1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
何故幕府を開こうとしなかった?
古くは大伴弟麿・坂上田村麿・文屋綿麿・大塔宮護良親王など。
鎌倉幕府の時代でさえ、将軍位は源氏三代以降は藤原氏や親王が征夷大将軍。
藤原氏を自称する信長も将軍着任を打診された。
つまり源氏で無かったから、将軍になれなかったという説は成立しない。
源→三代で終わり
足利→惨め
そんな前例になるの?
それより征夷大将軍より偉い関白が空いてるなら関白になればいいじゃない
それだけのこと
一族が少なかったから豊臣氏を広めたかったんだろ
家康みたいに10人以上も男子いればまた違っただろうが
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 09:06:14 ID:SlQcQM8n
将軍なろーにも足利の養子になろうとして断られたからミリ
しゃーなしに藤原にお願いして藤原姓を得て関白就任の名分ゲッツ
で関白なれて名実共に天下人
秀頼は徳川と縁組ませて将軍に
そうすりゃ二代で豊臣の天下は完成
てな計画じゃねーの?
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/06(木) 12:10:54 ID:HPo1UOz5
・義昭に養子を拒まれた
「清和源氏しかなれない」のなら、すなわち「清和源氏ならなれる」のだから
足利以外の養子先を探せばよい。
・現職の義昭がいるからダメ
朝廷は将軍を罷免できる。
10代目の足利義稙は罷免されて、義澄が11代となり、今度は義澄が罷免されて
義稙が将軍位に返り咲いた。
・義昭の工作を受けた朝廷が認めなかった
朝廷が時の権力者の言いなりになるのは、過去の事跡が示すとおり。
それに関白を初めとする朝廷の職を武家に取られると、ただでさえ貧乏な公家は
着任する職までも失うことになり、秀吉が将軍になってくれたほうが、むしろ
都合が良いので、秀吉が将軍位を求めたら拒むはずなどない。
>>6がミョーに説得力があるので
>>3でいいってことになるわけ?
なんか納得させられた
われわれ現代人は
徳川幕府の強大さを歴史で知っているので
将軍>関白
幕府>朝廷
と無意識に思い込んでしまうんじゃなかろうか。
で、なんで関白なんかになるん?と考えてしまうと。
足利幕府の衰亡ぶりを目のあたりにしている
当時の人間が将軍職にどれくらい権威を感じていたかを考えると
秀吉が義昭に断られても固執しなかった理由が
わかるんでない?
なるほどな
そうかも知れんな
でも証拠的なもの何かないか?
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 04:50:32 ID:K+3fLP97
断られても食いすがる程清和源氏や幕府創設に拘っていられる時間が無かったんじゃないか?
狸と違ってすぐ死んじまったし
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 05:04:37 ID:xq/lO9hs
どちらが偉いかは時代が決めること。
平安以降の官制では関白の方が圧倒的に上。
本来、征夷大将軍は蝦夷討伐のための一将軍にすぎなかったから。(左右近衛大将よりも下だった)。
やがて武士の時代の到来で源頼朝が征夷大将軍になってからは武士の棟梁として君臨した。
しかし豊臣秀吉は源氏の子孫でないことを理由に関白になりその地位を復活させ自分がその職についた。
つまりその時代その時代に力(軍事力、権威)を持ったものによって役職の重要性はどんなものにでもひん曲げられてしまう。
だから比較するのは大変難しい。
征夷大将軍と言うのは、江戸幕府以前はあくまで武家の統領でしかなく。
その権限はあくまで御家人に対する指揮権な訳で。
まぁ守護、地頭も御家人だからかなり全国に
権威や指揮は行き届いてはいたが、
その枠外の武士も沢山いた訳で、支配者としては江戸幕府の征夷大将軍よりはずっと弱かった。
秀吉の関白はその前例の征夷大将軍よりかなり強力な権威を持っていたと思う。
関白は軍事、政治の頂点だからな。
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 10:40:38 ID:1km/741r
秀吉って関白になった後に太政大臣になったと聞いたけど。その理由は太政大臣は関白より上の位だったからなったみたいだけど。
太政大臣って関白より上なの?
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 10:43:04 ID:8/flp48B
初代 誠意大将軍 羽賀けんぢ
徳川幕府知ってるから将軍=絶大な上様ってイメージわくけど
鎌倉&室町だけでは、確かに「将軍テラカナシス」って思うやね。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 11:18:53 ID:WClm7kOt
大河の葵三代では将軍秀忠に関白が膝まずいてましたが
実際の力関係は逆という事?
もともと関白、摂政と言う位は常設ではなく、
関白は天皇が子供の場合、摂政は女帝の場合、置かれていた。
で天皇の補佐役、取り次ぎ役であると言う建前では、
もしかしたら位の上ではそうかもしれないが。
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 14:41:33 ID:K+3fLP97
で、ダジョウダイジンとショーグン掛け持ちの義満タン最強!
将軍と関白の役職の及ぼす範囲が問題だったと思ふ。
>>1 征夷大将軍とは東国に夷を征伐する軍事的最高指揮官であり
臨時に占領地の統治徴税などを管轄する統治機関(いわゆる幕府ね)
を設置できるところから、この官位を武家政権の開設に利用したという
経緯をもつ。
しかし開設の経緯からしてもわかるが当初はせいぜい関東甲信が支配圏で
義経討伐を名文に各地に守護地頭を設置したりしたが
西国や寺社公家とその荘園は幕府の支配の外にあり承久の乱などがあったが
最後まで、支配できる領域に制約された立場のまま。
で室町になって京に設置されてからは朝廷の領域に足を踏み入れていくが
元々土台が軟弱なせいで結果的に見るも無残な公家幕府になってしもーた。
従来の基本的に武家にしか支配権の及ばないこと著しかった幕府では
戦国を静めて直後の統治に不適切な面もあり
将軍では実質はともかく名目的に公家や朝廷を指揮監督したりできんし
寺社勢力の統制なんぞ門外漢だったわけだが、
関白太政大臣は文武百官を束ね天皇を輔弼して天下の万機を総攬するわけで
武家から公家、寺社朝廷、外交までを
あやふやな名文の無い状態で執行していた将軍幕府の頃と違って
堂々と執行できる立場になった。
公儀の長が天下の万機を総攬するという先例が出来て
その豊臣の代理という形で家康が天下を取った。そして家康は将軍を選んだが
豊臣の代理として公儀の長に付随していた権能をそのまま維持しつつ将軍就任し
ていった。
だから家康以降の将軍が強大に見える。
逆説的にいえば
信長による既成の枠の撤廃と天下布武
と秀吉の関白就任による既成と妥協しつつ全国総括
という先例を経ていなかったら
これほど将軍職が強いものにならなかった。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 19:10:31 ID:K+3fLP97
赤松に将軍殺されるまではそれなりに権威あったんだろうけどね
赤松討伐した山名家の(一度義満に叩かれまくったのに)台頭で実質オシマイ
戦国に至る過程も面白いな
スレ違いだけど
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 19:15:08 ID:YL75NR6b
>>1 まだ北条が顕在で関東を支配下に置けてなかったから。
のぶながが将軍職に推薦されたときに関東を支配下に置く条件を求められたのを、家臣だった秀吉も知ってたんだろ。
それで、征夷大将軍を諦め関白になった。
なる必要がないだろ守護なんて崩れてんだから
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 19:50:09 ID:nm7l1U5K
当時の秀吉の問題は織田家を支配する正当な
理由がないことであり、それが故小牧長久手に
おいても旧織田家臣に強く命令することがで
きず、苦戦するはめになった、
秀吉は織田家を早急に上回る必要があり官職
を選んでいられる余裕などない、
>>13 日本の律令官制だと、位は初、八、七、六、五、四、三、二、一の9通り。
その9通りがさらに正、従の二通りにわかれて18通り。(「初」だけは「小」と「大」)
四位以下はそこからさらに「上」と「下」にわかれているので30通りある。
(正一位が最高の位だけど、これは死後に贈与されるものだった)
当然数が小さいほど偉いってのと、「従五位下」から上が貴族と呼ばれるのは知ってるよね?
太政大臣ってのは、行政機関である「太政官」の最高役職で、朝廷の政治の一番上の位な訳。
それに対して「関白」ってのは征夷大将軍や判官と同じ令外官。
よく摂政関白といわれるけど、その違いは
摂政:天皇が幼少(あるいは女性)、病弱な時に君主に代わってそれを行う(政を摂(と)る)。
関白:最終的な決裁者はあくまで天皇。皇帝の代理人的存在。
ちなみに、摂関だけだと、あくまで天皇の代行なので太政官の会議に参加したり、決定に参与出来なかった。
歴代の摂関はおおよそ太政大臣や左大臣を兼任していたので会議にも参加できたし、権力があった。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 21:47:07 ID:GNV63mEE
結局秀吉はどういう政権を作りたかったんだろ?
子孫を代々関白にして、摂関政治で武家を束ねていこうと本気で考えていたのだろうか。
ひょっとしたら秀吉は摂関政治と征夷大将軍を兼ねたかったのでは?
たとえば秀吉の寿命が秀頼成人して以後もう少しあったとして、秀頼を征夷大将軍にしたとする。
主君−摂関兼太政大臣で国のトップ
世継ぎ−征夷大将軍でとして幕府の頂点に立ち武家を取りまとめる
みたいな。
秀吉に統治ビジョンは無かったに一票。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 23:58:28 ID:e0P0qmly
>>27 それって
主君−摂関兼太政大臣で国のトップ 織田信長
世継ぎ−征夷大将軍でとして幕府の頂点に立ち武家を取りまとめる
に嗣子織田信忠
を置くって計画だったんでないかとどっかの本で呼んだな。
でも秀吉の場合世継ぎにしていた秀次を関白にしてるからなーっ
>>28 つ【信長の政権構想の猿真似】
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 14:00:25 ID:h8/5CkUG
信長は武田を滅ぼした時点で、もはや東国の大名で織田家に対抗してたのは上杉だけ徳川北条は同盟関係に、それに比べ羽柴は小牧長久手に敗れた時点で徳川北条を武力で倒す事が出来なかった。
これが信長に朝廷から将軍就職の打診があったのに秀吉が将軍職を諦め関白を頂点とする公儀政体の樹立を目指す遠因になったと思われ
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 19:03:55 ID:rPLq4iEP
秀吉は農民の出だから将軍にはなれなかったんだお(ノ^^)八(^^ )ノ
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 19:13:43 ID:ZV58xkq1
武家の覇者が「幕府」を開く時、それは新政権を朝廷から分離したい場合だと思う。
頼朝は、いわば武家の手で関東独立国をうち建てたかった。
尊氏は、各地で勢力を確立した武士達が、朝廷に接近し過ぎない様に管理するため「幕府」を京に置いた。
家康も、朝廷と付かず離れずの政策をとった。
秀吉の場合、単独で「武家の棟梁」たり得なかっただけじゃないか?
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 19:57:57 ID:UbkmrhWJ
豊臣なんて作っちゃって、関白だって切腹させちゃんだから
朝廷を何とかは信長じゃなてく秀吉だろ
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 20:09:46 ID:Vdv+wI5K
関白みたいな官位?も大名や将軍みたいに代々受け継げれたっけ?
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 20:37:07 ID:atsen4uj
将軍は本来の相当官位が低い
秀吉は官職による諸家の序列づけを考えた
以上
関白は藤原家がほとんど独占してたじゃん
秀吉は軍事力を持った藤原家になろうとしてたんじゃね?日本国王だし
秀吉の出自は関係あるのか?
家康だって源氏の出じゃないよ
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/09(日) 23:59:41 ID:hfuTvcdK
1時期、俺んち平氏の流れを汲んでんだぜっえ
て自称してた事があって、その為朝廷から駄目だしくらったらしいよ
ソースは信長の野望の攻略本のコラム欄w
源氏じゃねえから駄目ってなら、関白なんてもっと無理だよなあ。
小牧長久手の戦いも原因の一つなのに少しも出てこない・・・・
>>40 ちょっと、秀吉は従一位で贈正一位じゃ?
生前正一位って橘諸兄と三条実美とあとだれ誰だっけかな?
>>37 関白は秀吉、秀次以外藤氏では、摂政は別だけど
小牧長久手がなんで原因になるんだ?徳川史観?
信長が皇室に介入したのをそのまま引き継いだ結果だと思うけど?
公武を一挙にとりまとめるには関白就任がいちばんてっとり早い策だと思う
大老以下武家公卿を創設して支配体制に組み込んだのは、あの時期ならば次第点だったと思う
どこかのスレで書いていたが、将軍位を秀康あたりに与えて徳川を牽制しとけば
その後の展開も違ってたかもね
次第点てなんだ
及第点じゃない?
>>46 公武一体の支配は確かに理想だな
実効的かどうかは別だが
将軍位=秀康…これはやめた方がいい 武士の指揮権渡すようになるから
秀吉が関白就任したのは1585年なんだけど
この時点では家康をはじめとして
まだまだ屈服していない連中がたくさん残っていたよね。
そういった状況で秀吉が公武統一とか
武家の棟梁うんぬんを考えていたかどうかが問題になりそうな気がする。
>>49 考えていたからこそ、
それに相応しい地位を求めて関白になったとしか思えないが。
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/11(火) 02:38:20 ID:YIHSngnJ
幕府を開いておけば少なくとも、家康が豊臣家を攻める名目はかなり減っていたろうな。
武士が征夷大将軍に叛旗をひるがえすには、少なくともそれ以上の権威による命令が必要。
あれだけ玩具にされてた将軍を見てから、幕府を開こうとは思い辛いんでないの?
征夷大将軍に権威っていうけど、義輝〜義昭を見てそんな気になるかなあと。
むしろ家康が幕府を何故開いたのか?って方が不思議なくらいだ。
>>51 天皇利用すれば良いだけじゃない。信長という先例もあるし。
というか、信長をまつまでもなく、征夷大将軍に対する反乱なんて、
室町時代では珍しいことではない。
>>52の意見のほうがはるかに当時の情勢を正しく見ていると思う。
むしろ家康の肝は源氏の長者をゲットした事の方かもと愚考
いや将軍になるために源氏長者になったんでしょ
小牧ながくでの後は秀吉が関白になって家康が征夷大将軍になるって
噂になったと聞いたがどこからの話だろう
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/11(火) 17:33:06 ID:efFifinA
源氏長者は将軍になるための条件でもないし、
その二つはなんら関連性がない、現に秀忠が
なっていない。
家康が源氏長者になったのは朝廷や豊臣への
対抗策としてといわれている。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/11(火) 18:32:25 ID:a5dPTxuJ
武家の新秩序を模索していたら
天皇を権威付けして正式の官職を与えることで
諸大名を序列付けしようって思っただけだろ
源氏長者はそれまでほとんど村上源氏がなってたんじゃなかった?
家康は関白豊臣家に対抗するために将軍と幕府を必要としたんじゃないか?
家康は内大臣だった訳だし
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 23:25:51 ID:qfAQqW7t
織田家の家臣の立場で武家の棟梁である征夷
大将軍になれるわけない。三法師の立場は将軍より上ってことになる。
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 23:49:59 ID:4LH24Vbo
もともとが武士出身じゃなかったからだろ。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/13(木) 23:54:56 ID:qfAQqW7t
それは一番重大な理由かもしれない。
百姓出身だし、どうせどちら(将軍、関白)もパワープレイしないとなれない。
↓
将軍を棟梁とした幕府=実質はともかく、名分は「戦時の非常設前線統治機関」
しかも室町末期を生きた人間としては「力もない」と言う認識では?
関白を首相とした朝廷=力は無かったが、名分は「常設政府」
↓
それなら「力のある常設政府」を狙った方がいくね?
なんて思う訳だが。将軍が武士の棟梁なら、関白は武士を含めた民の執政者なんだから。
>>60 その理屈だと、三法師は関白より上ということになった、
ということになるね。
まあ、本来将軍よりも関白の方が上の位なんだから、なれるなら上の位になるほうが当然。
その後の徳川幕府が将軍の権威も実権も格段に高めたので、
なぜ秀吉はならなかったのか?という話になるが、
秀吉の時代には将軍職にそれほどの価値はなかった。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 23:27:43 ID:T1CByad7
将軍職に価値がなかった?はあ?
それだったら関白は何百年前に終わってる
将軍をおとしめることによって 関白>将軍
つまり 秀吉>家康という図式を作る。
どこかで聞いたことある論法だな、
将軍は当時リアルタイムで価値が暴落してた訳だが
今のサッカー日本代表のようなもんだ
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 23:46:49 ID:T1CByad7
将軍の価値が暴落したというなら武士の価値
も下がったのでしょうか?
政治の主役はあくまでも武士であり藤原の時代
はすでに終わっている。
それって関白の時代が終わったら貴族の価値が下がったって言いたいの?
院政時代は無視?南北朝の北畠らの貴族も無視?
>>65 室町将軍なんて謀反はされるわ、逃亡しなきゃあならないわ、
暗殺はされるわで完全にぼろぼろ。価値なぞない。
どうせ価値がないなら、より上の位の関白のほうがいいという単純な理屈。
ちなみに、私は秀吉よりも家康の方を高く評価するよ。
何しろその程度のものだった将軍の価値を、
江戸時代のあれほどのものに高め強固な政権を確立したのだからね。
まあ、秀吉の失敗から学べたという面もあるだろうが。
>>67 なんで将軍の価値が下がると武士の価値も下がるの?
当然だがそんな事にはならない。
むしろあくまでも武士の中の第一人者でしかなかった将軍ではなく、
全ての貴族の上にも立つ関白になれたという事は、
実権だけではなく名目上でも、完全に貴族という旧支配階級を凌駕できたということであり、
逆に武士の価値が上がっているといえる。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 23:59:27 ID:T1CByad7
足利の価値が下がったことと将軍の価値が下
がることとは別問題。
>>72 将軍職についているものが、ガンガン背かれたり、
果ては暗殺されたりしていれば、あんな職にたいした価値はない、
ということになるだろう?
だいたい、鎌倉時代から将軍なんてただの傀儡だし。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 00:17:37 ID:i91bctJj
傀儡であろうが幕府を開くためには将軍が必要、
もともと武士が政治を行なう権利はなく、武士
が正式に認められるには幕府を開くしかない。
>>74 何言っているの?
実際に正式な政府における最高の位である関白になれて、
現に政治を行っているのに、
将軍にならなければ政治が行いないとはどういう理屈?
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 00:31:16 ID:i91bctJj
ちょっと言葉が足りなかった、武士とは個人を
指すのではなく武士全体を指してのもの。
>>76 言いかえると何か変わるの?
別に秀吉が関白だった時代だって武士は武士だし、
おのおの領地を支配して普通に政治をしていますよ。
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 00:52:37 ID:i91bctJj
武士政権が成立したころから話さないとなら
ないのですか? あと公家が武士をどのように
見ていたかとか、
あと前から気になっていたんだけど秀吉の関白
在任期間は一年しかない、彼が政権の拠り所と
したものは関白ではなく別のもの。
だからあまり関白について議論しても意味がない。
>>78 武家政権の成立した時期となんて秀吉の頃と情勢が全く違う。
悪いがあなた、さっきから現実と異なる想像を語っているだけですよ
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 01:48:49 ID:i91bctJj
別に情勢のことを言っているわけじゃないん
だけど、政権の本質とか性格について言おう
としただけ、それも教科書レベル程度の、
それに情勢について言ったら平安時代と比べ
たほうがもっと違うと思うが。
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 02:19:48 ID:JKo9/m8K
秀次粛正の時に秀頼を関白にする動き等はなかったの?
>>80 情勢が違えば成立する政権も違ってくる。
実際平安時代とは全く情勢が違うから、
武家が、というか出自をいえば武家ですらない秀吉が関白になれたのでしょう。
要するに秀吉時代の情勢では将軍になろうとする必然性もその必要もなかった、
だからならなかった、それだけのこと。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 02:37:59 ID:vCGu0IPr
バカスレage
まず、鎌倉時代の情勢においては、武家が優勢になったとは言っても、
旧権力者層である公家や朝廷といったものもまだまだ大きな影響力を持っていた。
だから、頼朝は朝廷とは距離を置いて、いわゆる幕府を開きそこで政治を行った。
実際当時の情勢で頼朝が関白になるなぞ現実的には不可能だっただろう。
対して秀吉の時代は、南北朝の騒乱を経て朝廷や公家の影響力は鎌倉時代に比べ大きく低下、
もはや武家が関白になったところで対立する気概すらない。
だから、その情勢ならなろうと思えば関白にだってなれる。
そして、翻って鎌倉・室町幕府の状況を見ると、
かたや三代で源氏断絶、かたや内乱だらけで将軍も暗殺されるという状況で、
決して真似したいようなものではない。
だから将軍―幕府という選択肢ではなく、関白という選択肢を選んだ、
本来関白の方が将軍よりも上の位である以上、これは当然の選択といえる。
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 02:52:10 ID:D3QuhUSu
徳川はなぜ新田氏の流れと称するようにしたのか。
>>85 無論家康には秀吉とは異なる家康の政権構想、すなわち既に述べたように、
将軍職の価値を実力・権威ともにきわめて高いものに再構築し、
それによって過去の幕府とは異なる、強固な政権を作るというものがあった。
そして、その為に源氏の名門という系図を手に入れることが必要と思ったのでしょう。
もちろん、将軍になるのに源氏の血が必要ないのは散々既出だが、
源氏の流れというものは、それはそれだけで一つの権威だからね。
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 03:41:42 ID:i91bctJj
>>84 秀吉は近衛家の猶子になることによって関白に
なれたことを無視している。
源氏は三代で断絶と言うが幕府はそのあとも続
いたわけで将軍そのものの権威が落ちたわけで
はない、むしろ高まっている
将軍の惨状を言っているが関白をはじめ公家の
ほうがはるかにみじめだったと思うが、
普通に関白のほうが将軍より上だからでは?
令外官は本来臨時職で、形式上はどうやっても関白の下
まぁ将軍職+他の官職(右大臣クラス)みたいな兼職という手もあるわけだが
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 05:04:45 ID:drsqeLNg
信長より家康、家康より秀吉みたいに絶対権力が低く封建制度への依存度が
高いやつほど位も高いのを欲しがるんだよ。
本当に最強の実権力があるヤツは官位なんかに関心沸かないんだよ。 末期の信長が
無官だったみたいに。
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 08:21:01 ID:mCYJ1eL0
将軍になろうとして、足利義昭の養子になろうとしたが、断られたって
話もあるが、実態のところはどうかな。
多分、理由の多くは秀吉が武家としての系譜をもっていなかったせいだ
ろう。将軍は源氏がなるという慣例があるし、将軍は武家の代表という
感覚があって、やっぱり武家の名家であるかないかはどうしてもクロー
ズアップされてしまう。薩摩島津家が徳川将軍家に対して、「ウチは
鎌倉以来の名家、あっちは馬の骨」って言ってたが、こういう感覚が
何倍も増幅されてしまう。
だが、公家の権威である関白なら、武家とは異なる権威体系から出て
いるのでそういう面はかなり薄められる。もっとも、公家側では武家
よりはるかに馬の骨感情があったろうが、こっちは力がないから無視
してもあまり問題がないし。
ただ、関白になるとどうしても公家側、特に天皇が政治に絡みやすく
なっているし、武家が関白に従うという伝統がないんで、別系統の権
威だけに、武家に対する掌握力が低下するという問題はあるな。
蝦夷征伐した征夷大将軍の名前を言ってみろ
源平合戦で木曽義仲を破った征夷大将軍の名前を言ってみろ
>>88 何も無視していない。養子になって関白だってそれが出来るだけの実力があっての話。
それから、将軍の権威が高まった?
北条家と対立すれば直ぐに辞めさせれれてしまったり、傀儡そのもので、
室町時代には、御所が真っ向から家臣であるはずの大名たちに攻め込まれたりしているのに?
なるほど、関白の位も政治の実権を失って久しいが、
秀吉の時代では将軍の権威なんでコケにされっぱなし、
どうせそういう状況ならより上の位の関白を求めても当然の判断。
そして秀吉はそういう判断をしたということ。
結果的にいうとその秀吉とは別の判断を下した家康が大成功したので、
そこから逆算して、秀吉の判断が明らかに間違っていたように見えるが、
秀吉の時代の状況を考えれば彼の判断はむしろ当然だった。
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 10:12:25 ID:mCYJ1eL0
>>92 蝦夷征伐:坂上田村麻呂
木曽義仲:いない
(そもそも、木曽義仲が倒されたのを源平合戦とはいわない)
坂上田村麻呂も平知盛も源氏じゃない事実
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 12:29:46 ID:i91bctJj
>>93 >>91をよく読んでください。
公家と違い気性の荒い武士の政権である以上
暗殺はおきること、それをもって権威が下が
ったとは言えない。あなたの意見で言えば、
秀次事件で関白の権威が失墜してしまったこ
とになるが、
ID:mCYJ1eL0
ID:i91bctJj
面白い人たちだ
将軍に「ならなかった/なれなかった」なら「ならなかった」じゃねえの?やっぱ。
太政大臣>征夷大将軍はガチな訳だし。
ちなみに、当時どっちも権威あぼーんなのは俺も同意だ。
徳川家康は東で政権持つ名分として頼朝にならって「源氏の長者&将軍」
ゲトーしたんじゃないのかねえ。
>>96 関白の権威失墜したに決まっている、その点でも秀次殺害は秀吉の失点だった。
それから暗殺されても権威があるとは無茶苦茶な話。
普通の人間ならそんな暗殺されてしまうような地位よりも、
もっと他の地位で天下を治められるならその方がいいと思うだろう。
征夷大将軍だって代々謀殺や暗殺されてますがな
足利義輝に到っては正面から攻め殺されてるし
単なる政権志向の違い程度が妥当でしょ
>>100 つまり、そんな謀殺・暗殺・攻め殺されるのが、
珍しくないような将軍の地位に無理に着きたいと思わなかったとしても当然だ、
という話。
関白になれるなら、無理に将軍になろうとせず、関白を選んだとしても全然おかしくはないと。
ていうか開府後酒井忠清が皇族将軍提案してるけど、実際当時に「源氏じゃなきゃ駄目」
って空気はあったにしても縛りは無かったんちゃうん?
関白は藤氏北家じゃないと駄目って縛りは確実っぽいけど。実際なってないし。
103 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 16:22:25 ID:i91bctJj
将軍だと殺されて関白だと殺されないと言う
ことはない。
>>103 横からすまんが、多分君は論議相手が何が言いたいのか、把握出来てないっぽい。
とりあえず、まず権威とかそういうのは脇に置いておこう。
関白と征夷大将軍、どっちが偉いと思う?どっちがなるの大変だと思う?まずそこから始めよう
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 17:02:37 ID:FbHP8oii
信長の三職推薦って、
最近では征夷大将軍を狙っていたって
説があるらしいね。
太政大臣は令制最高の位だが、則闕の官(摂関退任者の名誉職?)
関白は朝廷の権威そのものに自分がなること
秀吉はそちらのほうを選んだわけか
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 17:08:58 ID:i91bctJj
>>104 十分、理解しています、関白>将軍→秀吉>家康
と言いたいわけでしょ、
それからどちらが偉いとかなりにくいかって、
そんな小学生みたいなこと…
>>106 いやそういう結論じゃないと思うぞ。
時と場合によって、なるべき立場、なるべき権威があるって話だと思うが?
何故に秀吉家康どっちが偉い、って事をここで話せにゃならんのよ。
最近の説って言葉は非常に当てにならんなw
学会なんて推薦人さえいればどんなトンデモ説でも発表出来るところだし
征夷というが夷なんてもういないじゃねぇかよ
って信長が言ってた
>>103 なら、どうせ同じだとしても、だたっら、位が上の関白のほうがいいとなる。
少なくともなってもおかしくはない。
そして秀吉はそう思ったから関白になった。
それだけのこと。
>>106 その根拠のない思い込みがおかしい。
私は常識として関白のほうが位は上だと思うが、
個人的には人物は家康のほうが上だと思っている、ここその議論までするつもりは無いけどね。
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 20:18:15 ID:pR61FRJa
征夷大将軍の場合は、幕府を開いて武家を掌握する。
階位的には関白より下とはいえ、将軍を通さないと武家に対しては
何もできない。
これが、将軍という地位の最大の強みなわけだ。
秀吉がこれを放棄する選択した理由を考えるのが妥当だと思うがね。
>>112 そんな事実はまったく無いが?
将軍になっていない秀吉も何の支障も無く諸大名を動かしている。
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 20:39:20 ID:pR61FRJa
正直なところ、なんで関白と将軍の上下論になっているのかがわからん。
簡単に言えば、公家サイドの権限掌握方法が関白になることであって、
武家サイドでの権限掌握方法が将軍になることだ。
両者の地位は時代によって上下するが、戦国時代は両方とも最低の状態
だった。
そこから、秀吉が関白を選んだんだが、その理由ななぜかわからんのだ
が。正直、将軍の方がやりやすい面が多かったと思うし。
(もっとも、義昭に断られて駄目だったってんなら、理解できる)
あまり言われないが(っつーか、言及された例を知らんのだが)なんで
秀頼は右大臣止まりだったのか、考えてみたことある?
実力云々じゃなく、公家の官位秩序内にあったから、下(っつってもかな
り高位だけど)から累進する必要があったからでしょ。最初から関白には
なれない。
でも、将軍なら前代将軍が死んだら即座に将軍だしね。(認めない場合は、
朝廷に対して開戦になりかねない)
そういう違いがあるんだけど、なんで関白にしたのかな?
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 20:43:47 ID:pR61FRJa
>>113 それは、認識が間違っているよ。
秀吉が関白の地位で武家を掌握したのは、将軍がいなかったから。
もし、将軍がいて、秀吉が関白として武家を掌握しようとしたら、
絶対に将軍と秀吉(関白)の間で戦争になる。
>>115 朝廷がわざわざ将軍を任命したり、秀吉がそれを許したりすればね。
まさか江戸時代の将軍と関白の職制の認識でもって
議論を展開させてるということはないよな。
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 21:15:06 ID:FRMRgjXt
右大臣で摂関職に任じられることは少ないがある
秀頼が公家として生きる道を選んでいたらどうなっていただろう
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/15(土) 21:42:58 ID:pR61FRJa
>>118 まぁ、公家としての平穏に過ごしたんじゃないかね。
また、秀吉死後に将軍の地位の地位を継ぐものとしての立場だったら、
かなり歴史の展開も違っていたろう。
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 00:46:48 ID:neRFsVDe
豊臣家が関白職を世襲していくっていうのも、少し無理があるような気がするな。
摂関職に豊臣家が割り込んできた状態は、五摂家にとっては好ましいものではないだろう。
藤原氏も豊臣家に勢いがあるうちは豊臣に擦り寄ったりするけど、
一旦落ちぶれたら知らんぷりするんじゃないかな。
その点、朝廷から独立した軍事政権の長である征夷大将軍の方が、
武家政権の長としてはふさわしい職だと思う。
いやぁ…あんまり変わらんと思うよ。
結局権威・権力を裏付けるのは力であって、将軍も関白もその力が無ければ意味が無い、
家康も秀頼が将軍になればなるでまた別の権威付けをもって当たるだけでしょう。
こういう権威付けって外に対するより、内に対するもんだと思うし。
>>115 義昭は当時まだ将軍だった筈。
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 00:52:57 ID:dPK8oDU8
秀吉は、太政大臣でも関白でも征夷大将軍でも自分の望む位に
就任出来たでしょう。その中で自らの意思で関白 太政大臣を選んだ
と言うのが正解でしょう。
もし、秀吉が征夷大将軍を選んでいたら、後を襲った家康は関白
太政大臣を選んで天下に望んだかも、そしてそうなっていたら、
今頃、氏 素性の怪しい秀吉は極官である太政大臣や関白等、
とてもでないが着くことが出来ず、仕方なく位の低い征夷大将軍に就任し
それに対し名門(実は嘘だが)徳川家だからこそ関白位に就き
太政大臣を世襲出来たと言っている事でしょう。(まあ。想像ですが。)
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 01:50:11 ID:jw77Icc1
当の秀吉が一年で関白を辞しているのによく
ここまで想像できるもんだ。
それにみんな当時の秀吉の置かれている状況を
まったく考慮にいれていない。
っていうか秀吉は源氏じゃないから将軍になれなかったんだろ?で、しょうがなく嫌がる公家の養子に無理矢理入って関白就任でしょ?
