。
いまネットで現代は使われてない漢字まで意味がわかる時代だし。
418人間七七四年:2011/06/08(水) 06:20:26.09 ID:yxUo0I6H
山口関係の本はマツノ書店でいいんじゃね?
http://www.matuno.com/kannkou.htm
419人間七七四年:2011/06/08(水) 08:53:05.79 ID:x42Wrcti
>>418
そこの吉川元春は3年くらい前に流し読みしたけど戦前くらいに書かれた本の再出版だったから
軍国主義的な勇猛誇張マンセーや先祖マンセーや地元マンセーが入ってて元春が実際にやったことだけを史料的裏付けで証明してるわけでなくガッカリした記憶がある。
当時の世相ではそれで満足なんだろうけど今の史料的な使用にはとても耐えられない。
420人間七七四年:2011/06/08(水) 13:03:10.94 ID:Sphmtwbf
吉川経世について教えてください
国経、興経と違って親毛利派だったみたいなんですが
421人間七七四年:2011/06/08(水) 20:38:42.58 ID:2xUaFFAo
>>419
マツノ書店って資料価値が高い本の再販で有名だと思ってたんだけど…
中には単に珍しい本の再販ってのもあるのか。
422人間七七四年:2011/06/08(水) 21:53:38.17 ID:x42Wrcti
個人的感想だけど軍国青少年向けな感じに思えた。
なんか昔の信長の野望武将ファイルがパクったような内容も書かれてた。
たぶんこの作者の本はみんな>>419的な内容だと思う。
423人間七七四年:2011/06/08(水) 22:25:40.71 ID:oRCcbpWj
>>418
昔の本だから正しいとは限らない、
「陰徳太平記」は「三国志」と「三国志演義」くらいの違いがある。
編者の主観も入るし、(陰徳太平記は香川氏の熊谷氏への対抗心?から元春の嫁の
醜女説がそれまでどこにも資料にないのに突然入ってくる)
最近編集された本などはその辺を究明しているのもあるので
比較的読みやすい。
仮想戦記はだめだが。
424人間七七四年:2011/06/08(水) 22:40:51.55 ID:oRCcbpWj
>>409
自己弁護や美談化はどこもやってるからなあ。
それより井上に城乗っ取られたあたりから復帰するまでが
いまいちわかっていないしあまり語られていない、
よほど言いたくないなにかあったのか、
特に息子たちに知られたくない事があったに違いないと思うのだが、
高橋に人質にだした娘のこととかもあいまいだし、
杉の大方の素性も良くわからないし。
425人間七七四年:2011/06/08(水) 23:40:33.38 ID:x42Wrcti
>>424
井上はのちに元就が殺して利権収奪してるから
井上の罪状をでっち上げる必要があり
城を乗っ取られたとかウソを書いてるんだと思う。
だからあまり語りようがない。
常識的に考えて乗っ取りができるとは思えないし、
その時の元就の悲惨な生活は有り得ない。
元就黙殺とか福原の叔父さんとかみんな何やってんだよ?と思う。
過去を振り返った書状で元就は自分を天涯孤独って言ってて、
叔父さんどころか家督争いで殺した弟までいないことにしていたり…
426人間七七四年:2011/06/09(木) 00:19:53.69 ID:JYmEhZFv
>>425
では遅い初陣とか結婚もでっち上げなんですかねえ?
まあ初陣が有田合戦だから不自然といえばそうですけどね。
初陣であの大逆転ですからね。
427人間七七四年:2011/06/09(木) 00:49:17.63 ID:ln5GsNhN
有田合戦は獲得した地を吉川にプレゼントしたみたいに書いてるのが怪しいんだよね。
初出陣の元就を指導して戦で勝利に導いたのは京で鬼吉川と呼ばれた吉川軍だと思うんだけどどうだろ。
それに武田を討てたのも安西軍策を読む限り特別なんか策があったようにも見えないんだよね。
428人間七七四年:2011/06/09(木) 00:56:55.09 ID:JYmEhZFv
>>425
あ、もう一つ

>叔父さんどころか家督争いで殺した弟までいないことにしていたり…

親戚や腹違いは信用できないよと言いたかったのかも。
自分たちを良く思ってる人なんかいないんだよと手紙で書いてたから
その辺ではしょった可能性はあると思う。

福原広俊も次男の元就まで手が回らなかった可能性はある。
当主の兄興元も若年過ぎたし、大内義興と京に4年も出陣していたから
その供でいなかった可能性があり、井上の事実上のクーデターだった可能性もある。
元就元服ころに城が帰ってくることになるが、そのころやっと奪還して、
そのときに後に粛清した井上元兼らに助勢されたので故意に
そのへんをぼかしたとも考えられる。
領地を横領したのは井上元盛(元兼の叔父)


429人間七七四年:2011/06/09(木) 06:09:54.48 ID:qI0C5AR1
>>425
弟も叔父さんも実際、助けてくれなかったわけだから、異腹の兄弟や離れた親戚なんて身内じゃねえよ、
と言いたい気持ちもわかるんじゃないか?

大体、異腹の兄弟より乳母子の方が親しい、って中世〜近世だとごく普通だと思うし。
430人間七七四年:2011/06/09(木) 23:44:49.58 ID:JYmEhZFv
>>429
杉の大方の庇護がすごく大きかったんだが
杉の大方の人物像がわからない、正妻福原の方が亡くなった後に
後妻に入ったというから高橋氏からだろうとしかわからない。
高橋は後に滅ぼされてるからその辺はうやむやになったんだろうか・・・
高橋、吉川と結んでいなければ宍戸などを敵にしていて
立ち行かなくなるのは目に見えてるからわかるが、
高橋が滅亡しても杉の大方は郡山城にいたと言うことは、
高橋一族とは違うということに???
431人間七七四年:2011/06/10(金) 20:13:20.38 ID:Z1c9hCRD
先々代の当主の後妻で現当主の継母であり恩人を実家が滅びた(滅ぼしたから)って放り投げるわけなかろう
432人間七七四年:2011/06/10(金) 21:35:58.28 ID:XwUCVmcO
へぇ〜元就って現代の倫理観を持ち
なおかつ聖人だったんだな。
433人間七七四年:2011/06/10(金) 23:44:16.65 ID:h8AewD3Y
渋川氏潰しやがった
434人間七七四年:2011/06/11(土) 01:32:54.79 ID:kDdXpRCX
>>428
お前の書いてることはすべて
お前の願望妄想だろ・・・福原誠親とか福原一門みんなで元就放置とかありえんわ。
>>429
常識的に考えて幸松丸がまだ生存段階で
元就が家督を手に入れるために
京の幕府で家督継承を認められるように裏工作しつつ
尼子のOKも同時に貰い、幸松丸を守ろうとする弟を殺してるとしか思えないだろ。
弟を暗殺してるから天涯孤独の元就と言って弟に触れようとしない。
要するにやましいから自分の子にそれを聞かれたくないから触れない。
435人間七七四年:2011/06/11(土) 07:04:55.52 ID:PRpXsEJS
>>434
つ 鏡
436人間七七四年:2011/06/11(土) 07:31:22.15 ID:zbaCGxzf
>>434
よく読め、
興元がいるときには、と書いてるだろう。
当主健在の時は、そちらを優先するだろ。
元綱が幸松丸を庇うほうが考えられない。
そちらこそ想像脳で書くのはやめようね。
当主になるまでの元就は、志道広好と同格かそれより下(年齢的にも)だということを
忘れないほうがよい。
437人間七七四年:2011/06/11(土) 08:13:06.28 ID:FIKGJKLJ
福原一門全員が興元と上洛したわけじゃないし
そもそも多治比が奪われた話は池亨氏も怪しい話だと却下してるぞ。
元就にとって大恩ある杉の大方の実家は高橋と言われていて
元就の長女も高橋に人質出してるが
その高橋に滅ぼしたのが元就。
7/15に幸松丸が突然死して
7/19に元就擁立決定。
その間に元就擁立を確定づけたのは
たまたま神仏詣をしていた栗屋元秀が将軍から相続許可を貰って帰ってきたことと
尼子から家督を継ぐことを元就は認められたことがある。
明らかに4日の間に相合元綱を出し抜いてる。
つうか幸松丸死去以前から動いていたとしかわからんし
元綱がいつ死んだのかもわからないどころか元就自身が天涯孤独だと言って元綱の存在自体を抹消してる。
元就の人生は怪しいことばかりだからね。
438人間七七四年:2011/06/11(土) 09:12:31.90 ID:s5mtVx+T
毛利輝元=昭和天皇
439人間七七四年:2011/06/11(土) 14:15:45.04 ID:Jh5PqwTI
幸松丸は元々病弱だったんじゃないの?
440人間七七四年:2011/06/11(土) 18:03:51.56 ID:zbaCGxzf
>>437
よくある話しだが、死んだのを隠して、
跡目を決めるのはよく有る話しだよ、
江戸時代なんかは、しょっ中だし、
参詣話しも偶然過ぎる、
決まるまでに、水面下で色々あって、
その中で、粛清などもあって、
暗殺なども、行われたと推察される。
渡辺通が山内家から帰参した話とか、
断片的な事柄から見て行くしかないけどね。
信長のような、派手な粛清もあるけど
何時の間にか消えてしまうのも不気味な
印象あたえるよね。
441人間七七四年:2011/06/11(土) 18:32:58.60 ID:hDgfP5BB
>>440
元就自身が筆まめなこともあり毛利家や吉川家の一次史料はかなり豊富。
しかし幸松丸が死んだのを隠していたなんてまったく窺えないから
>>439と同様にあんたの願望妄想に過ぎない。
そもそも上記の話は元就から桂元忠・児玉就忠を通じて出された話で
この元就に忠実な犬家臣どもは強力な発言力をもっていた。
例えばも隣が家督譲渡した際に毛利隆元新政権における奉行が決められる際に
隆元が親政する目的で選ばれた赤川元保、国司元相、粟屋元親らに対して
元就の息がかかった監視役の桂元忠・児玉就忠が奉行としてネジ込まれ
この両派は激しく対立していて、さらに隆元は兄弟とも険悪な関係となり
完全に孤立した隆元がのちに暗殺されるフラグになっている。
442人間七七四年:2011/06/11(土) 18:35:02.60 ID:zbaCGxzf
>>437
息子に宛てた手紙に、見え透いた
作り話しはしないと思うよ、
だって少ないとは思うけど、
当時元就位の歳の人はいるから、
聞けば嘘だってすぐ分かる。
逆に他国のほうが、詳しく知ってるはずだ。
今みたいにマスコミない分、口コミなどで
伝わるのは早い。
百年後の子孫に宛てた手紙じゃないんだから、嘘書いたら軽蔑されるだけだと
思うけど。
443人間七七四年:2011/06/11(土) 18:40:10.19 ID:zbaCGxzf
>>441
オイオイ

破綻してますな、一次資料にないから
ありえないというなら、
隆元暗殺フラグも
一次資料に書いてあったのかい。
444人間七七四年:2011/06/11(土) 18:40:39.42 ID:hDgfP5BB
>>442
いやいや、元就の書いてることは自己正当化目的の捏造歪曲ばっかじゃんw
445人間七七四年:2011/06/11(土) 18:56:58.33 ID:hDgfP5BB
戦国時代に当主が嫡男を殺すなんて珍しいことでも何でもない。
しかも元就は高橋へ行った長女すら見殺しにしてる冷徹漢だからね。
和智豊郷の子の誠春は隆元が急死した時に毒を盛ったとされたのに
なぜかまったく元就から罪に問われない謎。
6年後に誠春兄弟が毛利の伊予遠征の帰りがけに捕らえられて厳島に監禁され殺害された。
このあたりが元就が誠春を利用して隆元を暗殺させたのが世間にバレないように
ほとぼりがさめた時期を見計らって謀反の罪をデッチあげて口封じしたと言われる所以。
446人間七七四年:2011/06/11(土) 19:16:18.61 ID:zbaCGxzf
>>444
元就より捏造歪曲だね。
天下でもねらってください、
実現するのはゲームの中だけ、
現実町内会長もむつかしいかな?
だって、破綻してるからね。
447人間七七四年:2011/06/11(土) 19:27:21.35 ID:hDgfP5BB
>>446
元就擁護のあまり事実が受け止められないのは見苦しいぞ。
だいたい隆元暗殺の下手人と言われる誠春の妻は福原広俊の娘。
つまり福原広俊の意向が反映されているのが隆元暗殺事件。
どう考えても弁解できない。
448人間七七四年:2011/06/11(土) 19:41:16.23 ID:FIKGJKLJ
毛利厨って相変わらず
戦乱の世で元就だけが聖人君子だと
盲信してて救いようがないな…
449人間七七四年:2011/06/12(日) 22:04:20.20 ID:Gt4AxwXz
戦国時代に限らず聖人や君子などこの世に存在しないよ。
居るのは物語の世界だけだな。
戦乱の世以外には存在するなんておめでたいやつは
引きこもってなってことだな!
450人間七七四年:2011/06/12(日) 22:22:17.65 ID:Gt4AxwXz
そういや嫡男が廃嫡(死亡、殺害)された戦国大名は
その多くが没落してるよね、
最上、長宗我部、甲斐武田、(尼子もだ!)
例外は徳川と細川、仙石とかだね。
毛利は完全没落とは言いがたいが減封されたから
嫡男に死なれると体制の立て直しが難しいということなのか?
451人間七七四年:2011/06/12(日) 23:18:59.56 ID:ALhkhaTN
それぞれ兄弟にはそれを擁立する家臣団がいて
それぞれの家にとって今後数十年に渡る利害得失があるからね。
内部対立から分裂や瓦解の危険をはらんでる。
当主を継ぐと弟達を殺害しようとするのも当たり前の時代だからね。
関ヶ原なんてまさにその対立を家康に利用されてる。
452人間七七四年:2011/06/13(月) 17:22:33.89 ID:6G/WB1b9
伊達晴宗みたいに他国を巻き込んで盛大に親子が戦争しまくる最悪パターンもあるしね。
嫡男の妻の実家や母方の実家など対立要因はたくさんあるからなあ。
特に一揆連合は些細なキッカケで二つの陣営に別れる瓦解が怖い。
尼子や大内なんかも内部対立が無ければ滅びることは無かった。
453人間七七四年:2011/06/14(火) 08:49:55.05 ID:NuILCs5I
双子が生まれると将来、家に不吉なことが起こるから
片方を殺すなり、家臣の子として育てるなり、寺院送りにするのも
家で家督を巡り内紛や謀反が起きないようにする先人の知恵だろうね。
454人間七七四年:2011/06/14(火) 12:09:53.59 ID:fZB0a3YR
>>453
いざという時のスペア
455人間七七四年:2011/06/14(火) 13:34:38.01 ID:BEqzqcUt
>>454
そのスペアが野心も持たず、持たされず、忠節をつくしているならそれもありなんだろうがな、
そのスペアにその当主がいかに目をかけるかどうかだ。
無視されればそりゃ不満も出るし。
どこの世界も「あいつムカつくからヤっちまいましょうよ」と耳打ちする
今の体制に不満を持つ奴が(もしくは冷遇された奴が)担ぐお飾りにはちょうどいい。

456人間七七四年:2011/06/19(日) 12:30:23.40 ID:RwntZknD
>>455
自分の素性も知らされず、
ゆかりの寺に行かされてる
例はおおそうだな、
決して表には出ずに、
終わりそうだが、
戦国時代、表に出た例って
あるのかな?
457人間七七四年:2011/06/19(日) 22:32:33.31 ID:rFTtxaeG
>>456
ちょいと違うが、自分の素性を知らず出家していたってことで、尼子勝久は?
458人間七七四年:2011/06/19(日) 22:47:42.53 ID:1RPsWKsP
>>457
知らなかったのかな?
新宮党は、本家に討たれてるから、
刺客が来るかもしれないので
逃げるため、教えてそうだが。

物心着いてから知っても、
嫡流ではなく、
祖父や親兄弟が本家に討たれてるから、
まさか、自分にお鉢が回るとは
思わなかったろうね。
鹿之助がきた時は、
びっくりしたろうね。
459人間七七四年:2011/06/23(木) 09:00:39.14 ID:V2ZOU5dk
ぶっちゃけ反家康で大坂籠城も唱えていた武闘派の毛利元康と毛利秀包って
関が原の翌年明けてから次々と突然死してんのは暗殺だよな。
天野元政が弟達の不始末すいませんって元康と秀包をやっちゃったのかな。
元就の正妻からの隠し子である二宮就辰はランクが下がるから
これを除けば兄弟完全に全滅だもんな。
毛利姓にちゃっかり復した天野元政にすれば笑いが止まらないよな。
460人間七七四年:2011/06/23(木) 12:47:56.40 ID:I+ypMESY
>>459
柳生の仕業
と、隆慶一郎酎なら言いそうだ。
461人間七七四年:2011/06/23(木) 21:19:14.64 ID:HGVuJ27H
>>459
元政より輝元の方が黒い感じ、
佐野道可事件といい輝元真っ黒だ、
実際輝元死んだ年に元政の家は輝元と仲の良かった宍戸家(佐野道可の実家)と
領地がえされてる、もちろん宍戸の居たほうの領地が石高も多く(10000>13000石)
場所も今の防府の近くの右田(開けてる)と熊毛郡の三丘(土田舎)との交換で、
元政の方がウマーな内容になってる。
462人間七七四年:2011/06/24(金) 11:49:42.70 ID:kItyo8g5
だとしたら悲しいもんがあるよな〜。
関ヶ原以前の輝元は何かにつけて対家康で元康に相談しまくりで一番信用してたもんな。
いろいろと会って相談したいですとか
安国寺がこういって来てますがどう思われますか?
まったくあなた(元康)の言うとおりで(家康と連携してる)秀元は何を考えているんだろうか!
などなど一門で一番信用してたもんなあ。
関ヶ原後の輝元はバカにしてた広家に気を使うようになってきてるし。
463人間七七四年:2011/06/24(金) 16:56:01.69 ID:LL7juWNL
>>462
秀元が後見役として、秀就に着いてるから
そちらかもしれない、
彼は元清の息子だからな、
元政の比ではなく、一人勝ちだ、
輝元が広家に、擦り寄るのは、
権力の集中を避けたかったからかな?
ちなみに、佐野道可こと、内藤元盛の息子たちは、毛利家が大阪の陣で豊臣に関与した証拠隠滅のため自刃させ家を潰された。
その子が内藤家を再興するのは、秀元が
引退して死ぬ前だった。
464人間七七四年:2011/06/25(土) 19:21:34.98 ID:35IPjo/d
>>449
そうかそうか
465人間七七四年:2011/06/29(水) 09:33:41.88 ID:pptktEE3
毛利家って家臣が凡人ばっかりでイメージ薄すぎ。
もう家臣A家臣Bレベル
元就とそのの息子マンセーの捏造のせいなんだろうけど。
466人間七七四年:2011/06/29(水) 14:56:42.67 ID:1QEG/HGt
桂元澄、赤川元助、福原広俊、志道広良、口羽通良、児玉就方、熊谷信直と結構出てくるが
467人間七七四年:2011/06/29(水) 16:11:47.29 ID:s0swCOYo
興元の筋が本家を継いでたら元就の名字は何になってたんだろう?
毛利姓は名乗らずに、領地の土地を名字にしてたのかな。
468人間七七四年:2011/06/29(水) 16:34:45.10 ID:1QEG/HGt
多治比元就とかか
469人間七七四年:2011/06/29(水) 16:54:27.64 ID:kFcO10+c
>>468
多治比殿と書かれた文書があったような、
案外、吉川元経が死んだときに、
吉川家に入ったかもしれないね、
毛利家の吉川乗っ取りが一代早まる感じ?
470人間七七四年:2011/06/29(水) 21:48:02.18 ID:o4Gn96NG
毛利家の末裔を称する格闘家は秀包の子孫なんだな。
今テレビでやってたわ
471人間七七四年:2011/06/30(木) 00:06:00.63 ID:OJityRDa
興元は武将としての才能はどうだったん?
弟の元綱も戦の才があったらしいし元就含めたこの三兄弟が揃ってたら、結構面白かったかもね。
472人間七七四年:2011/06/30(木) 17:08:58.75 ID:mHVtcqRt
早くに死んだので事績がわからないが、
吉川、高橋と縁組して、武田に対抗する
体制作りしてたような感じだね。
吉川が尼子と縁組してるから、
状況次第では尼子方に着く戦略も
ありそう。
父親までは、毛利一族の争いなどもあり、
福原氏と縁組したりして、外になかなか、
目が向けられなかったが、
やっと縁組外交が仕掛けられるように
なったばかりなのにね。
473上杉謙信:2011/07/03(日) 18:31:58.80 ID:Yx9EKuol
毛利は明治維新で天下をとった。さすが毛利じゃ。
474人間七七四年:2011/07/04(月) 02:24:05.97 ID:ayLRNKD3
毛利が関ヶ原で天下を取りに動かなかったのはどんな理由があるの?
475人間七七四年:2011/07/04(月) 09:57:18.62 ID:ujnOt51o
「天下を競望するなかれ」という日頼様の御遺言
+「輝元さまでは、輝元さまでは負けてしまう…」という
毛利家の人々の至極もっともな判断
476人間七七四年:2011/07/04(月) 20:04:11.13 ID:TfxR4BKC
>>474
三成に「徳川殿討ったら、貴方こそ次期内大臣、大老筆頭ですぞ」と、おだてられて
その気になったんだろうが、
勝っても、結局利用されただけで、
何かしら理由付けられて、
潰されるだろうと、広家達はおもったんだろうな。
477人間七七四年:2011/07/04(月) 20:55:34.22 ID:jdtsJfy+
>>475
織田や大友や宇喜多が後援する尼子残党に大苦戦し
領土の急縮小を招いて失意のうちに死ぬ元就には
流石に天下を望めなんて発言は想像すらできないはずだろう。
478人間七七四年:2011/07/05(火) 01:07:26.04 ID:uey/7k09
自分が毛利一門か家臣で、家康相手に輝元で一か八かの大勝負!
となったら、普通にすごく不安になる
保険かけようとした吉川広家の感覚の方がまともだと思う
479人間七七四年:2011/07/07(木) 04:26:55.28 ID:QxE21YWV
K直人総理でアメリカと戦わなきゃいけないような状況だっただろうしな
480人間七七四年:2011/07/07(木) 08:35:43.26 ID:iWoauWQY
いやいや輝元はすぐに西軍総大将になるなど決断力がある。
隆景の毛利からの自立が吉川のひねくれた反発を産み禍根となっただけ。
輝元は関ヶ原までに奉行らと圧力をかけて阿波を毛利軍に占拠させることに成功。
如水と毛利後援の大友軍が戦っている隙に小倉城や香春嶽城を占拠してるし
元康指揮下の伊予では加藤留守部隊に敗れたが
伊勢安濃津城で増田と対立しながらも毛利軍で占拠したし
大津城にも毛利軍を入れてる。
実際、関ヶ原当日までに毛利は最大版図を築きあげるのに成功しており
広家が午前中に南宮山から家康の背後を遅い挟撃をかけてれば
それをみて焦って秀秋も西軍として下山していたはずで
戦後は輝元が論功行賞を主導し実質的な天下の惣領として君臨していた。
広家は関ヶ原前日に「戦において抜きん出た忠義を挙げたら家康の自筆による毛利領安堵状を出してやる」と言う書状に焦って
長政らに家康自筆安堵状が欲しいと再度使者を急いで出したら
「両将はすでに出陣したから無理」と拒絶されたまま当日の関ヶ原で様子見してたら午後になるや秀秋が東軍化してしまい茫然自失し
さりとて西軍を襲う動きも出来なかった。
西軍を追撃するどころか佐和山城攻撃中の東軍を支援するわけでもなく…
そして安堵状があるから大丈夫だと広家は輝元を騙して大坂城を明け渡させようとした。
輝元も大坂城を明け渡す寸前になってもハッキリした家康からの安堵の意志表示が無いことから不安感に苛まれ
広家に家康自筆安堵状を貰うか井伊直政に面談して直接言質を取るかしてくれと頼むが拒絶される始末…
481人間七七四年:2011/07/09(土) 02:02:33.76 ID:H7lU4tHU
関ヶ原前に毛利は最大版図になった、といってもだ
輝元が欲かいて、手当たりしだい小規模な兵力を各地にばらまいただけで、
支配の実態は砂上の楼閣みたいなもんだろう
むしろ手を広げすぎて、肝心なときに手元の動員兵力が手薄になったという
482人間七七四年:2011/07/09(土) 14:07:14.31 ID:g36mPirJ
そもそも、黒田などのように
うまく立ち回らないからだな。
いっそ吉川を徳川方で参戦させてれば
良かったのに。
483人間七七四年:2011/07/10(日) 11:41:22.44 ID:GuWT0APD
今日の夜にBS−TBSで隆景の特集あるぞ
484人間七七四年:2011/07/10(日) 11:48:44.70 ID:GuWT0APD
輝元 長門 周防 石見 出雲 隠岐 安芸 備後 伯耆半国 備中半国
隆景 筑前
秀包 筑後半国
恵瓊 伊予一部

毛利氏の最盛期なら秀秋養子入りする前のこの時期だと思うが。
隆景さんが三原に隠居する前くらいの。
485人間七七四年:2011/07/10(日) 13:49:29.05 ID:9LlCVyVt
>>482
はじめから吉川が東軍、毛利宗家が西軍に分かれても、
輝元が西軍総大将である限り、あまり結果は変わらないんでは
予定どおり、吉川と安国寺を上杉征伐に派遣してればよかったのに
その時は、そもそも三成の挙兵自体なかっただろうけど
486人間七七四年:2011/07/12(火) 08:54:44.44 ID:i/IYVuuN
関ヶ原の時は西軍総大将として西日本一円に輝元は影響力を保持してたからなー。
奉行らに西日本大名に書状を送らせずに加藤清正や島津忠恒にも軍を上洛させるように輝元が書状を出してるからな。
彼ら在国組はそれもあってハッキリ陣営を明確にしなくなった。
元康指揮下の伊予侵攻で加藤や藤堂領への侵攻に成功してれば四国を西軍色に塗れた。
九州は関ヶ原決戦が長引き小倉を占拠した毛利軍で大友との戦いで疲弊した如水を討ってれば九州制圧も可能だった。
487人間七七四年:2011/07/12(火) 20:36:43.75 ID:lZzULXd6
毛利暢子
小早川式子
徳大寺亮子
中牟田幸子
加藤新歌子
三条多栄子
松平幣子
武富梢子
488人間七七四年:2011/07/13(水) 00:48:10.16 ID:9JN9wF/r
敬親様なら・・・負けてしまう
と幕末に思ったやつらはいなかったのだろうか
489人間七七四年:2011/07/13(水) 02:07:35.11 ID:exdct767
第一次長州征伐目前に「敬親様では負けてしまう…というか死んでしまう!」
と、岩国の殿さま・吉川経幹が 大 変 苦労して幕府方と交渉し、
長州藩を救います(吉川は無謀な攘夷には反対だったのに)
第二次では、吉川は芸州口から攻めてきた幕府軍の矢面に立って戦います