源氏じゃなくても将軍になれるが。
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 09:52:25 ID:I8b8J4ZF
やっぱり、将軍と関白では安定性が違う。
将軍は将軍家が独占してその地位につくが、関白は豊臣家でなくても
なれるという伝統があるわけであって。
鎌倉幕府の将軍って源→藤原→皇族だったって義務教育で習ったよね?
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 10:36:46 ID:I8b8J4ZF
>>130 それは将軍家が途絶えたからであって、後継ぎが残っていれば、
そちらにいったのは間違いない。実際、跡継ぎが絶えなかった
室町幕府は足利家の独占だからな。
五摂家の持ち回りが通常ルールになっていた関白とは形態が全然
違う。
五摂家の持ち周りて・・・それが北家独占って奴じゃないか。
んな事いったら徳川だって足利だって、持ち周りな訳で。
ちなみに酒井忠清は徳川世継いたけど、皇族将軍提案したぞ。
現実には実現しなかったけど、逆に言えば絶対的に独占職って風潮は無かった訳だ。
まあ徳川は別家就任の場合養子縁組したけどな。足利はどうだったかしらん、無学ですまんが。
個人的には成り難さは関白>将軍だと思うよ。朝廷の売りなんて「伝統」が一番なんだから
藤原氏しかなれなかった関白を百姓に渡すなんてのは、忸怩たる想いが本音ではあったのでは?
その点征夷大将軍は所詮臨時職だし武家官位。公家的な伝統とか権威って意味では取るに足らなく
また就任しても何も得る所がない。
どうせ武家の天下なら自分らの権威である関白じゃなくて、将軍で威張って貰った方がいいじゃん。
征夷大将軍職は世襲できることになってたのか。
あれって一応は朝廷が代替わりごとに任命するという形式をとってなかったかな。
そういや尊氏の前に護良親王が征夷大将軍だね。
んで足利はあの体たらく。
徳川以前は伝統もへったくれもなさげだな。
>>135「あの」徳川でも、家光までは上洛して宣下受けてた。
その後「江戸来いバーロー」に変わったけどw
やっぱ将軍至上主義が発生しだしたのって、徳川時代だろうなあ。
正しくは「関白」のほうが「将軍」より身分的に上だよな。
それを狂わせたのが源頼朝や足利尊氏だが、
信長は「天下を正す」ことを大目標に活動していたようだから、
そういうのを激しく嫌ったのかも知れない。
そしてその思想を秀吉は継承したのでは、
などと考えてしまう。
狂わせたか?
頼朝は朝廷とは別の組織を作ったって事で
朝廷やその官位を凌駕したということは無いだろう
足利に至っては、兄弟骨肉の争いになると我先にと朝廷に頭を下げる始末だ
そう聞くと、むしろ権力を奪った代わりに「権威と伝統」を更に押し上げた感じだね。
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 12:12:23 ID:jw77Icc1
関白>将軍と最初から結論ありきで考えるから
間違った認識や意見が飛びかうことになる。
頼朝のことを少し調べてみればどちらが上とか
語ることが意味ないことだとわかるから。
>>140 何が言いたいのかはっきりさせないと煽りと何も変わらんよ
結論ありきって征夷大将軍て臨時の野戦司令官ですが名
それを拡大解釈と武力で無理やり常設の権力機構にしたのが頼朝
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 12:59:40 ID:jw77Icc1
将軍をただ否定したい意見が目立つ、要は家康
を否定したいとしか思えない、なぜ秀吉ファンは
このようなやり方で意見を語ることが多いのだろう
単純に近衛家の養子になるという奇策を用いて
身分の壁を超えて関白
になったことを評価すればいいだけのこと。
別に将軍を否定してないが?
将軍に過度の幻想を抱いてるヤツを否定してるだけだ
つーか誰が秀吉>家康なんて言ってるんだよ。
その飛躍にこそ、むしろびっくりだ。
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 13:24:07 ID:jw77Icc1
秀吉ファンはなぜ家康叩きに終始して秀吉の
ことをあまり語らないのだろう?
ひょっとして荒氏ですか?
秀吉と家康の優劣諭なら別スレでお願いします。
秀吉家康どっちも贔屓する程すきではないし、優劣論なんてくだらない事はもっと正直興味ないし。
てか秀吉時代までは武家の棟梁って名目レベルまで落ち込んでた将軍職を絶対的な権威までに押し上げた徳川家を
評価こそすれ貶す訳ないでしょ。
ただその実績と秀吉時代の関白、将軍の状態の評価はまったく別事項。
好き嫌いで物言いたいなら、「俺は秀吉or家康贔屓なんだけど」てレス頭につけてくれ。ちゃんとスルーすっから。
取り合えず秀吉以前の話として
・征夷大将軍は源氏しかなれない → そんな縛りはない。もっと言えば武家じゃなくてもなれる。
・関白は藤氏しかなれない → マジ。
両方共歴史が証明してっから、ソースとか必要ないと思うし。
これだけは大前提として頭に入れておこうよ。これがどうも話をごっちゃにしてる。
個人的には将軍かどうかより、源氏の長者かどうかってのが幕府(というか血統の継承による武家政権)
の肝だったなんて妄想してみたくなる今日この頃ですがw
そこら辺は足利が決定づけた気がする
もっと言えば、大塔宮が失脚した時点で、征夷大将軍は武家の武官になったんだろう
北畠顕家を征夷大将軍にすれば良かったのにねwなどとトンデモを言ってみる
このスレの住人は釣られすぎ。
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 17:29:08 ID:u2UFrbL4
>>133 >>酒井忠清は徳川世継いたけど、皇族将軍
これは俗説
さらにいえば酒井が推挙したといわれる皇族有栖川宮といえば
徳川秀康と徳川秀忠と双方の血筋を受けている徳川の血を持ってるから
推挙されたわけで
そいで皇族将軍推挙は4代将軍の側室が懐妊していて男子誕生となれば
問題あるので繋ぎの臨時の役回りとしてだとされてる。
まだ定説確立してないんでね?>忠清の行動。
154 :
今出川晴季:2006/07/16(日) 19:10:51 ID:b1eJw917
誰も俺のこと誉めてくれないな
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 19:56:53 ID:u2UFrbL4
>>153 そうです。漏れのも説の一つですよね。
>>123 秀吉は一旦朝廷の官位序列を用いて全国諸侯武家の序列化に利用はしたが
自分も朝廷の序列に拘束されるので、そうそうに自由に行動できる太閤に
退いたんでね―の。
ちょうど治天の君となった上皇の院政みたいにさ。
それで征夷大将軍は継承できるが関白は継承に問題ありというかたも
いらっしゃるが・・みなさまがた秀吉のとった行動と関連つけての視点も
あってよいのでは?すなわち大明征伐
秀吉は豊臣家を永久的に関白世襲で終わらせる意図は無かった気がする。
秀吉の意図は世界に雄飛した大日本帝国だったのだからして
豊臣家を大帝国の中華皇帝とすれば自動的に日本国王に限定される天皇家
よりも上位にくる。
日本国王たる天皇のその又代理たる関白に固執する気もうとうなかったのではないかなー?
秀次が日本国王の二番手におさまってようと
自分の嫡流は世界帝国の帝位を継承していくのだという雄大(あるいは誇大妄想)な夢を
持っていたので問題なかったとしても、世界進出が(一時的にせよ)頓挫し修正を
迫られた段階で日本にがっちり根を張りつつあった秀次が邪魔になり出し排斥してしまった
のだが、そのあとの修正を上手くやる前に死んじゃったんで
秀吉は豊臣家をどうする気だったのか?という疑問になっていると思う。
夏休みのお子様向けスレ
>>143 被害妄想が激しすぎ。
実権派ともかくくらいや本来の役柄からして将軍より関白の方が上なのは当たり前。
その上で、個人的には人間としては家康の方が上だと思うといっているものまでいるのに、
なぜ、そんな被害妄想に陥るのか?
そんな思い込みに基づいているから変な論にしかならないんだよ。
実際には関東を根拠地にした(と、いうか国替えでなった)から鎌倉幕府辺りにあやかって将軍・幕府体制を選んだとかいうオチだったりして>家康
ってか、そうだと思う
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 22:13:04 ID:FBIW0ZA8
苦笑
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 00:36:17 ID:j2ZF6MEU
平氏では将軍になれないし源氏でもなれる家は
一つだけ、もともと将軍家や関白家に取って代
わることは不可能であり、取って代わるという
考えもなかった、その慣習を打ち破ったのが秀吉
であり、それを見習った家康である。
詳細は確かではないが
平知盛も征夷大将軍だったという説がある
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 01:02:30 ID:j2ZF6MEU
幕府を開設する以前の話は別。
まあそれ位はわかっていると思うが。
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 01:29:07 ID:cd6aTO1d
>>158 家康は子供のころから吾妻鏡を愛読していたというエピソードが残っている。
今川の人質時代に太原雪斎に学問を習っていたのは大きい。
秀吉が将軍になれなかったのは、当時の征夷大将軍の義昭に
養子を依頼したが、断られ、困ったところに、
菊亭に豊臣の姓を下賜されれば、
関白の道ができると吹き込まれた為と、私は認識していた。
位では関白>将軍だけど、将軍は臨時野戦司令官ゆえの特権
(戦時ゆえある程度朝廷の指示を無視できることなど)も含めてどっちが使いやすいかって事なんだろうね。
政権構想がきちんとあれば自分の政権構想に合わせて使いやすい方の官位につく。
特に政権構想が無ければ、適当に付くって事だろうね。
で、家康は朝廷との距離を置くことや武家への統制なんかを含めて将軍をえらんだんだろうが
秀吉が関白を選んだのは、関白がより高い位だったからなのか、それともある政権構想があり
それゆえ関白を選んだのかどっちかって事だいね。
ううん、秀吉は単になれる一番上になれたからなったって思えてならないな。まあ印象だけど。
166 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 07:56:05 ID:yyq4fF6z
幕府を開いた将軍(家)と幕府を開かなかった将軍を一緒にするのは
よそうぜ。本質論から外れているからよ。
単なる官僚としてなら、関白>>将軍だろ。
あくまで、幕府を開いた上での将軍と関白の比較じゃないのかね。
その意味じゃ、将軍職は直系による世襲が基本ルールで、関白は関白
就任中でも他家にその位を譲らないといけない持ち回り職だ。
しかも、豊臣家が摂関になれるといっても、この持ち回りルールは
完全には死んでないわけだし。
征夷大将軍職がいつ世襲が基本ルールになったんだ。
秀吉の関白も秀次に後を継がせたりしてるから、歴代の関白とはまた異質、
豊臣っていう新たな性を作り出す事で抜け道を作ってるし。
豊臣政権の運営も朝廷の制度とはまったく別の五奉行・五大老制によるものだし、
徳川幕府も鎌倉・室町とはまた別物、結局関白も将軍も単なる権威付けで、
どちらを選んでもそんなに差異はないんじゃないの?
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 09:08:13 ID:yyq4fF6z
>>167 じゃあ、室町幕府の将軍家が世襲じゃないってのかよ。
たとえば「源氏じゃなきゃ将軍駄目ぽ」って朝廷が言ったとする。んなら「大塔宮とかなってんじゃんw」って返せる。
たとえば「世襲制しか幕府駄目ぽ」って朝廷が言ったとする。んなら「おいおい、そもそも征夷大将軍ってなんなのよw」って返せる。
ここで朝廷が返せるとしたら「源氏以上の家格ならなれんべ」ぐらい。
んで藤氏とかなったら、普通は「いんならもっと上の官位ゲトーできんじゃん」てのが道理では?
というか、世襲制しか幕府開けないってのは、征夷大将軍そのものを何か勘違いしてないかい?
171 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 09:39:45 ID:XdQE+VGJ
秀吉政権は最後まで家政機関の延長、いわゆる政所政治だった。
だから政権構想で関白を選んだとは思えない。
織田家家臣筆頭の地位を脱却して、信長を超えるものなら
将軍でも関白でもとりあえずなれるならどっちでもよかった。
近衛家内紛と今出川晴季の入れ知恵がタイミングよかっただけ。
秀吉は学問をしていなかったから分からなかった。
>>169 そこらへんは世襲になるように朝廷に任命を要請してるから世襲制のようになるだけで、
別に世襲制が基本的なルールではないでしょう。
どうも家康LOVEのあまり将軍至上を頑なに主張する人がいる希ガス。
特定の人物に肩入れする気持ちは分かるが、そんなのは他スレでやっておくれ。
ここはスレタイ通りのスレ。
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 10:14:20 ID:XdQE+VGJ
秀吉が将軍になったとしても、幕府と呼ぶに値する統治機関を作れていたかはわからないな。
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 10:17:18 ID:yyq4fF6z
>>173 慣習もルールだろ。世襲で後継者を決めて、それを将軍として
いるのだから。(つうか、ルールってのはもともと慣習だ)
それとも、「朝廷に任命されればOK」っつーのがルールだった
とでもいうのかい?
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 10:25:24 ID:yyq4fF6z
>>175 ちゅうか、わかってないみたいだが、幕府を作ることによって
朝廷から独立性の高い政権を作れる。それに、もともと武士は
鎌倉以来の将軍の配下になるという伝統があり、さらには、
幕府を開くと基本的に将軍の血統が将軍の後継者となる。
関白の場合は、朝廷の臣であり、関白の子供だからといって、
関白職を継げるという伝統は薄い。また、朝廷内の官位の上下
などに影響される部分も大きい。
秀吉一代ならなんとかなるが、豊臣家の勢力が落ちたとき、ここ
ら変の違いが突き崩しの突破口になってゆく。
また、関白になると公家世界の代表者でないわけにいかず、公家
的側面と武家的側面を両立しないといけなくなる。両立できるな
んてのは甘い考えで、たいていはどっちつかずになる。秀頼が
武家というよりは公家的性格を多分にもっているのも、秀吉が
関白になった影響がでかい。
178 :
177:2006/07/17(月) 10:26:16 ID:yyq4fF6z
177 アンカーはミスなので読み飛ばしてくれ
なぜ幕府を開かなかったのかという疑問については、
まだ名門足利の名残が残っているこの時代、秀吉は所詮百姓からの成り上がりという
謗りを退けられるほどの地盤が整っていなかったからじゃないかと思う。
もし秀吉がもう少し長命であれば、血統的にはまったく問題のない秀頼を
将軍職に就かせて幕府を開かせていた可能性は大いにありそうだ。
京に近い場所で、ある意味将軍職なんかより厳密な世襲制である関白も取得可能で、しかも武家は九割方抑え済。
これなら源氏の長者になる事も降格みたいなもの(家格は実質藤氏=豊氏になる訳だし、且つ藤氏の長者>>源氏の長者)
だし、征夷大将軍+幕府だって態々実権握れる朝廷中枢を逃がす様な物。
後世から見れば、幕府の方がよかったとは思えるけど、当時としては秀吉既存の権力に最も強い権威を付加できる選択だった
とは思える。
早い話が将軍になれなかったのではなく、将軍になる事は足利と同義であり足利を凌駕する政権である事を披露するには
意味が無いんでね?って話だ。
>>179 義昭が当時「まだ」将軍だったとしても関白の前では傅かないとならない。
たとえ百姓上がりでも関白は関白。
諸大名の前でこれやる効果は計りしれない。
それこそ秀吉自身が傅く事によって、天皇家の権威が上がった様にね。
これが将軍だと、同位か下手すりゃ秀吉が傅く破目になる。
個人的には前政権である豊臣を凌駕するのに、将軍職に絶対的な権威を据え付けた
徳川幕府初期の人々の手腕は素晴らしいの一言に尽きる、とは思うけど。
天皇すら「公に」管理下に置ける将軍様って思考は凄いなあと感心。
>>176 >「朝廷に任命されればOK」っつーのがルールだったとでもいうのかい?
まさにそれがルールだけど。
将軍職は前任者が死ねば自動的に後継者がそれを名乗れるものではなく、
前任者が存命中、または前任者が死んだ後に後継者になった人物が
朝廷に働きかけて任命してもらうもの。
>>177 豊臣政権も運営は朝廷とは関係ない組織で行われてるし、
朝廷からの独立性が低い訳じゃないし、室町幕府が朝廷からの独立性が高いか?
と言われれば微妙なところだから単なる地政学の問題じゃないないの。
また征夷大将軍自体が官位的には関白より下だし、武士を統治下に置くのは
権限で言えば問題なく、当時はいまだ義昭が将軍だったという事を考えれば
そういう伝統も曖昧なもの、世襲の問題も秀次は関白を継いでる。
>豊臣家の勢力が落ちたとき、ここら変の違いが突き崩しの突破口になってゆく。
これは将軍であっても同じなんで、勢力が落ちれば転げ落ちるのはしょうがないと思う。
あと秀頼に公家的性格っていうのはよく分からんね、秀頼が朝政に参与した事は無いし、
公家である舟橋秀賢に教育を受けた事はあるらしいけど。
>それに、もともと武士は
>鎌倉以来の将軍の配下になるという伝統
南北朝の事、全部無視ですね
あれか?北畠顕家や菊池武光、千種忠顕に従った武士は武士でないと?
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 13:48:15 ID:j2ZF6MEU
何事にも例外があるというのになぜその例外を
大げさにとりあげ原則を軽んじるのだろう。
とりあえず
血筋が悪いからなれない→藤原氏の養子になってる時点で名目は源氏より上。この時代純粋な親子かどうかは
余り問題にならないのは周知の通り。
源氏しか将軍にはなれない→んなこたぁない。足利以前はざらにいたし、その後も自称平氏な信長が打診受けてる。
これ覆す論拠(てかソース)は必要だと思うぞ。
つーかよく考えたら源氏しか征夷大将軍になれないって論拠の元って
見た事も聞いた事もないな。
どっかに出典あるの?
は?
南北朝時代が何年続いたと思ってんだ?
その全てが例外?すげーな、お前の脳内原則w
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 13:59:34 ID:D2eEe9HE
>>185 ひょっとしていつもの家康至上=将軍至上主義な方ですか?
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 14:02:55 ID:j2ZF6MEU
南朝の武士たちは将軍というより北朝そのものを
否定していたわけ、もし南朝が任命していたら、
従っていた。
スゲー電波キターーー
そもそも源氏が武士の棟梁、というより
源氏出身の征夷大将軍が武士の権益を守る姿勢見せてくれたから棟梁として支持されたって感じだしな
極端な話、平家が貴族主義に走らず武家権益の擁護に走ってたら平家こそ武士の棟梁、と簡単に呼ばれたんじゃない?w
193 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 14:06:37 ID:A0HnaFPL
「もし」とかで原則とか例外規定していいなら何でもありになるぞ。
その根拠となる事(事例、出典)を明示しなはれ。
それでこそ原則だ。
>>163 鎌倉幕府でも藤原氏が将軍になっているが?
>>176とかもそうだが、基本的な知識に欠けている人がいますね。
それから、それまで大した物ではなかった将軍の位を、
少なくとも250年近くの間ほぼ絶対的権威となるまでに再構築した家康の手腕が凄いのであって、
家康以前の将軍位がそれほどのものではなかったとしても、
それは家康の評価を貶めることはない、むしろ高めるものだと思うが。
南北朝の武士が求めていたのはそれこそ自分たちの権益を守る存在なわけだよ
それに天皇家の正統云々におけるイデオロギー問題などが絡んできた訳
だから、利権さえ認めてくれれば陸奥守だろうと征夷大将軍だろうと征西大将軍だろうと鎮西探題だろうと北条得宗家だろうと関係ない
観応の擾乱で足利直義を始め、桃井や山名、上杉らがあっさり南朝に頭下げたのも
(直義には別の思惑があったにしろ)、征夷大将軍や幕府という名前が武士にどれほどの強制力も無いことの現れであり
逆に結城氏などは南朝から北朝に寝返ってる。南朝がアンチ北朝集団なんて単純なモノなら
南北朝の動乱は後南朝も含めて一世紀以上続いてないし
一世紀以上続いたものを”例外”なんて呼ぶなんて甚だ可笑しい
結局地盤の割に脆弱な組織しか持たなかった秀吉にしてみれば、将軍職について幕府権威を足利以上に
積み上げていくよりも既に権威だけは将軍よりある関白に自分の力を付加した方が早いんでね?って結論ではないのかなと。
だから就任後は天皇の権威を更に押し上げ、その直下である自分の凄さも押し上げてるべく図ったのでは。
将軍では天皇の権威を上げれば上げる程、自分より上の公卿共の権威も上がってしまうジレンマがあるし。
大搭宮が征夷大将軍なのも、例外でもなんでもないよな
鎌倉幕府の将軍は皇族だったんだから、むしろ妥当ですがな
感覚的な意見ですまんが、京都に秀吉がいた事もなんか関係ありそうな、当時の秀吉の目からすれば主人である信長の
・名目上は尊王を掲げ官位も貰っている、朝廷に対する態度。(信長無官後も信忠は保持してるし)
・幕府職を全て蹴り上げた、室町幕府に対する態度。
ってのは何か関係がある様な希ガス。それこそ百姓あがりの秀吉にとって「公方様より偉い人っているんだぎゃあ」みたいな感慨とか。
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 15:16:22 ID:yyq4fF6z
将軍は幕府を開いたが、関白は開いたことがない。
武士は幕府の統制下に入るという伝統があるが、関白の場合は
それがない。
また、将軍職は基本的に将軍家の人間が継ぐが、関白職は在任中
でも他家に職を譲る伝統がある。
まぁ、これだけの違いがある。
なんか、鎌倉幕府の将軍家が途絶えたから皇族が将軍になった
点やとか、幕府の将軍が形式的に朝廷に任命されることで反論
しているのがいるが、これらが覆されるのかね。
その上で、なんで武士団を統御する立場なのに幕府を開かずに、
その伝統のない関白を選んだってことだが。
同じ権威を利用するんなら、将軍の方がやりやすいだろうに。
(まぁ、もし朝廷からの独立性を高めるつもりがないんなら、
関白でもいいが、それに付随するもろもろの問題をどう解決する
つもりだったんろうか。)
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 15:32:43 ID:lW54+5zn
ID:yyq4fF6zがこのスレさえも読めない人なのはよく分かった。
もうかける言葉も見つからんな
関白は関白で天皇の代理って言う特殊な立場な訳だから、
天皇を一手に握って天皇が決定を出すには必ず自分を通させるとかすれば
反豊臣は全く官位とかを得られなくなるし、上手く使えば関白もすごく面白い、
可能性の高い官位なんじゃないかな。
もっとも秀吉は関白を権威付けだけに使って頼朝が下位の官位だった将軍を
こじ付けで変質させたような手法をとってない様に思えるが、これは少し勿体無い気がする。
203 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 15:46:45 ID:j2ZF6MEU
>>199 それらの問題を解決するために豊臣の姓を諸大名
に与え秀吉は氏の長者として彼らを支配すると
いう氏族政治を目指した、という説がある。
>>199 >将軍は幕府を開いたが、関白は開いたことがない。
天皇の代理として政治を司る関白は幕府を開く必要自体無い、
そもそも幕府っていうのは東国に派遣された将軍である征夷大将軍の権限を拡大解釈して、
抜け道的に全国に命令権を得たもの。
>武士は幕府の統制下に入るという伝統があるが、関白の場合はそれがない。
伝統で言うなら武家自体が朝廷の下位に置かれる存在であるけど?
それに戦国時代で幕府に従わない大名がわんさか居た訳で、
当時そんな伝統をまともに信じる奴は居ないでしょう、同じく関白に対してもね。
結局当時は将軍も関白も株が大暴落してた時代だから、
権威で見れば関白の方が高いんでそっちを選んだだけだろうと思われる。
秀吉も関白になった後に朝廷の政治機関を利用したかといえばそうでもなく、
幕府と同じく家政機関で天下を動かすっていう方法をとってるし、
豊臣性を創設して秀次に関白を譲ったりと世襲制へ移行させる準備をしてたりするしね。
まああえて関白を選択した理由を探すなら、関西に本拠を置く以上朝廷と対立する
可能性が高い将軍より、朝廷を取り込める関白を選んだって事はあるかもね。
幕府は朝廷の出先機関の意味合いがあるので、名目上は当然朝廷支配下。
その力関係が逆転する事によって武家政権が確立したんだけど、権力としての朝廷を統制出来ても
権威としての朝廷を無視した場合 「征夷大将軍」も「大宇宙最強大神無敵世紀末救世主伝説将軍」も大差ありません。
レスする度に袋叩きに合うID:yyq4fF6zカワイソス
「将軍は幕府を開いたが、関白は開いたことがない。」
そりゃこんな事堂々と言っちゃえる人だもの。僕は何も知りませんって自ら宣言してる様なもんだよ。
てか、ある意味名言だぞこれw
武家の棟梁であるより、天皇の全権代理として武家はもとより公家・寺社・商農民全てを一括権威の元で支配したいと思ってたんじゃないかな、秀吉は
戦国時代は寺院が武家以上の武力を保持していたり(本願寺)、身分制度の抜け道がたくさんあったり(他ならぬ秀吉がその最たる例)して為政者としてみた場合、厄介この上無かった
そこから身分制度を固める施策を打ってったわけで
徳川幕府も後に諸法度発布の形で武家以外も統制に乗り出すけど、結局それは「武家の棟梁」という立場からは逸脱した流れでしょ
>>205 まぁ「宇宙大将軍」は実在してるわけだがw
>>199 いい加減自分の中だけのルールから離れなさい。
将軍になっただけで武士が制御できるわけじゃあないということは、
散々説明されたでしょう?
それから、事実として秀吉は関白になったせいで武士の制御に失敗したかい?
要するに将軍になったからといって必ず武士を統制できるわけではないし、
将軍にならなくても統制出来るものは出来る。
つまり、覆すとか言う前にあなたが持ってきた前提は成立していない。
とりあえず将軍至上派は伝統&権威ではどうやっても関白派に勝て無い事には気づく事。
これ今日の宿題。
よく考えたら武家関白っていうのは秀吉と秀次だけなんだな、日本史上でも
よくよく考えたら「義昭に養子拒否されたから将軍になれなかった」って理由って、なんか無茶苦茶だな。
足利直系じゃなきゃ駄目って理論だと、徳川もなれない。
逆に徳川レベルの源氏でいいなら、秀吉も別に足利に拘る必要もなく斯波吉良今川はおろか
武田佐竹・・・とある意味徳川以上の名家なんて捨てる程ある。
その上で源氏の長者認定→将軍就任すりゃいい。
なんなんだろ、この説。
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 00:24:31 ID:3Jzq3SnY
初心者苦闘中w
>>213 説っていうか江戸時代の御用学者たちが捏造しただけの話らしいからね。
このスレ見ただけでも分かるが、
未だにそれに毒されている人もいるようだ。
>>208 身分制度は徳川秀忠の時代になって初めて構築されたものですが
よその国でいう所の階級制度とは全く違うもので、これと混同する人が非常に多いです。
江戸時代の身分制度は「勝手に職種を変えるな」という主旨の法律です。
とりあえずアレだ。
いくら戦国時代板だからって、議論の為にはノブヤボや学研の赤い冊子だけではいかんぞい。
って事がよく分かるスレだ。
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 11:30:52 ID:LwdFnf7v
なんかこのスレ自体がそもそもバカな前提の上に成り立ってないか?
・家康が政権を強固なものにできたのは征夷大将軍だからである
・秀吉が政権を強固なものにできなかったのは関白だったからである
そもそもこの前提がおかしいような。
源さんや足利さんも藤原さんや平さんの政権が脆弱だったのは
別に官位のせいではないんでねーの?
2つの政権の差異を官位の差だとする考えはあまりに稚拙。
どこでそんなテケトーなこと吹き込まれたの?
少なくとも豊臣政権と徳川政権の差異に関して言えば
「ライバルと成り得る勢力の力をどれだけ剥ぎ取ることができたか」
に尽きると思うんだが。
家康が将軍だったから将軍その物が偉いって考えに固執している極少数の人がいるだけと思われ。
ざっと眺めれば官位そのものに権力があったなんて考えてる人なんて、関白が幕府開かなかったとか
言ってるタイプの人だけ。
殆どの人が権威としての関白,将軍は認めているけど、権力としては所詮名前だけと考えてる。
ただこの手のスレってアレ系説が目立つんだよね。だって面白いものw
ごく少数っていうか、一人だよ
221 :
名無しの雑兵:2006/07/18(火) 11:58:55 ID:BGQO+uDe
将軍は幕府という公的機関を持てるのに対し、関白はあくまで朝廷という公的機関の一員であり、それを自儘にできないという点が将軍の優位に繋がると思います。
無論、武家がという前提ですが・・・
キター
そういや、結局磐石な長期政権を武家で維持出来たのは、北条&徳川だけなんだねえ。
ふと思ったが、当時、『将軍』という響きは、世間にとって『弱っちい』ってイメージがあったんじゃない?
秀吉が関白を選んだ理由は色々あるだろうが、これも一つの理由じゃないのか。
225 :
名無しの雑兵:2006/07/18(火) 13:40:33 ID:BGQO+uDe
しかし頼朝以来、武家の頭領は将軍であり幕府でもあるのだが
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 13:56:20 ID:O4lO1lWK
ここは、妄想垂れ流しスレですか?
秀吉厨が他のスレで馬鹿にされまくっているの
がよくわかるね、スレタイからしてバカ丸出し
スレタイを素直に読めば天正十二、三年の頃の
話だと思うが、秀吉が将軍になるという選択肢
があったのか?
そもそもなんで秀吉が将軍にならなきゃいかんのかわからん。
なんでいきなり意見を出す行為をするんだ。将軍至上な人は。
まずは前段の関白が上と言う意見(例えば
>>204)に対する反論が先だろうに。
>しかし頼朝以来、武家の頭領は将軍であり幕府でもあるのだが
>しかし頼朝以来、武家の頭領は将軍であり幕府でもあるのだが
>しかし頼朝以来、武家の頭領は将軍であり幕府でもあるのだが
>しかし頼朝以来、武家の頭領は将軍であり幕府でもあるのだが
>しかし頼朝以来、武家の頭領は将軍であり幕府でもあるのだが
『日本の時代史13 天下統一と朝鮮侵略』によると、秀吉は正親町天皇からの征夷大将軍将軍任官の内示を断わったそうだよ
次の休日辺りに図書館行って元史料確認してくるつもり
>>218 バカかどうか知らんが、一つの興味深い側面ではあるだろう。
官職位階だけで一つの政権を語ることはもちろん見当違い、
ただそれを一つのファクターとして議論するのがこのスレなのだと思うのだが。
232 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 17:48:50 ID:GwirA7tS
ってか、義昭って秀吉のタメかヘタしたら年下だろ??
素朴な疑問として、タメか年下の人間の養子になれるものなのか??
なれる。
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 18:06:16 ID:LwdFnf7v
>>231 確かに興味深い。
ただ、どう見てもこのスレでは「一つのファクターとして議論」なんてしてないような。
明らかに「官位の選択が政権の脆弱性を決めるかなるの要素占める」
などという、おかしな前提の上で議論してないか?
征夷大将軍を選択することが正解だの関白を選択することが正解だの
それにこだわって議論してる人間は明らかに。
まず第一に、「それがファクターとしてどれだけ大きな要素なのか」
を語らなければ、議論にならんでしょ。
いきなりそれをすっ飛ばして、「官位は大きなファクターである」
という前提で語っても、チグハグな議論にしかならん。
ってか、俺も小学生の頃、「秀吉が征夷大将軍になって幕府開いてれば」
って意見聞いたことあるんだけど、このトンデモ理論は誰が言い出したの?
明らかに歴史なんて分かってない人間のバカの理論だなあと子供心に感じた記憶あり。
>>234 だから
「官位=権力。官位につけば、それで権力もついてくる」
なんて思ってるのごく一部だって。
基本的には「秀吉は当時もう端倪すべからざる権力は持っている」
って前提で話している人が大多数。
ちゃんとこのスレ読んでるか?
軍事力を持ってる関白なんて名も実も持ってる存在だよな
鎌倉幕府は朝廷から物理的に距離をおき、監視することで武家政権を成功させたが、結局天皇政権を志向する連中の為に崩壊した
徳川幕府も最終的には朝廷を担いだ維新勢力に打倒された
特に幕末に幕府側から期待された公武一体みたいな発想を秀吉が持っていたのかね?
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 19:06:56 ID:LwdFnf7v
>>235 最初から全部読んできたけど、ごく一部なんかに見えないんだが。
そもそもスレタイの
「何故秀吉は将軍にならずに関白になったのか?」ってのは
「秀吉が将軍にさえなっていれば」ということを示唆してるわけで。
その前提を覆すのであれば、そもそもスレが成立しないし
見てりゃ分かるけどほとんどの人が
徳川政権に比べて豊臣政権の脆弱性に関して語ってるような。
>>237 > 結局天皇政権を志向する連中の為に崩壊した
……
240 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 19:11:50 ID:LwdFnf7v
ほら・・・。
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 19:15:09 ID:LwdFnf7v
う〜ん、戦前の学者や教育者が作ったトンデモ理論なのかな。
「武士ごときが天皇を中心とする朝廷を支配するなんて恐れ多い」みたいな。
「黙って武士階級だけのトップに君臨しとけばよかった」みたいな。
なんなんだろうなあ
>>238 一部そういうことを言っている人がいて、それに反論している人がいるだけ。
今の流れなんて正にそうでしょう。
>>239 ん?何かおかしいか?
幕府を潰したのは後醍醐天皇担いだ勢力
建武新政失敗後でしょ、足利氏が武士の不満を受けて離反したのは
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 19:25:05 ID:LwdFnf7v
>>242 なるほど。
まあ、それを「一部」だと言い張るのならその通り。
俺の目にはそういう書き込みが大半に見えるが・・・。
だからそういう低レベルな大量の雑音を消すことから始めないと
毎回「一部そういうことを言っている人」が話を蒸し返し議論がチグハグになるので
「官位はファクターとして大きな要素なのか」から議論すべきだと思ったんだが。
まあ、このスレの書き込みの大半を占める雑音を
脳内アボーンして議論するって考え方もありかと思うが。
>>243 多分天皇政権を志向した連中によってというよりは、
反北条家勢力、もっと言えば北条家から政権を奪取したい者たちによって、
崩壊したというほうが正しいかと。
まあ、本当に天皇政権を望んだものも少なからずいたとは思うが、
少なくとも紆余曲折を経てのこととはいえ、最終的に多数派となり室町幕府を開いた、
足利尊氏と彼に従った者たちは別に天皇政権なんて志向していなかったわけだから。
>>244 全然大量には思えないが?
例えばそのレスのこととか言ってるの?
アレな人が仮に大勢いるなら、いくら説明しても湧いてくる。
極少数なら、今までの流れで理解できないような人は、改めて説明してもやっぱり今後も湧いてくる。
248 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 19:37:17 ID:LwdFnf7v
>>246 そうかい。
あなたがそう思うならそれはそれでいいよ。
別にそんな議論したくないし。
「秀吉が将軍なれなかった」論や「どちらが偉いか」論をはじめ、
そういう書き込みが大量に目に映るがね。
秀吉が将軍になれたとしたらそれにどんな意味があるのかと
小一時間問い詰めたい。
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 19:39:52 ID:LwdFnf7v
>>247 まあなあ。。。スレの存在そのものがアレだからなあ。
どうしてもアレな人が多数派になってしまうのは仕方ないか。
「征夷大将軍であるか関白であるかなんてそれほど大差ない」
と考える人は、そもそもスレの前提に疑問感じるから
ほとんど書き込まないか。
例えば、最近50レスくらいで見ても、
官位の違いを政権の脆弱さや強固さと結びつけて論じようとしているのは、
>>199と多分
>>221>>225くらい。
普通に見てごく一部だろう、221と225はおなじIDだし。
そしてどれも直ぐに多くの反論にあっている。
この状況で大半の書き込みがそうだと言われては、
正直レスの内容をちゃんと把握してくれているのか心配だ。
関白が妥当派の人は権力として考えれば関白も将軍も大差ない、どうせどっちも没落してっし。
でも権威として考えれば、って考え方の人が多いと思う訳だが。
ちなみに官位は重要なファクターだと思うぞ、俺は。正しくは「ファクターになりうる物」だ。
実際に秀吉は官位を大いに利用してるし、徳川政権も諸々の格差を官位で規定している部分がある。
もっと言えば序章は織田政権にあるが>官位の復権。
>>248 だからそういう類のレスを挙げてみればいいじゃん。あんたも結局水掛け論したいだけの輩にしかみえんよ。
もういいやとか言って、結局レス指定しないに偽造500円
>>251 それはそうでしょう。
実際権威としてみるなら位が上の関白のほうがいいと思うのは自然なことだし、
秀吉はそういうことも考えたのではないかと思うが、
そのことと政権の脆弱さ云々を結び付けたりはしていない。
関白になったから強固になるはずだったとも、
関白になったから脆弱になってしまったとも言ってはいない。
豊臣政権が短命に終わった原因の多くは、
もっと他のところにあるだろうということも承知している。
もちろん、官位というものが正に権威の面で重要なファクターであることも事実だけどね。
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 20:01:39 ID:LwdFnf7v
>>250 「最新50レス」って200くらいからだろうけど
そのうちのかなりの割合が218から始まる俺の話に関するレスなんだが・・・。
レスの抽出の仕方が作為的過ぎw
>>1にしろ
>>2にしろ
>>3にしろ
>>5にしろ
>>6にしろかなりの割合が
「将軍にならず関白になったために政権が崩壊した」というトンデモ理論について語ってる。
まずその理論がトンデモなのかどうか語らなきゃ始まらん気するけど。
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 20:03:35 ID:LwdFnf7v
>>254 >関白になったから強固になるはずだったとも、
関白になったから脆弱になってしまったとも言ってはいない。
そなのん?
このスレの前提が「関白になったから脆弱になってしまった」という、
よく聞く理論に基づいて成り立ってるんじゃないのん?
俺の錯覚だったらごめんよ。
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 20:08:28 ID:LwdFnf7v
>>256 だから、
>>119とかそういうように読めるレスへの反論として、
言っているんじゃあないか。
あなたさ、そういう論に対する反論までカウントしているでしょう?
それから、あなたに対するレスなんてそれほど多くないよ。
10レスもいかないくらい。
少なくとも私が書き込み始めるまではね。
>>259 6も10も12も15も違うが。
5だって別に脆弱さとかの話は入ってないし。
一部って思わせといてやれ。
クダラン。
どうせ斜め読みでレスしたんだろ。普通ならもっと議論が核心にせまった部分のレスを指摘するもんだ。
ちなみに200以降なんて関白と将軍の本質論だ。将軍マンセーに対する叩きつけの反論。
無論どっちが偉いかって話にもなるし、しかも
>>218の指摘する類のレスには掠りもしない。
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 20:21:40 ID:LwdFnf7v
>>260 >あなたさ、そういう論に対する反論までカウントしているでしょう?
うん、だからそういうどうでもいい議論がうっとおしいので
「まずハッキリさせることはハッキリさせてそういうレス減らさないか」と。
>それから、あなたに対するレスなんてそれほど多くないよ。
10レスもいかないくらい。
いやあの・・・俺のレスだけでも10レスあるんだがw
俺は自分にレスないのに10もレスしてるのかい?
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 20:24:53 ID:LwdFnf7v
>>261 ああ
>>5以前に
>>1だって「脆弱さ」の話なんて入ってないよ。
ただの、その議論の前提となってるのは
「将軍にならなかったから脆弱だったんじゃねーの?」って都市伝説だから
それをなんとかしないといかんだろって話で。
>>262 すまん、どうでもいい議論になっちゃったね。
「そういうレスが多いか少ないか」なんて不毛な議論だな。
なんでそんな議論をしたがるのか分からんけど。
>>248で「あなたがそう思うならそれはそれでいいよ。別にそんな議論したくないし。」
って言ったくせに、気付いたら不毛な議論に引きずりこまれてた。すまん。
もうこの手の不毛な水掛け論したいだけにしか見えないレスはスルーするね。
俺は「多いか少ないか」なんて議論を、延々としたかったわけじゃないし。
なんだかなあ・・・。
>>265 だから、私が書き込み始めるまではと言っているでしょう。
私とあなたのせいでレスをかなり消費してしまったというだけのこと。
それから、悪いがその手の頓珍漢なレスがつけば反論が出るのは当たり前、
その反論という真っ当なレスまで同じに一括りにされては困る。
なんかすごい電波を受信してる奴がいるみたいだな
>>266 だから、それをどうにかする為に反論しているんだよ。
>>269 一部なのかどうかという水掛け論をしたいだけに見える。
一部に、将軍にならなかったから政権が脆弱だった、
というような主旨のレスをする人がいて、
それに対して多くの反論がなされるという当たり前の流れがあるだけ。
それを、反論までひっくるめて
>>218のように言われてはどうにもならない。
>>242以降、一部か否かという不毛な議論で、随分スレを費やしたな。
釣られたID:LwdFnf7vは乙(ワラ
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 22:01:16 ID:FLYp3Vo1
【上杉家の特徴】
・武田に北信濃を奪われ、頼りにしてきた豪族を裏切った上杉は論外
・関東を散々荒らしまくりながら、結局土地を取れなかった上杉は論外
・一時の感情で味方に暴行し、離反された上杉は論外
・小学生でも見抜けるような捏造武勇伝ばかりの上杉は論外
・下野の小豪族佐野家の城を10度攻め、一度も落とせなかった上杉は論外
・関東豪族を裏切ってまで北条と同盟したのに、その後北条にも同盟破棄された上杉は論外
・家臣に反乱を起こされまくった統率力が無い上杉は論外
・後継者の事を何も考えず便所で死亡し、勝手に自滅した上杉は論外
・勢力的に明らかに格下の神保に苦戦しまくった上杉は論外
・織田家に嫉妬し、手取川の戦いを捏造した上杉は論外
・伊達家に対するコンプレックスで松川の戦いを捏造した上杉は論外
・自ら起こした関ヶ原で負け組みになった上杉は論外
・幕末、何も見せ場がなかった上杉は論外
・容姿がキモ過ぎる上杉は論外
http://www.valley.ne.jp/~rinsenji/kenshin.jpg ・肖像画まで捏造した上杉は論外
・大量の基地外信者を生んでしまった上杉は論外
【vsスレ荒らし・上杉信者の特徴】
・根拠もなしに上杉謙信最強と言う
・歴史初心者に上杉家最強と吹き込む
・紛れも無い捏造の松川を事実と言い張る
・上杉を擁護するために平気で捏造をする
・自作自演での印象操作が得意
・たいして知識が無いのに、歴史に詳しいフリをする
・なぜか伊達家の話題を振ってくる
・突っ込んだ質問をされると即逃走
・人格攻撃、コピペが得意
・どこ行っても嫌われ者
・上杉は○○だからダメと言われる→そんなことは無い、とただ単に全否定するだけ
・一度書き込み出すと連続で書き込む(でも時間は絶対に被らない)
まさか、ある意見とそれに対する反論が、
同じものに見えてしまうような人が相手だったとは思わなかったんだよ。
どうも彼の中では、ある意見に反論する=その意見を前提にしている、
というわけの分からない公式が成り立っているらしい。
実際にはその意見、この場合は関白になったせいで脆弱な政権になったなったという意見が、
前提どころか間違っていると思うから反論しているわけだが・・・。
しばらく見ない間に爆笑スレになっているな
もしここのスレタイの秀吉を家康に、将軍と関白を入れ替えたら
すぐにDAT落ちだな
秀吉は信長といっしょに
将軍職が武家以外に対して如何に無力であるかを
さんざん思い知らされてる世代だから
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/18(火) 23:29:55 ID:ABLNtLuT
少しは歴史書読めよw
いや、さすがに反論を同じものとまでは思っていなかっただろう。
>>235に対する
>>238や
>>242に対する
>>244の書き込みを見ても、
明らかに、そういうことを言っているものが一部とは思えない、大半だとはっきり言っている。
ところがスレをよく見ていくと、実際はそのほとんどが「そういう意見に対する反論」だった。
そこでそれをごまかす為に、後から反論もひっくるめて言っていたことにしたと。
だから、最初は自分から「ほとんどの人が」とか「大半が」とか言っていたくせに、
後になって、多いか少ないかなんて下らないと言ってごまかそうとしている。
要するにレスの内容が全然読めていなかったということ、
いくらなんでも、最低限それくらいは読めるようになってから書き込んでもらわないとねぇ。
まだやってるのか。
いつまでどうでもいい話題で粘着やって荒らすつもりなんだか。
氏ね
280 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 02:12:19 ID:8wL9s/fT
スレタイを読むと秀吉が関白でも将軍でも好きな
ほうを選べたように書いてあるが果たして本当か?
「朝廷から打診があった」と言うのかもしれないが
まさか幕府を開くつもりがない者にわざわざ朝廷
から働き掛けたというわけ?
妄想はともかく事実としてはっきりしているのは、
秀吉が脅したか、金を積んだかしらないが
近衛家が農民出身の者に藤原の姓と関白を売リ
飛ばしただけのこと、あとプライドもだけどね、
有能だが身分の低い人間にハクつけるために名跡継がせたり養子縁組するのは別に珍しくないでしょ
それで誇り売ったとまで言われると…
>>279 あまりの滅茶苦茶さ加減に思わず一言言わずにいられなかった・・・
>>280 はっきり言って、農民出身でありながら関白になれたのだから、
他のどの位にだってなれたと思うよ。
格式では関白が一番なわけだから。
>>282 農民出身っていうのは実は誇張らしいよ
堺屋太一氏によると、いくら戦国時代でいくら信長といえども
小豪族のせがれクラスじゃないと取り立てなかったらしい
それと関白が政権のトップじゃなくて
秀吉は自分が太政大臣になってからは秀次に関白の地位を与えてるよ
>>280は過去レスyyq4fF6zみたいなage厨で荒らしだからスルー汁。
おかしな改行とアフォな文章ですぐわかるがな。
ちょっとは関白になる前に平朝臣秀吉として
従二位内大臣になったことの方を考えろよ。
二条家や近衛前久・信輔父子の対立に介入できる立場をすでに手にしてだけのこと。
286 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/19(水) 13:33:13 ID:xEAR3bVE
秀吉の狙いは、有力大名を正式の官位に任官させることで朝廷権威を背景に自己の政権の秩序に取り込むことでしょ
そうなると当然、トップであるべき自分は大名中最高の官位を手に入れる必要がある
征夷大将軍は正三位の令外官だし
>>284 まだやってるのか?
いつまで粘着して荒らすつもりなのだ?
お前以外はyyq4fF6zなどには興味ないぞ?
まあ、家康も後に太政大臣になってるわけで、あのまま生きてたら関白兼任もあったかもしれん。
そしたら太政大臣として律令制の頂点・関白として天皇代理・征夷大将軍として武家の頂点(もっともすでに辞任してたが)のトリプルクラウン達成だったかもしれん。
連投すまん。
秀吉は義昭健在なもので先に関白になっただけかもしれないと。
秀吉があのまま生きていたら征夷大将軍就任→開幕(五大老・五奉行を中枢とする政治機構が幕府と名を変える)ってのもあったんじゃないかと。
あの政治機構はそれをにらんでたんじゃまいかと妄想させるに十分なんだけどなあ。
と、家康の年表を眺めてて思った。
>>287 いやいや、突っ込みどころ満載な文章にレスつけてる香具師いたから
忠告しただけだが。
レスする香具師がいなきゃ漏れもいちいち忠告レスなんてせんわ。
家康の場合は、豊臣の大老から新しい支配者として
豊臣と自分が別のものである証明に征夷大将軍を選んだんだろう
家康が関白になると、どうしても豊臣から算奪、豊臣政権の路線継続と受け取られる訳だから
結論としては
関白でも将軍でもどちらにもなれて関白を選んだ秀吉と
将軍になる選択肢しかなかった家康ってことが言えるだろう
家康の場合は、豊臣の大老から新しい支配者として
豊臣と自分が別のものである証明に征夷大将軍を選んだんだろう
家康が関白になると、どうしても豊臣から算奪、豊臣政権の路線継続と受け取られる訳だから
結論としては
関白でも将軍でもどちらにもなれて関白を選んだ秀吉と
将軍になる選択肢しかなかった家康ってことが言えるだろう
二重スマン
>>290 突っ込みどころ満載=ID:yyq4fF6z、という思考が理解できない。
単にID:yyq4fF6zにしてやられた(?)のが悔しくて、いつまでも荒らしてるだけじゃないのか?
秀吉が関白と征夷大将軍の両方になれてたら、家康はどう政権を奪ったんだろうかと。
別の天皇をたてたのかな。
太政大臣にでもなったんじゃないのかな?
権力さえ奪えれば権威は後からついて来るし、
あるいは気にせず征夷大将軍なるかも。
297 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 00:17:40 ID:mhS6qpuH
同族も譜代の家臣も少なく、天下統一途上の脆弱さからして
征夷大将軍になったとしても、政所−奉行体制は変わらなかっただろう。
実際に家康は親・秀吉派の正親町親王を
ほとんど追放に近い状態で隠居させてる
源氏長者という立場を全面に押し出したんじゃなかろうか、家康は
足利義満が征夷大将軍と源氏長者を合わせて権勢を振るい対外的には国王を名乗るほどのなったのを見習って
将軍職はともかく、源氏の血筋っていうのは秀吉には難しいから(養子や猶子にはなれても血を引いてないという事実は変わらず)
徳川家の血筋自称も怪しいけど、天下取りレースに参加する以前にやってるから泥縄的な印象派もたれにくいし
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 04:37:53 ID:mhS6qpuH
でも一時、藤原朝臣家康を名乗ったことでちょっと苦労したがね。
対外的に国王でありたかったから秀吉は関白なんじゃない?
朝鮮に出兵するのに、自分の地位が関白ならほぼ日本の国王と名実共に言えるだろう
朝廷と将軍(幕府)の二重構造で幕末は対外的に複雑だったんだし
>>301 バーカ、いい加減にしろ
まだ天下統一も完成していない時期に何が「対外的に」だ
それに朝鮮征伐の時の秀吉は関白ではなく太政大臣だ
ここはお前の脳内妄想を書いていい場所ではない
バカのクセにそれでも書き込みたければ
それなりに資料を買ってきて熟読しとけ
日本国王を名乗っていた足利義満が太政大臣だった事を考えれば
秀吉が武家の主ではなく日本の主を狙っていたとしても不思議ではないな
関白就任時から朝鮮が視野にあったかどうかは置いておいて
寺社勢力すら管轄に置くならば朝廷の正式な高官である必要はあるだろう
結局、将軍では荘園支配が完全ではなく、二重支配が続いてて、無くなったのは秀吉の時代だし
冊封体制から我が国が独立した国家としての象徴が「皇法」。中国大陸の強権からの独立と
不平等な扱いの是正というのがどんなに大変な事だったかが理解できる。
聖徳太子の時代、大変な苦闘を重ね勝ち取った独立の正当性がこの体制。当時から、現代にい
たるまで、我が国の統治機構の伝統として残っている。
その制度に逆らった統治者は足利義満ただ一人だけ。日本人として最大級の守るべき、独立の
証であるこの制度/価値観を覆した。そして下克上の戦乱は起こるべくして起こった。
その為、足利家にとっての官位は、自らの手でおとしめられ力を持たないものだった。
官位が形骸化したのも室町時代だが、無秩序から秩序を作り出すために大いに利用される。
その後、信長、秀吉、徳川一族、明治政府、すべて皇法に則り正当性を持った統治者としてど
れも一時代の安定はもたらしているが、信長、秀吉の頃はまだ下克上の名残が強く、官位はイン
フレ状態だった。蘭奢待をデリバリーさせるほどの信長が将軍にならなかったのは、対価の割に
低い官位だから(足利一族と同じ官位など要らんという意思表示)。
元々、征夷大将軍というのは本来、天皇に任命されて夷敵を征服する役職。
坂上田村麿の東北の狩猟民族との境界争いの終止符を打つ目的の、夷領への侵略戦争の総責任者
というのが本来の務め。統治機構=政治に関われる役職ではない。
形骸化した後は(過去の例に照らし合わせて)武家が手に入れられる最高官位として存在したが
徳川家により価値が固められるまでは、滅ぼされた足利将軍家と同等程度の官位。縁起も悪い。
単純に秀吉も縁起の悪さと、足利家より金も権力もあるのに同じ官位はいらんという意識から、関白
を選んだんじゃないかな。
以上、残業サボり中の妄想。
>>304 >ゴリライモってひどいニックネームだよな
まで読んだ
>>305 >ブタゴリラって苛められっ子以外にありえないニックネームだよな
まで読んだ
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 22:46:04 ID:137ZTjOg
みんな妄想乙。
字も満足に書けないような無教養の秀吉が
小難しいこと考えているわけないだろ、
あほか、なんでも理屈をつけりゃあいいって
もんじゃあないっつうの、
えぇっとね、字が書けなくても耳は聞こえる訳で
耳学問で凄い人なんて世界史レベルでも沢山いるぞ?
同じ農民出身で皇帝になった劉裕や朱全忠はそのたぐいだし
秀吉は晩年は能を踊ってみたり、歌を詠んでみたりと中々の教養人っぷりを発揮してる。
大体千利休みたいな一流どころの文化人達から直々に学んでる訳で、いつまでも無教養な訳が無いし、
また関白として朝廷に関わりを持つ必要があったりと秀吉自身にも教養は必要だったろう。
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/20(木) 23:45:42 ID:mhS6qpuH
前から疑問だったが、秀吉は読み書き、故実などの教養を
いつのまに身につけたのかということ。戦乱に明け暮れた平民出の武将が、そんなひまあったのか?
身分が低いからって無学とは限らんだろう
秀吉は幼少時代寺に預けられたという話があるが、当時の寺院は大名の子弟も学問から兵法まで学ぶ代表的な教育機関
程度の差はあるだろうが、そこで基礎的な教養ぐらいは身につけていてもおかしくはない
秀吉の教養は武士としてはかなり低いほうで読み書きは苦手だった。
秀吉が手紙などで書いた誤字や当て字のせいで
聚楽邸→聚楽第、芳野→吉野など、後に名称が変わってしまったものもある。
秀吉が政権を取ったあとの政策の一部、
例えば石山本願寺跡に大きな城を建ててその周辺を大都市にするとか、
家康を関東に転封、貿易と金山の直轄、検地・刀狩、朝鮮征伐等は
信長が生前将来の構想を雑談程度で喋ってたものを
自分なりにアレンジを加えて行なったんじゃないかと思う。
秀吉の事績を信長の構想の延長でしかないとかいう見方が広まってきたのっていつぐらいなんだろ。
いや、延長ではないと思うよ。
信長のやり方だと本能寺の時点ですでに限界が見えていたんだよね。
恐らく西は毛利や島津なんかも和睦では済まないだろうし
東は北条や上杉を滅ぼすのに時間がかかりすぎて
信長が一生をかけても天下統一は不可能だったかも知れない。
朝廷ともなるべく距離を置こうという考え方だったし、
明智の謀反が失敗に終わったとしても次々と離反者は出てくるし、
信長の完全主義をある程度不完全でもいいから天下統一しよう、
統一してから政策を進めて行こうというのが秀吉の政策の根幹ですね。
一番大きいネタが全国制覇をもくろんでた信長を真似て
唐入りしたって奴だなw
>>315 堺屋太一氏の説によると、
秀吉の天下統一の仕方が中途半端だったために、
家康のような大軍縮が出来なかった。
戦時中の常に組織が成長する仕組みから脱却出来なかったため
常に戦争をして領土を拡大しなければならなかったとか。
家康の場合は徳川家・幕府という超大国が一国だけあって
それが圧倒的な優位に立ちながら順次軍縮して行く事が可能だったけど
秀吉の場合は外様の大国を沢山残した状態だったのでそれが不可能だった。
317 :
名無しの雑兵:2006/07/21(金) 19:15:32 ID:p29KxRDq
秀吉の政権体制に最も類似しているのが家康の大御所ブレーン集団
もっとも家康のは幕府機構が軌道に乗るまで中継ぎが目的だろうけど
秀吉のやり方だと潜在的勢力を温存することになるけど、天下を平定する速度を考えれば効率が良かった
要するに何事も一長一短
319 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/21(金) 21:36:52 ID:UOcw4u8p
>>316 正確にとらえると
家康の統治の前には 関が原の勝利に因って手に入れた領地を使って
チカラのバランスとるのが出来た。
秀吉は自分が抜きん出て一番だったから大軍縮はする必要はないんだから。
それは大陸に出兵するつもりが無い前提の家康には大軍縮は必要だが
秀吉の政権時には統一してから決めてもいいことだから。
軍縮できれば問題ないし あれば大陸出兵するつもり。
「秀吉の天下統一の仕方が中途半端だったために」なんて
堺屋太一氏は頭おかしい。
その時々の統治の条件や方法があることさえ お解かりになっていませんよ。
320 :
名無しの雑兵:2006/07/21(金) 22:17:13 ID:p29KxRDq
>>319 朝鮮出兵の前に関東入国後の家康みたいに治水や新田開発して
浪人をそこに住まわすような政策は取れなかったんだろうか?
というよりあの時期に家康以外にああいうことをした人はいたんだろうか?
321 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/21(金) 22:38:13 ID:UOcw4u8p
>>320 領国経営はおのおの やっていた。
出兵を断われるくらいの大名は家康だけだった。
実際に断わるのも勇気いっただろうに。
人々の出世に対するイメージが田畑を広げることより
戦で恩賞をもらう方が夢があると考えているからこそ出兵できた。
322 :
名無しの雑兵:2006/07/22(土) 09:52:24 ID:NMrXzGp2
>>321 一応、直轄領もあるのに何もしてないし、
秀吉って街道の整備も途中で放り投げてるんですよね。
どうもそこら辺を考えると長期的ヴィジョンゼロで当座の金がし欲かった
だけに過ぎん統治者としては失格の烙印押されて当然のような気が
まあ、それじゃあ将軍でも関白でも意味ない罠
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 11:25:58 ID:4AqP1yHE
>>322 秀吉統治時には他者よりも石高を得る努力は戦争ばかりにしか働かない時代
家康統治時代には「国内でまかないやって行かなくてはならない」と
人々の気持ちが変わっていったことがある
秀吉統治だからっていっても
皆の考え方は他者よりもどれだけ武力勢力をもっているか
だからね
秀吉だって自分が一番であればいいと考えているレベルだが
統治をされる側はもっと低いレベル
>>322 >秀吉って街道の整備も途中で放り投げてるんですよね。
放り投げるっていうのがよく分からんが、街道の整備なんて秀吉1代で
終わらせられるもんじゃないからなぁ、五街道の整備が完了したのだって
家康から大分後の話だし。
325 :
名無しの雑兵:2006/07/22(土) 13:30:01 ID:NMrXzGp2
>>324 一応、秀吉もやったんですよ街道の整備・・・畿内限定で
軍道と捉えれば説明は付きますけど(これは家康も同じかな)
秀吉は富国強兵の後者だけに邁進したと考えると・・・
ダメダメかと
326 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 14:58:23 ID:3fJrpqB+
源氏じゃなくてただの百姓だったからだろ?w
ダメダメって…そんな戦国末期に何を期待しているんだw
>>325 いやよく分からんのは途中で放り投げたって事、
それに関所撤廃とか合わせて考えると経済面も見てると考えていいと思う。
あと家康も関東中心の街道整備なんだけど。
329 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 21:17:24 ID:cXKuKiKq
糞すれ
330 :
名無しの雑兵:2006/07/22(土) 21:24:59 ID:NMrXzGp2
>>328 そういう直ぐできることはやってるんですよ
で、時間掛かる事はやらない
道の軍道が主目的に関してはその通かと
秀吉は軍事行動の度に軍道の整備を行っていたが
全国統一後は朝鮮出兵の為か海賊禁止令を出すなどして
海路に興味が移ったらしく街道整備は行わなくなった
>>330 そりゃ畿内が根拠地の秀吉にとって基本は畿内の街道整備が出来れば十分でしょう、
同じく家康も関東中心の街道しか整備してないし。
また軍事行動のためだけじゃなく1里塚を築いたり、伝馬や飛脚の整備なんかも行っている。
江戸時代の街道整備なんてのも断続的に行われており、秀吉は一代で終わってるから
そういう断続的に行うって事が無かっただけでしょう。
332 :
名無しの雑兵:2006/07/23(日) 09:12:33 ID:k2tIV2JS
>>331 伝馬、飛脚も公用を目的として制定後、民間に開放されたパターンです。
確かに一代での評価は難しいかもしれませんが、秀吉・家康で見ても
水路の開削等経済振興策を見ても家康の方が長期的な視野で策定し
ていると思います。
333 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 09:44:30 ID:loleNEmM
まぁ、家康なら伏見城作るんだったら、街道整備するだろうな。
信長の後の政権を家康が握ったとしてもが外征はおこなわれただろうか
>>319 >秀吉は自分が抜きん出て一番だったから大軍縮はする必要はないんだから。
君は頭おかしいのか?