宗家のために苦労するのが、広家以来の吉川家の仕様というか…
490人間七七四年:2011/07/13(水) 02:18:53.73 ID:TbqUFjmt
毛利の軍兵は大友義統を豊後に送った後、すぐに引き返して帰ってしまったという話があるけど
旧敵とはいえもう少し支援してれば九州の戦局も変わっただろうに
491人間七七四年:2011/07/13(水) 03:14:12.48 ID:nMHX0S9M
>>489
まあ、最後に諸侯にしてもらえましたから
少しは報われたかな。
492人間七七四年:2011/07/13(水) 08:17:38.04 ID:6cZ5xLxZ
赤染衛門って毛利の先祖なんだな
493人間七七四年:2011/07/13(水) 19:31:54.03 ID:daImZ+Qx
>>489
ていうか吉川が邪魔しなければなあ。毛利の軍が後方から突っ込むわけだし、
そうなったら小早川も裏切れなくなる。
494人間七七四年:2011/07/13(水) 22:10:06.31 ID:hwtwpUWk
>>490
120万石の石高で動員できる兵力がすでに限界に達していて、
豊後にまで毛利軍を割いて、派遣する余裕がなかったんじゃないかな
495人間七七四年:2011/07/13(水) 22:19:38.70 ID:s+aznKgg
それぞれが無秩序に戦力分散し過ぎ
496人間七七四年:2011/07/13(水) 22:39:12.52 ID:hwtwpUWk
この関ヶ原本戦前の、見通しの甘すぎる西国各所への兵力ばらまきを
計画したのは、やっぱり輝元さまなの?
そもそも、初めから全体的な西国支配の計画・構想があって分散したのか
その都度、状況にあわせて逐次兵力を投入してた結果、ばらまきになったのか
497人間七七四年:2011/07/14(木) 00:27:42.86 ID:nIhvZvwx
>>490
大友方がそう望んだのかもしれない、
なんせ、お家乗っ取りはお家芸だからね、
毛利は、小早川や吉川みたいに養子入れる
口実もあるから、小早川秀包の正室は
大友からだしね。
秀包後見で秀包の息子が養子になりかねない。
大友当主はともかく、家臣は気づくだろ。
援護してもらうなら、如水への牽制を
頼んだ方が良かったのに。
498人間七七四年:2011/07/14(木) 07:54:09.67 ID:xh90Stjc
別にそれほど戦略として間違っちゃあいないと思うんだけどね
結果的に超短期決戦に終わったので遊兵の極みになったけどw

(東軍による)遠征軍を各拠点拠点において遅滞防御(美濃近江伊勢)し防ぎつつ、
後方(関東以北、以東)がより混乱するのを待ち、
細く長く伸びた敵方本拠地との連絡線かつ兵站線(東海道)を水軍によってうがち、
縦深陣の底にある大城砦(大坂城)にて迎え撃つ
その間に、こちら側の兵站が万が一にも切られないように瀬戸内海を完全な安全地帯と
する為に伊予に出兵し、豊後に大友氏を上陸させ更に保険をかけておく
499人間七七四年:2011/07/14(木) 12:45:03.69 ID:9zcmEpyB
まあ毛利が南宮山を降りて家康を挟撃して大勝利してたら
最低でも豊前・阿波・安国寺と一緒に伊予・伊勢半国くらいは加増されていたかも知れない。
伊勢半国の代わりに讃岐を加増と言われたら悩むところだな。
500人間七七四年:2011/07/14(木) 21:36:00.81 ID:euNkZ2sc
あのさ、関ヶ原の本戦前ぐらいの時期って、広島城の留守を守るために
どのくらい予備兵力が残ってたんだろう?
各方面への派兵の展開から考えて、本国がほとんど空になってる気がするんだけど
501人間七七四年:2011/07/15(金) 05:55:00.13 ID:kTC91z1E
主だった将だけでも

関ヶ原 毛利秀元 吉川広家 安国寺恵瓊
大津城 小早川秀包
大阪城 毛利輝元

重要人物が揃って本国空けてるんじゃ長期戦はきついな
502人間七七四年:2011/07/15(金) 10:01:49.67 ID:P/Yl3HFk
如水の勢力の拡大がうまくいった場合は
四国方面調略担当だった元康騎下(秀包・宗茂ら大津攻略隊)の豊前下向はあり得るだろうね。
一応、伏見城攻撃で戦力ダウンした毛利(森氏)には豊前の自力防衛不可判定し小倉や香春嶽城に毛利軍を入れて守らせてはいる。
ここが破られたら門司海峡から毛利領へ渡海される可能性が生まれる。
しかし関ヶ原が無ければ筑前の秀秋がいるから如水も攻略が難しいが、
関ヶ原後なら筑前まで敵に回るから史実通りに如水や清正によって降伏が相次ぎ豊前や筑後平定が為され島津攻略へ南下と言う流れになる。
しかしこの史実通りの前提は輝元が家康への反抗を放棄した場合であり
大坂籠城した場合は元康らを豊前に急派するから小倉や香春嶽の死守が命じられ増強される。
大坂籠城には兵力はそれほど必要としないから秀元か広家のどちらかも下向するだろう。
義弘薩摩帰国後には島津の立花救援も発生するし筑後籠城組も豊前で如水を釘付けにしてくれたら
肥後南部の小西領を平定後の清正隊相手に長期に渡り士気が維持できるだろう。
14日に伊勢から関ヶ原へ来るように三成から命令を受けた為に関ヶ原当日に間に合わなかった西軍の鍋島がどう動くのか疑問だし
清正や如水も必ずしも東軍じゃないしどこかで和睦するんじゃないだろうか。
史実では大垣城離反組になった秋月や相良らも輝元大坂籠城の意志が固ければどうなるか不明。
と言うか毛利の抵抗意志が強ければ大垣城も健在で義弘が入っている可能性もある。
503人間七七四年:2011/07/15(金) 10:19:16.63 ID:P/Yl3HFk
如水のかき集めの軍なら
一部を筑後防衛に派兵後に
朝鮮出兵で鍛えた秀包や宗茂ら正規軍を先鋒に野戦決戦すれば勝てると思う。
それで大友残党に豊後の再制圧を任せて
筑前小早川攻略へ進む。
鍋島も何とか動かしたいところだな。
清正は島津の圧迫で全力は出せないだろうから筑後はまず安心だろう。
東軍は大坂城包囲に兵力を使うから九州下向は難しい。
またこの時期には阿波兵力も大坂に入ってるはず。
長宗我部には伊予攻略の為に土佐に下向してもらう。
長宗我部自身が秀吉との和睦の時に阿波と讃岐は返却するけど伊予は自分に欲しいと言う条件を出していたし
留守の伊予は攻略できるだろうし
藤堂や加藤が伊予に帰国して長宗我部と戦うならその分、大坂包囲力が弱まるし丹後攻略隊もこの時期には大坂城に合流済み。
憎き三成死後の豊臣武断派の調略に元就以来の謀略力を駆使するべき。
504人間七七四年:2011/07/15(金) 10:42:08.86 ID:P/Yl3HFk
さらに上杉の最上攻略が達成され
大坂包囲中の家康には伊達救援は不可能なんで
伊達も上杉に屈するので直江の思惑通りに進むことになり
佐竹と奥羽の軍を率いて結城秀康の下野を襲って江戸へ敗走させてしまえば、
徳川譜代は秀忠に従っているから空き家の関東蹂躙は容易い。
やはり瀬戸内海制海権を握りつつの大坂籠城は圧倒的に有利な手なんだよ。
そして野戦決戦用に集めた兵力を九州や四国制圧に振り分けつつ
三成や小西ら憎まれ組が武断派に捕縛されたのちは
豊臣武断派調略への道が切り開かれ
毛利有利な和睦斡旋も視野に入れられる条件闘争が可能。
505人間七七四年:2011/07/15(金) 11:21:12.34 ID:FityARJu
>>500
あの時点で広島城に2000以上の治安維持兼予備兵を拘束しておく価値はまるで無いでしょ
三方が川に面し、南面は海に面していた桃山期の近世仕様城を水軍無しで陥落させるのはまず無理
敵とすれば如水がまとめあげつつあった九州勢ということになるのだろうけれど、一気に広島を衝く
だけの水軍なんてもっていない
となれば如水軍は周防長門に上陸後陸路を進むわけだけど、毛利方が水軍を用いて各地に展開させて
いた兵を戻すほうが早い
第一、如水軍は周防長門に上陸しえたとしても兵站の維持が出来ない
赤間が関〜周防沖を毛利方が封鎖すれば立ち枯れるだけ
506人間七七四年:2011/07/15(金) 11:29:30.22 ID:kURujalb
如水は中国渡海が可能になるとは
最低でも豊後・豊前・筑前の制圧が前提条件だな。
そしてそれらの国の商船を含めた船舶の徴集。
507人間七七四年:2011/07/20(水) 20:32:41.02 ID:Oq+opl1e
>>489
その1年前の818政変の時も、いきり立って会薩に戦闘しかけそうな桂や久坂を、
毛利の名に傷がつくからと吉川経幹が説得して止めたな
あそこで暴発してたら維新もどうなったことやら
508人間七七四年:2011/07/20(水) 21:48:31.22 ID:Ja7BbK1N
吉川経幹は第2次長州征伐の後、維新目前で39歳で病死しちゃう

毛利敬親は、2年間、経幹の死を伏せて生きていることにした
翌年、敬親の働きかけで、明治新政府は正式な岩国藩主として
吉川家を認め、経幹は没後に最後の大名となった

吉川の関ヶ原が、ようやく終わった瞬間というか
509人間七七四年:2011/07/21(木) 00:03:21.23 ID:h+hen8qe
封建時代が終わった瞬間に関ヶ原終了というのもアレやな
510人間七七四年:2011/07/21(木) 00:23:30.03 ID:r5A9BydV
>>508
その10年後に小早川家を再興させて、毛利家の関ヶ原の清算は終わった
511人間七七四年:2011/07/21(木) 00:38:52.14 ID:ojpzb0jv
>>510
ま、それもあるけど
維新後、殿様の当主以外の息子の
落ち着き先としてじゃ無いかな、
乃木将軍が自決した後、毛利家から
養子が入ったが、いくらそれは無かろうと
批判殺到して、返上してるし。
512人間七七四年:2011/07/21(木) 00:47:58.57 ID:cb0H4i2E
>>511
大村益次郎の家を継いだのも毛利公の子息だったな。
ただ、小早川家の場合は、隆景から小早川家伝来の文書や「隆景様御道具」を
託された堅田元慶の子孫から、それらの文書類を家の証拠として小早川
三郎(毛利元徳の子)が譲り受けているとのこと。
513人間七七四年:2011/07/21(木) 12:13:43.13 ID:BGkgbtWo
小早川秀秋の備前藩改易の時に毛利はことごとく略奪したの?
514人間七七四年:2011/07/21(木) 20:54:10.60 ID:16h1D+VP
秀秋が毛利一門扱いされるのに違和感。
秀秋は隆景に乗っ取られる前の小早川を継いだ形じゃないの?
毛利から入った家臣団は隆景と一緒に三原に引き上げてるわけだし。
515人間七七四年:2011/07/21(木) 21:41:24.96 ID:BGkgbtWo
いやいや全員が隆景と共に三原に帰るを財政的な問題で輝元が反対しただろ。
その後、隆景が死んだ時にも家臣の一部が三原に戻りたいと言った時にも
輝元は困り、三成が助け船を出し
三原行き、筑前の管理をする三成が預かる、秀秋と一緒に越前加賀へ行くの3つに別れたはず
516人間七七四年:2011/07/27(水) 13:49:54.83 ID:+9HmjCP2
吉川の方が優れている
517人間七七四年:2011/07/28(木) 13:16:47.55 ID:qZ7pqX8h
>>515
よっぽど秀秋が嫌だったのかね、みんな
518人間七七四年:2011/07/28(木) 16:59:26.24 ID:AeRLvohc
>>515
元々、三原、竹原の地侍が多いからな、
後、秀秋本人よりも、お付きの豊臣家臣が
嫌いだったんだろう。
519人間七七四年:2011/07/28(木) 17:00:46.86 ID:4JUOH6vW
年寄りは故郷に帰りたいからな。
520人間七七四年:2011/07/28(木) 19:53:24.42 ID:B+HN1HcX
>>515
後者って、小早川の元々の家臣? 毛利から入ってきた連中じゃなくて?
521人間七七四年:2011/07/28(木) 22:32:50.72 ID:hp9JZ0qM
いずれにせよ、隆景の手を離れた時点で筑前に留まろうとは思わないだろう
血筋の者が後を継ぐならともかく豊臣系じゃなあ

ところで、小早川秀包の系統は関ヶ原後はどうなったの?
秀秋の系統は絶えたけど、秀包の方は残ったのかね
522人間七七四年:2011/07/28(木) 23:33:52.31 ID:JovHYCXj
家は明治まで残ってるよ
途中天野から養子が入ってるけど
523人間七七四年:2011/07/30(土) 01:06:22.49 ID:Z25jgLhF
隆景が筑前貰ったとき、元から持ってた三原、竹原辺りの領地は輝元のものになったのかね。
524人間七七四年:2011/07/30(土) 04:52:40.50 ID:J0dUkBm4
秀秋が相続して、隆景が引っ込んだ時に秀吉から隠居料に三原を与えられたことを考えると、
豊臣が筑前の代わりに没収してたんじゃね?
525人間七七四年:2011/07/30(土) 17:07:42.24 ID:69aJJroX
>>522
天野=右田毛利?
一門八家や支藩で養子縁組や婚姻関係が
多かったので、まったく血統的に切れては無いとおもう。
526人間七七四年:2011/07/30(土) 22:53:12.80 ID:awR/9asF
元就が子沢山で良かったな
527人間七七四年:2011/08/01(月) 13:16:38.47 ID:dtgReVxu
>>526
元就はラブマシーンだからな
毛利の未来は〜♪と歌いながら元就は逝った
528人間七七四年:2011/08/02(火) 23:28:24.38 ID:fq6lSRkO
元就も頑張ったが、子孫も頑張って励んだから無嗣断絶しないですんだ。
特に支藩の徳山藩は、子沢山の藩主が続けて出たので、一門八家などに養子に行っている。
その前の「万役山事件」で徳山藩が取り潰されたままだったら、どうなっていたことか。
529人間七七四年:2011/08/03(水) 12:36:42.36 ID:DZw4xjWH
しかし元就の三息子たちがホモだったからな…
義隆や陶らのホモ教育で隆元や元春や隆景が。

隆元は輝元のみ作ったが出来が悪くバカ過ぎ。
当主変更の予備がないため毛利衰亡の道を作ったし
元春なんて色黒ゴリラで男みたいな妻を娶るから筋脳バカしか生まれないし
隆景に至っては妻に会うのも正座でよそよそしい態度だったから子供すら作らなかった。
おまけにこいつらむちゃくちゃ仲が悪かったし。
530人間七七四年:2011/08/09(火) 02:42:25.21 ID:6lCge60K
三村元親って毛利が親の仇、宇喜多と同盟したとはいえ何故信長と手を結んだろ?
当時の機内の情勢では信長はとても播磨にすら侵攻厳しい、
まして備中まで援軍は不可能だよな
この辺は忠孝の意識が薄い現代人とは感性が違うのかなあ
531人間七七四年:2011/08/09(火) 11:01:22.30 ID:mE1OWOV1
他にいなかったんで無いかい
532人間七七四年:2011/08/10(水) 19:12:44.33 ID:iuiiTAk2
親の代から組んできたのに手切れだから、よっぽど直家が許せなかったんだろう。
織田からの直接の支援は期待してなかったのでは。

>>507
桂は止める側だったと思うが。蛤御門の変の辺り。

>>489
まぁネタにしても、「敬親様では負けてしまう」って訳じゃないな。

当時の藩主は吉川監物だったか、第二次長州征伐のときは、
幕府が長州藩使節の山縣半蔵らを捕らえたのを聞いて
「敬親公の名代に縄を掛けたる以上、幕府への信義もこれ迄だ」
みたいなこと言って、内通することもなくちゃんと戦ってる。格好いいね。
533人間七七四年:2011/08/10(水) 19:26:49.81 ID:sFpC2rI3
また吉川の子孫が必死に吉川擁護か…きもい
534人間七七四年:2011/08/10(水) 20:34:53.35 ID:RLqydgrt
第1次長州征伐の時は幕府&薩摩と萩(山口)の仲立ちを岩国藩でやったんじゃなかったっけ?
535人間七七四年:2011/08/11(木) 03:47:29.15 ID:0693O9qw
>>534
支藩の岩国が仲立ちというのも面白いな
536人間七七四年:2011/08/11(木) 08:04:33.29 ID:OMiAUtRN
>>534
確かまだ藩ではなく長州藩岩国領だったはずだが・・・
毛利陪臣の吉川が仲立ちしたと聞いて
岩国領成立の事情知らない当時の人からは奇怪に感じられただろうね。
537人間七七四年:2011/08/11(木) 08:49:06.93 ID:FDJT/oGt
>>533
関ヶ原での吉川擁護と毛利本家と隆景を貶すのに必死なやつらだからね。
毛利好きにとって獅子心中の虫だよな
538人間七七四年:2011/08/11(木) 10:55:30.81 ID:vmt56JLk
吉川広家が関ヶ原で東軍で積極的に戦っていたら、難癖なんかつけられなかったかな?

大津城や伏見城のこともあるから、どちらにしてもまずかったでしょう。
539人間七七四年:2011/08/14(日) 00:45:56.17 ID:wCWcHTVQ
>>532
桂は蛤御門の変の時は進発反対だったけど、
その1年前の818政変では進発させようとした側だよ。
それを吉川監物が説得して諦めさせた。桂の自著にあったはず。

岩国領主から藩主に格上げするからこれからも協力お願いね、
と文久三年に敬親直々に岩国に立ち寄って監物に申し入れており、
関ヶ原以来の復権だということで感動した監物は敬親に並々ならぬ忠誠心を抱いている。
540人間七七四年:2011/08/15(月) 11:54:38.55 ID:MTujSw69
昨日初めて郡山城行ったけど・・・
あそこまでの登山になるとは、ってかんじでしんどかった。

ついでに行った小倉山城は本丸通行止めだったしで
なんだか疲れた一日だったなぁ。
541人間七七四年:2011/08/15(月) 12:47:08.89 ID:yjsBa3lZ
萩藩の世子交代のときは、幕府に誓紙をさしだす。
すると幕府より新しい藩主に対して
「万事は松平に相談してからことをなせ」という絶対命令が、
萩藩にくだされる。その幕府文書も、毛利十一代史に掲載されている。

江戸時代を通じて萩藩は越前松平一門に組みこまれてしまいその支配下にあった。

毛利十一代史を調べると、まさに萩本藩毛利家が公式に発した文書はすべて
「松平長門守」になっていて、長府・防府などにある支藩の毛利家藩主の名はない。
すべて松平一族の藩主数人が、保証人として署名している。
朝廷の官職、大膳大夫でさえ、松平大膳大夫になっている。

輝元55歳&秀就14歳の時に駿府で大御所政治をしていた家康に完全屈服している事実。
http://ww2.enjoy.ne.jp/~eiichim/WAKAKI4.htm
542人間七七四年:2011/08/15(月) 20:44:39.23 ID:JE/4VbHw
>>541
家康公テラ警戒しとるw

>毛利十一代史を調べると、まさに萩本藩毛利家が公式に発した文書はすべて
>「松平長門守」になっていて、長府・防府などにある支藩の毛利家藩主の名はない。

ただこれに関しては、毛利本家が松平姓を下賜されてるからむしろ当然のような……
他に山内や前田や島津も下賜されてたよね。

越前松平に監視されています……ってのは面白いな。
ただ、その越前と連絡つけたって理由で松陰が処刑されてるってのはよく分からない。
万事越前に相談しろやゴルァされてたなら、むしろ越前と連絡とらない方が罪になるのでは……

> 薩摩藩と違い、維新のとき、萩藩の上層部が二つにわれて、抗争したり、
>藩としての行動が何もできなかったのは、この松平しばりが、強力に働いたからだ。

航海遠略策の周旋や文久二年の藩論転換の時は、一枚岩で藩として行動してたと思うな。
天保の改革の時と、第一次長州征伐のときは分裂してたが。

でも越前松平と毛利の関係は面白いね。
そんな中でも天保の改革に成功して金満長州藩が出来ちゃう辺りはどうなんだろ。
543人間七七四年:2011/08/15(月) 21:01:16.64 ID:aJIdJnNH
越前松平と血縁関係になる時、
結構無理を通したらしいからな。
544人間七七四年:2011/08/15(月) 22:50:35.74 ID:p9qSTrsV
関ヶ原後に大借金に絶望した輝元が毛利領を幕府に返上したいって泣きを入れたり
大坂陣で大坂方に密かに将を派遣して幕府にバレたりと輝元がバカやりまくったが
なるほど結城秀康系松平氏のおかげで毛利は改易されずにすんだんだろうな。
山口県民は福井県に土下座して感謝しないといけないな…
545人間七七四年:2011/08/16(火) 02:26:39.10 ID:o7g3hxO9
>>540
春か秋に行った方が、気候が穏やかで良かったんじゃないの?

あの辺の城では猿掛城にしか行ったことないけど、あそこは楽に行けたな。
546人間七七四年:2011/08/18(木) 10:58:39.92 ID:NbwgiJ+h
結城秀康死後に弱体化した時期の越前松平氏の奴隷になるなんて毛利貧弱すぎw
547人間七七四年:2011/08/18(木) 19:15:22.43 ID:iwAJFZE6
>>544
一般人だったものたちには関係無いな、
家来は困るが。
元々大内領だった時代が長かったとこだし
年貢は高かったので、天領になったほうが
お百姓は喜んだと思う。
548人間七七四年:2011/08/19(金) 09:20:43.17 ID:Elm5Dfg6
少なくとも馬関は天領にすべきだったと島津斉彬が言った
らしいw
549人間七七四年:2011/08/20(土) 21:45:29.37 ID:RqlgFZB8
江戸初期は北前船が無いし、大陸との交易の要衝も博多だから下関にそれほど価値がなかったんでしょう。
九州側押さえない限り海峡封鎖できないからね。最挟部でも700mはあるし。
550人間七七四年:2011/08/20(土) 23:57:49.63 ID:sHsCm5Oj
大砲が発達するとは思わなかったのかな?
551人間七七四年:2011/08/21(日) 01:35:02.80 ID:5J03p4Fu
それは無理でしょう。
明治の人に長距離弾道ミサイルの発展を前提に防衛計画作れ、というのと同じレベルですよ。
552人間七七四年:2011/08/21(日) 10:46:41.15 ID:clAnmU0p
関が原の後、本領広島を安堵され表高50万石くらいの扱いだったら、
幕末の歴史はどうなったのだろうか?
553人間七七四年:2011/08/21(日) 13:20:02.19 ID:pHDwjtfD
本願の地でもあるし、厳島〜大三島〜鞆と連なる瀬戸内の要衝を押さえたままで、かつ小早川隆景が
水軍の利便性を最優先して築城した三原城は毛利の手に残したままということになるので安芸+備後だと
ちょっと脅威が残りすぎる気がする
監視するには長門、石見、出雲、美作、備中、伊予に親徳川派を置いておかなければならない
史実のように防長2州であれば、馬関の対岸小倉表、石見口、安芸表に接する3藩ですむ
554人間七七四年:2011/08/21(日) 13:59:24.30 ID:H9Z+luVy
つーか毛利は安芸に入った福島正則への監視係だった節すらあるし。
555人間七七四年:2011/08/21(日) 16:53:09.56 ID:9Q50MIEx
弱体化させるなら佐竹みたいに遠くに
飛ばすべきだな。
土佐の山内と入れ替えて山内は周防だけにして、長門に譜代入れとけば、
幕末はどうなったろうか。
556人間七七四年:2011/08/21(日) 17:10:22.14 ID:lUAJ1BsG
まぁその時はその時で別の所で誰かが動いたんじゃないかな。

一応ある程度有りそうだった話としては、
加藤家改易の時の細川国替えの件があるね。
細川が周防長門に入り、毛利が肥後にという話。
557人間七七四年:2011/08/21(日) 22:14:50.12 ID:sXxgNZ6A
石高は肥後と防長で比べても大して変わらんのかね。
558人間七七四年:2011/08/21(日) 23:28:30.79 ID:pHDwjtfD
肥後細川54万石と防長毛利36万石
もっともあくまでも表高なので内高は防長2州の毛利の方がちょっと高い

江戸から眺めると、肥後毛利・薩摩島津や防長細川・安芸浅野・備前池田(間に
備後水野はいるけど)と並ばれるとなんとなく嫌〜な気がする
特に毛利島津の隣接はw
559人間七七四年:2011/08/21(日) 23:48:22.09 ID:yBhJ4BtY
宇土あたりに譜代の大名入れちゃえばいいじゃん
さすがに何もなしで肥後一国じゃ加増しすぎ
560人間七七四年:2011/08/22(月) 07:23:21.04 ID:2f3XsPux
>>559
肥後は火山性の土地や山間部が多いから伸び白がない気がする。
表高が高いと大名の経済的負担は増えるから、加増に見せかけた
毛利つぶしならばうなずけるね。

熊本城は毛利が入ったら破却にして、八代か宇土に城下を置きなさいと
いわれるんじゃないかね、萩の時と同じに。
561人間七七四年:2011/08/22(月) 13:42:55.24 ID:14mtRMja
>>560
> 熊本城は毛利が入ったら破却にして、八代か宇土に城下を置きなさいと
> いわれるんじゃないかね、萩の時と同じに。

萩を首府にしたのがが幕府の謀略というのは後世の俗説。毛利は最初から萩を本拠として
予定していた。当時の日本海交易の重要性を認識すべき。
562人間七七四年:2011/08/22(月) 16:01:13.21 ID:ANLp2Qsp
防長二州「しか」領国がない(海域支配も不可)となると山口に拘る必要性はないかもね
馬関だと西に寄りすぎるし、岩国は自領であって自領でないとなれば萩は守りやすいので悪くはない
外に伸びようとすると不便なので幕末期のように萩から山口に中心が自然と移る
563人間七七四年:2011/08/22(月) 20:35:10.34 ID:GozTgEYl
防府とかでもよかったような気がするんだけどなあ
とにかく他領から一番遠いところを選んだとしか思えないw>萩
564人間七七四年:2011/08/22(月) 23:43:13.90 ID:ANLp2Qsp
防府だと裸で寝転がってるようなものなので萩にしたんじゃないかと思う

東と西から来る敵は海岸線沿いを押さえてしまえば進みようがない
南は峠を押さえておけばよい
北西には波高な日本海 といったように守りやすいことこの上ないのが萩
565人間七七四年:2011/08/23(火) 12:17:50.00 ID:1s6zHRya
そのへんは長州藩が日本海岸線に作りまくった要害群が如実に物語ってくれてるなw
566人間七七四年:2011/08/23(火) 21:29:55.88 ID:zbIj6/fz
で、最初から毛利は萩を主府にするつもりだったとするソースは?
山陽道と瀬戸内海から出来る限り遠くへ飛ばされたとしか思えないが。
567人間七七四年:2011/08/24(水) 13:14:18.02 ID:eG/ZbfIq
>>566