戦争が終わって戦力がいらなくなったのに軍縮が出来ないとなると
兵士に仕事を与えるために戦争を起こさなければならない。
それに江戸時代までの戦国大名のほとんどが
戦争で勝って領土が増える事を前提にして領国の経営をしていたので
領地を増やしてやらなければならない。
秀吉の時代はそういう仕組みから脱却出来なかったから朝鮮を攻撃したんだよ。
脱却出来なかったのは秀吉の統治が不完全だったために、
強大な外様の力を落とせなかったからなんだよ。
家康は幕府・徳川家という唯一君臨する超大国が圧倒的な優位を保ちつつ
支配する大名を細分化して小国にし弱体化させ、自らも分家して細分化し軍縮していくという
世界的にも類例のない物凄い大軍縮を行なったんだよ。
これは戦争を起こさせないために必要な措置であって、秀吉の時代に必要がないわけがない。
秀吉はやりたくても出来なかった。だから2度も明の属国である朝鮮に出兵したんだよ。
ここで明が本気になってたら日本は滅びてた。本当に危険で無益な戦争だった。
>>332 秀吉の伝馬、飛脚も公用を目的として制定されたもんなんだけど、
民間に解放されたっていうのも幕府が許可を出したのは1663年、
もはや家康とは関係ない年代。
>水路の開削等経済振興策
具体的にどうか書いてくれないと>長期的な視野、かどうか判断できない。
それに秀吉の淀川整備なんて経済に与えた影響は大だから十分長期的視野でも
評価できると思うけど。
>>333 伏見築城に際して街道整備してますけど。
>>335 >ここで明が本気になってたら日本は滅びてた。
当時の明に外征能力なんて無いでしょ、すでに財政カツカツ。
また明に日本に攻め込んで滅ぼすほどの力は無いよ、
朝鮮での戦いでも一進一退、軍事力でも飛び抜けてるわけじゃなく、
日本とトントンかそれ以下。
>>337 日本軍が明に負けたのは制海権を奪われて補給路を断たれたからだよ
財政カツカツでも九州に上陸して日本軍をボコボコに叩いて
もう二度と朝鮮に出兵しようという気にさせない事くらいは可能だよ
明が本気になって実際には朝鮮防御が精一杯が史実でしょ
日本攻撃のにの字でもでたソースは?w
防衛が精一杯じゃないでしょうに
えっ?ま、まさか・・・
朝鮮防衛に明が全軍で出撃したと思ってるの?
日本のほうが明より国力が上だと思ってるの?
まさに夏休みwww
偽倭寇にヒーヒー言って、ヌルハチと李自成にあっさりと滅ぼされる明に日本遠征ねぇ……失笑もんだな
王守仁、戚継光、袁崇煥と名将は悉く首にしてきた明に外征能力を求めるのか?
永楽帝の頃の明と勘違いしてないか?
>>340 防衛が精一杯じゃないというソースはあるのか、と聞いているのでは
明軍が日本軍より総兵力が多かったとしても、まず自国の防衛と治安維持のために必要な兵力は国土の広さから莫大なものになる
李如松が限界だと思って出先の判断で結んだ停戦は、明宮廷で功績と認められたし
>>342 アフォかーw当たり前じゃんwwwwwwwwww
おっと失敗
>>342 >停戦は、明宮廷で功績と認められたし
アフォかーw当たり前じゃんwwwwwwwww
明の朝鮮出兵は属国に対する義理立てだぞ
停戦して朝鮮が温存きれば問題ないじゃんかwwwwwwwwwww
つーかヌルハチの後金と日本の兵力はほぼ同数
>>343-
>>344 話逸らしはいいから。ソースは?
「明史」によると、当初万暦帝などの明宮廷は、財政難による軍費支出への懸念から援軍を渋っていた
ようやく派遣した軍も総兵力5万で、日本軍の3分の1。さらに、その編制も正規軍で賄えず無頼漢だった沈惟敬を将軍に仕立てなければならなかったほど
福建巡撫・許孚遠が実際に日本遠征を具申しているが、そんな力はないと兵部尚書の段階で拒絶された
これが当時の明の内情
本気になったら、なんてイフはまだ「家康らが本気で秀吉に協力したら」というもとすら比べ物にならないほどダメダメだとしか言い様が無い
ちなみに当時の明の財政レベルがどんなものだったかというと、役人の欠員が出来てもその給料が惜しくて補充せず
閣僚が一人・地方長官が定数の半分という冗談のような事態に陥った時期もあった
にもかかわらず皇帝以下は贅沢して、「明朝は万暦に滅ぶ」と明史に明記されるほど乱脈な状態だった
>ID:Qkf3Wm6V
>ID:CJ0t14rk
ちくしょー!
今日はこの辺で勘弁してやる
覚えてろ!・゚・(つД`)・゚・ ウェ―ン
350 :
名無しの雑兵:2006/07/23(日) 17:55:29 ID:k2tIV2JS
>>336 秀吉の街道整備は自分の直轄領しかやっていません(秀次の直轄領も少ししたかな?)
一方家康は譜代の領地を含めた地区まで行っています。
伏見城にあわせた大和街道の整備は・・・ありゃ巨椋池の真ん中に道通して真正面に伏見城
が見えるようにするのが主目的ですから・・・
351 :
名無しの雑兵:2006/07/23(日) 18:46:28 ID:k2tIV2JS
後、水路開削に関しては東海道整備と平行して大井川、富士川、高瀬川が角倉了意の
手で行われました。
>>350 淀川沿いや山陰道・紀州街道と幅広くやってますけど?
関所撤廃とか1里塚とか全国的なもんですし。
>伏見城にあわせた大和街道の整備は・・・ありゃ巨椋池の真ん中に道通して真正面に伏見城
>が見えるようにするのが主目的ですから・・・
普通に城下町築いて経済発展に寄与してますけど、つーか景観の為だけな訳ないじゃん。
>水路開削に関しては東海道整備と平行して大井川、富士川、高瀬川が角倉了意の
>手で行われました。
だからそれがどういう長期的展望なのか書いて欲しいんだけど、
おまけに秀吉も木曽川・淀川・宇治川・東横堀川・ 加古川とやってますけど。
353 :
名無しの雑兵:2006/07/23(日) 20:47:49 ID:k2tIV2JS
徹頭徹尾、畿内のみでやっているのが
インフラ整備を広範囲で行う事によって新しい市場が期待できるが
既に発展しているところを良くしても劇的な効果は期待できないかと
それって領内の商人の要望に答えての政策じゃない?
>>353 上で書いたとおり、秀吉の根拠地は畿内だしね。
発展してるとっても秀吉の時代は今だ過渡期、大坂の経済成長が行き詰まったのが江戸中期なので
当時はまだまだ発展の余地はあった時代だよ、戦国時代で畿内も荒れた時代だし。
事実、淀川改修とか経済発展に寄与してるし。
356 :
名無しの雑兵:2006/07/24(月) 06:46:45 ID:kAgjrPf9
>>355 つまりその他、東海道、中仙道、北陸、山陽の大名は軒並み信用していないという事になります。
つまり秀吉は機内に配したものしか信用していないという事になるのでは
だんだん単に秀吉を貶めたいだけに論を展開してるようにみえてきた
優劣論になるわなそりゃ。関白になった事に関してはほぼ結論でてんだし。
>>358 まあ間違っては無いけどね、ただ正確には中仙道は浅野・東海道は中村・北陸は前田
と関東方面へのクサイ大名は封じ込め政策を採ってるから、当たり前の話。
同じく関東中心の街道整備だった家康も関西方面に封じ込めた大名を信用してない、
それが根拠地中心の街道政策って事。
360 :
359:2006/07/24(月) 15:41:08 ID:IQwUDrvZ
徳川幕府だって大井川などに橋をかけるのを最後まで禁止したりした
軍事的観点を戦国を生き抜いた秀吉らが重視しなかったら、そのほうが異常
単に豊臣政権が短命だったから、ということかもしれんけど
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 03:33:32 ID:2257Kw0l
短命だったから叩かれる。
長命だったからと無根拠に支持するのは、
勝ち馬に乗ることしか考えてないいじめられっ子なガキ。
363 :
名無しの雑兵:2006/07/25(火) 07:29:59 ID:2loI6K3C
道路を整備すれば敵に攻め込まれるかもしれないが、逆に攻め込みやすくもある。
さらに流通の発展にもなるから、それでも秀吉が東海道等を整備しなかったのは経済の発展よりも家康の脅威を上に置いていたことにはならないかと
>>359 すまんが、東海道に山内も加えといてくれ。
>>363 普通に秀吉の勢力圏に入ったのが後期だったから進まなかっただけでわ…?
>>367 御土居、名護屋城、伏見城建築しているんだからその間、街道整備する時間もあるということ
>>363 家康も関西方面はしてないし、そんなもんだろ。
築城と街道整備は別物ではないか
街道整備してない大名でも城は作ってるぞ
伏見城建築の時は並行して大和街道を開いたり、宇治川・淀川を改修して
伏見〜大坂の陸路・水路の整備を行ってる。
名護屋城の時は名護屋城〜大坂・京に伝馬・飛脚を整備したり、海路の整備を行ってる。
御土居も洪水対策を兼ねたものだし、このほぼ同時期に淀川の改修も始まってる。
とそれぞれ必要な大工事を並行して進めており、優先順位を考えて関東の交通整備を
後回しにしただけだろう、何も無理して全て同時並行にやる必要もないしね。
372 :
名無しの雑兵:2006/07/26(水) 07:21:45 ID:q2litXjZ
家康は街道整備、築城同時に行っています。
まあ、これは秀吉が朝鮮出兵していたかもしれませんが、それでも家康が関東大名の頃は築城せず、領国の開発に専念していたのに比べると、と私は思います。
>>372 だから秀吉も街道整備と築城を同時にやってるって、それが関東の交通整備じゃないだけ。
それに当時天下人の秀吉と今だ大名に過ぎなかった家康を、
>築城せず、領国の開発に専念していた、という基準で比べても意味無いだろ、
家康も天下取った後は築城と街道整備を同時に行ってるし。
既に否定されてるのに秀吉は街道整備やってないって言い張って、
どうしても「秀吉はやってない・家康はやってる」の形式に持っていきたいみたいだけど、
論理破綻してるよアンタ。
とりあえず皆スレタイを声に出して。
別に家康秀吉どっちが優秀かなんて興味ないスレなんだから。
もっと言えば家康が優秀だから将軍が偉いって理論は100%ありえないからさ。
375 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 14:41:33 ID:q2litXjZ
373
秀吉は全国規模でみないと家康が将軍以後、全国規模レベルで開発したんだし
>>375 家康も五街道整備も関東中心の街道整備、
秀吉の大和・紀州・山陽道の整備も関西・畿内中心の街道整備、
秀吉の街道整備が全国的でないなら家康の街道整備も全国的とは言えない。
また秀吉も関所撤廃や一里塚等の政策を全国的に行っており、
普通に全国規模での交通政策も行ってます。
つかほんとうざいぞ優劣論者。秀吉か家康、どっちが優秀とかどっちが上手く政治やったか
なんて他スレでやっておくれでないかえ。
378 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 15:50:56 ID:5x6KaDV8
同じ幕府といっても、鎌倉室町と江戸では、
機構が全然違う。家康の政治はすべて秀吉の反面を学んだうえのこと。
かりに秀吉幕府ができたとしても、それは統治機構としては
関白政所とあまりかわらんかっただろう。
優劣論っつーか史実を捻じ曲げてでも家康>秀吉としたい臭が漂っている
おまいさんは秀吉>家康にしたいんだね
いいから他スレ池。どっちも優秀な部分はありそうでない部分もあった。それだけの事だ。
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 16:54:32 ID:6KPKcq8/
政策についての議論もいいんじゃないか?
スレタイ通り議論していたら前みたいにレベル
の低いスレになってしまう。
関白の"か"の字も出なくなった末期スレ
385 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 17:28:59 ID:vz7vYzFI
何故秀吉は将軍にならずに関白になったのか?
その時の気分次第でなった
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 17:33:11 ID:UDa4Q0Ra
何故さだまさしは将軍宣言せずに関白宣言したのか
亭主将軍だと何となくエロいから
388 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 18:54:46 ID:YJKnlyZ+
伝統と権威の強い方を選んだことになる。
389 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 19:45:08 ID:jWDyPPEC
何故さだまさしは天皇宣言せずに関白宣言したのか
390 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 21:02:31 ID:5x6KaDV8
カカアは天下とればいいだけだが、
亭主はちゃんとしたポストにつかないと
うちに入れてもらえないから
391 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/27(木) 00:11:42 ID:up8NiYa/
内大臣からいきなり越官で関白?
夜の暴れん坊将軍
家康厨が完膚なくたたかれたので
このすれは終了です。
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 09:43:19 ID:CRRjW18Z
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 12:35:58 ID:P3pNj3XO
>>393 やっぱり関白>将軍→秀吉>家康と言うこじつけ
だったんだ、語るに落ちたな、まあ結論を言うと
農民出身で無教養の秀吉が小難しいことはわから
ないってとこだな、
ホント秀吉厨のアホさやダブスタが非常にわかる
スレでした。
まだいたのかおまいは。すごいな。
必死な人を見た
それは兎も角として秀吉って関白って地位を最大限に活かしたのかな?
史上初の武力も持った実力関白でしょ?
なら天皇を大阪に迎えるか、豊臣家が御所を乗っ取って天皇を他者から隠し
実質天皇として国を牛耳る余地が有ったんじゃないかと思うんだが。
裏では非難されないようにちゃんと天皇は保護して裕福な暮らしをさせてさ。
でも関白の天皇の代理って立場を曲解して朝廷の実権を完全に豊臣で握るってのは
あまり良い手ではないのかねぇ?
国は既に牛耳ってるし、平民が人臣一位になってる時点で朝廷も牛耳ってる。
そこまでやってから更に天皇を隠す効果なんて、正直何が+なのかよくわからんのだが。
他家が豊臣家に対して害意を持った時にそのための大義名分として
将軍を望んだり、豊臣家から関白を奪おうとか豊臣攻めの勅旨を欲しがっても
豊臣が天皇を手中にしていれば、防げるし、天皇と一体なら攻める方は大義名分に苦労すると
思うんだが。
んーと、武力あっての権威ってのはこのスレの統一見解だと思うんだが。
実際関白って位は意味からして天皇と一心同体。権威としては最高潮。
それでも「たかが将軍(敢えてだけど)」に滅ぼされるまでに至ったのは、天皇なんて
所詮権威発行機関であってそれ以上でもそれ以下でも無い証明ではないかな、と。
ていうか、豊臣討伐の詔ってそもそも下ってないと思ったが・・・違ったっけ?
勅旨に豊臣討伐のは出ていなかったとは思います。
ただ、徳川家がつぶれた時の様子とかが頭にあり、
天皇を完全に押さえていればそれも防げるかなと。
徳川の末路に関しては天皇が蟻の一穴になっているのではないでしょうか。
で完全に抱き込んで下に押さえこんでしまえばそれも防げるかなと。
それでもダメだったかもしれませんが、その体制なら徳川に将軍すら渡さないで
いられたのではとも思います。
そこら辺はね、「朝廷が身の危険を感じた」時点でアウト。だと思うよ>顕職拒否。
どんなに抱き込んでいても、それこそ天皇も代替可能なんだよね。
天皇or皇族っての侵すべからずって事実は歴史上でもあんまなくて、暗殺や謀殺されてる回数結構洒落んならん。
結局権威を凌駕する権力が生まれたら、政権交代は嫌が応でも発生する。
それを拒否した皇族は、悲惨な末路辿ってるパターン多し。
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 20:03:40 ID:CRRjW18Z
>>398 >豊臣家が御所を乗っ取って天皇を他者から隠し
「天皇」の利用価値って「朝廷」があってこそじゃないの?
「朝廷」を解体しちゃったら「天皇」の利用価値なんてほとんどゼロにならない?
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 20:08:11 ID:8v3PCV4J
ていうか天皇っていうのはお前みたいな無教養なヤツが考えるほど甘くない
一般人は天皇にはなれないんだよ
406 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 20:33:35 ID:SfGy3I8E
>>389 さだまさしは関白失格という続編の歌も出している。
豊臣家が武家関白という実力を完全に生かしたいのなら
天皇に娘を立后して外戚になること数代位して
逆に皇族の姫を正室に迎えて豊家の嫡流に皇族の血を入れる
という閨閥戦略
そして江戸幕府並みの武家の棟梁としての統率力を併せ持てればいい
多分無理だろうが・・
武家関白ってのがもったいなくてつい思いつきで発言したが
少し考えが浅すぎたのかも知れない。
朝廷は解体じゃなく豊臣が一体化して吸収すると考えていたけど、
周りから見たら実質解体なのかもしれないし、細かいところで考えが浅すぎたかもね。
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 00:18:09 ID:zIztGITT
天皇の話にになるとすぐ天皇厨が出てくるよな
そう思うのは、お前自身の問題
中世の天皇に対する認識を知らなすぎる
関白至上主義者の得意分野である大河ドラマでは
秀吉は征夷大将軍になれなかったので関白になっ
たと言っていたぞ。
後の人間からしてああだこうだ言えても
当時の人間も同じコトを思い至ったかはどうかは判らんな
コロンブスの卵だ
412 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/02(水) 10:03:00 ID:dUNbnfIj
>>410 あのドラマはいささか創作多すぎる。
まあ、歴史詳しい人間相手に作って無いから
あれでいいのかもしれんが。
大河ドラマソースオモシロス
しかし秀吉の政権って、頭は関白だけど組織は室町幕府とほとんど変わらないんだよね。
戦乱を終結させて急造で出来た政権とはいえ、行政組織としては江戸幕府に及ぶべくもない未発達さ。
正直あれじゃあ秀吉が居なくなれば直ぐ壊れるよなあ、って思うよ。
蓋空ければ、戦国期の土豪寄合な大名と変わんないからねえ>豊臣政権
まあ徳川も旗本連中を完全に官僚化させるには結構時間かかってるから
家臣少ねえ+秀吉のガキ生まれねえ&有能な弟あぼーん&親戚チソカス、ではどうしようも無かったかも。
徳川は最低でも三河譜代がいたからな
子飼いの奉行を大老(この用語も正確には違うそうだが)の上に置けなかったからな
徳川幕府みたいに1万石程度の大目付でも大大名を監視できるようなシステムを作っておくのは難しかったんだろう…
419 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/03(木) 00:28:28 ID:B85o1w01
結局、将軍か関白かはあまり関係なく秀吉政権の限界はあったわけで
将軍だったらちゃんとした政権になったなんていうのは
家康厨の戯言にすぎない。
領国経営経験は長浜時代ぐらいだし、直参武将も素姓怪しき連中ばかり。
官僚機構の整備は秀吉には荷が重すぎたんだろう。
420 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/03(木) 00:51:44 ID:8cHb9Wgd
>>419 将軍になったらちゃんとした政権になったなんて意見はあったか?
幕府の方がやりやすいだろうって話はあったと思うが。
まぁ、秀吉の失敗は要するに高い意識がなかったからだろう。
秀吉の一生を見ていると、公的感覚が見受けられない。
ただ、欲望のままに突っ走っている。これだと、天下を取れば天下を
自分の欲望のために消費するだけであって、そういう政権はすぐに
壊れるよ。
421 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/03(木) 01:03:52 ID:TyxXIRwH
江戸時代は
1万石以下は旗本
1万石以上は大名
幕府直属の旗本は直参旗本と呼んだ
>>420 そういえば秀吉は、民衆のための公共事業というものをほとんどやってないな。
道頓堀ですら徳川時代に入ってからだし。
軍事的インフラは沢山作ってるけど、基本的に「民生」と言うもののわからない人だったんじゃ
ないかな、秀吉って。
消防隔離スレ
>>422 関東抑えて、さあやるべって時に実務家の弟があぼーんしたからねえ。
三成とか長盛とか民政家に化けそうなのは、まだケツ青かったし。
実際三成の知行していた佐和山は発展著しかった訳だし、国内発展の芽はあったとは思う。
ただ実績が大きくなる前にパトロンの秀吉が壊れちまった。
すべてにおいて急激で、また後半はタイミングも悪かったのが豊臣一族だわな。
ほんと日本を一旦一つに纏めるためだけに生まれてきた政権だなあと思う。
>>422 関所撤廃・淀川改修・宇治川と巨椋池の堤防付け替え・太閤下水とか色々やってる、
伏見築城も大和街道開発と相まって経済を賑わしたし。
まあ流石に民衆の為だけにとはいかないけどね、
そういう時代でも無いし、家康もそこまではやってない。
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/06(日) 01:02:31 ID:XclGE0Sr
秀長は戦略にはたけていたが、実務家ではなかったと思う。
むしろ実務を利休に頼り切っていたのがまずかったかもね。
まあ秀吉自体が「織田家の軍務官僚」以上の存在ではなかったわけだしなあ。
「治世」をトータルに考えるという部分では、他の独立した大名とは思考の部分で随分差があるでしょうし。
そのためには有能なブレーンが必要だったわけですよ
>>426 秀吉が戦略家系で秀長が実務家系と思うけど。
秀長の事績は実務家の鏡みたいなもんなんだが。
つか実務を利休にまかせっきりってのが初耳だ。
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/09(水) 23:34:31 ID:/Ju1k4DW
後陽成帝から征夷大将軍に推されたと「日本の100人」に
書いてあったけどなにがソースなんだろう。
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/20(日) 23:19:02 ID:C/9wh//x
【謙信最強は創作】
謙信が戦国最強の武将(軍神)とされたのは、江戸時代の創作ですね。
武田の甲州流兵学が幕府公認となったので、紀州徳川家(頼宣公)が
上杉流兵学(軍記書)を宇佐美定祐に作らせたというのが最新の学説です。
臼井城攻めの失敗など謙信が敗北した合戦も、複数の史料で明らかになっています。
※謙信自身が敗北を認めている書状↓
晴信年(念)を入れ、いかにも堅固ニしらわれ候間、落居さうなくつき堅候、
併馬を為寄候上者、善悪ニ不及候間、無ニセめへきそうふんにて、当月七日より
取詰候ヘ共、(中略)佐(佐竹)・宮(宇都宮)を始、弓矢かいなくわたられ候、
房州(里見)・太田いくさにまけ(第二次国府台合戦)候時よりも、たゝいまきうくつなんきニ候、
とかくこのたひハかた〜〜にあふへき事いかんなるへく候やと、心ほそく候間、
早くはりをやるへきために一昨夜ハちゝんをやり候ヘは、めのまえの者ともはらを
たて候て、うたてしかり候、これ又よきなく候へ共、さゆうなくゆたん候へ者こと
のひ候てきうしくちおしく候(中略)
かいほつ又ろう人のうちに一両人ておい候、さセるきなくうすてニ候、返々
いつもよりかへり(帰り)たく候間、このたひハおつと(落ち度)あるへく候やと
心ほそく候、
永禄七年三月十三日 虎(花王)
[三洲寺社古文書]
【上杉家の歴史】
上杉謙信が小田城を攻め落とした時、小田城下がたちまちにして奴隷市場に早変わりし、上杉謙信自身から差配して人の売り買いを行った。
奴隷の値段はひとりあたり20〜30銭の安さだった。
1561年(永禄4年)、謙信は関東管領の就任式で忍城城主成田長泰の非礼に激昂し、顔面を扇子で打ちつけた。
諸将の面前で辱めを受けた成田長泰は直ちに兵を引きいて帰城してしまった。
原因は諸将が下馬拝跪する中、成田長泰のみが馬上から会釈をしたためであったが、成田氏は藤原氏の流れをくむ名家で武家棟梁の源義家にも馬上から会釈を許された家柄であった。
だが、謙信は無知でこの事を知らなかった。
この事件によって関東諸将の謙信への反感が急速に高まり、以後の関東侵出の大きな足かせとなった。
上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
臼井城攻撃に失敗した謙信は
信玄に箕輪城を奪われ氏康に金山城を取り込まれてしまい
とうとう厩橋城までもが謙信の手からこぼれ落ちた
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである
本能寺の変の直前には、柴田勝家が率いる方面軍に越中の城は次々と落とされ、
信濃からは森が、三国峠からは滝川がと、三方から侵略を受けて防戦も無理な状態だった。
新発田氏の反乱で越後国内はボロボロ。 反乱を鎮圧する力さえも残っていなかった。
景勝自身も死を覚悟しており、本能寺の変が無ければ上杉家は数ヶ月後に滅亡していただろう。
特に将軍にこだわっていたわけではなかったから、だろうな。
なってみようかと少し働きかけてみたら、そんなに簡単でもなかったので、
どうせなら、もっと上の関白にしようと思い直し、それがうまくいった、
ということだろう。
秀吉らしいし、既に実権がなくなっていた関白を、武力を持った関白という
新しいものに再生したあたりは、頼朝が古代の将軍を別物に再生したのと
似ている。
逆に、家康の方は、将軍になる時点で代わりに関白にもなれたろうが、
そうしてしまうと、豊臣との直接対決になってしまうので、将軍の方が、
簡単・安全で効果的なボディブローだった、ということかと。
教科書とかが、古代から徳川までの将軍や幕府の中身を区別せずに、単語だけ
並べる限りは、
>>1みたいな疑問は、出てくるだろうな…
政権構想の差
公武合体政治か幕府政治の差だけだろ
アフォが新語を作り始めた模様
「源氏長者」って通称じゃなくてちゃんとした官職だったのか
知らんかったわ
438 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/23(水) 23:23:28 ID:+yIhdPn1
秀次なきあと、関白を空位にしたのは明らかに失敗だった。
439 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/26(土) 21:06:05 ID:oPeNFUrq
何故秀吉は将軍になれず関白になったのか?
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/01(金) 17:13:48 ID:lmXrtZCP
秀吉のやったことって、信長路線の踏襲が多いから、信長の構想がある程度見え隠れしているんじゃないか。
自ら幕府を潰した信長が、己の天下でまた幕府を造る気だったとは考えにくい。
天皇家を廃止させる気だったとの説もある信長なら、どういう国家を築いていただろう。
義昭の猶子になろうとして断られたから仕方なく関白になった、ってのは新井白石が言い出したことらしいじゃん
かなりの確立で嘘だと思う
>>441 足利尊氏は鎌倉幕府を滅ぼして室町幕府を作りましたよ。
>>441 信長の存命中には天皇制を廃止しようという動きはなかったけど
抱き込んだ皇太子に早く譲位させるように正親町天皇や朝廷に圧力をかけていた。
この時点ではまだ「天皇を有効活用しよう」という意図が見える。
>>442 ウソにしてもかなり無理があるからその説は定着しなかったんだろうね
・将軍になろうとしたとは思えないしなろうと思えばなれたはず。
・将軍職よりも関白や太政大臣のほうが高位なので
「低い地位に就けないから仕方なく高位に就いた」というのはありえない。
現代風に言い換えると「防衛庁長官になれないから総理大臣になった」と言ってるのと同じ。
・別に源氏の名家でもない徳川(たぶん平氏)が誰の養子にもならず将軍職に就いてる。
・将軍職は源氏の武士じゃなくても公家でも就ける。
>>443 で?
宿題済んだか?
446 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 01:46:58 ID:K7QtUqvu
>>444 将軍が防衛庁長官で関白が首相?はあ?物凄い歴史
音痴だな、さすがは秀吉厨クオリティーとでも言う
きか、それに秀吉が将軍になれると思ってるとは…
携帯から死に物狂いの反論も、中身なしw
>>446 秀吉が将軍になれない理由って、なんかあんの?
将軍にならなかったお陰で明治時代に豊国神社が再興された
秀吉も家康も予期せぬ意外な展開だったなw
>>448 武家支配者として必要な東国支配に失敗したから、と言う説が結構昔から言われているな。
家康上阪まで三河以東は全くの非豊臣圏。だから勢力圏とは関係なく、また摂関政治という
前例を持つ、朝廷の外で事実上の政府を作る事のできる関白の地位を望んだ、という説。
実際足利尊氏も、京都支配した時点では将軍にはなれていない。鎌倉を押さえて
はじめて征夷大将軍に任命されている。
成文化された条件ではないにせよ、当時の人たちに「常識」としてそういう意識があったとも
考えられる。
451 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 05:21:11 ID:wH6cHvmj
>>450 その説は聞いたことがあるがな・・
漏れは関白選択ってのは恐らく信長が選択していたことだろうと思う。
秀吉というのは信長の政権構想を猿真似していた点が多いからな。
大陸出兵しかり
大阪城建設しかり
>>武家支配者として必要な東国支配に失敗したから
であるなら小田原征伐や奥羽仕置き成功した時点で将軍職を豊臣の息のかかった
ものに就任させて東国支配の成功をデモンストレーションしてもよかったんではないか
とも思う。
そういうこともないし恐らく東国支配とは関係なく最初から征夷大将軍は
視野になかったんじゃないか。
>>450 それは俗説なんだよね。
頼朝以前の木曾義仲にしても、頼朝以後の南北朝期の親王将軍にしても、
東国を押さえてなくても就任している。
そもそもの勘違いは、当時は民主主義の国家ではないのだから、将軍や関白
などの役職につけば支配者になれるということではないということ。
足利義満以前の征夷大将軍は、官職上はまさに防衛庁長官クラスにすぎない。
武力によって実質的な支配者になっただけであり、権威をつけるために、
適当な官職も利用しただけ。
徳川幕府は、客観的に見れば、軍事クーデターによる軍事政権が250年以上
続いたというもの。
秀吉も軍事政権である点は同じだが、関白として執政したので、正統性の
イメージは、後の江戸幕府よりは本来はあったはず。
ちなみに、明治政府も、軍事クーデターによる軍事政権。
教科書は、日韓・日中関係への配慮よりも、まず、このへんを書き直す
べきかと思う。
>>452 将軍になる事と、将軍になって幕府を開く事は別だぞ。ただ単に将軍になるだけじゃ
何も解決しないわけだし、秀吉の場合。
つーか、君はクーデターの定義がおかしい。クーデターとは何か説明してみて?
クーデターと言うなら秀吉の織田権力簒奪は正真正銘の軍事クーデターだし。
秀吉死去後の豊臣家は関白を出していないただの名誉一家。政府を主宰していない以上
クーデターの定義は当たらない。近代政府で言えば大統領が死んで、その下にいた首相が
大統領へと格上げした事を、君はクーデターーと呼んでいるような物だ。
明治維新も徳川慶喜の自主的な「大政奉還」によって確立している。潜在的主権者とみなされ
征夷大将軍の任命元でもある天皇へと権力を返還した訳だ。形式的にも何も間違っていない。
まあ、君の史観は一昔前にはやった日本史暗黒史観の一形式で、歴代政権すべてに
難癖をつけて「非合法」だと言い、合法的な政府は人民主権のものだけ!→社会主義政府の設立を!
ってプロパガンダの一部だよ。君が意識しているかどうかはともかくとしてね。
>>450 その説のダメな所は
「将軍になりたかったら関東を支配してから改めて将軍になればよかったじゃん」
と言われると何も言い返せない所
>>454 東国に入る前に、先に関白になっちゃったからな。関白になった後改めて将軍になるのは、
官位的には降格人事だし。
当時の状況として、公的な政府形成を急がざるをえなかったんじゃないか、とも考えられるな。
秀吉的には。なんせ関白になるまでは、立場的には織田家の一武将のままなわけで。
>>455 そんなに将軍になりたければ関白と兼任すればいいんじゃねえの?
源頼実とか足利義満とか、征夷大将軍とそれ以上の高位の官職を兼任した例は
ありますが。
458 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/02(土) 21:14:27 ID:wH6cHvmj
>>455 秀吉本人がならなくとも
弟の秀長とか後継者候補の秀次という人選もあったと思うのだが・・
451でも言わせて貰ったが
小田原征伐や奥羽仕置き成功した時点で将軍職を豊臣の息のかかった
ものに就任させて東国支配の成功をデモンストレーションしてもよかったんではないか
ということになる。
ID:sauR9TqCさんも「そういう説があるよ」と紹介してくれてるだけで、
秀吉がマジで征夷大将軍になれないから関白になったと思ってるわけじゃないでしょ
家康も内大臣に叙任した後に征夷大将軍になってるわけで、
秀吉が関白になった後に征夷大将軍になっても誰も降格人事だとは思わないんじゃないの
秀吉は征夷大将軍というものにどういう認識をもっていたんだろうか
>>460 内大臣と征夷大将軍の兼任は前例があるけど、関白と征夷大将軍の兼任は前例がない(義満が
なりかけたけど)。こういうのは基本的には前例主義だから。
>>461 足利義昭を上洛させて将軍にした直後ぐらいの頃に
明智と共に秀吉が義昭の世話役をやらされてる
それと、武士には将軍の命令は有効だが
公家や宗教家や一揆衆などにはまったく無意味だった事を
信長と共に嫌というほど思い知らされてる
家職や家格の固定化という言葉で済んでしまう
話なんだけどね、
>>462 そんな事言ったら武家が関白になった前例だってないわいな。
今までのをまとめると
・征夷大将軍は源氏しかなれない → そんな縛りはない。もっと言えば武家じゃなくてもなれる。
・関白は藤氏しかなれない → マジ。
・位では関白>将軍
血筋が悪いからなれない→藤原氏の養子になってる時点で名目は源氏より上。この時代純粋な親子かどうかは
余り問題にならないのは周知の通り。
源氏しか将軍にはなれない→んなこたぁない。足利以前はざらにいたし、その後も自称平氏な信長が打診受けてる。
・秀吉が関白に就任する前は関白征夷大将軍ともに権威は失墜
・東国を支配してないから将軍になれない→関東を支配してから改めて将軍になればよかった
兼任若しくは一族に
>>468 太政大臣と関白はほぼ同格と考えていいんじゃないかな?
>>469 同格だろうと別物だよ。
「前例」とか言う話をするのに他の位を持ってきてどうする?
>>469 たしかに関白と太政大臣は別物ではあるが清盛は
安徳天皇の外祖父にあたるわけだから関白になれ
ないわけではないね。
>>471 ところがすでにその時代には外戚の閑院家は摂関職には就けなかった。
摂関家は近衛家に固定されてしまっていた。当然平家は摂関にはなれなかった。
473 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 01:36:24 ID:jL0W6dN3
>>472 無知ですまん、ということは秀吉の時代も将軍家
は足利家で固定されていたということだよね?
つまり足利家ではなく近衛家の養子になったから
秀吉は将軍ではなく関白になったと、
>>473 秀吉の時代はもう実力さえあれば何にでもなれるよ。
格式だの前例だの言っていられるご時世じゃあない。
だから信長に三職推任が来たのであって。
>>475 そんなことはない、秀吉でさえ近衛家の養子になり
関白になっているわけで先例や慣習を全く無視して
いるわけではない、三職推任については、朝廷から
言いだしたことかどうかもわからんし、実際信長は
どれにも就いていないわけでなんともいえない。
私見としては当時信長が三職に就くことには抵抗
があったと思う、
>>476 信長が朝廷の要職に就かなかったり冠位を返上してるのは
正親町天皇への無言の圧力なんだよ
朝廷は信長に擦り寄る→信長は突き放す、というかけひきの構図
戦国時代が実力主義の世の中って、そんなのは神話に過ぎない。
頑として血統、出自によって世間は動いていた。一見実力主義に見えるのは、その実力を持ったものが
血統や出自の体制に「擦り寄った」ため。信長が何のために家計図を何度も書き直しているか考えてみるといい。
世の中実力だけじゃどうにもならない事はいくらでもあるんだよ。戦国時代ならなおさら。
例えば100年戦争で、フランスの4分の3を支配したイギリス王は、何故フランス王を名乗れなかったのか?
チンギスハン死後のモンゴル帝国で、最大の版図と実力を持ったフラグは、何故ハーン位に登れなかったのか?
現代の価値観で過去を見ようとすると、必ず間違える。
このバカは何で独り言を言っているんだろう?
>>479 君みたいな聞きかじりの知識を、さも自分の意見のように自慢げに語る小僧に注意するためさw
フラグに関していえば実力不足と地理的要因のせいだろ
このバカは何で独り言を言っているんだろう?
上の方にある将軍家を足利家で固定するなんてことが事実として
存在してるのか?
>>476 全く無視することはなくとも、どうとでも理由付けは出来る。
そうでないなら家康だって征夷大将軍になれなくなってしまう。
>>483 ないね。
>>484 >どうとでも
先例や慣習を無視しないでどのような手段で?
というか
>>478があなたよりもはるかにまともな
意見を書いているのだが、
家康については、源氏の長者になっていることを
お忘れなく、
>ないね
二百年以上、十五代も続いているのだが、
将軍に限らずほとんどの官職が家職として世襲さ
れていた、たとえば神祇伯は伯王家、左大史は官
務家などなど
>家康については、源氏の長者になっていることを
>お忘れなく、
だったら秀吉もなればよかったじゃん
「将軍になりたくてなれなかった派」は、
屁理屈こねまわして「ああいえばこういう」状態になってるよ
>>485 氏の長者だって近衛家への養子だって、
実力者が実力でどうとでもした例に過ぎないじゃあないか。
前例主義を厳密に行うなら、農民か下級武士出身者が藤原家の養子になった前例があるのか?
とか、徳川家が氏の長者になった例があるのか?とかいう話になって、
前と違うことは何も出来ないことになる。
大体、三職推任は朝廷側と信長側どちらが言い出したかはともかく、実際に行われている。
家系が大事だから関白或いは将軍になれないなんて話はない。
家系が問題ならその家系をどうにかすればいいだけのこと、
実際秀吉だって家康だってそうしているじゃあないか。
そもそも氏の長者と征夷大将軍は直接関係はない、
将軍で氏の長者になったのは足利義満が最初でそれ以前は違ったのだから、
氏の長者なら将軍になれるというわけでも、
氏の長者にならなければ将軍になれないというわけでもない。
>>488 そんなことは知っている、将軍になるためには源氏
の正統でなければならなかったが家康は源氏の長者
になることによりその条件を満たそうとした。
徳川家が源氏の長者になった例はないというが当時
家康は内大臣であり源氏筆頭の官職にあるのだから
なんら問題ない、
>>489 オイオイ、今更なに言ってるの?
藤原氏からも征夷大将軍は出ているし、平氏の信長も将軍に推されている。
源氏の正統でなければ将軍になれないなんてことはありませんよ。
491 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 14:06:26 ID:jL0W6dN3
家康がなるための条件を言っただけ、言葉が足り
なかったかもしれない、スマン。
>>491 氏の長者でも、源氏でもない者だって征夷大将軍になっているのだから、
家康がなるための条件にそれが入ってくるってこともないと思うが?
源氏の氏の長者であることは、それだけでも立派な権威だから手に入れたってだけで、
それが将軍になるための条件だったという話にならないだろう。
今までの話の結果をまとめると、
秀吉が将軍になりたかったという事実も将軍になれなかった理由もないので
「秀吉は将軍になれなくて関白になった」は勘違いである。
このスレの「なれなかった派」が挙げる「なれなかった理由」は
ほとんどが勘違いや事実無根の妄想であり、
仮に本当だとしたら秀吉だけでなく家康も将軍になれないという結果になる。
このスレも終了かな
で征夷大将軍になったらなんかいいことあるの?
どうせ豊臣滅亡するのには変わりないんでしょ?( ´д`)y─┛~~
秀吉厨のレスを見ると心理学の「すっぱい葡萄」と「甘いレモン」
の話を思い出してしまう、本心ではよほど秀吉が将軍になれなかっ
たことが悔しいんだね。
>>495 まず変わらない
でもその場合は家康が将軍にならずに関白か何かになっただけ
498 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/03(日) 22:46:45 ID:zazsofRh
>>497 その場合鎌倉幕府のような執権になったんじゃまいか?
秀頼を忙殺かなんかして
皇族を将軍にしちまってさw
499 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 01:40:50 ID:+7eD0k0O
天正16年に義昭が出家して将軍職を退くまで義昭が征夷大将軍だったのだから、秀吉が将軍になれるとすればそれ以降。将軍位は本人が死ぬか辞職するか天皇に解任されるまで継続でしょ?
>>499 将軍職じゃなくても任期が決まっていない役職の全てが
死ぬか辞職するか解任される以外は継続でしょうがw
501 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 02:41:38 ID:+7eD0k0O
役職じゃなく官位ねw
足利将軍なんて、死ななくても解任されてるが
>>501 いや、普通、「征夷大将軍」というのは「官職」って奴だよ、
官位ってのは正何位、従何位という「位階」とあわせて「官位」という。
まあ、別に気にするようなことじゃあないが他人に注意するなら自分も気をつけたほうがいい。
で、将軍職は普通に解任できますよ。
いろんな令外官があるけど
征夷大将軍は本来は何位に相当するの?
従四位相当だったと思う
本来なら殿上人ですらない
>>505 5位からが殿上人じゃなかったかな?少納言が従5位だから
3位以上なのは公卿だったと思ふ。
4位じゃ中将とか郷や参議ぐらいか・・・
参議も令外官だった気もするが。
失礼しました、その通りです
「公卿」じゃないが正解
>>507 いえいえこちらこそ征夷大将軍について教えて頂きありがとうございます。
509 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 11:25:26 ID:+7eD0k0O
信長に追放されたけど、足利義昭は天皇に解任されてないんじゃない?
自ら辞職するまで征夷大将軍だったとちがう?
秀吉は正一位関白なのだから下の位の征夷大将軍には拘らなかったんじゃないかな。
新しい秩序、形はリサイクルだけど、を作り出そうとした秀吉。
新しい秩序を否定し、古い権威を形的には再利用した家康。
てな感じなのかな?
征夷大将軍が足利家(源氏の棟梁)の家職であった
ということが理解できない人がいまだにたくさんい
ますね、
>>511 それなら義昭の子供が引き継いでもよかったですねw
513 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 14:03:05 ID:Se7zNdlh
>>512 そうだよ、だけど誰が彼の後ろ盾になるの?すでに
幕府は存在してないし。
>>513 自分の発言が矛盾していることに気がつきませんか?
515 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 14:59:56 ID:Se7zNdlh
まさか将軍になるのに金がかからないと思ってる?
金があれば義昭の子供が将軍になれたんですかw
金将軍様マンセー
>>509 確かにまだ征夷大将軍だが、解任されればそれまで、
朝廷が時の権力者の意向を無視してまで義昭の官位を守ろうとするはずがない。
だからこそ、信長への三職推任ということも起きている。
>>511 そんな事実ないから、誰も理解してくれませんよ。
信長は、いったん足利義昭を将軍に担いだものの追放したという経緯から、
それと同じ(そんな)将軍になるつもりはなかったと思う。
秀吉も、織田政権の後継者という形だったから、同じだったのではないか。
義昭が出家して臣従してきたときは一万石めぐんでやったりしているわけで、
そんな将軍になろうとしていたとも考えにくい。
家康の場合は、反秀頼色を出さずに地位を固めたかったら、関白より将軍の
方が適当だった。
そもそも、将軍(経験者)による朝廷の外での武家政権を後世まとめて幕府と
呼ぶようになったわけだが、鎌倉、足利、徳川の3つも全然違うのだから、
関白か将軍(幕府)かという二者選択も、実はおかしい。
それぞれの武家政権はタイミングと状況に応じて適当に官職を利用しただけ。
仮に秀吉に子供がもう少しいて、唐入りの状況判断を誤らなければ、
将軍に頼らない継続的な新政権になる可能性はあった。
平清盛が頼朝を殺しておけば、鎌倉幕府は生まれず、平氏の関白政権とかの
可能性もあった。
義満、信長、家光あたりがもう少し長生きしていたら、さらに別の政権が
生まれる可能性もあった。
結果的に、たまたま継続した武家政権の3つが、将軍の権威を使ったものだっ
たため、江戸時代にまとめて幕府と呼ばれたに過ぎない。
そして結局、日本史には天皇を完全に超える革命的な政権は存在しなかった。
そのため、徳川幕府も天皇を担いだ外様藩関係に滅ぼされてしまった。
520 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 22:43:31 ID:Se7zNdlh
>>518 >そんな事実はない
二百年以上も足利家将軍職に就いているのにそんな
事実がないとはこれいかに。そうなると五摂家しか
関白になれないという事実もないということになる
だいたい当時ほとんどの官職がそれぞれの家の家業
として世襲されていたのに将軍にそれを認めないほ
うが不自然、
>>520 現に二百数十年後には他の家から将軍職が出ているじゃあないか。
その前は足利じゃあないしね。
一つ聞くけど摂関家って何どういう意味?
>>522 摂政・関白になる家柄でいいのじゃあないかい?
では将軍家はっていうことですよ。
というか、足利ではない徳川家が将軍家になり、
源氏でもない藤原氏の将軍もおり、平氏の信長も将軍に推されている事実があるのに、
何をどうすれば、征夷大将軍が足利家(源氏の棟梁)の家職なんてことになるのやら。
かつてのえらい人。
528 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/04(月) 23:14:10 ID:Se7zNdlh
>>525 秀吉の頃の話をしてるんじゃないの?それなのに
何百年も前のことを出すのはナンセンス、それを言いだしたら関白が置かれた
頃に五摂家はないし、元々の関白になるための条件
は藤原氏であることではなく天皇と外戚関係にある
こと
>>518 三職推任は織田側からの要望だぞ。朝廷が言い出したことじゃない。
>>528 秀吉の時代のつい最近の出来事である信長への三職推任は?
直ぐ後の家康の征夷大将軍任官は?
>>528 将軍職が室町期に足利家の家職になったのが事実だとして
それはいつ誰が朝廷に要請して認められたの?
できれば教授してもらえないか。史料的根拠も示してくれると
なおありがたいんだけど。
>>529 そのあたりについては色々な説があるが、一つたしかなのは
「三職推任を朝廷が認めた」ということ。
朝廷の自発意志でなく信長の要望だったとしても、朝廷は摂関家でも源氏でも
源氏長者でもない信長が「関白か太政大臣か征夷大将軍」に就くことを認めたわけだ。
533 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 00:51:58 ID:e4cIN9gT
家業と官職はまったくイコールというわけではない。
伯家とか文章家とか固定したのもあるけど、
清華でもない義満が太政大臣にもなるんだから。
>>534 そんな資料は一切ない。どう資料をつなぎ読んでも織田家の要望として京都所司代
村井貞勝から朝廷に話を持ちかけた、と、読める。
しかも話はこの段階で終わった。何故なら本能寺が起こったから。
わからなくもないが、革命家信長、と言うイメージにとらわれている人が多いね。
本能寺が起こらなければ、信長は室町体制の延長線上程度の体制を作って、それで
満足して終わってたよ。それが、個人の資質云々以上に、時代の限界って物だ。
>>535 そりゃ、君が他の史料を読んでいないってだけだろう単に。
村井から提案があったことは確かだが、それが村井個人の発想だったのか信長の
意志の伝達だったのかは史料からは不明。なので、村井の立場をどう見なすかで
学者によって分かれている。
そしてこの話はこれで終わらない。正式に信長の元に朝廷から使者が派遣されて
三職推任がもちこまれるが、この時点では信長は返答をだしていない。
つまり正式に断ったのか、それとも何かしらの官位を受けていたのか、受けたと
したら三つのうちどれか、いやいや信長は官位に興味はなくもっと他の事を考え
ていた、etcと明瞭な史料がないぶん、学者個人の信長観、朝廷観などで自説を
展開している有様。
まあ答えは永久に出ないと思うが、最低限、君がいうような展開は史料上からは
ない。
537 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 01:34:11 ID:MM9uNHdz
>>535 禿同、どちらからの要請であるかはいまだに議論が
続いてはいるが
だいたい官職は受ける側がなんらかのアクションを
起こすものであって天皇からへりくだって要請する
ものなのか?
>>535-536 実はそれの資料(晴豊日記)の原文は主語が限りなく省略して書かれていて
どういう意味なのか専門家の中でも解釈が分かれてるんだよ
>>536のほうが一般的で常識的な意見
>>537 信長の場合は早く朝廷の組織の中に組み込まないと
朝廷そのものの存続がヤバいんじゃないかという事があるから
540 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 01:48:03 ID:jcPq2aGH
流れ読まずにすまんが、一つ聞きたいことがある。
関白にしても将軍にしても、その官位は授与された人が勝手に扱えたの?
家康は朝廷から将軍職を授与された後、すぐ辞めて息子秀康に譲ったよね?
その後も徳川家は先代の将軍が亡くなった後は代々息子や親族に
ダイレクトで受け継がれてるけど(足利もか)将軍になるのは朝廷の信任を
受けなきゃならないけど、いったん将軍になったら誰に譲るとかは完全に
本人が決められるのかな?
それとも形式的には、足利家や徳川家は、現将軍が亡くなった後いったん
空席になって、改めて意中の人間に授与するの?
どっちにしろ当時の権力者の意思が優先されるのだから、たとえ朝廷に
任命権があっても、完全に形式的なものだろうけど、気になったので質問しました。
後任を推薦する権限ぐらい前任者にはある
つーか秀康が征夷大将軍って、オイ
>>540 本当にバカだなお前は
家康が秀忠に将軍職を譲渡できるわけがないだろ
いちいち上京して天皇に任命してもらってる
天皇にしても朝廷にしてもわざわざ戦乱の世に戻したいわけじゃないから
家康を将軍にした後に次は秀頼を将軍にするようなアホな事はしない
んなもん常識だからいちいち聞くなよハゲ
544 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/05(火) 04:45:46 ID:gFvBpghZ
征夷大将軍になるには源氏でなきゃだめなんだぞぉ。って朝廷から言われ
じゃ、養子にしてって足利義昭に頼んだら、やだって断られて、それで
源平藤橘以外の新しい名前で関白にしてもらっちゃった。
今で言えば政界再編って感じ?
ちょっとは過去レス読んで流れを理解してからレスしてはどうよ
秀次を殺したあと、関白を空位にしたまま政権運営を続けているとこみると
もう秀吉自身は権威、権力の名分を関白とか将軍とかにこだわなくなっていたのだろう。
ただ、将軍は子供でも任じられたが、関白はその職掌から
幼少で任じられた例がなく、秀頼に譲ることをはばかったんだろうな。
秀頼を将軍にする発想は老人ぼけの秀吉にはもうでてこなかった?
>>537 年代がでてこないんだが、朝廷から信長へ「官位についてはどうか」という要請が
あったときに、信長が自身は断って部下たちへの叙任を依頼したというのはある。
これをへりくだるというかどうかは知らんが。
信長は最終的に右大臣にまで昇るが、この昇進に関して信長からアクションしたという
記録はないが。
>>542 上京して天皇から将軍宣下を受けたのは家光まで。
それ以降は京から勅旨が江戸に下向した。
×勅旨
○勅使
>>535 お前これ系のスレに定期的に湧くよな
信長の政権構想は室町とたいして変わらないなんて「断定」してるのお前だけだぞ
>>550 断定はともかく、信長は実際自分の所に室町幕府の旧臣や官僚を大量に
抱え込んでるんだから、どんな政府になるか大体想像はつくだろ。
将軍職が世襲とかほざいてる厨はおそらく同一人物なんだろうが
ここまでしつこいと釣り目的じゃないかと疑いたくなるな。
>>551 その旧臣や官僚のほとんどは明智に組み込まれて、信長の政権中枢には全く
姿が見られないのだが。
>>552 おまえ大丈夫?何言ってるかわかってる?
>>551 前政権の官僚を取り込むなんて、どこでもやってることだぞ。
被支配層への配慮や朝廷へのパイプを考えればごく当然のことだし、織田家は実力重視。
逆に室町幕府の旧臣や官僚を完全に排除するほうが不自然だ。
たったそれだけの根拠しかないのに、信長の政権構想が室町幕府と同程度とするだなんて
ほとんどの人は納得しがたいと思う。現にそんなトンデモ説を唱えてる学者がどれだけいるんだ?
確かに考古学は文献の隙間を想像で補うことも必要だが、君のように妄想で覆い隠しちゃいけない。
天正3年 従三位、権大納言兼右近衛大将に就任
天正4年 正三位、内大臣に就任
天正5年 従二位、右大臣に就任
天正6年 正二位、右大臣と右近衛大将も辞職
天正9年 左大臣に昇進する動きがあったが辞退
天正10年 三職推任の勅旨を無返答のまま返してる
信長が本能寺で倒れなかったらどんな政権体制を構築したかは妄想のしがいがあるんだけど
そのへんをうかがわせる史料とか記述は存在してるの?
>>557 織田家の旧官僚層を実質受け継いだ秀吉の政権があんな形だから、だいたい
ああいう感じになった思っていいんじゃない?少なくとも江戸幕府みたいなシステマチックな
機構になはならかったとは思うが。
天正6年の、正二位をもらった上で右大臣と右大将を辞職の時に
正式なコメントが残ってる
「私はまだ天下統一の事業を完了していない。
完了したら改めて就任させていただきたい。
それよりも今は自分の部下の地位を上げていただきたい。」
その時に明智が惟任姓、丹羽が惟住姓を下賜されてる。
>>558 江戸幕府がシステマチックかどうかはともかく、組織として整備されたのは
秀忠・家光の代。
家康時代の幕府組織の後進性は昔から指摘されているが。
比較や例えならせめて同時代を持ってきてほしい。少なくとも半世紀以上は
隔てているものを持ち出されてもねえ。
家康時代の幕府は官僚の整備と言う点では直前の豊臣政権以下だもんな
>>561 家康時代の幕府って何年間でしたっけ?
大御所時代は勿論別ですよ
あれは秀忠の幕府が組織的に安定するまでの一時的なものですし
563 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 00:10:09 ID:H9rJ+PdR
結論は足利ではなく近衛家の養子になったのでその
家職である関白になった、事実としてはっきりして
いるのはそれぐらいのこと、それ以外のことはほと
んど妄想にすぎない。わざわざスレ立てるまでもない
>>563 お前の発言の100%がすでにこのスレで完全に否定されている
恥をかきたくなければ今後は
>>1から全部読んだ上で書こうな
565 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 00:32:29 ID:PDBxD72b
織田家の政権体制って秀吉のやったことから推測するに
権威と名文だけはある律令制度の王朝官位に
実力と武力のある武家大名を任官させて
武家を官位制秩序で序列化し、なおかつ実力のない朝廷という器を
名実そろった中央政権にしてしまい、
そのまま律令制の伝統にのっとった公地公民に戻していって
中央集権的絶対王政を樹立するってとこかな。
>>563ですが意見を一部撤回します、
>>565のような
まともな意見があるのなら議論する価値は十分あり
スレをたてる意味もあります。
>>564 100%? この文の言いたい部分はどこにあるの?
>>563 近衛家の養子になった結果として関白になったのではなく
関白になるために近衛家の養子になったんだろ?
目的と手段が逆じゃんか
これで「まともに議論してもらいたい」だと?
宿題でもやってろよ
>>567 そんなことわかってる、ただスレタイに対する答え
としてはこのような言い回しになっただけ、別にお
かしくないと思うが、
>>562 大御所政治は一時的なものではないでしょ、
早々に将軍を継がせる意図もあるが、同時に将軍の煩わしい儀礼から
脱却するためのものである。
実権は家康が死ぬまで持ち続けていたし、駿河で実質的には政務を取り続けてる。
秀忠の幕府組織が安定するための繋ぎなら大久保忠隣を失脚させる必要も無いし、
さっさと秀忠に実権を渡せばいいのにそんな事もしてないしね。
家職云々とほざいて無知を晒した者が出たばかりだったからね。
>>570 無知を晒していましたか、それはお恥ずかしいかぎ
りです。あなたは相当知識がお有りなのでしょうか
ら私にご教授願えますか、このスレに書いていない
ようなことをおねがいします。
>>571 将軍職を足利の家職にするのは朝廷への要請と認定がいるとおもうのですが
それはいつ誰がおこなったのか、そしてそれが記されてる史料を示してもらえませんか。
>>572 逆に質問なのですが五摂家の場合はどうなのですか?
なんだ、本人だったのか。
>>573 五摂家だって別にそれが慣例ってだけで、他は絶対になれないわけじゃあない。
藤原でも源氏でも五摂家でも足利でもない信長が、
三職推任された事実を指摘されて、一言も反論できなかったことを忘れたので?
>>574 何に対しての意見なのかよくわからないのですが
それよりあなたの知識を披露していただけませんか。
>>575 事実として家職云々なんてのはほとんど関係ないって事だよ。
知識と言うのもおこがましいただの基本的な事実の認識に過ぎないが、
そんな事も分からないようでは無知を晒して恥ずかしいよってこと。
>>575 その前に、次に書き込むのは
>>1から全部読んだ後にしてもらえませんか?
既に論破されている事をまた蒸し返す「キチガイループ」はもうたくさんです
578 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 16:08:27 ID:u9m5Q0tb
おお、ひさにのぞいてみたら、まるで学問カテみたいな高尚な論議してるじゃねえか。
所詮趣味カテだ、妄想で結構じゃないか。史料なんてだせるヤシがだせばいい。
将軍家職論が当時あったとしても、幕府が存在せず
足利一族の生き残りを誰も擁立しようとしない状況下では、
将軍任官は一応は朝廷に帰する状態だったのでは?
将軍職足利家家職説なんてここ以外ではお眼にかかったことがないんだが。
説を書き込んでる御仁は論拠を示さずに質問返しをする始末でまじめに論争するつもり
なんてないんだろうなあ。
将軍が権力持ってりゃ自分の子供に将軍職を継がせられる。
権力なくしたら退位させられるでFA。
家職とかかんけいない。
581 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/10(日) 23:18:41 ID:u9m5Q0tb
よく長久手の敗戦が征夷大将軍になれなかった原因とする
東国制覇論がよく言われるけど、よく考えてみると足利尊氏のときは
全国が北朝、南朝、旧幕と入り乱れて争ってる最中だよね
南北朝んときは各地方が旗頭の下にある程度集結してるからね。
戦国末期は各大名が主導権持ってるからまとまるはずもない。
>>581 関東と言うか、鎌倉は新田義貞から奪って関東管領は置いてた
秀吉の時代にまでなると
征夷大将軍と関東支配との関係は完全に切り離されて考えられていると思っていいだろう
関東を支配さえしていれば武家の頭領になれるわけじゃないしな
>>584 少なくとも武家支配は関係あったんじゃない?関白になった時点でも、三河以東はまるまる
非・秀吉圏だったわけだし。
>>584 切り離されているけど、朝廷は名目として東国(関東じゃないぞ、不破関以東は東国)征伐を使っていた。
実際に信長の三職推任の際には、武田征伐を引き合いに出してたからね。
>>587 関東管領・上杉謙信も武田も北条も、義昭の将軍就任には反対していませんよ。
むしろ忠誠を誓っています(表向きは)
信長にはそうではないだけのことです。
ここ官職を語るスレだよね?なんで家職の意味も知らない
奴がこんなに多いの?基本だろ、だいたいほとんどの官職
で世襲で引き継がれているのになんで将軍にかぎってむき
になって否定してるんだろう?
590 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 03:13:46 ID:N9TJ3Ctw
>>589 敢えて素人が物申します、このスレの色々なの読んだ上で。成文化された
ものが無かったからでは?日本にだって理屈はあって、理屈上可能なことを単なる
慣習で否定する根拠は朝廷にも無かったのでは?大体慣習法的にもおかしそうだし。
「あの時代、将軍職は足利家の家職のようなものになっていた」
15代も他家に渡ることなく受け継がれてきた事実を考えればこの事は動かないと思うがなあ。
足利以前も源氏が家職のようなものにしかけたが、早々と家が絶えてポシャってしまった。
足利家はその点上手く、と言えるかどうかはともかく将軍職を自家のモノとした。
しかし、別のパラダイムが出現したため職と職の持つ価値・権威とを失ってしまった。
それだけのことじゃないのか?
慣習法は」絶対と言う訳ではないから
ただそのような考えがあったのは事実にもかかわらずそれを
無視するのはどうかということ、現に関白は五摂家しかなれ
ないことを認めながら将軍にはそれを認めないのはなぜ?
これは自分が主張したい答えを導きたいがためのもの、つ
まりダブルスタンダードだと思うが
未だに「秀吉は将軍になれない」とする根拠が提示されないわけですが
その状態でしのごの屁理屈をこねられても鼻で笑うしかありませんな
>>593 お前、本当にレベル低いな。
何言っても理解できないようだな。
>>589>>592 三職推任や徳川が将軍になったという実例があるからですよ。
いい加減学習しなさい。
大体、関白だって信長の三職推任に入っている、
必ずしも五摂家でなければなれないわけじゃあない。
>>594 理解できていないのはあなただけ。
家職説は家康の将軍就任ならばなんとか理屈が通らないこともないんだけど
信長の三職推任に関してはまったくどうにもならないな。
基本的な知識の欠如とダブスタの時点で何を言って
も戯言にすぎない、まあ所詮〇〇厨の立てたスレだ
ろうから当然か。
>>597 基本的な知識の欠如というなら信長の三職推任という事実を
どう考えるのか聞かせてもらえないだろうか。
そちらはこれに関して答えられる知識を当然持ってるんでしょ。
>>598 三職推任は織田家側からの朝廷への依頼だ。「信長にこのあたりからどれか任官させてやって
くれませんかね〜?」ってリストだ。
朝廷が信長に「選んでくれ」って言ってきた物ではない。これはもうはっきりしている。
秀吉が将軍に成りたかったら
北条降伏後になればいいだけ
>>599 ではその根拠をよろしく。
たしかこの話題は上のほうでもでていたが、そこでは明確な根拠はないとされていたよな。
新しいソースでも発見されたんですか?
それから、将軍職が足利の家職になっていたのなら、なんで義昭の息子は将軍になれなかった
のかね?どうして足利の家職が徳川に移ってしまったのかね?
三職推任は京子ちゃんの論文、織豊期研究で明確に村井山城から朝廷への伺いという結論が出てる
あれ長門だったっけ?
>>599 織田側からの要請で三職推任がされたのなら
信長はその勅旨を無返答のまま返したのは何故でしょう?