毛利輝元の国司元蔵宛書状
『桑山(防府)は地理的には築城に良いが砂山であり、石垣の施工に困難なので他に土地を選びたい』

これで防府はなくなり、萩に決まった。
ここから見ても居城選定は毛利自身が主体的に行っており、さらに輝元は築城に対し防衛を最も重視したことが解る。

あと改易後毛利の首府選定に対し幕府が毛利に何らかの圧力をかけたという同時代史料は、毛利の側にも幕府の側にも
一切存在しない。これも傍証に成るだろう。
568人間七七四年:2011/08/24(水) 13:21:28.13 ID:eG/ZbfIq
ついでに言うと萩は明治6年の段階ですら日本で11番目の人口を誇る大都市だった。
江戸時代だと間違いなくトップ10に入っていた。
山陰だから不利だとか良くないと思うのは現代人のイメージにすぎない。

だいたい幕府が山陽道や瀬戸内海を本当に毛利に利用させたくないのなら、そもそも所領の中にその地域を入れない。
569人間七七四年:2011/08/24(水) 22:13:23.65 ID:h84WsV+5
>>567
何年何月の書状なの?
570人間七七四年:2011/08/24(水) 22:33:52.03 ID:0UjvfsAk
>>569
その書状は慶長8年だな


萩温泉旅館協同組合
■新しい 城地の決定■

 関ヶ原の戦いに敗れ、 周防・長門(すおう ながと)の 二カ国の領地を与えられた毛利輝元と家臣たちは、 領地の中心となる城
と城下町をつくる必要がありました。 輝元は、徳川家康から城をつくる許可をもらいますが、場所の決定にも、また許可がいります。
いろいろ考えたうえ、 山口の鴻峯(こうのみね)・ 防府の桑山(くわやま)・ 萩の指月山(しづきやま)の三つを候補地に選びました。

 まず、山口は、大内氏時代の中心地でしたが、海に面してなくて、時代にそぐわない所となっていました。
 防府は、山陽道ぞいにあり、海に面しており、交通に便利でしたが、桑山が砂山のため、 石垣が築きにくいという難点がありました。
 萩は、領地の中心からひっこんでいましたが、関ヶ原の戦いの前に輝元がいた広島城と同じように三角州が発達し、 しかも
海に面しており、海や川の交通に便利でした。
 輝元は、家老の福原広俊(ひろとし)を江戸につかわし、 国司元蔵(くにしもとぞう) とともに、家康の家臣の本多正信・正純親子の
意見を求めさせました。本多親子は、 三つの候補地の絵図を詳しく見ながら、それぞれの土地の様子について、 念を人れて
質間しました。その結果、本多氏の意見は、萩の指月山に城を築いた場合、敵を迎えうつには、 ちょうどよい所だということでした。
  そして正信は、
「防長(ぼうちょう) (周防・長門)の東と西の境目には、誰を置いたか。」
と、尋ねました。
  広俊と元蔵は、「東の岩国には吉川広家、西の長府には毛利秀元を置きました。」と、答えました。
 すると、正信は、
「岩国と長府と萩とでちょうど 鼎(かなえ)(三本足の金属器)のようになって、 萩の指月山に城を築けば、それはますます
位置がよい。」
ということになりました。
 こうして、萩の地に城と城下町をつくることが決定しました。
http://www.hagi.ne.jp/kanko/history_05.html
571人間七七四年:2011/08/24(水) 23:39:52.44 ID:h84WsV+5
だから何月なのさ?
572人間七七四年:2011/08/25(木) 00:04:51.40 ID:5vv7f9Wj
少しは自分で調べりゃいいのに、クレクレ君
573人間七七四年:2011/08/25(木) 00:07:05.28 ID:Oqs5og4q
なんだ捏造かよ
574人間七七四年:2011/08/25(木) 02:00:43.05 ID:s/fk/kVa
さすがにこの時点で捏造ってのは乱暴すぎないか?
おそらく毛利三代実録考証あたり見れば載ってんじゃね?
575人間七七四年:2011/08/25(木) 09:36:55.80 ID:lp206Cak
クレクレは放置でいいべ
576人間七七四年:2011/08/25(木) 16:15:06.39 ID:IY5nc4jy
本多親子、この時期ひっぱりだこだな。
でも、助言した「敵」に備えるという
敵って幕府の事?回りの大名に落ちぶれたとはいえ36万石以上ある毛利攻めれるやついないだろう。
577人間七七四年:2011/08/25(木) 17:26:49.22 ID:QLC6EpDq
>>573
毛利厨の主張は完全に捏造歪曲でしょ。
下記のように萩への築城を幕府に命じられ嫌々従ったために
不満の家臣団に対して輝元は必死になって詐欺の占筮をやって騙してる。

輝元は慶長八年(一六〇三)九月に幕府に許され、山口に入った。
そして、同年十一月に築城候補地として、防府の桑山、山口の鴻の峰、萩の指月山の三つを挙げ、
幕府と折衝したが、幕府は最も辺鄙な萩の指月山に築城を命じたのである。
輝元は慶長九年六月に築城を始め、十一月には入城する。
占筮が行われた慶長九年正月、三月十三日というのは幕府から萩築城を命じられた後である。
当時、輝元は山口に入っていた。地理的に恵まれない萩築城に不満もあっただろうが、
すでに幕府の決定が下っており、たとえ占筮の結果が凶と出ても、
萩の築城は撤回はできない。だから占筮結果は吉と出て、
藩が前向きに築城に取り組めることが望ましかったであろう。

ttp://www.geocities.jp/masukomasaru/daneki.htm
578人間七七四年:2011/08/25(木) 18:26:10.92 ID:5vv7f9Wj
>>577
この気持の悪い占いサイトの駄文を出して何をしたいんだ?
もしかしてサイトの本人か?

…お大事に
579人間七七四年:2011/08/25(木) 18:26:44.58 ID:s/fk/kVa
一応>>567の書状を簡単に調べてきた。

慶長八年十一月廿一日 輝元から国司元蔵宛書状
(前略)
一、爰元居城定、いかにも不成候、くわ山と申防府沖之山一段所柄山よく候、
たヽすな山にて石かき成かたく申候、、石かき不成候へ者手間明ハなく候、
可有察候、此ふんにてハいかヽと申事候而、すミかね候、何も追々可申候、
此方之躰中々不及とかく候、かさかしらをかきくさし候躰にてこそ候へ、
涯分秀就代官事候間、肝煎候て我々心たきの届を可申候と存事候、
一つも身のためにハ不役立事候へとも是まて候、万喜追々可申候、かしく

十一月廿一日 宗瑞様 御判
国隼

>>573
と言う訳で捏造ではない。

>>577
それはその人の見解であって、
それ自体は家臣団に不満がとかのソースにはならないぞ。
もっと言えば、そのソースからすら、占筮が詐欺であったという内容は出てこないしな。

個人的には輝元自身は萩築城に決して積極的ではなかったと思うが、
その主張法には首を傾げざるを得ないな。
580人間七七四年:2011/08/25(木) 19:56:36.89 ID:Oqs5og4q
>>579
いやいや文書内容の解釈が捏造じゃん。
山口に入った輝元は大内館に隣接する高嶺城を大改造したかったかったが(要衝の為か現在も自衛隊基地がある)
徳川の目を恐れて山口鴻峯と防府桑山と一番嫌だが徳川にへりくだり最果ての萩の3つを提案した。
そして本多の命令で結局、萩にさせられた。
そのために長府も岩国も萩の防衛にはまったく役に立たない立地であり
萩は石見からの侵攻に対して丸裸になってしまった。
幕末に山口へ移転したのも長府と岩国の中央が山口で長府と岩国による防衛が機能するから。
岩国と長府と萩で鼎のようにと表現してるのも
要するに萩・長府・岩国が孤立していて各個撃破し易いと家康の方針を伝えた本多に毛利は威圧されてるだけ。
ちなみに石見銀山などがある為に石見は当初、徳川の完全直轄方針だった。
そのため萩はいつでも徳川が捻り潰せる立地条件。
581人間七七四年:2011/08/25(木) 20:12:59.24 ID:s/fk/kVa
>>580
態度悪いなお前。
文章内容の解釈が捏造、と言いたいなら最初から何月のだとか言わず、
文章内容の解釈が捏造だと言えば良いだろ。

俺自身は文章内容の解釈論には付き合う気が無いので御自由にどうぞ。
ただそう主張するなら、
少なくとも山口高嶺城を第一候補だとしていたと示すに足る輝元の書状と、
萩が一番嫌だとする輝元の書状を、
年だけでなく何月の書状なのかまで書いておく必要があるな。
582人間七七四年:2011/08/25(木) 21:31:29.08 ID:EfuFoPw/
午前中、徒歩で萩市内に進撃。午後は青海島に上陸。翌日は津和野遠征。
修学旅行サイコー(^^)v いい思い出でした。
583人間七七四年:2011/08/26(金) 17:54:38.35 ID:KLCDlGia
萩城はかなり小さいがあそこで籠城しても
持たないんじゃ?
場所だけでなく城のおおきさまで、指定されたという説があったような。
後、石見から萩に行くには、益田氏の守る須佐を抜かねばならない、結構守りはかたそうだ。
584人間七七四年:2011/08/26(金) 18:31:23.81 ID:fZnZtVxP
以下は完全に推測ねw
萩城は統治の象徴として本城が必要とされていたので建てただけで、根本的には
鎌倉のような防衛方針だったんじゃないかなと
萩を守るには萩そのものを守る必要は無く萩に通じる海岸沿いの道と山道(峠)を守ること みたいな
城だけみれば表高37万石大名の本城の規模じゃないしね
585人間七七四年:2011/08/26(金) 18:36:45.61 ID:BIZV8G5E
別に自主的に毛利が居城を決められるなら
幕府の命令を仰ぐ必要もなく候補を3つも挙げる必要なんてないしね。
そもそも一番最初に腰を落ち着かせた場所が山口なのは、そこが一番よい立地だからでしょ。
水野勝成の福山藩や福島正則の広島藩を見ても瀬戸内海と山陽道側の方が
物流や交通の発展面で絶対に有利に決まってる。
>>568
明治7年〜41年の調査で日本一人口が多かったのは新潟県。
だからと言って江戸時代の越後が間違いなくトップ10に入っていた大都市などと
デタラメを吐く人間は見たことが無い。
江戸時代初期にはまだ灌漑農業が導入されておらず
塩田と青苧と金山が越後人口を支えていただけだから
越後の人口が多かったとは思えない。
その後、江戸中期以降の新潟などの河口の大開発とともに
農業人口が多くなり人口の増加が促進されたと思われるし
そうなると今度は都市化が遅れてしまった。
要するに明治初頭の巨大人口は農業よるもので都市化に遅れていたからに過ぎない。
>>583
益田氏の守る須佐を抜くも何も一国一城令で岩国天守まで破却してんだけど・・・
586人間七七四年:2011/08/26(金) 19:07:37.31 ID:cfp8XvTw
江戸期どころか現代に至るまで
日本海側の地の都市化は出来てないな。
鎖国政策で東アジア貿易が禁止されたからな。
587人間七七四年:2011/08/26(金) 20:08:24.62 ID:RUc1Ihvv
>>585
いやまあ↑のほうで、益田側から攻め込んだら、途中に何も無いような、書き込みだったからな。
国境に有力な支藩や家臣置いてあるよ
という意味で書いたのだ。
それに、戦の形が変わってるので、
岩国城のような山の上に城置くのは、
あの時代でも時代遅れになってたし。
588人間七七四年:2011/08/26(金) 22:10:26.19 ID:RUc1Ihvv
幕末に幕府が長州を攻めたときには関門海峡を挟んだ下関、小倉間で戦い、
大竹と小瀬川挟んだ和木の間で戦い、
海を渡って周防大島に上陸した幕府軍と戦った柳井駐屯部隊と高杉の艦隊
そして石見は津和野藩が中立になったので、そこを抜けて浜田に侵攻した
大村益次郎の事実上指揮する部隊の4つの場所で戦った、
こうしてみると、石見から侵攻するには津和野を通って山口に行く
JR山口線があるルートということになり、萩を攻めるには山口を抜けてから
陸路を行くか海から日本海を進んで侵攻するしかないようだ。
それだけ益田市から海岸沿いのルートが難所だったのだろう。
須佐の益田氏が城もってなくても侵攻されるのはほぼないといっていいだろう。
589人間七七四年:2011/08/26(金) 22:54:07.65 ID:LxYNZI9V
四境戦争の時は、本当は薩摩海軍が海上から萩を攻略するのが幕府の作戦だった。
薩長同盟で薩摩が蹴ったけど。
590人間七七四年:2011/08/27(土) 00:09:20.64 ID:C6GbRzni
益田氏如きが幕府軍の動員力にかなうと思ってんのかw
石見国の日本海側こそ行軍が厳しいが長門国側は大した要害なんてないぞ。
そもそも大内がたびたび石見銀山攻略のために進軍したが困難な行軍活動ではない。
石見から一路、萩が単独攻略される可能性はあるが
山口への侵攻なら萩・長府・岩国の三箇所からの挟撃を受けるためにいきなり山口攻略なんてやらんわ。
591人間七七四年:2011/08/27(土) 07:15:16.33 ID:gYgzK0vL
>>590
大内の石見銀山攻略は津和野の吉見が大内方だから津和野経由と、水軍の海路からの進行が主だよ。
592人間七七四年:2011/08/27(土) 07:34:52.59 ID:efRTsvap

石見から津和野経由だといやでも山口に行くようになるんだがw
今みたいにトンネルや橋は作れない時代で陸路で萩を目指すのは
海岸沿いはかなり困難、内陸行けば山口の近くに出るので、海路を使って
萩は攻略するのが一番効率はいい。
益田氏は表高1万石以上もらってる小大名並みの家臣だから、
後詰が来るまでは、通行困難な日本海沿いは守れると思うが。

基本的に幕藩初期の毛利はひたすら幕府に恭順しなければならず、
要害なんか整備してたら取り潰しの口実与えることになるので、
降参した犬状態だったと思われる。
593人間七七四年:2011/08/27(土) 15:12:20.34 ID:t5rnUv/f
うーん、海から侵攻されたら非常に弱くないか、萩。
すぐ西には油谷湾深川湾仙崎湾と天然の良港が続いてるから風待ちもし易いし。
経済的に見ても、後の北前船だって関門海峡通って三田尻とか経由で
瀬戸内航路を走ってる訳だし。
南を避けたとしたら、それは幕府に対する遠慮というか、警戒させないための方策じゃないかな。
本多親子に打診してるのも、あの時分ならこいつらの了解さえ得とけば
後から変な難癖付けられないだろうって打算だろう。
だから幕末にはさっさと山口市に移転した。
594人間七七四年:2011/08/27(土) 18:03:04.71 ID:ZgW2/rXX
一般的な通説のモンゴルばりに夜になったら船に戻る戦法ならいいけど
海から萩城侵攻を試みる場合、少なく見ても戦闘人員5千+後方関係1千は
萩城の間近に拠点を設けないといけないだろう
これだけの人員を展開させられる場の確保が難しいような気がする
というか渡海作戦で5千超の人員輸送は1大名でどうこうの規模じゃないなw
595人間七七四年:2011/08/27(土) 20:22:08.32 ID:1ki89kUV
>>593
蒸気船の出現以前というのを考えろ
596人間七七四年:2011/08/27(土) 21:04:44.70 ID:6xjEHXUf
大内の石見侵攻は津和野からだけじゃないぞ?
普通に各地から動員してて日本海側からなど、それぞれに日限までに石見入国してる。
そもそも山口県の日本海に難路は無いよ。
日本海側の難路の代表と言えば越後と越中の国境をまたがる親不知の難路だ。
日本海でも萩は冬季でも越後のような積雪量も無い。
海路を使うにしたって船舶が大量に係留されていた大補給港の博多を拠点にすれば萩なんて指呼の距離でわけなく落とせる。
597人間七七四年:2011/08/27(土) 21:32:44.31 ID:Y/fi3FWc
>>596
何か前提が違うようなw
それくらいの大軍との話なら、
萩といわず山口県ならどこを居城としてもさっくり落とされる。

実際には萩築城は豊臣が生きている間どころか秀忠も征夷大将軍になっていなかった時期。
隣国の2.3の大名家と争う想定は十分にあった訳で、
海路を大挙して、という前提自体がピントが外れていると思う。
598人間七七四年:2011/08/27(土) 23:01:07.45 ID:ZgW2/rXX
21世紀からみれば約250年間の長きにわたる大名規模の戦争がなかった時代の
始まりの頃だとわかっているけど、当時にしてみればまがりなりにも天下を統べて
いた秀吉の死後10年もたっていないしね
豊臣家の大老が征夷大将軍になったもののもういい年でその後継者は天下分け目の
合戦に遅参した男で、更にその男には元秀吉の養子だった武辺者の兄がいて、秀吉の
忘れ形見も難攻不落の大坂城に健在で・・・とまあもう一回応仁の乱始まっちゃうかも?
みたいな時代 に本拠となる城を萩に建ててみたわけだ
仮想敵は天下の軍ではなく近隣大名だろうね
599人間七七四年:2011/08/28(日) 10:26:12.08 ID:8WpfloiU
>>595
蒸気船ない時代でも、風向きによる制約が非常に大きくなるだけで
海路を使用した移動とか普通にしてたんじゃね?
特に大船建造禁止令の前は。
九州や四国には普通に渡海してたんだし。
600人間七七四年:2011/08/28(日) 11:25:42.78 ID:ZHdetznJ
>>599
時間も労力も規模も運用も異なるということを知るべき
601人間七七四年:2011/08/28(日) 21:50:00.88 ID:370f/qo4
徳川の威におびえ大減封を喰らって毛利家の生存に汲々としていたし
大借金も抱えて破綻寸前だった毛利が
徳川を気にせずに独断で萩築城を開始するわけが無いし
山口や瀬戸内海より萩の方が首府に相応しいなんてトンデモ理論はかつて聞いた事すら無い。
それにまだ戦乱が鎮まると思ってないのなら
なぜ大坂陣に大名連中が誰1人として大坂方に付かないのか説明できない。
もう大名連中も一発で御家改易と言う恐怖を関ヶ原で見てきて
もはや軍事的冒険よりも戦乱が治まり御家の永続が保証されることを望むように意識が変化していた現れだ。
602人間七七四年:2011/08/28(日) 22:44:32.59 ID:POIDnzyh
さすがに関ヶ原直後の慶長八年の段階で、
戦乱が治まっていると思ってる大名は居ないだろ。
最初にそういう動きが出てくるのはおそらく1620年頃の福岡城の話で、
それ以降なら弘前城とかそういう流れも出てくるが。
603人間七七四年:2011/08/29(月) 08:41:33.57 ID:8PtBFPLl
毛利がまだまだ動乱が続くと思っていた証拠=佐野道可事件
604人間七七四年:2011/08/29(月) 10:15:06.22 ID:91+fL69T
慶長八年当時
征夷大将軍徳川家康60歳 元豊臣家大老 旧主筋豊臣家は幼君秀頼を擁して大阪城に健在
長男 信康没
次男 結城秀康越前67万石 豊臣秀吉の元養子で器量人として名が通っていた
三男 次代秀忠 中山道で真田にひっかかり勝てず、関が原にも遅参
四男 松平忠吉尾張清洲52万石 関が原の島津追撃戦で武功を挙げた +近江彦根18万石井伊家はセット

これで太平の世が訪れ・・・る?と意識していただとw
605人間七七四年:2011/08/29(月) 11:38:07.29 ID:xy074avB
>>604
お前の歴史観は全部俗説かw
606人間七七四年:2011/08/29(月) 19:14:09.09 ID:pnIBjjU5
長府に秀元、岩国に広家という配置は臨戦態勢という感じだよね。
決して意気消沈して引き篭もったわけではないのだろう。
607人間七七四年:2011/08/29(月) 19:19:08.42 ID:0wmRPp7Z
岩国と広島の境が防御線として如何に重要かは幕末に分かったしなー
山間からいきなり川幅が広がってるから、何をどうしても大軍を一気に押し出すのに不向き
608人間七七四年:2011/08/29(月) 23:22:31.38 ID:xTOz4KvK
実際小瀬川は谷が急峻だよな
609人間七七四年:2011/08/30(火) 08:11:25.84 ID:BQS8NFxC
>>603
輝元がバカなだけ
>>604
戦乱の時代がまだ続くなんて思ってるなら盲目過ぎるな。
すでに秀頼みたいな幼君でなかった秀忠が家康が死んだとしても外様の権臣に専横されるような自体が発生しないままに
家康権力が譲渡され継続されるのは間違いないし
豊臣恩顧大名ですら徳川に従って御家の安泰を図ってるのに。
>>606
関ヶ原後に大借金を抱えて黒田にまで輝元は泣きを入れてるのに臨戦態勢なんてムリな話。
意気消沈して領民に大重税をかけて関ヶ原の大失策のツケを押し付けただけ。
610人間七七四年:2011/08/30(火) 14:51:39.65 ID:qQiUFAtF
>>600
それが不可能なら、厳島の戦いも不可能じゃない?
611人間七七四年:2011/08/30(火) 18:27:47.23 ID:YZHlj7Rz
>>609
推測onlyかよw
毛利だけでなく上杉や伊達、島津といった所も、
ある程度防衛を意識した施策を取っているが、
こいつら全員バカなだけという事か?
戦国大名バカだらけやな。
612人間七七四年:2011/08/31(水) 19:14:32.26 ID:cM1ZUWAX
>>603
宝くじ買った気分なんだろ。
万が一当たればと思ったが
正体がばれてしまう杜撰さが
輝元クオリティ。
613人間七七四年:2011/08/31(水) 22:05:33.69 ID:vLEsfS0u
>>611
みんな推測だらけじゃねぇかw
つうか露骨過ぎる毛利びいきのミスジャッジ発言自演よりマシだろ。
614人間七七四年:2011/08/31(水) 22:27:48.63 ID:7BehuIY6
さすがに関ヶ原直後で天下泰平が共通認識だというのはなw
新説過ぎるw
615人間七七四年:2011/09/01(木) 00:21:30.23 ID:G6S1oyG1
関ヶ原勝利後に家康に対して公然と反抗しようとした大名などいないだろ
関ヶ原で毛利や上杉が反抗したのが最後だし
それらが大減封した時点で大人しく家康の命令で城などの普請を受け持って大金を浪費させられまくってんじゃん。
せっかく危ない橋を渡りつつ御家が保てたのに
政治力すらない牢人じゃあるまいし関ヶ原後にまだ戦乱が続くなんて望んですらいないだろ。
616人間七七四年:2011/09/01(木) 01:05:28.81 ID:YtlFbEYG
望んでるのと予想してるのとは違うわな
617人間七七四年:2011/09/01(木) 01:54:54.99 ID:EPc/eJV8
戦は起きないという認識があるなら、
どの国もわざわざ金を使ってまで自国領内の軍事設備を整えないからな。
全国的に大きく防衛予算を節約する流れになるのは、
大阪以後に出された一国一城令からで、
それ以前は大半の国がそういう措置を取ってない。
618人間七七四年:2011/09/01(木) 06:34:03.41 ID:3+7HXbDB
それこそ、吉川なんて岩国転封後に早速城作り始めて(しかも山城)、
完成後3年で一国一城令で破却してる。
岩国城は立地的に戦争用としか思えない城。
毛利家はこの時点ではまだ一波乱あると思ってたとしか考えられない。
619人間七七四年:2011/09/01(木) 08:23:32.19 ID:G6S1oyG1
戦が起きないから無防備のままでいいなんて書いてないだろアホか。
620人間七七四年:2011/09/01(木) 13:06:55.23 ID:sYNZUWdL
輝元と広家が阿呆すぎたせいで秀元が過大評価気味
空弁当で止められるぐらい程度の無能なのに
621人間七七四年:2011/09/01(木) 14:56:39.60 ID:c0qassQh
夏らしい香ばしい子が沸いてるようですねw
622人間七七四年:2011/09/01(木) 21:01:48.60 ID:EPc/eJV8
>>619
戦が起きないという認識になれば、
実際にわざわざ新造してまで防備を固めていない。
例えば黒田長政などは自ら本丸を破却している位だ。
それが戦乱が終わったという認識から起きる事態。

それまでは毛利に限らずどの大名を見ても殆ど手を抜いてない。
逆説的に、戦乱が未だに終わったという認識を持っていた事を示すだろう。
623人間七七四年:2011/09/02(金) 06:38:08.67 ID:AcITU3Zi
長政が福岡城天守を造ったか
造ってないかは未だに謎なのに
なにを言い出すんだこいつ。
624人間七七四年:2011/09/03(土) 12:19:27.27 ID:Kmg1P4dm
広島城を中心に防衛計画を立ててきたが
それを取り上げられてんだから
新たな領国整備くらいするだろ。
しかし朝鮮役を経て戦に飽き関が原でも両天秤かけて必死に生き残りを勝ち取り
逆に改易された大名の落ちぶれた姿を見て、もはや戦を望まない雰囲気があったからこそ
関が原から14年後の大坂陣までずっと戦乱が起きなかったんだろ。
今までの戦乱ぶりを思えばここまで戦乱が起きない時代が逆に珍しいくらいだ。
戦乱を予想しているならば家康死後に早速野心家が現れてもおかしくない。
野心家が現れないというのは戦国初期の1500年代初頭から考えて
三世代目もしくは四世代目にあたり、もはや百戦錬磨の武将が少なくなり
保守的な傾向が強まったことが戦乱が治まっていく結果になった。
625人間七七四年:2011/09/06(火) 20:17:27.94 ID:g7PY6DVG
秀吉在世中に政宗が芸州転封する噂が流れた時に
毛利はどこに転封される予定だったんだろう。
やはり伊達と交換で大崎葛西領かな。
在地国人を先祖伝来の土着地から引き離し転封となれば、
毛利も官僚化が促されて強くなったかも知れんかったな。
北条領の国人が壊滅した後に転封した家康は支配力が飛躍的に上がったもんなあ
626人間七七四年:2011/09/18(日) 00:18:33.44 ID:HGbslhDw
毛利は九州みたいな話なかったっけ?
小早川の筑前転封が第一歩で
627人間七七四年:2011/09/23(金) 09:47:12.91 ID:zRE/r2tC
初期の毛利家を見てると大江一族のいる越後との行き来や交流があったりして面白いね。
元就のころにはそういうのもなくなってたみたいだけど。
628人間七七四年:2011/09/23(金) 13:24:12.42 ID:alkcyFKp
それまでの氏族中心の繋がりから、武士の在地化が進行したのが丁度室町〜戦国期だからな。
629人間七七四年:2011/09/23(金) 13:53:32.91 ID:vUDDFy8B
安田と那波は戦国期まで交流が続いていたらしいよ
630人間七七四年:2011/10/06(木) 02:34:34.43 ID:yomP1qzs
今週の「歴史秘話ヒストリア」の関ヶ原の名将として広家でてたけど、
「じいちゃんの言いつけを守る素直なお孫さん」設定だった
しかし、司会が元就を素で「じいちゃん」と連呼するのはどうなんだw
631人間七七四年:2011/10/07(金) 17:33:44.36 ID:1rfTEiqh
安芸に毛利宗家を持って行った時親は
河内に領地持ってたけどあちらには
誰も残らなかったんだろうか?
632人間七七四年:2011/10/12(水) 23:43:04.51 ID:ntNIZBoM
>>631
河内に所領持ってたっての初耳だわ
633人間七七四年:2011/10/14(金) 22:37:46.22 ID:7BYgKl5a
>>632
河合正治の「安芸毛利一族」に載ってた。
鎌倉幕府の六波羅探題の評定衆だったが
北条一族やその家臣の横暴に嫌気がさし
隠居して河内の加賀田郷の領地に
引きこもった、その時に楠木正成に
兵法を教えた、と言う逸話があるそうな。
四男の時親が長男を差し置いて
家督を継いだのも優秀さを期待されたから
末期の鎌倉幕府から距離を置き、
越後と安芸に、一族を分けたり
跡目を曽孫の元春に継がせたり、
期待に応えた人物のようだね。
634人間七七四年:2011/10/15(土) 02:21:27.18 ID:ddjzxymW
なるほど、正成に兵法教えた説もあるとは聞いてたけど、河内に居たからこその話なわけか。