理屈が通りませんがな
>>602 出てない出てないw
とうとうウソまでつくようになったかw
605 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/11(月) 13:36:56 ID:r+PBFOSn
秀吉は関白になってないよ
家臣達に対して
「世間では位(血筋、生まれ)で関白になると言うけれど、世は金(賄賂)でなったから金白じゃ」
と笑い話にしてたそうだ。
江戸幕府が成功したから生じる後世の結果論的疑問だと思う。
家康は頼朝ヲタで吾妻鏡などを読み、将軍と幕府にしか
興味がなかった。信長は中国的に新王朝を開きそうだし
秀吉は最高権力であれば特に称号に拘らなかった。
家康の征夷大将軍も決して必然ではなく好みにすぎなかった。
>>604 村井が朝廷に対して三職推任を申し出たという立花説を否定したんだっけ?後で読み返してみよう
>>606 信長を将軍につかせて自分は天皇(五の宮)の権威を利用し
信忠とは別の権力構想を描いてたんじゃないかな
みなさんにお勧め図書
源氏と日本国王 岡野友彦著 講談社現代新書
源氏じゃないと将軍になれないってのは違うけど
開幕には征夷大将軍と源氏長者がいるんでしょ
いやこの著者は、
源氏長者(公家は別として)=実質上の日本国王といってるよ
征夷大将軍は単なる軍事司令官だってさ
つまり久我家は日本国王ですかそうですか
(公家は別として)
その著書では、征夷大将軍兼源氏長者は、結果として実質的な日本国王だったと
言っているだけ。
義満以降の何代かの足利家家督はそうだったし、徳川将軍・大御所の何代かも
日本国王ではなかったが実質的にはそうだった。
ちなみに、秀吉は意図せず正式に日本国王に封じられたが、それに激怒して
戦争を再開した。
当時の秀吉は、将軍どころか正式の日本国王などにもなるつもりがなかった。
そう秀吉は
中華皇帝狙いだってさ
>>613 失敬
清盛が大輪田泊から日宋貿易を開始したときに日本国王に封ぜられたのは治天の君こと後白河だったっけな
ところでその本読んでないが「日本国王」に封ぜられた懐良親王のことについてはどう書いてあるのだろう
明が単に間違えただけとでも書いてあるのだろうか
懐良親王は残念ながら触れられてないよ
こういうことも書いてある
足利義満によって
治天の君→源氏長者に実質的な日本国王が異動したと
そういえばこんな説もある。天皇家における治天の君を継承したのは足利将軍家における室町殿だと
将軍職、淳和・奨学院別当などを義持に与えても公家衆は室町殿たる前将軍義満の裁可を仰いだことで証明
される、と。この説でいくと源氏長者そのものの優位性は特別な意味をなさなくなる
久々にアツいな。
>>618 淳和・奨学院別当と源氏長者の係りに関しても、詳述されているよ
というわけで、試しに読んでみてくださいな
>>599 信長の方から申し出たのか、
朝廷側からの自発的な意思だったのかについては議論があるが、朝廷がそれを認めた。
つまり、その三職のどれにでも就きたいものに任官すると認めたことは間違いない。
要するに朝廷にはその三職はそれぞれ何々家でなければ就けない、
などというこだわりはなかったと言うこと。
まあ何が言いたいのかというと、日本国王源道義は将軍でもなければ太政大臣でもなければ「源氏長者」で
もなく足利家家督(将軍家家督ではない)を意味する無位無冠の室町殿に与えられている事実をもって否定
せざるを得ない。そもそも源氏長者は久我が世襲していたものを義満が略奪したものであってあくまでも足
利家の箔付け以外の意味を持ってるとは思えないから。といってみたが無知な俺様のこの説が合っているか
エロイ人反論下さいw
>>616 その本には書いてなかったと思うが、懐良親王は、征夷大将軍ではなかったが
征西大将軍で、かつ西国に一定の軍事政権を確立したのだから、
それらの点では頼朝とそれほど変わらない。
むしろ日本国王に冊封されたという点では頼朝や尊氏以上。
もしこの政権が南北朝合一以降まで続いたとしたら、これも後世には「幕府」
と呼ばれ、この時代は南北朝時代ではなく、京都幕府・九州幕府共存時代とかと
呼ばれたかもしれない。
または、足利幕府は義満やそれ以降から、と呼ばれただろう。
結果的には明は間違えた。もっとも、明にとっては大した間違いでもなかった。
>>622 何を「否定せざるを得ない」のかは意味不明だが、君が書かれたとおり、
実質的な国王は、将軍や関白や源氏長者になることでなれるものではない。
実質的な権力を得た者が、それを継続し、世襲させるために、適当な官職を
利用しただけ。
江戸時代中期ころに御用学者がつくった「将軍」や「幕府」という言葉の
イメージにこだわってはいけない。
道義という名乗りが、足利将軍以下を義の字を与えていたという事実において支配を誇示していた。
という自己満足は通用しないのである。どーでもいいですよー
>>623 俺が否定してるのは
>>611のこの部分↓
>いやこの著者は、
>源氏長者(公家は別として)=実質上の日本国王といってるよ
もちろん君の言うように日本国王になるための条件はその時々によって違うだろう。文永の役の時は時宗で
なく治天の君後嵯峨院だったし明征伐の時は太閤秀吉だった。しかし上で書いてるように源氏長者のみが独
立した存在として日本国王に册封されたことはないといいたかったわけ
>>624 いやあるかも。道は足利家の入道名の通字ともいう字だしな
立花京子の支持率を日本史板で聞いてみたらどうなるか
とりあえず、三職推任の件の資料「晴豊日記」の原文はこうなのね
村井所へ参り候。安土へ女房衆御下し候て、太政大臣か関白か将軍か、
御推任候て然るべく候よし、申され候、その由、申し入れ候。
これを、
「私(晴豊)は村井の所へ行った。そこで「朝廷は安土に女房衆を派遣して
信長様を太政大臣か関白か将軍に推任するべきだ」と言われた。
この事を朝廷に知らせた。」
初めてこのように読んだのが立花京子で、
現在はこの説のほうが有力視されてる。
で、村井のすすめで朝廷が動いたにせよ朝廷が自発的に動いたにせよ
どっちにしても朝廷が信長に対して三職推任をしたのは事実なのよね。
信長は何の返答もしないまま使者を返して、2ヵ月後に本能寺で死んでるのよね。
それらを踏まえた上で秀吉の件も考えて欲しいのよね。
でも現実には秀吉は近衛家の養子になることによっ
て関白になったわけで、できるだけ慣例に従う手順
を踏んでいる。
三職推任の件と絡めていえば信長の失敗(本能寺の
変)があったためそのような方法はとらなかった(
とれなかった)とは言えないか?
だからね、何度言ったら分かるのか知らないけど
秀吉の場合もまず「関白に就任する」という目的があって
その上で便宜上やっておく「手続き」として近衛家の養子になってるのよね。
仮にそれが関白ではなく「将軍に就任する」という目的だった場合は
そのために必要な「別の手続き」を取れば済むだけの話なのよね。
事実、家康はそれで将軍になってるのよね。
信長の場合もまず最初に三職推任があるわけで、
推任後にもし信長が大臣か将軍になりたければ
そのために必要な手続きを踏めばいいだけの話なのよね。
「○○だから絶対に大臣になれない」
「○○だから絶対に将軍になれない」というような事があるのなら
三職推任もありえないわけなのよね。
なれないのに推任したら朝廷としても面目丸つぶれなのよね。
なってもいい理由は後でいくらでも作ればいいのよね。
信長に行なわれた推任は一度ではなくまず最初に「将軍になれ」と来て無視、
次に「将軍がダメなら太政大臣になれ」と言って来てそれも無視してるのよね。
理由なんか後でいくらでも作れるのよね。
だから何が言いたいわけ?現実に信長は三職のいず
れかに就任したのか、そもそも例外を一般化するの
はどうかと思うが、まあ例外とすらよべないが
だいたい信長と秀吉では立場や状況がちがいすぎる
秀吉の場合はまず織田家との関係をかえなければな
らない。
ああ、ダメだなコイツ
これだけ分かりやすく書いても全然理解出来ないらしいわ。
信長が三職に就いたかどうかはこの際問題なのではなく
朝廷から三職に推任されたという事実が重要だと言っているのに。
ヒントを出してもダメだとは思うけど
とりあえず、秀吉を関白にするという目的のために朝廷と秀吉が思いついて実行した
「秀吉が五摂家の養子になる」という手段が当時としてもどれだけ滅茶苦茶な話しだったか
よく考えてみるといいよ。
ヒマなのでアフォの話に乗ってみようかな。
>秀吉の場合はまず織田家との関係をかえなければならない。
だとすると家康も豊臣家との関係を変えないとダメなのよね。
秀吉が織田家よりも高い地位に就くために関白になったと言うのなら
家康は将軍になってる場合じゃないのよね。
豊臣家に取って代わるのなら秀吉と同じ太政大臣にならないとね。
それに秀吉は別に関白ではなく将軍になっても織田家よりも完全に格上になるのよね。
上記の家康の件も含めて考えてみれば、
秀吉が関白になった理由に「織田家との関係」は一切関係ないのが分かるよね?
ちなみに秀吉が信長と同等かそれ以上の地位が欲しければ左大臣でも良かったのよね。
信長の地位は「正二位」だけで大臣職は全部返上してるのよね。
要は、家柄や血統にかかわらず実力のある者が望む
官職につけるとでも言いたいわけ?たかがそれだけ
のことを言うために勿体ぶって人のことあほ呼ばわ
りするのか、はっきりそう書けばいいだけだろ。
それに理解していないのはお前だよ、秀吉は織田家
の陪臣、三法師を出し抜いて高官につくことは問題
がある、このケースのポイントは役職にあるのでは
なく養子になったことにある。
つっこみどころが多いので書ききれないが、まずは
実力主義に関してだが実質はともかく形式的には家
柄重視であったとでも言っておこう。
戦国時代に、官職叙任に当たって家柄や形式が重視されたのは当然のことだろう
問題は秀吉が何故征夷大将軍にならなかったのかorなれなかったのか、でしょ
自分は関白就任以前の秀吉が積極的に征夷大将軍になろうとしたという史料は知らない
秀吉が義昭の猶子になろうとしたが断られたというのは江戸時代の御用学者の記録にしかない
>>634 お前は本当にアフォだなw
相手の論旨さえも読めていないのは頭に血がのぼっているせいだろう。
要は秀吉は望めば大臣でも将軍でも何でもなれた、
そのために朝廷はいくらでも適当に正当性を作る。
という話なのだが。
638 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/12(火) 09:38:29 ID:CZHuzgij
たぶん秀吉は左府ぐらいで満足だったろうな
関白はタイミングがよかったとしかいいようがない
猶子方式で関白になれるなら自分がなったらどうだと思う菊亭晴季なる
人物の思考回路に興味が出てくるよ
ただのゴマすり野郎じゃないか>菊亭晴季
秀吉の後継者である秀次にも擦り寄って墓穴を掘る当たりちょっと気の毒だが
640 :
なんとなく:2006/09/12(火) 10:00:36 ID:PDRTsWvZ
あれでないの?将軍の権威をない形で追放しちゃったから、そのあとで将軍になると、あとあと子供が追放されないこともない市
陰口たたかれたくないから、将軍につかなかったんでないの?
家康もあとあと、関白家系たおしちゃったから、なんとなく将軍にという感じで口実あわせということで。
>>641 >>637は、なにか根本的な部分で世間とか社会とかを解っていないだけの、可愛そうな人なんだよ。
まあ、こういうのを見ると、「ゲーム脳って本当にいるんだな」って気になってしまうのもアレだが。
>秀吉は織田家
>の陪臣、三法師を出し抜いて高官につくことは問題
>がある
問題があれば関白になれないし
問題がなかったからこそ関白になれてるわけなんだけど
なんでそれが分からないの?
ついに携帯を持ち出して自演か・・・('A`)
そもそも清洲会議の時の三法師なんて官職に縁の無いただの幼児でしょ
1592年に初めて従四位下の侍従になったらしいが、その頃には秀吉は紛れもない天下人
官職でいうなら最初から立場は秀吉の方が上
実際誰でもどんな役職にも官位にもなれたんだよ。のちの時代になるに従って慣習や前例や固定観念が出来
る訳で。話はそれるが征夷大将軍に匹敵するくらい重要視された鎮守府大将軍が、南北朝の前期に消滅して
しまったのはなぜか検証するほうが、秀吉が関白云々の話より余程勉強になると思うな
そんなこと言ったら征夷大将軍だって消滅しかかってたのを
頼朝(義仲?)が復活させたのはなぜかってのもいろいろ議論があるよね
ずれレススマソ
晴豊公記についてはどっちの説にしても、
信長が関白になれると考えていた者がいるわけで
この時代に家格や家職にとらわれない考えが現われてきた
641 :名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] :2006/09/12(火) 10:05:56 ID:JGwuwyhg
>>637 はあ?なにを根拠に、ゲームの話?
642 :名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] :2006/09/12(火) 10:09:42 ID:3/1hlErG
>>641 >>637は、なにか根本的な部分で世間とか社会とかを解っていないだけの、可愛そうな人なんだよ。
まあ、こういうのを見ると、「ゲーム脳って本当にいるんだな」って気になってしまうのもアレだが。
(・∀・)ニヤニヤ
>>635 なんだ、分かっているんじゃあないか。
「実質」は力のあるものが望む官職につく、
「形式」なんてものは幾らでも整えてしまうことが出来ると、それだけのこと。
秀吉が養子になって関白になんてその典型的な例。
だから、家職だなんだという形式的なことを言い出しても、実質的には何の意味もないんだよ。
今までの慣例を覆すだけの実力者が現れれば、簡単に覆されてしまうのだから。
>>649 全然わかってないよ、そういうマルクス史観のよう
な考え方がまちがっているといいたいわけ、いやゲ
ーム脳と言うべきか?
歴史ゲームはやらないからわからないがゲームの世
界観は唯物史観なわけでしょ?
>>650 おまい「唯物史観」って意味知ってていってるのか?
反論するのは勝手にすればいいが、したこともないゲームをのこととか
自分のしらんコトを自由に書いていいわけじゃないぞ。
横からだがひとこと
>>651 悪い反論の見本だね、人のこと非難しているくせに
そのじつ中身のあることはひとつも言っていない、
>>652 中身を伴った反論を出来てないのはお前のほう
ていうかお前の側に立ってる人間など一人もいない
どう見ても
>>649の意見のほうが正しいわけだし
反論のしようがないだろう
>>652 別にバカに擁護してもらわなくてもいいし、バカな
意見でも数集めりゃ正論になるのか、最初からこの
スレ全部よめ、そして最近のと比較してみろおまえ
らのような奴がどんなだったか、わかるはずだから
訂正652ではなく653
まぁまぁ、そうエキサイトしなさんな。
yYd9k8pR氏は、中身のある持論を分かり易く展開すればいいだけだから。
その上で
>>649への反論にならなければ、それまでの話。
ちなみに
>>650以降は反論にもなっておりません。お分かりでしょうが。
ID:JGwuwyhg=ID:yYd9k8pRでしょ?
こいつのキチガイ発言はNG設定するなりして
読まないようにすればいいんじゃないか?
まあ本当にスレを読んだならばどっちが正しいかなんてまともな知性を備えた人間なら
分かることだからほっとけばいいでしょ。
「源氏と日本国王」は俺の中で読まなくてもいい本ランクに入ったことは確かだ
素直じゃないね
662 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/14(木) 23:49:19 ID:ixOjVaEu
鎮火した
663 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 00:09:06 ID:qLOTKte8
664 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 03:45:00 ID:hqdJLhZy
秀吉は将軍になるべく義昭に養子にして下さいと頼んだが
卑しい百姓のましてや憎き信長の部下だった秀吉に家督を譲るのは
屈辱すぎて断ったので、秀吉は仕方なく関白を目指したと司馬の
小説で読んだけど、あれは嘘だったのかな?
665 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 03:52:55 ID:4fSeIhuc
柴は嘘が多いって言うか、小説だから
>>664 確定的な資料が出ていない以上嘘とも本当とも言えない。
正直学問的に言えば、永久に答えの出ない問題だとは思うよ。
いや、養子になりたいと義昭に頼んだなんて事実確認できないから、
確認できないことをそうだと言い切るなら普通に嘘となるでしょう。
まあ、小説だからもともとフィクションなんだけど。
逆にいえば小説書いているだけなのに嘘つき呼ばわりされては、
司馬さんも迷惑だろう。
>>664 とりあえず、歴史的にはそのような事実は全く確認できない。
司馬の嘘はタチが悪いけどな
作為的に事実をすり替えたり、特定人物を褒めつつコケ落としたり、欠点を同情させたり
裏を返せば小説がうまいってことなんだけど
あれは司馬遼の嘘じゃなくて江戸時代の御用学者が考えた話だろ
なんでも司馬を叩けばいいって話じゃない
そういう逸話を拾って来たのは司馬
そうやって司馬は巧みに読者に好きな人物の不遇を書き、同情を誘おうとするのが上手という話
あと他人の逸話を主人公に置き換えるのも得意
司馬や八切などを「説」として歴史議論に登場させるから嘘と呼ばれるのであって
彼らがどういう立場でその「説」を発しているかを知っていれば
そんなのはわざわざ嘘だと指摘する必要のない話だけどな
米大統領に向かって「駐留米軍をすべて撤退させて、代わりに
映画スーパーマンの主役俳優ブランドン・ラウスを送りましょう」
と言ってるようなものだ
後半の例えは正直ちょっとわかんないけど、前半には大いに同意
>>668 司馬さんが性質が悪いのではなく、
小説を事実と思ってしまうことが問題なのだと思う。
面白い話を書こうとして、実際に面白くなった小説に罪はない罠
問題はそれに正面から影響受ける読者とプロバガンダに利用する周辺な訳で
「近年の研究じゃ〜って説の方が有力らしいね
司馬の書いてたことは間違っていたわけだ」
とか自慢げに書いてる人をたまに見かける
676 :
664 :2006/09/15(金) 13:42:49 ID:hqdJLhZy
なるほど。ここは勉強になるなあ
俺も小説だとは知ってたけど、義昭に養子依頼出したのは
本当の事かと騙されちったよ。だって、結構さも史実のように書くじゃん
わざわざ現地までヘリコプターやタクシーで乗りつけた話しとか
色々な文書とかで調べてる話しが小説内にも載ってて
「実地主義」とか言ってるから、漠然と事実かと思っちゃってた。
秀吉が将軍になろうとしてなかった事が分かっただけでも良かった。
675=司馬が小説に書いた内容とエッセーの内容を同一視する馬鹿
秀吉は将軍になる必要性もなかったし
将軍になるために「足利家の養子になる」という手続きは必要ないし
どうしても足利家の養子になりたいのであれば義昭以外にも足利氏はいる
家康は将軍になるために足利氏の養子になったりはしていないわけだ
679 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 16:41:42 ID:nrWfD780
家康は新田氏の末裔だからね。土民の木下某とは訳が違うんだよね。
それはそうと、豊臣の最大の失敗は何と言っても組織を構築できなかったこと。
一族が少ないってのも土民ならではの悩みだよね。
秀頼をちびっ子でも関白にしちゃえばよかったのにね。
わんぱく関白なんちゃってなw
680 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 16:43:18 ID:j7KRCWoV
↑痛いヤツが湧いてるなw
681 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 16:50:19 ID:nrWfD780
わんぱく関白はお気に召さなかった?
足利があれだけ大勢力に囲まれても生き延びた最大の理由は
将軍に就任したことで権威を得られたこと、と
大勢力のほとんどが足利一門だったってことだと思うんだよね。
豊臣一門なんてほとんど居ないでしょ?羽柴やら豊臣の名前を与えたってのはあるけど
本当の一門じゃないんだから、落ち目になったらあっさり裏切っちゃったでしょ。
金の切れ目が縁の切れ目ってのと一緒だ。一門が支えてくれないのに天下に居座ることは出来ないよ。
ま、これが本当の一門無し(一文無し)ってこったな。
682 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 17:16:16 ID:j7KRCWoV
独り言は自分のブログでやれ
なんか自演臭いな
豊臣姓を賜った大名で豊臣家を裏切ったやつって誰かいたっけ?
>>684 殆ど全部の大名
つーか、秀吉は豊臣姓を見境無く下腸し過ぎ。
山内一豊すらもらってるんだぜ?
686 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 20:29:18 ID:3LvtAt3+
下腸は下痢気味なので
豊臣を裏切った大名などほとんどいないと思うが
関が原の合戦だって徳川軍は秀頼から軍資金と兵糧をもらってる豊臣軍だし
688 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 20:52:13 ID:hqdJLhZy
漢の劉邦は死後、呂大后に子孫を隈なく殺されてったが
子供が多すぎて呂后の生存中に全てを殺害し切れず
劉氏は復活した。秀吉も劉邦並にガキが居れば
血筋が残る事はもちろん、子孫が天下獲ってたかもね。
劉邦も兄の子供たちは庶民のまま放置し(むしろ憎み)
自分のガキを次々、王としたが
秀吉は一粒種(しかも実子か怪しいし)だけじゃ
どうしようも無かったね。
689 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 21:04:47 ID:nrWfD780
>>687 いや、大坂の陣でみんな徳川側だから。
あと、三成も軍資金とか貰ってるよ。
豊臣としてはどっちが勝ってもいいようにしたんだね。
だけど、それがかえって徳川に大義名分を与えちゃったのさ。
豊臣があの時しなけりゃならなかったことは、家臣同士のいさかいを仲裁して
リーダーシップを発揮することだったんだね。だけどさ、豊臣政権ってのが
外様に政治をさせてたという構造的欠陥があった上に、秀頼が幼いってのが加わって
そんなことは無理なんだけどな。
大坂の陣の時には幕府があってみんな幕府の組織の中に組み込まれているんだし
豊臣が逆賊なんだからしょうがないじゃんか
ああおいうのは「裏切り」とは言わないわけだ
691 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/15(金) 21:36:55 ID:nrWfD780
豊臣の恩を受けて、豊臣に取り立ててもらったのに
それを捨てて徳川に走った時点で裏切りだろ。
しかも、逆賊でも何でも一門が終結して、または家臣が集結して徳川と戦えばいいじゃないか。
実際に徳川幕府が解体して徳川が逆賊になっても一緒に戦ってくれた藩はいくらでもあるぞ。
徳川なんか逆賊どころか朝敵になっちゃったのにさ。
ま、戦国時代なんだから忠義だ恩だ何だのっていうのは当たらないけどな。
徳川の傘下に入った後にも羽柴だの木下だの名乗ってた奴はあんまりいないし。
そういう意味では裏切りではないのかもしれんね。強い方に乗り換えるって風潮が当たり前の時代だし。
その下剋上やら天下は持ち回りだのを終わらせた徳川は上手かったな。
終わらすことが出来た一番の要因は、幕府の政治に外様を参加させなかったのと
三河以来の譜代が居たこと、そして何より家康の後とりがしっかり成人していて
しかも、家康が元気なうちに政権を委譲して基礎固めを行ったことだな。
しっかり過去の失敗から学んでる。
秀吉によって取り立ててもらった大名のほとんどが
関が原で死んでるか流配になってるだろ
残りは大坂の陣までに暗殺されてるか改易されてる
一体何が言いたいんだ?
別に大坂の陣の時の豊臣は逆賊でも何でもないが
どちらかというと徳川だろ>逆賊
それはお前の個人的な思い込み
徳川が逆賊なら全国の大名が大坂攻めに参加するわけがない
697 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/16(土) 04:06:12 ID:1G1P31mJ
逆賊かどうかなんてどうでもいいんだよ。
関が原直後は徳川と豊臣恩顧の連中との国力が決定的に開いてなかったから大坂攻めは出来なかった。
その後の徳川の政策で大きく差が開いたんだよな。
国替えやら取り潰しやら手伝い普請やら代替わりやらで圧倒的な実力差がついた。
んで、大坂の陣の時は徳川に手向かうだけの実力も気力もなくなっちゃった。
仮に大坂の陣の時に徳川が朝廷から朝敵の烙印を押されて征夷大将軍を剥ぎ取られたとしても何の影響もなかった。
豊臣の最大の勘違いは自分達も主家である織田家から政権を強奪しておきながら
徳川の世になったことを認めようとしなかったことにあると思う。
空気を読めなかったのは後北条と一緒だね。
徳川は政略結婚もたくさんやったけどそれと同時に分家も作って一門衆が安定して存続できるようにもしてるし。
ま、明治芋の乱の時、尾張徳川家は楽勝で寝返ったけどね。
698 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/16(土) 04:25:24 ID:JiQUCeR1
大阪城冬の陣で堀を埋められちゃったけど
講和に応じず、堀を埋めさせなければ
もっと良い勝負をしただろうね。
実際に堀を埋められて全然勝負にならない形でも幸村は家康を
あと一歩の所まで追い詰めたわけだし
もし2年間持ちこたえれば徳川家康は病死し
大阪を攻める江戸方も秀忠派と忠輝派の間に微妙な亀裂が出来るだろうし
秀忠は東北の不穏な動きや江戸でのクーデターを警戒せねばならないので
江戸を離れるわけにいかなくなる。
そうなると大阪城を攻める総大将の人選が重要だが、安心して任せられる武将も居ない。
秀忠は大阪城ごときの事で天下を失うリスクを負うわけにはいかないので
本当の和平が訪れた可能性があるかもしれませんね。
だから講談と史料を混同するなと何度言えば(ry
700 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/16(土) 07:28:34 ID:9VJv+/0x
スレの流れを読まずに独り言を書き込んでるアフォは
IDがコロコロ変わるけど同一人物か?
これだけ痛いと同一人物だと思いたいね。こんな将来を悲観させてしまう人間が複数いると思いたくは無いな。
>>699 彼は幸村と書いているからきっと混同はしていないんだよ
と言ってみる
今度は、小説厨かあ。
704 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/16(土) 14:52:22 ID:JiQUCeR1
服部半蔵が居なければ、猿飛佐助が家康を暗殺して
状況が一変しただろうな。
釣りだな釣りなんだな
え? 家康は大坂の陣で敗走して堺で討死したんじゃないの?
ちょっと整理してみようぞ 間違いは指摘しておくれ
1、鎌倉幕府の将軍は権限が全国に及ぶ完全なものではなく、また、源氏直系が絶えた後は傀儡であった
2、室町幕府の将軍は権威はあったが、諸侯の寄り合い的な政体のため、権限が弱く、また権力基盤も脆弱なものであった
これらのことにより、前時代の征夷大将軍は江戸幕府のような朝廷・公家・寺社を統括しうるものでは無かった
ただし、足利義満などのケースでは朝廷・公家・寺社などを統括した例もあった
3、寺社を武家の下に統括しようとした例はあるものの、一応の決着を見たのは織田信長の業績が大きい
4、織田信長の後を継いだ豊臣秀吉によって、朝廷・公家を取り込み、全国の武家を一元的に統括することに成功する
秀吉は朝廷を取り込み、関白に就任したが、その軍事力・経済力・権威は鎌倉幕府将軍や室町幕府将軍などよりも
強大だったのではないだろうか。朝廷・公家・寺社をどこまで統制できていたかは疑問が残るが
5、豊臣氏の支配体制から脱却するために、徳川家康は関白ではなく、征夷大将軍を選ぶ。
6、江戸幕府は禁中並びに公家諸法度や寺院諸法度、武家諸法度などを発して明文化し、朝廷、公家、寺社、武家などを一括支配することに成功する。
豊臣氏の関白の権限を受け継ぎ、さらには明文化した法度を制定することによって、江戸幕府の支配体制は確立したと言えないだろうか。
関白が将軍よりも劣っていた訳ではなく、「何故秀吉は将軍にならずに関白になったのか?」という問いに対しては
「関白の何が悪いのよ!まったくもぅ、失礼しちゃうわね、プンプン!!」とお答えするしかないのではないだろうか。
708 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/16(土) 17:07:19 ID:mRxYFdXq
なんだ
また秀吉厨の戯言か
>家康は新田氏の末裔だからね。
こういう家康厨も痛いな
結局徳川が長期で豊臣が短期ってのも、家臣の官僚化が出来たかどうかに尽きるからなあ。
法整備による規制なんて、所謂テクノクラート(純粋な意味じゃないけど)がいないと出来ない手法。
そうじゃなくてまず仮想敵国を遠くの地方にバラバラに移封して
その隣に小さな親藩を置いて監視にあたらせ
蓄えていた財産などを軍役などで大量消費させてたために
徳川と戦おうという気力も財力もなくさせたのが最大の理由だよ
秀吉の場合は完全な支配体制を構築するよりも
天下を統一するのを急いだために
大臣を中心とする大大名の共同体という不完全な組織しか作れなかった
秀頼可愛さに、秀次殺して、他の養子を他家に出したことによって。
ただでさえ少ない親類、譜代を潰してしまった事によって。
有力大大名を政権中枢に引き入れ、お互い牽制することによって、
豊臣家を支える、と言う室町幕府のような構造しか選択肢がなかったから。
秀吉の天下なんて連合よりマシって程度で
ほとんど弱体化させられてないしな、家康は大方ねじ伏せたし
秀吉は百姓出だから将軍にはなれるわけがなかった
百姓出じゃないよ
百姓だったらたとえ信長の家臣団でも足軽組頭にはなれないからね
尾張の美濃国境附近に住む土豪の子息だったはず
それに、仮に百姓出身だから将軍になれないのであれば
関白だの太政大臣だのには将軍以上になれない役職だろ
もう少し頭使って書き込め
716 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 02:46:49 ID:RkmiwQoH
豊臣家の関白型公儀でも、運と努力で、ある程度安定した武家政権はできたかもしれないが
日本という国につきまとう根本的な問題を解決できない。
おもいっきり政権の比重が西に偏りすぎてしまう。
もしくは逆に西の影響を受けない思いっきり東に偏るかしかない。
やがては、どうやっても西と東に二つの中心ができていってしまう。
宝町幕府でも鎌倉幕府でもこの問題は解決できなかったし
この問題から目をそむけた平家や建武親政は失敗
江戸幕府の場合だけ
政治の中心だけ東にもってきて
経済文化だけ西においていくという奇跡を実現できたが
秀吉の場合、どう考えても西に比重を置いてる人物だから
関白として西を治め
東は信頼できる人物を代理として治めてもらう。
これが家康なんだろう。
東の主権者は歴史的に見て将軍だけど、実際に将軍を置いたら
せっかく統一した日本が二つになるので別格の扱いだけしたってとこだろ。
717 :
明智光秀:2006/09/20(水) 02:55:07 ID:X2rJ+HBd
徳川家の御三家御三卿のように秀吉も万一を考えて
家督相続のシステム作りをしとけば良かったのにね。
でも晩年の秀吉にとっては秀頼が全てであり、秀頼が死ぬくらいだったら
他のどの親類が天下を継いでも全く無関心だったかもしれんね。
仮に小早川秀秋が天下を継ぐくらいなら、もう家康が継いだ方が
秀吉も草葉の陰で諦めもついただろうね。
本当に実力を持った天下人なんだか仕方無しとね。
>>717 豊臣政権は秀吉個人の為の政権だもの。あの機構で子々孫々存続できると思っていたら
その方がキチガイ。
719 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 04:33:56 ID:kt3638Kl
>>707 同意です。
結局、秀吉、家康、それぞれが
前代の権威の否定に都合の良い官職を利用した、ってことじゃないのかな。
派閥作っちゃってる時点で、 ですな。
>>716 そう。関白か将軍かより、西か東かの方が、結果的には意味があった。
家康は、江戸に転封されたのが実は幸運だったわけだ。
もちろん家康は、天下人と言われるようになってからも伏見や大坂で執務する
ことが多く、大御所になってからも駿府という中間地点にいて西国を担当する
など、東西のバランスに注意する努力をしたが。
ちなみに、信長、秀吉、家康は、今では同じ愛知県地域出身ということになるが、
信長・秀吉の尾張に対して、家康の三河はもともと東国意識が強かったのでは
ないかと、高橋富雄は『征夷大将軍―もう一つの国家主権』で書いている。
家康は今川の人質としての東国経験も長いしね。
そして安泰になったかに見えた江戸幕府も、最終的には、西側勢力によって
滅ぼされた。
将軍や関白に誰でも割りと簡単になれるという錯覚
をしている人が多いようだな。
723 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 00:38:10 ID:hW7F1W87
猶子方式で関白になれるなら、
足利義昭も還俗したとき、近衛家の人間として
関白になる道もあったわけだ。
自演で賛同w
本来、何の血縁関係もないのに、養子となり家督を
相続できたの?近衛氏の猶子になっても姓は変わら
ないというのが普通だと思ったのだがうろ覚えです
まん。
>>725 何で家督まで継がないといけないの?
アフォかw
何か面白いのが、湧いてるなぁ
今でも尾張と三河より
美濃と尾張、三河と遠江のが文化的に近いよ
三河は西三河東三河の間が交流乏しいから
西は微妙な力を持った自治体が多く戦国地帯
東は西より小規模ながら豊橋でまとまってる感じ
尾張と三河は仲悪い。
まあ、秀吉の関白就任って、実際はここで議論するような事じゃなくて、たまたま出来た
偶然の産物なんだろうな。
織田家を超えた立場での政府形成を考えてた秀吉が、将軍はまだ義昭が生きてるって言われて
さてどうしたものかと思ってたところに、近衛前久あたりが「そう言えば関白があいてますけど
どうでっしゃろか?昔摂関政治ちゅうもんがありましてな〜」みたいな会話があって、じゃあそれで
って事になった、と、想像。
だからぁ、その理屈で行くと家康が将軍になった時も
義昭は死んではいるものの、足利家は健在だったわけで
将軍職を継ぐのは足利家だという不文律があれば
家康は将軍にはなれないわけだ
それに何でその時代の秀吉が公家とそんな風に和気藹々としゃべれるのか
足利家は将軍職を返上して将軍家は不在なのだが。
信長でさえ追放した義昭をたてていたわけで彼が将軍
職にいるかぎりはなれない、
733 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/24(日) 17:32:50 ID:gitp/mdn
>>731 参議から権大納言にすすんでいるから、公家と和気靄々かどうかはわからんが談笑していたことでしょうw
>>730の想像は、実際とは違うようだが、偶然の産物というのは同意。
前久と信輔の親子仲がよかったら、猶子のはなしはなかったでしょうね。
>>731 読み物として書いたわけで、リアルに会話を再現したわけでもなんでもないんだから、
まあそう怒りなさんなw
おおむねこんなもんじゃねえの?、ってだけだからさ。
京都所司代もやってたし、知己になってもおかしくはないな。
馬鹿だなお前ら
公家は全員京都人だぞ
その辺をよく考えろ
737 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/24(日) 19:43:19 ID:i286e6hI
だから秀吉は信長の後継者に等しい近い立場なのだから
最初から将軍が選択肢に入るわけがないだろうと思ふ。
なぜ将軍にならなかったのかというより最初から眼中になかったはずとしか
いいようがないわな。
自分の主君に敵対して追放処分を受けた将軍職になんぞ
秀吉がついたら、少なくとも良い心象はもたれるはずもない。
ただでさえ主筋の織田家を飛び越えて己が天下を簒奪しようと
してる秀吉が、わざわざ、そのような心象を害する選択を選ぶとは思えない。
それに臣下の列にいた人物だからこそ、同じ武家での権威である
将軍就任は、もろに織田家の簒奪に等しく写るけど
朝臣第一位として関白太政大臣になる分には、天皇に成り代わり朝廷に仇名す
輩を平らげるという、当時の秀吉にはのどから手が出るほど欲しい天下平定への
大義名分が得られ、天皇の代行という名のもとに旧主筋である織田家の関係者を
臣下扱いする正当性が確保できる。
将軍職の場合武家代表という自立性がある分、どこまでも主筋織田家の扱いを
苦慮するであろうし、まだ内外に敵の多かった秀吉が、そんな困難な職に
好き好んでなる道を考慮すると思えない。
738 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/24(日) 22:57:41 ID:gitp/mdn
>>736 ワロタ
名古屋人にはわからんだろうな。
案外、秀吉の関白任官も「京のぶぶ漬け」の落語みたいな展開だったかもな
739 :
.:2006/09/24(日) 23:02:58 ID:0u8myZT3
秀吉は出自が武士じゃなくて農民だから
740 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/24(日) 23:11:25 ID:vcTHnmJu
>>737 あれ?最初は将軍になりたくて、足利に養子にしてくれって頼んで断られたんじゃないの?
秀吉は、義昭に将軍職を譲り受けることにより、禅譲
による政権交代を狙ったという説がある
この方法だともしこの話がまとまれば秀吉は義昭の猶
子ということになるんじゃないか?
>>732 すべてが初耳ですね。詳しくお話を聞かせてもらいたいですな。
743 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/25(月) 00:13:34 ID:mpCi8iDR
>>740 それは俗説でしょ?史実であったという証拠はないとおもう。
まあできるかどうか聞いてみただけという程度のもんだとおもう。
さもなければ、そんな断り方し秀吉が将軍就任を阻止されたのならば
そんな義昭を豊臣家で遇するとも思えないし。
というかそんな史実があったのならば、その資料がどこにあるか
マジで聞きたいのです。
それに秀吉が将軍を希望した場合、足利に固執する必要はないと思う。
将軍職は清和源氏の家系でなければなるのが難しいという条件はあれど
(これもなぜ清和源氏の家系のはずが、このスレでは足利の家職に限定されていると
解釈する方がいらっしゃるが)
清和源氏=足利ではなく足利は清和源氏の一家系にすぎないのだし、最悪
他の家系からでもなれないものでもない。
それに朝廷から源平藤橘に続く第五の姓である
豊臣を頂戴して、新姓として将軍就任という手段があったじゃないかとおもうし。
>>将軍になりたくて、
というほどに固執した形跡が皆無のように見える。
>それに朝廷から源平藤橘に続く第五の姓である
清原とか高階とか大江とか菅原とか坂上とか惟宗とかその他大勢なんだなあ。
745 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/25(月) 21:38:24 ID:4oak2xNE
>>743 長文書くなら少しは調べろ、史料なら存在するぞ、
その信憑性は別にして、林羅山ぐらいきいたことある
だろ、ホント揚げ足取りと思い付きだけだな、
>>743 清和源氏でなければ将軍になれないってのがそもそも眉唾話だし
源平藤橘に続く“第五”の姓とか意味不明だし、もう少し勉強してから語るようにしろ
749 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 18:52:25 ID:qc7YXbtE
>>746 あのー・・>>史料なら存在するぞ
で林羅山とは爆笑させていただきました。
というか開いた口がふさがらない。
後世の徳川幕府の御用学者が前の政権について述べた内容を
史料として提示されてもねww
秀吉の関白就任時の当時の史料でないの?と聞いたんだが?
その当時秀吉が将軍就任の下工作とかしてたのならば
公家の日記とかしかるべき筋に残ってないのかな?
ってつもりで聞いたんだがな(笑
僕の聞き方も悪かったのかなww
>>ホント揚げ足取りと思い付きだけだな、
そのセリフは貴殿にお返ししますよ(苦笑
750 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 19:02:10 ID:qc7YXbtE
>>747 源平藤橘のうち源平橘は皇族への、藤も皇族に準ずる立場としての天皇からの賜姓であり
のちには由緒正しい武家であるという家は必ず源平藤橘いずれかに属していることになっています。
秀吉は天皇から賜姓を受け(これ自体豊臣姓への権威付けであると思う)
武家に源平藤橘に続く第五の貴種たる姓として豊臣姓を位置付けようと
目論んでいたと思うので“第五”の姓と述べました。
武家における源平藤橘のなんたるかも知らない
>>747には難しい文章だったとも思います。
短絡的で無知な
>>747さん、本当にゴメンナサイ。
源氏じゃないと征夷大将軍になれないと言うのは室町時代に
足利家が世襲してから慣例化されたんじゃ。
徳川の将軍宣下では征夷大将軍と共に淳和奨学院別当と源氏長者も
一緒に補任されるが、これも足利将軍以降に慣例になったし。
それに秀吉がそのまま関白になったわけじゃないから。
関白は摂関家しかなれないと言う慣例に従い、摂関家(近衛家
だっけ?)の猶子になって、摂関家一族と言う形にしてから
関白になっている。
史実かどうかわからんが将軍になるために足利義昭の猶子を
願い出て断られたらしいが、受け入れられていたら将軍に
なったと思うよ。
753 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 19:14:56 ID:TZzRqiz+
dd
754 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 19:20:04 ID:TZzRqiz+
@p−
>>750 博識だから教えて。
毛利氏はどこに属してるの?
756 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 19:42:26 ID:qc7YXbtE
>>755 毛利は大江氏の出で
大江氏は古代の氏族土師氏から出ている。これは古事記で天孫降臨で
帝祖に従い天下った神の裔ともいわれる。
この場合源平藤橘との違いは律令が整い登場してきた
皇族からの臣籍と賜姓で登場してきたのより以前に
発祥した氏族の末であることになる。
別に平城天皇の皇子阿保親王の家系も大江であるとも言われ
こっちが毛利の祖先じゃないかという。
この場合皇族である点は変わりないが賜姓ではなく罪により臣籍
に降ろされたわけです。
この姓は鎌倉幕府の創建にも関わった由緒正しい姓で
源平藤橘とは別の皇統になる。
757 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 19:47:10 ID:qc7YXbtE
源平藤橘との共通点は祖先に天皇由来の家系が属しているかだろ。
源平橘は皇族だし
藤原の場合藤原の姓を継承したは不比等は
「興福寺縁起」、「大鏡」などの史料では天智天皇の御落胤と書かれており
いわば皇族の出自と解釈してよかった。
毛利が源平藤橘とされないながら、その由来を四姓に結びつける必要がないのは
別系統ながら皇族を租としているから。
758 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 19:47:22 ID:TZzRqiz+
う
759 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/26(火) 20:02:16 ID:IKaz5Z2q
前田は菅原朝臣
朝倉は日下部宿禰(一応皇別)
大内は諸蕃
林羅山が御用学者だからの一言で片付けてしまうのは
すこし短絡的というか思考停止になっていないか?
まったく同時代に権力者の不名誉にあたることを書け
るわけもないし、特に秀吉の場合はそのようなことに
は厳しかったはずだが。
>>743 >将軍職は清和源氏の家系でなければなるのが難しいという条件はあれど
初耳だ。kwsk
>豊臣を頂戴して、新姓として将軍就任という手段があったじゃないかとおもうし。
天正13年7月11日 従一位・関白 ソースは公卿補任
天正13年9月9日 豊臣易姓 ソースは押小路文書
豊臣姓を貰ったときには既に関白なのに、なぜ位の低い征夷大将軍を貰う必要があるのか?
>>749 その理論で行くとたとえば「後鑑」は史料としてはまったく使い物にならなくなってしまう
>>750 武門の家として長く兵馬の家を司ってきた小野や伴の家系も朝臣だ
>由緒正しい武家であるという家は必ず源平藤橘いずれかに属していることになっています。
これは誰の論文だ?これを書いた学者が笑いものにならないか心配でならないな
喧嘩を売りまくってるな。落ち着けよ。
喧嘩に見えるのか。そうか。つまらん煽りでマッチポンプしてる暇があれば
知識のあるところを是非見せてくれよ
知識など皆無の野次馬ですが何か?
・・・とでも言えばいいのか。ニュー速で忙しいんだ。まあ穏やかにやってくれ。
>>762 知ってる。
知った上で源平籐橘と、どう説明する見たかっただけだから。
俺に喧嘩売らないでね。
>>765 忙しいなら、しゃしゃり出て来るな!すっこんでる
いや出てきてやる。
大枝本主が阿保親王の子だとは認められん。大江氏は土師氏だ。
>>751 > 源氏じゃないと征夷大将軍になれないと言うのは室町時代に
> 足利家が世襲してから慣例化されたんじゃ。
とんちんかんな話だな。
室町時代のいつごろから「慣例化」されたのだ?
室町時代以降、源氏とそれを詐称した者しか将軍になっていないということは
結果的には事実だが、別に「慣例」ではないだろ。
「慣例」と言うなら、義仲から鎌倉三代までもかなり長い期間があったが、
なぜ「慣例化」しなかったのか?
一方で、承久の乱に勝ってからの北条執権は、室町中期以降の足利将軍よりも
全国的な支配権を確立していた。
百歩譲って、室町以降、将軍が清和源氏の世襲「家職」として「慣例化」されて
いたとしても、それはますます、以前の関白と同じ実権のない官職にすぎなかった
ことになるから、家康はなぜわざわざそれを選んだのか?
「将軍」は、使えれば使った方がよいし、自分がなれればなった方がよいことも
あるという程度のカードの一枚にすぎない。
> 徳川の将軍宣下では征夷大将軍と共に淳和奨学院別当と源氏長者も
> 一緒に補任されるが、これも足利将軍以降に慣例になったし。
足利将軍でも、その地位に就いたのは義満以降の数人だけで、徳川将軍でも
全員ではなかったと思ったが、違ったかな。
いずれにせよ、家康は当時の状況では関白にはなれなかったので、足利将軍の
過去の最高の地位と同じものに就いて、豊臣一門に対抗したというだけだ。
>>769 いつごろからって…
あくまで慣例なんだからそんな厳格性を求めたり、例
外探ししてどうするの?当時の人がそういう考えを持
っていたと考えればいいだけの話ではないか?て言う
かなんでムキになって否定する人が多いんだ?
こういう事じゃなくてな
征夷大将軍として武士を束ねる立場に立つ者は
武士社会のトップの人間が就くのが望ましいよな?
多くの武士が「この人が将軍なら号令に従うしかない」と
納得できるような人間でなければならない。
そうでない者が将軍職に就いても武家を束ねられないからな
じゃあ、誰ならみんなが納得するか
たとえば、清和源氏の嫡流に近い家系、要は天皇に近い家系の長とか
そうでなくても源氏と平氏を比べたら源平合戦で勝った源氏とか
別の考え方では、その当時最も力のある武士とか
そういうみんなが納得できる理由があればいいんだよ
天皇や朝廷から見れば、家系もクソもなく京都が焼き討ちされないような
戦争のない平穏な社会が欲しかったんだよ
源氏だとか足利だとか無意味なこだわりのせいで戦乱を鎮めるチャンスを逃すことはない
「源氏じゃないと将軍になれない」とか
「足利家じゃないと将軍になれない」とか
そういうのは後世の人たちの誤解なんだよな
>>770 「例外探し」ではないよ。
君みたいな「将軍」という名前のみにこだわっているアホがいるから
言っているだけ。
> 当時の人がそういう考えを持っていたと考えればいいだけの話ではないか?
だから、その「当時」とは、いつごろのことを言っていて、いつごろから
「慣例化」されたのだ?
> 源氏じゃないと征夷大将軍になれないと言うのは室町時代に
> 足利家が世襲してから慣例化されたんじゃ。
だからこれは、江戸時代中期以降にはそうだったかもしれないが、
ここで話題にしている秀吉・家康の時代の話とは、何の関係もない。
> 徳川の将軍宣下では征夷大将軍と共に淳和奨学院別当と源氏長者も
> 一緒に補任されるが、これも足利将軍以降に慣例になったし。
これも、手元の本では、足利将軍15代のうち、源氏長者になったのは、
6人だけ。
ちなみに、最近は安倍の自民党総裁/首相就任がニュースになっていると
思うが、現代の憲法で明確に規定されている内閣総理大臣の場合ですら、
例えばここ数十年だけを見ても、実権もなかったし記憶にも残っていない
首相が、何人もいるでしょ。
逆に、首相にもなれただろうが、ならずに実権をふるった政治家も何人も
いるでしょ。
征夷大将軍は、名前や形式だけでいえば、天皇や関白どころか、
今の内閣総理大臣よりも格下だということすら、もしかして分かってない?
その他は
>>771に同意。
>>772 ?何が言いたいわけ?
ただ将軍をおとしめたいだけなのか、要点を絞って
アホにもをかるように書いてくれないか、ただ長けれ
ばいいってもんじゃあないよ。
774 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/27(水) 08:34:54 ID:9guLdRMc
世にあふれる秀吉・家康関係の読み物には、「源氏でないと将軍になれなかった」説
が強固に書かれているが、これは何が根拠になっているのかな
当時の人間の考えがそうだったというけれど、晴豊公記からすると、
少なくても公家側は源姓にこだわってはいなかったことになる
征夷大将軍は源氏が望ましいという考えは鎌倉時代に
すでにあった、だからこそ足利尊氏が武士たちに担が
れたのではないか、徳川の作り話と言うがそんな必要
あるのだろうか?
関白って、公家の世界では、一位なんだろ?
天子の次に偉いってことだから、征夷大将軍てのは、あくまでも、役職であって、官位ではないから・・
>>776 あのさ、少しは調べてから書き込もうよ。
鎌倉時代の清和源氏将軍も最初の三代だけだよ。
また、頼朝は将軍になる前に既に鎌倉を根拠とした東国武家政権を確立していた。
将軍になってからも死後も、頼朝の呼称は「(前)右大将家」「(前)右幕下」
(右近衛大将)などであって、「将軍家」などではなかった。
仮に「征夷大将軍は源氏が望ましいという考え」が鎌倉時代にあったとすれば、
それは、執権北条家を牽制して、北条は将軍にはなれないぞという意味だけの
御家人の間での「考え」だろう。
「征夷大将軍は源氏が望ましい」ということを初めて、かつ公に宣言したのは、
尊氏本人だと思う。
歴史的事実や当時の普通の感覚とも違っていたはずだが、頼朝を尊敬し、
北条家の腐敗や建武の新政の失敗を世直ししようという立場から、
自分が将軍になるためにこう言い出したと思われる。
そして、しばらく後に、家康はこの手を利用した。
新井白石ぐらいの時代になると儒学が発展してるから
徳川家が将軍家として君臨している事の正当性を主張しないと行けないわけで
秀吉が百姓だとか徳川家が源氏だとかいう話はこの時代に捏造されたのだと思う
政権内の儒学者ってどうでもいいことに力を入れて
実務を顧みない奴らばっかだな
支配層に取り入ってその政治理念を実現するのが儒学の大目的だから、曲学阿世はむしろ当然だと言える
スレ違いだけど林羅山が外国人と討論して連中の地動説を「論破」した逸話を読んだ時は笑ったw
学識は一流だったんだろうがアホだったんだろうなあ>当時の儒学者
>>778 九条頼経、平賀朝雅、惟康王あたりを調べてみろ。
>>782 それは源氏でないと駄目ではなく、頼朝と血の繋がりがあるって話だろ。
むしろ本当に源氏であるべきとするなら他にもっと適正な候補はいた。
時の権力者に都合がいい人間を将軍にでっち上げていた証拠でしかない。
惟康王は源姓を賜ってるし。
>>784 それが清和源氏だと?
源朝臣とはそもそも皇族が臣籍降下する際に賜姓される姓だぞ。
そんなこというなら摂家将軍はなぜ源姓を名乗らなかったんだ?
いきなりオレに振られても困る。
源氏長者は清和源氏の長者だったのか?
>>786 源氏長者は清和源氏だけでなく、源姓全体の元締め
源姓はもともと皇族からの臣籍降下で賜姓される姓でも最上級のもの
ある意味で人臣の筆頭。但し、清和源氏で源氏長者になったのは足利将軍家から数名と徳川将軍家のみ
源氏長者=征夷大将軍とか征夷大将軍には清和源氏でないとなれないとか
あほな事言ってるやつは反省しろ
>ある意味で人臣の筆頭
皇別の筆頭だったんだろうね。
あたり構わず当たられても困るけどな。
789 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 23:55:10 ID:RmBq8CXm
>>779 尊氏の正当性を説いた「源平交替思想」の焼直しみたいなもんかな
>>787 いったいこの人は何を言いたいんだ?
なんでそう極端から極端に走るかな、
まさか、源氏と将軍にはなんの結びつきもなく、どん
な人でもなれて、「源氏でなければ将軍になれない」
などと言ったら基地外扱いされた、とでも言いそう。
791 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 00:08:24 ID:NeojYhHv
おkだろう。
793 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 00:11:54 ID:NeojYhHv
い
ん
か
人
な
解読した
何
極
は
な
さ
南極はNASA
太閤立志伝5で秀吉シナリオやれば、
謎はすべて解ける!
796 :
sage:2006/09/29(金) 00:21:05 ID:G1JQ4MEA
>>795 あのなあゲームとこの話とは違うの
ゲームを鵜呑みにするなよキチガイ
>>796 冗談を冗談と(ry
sageろキチガイ。
>>781 >林羅山が外国人と討論して連中の地動説を「論破」した逸話
詳しく!面白い話あるの?地動説を論破したってのは相手が能無しだったからじゃないの?
何この空気読めないキチガイ(笑)
801 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 13:39:56 ID:hzJfbFHU
>>798 漏れも詳しくは知らないが
確か外国人が地球儀を持って自転とか説明したところ
林羅山いわく
あたまの中が「??????」状態に陥って
口走ったセリフが
「地面を見ろ、地面は自転なんかしてないだろーが。だから自転なんかありえない」
とかなんとか口走って最期に
「私の説明に証拠が出せないから私の勝ちだーワーハッハッハ」
という、まさに2ちゃんねらーでよく見かける独りよがりな厨房のごときセリフ
と勝どきを上げたとかいう話だったと思う。
>>801 サンクス!まさにチョンの勝利宣言じゃんw
一度筑波山か何かに登ってみればいいのにね。
わずかに水平線が丸くなってるのが分かるだろうに。
林羅山は京都だか大坂だかの人だったと思ったんだけど
箱根の峠でも水平線見えそうなもんだけどなぁ…。
まあ、俺も羅山に説明できないかもしれないし、仕方ないね。
わざとそういう風に討論の技術で勝っただけかもしれないし。
803 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 21:55:52 ID:hzJfbFHU
羅山の師匠は
「なんでこのような礼節のない国に生まれたのか・・
出来うるならば明に生まれたかった」
とかいって中国人になりたがった逸話
朝鮮出兵のときに
「いまなら、明と朝鮮が出兵してきてくだされば万民こぞって
あなた方に協力し太閤を打ち破ります。」
とかほざいたり
羅山はといえば由井正雪の乱をキリシタンと決め付け由井正雪=キリシタン
を強引に主張した人物
こうして浮かぶイメージは日本の儒学者って近世のコミュニストに類似した
存在なのではないか?という感じがする。
一見教理はまともなのだが、信奉する香具師は独善的で教条主義で
頭が固い。そして頭でっかちのインテリが洗脳されやすく
そして侵されると自分の国を軽視したりしがち
日本の儒学者でひとまとめにするなよ
せめて日本の朱子学者
在野の陽明学の人たちは立派だったじゃん
朱子学原理主義者=中華思想主義者=農本主義者=階級差別主義者=愚者
こんなイメージがある もたらすものは社会の停滞と矛盾って感じで
結局、家康とそれを絶対的な神と崇め、その上にあぐらをかく怠惰な江戸幕府とそれに追従する各藩にとって都合がいい考え方なんだよな
江戸期は図らずも貨幣経済と流通経済が発達した時代だけど、それを邪魔するのはことごとく朱子学の走狗と曲学阿世の徒。
ただ、曲学阿世ではなく、最初から学問自体がゆがんでいたとも言える。朱子学一本に絞り自爆していった李氏朝鮮は見事と言うしかない。
幕藩体制には欠かせない学問だけど、何から何まで悪とは言わんけども、かなりクソだよ。
まったく、つまらない学問もあったものである
う〜ん……一慨に朱子学は悪とは言いたくないんだけど
朱子の唱えた朱子学は個人の哲学としてはさほど悪くない
組織や社会に適応できるかと言えば疑問だし、でも朱子存命時に主流ではなかたしね>朱子学
北に金・モンゴルを抱えた南宋のコンプレックスの受け皿にされてしまった
元々儒学自体主流派じゃないのに、漢の武帝が道教の対抗馬として儒学を入れたのが
中国における儒教至尊思考であって、朱子学は他者の都合に使われたという同じ轍を踏んでるよな
「世を揺り動かすは儒と侠」なんて韓非子は言ったけどね
中国においても政権下の儒者に対して敵対者がいたし、日本にも陽明学者がいた
そういうのがいなかったのが李氏朝鮮との違いだと思うよ
昔っからイデオロギーに染まったなんてそんなもんだ。西欧だってローマ帝国の時代から
国よりキリスト教を優先した連中も山ほどいる。本当に頭の良い人間はイデオロギーに染まらず
道具として使う人間。新井白石なんてそんなタイプだな。
白石を褒める……の?
>>808 褒めちゃいかんか?君がどういうイメージで白石を捉えているか知らんが
頭の良い悪いでいえば明らかに頭が良いだろ、白石は。
んで、結局、源氏長者って官位になるわけ?
内閣総理大臣・・・征夷大将軍
自民党総裁・・・源氏長者
とでも考えればいいと思う。
それは上手いたとえだな
民主党は村上源氏か?
そのたとえはどうでもいい
源氏長者は足利義満がなる前は、ずっと村上源氏だったはずだけど。
違ったっけ?
>>812 義満以降についてだけだとしても、ちょっと違うかと。
内閣総理大臣・・・・・・征夷大将軍
自民党の最大派閥の長・・源氏長者
の方が、近いと思う。
818 :
森喜朗:2006/10/03(火) 09:28:55 ID:tpvzUoEC
>>818 決しておちょくっとるわけではなくて
大うつけのふりをしながら実は支配者という
天才的なブックの上手さを
褒め称えておるのでございますよ
森は権力保持に長けてるだけで
国のリーダーとして表に出ると
うつけぶりを晒す奴で
うつけのふりをしている訳ではない
いろいろ書こうかとも思ったけど
森を擁護称揚してもおもんないのでやめた
安倍内閣を骨抜きにしたのも森。
823 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/03(火) 15:50:52 ID:ZOpO7JAe
徳川家康は尾張の吉良家から系図を借りて源氏だということで朝廷から征夷大将軍に任ぜられた。
吉良家は後の赤穂浪士にでてくる高家三家の筆頭だ
今川氏真は徳川家康に、品川家として高家として召抱えられている
秀吉はとうてい征夷大将軍にはなりようがなかった
鎌倉北条氏のように足利氏を立てて、執権という形で政務を仕切る手もあったな
>>823 信長が捨てた足利をまた使うなんて、旧織田勢力が黙っちゃいないだろ。
まだ天下の趨勢がはっきりしないのに朝廷が義昭を解任できる
わけがない、将軍が亡命することなんて珍しいことではなく、
もし義昭が力を取り戻してきたら朝廷としたら大変なことになる
秀吉には既に織田家を掌握するために三法師、更に天下に号令するために朝廷という神輿を抱えてる
これ以上足利家みたいな面倒くさいのは要らないでしょ
うんとね
>>823の品川家云々はちょっと違う
高家になったのは氏真の孫直房(嫡子範以の子)、これは今川家
品川家は氏真の二男高久がおこした、家です
>>825 朝廷は将軍職を解任はしてないけど
足利義昭が追放された途端に信長を定期的に出世させてる
武田家が滅亡した段階で村井にいわれるがままに三職に推任してる
秀吉の話をしてるんじゃないのか?
秀吉の頃なら天下の趨勢は大体決まってるじゃん
義昭の出る幕は無い。
ほんと定期的に湧いて出るなあ
そんな自己紹介いらん
このスレはいつの話なわけ秀吉が関白に就任する前、
後?それによっては意味が違ってくると思うけど。
源氏とかの家系じゃなくて、出身が農民だったから
なんじゃないの?
>>823 > 鎌倉北条氏のように足利氏を立てて、執権という形で政務を仕切る手もあったな
アホか。
その「足利氏」とは、将軍かなんかの書き間違いか勘違いかとは思うが、
それはさておき秀吉は、将軍なんぞにこだわらずに、まさに北条氏のように、
とりあえず天皇を立てて、関白という形で政務を仕切ったんだよ。
そして、本人の構想(妄想)では、天皇は北京に転封し、自分は東アジア全体の
真の「皇帝」になるつもりだった。
「源氏と日本国王」は著者の説や妄想を飛ばして読め
ば結構いい本だと思う。
正しいかどうかは別だけど、切り口が斬新で面白いと思う
839 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 09:07:39 ID:hdYAC1hm
>>836 >鎌倉北条氏のように(秀吉は)足利氏を(将軍に)たてて
このようにいいたかったと思われ
幕府が存在しないのにわざわざ傀儡の足利氏をたてて開幕するなどありえない
学校で秀吉は天皇の落とし子だって習ったけどなぁ…。
>>841 君がどの程度の学校に通っていたか、よくわかるエピソードですね。
っていうか大阪っぽいw
>>835 スレを読んでから書き込みはしろよ
>>841 アホスw
俺の先祖も天皇のご落胤で平清盛の養子なのだが
なぜ秀吉は農民の出として織田弾正忠の足軽になったのかその経緯を教えてくれないか?
>>845 800年前の祖先の話で妄想扱いかよw
一代、二代前ならともかく数十世代遡れば日本人全員天皇の血引いてるのな
自分がスレ読まないでアホなこと書き込んで注意されたからって逆切れすんな
>>837 「著者の説や妄想を飛ばして読んだら」
引用文献しか残らないと思うがもしかして皮肉か?
ワラタ
「秀吉は農民の出」という話のソースは
いつの大河ドラマ?
もういい加減うんざりしてるんだが
>>849 君がうんざりしようが、学会ですら異論はあっても否定はまだされていないぞ>農民出自
農民ならまだしもサンカ出身という説もあるくらいだからな>秀吉
農民だろうかサンカだろうが下級武士だろうが
そっからの天下人になった秀吉のすごさは変わらない
いや凄さの話はしてないから。
凄さの話になったらまた来てね。
秀吉はかなりはやい段階から国境の国人を家臣にしていたし、
信長も秀吉に養子をいれてるしなあ。
出世の早さを考えてもやっぱり国人の子息だったんじゃまいか?