俺の読んだ本じゃ郡山城築城の際に河内の一族も結集させたとまでしか書かれてなかったから、河内領がどうなったかまでは分からんな。
南北朝の争乱期のごたごたで召し上げられたとかなのだろうか。
635人間七七四年:2011/10/15(土) 12:06:09.80 ID:RiDmgAzO
>>634
あと、越後の佐橋庄南条にも時親は所領を
持っていて、そちらの一族も安芸に呼んで
いる。
佐橋庄の北条は時親の兄が継いで北条氏に
なった。
南北朝の頃は、家督を継いだ元春は北朝
元春の父と祖父は南朝について、
両陣営から褒美や所領を貰ってる。
その頃は亡くなっていた時親の指示
だったのかは分からないが、
戦国時代に弘元が同じことをしてるので
よくある事なのかもしれないな。
636人間七七四年:2011/10/16(日) 12:09:46.21 ID:sG14lUNY
交通・通信手段が未発達な時代にあちこちの所領をよく管理できたものだね。
637人間七七四年:2011/10/16(日) 16:50:22.31 ID:V3Tkw5bE
代官を出して管理していた。

ちなみに室町期には、公家などは土倉から荘園からの収入に相当する資金を先に借り受け、
そのかわりノウハウを持った土倉の職員を荘園の管理者に任命するという、金融機関による管理というやりかたで
荘園を運営していた。
638人間七七四年:2011/10/17(月) 10:34:28.52 ID:n+bJ5sef
>>637
なるほど、社会が安定した状態なら
維持出来るけど、戦乱になると
飛び地は守るのが大変だから、
一族集結するわけだね。
639人間七七四年:2011/10/18(火) 08:57:12.20 ID:yyXQ/cJY
豊前城井長房も宇都宮本家が滅亡寸前なのを心配して
自領を息子に任せて介入したしな。
640人間七七四年:2011/10/24(月) 20:52:54.20 ID:8aL5LLDE
毛利は家名を残すのに並々ならぬ
執念を感じる、
初代季光の時に一族滅亡の危機があり
そこからの 挽回に苦労したからだろうか?
二大陣営に対しての二又保険掛けぶりは
見事に尽きる。
641人間七七四年:2011/10/25(火) 21:44:00.73 ID:OQynd0FQ
福島正則は芸州に転封になった時に毛利に備えて国境に城を築いたらしいがあれってなんていう城?
642人間七七四年:2011/10/26(水) 10:08:15.85 ID:AzYW2ZEI
亀居城
大竹にある
643人間七七四年:2011/10/26(水) 13:20:05.45 ID:+ViNphed
>>640
秀吉が隆景に言ったように、
勇気がなく、コウモリだっただけだろ。
644人間七七四年:2011/10/26(水) 20:28:33.12 ID:jtZOuQ71
豊臣は滅亡し、毛利は残った。
どちらが賢明だろうか?
645人間七七四年:2011/10/26(水) 23:41:57.53 ID:QyFjan6h
残った言うてもほとんど運みたいなレベルだろ
総大将で尚且つ積極的に輝元動いたんだから改易されて普通
646人間七七四年:2011/10/26(水) 23:52:53.06 ID:L+oCsir4
>>643
どっちつかずの外交は毛利家のお家芸だよ

時親のひ孫の毛利元春の代では南北朝時代に親子で北朝と南朝で分かれ
幕府側についた弘元と大内側についた興元とで分かれたり
秀吉と勝家のときは隆景が秀吉側、元春が勝家側を推して毛利本家は中立という立場をとったわけで

仮に隆景が野心を持ってたら、もっと警戒されてたというか、最悪とり潰されてたかもしれんよ
もし、天下を取るような男だと言われたら如水さんのように隠居しないといけなくなるw
647人間七七四年:2011/10/27(木) 00:41:19.91 ID:8gwcmBff
>>645
総大将なのは間違いないけど、積極的に動いたと言えるのかねあれで?
事前行動はともかく、実際戦場で戦ってない上、大阪城もあっけなく明け渡したからこそ
お家取り潰しの決定が覆されたんだろうから、やはりしぶといと言わざるをえない
648人間七七四年:2011/10/27(木) 11:22:18.99 ID:bKU8NUwT
>>646
そのせいで元春親子は暗殺されたし、
そもそも隆景と元春は、
単にむちゃくちゃ仲が悪かっただけの話。
おかげで山中鹿を捕らえたのちに
織田との決戦で義昭と隆景が毛利全軍を結集しようとした時も、
元春だけが山陰支援を主張して対立してる間に、
織田が盛り返してしまう始末。
>>647
輝元の責任を問うし、
毛利改易は免れない状態だったが、
九州をほぼ制した如水や清正が過大報酬を要求し、
島津も降伏しないから、
家康が島津征伐を発表し、
輝元が先陣として死ぬ気で忠節し、
総大将の秀忠が通過した毛利領には、
徳川の管理下に置かれるとする
情勢変更で毛利改易が免れただけ。
単に毛利が運が良かっただけ
649人間七七四年:2011/10/27(木) 11:28:19.20 ID:pziOsWNv
山陽道は小早川、山陰道は吉川
よくよく考えたら凄いナ
650人間七七四年:2011/10/27(木) 11:44:39.54 ID:bKU8NUwT
南条ごときに大苦戦してたショボさが元春w
651人間七七四年:2011/10/27(木) 14:22:56.15 ID:Lzmrd2fw
運も実力のうちだな、
本能寺の変に関ヶ原に、大阪城攻めに、
長州征伐、何回運がいいんだよ。
652人間七七四年:2011/10/27(木) 15:14:27.38 ID:yzKQrdHa
人智を尽くして天命を待った努力の結果の運なら実力だが、
毛利の場合は優柔不断、
統率力皆無、
内ゲバ
だから単にラッキーなだけで、
実力では無い。
653人間七七四年:2011/10/27(木) 20:17:01.97 ID:FW5FHQkM
>>651
長州征伐は運というより幕府がありえないほど駄目すぎた
いくら太平ボケしてるからって、
自分達から仕掛けた戦争でまともに戦おうとせずに逃亡は酷い
654人間七七四年:2011/10/27(木) 20:48:33.69 ID:weuFUR96
>>648
元春が暗殺されたにせよ、隆景が五大老に上り詰めたりで毛利家として見たらやはり博打は成功している

輝元が暗愚なのは認めるけど、親族の二股政策のおかげで命拾いしているもの事実
関ヶ原敗戦後の輝元はなりふり構わずお家存続の為に動いている、これもある意味才能
運がよかっただけなんて言ったら家康だってそうなってしまう
655人間七七四年:2011/10/27(木) 21:33:36.32 ID:2TQ8ZcV4
>>653
それは第二次長州征伐だろ、
第一次に攻められたら、
そこで終わってたよ。
保守派が三家老切腹をはじめとして
なりふり構わず粛清して恭順して
薩摩などが手を引いたから
やられずに済んだんだが。
656人間七七四年:2011/10/28(金) 01:35:19.49 ID:Vl8DdG5F
元春が暗殺されたのはコレ事実な。
657人間七七四年:2011/10/29(土) 13:55:20.66 ID:63AM2kHE
ところで隆元の実際の才能は輝元と比べてどうだったの
658人間七七四年:2011/10/29(土) 18:16:52.80 ID:mh++4qZM
ところでとか言われて置かれている状況も情勢も立場も違うのに簡単に比較できるかよ
659人間七七四年:2011/10/29(土) 21:27:44.46 ID:qxlDkG4y
戦争でも外交でも内政でも、目立った功績は少ないが失敗もない。
参加した戦闘は少ないがほとんどで勝ってる(総大将として控えてただけ、って話もあるけど)。

陶との手切れは、隆元が青臭い正義感で主張した、って話があるけど、そうだとしても
家中の重臣連中を抱き込んで、元就を説得するだけの政治力があったのは確か。
660人間七七四年:2011/10/29(土) 22:13:30.17 ID:W1WYLO+m
秀包も暗殺なのかな?
661人間七七四年:2011/10/29(土) 22:17:08.56 ID:6m1U80wM
>>657
元就も隆元の死で相当落胆したらしいから、輝元よりは優秀だったんじゃない?
隆元が有能だった上、輝元が無能だったゆえに元就の悲しみと不安も相乗的に大きくなったと推測
662人間七七四年:2011/10/30(日) 01:10:16.44 ID:cRLU4r0g
毛利隆元好きな奴は真田信之とか松平信康とか、そんな功績立ててないのにチヤホヤされる武将が好みだと思う
663人間七七四年:2011/10/31(月) 16:45:39.15 ID:Jssqljcx
陶に付いても毛利は滅ぼされるか
養子押し付けで乗っ取られるか
しそうだったんで敢えて、
大内義隆の弔い合戦を隆元に
唱えさせたのかもな、
義理とはいえ婿だからな。
664人間七七四年:2011/10/31(月) 19:16:47.78 ID:po9rXbDD
>>663
陶の義隆への謀反は、実は元就も結託してけしかけていた
陶をけしかけ大内家を潰させ、その陶を反逆者として滅ぼす
大内家の文治派と文武派の派閥争いを利用した
元就の計算どうりってこったね
665人間七七四年:2011/10/31(月) 19:18:13.67 ID:bivalu1Z
>>662
知ったかのアンチ乙。
666人間七七四年:2011/11/01(火) 07:45:56.16 ID:MrIJCDDo
西国無双の侍大将・陶が何故敗れたのか?
667人間七七四年:2011/11/01(火) 09:12:34.26 ID:R8ebT6iE
それほど謎はないから自分で調べてみろ
668人間七七四年:2011/11/01(火) 15:58:21.91 ID:ifBLi+TA
>>664
そこまで計算してたのかな、
尼子の新宮党誅伐に元就が関与してた説
とおなじでは?
文化に浸り、尼子が侵攻して来ても、
後詰めも出してくれそうに無い義隆に
愛想は尽かしてたろうけど、
今更尼子に着くわけにもいかず
陶に加担したものではないだろうか。
669人間七七四年:2011/11/01(火) 23:29:59.51 ID:uj+wn4AJ
元就が陶隆房の謀反に同調したのは、大内義隆を助命するという条件があったため。
つまりは、文弱になった義隆ではなく、英邁な君主もしくは隆房による大内体制の強化が
目的だったと思います。つまりは、元就自体は安芸国守護(代)的な意識と目的をもって
隆房の謀反に同調したと。まさか自身が周防・長門国へと侵攻して大内氏に取って代わる
とは、この時思いもしなかったと推測される。
ただ、厳島の戦い前後を見ると、厳島の戦いの後にすぐさま防長経略に移っていることか
ら、決戦後に大内領の併呑は計算のうちだったと思います。
670人間七七四年:2011/11/02(水) 01:38:14.49 ID:DTnXXCO2
大内方は隆房の討ち死にで内部分裂してたからね
立て直す前に速効で攻め入りたかったんだろう
671人間七七四年:2011/11/02(水) 09:01:36.97 ID:RoKb08WA
義隆助命を元就は情景に出したりしてないぞ。
陶本人が義隆を殺すつもりが無かった。
また元就(安芸備後傘一揆同盟30万石+長門隆元正室内藤氏領13万石)は
陶(16万石)を倒せる自信が一切なく、
万が一にも倒したとしても、
周防16万石+長門13万石の二ヶ国を治められる自信も全く無かった。
なぜなら義隆を裏切り、
いままた陶を裏切る元就にはまったく正義も道理もただの卑劣漢だから。
そのため大内義長を味方にしたいと考えてた。
結局、厳島合戦は村上水軍が活躍して勝利を貰っただけだし。

672人間七七四年:2011/11/02(水) 09:03:32.61 ID:RoKb08WA
訂正
情景→条件
673人間七七四年:2011/11/02(水) 09:20:53.49 ID:rPGucah9
>>671
>陶本人が義隆を殺すつもりが無かった
いつもの妄想電波アンチ君、お前は二度とレスしなくていいぞ
ソース無しのアンチレスは見飽きた
674人間七七四年:2011/11/02(水) 23:15:00.93 ID:cI6RV4qU
つーか、なんで長門が全部内藤氏の所領で、周防が全部陶氏の所領って計算になってるんだ?
675人間七七四年:2011/11/02(水) 23:17:42.62 ID:4mMHleSB
いつもの電波なので触るな危険w
676人間七七四年:2011/11/02(水) 23:27:12.34 ID:rPGucah9
一揆連合wの元就程度以上の勢力圏を一代で築けたのは信長だけ
信長>一揆連合・元就w>その他一流戦国大名 となります
677人間七七四年:2011/11/02(水) 23:47:07.55 ID:b7bXDjDB
秀吉も家康も一代で天下統一しとるがな
678人間七七四年:2011/11/03(木) 00:45:44.29 ID:A8YWtD/I
秀吉と家康は信長の作ったレールの上を走った感が強いけどな
679人間七七四年:2011/11/03(木) 02:47:57.07 ID:pcmCt8tw
最近では村上水軍が参戦したかも怪しいとか言われているのに…
あと陶の墓は結局ドコにあるんだろうか。
680人間七七四年:2011/11/03(木) 08:15:36.70 ID:Azm10TuO
>>674
おのおのが守護代として動員管轄権あるわけだが。
守護代権力に公然と反した国人がいたなら教えてくれ。
>>679
怪しいも何も
元就本人が村上水軍が味方にならないと
我々はお終いだと嘆いてるわけだが。
もっとも郡山城救援で
村上水軍が武田支援して、
周防から安芸への後方連絡遮断した時に、
陶は危険を犯して元就救援を強行して
背後からの追撃の危険を警戒して元就を助けてるが、
そのことから村上水軍の権益を陶は奪い取り報復してる。
だから村上水軍は陶に協力するわけもなく、
元就は運が良かったわけだが。
681人間七七四年:2011/11/03(木) 10:50:37.68 ID:CDwUquto
陶は駄別銭などを禁止したとあるが、
これは、関所を廃止した信長の政策に
近いのかな?
だとすると、大友から当主を迎え、
後方の安全図って、上洛を
目指したのと見るべきなのだろうか。
そうなると毛利はこれまでの立場から、
尖兵として使い潰されるか、
支配体制強化のため、潰されるか、
どちらかの可能性があったのではないか?
隆元は早くにその可能性を指摘して、
義隆の義理娘婿の立場を生かして、
大義名分論による陶との手切れを
主張して、
元就は毛利の家名存続の為に、
慎重論に回り、時間稼ぎして
情勢を見つつ陶の対応次第でどちらにでも
出来るようにしてたんではないかな。
682人間七七四年:2011/11/03(木) 10:54:21.75 ID:zp3ENAO/
>>681
> これは、関所を廃止した信長の政策に

まだこんな事信じてる人間いたのか。信長は関所なんか廃止してない。
『敵の軍事用の関所』は廃止したが、経済関所は全部保護している。
683人間七七四年:2011/11/03(木) 11:42:04.39 ID:D2GfYfi4
陶が上洛を目指したなんて話はまったくない。
石見銀山のある石見国の掌握に集中してただけ。
毛利が困難に直面すると低姿勢で頼むくせに
まったくルールを守らない体質なのは
幕府の和睦斡旋をすぐ破る。
義昭に献金するとうまい事をいっておいて
結局、まったく払わない。
など心底、腹の中が腐ってることからもわかる。
義昭が表裏ありすぎて信用できないと
罵ったのは神州広しと言えども毛利家ただ一家だけ。
684人間七七四年:2011/11/03(木) 11:45:22.67 ID:pcmCt8tw
>>681
説があるのとそれを支持するのは別ね。説を出しただけで信奉者と思われても困る。
685人間七七四年:2011/11/03(木) 20:16:32.04 ID:gwIg2Rnd
>>683
義隆を討ってから余り経たないうちに
厳島で死んだから、
彼がなにを目指して主君を討ったのか?
単にとって代わりたかっただけなのか
銀山奪って満足したのか?
尼子を討つ事だけで終わるのか?
資料が無いからあり得ないなんて
考えないのはどうだろうか?
686人間七七四年:2011/11/05(土) 16:27:47.31 ID:UJHmAoQI
現状に不満だったから謀反を起こしたんじゃないの?
そこまで深く考えていたとは思えない
もっと言うとあの時代、誰もが天下を目指して戦っていた訳ではない、それこそ信長くらいだと思う
687人間七七四年:2011/11/06(日) 12:59:21.67 ID:vOeBZZ25
隆房は謀反というより、主君押込が目的だったということは間違いないですね。

ただ、時代的に江戸時代よりは武力による政権交代の様相が強かったということ
でしょう。結果的に大内氏も足利将軍家のように、お飾りでしかなかったと。

隆房自身はお家乗っ取りのつもりは毛頭なかったんじゃないかなと思いますね。
彼も大内の支流で、代々忠臣の家系。強い自負心が彼を大寧寺の変に向かわせた
のではないかな。
688人間七七四年:2011/11/06(日) 21:32:06.31 ID:3+WkWQhZ
一歩間違えば毛利家もそうなる可能性があったよな
国人領主の集合体はどこも似たもんだろうが
689人間七七四年:2011/11/07(月) 00:14:58.24 ID:7yWfq5Ur
押込は江戸時代でも起こった現象で独裁者を許さない日本人独特の特性からくる行動
話し合い(家臣団の意見)で決めたことが絶対に正しい和の精神を象徴している
国人領主とかそういうのは関係ない
690人間七七四年:2011/11/07(月) 09:08:59.79 ID:diKLUiP6
日本人にかぎらず平時に独裁者を許す社会など存在せんがな。
余程の危機敵状況の中で初めて独裁は可能になるわけで。

ついでにいうと戦国大名なんて現代的基準から言えば全員独裁者だぞ
691人間七七四年:2011/11/07(月) 10:10:15.08 ID:xl7Yikwg
戦国時代に独裁やったら
すぐ離反、謀反、一揆が起きて殺されるだけ。
現代の会社の社長よりはるかに部下に気を使い
信賞必罰してる。
692人間七七四年:2011/11/07(月) 10:26:25.56 ID:diKLUiP6
>>691
お前は独裁と専政を一緒にしている
693人間七七四年:2011/11/07(月) 12:18:45.03 ID:7yWfq5Ur
室町、江戸と軍事政権であるはずの幕府の将軍ですら家臣の合議制だし
将軍が家臣団の合議に逆らえない体制が和の国である日本にとっては自然な姿となっている
694人間七七四年:2011/11/07(月) 12:55:05.50 ID:Ej5+Ahwf
>>688
言葉はともかく意味する所は同じでしょ。大内氏家臣団は国人領主を吸収した
が、基本家臣団は一門の末裔か譜代家臣。江戸時代の家臣団とあまり変わらんよ。
695人間七七四年:2011/11/07(月) 13:48:32.44 ID:bz7XH4t6
>>692
違いを語ってください。
696人間七七四年:2011/11/07(月) 13:56:03.64 ID:EgFeSe/A
>>695
専政はその人間あるいは勢力が自分たちの利害のみを考慮して政治を行うこと
自分たちの利害意外を考慮しない

独裁は文字通り「独りで裁く」、つまり第一人者が各勢力の利害調整を行いつつ物事を進めること。
強度のリーダーシップと呼んでもいい。
たいていの戦国武将はこれだ。
697人間七七四年:2011/11/07(月) 14:07:08.75 ID:bz7XH4t6
なんだ、まったくデタラメじゃんか。
いま考えただけだろ
698人間七七四年:2011/11/07(月) 16:23:13.32 ID:rkRQo4Uh
>>696
大抵というが信長位じゃないか?
そこまで、独裁できてたの。
699人間七七四年:2011/11/07(月) 16:29:29.33 ID:EgFeSe/A
>>697
じゃあどう違わないかお前が説明すればいいさ

>>698
そんなわけねーだろ。どれだけ信長に夢見てるんだよ
700人間七七四年:2011/11/07(月) 17:02:44.55 ID:7yWfq5Ur
信長は信教の自由も認めているし部下にも巨大な権限を与えて行動させている
独裁者とはちょっと違う、完全実力主義の敏腕社長といった所じゃない?
701人間七七四年:2011/11/07(月) 17:27:43.78 ID:rJIjBwzU
専制→特権階級や貴族などの階級身分の者が民衆の支持とは関係なく、いわば正統な権利なく民衆を支配すること。
独裁→民衆の支持によって特権を与えられた独裁者であり
元々は民衆と独裁者は同じ民衆身分。
702人間七七四年:2011/11/07(月) 20:42:22.94 ID:gZERp5qi
元就以後はそうせい侯の伝統だな。
703人間774年:2011/11/08(火) 23:24:16.70 ID:EEzsA96P
中国地方5県の石高が187万石位だから、
最大動員兵力って5万人位かなって思います。
銀山があるからもっと多いかも?
皆さんはどれくらいだと思われますか?
704人間七七四年:2011/11/09(水) 08:27:49.81 ID:IkqC3kJO
なんで鳥取県や岡山県全域を足してんだよ…アホか
705人間七七四年:2011/11/09(水) 10:11:35.80 ID:oKk85tkn
北九州攻防戦で4万人で戦ってるから、領国の守備に1万人位いたと予想。
岡山は宇喜多で一時期同盟してた。
鳥取は南條氏や山名で毛利になびいてたと思ったけど?
毛利吉川小早川だけで5万人前後動かせて、宇喜多や山名や
播磨但馬の国人衆を合わせたら7万人は行けると思うんだけど?
706人間七七四年:2011/11/09(水) 10:31:37.29 ID:pIL2qie0
同盟軍を足すのはどうかな。
宇喜多や山名は北九州に行ってないよ。
707人間七七四年:2011/11/09(水) 10:50:14.20 ID:oKk85tkn
何で毛利かって言うと、織田はいっつも兵力で勝ってるから。
局地戦では勝てても、最終的に兵力が多く常備軍の信長が勝ってる。
対抗出来そうなのはどこかと探すと、毛利と後北条位かなとなる。
708人間七七四年:2011/11/09(水) 10:59:11.95 ID:pIL2qie0
織田の常備軍なんて講談雑誌の捏造だよ。
それに織田が各地に最低限配置してる守備を除いて
決戦用に信長が指揮できる兵は、
朝倉旧臣合わせて3万くらいだよ。
山陽までくるか疑問だけど家康が5000くらい。
本願寺と和睦するまではそのくらいの兵力。
709人間七七四年:2011/11/14(月) 10:16:46.48 ID:V56u3veO
あらためて思うに、毛利家っていろんな意味で楽しめるよな
安芸の国人衆の1つから一代で中国地方を席巻した元就
一代で築いたスタート時からの勢力の拡大幅は信長に次ぐ規模
その後戦国レースを優勝した信長に取って代わった秀吉に接近
一時は五大老のうち2席を毛利家で獲得(これも準優勝、優勝は秀吉)
その後関ヶ原の合戦でも形式的には西軍の総大将
まさにシルバーコレクター毛利家
最後は江戸時代の雌伏の時代を経て、最終的には薩摩とともに天下を取る
初代内閣総理大臣を毛利家から出し、最終的には優勝、ほんとドラマチックだわ
710人間七七四年:2011/11/14(月) 11:39:26.79 ID:ARVComXM
いつものアンチが沸いて一言
「一揆連合、運がいい、兄弟仲が悪い、最後は憤死し哀れな末路が云々かんぬんモゴモゴ」
711人間七七四年:2011/11/14(月) 14:22:55.81 ID:PzAe1Mqf
>>705>>708
織田3万対毛利7万か。
毛利厨ってやはり基地外だな。
毛利の軍記の動員数を事実扱いするなんて
基地外としか思えない。
712人間七七四年:2011/11/14(月) 16:34:00.82 ID:6P2KJpLR
毛利の勢力圏というか当時の戦国大名の勢力圏はこの指とまれで、安芸のみならず中国全土の
国人らが御輿に担いだだけだから、過大評価してはならんよ。
もちろん、国人らをまとめて武力侵攻したり、説得したりして指に止まる各地の豪族を増やしていく
わけだけど、秀吉、徳川幕府時代のように中央集権化を目指して強固な家臣団を作り上げていった
イメージそのままで語ってはならないね。
だから劣勢になってくると各地の豪族の所属替えが起こって簡単に滅亡に追い込まれる。
各地に豪族にとっては既得権益が認められれば御輿が変わるだけで関係ないからね。
毛利が急速に勢力圏を伸ばしたことは、裏を返せば、急速に勢力圏が縮まった可能性があるってこと。
毛利は絶妙な時期に秀吉に臣従してかなり得したと思うね。
713人間七七四年:2011/11/14(月) 22:06:08.35 ID:IjQtto7O
>>712
毛利輝元領国の母体は緩やかな連携合議集団の
安芸唐傘連判一揆連合だから、
他の戦国大名とは全く違うよ。
714人間七七四年:2011/11/14(月) 23:23:44.32 ID:6P2KJpLR
>>713
それは弱小の最初期であって、勢力拡大時は全くというほどの違いはないよ。
715人間七七四年:2011/11/14(月) 23:35:10.81 ID:Jbgdn8ll
毛利は動員遅いってエケイに怒られてなかったかいね?
716人間七七四年:2011/11/14(月) 23:50:46.95 ID:fcLqrAGI
毛利家文書の861だっけか、上方の軍勢は迅速だが毛利は遅いって…
国境確定交渉の最中で毛利家中が頑なで開戦もやむなしって感じなのを諫めてる
717人間七七四年:2011/11/15(火) 00:09:41.13 ID:OQzM8hQL
>>714
>>713はいつものキチガイアンチだから放置でお願いします
718人間七七四年:2011/11/15(火) 00:26:57.56 ID:H+KIwiZz
>>715
対等一揆連合であって主従関係が曖昧だったから
国人達を毛利が強制出来なかった。
719人間七七四年:2011/11/15(火) 00:46:03.74 ID:6Ywlxpq2
>>718
室町幕府に対する一揆というなら他の戦国大名もそうじゃない?
それとも世間では戦国大名と言われている元就だけがあなたの中では元就憎しで
一揆と脳内変換されているのかい?
ああしまった、触れてしまった
ID:H+KIwiZzは以後スルーします
720人間七七四年:2011/11/15(火) 09:46:58.35 ID:E7btXw0E
>>719
他の大名が唐傘連判状を作って一揆を組織してたなんて初耳です。
学会に発表したら驚愕されるでしょう。
で、他の大名の傘連判の証拠を出してください。
721人間七七四年:2011/11/15(火) 10:09:09.86 ID:qjCO4uGp
>>720
お前はまさにマルクス主義史観の弊害、形式だけを見て中身を見ず判断する悪例
戦国大名は何を拠り所にしてまとまるかという話であり、やっている事は室町幕府に対する「一揆」
唐傘連判状は「元就が領国支配する装置の一つ」として使用した、だから元就は戦国大名ではなく一揆であるとか笑える
そもそも一揆の定義を知っていれば、一揆も戦国大名(国人衆という一揆組織の連合体)もさしてかわらない

そして気持ち悪いから二度とレスしないでねここには
722人間七七四年:2011/11/15(火) 10:25:11.70 ID:OQzM8hQL
>>720
Q、関ヶ原の西軍の総大将は誰でしょう   A、安芸国人一揆衆
Q、厳島合戦で陶を破ったのは誰でしょう  A、安芸国人一揆衆
Q、秀吉が中国大返しをしたとき、和議を結んだ戦国大名は誰でしょう A、安芸国人一揆衆
Q、幕末、薩摩と同盟をして徳川幕府を倒した有力な藩は何でしょう A、安芸国人一揆衆

あなたの中ではこれが正解だもんね(大爆笑)
723人間七七四年:2011/11/15(火) 11:02:35.41 ID:E7btXw0E
証拠が出せず追い詰められたから
火病発症したのか…
こりゃあ恥ずかしい。
724人間七七四年:2011/11/15(火) 15:30:17.78 ID:k2aSwqL9
いい加減に現実みろよ捏造歪曲大好きの在日毛利厨よ。
725人間七七四年:2011/11/15(火) 17:39:43.27 ID:U5ZjQhjH
>>723
>>721-722にちゃんとレスしなよ、負け犬低脳アンチさん
726人間七七四年:2011/11/15(火) 19:29:23.98 ID:g9uONbyk
>>724
お前はどこ厨房?
俺は毛利厨で由緒正しき日本人。
周防長門の石高だけど、江戸初期の検知では53万石の記述もある。
山陽山陰の表高が190万石として、実高は250万石程だったと思ってる。
すると、兵力は6万人以上で、銀山分でプラス5千人として
毛利の最大動員可能兵力は6万5千人くらいだったんだろうな。
727人間七七四年:2011/11/15(火) 19:35:39.01 ID:g9uONbyk
宇喜多1万5千人を引くとやはり5万人くらいか。
728人間七七四年:2011/11/15(火) 19:38:35.02 ID:g9uONbyk
信長は10万人以上くらいかな。
729人間七七四年:2011/11/15(火) 20:11:42.24 ID:pg+hPvjl
毛利キチガイすげえ。こりゃあひどい。
730人間七七四年:2011/11/15(火) 21:16:48.57 ID:J3zMDkgw
>>726
江戸初期の数字は防長2州になった後、隠し田を徹底的に追求したりした結果だろ?
戦国期はそこまで収入があるとは思えんが。
731人間七七四年:2011/11/15(火) 21:19:26.25 ID:J3zMDkgw
>>720
えーと、つまり、あなたの定義では「傘連判状を使わない場合は一揆ではない」ということですね?
そう主張するのであれば、室町期の土一揆から明治時代の地租改正反対一揆まですべてのケースで
傘連判状を使用した、と証明するのはあなたの義務ではありませんか?
732人間七七四年:2011/11/15(火) 21:42:03.42 ID:g9uONbyk
>>730
そう思います。
でも太閣検知の石高見てると、いかにも少なすぎる気がしてくるんだよね。
福島正則49万8千石とか小早川秀秋57万石とかあるし。
733人間七七四年:2011/11/15(火) 22:01:19.64 ID:J3zMDkgw
>>732
周防岩国の出身ですが、広島や岡山と比べるのは無謀だと思います(藁
平地の面積が違いますぜ。
今の山口のそこそこ広い平野はほぼすべて、江戸時代中期以降に干拓
とかで作った土地です。
山の間の谷間や盆地でほそぼそと農業やってた土地と広い平野で大々的に
農業やってた土地を比較するのは無茶です。
734人間七七四年:2011/11/15(火) 22:21:05.62 ID:HXVuTH08
毛利ってひどい内政やってて
日本一高い税鬼率73%で搾取しまくってたし、
防長に減封と関ヶ原前に奪った収税の全返還を福島らに要求されて困った毛利は、
さらに鬼になって叩き出した石高だし
その悪政で岩国方面では
山代慶長一揆まで起こされたじゃん。
どんだけ毛利に薔薇色妄想を持ってんだよ。
日本一貧困百姓と言われてたのに。
735人間七七四年:2011/11/15(火) 22:53:57.40 ID:e+T668Pp
>>733
岡山の平野部も大部分江戸時代以降に干拓されたものだよ
736人間七七四年:2011/11/15(火) 23:03:56.23 ID:3KKuikF0
広島なんて未だに平野部が少なすぎて山の中に住んでる
737人間七七四年:2011/11/16(水) 01:54:13.97 ID:85eHMl6M
おい虫けらアンチ、さっさと>>721-722に答えろやボケが
738人間七七四年:2011/11/16(水) 15:33:07.59 ID:BAOmLVTx
>>714
毛利輝元領国の母体は緩やかな連携合議集団から脱し始めたのは
毛利を秀吉に売った隆景や安国寺らの毛利からの自立や
山陰諸国人が吉川家臣団として忠誠を誓った広家相続時の自立からで
輝元による権力集中を目指す動きからの明確な離反の中で進行した。
そして秀吉政権が秀秋や秀元の養子政策の中で毛利分裂傾向を助長させたこと
秀吉死後の家康による毛利分領問題介入により、完全に家中をバラバラにさせられ失敗。
>>721
マルクス主義史観とかまったく関係ありません。バカですか?
領国支配する装置の一つではなく、上位者(将軍や大内)に対して
共同で意見を言ったり、要求を通すために組織された自治のようなものであり
大内もその総意を無視できない反面で、毛利の独裁が完全に否定されているのが傘連判です。
>>722
Q、関ヶ原の西軍の総大将は誰でしょう   A、輝元
Q、厳島合戦で陶を破ったのは誰でしょう  A、安芸国人一揆衆
Q、秀吉が中国大返しをしたとき、和議を結んだ戦国大名は誰でしょう A、自立を策謀していた隆景と安国寺主導
Q、幕末、薩摩と同盟をして徳川幕府を倒した有力な藩は何でしょう A、長州のテロ容疑者主導
>>726
長門13 周防16 石見11 出雲18 伯耆10 因幡9 隠岐4 安芸19 備後18 備中17 備前22 美作18
宇喜多や南条や山名を足しても175万石。万が一、実高がこれより多くても、
それを徴集できない統治体制ではまったく意味をなさない。秀吉政権により国人の抵抗を抑えて竿を入れて
やっとこんだけ叩き出せた以上は、むしろ一揆連合が織田と戦っていた時期は
これより大きく下回る石高であったと考えねばならない。
>>728
そんな大軍は不可能。そのソースはいったいどこから出てきた?
>>731
あなたが毛利型の一揆と他の戦国大名が同じだと
主張してるからそう書いたまでです。
傘連判は南奥羽などでも見られた領主連合合議連盟形態ですが
戦国期に入るころには上位者が(篠川・稲村両御所や鎌倉公方)滅亡するなどした結果
南奥羽ではとっくに廃れていて安芸周辺という大内の保護圏の中でぬくぬくと
ぬるま湯につかっていた地域しか生息してませんでした。
また通常の一揆と戦国大名を同一視するのだとしても
まったくそんなデタラメな話を聞いたことがないので
誰の主張論文なのか明示してください。実に興味あります。
一揆契約とは同等な階層の者と考える者同士で契約するものであるので
すると甲駿相三国一揆契約だったのでしょうか?納得し難いですね。
739人間七七四年:2011/11/16(水) 18:28:26.86 ID:SMvpuObP
>>738
毛利領内の検知は、毛利に任せてたはず。
軍役負担を軽くするため過小申告してたと思う。
秀吉も毛利に恩義があるから黙認したのかも。
だいたい鳥取池田藩も32万石だし出雲京極藩も24万石となっている。
信長軍10万人は400万石は支配下にあったと思ったから。
740人間七七四年:2011/11/16(水) 19:13:14.62 ID:BAOmLVTx
>>739
秀吉は毛利に恩義を感じていたかは不明ですが
柴田に吉川が内通していたのも知っているし
国境画定交渉でも秀吉は強気で安国寺も譲歩せよと輝元に助言してる。

豊臣政権の虎の威を借りた検地でも不徹底だったのは
いまだ合同政権の色合いを強く残す蒙昧な国人達の反発からで
毛利本家の発言力の弱さからであり
軍役負担を軽くするためではありません。
それを豊臣政権は不満に思っていて(朝鮮出兵のため)
毛利の養子に秀秋を入れようと考えたこともあった。
結局、小早川で受けることになり秀秋と一緒に
豊臣政権の意を受けた山口宗永がやってきて
財政経済政策の能力の無い小早川家を主導し
筑前筑後で徹底検地を施行している。
これにより領内統治が強化され、
次ぎに当主への抵抗が可能な土地と国人の密着による割拠状態を
取り除き官僚化を目指す越前転封で完成し
朝鮮出兵で活躍させる予定だった。
徳川はすでに関東へ転封し、
上杉も会津転封でこれから内治に専念する予定だった。
転封をマイナスに捉えるのは土地から切り離される国人であるが
当主の権力の強化になり、これが豊臣政権の目標だった。
>>信長軍10万人は400万石は支配下にあったと思ったから
いったい何年の毛利と何年の織田を比較してるのか?
本願寺降伏以後ならそれに近い織田の石高になるが
それなら毛利が宇喜多や山名を従えているような余裕ある状況じゃない。
741人間七七四年:2011/11/16(水) 19:41:39.46 ID:rCQSu60d
結論
安芸の国人の一人に過ぎない元就が中国地方を席巻した事がいかに偉大かが
確認できるのが「傘連判」の存在である
742人間七七四年:2011/11/16(水) 19:41:45.87 ID:SMvpuObP
さすが〜
自分のような素人毛利厨はコテンパンにやられるわ、笑
743人間七七四年:2011/11/16(水) 20:33:41.58 ID:aW9NZtvn
地元から派生した大名の下では、太閤検地が不徹底だったのは、程度の問題はあるけれども、
どこも同じようなでものしょう。
毛利のお隣の宇喜多も大掛かりな宇喜多騒動を起こしてしまってるわけですしね。
傘連判で明文化されていなくとも、実際の力関係により、政権内で同様の意思決定過程を経ていれば
他の戦国大名とも同一視してもよい部分もあると思いますよ。
明文化しているものも時を経れば環境に応じて風化して実態を伴わないもの出てくるでしょう。
また、国人派生でなくとも守護、守護代派生であっても国人との間には強固な主従関係が存在したかは
疑問なとことがあります。
元々、幕府は国人らを奉公衆に多数指名していましたしね。
744人間七七四年:2011/11/16(水) 20:37:45.25 ID:aW9NZtvn
まあ、全く違うというのは人間の行動原理、社会の自生的な仕組みとして無理があると思います。
745人間七七四年:2011/11/16(水) 20:43:48.77 ID:SqjAA0FZ
まったく一揆契約などなかったのに
あったと強弁するキチガイ毛利厨。
しかも信長10万にソース無しワロタ
746人間七七四年:2011/11/16(水) 21:35:37.93 ID:85eHMl6M
これ永久テンプレで、基地外アンチの思想がよくわかる

Q、関ヶ原の西軍の総大将は誰でしょう   A、輝元
Q、厳島合戦で陶を破ったのは誰でしょう  A、安芸国人一揆衆
Q、秀吉が中国大返しをしたとき、和議を結んだ戦国大名は誰でしょう A、自立を策謀していた隆景と安国寺主導
Q、幕末、薩摩と同盟をして徳川幕府を倒した有力な藩は何でしょう A、長州のテロ容疑者主導
747人間七七四年:2011/11/16(水) 22:12:35.15 ID:D6PDfvLT
例えば、徳川家は三河の松平諸家や酒井家に対して盟主程度の権力しか持っていない状態が、
家康の三河統治のかなり後期まで(信康を殺さなきゃいけない頃まで)続いてるわけですが、
これと毛利家の大きな違いってなんなのでしょうか?

また、守護大名出身でも大友家も朝倉家も一族や重臣(豪族)が言うことをなかなか聞いてくれなくて
というか反乱とか起こされて苦労してるわけですが、こういった状態でも「君主として権力を確立していた」
とおっしゃるのでしょうか?
748人間七七四年:2011/11/16(水) 22:49:33.13 ID:SMvpuObP
厳島合戦で汚してしまった厳島神社を綺麗に掃除するとか、
意外と家族思いだったりとか、毛利元就の人間的魅力もやっぱりあるんだよね。
斎藤道三や松永久秀とは一味違う。

毛利は図体が大きいから1576年の木津川河口海戦から約7年間程
信長と押したり引いたり戦えたんだと思う。

749人間七七四年:2011/11/16(水) 23:04:01.14 ID:SqjAA0FZ
>>747
謀反が起きる大名が
全て一揆だと主張してるところをみると
毛利厨は光秀に殺された信長政権も
信長と家臣が同格一揆契約をしていたと考えいるのか。
そうとうあたまが壊れてて気持ち悪いな。
750人間七七四年:2011/11/16(水) 23:09:02.62 ID:85eHMl6M
>>749
国人の一人から這い上がった天才元就を僻む気持ちはわかるぞ?w
そんなお前はどの大名がお気に入りなんだい?
751人間七七四年:2011/11/16(水) 23:56:56.01 ID:D6PDfvLT
>>749
つまりまともに反論できないというわけですね、よく分かりました。
以降あなたを相手にするのは止めますので、レスしてこないで下さい。
752人間七七四年:2011/11/17(木) 01:13:36.35 ID:pG80eaMi
毛利厨トンデモ脳内設定を開陳www
753人間七七四年:2011/11/17(木) 01:31:45.31 ID:LUW1xlQT
Q、関ヶ原の西軍の総大将は誰でしょう   A、輝元
Q、厳島合戦で陶を破ったのは誰でしょう  A、安芸国人一揆衆
Q、秀吉が中国大返しをしたとき、和議を結んだ戦国大名は誰でしょう A、自立を策謀していた隆景と安国寺主導
Q、幕末、薩摩と同盟をして徳川幕府を倒した有力な藩は何でしょう A、長州のテロ容疑者主導
754人間七七四年:2011/11/17(木) 08:43:02.52 ID:XcD4wI4P
三河一向一揆と戦っていた徳川も一揆だったなんて
そんなバカな主張してる学者名を教えてくれ。
しかも信長が安土城にいて武田滅亡前夜になってた時期の徳川もまだ一揆だったとか
キチガイ過ぎてワロタ
755人間七七四年:2011/11/17(木) 09:18:51.54 ID:UDSDapki
家康が一揆とかバカバカしいが、
毛利の次ぎに後進的なのは惣村一揆同盟や国人一揆同盟母体ではないので一揆ではないが薩摩や大隅国人を切り従えた島津だな。
領国経営が後進的と豊臣政権からダメだしくらってるので
毛利の次ぎにダメなのは島津。
三成から幽斎にいろいろ先進の豊臣方の経営を教えてもらえって
言われた島津だったが、
領国の法や屋形普請のやり方など御指南したのにまったく成果が上がらず
島津は教えても無駄だからこれからの時代で存続するのも難しいと言われている旧体制だったからね。
基本的に西国は呪術シャーマン文化が色濃く残っていて蒙昧。
756人間七七四年:2011/11/17(木) 09:43:02.17 ID:MtNKh1YZ
その後進的な毛利や島津がそれぞれ中国王、九州王になっている件
757人間七七四年:2011/11/17(木) 10:17:09.57 ID:UDSDapki
奥羽や九州や中国などでは
支配が緩く国人に甘い者ほど版図が大きくなってるからね。
国人を統帥し普請や軍役や徴税をキッチリやり
寺社勢力排除を狙い当主権力を確立に向けた動きを志向した
者は戦国末期に離反されまくってる。
豊臣政権時代になってそのグダグダぶりの改革を強制されているが失敗したのが毛利や島津。
島津は外城制と言う半独立的な中世封権制度のままだったし(中世封権は一揆制度のことではない)
伊達も21要害と呼ばれた要害制度で各地域に有力家臣が割拠する後進地域。
758人間七七四年:2011/11/17(木) 12:46:10.87 ID:ZijKCBQC
ゆえに58万石の大名とはいえ、領主権力が貫徹されたのは直轄地12〜3万石の部分のみであった話は著名だ
759人間七七四年:2011/11/17(木) 13:45:34.45 ID:eJ6BiKXl
最上改易も大身家臣だらけで、
当主直轄地が極端に少なく
家臣統制できなかったからだしな。
関が原の時に伊達に百万石のお墨付きを
家康が約束したのも
伊達家臣に対してのもので、
伊達家臣を買収して動かせば政宗を操れると考えた家康の謀略だし。
大身家臣の存在は、
家中騒動の最大原因だからね。
関が原での失敗もこれが原因で毛利は家中統制に失敗してた。
まあこれは元就生存の時点で、
毛利兄弟がいがみ合って対立して
各々が国人たちの支持を集めて自立化を進めていったことに原因があるが、
元就死後は露骨になっていった。
一揆契約国人たちは動員も遅く、
毛利は財政崩壊し与える土地もなく、
織田に押されていく中で、
小早川と吉川が輝元を周防長門安芸の一部に押し込め
領国化を狙いつつ
対織田方針を巡り
山陽戦力集中による織田との決戦に反対側した
吉川が自らの勢力圏拡大のために山陰へ出発する対抗策で愚劣を極めた。
一揆契約同盟小早川勢力圏は
秀吉の威武を利用し当主権限強化のために秀吉と結び毛利を売り完全領国化をはかる。
760人間七七四年:2011/11/17(木) 19:10:20.08 ID:33CyUfZl
>>755
基本的に東国は呪術ジャーマン文化が色濃く残っていて無知蒙昧。

基本的に東国は呪術ジャーマン文化が色濃く残っていて無知蒙昧。

基本的に東国は呪術ジャーマン文化が色濃く残っていて無知蒙昧。

基本的に東国は呪術ジャーマン文化が色濃く残っていて無知蒙昧。

基本的に東国は呪術ジャーマン文化が色濃く残っていて無知蒙昧。
761人間七七四年:2011/11/17(木) 19:16:02.30 ID:33CyUfZl
大陸文明、中国インドヨーロッパ文化は九州中国地方から入ってきて畿内に伝わったよね。

大陸文明、中国インドヨーロッパ文化は九州中国地方から入ってきて畿内に伝わったよね。

大陸文明、中国インドヨーロッパ文化は九州中国地方から入ってきて畿内に伝わったよね。
762人間七七四年:2011/11/17(木) 19:21:46.93 ID:33CyUfZl
基本的に東国は呪術シャーマン文化が色濃く残っていて無知蒙昧。

基本的に東国は呪術シャーマン文化が色濃く残っていて無知蒙昧。

基本的に東国は呪術シャーマン文化が色濃く残っていて無知蒙昧。

基本的に東国は呪術シャーマン文化が色濃く残っていて無知蒙昧。

基本的に東国は呪術シャーマン文化が色濃く残っていて無知蒙昧。
763人間七七四年:2011/11/17(木) 19:48:17.62 ID:33CyUfZl
長曽我部未満の戦国大名、伊達、最上
764人間七七四年:2011/11/17(木) 20:41:29.04 ID:Kh0kiZZu

西国はまだまだシャーマニズム的な呪術的な戦場判断が一般常識として存在してたから畿内や東国の軍勢の機を見るに敏な用兵には敵わないよね。
毛利・大内・尼子・大友・島津あたりはみんな論理的ではなくて戦場や城かた立ち上る気や天文が地上に与える影響やら
呪術やクジ引きおみくじの神託やら悪日や大凶日や易や暦を盲信してるからね。
島津の上井覚兼の日記なんてみたら笑っちゃうw
あと大友側の角隈石宗の占いとかなw
立花道雪が戸次鎮連に忠義を示さないと怨霊になって祟るぞって言ったり、
耳川敗戦後に家中に対して道雪が景林にと言う易者に占わせてから戦ったら勝てたから今後もその習慣を守れと言ったり
大友吉統は関が原での大友復興作戦で豊後上陸の場所を戦略面を考えずに
宗麟が運を開いた縁起のいい場所であった立石に上陸して結果的に黒田如水の派遣した軍に大敗してるしw
元就も山吹城を攻めようとした時にどこぞから家臣が連れてきた呪術者に易をさせたら
「占ったところ食料2年分に水も豊富にあるよ」と言われ見事に騙されて攻めずに安芸に帰ったり
陶の怨霊封じの儀式もやってたな元就w
元就が元春が暗殺した本城常光を暗殺した為に出雲の国衆が尼子側に戻ってしまった時に尼子調伏の呪法やったり、
尼子側も出雲大社や佐久佐社や伯州の大山権現で毛利降伏の祈祷やってたな。
もう呪術合戦状態www
西国の戦いってのはこういう素地が背景にあってのアホレベルの戦いばっかだからマトモに考えちゃダメだよ。
765人間七七四年:2011/11/17(木) 21:52:59.99 ID:33CyUfZl
土人原始人未開の東国大名
超後進的な伊達、最上
766人間七七四年:2011/11/17(木) 21:56:20.63 ID:33CyUfZl
東国が一番遅れていた。
関東が特にダメで二番目にダメなのが東北。
絶対間違いない。
767人間七七四年:2011/11/17(木) 22:01:35.81 ID:33CyUfZl
一番進んでいたのが近畿。以下順番に中国九州四国中部となる。
関東北は蝦夷。
関東北はキングオブ田舎
関東北は人外魔境の地
関東北は人と獣の区別がつかない辺境の地
768人間七七四年:2011/11/17(木) 22:04:12.42 ID:33CyUfZl
>>764
全部捏造
769人間七七四年:2011/11/17(木) 22:16:04.41 ID:33CyUfZl
機を見るに敏な用兵をしてた毛利軍。
機を見るに敏な用兵をしてた毛利軍。

ぼけーっとしてた東国軍
ぼけーっとしてた東国軍
ぼけーっとしてた東国軍
770人間七七四年:2011/11/17(木) 22:16:18.10 ID:inLDdcyG
毛利輝元の関ヶ原1/2
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm6963938

葵徳川三代より
771人間七七四年:2011/11/17(木) 22:18:33.61 ID:33CyUfZl
呪術シャーマン文化が色濃く残っていて無知蒙昧な関東北軍
呪術シャーマン文化が色濃く残っていて無知蒙昧な関東北軍
呪術シャーマン文化が色濃く残っていて無知蒙昧な関東北軍
呪術シャーマン文化が色濃く残っていて無知蒙昧な関東北軍
呪術シャーマン文化が色濃く残っていて無知蒙昧な関東北軍
772人間七七四年:2011/11/17(木) 22:26:06.29 ID:33CyUfZl
歴史捏造大得意韓東北軍
歴史捏造大得意韓東北軍
歴史捏造大得意韓東北軍

超後進国だった関東北を中進国に見せようと必死な蝦夷
超後進国だった関東北を中進国に見せようと必死な蝦夷
超後進国だった関東北を中進国に見せようと必死な蝦夷
773人間七七四年:2011/11/17(木) 23:15:11.55 ID:MtNKh1YZ
アンチ元就によると毛利家はシャーマニズムで動いていたそうです
その上毛利家は安芸国人の一人であって、けっして戦国大名ではないそうです
幕末に存在した長州藩は藩ではなくテロリストに占拠された集団であって藩ではないそうです
774人間七七四年:2011/11/18(金) 06:29:39.65 ID:ATuljyzi
やってることは外国人排斥で安重根と変わらんし、
クーデターで藩の政策に介入してる時点で非合法だし。
775人間七七四年:2011/11/18(金) 08:06:57.04 ID:zm1ucO3q
>>774
>やってることは外国人排斥で安重根と変わらんし
朱子学による弊害が尊王攘夷。つまり日本中がアンジュングンですか、さすがはアンチ
>クーデターで藩の政策に介入してる時点で非合法だし。
ほうほう、藩主がいつ殺されるか更迭されて藩が崩壊したか教えてくれ
776人間七七四年:2011/11/18(金) 09:57:30.68 ID:ATuljyzi
つか毛利元徳の説得を無視して
品川で放火魔やった高杉晋作とか擁護できんだろw
777人間七七四年:2011/11/18(金) 12:14:32.15 ID:ivvhjxQM
チョン州人毛利厨が火病を発症しててワロタwww
778人間七七四年:2011/11/18(金) 16:09:19.70 ID:prkL5t5G
そのチョンに征服された日本って一体なんなのだろう
毛利を叩く→日本人の首を絞める事になるのだが、なるほどアンチ毛利厨がチョンという事ですね
779人間七七四年:2011/11/18(金) 18:32:01.86 ID:ivvhjxQM
>>711
吉永正春の本によると
毛利と大友の戦いの研究の中で
当時、一地域の合戦に、
兵糧などの物資、宿泊場所、糞尿の処理などで
動員できる「自然限界」は、3万前後だったそうな。
780人間七七四年:2011/11/18(金) 20:31:52.96 ID:umlTHGZA
在日毛利は伊藤博文をテロった安重根を擁護ワロタw
自己矛盾www
781人間七七四年:2011/11/18(金) 20:43:54.62 ID:aHR1F5jW
>>779
確かに朝鮮出兵の際の名護屋周辺は水争いや屎尿処理で困っていたな
782人間七七四年:2011/11/18(金) 23:16:10.99 ID:zm1ucO3q
ん?毛利がいつ在日になったんだ?
キチンと説明ヨロシクw
783人間七七四年:2011/11/19(土) 18:18:17.46 ID:hXwX0FVz
>>782
朝鮮征伐する秀吉はキチガイとか
朝鮮人が可哀想とか三成は歯周病とか
輝元は秀吉に恩がないどころか怨みがあるから
関が原で味方するわけない。三成に騙された被害者とか
散々他スレで喚いておいて今更、知らんぷりすんなやwww
784人間七七四年:2011/11/19(土) 23:09:34.14 ID:8IcQb6Jf
>>783
他スレの誰が言ったかも定かではない話を持ち出されて電波発言をされても困るんですけど・・・w
そんな事よりさっさと毛利が在日という点を説明せえやボケが
785人間七七四年:2011/11/19(土) 23:53:25.04 ID:TA6NCL2g
チョン州人毛利厨必死過ぎキモっ
786人間七七四年:2011/11/19(土) 23:58:54.08 ID:mWtPo5lR
>>784
これ以上ゴミ虫のような荒らしを相手にしないほうがいいですよ
どれだけアンチが騒いだところで英雄元就が中国王である事も
幕末に天下を制した実績も変わらないのだから
787人間七七四年:2011/11/21(月) 03:19:07.18 ID:RCyrCNic
馬鹿は見てて楽しいわ〜w
788人間七七四年:2011/11/21(月) 08:41:39.94 ID:nhs9Jj3m
安国寺恵瓊って坊主の道でも結構エライ人だったんだな
789人間七七四年:2011/11/21(月) 11:15:02.95 ID:BBPiWigB
>>786に反論できない雑魚アンチw
790人間七七四年:2011/11/22(火) 21:39:44.04 ID:K5IsYKEJ
赤染衛門や長崎円喜の子孫だったんだな
791人間七七四年:2011/11/27(日) 09:52:42.17 ID:WdcdG96k
>>773
幕末の長州は藩の行政組織化が進んでいたから、
テロリスト(攘夷派)に乗っ取られ革命の前進基地と化していた、
という見方は可能なのではないのか。


792人間七七四年:2011/11/27(日) 23:54:02.28 ID:fTIA7S7E
>>791
お前の歪んだ色眼鏡だとそうなんだろ、お前の中ではな
793人間七七四年:2011/11/30(水) 22:31:23.89 ID:sfC5PZSo
>>791
関ヶ原の反省から、徳川とは妥協しないという意思が藩の総意と一致しただけですね
794人間七七四年:2011/12/01(木) 18:04:08.93 ID:9ujpDut+
アホか。毛利が関ヶ原の恨み云々なんて言い出したのは幕末ぎりぎりになって、長州征伐を受けてからだ。
薩摩のチェスト関ヶ原も幕府と敵対してからの急ごしらえの反徳川イデオロギー

いいかげん旧態依然の明治維新史観から抜けだせよ
795人間七七四年:2011/12/01(木) 22:06:07.86 ID:QJ86UqXP
>>794
アホ呼ばわりされても困るのだが、封建社会においては恨みは世襲するんだぜ?
どちらが旧態依然なのやら・・・
796人間七七四年:2011/12/02(金) 14:54:11.64 ID:6J3qjv84
>>794
だったらお前の有り難い新説をお聞かせ下さい
なぜ倒幕の先峰が関ヶ原で煮え湯を飲まされた薩長だったのか
関ヶ原の事はなんの関係もありませーんと納得させてくれ
797人間七七四年:2011/12/02(金) 16:25:29.40 ID:kaD7xJmc
薩摩は幕政時代も治水工事なんかで
イジメられてるからな。

長州は減封された恨みはあるだろう、
食い物と金の恨みは昔も今もかわらないだろ。
798人間七七四年:2011/12/02(金) 17:35:00.62 ID:Oya9wXBj
ここの連中は幕末の毛利が越前松平家との関係の深さから幕末に慶喜擁立派になったことも
知らんのか…

>>796
> なぜ倒幕の先峰が関ヶ原で煮え湯を飲まされた薩長だったのか

「偶然」だ!そんな事も解らんのか。
まさか関ヶ原の結果が幕末につながってるとか、そんな講談史観を信じてるのか!?
非科学的にもほどがある。

もしかして正月の毛利の倒幕儀式とか信じてるんじゃないだろなおまえら。
著しくレベルが低い…

いいか、毛利も薩摩も江戸期を通じて幕府からはむしろ優遇されている。
優遇され多少なりとも幕政に関わったからこそ、影響力を増して逆に倒幕に至ったんだよ。

俗悪小説ばかり読んでないで少しは勉強しようぜ?
799人間七七四年:2011/12/02(金) 21:15:16.32 ID:xQN7UaUU
>>798
>ここの連中は幕末の毛利が越前松平家との関係の深さから幕末に慶喜擁立派になったことも
>知らんのか…
だからどうした?天皇家に近い血筋の慶喜を擁立した事が、倒幕の先峰が関ヶ原で煮え湯を飲まされた薩長だった
事と何か関係あるのか?