>>850-852 このレベルの住人がいるから
このスレはあと150で終了するという段階に至っても
まだダメダメなんだな
>>854 わかった、言い方を変えよう
農民だろうかサンカだろうが国人だろうが
関白になれるような出自ではないことに変わりはない
いや国人ならまだいけるかも。
国人はそれなりの血筋だしな。
859 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/06(金) 14:29:41 ID:/HDkTTXp
戦国時代には郷士とか武装した農民はたくさんいたろうし、
農作してるからイコール専従農民とは限らない
秀吉の出自を固定した身分で考えるのは違うんじゃないか
>>859 「貧農から太閤に」って天下取りストーリーはメリハリが利いて面白いからねw
でも日本史にはたまにこう言うの出てきますな。伊藤博文とか田中角栄とか。
その祖形ではあったんでしょう>秀吉
戦国時代で最も進歩的な織田家の登用システムを持ってしても
いくら能力が高くても農民が大名にまで登りつめる事はない
秀吉が最初に織田家に仕えた時の役職は足軽組頭だし
信長の近くで小姓のような仕事もしていたので
土着の豪族の子息である可能性が高い
少なくとも農家出身ではありえない
信頼できる史料に名前が出た時点で足軽組頭だったわけで、最初は小者からのスタートだったはずだが>秀吉
もっともこの記述も後世の太閤記みたいな創作性の高い史料からのもので、結局のところ何をしてたかはよくわからない
農民出かそうでないかにこだわる事は、農民が関白にはなりえないという風説とは何の関係もないぞ?
農民出とされる武将の出自を単に不審に思ってるなら、田中吉政や高坂昌信はどうだという話
864 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/06(金) 18:12:15 ID:ho6G5g4C
変に農民出身を、アピールしてわな。
普通は途中で捏造する。
源氏だとか、没落した小領主の家臣の家だったとか、南朝方の武士の家だったとかな。
多分大半の武将はこんな感じだと思う。
>>863 バーカ
農民が関白にどうのこうのじゃなくて
それ以前に織田家のシステムでは
農民は1軍を指揮する司令官にはなれんと言っているのが読めないのか
もうお前は書き込まなくていいよ
866 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/06(金) 20:39:45 ID:iWEl34z5
>>865 WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW
867 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/06(金) 20:45:12 ID:/HDkTTXp
>>865 織田家が武将の登用に出自を問題にするとすれば
信長に仕えた時点でなんらかの名乗りをもっていたはず
系譜がはっきりしないのは多くの土豪、国人も似たようなものだしな
木下家が中村に耕作地を所有してはいたのだろうが
農民と決め付けるのは無理がある
>>863 >それ以前に織田家のシステムでは
>農民は1軍を指揮する司令官にはなれんと言っているのが読めないのか
それを言うなら「農民で一軍を指揮する部将はいない」だろ?日本語は正しく使えよw
仮にその部将が農民出身だとしても出世していけば「実は源氏だった」とか言いだすわけで
結果として農民の指揮官はおらんくなる。
それが事実か、逆にガチで農民出身かというのは
今でこそ検討の余地はあるが当時としてはどうとでもなることが
秀吉や春日や田中を見ればよくわかるわけだ
農民だったけど木下家に婿養子となって武士?身分となったという説もあったと思うが。
出身に関する記述を拾うと
豊鑑では熱田近隣の五十件ばかりの集落生まれで農民とはしていない
川角太閤記でも農民とは書いてない
太閤記(小瀬)は日吉丸という幼名を持った下層武士の記述
同時代の記述だから秀吉が仮に百姓だったとしてもその通りには書けんかった
だろうな
>>869 小和田哲男だな
秀吉の姉は秀吉が織田に仕官する前に豪族に嫁に行ってる。
ただの百姓ではないだろ。
三好(長尾)三位自体が謎の人物だからなあ
百姓だったかどうかと、スレタイは何の関係があるんだ?
さておき、今のイメージのいわゆる百姓だったとすると、征夷大将軍より
そうとう上の関白になれたことじたいの方が、歴史学の研究対象になるべき。
秀吉の身分が低かったことは明らかで、自身も途中までは成り上がったことを
誇りにしていたとも思われるが、晩年は逆に「ご落胤だった」的なイメージ
づくりに移った感じもあるけど。
なんにせよ、秀吉が百姓だったとして、それは網野が言うとおり、我々が
イメージする「百姓」ではなかっただろう。
>>865 そもそもそんな断言できるほど出自が明らかな武将ばかりでは無いと思うんだ。
876 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 01:28:24 ID:U4hEgDH6
源氏じゃないから征夷大将軍に成れなかっただけかと思っていた。
まあ、朝廷から豊臣の新姓を賜って関白になったことの方がよほど凄い気もするが・・・。
ところで、軍指揮官になってからの秀吉の優秀さはよく分かるけど、
一兵卒だったころや少数を率いて戦っていたころの記録ってあるの?
>>876 >一兵卒だったころや少数を率いて戦っていたころの記録
ほとんど無いといって良いんじゃないかな?秀吉自体、一夜城の伝説からもわかるように
どちらかと言うと工兵のような働きが認められて抜擢されたようだし。
まぁそもそも太田牛一みたいな珍しいタイプがいないと、
一兵卒の記録自体なかなか残りようが無いんだがね。
そもそも豊臣の姓を賜ったことは名誉なことなのか?
880 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 03:09:15 ID:SUBkHZ8U
>>879 源平藤橘以外の出自で、天皇の血筋が入っていないにも関わらず(この
点については、秀吉貴種説があるから反論する方もいると思うが)、豊
臣という、語源からしてもこれ以上ないと言うほどの意味合いを持た
せた新姓を賜り、関白として君臨したこと。
これはありえない程の名誉だよ。しかもこれを既成事実化してしまえば
幕府すら開ける。冗談じゃなく、古代から下るにつれて源平交代思想が
一般的となっただけで、幕府自体は源平藤橘の何れかの姓なら開けた。
天皇の子孫だから。
ということは、すなわち秀吉は我が赤子であると天皇が宣言したことに
他ならないわけだ。
あー、豊臣の姓を賜ったことはまさしく天下を統べる権利書(天皇発行)
を名実共に勝ち取ったことになるわけだが、これが名誉以外のなんである
か俺には分からん。
881 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 04:00:08 ID:+1d6/qB3
教えて
コレトウ、コレズミは姓?氏?
>>880 藤原氏は天皇の血は交じってはいるが正確には神武天皇の兄の家系な。
天皇家の子孫ではない。
それに天皇家の子孫は別に源平橘だけではないし、
幕府は天皇の子孫だから開けるという決まりはない。
賜姓というのもそもそも天皇家縁のものに限られたものではない。
奴婢以外のものには造や連などなんらかの姓が与えられており、
造や連の中から朝臣や宿禰の姓を賜ったものも多い。
どこで覚えた知識か知らないが氏姓制度について間違えた知識。
後、別段重要な話でもないが
>すなわち秀吉は我が赤子であると
なんで、赤子という例えなんだ・・・普通、我が息子であるだろ。
あかご 【赤子】
生まれて間もない子。あかんぼう
たぶん「せきし」と読むんだと思うよ
皇帝を親に例えるときには使うんだ
884 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 11:51:29 ID:nxoTWalf
赤子をあかごとしか読めない馬鹿ハケーン
源平藤橘しか将軍になれないと言う奴よりはましだろうな
886 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 15:54:11 ID:xraczTTk
>>885 形として、な。徳川だって血統は流浪僧を始めとしている。織田が将軍家
を追放した後、征夷代将軍になれなかったのは藤原・平とダブルスタンダ
ードで時期によって使い分けていたからだ。しかも斯波氏の下級官僚出だ
からいまさら源氏でしたーとは言えない。家康が源氏でなおかつ足利尊氏
の兄を始祖と公言したのだって今川が斜陽に入った後だ。微妙に知られて
いた姓であったからこそ、将軍になれなかったんだよ織田は。当時は。
>>885さんが言っているのは、統治機関としての幕府を開ける将軍ではな
く、軍隊委任の為の一時機関の幕府を開ける将軍の話だろう。それでは
意味合いが違うのではないかな。
じゃあ、豊臣はどうかというと、まったく新しい姓だったから可能性は未
知数だ。源氏の系統では無かったから、秀吉は養子に入ってまで源氏とい
う姓が欲しかった。徳川が捏造だってことは常識だったから、対抗手段と
して正統な系図を欲しがったんだ。でも、駄目だった。旧く伝統あるもの
から拒絶されたのなら、次はどうするか。新しく作ればいい。で、豊臣を
賜るんだが・・・あー、変なとこあったら言ってくれ。
887 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 15:57:36 ID:xraczTTk
ごめんなさい、読み返したらおかしかった。
足利尊氏の兄→足利尊氏の兄貴分である血筋
>>882 >藤原氏は天皇の血は交じってはいるが正確には神武天皇の兄の家系な。
全然知らなかった・・・
詳しい系図等はありませんかね?
信長に征夷大将軍宣下の勧めを朝廷がしていたのを知らないのか?
形式上でも源平藤橘でないと将軍にはなれませんなんて決まりはない。
源平藤橘に関しても勘違いしすぎだし
姓なんてものは男系の血統でしか名乗れないものではなく、
源氏から嫁をとれば、その子供の代以降は源姓を名乗ることが出来る。
下手すりゃ、五、六代前の母方に源氏の血が混じってましたでも名乗れる。
鎌倉幕府以降の姓ってのはそんぐらい適当なもんなんだぞ。
そのせいでどこの家も源平藤橘の血が入ったら本姓を変えてしまい、
ほとんどの氏族の本姓が源平藤橘になってしまった。
だから「汝の姓は源平藤橘の何れか?」というのが本姓の尋ね方になってしまった。
源平藤橘の本来の字義はそういうこと。
他の朝臣と比べて特別な権威があるというわけでなく、単に支族が多く
朝臣以下の宿禰などの他の本姓への侵食率が高かっただけのこと。
>>888 中臣氏について調べてみろ。
そもそも藤原朝臣という姓は中臣鎌足一代のみに賜れた姓。
それを鎌足の死後、中臣の一族が騒ぎ立てて無理矢理、存続させた。
当初、鎌足の子、不比等が幼かったこともあり、
中臣氏は皆好き勝手に、中臣連ではなく藤原朝臣を名乗った。
その後、不比等が成長して実権を持つようになると
不比等の系統のみが藤原朝臣を名乗よう詔勅が出された。
以降の藤原氏の隆盛は知ってのとおり、
秀吉は支配力の弱い武家政権、幕府よりも藤原の栄華を目指していた。
891 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 17:48:56 ID:kr9v/ZZd
>>886 源平藤橘しか(武家の棟梁としての)将軍にはなれないという書き方はおかしいだろう
将軍職は結果的に源藤+宮からしか出なかったんだが
結果だけから導きだした断定だとしても変だぞ。ソースがあるなら別だが。
将軍職にしろ関白にしろそれを望むに値する権勢が現われれば、極端な話どんな姓であれ
朝廷は推挙しただろう。関白という官をぐだぐだにした秀吉という前例を見れば
仮に源藤+宮に限定したとしても
征夷大将軍だけは例外として特定の姓からしか出ることが叶わないとは思えないが。
>織田が将軍家
>を追放した後、征夷代将軍になれなかったのは藤原・平とダブルスタンダ
>ードで時期によって使い分けていたからだ。しかも斯波氏の下級官僚出だ
>からいまさら源氏でしたーとは言えない。
「三職推任」を知ってればこんなことは言えないはず
それから勘違いしてる奴がいるが、秀吉は当初、藤原朝臣として関白に任官しているのであって
豊臣創姓の上で任官したのではない。(
>>761で説明済)
平姓として筑前守になった秀吉は、藤原姓として関白になり豊臣姓として太政大臣
このように秀吉は個人の権勢により、官も位もどのようにも出来た
仮にだ、関白や将軍に条件があるとすればそれは氏素性ではなく
その人物に強大な権力が備わっているかどうかだよ
五摂家でなければ関白・摂政になれないという決まりはあったけど
征夷大将軍はこの姓でないとだめなんて決まりはなかったもんな。
豊臣朝臣は関白になれると無理矢理、秀次を押し込んだ秀吉が
条件のあいまいな征夷大将軍にはなれないなんてありえないわな。
894 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 18:14:52 ID:MHNTsGJ2
>>889 信長に征夷大将軍宣下の勧めを朝廷がしたというのは、そうでもしな
いと第二の足利義満になる可能性が大だったから。または義教かな。
当時の信長の行動見てみなよ。明らかに公家・朝廷から権威すら奪おう
としか思えない行動をとってるよ。本能寺の変が朝廷の陰謀とかはナン
センスだと思うが、朝廷が自衛行動をとってもおかしくない位の動きを
信長がしていたのは事実だ。長くなるから、ごめん、どこかで参照してくれ。
その上足利義昭から桐と引両筋の紋まで貰ってるから、まぁおkだろ
うという事だよ。
信長主導で征夷大将軍(更に上を狙っていたのかも知れないけど)
になるのか、それとも朝廷主導で征夷大将軍になるかはまるで違うよ。
で、源平藤橘にかんしてはごめん、正直言葉と思慮が足りなかった。
>>890 > 藤原氏は天皇の血は交じってはいるが正確には神武天皇の兄の家系な。
普通は藤原氏は天児屋根命を祖とするとするが
天児屋根命は神武天皇と兄弟ではないよな。
誰を指して「神武天皇の兄」と言っているの?
>>896 なるほど。
> 神八井耳命を祖とする多臣系中臣氏
> 天児屋根命を祖とする中臣部・卜部
というのがあるのか。君の言うのは前者なんだね。
でも藤原氏は(少なくとも公卿レベルの自称では)
後者の系統でしょう。
>>882で「藤原氏は」と言った
うえで実は別系統の中臣のことでした、というのは
ちょっと不親切なんじゃない?
>>890 > 中臣氏について調べてみろ。
って言い方も、普通に調べれば藤原氏の祖は
天児屋根命と書いてあるのが普通だから、やはり
ちょっと不親切かな、と思った。
まあそれでも中臣の2系統の話は面白かったよ。
そのページの著者が妄想と断りつつ書いている
ことだから、また別個に調べてみることにするよ。
>>897 たしかに異説であることは断りを入れておくべきだろうな
まあ、大鏡の作者みたいに、鎌足鹿島出身説をとる史料もあるから
許せる範囲ではあるがな
ID:/7mhFFtT
こいつの書き込み回数キメェwwwwwwwwwwwww
では結論
秀吉は将軍になれなかったのではなく、なる必要がなかった
関白も征夷大将軍もそこにいたる順番はあるが条件などない
レス数も900超えたし、そんなもんでいいかな>結論
見た感じかなり前から同じ話題がループしてるようだし
なんだかなぁ、
無味乾燥な結論だな、それだったら秀吉が自分の出自にあれほど
劣等感を持たなくてもいいような気がする。
>>902 権力を持ったから出来る事と、社会に厳然としてある階級意識はまた別だろ。
中国の話だが唐の時代、皇帝家よりも家臣であるはずの山東の貴族たちの方が名家とされて、
皇帝であってすらそれを羨んだ。
階級と言うものは権力とは別個に存在する。権力社会の王者になれた秀吉も、階級社会では
つまはじきにされていた事は想像に難くない。
天皇や朝廷は秀吉の事が大好きで
関係は信長や家康ではありえないほど上手く行っていたよ
「階級社会でつまはじき」って、秀吉は天皇家に次ぐ階級じゃんかw
つーか単なる秀吉の内面上のコンプレックスでしょ、
それはどんなに現実で上手く行ってようと、
取り繕いたくなるものだろう、天下人だからこそ特に。
「秀吉は東方面の小牧・長久手で勝てなかったので
征夷大将軍になれなかった、だから仕方なく関白を選んだ」
という今谷明説の補強とか反論とか希望。
??
>>906 横着しないでスレを最初から読むといいよ
読んだ上で言ってますよ。
反論と言っても
>>584だけだったし、
それも
>>586に返されてほぼ沙汰止み。
だから読んでるって。
>>450-
>>462あたりで論点は出尽くしている
ということなんですかね?
征夷大将軍就任の条件なんて当時はっきり明文化されたものじゃないから、
結局のところ「東国を支配してないと征夷大将軍になれない」というのは単なる一説に過ぎない
それを積極的に否定する根拠も薄いが
秀吉が将軍になる上で問題や障害を抱えている場合「ならなかった」
ではなく普通「なれなかった」と言うと思うのだが、血統や出自の
ことなど問題は多い。「そんなのどうにでもなる」とでも言うのだ
ろうがそんなこと言いだしたらきりがないしそれにほとんどが後付
けな意見。
実際に秀吉が征夷大将軍に就任しようとした節が無い以上
(足利義昭の猶子になろうとして断られたという逸話は信憑性が薄い)、
「なれなかった」と表現するのはおかしいんじゃないの
「なれないと思ったから諦めた」可能性なら有るが
血統や出自で征夷大将軍になれないというのなら、関白のほうがもっとなれないわな。
私も、関白宣下の際に血統や出自がどうにかできた以上、
将軍を狙った場合も血統や出自ならどうにかできただろうと思います。
その上で、東国制覇説の根拠の1つには、先行する信長の
三職推任の際に武田征伐が言及されていることが
あるようなんですけど。
今谷氏が昔、秀吉は信長最晩年の政権構想を継承しているから
政権を立てる天正13年の時点では信長同様まずは将軍職を
狙っていたはずだ、というようなことを書いていらしたように
記憶していますが、前提が多いし(信長の政権構想など)、
どれだけ裏をとってらしたんでしょうね・・・。
関白になるために使った方法が将軍にも通用するわけではない、
将軍にも通用すると思うのは秀吉が関白になれたことから推測し
た後付けの理論。
まあ実際に征夷大将軍になってない以上、
秀吉にその気があれば将軍にでも何でもなれた、とは断言しにくいところはあるよな
けど秀吉が将軍になれなかったのは彼が東国を云々、というのも所詮は後付け理論だと思う
>>920 自分も東国云々は後付けだと思う、最大の問題は義昭の存在にある
と思う、
朝廷からすると従四位クラスの職であるところの征夷大将軍になれないから
関白にするって変な話な希ガス。
>>921 でも1588年に義昭は将軍じゃなくなって秀吉に臣従してるが
その後も秀吉は関白になってないんだが。
ホントになりたかったら兼任すればいいだろうし。
あくまで政権を立てる天正13年時点の政権構想の話なので、
関白による政権を立てた後で、つまり将軍職または関白職の
目的を達成した後の時点で将軍職を望まなかったから云々
というのはまた違う話だと思います。
>>918 そもそも信長が将軍職を狙っていたかも不明だと言うのにね。
東国うんぬんが本当に重要なら北条降伏後になればいいだけのことじゃん。
そのころには義昭も将軍辞めていたと思うし。
>>923 時期によって違うと思うのだが、関白に就任したころは家康をはじめ
まだ秀吉に臣従していない大名も多く義昭が担ぎ上げられる可能性が
あった、そのため秀吉に加担するわけにはいかなかった、
1988年以降は豊臣家は公家として扱われていたからと言うべきか?
>>907 ばっかじゃねーのw
いっぺん死んでこいよw
官位や役職に関しては朝廷が正確な資料を残してるんだが、
信長の場合は、足利義昭を追放した翌年から大出世してる。
天正3年 従三位、権大納言兼右近衛大将に就任
天正4年 正三位、内大臣に就任
天正5年 従二位、右大臣に就任
天正6年 左大臣就任への布石として正二位になるが、何故か同年に右大臣と右近衛大将は辞職する。
その際のコメントが「まだ天下統一という事業が成功していないから高い地位は不相応です。
事業が成功したら改めて高い地位にしてください。それよりも今は部下の地位を上げて下さい。」
天正9年 左大臣に昇進する動きがあったが辞退している。
天正10年 武田家滅亡直後、村井の圧力で送られたはずの
三職推任の勅旨(太政大臣、征夷大将軍)を2度も無返答のまま返してる
「秀吉は将軍になれなかった」と主張している人は
信長が将軍になるように勧められたり家康が将軍になった件で
一環した考え方での弁明が一切出来ていないわけですが。
そもそも家康の源氏が捏造なわけで
秀吉だってやろうとすれば途中で源氏になれたはずだ。
でもならなかったのは当時の情勢では
関白のほうが有利だと考えたんじゃまいか。
織田信雄の内大臣を上回る事で羽柴が織田の上にたったとアピールしたかったとか。
足利義昭追放後の朝廷の足利将軍や幕府への配慮は一切ない事は
>>928を見ても理解できると思う。
信長にさえ「将軍になれ」という推任があったのだから
足利義昭の存在が足かせになって秀吉が将軍になれなかったという推測はありえない。
朝廷や公家はそれほどバカではない。
前にも書いたが、朝廷からすれば誰が将軍になろうと大臣になろうとどうでも良い。
まずは天皇家や朝廷が守られる事、力のある者によって潰されない事、
そして戦争ばかりで何度も京都が焼かれるような世の中を終わらせる事。
朝廷が望んでいるのはこれだけなので、
たとえば農民あがりの権力が現れて日本を統一しようとしているとしたら
「お前は農民あがりだから将軍にはできん」「お前は身分が低いから大臣にはできん」
こんな事を言い出してその権力者の力をそいでまた戦乱の世の中に戻そうとしたり
その権力者が日本を統一した後、朝廷の立場を危うくするようなアホはいない。
秀吉を関白に就任させるにしても、秀吉を摂家の養子にするなどの、
ありえないくらいのアクロバティックな方法が取られている。
それを考えれば、比較的関白よりも就任させやすいはずの将軍になれないはずがない。
「将軍になれなかった派」からは、発言数が930にもなっているのに
これらに関する一環した考え方での反論が一切ないわけだ。
出てくるのはウソや矛盾、事実とは違う妄想ばかり。
>>930 「じゃあ何で将軍にならなかったの?」の問いで無限ループ。
それに対しても
「当時の征夷大将軍は権威0じゃん」
「関白になれるなら関白になった方がいいじゃん」
という答えで無限ループ
つーか長文きめぇwwwwwwwwwwwww
結局エアポケットみたいに秀吉が関白になれるタイミングがたまたまあって、そのタイミングに
秀吉が乗っかった、ってのがホントのトコだろ。
>>931 「将軍にならなかった理由」などは
「将軍になりたくてもなれなかった」という珍説流布問題には関係ない。
珍説派は「将軍になりたかった」と言える資料と
「なれなかった」という資料を用意する必要がある。
という風にピシャリと言っているのだが
今のところ妄想とウソしか返って来ない。
>>935 じゃあ
「関白になった理由」を明確にする資料をお出しなさいな。
あと
「将軍になる気は無かった」資料と
「将軍になろうと思えばなれた」資料を
結局悪魔の証明でしかないだろこんなの。何をえらそうにしているんだか。
ほらほら
珍説派のこの誤魔化しでこんなに長くなってるんだよw
関白になった理由もクソもないだろ、実際に関白になってるんだから。
将軍の権威が地の底に落ちてる当時の状況から考えてなる必要がなかった事ぐらいはわかる。
義昭も自然退位してるような状況だし、この段階でも秀吉がなりたいのだったら
いくらでもなる事はできた、むしろ家康が征夷大将軍を選んだのこそ以外だった。
ただ秀吉が関白になる以前になりたかったかどうかはわからん。
>>936 あのさ、「関白になった」と同義なのは「将軍になっていない」だから引き合いに出すのは間違い。
あとね、「関白にはなったけど将軍にはなっていない」という事実に対して
「将軍になる事が関白になる事よりも困難」であれば
「将軍になりたかったけどなれなかった」と考える事は自然だと思う。
「将軍になる事と関白になる事は同じくらいの難易度」であるなら
他に史料が無い限り「ならなかった」のか「なれなかった」のかは判断出来ない。
より上位である関白になる事よりも将軍になる事の方が困難であるとするならば
それには相応の理由が必要だと言う事なんだと思うよ。
ちなみに、
>「将軍になる気は無かった」資料と
「将軍になろうとした」という事実がない以上
「なりたかった」とは言えないわな。
>「将軍になろうと思えばなれた」資料を
すでに何度も出てるな
実際に「秀吉を摂関家の養子にする」というめちゃくちゃな事を
朝廷と秀吉との間でやって秀吉を関白にしてるのだから
「どうやっても将軍になれない」という事は常識的に考えたらありえない。
やろうと思えば大臣になって北条を潰した後にでも
幕府解説のために将軍になる事だって可能だが実際にそれをやっていない。
つまり、将軍になろうという意思がなかったという事だな。
何度同じ事を書かせるんだ?
もう完璧に結論の為の自説が
自説の為の結論になるこの状況
どうすればバカが理解出来るのか色々と考えてみたが
こういう例えばどうだろう?
秀吉は実際に富士山には登っていない
秀吉が「富士山に登りたい」と言ったという文献も
「登るための準備や行動を起こした」という事実もない
また、秀吉が富士山に登る必要性もない
これらをまとめて
「秀吉は富士山に登りたかったが諸般の事情で登れなかった」
と主張しているのが珍説派なんだよ
>>936のようなキチガイ論法だと史実にない事が何でも言えてしまう
「秀吉は本当は信長に恋愛感情を抱いていたがあきらめた」とか
何でも言えてしまうな
あと「源氏と日本国王」は読む価値なしwwwww
珍説とか言いだしている時点で議論する資格なし。
ただのヒステリックなバカ
今谷説は妄想まみれの珍説ということですか。
本当にありがとうございました。
>>946 オナニーもほどほどにしないと、
体壊すよ。
>936 は自分が悪魔の証明を要求しているってことにも気づいていない阿呆なのか
950 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 15:10:57 ID:R0OfLCFq
''';;';';;'';;;,., ザッ
''';;';'';';''';;'';;;,., ザッ
ザッ ;;''';;';'';';';;;'';;'';;;
;;'';';';;'';;';'';';';;;'';;'';;;
vymyvwymyvymyvy ザッ
ザッ MVvvMvyvMVvvMvyvMVvv、
Λ_ヘ^−^Λ_ヘ^−^Λ_ヘ^Λ_ヘ
ザッ ヘ__Λ ヘ__Λ ヘ__Λ ヘ__Λ
__,/ヽ_ /ヽ__,.ヘ /ヽ__,.ヘ _,.ヘ ,.ヘ ザッ
/\___/ヽ /\___ /\___/ヽ _/ヽ /\___/ヽ
/'''''' '''''':::::::\/'''''' '''/'''''' '''''':::::::\ /'''''' '''''':::::::\
. |(●), 、(●)、.:|(●), |(●), 、(●)、.:|、( |(●), 、(●)、.:|
| ,,ノ(、_, )ヽ、,, .::::| ,,ノ(、_, )| ,,ノ(、_, )ヽ、,, .::::|_, )| ,,ノ(、_, )ヽ、,, .::::|
. | `-=ニ=- ' .:::::::| `-=ニ= | `-=ニ=- ' .:::::::|ニ=| `-=ニ=- ' .:::::::|
\ `ニニ´ .:::::/\ `ニニ \ `ニニ´ .:::::/ニ´ \ `ニニ´ .:::::/
/`ー‐--‐‐―´\ /`ー‐- /`ー‐--‐‐―´\-‐‐ /`ー‐--‐‐―´
「VIPから来ますた」 「VIPから来ますた」 「VIPから来ますた」 「VIPから来ますた」
>>949 君、通知表に「理解力が不足してます」って書かれてるでしょ。
本題で叩きのめされ反論できなくなった珍説派は
相手の人格を批判する事でしか自己のプライドを守る手段がないらしい
>>952 「なれなかった」という意見は学会などで相手にされていない説
なのか?異説と言うならともかく自分の考えにそぐわないからと
いって珍説呼ばわりすることがそもそも人格攻撃なんだけどね。
こんなヤツは人様に意見する資格すらないよ
945 :名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] :2006/10/09(月) 06:11:24 ID:yO+HW3i/
珍説とか言いだしている時点で議論する資格なし。
ただのヒステリックなバカ
948 :名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] :2006/10/09(月) 13:34:40 ID:yO+HW3i/
>>946 オナニーもほどほどにしないと、
体壊すよ。
一般的に広まっている説を珍説とまで言い切るのだからさぞかし知識
をお持ちなのでしょうから質問させていただきますが「後鑑」に義昭
の件が書いてあるのですが説明していただきたい、林羅山が御用学者
だからなんて回答では納得できないもので。
林羅山や新井白石のような珍説学者の場合は
現代の歴史化の考証で間違いや嘘が大量に見つかっています
特に戦国時代から江戸初期にかけては
意図的な捏造としか思えないような珍説が大量に出てきています
林羅山が御用学者であるという以外に反論が必要だろうか?
無知ですまないが、彼の主張を裏付ける同時代史料は存在するのだろうか
林羅山の足利拒否説に関しては今の学会には否定的な意見が多いと、この間読んだ
小和田哲男の本には書いてあった。ちなみに小和田は今谷説同様に東夷説を取ってるみたい。
暴言吐く奴らは本とか読まないのか?
どこぞの妄想サイトばっか見てないで本読んだらどうだ
「秀吉が将軍断念した派」は古くは林羅山が「豊臣秀吉系譜」の中で足利義昭の猶子を断念したと書き
その前提で70年代に浅尾が小牧長久手の敗戦を加えて将軍職を放棄したと論じ
80年代藤木らが豊織政権の研究を勧め
90年代に今谷が浅尾の説を深耕してにわかに活気付き
学会の重鎮永原もこの説を敷延させて、秀吉が就任した関白は
それまでの関白とは違う「天下人」の概念をもった全く新しいものだったと説明
三鬼先生や今谷がこの特殊な関白のことを「武家関白」として定義し今に至ってる
俺様は「秀吉は関白・将軍どっちでもなれた」派だが
それは羅山の話を盲信的に遵法し、なんの懐疑ももたずそれを前提にして論ずる
学会の風潮を馬鹿にしてるのであり、中立的に将軍・関白どちらの可能性も視野に入れて
この現象を見ていた三鬼先生が一番まともだと思うな
「後鑑」を肯定しているわけではないがもう少し詳しい反論が
出てくると思った、珍説呼ばわりするからよほど知識があると
思っていたけど… せめて時系列あたりにはふれてほしい。
だから暴言や中傷しか出来ない奴は相手にするだけ無駄だって
結論が出ないなら次スレ立てれば?
963 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 17:29:47 ID:HM/7XWQv
北畠親房が天智帝より天武帝が年上という年令設定したせいで
いまだに議論がつづいているが、羅山もそのたぐいか?
>>962 将軍を望んでいたかどうかは羅山を否定し得る説か史料の発見でもないかぎり無理
そして秀吉は当初から武家のみの統率者――将軍――を求めてないのは
近衛・二条の関白論争の発端や経緯を見れば明らか。
つまり秀吉は将軍でも関白でもどっちでもよかったのよ
あと次スレは
>>907でどうよ
こんなクソ議論に次スレなんていらねぇだろ。
ここで終わらせろ。
ID:yO+HW3i/はそろそろ透明あぼーんで
頼朝、頼家、実朝の三代と足利十五代の将軍の前例と
300年以上の繁栄を築き上げ、摂関家として高位にのぼれる唯一の家柄になった藤原氏の前例
この二つを知っていて、武家にこだわる必要のない男がどちらを選ぶか・・・
だいたい小牧の役直後の秀吉が、それまでの日本史について
どれだけの知識をもっていたというのか? その知識で「源氏」や「藤氏」、
「征夷」をどこまで意識していたんだ。