>もしかして正月の毛利の倒幕儀式とか信じてるんじゃないだろなおまえら。
>著しくレベルが低い…
伝説を否定するソースを持って来いよ妄想さん、そういう伝説や「チェスト関が原」という「伝説」があるという事は
そういう土台(思想)があったからではないのか?

>いいか、毛利も薩摩も江戸期を通じて幕府からはむしろ優遇されている。
具体的に何が優遇されていたんだ?取り潰しだけは免れて、輝元が家康に騙されて石高が1/4の長州に押し込められた事が優遇なのかい?

挙句の果てには何の説明も出来ずに「薩長は偶然」とか説得力0なんですが?
800人間七七四年:2011/12/03(土) 18:53:00.24 ID:RTLuY14H
優遇されてたって、あくまで幕府側
からみてであって薩摩や長州側からは
ありがたく無い可能性がある。
それに倒幕に関わる事になる中下層の
家臣たちは一番幕府の干渉で、
割りを食わされる立場なので
恨みが代々伝わっても不思議じゃ
ないよね。
801人間七七四年:2011/12/03(土) 23:48:33.97 ID:qjh5A8d5
江戸時代では何世代を経ても武士は武士、農民は農民のまま
広島に居た時は給料40万だったのが山口では10万になったようなもの
下級武士は極貧生活に陥り、中には農民や商人等になったものも多数居た、そんな家庭での話題は
「うちも広島に居たときは豊かだった、ところが輝元様が家康に騙され、我々の生活も苦しくなった」
こんな話題が延々と語り継がれる形となり、恨みは世襲していくのであった
802人間七七四年:2011/12/12(月) 21:13:36.27 ID:GfaRNwQb
>>799
越前松平の奴隷になるのと
引き換えに毛利改易を免れただけだろ。
家督についても越前松平の意思と許可が必要になったしな。
803人間七七四年:2011/12/12(月) 23:14:35.44 ID:fXqTqAdN
恨む理由にはなっても恨まない理由にはならないよねぇ・・・
804人間七七四年:2011/12/13(火) 22:40:55.20 ID:qNU2teRD
越前松平の支配ってどんくらい厳しかったん?
805人間七七四年:2011/12/13(火) 22:55:34.17 ID:4vERsliG
>>798
幕府から何を優遇されていたか教えて下さい
806人間七七四年:2011/12/17(土) 15:04:27.08 ID:vBsllqee
いじめられていただけで
優遇なんてされてません。
807人間七七四年:2011/12/17(土) 15:09:16.73 ID:WWSkhK82
便所で老中にボコられたりしてたん?
808人間七七四年:2011/12/17(土) 22:28:45.07 ID:U9EWYWZR
どこの忠臣蔵ですか?w
809人間七七四年:2012/06/14(木) 16:35:58.24 ID:sqRAU7+v
そして権威を失った毛利当主は藩士からシカトされて
藩内の勢力争いに巻き込まれないように
びくびくして政治的発言を一切しないことで保身をはかるように
なってしまった。
810人間七七四年:2012/07/06(金) 21:35:33.00 ID:Dvgxh9We
毛利家は明治になってから小早川家を三男・四男に立て続けに復興させてるが
きっと毛利にとっての小早川は「関ヶ原の裏切り者・金吾」じゃなくて、景叔父の小早川だったんだろうな
毛利家は「小早川=裏切り者」の代名詞だった270年間、どういう思いだったんだろうね


811人間七七四年:2012/07/06(金) 23:35:10.11 ID:ViHlebGC
まあ、小早川家は、結果的には隆景一代だけの縁なんだし
それほど毛利宗家に思い入れがあるとも思えない
明治の小早川家復興は、毛利家の三男・四男に、手っ取り早く
それなりの家格で身をたてさせるための動機の方が大きいし
812人間七七四年:2012/07/07(土) 07:58:46.23 ID:+khD908Q
んだ。明治新政府内でのポジション作りじゃな。
813人間七七四年:2012/07/07(土) 13:07:26.29 ID:mZbAt7Et
乃木家に子ども入れて再興しようとして世論から叩かれまくったな<毛利
814人間七七四年:2012/07/09(月) 23:46:22.69 ID:8M20aFwV
大村益次郎の家も毛利から養子が入っているんだっけ?

>>811
それでも再興の際に堅田元慶の子孫の家から、元慶が隆景から拝領した
文書類が再興された小早川家に献上されているんだよね。
815人間七七四年:2012/07/09(月) 23:57:19.40 ID:A+l9VeIA
>>814
堅田の子孫が文書を献上したという話と
毛利家に小早川家再興に深い思い入れがあったかどうかは、
相対的に関係なくない??
816人間七七四年:2012/07/10(火) 00:30:49.71 ID:KShGDtCy
>>815
そうなんだけど、名前だけの再興と思いきや、そういう隆景ゆかりの
文書の類を集めているんだなあ、と思って。
817人間七七四年:2012/07/10(火) 06:15:30.79 ID:c24w4jhE
毛利と小早川はどちらも鎌倉初期に出来た家だな
818人間七七四年:2012/07/12(木) 17:54:58.16 ID:lk6SNF5C
そういえば中国地方って鎌倉由来の家が多いよね
天野・熊谷・小早川(土肥)・毛利(大江)・吉見(範頼系源氏)とか
小早川家の復興といえば、「関ヶ原の小早川秀秋」は明治初期でも悪名は轟いてるから選択肢
としてはチョイスしにくいと思うが、敢えて「小早川」っていうところにそれなりに思い入れはあったんじゃないかな?
大内でも武田でも佐々木(尼子)でもアリだったんだから
819人間七七四年:2012/07/12(木) 20:59:17.37 ID:/ZhxeEYf
だって毛利両川と言われた一門の苗字だぞ。
元就の時代は神聖な創業の時代として毛利家では学ばれ続けていたわけだし。
820人間七七四年:2012/07/13(金) 17:37:20.12 ID:+HJX40vD
>>819
毛利両川というが、のっとりましたから。

吉川家は抹殺されたが仏門にはいった小早川繁平のほうが、本来の小早川家だと思いますが。
821人間七七四年:2012/07/15(日) 22:38:00.16 ID:lymkodP3
しかし、毛利秀就が誕生するまで、輝元の後継者は穂井田元清の息子・毛利秀元だった訳なんだが、
血統から言えば、吉川広家の方が毛利宗家を継ぐ資格があるような気がする


822人間七七四年:2012/07/15(日) 22:41:37.38 ID:p3aX0lDK
>>821
マジレスすると既に家臣団を形成していると、本家に戻っての後継者には非常にしにくい。
823人間七七四年:2012/07/15(日) 23:08:42.40 ID:OSD0GgMa
吉川家で側使えしていた奴らを連れてきたいだろうけど、連れてくるとこんどは本家直参と衝突するという。
徳川吉宗が紀州から将軍になった時も、幕府直参連中が心配してる。吉宗が最小限しか連れて来なかったし、老中に押しこむようなこともしなかったから問題なかったけど。
824人間七七四年:2012/07/20(金) 06:18:12.98 ID:St3Vl8na
明治時代に至り、公爵毛利元徳の子・四郎が小早川家を再興し、華族に列して男爵の爵位を授けられた。
825人間七七四年:2012/07/22(日) 23:14:53.02 ID:noDmTX8v
某歴史漫画のせいか、吉川経家が注目されているけど
経家の遺言状で触れている息子さん、
大日本史書で自分が分かる範囲で読むと
経家死後幼少で家督継いだけど関ヶ原の役での安濃津城攻めで負傷→若くして隠居らしい

826人間七七四年:2012/08/06(月) 16:34:51.76 ID:11q4pEyY
いいんだよ、些細なこたぁ!
827人間七七四年:2013/02/20(水) 00:12:34.76 ID:tOdDxjs6
名族
828人間七七四年:2013/04/01(月) 22:23:12.68 ID:DRWorCZ5
毛利はそろいもそろって馬鹿
829人間七七四年:2013/04/01(月) 22:29:27.65 ID:lj7JIBrk
毛利は総勢45000くらいの戦局決定できるのに十分すぎる兵力と
西軍総大将であり畿内方面だけで18万もいる絶好の条件で三成ら奉行衆の要請や作戦無視しまくったあげく大敗。
輝元以外の武将が西軍総大将ならまず間違いなく勝てたのが西軍。
8月上旬の三成書状ごとく三河方面に先手を打って侵攻するもよし。
美濃口に来た所を木曽川筋の防衛ライン利用して伊勢方面と美濃方面から一挙になだれ込むもよし。
押し込まれた関が原本戦でも秀元小早川吉川の総動員で負けるはずもない布陣を三成がお膳立てしたから
三方面から徳川軍を大破するもよし。
まず負けるはずもない兵力・国力・総大将の肩書き・状況で常人ではありえない戦略をとることでまずありえない敗戦を
実際にやらかしたのが輝元。
830人間七七四年:2013/04/02(火) 00:13:03.00 ID:4tfjs12n
この人なんでこんなに必死なの?w
831人間七七四年:2013/04/02(火) 07:30:26.35 ID:arCgVk6u
>>830
石田三成が好きでしょうがない人の標準ってあんな感じじゃね。
毛利輝元が悪いってことにしないと、石田三成の愚かさが誤魔化せないw
832人間七七四年:2013/04/02(火) 21:48:51.03 ID:cTlZ0xbl
心ならずも秀吉に膝を屈した毛利・上杉が、
石田や豊臣のために働くとか意味わからんよ。
彼らは彼らの利益のために動いただけに決まってるでしょ。
両家とも石田のクーデターを利用しただけ。
関東に雪崩込む必要もないし、家康と決戦する必要もない。
833人間七七四年:2013/04/02(火) 22:54:06.66 ID:EkcRCoKy
そういや関ヶ原時の吉川と小早川って関係ほぼ皆無なのに何故か意外と連携とれてるよな。
秘かに連絡取り合ってたのかも・・・
834人間七七四年:2013/04/03(水) 00:01:31.33 ID:LfV0MVYy
首謀者は輝元
三成はオマケ
三成は美濃近江ラインの重要性を認識
毛利家は家臣がそれぞれ派閥化して方針が定まらなかったため
アホ輝元は戦略的視点に欠けていた(小早川吉川ら兄弟時代からの派閥確執が余計ひどくなっていた)
そこに家康や長政が和睦詐欺や毛利を敵だと思ってないよ嘘アピの謀略をかけてきて
輝元はとうぶん家康の西上はないわwと多方面へ兵力を分散し
肝心の美濃近江戦線を放置するアホぶり。
家康も福島らが三成包囲したわ詐欺にひっかかり
急いで西上してしまったことで
輝元は腰がひけて、家康は和睦してくれる&毛利を敵だと思ってない発言を盲信して騙される。
そもそも毛利が下手を打ったために大津城が東軍に落ちたのが致命的
毛利の無能さは神
835人間七七四年:2013/04/03(水) 00:02:54.27 ID:LfV0MVYy
輝元が首謀者だったが、大坂城を明け渡すために
大坂城内を説得した功で極刑を免れる。
そのため武断派が嫌っていた三成・小西らがスケープゴートにされる。
これで豊臣家臣同士の諍いにまで矮小化することで戦後の
ソフトランディング謀り、家康の謀反を問う義戦の性格が消滅した。
勝者の論理が適用されたのだ。
第二次大戦での日本の東亜開放の人種戦争の大義が消されたように。
光成氏も輝元の迅速な大坂城入りは
事前に準備をし終えて出撃する準備が完了してないと
不可能な速さだと指摘してる。
明らかに毛利が首謀者でなければあんな一大挙兵はできない。
836人間七七四年:2013/04/03(水) 00:08:09.81 ID:gf9jbnYN
結局三成ら奉行衆は馬鹿毛利の挙兵に付き合わされただけ。
それでも書状送りまくったり人質簒奪脅迫で西軍を畿内方面だけでも18万もの巨大戦力まで押し上げたが
当の総大将の毛利の戦略が糞すぎて美濃ラインの防衛も三河方面への侵攻も三成らは重要性を認識していたが
毛利は四国や伊勢湾などどうでもいい所に兵を送ったり伊勢方面を侵攻できず守備隊を置くだけの結果になったにもかかわらず
伊勢侵攻軍なんて編成して貴重な戦力を減らしまくった上に家康がはっきり到着した9/12時点でも
大阪に居座り続け決選時期だと明らかに認識して後も大阪から動いてすらない上に伊勢湾の首注文なんて大量に届けられてるから
戦略方針転換すらしていない
837人間七七四年:2013/04/03(水) 00:09:52.52 ID:LfV0MVYy
正則の弟の福島高晴が長島へ籠城してる中で西軍の毛利軍は鍋島隊を長島への備えに配置して攻めずに関が原へ急行してる。
関が原を無視して、長島城を落として尾張国に雪崩れ込み背後を襲う戦略をつかわなかったのは
それだけ長島城が堅固だったと言うことだろうけどそもそもなら、なんで伊勢攻略軍なんて編成したんだよって話だよな。
素直に、岐阜城を策源地に尾張に攻め込んでれば良かったじゃんwってもんで。
やっぱり毛利ってのは戦略眼がまるで無い。

>>大垣を放棄して関ヶ原で戦うのだって三成が勝手に決めたことで毛利の許可など取っていない

その関が原でどうして戦う事になったのか考えてみろよ
東軍が尾張口に来たときに輝元が散々美濃口の防衛要請無視したり大垣篭城組の後詰要請無視して
伊勢湾だの四国だのどうでもいいところに兵チラシまくった結果だろうが
大体石田なんて大きな軍団持ってないしほとんど毛利一族のどうこうで決まるたたかいじゃねぇか
持ってた地位と軍団の規模無視して無理矢理捏造擁護で輝元擁護してんじゃねぇよクズ
838人間七七四年:2013/04/03(水) 01:06:46.15 ID:janOyV5r
>>832
すでに消耗戦をする時代じゃないしね
皆先読み力が上がってるから大大名同士の戦いは決戦する前に終わっちゃう。
839人間七七四年:2013/04/03(水) 01:50:07.36 ID:LfV0MVYy
決戦する前に西軍勝利は約束されたようなもんだったからな
当の総大将輝元が馬鹿じゃなきゃ100%西軍勝利の戦いだったし
840人間七七四年:2013/04/03(水) 09:51:41.39 ID:ubZtzHNZ
>>833
朝鮮の役も一緒に戦ってたしこのときも途中まで行軍共にしてたからなあ
関係としては良好な方なんでなんらかのやり取りがあったとしてもおかしくはない
841人間七七四年:2013/04/04(木) 23:23:41.83 ID:RGtEADZY
石田もバカではないから、毛利の本心を読んでいたのかもね。
で、家康との決戦に持ち込んで、否応なしに巻き込むつもりだったのかも。
842人間七七四年:2013/04/05(金) 00:24:10.03 ID:yrp3F6YN
毛利が首謀者なんだから巻きこむも糞もないだろ
843人間七七四年:2013/04/05(金) 01:24:43.57 ID:zL2qRMZN
>>841
それも含めて総大将にしたんだろ
悲しいかな、毛利のブランド力はやっぱり必要
844人間七七四年:2013/04/05(金) 23:20:34.41 ID:fEOQ94as
>>843
「家康は関東から京都まで米で道をつくり、輝元は山陽・山陰から京都まで銀で橋をつくる」――『睡陰看羊禄』

だからなあ

家康に対抗するためには輝元の協力が必要不可欠だったのは間違いない
845人間七七四年:2013/04/05(金) 23:33:51.41 ID:yrp3F6YN
輝元の協力ではなく輝元が西軍決起して三成が無理矢理巻き込まれただけ
846人間七七四年:2013/04/05(金) 23:39:37.50 ID:byHfzIGD
首謀者は輝元
三成はオマケ
三成は美濃近江ラインの重要性を認識
毛利家は家臣がそれぞれ派閥化して方針が定まらなかったため
アホ輝元は戦略的視点に欠けていた(小早川吉川ら兄弟時代からの派閥確執が余計ひどくなっていた)
そこに家康や長政が和睦詐欺や毛利を敵だと思ってないよ嘘アピの謀略をかけてきて
輝元はとうぶん家康の西上はないわwと多方面へ兵力を分散し
肝心の美濃近江戦線を放置するアホぶり。
家康も福島らが三成包囲したわ詐欺にひっかかり
急いで西上してしまったことで
輝元は腰がひけて、家康は和睦してくれる&毛利を敵だと思ってない発言を盲信して騙される。
そもそも毛利が下手を打ったために大津城が東軍に落ちたのが致命的
毛利の無能さは神
輝元が首謀者だったが、大坂城を明け渡すために
大坂城内を説得した功で極刑を免れる。
そのため武断派が嫌っていた三成・小西らがスケープゴートにされる。
これで豊臣家臣同士の諍いにまで矮小化することで戦後の
ソフトランディング謀り、家康の謀反を問う義戦の性格が消滅した。
勝者の論理が適用されたのだ。
第二次大戦での日本の東亜開放の人種戦争の大義が消されたように。
光成氏も輝元の迅速な大坂城入りは
事前に準備をし終えて出撃する準備が完了してないと
不可能な速さだと指摘してる。
明らかに毛利が首謀者でなければあんな一大挙兵はできない。
847人間七七四年:2013/04/05(金) 23:45:20.97 ID:yrp3F6YN
白峰旬「関が原の戦いに関する再検討」
加藤清正は関が原の戦い直後9/24に「天下之様子」は「関が原表之合戦」では「輝元方敗軍」と報じているので
毛利輝元が大阪城にいて関が原の戦場に出向いていないにもかかわらず「輝元方敗軍」としているのは毛利輝元が西軍のトップであり
首謀者であったとみなされていた事を示している
848人間七七四年:2013/04/06(土) 01:21:35.34 ID:SPvUgT8s
毛利家内への介入と分断を図る家康が目指す覇権へ抵抗するために
会津征伐をチャンスに毛利は反家康行動に踏み切った。
家康は上杉が気になり当分上洛ができないと判断し、
その隙に自力でも家康に対抗できるよう自己のために領土拡大を謀った。
光成氏は毛利の領土拡大と西軍の反家康行動は両立しないなどとは、まったく書いておらず完全に歪曲。
〜光成氏の主張〜
家康と組んだ秀元の別家創設で輝元から毛利領の1/4獲得を狙っていた(出雲や石見なので吉川は長門へ飛ばされる)
その後の交渉で出雲から長門や周防や父の遺領に変更になりながら、やむなく妥結した。
輝元は遺領問題で天下の人々はどうおもうだろうか?と毛利の外聞を非常に気にしてる。
家康や秀元によって恥をかかされたと認識してるから輝元も上杉征伐を最後のチャンスと思ったんだろうね。
さて輝元が在国してて、家康が会津へ出発すると大坂は大老不在になってしまうことから
秀家は会津へ行かずに在京。秀家の代わりに会津へ行ったのは詮家。
ちなみに毛利は吉川と安国寺が会津へ従軍予定。
7/5の豊国神社参拝での武運長久を秀家が行ったことに関しても
肝心の詮家が出発した後にそれをやるのはおかしいとされ、
しかも家康が介入した宇喜多騒動の主役の1人の詮家を会津へ派兵したのは
西軍挙兵において家中で邪魔になるであろう詮家の弊害を恐れ
事実上、秀家による家康の下への放逐行為であると考えられる。
そして秀家は大谷と親しいので、大谷の決起も秀家の士気の高さに引っ張られたとされてる。
6/16の家康出立直前の6/8〜10頃に輝元は領国へ向け出立
6/17日夜に広島に着いているわけだが、7/2に家康が江戸城着を経て
7/12付け三奉行の輝元への上坂要請文が7/15に輝元の元に到着した可能性が高く、
待ち構えていたように即日のうちに輝元は家中を率いて広島から船を出したと考えられ
7/17夜には秀元が大坂西の丸を占拠してしまうなど迅速に家康のいた場所が制圧されてる。
明らかに出兵の準備のために帰国してたとしか思われないわけで
輝元は6月の時点で家康を油断させるために領国へ帰ってるとされる。
そして七将襲撃の時に輝元ー三成ラインが敗北した原因である
家康側による大坂占領と伏見城の治部少丸包囲と真逆の行動を開始するなど戦訓を生かしている。
ちなみに7/19秀忠が江戸より会津へ出陣。7/21家康が江戸から会津へ出陣。
よって光成氏は下記のように書いているわけだ。
「この決起に輝元が直接関与していた可能性は高い」
「藩祖輝元の反幕府的活動をあからさまに証明する史料が隠滅された蓋然性は高かろう」
しかも慶長5年6月・7月の挙兵への道程における三成の関与について光成氏はまったく書いていない。
これでも光成氏が輝元首謀を主張してないと歪曲して強弁するならお前は完全に文盲かキチガイw
849人間七七四年:2013/04/06(土) 01:23:22.04 ID:SPvUgT8s
美濃は最初から西軍だし尾張侵攻も毛利主力の伊勢攻略軍による北上。
しかも伊勢を毛利が占領する意思を輝元は表しており、
増田が何を言おうが関係ないとまで言って野心を露わにしてる。
首謀者輝元は幼君秀頼を利用して軍事も主導して専制独裁をしていて
前線指揮官の1人でしかない三成はそれを黙認する機関でしかないのが実態で奉行に復帰してるかどうかすら疑問。
しかも輝元へ三成は直接意見を言えずに、増田を経由している始末。
秀頼に会ってないどころか大坂城にも一度も行ってない三成が首謀者だっていう一次史料が無いどころか
首謀者と思われるような傍証も感情の吐露も三成にはまったくない。
しかも蟄居ではなく、隠居で減封も改易もなく、家督譲渡された息子は秀頼に仕えることが許され、
秀次事件に連座した前野長康や浅野長政(幸長は能登国津向配流)
前田と家康暗殺を企てたとして甲斐の領地と家督を息子に譲り
武蔵府中に出て監視され謹慎させられた浅野長政よりも
三成はかなり罪が軽かった。別段、政治に執着してるわけでもなく、不満を抱いてるわけでもない。
前野長康や浅野長政の失脚を見てれば いつ政争の舞台から失脚しようが浮沈の覚悟もあって当然だろうね。
そして一年以上に渡り、三成はおとなしく生活していて事を起こすような証拠はまったくない。
嫡男の石田重家(三成が実父正継のために建立した寺である寿聖院の三代目を継ぎ生存)
次男の石田重成は津軽重臣として生存。
津軽2代藩主正室の辰姫として生存(子が津軽3代藩主信義)
三成首謀説は大老にもなった若狭酒井忠勝が主導して造られた東国太平記が
三成と兼続の陰謀話の証拠として登場させたのが発端だからw
それには現在では偽書状認定されている原書が存在しない書状が記載されてる。
6/20三成→兼続書状・7/14三成→兼続書状がそれ。
これはのちに続武者物語にも転載され一般化され根付いたもの。
三成と直江がすべて悪いと汚名を着せられたことと、
陰徳太平記を書いた岩国藩の香川景継が、
吉川家の意向を受けて、関ケ原軍記大成などの軍記類に偽書状を元ネタに
吉川の主張を隠密裏に盛り込む活動をして毛利は被害者ぶった史観を作りあげただけ。
三成と直江首謀→三成首謀→三成と輝元首謀→輝元首謀と
だんだんと三成の関ヶ原での権力が疑問視されてきてるのが流れだ。
また毛利は首謀者として改易させられ輝元の罪も問われる予定だったが、島津征伐が議題に上がったので
輝元は先鋒にすることになり減封になったのであり、偽書状のように広家のおかげで輝元が助命されたわけじゃない。
850人間七七四年:2013/04/06(土) 02:13:17.37 ID:DSwttt0N
この人は、どうして何度も何度も光成氏の主張を捻じ曲げるんだろう?
851人間七七四年:2013/04/06(土) 02:14:46.26 ID:H2LbjW//
アスペだから
852人間七七四年:2013/04/06(土) 07:08:15.27 ID:dAD9VSpO
ID:yrp3F6YN
ID:byHfzIGD
ID:SPvUgT8s

同一人物だってことはバレバレだしw
853人間七七四年:2013/04/06(土) 23:46:11.88 ID:Ne4U7bUU
だがさんコピペしかできないから
854人間七七四年:2013/04/08(月) 12:38:44.97 ID:3ihbMPd2
実際に三成が挙兵計画に参加してたとする一次史料は?
855人間七七四年:2013/04/08(月) 23:41:42.11 ID:Hn04iSrP
すみません、前から関ヶ原直前の大名領地表見てて疑問に思っていたんですが
このときの毛利は、毛利秀元の17万石と吉川広家の14万石と毛利輝元の120万5千石で
3人合わせて151万5千石になっているんですが

どうも私は、上杉景勝の120万石の中に直江兼続の30万石が含まれるのと同様
毛利秀元の17万石と吉川広家の14万石も
毛利輝元の120万5千石の中に含まれるような気がするのですが
どうなんでしょう?
856人間七七四年:2013/04/08(月) 23:55:59.39 ID:zP3hw51R
>>854
7月16日付蜂須賀家政書状。
三成と吉継の謀反を非難し、それに同意した輝元に不安を
感じるとしたためている。

輝元首謀者スレで完璧にボコられた主張をいつまでも見苦しいねw
857人間七七四年:2013/04/09(火) 00:14:19.47 ID:pCzoslvq
>>855
毛利両川はご存知ですよね?毛利は本家とは別に両川(一族も)が別々に所領を持っていました。
つまり両川は毛利輝元から禄を貰っていたのではなく、豊臣家から貰っていました。

毛利輝元・・・120万石
毛利秀元・・・20万石
吉川広家・・・14万石
小早川隆景・・・35万石
小早川秀包・・・13万石
安国寺恵慶・・・6万石

※端数は切り捨て

つまり正確な毛利の石高は208万石となり、経済力のある西国に位置していたことを考えると、
徳川家とほぼ同等に力を有していたと言えます。
よく言われる家康だけ飛び抜けた力(領地)を持っていたというのは、間違いです。
858人間七七四年:2013/04/09(火) 01:44:55.01 ID:bRqWvTeL
関ヶ原直前の話でしょ。
小早川の所領を単純算入するのはおかしい。
859人間七七四年:2013/04/09(火) 07:19:30.63 ID:p3XqPuPx
安国寺も関が原当時は完全に独立してるんじゃね?
860人間七七四年:2013/04/09(火) 12:53:53.82 ID:Vghk9yHZ
それさ、謀議に関わってない蜂須賀が裏に輝元がいることに早くも感づいてる証拠だよ。
だってまだ輝元は15日に広島を出発したばかりなのに蜂須賀は嗅ぎつけてる。
また、細川らが家康へ憎い三成が蜂起するとさかんに嘘を吹聴してまわってる。
(西軍本隊は毛利を主軸にした伊勢方面軍であったが、
武断派が三成憎しで大垣へ北進)
あとね内府たがい条に署名してる三奉行に三成は入ってない。
光成氏は奉行の書状が15日に輝元に届くや
待ちかねていたように急ぎ即日出発。
明らかに出発準備が完了していた。
淀、利長、三奉行は
三成と大谷が蜂起と家康にフェイクする陰で
輝元を大坂に招き入れて 家康が蜂起を過小評価させることに成功。
そもそも三成は直接、輝元へ意見が言えず増田経由であるのに
三成首謀者なわけもない。だいたい三成は家康派になっており、
三成の兄の屋敷を家康へ提供するなど、家康へ恭順しているため
なんとしても武断派は三成を敵にしたてる必要性があった。
一方の輝元は毛利分封問題などで家康への敵愾心と悔しさをあらわしている。
また北政所なども西軍派で、それを動かせるのは地位的にも輝元であっても
三成じゃないだろう。
7/12に三奉行が輝元の大坂入りを要請
決起を打ち明けられ同意を求められた家政が
16日に輝元へ書状を出しただけだろ。
淀や利長や三奉行は三成と大谷の挙兵と言うフェイクで
家康を騙して時間稼ぎをしているうちに大津城を手に入れ
瀬田の大橋を確保し、伏見城を落城させて
やっと佐和山の三成との連絡線を確保できたんだし。
三成の挙兵ですぐ輝元が大兵を率いて大坂入城できるのかね?
しかも大兵の船舶まで準備せずにいきなり
物凄い速さで大坂についてるのは光成氏も指摘してる。
輝元が三成に指示も何も三成からして
三成→増田へ書状→増田から輝元へとやり取りしていて
輝元に直接書状を出せない立場なのが三成だから
そんなもん元からあるわけないだろ。
861人間七七四年:2013/04/09(火) 12:55:44.37 ID:Vghk9yHZ
蜂須賀の書状って、
最も伝えたい、訴えたいことを書くことが多い追って書きに、
なおなお両人(三成と大谷)御同意の儀、初者雑説と存、
などと書いていて、
石田と大谷の逆意をただの雑な噂に思っていたら、
安国寺から聞いた旨によると、
東国へ向かう兵達を指し留めていると聞いて驚いたと書いていて、
三成らの挙兵は根拠ない噂だと楽観してたらが、
毛利から安国寺がやってきて、
毛利が会津征伐に行く諸将の軍を差し止めてると聞いて驚いた。
などと書いていて、
実は蜂須賀が聞いていた三成らの挙兵は噂レベルであって、
実際は輝元が会津へ行く諸大名の軍隊を通行止めにしてる首謀者っぷりの事実に、
蜂須賀が驚いて急ぎ書状を出し、
自分は昵懇してる間柄だと強調して輝元に考え直せと再考を促してるだけだよ。
三成らが悪いだけで
輝元は悪くないから、
考え直せば許されるよって、
蜂須賀が輝元の面子を潰さない話術でうまい言い訳を提案してるに過ぎないのは、
追って書きを読めば明らか。
軍記に書かれる三成が会津へ行く諸大名の軍隊を差し止めてる話も、
実は当初は毛利が差し止めてるのが史実だったとわかる書状。
862人間七七四年:2013/04/09(火) 12:56:27.70 ID:Vghk9yHZ
関が原から半年前の慶長4年末の三成→相良宛書状は
退隠してた三成が漆の桶を貰ったことへの感謝の書状だが
そこには京洛の静謐を喜び、九州での庄内の乱も平定されたことに
安堵している三成の姿があり、家康の統治を評価しているのがわかる。
三成が首謀者というのはまったく考えられない。
事実、細川の記録にある細川ガラシャが自決した際のガラシャの側女の報告でも、
三成らが捕らえにくる風聞が原因なんだよね。
だから大坂城から実際に誰の命でとらえにきたか不明で、
あくまで風聞レベルであり、 三成が挙兵した証拠は一切出てこない。
水野伍貴も三成は家康派だったとしている。
なんでいきなり三成が反家康の首謀者になって準備してたなんてでっち上げが信じられるんだ。
そもそも家康は武断派からの暗殺から縁戚の三成を守るために、
結城秀康まで護衛につけてあげてるし、三成は大坂の三成屋敷や三成の兄の屋敷まで提供して、
前田利長らの暗殺から家康を守っている。
そもそも看羊録には前田利長が家康を暗殺しようとして
同士を募った際に、景勝・秀家・清正・忠興・義宣・政宗が血盟したが
三成がそれを家康に通報して、家康襲撃を阻止したと書いている。
その後、家康が忠興に金を貸したり、豊後杵築6万石加増したりして味方化してるな。
そして七将による三成襲撃では、七将が家康に三成を死刑もしくは引き渡し要求する中で
家康が三成をかばって、結城秀康に警護させて佐和山までの道中で、七将に襲撃されないようにしてる。
三成がそのまま大坂に残っていたら、また七将に襲われる大事件が勃発する恐れが高い以上は仕方がない手打ち。
看羊録によれば、佐和山への移動には目的がちゃんとあり
これは家康が対前田のために、三成に北陸防衛を任せたと書いている。
863人間七七四年:2013/04/09(火) 12:57:47.21 ID:Vghk9yHZ
それなら家康が三成の嫡男を秀頼奉公として許している理由もわかる。
実際、家康が抗争していた相手は毛利・上杉であり、三成にはそれほど他意がなかったし
三成にも家康への敵対心はなく、七将と対立しているに過ぎない。
つまり挙兵ってのも上杉が滅亡したら、次ぎは自分の番だと自覚した輝元が
七将を手なずけて会津攻めを開始した家康への敵対を表明したのであり、
三成自身の意思はまったく関係なく、毛利が家康を油断させるために
三成の挙兵だと宣伝して、家康が叛乱を過小評価する誤算を呼び込んで
その隙に伏見城を奪い、勢多の大橋の無傷奪取に成功し大津城も影響下に置くことに成功した。
三成はどちらかと言うと、泥縄的に巻き込まれたと言っていい。
だから三成にはまったくと言って動きを顕わす一次史料が存在しない。
そして反応の鈍い家康と違い反感を持つ七将は三成の挙兵と聞いて反応して上洛していった。
朝鮮出兵は、叛意ゆたかな諸将を疲弊させる目的もあって、行われたもので
秀吉存命時には、朝鮮出兵反対だったが、秀吉死後に国内で支配を確立させたら
毛利や秀家らを朝鮮に派遣して疲弊させるつもりだった。
秀吉は朝鮮に中国・九州のものどもを転封させ、関東のものを西国へ転封させるつもりだった。
朝鮮人を日本で労働させ、日本人は兵隊として朝鮮へ行かせる計画だった。
秀家の先祖は百済人。配下が秀家に謀反したのを責めない家康を小人だと世間が言っていた。
庄内の乱で義弘の兵が疲弊したのを家康は喜んでいた。
輝元の性格は朝鮮人に似ている。朝鮮人の大内の下僕の家柄。
毛利の外交を一手に担う安国寺の周囲は朝鮮人ばかりが囲んでいる。
彼らが内乱を起こせば、朝鮮への再出兵は無くなる。
こんな内容が書かれていて、三成と家康は協調していて、小西と三成が憎い清正が内乱を欲している。
毛利や秀家は家康に屈したら、朝鮮出兵へ行かされる末路なので反抗するしか道はない。
看羊録は一次史料だし、清正との対立から三成は家康の為に働いてたと書いてるし、
家康に命令されての弱体化政策の朝鮮出兵を毛利が回避する為に
家康を排除するしか無いって話でしょ。しかも中立的視点で、
関が原後の国内における変な捏造史観に影響を受けていない点で優れているでしょ。
864人間七七四年:2013/04/09(火) 12:59:11.90 ID:Vghk9yHZ
白川亨氏は家康が秀吉の遺令に背いた時に糾弾のために使者を差し向けた大老や奉行に、
当時、朝鮮からの撤兵指揮の為に九州にいた三成は含まれないどころか三成が帰ってくるや、
違背した婚姻である忠輝と政宗の娘の 五郎八姫を容認するかのように政宗を茶会に呼んで歓待してる。
というのも忠輝の母の於茶阿は家康の寵愛を受け、徳川家の奥向けの一切を支配しており、
強い政治力を持っていたがその兄の山田上野介は三成の重臣であり
兄の子の山田隼人正は三成長女と婚姻していて、家康と三成は於茶阿方を通じて姻戚関係であり、
浅野家譜と慶長見聞録にも利長らの家康暗殺を 増田らが通報したのは三成の差し金だと記され、
三成の邸にいた家康がより安全な三成の兄の邸を提供され退避してる。
その後に、北政所を西の丸から追い出して、そこに天守を築いて家康は移り住んだ。
佐和山隠居の三成が武断派から襲われないように
護衛に結城秀康を付けたりしており(三成は帯刀していた正宗を護衛感謝の証に秀康に贈ってる)
白川亨氏も家康暗殺に加わったとされた 浅野長政が所領の甲斐蟄居ではなく、
武蔵府中に蟄居にさせられた事と対比して、浅野より姻戚関係にある三成の方を家康は信用していたと指摘してる。
関が原後に親戚の孝蔵主が甥を茶阿に送り届け 息子忠輝の家老にして甥を取り立ててる。
三成が家康との姻戚関係を重視して協調していたのがよくわかる。
輝元に唆された大谷に風聞を流されて、何時の間にか三成は西軍に巻き込まれていた。
ただ三成→直江書状が偽書状でなければ、
三成と直江が挟撃策を狙っていたと認めざるを得ない。
865人間七七四年:2013/04/09(火) 21:19:54.60 ID:67PyIlf/
長い産業で
866人間七七四年:2013/04/09(火) 21:28:38.39 ID:56eXMauH
>>860-864
全部、輝元首謀者スレで崩された内容
867855:2013/04/10(水) 00:32:57.30 ID:y/vde9Qz
>>857
小早川隆景と小早川秀包と安国寺恵慶が別なのはわかっています。

私が疑問に感じているのは、まず毛利輝元の領地が安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・備中の半分と伯耆の半分なのに
毛利秀元の領地も長門・周防吉敷郡・元清遺領の17万7856石で
長門国に関しては完全にかぶっているからです。

吉川広家も出雲3郡・伯耆3郡・安芸1郡・隠岐一国ですから
かぶっています。

やはり毛利秀元と吉川広家の領地は
毛利輝元の領地に含まれると思われるのですが
そこのところどうなんでしょうか?
868人間七七四年:2013/04/10(水) 01:28:23.07 ID:ykHuOiap
毛利秀元領は宗家からの分地で毛利輝元120万石の内
吉川広家は大名扱いながらも毛利家臣なので毛利輝元120万石の内

小早川秀秋は秀秋が入ったことで独立大名
小早川秀包は小早川からの分地で独立大名

安国寺恵慶は安国寺寺領を除く領地が未検出でどういった立ち位置だったか不明
869人間七七四年:2013/04/11(木) 14:39:46.72 ID:5HECRRQt
そもそも毛利の石高は誇張されてて正確にはわからない
870人間七七四年:2013/04/12(金) 12:23:06.97 ID:cYZ4BEAF
>>866
論破したとするレスのリンクくれ。
871人間七七四年:2013/04/12(金) 21:04:21.66 ID:na27hpy9
首謀者なのによく防長2国を安堵されたね
本当に首謀者なら広家いくら頑張ったって、まとめて処分されそうなもんだけど
872人間七七四年:2013/04/12(金) 21:53:49.37 ID:f4q6plf9
輝元が首謀者だったが、大坂城を明け渡すために
大坂城内を説得した功で極刑を免れる。
そのため武断派が嫌っていた三成・小西らがスケープゴートにされる。
これで豊臣家臣同士の諍いにまで矮小化することで戦後の
ソフトランディング謀り、家康の謀反を問う義戦の性格が消滅した。
勝者の論理が適用されたのだ。
第二次大戦での日本の東亜開放の人種戦争の大義が消されたように。
光成氏も輝元の迅速な大坂城入りは
事前に準備をし終えて出撃する準備が完了してないと
不可能な速さだと指摘してる。
明らかに毛利が首謀者でなければあんな一大挙兵はできない。
873人間七七四年:2013/04/12(金) 22:46:12.84 ID:63PLx3pO
極刑の輝元の罪を問わない&家督強制譲渡すれば改易免れる条件が、
島津征伐で輝元が先陣をやるってことだったからな。
しかも毛利の山陽道側の城は後陣の徳川諸将が接収予定だった。
清正や官兵衛が独力で島津を圧倒したから
島津が家康に泣き入れた結果、
輝元は先陣やらずにすんだけどな。
874人間七七四年:2013/04/13(土) 07:36:26.16 ID:E9odiKj2
景勝は家督譲渡や島津攻めの先鋒と言った条件が一切無かった講話だったことから見ても
輝元が首謀者だったのは間違いない。
また伏見城落城翌日に西軍首脳の北政所と輝元が豊国社で戦勝祈願 をしているがやはり三成は豊国社で祈願すら一切やってない。
北政所と親しい醍醐寺の座主義演が吉川ら毛利の東軍への降参を卑怯卑怯と罵っているなど首謀者毛利のあり得ない行動に、
毛利に賛同していた者たちは憤激していたし、
首謀者毛利の裏切りを受けて北政所が関が原後に京での東軍の乱暴を避けて後陽成天皇生母の屋敷に逃げ込んだ
これらの北政所人脈と三成も全く無関係。
875人間七七四年:2013/04/13(土) 07:46:04.18 ID:E9odiKj2
三成と全く接点のない北政所の動きを追うと、慶長5年6/18には早くも北政所が豊国社に増田と玄以も社参してるのが反家康の端緒と言われてる。
西軍は義演准后日記などで秀頼様衆と書かれているので世間的にも公認されてる。
岐阜城が落ちて美濃まで武断派が占拠したのを知った北政所は8/29より
禁裏に戦禍が及ぶのを案じて城の兵備を破壊し始めてるだけ。
大津城攻めが開始されると義演准后日記に9/9秀頼様祈祷代として金二十両・銀三枚が来ると書かれており
西軍戦勝の祈祷に大坂城の金が使われてるのがたびたび見受けられる。
大津城を開城させるため京の北政所は孝蔵主、大坂の淀殿は饗庭局、高野山は木食上人を投入し一致協力し
和睦後は大坂への人質として京極忠高を受け取る。
西軍敗北と聞くと9/17北政所は裸足で御苑内の勧修寺晴子の屋敷に逃げる。
9/22に京都新城へ北政所は戻る。言経卿記・孝亮宿禰記などで9/26に家康が大坂城へ入り秀頼と和睦をなすとしている。
10/14北政所側近の孝蔵主が罪に問われないように祈祷していたが、この日ついに不問になり西洞院時慶ら公家衆も安堵する。
10/15大坂と江戸の問題が処理され淀の供応で家康と和解し論功交渉スタート
19日秀忠・忠吉が前田玄以とともに豊国社へ参拝。
家康も北政所や淀の罪が問えないどころか饗庭局も不問。
さらに難航していた孝蔵主の処分まで不問にしないと秀頼の名で論功行賞すら行えなかったのが現実
876人間七七四年:2013/04/13(土) 13:11:52.71 ID:qXpohm9z
三成なんてただの最前線指揮官に過ぎないだろ。
どこに首謀者の面影があるんだよ?
三成は真田や上杉を味方に引き込んだくらいしか役に立ってないし、
真田も上杉もほとんど戦域外で無意味だったじゃん。
877人間七七四年:2013/04/14(日) 07:35:25.04 ID:PEijpGJU
>>876
毛利もほとんど無意味だったけどな。
ゆえに、毛利首謀者は上杉や真田を首謀者というくらいのトンデモ論。
878人間七七四年:2013/04/14(日) 13:39:00.30 ID:ph0Dv9LL
無意味どころから西軍の主戦力は毛利じゃねーか。
三成の美濃戦線なんて閑職もいいところの囮左遷人事じゃん。
西軍首脳陣ははじめから美濃は見捨てるつもりだったとしか思えんし。
879人間七七四年:2013/04/14(日) 17:46:20.06 ID:rKSsF7nJ
アスペルガーだが自作自演大爆発!
ID:l3hgUjnC(レス数5)
ID:ph0Dv9LL(レス数8)
レス数の合計は現時点で 13

おまえ馬鹿すぎて笑えるwww
880人間七七四年:2013/04/16(火) 11:06:39.32 ID:4WlX7/yZ
>>872
関ヶ原の時点で輝元が首謀者であれば、敗北すれば三成のように極刑は免れない
敗者にならない為に、首謀者なら関ヶ原で死ぬ気で戦うでしょ普通
でも実際は動かなかった、その状況だけでも首謀者とは到底思えないのだが

関ヶ原で負けたから、大阪城を退去で助命を嘆願したんじゃないの?
大阪で助命されるから、関ヶ原では動きませんでした←普通に考えたらこんなの理由にならない
881人間七七四年:2013/04/17(水) 13:36:53.53 ID:T/mBn1Jj
在日の豊臣政権憎しは想像を絶するな…
看羊録で朝鮮人のような毛利とageられまくってるから
毛利擁護もしっかりやるんだなw
家康が毛利や宇喜多らを弱体化させる目的で渡海させての朝鮮再出兵を阻止する為に日本を内乱分裂させようと
朝鮮人ブレーンで安国寺らを囲んで関ヶ原を起こしたと書いてるしな。
どう考えても朝鮮人に扇動されたバカ毛利が首謀者なんだよな。
882人間七七四年:2013/04/18(木) 20:37:53.68 ID:l44E7f0L
まあ三成が首謀者なら増田経由で輝元に意見を伝えてもらうなんてことする必要ないしね。
むしろ無職三成より現役奉行の増田の方が地位が上だろな。
三成が首謀者なら三成が秀頼を補佐して大坂城で指示をして、
輝元が野戦軍総司令官として家康と対決してるはずだろう。
輝元がいないから毛利軍は迷走したんだしな。
883人間七七四年:2013/04/19(金) 02:06:11.89 ID:BymLXsvu
>>881
妄想はいいからさっさとソース貼れよクソ在日
884人間七七四年:2013/04/24(水) 23:27:55.05 ID:SYagLYLV
だがはホント長文で妄言ばっかでなんの証拠も示さないなあ
生粋の基地外やで
885人間七七四年:2013/04/24(水) 23:36:46.09 ID:g/wLxL8Z
首謀者は輝元
三成はオマケ
三成は美濃近江ラインの重要性を認識
毛利家は家臣がそれぞれ派閥化して方針が定まらなかったため
アホ輝元は戦略的視点に欠けていた(小早川吉川ら兄弟時代からの派閥確執が余計ひどくなっていた)
そこに家康や長政が和睦詐欺や毛利を敵だと思ってないよ嘘アピの謀略をかけてきて
輝元はとうぶん家康の西上はないわwと多方面へ兵力を分散し
肝心の美濃近江戦線を放置するアホぶり。
家康も福島らが三成包囲したわ詐欺にひっかかり
急いで西上してしまったことで
輝元は腰がひけて、家康は和睦してくれる&毛利を敵だと思ってない発言を盲信して騙される。
そもそも毛利が下手を打ったために大津城が東軍に落ちたのが致命的
毛利の無能さは神
輝元が首謀者だったが、大坂城を明け渡すために
大坂城内を説得した功で極刑を免れる。
そのため武断派が嫌っていた三成・小西らがスケープゴートにされる。
これで豊臣家臣同士の諍いにまで矮小化することで戦後の
ソフトランディング謀り、家康の謀反を問う義戦の性格が消滅した。
勝者の論理が適用されたのだ。
第二次大戦での日本の東亜開放の人種戦争の大義が消されたように。
光成氏も輝元の迅速な大坂城入りは
事前に準備をし終えて出撃する準備が完了してないと
不可能な速さだと指摘してる。
明らかに毛利が首謀者でなければあんな一大挙兵はできない。
886人間七七四年:2013/04/25(木) 01:04:37.10 ID:mAYtocJf
よぇぇぇなー、毛利って。
887人間七七四年:2013/04/25(木) 20:37:26.22 ID:sNH6tz+a
つか、三成首謀者なら秀頼出馬は有り得ただろ。
輝元が首謀者だったから、秀頼が出馬した後に、
大坂城を毛利に占拠される危険性を警戒して秀頼出馬が不可能だっただけだろ
888人間七七四年:2013/04/25(木) 23:27:18.27 ID:DV7DNEha
>>887
輝元が主犯なら本人が出陣するだろ普通w
889人間七七四年:2013/04/25(木) 23:30:45.95 ID:mAYtocJf
だからこそ輝元は馬鹿だって話だろ
ただでさえ伊勢湾とか四国とかどうでもいい方向に
兵力分散させまくって大敗したんだから
890人間七七四年:2013/04/25(木) 23:31:40.59 ID:N/4vkR4n
○毛利輝元が家康との交戦を消極的にしか考えておらず自領域の拡大を中心に見据えていたというのは根拠がない
・輝元が家康と戦う気がないならはじめから西軍総大将になんてなるわけないし
伊勢湾、伊勢方面に兵送ったり関が原に秀元広家の大軍送り込むわけもない
・自領域拡大が目的なら関が原本戦に勝利すれば西軍総大将として最も領域も権限も増すし逆に総大将なのに負ければ最も不利な立場になるなんて幼稚園児でもわかる事
・石田三成などの奉行衆と連携して積極的に反徳川闘争の決起を行った

○毛利輝元は馬鹿なのは以下の通り史実での実績がちゃんとある
・対織田戦で熊見川で大勝しながら兵站の長さを理由に本国へヘタレ退却する
・天正4年〜7年時点でも織田方が他の方面での戦闘で忙しい時でも中国口を中途半端に火事場泥棒しただけで勝頼やらとの約定反故にして織田を討つ決定的チャンスを逃す
・本能寺の時も秀吉の口からでまかせ口述詐欺(数カ国織田から毛利へ割譲する)にひっかかって騙される
・関が原の後もやはり家康に騙されて大阪城明け渡した
・関が原の合戦に至るまでの間、総大将という最も権限軍隊ある立場にありながら関係ない伊勢湾四国伊勢などに軍分散させ見事大敗する
・総大将なのに西軍諸将からの援軍要請無視しまくり美濃口を突破され、その後も大阪に引きこもり秀元軍も使い物にならず見事大敗する

以上のように毛利輝元が消極的というより単に馬鹿だったからこそ戦力分散させまくり西軍を崩壊に導いたと解釈すれば矛盾なく関が原の毛利の行動も理解できる
891人間七七四年:2013/05/01(水) 07:25:45.01 ID:FzF2uBvz
大戦で日本が戦犯になったのは輝元のせいまで読んだ

だがは必死すぎ
892人間七七四年:2013/05/04(土) 22:35:54.72 ID:dtj0g1gK
大局なんて考えず目先の領土拡大に必死だったんだろう
893人間七七四年:2013/05/10(金) 21:23:40.02 ID:GSC9NtWr
西軍総大将に就任した以上領土を減らさずに乗り切るには徳川に勝つしかなかった
894人間七七四年:2013/05/10(金) 21:28:53.35 ID:PxVdPn1x
岐阜落城の時点でもう勝てる見込みは消えたんだから仕方がない
895人間七七四年:2013/05/12(日) 14:47:27.86 ID:NHEO1Oe8
毛利の関ヶ原前後の一連の行動自体全て計画通りだったのではと思ってしまう

毛利は天下泰平のために『泣いた赤鬼』の青鬼役に徹したのかもしれない
896人間七七四年:2013/05/13(月) 15:21:20.87 ID:9s2M9lY0
1600年のときに、吉川の当主が元長でまだまだ元気な状態であったら、どうなっていただろうと思う。
897人間七七四年:2013/05/15(水) 06:58:11.45 ID:HGl43v6v
あんまり変わらんと思うぞ
898人間七七四年:2013/05/15(水) 12:56:05.75 ID:iE87FkzI
指導者ではなく組織の弊害だからな。
899人間七七四年:2013/05/19(日) 12:39:52.26 ID:ApGBaV8o
最近は福島ら武断派がまったく私怨ない上杉攻めに積極参加した謎にスポットを当てられてるな。
会津征伐で関東へ進軍してる中で、忠興が三成は謀反する謀反すると讒言を続けてたり
三成挙兵の噂を聞くや、待ってましたとばかりに上杉征伐を忘れて、家康を放置して上洛開始。
このことから輝元と武断派は最初からグルだったとする可能性がでてきた。
そのために福島の領国の尾張どころか福島の弟がいる長島を前に進軍ストップしてたり、
関が原で福島ら武断派に対して毛利は戦を回避したという行動にでた。
武断派は三成を陥れようと流言と讒言をやり、
三成をかばう家康を遠ざけて、三成挙兵のでっち上げをした。
毛利も当然、武断派へ便宜を図り美濃への援軍もださなかった。
武断派は三成を大垣で包囲したと嘘を吐いて家康をおびき出すなど
武断派の策謀が目立つ。
輝元と武断派の話し合いは武断派の謀略なので
家康には伝わらず、輝元は大幅減封と当主の座の剥奪と
島津攻めの最前線の役目を負わせられ
武断派が構想した毛利と上杉の強化の策は失敗したっていう。
策に溺れた武断派の姿がみえる。
900人間七七四年:2013/05/19(日) 20:09:34.46 ID:UXmIGIZL
0点
901人間七七四年:2013/05/20(月) 15:16:22.86 ID:y+dKFX7J
輝元はあえて、秀秋を養子にするべきだったな
秀吉が死んでしまえば、追い出せば良かったんだし

そうなれば輝元150万、広家30万、秀包36万の一大勢力が出来た。
902人間七七四年:2013/05/20(月) 18:07:47.65 ID:Dy/RVoos
たしかに毛利は武断派との戦いを徹底的に回避してるね。
毛利と武断派(黒田が中心で)との間で密約があったかもな。
毛利としては、どうしても三成を巻き込みたかったし、
武断派は三成を追い込んで挙兵させ討伐したいって言う思惑があったろう。
903人間七七四年:2013/05/22(水) 06:37:44.14 ID:YXi0xOw8
>>901
秀吉が死んだ後の政情を完璧に予想とかできるわけねーだろ。アホか
904人間七七四年:2013/05/22(水) 12:38:42.57 ID:Kca/FiF0
朝鮮出兵阻止のために
日本を内乱にさせるように仕向けた
朝鮮人に操られた馬鹿輝元
905人間七七四年:2013/05/22(水) 15:13:08.14 ID:C8jcmujy
>>904
きみ、本気で頭大丈夫?
906人間七七四年:2013/05/26(日) 00:12:30.59 ID:l7bk1YHG
大丈夫じゃないから通院してる訳で、ちょっと言い方がひどくないですか
907人間七七四年:2013/06/06(木) 20:34:32.33 ID:dFe94asM
実際、看羊録に記されてるし。
毛利は朝鮮人に似てるとも書いてる。
908人間七七四年:2013/06/07(金) 08:23:17.39 ID:GUlVQgmy
下手すりゃ大和朝廷の半分は渡来人だろうし、大江が子孫でも不思議では
ないかと。
しかし毛利ってよく生き延びたよなぁ。
大江宗家がかばってくれなかったら、中国地方ってどうなってたんだろ。
尼子と大内の草刈り場のままかな?
そして信長が来襲すると。
909人間七七四年:2013/06/07(金) 09:45:09.12 ID:sVgKc4Yf
まあ元就がいなかったら尼子が天下とってる可能性高い
なにせ元就に負けたせいでその後の東征計画が頓挫しちゃったんだから
播磨まで進出していたから京都まであと少しだった
910人間七七四年:2013/06/07(金) 10:15:00.17 ID:qmkv4esh
むしろ尼子晴久が突然死してなければ元就なんて滅亡してただろ。
911人間七七四年:2013/06/07(金) 20:23:11.11 ID:sVgKc4Yf
今日のアスペルガーだが=ID:qmkv4esh

【親父】長尾為景【強い】
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1156602220/359

織田信長は過大評価されすぎ12
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1360651236/698

【吉川】毛利一族を語る【小早川】
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152171027/910

【疑問】スレ立てるまでもない質問11【戦国時代】
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1362228842/491

上杉謙信は戦国最強【信玄,信長,氏康,盛氏を圧倒】
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1334873788/975

問題ばかり起こしている荒らしなので関わらないようにしましょう!
912人間七七四年:2013/06/09(日) 16:49:36.95 ID:945p+2Zo
連呼リアン織田厨がなぜ毛利スレに?w
913人間七七四年:2013/06/09(日) 16:57:13.84 ID:l0mLCkc0
アンチ秀吉の在日織田厨だからでしょ。
いくら秀吉を貶そうとも耶蘇会の1584年の年報にも
はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。
914人間七七四年:2013/06/09(日) 17:04:26.67 ID:NvkRIx5V
耶蘇会年報なんてあてにならんからなぁ
同じく南蛮人のフロイスの記した記録も秀吉が佐竹や木曽など諸大名あてに
垂れ流した捏造情報とか捏造戦果が客観的事実かのように誤って書かれてるし
秀吉が禁教しだしたら手の平返したように秀吉罵倒を始めるし資料的価値はほとんどない
915人間七七四年:2013/06/09(日) 17:52:41.54 ID:l0mLCkc0
>>914
あぁいつもの武田厨を装い他人の書き込みをパクリ
大量コピペしてるキチガ在日イさんでしたかw
916人間七七四年:2013/06/10(月) 08:42:18.13 ID:iJ8hL7Ii
お前、それ家わけ文書に載ってると誤解してんの?w
家わけ文書すら理解できてない無知ぶりを晒しまくってワロタwww
そんなクソ内容は家わけ文書には無いわwwwアホ乙www

>>4/29信長、瀧川一益、惟任光秀、筒井順慶等をして、播磨上月城を赴援せしむ
>>5/1信長、親を播磨に出征せんとす、佐久間信盛等、之を諌止す、尋で、又出陣せんとし、大雨に依り、之を停む
>>5/4信長の將羽柴秀吉、荒木村重と共に陣を播磨高倉山に移し、上月城攻囲の毛利氏の軍と対峙す、
>>5/6信長、信忠、北畠信雄等を播磨に遣す、是日、信忠等、賀古川に陣す、
>>5/16羽柴秀吉、但馬山名豊国の好を通ずるを容れ、其所領等を安堵せしむ、
>>5/21羽柴秀吉、毛利氏の將清水宗治を誘ふ、応ぜざるに依り、鈴木孫右衛門等をして、宗治の居城備中高松を奪はしむ、
>>仍りて、小早川隆景、宗治をして、播磨上月より帰国せしむ、是日、隆景、之を祢屋七郎兵衞に報ず、尋で、宗治、同城を復す、
>>5/24羽柴秀吉、竹中重治を遣し、備前八幡山城某の帰属を信長に報ず、
>>6/26羽柴秀吉、陣を播磨高倉山より書写山に移す
>>6/29信長、津田信澄等に命じ、摂津兵庫及び播磨高砂間の道路に、戌兵を置かしむ、
>>7/5播磨上月城の尼子勝久、毛利氏の功囲を拒ぐ能はずして、自殺し、是日、城陥る
>>7/7本願寺光佐(顕如、)播磨の情勢を紀伊の門徒に報じ、播磨高砂に兵を遣して、之を守らしめ、
>>又神吉城の落城に備へて、海上の通路を確保せしむ、

上記の文はネットで東京大学の大日本史料データベースで年代検索かけて
綱文だけ拾ってきてコピぺ転記羅列してるだけじゃねぇかアホ屑チョン
綱文内容が一次史料を元に書いてるわけねーだろ無知すぎてワロタw
だから下記みたいなカス資料の無意味な羅列しかお前はできないんだw
萩藩閥閲録
晋叟寺文書
毛利家日記
[参考]備前軍記
[参考]浦上宇喜多両家記
[参考]陰徳太平記
[参考]御答書
[参考]總見記
[参考]柏崎物語

つべこべ言わずに研究者も出典として使う
一次史料認定されている
毛利家・吉川家・小早川家・熊谷家文書
三浦家文書・平賀家文書等の家わけ文書から
秀吉に勝った証拠を挙げてみろよw wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
917人間七七四年:2013/06/10(月) 11:18:02.98 ID:f6aJtU/i
そもそもお前の妄想は信長公記や別所長治記など軍記類ソースの妄想シナリオだから
網文転記のがまだ信憑性あるだろアホ
918人間七七四年:2013/06/10(月) 12:40:41.78 ID:pgaj/XXY
他でやってくれんかね。

>>909>>910
ああ、尼子か。
確かに晴久が急死していなかったら尼子の可能性が高いか。
919人間七七四年:2013/06/10(月) 17:55:48.29 ID:ACW82V5Z
記録によれば吉川元長は四国征伐に行く前から進軍もままならないほど重病だったらしいけど
なんで九州征伐まで無理して行ったんだろ親父のせいかな
四国で寺破壊したのも病で精神もおかしくなってたのだろうか
920人間七七四年:2013/06/10(月) 23:27:50.61 ID:gNTn9lIe
>>918
>他でやってくれんかね。

説得力ないことをやるな馬鹿チン
ID:qmkv4esh(>>910)=アスペルガーだが
921人間七七四年:2013/06/12(水) 08:30:15.13 ID:dUKijbmP
連呼リアン織田厨まだいるのか
922人間七七四年:2013/06/14(金) 06:46:57.39 ID:tsi8sUdY
>>919
だがさん歴ゲー板追い出されたんだってね
923人間七七四年:2013/06/21(金) 00:30:41.12 ID:qId4l5TL
吉川広家と八幡宮の宮司の娘の間に生まれた子供の14代目の俺が来ますたよ!

しかし俺の代で14代続いた家ももう終わりですorz
924人間七七四年:2013/06/22(土) 01:19:31.18 ID:lTDEHsjs
>>923
直系か?
吉川家の子孫って今でも山口、広島辺り多そうだよな
925人間七七四年:2013/06/22(土) 01:26:42.97 ID:NYajIOSF
うちも400年続いた家が終わりそう
926人間七七四年:2013/06/22(土) 09:55:16.99 ID:wB95wyuT
>>624
八幡宮の宮司の娘は妻ではないので、岩国の人には笑われそうですが。

それから8代前に一度分家しているので直系ではありませんが・・・
927人間七七四年:2013/06/23(日) 01:25:51.72 ID:+6BRBZY5
吉川晃司も吉川家の子孫だよな?
928人間七七四年:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN ID:Tn2xwUDf
>>927
ネットで調べると子孫みたいだな。吉川家は長州藩だから、薩長同盟の
薩摩の西郷さんを演じるのはいい感じかも
929人間七七四年:2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN ID:vgqKBFR+
本人は出身地のこともあり高杉晋作か木戸孝允の役がもらえると思って大河の話を受けたんだってさ。
ひょっとしたら会津の人の役の可能性は考えていたらしい。
そしたら西郷の役だと聞かされ、俺がそんなんやっていいの〜と思ったとか。
まぁ八重役からして広島出身だし何でもありだな。
930人間七七四年:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN ID:DaSAI4zI
三成はかわいそうだよなぁ
18万の大軍をかき集め絶対勝てる状況作りながら輝元は伊勢湾やら四国やらどうでもいい方向に軍分散させまくり
美濃口を突破されそれでもめげず本戦でも布陣で優位に立ち毛利一族さえ馬鹿じゃなきゃ絶対勝てる状況作ったのに
肝心の輝元は大阪に居座るアホっぷりで秀元秀秋広家も全く使い物にならず大敗
毛利のアホさ加減で努力が水の泡に帰したのが三成
931人間七七四年:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN ID:Oe2EQ9js
だがさんまだ起きてるの?薬飲んで寝な
932人間七七四年:2013/07/22(月) NY:AN:NY.AN ID:vwX6oz8n
元春は孤独のグルメで、隆景は昼番組の司会で活躍中か
出世したな
933人間七七四年:2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN ID:MLOzhSQv
毛利の治世も関ヶ原以降に付いてきた家臣を養うために七公三民で大内以上に過酷だった。


<全国藩別百姓一揆発生件数>
01 盛岡(南部)   97件
02 広島(安芸)   69件
03 秋田       65件
04 荻(長州)    61件
05 金沢(加賀)   57件
06 宇和島      56件
07 徳島(阿波)   42件
08 鳥取       38件
09 松山(伊予)   36件
10 会津       35件
11 庄内       32件
12 仙台       31件
13 高知(土佐)   29件
14 福山       29件
15 名古屋(尾張) 28件
16 岡山       27件
17 新庄       24件
18 延岡       22件
19 上田       22件
20 熊本       21件

青木虹二著「百姓一揆の年次的研究」
934人間七七四年:2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN ID:EV27q3C0
わしは吉川元春じゃ

吉川家に逆らう奴はわしが首をとってやるわ。

寺社仏閣もわしの味方よ
935人間七七四年:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:qpUNR0L+
「金子備後守元宅」の著者は神社仏閣の破壊は毛利や織田もやってるのに
なんで長宗我部元親ばかり非難されるんだと書いてるな
今は大友だけどこの頃は長宗我部元親が有名だったらしい
936人間七七四年:2013/09/22(日) 20:03:15.66 ID:AnC5gjXE
老後の趣味で中世城郭模型を製作しています。
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
何れみなさんにお見せできる機会があると思います。
http://mirai660.net/castle/
937人間七七四年:2013/09/29(日) 20:26:34.95 ID:qR0bCyhe
938人間七七四年:2013/10/16(水) 00:53:12.67 ID:4HpF0saH
関が原では何もしてないだろ吉川広家
939人間七七四年:2013/10/16(水) 01:21:30.35 ID:CTuIGWDz
逆に考えるんだ
「何もしない」ということこそ重要な行為だったんだと
まぁ結果的にはやっぱり広家の判断は甘かったとは思うけど
940人間七七四年:2013/10/18(金) 19:57:14.34 ID:Fz3eyPUR
まああのまま家康潰したところで関東、北陸、東北、九州が
群雄割拠するから毛利だって安泰とはいえないだろ。
941人間七七四年:2013/10/22(火) 23:33:41.53 ID:BSyIhQKg
関ヶ原の時は、黒田しか東軍との交渉のチャンネルがなかったのがなぁ
豊臣政権の後期には黒田は中国取次から外されてた傍流だから
何ら正規の権限があるわけでもないし、そもそも徳川とそれまでほとんど
外交的な交渉関係とかコネもないのに、西軍総大将の内通という大技は
そうそう上手く成功しないだろという気はする
毛利と織田が戦ってる最中でさえ、すでに織田方として戦ってる宇喜多の頭越しに
安国寺と明智・丹羽を担当者として直接信長と和睦交渉してた頃の
ある意味毛利のしたたかな外交を考えると
やっぱり広家の外交はもともと懇意だった黒田にあわててすがっただけの
泥縄感がぬぐえないのよな
942人間七七四年:2013/10/23(水) 00:12:03.25 ID:3i8i/pzG
七将事件以降ずっと徳川と協調路線にあってコネもチャンネルもあったのに自ら断ち切った訳でしょうがない。
他だと蜂須賀にすがろうにも輝元が蟄居させちまった手前どうしようもないし
943人間七七四年:2013/10/23(水) 01:40:57.87 ID:Pnq+6vzc
協調路線の時期に、具体的に毛利側の誰が徳川との外交担当者だったの?
豊臣政権の後期は石田三成が毛利の取次だったのは知ってるけど
七将襲撃で三成隠棲後はどうなってるのか知らんのよ
944人間七七四年:2013/10/23(水) 20:02:27.65 ID:3i8i/pzG
毛利側は主に安国寺恵瓊。あとは大坂留守居役
徳川側は、榊原康政、本多正信、永井直勝。かな

広家は個別に榊原康政と連絡を取り合ってる
945人間七七四年:2013/10/23(水) 21:02:11.16 ID:om5gk5ZG
七将襲撃以降ずっと協調路線だったといっても時間的に短かすぎないかそれ
慶長4年3月に七将襲撃で翌年7月輝元が大坂城に入って西軍挙兵で
その1年あまりの間にこれまで希薄だった毛利・徳川間で
実のある外交ラインって築けるものだろうか
946人間七七四年:2013/10/23(水) 21:58:08.64 ID:3i8i/pzG
1年もありゃできんじゃない。本気度にもよるけど
関ヶ原のときは宗家及び広家が懇意にしてて家康に物言える人物達のうちの
黒田長政以外の、加藤清正、蜂須賀家政、榊原康政がそれぞれ熊本、蟄居、信濃路だから
黒田長政と連絡取るようになったは泥縄感というか当然の結果
947人間七七四年:2013/10/24(木) 23:30:48.41 ID:/GSknnVZ
関ヶ原の吉川は黒田親子に都合のいいように懐柔されたとしか思えないけどな
特に親父の方は悪質。如水は輝元の大坂入城後、広家を東軍へ誘う書状を送って
「あなたのことが心配です。天下のことがどうなってもずっと友人でいましょう」
と甘言を弄して東軍への内通を勧めながら
一方で戦いが長引けば北九州から次は毛利領に侵攻する意図をもっていたわけで
こんな二枚舌を信じて宗家を巻きこむ内通を輝元に無断で行った広家は甘ちゃん
948人間七七四年:2013/10/25(金) 12:10:15.54 ID:MzqLsDh/
広家は輝元からガキ並みの低脳で困ったもんだと酷評されていたほどだからねぇ。
949人間七七四年:2013/10/27(日) 10:24:02.28 ID:4fuylKYu
これまで吉川広家に外交交渉の経験があるわけでもないからね
広家は武人としては一流だと思うけど、外交能力に関しては疑問符
秀吉に面会・交渉できた小早川隆景と違って
吉川は取次通さないと秀吉にも直接会えなかったし
七将襲撃以降も安国寺が毛利家公認の対徳川の外交担当者だったんなら
吉川は実質的に毛利の外交政策から蚊帳の外におかれていたわけだよ
隆景は元就存命時から、毛利の外交担当者として織田の申次だった
まだ木下藤吉郎時代の秀吉と、安国寺とともに交渉してきた実に長い経験があるのよ
豊臣政権下で小早川、ひいては毛利宗家が重用された背景には
この時以来の信頼関係が大きく影響してるわけで
1年程度で実質的な外交関係なんてできるもんじゃないと思うのよ
950人間七七四年:2013/10/28(月) 21:26:26.10 ID:AyR9mCmP
関ヶ原の時まで小早川隆景が生きてさえいれば・・・
隆景なら、隆景なら西軍について負けるにせよ
(隆景生きてても、やっぱり毛利は豊臣政権との関係性から見て
西軍につく可能性の方が高いと思うが)
もう少しマシな負け方や戦後処理をできたはず
951人間七七四年:2013/11/12(火) 22:54:41.35 ID:r4iOBJXB
こないだ歴史展で三子教訓状を観てきたんだけど、最後の宛名のところ、隆元隆景元春の順になってたのは何で?
952人間七七四年:2013/11/13(水) 08:57:19.70 ID:0fz+aCap
三成失脚の時に涙目で悔しがった輝元は、
家康に屈服して兄弟の関係を誓わされてるから、
輝元が家康との関係を強めようとはして無いだろ。
安国寺が徳川相手に外交した記録もない。
西軍挙兵で切羽詰った家康が、この時に輝元とは兄弟の関係を持ち出して、
西軍総大将毛利の懐柔切り崩しの謀略をかけてきた時に、
輝元は敗戦してもしらばっくれれば罪の問われないと誤判断をした挙句に、
家康は切羽詰まって当分は西上出来ないから、
その間に反西軍の地域をぜんぶ従わせて背後を固めようとした。
しかしここで誤算が生まれた。
それは三成憎しの武断派が家康を捨てて西上を開始したことだ。
そして三成憎しで伊勢の毛利軍も無視して美濃を攻略し大垣近辺に進出。
武断派は家康に三成を包囲して勝利目前の超ウソを家康に報告。
家康は焦って出陣し、俺が着くまで大垣攻め禁止!と命令。
騙されて西上した家康と、
家康に兄弟の関係と言われて盲信したバカ輝元が、
わざと毛利軍の指揮序列を曖昧にして、敗戦したら俺は知らなかったで誤魔化し、勝ったら果実は頂く両天秤をした。
953人間七七四年:2013/11/13(水) 19:42:47.54 ID:LAf7rmBe
菅沼遼太まだいんのか
954人間七七四年:2013/11/16(土) 08:01:20.10 ID:tWbEMKb/
>>951
読んだ順
955人間七七四年:2013/11/17(日) 19:07:35.64 ID:tXxkKvLP
毛利本家を継ぐ隆元を尊重して仲良くしろ!読んだらちゃんと誓って返事を書いて寄越せって内容なのに、
みんなシカトして返書してないんだっけ。
956人間七七四年:2013/11/20(水) 21:46:19.60 ID:/CeVQllj
来年の黒田大河では
小早川隆景:鶴見慎吾

毛利元就の惠に続き、なにか微妙にこれじゃない感のある隆景登場
輝元は結構出番多いらしいが
957人間七七四年:2013/11/22(金) 12:02:51.36 ID:LdzO2owt
>>956
大河元就では脳筋の桂元澄だったのに真逆の役だな。
958人間七七四年:2013/12/06(金) 09:52:47.23 ID:MSi3Dhv6
小早川毅彦は関係ありません
名字がそうだからとマスコミが言いだして
それが何となく広まってしまっただけのこと
959人間七七四年:2014/02/04(火) 14:16:32.17 ID:RLNeFPl5
>>631
本の名前は失念したが、北朝政権が出来た頃に安芸吉田領の所有が正式に認められて、その時に一族集結したと読んだ
河内に居た時親もそのとき移ったらしい
毛利元春の代の話です
960人間七七四年:2014/02/23(日) 21:29:46.62 ID:Ekxm1QXY
毛利が養子に出した吉川家と小早川家って毛利とどういう関係?
小早川隆景が一番優秀なのに毛利継がせずに他家に継がせちゃってもったいないと思うんだが。
961人間七七四年:2014/02/24(月) 01:05:17.51 ID:oHzm8td9
隆景が養子に出た時は隆元が生きてたんだからそれって結果論じゃないの
962人間七七四年:2014/02/24(月) 01:10:31.15 ID:TShOqxnB
隆景が一番優秀かどうかも
963人間七七四年:2014/02/24(月) 11:32:04.97 ID:k+m/XEUh
隆景にしたって幼年なのに資質も何も未知数に決まってるだろうに
なんてアホ過ぎる質問なんだ
964人間七七四年:2014/02/24(月) 20:31:50.95 ID:HXCebjTx
長男隆元が元服した時点で御館様には気に入られてたんだし、嫡男に当主させるのがベストな選択だろ
965人間七七四年:2014/03/05(水) 14:35:31.62 ID:qQYo5LbI
嫡男早死にとかで後継者がいなくて困っても、養子先から戻せばいいだけの話だしな
966人間七七四年:2014/03/17(月) 03:57:51.63 ID:a6XP3HEH
ANNUIT COEPTIS
そうせい
NOVUS ORDO SECLORUM
御代の幕開けじゃ
967人間七七四年:2014/03/21(金) 18:31:16.05 ID:70XjhCYa
>>958
いや毅彦は毛利本家の直系子孫だから関係あるっちゃある
968人間七七四年:2014/03/28(金) 06:36:06.91 ID:p1sHeeGo
小早川繁平 VS 佐村河内守

どっちが強い?
969人間七七四年:2014/04/06(日) 02:00:46.63 ID:0GJL+zVa
芸能界、意外なところに子孫いるのね・・・。
直系とかじゃないと思うけど。調べてみたら面白いかも。

東京MXのニュースバラエティ番組で司会を勤めたり
有吉ジャポンに出演している逸見太郎氏。

彼の父親・逸見政孝(フジTVアナウンサー)の父親が
広島県尾道市の出身で旧姓が毛利だった、
逸見家に養子入りした人物。
970人間七七四年:2014/04/06(日) 05:47:20.53 ID:RFqh8t3z
毛利元就の予言は当たったな。
息子たちだけでは、中国を治めきれない。
三本の矢。
あれって、江戸時代になってからの偽作らしいな。
971人間七七四年:2014/04/06(日) 13:00:49.22 ID:JTMOi1J1
そもそも古代中国エピのパクりだよ。
972人間七七四年:2014/04/08(火) 16:41:17.63 ID:yA++8R8O
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973人間七七四年:2014/04/08(火) 16:41:50.84 ID:yA++8R8O
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974人間七七四年:2014/04/08(火) 16:42:26.87 ID:yA++8R8O
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975人間七七四年:2014/04/08(火) 16:43:13.96 ID:yA++8R8O
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976人間七七四年:2014/04/08(火) 16:43:48.31 ID:yA++8R8O
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977人間七七四年:2014/04/08(火) 16:44:18.54 ID:yA++8R8O
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978人間七七四年:2014/04/08(火) 18:11:41.15 ID:yA++8R8O
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979人間七七四年:2014/04/08(火) 19:39:19.87 ID:yA++8R8O
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980人間七七四年:2014/04/08(火) 19:39:52.31 ID:yA++8R8O
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981人間七七四年:2014/04/08(火) 19:40:24.66 ID:yA++8R8O
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982人間七七四年:2014/04/09(水) 16:21:26.88 ID:L2qoYcBz
埋めるの早すぎだよたわけ者めが
983人間七七四年:2014/04/10(木) 16:59:45.94 ID:HhYhRCrp
983
984人間七七四年:2014/04/10(木) 17:00:15.55 ID:HhYhRCrp
984
985人間七七四年:2014/04/10(木) 17:00:51.42 ID:HhYhRCrp
985
986人間七七四年:2014/04/10(木) 17:01:23.34 ID:HhYhRCrp
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987人間七七四年:2014/04/10(木) 17:02:01.12 ID:HhYhRCrp
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988人間七七四年:2014/04/10(木) 17:02:39.73 ID:HhYhRCrp
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989人間七七四年:2014/04/10(木) 17:03:16.76 ID:HhYhRCrp
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990人間七七四年:2014/04/10(木) 17:03:49.67 ID:HhYhRCrp
990
991人間七七四年:2014/04/11(金) 01:26:25.80 ID:cUZAXC4W
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992人間七七四年:2014/04/11(金) 01:26:57.06 ID:cUZAXC4W
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993人間七七四年:2014/04/11(金) 01:27:29.77 ID:cUZAXC4W
千鳥恋と結う琴
994人間七七四年:2014/04/11(金) 01:28:00.13 ID:cUZAXC4W
995人間七七四年:2014/04/11(金) 01:28:42.97 ID:cUZAXC4W
995
996人間七七四年:2014/04/11(金) 01:30:01.65 ID:cUZAXC4W
996
997人間七七四年:2014/04/11(金) 15:25:24.26 ID:cUZAXC4W
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998人間七七四年:2014/04/11(金) 15:25:56.33 ID:cUZAXC4W
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999人間七七四年:2014/04/11(金) 15:26:32.15 ID:cUZAXC4W
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1000人間七七四年:2014/04/11(金) 15:27:03.46 ID:cUZAXC4W
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  l  {  .、          /      
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